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うろほろぞ
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君の右手を離さない


 長い長い出張のあと、ミリイ・トンプソンはベルナルデリ保険協会を退社した。いわゆる『コトブキ退社』――その意味もどうしてそう呼ばれるのかも誰も知らず、かの惑星の一島国の風習だと言われている――というヤツだ。
 理由はともかく、生来の性格からして、人の生死が遣り取りされる様を目の当たりにするようなあの仕事は、もともと彼女には向いていなかったのだろうとメリルの周囲の人間は口々に言う。

――実際は言われるほど不向きには見えなかったんですけれどね。
 心の中でいちいち訂正をしつつ、メリルは同僚達の声に愛想よく相槌を打っていた。
「ま、何はともあれ、仕事中にダンナさん見つけてくるなんて、大したもんだわあの子」
「カレン……」
 かつてオンナノシアワセについてメリルに忠告した友人は、とんでもないダークホースの出現に少々焦っているようだった。暗に「あなたはどうなの? 先越されて悔しくないの?」といわれているような気がして、メリルにはその物言いがかえって気に障った。

「カレン、『見つけた』というのは正しくないわ。『出逢った』のよ」

 運命論者のつもりはないのだが、その一部始終を見ていた彼女だからわかる。あの二人は出逢うべくして出逢い、結ばれるべくして結ばれたのだ。ただしそこまでこぎつけたのはひとえにウルフウッドの熱意によるところが大きいと言うことは確かだ。
 いくら子供好きのミリイでも、何人もの養い子を一度に引き受けるようになることについてはいろいろと葛藤があり、メリルもそんな彼女の姿をずっと見てきている。
 ウルフウッドが最終的にメリルのアドバイスどおりに『真っ向勝負』を挑んだのが効を奏したのは紛れもない事実で、そのおかげで彼はメリルに頭が上がらない。

「なーに思い出し笑いしているの?」
 いつのまにか物思いに浸っていたらしい。カレンに頭をこづかれ、メリルは我に返った。そして、結婚相手の話から更に現在の労働条件にまで延々と発展する彼女の愚痴を聞かされる羽目になろうとしていたその時、上司に呼ばれたのだった。



 部長に呼ばれたメリルを待っていたのは、新たな派遣調査の辞令だった。が、
「そんなの信じられません! その件についてはついこの前に終了したはずですわ」
「いや、君の報告はもちろん読んだとも。それを疑っているわけじゃあない。だが、こういった届け出がある以上、我々としては事態を放っておくわけにもいかんだろう」
 その届け出の内容は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードを名乗る者とその一味の犯罪に関するものだった。人間災害相手では被害届は受理もされず、下りる保険金も犯罪と災害では比べようもない。
 ヴァッシュを担当するベルナルデリ保険協会としては事の真偽を確かめなければならないのだ。
 だが、メリルは知っている。その男は偽者だということを。
 本物のヴァッシュ・ザ・スタンピードは今ごろ孤児院の子供達と呑気に昼寝をしているかも知れない。しかしそんな事実が知られれば彼は再び監視される生活に逆戻りだ。彼の名においての犯罪がいまだに起こる以上、それは避けられない。
 結局、わざわざその現場まで行ってその偽者の化けの皮を剥がさないことには、メリルをはじめ関係者には迷惑な事態になる、という事だ。
――まったく、頭の痛いこと……。
 いつまでたっても他人に迷惑をかけることには彼の右に出るものがいないようだ。
「……それでだね、ミリイ・トンプソンの後任なんだが……」
 話はまだ続いていたらしい。メリルも気になっていたことなのでいつのまにかこめかみを押さえていた指を慌てて下げる。
「我が社も人手不足の上、なかなかふさわしい人間がいなくてねえ。外部から臨時で採用することにした」
 メリルは驚いた。
「そんな不用意なことして……簡単に考えすぎですわ!」
 きわめて特殊な人物の存在がかかる問題だ。ことは社外秘問題だけにはとどまらない。いわゆる一般大衆の持つ、人間災害に対する反発はいまだに根強いのだ。キール・バルドウの前例もあるし、他人には任せられない。この際自分ひとりでも、と考えるメリルに上司は意外なことを言い出した。
「いや、この件に関しては心当たりがあると言ってくれた人がいてね。ミリイのご夫君なんだが」
「ではウルフウッドさんが?」
 彼なら心強い。事情も知っているし、何よりも気心が知れている。
「ああ。彼の紹介でね」
「……え?」
 新たに人事考察をする手間が省けたためか、彼の声はやけに弾んでいた。
「あちらの孤児院の職員で腕の立つのがいるそうだ。身元は保証してくれているし、君ともいささか面識があるそうじゃないか?」
「……………ええっ?」




 その後どういう話をしたのかメリルは上の空だった。事務的な連絡事項も機械的にこなし、気がついたら廊下に立っていた。
 とっさに叫んだりしなくて、本当に良かった。これも日頃のセルフ・コントロールの賜物だと感謝する。
「なんで、そーゆー話になるんですの」
 ほかに誰もいないのを(つい性格上)確認して呟いてみる。口にしたらなおさら憤りが倍増した。『虎の威を借る狐』とかいう慣用句があるが、その狐狩りに当の虎と行くなんて、世の中間違っている。
 部長も部長だ。推薦者が牧師様というだけでその肩書きにすっかり騙されてしまった。彼は明らかにただの聖職者とは程遠いというのに、あっさり信じ込んでしまった。
「これだから、世間知らずは……」
 少しばかり世間の辛酸をなめただけではあるが、自分の上司の人の良さを恨むメリルだった。その臨時社員の履歴書は手元に渡されているが、見る気も起きない。何を書いてあろうと、名前など全て捏造したものに決まっている。あそこにいる人間であの牧師に腕が立つといわせる人物なんてただ一人しかいないではないか。

「――はめられましたわ」
 人気のない廊下で握り拳を震わせて呟く。書類さえ持っていなければ両手でファイティング・ポーズでも決めていただろう。
「私に厄介払いさせる気ですのね、ニコラス・D・ウルフウッド!」




 それから出発までの数日が慌ただしく過ぎていった。
 メリルは雑事に終われて事の次第をミリイやヴァッシュに確認することもできず、肝心の顔合わせ兼打ち合わせにさえ代理人として紹介者が出席する始末だ。
「すんません、ヤツちょっとハラこわしてしもて、ええもう、必ず治してゆかせますんで」
 揉み手までして気持ち悪いくらい愛想の良い男に眉間のしわは深くなる一方だったが、さすがに社内で事を荒立てるわけには行かないのでメリルはおとなしくしていた。男もそんな彼女の姿にあえて目を向けないようにしていた。何も知らない部長だけが、上機嫌で話を進めている。
 しかし一見友好的な室内も、上司が席をはずした途端に二人ともそれまでの表情を一変させた。
「ああぁらお久しぶりですことニコラス・D・ウルフウッドさん本日はどなたかの代理人だそうで」
 一息に言い放つ言葉声顔つきいちいちとげがある。よそよそしいまでの挨拶の裏には、今までどこに逃げ隠れていたのという非難が含まれているのは言うまでもない。
 一方男のほうは、一応おとなしくしてはいるが、どこか余裕のある顔だ。
「まあまあ、あいつをここに来させるわけにはゆかんて。仮にも敵地やで」
 終わりのほうはこっそりと声を潜めている。この男がこのように芝居がかったことをするときはいつでもろくなことがない。いつのまにか相手のペースにはまってしまうのだ。
「敵地ねえ」
 今まで散々尻拭いをさせてきた相手を敵呼ばわりとは。ほおぉと目を眇めると、ウルフウッドは「仮にや、仮」と言い足した。
「どうしてヴァッシュさんを推薦したりしたんですの。いきなり言われた私がどれだけ混乱したか、あなたわかりまして?」
「せやかて、仕事の内容はあんたの護衛やろ? これ以上ない適役やないか」
「どうせミリイとの新婚気分を邪魔されたくないんでしょうけれど。でもいざとなったとき私一人であの人を抑えるなんてできっこありませんわ。第一二人きりで…」
 言いながらはたと気がつく。気心が知れているとはいえ、男性との二人旅……。この重大さがわからないなんて、周囲のデリカシーのなさにあきれ返るばかりだ。
「や、それはない思うてる」
「はい?」
 すかさず背中に手が伸びる。
「いや、その銃しまえや。てか、なんで社内で銃背負ってんねん?」
「もちろん、あなた対策ですわ」
「うわ、ひど。って、そうやのうて。かえってあんたがいてくれた方がヤツも責任感じるやろ。それに、何かと用事を作ってやらんと。……あそこはヒマすぎるんや」
 のんびりとした日常は、平和主義の男には似つかわしい。しかし時間だけが有り余っていると、人は要らないことまで考えるようになってしまうものだ。そして彼の過去はいくらでも心の隙間に入ってこられるほど、複雑で濃密なのだ。

