『夢終庵二号店』ひかげやもり様から相互記念にいただきました!!
真桐ですよ…!感動しすぎて震えが止まりませんよどうしよう!
償いの方法
桐生は懇親の力を込めて真島の顔面に拳を叩きつけた。
どちらかというと華奢な体つきの真島はたやすく吹っ飛ぶが、またすぐ復活して抱きついてくる。
そんな不毛なやりとりが、真島のマンションでさっきから続いていた。
「兄さん!!料理中は抱きついてこないで下さいと何回言えばわかるんですか!!」
魚を捌いていた包丁を握ると、桐生はまだ床に転がった真島を睨みつける。
この男なら刺しても死なない気がするが、掃除が面倒くさい。
だが真島は桐生の気も知らず、殴られた鼻を押さえながらけらけらと笑った。
「そやかて、桐生ちゃんがあんまりかわええ格好しとんのやもん。それで抱きつかんかったら男ちゃうわ」
「…普通の男は、男相手に抱きつきませんけどね」
呆れた桐生に、真島はやはり笑う。
だが、真島の言い分も正しかったりするのだ。
今桐生が着ているエプロンは真っ白でフリルのついた、甘いデザインのものだった。これは、真島が用意したもの。
「そんなかわええ格好…怪我してみるのもんやで」
嬉しそうな真島に桐生は赤面してエプロンを見下ろした。
桐生が真島の家で、しかも真島の選んだエプロンをつけている理由は…一週間ほど前に遡る。
その日も真島は桐生に挑み、返り討ちにあった。
けれどそれはもう毎度のことなので、倒れて動かなくなった真島を捨てて、桐生は帰っていった。
だが、その後がいつもと違っていたのだ。
怪我をしてもすぐさま治るのが真島。
全治三ヶ月と言われても三日で復活してくるのが真島。
それが丸三日間、運ばれた病院で意識を取り戻さなかった。
四日目の朝、あっさりと目覚めた真島だっだ、退院を許されたのは今日で。
しかも、右腕が見事に折られていた。
やった本人である桐生も真島が昏睡状態であるときは死ぬほど心配をし、意識を取り戻してからは怪我を心配し、右腕の骨折は自分の事のように落ち込んだ。
そして、その時、せめて腕が治るまで身の回りの世話をすると言ったのだ。
「だ、だけどやっぱりこれは…!」
真っ赤になってエプロンを脱ごうとする桐生に、真島は慌てて止めに入る。
せめて、もう少しこの役得を味わっておきたい。
「わかった!!もう何もせぇへんから!!な!?」
「……ほんとですか?」
名残惜しいが、真島はガクガク頷いた。
「おう!それより、はよう桐生ちゃんの手料理が食べたいな~」
桐生は真島の笑みにいぶかしげな目を向けていたが…また、まな板の魚と向かいあった。
魚は捌くというよりも、解剖されたに近い状態になっているが、真島は桐生の隣でそれを楽しそうに見ていた。
できた料理はみんな見てくれは悪かったが、真島がついていたため味の方は問題無さそうだった。
テーブルに並んだ食事を前に二人は向かい合わせに座り…真島が機嫌良く口を開ける。
「あーん」
「………俺が、ですか?」
「当たり前やん。ワシ、いま箸持たれへんもん」
ギプスで固められた腕を振られては、桐生が断れるはずもなく。
大きくため息をつきながら、箸をとった。
「どうぞ」
差し出される一口ぶんのおかず。
しかし真島は口を開かなかった。
さっきはあんなに大きく口を開いていたくせに…と、桐生は小さく毒づいた。
「…………あーん」
「あーんvv」
なんだか、犬相手に餌付けしている気分だった。
真島からすればこれは「新婚さん」の行為なのだが…桐生はわざと気付かないよう努めた。
「次はそっち」
「はいはい、これですね」
きっと、
「一緒に風呂入ろか!!」
とか言って強制的に風呂場に連れて行かれたり、
「頭あろて欲しいなー」
と我が儘を言われたり、
「よっしゃ!!ほな寝よか!!」
…と、ベットに引きずり込まれ、抱き締められ、脱がされそうになるのに抵抗しながら一晩明かす事にならなければ。
