カタリ。
グラスの中の氷が静かに揺れて音を立てた。その音を愉しむように一口、口に含む。
「ふむ…」
満足げに目を閉じる。店内には静かにピアノが流れている。
ADIEU。クセのない、控えめの演奏はこの狭い店に良く似合っていた。
「My love... for you...」
つい口ずさんでしまい、はっとマスターを見上げると、マスターはニッコリと微笑んだ。店内には自分とマスター、それにこちらからは見えないピアニストの3人しかいない。
「マスター」
「はい」
「ここは良い店だな」
「ありがとうございます」
マスターは軽く頭を下げて見せた。
チリリン。ドアのベルが静かな室内に響いた。
「ナイス紳士。遅くなったかな」
ピンクのマントをマスターに預けながら、ナンバー2がナンバー4に声をかけた。ナンバー4は軽くグラスを上げてみせた。
「ナイス紳士。いや、そうでもない」
「今日は私とお主だけのようだな」
「そうらしい」
SPACE LION。演奏はややアップテンポ気味だが、あくまでも控えめ。この店をわかっていると、好感が持てる。
「今日は生演奏か」
「良い演奏者が見つかりましたので」
「そのようだな。私はマスターの演奏も好きだったが」
「ありがとうございます」
「では、いつものを頼む」
「かしこまりました」
ナンバー2は、そこでナンバー4のグラスをのぞき込む。
「また芋焼酎か」
「ふん、この万夜の夢は特別なのだ。そういう貴様こそ…この松本零士かぶれが」
マスターが差し出したグラスには、無論「あの酒」が注がれている。ナンバー2はナンバー4の憎まれ口に気を悪くした風でもなく、うまそうにその日本酒を口に含んだ。
ピアノの曲が途切れた。
「マスター、鉄腕GinReiを見たよ。ハーモニカができるのかね」
「お恥ずかしい。多少ですが、かじったことはございます」
「今日は聞かせてもらえんかね」
「かしこまりました」
カウンターの奥から、マスターは小さなケースを取り出してきた。ケースにはHOHNERの文字。正真正銘の「ブルースハープ」だ。
ピアノの脇に立ち、軽く一礼してマスターはハープを口にあてがった。
一曲演奏し終えて、紳士達は拍手でマスターを迎えた。
「お耳汚しでした」
「素晴らしかったぞ、マスター」
「うむ。マスターは本当に多彩だな」
「恐れ入ります」
「さて…今夜も楽しませてもらった。ありがとう」
「おやすみ、マスター」
「失礼いたします」
アルベルトと樊瑞を見送って、イワンは店の奥に声をかけた。
「サニー様。今日は夜遅くまで、ありがとうございました」
「いいえ、イワン。わがままを言ったのは私の方ですから」
そう言ってピアノの影からひょっこり顔をのぞかせたのは、なんとアルベルトの娘サニー。
「イワンこそ、いつも父たちのわがままに付き合ってくださって、どうもありがとうございます。すみません、本当に子供みたいな人で…」
サニーは本気で赤面している。
今日はサニーたっての希望で、彼らの活動をのぞきに来たのだった。
「いいえ、私も楽しませて頂いておりますから。お気になさらないで下さい、サニー様。まあ、でも…」
グラスを片付ける手を止めて、イワン。
「あのお2人はいつもアレをお召し上がりになるのが…せっかくお店を作って頂いたのに勿体のうございますね」
「本当に。では、私に何か作っていただけますかしら?」
「サニー様…それはさすがに」
「あら、私ではまだ一人前のレディとして認めていただけませんか?」
「そ、そういうわけではございませんが」
それを聞いてニッコリ。この笑顔に勝てるはずがない。
「…では、お父上には秘密にして下さいね」
「はい」
イワンが作ったカクテルはかなりアルコールが控えめになっていたが、とても美味しかった。
「イワンは本当に何でもお出来になるんですね」
「いえ、そんな。お恥ずかしい。サニー様のほうこそ、ピアノがお上手で…私も愉しませて頂きましたよ」
「今日は久しぶりにピアノを弾けて楽しかったですわ。母が亡くなってからは、父が寂しそうにするのであまり弾かなかったんです」
「そうでしたか…」
「でも、今日私のピアノを聞いていらしたお父様はほんとうに楽しそうでしたわ。たまにはこうしてピアノを弾かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「喜んで。歓迎いたしますよ…ひょっとすると、あなたのお父上も」
「え?」
きょとんとするサニーにイワンはにっこり微笑んで、
「サニー様。私にも1曲、よろしいですかね」
先ほどのハープを取り出してみせる。
「勿論。何がよろしいですか?」
「では、Hamducheを」
ほんの少しのアルコールで、しっかりほろ酔い気分になって帰宅したサニーは、アルベルトに「こんな時間まで外をフラフラして」とこってり絞られ(って今時言うのかねえ・笑)、自室謹慎を申しつけられた。
「もう…イワンたら。お父様はそこまで物わかりのよろしい方ではありませんのに」
苦笑しつつ、ああいうしっかりした人物が父の補佐に付いている事を頼もしくも思うサニー。まさかあんなことまでさせているとは驚きだったが、楽しそうにしていたのでむしろ喜ばしかった。
「樊瑞おじさままで…」
蝶ネクタイで。次に樊瑞と顔を合わせた時、笑ってしまいそうだ。
と、ドアがノックされた。
「サニー、起きているか」
「はい」
ドアを開けると、アルベルトが立っている。
「何でしょう、お父様」
「サニー、ピアノを弾いてくれないか」
ビックリして目を丸くするサニー。不機嫌そうな表情の父親を見上げて、おずおずと訊ねた。
「曲は、何になさいますか」
「ん…。ADIEUだ」
それを聞いて、サニーは家に帰ってから初めて笑顔を見せた。
グラスの中の氷が静かに揺れて音を立てた。その音を愉しむように一口、口に含む。
「ふむ…」
満足げに目を閉じる。店内には静かにピアノが流れている。
ADIEU。クセのない、控えめの演奏はこの狭い店に良く似合っていた。
「My love... for you...」
つい口ずさんでしまい、はっとマスターを見上げると、マスターはニッコリと微笑んだ。店内には自分とマスター、それにこちらからは見えないピアニストの3人しかいない。
「マスター」
「はい」
「ここは良い店だな」
「ありがとうございます」
マスターは軽く頭を下げて見せた。
チリリン。ドアのベルが静かな室内に響いた。
「ナイス紳士。遅くなったかな」
ピンクのマントをマスターに預けながら、ナンバー2がナンバー4に声をかけた。ナンバー4は軽くグラスを上げてみせた。
「ナイス紳士。いや、そうでもない」
「今日は私とお主だけのようだな」
「そうらしい」
SPACE LION。演奏はややアップテンポ気味だが、あくまでも控えめ。この店をわかっていると、好感が持てる。
「今日は生演奏か」
「良い演奏者が見つかりましたので」
「そのようだな。私はマスターの演奏も好きだったが」
「ありがとうございます」
「では、いつものを頼む」
「かしこまりました」
ナンバー2は、そこでナンバー4のグラスをのぞき込む。
「また芋焼酎か」
「ふん、この万夜の夢は特別なのだ。そういう貴様こそ…この松本零士かぶれが」
マスターが差し出したグラスには、無論「あの酒」が注がれている。ナンバー2はナンバー4の憎まれ口に気を悪くした風でもなく、うまそうにその日本酒を口に含んだ。
ピアノの曲が途切れた。
「マスター、鉄腕GinReiを見たよ。ハーモニカができるのかね」
「お恥ずかしい。多少ですが、かじったことはございます」
「今日は聞かせてもらえんかね」
「かしこまりました」
カウンターの奥から、マスターは小さなケースを取り出してきた。ケースにはHOHNERの文字。正真正銘の「ブルースハープ」だ。
ピアノの脇に立ち、軽く一礼してマスターはハープを口にあてがった。
一曲演奏し終えて、紳士達は拍手でマスターを迎えた。
「お耳汚しでした」
「素晴らしかったぞ、マスター」
「うむ。マスターは本当に多彩だな」
「恐れ入ります」
「さて…今夜も楽しませてもらった。ありがとう」
「おやすみ、マスター」
「失礼いたします」
アルベルトと樊瑞を見送って、イワンは店の奥に声をかけた。
「サニー様。今日は夜遅くまで、ありがとうございました」
「いいえ、イワン。わがままを言ったのは私の方ですから」
そう言ってピアノの影からひょっこり顔をのぞかせたのは、なんとアルベルトの娘サニー。
「イワンこそ、いつも父たちのわがままに付き合ってくださって、どうもありがとうございます。すみません、本当に子供みたいな人で…」
サニーは本気で赤面している。
今日はサニーたっての希望で、彼らの活動をのぞきに来たのだった。
「いいえ、私も楽しませて頂いておりますから。お気になさらないで下さい、サニー様。まあ、でも…」
グラスを片付ける手を止めて、イワン。
「あのお2人はいつもアレをお召し上がりになるのが…せっかくお店を作って頂いたのに勿体のうございますね」
「本当に。では、私に何か作っていただけますかしら?」
「サニー様…それはさすがに」
「あら、私ではまだ一人前のレディとして認めていただけませんか?」
「そ、そういうわけではございませんが」
それを聞いてニッコリ。この笑顔に勝てるはずがない。
「…では、お父上には秘密にして下さいね」
「はい」
イワンが作ったカクテルはかなりアルコールが控えめになっていたが、とても美味しかった。
「イワンは本当に何でもお出来になるんですね」
「いえ、そんな。お恥ずかしい。サニー様のほうこそ、ピアノがお上手で…私も愉しませて頂きましたよ」
「今日は久しぶりにピアノを弾けて楽しかったですわ。母が亡くなってからは、父が寂しそうにするのであまり弾かなかったんです」
「そうでしたか…」
「でも、今日私のピアノを聞いていらしたお父様はほんとうに楽しそうでしたわ。たまにはこうしてピアノを弾かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「喜んで。歓迎いたしますよ…ひょっとすると、あなたのお父上も」
「え?」
きょとんとするサニーにイワンはにっこり微笑んで、
「サニー様。私にも1曲、よろしいですかね」
先ほどのハープを取り出してみせる。
「勿論。何がよろしいですか?」
「では、Hamducheを」
ほんの少しのアルコールで、しっかりほろ酔い気分になって帰宅したサニーは、アルベルトに「こんな時間まで外をフラフラして」とこってり絞られ(って今時言うのかねえ・笑)、自室謹慎を申しつけられた。
「もう…イワンたら。お父様はそこまで物わかりのよろしい方ではありませんのに」
苦笑しつつ、ああいうしっかりした人物が父の補佐に付いている事を頼もしくも思うサニー。まさかあんなことまでさせているとは驚きだったが、楽しそうにしていたのでむしろ喜ばしかった。
「樊瑞おじさままで…」
蝶ネクタイで。次に樊瑞と顔を合わせた時、笑ってしまいそうだ。
と、ドアがノックされた。
「サニー、起きているか」
「はい」
ドアを開けると、アルベルトが立っている。
「何でしょう、お父様」
「サニー、ピアノを弾いてくれないか」
ビックリして目を丸くするサニー。不機嫌そうな表情の父親を見上げて、おずおずと訊ねた。
「曲は、何になさいますか」
「ん…。ADIEUだ」
それを聞いて、サニーは家に帰ってから初めて笑顔を見せた。
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中呉に見せかけてかぎりなく花黄
赤提灯ばれんたいん
1
2月14日、キャンセルの電話が入ったのは、約束の3時間前だった。
『……と言う訳で、どうしても約束には間に合いそうもありません』
「そうか。仕方がないだろうな」
『申し訳ありません。私のミスで……』
「いや君が謝ることはない。そっちを優先したまえ」
『いえ、それでも折角お誘いして下さったのに……』
「急に言い出したことだ。気にしないでくれ」
『すみません……』
何度も謝罪するその声に、中条は電話の向こうにいる呉の姿を想像した。
研究室で受話器を片手に謝りながらも、周辺を右往左往する研究員達には的確に指示を
出している。本来はこうして自分を相手にしている暇もないのかもしれない。
小さな破裂音と数人のどよめきが洩れ聞こえる。
「忙しいようだね。私のことはいいから頑張りたまえ。それとあまり無理はしないように」
『はい……』
切る間際にも呉が謝罪する声が聞こえる。相変わらず几帳面な呉らしいと思いつつ、い
つもと違う微妙な声音も中条は察している。
ミスだと言いつつその声は嬉しさが滲み出ていた。その実験に純粋に科学者としての気
持ちが疼いているようだ。今の呉の心は自分との約束よりも目の前の研究のことで占めら
れている。けして自分と会話に心が篭もっていないわけではないのだが、いつもより上滑
りな様子が感じ取れた。普段だったらそんな心情を隠そうとする呉から、だ。これはよっ
ぽどのことだろう。と中条は思う。
実験に負けたと寂しく思いつつ、中条はもう1度電話を取った。今度は違う研究室へ。
相手は直ぐに出た。
『はい』
「私だ」
『長官? 何か用事でも?』
困惑げな声。それもそうだろう。中条がそこに電話を掛けるのはこれが初めてだ。
「あぁ。今夜行われるコンサートのペアチケットが無駄になったのでね。折角だから君に
進呈しようと思う」
『は?』
「その後の夕食は国際ホテルのレストランに行きたまえ、予約は取ってある」
『あ、あの……』
「場所は会場から北京空港へ行く途中の……」
最初は困惑していたが、中条が強引に話し終える頃には相手も何かを察したらしい。肝
心な部分には触れずに演目や指揮者を問われて答えれば、彼には珍しく大きな感嘆を洩ら
した。クラシックを好む彼でも良く知る名だが、生演奏は初めてに違いない。
『それは……まだアイツには十年早いな』
青年らしいセリフだと思う。だからこそ余計に少年は焦って頑張ってしまうということ
に、気付いているのだろうか?
