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うろほろぞ
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 なにはともあれ、相手がかの知多星なら問題ありませんな、と急に言われて、呉学人はほへっとしか言えなかった。
 あれから一ヶ月、ようやく銀鈴が意識不明の状態から目覚めて、鼻水をずびずび言わせながら抱き合ってからそんなに日が経った訳ではない。一端目覚めると銀鈴は急速に元気になっていき、きっと明日にはもう少し楽になるかも、と笑いながらモニターを指差したものだ。
 にもかかわらず、目の前にはいっそ意識不明だった時よりも深刻が顔が並んでいる。しかも知多星だからというのも不気味な響きだ。まるで知多星だったら何でも知ってて動じないとか思われているような言いぐさだが、実際はそんなに強い人間でないことは自分が一番良く知っている。寧ろ脆いとよく呆れられる。
「で、銀鈴さんの保護者は貴方ですね」
「はい」
 呉は厳粛さを込めて頷いた。銀鈴と同じく崩れた聖アーバーエーに最後の力を振り絞ってたどり着いた幻夜が未だ意識を取り戻さない以上、今まで通りに呉が彼女の保護者だ。
「治療について説明させていただきます」
 釈迦に説法かもしれませんが、と言われて、呉は尚更に不安になった。


 銀鈴の一番の致命傷は、撃たれた傷ではなく大容量のテレポーテーションだった。銀鈴のテレポーテーションは、あえて分類するなら空間同士を強引に曲げて繋げるのではなく、周囲のものを一端『曖昧な』粒子状態にしてから、意識した方向に投げかけつつ再構成していくものらしい。その性質の御陰で核となる銀鈴の存在自体が『曖昧』で不安定になり、再び元に落ち着くまでに長く深い眠りを要した訳だ。
「今は回復しました」
 ならばこれ以上なんの治療を、と呉は微かに声に牽制を込めた。テレポーテーション能力者は、医学界にとっても希有な存在で、出来れば幾らかのデータを取りたいに違いないが、その能力自体が彼女達を摩耗させていくのだ。冗談ではない、と滅多にない厳しさを拒絶を全面に押しだした呉に、周囲は一瞬たじろいだが、それでものろのろと切り出した。
「だが今後、同じような生活をしていく上では、いささか不安定なのだ」
 そういって出された数値は、成程周囲が知多星と呉をもてはやした訳だと知るには充分だった。素人目には出鱈目というかそもそもにしてどう捉えたらいいか分からない数値だが、呉には見方の要領さえ掴んでしまえばかつての研究者時代に見ていたものと同じ視点で情報が見えてくる。つまり銀鈴の身体を構成している分子ポテンシャル領域の、本来は殆ど無くて良いエネルギーが、飛び抜けた数値を示している。安定しているようで実は粒子に再分解する一歩手前で踏ん張っている状態だと知って、流石に呉も鼻白んだ。
「それでも、単にもう一度本人の覚悟というなら話は簡単ですが」
 つまり何かの拍子で、本人の意志と無関係に能力が生じてしまう可能性が高いということだ。何かの拍子は分からない、単に歩いているときかも知れないし、眠っている間に消えてしまうかも知れない。これが銀鈴だけの問題ならいいが、無意識に彼女の能力の全てが解放されれば、先の梁山泊よろしく彼女の周囲、都市一つか幾らかが文字通り曖昧になり、行き所の定まらぬままに消え去ってしまう。
「その為の治療なのです、銀鈴さんの了解も取りました」
 呉に出来ることは頷くことだけだった。そんな事を望んでいない以上、選択肢など存在しない。


