1月の大阪は、冷たい北風が吹いていた。長く伸びる遊歩道の、両側に聳える広葉樹の木々は、全ての葉を落として、寒々と晴天の空を指していた。
その下を、龍司はゆっくりと歩いていく。それは、隣を歩く女性に合わせたものだった。
横には、黒いコートの女性がいた。同じように歩く、黒い髪。見上げる瞳は冬の夜空のように輝き、寒さのせいか、両頬は林檎のように赤かった。化粧一つしなくても、その美しさは際立っているな、と龍司は思う。
まだ高校3年生の彼女は、大阪の某有名私立大学に推薦入試で合格した。今日は入学手続きのために、わざわざ大阪まで来たのだ。
「ゴメンね。面倒な事につき合わせちゃって」
あざやかな笑顔。軽やかなステップで歩く足。出会った頃は、まだあどけない小学生だったのに、少し見ないうちに、すっかり大人になっていた。東京に仕事で出かけたときにちょくちょく会っていたが、こんなに綺麗になるとは思わなかった。
「遥。昼飯はウチですき焼きや。お祝いやからな」
言えば、彼女は軽く頷く。関東の東城会四代目の、あの『堂島の龍』の娘が、目の前にいる澤村遥だった。
いつものリムジンで、龍司は遥を家に招いた。近江連合六代目の龍司の家は、実は南北朝時代から繋がる古いの家系だ。純日本家屋のお屋敷に、遥は何度か来た事があった。今では勝手知ったる他人の家だ。
いつもの、庭を見渡せる部屋に座卓を出し、カセットコンロと鉄鍋を出す。組の者が用意してくれた、野菜やら肉やらを机いっぱいに並べ、二人だけの合格祝いは始まった。
「美味しいね。関東の割り下も好きだけど、関西のも大好き!」
遥は幸せいっぱいの笑顔でねぎをつまむ。龍司はそれを見て、少しだけ心が痛んだ。
「遥は、学部は何や?」
龍司が聞くと、
「法学部。前も言ったジャン」
「そうやったな。私立だと、学費とかかかるやろ。金、大丈夫なんか?」
龍司が見る限り、桐生の家に金があるとは思えない。もし、奨学金なんか受けるくらいなら、一億くらいポンと出してやるつもりだった。それくらいしか、龍司にできる事は無い。
だが、遥は首を左右に振り
「大丈夫。おじさんがね、お父さんの遺産、手付かずで残しておいてくれたから」
「お父さん?」
龍司は思わず聞き返す。遥の口から初めて聞く言葉だった。
「うん。お父さん。神宮京平って言う名前で、代議士だったの・・・もう、死んじゃったけど」
遥は何でもないかのように言った。龍司には、覚えのある名前だった。随分昔の話だ。
「でね。戸籍上、お父さんの名前とかないんだけど、お父さんの奥さんって人がね、神宮家とは関係ありませんって念書を書く代わりに、一千万くれたの。おじさん、それをずっと取っといてくれたんだって。大学とか、結婚とかで必要になるだろうからって」
「そうかぁ」
肉を口に運びながら、龍司は言った。これで、憂いは無い。もう、何も考えないで済む。今日が最後の日だから。
食後のお茶が来て、遥は足を投げ出しながら窓の外を見ていた。木々の葉が落ちて、寒々とした庭に、さざんかの赤だけが目立った。
「この庭、雪降ったら綺麗だろうね。見に来てもいい?」
真っ直ぐな足をを撫でながら、遥が言う。
「雪降ったら、ここまで来るだけで大変やで?」
龍司が答えれば、遥はショボンと項垂れる。白いうなじが目にまぶしい。
「でもさ、こっちに住むんだから、近いよ?」
「車じゃなきゃ、来れんだろうが。雪の日に車なんて、危ないで?」
「そっか」
目を細める表情。黒く揺れる髪。龍司は深く息をはいた。
高校までは、自分が周りにいても問題無いと思っていた。だが、大学、就職と続く彼女の明るい未来に、極道である自分はいらない。遥は、光り輝く道を行く。その道に、影を落とすわけにはいかない。闇の中を生きる自分が、汚すわけにはいかない。
「遥。そろそろ帰らんと、遅くなるで。新大阪まで送るさかい、準備してな」
「うん」