「偶には少しくらい彼を大人扱いをしてやりたまえ」
『本人が気付かん時もあるのだがな……。まぁ、あの指揮者の演目は私も聴きたかった。
ありがたく頂こう』
「では誰かにチケットを持っていかせる。楽しんできたまえ」
『あぁ。貴方の分までな』
その一言を残して、中条の恋人の性癖を良く知る黒髪の青年は電話を切った。
やはり見ぬかれたかと苦笑しつつ、中条は受話器を戻す。
しかし彼もこれからどう少年を誘うのか悩むところだろう。なにせ相手は直情型の少年
で、騒がしい保護者が二人もついている。どんな風に誘おうともひと悶着起こるのは日を
見るより明らかだった。
保護者を巻き込んでの大騒動になった上、支部を壊さなければいいが。
そんなことを危惧しつつ、消えかけたパイプに葉を詰め直そうとした中条に、卓上のイ
ンターホンが来客を告げた。
「誰が来たのかね?」
今日は来訪の予定はなかったはずだがと訊ねた中条に、対応した受付嬢も困惑気味だ。
『はぁ。それが……』
答えようとした受付嬢の声を遮った新たな声は中条にも聞き覚えのある声だった。
『俺だよ俺。鎮三山の花栄~。休暇だから遊びに来たんだけどさ、長官殿は今暇かい?』
2
3時間後、中条と花栄が居たのは北京では珍しい日本風の居酒屋だった。お世辞にも綺
麗とは言えない店の外には赤い提灯がぶら下り、お世辞にも広いとは言えない店内は5・
6人しか座れないカウンターのみ。さらに店を切り盛りするのはカウンター越しに鋭い視
線を投げかける無愛想な親父が一人きり、と中年日本男性には心底懐かしさを感じさせる
店だった。
ちなみに中条を飲みに誘い、この店に連れて来た花栄はこの店では常連らしい。
甲冑を身に付けていないとはいえ、いかにも武将といった恰好の花栄とスーツの中条と
いう組合せに店の主は全く動じずに接客している。
「おやっさーん。大根とがんもね、あと日本酒お代り」
と慣れた口調で注文する花栄の姿は全く違和感がない。むしろ馴染んでいる。これで服
装が中条と同様にスーツだったら完全に、『東京の仕事帰りのサラリーマン二人組』と思
われることは間違いなかった。
「私も大根をもらおう」
店に入った瞬間、まさか異国でこんな店に連れて来られるとは……、と顔には出さず感
動した中条だったが、おでんの味に更に感動した。正に懐かしき東京の味がする。
直ぐにさっと目の前に出された大根を口に入れる。ほどよく出汁の染みた大根の味に、
思わず声が洩れた。
「美味い」
「だっろ~。ぜってぇアンタにも教えようと思ってたんだ」
中条の勤務時間が終り酒も入ったことで、花栄の口調も砕けてきた。
「それにしても中条長官も今日ドタキャンされたとはねぇ~」
「あぁ見事振られてしまったよ」
「折角のバレンタインデーだってのにねぇ。アンタの事だからちゃんと準備までしたんだ
ろ?」
「まぁ仕方がないさ」
日本酒を片手に苦笑を返した中条に、花栄は『やっぱ長官アンタはは絵になるねぇ』と
溜息にも似た言葉を吐いた。
「きっとあの呉先生のことだから、今日がバレンタインデーだってこと事態忘れてるんだ
ろうぜ」
「あぁ。私もそう思う。実験相手では私も分が悪くてね。全敗中だよ。」
それでも、思い出して謝りの電話を入れるくらいになったのだから進歩したものだと思
う。最初の頃はすっかり忘れられた挙句、後で泣きながら謝られてしまうことが何度もあ
り、その度に慰めたり周りに勘繰られたりと散々な目にあったものだった。
そう言うと、花栄は唸った。
「順調そうに見えて長官も結構苦労してんだな。でも昔はかなりモテただろアンタ。
確か長官の出身の日本だと、バレンタインデーは女の子からチョコレート貰って告白さ
れるんだよな。放課後に校舎裏に呼び出されて、セーラー服の女の子に『好きです』とか
言われちゃうんだろ? いいなぁ、こっちはそんな風習ないからさ、うらやましーなぁ。
あと下駄箱いっぱいのラブレターとかあるんだろ……」
「……やけにくわしいな」
どこから得たのか偏った花栄の知識に幾らか引き気味の中条は、直ぐにその答えを知っ
た。
「あ、この間村雨に聞いたんだよ。あってるんだろ。これ」
「……まぁ、そういうシュチエーションも無きにしもあらずだが。ついでに言うなら日本
にはホワイトデーというのもあるがね」
「あ、それも聞いたぜ。確かチョコレート貰った相手に何十倍も高い値段のもので返さな
きゃいけないんだろ? で、あくどい女はそれ目当てにバレンタインデーにチョコレート
配りまくるんだって?」
それは嫌だな。どうせならチョコレートだけ貰いたいぜ俺と呟く花栄に、頭痛を覚えた
中条は話題を変える事にした。
「………そう言えば、君も急にキャンセルされたって?」
「そうそう! そーなんだよ」
途端食いついた花栄。
その相手は中条も良く知る人物で、とても堅物で有名である。こんな恋人同士のイベン
トに参加するとは思えないが、かといって土壇場で断わるような男でもない。中条には二
重の意味で信じがたかった。
「それは……矢張り黄信君なのか?」
「え~。アイツ以外に誰がいるっていうんだよ、長官!」
「……それはすまない」
花栄の想い人は小李広の黄信というれっきとした男だ。花栄が幼馴染の黄信にベタぼれ
と言うのは、国警の中でも有名な話で、それに気付いていないのは想われている本人だけ
である。正に親友以上恋人未満な関係と言える。
これからの話に勢いを付けるためか、花栄はコップに入った酒を一気に煽った。
「聞いてくれよぉ。本当はさ、アイツとふたりでここに呑みに来る予定だったんだ」
最初は(中条の想像通り)そんな軟弱なイベントなんぞにかぶれおってと相手にされな
かったが、友人同士でも祝うらしい(と限りなく曖昧に言ってみたり)とか丁度御互い休
暇だとか色んな理由を付けてどうにか約束にまで漕ぎつけたらしい。
「で、それが昨日さ、急に当日夜勤の奴と交代するって言うんだよ、ひっでぇだろ~」
詳しく聞いたら、それは妻子がいる男だった。なんでも単身赴任中でなかなか会えない
父親に物心付いた娘から、覚えたばかりのたどたどしい文字で『チョコを渡すから帰って
来て』と書かれた手紙が来たらしい。
「それは……黄信君らしいな」
「確かにそうだけどさぁ。偶には俺の約束くらい優先して欲しいもんだぜ」
口ではそう言いつつも、花栄の瞳は優しい。
黄信は数年前にBF団との戦いで妻子を失った。その所為か、妻子持ちのエキスパート
にはどうしても自分の出来る範囲で優遇してしまうらしい。
妻子が殺されたことに自責の念に駆られ自分を追い詰めていた黄信の姿に、今まで親友
としての愛情だと思っていた気持ちが恋愛感情だと気付いた花栄にとっては、そういった
黄信の姿が告白に踏み切れない理由のひとつになっている。
「そういうところも好きなんだろう?」
中条の問いに、花栄は大きく頷いた。
「そりゃぁね。あー俺、やっぱアイツのこと好きなんだなぁって改めて思ったね。だから
このままの関係でもいいと思う時もある」
君らしいな……と言いかけて中条は声を噤んだ。花栄の表情がやや暗くなったが一瞬の
事で直ぐにいつもの明るい表情に戻る。
「でも、俺って奴は自分で思った以上に欲張りだったらしくてね。
その時同時に、アイツにもしも新しく女が出来そうになったらどうなるか分からないなぁ
と思いましたよ。俺も案外暗いもんだ」
そう言って花栄は笑った。
3
「あー呑んだ呑んだ」
と上機嫌の花栄と、いつも通りパイプを吹かす中条は北京の屋台通りを歩いていた。赤
提灯の店を出て2軒目を梯子するかとブラブラしているところだ。
バレンタインデーとあって、こんな通りでもいつもよりは若干カップルの姿が目立つ。
「本当は、長官殿に口説きのコツでも聞いた後、長官呉先生のいちゃつきっぷりでも拝ん
で帰ろうかと思ってたんだけどなー」
あっはっはと笑う花栄。
「拝んで? なんだいそれは?」
「あれ? あー知らないよな。今梁山泊で、誰が始めたんだか北京の方を拝めば恋愛成就
するっちゅうお呪いが流行りなんだよ。なにせ最強カップルが2組もいるから」
最強と言われて、敵味方のタブーを乗り越えた一組は直ぐに思いついたものの、自分達
が最強と言われる所以が分からない。と呟いた中条に、
「ま、知っても直しようがないからなぁ。アンタ達は」
と答えて笑い続ける花栄だった。
そんな中、突如まだ人通りの絶えない屋台通りに馬の嘶きが響いた。ん? と花栄は聞
き覚えのあるその声に背後を振り返る。
「あれは……赤兎馬か?」
「そのようだな」
市街を歩くには……と支部に置いてきた筈の愛馬の姿が人込みの奥に見えた。
人の波が割れて音と共に近付いてくる特徴的な赤毛の馬に驚いた花栄は、その背に乗っ
た人物更に驚く事になる。
「って、黄信! こんな所でどうしたんだお前」
「探したぞ、花栄」
赤兎馬からひらりと降り立った黄信はいつもと変わらない甲冑姿だった。
「なにかあったのか?」
「違う」
「じゃ、なんで? お前今日夜勤だろ」
「どっかの誰かが散々ごねたから、部下が気を効かせてくれてな。今日は休みになった」
で探してみれば、赤兎馬で北京に向った後だったそうだ。
全く良い年の男が……と不機嫌な顔をしつつも、わざわざ探しにやってくるのが黄信ら
しい。
「こ、黄信~」
瞳を潤ませた花栄に、照れ臭いのか眼をそらす。
「さぁ、呑みに行くならさっさと行くぞ」
「おう」
さっさと歩き出す黄信に嬉しそうに合いの手を入れた花栄は、上機嫌で蚊帳の外だった
中条を振り返った。
「という訳で今から三人で飲もうぜ長官。今なら俺が全部奢るぞ」
先ほどまで居酒屋でくだを巻いていたのが嘘のようだ。
「いや、私はここで退散しよう」
「そうかい」
その残念そうな声音に中条は苦笑を返した。花栄は元々大勢で呑むのが好きな方だ。黄
信と二人きりで呑むと言うことが今は頭の外らしい。
「あぁ。ついでに赤兎馬も支部で預かっておこう。明日にでも取りに来たまえ」
「確かにそうしてもらえるとありがたいな。頼んだ」
頷いた黄信から赤兎馬の綱を預かり、慣れた手付きでその背に跨った中条に、黄信が思
い出したように声を掛けた。
「あぁそうだ、中条長官。呉学人が青い顔をして探しておったぞ」
なにがあったか知らんが、帰ったら話を聞いてやれ。周りの人間が迷惑だと、少々立腹
気味の黄信の言葉に、中条は表情をどう作れば良いのか困った。
ようやく今日がなんの日か思い出したということだろう。探していたということは、今
度は研究が手に付いていないのだろうか?
