深夜の喧嘩
気がつけば、遥が布団の中に入っていた。
妙に暖かいと思うのも無理のない。子供というのは体温が高いから、三十も過ぎ、冬の夜は冷える桐生にとって有難い湯たんぽだった。
これ幸いと遥を懐に入れれば、うにゅうにゅと寝言を言ってしがみついてくる。
(警戒心というものがないのか、こいつは)
九歳の子供に警戒されても困るのだが、この間の100憶事件の後だというのにまるで動じた様子がない。
普通なら、トラウマになっていてもおかしくはないというのに。
(……ん?)
おとなしく湯たんぽになっていた遥が、身動きする。
そして、ぱちりと目が開いた。
「………」
抱き締められている事実に、遥は寝惚けた顔で桐生の頬を叩いた。力が込もっているわけではないが、離せという意味だ。
「……おじさん、冷たい」
「遥が入ってきたんだろうが」
「でも、冷たい」
「なら自分の布団で寝ろよ」
その一言に、遥は黙って布団の中に潜り込んだ。
離れたくは、ないらしい。
桐生は大笑いしそうになるのを抑え、布団の中の遥をぽんぽんと叩いた。
「湯たんぽ役、ご苦労」
言うのと、遥が桐生のむこう脛を蹴り上げるのはほぼ同時の事だった。
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大好きやから
『お…おじさん…』
遥からの電話にでてみれば、異常なまでに震えた声に桐生は凍りついた。
「どうした!遥!」
『あのね…きゃっ!!』
「遥!!」
争うような音の後、ぶつりと切れた。
まさか誘拐されて、なんとか逃げだし自分に助けを求めて電話をしたところで…見つかったのか。
こんな物騒な時代。一人で買い物なんかに行かせたせいで…
桐生はいましがたかかってきた番号に、震える指でかけ直す。
大事なものを全て失った自分の生きる意味は、遥が持っている。
遥がいなくなれば桐生の世界は崩壊するのだ。
数コールの呼び出し。そして、繋がった。
「遥!?」
だが、聞こえたのは考えもしなかった…むしろ、二度と関わりたくなかった男の声だった。
『桐生ちゃん、久しぶりやなぁ~vv』
「真島の兄さん!な、なんで!」
まさか、と反射的に電源をきりそうになって、真島と遥が一緒にいることを思い出した。
「遥に何をしたんです」
『嫌やわ、桐生ちゃん何勘違いしてんの。桐生ちゃんの可愛い可愛い遥ちゃんを、送ってあげとるだけやん』
「…送ってる?」
『そや。おお、着いた着いた』
同時に、家の前に車が止まる音がした。ドアが開く乱暴な音と『桐生ちゃ~ん!あ~け~て~!』と、真島の声がする。
桐生は用心のために持っていた古ドスを持ち、玄関へ向かった。
ゆっくりとドアを開け…
「桐生ちゃんや~!ほんまもんや~!」
突進してくる真島を避けきれず、抱きつかれた。
「会いたかったで~!」
「ちょっ…!は、離して下さい!」
「嫌や!遥ちゃんといい桐生ちゃんといい直ぐワシから逃げる!」
真島は後ろの遥を見て、すねる。
「遥ちゃん、偶然そこで会ったんやけど声かけたとたん逃げ出したんやで?傷つくわ」
「だって…おじさんを殺しに…」
「まさか!ワシは桐生ちゃんに会いにきただけや」
「そうなの?」
真島は頷いて桐生から離れた。
車からビニール袋を引っ張り出し、遥に渡す。
「土産やで。まぁそこらへんで売っとる煎餅やけど」
ここがお二人さんの家かいな。真島はうきうきと上がり込んでいった。
まんまと上がり込んだ真島は、遥を膝の上に乗せて居間に陣取った。
遥は緊張にこわばり、桐生は人質をとられている気分で落ち着けない。
事実、真島は可愛がるというよりもそういう意味で遥をだっこしているのだが。
「桐生ちゃん、ええかげんにドス、置いてくれへん?わし桐生ちゃんと殺りあいできるって、期待してまう」
こんな所で暴れられたらかなわない。桐生は素早くドスをしまった。
「それで…本当は何の用できたんです?」