桐生も真島の世話がまんざらでもなかった。
真島のマンションから桐生が逃げ出すのは、次の日の早朝の事だった。
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「ねぇおじさん、真島のおじさんって結婚してるの?」
「…………は?」
いつもと同じ様に二人で作った夕食を食べながら、その日にあった出来事を遥から聞いていた桐生は、いきなり振られたその話題に、思わず間の抜けた声を出してしまった。
「今日ね、事務所でみんなが<理想のタイプ>のお話ししてたの」
遥の言う"事務所"とは、真島建設の事務所の事だ。
時々仕事で帰りが遅くなる桐生は、一人で留守番をする遥を心配して、常々どこか信用の置けるところに預けるべきではないかと考えていた。
しかし今まで起きた事件の事を思うと、下手な所に預ける訳にはいかない。遥の身の安全を考えると、預ける先は極端に制限されてしまう。
そんな時、真島が「だったらウチに預けたら良いがな」と、いつのも人の悪い笑顔で立候補してきたのだ。
確かに、真島の元ならこれ以上なく安全だろう。
社長の真島を始め、従業員は皆元・真島組の構成員だ。腕に覚えのある男たちばかりなのだから、今までの様に簡単に遥が攫われてしまう事は無いはずだ。
だが、できるだけ遥を極道世界から離して育てたい桐生は、真島の申し出を素直に受け入れる事ができなかった。
最終的には本人の「真島のおじさんの所が良い」という一言に折れる形で、遥の真島事務所行きが決まったのだが、最近遥の言葉の端々に真島たちの影響が見え隠れして、桐生としては気が気ではない。
今日のこの話題にしても、年端もいかない子供の前でする話ではないだろう。
まったくあの男は何を考えているんだ。次に会うときにきつく言っておかないと。
そう思っていた矢先に先程の言葉だ。
桐生は口元まで運んだ箸を下ろしもせず。ポカンと遥を見つめていた。
「そしたら真島のおじさんが『世界中の女が束になってかかってきても、ワシのカミサンには適わへんで!』って」
遥はピヨちゃん柄の箸とお揃いのご飯茶碗を持ったまま話し続ける。
「《カミサン》って奥さんの事だよね?」
「…………あ、ああ」
何とか返事を返した桐生は、遥の言葉を頭の中で反芻する。
真島に。
あの真島に”奥さん”がいる?
「すっごく嬉しそうに奥さんの事話してたよ。聞いてる私たちが恥ずかしくなっちゃう位」
「そう、なのか」
遥はその時の様子を思い出したのだろう。ほんのりと頬を染めている。
桐生はというと、”真島の奥さん”という言葉が相当衝撃的だったのか、そんなかわいらしい遥の表情に気づきもせずに呆然としていた。
11年、いやそれ以上前から事あるごとに自分に付きまとってきた真島。
どれだけ邪険に扱っても、ヘラリとした顔で「桐生チャン、好っきやで~」と纏わり付いてきたあの男に”奥さん”がいると言う。
今だって町で顔をあわせれば、薄気味悪い程の素早さで自分に絡み付いてくるくせに。
毎週週末になると、酒を持参で桐生と遥のアパートに転がり込んでくるくせに。
遥が眠った頃を見計らって、自分にちょっかいを出してくるくせに。
”奥さん”がいると言う。
「真島のおじさん、奥さんがいたんだねぇ。おじさんは会ったことある?」
「いや、初耳だ」
「ふーん、そうなんだ。どんな人なんだろうね」
「さぁ、な」
いろんな意味で付き合いの深い桐生でも会った事の無い”真島の奥さん”の話はそれで終わり、遥の同級生の失敗談に話題が移った後も、桐生の脳裏には”真島の奥さん”の事で一杯で。
せっかく遥と二人で作ったハンバーグを味わう余裕もなくなってしまっていた。
翌日、またしても仕事で遅くなった桐生は、遥を迎えに真島建設の事務所に来ていた。
できることなら昨日の今日で真島の顔を見たくは無かったのだが、遥を預けたままには出来ないのだから仕方がない。