 しんみりとしたウルフウッドの言葉を聞き、メリルは深くため息をつく。自分はなんでこうこの男どもに甘いのだろう。
「わかりました。つまり……」
 きっとこの甘さにはヴァッシュに対する自分の情が関係しているのだ。
 しかし今はそういった内なる事情もひっくるめて目を瞑り、簡潔なひとことで結論づける。

「コキ使ってやれ、と言うことですわね」
「……そういうコトや」

 数分前までのことはなかったかのように、二人は共犯者の笑みを交わしていた。


+++++++++++

君の右手を離さない(2)


 そして牧師の被害者はもう一人いた。

「あれー、なぁんで君がいるの?」
 久しぶりに再開して第一声からこれでは力も抜ける。やはり一度でも事前に本人と話をつけておくべきだったと彼女は少し後悔した。
「なんだ、護衛って、保険屋さんのことだったんだ。ウルフウッドったら『簡単な仕事』としか言わないからさあ、一体どんな相手かと思っちゃったよ」
 今は下りている明るい色の前髪をかき上げながらあははーと笑う男の背後で、あさっての方向を見ている黒衣の男が見える。一瞬びくりと身を竦ませたのは、こちらの殺気が届いたからだろう。

――ミリイ、あなたダンナ様はきちんと教育しておかないとだめですわよ
――もちろんこれからきっちりとやります、センパイ

 逃げを打とうとするその腕をがっちりとホールドする後輩と目で会話をしている様子に、ヴァッシュは困ったように笑った。
「な? 子供達の前でも仲いいんだあの夫婦。あんなにぴったり体くっつけて腕組んじゃってさ」
「……はあ、そうですか……」

 気のない返事をして、メリルは改めて目の前の男に視線を移した。どうやら彼には友人にはめられたという自覚がないらしい。自分にも彼にも、貧乏くじはいつまでつきまとうのだろうか。そう考えると情けなさすら覚えてくる。
 しかし前金も支払ってある今になって後戻りができるはずもなく、メリルはあえて事務的に事態を進展させることにした。
 すなわち。
「ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフです。今回はよろしくお願い致します」
 名刺を差し出したのである。




 牧師夫妻に見送られて定期長距離バスに乗り込んだ二人は、そこではじめて今回の仕事の打ち合わせをする羽目になった。代理人だった肝心のウルフウッドが、仔細をヴァッシュに何も伝えていなかったからである。
「まったく、あの人ときたら職務怠慢もいいところですわ」
 口で文句を言いながらも書類をめくる手は止まらない。そんなメリルを男がどこか懐かしそうに見ていることなど、すっかり仕事モードに入っている彼女は気がつかなかった。
「行き先も聞かされずに、あなたもこんないい加減さでよくこの仕事をお受けになりましたわね」
 問いかけるメリルの方は見ずに、男の目は宙を泳いでいた。人差し指がぽりぽりと頬をかく。
「……あ、話したくなければ、別に無理にとは……」
 気まずさにその場をとりつくろおうとするメリルだったが、間もなく彼は口を開いた。
「んー、なんかねー。……オレってほら、居候じゃない?」
 逡巡しながら言葉を選んで少しずつ話し出す。微妙に歯切れが悪いのは、あの場所での自分の立場を物語っているかのように彼女には思えた。
「仮にも新婚家庭だしさあ、いくら子供達の相手にって言ったって、このまんまじゃ只のごくつぶしだしさ」
 唇の端だけを上げる、諦めに似た笑みを浮かべる。かつて、幾度となく目にしてきた表情。
「ヴァッシュさん……」
「それでね、ウルフウッドに仕事を探してもらったんだけどさ。ヤツ、護衛の仕事を見つけたって言うんだよ。そんなに素性とかうるさく聞かれない仕事でややこしくないからって言われてOKしたんだけど、それがまさか君の手伝いで偽ヴァッシュ・ザ・スタンピード退治とはね」
 今度はどことなく楽しそうな、からかいの混じる笑顔でメリルのほうを向いた。いきなり向けられた笑顔に思わず視線をはずしてしまい、それを隠すかのように憎まれ口をきいてしまう。
「何言ってるの、充分ややこしいですわよ……その退治がお嫌なら別に構いませんのよ、この話降りてくださっても。私一人でもできるような仕事でしょうから」
「イエ、そーゆー訳にはいきません。ちゃんと働かせていただきます」
 だってもう前金もらっちゃってるしね。などと言いながらも実はかなりうきうきしているようだった。この分だと彼にとっていい気分転換になるだろうとメリルは安堵した。
 しかしそれでも例の服も腹も黒い男への怒りは収まらずに八つ当たりしてみたりする。
「よろしい。そうと決まればビシバシこき使いますからね」
「ええっ? それはちょっと……」
「えーじゃありません。あなたの雇い主は?」
「……ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフさんです……」
 こういった言葉の応酬もそういえば久しぶりだ。社内にいるときとは別人のような自分に少々驚く。
 回りの期待を裏切らないいわゆる品行方正な自分と、ヴァッシュやウルフウッドに対して口うるさく強気な自分と。どちらが本当の自分なのだろう。
 できれば前者でありたいと、内心願うメリルである。

「あ、そうそう。宿なんだけどさ」
「はい?」
 そういった条件面で、ヴァッシュから言ってくるのは結構珍しい。しかもそれはメリルが内心気にしていた話題で、実はいつ切り出そうかと気になっていた。
「オレ、椅子とかでも寝れるから、無理してシングルふたつ取らなくていいからね」
「……はい?」
 まるで食事のメニューを決めるときのような口調である。一瞬あっけにとられ、直後に茹で上がった。
「どっ、どういうつもりですか?」
「へーきへーき、オレそーゆー方面はめっきり淡白だから安心してよ」
 右手を顔の横に上げて「誓います」と言う姿は本気なんだかふざけているんだか、混乱している彼女にその真意が読み取れるはずもなく。
「どの方面の話ですか! 軽軽しくそういうことは口にしないで下さい!」
「あ、やっぱ怒るか」
 あっさり引き下がる、その引き際も悔しいほどに手馴れている。不完全燃焼の怒りの持って行き場を失って、メリルは恨みがましい声をあげた。
「……簡単にそんなことは言わないで下さい。もちろん経費節約は大事ですが、それとこれとは話が違います」
「簡単ってねえ……。それじゃ、複雑な話をしてあげようか」
 意味深に微笑う、その口元につい目が吸い寄せられた。
「え……?」
「うん、あとでね」
 この後新たな会話のきっかけもないまま、バスは夕刻に次の町に停車した。




 プラントに頼っていなくても、こういう長距離バスが停車するだけのことはある。そこは比較的大きな町だった。宿屋も数件あり、メリルたちが取った部屋は狭いながらも居間とシングルのベッドルームの二間続きのスイートだった。
 もちろんヴァッシュに言われるまでもなく、シングルルームふたつなどと言う贅沢は許されるはずがない。宣言通りソファで寝ることになったヴァッシュはベッドルームをメリルに譲り、夕食後は早速ラフな格好に着替えた。
「いや、それにしてもあのオヤジ……」
 階下で買い込んだ酒を手に、彼はチェック・インのときのやり取りを思い出してくすくす笑っていた。
 主人が余計な気を利かせて、最上階の新婚用デラックス・スイートに案内してしまったのだ。フリルでいっぱいの甘いパステル・ピンクに統一されたダブルベッドを目にするなり、メリルは猫のように毛を逆立ててフロントに怒鳴り込んだ。
 幸い部屋はすぐに替われたのだが、その中年男はヴァッシュにとても気の毒そうな目線をよこして来た。しまいには娼館のチラシまでこっそり差し入れてくれたのだった。
――そんなにオレ、不自由しているように見えるのかなぁ……?
 うーん、と唸ってみる。一応これでも満ち足りてるんだけどなあ……。