取り合えずは分かったと答えておいて、中条は花栄と黄信に手を振ってその場を離れた。
屋台通りを歩いている時は気付かなかったが、寒空の上星と共に満月が青白く輝いてい
る。吐く息が白い。
市街から抜け出た途端文字通り風のように駆け始めた馬の上で、中条は今頃慌てている
であろう恋人を思い、一人微笑んだ。
買って置いたチョコレートはどうやら無駄にならずに済んだらしい。
実験好きの恋人に無下にされない日も近いのかもしれない。
赤提灯ばれんたいん
1
2月14日、キャンセルの電話が入ったのは、約束の3時間前だった。
『……と言う訳で、どうしても約束には間に合いそうもありません』
「そうか。仕方がないだろうな」
『申し訳ありません。私のミスで……』
「いや君が謝ることはない。そっちを優先したまえ」
『いえ、それでも折角お誘いして下さったのに……』
「急に言い出したことだ。気にしないでくれ」
『すみません……』
何度も謝罪するその声に、中条は電話の向こうにいる呉の姿を想像した。
研究室で受話器を片手に謝りながらも、周辺を右往左往する研究員達には的確に指示を
出している。本来はこうして自分を相手にしている暇もないのかもしれない。
小さな破裂音と数人のどよめきが洩れ聞こえる。
「忙しいようだね。私のことはいいから頑張りたまえ。それとあまり無理はしないように」
『はい……』
切る間際にも呉が謝罪する声が聞こえる。相変わらず几帳面な呉らしいと思いつつ、い
つもと違う微妙な声音も中条は察している。
ミスだと言いつつその声は嬉しさが滲み出ていた。その実験に純粋に科学者としての気
持ちが疼いているようだ。今の呉の心は自分との約束よりも目の前の研究のことで占めら
れている。けして自分と会話に心が篭もっていないわけではないのだが、いつもより上滑
りな様子が感じ取れた。普段だったらそんな心情を隠そうとする呉から、だ。これはよっ
ぽどのことだろう。と中条は思う。
実験に負けたと寂しく思いつつ、中条はもう1度電話を取った。今度は違う研究室へ。
相手は直ぐに出た。
『はい』
「私だ」
『長官? 何か用事でも?』
困惑げな声。それもそうだろう。中条がそこに電話を掛けるのはこれが初めてだ。
「あぁ。今夜行われるコンサートのペアチケットが無駄になったのでね。折角だから君に
進呈しようと思う」
『は?』
「その後の夕食は国際ホテルのレストランに行きたまえ、予約は取ってある」
『あ、あの……』
「場所は会場から北京空港へ行く途中の……」
最初は困惑していたが、中条が強引に話し終える頃には相手も何かを察したらしい。肝
心な部分には触れずに演目や指揮者を問われて答えれば、彼には珍しく大きな感嘆を洩ら
した。クラシックを好む彼でも良く知る名だが、生演奏は初めてに違いない。
『それは……まだアイツには十年早いな』
青年らしいセリフだと思う。だからこそ余計に少年は焦って頑張ってしまうということ
に、気付いているのだろうか?
「偶には少しくらい彼を大人扱いをしてやりたまえ」
『本人が気付かん時もあるのだがな……。まぁ、あの指揮者の演目は私も聴きたかった。
ありがたく頂こう』
「では誰かにチケットを持っていかせる。楽しんできたまえ」
『あぁ。貴方の分までな』
その一言を残して、中条の恋人の性癖を良く知る黒髪の青年は電話を切った。
やはり見ぬかれたかと苦笑しつつ、中条は受話器を戻す。
しかし彼もこれからどう少年を誘うのか悩むところだろう。なにせ相手は直情型の少年
で、騒がしい保護者が二人もついている。どんな風に誘おうともひと悶着起こるのは日を
見るより明らかだった。
保護者を巻き込んでの大騒動になった上、支部を壊さなければいいが。
そんなことを危惧しつつ、消えかけたパイプに葉を詰め直そうとした中条に、卓上のイ
ンターホンが来客を告げた。
「誰が来たのかね?」
今日は来訪の予定はなかったはずだがと訊ねた中条に、対応した受付嬢も困惑気味だ。
『はぁ。それが……』
答えようとした受付嬢の声を遮った新たな声は中条にも聞き覚えのある声だった。
『俺だよ俺。鎮三山の花栄~。休暇だから遊びに来たんだけどさ、長官殿は今暇かい?』
2
3時間後、中条と花栄が居たのは北京では珍しい日本風の居酒屋だった。お世辞にも綺
麗とは言えない店の外には赤い提灯がぶら下り、お世辞にも広いとは言えない店内は5・
6人しか座れないカウンターのみ。さらに店を切り盛りするのはカウンター越しに鋭い視
線を投げかける無愛想な親父が一人きり、と中年日本男性には心底懐かしさを感じさせる
店だった。
ちなみに中条を飲みに誘い、この店に連れて来た花栄はこの店では常連らしい。
甲冑を身に付けていないとはいえ、いかにも武将といった恰好の花栄とスーツの中条と
いう組合せに店の主は全く動じずに接客している。
「おやっさーん。大根とがんもね、あと日本酒お代り」
と慣れた口調で注文する花栄の姿は全く違和感がない。むしろ馴染んでいる。これで服
装が中条と同様にスーツだったら完全に、『東京の仕事帰りのサラリーマン二人組』と思
われることは間違いなかった。
「私も大根をもらおう」
店に入った瞬間、まさか異国でこんな店に連れて来られるとは……、と顔には出さず感
動した中条だったが、おでんの味に更に感動した。正に懐かしき東京の味がする。
直ぐにさっと目の前に出された大根を口に入れる。ほどよく出汁の染みた大根の味に、
思わず声が洩れた。
「美味い」
「だっろ~。ぜってぇアンタにも教えようと思ってたんだ」
中条の勤務時間が終り酒も入ったことで、花栄の口調も砕けてきた。
「それにしても中条長官も今日ドタキャンされたとはねぇ~」
「あぁ見事振られてしまったよ」
「折角のバレンタインデーだってのにねぇ。アンタの事だからちゃんと準備までしたんだ
ろ?」
「まぁ仕方がないさ」
日本酒を片手に苦笑を返した中条に、花栄は『やっぱ長官アンタはは絵になるねぇ』と
溜息にも似た言葉を吐いた。
「きっとあの呉先生のことだから、今日がバレンタインデーだってこと事態忘れてるんだ
ろうぜ」
「あぁ。私もそう思う。実験相手では私も分が悪くてね。全敗中だよ。」
それでも、思い出して謝りの電話を入れるくらいになったのだから進歩したものだと思
う。最初の頃はすっかり忘れられた挙句、後で泣きながら謝られてしまうことが何度もあ
り、その度に慰めたり周りに勘繰られたりと散々な目にあったものだった。
そう言うと、花栄は唸った。
「順調そうに見えて長官も結構苦労してんだな。でも昔はかなりモテただろアンタ。
確か長官の出身の日本だと、バレンタインデーは女の子からチョコレート貰って告白さ
れるんだよな。放課後に校舎裏に呼び出されて、セーラー服の女の子に『好きです』とか
言われちゃうんだろ? いいなぁ、こっちはそんな風習ないからさ、うらやましーなぁ。
あと下駄箱いっぱいのラブレターとかあるんだろ……」
「……やけにくわしいな」
どこから得たのか偏った花栄の知識に幾らか引き気味の中条は、直ぐにその答えを知っ
た。
「あ、この間村雨に聞いたんだよ。あってるんだろ。これ」
「……まぁ、そういうシュチエーションも無きにしもあらずだが。ついでに言うなら日本
にはホワイトデーというのもあるがね」
「あ、それも聞いたぜ。確かチョコレート貰った相手に何十倍も高い値段のもので返さな
きゃいけないんだろ? で、あくどい女はそれ目当てにバレンタインデーにチョコレート
配りまくるんだって?」
それは嫌だな。どうせならチョコレートだけ貰いたいぜ俺と呟く花栄に、頭痛を覚えた
中条は話題を変える事にした。
「………そう言えば、君も急にキャンセルされたって?」
「そうそう! そーなんだよ」
途端食いついた花栄。
その相手は中条も良く知る人物で、とても堅物で有名である。こんな恋人同士のイベン
トに参加するとは思えないが、かといって土壇場で断わるような男でもない。中条には二
重の意味で信じがたかった。
「それは……矢張り黄信君なのか?」
「え~。アイツ以外に誰がいるっていうんだよ、長官!」
「……それはすまない」
花栄の想い人は小李広の黄信というれっきとした男だ。花栄が幼馴染の黄信にベタぼれ
と言うのは、国警の中でも有名な話で、それに気付いていないのは想われている本人だけ
である。正に親友以上恋人未満な関係と言える。
これからの話に勢いを付けるためか、花栄はコップに入った酒を一気に煽った。
「聞いてくれよぉ。本当はさ、アイツとふたりでここに呑みに来る予定だったんだ」
最初は(中条の想像通り)そんな軟弱なイベントなんぞにかぶれおってと相手にされな
かったが、友人同士でも祝うらしい(と限りなく曖昧に言ってみたり)とか丁度御互い休
暇だとか色んな理由を付けてどうにか約束にまで漕ぎつけたらしい。
「で、それが昨日さ、急に当日夜勤の奴と交代するって言うんだよ、ひっでぇだろ~」
詳しく聞いたら、それは妻子がいる男だった。なんでも単身赴任中でなかなか会えない
父親に物心付いた娘から、覚えたばかりのたどたどしい文字で『チョコを渡すから帰って
来て』と書かれた手紙が来たらしい。
「それは……黄信君らしいな」
「確かにそうだけどさぁ。偶には俺の約束くらい優先して欲しいもんだぜ」
口ではそう言いつつも、花栄の瞳は優しい。
黄信は数年前にBF団との戦いで妻子を失った。その所為か、妻子持ちのエキスパート
にはどうしても自分の出来る範囲で優遇してしまうらしい。
妻子が殺されたことに自責の念に駆られ自分を追い詰めていた黄信の姿に、今まで親友
としての愛情だと思っていた気持ちが恋愛感情だと気付いた花栄にとっては、そういった
黄信の姿が告白に踏み切れない理由のひとつになっている。
「そういうところも好きなんだろう?」
中条の問いに、花栄は大きく頷いた。
「そりゃぁね。あー俺、やっぱアイツのこと好きなんだなぁって改めて思ったね。だから
このままの関係でもいいと思う時もある」
君らしいな……と言いかけて中条は声を噤んだ。花栄の表情がやや暗くなったが一瞬の
事で直ぐにいつもの明るい表情に戻る。
「でも、俺って奴は自分で思った以上に欲張りだったらしくてね。
その時同時に、アイツにもしも新しく女が出来そうになったらどうなるか分からないなぁ
と思いましたよ。俺も案外暗いもんだ」
そう言って花栄は笑った。
3
「あー呑んだ呑んだ」
と上機嫌の花栄と、いつも通りパイプを吹かす中条は北京の屋台通りを歩いていた。赤
提灯の店を出て2軒目を梯子するかとブラブラしているところだ。
バレンタインデーとあって、こんな通りでもいつもよりは若干カップルの姿が目立つ。
「本当は、長官殿に口説きのコツでも聞いた後、長官呉先生のいちゃつきっぷりでも拝ん
で帰ろうかと思ってたんだけどなー」
あっはっはと笑う花栄。
「拝んで? なんだいそれは?」
「あれ? あー知らないよな。今梁山泊で、誰が始めたんだか北京の方を拝めば恋愛成就
するっちゅうお呪いが流行りなんだよ。なにせ最強カップルが2組もいるから」
最強と言われて、敵味方のタブーを乗り越えた一組は直ぐに思いついたものの、自分達
が最強と言われる所以が分からない。と呟いた中条に、
「ま、知っても直しようがないからなぁ。アンタ達は」
と答えて笑い続ける花栄だった。
そんな中、突如まだ人通りの絶えない屋台通りに馬の嘶きが響いた。ん? と花栄は聞
き覚えのあるその声に背後を振り返る。
「あれは……赤兎馬か?」
「そのようだな」
市街を歩くには……と支部に置いてきた筈の愛馬の姿が人込みの奥に見えた。
人の波が割れて音と共に近付いてくる特徴的な赤毛の馬に驚いた花栄は、その背に乗っ
た人物更に驚く事になる。
「って、黄信! こんな所でどうしたんだお前」
「探したぞ、花栄」
赤兎馬からひらりと降り立った黄信はいつもと変わらない甲冑姿だった。
「なにかあったのか?」
「違う」
「じゃ、なんで? お前今日夜勤だろ」
「どっかの誰かが散々ごねたから、部下が気を効かせてくれてな。今日は休みになった」
で探してみれば、赤兎馬で北京に向った後だったそうだ。
全く良い年の男が……と不機嫌な顔をしつつも、わざわざ探しにやってくるのが黄信ら
しい。
「こ、黄信~」
瞳を潤ませた花栄に、照れ臭いのか眼をそらす。
「さぁ、呑みに行くならさっさと行くぞ」
「おう」
さっさと歩き出す黄信に嬉しそうに合いの手を入れた花栄は、上機嫌で蚊帳の外だった
中条を振り返った。
「という訳で今から三人で飲もうぜ長官。今なら俺が全部奢るぞ」
先ほどまで居酒屋でくだを巻いていたのが嘘のようだ。
「いや、私はここで退散しよう」
「そうかい」
その残念そうな声音に中条は苦笑を返した。花栄は元々大勢で呑むのが好きな方だ。黄
信と二人きりで呑むと言うことが今は頭の外らしい。
「あぁ。ついでに赤兎馬も支部で預かっておこう。明日にでも取りに来たまえ」
「確かにそうしてもらえるとありがたいな。頼んだ」
頷いた黄信から赤兎馬の綱を預かり、慣れた手付きでその背に跨った中条に、黄信が思
い出したように声を掛けた。
「あぁそうだ、中条長官。呉学人が青い顔をして探しておったぞ」
なにがあったか知らんが、帰ったら話を聞いてやれ。周りの人間が迷惑だと、少々立腹
気味の黄信の言葉に、中条は表情をどう作れば良いのか困った。
ようやく今日がなんの日か思い出したということだろう。探していたということは、今
度は研究が手に付いていないのだろうか?