「もう、難しい顔をしないで、先生」
 結果として、主に脳内分泌物の調整を行うことになった銀鈴のベッドの側で、呉は酷く険しい顔をしていた。何をすると言っても単に意識を殆ど仮死レベルに落とした深い深い眠りに入ってもらうだけだが、次に目覚めるのかどうかも、誰もやったことがないのだから分からない。
「私が決めた事なんだから」
「しかし……」
 呉はそういって扇子の後ろで長いため息を吐きだした。危険は承知だが、しなくてもいずれは危険になる。だが、どうにもそうとは割り切れない。しなくていいと村雨や鉄牛なら言えただろうが、あの数値を見た後の呉の口からはとても言えなかった。まるで臨界点に達した原子炉の様だ。達するではない、もう超えている、単に爆発していないだけだ。
「そうしたいんだから」
 銀鈴はそう言って退屈そうに背伸びをした。昏睡状態に入るまで、後十分ばかり時間がある。注射を打たれたら開始だ。或いは終わりか。
 呉はそんな銀鈴に何とか笑おうとして、目の奥の熱さに顔が歪むのを感じて、結局曖昧な表情に留まってしまった。一瞬銀鈴の視線とぶつかり、そんな情けない自分の表情に恥ずかしくなって下を向いた所に、すっと手が伸ばされた。
「先生」
 ぼすんと、ベッドの半分ばかりに呉の身体は倒れ込んだ。右腕には銀鈴がしっかりと抱きついていて、ふふふと微かな笑い声が聞こえた。
「こうしてもらうのって久しぶりかも」
 銀鈴もエキスパートの一員だ。その気になればぐいと相手を懐に引き込むことも可能で、なので呉は殆どベッドに連れ込まれている有様だった。うら若い女性の寝床は、いかに養い子とはいえ異性で在る限り如何ともし難い事であって、呉の顔は自然赤くなった。
「ぎ、ぎんれい、はなしなさい」
「やだ」
 殆どシーツに埋もれた銀鈴の声は微かに掠れていて、真っ赤になっていた呉はああと自分の顔の熱が一気に冷めていくのを感じた。所詮他人の自分が慌てたり反論したりした所で、銀鈴自身が抱いている不安に勝ることはない。何時でもそうだったが、結局支えてやることは出来なかった。代わりにぐいと胸元に抱き寄せると、緊張していた身体が微かにほぐれるのを感じて、呉は必死に奥歯を噛みしめた。
「こ、これで、いいかい?」
「髪はほどいて……手、ずっと握ってて」
 両方は出来ないので、呉は手を握ることを選んだ。改めて近くで見ると、自分よりも幾分も小さく細くて、とても鍛えたエキスパートのものとは思えなかった。もっと他の生き方を、もっと他の、と繰り返す呉の耳元に、子供のような声が流れ込んできた。
 震えが微かな笑いに変わっていた。
「本当に昔みたい……ねぇ、目が覚めたら、最初に私の名前を呼んで」
 ごく単純で幾度と無く繰り返してきた事が、こんな状況では酷く複雑に思えて、呉はああと言いながらも、いささか奇妙な事を口走った。本来こんな時にこそ銀鈴の側にいる男は任務で手が離せない。首に紐をくくってでも連れてくれば良かったと思っても後の祭だ。
「私が、村雨君じゃなくて、すまないね」
「私だって長官じゃないもの、お互い様だわ」
 銀鈴はそう苦笑して目を閉じた。決断の時間は、覚悟するまでもなくそこにあった。



 注射をした直後に銀鈴は眠りにつき、呉は時計と寝息と心臓の音を聞いていた。
 一晩、長いが短いか分からない時間だ。こんな思いを抱くとすれば、酷く長い時間だろう。皮膚を伝わって聞こえる音に、モニターの煩いはずの音が不思議と遠くに思える。殆どコールドスリープに近い状態を示す数値は、とても頼りない。先程よりも一回り小さく見える。
「銀鈴」
 呼びかけても聞こえないのだとしても、呉は呼びかけずにはいられなかった。
「ファルメール」
 何時かその名前に戻れるだろうか、と呉は考える。呉自身も呉学究に戻れていないし、或いは永遠に失われた様に思える。未だ気持ちの整理はついていない。フォーグラーの名前を真っ直ぐに掲げられる気持ちだけは在るとしても。


