『地平線の向こうへ』<1>
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「…まずった」
モンタナは呟いて片手で顔を覆い、ため息を付く。
彼がいるのは、いつものケティの後部貨物室備え付けの仮眠ベッドの上。
しかし、その状況は普段とは決定的にまで違っていた。
…ここまで情けない朝が、今までの人生であっただろうか。
いや、それどころか、今朝世界で一番情けない男は、自分なんじゃなかろうか。
思って彼は、ゆっくりと音を立てないように上半身を起こす。
小窓から降り注ぐ朝の明るい日差しも、その気分を晴らしてくれるのにはものの役に立たなかった。
その原因は、視界の隅に見える見慣れた金色の長い髪の女。
今は背中を向けているが、間違いなく彼と同じ毛布を共有し、静かな寝息を立てている。
布の端から見え隠れする白い肌から考えると、彼と同じく何も着ていない様だ。
これはまあ、つまり。…そういうことらしい。
しかし、彼が悩んでいるのはそんなことではない。
彼が悩んでいるその原因。
それは横にいる、その女性が――メリッサ・ソーン嬢、その人だったということである。
…昨日は、伯母さんの経営しているイタリアンレストランが、何十周年かのパーティをやる事になって。
当然の如く彼もアルフレッドも準備に狩り出されて、――それに何故かメリッサも来た。
そしてそれが一段落つき、やっと自分達も酒が飲めるようになって。
そこで、とある新聞のおかげでメリッサと口論になって、その勢いで、あの世間知らずなお嬢が、一人真っ暗な外へ飛び出していって。
アルフレッドと叔母さんに「見つけるまで帰ってくるな」、とどやされて。
…それから…どうしたっけか。
その辺りから、記憶がボケている。…それまで相当な量のアルコールを摂取していたせいなのだと思うが。
たしか、追い着いた時には既に彼女は道に――この辺は電灯が少なくて夜は大分わかりにくい――迷っていて。
帰り道が判らないくせに意地を張ろうとするので、仕方なく強引に引きずって来て。
しかし、ケティの置いてある船着場まで来た所でまた喧嘩になって。
それから――…それから。
「…まずった」
再び先ほどと同じ言葉が口の中から毀れだし、彼ははあ、と息をついた。
これがメリッサでなければ、話はもっと簡単だったのだ。
いや、彼は彼女のことが嫌いなわけではない。
むしろ、口には出さないものの――惚れている。
わがままで、気まぐれで、おてんばで。お嬢育ちで結構な世間知らず。
そのくせ、スリルとか冒険とか言う名のつくものも大好きで――かなり世間一般のレディとも感覚がずれている。
ここまでじゃじゃ馬、という言葉がぴったり来るような生き物も珍しいんじゃないかと思う。
だが、何故か。――惚れてしまったのである。
畜生、理由なんて知るか。
今彼にその原因を問いかけたら、そんな叫びとも負け惜しみともつかぬ答えが返ってきた事だろう。
「くそ…」
朝日に悪態をつきつつ、彼はベッドから降り、脱ぎ散らかしていた服を着始める。
そして上着を掴んだ所で、その上着のポケットから、ぽとり、とくしゃくしゃになった新聞紙の破片が床に落ちた。
いつも読まないはずの、新聞の社交欄。
「――」
黙ってそれを拾い上げ、彼はもう一度それをポケットに突っ込む。
メリッサの顔は、見られそうになかった。
果たしてこの今朝世界で一番情けない男は、極力音を立てないように、こっそりと愛機から逃げ散らかしたのである。
大体、あの女にも原因はあるんだからな。
メリッサが聞いたらビンタの一つでもお見舞いされそうなことを考え、彼は強引に店の裏口を開けた。
ガランガラン、とうるさいドアのベルが鳴る。
「あれ?モンタナ、早いね。他の皆まだ寝てるだろ?」
「うるせぇ」
入ってすぐの厨房で朝の仕込みの準備をするチャダに、モンタナはぶすっとした声で応えた。
その今までに無い不機嫌さに、チャダは思わず首をすくめる。
「あの後大変だったんだよ。常連に飲まされすぎてアルフレッドは吐くし。結局皆半分泥になっても朝方まで飲んでてさ…」