しかし一体、どんな顔をして真島に会えば良いのだろうか…
真島が”カミサン”と言い切る位なのだから、おそらく遊びではない筈だ。
ならばここは自分が身を引くべきなのだろう。
…いや、ちょっと待て。
《身を引く》なんて、まるで自分が真島に惚れている様ではないか。
自分は真島が余りにもしつこく言い寄ってくるものだから、ちょっと、その、絆されてと言うか流されてと言うか、まぁ、そんな感じで相手をしてやっていただけなのだ。
だから別に、真島にそういう相手がいても、別に全然関係ない。
そうだ。全然関係ないし、痛くも痒くもなんとも無い。
事務所の前で1時間ほどウダウダと思い悩んでいた桐生はようやくそう思い切ると、安いプレハブ建ての事務所のドアノブに手をかけた。
『せやから何べんも言うとるやろが!世界中の女が束になってかかってきても…』
『『『《ワシのカミサンには適わへん》』』』
何とも運の悪い事に、どうやら事務所内では、またしても真島の”カミサン”の話題になっているようだ。
せっかく思い切ってドアノブに手を掛けたのに、桐生はそれ以上動く事が出来ないでいた。
『なんや、解っとるやないか』
『でも親父、そないな風に言われたかて、その《カミサン》について具体的な事、いっこも教えてくれはらへんや無いですか』
『アホか!そんなん勿体無くてお前らなんぞに教えられるか!』
『いやでも、親父の奥さんだったら俺らの姐さんになる訳ですし、少し位教えてくれはってもええのんとちゃいますか?』
入り口前で立ち往生している桐生に気付く訳も無く、真島建設の面々は、真島の”カミサン”の話題で盛り上がり始めている。
ここは何気ない振りをして中に入り、遥を連れてさっさと帰るのが一番だろう。
真島がどんな態度を取るか気になる所だが、そんな事は知った事ではない。
再びドアノブを握る手に力を込めると、今度は遥の声が聞こえて来た。
『私も真島のおじさんの奥さんの事聞きたーい!』
『なんや、嬢ちゃんまで』
そうだ、遥。
何だってお前はそんなに真島の”カミサン”について知りたがるんだ…
『だってこの間桐生のおじさんに聞いてみたんだけど、桐生のおじさんも聞いた事無いって言ったたんだもん』
『おいおい、嬢ちゃん、桐生チャンに聞いてもうたんかいな???』
なんとなく慌てた様子の真島の声に、桐生の気分は更に下降した。
やはり自分には内緒にしていたのだ。
いや、別に、落ち込んでなどいない。
落ち込んでいる訳ではないが、なんとなく、心の奥に大きな石を抱え込んだような、そんな気持ちになっただけだ。
そうだ、別に落ち込んではいない。
『うん。でもおじさんも知らないって』
『しゃぁないなぁ…ほんじゃちぃとだけ教えたるわ』
「!!!!!」
真島自身が語る彼の”カミサン”。
聞きたくは無いが、いっその事聞いてしまった方が重たい気持ちもスッキリするのではないか。このままではモヤモヤとして気分が悪いだけだ。
そしてその"カミサン"の話を聞いたら、一切真島との付き合いを絶とう。
遥は寂しがるかもしれないが、こればっかりは譲れない。
桐生はそう決意をすると、事務所内の様子に耳をそばだてた。
『解っとるやろうけど、それ聞いて岡惚れでもしようもんなら、お前等皆殺しやで?』
『『『………………………う、ウィッス』』』
『で、真島のおじさんの奥さんってどんな人なの?』
『せやなぁ…まずはスタイル抜群や。背は高めで、巨乳でなぁ。尻もバーン!と張ってんねん。あれはまさに安産型やな』
そうか、真島は巨乳が好きだったのか。
まぁ同じ男としては解らなくも無い。
『デルモっすか?』
『さすが親父や!』
『アホか。そんなチャラチャラしたもんとちゃうわ。』
真島の答えと共にバキッと何かが折れる音がした。
おそらく棒状のもので誰かが殴られたのだろう。
『一見近寄りがたい雰囲気を全身から醸し出しとんのやけど、話してみると結構真面目での。一本筋の通った、真っ直ぐな人間なんや』