「だ~から~、遊びにきただけやて。可愛い弟分に会いにきただけやん」
「………」
「嫌やわぁ、信じてくれへんの?」
黙り込む桐生に、遥が補足する。
「バッティングセンターに桃源郷」
あの後では、警戒するのが当たり前。
そう遥に教えられ、真島はがははと高笑いする。
遥を離し、頭をぐりぐりと撫でた。
「そんなこともあったなぁ。あんときはすまんかった、嬢ちゃん。許したってぇな」
遥は少なくとも、今は優しいおじさんの真島に首を傾げて…いいよ、と笑った。
「遥ちゃんはええ子やなぁ。こんな子もって、桐生ちゃんは幸せもんや」
「…まぁ」
桐生はしぶしぶ頷いて、遥は頬を染める。
真島はあらあらと、更に大きく笑った。
夜、
おびただしい量の酒を持ってきていた真島によって、桐生はかなりのハイペースで酒を飲むはめになった。
本来なら止めに入る遥だったが、いつの間にか真島になついてしまい…
「今日は泊まっていってね!真島のおじさん!」
と、上機嫌に言った。
「ええんか?…ほな、お礼にサービスやで」
どこからか取り出したのは、一冊のアルバム。
現像に出せばついてくる安っぽい代物だが、デジカメ時代によって絶滅寸前の代物でもある。
「これは?」
「桐生ちゃんの若かりし頃の写真vv」
「兄さん!?」
なぜ真島がそんなものを。
焦った桐生がアルバムを奪おうとするが、先に遥に取られてしまう。
「あはは!おじさんが若い!」
見慣れた白スーツではない、スカジャン姿の桐生に遥は爆笑する。
「まだあるで」
「見たい見たい!」
盛り上がる二人を見て、厄介な相手が遥を手なずけたと桐生は頭が痛くなるのを感じた。
これから先、真島は我が家の常連になりそうだ…と。
「真島のおじさん?そこで何してるの?」
買い物帰りに立ち寄った雑貨店の角に見慣れた後ろ姿があった。遥が声をかけると、盛大にびくつき振り返る。
「なんや、遥チャンか~。ほんま、びっくりしたわ」
やっぱり見慣れた眼帯男、真島吾朗だ。
だが、どこかよそよそしい。疑わしそうに遥が真島を押しのけて、真島が見ていた方に目を凝らす。すると、そこは最近できたお洒落なカフェ。
通り沿いはガラス張りになっていて、そこにも見慣れた姿が二人、向かい合わせに座っている。
「伊達のおじさんと、桐生のおじさん?」
「しぃーやで!遥チャン!?」
こんなに離れているのだから、絶対聞こえないだろうが真島は遥の口を塞いだ。端から見れば、かなり怪しい男だろう。
「ぷはっ、おじさんはなんで二人のこと見張ってるの?」
遥が問いかけたとき、カフェの中にいた二人が動き出した。
「!?追っかけるで」
「あ、待ってよ~」
追いかけていった先は若者に人気のジュエリーショップ。
二人仲良く店内に入っていく。
「何か買うのかな、っておじさん!?」
真島はこの世の終わりが迫っているような、絶望的な表情で立ち尽くしていた。
慌てた遥がなんとか宥めていると、店内にいた二人が出てきた。
「あれ、もうでてきたね。それに別々に帰るみたい」
その言葉にはっとなった真島が、自宅の方へ続く道を歩いていく桐生をじっと見つめた。
「おじさん?」
「桐生チャンは、桐生チャンは、わしのもんなんじゃぁああぁあぁあああぁぁあ!!!!!!!!」
「ちょ、おじさん!!車道飛び出したら危なっ」
遥の制止も聞かずに、反対側の歩道目指して飛び出す真島。声に気づいて桐生が振り返る。
「に、兄さん!?」
ガバァッ
大きく広げた腕で桐生に抱きつこうとするも、思わず拳がでてしまった桐生によって阻まれた。
「へぶっ!!」
勢いよく後ろに転倒した真島に、追いかけてきた遥が駆け寄る。
「大丈夫?桐生のおじさん、取りあえず真島のおじさんうちに連れて帰ろうよ」
いまいち事態を飲み込めていない桐生だったが、なんだなんだと集まってきてしまったギャラリーに気が付き、気絶した真島をおぶって家に向かうのだった。
真島はいい匂いで目が覚めた。