うんざり、といった感のチャダの愚痴を聞きながら、勝手に手元のタンブラーを取り、水道の水を飲む。
どうやら昨夜のごたごたで、帰らなかったことはばれてないらしい。
騒ぎの最中に家側の裏口から帰ってきたとでも思われているのだろう。…この場合、それがありがたいのかどうかはイマイチ判らなかったが。
「アルフレッドは?」
「店の方で他の客と一緒に潰れてる筈だよ。あ、モンタナも仕込み手伝って――」
「チャダ、チャーダ!!」
「あ、はいはい今行きます!!」
アガサのいつもの大声に、彼は首を巡らし、叫び返す。
「モンタナ、鍋見ててね!」
「あ、おいっ」
一方的に言い捨てて、チャダは厨房を出て行った。モンタナは伸ばしかけた手を止め、ふう、と大きなため息を付く。
タンブラーをシンクの脇に置いて、ついでにそこの水道で顔を洗った。叔母さんに知られたらどやされるだろうが、彼はいつも頓着していなかった。
顔を拭きながら、横のガス台の火力を調節する。
覗いた鍋の中は、ぐつぐつとイタリアンソースが煮立っていた。トマトの香りが、鼻先を掠める。
――と。
「…モンタナぁぁ、水ぅぅぅ」
店の方からよろよろとした足取りでやってきた従兄弟を見、モンタナは呆れた顔で一つ息をついた。
青い顔、頼りない足元。…完璧な二日酔いだ。
「ほれ」
「ううう、ありがとうう」
「全く…あんま強くないくせに飲むなよなあ」
差し出されたコップの水を一気に飲み干し、アルフレッドはへたり、と脇にあった椅子へ座り込んだ。
そして、糸の切れたタコのように、ぐにゃり、と背もたれによりかかる。
「自分で飲んだんじゃ無くて、無理やり飲まされたんだよ…ああ、頭痛いなあ」
「自業自得だろー」
「全くお酒って恐ろしいよね」
「飲んでも呑まれるな、っていうからな」
言いながら、彼は内心自嘲する。
その事を今一番痛感してるのは、ほかならぬ自分自身なのだから。
「あれ?メリッサは?」
来た。
現在史上最大に聞かれたくなかった質問。
彼は一瞬返答を探して上を見上げる。
しかし、その答えが見つかるはずもない。
彼はただ、鍋の湯気の昇ってゆく天井へ、馬鹿みたいな視線を送ることしか出来なかった。
「モンタナ?」
「…あー、」
「まさか昨日夜道に置いて帰ったわけじゃないだろうね」
「いや、それはないが…」
睨みつけてくるアルフレッドの声に、モンタナは小さく喉の中で呻き――
からんからん。
軽い音を立てて、裏口のドアのベルが鳴った。
そして、一瞬の後、厨房の入り口から聞きなれた女の声がした。
「おはよう!」
「メリッサ、おはよう」
「あら、アルフレッド、二日酔い?」
昨日と同じ青いワンピースを翻し、彼女はアルフレッドの近くへ歩いてきた。それに彼は苦笑で応える。
「そうなんだよ…、もう頭はふらふらするし、最悪の気分さ」
「酔い覚ましにはレモン水がいいって聞くわよ」
「試してみるよ」
アルと取り留めの無い、いつもの会話を交わしながら、メリッサは微笑っていた。
普段と全く変わらぬ、明るい声。
「――」
その顔を思わずまじまじと見つめてしまう。
そして彼女もその不躾な視線に気付いたのか、ふとこちらに顔を向けた。
「――おはよう、モンタナ」
あっさりとした、彼女の言葉。
「…おう」
言って、彼はあいまいな表情で彼女を見た。
それに特に頓着した様子も見せず、メリッサはいっそ鯖々した様子でテーブルの上に積まれていたレモンを手に取る。
「んもう、お酒臭いわねここ!」
「今朝は店中そうだよ…ああメリッサ大きな声出さないで」
顔をしかめる彼女に、アルフレッドはへろへろした声で耳を押さえる。
いつもと同じやりとり。
「…」
「あ、今日は午後から社に行かなきゃならないのよね、忘れてたわ」
「なら後からチャダが買出しに行くからバンに乗ってけば?」
「ううん、今から帰るわ」
そう言って、彼女は手に持っていたレモンをアルに手渡した。
「じゃあね、モンタナ、アルフレッド」
「うん、じゃあね」
小さく手を振り、彼女はそのまま厨房から出て行く。
彼はぽかんとした顔でそれを見送ることしかできなかった。