『ほほぉ』
『でな、厳つい顔しとるくせに子供が好きやねん。小さい子ぉと話す時は自分がしゃがんでちゃんと目線を合わせたるんや』
真島は”狂気”などと呼ばれている割りに、そういう常識的な人間を好む傾向がある。
彼らしい人選ではあるな、と桐生は小さく息を吐いた。
『っかぁ~!完璧やないですか!』
『一体どこでそんな上玉と知り合うたんですか。馴れ初めも教えてくださいよー!』
『お前等、調子に乗りすぎやぞ…まぁ今日は気分も良えしの。特別に教えたるわ』
嫌そうな口調ではあるが、その声色は間違いなく楽しそうで。
そんな風に”カミサン”について話す真島の様子に、桐生は胸の奥が更に重たくよどむのを感じた。
『ワシとカミサンが初めて会うたのはもう20年以上前やったかのう』
『結構古いお付き合いなんですね』
『あの頃のカミサンはまだまだ子供でなぁ、初めの頃はワシも大して興味を惹かれへんかった』
20年以上前といえば、桐生が初めて真島と出会った頃と重なる。
当時の自分は中学を卒業して堂島組に入ったばかりで、右も左もわからずに必死で使いッ走りをしていた。
その頃に真島はその”カミサン”と出会ったのか。
『それが日に日に大人になっていくのを見るうちに、なんや、こう、沸々と胸にこみ上げるものがでてきてのお』
『わかります!』
『大人の階段を昇る過程ってのは、危うい魅力がありますもんね!』
『そやねん!お前、よぉ解っとるやないか!』
ドゴォ!
今度は何か重たい物がぶつかる様な音がしてきた。
真島という男は、舎弟が口を滑らせても上手い事を言っても、結局は何かしらの暴力で対応する傍迷惑極まりない人物なのだ。
『まぁそん時はワシも嶋野の親父の組におったし、向こうは風間のオッサンの秘蔵ッ子でな、下手にちょっかいもだせんかったのよ』
『あー、風間の叔父貴のお知り合いやったんですか』
『街中で会うても挨拶くらいしかできんくてのぉ。向こうも恥ずかしがりなんか知らんけど、いっつもツれない態度ばかり取りおったんや…あの頃は切なかったでぇ』
結局その”カミサン”について聞いたところで、モヤモヤとした気分が晴れる訳も無く、こんな事なら最初から立ち聞きなどするのではなかったと、桐生が後悔し始めた頃、聞き捨てなら無い名前が真島の口から飛び出した。
聞き間違えでなければ、真島は今”風間のオッサン”と言わなかっただろうか?
風間の親ッさんの関係者なら、自分も会った事ががあるはずだ。
まさか真島の”カミサン”がそんな近くにいたとは。
桐生は手を掛けたままだったドアノブを思わずギリ…と握り締めた。
『でもそんな状態でよくモノにできましたね』
『そらお前、おしておして、押し捲ったのよ』
『マジっすか!』
『さすが親父、情熱的っすね!』
『当たり前やっちゅうねん!極上の相手モノにしよう思たら、恥も外聞もかなぐり捨てなあかんのや!!お、ワシいま、物凄いえぇ事言うたな。お前等、ちゃんとメモしとき』
『ウィッス!!!』
『…初めてカミサンと寝た夜は、そっらもう感動的やったでぇ。忘れもせん、15年前の冬や』
もう、だめだ。
15年前といえば、自分が真島と関係を持った頃と重なる。
背中に入れたばかりの刺青から発熱し、朦朧としていた自分を介抱してくれた真島の思いもよらない一面を見たのと、それまでに散々好きだの惚れただの言われていたのとに絆されて、関係を持ったのが15年前の冬の事。
つまり真島は、自分に言い寄っていたのと同じ様に、他にもそういう相手がいたのだ。
普段ならば「遥がいるのに、そんな話をするな」と、事務所内に乗り込んでいく所なのだが、いまの桐生はうめき声すら出せず、ただ氷のように冷たくなったドアノブを握り締めているだけだった。
『カミサンの背中に入れたばかりの龍が汗に塗れてえらい艶かしくてのぉ』
「……………え?」
ちょっと待て。
背中の…………………………………龍?