取り合えずは分かったと答えておいて、中条は花栄と黄信に手を振ってその場を離れた。
屋台通りを歩いている時は気付かなかったが、寒空の上星と共に満月が青白く輝いてい
る。吐く息が白い。
市街から抜け出た途端文字通り風のように駆け始めた馬の上で、中条は今頃慌てている
であろう恋人を思い、一人微笑んだ。
買って置いたチョコレートはどうやら無駄にならずに済んだらしい。
実験好きの恋人に無下にされない日も近いのかもしれない。
まだ仄かにしか日の光が入ってこない寝室で、
黄信は絶望していた。
まず、
腰が痛い。
日常では異常なほどすべての神経を研ぎ澄まし、
身体に付属しているすべての機能を使って仕事をしている。
そういった仕事を何年も続けている身、
自ずと、何をすればどこが痛むか、
それは一体いつまで続くのか、など把握出来ている・・・
はずだった。
だから、
今、
腰が痛いなどと何故思うのか、
ありえないこと・・・であるし、
腰が痛い、と言うことは昨日一昨日無理をしたのか、
なぜ、"腰"だけが痛むのか、
疑問が後から後からわきあがってくる。
その回答は、自分では導き出せなかった。
なぜなら、
昨日の記憶がすべてなかったからだ。
黄信は狭い布団の上で身じろぐ。
変な汗が頬を伝った。
――何故だ?
記憶がぶっ飛んでしまうほど、
酒に溺れる事など今までなかったし、
酒ごときで酔うなど、
エキスパートを育成する梁山泊が指南――黄信にとって、
あっていいはずがない。
酒に酔わない自信はあった。
そして昨日は、宴会などそういった類のものはなかったはず。
それがより一層黄信を混乱へと導く。
――酒を飲んだ記憶もない、昨日の昼ごろまでの記憶はある・・・。
そうなのだ。
正確に言うと、昨日の夜・・・花栄と帰宅を共にした後の記憶がない。
黄信はシーツを掻き抱く。
さらに最悪なことには、
・・・服を着ていなかった。
それがすべての混乱の現況だった。
朝、というより深夜、
常人よりは数段はやい時刻に起きた黄信は、
まず肌寒さを覚えた。
この季節、確かに変わり目で寒暖の差が日増しに強くなっていくのだが、
それでも。
ふと見て気づいた。
一糸纏わぬ、己の姿。
・・・叫ばなかったのが、せめてもの幸い。
黄信は危うく気絶しそうになったが、
何とか持ちこたえ、
そして冷静に、
極力冷静に物事を見極めようとした。
そして現在に至る。
――花栄と、いつものように共に帰宅して、それから・・・・、
それから、何をしたのか。
普段なら、
多少の酒に付き合ったり、
もしくは、
共に部下の特別稽古をつけてやったり、
説教をしたり、
様々なことが思い出されるが、
それでも、
今日に繋がるようなことは何一つ思い出されなかった。
――一体何をしたと言うのだ・・・。
黄信は絶望する。
エキスパートとして、
十数年修行し、
さらには指南役など、
身に余るほどの光栄に甘んじておきながら、
この不覚。
憤死してしまいそうになる。
黄信は未だ日の入らない寝室で、
布団の上で、身じろいでいた。
身じろいでいたために、
布団のカバーは乱れていたが、
それもただ身じろいでいたが為に出来たものなのか、
それとも違う現象から起きたものなのか、
もう判別できない。
いつも身に着けている甲冑や剣は普段なら専用の場所に収納しているはずなのに、
今日はすべて布団の回りに散らばっている。
・・・ありえない。
自分でも几帳面だと自負している。
日常の反復動作を、この自分が疎かにするはずがない。
段々、目が覚めてきた。
混乱も、多少は収まってきた。
・・・命は、ある。
一番不可思議だと思ったのが、
今自分が生きている、という事だ。
というより、
――性質の悪い、悪戯か?
自分を陥れようと、誰かが画策したのやもしれぬ。
そうは思ったものの。
――一体、誰が。
思いも付かない。
確かに部下には厳しい。
だが、怨まれるような指導はしていない。
すべて個人個人の能力に合うよう、
黄信なりに気を使ってやっているつもりだった。
だから、
余計に、
今、この摩訶不思議な状態で朝日を迎えようとしている自分が怖かった。
「よう、黄信!目覚めの気分はどうだ?」
黄信はまた、叫びそうになった。
目を見開く。
――か、花栄!?
何故、自室に花栄が!?
そんな表情がありありと浮かび上がる。
花栄はそれに気づいたのか気が付かなかったのか、
さらに言葉を続ける。
「まぁしかし、昨日は無理をさせた。すまなかったな。」
謝られる。
黄信は、訳がわからずも、
このなにも着ていない自分を見られるのが嫌で、
というより恥ずかしくて、
思わず布団を強く握り締めた。
花栄は謝った後、気味が悪いほど爽やかに微笑んでいる。
「か、花栄、おぬしが、なぜここに・・・?」
はぁ?と花栄はいつもの調子で聞き返す。
「何言ってんだ、お前。昨日はあれだけ盛り上がったつぅのに・・・。」
ぼりぼりと頭を掻きながら、
幾許か照れたように、
「まぁその、何だ、お前も今日はつらいかもしれぬが・・・」
歯切れが悪い。
――なぜ顔がにやけているのだ?
黄信は不審に思った。
まさか、花栄が・・・。
あらぬことが思い浮かぶ。
しかし、
――花栄がなぜこの黄信を陥れる必要がある?
必死に否定する。
乱れた髪が邪魔で、
黄信は肩先まである髪を掻き揚げた。
「っ・・と、お前、今日はちゃんと用心しろよ?」
「は?」
何の事か分からず聞き返した。
さっきから何をわけのわからないことをいっているのか・・・・。
黄信は花栄が来たことで平常心を失いかけてはいたものの、
なんとか持ちこたえている。
「だから、その・・・アレが、見えるし。」
アレって何だ。
「・・・それと、ちょいと昨日は激しくしたから、腰がつらいかもしれねぇな。」
何で腰が痛いのを知っている。
「お前、やっぱりまだ動くのつらいのか?服も着てない・・・し。」
目線が泳いでいる。
黄信は苛苛してきた。
こうもはっきりしない花栄は初めてだ。
が、先ほどからニヤニヤニヤニヤ下世話な笑いが収まっていないところをみると、
本当に花栄が自分に何かしたのではないか、
という疑いが、黄信のなかで再発しだした。
――まさか。
布団の中で、多少は温まった掌を握り締めながら、
黄信は、
「花栄、・・・昨夜、俺に何かしたか?」
「何したって・・・お前、覚えてないのか?」
呆然とした。
花栄もあまりに本気で何もわかってなさそうな黄信を見て、
呆気にとられている。
日はやっと入ってきて、大分部屋が明るくなってきた。
窓の桟から漏れる光が、黄信と花栄を照らし始める。
「・・・本当に、覚えてないのか?」
最初に口を開いたのは、花栄。
「本当の本当に、覚えていないのか!?」
「だから、一体何の事をいっているのだお前は!!」
「いやだから本気かぁお前!昨日何したってナニしたんだよ!!!」
「分けがわからぬことをほざくな阿呆!!俺に何するって何だ!!!」
「だからっ、・・・お前を、抱いたんだよ・・・・。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
昨日の夜から記憶がない。
花栄と帰宅して、
一緒にこの自室にもどって、
それから、
それから・・・・。
「な・・・?」
「思い出したか?」
目線がかち合った。
思い出せない。
まったくもって、思い出せない。
「思い出せぬ・・・。」
はぁ、と花栄は盛大な溜息をついた。
黄信は抱いたという刺激的な、かつ下世話な言の葉に恥ずかしくなり、
思わず下を向いた。
「・・・まぁ、思い出せなくても、これから夜は何回もあるし。」
花栄はその持ち前の明るさからか、
それとも単に目の前にある現実から目を背けたかったのか、
己に言い聞かせるようにそういった。
黄信は、
・・・・保身の為に、わざと思い出せないようなっているのか。
人間の脳とは真に不思議よ、と納得した。
日はもう完全に朝の位置につき、
もうそろそろ早朝練習が始まる。
黄信は多少の腰の痛みをこらえて、
花栄は現実逃避しそうになる自分を制御して、
いつもとおなじように、
まるで何事もなかったかのように、
出勤していった。
そんな初夜だった。
黄信は絶望していた。
まず、
腰が痛い。
日常では異常なほどすべての神経を研ぎ澄まし、
身体に付属しているすべての機能を使って仕事をしている。
そういった仕事を何年も続けている身、
自ずと、何をすればどこが痛むか、
それは一体いつまで続くのか、など把握出来ている・・・
はずだった。
だから、
今、
腰が痛いなどと何故思うのか、
ありえないこと・・・であるし、
腰が痛い、と言うことは昨日一昨日無理をしたのか、
なぜ、"腰"だけが痛むのか、
疑問が後から後からわきあがってくる。
その回答は、自分では導き出せなかった。
なぜなら、
昨日の記憶がすべてなかったからだ。
黄信は狭い布団の上で身じろぐ。
変な汗が頬を伝った。
――何故だ?
記憶がぶっ飛んでしまうほど、
酒に溺れる事など今までなかったし、
酒ごときで酔うなど、
エキスパートを育成する梁山泊が指南――黄信にとって、
あっていいはずがない。
酒に酔わない自信はあった。
そして昨日は、宴会などそういった類のものはなかったはず。
それがより一層黄信を混乱へと導く。
――酒を飲んだ記憶もない、昨日の昼ごろまでの記憶はある・・・。
そうなのだ。
正確に言うと、昨日の夜・・・花栄と帰宅を共にした後の記憶がない。
黄信はシーツを掻き抱く。
さらに最悪なことには、
・・・服を着ていなかった。
それがすべての混乱の現況だった。
朝、というより深夜、
常人よりは数段はやい時刻に起きた黄信は、
まず肌寒さを覚えた。
この季節、確かに変わり目で寒暖の差が日増しに強くなっていくのだが、
それでも。
ふと見て気づいた。
一糸纏わぬ、己の姿。
・・・叫ばなかったのが、せめてもの幸い。
黄信は危うく気絶しそうになったが、
何とか持ちこたえ、
そして冷静に、
極力冷静に物事を見極めようとした。
そして現在に至る。
――花栄と、いつものように共に帰宅して、それから・・・・、
それから、何をしたのか。
普段なら、
多少の酒に付き合ったり、
もしくは、
共に部下の特別稽古をつけてやったり、
説教をしたり、
様々なことが思い出されるが、
それでも、
今日に繋がるようなことは何一つ思い出されなかった。
――一体何をしたと言うのだ・・・。
黄信は絶望する。
エキスパートとして、
十数年修行し、
さらには指南役など、
身に余るほどの光栄に甘んじておきながら、
この不覚。
憤死してしまいそうになる。
黄信は未だ日の入らない寝室で、
布団の上で、身じろいでいた。
身じろいでいたために、
布団のカバーは乱れていたが、
それもただ身じろいでいたが為に出来たものなのか、
それとも違う現象から起きたものなのか、
もう判別できない。
いつも身に着けている甲冑や剣は普段なら専用の場所に収納しているはずなのに、
今日はすべて布団の回りに散らばっている。
・・・ありえない。
自分でも几帳面だと自負している。
日常の反復動作を、この自分が疎かにするはずがない。
段々、目が覚めてきた。
混乱も、多少は収まってきた。
・・・命は、ある。
一番不可思議だと思ったのが、
今自分が生きている、という事だ。
というより、
――性質の悪い、悪戯か?
自分を陥れようと、誰かが画策したのやもしれぬ。
そうは思ったものの。
――一体、誰が。
思いも付かない。
確かに部下には厳しい。
だが、怨まれるような指導はしていない。
すべて個人個人の能力に合うよう、
黄信なりに気を使ってやっているつもりだった。
だから、
余計に、
今、この摩訶不思議な状態で朝日を迎えようとしている自分が怖かった。
「よう、黄信!目覚めの気分はどうだ?」
黄信はまた、叫びそうになった。
目を見開く。
――か、花栄!?
何故、自室に花栄が!?
そんな表情がありありと浮かび上がる。
花栄はそれに気づいたのか気が付かなかったのか、
さらに言葉を続ける。
「まぁしかし、昨日は無理をさせた。すまなかったな。」
謝られる。
黄信は、訳がわからずも、
このなにも着ていない自分を見られるのが嫌で、
というより恥ずかしくて、
思わず布団を強く握り締めた。
花栄は謝った後、気味が悪いほど爽やかに微笑んでいる。
「か、花栄、おぬしが、なぜここに・・・?」
はぁ?と花栄はいつもの調子で聞き返す。
「何言ってんだ、お前。昨日はあれだけ盛り上がったつぅのに・・・。」
ぼりぼりと頭を掻きながら、
幾許か照れたように、
「まぁその、何だ、お前も今日はつらいかもしれぬが・・・」
歯切れが悪い。
――なぜ顔がにやけているのだ?
黄信は不審に思った。
まさか、花栄が・・・。
あらぬことが思い浮かぶ。
しかし、
――花栄がなぜこの黄信を陥れる必要がある?