美味しそうなビーフシチューの香り。
体にかけられていたタオルケットを剥ぎ、起き上がる。
「あ、起きたみたいだよ」
遥が嬉しそうに近寄ってきた。
遅れて、桐生も現れる。その瞬間、昼間のことを思い出して真島はそっぽを向いた。
「桐生チャンなんか、わしに構わずあの元刑事んとこにいきゃーいいんやっ」
そう言うと、遥がころころ笑う。
「おじさん、違うよ。あれはね…」
「いや、俺が話す。遥は夕飯の支度しといてくれ」
桐生が遥に頼むと「つまんなーい」と口を尖らせてキッチンへと消えた。
少し気まずい雰囲気がながれる。
「なんやねん、言い訳でもしよっていうんか」
「兄さん、こっち向いて」
だが、頑として真島は振り向かない。
すると背後の桐生がふっと笑い、なにか袋から取り出す音が響く。
しばらくすると、ヒヤッとしたものが首に触れる。
「っ!?」
「やっぱり兄さんには赤が似合うな」
いつの間にか真島の正面に回りこんだ桐生が満足げに微笑んだ。
首を見ると、シルバーのネックレスが胸元を飾っていた。アクセントに赤い宝石がついており、その宝石にはよく見ると蛇を模した銀細工が絡んでいる。
顔を上げると、桐生の首にも同じデザインのネックレスがしてあった。ただ、宝石は青で蛇ではなく龍が絡んでいる。
「桐生チャン…」
「伊達さんは娘さんにプレゼント買いにきたみたいで、近くで会ったんです。相談して、アクセサリーにしようと決めて。店にでてたこれ、一目で気に入って買ったんです。兄さんにって」
「それに」と言葉を続けたあと、部屋をキョロキョロ見渡して赤くなりながら真島の耳に囁いた。
「…吾朗さんと、同じものつけていたかったから…」
これじゃあ、顔が締まらなくなっても文句は言えない。
体を離そうとした桐生を抱きとめ、
「悪かったな」
と謝罪した。
「でも兄さんが嫉妬してくれたの、嬉しかった」
憎まれ口を叩く桐生にやんわりとキスをして、二人で笑いあったのだった。
「…ラブラブすぎて部屋入れないよぉ」
遥の苦労はこれからずっと続きそうだ。
END
それに、貴方を
建設業を表の生業にしている真島は、ふだんからわりと忙しかった。
それを感じさせないほど桐生の家に通っているのは、ほとんど寝ずに仕事を済ませ、家にも帰らずに桐生の家へ直行しているからだ。
それを桐生も薄々感じてはいたが、言って聞くような人ではなし。
何より…会えるのが嬉しかったから…何も、気づいていない振りをした。
けれどここ最近、真島が家にくる回数が減っていて。
遥が用意した夕飯が、毎回のように一人分余るようになっていた。
いつもなら何が何でもやってきて、遥とはしゃいで、桐生をからかって…そんな人だったのに。
騒がしい真島がいないだけで、夕飯の時間が暗くなるようだった。
「真島のおじさん、今日も来ないのかな?」
キッチンで夕飯の用意をしていた遥が、リビングの桐生に声をかけた。
夕飯の時間が迫ってきていて。
だけど、真島が来る気配もなく。
作るだけで、食べる相手のいない料理にラップをかけるのは…寂しかった。
だから今日も来ないようなら、作らないでおこうかと桐生に相談しようとしたのだが。
リビングにいるはずの桐生から、返事が返ってこない。
気になって顔を出してみれば、桐生はうわの空で…ついているテレビも、頭に入っていないようだった。
「おじさん?」
少し強く呼ばれ、桐生ははっとしたように振り返る。
そしていぶかしげな遥に、慌てて笑顔を作った。
「わ、悪い。何だ?」
「…うん、お夕飯の事なんだけど…」
真島の分をどうしようか、と聞こうとしてやめた。
こんなに寂しそうな顔をしている桐生に、真島の事を聞けない。
遥も真島がいなくて寂しい思いをしていたが、桐生の寂しいはもっと違う何かなのだ。
桐生のことは誰よりもよく知っているから、わかる。
「今日は外で食べようよ。たまには気分転換で。いいでしょ?」
遥の提案に、桐生は微笑んで頷いた。