 そりゃあ、ゆったりと流れる時間もいいけれど、何か物足りないとは思っていた。でも、そう思ってしまうことを申し訳ないとも考えていた。
 そこを出てきたしばらくぶりの旅は、彼には少し新鮮だった。きっと、連れが今までとは違うからかもしれない。
 これまでいろんな旅をしてきたけれど、さすがに女性との二人旅は初めてだ。……女性?
――そうだよ、女性なんじゃないか!
 今更ながらその事実を突きつけられ、彼はたじろいだ。
「……バカか、俺は」
 過去のこともあって、仲間と言う意識のほうが強すぎたらしい。また自分がそういったことにもともと無頓着だったせいもある。バスの中では何も考えずに言ってしまったが、あれではメリルが機嫌を悪くするのも無理はない。
「うーん、どうやって謝ろう……。やっぱ、あのこと全部話すべきなんだよなぁ……」
 ベッドルームからのノックの音を聞きながら、ヴァッシュは頭を抱えた。





+++++++++++++

君の右手を離さない(3)


 自分の目の前にいる男が実は人間とは違う生き物だということは頭では理解していたし、それを裏付ける事実もいくらでも数え上げられる。だが、その身体的な違いなど、一見しただけで判別できるものではない。ましてや、生理的な本能など……。

「……つまりね、子孫を残そうっていう考えが欠けているわけ。身体のつくりからして、遺伝子を残すように造られていない。そのための機能がないんだ。ほら、ほかの兄弟たちは一人でも勝手にいろいろ産んじゃうしさ、俺らの立場ないってゆーか、しょせん突然変異だし?」
「はあ……」
「まあ、簡単に言うと、タマるってことがないと……ぐッ、なんでぶつの?」
「下品な言い方しないでください!」

 いろいろと言葉を変えてはいるが、結局のところプラントでありながら男性形という特殊な彼の身体はいわゆる『利己的遺伝子』の働きがほとんど見られないらしい。
 人類をはじめとする生物のオスがほぼ一生精子を作り続けて子孫を残そうとするのに反して、カモフラージュのためか皆無とは言わないまでも、彼の身体機能では明らかに生成量が少ないのだという。従って、性欲と言う面でも非常に淡白な方だと言える。
 しかし、そういった自己申告も信用されにくい場合がある。
「でも、あなたあちこちでずいぶんと美人に言い寄られていませんでした? しかもまんざらでもなさそうで」
 とメリルが追求するのだが、男は
「そりゃー、俺だって気持ちいいことは好きだもん」
 いともあっさりと肯定した。
「誰だってそうでしょ? で、どうせそーゆーことになるんなら、相手はきれーな顔でやーらかい体のほうがいいじゃない」
 当然のことのように話すが、そのあたりがメリルには理解できない。気持ちいいことイコールセックスという考えは男性特有のものだと思っている。彼女自身、そちらの方面は淡白だった。
 考え込んでいる彼女を見て、ヴァッシュは何か誤解をしたらしい。
「あ、いや、別に君が美人じゃないって言ってるんじゃないから。……それともひょっとして、俺がもてるんで妬いて………ゴフッ」
 強烈なストレートパンチを炸裂させて、メリルはベッドルームに駆け込んだ。鍵のかかる金属的な音が狭い部屋にやけに響く。



「まいったなぁ……」
 殴られた勢いで椅子ごと倒れてしまった男はゆっくりと身を起こして顎をさする。
 身長の差もあって、彼女のパンチはいつも視界の外から不意に入ってくるのだ。今まで何度か同じ目に遭っていたというのに、久しぶりのことで油断した。
 威力やスピードなどはたいしたことない。むしろヴァッシュにとっては子供同然だが、予測不可能な入り方をするので派手なリアクションになってしまう。今だって慌ててしまってよけそこねたのだ。
 誰も見ていないのに、つい照れ隠しに笑ってしまう。
「まったく、相変わらずだねぇ」
 しかしそんな事柄ひとつをとっても、ヴァッシュはメリルの「変わらなさ」に安心していた。ここに来るまでの間だけでも、仕事の話をしているところ、バスのほかの乗客とのやり取りなど、彼女のしぐさ一つ一つを懐かしい想いで見ていた。
――懐かしいって言ったって、大して前のことじゃないのにねえ、俺にとっちゃ。
 そう自嘲する彼がメリルを見つめるときにどんな表情をしていたのかなど、見られていたメリルは勿論、ましてや当のヴァッシュも気付いてはいない。


「まったく! あのひとときたら!」
 あんなに下品な人だったかしら、と彼女は頭から湯気を吹きそうな勢いでベッドに飛び込んだ。効きの悪いスプリングが小さく抗議の音をたてる。
 しばらくそのまま怒りが収まるまで枕を抱えていたが、収まり始めた感情は激しい後悔となってメリルに襲い掛かってきた。
――だからといって、手を出すことではなかったわ……。
 つい、あの頃のようにかっとなってしまった。まったく進歩していない自分に嫌気がさす。
 ヴァッシュは悪くない。大事な話――身体の秘密――を打ち明けてくれたのだから。あのふざけた物言いも、トップシークレットである重い話題を考えてのことだったに違いない。それなのに……
「私、真面目に聞いていなかったかもしれないわ。あんな意地悪も言ってしまったし」
 散々自分を責めぬいた挙句にやはり謝らなくてはと決心したときには、すでに夜も更けていた。しかし隣はまだ起きていたようで、ノックをすると返事がある。

 男は飲みかけだったグラスを置いてドアへ歩み寄った。しかし「開けなくて良い」と言う。
「なあに? 忘れ物じゃないの?」
「い、いえ、……あの、さっきはごめんなさい。まだ痛みますか?」
 この心細そうな声の主が板一枚隔てた向こうでどんな表情でいるのか、ヴァッシュには容易に想像ができた。またいつものように弾みでやってしまったことを自分で責めていたのだろう。
 そういったところも変わっていない。ヴァッシュは微笑した。
「うん大丈夫。君のパンチっくらい大したことないって。えっと、次はあさってだっけ?」
「ええ。乗り換えたバスで現地入りですわ」
「そうだったね。それじゃ、明日はゆっくりできるってわけだ」
「この町で足りないものを買い足せば良いと思います。この先にもここみたいに大きい町があるとも限りませんし」
「てことはやっぱり、荷物持ち?」
「よろしくお願いしますね」
「…は~い」
 会話を進めるうちに二人の間のギクシャクした空気が和む。一瞬、もう一度彼女を部屋に招き入れて一杯誘おうかという思いがよぎる。が……、
「ええと、それじゃ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
 そのドアは開かれることなく、二人はそれぞれ寝床についたのだった。






「ここ……ですわよねえ…?」
「そのようだねぇ……」

 小さなジオ・プラントの恵みを受けた町。それを背に数十分歩いてきた二人の目の前にあるのは、小高い『森』だった。

 背後の町にあったプラントを積んでいたらしい『船』の残骸に、どういった訳か植物が付着してそのまま根をおろしたらしい。多い茂る葉や伸び放題の枝茎の間からわずかに見える無機質な合金部分が、太陽の光を反射して不規則に光る。砂漠の真ん中に忽然とあるその姿は、風が葉を揺らす爽やかな音と木陰と光る外壁の違和感も相まって、酷く現実味に欠けていた。
 砂地に自生する植物はわずかだがメリルも見たことがある。しかしこのように地面以外に生息するものは生まれて初めてだ。
「これって、突然変異、なんでしょうか……。ねえ、ヴァッシュさん?」
 ヴァッシュもこのような現象は初めて見るようで、しばらく呆然と眺めていたが、
「すごいや……」
 だんだんその眼が輝いていくのを隣でメリルはじっと見つめていた。
「ねえ、すごいよこれ。自然ってすごいなぁ。ちゃんと自分で生き延びる道を見つけていけるんだ」
 しきりにすごいを連発する。よほど嬉しかったのか、しまいには目元を指で拭っている。
「これはほかの場所にも移せるかな。この金属と気候が関係しているのかな。みんなに教えてあげなきゃ。ね?」
 宝物を見つけて子供のようにはしゃいでいる彼を眺めながら、メリルは自分が母親のような心持ちになっているのを自覚した。
 彼にしてみれば、この砂漠だらけの星で新たな進化を遂げた植物は人間が生き延びる道を示すきっかけのひとつになるかもしれないのだ。しかし、今の彼女にはそのような大それた理想よりも、今ここに自分達が来たその理由のほうが優先順位である。
 それでも彼を怒る気になれなかった。再会してから今までの彼の表情をずっと見てきたから、心から嬉しそうに語る今の彼の顔を見ていたかった。その笑顔を目にして初めて再会の実感が湧いてきたのは、なんとも不思議だった。