遥は立ち上がった。龍司は目を伏せた。それから、意を決すると立ち上がった。
玄関で、遥がコートを着る。黒いコートは去年、龍司と一緒に出かけたとき買ったものだ。見つめながら、龍司は左手に持った日本刀を握り締めた。
その動きに、遥が顔を上げた。
「どうしたの?一緒に行かないの?」
見上げてくる視線が苦しい。龍司は、遥を睨んだ。
「遥とは、ここまでや」
「ここまでって?」
遥は、ただ見上げている。
「もう、ここへ来るな」
静かに、しかし強く龍司は言った。大抵の人間が怯む眼なのに、遥はまったく目を逸らす事無く、龍司を見つめた。
「どうして、来ちゃ駄目なの?」
問いかける声が、小さく響く。
「法律を勉強するんや。わかるやろ?」
これで全てが終わる。龍司は奥歯を強く噛んだ。
「そんなの、わからないよ」
遥が言う。龍司を見上げる、黒曜石の瞳。本当なら手放したくない。出来る事なら、永く共にありたかった。だが、それは許されない。許されないのだから。
「もう、来るな」
龍司は息をはき、刀の鯉口を切った。ゆっくりと抜き払い、きらりと輝く刃を遥に突きつける。
「遥。もう二度と、ワシの家の敷居を跨ぐな。跨いだら、お前でも叩き出す」
刃の向こうで、遥は首を左右に振った。
「嫌。そんなの嫌。絶対に嫌。それじゃあ、大阪の学校に入る意味がないもん」
「遥。お前のためや」
「そんなの、ちっとも私のためにならないよ」
美しい瞳に、涙が溜まる。透明な雫が頬を濡らす。
「私、少しでも側にいたいの。だから大阪の学校に入るの。だから、法律の勉強するの。少しでも側にいたいの・・・お願い」
訴える声。龍司は刀を引くと、鞘に収めた。
「遥。ワシは・・・」
「もう、言わないで!」
空いていた数歩の距離を飛び超え、遥が胸に飛び込んできた。龍司の背中に手を回し、しがみついてくる。
「・・・お願い・・・」
ぴたりと張り付く冷たい身体。小さな肩が震えていた。
「お願い・・・近くにいたいの・・・側にいたいの・・・」
涙声で言われて、龍司は深く息を吸う。開いている右腕で、細い肩を強く抱きしめた。
「アカン。ワシの居る世界は闇の中や。お天道様の下を歩けん、闇の世界や」
そっと囁けば、彼女は顔を上げた。
「そんな事知ってるよ・・・それでもいいの」
真っ赤になった眼と、真っ赤になった鼻と、涙で赤くなった頬。何も塗らなくても、紅に染まる唇。
「そばに居られれば、それでいいの。側にいたいの。私も同じ闇の中にいたいの」
「遥。ワシかてそうや」
龍司は眼を細め、一つ呼吸をしてから
「せやけど、住んでる世界が違うんや。ワシは、遥に、まっとうに生きてほしいんや」
まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だが、遥は首を左右に振り
「絶対、側にいる。龍司兄ちゃんが許さなくても、私はここに帰ってくる」
「遥・・・」
美しく輝く、強い意志を秘めた瞳。龍司は天井を見上げ、それから遥を見つめた。
「ワシと居ると、辛いで?」
「側にいられないほうが辛いよ」
遥が即座に答える。
「そうかぁ。なら、しゃーないな」
龍司は左手の刀を床に投げた。重い音に、遥が首を捻ったとき、その手で遥を抱きしめた。
「やっぱり嫌や言うても、後の祭りやで?」
「言わないよ」
両腕の中で、宝珠が鼻を啜る。長い間、欲しくて欲しくて、追い続けた珠。きっと、これが欲しかったから、自分は龍に生まれついたのではないかと思うほど、焦がれたものが両腕にある。
「覚悟は、ええな?」
改めて聞けば、彼女は強く頷いた。見上げてくる、赤く涙の痕の残る頬に、そっと唇を寄せる。
「くすぐったいよう」
遥が声を上げた。顔を離せば、服を掴んでいた手を離し、見上げたまま、眼を閉じた。
たぶん、自分はもう、この珠を離さないだろう。光の中に帰りたいというまで、決して手を離さない。
龍司は背中を丸め、ゆっくりと唇を重ねた。