まるで、何事もなかったかのように。
「……」
これは、やはり。
『なかったことにしましょう』
ということなのだろうか。
アルフレッドがいたから、というのもあるのだろう。
しかし、それなら彼を厨房から引きずりだして話をすればいいことだ。しかし、彼女はあっさりと帰ってしまった。
というか、アルフレッドの前だろうが何だろうが、一、二発、横っ面を張られることを覚悟していたのだ。
メリッサは何事も白黒はっきりさせたがる性格だし、――酔いの勢いもあったとはいえ、あんなことをしでかしてしまった自分をそのままにしておくとは思えなかった。
そんな彼女が、ああいう態度に出たというのは、それしか考えられない。
実際、そっちの方が彼にとっては好都合だった。むしろ、彼の今までの心情からすれば、ラッキーといっても良いくらいだったのだ。
双方の暗黙の了解の内でなかったことにするなら悩む事なんてないし。
そう、今までと何も変わらなくてもいいのだ。
何も変わらな――
「……」
「モンタナ、もう一杯水くれるかい?…モンタナ?」
彼は、それに逆に打ちのめされている自分がいるのに、最後まで気付かなかった。
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◆追う理由◆
「パパ」から「父さん」から「親父」へと。
変わり行く呼び名は時の流れこそ意味してはいたが、いつだって父親の存在を認めていた。
だがもう俺はアンタの事をそうは呼ばない。
赤い軍服を着た背中は相変わらずでかく、威圧感を保っていた。
机へと向かうその総帥の背中を見ていれば、これからの己の起こそうとしてる行動に躊躇を覚えた。
(別に大した事しようってんじゃねーだろ。何、緊張してンだ……。)
だけど、これは俺なりのけじめだ。
アンタへの俺からの気持ちだ。
(……よし。)
拳を握りしめれば、その背中に近づく。
「……マジック。」
その男の名を初めて呼んだ声は、決心とは裏腹に控え目に紡がれた。
しかし返事は返ってこない。
もう一度、その名を呼ぼうと口を開く。
「あれ?」
だが、振り返ったその男によってそれは果たされずに終わる。
「シンタロー、来ていたのか。」
ようやく気付いたようなその声に、拍子抜けして眉をしかめる。
「どうかしたのかい?今、パパは」
「なんでもねーよッ!」
男の声を遮るように怒鳴りつけ、後は何も述べずに背中を向ける。
「シンタロー?」
聞こえないとばかりにその場を走り去る。
(チクショー……)
マジックを父親を意味する以外の呼び名で呼んだ初めての夜だった。
いつからか口癖になっていたその言葉をお前は何回聞いたのだろうか。
『パパだよ』
私は怖かったのかもしれないね。いつかお前が私を父親と認めくなるのが。
だからそれを阻止したくて何度も何度も唱えたんだ。
『パパだよ』
呪文のようにその名を植え付けた。
だけどそれだけじゃ阻止できないのだって本当はわかっていたんだ。
お前が苦しんでいるのを知りながら私は見ない振りを決め付けて『総帥』で居続けた。
そんな私の事をお前が初めてマジックと呼んだ夜の事を覚えているかい?
心臓が停まった気がして、何も言えなくなってしまったんだ。
お前が『親父』と呼んでくれる度に許されてる心地がしていた。
いつまでもそれに甘えていた報いなんだろうか。
でもお前はやはり優しい子だね。
私が総帥として追わねばいけない理由を持って逃げてくれた。
お前がそれを持っていってくれなければ私はきっとこんなふうに堂々とお前を追えなかった。
一番大事なお前を追う事すら出来なかっただろう。
「シンタロー、秘石を持って行ってくれてありがとう」
こんな不穏な言葉、部下には聞かせられないが。
これで心置きなくお前を追える。
ガンマ団の総帥として秘石を追うのではない。
お前を必ず捕まえる。
「必ずパパが捕まえてあげるからね。」
お前の父親でいたいんだよ。
私の大事な息子
シンタロー
パパだよ
パパだよ
呪文だけじゃ足りない。
追い掛けよう。
小さい頃、花畑で追い掛けっこをしたあの頃のように。
end