ここ最近、桐生の家に行けなかった。
本業にしている建設業で面倒が起こり、その後始末に駆けずり回っていたからだ。
舎弟の一人が不渡りの手形を掴まされてくるわ、耐震偽造の余波が押し寄せてくるわ、散々な日々だった。
真島は社長として表では駆けずり回り…裏では存分に拳をふるい…なんとか、乗り切ることができた。
ヘマをやらかした舎弟も本当なら半殺しにしてやりたいところだったが、今は少しでも早く桐生に会いたかった。
「桐生ちゃん、いま会いに行くからなー!!」
疲れて床にぶっ倒れている舎弟たちを踏みつけ、真島は意気揚々と事務所を飛び出す。
向かうは、桐生の家。
会えば真っ先に抱き締めて、頬ずりの一つでもしてやろう。
遥がいる時はちょっぴり過度なスキンシップしかできないけれど、それくらいは許されるだろう。
だって、本当に久しぶりなのだから。
真島は自慢のムスタングを走らせて、桐生のマンションへと向かう。
遥の作る食事も久しぶりだ。
忙しい間はずっと、食事をゼリー飲料で済ませてきた。
味気ない、と感じるようになったのは…三人で夕飯を食べるようになってから。
「あー…でも、ワシの分、用意しとってくれとるかな?」
もともと、連絡をしなくても真島の分は用意されていた。
けれどここ数日、行かなかったから…
「無いかもなー…それも寂しいわー…」
なら、ケーキでも買っていこうか。
食事は仕事先で済ましてきたわー、とか言って。
一緒にケーキを囲むだけでも、十分自分の心を癒す団欒ができる。
真島はハンドルを切ると、桐生が好きだと言っていたケーキ屋へ車を走らせた。
制限速度を無視してつっ走り、四輪ドリフトで店の前に駐車する。
スモークをはった車相手だと、レッカー移動も駐禁もやってこないから安心だ。
真島は自分相手に青ざめる店員ににっこり、邪悪な笑みでショートケーキをホールで注文した。
店員は大急ぎでケーキを包装していき…真島はその様子をショーケースにもたれかかって見ていて。
ふと、ケースの上に置かれたカゴが目に止まる。
入っているのは、マジパンで作られた動物たちだった。
その一つに…真島の頬がゆるむ。
「おい、ネェちゃん!」
声をかけられ、店員は派手にびくつく。
「これ、追加頼むわ」
久々の外食は楽しかった。
手軽なイタリアンを楽しんで、ゲーセンに行ってゲームを対戦。ぬいぐるみも取った。
「楽しかったー!たまにはこういうのもいいね!」
「ああ、そうだな」
手を繋いでの帰宅。
ほんのり頬を赤らめた遥は桐生を引っ張るように廊下を歩き…ふいに、足を止める。
桐生も立ち止まり、玄関の前に座り込む人に目が釘付けになった。
「兄さん!?」
遥の手を離し、桐生は走りだしていた。
ずっと、会いたかった人の姿に、胸が痛いほど跳ねる。
ドアにもたれかかるように体を丸めていた真島は桐生の声に、はっと顔をあげた。
「…桐生ちゃん…どこ行っててん」
まだ夜は寒い季節。
かじかんだ舌のせいで、少しろれつが回らない。
「すみません…出かけていて」
「ワシ、一時間くらい待っとってんで?」
「今日も…こないと思ってて」
「仕事、今日でカタついたから。また明日から来るよって…そない、泣きそうな顔せんといてや」
知らず知らずのうち、桐生の目からは涙が溢れていた。
寂しかった。
お互いに。
また、長い間、会えなくなるんじゃないかと…怖かった。
真島の手が涙をぬぐい、そのまま桐生を抱き締める。
「会いたかったわー…桐生ちゃん。…遥ちゃんもな?」
追い付いてきた遥を見上げれば、華のような笑顔があって。
「私もだよ。おかえりなさい、真島のおじさん」
「ただいまぁ」
「ほれ、桐生ちゃん。おみやげvv」
「はい?」
ぽんと手のひらにのせられたビニールの包み。
「それ、桐生ちゃんにそっくりやと思てん」
「………」
クマのマジパン人形に、桐生は真っ赤になって顔を背けた。
ケーキを切り分けていた遥はそれを見てクスクス笑い…