 しかしどれだけヴァッシュが感動しても、ここが例の偽ヴァッシュ・ザ・スタンピード一味の根城だということは間違いない。この場所の特異性を利用して旅人などを誘い込んでは、殺害して金品を奪うという手口だそうだ。
 そもそも、相手は名ばかりが先に立って、実態はまったく掴めていない。今までに調査に入った誰一人としてその任務をまっとうできず、死体或いは廃人となって戻ってきた。
 付近の町の住人は直接の被害はないものの、いつその矛先が自分達に向くのかと戦々恐々としている。
――そんな厄介な仕事、回さないで欲しいものですわ。
 しかしメリルはそれほど悲観してはいなかった。何しろこちらには本物がいる。
「それじゃ、よろしくお願いいたしますわ」
 男の背中をぽんと叩く。「ええーっ?」という彼の声はあえて無視する。
 なんだかんだいっても、ヴァッシュのことを信頼しているメリルだった。




++++++++++++

君の右手を離さない(4)


 二人して薄暗い内部に入ったが、予想された銃撃はなかった。かえって外気の熱が遮断されて、とても快適だ。
 かつて通路だった場所をゆっくりと進む。ここにも植物の一部が入り込んでいる。メリルもかつて移民船の中を見てはいるが、そのときの記憶などまるで通用しない。
 メリルより詳しいはずのヴァッシュでさえも、構造がわからないと言う。墜落の衝撃で全体がひしゃげた上にこの植物だ。「オレだってこんなの初めてだよ」と、まったくのお手上げ状態だ。

「……来ませんわね」
「たぶん、ここの造りを利用して待ち伏せているね。それともどこかに誘い込もうとしているのかな……?」
「どこかって、ずっと一本道ですわよ?」
「それがイヤなんだよねー。『いかにも』じゃない?」
 そして。
 通る人間の警戒心が薄れるほど歩きつづけ、数えるのも嫌になった幾つめかの角を曲がると。
 唐突に隔壁が下りていた。
「行き止まり?」
「しまった!」
 とっさに二人が踵を返した瞬間。

 足元の床が消えた。



 落下の衝撃は、ここにも生えていた根や蔓で緩和された。しかし、
「……ってー、あまり高いところじゃなくてよかった。どこか痛めた?」
 即座にメリルをかばったのはいいが、受身は万全でなかったらしい。
 腕の中で身を丸めて目を瞑り、それでも気丈に「平気です」と応える彼女は、ヴァッシュを少しだけ安心させた。

 敵はまだ何も動きを示さない。獲物をここまで追い込んだというのに。それともまだ先に何かあるのか。
「それじゃ、ちょっとここにいてね。様子見てくるから」
 ヴァッシュはそう言い置いて、走り出した。

 腕の中の、守るべき存在をそこに残して。







「ここにいてね」

 そう言った後、駆けて行く足音がした。なにやら暗くてそんなに広くはなさそうな室内なのに、音の反響がやけに悪い。
――葉のせいかしら……?
 メリルは手近な茎につかまって立ち上がり、そして。
 改めて周囲の状況を知った。

 暗い。自分が本当に目を開けているのが信じられない。顔の前にかざした自分の手指すら見分けられない真っ暗闇だ。無駄だとわかっているのに目を一杯に見開いて、両手を伸ばして、そんな自分の努力をあざ笑うかのように身体ごと闇が包み込む。
 自分の輪郭が曖昧になってゆく。
 表皮から溶け込み、体内に侵入される。

 黒く、犯される―――

「………いや」

 つぶやいた筈の口から声は出ない。
 足に力が入らない。ぺたりとその場に座り込む。しかし、床は本当に「そこ」に在るのか。
 上下左右そして時間の感覚すらも闇に呑まれ、彼女はそれだけが現実と信じて、自分の身体を抱きしめた。


 私は一体、どこにいるの――?








 地の利と大掛かりな仕掛けに頼りきっていたせいか、勝負は意外なほどあっさりとついた。
 もっとも、偽者に倒されるようでは本物の価値はない。

「……あのねぇ、ニセモノ騙るにしても、もうちょっと名前選んでよね」
 そういう本物のヴァッシュの周囲で肩や手足を撃ち抜かれてうずくまっているのは、主犯格の金髪と赤いコートの男と、それから黒スーツの男たち。その一味を見ながら独りごちる。
「あーあ、ウルフウッド怒るだろーなー」
 そりゃあ、一緒くたにされたら怒るか。
「このことは黙っててもらおう、うん」
 ひとりうなずき、男たちの止血および捕縛をしていった。最後に赤コートの自称ヴァッシュに近づく。
 腕を撃たれた痛みにうめいている男の傍らにしゃがみこむと、食いしばった歯の間から吐き捨てられた。
「さすがに、化け物、だな!」
「……うーん、久しぶりだねぇそう呼ばれるの。でも、そーゆーのの真似をしているキミもどうかと思うよ」
 そう言いながらも手は止めない。
「――なんでッ、テメエは平気なんだ! あの部屋から正気で出てきた奴なんていねぇのに……」

「なん、だって?」
 そういえばさっき落ちた部屋はやけに暗かったような……
「――そうか!」
 メリルが独り残されている。
 暗闇の中で。

 ヴァッシュは駆け出した。







 こわい こわい   こわい
 いいえ 怖くなんかないわ
――センパイ、さすがです すごいです
 ありがとう これからも頑張りましょうね

――たよりにしているよ
――おねがいね
――たすかるよ

――メリルなら大丈夫だね
 私は大丈夫 だからみっともなく泣いたり そんな弱々しいことはしないの

――メリルはしっかりしているから
 私がしっかりしなくてどうするの みんなのためにしっかりしなくてはいけないわ



 でも、  …………ここはどこ?
 どのくらいここにいるの?
 私はちゃんと立っているかしら? 両足の下に地面はあるのかしら? なんかふらふらして頼りないわ
 たよりないメリルは   メリルじゃない


 じゃあ、  ここにいる私は、         だれ?
 何もない   何もない       なにもない
――君はひとりでも平気なんだね
 ここには だれも ひとりもいない
 私もここには いない
 こんなわたしは  メリル  じゃないから

 ここにいるわたしは ただのわたし
 目をつぶって耳をふさいで 自分の心臓の音 ほら ちゃあんと動いている
 もっとよく聞こえるように小さくなって
  小さく 小さく   ちいさくなって


    ここに メリルはいない


       ここに  いる の は   ただ  の    わ た し








「メリル!」

 起伏のある床を何の躊躇もせずに走り抜ける。
 常人よりも自分がよく「視える」ということを失念していた。これは自分の落ち度だ。


 この星は明るい。太陽と月あわせて七つの天体が昼夜絶え間なく地上を照らす。新月の晩もここでは年に一度あるかないかだが、そのときは星々が代わりに夜空を飾るのだ。
 だからこそここで生まれ育った人間たちは、本能的に暗闇を恐れる。文明が発達しにくいこの環境では人工的に作られた闇ほど人々の恐怖をあおるものはない。

「メリル!」
 返事がない。気を失ってしまっているのだろうか。それならまだいい。心までが闇に捕りこまれてしまったとき、果たして自分は彼女を救えるのだろうか。彼女の、心を――
「返事をしてくれ、メリル!」
 激しい焦りの衝動に突き動かされ、みたび声をあげる。