 途端、全てが失われた。


 センサーですら一瞬考え込んだ。呉はそれよりも早く、自分の手の中のものが消えてしまった事に気付いた。無論、その危険を少なくするための治療だが、だからといって危険で在ることに変わりはない。飛び起きて毛布をはねのけるが、もぬけの空だ。
「銀鈴」
 最悪の事態に鋭く叫び。
 ……呼ばれて飛び出て何とやら、呉は自分の顔に何かがボスンと落ちてきた事に気付いた。襲撃かと思わず思ったが、柔らかくて弾力があって厚みがあって、しかししかし殆ど重みを感じないもの。大概の男なら喜ぶというか常の呉なら半狂乱のパニックに陥る所だが、逆の意味でパニックに陥りそうになった。
 消えた銀鈴は、呉の顔の上に座り込んでいた。微かに燐光を帯び、体育座りの様に膝を折り曲げているが、身体の自然さがさせたものであって、彼女の意識は無かった。
 つまり、これで銀鈴は相変わらず眠っている。
「ぎ、ぎんれぇ?」
 重い……実際はそうではないのに、ついつい感覚的なもので失敬な言葉を発しそうになって、呉は解放された。先生、私少しダイエットしたのになによその言いぐさ、と言いたい訳ではなく、今度はドアの辺りにいる。
「え?」
 声こそ驚いているが、既に頭の中では呉は状況を急速に判断しつつある。
 銀鈴の無意識は、身体に溜った高度のエネルギー・ポテンシャルの解放を始めたらしい。小刻みにテレポートを繰り返し、徐々にエネルギーを下げるつもりらしい。テレポートさせる物質の構築と再構築には想像もつかないエネルギーが必要だが、それを逆手に取ったらしい。
 ほぉ、と研究者としての呉は納得した。しかし保護者としての呉、あるいは研究者にしてもともかく次の事を考えられる程度の知恵がある人間なら、思い至ることはあるだろう。

  『で、どの程度これを繰り返したら、落ち着くんだ?』

 銀鈴はひょいと、窓の方に移動した。
 何処へ行くのか? 悪いが誰にも分からない。
 その姿がひょいと消えた瞬間、呉はその思考を続けながらドアを開けた。
 銀鈴は、地上10階の高さの空間で、膝を抱えてくぅくぅと眠っていた。


 結果として、呉は地上10階から飛び降りた。銀鈴の手を握るつもりで、その手が触れたにもかかわらずすり抜けたせいだ。その高さおよそ50メートル、鉄扇子を咄嗟に広げなければ、いかなエキスパートとはいえ暫くは衝撃で動けなかっただろう。つまり半分粒子の様な銀鈴と違い、呉はきっちり重力を受けて生きている。ばちゃんと近くの溝に落ちて、膝までぐずぐずになる。
 今や重力の枷から逃れ得た銀鈴は、気ままにテレポートを続けていく。短距離をぽんぽんと、およそ5秒おきに。しかし出鱈目に。前後上下左右、今の銀鈴の動きに不可能など無く、呉がどんなに計算してもその行動を正確に読むことが出来ない。
 ただ、銀鈴はおおよそ10メートルの移動を行って、もののある所にはいかない。約束らしきものはそれだけだ。丁度、空中を散歩しているだけの様にも見えるが、それが救いになるとは思っていなかった。
 銀鈴はフラフラと夜の街を跳び、繁華街に向かっていく。無節操に見えてその法則性だけはあるが、とても救いになるとは思えなかった。万が一、銀鈴が他人の中で実体化すれば、およそその人間は無事ではいられまいし、銀鈴自身も危うい。
「銀鈴」
 万が一。
 しかしそれ以上を呉は考えなかった。万が一の後は、懐の鉄扇子にじわりと痛みを覚える事ぐらいだ。ふわりと月を背にして現れた銀鈴はほどけた髪のせいもあってか、天女の様にも見える。ふわりふわりと、人ならぬ動きで人の世を彷徨う存在だ。鉄牛が、必死になにか歌でもと言って、『ああ月の天女』とそれ以上進まぬ行を繰り返していた事を、ふいと思いだした。
 ならば自分は村の哀れな若造といった所か。
 呉は繁華街の布天井を跳ねながら上を目指していく。これだけ大勢の人間がいながらも、誰一人としてエキスパートの動きにはついていけないらしく、猫でもとんだかと騒いでいるその上で、呉は視界の端に銀鈴を見付ける。
「ファルメール」
 せめて声を、と思ったが、薬は余程効いているのか、意識を傾けた素振りも無かった。もう一度手を取ろうとするが、今度もやはりすり抜けて、体勢を崩した呉は10メートルばかり勢いよく飛び降り、誰かが引いていた荷台を足蹴にした。針先の様に落ちた呉は全体を粉砕することなく、見事に一点だけを踏み抜く。
 そして同じだけを飛び上がる。
 周囲が気付いた時には、まるで何かの猛々しいものの怒りを受けたかの様に、鉄製の荷台の後ろが破れていた。あたかも針を落とした如く。