『り、龍…でっか?』
『そうや、名匠と言われたあのうた…』
「兄さん!」
桐生は事務所のドアを蹴破ると、突然の出来事に呆然としている真島の舎弟たちに見向きもせず、そのまま事務所の最奥の社長机にふんぞり返っている真島の元へ足音も荒く近づいていった。
「あ、桐生のおじさん」
「おう、桐生チャン、今日は随分ゆっくりなお迎えやな」
明らかにいつもの様子と違う桐生に気を止めることも無く、普段どおりに接する遥はやはり只者ではないのかもしれない。一方真島はと言うと、ニタリと人の悪い表情を浮かべて、ワザとらしく桐生へ笑いかけた。
「あんた…一体なに話してるんですか!!!」
「何って、馴れ初めやないかい、ワシと、桐生チャンの」
「な…!!!!」
その言葉に事務所内の空気が一気に凍りつく。
今まで自分たちは”親父のカミサン”について聞いていたのではなかったか?それがなぜ”親父と桐生の馴れ初め”になるのだろう…
つ……………つまり……………?
真島の舎弟たちは必死になって思い当たってしまった”その事”から考えを逸らせようと必死だった。
殺される。それに気付いたと桐生にバレたら間違いなく殺される。
桐生の全身から噴出している怒気と殺気に動じないのは、神室町広しと言えども遥と真島くらいのものだろう。
それなのに、真島は桐生を引き寄せると、気持ちが悪いほど全開の笑顔で言うのだ。
「ま、丁度ええ。今更紹介するのもなんやけどな、コレがワシの可愛い可愛いカミサ…ンーーーーー?!?!?!?!?」
「どっせぇぇぇぇぇぇぇぇぇーいっ!!!!!!!!!!」
真島が最後まで言い切る前に、桐生は真島の体を抱えあげると、2階建ての事務所の窓から外へと放り投げた。ぶち破られたガラス窓の破片と、2階から投げ落とされた衝撃で、いかに不死身な真島といえども、重傷は免れないだろう。
突然の事態に、桐生の殺気にあてられて凍り付いていた舎弟たちも窓際へ駆け寄り、階下の真島を心配そうに覗き込んだ。
…さすが真島だ。
全身の切り傷から血を吹き出させていても、まだ何とか蠢いている。
「お、親父ぃぃぃーーーーー!!!!!!!!!」
親父、頼むから起き上がってくれ!
自分たちではキレた桐生の叔父貴の相手なんて絶対に無理だ!!!
そんな切実な願いも虚しく、背後に迫ってきた桐生の気配に舎弟達は再び凍りついた。
「………テメェら………」
地を這うような桐生の声に、舎弟たちはもう生きた心地もしない。
「「「は、ハイッッッ!!!!!」」」
「今の話…他所でしたらどうなるか、わかってんだろうな…?」
「「「ハハハハハハハハハイィーーーーッ!!!!!!!!!!」」」
これ見よがしに拳を作り、パキパキと骨を鳴らす桐生の姿に、舎弟たちは直立不動で返事を返した。怖いもの知らずの武闘派連中でもやはり怖いものは怖いのだ。
真島がいない今、鬼の如き形相の桐生に勝てるものなど誰もいやしない。
「…真島のおじさんの奥さんって…」
「!!!!!!!!!は、遥………」
いや、一人だけいた。
「桐生のおじさん、だったの?」
小首をかしげて尋ねる遥に、桐生から発せられた殺気はなりを潜めた。
そして物凄く気まずそうに遥から目を逸らし、もごもごと口の中だけで返事をする。
「…ちがう」
「だって真島のおじさんが言ってたのって…」
「絶対に違う。真島の兄さんは、ちょっと、その、アレな人なんだ」
「えー、でも…」
「絶・対・に・違・う!!」
遥に手を引かれて事務所を出て行く桐生の後姿を、息を詰めて見ていた舎弟たちは、そっと振り返ってウィンクをした遥の様子に、天使を見たとか鬼を見たとか。
そしてこの日以来、遥は”真島のおじさんの奥さん”について話をすることは無くなり、桐生もそれについて全く触れようともしなかった。
ただ、真島についてはずいぶん長い間桐生家への出入りが禁じられていた様だ。
その出入り禁止が解かれたのにも、遥が一枚噛んでいた様で、真島建設内ではまことしやかに「お嬢最強説」が流れて行くのだった。