さっき、桐生に取ってもらったぬいぐるみを真島に見せた。
青い、トカゲのぬいぐるみ。
「これ、真島のおじさんに似てるって桐生のおじさんが取ってくれたんだよ」
一緒だね。
そう遥が笑えば…桐生と真島はお互いを見つめて、赤面した。
1月の大阪は、冷たい北風が吹いていた。長く伸びる遊歩道の、両側に聳える広葉樹の木々は、全ての葉を落として、寒々と晴天の空を指していた。
その下を、龍司はゆっくりと歩いていく。それは、隣を歩く女性に合わせたものだった。
横には、黒いコートの女性がいた。同じように歩く、黒い髪。見上げる瞳は冬の夜空のように輝き、寒さのせいか、両頬は林檎のように赤かった。化粧一つしなくても、その美しさは際立っているな、と龍司は思う。
まだ高校3年生の彼女は、大阪の某有名私立大学に推薦入試で合格した。今日は入学手続きのために、わざわざ大阪まで来たのだ。
「ゴメンね。面倒な事につき合わせちゃって」
あざやかな笑顔。軽やかなステップで歩く足。出会った頃は、まだあどけない小学生だったのに、少し見ないうちに、すっかり大人になっていた。東京に仕事で出かけたときにちょくちょく会っていたが、こんなに綺麗になるとは思わなかった。
「遥。昼飯はウチですき焼きや。お祝いやからな」
言えば、彼女は軽く頷く。関東の東城会四代目の、あの『堂島の龍』の娘が、目の前にいる澤村遥だった。
いつものリムジンで、龍司は遥を家に招いた。近江連合六代目の龍司の家は、実は南北朝時代から繋がる古いの家系だ。純日本家屋のお屋敷に、遥は何度か来た事があった。今では勝手知ったる他人の家だ。
いつもの、庭を見渡せる部屋に座卓を出し、カセットコンロと鉄鍋を出す。組の者が用意してくれた、野菜やら肉やらを机いっぱいに並べ、二人だけの合格祝いは始まった。
「美味しいね。関東の割り下も好きだけど、関西のも大好き!」
遥は幸せいっぱいの笑顔でねぎをつまむ。龍司はそれを見て、少しだけ心が痛んだ。
「遥は、学部は何や?」
龍司が聞くと、
「法学部。前も言ったジャン」
「そうやったな。私立だと、学費とかかかるやろ。金、大丈夫なんか?」
龍司が見る限り、桐生の家に金があるとは思えない。もし、奨学金なんか受けるくらいなら、一億くらいポンと出してやるつもりだった。それくらいしか、龍司にできる事は無い。
だが、遥は首を左右に振り
「大丈夫。おじさんがね、お父さんの遺産、手付かずで残しておいてくれたから」
「お父さん?」
龍司は思わず聞き返す。遥の口から初めて聞く言葉だった。
「うん。お父さん。神宮京平って言う名前で、代議士だったの・・・もう、死んじゃったけど」
遥は何でもないかのように言った。龍司には、覚えのある名前だった。随分昔の話だ。
「でね。戸籍上、お父さんの名前とかないんだけど、お父さんの奥さんって人がね、神宮家とは関係ありませんって念書を書く代わりに、一千万くれたの。おじさん、それをずっと取っといてくれたんだって。大学とか、結婚とかで必要になるだろうからって」
「そうかぁ」
肉を口に運びながら、龍司は言った。これで、憂いは無い。もう、何も考えないで済む。今日が最後の日だから。
食後のお茶が来て、遥は足を投げ出しながら窓の外を見ていた。木々の葉が落ちて、寒々とした庭に、さざんかの赤だけが目立った。
「この庭、雪降ったら綺麗だろうね。見に来てもいい?」
真っ直ぐな足をを撫でながら、遥が言う。
「雪降ったら、ここまで来るだけで大変やで?」
龍司が答えれば、遥はショボンと項垂れる。白いうなじが目にまぶしい。
「でもさ、こっちに住むんだから、近いよ?」
「車じゃなきゃ、来れんだろうが。雪の日に車なんて、危ないで?」
「そっか」
目を細める表情。黒く揺れる髪。龍司は深く息をはいた。
高校までは、自分が周りにいても問題無いと思っていた。だが、大学、就職と続く彼女の明るい未来に、極道である自分はいらない。遥は、光り輝く道を行く。その道に、影を落とすわけにはいかない。闇の中を生きる自分が、汚すわけにはいかない。