必死に否定する。
乱れた髪が邪魔で、
黄信は肩先まである髪を掻き揚げた。
「っ・・と、お前、今日はちゃんと用心しろよ?」
「は?」
何の事か分からず聞き返した。
さっきから何をわけのわからないことをいっているのか・・・・。
黄信は花栄が来たことで平常心を失いかけてはいたものの、
なんとか持ちこたえている。
「だから、その・・・アレが、見えるし。」
アレって何だ。
「・・・それと、ちょいと昨日は激しくしたから、腰がつらいかもしれねぇな。」
何で腰が痛いのを知っている。
「お前、やっぱりまだ動くのつらいのか?服も着てない・・・し。」
目線が泳いでいる。
黄信は苛苛してきた。
こうもはっきりしない花栄は初めてだ。
が、先ほどからニヤニヤニヤニヤ下世話な笑いが収まっていないところをみると、
本当に花栄が自分に何かしたのではないか、
という疑いが、黄信のなかで再発しだした。
――まさか。
布団の中で、多少は温まった掌を握り締めながら、
黄信は、
「花栄、・・・昨夜、俺に何かしたか?」
「何したって・・・お前、覚えてないのか?」
呆然とした。
花栄もあまりに本気で何もわかってなさそうな黄信を見て、
呆気にとられている。
日はやっと入ってきて、大分部屋が明るくなってきた。
窓の桟から漏れる光が、黄信と花栄を照らし始める。
「・・・本当に、覚えてないのか?」
最初に口を開いたのは、花栄。
「本当の本当に、覚えていないのか!?」
「だから、一体何の事をいっているのだお前は!!」
「いやだから本気かぁお前!昨日何したってナニしたんだよ!!!」
「分けがわからぬことをほざくな阿呆!!俺に何するって何だ!!!」
「だからっ、・・・お前を、抱いたんだよ・・・・。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
昨日の夜から記憶がない。
花栄と帰宅して、
一緒にこの自室にもどって、
それから、
それから・・・・。
「な・・・?」
「思い出したか?」
目線がかち合った。
思い出せない。
まったくもって、思い出せない。
「思い出せぬ・・・。」
はぁ、と花栄は盛大な溜息をついた。
黄信は抱いたという刺激的な、かつ下世話な言の葉に恥ずかしくなり、
思わず下を向いた。
「・・・まぁ、思い出せなくても、これから夜は何回もあるし。」
花栄はその持ち前の明るさからか、
それとも単に目の前にある現実から目を背けたかったのか、
己に言い聞かせるようにそういった。
黄信は、
・・・・保身の為に、わざと思い出せないようなっているのか。
人間の脳とは真に不思議よ、と納得した。
日はもう完全に朝の位置につき、
もうそろそろ早朝練習が始まる。
黄信は多少の腰の痛みをこらえて、
花栄は現実逃避しそうになる自分を制御して、
いつもとおなじように、
まるで何事もなかったかのように、
出勤していった。
そんな初夜だった。
いよいよ面会時間も終わりそうな頃だった。
ようやく研究室から抜け出した呉は、疲労を押し殺してへろへろと病室に向かっていき、へろへろとそこから出て行った……手にしているのは沢山の着替えだ。アレは戴宗、これは鉄牛と、気付けばちょっとしたカートが必要な量の荷物になっている。実はカートをその為に購入した。所謂共通通貨でざっと20ドル辺りで。頼まれて断れないのが悪い所だと言われたが、此処に居てもいいと言われるならばちょっとした労苦はむしろ福音にも思えた。
呉はそんな過去現在の戒めに微かに首を竦め、ふるりと全身を振るわせた。新年を越した季節は骨まで凍り付く寒さで、病棟の廊下まで忍び寄っている。道着の上にコートを羽織ったいささか奇妙な格好は、既にここでは呉の一般的な姿として知られている。
北京支部を去って一月が経つが、どうしても此処に居を構えてしまうため、何故に呉が北京支部にいないのかを理解できていない人間も多い。
しまったとは思った。組織としては悪い傾向だ。
しかし個人的な願いはどうしても消せなくて、ことんと住んだのは中条のアパートの同じ棟の、丁度隣だった。寮を出ることになってたまたま空きが出ていたのを、必死で借り取ったのだ。
中条の別名で借りてあるアパートはまるで国警の匂いはしなくて、自然呉はその住民になりすました。丁度空いていた、中条の隣の部屋の……おかげで、たとえ本人が居なくても、知られていなくても、毎日が嬉しくて、洗濯をしていてもテレビを見ていても何となく笑ってしまう。隣にあの人は住んでいるのだし、と嬉しくなってしまう。
今日も寝るまで洗濯機を回す事になるから迷惑かも、と思いながら歩いていく呉は、とんとんとんと歩いていく姿に少しだけ緊張した。
オロシャのイワン。彼はそう呼ばれている。
「おや、お帰りで」
戦闘の場に居ないイワンは、B級エージェントという物騒な代物よりも、超一流の執事にこそ相応しく見える。呉は執事というものを見たことが無いが、多分イワンの様な存在なのだろうと思う。
何一つとってもそつがない。事実、呉が買い物袋の様に洗濯物を運んでいるなら、イワンは令状の様に洗濯物を運んでいる。一つ一つ皺にならない方法を選んでいるのだと知った時は、思わずため息が出た程だ。そこまでの領域に呉は至った事がないし、そんな事をしていたら心労で死んでしまうのだが、その歴然とした差異に、どうしてもほぉとため息は出てしまう。
負けたと思わないと言ったら、嘘だろう。事実完敗だ。仮に実際の戦闘と比較した場合で言うと、梁山泊はとっくの昔に粉砕消失している。
「ええ」
呉は出来るだけ背を伸ばしたが、カートを押していては話にならない。体勢上、自然微かに背は丸まって、視線はどうしても下を向いてしまう……一瞬だけ洗濯物に視線を落とした呉は、ああとため息をついた。
まるで惨めな自分。本当に惨め。貧乏の子沢山ってこんな気分かも? だって10人分の洗濯物をこうして抱え込んでいるのだ。対するイワンは同じように洗濯物を持っていても背筋はピンとしていて、彼単体だけでも立派な紳士だろう。顔の傷さえなかったら、社交界には欠かせない存在だ。抱えているのが仕立てたばかりの礼服でも違和感はないし、そうと言えるだろう。
「今から」
国際警察機構というものは、一体全体どういう存在なのか?
カートを押して弱々しく微笑む元軍師に、イワンは小一時間尋ねたい気分だった。
イワンに戦術能力はないし、求められても居なかった。それを特に不遇とは思わないが、在れば少なくともアルベルトの役には立っただろうと思う。自分が小手先をひねれば、彼の所存は幾らでも融通が効くと分かれば尚更に。
しかしたかがB級エージェント、作戦の駒の一つでしかない。意見を述べたところで響くことは皆無だ。ただただ、間違っていようが何だろうが、命令一つで突撃して死ねばそれまで、背けば反逆者としての死、生きていれば次の作戦の駒だ。楽しい生き方ではない。
その環境そのものを作り上げる能力と地位が目の前の男には存在している。孔明にも匹敵する軍師と言ったのは誰だったか? それなら国際警察機構でもさぞかし珍重されていようと考えてふいと見れば、下級エージェントの洗濯物を抱えている優男で、しかも今にも泣き出しそうだ。
確かに湯水の如く金を用いるBF団と違い、国際警察機構にはれっきとした運用資金やら時給やらが存在する。ちなみに全員、生命保険にも自動車保険にも入れない。私用自動車が壊れれば、公務であっても全額負担だ。公務中に死んだって、雀の涙ほどの見舞い金が提供されるだけだ。
結構、痛々しい。
「私もなんです、でも多分明日から暫く、ローテーションが厳しくて」
ちょっと厳しいかもしれませんと言いながらも、呉は困った様に笑った。
「でも、御世話になった北京支部の皆さんなので」
駄目だと思った10年間で、それでもこの支部の一つ一つの、あの廊下さえ覚えていて、暇を貰ったと言ったものの今更全部きっぱり無かった事にも出来ないわけで。あの挨拶の一つや視線も、気付けばちゃんと覚えていて。
そして振り向けば、静かに笑っているあの人がいて。
「忘れられないんです」
左様ですか、とイワンは肩をすくめてみせた。
ようやく研究室から抜け出した呉は、疲労を押し殺してへろへろと病室に向かっていき、へろへろとそこから出て行った……手にしているのは沢山の着替えだ。アレは戴宗、これは鉄牛と、気付けばちょっとしたカートが必要な量の荷物になっている。実はカートをその為に購入した。所謂共通通貨でざっと20ドル辺りで。頼まれて断れないのが悪い所だと言われたが、此処に居てもいいと言われるならばちょっとした労苦はむしろ福音にも思えた。
呉はそんな過去現在の戒めに微かに首を竦め、ふるりと全身を振るわせた。新年を越した季節は骨まで凍り付く寒さで、病棟の廊下まで忍び寄っている。道着の上にコートを羽織ったいささか奇妙な格好は、既にここでは呉の一般的な姿として知られている。
北京支部を去って一月が経つが、どうしても此処に居を構えてしまうため、何故に呉が北京支部にいないのかを理解できていない人間も多い。
しまったとは思った。組織としては悪い傾向だ。
しかし個人的な願いはどうしても消せなくて、ことんと住んだのは中条のアパートの同じ棟の、丁度隣だった。寮を出ることになってたまたま空きが出ていたのを、必死で借り取ったのだ。
中条の別名で借りてあるアパートはまるで国警の匂いはしなくて、自然呉はその住民になりすました。丁度空いていた、中条の隣の部屋の……おかげで、たとえ本人が居なくても、知られていなくても、毎日が嬉しくて、洗濯をしていてもテレビを見ていても何となく笑ってしまう。隣にあの人は住んでいるのだし、と嬉しくなってしまう。
今日も寝るまで洗濯機を回す事になるから迷惑かも、と思いながら歩いていく呉は、とんとんとんと歩いていく姿に少しだけ緊張した。
オロシャのイワン。彼はそう呼ばれている。
「おや、お帰りで」
戦闘の場に居ないイワンは、B級エージェントという物騒な代物よりも、超一流の執事にこそ相応しく見える。呉は執事というものを見たことが無いが、多分イワンの様な存在なのだろうと思う。
何一つとってもそつがない。事実、呉が買い物袋の様に洗濯物を運んでいるなら、イワンは令状の様に洗濯物を運んでいる。一つ一つ皺にならない方法を選んでいるのだと知った時は、思わずため息が出た程だ。そこまでの領域に呉は至った事がないし、そんな事をしていたら心労で死んでしまうのだが、その歴然とした差異に、どうしてもほぉとため息は出てしまう。
負けたと思わないと言ったら、嘘だろう。事実完敗だ。仮に実際の戦闘と比較した場合で言うと、梁山泊はとっくの昔に粉砕消失している。
「ええ」
呉は出来るだけ背を伸ばしたが、カートを押していては話にならない。体勢上、自然微かに背は丸まって、視線はどうしても下を向いてしまう……一瞬だけ洗濯物に視線を落とした呉は、ああとため息をついた。
まるで惨めな自分。本当に惨め。貧乏の子沢山ってこんな気分かも? だって10人分の洗濯物をこうして抱え込んでいるのだ。対するイワンは同じように洗濯物を持っていても背筋はピンとしていて、彼単体だけでも立派な紳士だろう。顔の傷さえなかったら、社交界には欠かせない存在だ。抱えているのが仕立てたばかりの礼服でも違和感はないし、そうと言えるだろう。
「今から」
国際警察機構というものは、一体全体どういう存在なのか?