 はるか昔に失った優しい笑顔がいくつも脳裏に浮かび、そして次々に過ぎ去っていった。
 あのときのような喪失感は、もう要らない。

 きっと今の自分は泣きそうな表情をしていると自覚しはじめたころ、その眼が彼女を捉えた。
 闇の彼方、ひざを抱えて丸くなっている。
 白い服をまとったそれは、卵か繭の中でじっと眠っている小さな生き物のようだ。

 名を呼びながら駆け寄ると、怯えるように更にその身を縮ませた。手をとられるのを嫌い、何も聞きたくないとばかりに耳をふさぎ、いやいやと首を振る。
 普段の彼女からは想像もつかないほどに緩慢な動きに胸が痛む。
 しかし五感が失われているわけではない。彼女が拒んでいるのは自分を取り巻くもの。その中心にはまだ彼女が生き残っている。
 いつも自分の足でしっかりと大地を踏みしめていた、誇り高い彼女が。

 周囲の闇に溶かされまいとしているその姿を見て、ヴァッシュは決心した。

 これ以上闇の世界には行かせない。




++++++++++


君の右手を離さない(5)


    「     」

 何か音がする。
 そんなはずはない。何も聞こえないのだから。
「       」       ―――リル
 ひどく間があいて、人の声のような気がした。
――ここにはだれもいない  きこえるはずがない
「          」 ――メリル
――いや  さわらないで
 闇の中からのびてくるものを振り払う。しかししつこくまとわりつく『それ』は、彼女の手足を順に触ってゆく。
 だが不思議と不快感はなかった。

 その感覚の正体に考えが至る間もなく、強い力で拘束された。
――はなして
「………ね」
 必死に突っぱねようとするが自分は弱くもがくばかりで、身体にかかるその力は衰えない。
「ごめんね……」
 抱きしめる『腕』がやけにあたたかく感じられて、彼女は初めて自分の身体が冷え切っていることを知った。
「独りぼっちにさせて、ごめん」
――この声………?

 あとになって内容が追いついてくる。この『腕』は何を謝っているのだろう。
「もう、ひとりにさせないから」
 どこから聞こえるのだろう。
「俺が、いるから」
――おれ……?
 この声は憶えている。「メリル」はこの声に何度も助けられた。
 今のわたしも、助けてくれるのかしら―――
「ここに、いるから」
――ここ……?
 再び腕の力が強まった。頭が温かい、固いものに押しつけられる。しかしそれは充分な弾力があり、彼女はそこから直接声を聞くことができた。
 もっとそれを感じたくて意識をそこへ向けてみる。声に混じって自分のものとは違う鼓動が聞こえた。

―――――ここ  に、 いる………!

 彼女――メリル――はようやく自分を抱きしめる男の胸に身を任せることができた。



 こわばりの解けた小さな身体を見おろし、男も緊張を解いた。どうやら一時的な閉塞状態は脱したようだ。あまり強引なこともできずに心配していたが、うまくいって良かった。これで戻らなかったらと考えると、背筋が凍る。
「……えっと、落ち着いた?」
 恐る恐る声をかけると、小さい返事とうなずく気配があった。
「こえが、でな……」
 長い緊張のせいで咽喉が嗄れてしまったのだろう。
「いいよ、喋らないで。とりあえずよかったよ、たいした怪我がなくて」
 身体のほうは――と内心つけ足す。
「ごめんね、来るの遅くなって。こんなところに独りで怖かったでしょ」
 すると、憮然とした声が返ってきた。
「そんなこと、ありませんでしたわ」
 予想していたとおりの強気な反応にヴァッシュは嬉しくなった。凛とした彼女にまた会えるとわかっただけで涙が出そうになった。
「そっか。でもよかった。本当に、良かった」
 普段どおりの君にまた会えて。




 男があまりにも繰り返すので、その「良かった」がメリルにも伝染ってしまったようだ。
 やっと自分を取り戻せたという実感が彼女を包んでいた。
 まだ身体は少し震えているけれど、まだ目を開けるのにはためらいがあるけれど、ここにはこの人もいる。
 確かに言ったのだ。ここにいる、と。

 しかし、その声がいつの間にか湿り気を帯びているのには驚いた。この男の涙もろさを忘れていた。
 それまで伝染してしまっては困る。手探りで顔を拭くものを探し始めたところで、くぐもった声がした。
「こんな暗いところで、ずっと独りで、」
 その先は聞きたくない。言葉に呼ばれるように胸の奥から何かが湧き出す。
「よく、頑張ったね。我慢したね」
――だから、聞きたくなかったのに………!

 表面張力ぎりぎりまで充満したそれは、あっという間に溢れ出した。



 一瞬の呆然ののち、ヴァッシュはそっと苦笑した。声を殺して本人は隠しているつもりのようだが、こんなに身体を密着させていればいやでもわかる。
「泣いてたの、オレの方だったのに……」
 逃げる身体を両腕で包みこむ。
「…やっ、見ないで……」
「大丈夫、誰も見やしない。こんなに暗くちゃ、見えないって」
 相変わらずのつよがりに微笑がもれる。困ったことに自分はこの小柄な女性の抱え込んでいる矜持にすっかり、とことん、参ってしまっているらしい。
「ごめんね。オレもひどい男だよね」
 女を待たせて、つらい思いをさせて、挙句の果てに泣かせて。
「許してくれなんて、言えないね」
 だから代わりに。
 決して顔を上げたがらない彼女の髪や背中をゆっくりなでてあげよう。
 きっと泣くのには慣れていないから、その分思いきり泣かせてあげよう。

 ――そして、ひっそり願う。
 その涙は俺が拭ってあげられるといいのだけれど。




 メリルは悔しさと情けなさでいたたまれない思いで一杯だった。
 あの闇の中では、全身が震えこそしたが泣くようなことなど何もなかったというのに、今の自分のこの弱さはどうだろう。
――ひどいひと……
 この男のせいだ。この人があんなことを言うから……
――よくがんばったね……
 それで自分はおかしくなったのだ。

 悟られたくはないけれど、きっと自分のこの変化には気付いているのだろう。まるで子供をあやすかのように手が身体をなでている。
 訳もなく悔しくて、拳で男の胸板をたたく。びくともしないからだが「痛いなぁ」と笑った。その反応がやけに嬉しかった。
 そして、叩いたのと同じ手で彼の胸にすがり、メリルは初めて泣き声を漏らしたのだった。





 この事件の事後処理には、当初の予想よりもはるかに日にちがかかってしまった。何しろ事情聴取よりも先に犯人達の治療が行われたのだ。
 さすがにヴァッシュが彼らの命を奪うことはなかったのだが、一味のうち数人が出血多量のために重症となってしまった。

「あんた達ねえ、解決したんならしたって、早く言ってくんなきゃ。まったく、何ぐずぐずやってたの?」
 要請を受けてやってきた初老の保安官は、肝心の参考人聴取よりも長い時間をかけて二人に小言を垂れた。
――何って、ねぇ……
 事実からすればはぐれた仲間の捜索をしていただけなのだが、言葉を濁し困ったように視線を交わす男女の組み合わせに、その目は明らかに疑っていた。
「……ま、程々にな」
――ホドホドって何をだ……ッ!?