「遥。そろそろ帰らんと、遅くなるで。新大阪まで送るさかい、準備してな」
「うん」
遥は立ち上がった。龍司は目を伏せた。それから、意を決すると立ち上がった。
玄関で、遥がコートを着る。黒いコートは去年、龍司と一緒に出かけたとき買ったものだ。見つめながら、龍司は左手に持った日本刀を握り締めた。
その動きに、遥が顔を上げた。
「どうしたの?一緒に行かないの?」
見上げてくる視線が苦しい。龍司は、遥を睨んだ。
「遥とは、ここまでや」
「ここまでって?」
遥は、ただ見上げている。
「もう、ここへ来るな」
静かに、しかし強く龍司は言った。大抵の人間が怯む眼なのに、遥はまったく目を逸らす事無く、龍司を見つめた。
「どうして、来ちゃ駄目なの?」
問いかける声が、小さく響く。
「法律を勉強するんや。わかるやろ?」
これで全てが終わる。龍司は奥歯を強く噛んだ。
「そんなの、わからないよ」
遥が言う。龍司を見上げる、黒曜石の瞳。本当なら手放したくない。出来る事なら、永く共にありたかった。だが、それは許されない。許されないのだから。
「もう、来るな」
龍司は息をはき、刀の鯉口を切った。ゆっくりと抜き払い、きらりと輝く刃を遥に突きつける。
「遥。もう二度と、ワシの家の敷居を跨ぐな。跨いだら、お前でも叩き出す」
刃の向こうで、遥は首を左右に振った。
「嫌。そんなの嫌。絶対に嫌。それじゃあ、大阪の学校に入る意味がないもん」
「遥。お前のためや」
「そんなの、ちっとも私のためにならないよ」
美しい瞳に、涙が溜まる。透明な雫が頬を濡らす。
「私、少しでも側にいたいの。だから大阪の学校に入るの。だから、法律の勉強するの。少しでも側にいたいの・・・お願い」
訴える声。龍司は刀を引くと、鞘に収めた。
「遥。ワシは・・・」
「もう、言わないで!」
空いていた数歩の距離を飛び超え、遥が胸に飛び込んできた。龍司の背中に手を回し、しがみついてくる。
「・・・お願い・・・」
ぴたりと張り付く冷たい身体。小さな肩が震えていた。
「お願い・・・近くにいたいの・・・側にいたいの・・・」
涙声で言われて、龍司は深く息を吸う。開いている右腕で、細い肩を強く抱きしめた。
「アカン。ワシの居る世界は闇の中や。お天道様の下を歩けん、闇の世界や」
そっと囁けば、彼女は顔を上げた。
「そんな事知ってるよ・・・それでもいいの」
真っ赤になった眼と、真っ赤になった鼻と、涙で赤くなった頬。何も塗らなくても、紅に染まる唇。
「そばに居られれば、それでいいの。側にいたいの。私も同じ闇の中にいたいの」
「遥。ワシかてそうや」
龍司は眼を細め、一つ呼吸をしてから
「せやけど、住んでる世界が違うんや。ワシは、遥に、まっとうに生きてほしいんや」
まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だが、遥は首を左右に振り
「絶対、側にいる。龍司兄ちゃんが許さなくても、私はここに帰ってくる」
「遥・・・」
美しく輝く、強い意志を秘めた瞳。龍司は天井を見上げ、それから遥を見つめた。
「ワシと居ると、辛いで?」
「側にいられないほうが辛いよ」
遥が即座に答える。
「そうかぁ。なら、しゃーないな」
龍司は左手の刀を床に投げた。重い音に、遥が首を捻ったとき、その手で遥を抱きしめた。
「やっぱり嫌や言うても、後の祭りやで?」
「言わないよ」
両腕の中で、宝珠が鼻を啜る。長い間、欲しくて欲しくて、追い続けた珠。きっと、これが欲しかったから、自分は龍に生まれついたのではないかと思うほど、焦がれたものが両腕にある。
「覚悟は、ええな?」
改めて聞けば、彼女は強く頷いた。見上げてくる、赤く涙の痕の残る頬に、そっと唇を寄せる。
「くすぐったいよう」