カートを押して弱々しく微笑む元軍師に、イワンは小一時間尋ねたい気分だった。
イワンに戦術能力はないし、求められても居なかった。それを特に不遇とは思わないが、在れば少なくともアルベルトの役には立っただろうと思う。自分が小手先をひねれば、彼の所存は幾らでも融通が効くと分かれば尚更に。
しかしたかがB級エージェント、作戦の駒の一つでしかない。意見を述べたところで響くことは皆無だ。ただただ、間違っていようが何だろうが、命令一つで突撃して死ねばそれまで、背けば反逆者としての死、生きていれば次の作戦の駒だ。楽しい生き方ではない。
その環境そのものを作り上げる能力と地位が目の前の男には存在している。孔明にも匹敵する軍師と言ったのは誰だったか? それなら国際警察機構でもさぞかし珍重されていようと考えてふいと見れば、下級エージェントの洗濯物を抱えている優男で、しかも今にも泣き出しそうだ。
確かに湯水の如く金を用いるBF団と違い、国際警察機構にはれっきとした運用資金やら時給やらが存在する。ちなみに全員、生命保険にも自動車保険にも入れない。私用自動車が壊れれば、公務であっても全額負担だ。公務中に死んだって、雀の涙ほどの見舞い金が提供されるだけだ。
結構、痛々しい。
「私もなんです、でも多分明日から暫く、ローテーションが厳しくて」
ちょっと厳しいかもしれませんと言いながらも、呉は困った様に笑った。
「でも、御世話になった北京支部の皆さんなので」
駄目だと思った10年間で、それでもこの支部の一つ一つの、あの廊下さえ覚えていて、暇を貰ったと言ったものの今更全部きっぱり無かった事にも出来ないわけで。あの挨拶の一つや視線も、気付けばちゃんと覚えていて。
そして振り向けば、静かに笑っているあの人がいて。
「忘れられないんです」
左様ですか、とイワンは肩をすくめてみせた。
なにはともあれ、相手がかの知多星なら問題ありませんな、と急に言われて、呉学人はほへっとしか言えなかった。
あれから一ヶ月、ようやく銀鈴が意識不明の状態から目覚めて、鼻水をずびずび言わせながら抱き合ってからそんなに日が経った訳ではない。一端目覚めると銀鈴は急速に元気になっていき、きっと明日にはもう少し楽になるかも、と笑いながらモニターを指差したものだ。
にもかかわらず、目の前にはいっそ意識不明だった時よりも深刻が顔が並んでいる。しかも知多星だからというのも不気味な響きだ。まるで知多星だったら何でも知ってて動じないとか思われているような言いぐさだが、実際はそんなに強い人間でないことは自分が一番良く知っている。寧ろ脆いとよく呆れられる。
「で、銀鈴さんの保護者は貴方ですね」
「はい」
呉は厳粛さを込めて頷いた。銀鈴と同じく崩れた聖アーバーエーに最後の力を振り絞ってたどり着いた幻夜が未だ意識を取り戻さない以上、今まで通りに呉が彼女の保護者だ。
「治療について説明させていただきます」
釈迦に説法かもしれませんが、と言われて、呉は尚更に不安になった。
銀鈴の一番の致命傷は、撃たれた傷ではなく大容量のテレポーテーションだった。銀鈴のテレポーテーションは、あえて分類するなら空間同士を強引に曲げて繋げるのではなく、周囲のものを一端『曖昧な』粒子状態にしてから、意識した方向に投げかけつつ再構成していくものらしい。その性質の御陰で核となる銀鈴の存在自体が『曖昧』で不安定になり、再び元に落ち着くまでに長く深い眠りを要した訳だ。
「今は回復しました」
ならばこれ以上なんの治療を、と呉は微かに声に牽制を込めた。テレポーテーション能力者は、医学界にとっても希有な存在で、出来れば幾らかのデータを取りたいに違いないが、その能力自体が彼女達を摩耗させていくのだ。冗談ではない、と滅多にない厳しさを拒絶を全面に押しだした呉に、周囲は一瞬たじろいだが、それでものろのろと切り出した。
「だが今後、同じような生活をしていく上では、いささか不安定なのだ」
そういって出された数値は、成程周囲が知多星と呉をもてはやした訳だと知るには充分だった。素人目には出鱈目というかそもそもにしてどう捉えたらいいか分からない数値だが、呉には見方の要領さえ掴んでしまえばかつての研究者時代に見ていたものと同じ視点で情報が見えてくる。つまり銀鈴の身体を構成している分子ポテンシャル領域の、本来は殆ど無くて良いエネルギーが、飛び抜けた数値を示している。安定しているようで実は粒子に再分解する一歩手前で踏ん張っている状態だと知って、流石に呉も鼻白んだ。
「それでも、単にもう一度本人の覚悟というなら話は簡単ですが」
つまり何かの拍子で、本人の意志と無関係に能力が生じてしまう可能性が高いということだ。何かの拍子は分からない、単に歩いているときかも知れないし、眠っている間に消えてしまうかも知れない。これが銀鈴だけの問題ならいいが、無意識に彼女の能力の全てが解放されれば、先の梁山泊よろしく彼女の周囲、都市一つか幾らかが文字通り曖昧になり、行き所の定まらぬままに消え去ってしまう。
「その為の治療なのです、銀鈴さんの了解も取りました」
呉に出来ることは頷くことだけだった。そんな事を望んでいない以上、選択肢など存在しない。
「もう、難しい顔をしないで、先生」
結果として、主に脳内分泌物の調整を行うことになった銀鈴のベッドの側で、呉は酷く険しい顔をしていた。何をすると言っても単に意識を殆ど仮死レベルに落とした深い深い眠りに入ってもらうだけだが、次に目覚めるのかどうかも、誰もやったことがないのだから分からない。
「私が決めた事なんだから」
「しかし……」
呉はそういって扇子の後ろで長いため息を吐きだした。危険は承知だが、しなくてもいずれは危険になる。だが、どうにもそうとは割り切れない。しなくていいと村雨や鉄牛なら言えただろうが、あの数値を見た後の呉の口からはとても言えなかった。まるで臨界点に達した原子炉の様だ。達するではない、もう超えている、単に爆発していないだけだ。
「そうしたいんだから」
銀鈴はそう言って退屈そうに背伸びをした。昏睡状態に入るまで、後十分ばかり時間がある。注射を打たれたら開始だ。或いは終わりか。
呉はそんな銀鈴に何とか笑おうとして、目の奥の熱さに顔が歪むのを感じて、結局曖昧な表情に留まってしまった。一瞬銀鈴の視線とぶつかり、そんな情けない自分の表情に恥ずかしくなって下を向いた所に、すっと手が伸ばされた。
「先生」
ぼすんと、ベッドの半分ばかりに呉の身体は倒れ込んだ。右腕には銀鈴がしっかりと抱きついていて、ふふふと微かな笑い声が聞こえた。
「こうしてもらうのって久しぶりかも」
銀鈴もエキスパートの一員だ。その気になればぐいと相手を懐に引き込むことも可能で、なので呉は殆どベッドに連れ込まれている有様だった。うら若い女性の寝床は、いかに養い子とはいえ異性で在る限り如何ともし難い事であって、呉の顔は自然赤くなった。
「ぎ、ぎんれい、はなしなさい」
「やだ」
殆どシーツに埋もれた銀鈴の声は微かに掠れていて、真っ赤になっていた呉はああと自分の顔の熱が一気に冷めていくのを感じた。所詮他人の自分が慌てたり反論したりした所で、銀鈴自身が抱いている不安に勝ることはない。何時でもそうだったが、結局支えてやることは出来なかった。代わりにぐいと胸元に抱き寄せると、緊張していた身体が微かにほぐれるのを感じて、呉は必死に奥歯を噛みしめた。
「こ、これで、いいかい?」
「髪はほどいて……手、ずっと握ってて」
両方は出来ないので、呉は手を握ることを選んだ。改めて近くで見ると、自分よりも幾分も小さく細くて、とても鍛えたエキスパートのものとは思えなかった。もっと他の生き方を、もっと他の、と繰り返す呉の耳元に、子供のような声が流れ込んできた。
震えが微かな笑いに変わっていた。
「本当に昔みたい……ねぇ、目が覚めたら、最初に私の名前を呼んで」
ごく単純で幾度と無く繰り返してきた事が、こんな状況では酷く複雑に思えて、呉はああと言いながらも、いささか奇妙な事を口走った。本来こんな時にこそ銀鈴の側にいる男は任務で手が離せない。首に紐をくくってでも連れてくれば良かったと思っても後の祭だ。
「私が、村雨君じゃなくて、すまないね」
「私だって長官じゃないもの、お互い様だわ」
銀鈴はそう苦笑して目を閉じた。決断の時間は、覚悟するまでもなくそこにあった。
注射をした直後に銀鈴は眠りにつき、呉は時計と寝息と心臓の音を聞いていた。
一晩、長いが短いか分からない時間だ。こんな思いを抱くとすれば、酷く長い時間だろう。皮膚を伝わって聞こえる音に、モニターの煩いはずの音が不思議と遠くに思える。殆どコールドスリープに近い状態を示す数値は、とても頼りない。先程よりも一回り小さく見える。
「銀鈴」
呼びかけても聞こえないのだとしても、呉は呼びかけずにはいられなかった。
「ファルメール」
何時かその名前に戻れるだろうか、と呉は考える。呉自身も呉学究に戻れていないし、或いは永遠に失われた様に思える。未だ気持ちの整理はついていない。フォーグラーの名前を真っ直ぐに掲げられる気持ちだけは在るとしても。
途端、全てが失われた。
センサーですら一瞬考え込んだ。呉はそれよりも早く、自分の手の中のものが消えてしまった事に気付いた。無論、その危険を少なくするための治療だが、だからといって危険で在ることに変わりはない。飛び起きて毛布をはねのけるが、もぬけの空だ。
「銀鈴」
最悪の事態に鋭く叫び。
……呼ばれて飛び出て何とやら、呉は自分の顔に何かがボスンと落ちてきた事に気付いた。襲撃かと思わず思ったが、柔らかくて弾力があって厚みがあって、しかししかし殆ど重みを感じないもの。大概の男なら喜ぶというか常の呉なら半狂乱のパニックに陥る所だが、逆の意味でパニックに陥りそうになった。
消えた銀鈴は、呉の顔の上に座り込んでいた。微かに燐光を帯び、体育座りの様に膝を折り曲げているが、身体の自然さがさせたものであって、彼女の意識は無かった。
つまり、これで銀鈴は相変わらず眠っている。
「ぎ、ぎんれぇ?」
重い……実際はそうではないのに、ついつい感覚的なもので失敬な言葉を発しそうになって、呉は解放された。先生、私少しダイエットしたのになによその言いぐさ、と言いたい訳ではなく、今度はドアの辺りにいる。
「え?」
声こそ驚いているが、既に頭の中では呉は状況を急速に判断しつつある。
銀鈴の無意識は、身体に溜った高度のエネルギー・ポテンシャルの解放を始めたらしい。小刻みにテレポートを繰り返し、徐々にエネルギーを下げるつもりらしい。テレポートさせる物質の構築と再構築には想像もつかないエネルギーが必要だが、それを逆手に取ったらしい。
ほぉ、と研究者としての呉は納得した。しかし保護者としての呉、あるいは研究者にしてもともかく次の事を考えられる程度の知恵がある人間なら、思い至ることはあるだろう。
『で、どの程度これを繰り返したら、落ち着くんだ?』
銀鈴はひょいと、窓の方に移動した。
何処へ行くのか? 悪いが誰にも分からない。
その姿がひょいと消えた瞬間、呉はその思考を続けながらドアを開けた。
銀鈴は、地上10階の高さの空間で、膝を抱えてくぅくぅと眠っていた。
結果として、呉は地上10階から飛び降りた。銀鈴の手を握るつもりで、その手が触れたにもかかわらずすり抜けたせいだ。その高さおよそ50メートル、鉄扇子を咄嗟に広げなければ、いかなエキスパートとはいえ暫くは衝撃で動けなかっただろう。つまり半分粒子の様な銀鈴と違い、呉はきっちり重力を受けて生きている。ばちゃんと近くの溝に落ちて、膝までぐずぐずになる。
今や重力の枷から逃れ得た銀鈴は、気ままにテレポートを続けていく。短距離をぽんぽんと、およそ5秒おきに。しかし出鱈目に。前後上下左右、今の銀鈴の動きに不可能など無く、呉がどんなに計算してもその行動を正確に読むことが出来ない。
ただ、銀鈴はおおよそ10メートルの移動を行って、もののある所にはいかない。約束らしきものはそれだけだ。丁度、空中を散歩しているだけの様にも見えるが、それが救いになるとは思っていなかった。
銀鈴はフラフラと夜の街を跳び、繁華街に向かっていく。無節操に見えてその法則性だけはあるが、とても救いになるとは思えなかった。万が一、銀鈴が他人の中で実体化すれば、およそその人間は無事ではいられまいし、銀鈴自身も危うい。
「銀鈴」
万が一。
しかしそれ以上を呉は考えなかった。万が一の後は、懐の鉄扇子にじわりと痛みを覚える事ぐらいだ。ふわりと月を背にして現れた銀鈴はほどけた髪のせいもあってか、天女の様にも見える。ふわりふわりと、人ならぬ動きで人の世を彷徨う存在だ。鉄牛が、必死になにか歌でもと言って、『ああ月の天女』とそれ以上進まぬ行を繰り返していた事を、ふいと思いだした。
ならば自分は村の哀れな若造といった所か。
呉は繁華街の布天井を跳ねながら上を目指していく。これだけ大勢の人間がいながらも、誰一人としてエキスパートの動きにはついていけないらしく、猫でもとんだかと騒いでいるその上で、呉は視界の端に銀鈴を見付ける。