その下を、龍司はゆっくりと歩いていく。それは、隣を歩く女性に合わせたものだった。
横には、黒いコートの女性がいた。同じように歩く、黒い髪。見上げる瞳は冬の夜空のように輝き、寒さのせいか、両頬は林檎のように赤かった。化粧一つしなくても、その美しさは際立っているな、と龍司は思う。
まだ高校3年生の彼女は、大阪の某有名私立大学に推薦入試で合格した。今日は入学手続きのために、わざわざ大阪まで来たのだ。
「ゴメンね。面倒な事につき合わせちゃって」
あざやかな笑顔。軽やかなステップで歩く足。出会った頃は、まだあどけない小学生だったのに、少し見ないうちに、すっかり大人になっていた。東京に仕事で出かけたときにちょくちょく会っていたが、こんなに綺麗になるとは思わなかった。
「遥。昼飯はウチですき焼きや。お祝いやからな」
言えば、彼女は軽く頷く。関東の東城会四代目の、あの『堂島の龍』の娘が、目の前にいる澤村遥だった。
いつものリムジンで、龍司は遥を家に招いた。近江連合六代目の龍司の家は、実は南北朝時代から繋がる古いの家系だ。純日本家屋のお屋敷に、遥は何度か来た事があった。今では勝手知ったる他人の家だ。
いつもの、庭を見渡せる部屋に座卓を出し、カセットコンロと鉄鍋を出す。組の者が用意してくれた、野菜やら肉やらを机いっぱいに並べ、二人だけの合格祝いは始まった。
「美味しいね。関東の割り下も好きだけど、関西のも大好き!」
遥は幸せいっぱいの笑顔でねぎをつまむ。龍司はそれを見て、少しだけ心が痛んだ。
「遥は、学部は何や?」
龍司が聞くと、
「法学部。前も言ったジャン」
「そうやったな。私立だと、学費とかかかるやろ。金、大丈夫なんか?」
龍司が見る限り、桐生の家に金があるとは思えない。もし、奨学金なんか受けるくらいなら、一億くらいポンと出してやるつもりだった。それくらいしか、龍司にできる事は無い。
だが、遥は首を左右に振り
「大丈夫。おじさんがね、お父さんの遺産、手付かずで残しておいてくれたから」
「お父さん?」
龍司は思わず聞き返す。遥の口から初めて聞く言葉だった。
「うん。お父さん。神宮京平って言う名前で、代議士だったの・・・もう、死んじゃったけど」
遥は何でもないかのように言った。龍司には、覚えのある名前だった。随分昔の話だ。
「でね。戸籍上、お父さんの名前とかないんだけど、お父さんの奥さんって人がね、神宮家とは関係ありませんって念書を書く代わりに、一千万くれたの。おじさん、それをずっと取っといてくれたんだって。大学とか、結婚とかで必要になるだろうからって」
「そうかぁ」
肉を口に運びながら、龍司は言った。これで、憂いは無い。もう、何も考えないで済む。今日が最後の日だから。
食後のお茶が来て、遥は足を投げ出しながら窓の外を見ていた。木々の葉が落ちて、寒々とした庭に、さざんかの赤だけが目立った。
「この庭、雪降ったら綺麗だろうね。見に来てもいい?」
真っ直ぐな足をを撫でながら、遥が言う。
「雪降ったら、ここまで来るだけで大変やで?」
龍司が答えれば、遥はショボンと項垂れる。白いうなじが目にまぶしい。
「でもさ、こっちに住むんだから、近いよ?」
「車じゃなきゃ、来れんだろうが。雪の日に車なんて、危ないで?」
「そっか」
目を細める表情。黒く揺れる髪。龍司は深く息をはいた。
高校までは、自分が周りにいても問題無いと思っていた。だが、大学、就職と続く彼女の明るい未来に、極道である自分はいらない。遥は、光り輝く道を行く。その道に、影を落とすわけにはいかない。闇の中を生きる自分が、汚すわけにはいかない。
「遥。そろそろ帰らんと、遅くなるで。新大阪まで送るさかい、準備してな」
「うん」
遥は立ち上がった。龍司は目を伏せた。それから、意を決すると立ち上がった。