遥が声を上げた。顔を離せば、服を掴んでいた手を離し、見上げたまま、眼を閉じた。
たぶん、自分はもう、この珠を離さないだろう。光の中に帰りたいというまで、決して手を離さない。
龍司は背中を丸め、ゆっくりと唇を重ねた。
その下を、龍司はゆっくりと歩いていく。それは、隣を歩く女性に合わせたものだった。
横には、黒いコートの女性がいた。同じように歩く、黒い髪。見上げる瞳は冬の夜空のように輝き、寒さのせいか、両頬は林檎のように赤かった。化粧一つしなくても、その美しさは際立っているな、と龍司は思う。
まだ高校3年生の彼女は、大阪の某有名私立大学に推薦入試で合格した。今日は入学手続きのために、わざわざ大阪まで来たのだ。
「ゴメンね。面倒な事につき合わせちゃって」
あざやかな笑顔。軽やかなステップで歩く足。出会った頃は、まだあどけない小学生だったのに、少し見ないうちに、すっかり大人になっていた。東京に仕事で出かけたときにちょくちょく会っていたが、こんなに綺麗になるとは思わなかった。
「遥。昼飯はウチですき焼きや。お祝いやからな」
言えば、彼女は軽く頷く。関東の東城会四代目の、あの『堂島の龍』の娘が、目の前にいる澤村遥だった。
いつものリムジンで、龍司は遥を家に招いた。近江連合六代目の龍司の家は、実は南北朝時代から繋がる古いの家系だ。純日本家屋のお屋敷に、遥は何度か来た事があった。今では勝手知ったる他人の家だ。
いつもの、庭を見渡せる部屋に座卓を出し、カセットコンロと鉄鍋を出す。組の者が用意してくれた、野菜やら肉やらを机いっぱいに並べ、二人だけの合格祝いは始まった。
「美味しいね。関東の割り下も好きだけど、関西のも大好き!」
遥は幸せいっぱいの笑顔でねぎをつまむ。龍司はそれを見て、少しだけ心が痛んだ。
「遥は、学部は何や?」
龍司が聞くと、
「法学部。前も言ったジャン」
「そうやったな。私立だと、学費とかかかるやろ。金、大丈夫なんか?」
龍司が見る限り、桐生の家に金があるとは思えない。もし、奨学金なんか受けるくらいなら、一億くらいポンと出してやるつもりだった。それくらいしか、龍司にできる事は無い。
だが、遥は首を左右に振り
「大丈夫。おじさんがね、お父さんの遺産、手付かずで残しておいてくれたから」
「お父さん?」
龍司は思わず聞き返す。遥の口から初めて聞く言葉だった。
「うん。お父さん。神宮京平って言う名前で、代議士だったの・・・もう、死んじゃったけど」
遥は何でもないかのように言った。龍司には、覚えのある名前だった。随分昔の話だ。
「でね。戸籍上、お父さんの名前とかないんだけど、お父さんの奥さんって人がね、神宮家とは関係ありませんって念書を書く代わりに、一千万くれたの。おじさん、それをずっと取っといてくれたんだって。大学とか、結婚とかで必要になるだろうからって」
「そうかぁ」
肉を口に運びながら、龍司は言った。これで、憂いは無い。もう、何も考えないで済む。今日が最後の日だから。
食後のお茶が来て、遥は足を投げ出しながら窓の外を見ていた。木々の葉が落ちて、寒々とした庭に、さざんかの赤だけが目立った。
「この庭、雪降ったら綺麗だろうね。見に来てもいい?」
真っ直ぐな足をを撫でながら、遥が言う。
「雪降ったら、ここまで来るだけで大変やで?」
龍司が答えれば、遥はショボンと項垂れる。白いうなじが目にまぶしい。
「でもさ、こっちに住むんだから、近いよ?」
「車じゃなきゃ、来れんだろうが。雪の日に車なんて、危ないで?」
「そっか」
目を細める表情。黒く揺れる髪。龍司は深く息をはいた。
高校までは、自分が周りにいても問題無いと思っていた。だが、大学、就職と続く彼女の明るい未来に、極道である自分はいらない。遥は、光り輝く道を行く。その道に、影を落とすわけにはいかない。闇の中を生きる自分が、汚すわけにはいかない。
「遥。そろそろ帰らんと、遅くなるで。新大阪まで送るさかい、準備してな」
「うん」