「ファルメール」
せめて声を、と思ったが、薬は余程効いているのか、意識を傾けた素振りも無かった。もう一度手を取ろうとするが、今度もやはりすり抜けて、体勢を崩した呉は10メートルばかり勢いよく飛び降り、誰かが引いていた荷台を足蹴にした。針先の様に落ちた呉は全体を粉砕することなく、見事に一点だけを踏み抜く。
そして同じだけを飛び上がる。
周囲が気付いた時には、まるで何かの猛々しいものの怒りを受けたかの様に、鉄製の荷台の後ろが破れていた。あたかも針を落とした如く。
繁華街から高速道路へ、住宅街へ。
どれだけ走ったのかと呉は自問自答するが、答えは出てこない。幾らか銀鈴の移動距離が短くなっているのは分かったが、相変わらず全てにおいて呉は後手後手に回っているし、触れられたとしても矢張り捕まえる事が出来ない。住宅の屋根を奔り、跳び、なんとか銀鈴を捉えようとするが、天女は相変わらず青年に我が身を触れさせることすらない。
「銀鈴」
掠れた声の出る咽は痛く、がくんと揺れた呉の膝は微かに笑っていた。かつての訓練中でもここまでの跳躍を繰り返す事は無かっただろうと思うほど、高低差のある跳躍を繰り返しているせいだ。エキスパート同士の戦いとは逆におそるべき短時間で終わるものだと言われたし、そもそもにして持久戦を得意としない呉だ。
しかし、限界は認めなかった。今でこそ姿が見えているが、それが失せない可能性は無い……かろうじて頭と、肩の本当に際の辺りだけが存在していた銀鈴は酷く軽くて小さかった。お暇を下さいと言った舌の根が乾かぬ内に彼女を抱きしめ、梁山泊の、アーバーエーの何処が機能していますかと周囲の沈黙をかき乱すように叫んで、何とか彼女と彼女の兄をこの世に引き留めた。
「ファルメール」
足を付いた所は、何処かの公園だった。銀鈴もそこにいる。住宅街の近くとあっては昼間は活気を帯びている公園も、夜は眠りよりも尚静かな姿を見せる。遊具は景色の一片でしかない。
その中で月の光の欠片を帯びて、銀鈴はふわふわとしていた。それでもゆっくりと、水の中を沈んでいくように徐々に地面に降りていくのをみて、ようやく落ち着いたのだろうと呉は心からの息をついた。エネルギーにだって限界があり、ようやくここに来て無くなったらしい。裸足のつま先は殆ど地面に触れている。
「良かった」
呉はようやく銀鈴に触れた。左手に。あの時と同じように細くて小さな手に微かな暖かみを感じて、この試験は成功に終わったのだと微笑んでさぁと言い掛けた所で、呉は握った手だけでなく、そこから繋がっている自分の手も、そして自分自身も『曖昧』になった事を知った。
大きな波に揺られるようだった。
粒子化と再構成の合間を、呉と銀鈴は行ったり来たりしている。ぶつかりそうになった遊具を蹴った足の裏がふわんと微かな光をあげてお互いに僅かずつ消えたのを見て、どうしようもない事なのに呉は微かでなく焦り、銀鈴のもう一方の手を取った。
銀鈴は、これだけの騒ぎにもかかわらず相変わらず眠っていた。酷く深い眠りの救いは、穏やかな表情だ。夢を見てはいないだろうし、今や全ての不安から解放されているのだろうと確信できるほどに穏やかな顔をしている。触れた手の温かさが無ければ、とても生きているとは思わなかっただろう。
両手を繋いで、宙に浮び沈みしながら、やや不規則に移動したり消えたりする呉と銀鈴の影が公園の灰色の大地に投げかけられる。今や天女と若造は出会い、幸せと今後永遠の繁栄を約束するかの様に延々と躍っている。そう……躍っている。呉としては何時、今度は何処が触れるやもと思ったが、あの一回で何かを悟ったのか、以降の銀鈴は公園の中央の何も無い空間を中心として、ふわふわと踊りを繰り返した。
滅多に浮んでいるという事を体感しない呉としては戸惑いは隠せなかったが、何処かでこの奇妙なダンスを楽しんでもいた。空に地面にと躍る自分達の影は、こうして行っているにもかかわらず、本当に幻想的だった。
とんとんとんとんとんとん、とん。
ダンスも終盤に近付いたと思ったのは、急激に安定化を始めた頃だった。空中に躍っていた姿は殆ど地面に付くようになり、音楽が最後の章で盛大に終わった一瞬の沈黙の静けさで、呉と銀鈴は実体化を完了した。どさりという無様な音と共に体中が痛いほど重力の虜になった。エネルギーの微調整の名残か、呉の髪飾りだけは実体化されず、幾らかの髪の毛と共に永遠の彼方へと消え去った。
久しぶりにも思える重力に、息をするのが重たいほどだった。まとわりついた髪の一本にさえ重力を感じる。消耗はしていないが、まるで全身に重たい泥を被って居るようで、ともかくおっくうだ。自分にもたれかかっている銀鈴の身体も温かくて小さくて、今度は重たかった。
「ああ」
呉はぼんやりと銀鈴を抱きながら月を見上げた。欠けているものの明るさ問題の無い月は全てを冷たく平等に照らしている。
「終わった」
意外と感慨は無かった。ただ、帰ろうと思う。ゆっくりと眠る銀鈴を抱き上げて立ち上がると、薄くなった靴の底が思った以上にリアルに土塊を捉える事に呉は顔を顰めて、ようやく一番の問題に気付いた。
「ここは、何処だ?」
全てが重たい。溺れかけて助けられたみたいだ。
銀鈴は朝の光に目を細めながら、無意識に握り替えした手に自分で無い暖かみを覚えて苦笑して、視線を動かしてそれを苦笑いに変えた。
銀鈴の記憶は曖昧だ。最後に呉と話をしてから、気が付けば目覚めていた。しかし呉には何か在ったのだろうかと訝ざるを得ない状況だった。椅子に座って銀鈴の毛布に頭を預ける呉は、たった一晩たっただけなのに随分とくたびれた格好をしている。髪も纏めずぼさぼさで、目の下にはクマが見て取れる。道着は至る所が汚れたり破れていたりで、靴なんて殆ど乞食のそれに等しい。
きっと何かがあったんだわ、と思っても、記憶は蘇らない。余程眠っていたのか。ならば一体何があったのかしら? 逆に不安になる銀鈴に、短く深みのある声が投げかけられた。
「おはよう」
「あ、おはようございます、長官」
視線を移さずとも、誰であるかが銀鈴には分かっていた。長年の上司は早い時間にもかかわらずいつもと同じ上司然とした格好で、空気を乱さぬように部屋の壁に身体を預けていた。
「昨日は随分と大変だったと聞いたが、君は元気なものだね」
口の端に浮んだだけのごく微かで穏やかな笑みだけでは、示すところの全ては分からない。しかし長官もいるのだし、確かに何事かはあったのだわと銀鈴は確信しながらも、素直に首を振った。考えるには身体が重たすぎた。
「いいえ、随分と身体が、重たいんです」
「だろうね、君にとって大変な一夜だったのだから……厳しければ、寝てなさい」
中条は否定はしなかった。話を聞いてよもやと思って詰めていたのだが、それらの不安も計画も全てをあからさまにすることはなく、ただ静かに銀鈴の言葉を聞いている。片道30キロの追跡と帰還は、随分とこの青年には厳しかった事すら漂わせずに。
「で……」
「あ…ちょっと、待って下さい」
そういう銀鈴の目は、既に半分瞑りかけていた。もう少し眠る必要があるのだろうと察しながら、中条は静かに頷きで発言を促した。
銀鈴は半分眠りながら、ぎゅうと繋がっている手を握りしめた。この手を握っていられる所なら何処でも安全なのだと信じ込んでいた昔の様に安心して、意識は急速にほどけていく。
「最初は……先生に、呼んで、もらう、です」
もう一つの手を重ねて、銀鈴は再び、しかし今度は薬の力を借りない眠りに落ちた。
中条は微苦笑を浮かべると、気配も遺さずその場を後にした。
あれから一ヶ月、ようやく銀鈴が意識不明の状態から目覚めて、鼻水をずびずび言わせながら抱き合ってからそんなに日が経った訳ではない。一端目覚めると銀鈴は急速に元気になっていき、きっと明日にはもう少し楽になるかも、と笑いながらモニターを指差したものだ。
にもかかわらず、目の前にはいっそ意識不明だった時よりも深刻が顔が並んでいる。しかも知多星だからというのも不気味な響きだ。まるで知多星だったら何でも知ってて動じないとか思われているような言いぐさだが、実際はそんなに強い人間でないことは自分が一番良く知っている。寧ろ脆いとよく呆れられる。
「で、銀鈴さんの保護者は貴方ですね」
「はい」
呉は厳粛さを込めて頷いた。銀鈴と同じく崩れた聖アーバーエーに最後の力を振り絞ってたどり着いた幻夜が未だ意識を取り戻さない以上、今まで通りに呉が彼女の保護者だ。
「治療について説明させていただきます」
釈迦に説法かもしれませんが、と言われて、呉は尚更に不安になった。
銀鈴の一番の致命傷は、撃たれた傷ではなく大容量のテレポーテーションだった。銀鈴のテレポーテーションは、あえて分類するなら空間同士を強引に曲げて繋げるのではなく、周囲のものを一端『曖昧な』粒子状態にしてから、意識した方向に投げかけつつ再構成していくものらしい。その性質の御陰で核となる銀鈴の存在自体が『曖昧』で不安定になり、再び元に落ち着くまでに長く深い眠りを要した訳だ。
「今は回復しました」
ならばこれ以上なんの治療を、と呉は微かに声に牽制を込めた。テレポーテーション能力者は、医学界にとっても希有な存在で、出来れば幾らかのデータを取りたいに違いないが、その能力自体が彼女達を摩耗させていくのだ。冗談ではない、と滅多にない厳しさを拒絶を全面に押しだした呉に、周囲は一瞬たじろいだが、それでものろのろと切り出した。
「だが今後、同じような生活をしていく上では、いささか不安定なのだ」
そういって出された数値は、成程周囲が知多星と呉をもてはやした訳だと知るには充分だった。素人目には出鱈目というかそもそもにしてどう捉えたらいいか分からない数値だが、呉には見方の要領さえ掴んでしまえばかつての研究者時代に見ていたものと同じ視点で情報が見えてくる。つまり銀鈴の身体を構成している分子ポテンシャル領域の、本来は殆ど無くて良いエネルギーが、飛び抜けた数値を示している。安定しているようで実は粒子に再分解する一歩手前で踏ん張っている状態だと知って、流石に呉も鼻白んだ。
「それでも、単にもう一度本人の覚悟というなら話は簡単ですが」
つまり何かの拍子で、本人の意志と無関係に能力が生じてしまう可能性が高いということだ。何かの拍子は分からない、単に歩いているときかも知れないし、眠っている間に消えてしまうかも知れない。これが銀鈴だけの問題ならいいが、無意識に彼女の能力の全てが解放されれば、先の梁山泊よろしく彼女の周囲、都市一つか幾らかが文字通り曖昧になり、行き所の定まらぬままに消え去ってしまう。
「その為の治療なのです、銀鈴さんの了解も取りました」
呉に出来ることは頷くことだけだった。そんな事を望んでいない以上、選択肢など存在しない。
「もう、難しい顔をしないで、先生」
結果として、主に脳内分泌物の調整を行うことになった銀鈴のベッドの側で、呉は酷く険しい顔をしていた。何をすると言っても単に意識を殆ど仮死レベルに落とした深い深い眠りに入ってもらうだけだが、次に目覚めるのかどうかも、誰もやったことがないのだから分からない。
「私が決めた事なんだから」
「しかし……」
呉はそういって扇子の後ろで長いため息を吐きだした。危険は承知だが、しなくてもいずれは危険になる。だが、どうにもそうとは割り切れない。しなくていいと村雨や鉄牛なら言えただろうが、あの数値を見た後の呉の口からはとても言えなかった。まるで臨界点に達した原子炉の様だ。達するではない、もう超えている、単に爆発していないだけだ。
「そうしたいんだから」
銀鈴はそう言って退屈そうに背伸びをした。昏睡状態に入るまで、後十分ばかり時間がある。注射を打たれたら開始だ。或いは終わりか。
呉はそんな銀鈴に何とか笑おうとして、目の奥の熱さに顔が歪むのを感じて、結局曖昧な表情に留まってしまった。一瞬銀鈴の視線とぶつかり、そんな情けない自分の表情に恥ずかしくなって下を向いた所に、すっと手が伸ばされた。
「先生」
ぼすんと、ベッドの半分ばかりに呉の身体は倒れ込んだ。右腕には銀鈴がしっかりと抱きついていて、ふふふと微かな笑い声が聞こえた。
「こうしてもらうのって久しぶりかも」
銀鈴もエキスパートの一員だ。その気になればぐいと相手を懐に引き込むことも可能で、なので呉は殆どベッドに連れ込まれている有様だった。うら若い女性の寝床は、いかに養い子とはいえ異性で在る限り如何ともし難い事であって、呉の顔は自然赤くなった。
「ぎ、ぎんれい、はなしなさい」
「やだ」
殆どシーツに埋もれた銀鈴の声は微かに掠れていて、真っ赤になっていた呉はああと自分の顔の熱が一気に冷めていくのを感じた。所詮他人の自分が慌てたり反論したりした所で、銀鈴自身が抱いている不安に勝ることはない。何時でもそうだったが、結局支えてやることは出来なかった。代わりにぐいと胸元に抱き寄せると、緊張していた身体が微かにほぐれるのを感じて、呉は必死に奥歯を噛みしめた。
「こ、これで、いいかい?」
「髪はほどいて……手、ずっと握ってて」