 繁華街から高速道路へ、住宅街へ。
 どれだけ走ったのかと呉は自問自答するが、答えは出てこない。幾らか銀鈴の移動距離が短くなっているのは分かったが、相変わらず全てにおいて呉は後手後手に回っているし、触れられたとしても矢張り捕まえる事が出来ない。住宅の屋根を奔り、跳び、なんとか銀鈴を捉えようとするが、天女は相変わらず青年に我が身を触れさせることすらない。
「銀鈴」
 掠れた声の出る咽は痛く、がくんと揺れた呉の膝は微かに笑っていた。かつての訓練中でもここまでの跳躍を繰り返す事は無かっただろうと思うほど、高低差のある跳躍を繰り返しているせいだ。エキスパート同士の戦いとは逆におそるべき短時間で終わるものだと言われたし、そもそもにして持久戦を得意としない呉だ。
 しかし、限界は認めなかった。今でこそ姿が見えているが、それが失せない可能性は無い……かろうじて頭と、肩の本当に際の辺りだけが存在していた銀鈴は酷く軽くて小さかった。お暇を下さいと言った舌の根が乾かぬ内に彼女を抱きしめ、梁山泊の、アーバーエーの何処が機能していますかと周囲の沈黙をかき乱すように叫んで、何とか彼女と彼女の兄をこの世に引き留めた。
「ファルメール」
 足を付いた所は、何処かの公園だった。銀鈴もそこにいる。住宅街の近くとあっては昼間は活気を帯びている公園も、夜は眠りよりも尚静かな姿を見せる。遊具は景色の一片でしかない。
 その中で月の光の欠片を帯びて、銀鈴はふわふわとしていた。それでもゆっくりと、水の中を沈んでいくように徐々に地面に降りていくのをみて、ようやく落ち着いたのだろうと呉は心からの息をついた。エネルギーにだって限界があり、ようやくここに来て無くなったらしい。裸足のつま先は殆ど地面に触れている。
「良かった」
 呉はようやく銀鈴に触れた。左手に。あの時と同じように細くて小さな手に微かな暖かみを感じて、この試験は成功に終わったのだと微笑んでさぁと言い掛けた所で、呉は握った手だけでなく、そこから繋がっている自分の手も、そして自分自身も『曖昧』になった事を知った。


 大きな波に揺られるようだった。
 粒子化と再構成の合間を、呉と銀鈴は行ったり来たりしている。ぶつかりそうになった遊具を蹴った足の裏がふわんと微かな光をあげてお互いに僅かずつ消えたのを見て、どうしようもない事なのに呉は微かでなく焦り、銀鈴のもう一方の手を取った。
 銀鈴は、これだけの騒ぎにもかかわらず相変わらず眠っていた。酷く深い眠りの救いは、穏やかな表情だ。夢を見てはいないだろうし、今や全ての不安から解放されているのだろうと確信できるほどに穏やかな顔をしている。触れた手の温かさが無ければ、とても生きているとは思わなかっただろう。
 両手を繋いで、宙に浮び沈みしながら、やや不規則に移動したり消えたりする呉と銀鈴の影が公園の灰色の大地に投げかけられる。今や天女と若造は出会い、幸せと今後永遠の繁栄を約束するかの様に延々と躍っている。そう……躍っている。呉としては何時、今度は何処が触れるやもと思ったが、あの一回で何かを悟ったのか、以降の銀鈴は公園の中央の何も無い空間を中心として、ふわふわと踊りを繰り返した。
 滅多に浮んでいるという事を体感しない呉としては戸惑いは隠せなかったが、何処かでこの奇妙なダンスを楽しんでもいた。空に地面にと躍る自分達の影は、こうして行っているにもかかわらず、本当に幻想的だった。