玄関で、遥がコートを着る。黒いコートは去年、龍司と一緒に出かけたとき買ったものだ。見つめながら、龍司は左手に持った日本刀を握り締めた。
その動きに、遥が顔を上げた。
「どうしたの?一緒に行かないの?」
見上げてくる視線が苦しい。龍司は、遥を睨んだ。
「遥とは、ここまでや」
「ここまでって?」
遥は、ただ見上げている。
「もう、ここへ来るな」
静かに、しかし強く龍司は言った。大抵の人間が怯む眼なのに、遥はまったく目を逸らす事無く、龍司を見つめた。
「どうして、来ちゃ駄目なの?」
問いかける声が、小さく響く。
「法律を勉強するんや。わかるやろ?」
これで全てが終わる。龍司は奥歯を強く噛んだ。
「そんなの、わからないよ」
遥が言う。龍司を見上げる、黒曜石の瞳。本当なら手放したくない。出来る事なら、永く共にありたかった。だが、それは許されない。許されないのだから。
「もう、来るな」
龍司は息をはき、刀の鯉口を切った。ゆっくりと抜き払い、きらりと輝く刃を遥に突きつける。
「遥。もう二度と、ワシの家の敷居を跨ぐな。跨いだら、お前でも叩き出す」
刃の向こうで、遥は首を左右に振った。
「嫌。そんなの嫌。絶対に嫌。それじゃあ、大阪の学校に入る意味がないもん」
「遥。お前のためや」
「そんなの、ちっとも私のためにならないよ」
美しい瞳に、涙が溜まる。透明な雫が頬を濡らす。
「私、少しでも側にいたいの。だから大阪の学校に入るの。だから、法律の勉強するの。少しでも側にいたいの・・・お願い」
訴える声。龍司は刀を引くと、鞘に収めた。
「遥。ワシは・・・」
「もう、言わないで!」
空いていた数歩の距離を飛び超え、遥が胸に飛び込んできた。龍司の背中に手を回し、しがみついてくる。
「・・・お願い・・・」
ぴたりと張り付く冷たい身体。小さな肩が震えていた。
「お願い・・・近くにいたいの・・・側にいたいの・・・」
涙声で言われて、龍司は深く息を吸う。開いている右腕で、細い肩を強く抱きしめた。
「アカン。ワシの居る世界は闇の中や。お天道様の下を歩けん、闇の世界や」
そっと囁けば、彼女は顔を上げた。
「そんな事知ってるよ・・・それでもいいの」
真っ赤になった眼と、真っ赤になった鼻と、涙で赤くなった頬。何も塗らなくても、紅に染まる唇。
「そばに居られれば、それでいいの。側にいたいの。私も同じ闇の中にいたいの」
「遥。ワシかてそうや」
龍司は眼を細め、一つ呼吸をしてから
「せやけど、住んでる世界が違うんや。ワシは、遥に、まっとうに生きてほしいんや」
まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だが、遥は首を左右に振り
「絶対、側にいる。龍司兄ちゃんが許さなくても、私はここに帰ってくる」
「遥・・・」
美しく輝く、強い意志を秘めた瞳。龍司は天井を見上げ、それから遥を見つめた。
「ワシと居ると、辛いで?」
「側にいられないほうが辛いよ」
遥が即座に答える。
「そうかぁ。なら、しゃーないな」
龍司は左手の刀を床に投げた。重い音に、遥が首を捻ったとき、その手で遥を抱きしめた。
「やっぱり嫌や言うても、後の祭りやで?」
「言わないよ」
両腕の中で、宝珠が鼻を啜る。長い間、欲しくて欲しくて、追い続けた珠。きっと、これが欲しかったから、自分は龍に生まれついたのではないかと思うほど、焦がれたものが両腕にある。
「覚悟は、ええな?」
改めて聞けば、彼女は強く頷いた。見上げてくる、赤く涙の痕の残る頬に、そっと唇を寄せる。
「くすぐったいよう」
遥が声を上げた。顔を離せば、服を掴んでいた手を離し、見上げたまま、眼を閉じた。
たぶん、自分はもう、この珠を離さないだろう。光の中に帰りたいというまで、決して手を離さない。
龍司は背中を丸め、ゆっくりと唇を重ねた。
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