両方は出来ないので、呉は手を握ることを選んだ。改めて近くで見ると、自分よりも幾分も小さく細くて、とても鍛えたエキスパートのものとは思えなかった。もっと他の生き方を、もっと他の、と繰り返す呉の耳元に、子供のような声が流れ込んできた。
震えが微かな笑いに変わっていた。
「本当に昔みたい……ねぇ、目が覚めたら、最初に私の名前を呼んで」
ごく単純で幾度と無く繰り返してきた事が、こんな状況では酷く複雑に思えて、呉はああと言いながらも、いささか奇妙な事を口走った。本来こんな時にこそ銀鈴の側にいる男は任務で手が離せない。首に紐をくくってでも連れてくれば良かったと思っても後の祭だ。
「私が、村雨君じゃなくて、すまないね」
「私だって長官じゃないもの、お互い様だわ」
銀鈴はそう苦笑して目を閉じた。決断の時間は、覚悟するまでもなくそこにあった。
注射をした直後に銀鈴は眠りにつき、呉は時計と寝息と心臓の音を聞いていた。
一晩、長いが短いか分からない時間だ。こんな思いを抱くとすれば、酷く長い時間だろう。皮膚を伝わって聞こえる音に、モニターの煩いはずの音が不思議と遠くに思える。殆どコールドスリープに近い状態を示す数値は、とても頼りない。先程よりも一回り小さく見える。
「銀鈴」
呼びかけても聞こえないのだとしても、呉は呼びかけずにはいられなかった。
「ファルメール」
何時かその名前に戻れるだろうか、と呉は考える。呉自身も呉学究に戻れていないし、或いは永遠に失われた様に思える。未だ気持ちの整理はついていない。フォーグラーの名前を真っ直ぐに掲げられる気持ちだけは在るとしても。
途端、全てが失われた。
センサーですら一瞬考え込んだ。呉はそれよりも早く、自分の手の中のものが消えてしまった事に気付いた。無論、その危険を少なくするための治療だが、だからといって危険で在ることに変わりはない。飛び起きて毛布をはねのけるが、もぬけの空だ。
「銀鈴」
最悪の事態に鋭く叫び。
……呼ばれて飛び出て何とやら、呉は自分の顔に何かがボスンと落ちてきた事に気付いた。襲撃かと思わず思ったが、柔らかくて弾力があって厚みがあって、しかししかし殆ど重みを感じないもの。大概の男なら喜ぶというか常の呉なら半狂乱のパニックに陥る所だが、逆の意味でパニックに陥りそうになった。
消えた銀鈴は、呉の顔の上に座り込んでいた。微かに燐光を帯び、体育座りの様に膝を折り曲げているが、身体の自然さがさせたものであって、彼女の意識は無かった。
つまり、これで銀鈴は相変わらず眠っている。
「ぎ、ぎんれぇ?」
重い……実際はそうではないのに、ついつい感覚的なもので失敬な言葉を発しそうになって、呉は解放された。先生、私少しダイエットしたのになによその言いぐさ、と言いたい訳ではなく、今度はドアの辺りにいる。
「え?」
声こそ驚いているが、既に頭の中では呉は状況を急速に判断しつつある。
銀鈴の無意識は、身体に溜った高度のエネルギー・ポテンシャルの解放を始めたらしい。小刻みにテレポートを繰り返し、徐々にエネルギーを下げるつもりらしい。テレポートさせる物質の構築と再構築には想像もつかないエネルギーが必要だが、それを逆手に取ったらしい。
ほぉ、と研究者としての呉は納得した。しかし保護者としての呉、あるいは研究者にしてもともかく次の事を考えられる程度の知恵がある人間なら、思い至ることはあるだろう。
『で、どの程度これを繰り返したら、落ち着くんだ?』
銀鈴はひょいと、窓の方に移動した。
何処へ行くのか? 悪いが誰にも分からない。
その姿がひょいと消えた瞬間、呉はその思考を続けながらドアを開けた。
銀鈴は、地上10階の高さの空間で、膝を抱えてくぅくぅと眠っていた。
結果として、呉は地上10階から飛び降りた。銀鈴の手を握るつもりで、その手が触れたにもかかわらずすり抜けたせいだ。その高さおよそ50メートル、鉄扇子を咄嗟に広げなければ、いかなエキスパートとはいえ暫くは衝撃で動けなかっただろう。つまり半分粒子の様な銀鈴と違い、呉はきっちり重力を受けて生きている。ばちゃんと近くの溝に落ちて、膝までぐずぐずになる。
今や重力の枷から逃れ得た銀鈴は、気ままにテレポートを続けていく。短距離をぽんぽんと、およそ5秒おきに。しかし出鱈目に。前後上下左右、今の銀鈴の動きに不可能など無く、呉がどんなに計算してもその行動を正確に読むことが出来ない。
ただ、銀鈴はおおよそ10メートルの移動を行って、もののある所にはいかない。約束らしきものはそれだけだ。丁度、空中を散歩しているだけの様にも見えるが、それが救いになるとは思っていなかった。
銀鈴はフラフラと夜の街を跳び、繁華街に向かっていく。無節操に見えてその法則性だけはあるが、とても救いになるとは思えなかった。万が一、銀鈴が他人の中で実体化すれば、およそその人間は無事ではいられまいし、銀鈴自身も危うい。
「銀鈴」
万が一。
しかしそれ以上を呉は考えなかった。万が一の後は、懐の鉄扇子にじわりと痛みを覚える事ぐらいだ。ふわりと月を背にして現れた銀鈴はほどけた髪のせいもあってか、天女の様にも見える。ふわりふわりと、人ならぬ動きで人の世を彷徨う存在だ。鉄牛が、必死になにか歌でもと言って、『ああ月の天女』とそれ以上進まぬ行を繰り返していた事を、ふいと思いだした。
ならば自分は村の哀れな若造といった所か。
呉は繁華街の布天井を跳ねながら上を目指していく。これだけ大勢の人間がいながらも、誰一人としてエキスパートの動きにはついていけないらしく、猫でもとんだかと騒いでいるその上で、呉は視界の端に銀鈴を見付ける。
「ファルメール」
せめて声を、と思ったが、薬は余程効いているのか、意識を傾けた素振りも無かった。もう一度手を取ろうとするが、今度もやはりすり抜けて、体勢を崩した呉は10メートルばかり勢いよく飛び降り、誰かが引いていた荷台を足蹴にした。針先の様に落ちた呉は全体を粉砕することなく、見事に一点だけを踏み抜く。
そして同じだけを飛び上がる。
周囲が気付いた時には、まるで何かの猛々しいものの怒りを受けたかの様に、鉄製の荷台の後ろが破れていた。あたかも針を落とした如く。
繁華街から高速道路へ、住宅街へ。
どれだけ走ったのかと呉は自問自答するが、答えは出てこない。幾らか銀鈴の移動距離が短くなっているのは分かったが、相変わらず全てにおいて呉は後手後手に回っているし、触れられたとしても矢張り捕まえる事が出来ない。住宅の屋根を奔り、跳び、なんとか銀鈴を捉えようとするが、天女は相変わらず青年に我が身を触れさせることすらない。
「銀鈴」
掠れた声の出る咽は痛く、がくんと揺れた呉の膝は微かに笑っていた。かつての訓練中でもここまでの跳躍を繰り返す事は無かっただろうと思うほど、高低差のある跳躍を繰り返しているせいだ。エキスパート同士の戦いとは逆におそるべき短時間で終わるものだと言われたし、そもそもにして持久戦を得意としない呉だ。
しかし、限界は認めなかった。今でこそ姿が見えているが、それが失せない可能性は無い……かろうじて頭と、肩の本当に際の辺りだけが存在していた銀鈴は酷く軽くて小さかった。お暇を下さいと言った舌の根が乾かぬ内に彼女を抱きしめ、梁山泊の、アーバーエーの何処が機能していますかと周囲の沈黙をかき乱すように叫んで、何とか彼女と彼女の兄をこの世に引き留めた。
「ファルメール」
足を付いた所は、何処かの公園だった。銀鈴もそこにいる。住宅街の近くとあっては昼間は活気を帯びている公園も、夜は眠りよりも尚静かな姿を見せる。遊具は景色の一片でしかない。
その中で月の光の欠片を帯びて、銀鈴はふわふわとしていた。それでもゆっくりと、水の中を沈んでいくように徐々に地面に降りていくのをみて、ようやく落ち着いたのだろうと呉は心からの息をついた。エネルギーにだって限界があり、ようやくここに来て無くなったらしい。裸足のつま先は殆ど地面に触れている。
「良かった」
呉はようやく銀鈴に触れた。左手に。あの時と同じように細くて小さな手に微かな暖かみを感じて、この試験は成功に終わったのだと微笑んでさぁと言い掛けた所で、呉は握った手だけでなく、そこから繋がっている自分の手も、そして自分自身も『曖昧』になった事を知った。
大きな波に揺られるようだった。
粒子化と再構成の合間を、呉と銀鈴は行ったり来たりしている。ぶつかりそうになった遊具を蹴った足の裏がふわんと微かな光をあげてお互いに僅かずつ消えたのを見て、どうしようもない事なのに呉は微かでなく焦り、銀鈴のもう一方の手を取った。
銀鈴は、これだけの騒ぎにもかかわらず相変わらず眠っていた。酷く深い眠りの救いは、穏やかな表情だ。夢を見てはいないだろうし、今や全ての不安から解放されているのだろうと確信できるほどに穏やかな顔をしている。触れた手の温かさが無ければ、とても生きているとは思わなかっただろう。
両手を繋いで、宙に浮び沈みしながら、やや不規則に移動したり消えたりする呉と銀鈴の影が公園の灰色の大地に投げかけられる。今や天女と若造は出会い、幸せと今後永遠の繁栄を約束するかの様に延々と躍っている。そう……躍っている。呉としては何時、今度は何処が触れるやもと思ったが、あの一回で何かを悟ったのか、以降の銀鈴は公園の中央の何も無い空間を中心として、ふわふわと踊りを繰り返した。
滅多に浮んでいるという事を体感しない呉としては戸惑いは隠せなかったが、何処かでこの奇妙なダンスを楽しんでもいた。空に地面にと躍る自分達の影は、こうして行っているにもかかわらず、本当に幻想的だった。
とんとんとんとんとんとん、とん。
ダンスも終盤に近付いたと思ったのは、急激に安定化を始めた頃だった。空中に躍っていた姿は殆ど地面に付くようになり、音楽が最後の章で盛大に終わった一瞬の沈黙の静けさで、呉と銀鈴は実体化を完了した。どさりという無様な音と共に体中が痛いほど重力の虜になった。エネルギーの微調整の名残か、呉の髪飾りだけは実体化されず、幾らかの髪の毛と共に永遠の彼方へと消え去った。
久しぶりにも思える重力に、息をするのが重たいほどだった。まとわりついた髪の一本にさえ重力を感じる。消耗はしていないが、まるで全身に重たい泥を被って居るようで、ともかくおっくうだ。自分にもたれかかっている銀鈴の身体も温かくて小さくて、今度は重たかった。
「ああ」
呉はぼんやりと銀鈴を抱きながら月を見上げた。欠けているものの明るさ問題の無い月は全てを冷たく平等に照らしている。
「終わった」
意外と感慨は無かった。ただ、帰ろうと思う。ゆっくりと眠る銀鈴を抱き上げて立ち上がると、薄くなった靴の底が思った以上にリアルに土塊を捉える事に呉は顔を顰めて、ようやく一番の問題に気付いた。
「ここは、何処だ?」
全てが重たい。溺れかけて助けられたみたいだ。
銀鈴は朝の光に目を細めながら、無意識に握り替えした手に自分で無い暖かみを覚えて苦笑して、視線を動かしてそれを苦笑いに変えた。
銀鈴の記憶は曖昧だ。最後に呉と話をしてから、気が付けば目覚めていた。しかし呉には何か在ったのだろうかと訝ざるを得ない状況だった。椅子に座って銀鈴の毛布に頭を預ける呉は、たった一晩たっただけなのに随分とくたびれた格好をしている。髪も纏めずぼさぼさで、目の下にはクマが見て取れる。道着は至る所が汚れたり破れていたりで、靴なんて殆ど乞食のそれに等しい。
きっと何かがあったんだわ、と思っても、記憶は蘇らない。余程眠っていたのか。ならば一体何があったのかしら? 逆に不安になる銀鈴に、短く深みのある声が投げかけられた。
「おはよう」
「あ、おはようございます、長官」
視線を移さずとも、誰であるかが銀鈴には分かっていた。長年の上司は早い時間にもかかわらずいつもと同じ上司然とした格好で、空気を乱さぬように部屋の壁に身体を預けていた。
「昨日は随分と大変だったと聞いたが、君は元気なものだね」
口の端に浮んだだけのごく微かで穏やかな笑みだけでは、示すところの全ては分からない。しかし長官もいるのだし、確かに何事かはあったのだわと銀鈴は確信しながらも、素直に首を振った。考えるには身体が重たすぎた。
「いいえ、随分と身体が、重たいんです」
「だろうね、君にとって大変な一夜だったのだから……厳しければ、寝てなさい」
中条は否定はしなかった。話を聞いてよもやと思って詰めていたのだが、それらの不安も計画も全てをあからさまにすることはなく、ただ静かに銀鈴の言葉を聞いている。片道30キロの追跡と帰還は、随分とこの青年には厳しかった事すら漂わせずに。
「で……」
「あ…ちょっと、待って下さい」
そういう銀鈴の目は、既に半分瞑りかけていた。もう少し眠る必要があるのだろうと察しながら、中条は静かに頷きで発言を促した。
銀鈴は半分眠りながら、ぎゅうと繋がっている手を握りしめた。この手を握っていられる所なら何処でも安全なのだと信じ込んでいた昔の様に安心して、意識は急速にほどけていく。
「最初は……先生に、呼んで、もらう、です」
もう一つの手を重ねて、銀鈴は再び、しかし今度は薬の力を借りない眠りに落ちた。
中条は微苦笑を浮かべると、気配も遺さずその場を後にした。