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 その町を上空から見ると、廃屋と化した小さな教会を中心に新旧二つの町がちょうど集合の図形のように重なっているのがわかるに違いない。
 かつてここにはふたつの勢力があった。先にここに定住し町を作った家と、外から流れ着いて力をつけた家と。彼らは長い間抗争を繰り返し、そして若い勢力のほうが生き残った、ここはそんな町だった。
 旅人からは新しい家並みしか目に入らず、その先にあるはずの教会も鐘楼は半ば崩れ落ちて近くまで行かないとその使用目的すら判別できない。更に奥にあるのはゴーストタウンとしか呼べない廃墟だ。住人たちももう今ではそこに人が住んでいたことすら覚えてはいない。






 彼らが旅の途中で立ち寄ったそここは、ちょっと大きな屋敷(ここの実力者ものものだ)と、その恩恵にあずかろうという人々の家で構成されていた。
 町唯一の宿屋兼酒場には、雛にはまれな美人の歌姫がいた。

 よくある話だ。その歌姫が旅人に声をかける。
「お願い、この町から連れ出して」
 この場合、旅人がどういう反応をしようが、大抵は彼女のパトロンである実力者の反感を買うものである。彼は当然、プライドをかけて旅人の排除にかかる。


 問題は歌姫ヘルヴァの目に止まった旅人というのが、――たとえ傍からそうは見えなくても――伝説の賞金首だった点にある。そして、町の住民全てが実力者ナイアルのファミリーだったことも。

 ヴァッシュ・ザ・スタンピードと関わる以上、全ての人に災いは降りかかる。それは道連れの他の三人も同様だ。彼と共にいる人間が幾ら無関係を主張しても、その意見が無駄になるのは判りきっているのだ。
 かくして四人対住民の追いかけっこが始まった。のどかな声の「こんなのどっかの町でもありましたよねー」と言う発言に誰も何の意見も出せないほど慌しく。
 土地鑑のない自分達に対し、地元民の相手ではあまりにも数が多い。追っ手から逃れるためにくじ引きで二手に分かれた。

 そして。




「まさか町全体が一味だったとは、思っても見ませんでしたわね」
 走りこんだ廃屋の壁にもたれて、息を整える。背後を数人の足跡が遠ざかっていった。
 どうやら相手を撒くことには成功したらしい。メリルと同じく外を窺っていた黒衣の男もようやく緊張を解いた。
「まったくや。しかもあのダァホ、反撃せんと『逃げろ』言いよる」
 心から残念がっているその様子におかしくなって、彼女はちょっとした意地悪を言ってみたくなった。
「ほんと、残念でしたわね。お相手が私で」
 薄暗がりの中でもわかるほど、男はぎょっとしてこちらを向いた。
「バレとったんか!」
 あの時戦力のバランスを取るために男女のペアに別れようと言い出したのは、確かに最初「逃げる」と言い出した男だった。それを受けてこの牧師がくじを作ったのだが……。
「……やっぱりね。あんなの作るのに妙に時間がかかるとは思ってましたわ。大方ミリイと……」
「っだーっちゃうちゃう! そんなっ、どっかにしけ込もうなんて、思っとらん!」
 大慌てで否定したのが、かえって図星だったのを知らしめている。女は声を殺して爆笑するのに苦労した。
 彼女の連れと、このウルフウッドは非常に仲が良い。それが本当に愛だの恋だのと呼べるものなのかについてはまだ決まったわけではないらしい。
 少なくとも男のほうは『そういうこと』に長けているようなのだが、何しろ、
「あの子、ぼけぼけですからねぇ……」
 頬に手を当てて、ふうとため息をひとつ。つられてウルフウッドもしゃがんだままはあぁぁと長い息を吐く。
「……そおやねえ……あそこまであっけらかんとされると、なんやこっちがほんま、キッタナイ大人なんやなぁって思い知らされるわ」
 その言葉につい声が弾むメリルだった。
「まあ、その気はおありなんですのね。それでしたらあーゆータイプは真っ向勝負が基本ですわよ」
「おいおい嬢ちゃんー何なんやそらー」
 そうやってしばらく情けない男の声に面白がっていたのだが、やはり女として、ミリイの先輩として言っておかなければいけない言葉もある。
「でも、もし泣かせたら承知しませんからね。よろしくて?」
 最前とは打って変わって真剣な物言いである。
 自分の持つ大きな十字架にそんな小さい銃なんかでは到底かなわないだろうに。ウルフウッドはくすりと笑った。あの娘は本当に大事にされている。
「あんた、そそのかしとんのか止めとんのかどっちやねん。ま、ええわ。ワイかてふざけとるつもりはあらへん。そのうち、な。全ては神のお導きや」
 男はよっこいしょと身を起こし、外の様子を再び窺った。危機はまだ完全には過ぎ去っていないのだ。
 そんな姿をメリルは眺めていた。どこまで本気なのか相変わらず読めない。
 読めないといえば。もう一人、他人に本心を読ませない男がいる。此処にはいない、もうひとり……。
 メリルのそんな思いに気付いたのか、殊更に明るい声が言った。
「そういえば、あっちはどうなっとんやろなぁ。なあ嬢ちゃん、ほんとはあんたも組み合わせが逆やったら良かったんと違うか?」
 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。さっきの意趣返しのつもりか。
 こうなるとこの男は格段と楽しそうになる。揚げ足を取られないようにしなければならない。
「わ、私では足手まといになってしまいますもの。それに、スタンガンなら必要以上には相手を傷つけませんし……」
 手元の小銃に目がいってしまう。男も同じものを見ているらしかった。
「せやなぁ。あのバカでっかさで必要以上ってのは無理があるが、それでもトンガリも余計な目くじらたてんでええやろ。ただなあ……」
「ただ?」
「あの二人で建設的に会話ができるんかなあ? ボケが二人おってもなぁんにもならへんやろ。せやから組み合わせが逆や言うたんや。間違うとるか?」
 熱弁を振るっているのがおかしかった。これはこれでこの男なりの慰め方かもしれない。
 人間台風の不器用な生き方に対してやりきれない思いを抱いているのはこの男も同じなのだから。
 しかし、また話題が元に戻ってしまうのはメリルにとっては不利以外の何ものでもない。案の定、
「それで? ヤツとはどうなんだ?」
「どうって……」
 急に『どう』もへったくれもない。まだ、何もはじまってすらいないのだから、改めて訊かれても困ってしまう。黙り込んでしまったメリルに男は続けた。
「おおかた、目的をもって旅をしているヤツに余計なことを言って邪魔にされるんが怖いんやろ? せやなあ、まぁた置いてきぼりはいややもんなあ」
「何でそんなことあなたに言われなくちゃならないんですか? あなただっていざとなれば置いていかれるかも知れないんですのよ。私だってこれが仕事でなければ」
「なければ何やの。シゴトシゴト、ほんまご苦労なこっちゃ。あんた、仕事いう理由がなけりゃなぁんも動けへんな……ってこら、泣くな」
「泣いてません!」
 まさに涙を堪えていたまま男をにらむ。いちいち言うことが当たっているだけに悔しい。しかしその悔しさの本当の原因が一体なんなのか自分でもわかっていないということに少し混乱したままでいると、さすがに言い過ぎたのか、ウルフウッドの声の調子が優しくなった。
「すまんかったな。ワイもこお、イラついとんのかな、言い方きつくなってしもて。アホなこと言うて悪かった」



 窓の外は昼間の太陽がふたつ、容赦なく照り付けている。すでに半日以上逃げ回っていることになる。
 合流地点ではもう二人は先にたどり着いているのだろうか。そこでは戦闘は行われているのだろうか。……あの人はまた無茶をして傷を負ってはいないだろうか。メリルの心に浮かぶのはそんなことばかりだ。

「あんたらまるで、お月さんみたいやな」
 ふと、ウルフウッドが言った。
「誰かの回りぐるぐる回っとんねん。それが近すぎると重力に負けて落っこってしまうし、離れると遠心力で宇宙に飛ばされてしまう。丁度いいバランスで距離を保っていな、あかんねん」
 そう言いながら顔を窓のほうからこちらに向ける。逆光になってその表情は窺えない。
「あんたら二人ともそんな感じや。お互い他人に気イ遣ってばかりやから、かえって肝心なとこで誰もそばに寄りつけへん。――ああ、二人ともそんなんやから、月ゆうよりも、あのふたつの太陽やね」
 牧師に釣られてメリルも天井の向こうにあるはずの空を見上げた。確かに互いの重力に囚われている二重の太陽は自分達の姿に似つかわしい。下手に近づいて破滅を呼ぶよりも、安全を保つために必要な今の二人のポジションなのだろう。
 男の言うことは少し癪に障るが、気分転換にはなる。大きく息を吸って、さっきまでのいやな気持ちと共に吐き出した。
「そうですわね、なるようになる、ですわ。別に急ぐこともありませんし」
「せやな。よっしゃ、行くで。走れるか?」
「はい! いつでもどうぞ。あ、ところで」
 戸口で外の様子を窺っていた男に声をかけると、目を外に向けたまま「なんや」と応えた。そしてメリルはささやかな反撃を試みる。
――私だって心配なんですもの