遥は立ち上がった。龍司は目を伏せた。それから、意を決すると立ち上がった。
玄関で、遥がコートを着る。黒いコートは去年、龍司と一緒に出かけたとき買ったものだ。見つめながら、龍司は左手に持った日本刀を握り締めた。
その動きに、遥が顔を上げた。
「どうしたの?一緒に行かないの?」
見上げてくる視線が苦しい。龍司は、遥を睨んだ。
「遥とは、ここまでや」
「ここまでって?」
遥は、ただ見上げている。
「もう、ここへ来るな」
静かに、しかし強く龍司は言った。大抵の人間が怯む眼なのに、遥はまったく目を逸らす事無く、龍司を見つめた。
「どうして、来ちゃ駄目なの?」
問いかける声が、小さく響く。
「法律を勉強するんや。わかるやろ?」
これで全てが終わる。龍司は奥歯を強く噛んだ。
「そんなの、わからないよ」
遥が言う。龍司を見上げる、黒曜石の瞳。本当なら手放したくない。出来る事なら、永く共にありたかった。だが、それは許されない。許されないのだから。
「もう、来るな」
龍司は息をはき、刀の鯉口を切った。ゆっくりと抜き払い、きらりと輝く刃を遥に突きつける。
「遥。もう二度と、ワシの家の敷居を跨ぐな。跨いだら、お前でも叩き出す」
刃の向こうで、遥は首を左右に振った。
「嫌。そんなの嫌。絶対に嫌。それじゃあ、大阪の学校に入る意味がないもん」
「遥。お前のためや」
「そんなの、ちっとも私のためにならないよ」
美しい瞳に、涙が溜まる。透明な雫が頬を濡らす。
「私、少しでも側にいたいの。だから大阪の学校に入るの。だから、法律の勉強するの。少しでも側にいたいの・・・お願い」
訴える声。龍司は刀を引くと、鞘に収めた。
「遥。ワシは・・・」
「もう、言わないで!」
空いていた数歩の距離を飛び超え、遥が胸に飛び込んできた。龍司の背中に手を回し、しがみついてくる。
「・・・お願い・・・」
ぴたりと張り付く冷たい身体。小さな肩が震えていた。
「お願い・・・近くにいたいの・・・側にいたいの・・・」
涙声で言われて、龍司は深く息を吸う。開いている右腕で、細い肩を強く抱きしめた。
「アカン。ワシの居る世界は闇の中や。お天道様の下を歩けん、闇の世界や」
そっと囁けば、彼女は顔を上げた。
「そんな事知ってるよ・・・それでもいいの」
真っ赤になった眼と、真っ赤になった鼻と、涙で赤くなった頬。何も塗らなくても、紅に染まる唇。
「そばに居られれば、それでいいの。側にいたいの。私も同じ闇の中にいたいの」
「遥。ワシかてそうや」
龍司は眼を細め、一つ呼吸をしてから
「せやけど、住んでる世界が違うんや。ワシは、遥に、まっとうに生きてほしいんや」
まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だが、遥は首を左右に振り
「絶対、側にいる。龍司兄ちゃんが許さなくても、私はここに帰ってくる」
「遥・・・」
美しく輝く、強い意志を秘めた瞳。龍司は天井を見上げ、それから遥を見つめた。
「ワシと居ると、辛いで?」
「側にいられないほうが辛いよ」
遥が即座に答える。
「そうかぁ。なら、しゃーないな」
龍司は左手の刀を床に投げた。重い音に、遥が首を捻ったとき、その手で遥を抱きしめた。
「やっぱり嫌や言うても、後の祭りやで?」
「言わないよ」
両腕の中で、宝珠が鼻を啜る。長い間、欲しくて欲しくて、追い続けた珠。きっと、これが欲しかったから、自分は龍に生まれついたのではないかと思うほど、焦がれたものが両腕にある。
「覚悟は、ええな?」
改めて聞けば、彼女は強く頷いた。見上げてくる、赤く涙の痕の残る頬に、そっと唇を寄せる。
「くすぐったいよう」
遥が声を上げた。顔を離せば、服を掴んでいた手を離し、見上げたまま、眼を閉じた。
たぶん、自分はもう、この珠を離さないだろう。光の中に帰りたいというまで、決して手を離さない。
龍司は背中を丸め、ゆっくりと唇を重ねた。