 とんとんとんとんとんとん、とん。
 ダンスも終盤に近付いたと思ったのは、急激に安定化を始めた頃だった。空中に躍っていた姿は殆ど地面に付くようになり、音楽が最後の章で盛大に終わった一瞬の沈黙の静けさで、呉と銀鈴は実体化を完了した。どさりという無様な音と共に体中が痛いほど重力の虜になった。エネルギーの微調整の名残か、呉の髪飾りだけは実体化されず、幾らかの髪の毛と共に永遠の彼方へと消え去った。
 久しぶりにも思える重力に、息をするのが重たいほどだった。まとわりついた髪の一本にさえ重力を感じる。消耗はしていないが、まるで全身に重たい泥を被って居るようで、ともかくおっくうだ。自分にもたれかかっている銀鈴の身体も温かくて小さくて、今度は重たかった。
「ああ」
 呉はぼんやりと銀鈴を抱きながら月を見上げた。欠けているものの明るさ問題の無い月は全てを冷たく平等に照らしている。
「終わった」
 意外と感慨は無かった。ただ、帰ろうと思う。ゆっくりと眠る銀鈴を抱き上げて立ち上がると、薄くなった靴の底が思った以上にリアルに土塊を捉える事に呉は顔を顰めて、ようやく一番の問題に気付いた。
「ここは、何処だ?」



 全てが重たい。溺れかけて助けられたみたいだ。
 銀鈴は朝の光に目を細めながら、無意識に握り替えした手に自分で無い暖かみを覚えて苦笑して、視線を動かしてそれを苦笑いに変えた。
 銀鈴の記憶は曖昧だ。最後に呉と話をしてから、気が付けば目覚めていた。しかし呉には何か在ったのだろうかと訝ざるを得ない状況だった。椅子に座って銀鈴の毛布に頭を預ける呉は、たった一晩たっただけなのに随分とくたびれた格好をしている。髪も纏めずぼさぼさで、目の下にはクマが見て取れる。道着は至る所が汚れたり破れていたりで、靴なんて殆ど乞食のそれに等しい。
 きっと何かがあったんだわ、と思っても、記憶は蘇らない。余程眠っていたのか。ならば一体何があったのかしら? 逆に不安になる銀鈴に、短く深みのある声が投げかけられた。
「おはよう」
「あ、おはようございます、長官」
 視線を移さずとも、誰であるかが銀鈴には分かっていた。長年の上司は早い時間にもかかわらずいつもと同じ上司然とした格好で、空気を乱さぬように部屋の壁に身体を預けていた。
「昨日は随分と大変だったと聞いたが、君は元気なものだね」
 口の端に浮んだだけのごく微かで穏やかな笑みだけでは、示すところの全ては分からない。しかし長官もいるのだし、確かに何事かはあったのだわと銀鈴は確信しながらも、素直に首を振った。考えるには身体が重たすぎた。
「いいえ、随分と身体が、重たいんです」
「だろうね、君にとって大変な一夜だったのだから……厳しければ、寝てなさい」
 中条は否定はしなかった。話を聞いてよもやと思って詰めていたのだが、それらの不安も計画も全てをあからさまにすることはなく、ただ静かに銀鈴の言葉を聞いている。片道30キロの追跡と帰還は、随分とこの青年には厳しかった事すら漂わせずに。
「で……」
「あ…ちょっと、待って下さい」
 そういう銀鈴の目は、既に半分瞑りかけていた。もう少し眠る必要があるのだろうと察しながら、中条は静かに頷きで発言を促した。
 銀鈴は半分眠りながら、ぎゅうと繋がっている手を握りしめた。この手を握っていられる所なら何処でも安全なのだと信じ込んでいた昔の様に安心して、意識は急速にほどけていく。
「最初は……先生に、呼んで、もらう、です」
 もう一つの手を重ねて、銀鈴は再び、しかし今度は薬の力を借りない眠りに落ちた。
 中条は微苦笑を浮かべると、気配も遺さずその場を後にした。
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