「あなたの場合は、すこおし急いだほうがよろしいかもしれませんわよ」


vvv







こんな夢を見た。









自分は歩いていた。
ここがどこだか判らない。 どこへ行くのかも判らない。

只、歩いて行く先に≪あいつ≫が居る。
弟が、居る。
其れだけが確かな事だ。
弟の気配に向けて、自分は歩いているのだ。




果たして、そこに弟は居た。


話に聞いたとおり、明るい筈だった頭髪は黒くなっている。
あの町で≪兄弟≫が変貌するのをまのあたりにした時よりも心が痛むかと思ったが、
何故かそう云うことはなかった。
只、自分よりも更に症状が進んでいることに驚きを感じた。

あいつは身体が変化していた。
羽に似た身体。 刃のような自分の身体とは違う。
他の≪産み出す者≫と同じ造りの。
その羽の中で、黒いものが見え隠れしている。


人間の。

女だった。




女はゆらゆらと羽の中で蠢く。
弟の羽の中で。
動きに合わせて白い頸や肩が顕わになった。
弟は其れを凝と観ていたが、
ふと。
此方を見返した。
眼が、あった。




――待っていたよ――
其の口が動いた。
声は届かなくてもそう云っているのだと判った。


ごらん、彼女を。
僕達はいずれこんな風になって逝くんだ。
僕もお前もいつか真黒に染まる。


そう云いながら弟は女を抱く。
眉根を寄せていた女の両の眼が朦朧と開けられた。
其の水晶には何も映されずにまた閉じられる。
白い貌に浮かぶのは紛れもない
愉悦だった。




――おいで――
弟は呼ぶ。
――来たいんだろう?――
肯定も否定もしなかったが其の刹那、自分は≪そこ≫に居た。
夢だからだ。 そう思った。
弟は満足げに自分を観ている。
唇が笑みの形につり上がる。
そして。
羽が四肢を絡め取った。



――何を見ているんだい?――
誰も。 貴様以外は誰も。
――そんな筈は無いだろう?――
羽に被われた眼の前に、
女が現れる。


夢見るような表情で女が口を開く。
お前は僕を見てはいない。
弟の声で告発する。
彼女の事を視ているんだ。
女の手が自分に触れる。 鳥肌が立った。
――違うよ――
告発は続く。
何が違うものか。
――嘘吐き――
声が嘲笑う。



手は熱を持った中心を探り当てた。




そして。


目が醒めた。



vv
Frou Frou

 彼はいつものように自宅周辺を見廻っていた。
 自分の住処と隣家は同じ敷地にあり、そこに不審な物事が起きないようにするのが彼の役目だった。そのために彼はここにいるのだ。
 何故なら、ここは彼の領域――テリトリー、即ち「ナワバリ」だからだ。
 自分に把握できないことがあってはならないのだ。


 その日その時、彼の優れた聴覚は聞きなれない音を捉えた。
 少し高めの少女の泣き声だった。
 すすり泣くというよりはしゃくりあげると言った感じの声は何かに話し掛けている。

「ごめんね、ごめんね。おとーさんもおかーさんも『うちは家族が多いからそんなよゆうはありません』って言うの。『もといたところに返してきなさい』って……」
 声のほうに行って見ると、生垣の向こうを栗色の髪をお下げにした少女がとぼとぼと歩いている。どうやら手に持った小さい箱に向かって話しているみたいだった。

――これだから子供という動物は…
 彼はやれやれと首を振る。この少女はどこかで捨てられたペットを見つけてしまったらしい。そして家に持ち帰り、案の定家族の反対にあってしまったのだ。
 初歩的な推理だ。
 そして人間の身勝手さに憤りを覚える。最近の人間は本当になっていない。たやすくブームに乗っかりそして飽きるとすぐ次に乗りかえる。この少女も明日には新しいオモチャを見つけて今日のことなど忘れてしまうに違いない。

「あのね、でもあなたに新しいおうちを見つけたの」
 少女の話は続いている。しかも動く口とは裏腹に彼女の足は止まっていた。
 彼の家の前で。
「ここはね、美人のネコさんとか、かっこいいワンちゃんがいるおうちなの」
 少女は夢見るような表情で洋館を見上げている。
 繰り返すが、そこは彼の住まいだった。
「あなたは白くてきれいだから、きっとここで幸せになれるわ」
 ね? と箱に微笑みかけるその無邪気な笑顔が彼には疫病神のものに見えたに違いない。

 茫然自失の態で警告することすら忘れた彼の鼻先を少女は気軽な足取りで横切り、
「ここがあなたの新しいおうちよ」
 いともあっさり敷地に侵入してしまった。とんだ失態をしでかしたと臍をかむ彼の姿には気がつかなかったらしい。
 少女の関心は、可愛そうなこの子をいかに『いつまでも幸せに暮らしました』の物語に当てはめるかということだけに注がれていた。

 やがて少女は桜の木の下で立ち止まった。
 いっせいに咲き誇るその時を待つ固い蕾を見上げて、一人うなづく。
「この木がお花でいっぱいになったころに、幸せになったあなたに会いに来るからね」
 それまで元気でね。と根元に箱を置いた。
 それを見ていた彼は思う。お花でいっぱいになるころまでその約束を覚えていられるわけがない、と。
 子供の時間の流れは驚くほど早い。毎日が新しい事件の連続だ。見るからに好奇心旺盛な少女がいつまでもこの箱の存在を覚えていられるはずがない。
 その証拠に、
「じゃあ、元気でね」
 そういった後はくるりときびすを返して外へと駆けて行くではないか。
 一度も振り返らず。


 そして、後には彼と小さな箱が残された。しょうがないから近寄ってみる。
 箱の中が気になるのは、けして同情とかボランティア精神とかそういったものではない。そんなものは隣家の昼行灯にくれてやる。
 ただ、このままでは寝覚めが悪いからだ。
 自分のテリトリーでこんな厄介ごとがあるのが許せなかったからだ。
――まったく、面倒臭い……

 そうっと箱をつついてみる。<中身>が死んではいないことは既に確認してある。
 小さい紙箱をこわさないように開けるのはいかに器用な彼でも少し苦労したが、程なくタオルに包まれた<中身>の生き物が姿を見せた。

――……ふん、やっぱりな…
 大方の想像はついていたが、それは仔猫だった。タオルとハンカチに囲まれ、丸くなっている。
 動かないのは衰弱しているせいか。ミルク臭くないところをみると、拾われたときにあまり食事をもらえないまま来たらしい。
 仔猫は眠るようにじっとしていたがちゃんと目は見えるらしく、明るさに反応して起き上がった。そしてまぶしそうにその光のさす源を仰ぎ見た。
 針のように細くなったその眼は、夜明け前の空の色に似ていた。

――……………………
 両者の目が合って、数秒後。
 仔猫の白い背中の毛が逆立った。
 耳を伏せ、幼いながらも全身で警戒している。彼はこの気の強さが気に入った。しかしこちらも気を抜こうものなら顔を引っ掻かれるかも知れない。彼も本気で仔猫の相手をするつもりだった。子供相手だからといって容赦はしないのが彼の信念だ。


 とその時。

「うっふっふっ、見ーちゃった」
 ハートマークつきの甘い声が頭上から降ってきた。
 一気に緊張感が萎える。

「……いつから見てた?」
「いやぁねえー、ヒトをのぞきみたいに」
 声の主は桜の枝からひらりと飛び降りた。
「あたしのお気に入りの場所の下で面白いことをしているあなたにそんな風に言われたくないわねぇ」
 つーんと鼻先を空に向けて気取った足取りで彼の元へ歩み寄る。
「さっきのはトンプソンさんちの末っ子ね。あたしたち皆にいつも優しくしてくれるわ。…まあ、たまぁーに好意の度が過ぎるときもあるけどね」
「さすがに詳しいな」
「あら、あたしたちのネットワークを馬鹿にしないで。今まで何回か手伝ってあげたじゃない?」
 一見世間知らずの箱入りでおとなしそうな姿だが、実はこの辺り一帯を取り仕切る首領だ。
 無論彼もそれを知らないわけではない。
「そうだったな。……どうでもいいが、その口調、何とかならんか」
「うるさいわね。そんなことよりその子見せてよ」
 彼の苦言をいつものことだと聞き流し、美しい被毛と肢体を持つロシアンブルーは箱を覗き込んだ。

 二人のやり取りの間も仔猫は緊張して睨んでいた。
 その顔を見て取り、
「あら、この子……」
「わかるのか?」
 わかっているのなら、とっととこいつを捨てた家につき返してやりたい。彼はこういったわずらわしい面倒ごとから早く開放されたがっていた。
 珍しく勢いづいてたずねるのに対して、返答はなんともあっさりしたものだった。
「こないだ引越しちゃったわねえ、あのお医者さんち」
 飼っていた猫(仔猫の母親だ)を事故で失い、傷心のまま勤め先の総合病院の異動で移っていったらしい。
「だから、この子は身寄りがないってワケ」
「なんでこいつは捨てられたんだ?」
「親に似すぎたのよ。あそこは夫婦そろって溺愛してたからねえ…」
「……馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるように言うと、彼は箱を相手に示した。
「同じ猫だ。お前に任せる」
「あら、いいの? あたし、この子可愛がっちゃうかもしれないわよ。んねー、女同士仲良くしなきゃね」
 仔猫に向かって安心させるように声をかける姿に彼の容赦ない言葉が飛ぶ。
「お前はオスだろう。種がないからといって変なちょっかい出すんじゃないぞ」
「うるさいわねー。怖がられたからってやつあたりはあなたらしくないわよ」
 仔猫は同じ猫のほうに興味を示していた。細い尾をぴんと立ててゆっくり近づいている。猫が柔らかく鳴くと、小さい声で返事もしてみせた。
 いずれも彼相手にはなかったことだ。
 なんだか、面白くない。
「それじゃ、任せたからな」
 得体の知れない苛立ちを隠して、彼は家のほうへ向かった。
「やあねー、妬いちゃって」
 という言葉には耳も貸さずに。


「さてと、あなた名前はまだないんでしょ? あたしがつけてあげるわ」
 猫は振りかえって白猫に微笑んだ。
 何しろ飼い主につけられた自分の名前さえ気に入らずに自ら勝手に女性名に改名したくらいである。名前にはひときわこだわりがある。
 仔猫はじっとしている。その瞳にある人物の姿を思い浮かべた猫は、自分の思いつきに嬉しくなった。
 隣家に住む若夫婦。さっきまでここにいたドーベルマンはその妻のほうに懐いている。しかもなぜか自覚がない。
――それだけでもかなり笑えるわよねー
 ふと見ると仔猫が怪訝な顔をしている。自分の表情が悪意のある笑みに変わっていたらしい。
「あらやだ、ごめんなさいね。あなたのことじゃないのよ。あのこわーい黒いヒトのこと」
 いつもいつも偉そうにして、人間も虫けらのように思っている彼のことだ。自分の感情の変化など理解できないのだろう。
――ま、それがあたしには見てて面白いんだけれどね
 猫はおとなしくしている仔猫に向かって宣言した。
「あなたの名前は『メリル』。メリルよ」
――あのヒトも少しは感情の機微ってモノを知るべきなのよ
 そうと知ったときの彼の反応を思い浮かべ、猫はにやりとした。
 白猫のメリルはただじっとその姿を見ていたが、やがてゆっくりと話し出した。
「あの、ありがとうございます。名前までつけてくださって」
「ああ良かった。話せるのね。あたしの名前は、エレンディラ。その名前気に入ってくれた?」
「はい。あの、エレンディラさんは、女のかたなんですか? それとも…」
「あぁん、野暮なことは言わないのよ。あたしはあたし。メリルちゃん、これから仲良くしましょうね」
「はい、よろしくお願いします」



 こうしてナイブズが暮らす洋館に、また住人が増えることになった。
 その名前を、まだ今の彼は知らない。




vvm
Sweet Bitter Candy


 彼の暮らす洋館にその若夫婦が来たのは、木々の色づき始めた季節だった。
 男のほうは見覚えがある。彼はこの男を小さいときからよく知っていた。まだ幼かった彼がこの洋館に来たときの先客がこの男だった。

「やあ、ナイブズ、久しぶり。オレのこと覚えてる?」
(忘れてやれば良かった……)
 彼はあまり思い出したくはなかったのだが、しょうがなく肯定した。やたらと物覚えが良いのも困りものだ。
 ”ナイブズ”という名は、ここに来たときにこの洋館の主人である女性がつけたものだ。『百万もの刃のように精悍に』という意味がこめられている。
(ヴァッシュ、お前も相変わらず脳天気そうだな)
 ナイブズは鷹揚に頷く。しかし彼の目は兄弟同然に育ったヴァッシュのかげにたたずむ女性に向けられていた。
 小柄で黒髪を短くした、初めて見る顔に警戒心が起こる。しかし相手に敵意はなさそうだ。
 じっと向けられる視線に怯えて、女性はヴァッシュの陰に隠れるように寄り添ったが、ヴァッシュは逆に彼女を前に押し出した。
「ナイブズ、このひとはメリル。ぼくの、奥さんだ」
 最後の『奥さん』という一言に照れが混じる。まだ結婚したばかりのはずだから、きっと呼び慣れていないのだろう。
「ちゃんと顔覚えててね。家族なんだから、追い返したりしちゃ駄目だぞ」
(「だぞ」、だとう……?)
 その言いぐさに少しむっとしたナイブズだったが、
「はじめまして、ナイブズさん。メリルです。よろしくお願いしますわ」
 彼女が丁寧な挨拶をしてくれたので、気を取り直して少しずつ近寄ってみた。

 無表情な彼に硬直しているメリルのまわりを一周する。個体識別にはこれが一番なのだ。
「大丈夫だよ。ナイブズは気難しいけどいいヤツだから」
(「ヤツ」、だとう……?)
 ますますヴァッシュに対して敵意をつのらせるナイブズだった。
 彼はヴァッシュを無視することに決めて、関心をメリル一人に向ける。
「あら、ナイブズさん、ありがとう」
 何かに気づいてメリルがかがむ。目線の高さを彼と同じにしてにっこりと微笑んだ。
「あーーーーッ! ナイブズったら短いくせに尻尾振ってやがる! オレには一度もやらなかったくせに!!」
「この子、ドーベルマンですわよね。よかったわ私を認めてくださって」
「こいつ、今までレムにしか振んなかったくせにー!やっぱオンナのほうがいいのか?」
 ヴァッシュは大人気なく地団駄を踏んでいる。自分よりメリルを選んだのがよほど悔しいのだろう。
(当たり前だ。お前なんかよりもこの女のほうが礼儀を知っている)
 横目でヴァッシュを見遣り、ナイブズはこれ見よがしにメリルになつき始めた。
「ヴァッシュさんたら、落ち付いてくださいな。こんなにおとなしい、いい子なのに」
「キミはだまされてるよ…。コイツ、なんであからさまになつくんだよ」
 差し出された鼻筋をなでていたメリルはこの二人(一人と一頭)の確執を知らない。
「と、とりあえず、レムのところに行こう。ほらナイブズ、離れた離れた」
「そうですわね。ではナイブズさん失礼します」
 そう言ってメリルが立ちあがろうとした時、ナイブズは行動した。
「あっ!!」
「きゃっ?」
 彼はメリルの顔に鼻を押しつけ……
「なっ、ななな舐めたなーーーーーー! お前、メリルの、口、舐めたぁ!!」
(ほんの挨拶だ)
 犬は親愛の情を示すとき、相手の口元を舐める。ナイブズはその本能に従っただけだったのだが、ヴァッシュにしてみれば気が気ではない。
「ちきしょーーーーーー! 負けるもんか!」
 訳のわからない捨て台詞と共にメリルを引っ張って家の中に入ってしまった。
 じっとそれを見送っていたナイブズだったが、そろそろ自分の夕食の時間が迫っている。二人を追って我が家へと向かった。


 メリルをはさんだこの奇妙な三角関係は、若夫婦が新居に移るまでの二ヶ月間、毎日続いたのであった。

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