「全く…ウチのカミサンは照れ屋やのぉ…」
「喧嘩の極意」
平日の繁華街は暇をもてあましたような人々が行き交う。周囲を取り囲むのは、色あせた看板や、ひび割れたビルの壁。
道路には破れて汚れきったチラシが木枯らしに舞った。
夜とはうってかわって閑散とした飲み屋街を歩く少女がいる。赤いランドセルを背負ってはいるが、今の時刻は学校に
行くにはあまりにも遅すぎた。あてどもなく歩く少女の顔は目に見えて暗い。時折小さな口から吐き出される溜息が彼女の
心中を物語っていた。
少女は、ふと広場の近くにあるゲームセンターに立ち寄った。プリクラ、UFOキャッチャー、格闘ゲーム……所持金の
少ない彼女にはどれも高価だ。しかし、今の少女にはお金はあってもゲームをやる気もないのだろう、めまぐるしく変わる
リプレイ画面をぼんやり眺めていた。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
ふいに声をかけられた。
驚いてふりむくと、後ろには三人の若い男が笑っている。しかし、その笑顔は気分を不快にさせるだけの下卑たものだった。
「……どうもしない」
臆せず返答する少女に面食らったのか、青年達は一瞬顔を見合わせ、また笑った。何度見ても、嫌な笑いだ。
「お嬢ちゃん不良?ダメだよ~こんなところに一人でいたら」
「悪ーい奴に攫われちゃうよ?」
「だ・か・ら、俺達がおうちまで送って行ってあげるよ。ね?」
少女は眉をひそめた。この人たちと関わってはいけない、離れなければ。本能がそう言っていた。
「結構です。さよなら」
冷たく告げて去ろうとしたが、男の一人がランドセルを掴んだ。
「お~っと。遠慮しないでよ~大丈夫だって、ちゃんと送るからさ。」
「でも、その前に楽しいところに寄ろうね!」
「馬っ鹿。おまえそんな本当のこと~」
何がおかしいのか、三人は大声で笑っている。少女は掴んだ手を振りきろうとするが、子供の力ではどうにもならない。
男は声を低めて少女にささやいた。
「逃げないでよ……こんなところに一人でいるのが悪いんだよ?」
ひどい悪寒がはしった。店員を呼ぼうにも、運が悪く店内にはいない。怖い。助けて!少女が悲鳴を上げようとした時だった。
「あらららら~?自分らワシの大切な知り合いに何か用?」
三人が思わず声のした方を向くと、一人の男が立っていた。短く刈り上げた髪、痩せぎすだがよく鍛えられた体に纏った
黄色のジャケットがよく目立つ。そして、一番目をひくのは、男の左目を覆う黒い眼帯だ。少女は男をよく知っていた。
「真島のおじさん!」
男達は彼の登場に一瞬ひるんだが、自分達が多勢の余裕か、男……真島に声を荒げた。
「な、なんだよお前。ウザいんだよ。あっちいけよ!」
「痛い目見んぞ!あぁ?!」
口々に発せられる怒声に、真島の口元には笑みが浮かんだ。ただし、目は鋭いままだ。
「ええなぁ、そのキャンキャン鳴く声。この街で、そんな口叩く奴はもうおれへんと思たんやけどなぁ。
久々に言われたら……なんか興奮してきたわ」
軽口をたたきつつも威圧感に満ちた声は、かつて少女が幾度も聞いた狂気の潜むあの声だ。ただ、興奮気味の男達には
そのただならぬ雰囲気が伝わっていないようだ。一人が真島の胸倉を掴もうと詰め寄った
「あんまりふざけた口きいてたら殺すぞオッサン!」
「おじさん!」
思わず少女が叫ぶ。しかし、掴みかかろうとした男は、仲間達に背を向けたきり一言も発さない。真島は心底だるそうに
首を回した。
「な、なにしてんだよ。早くやっちまえよ!」
別の男が声を上げる。しかし、黙りこくった男はそのまま崩れ落ちるように倒れこんだ。真島は拍子抜けしたように顔をかいた。
「なんや、蹴りひとつでダウンかいな。桐生ちゃんならこれくらい余裕で避けとるで」
「こ、この……!ふざけんな!」
少女を捕まえていた男がもう一人に彼女を押し付け、真島に向かっていく。右、左と拳を繰り出すが、彼にはかすりもしない。
むしろ真島は避けるのを楽しそうにしている。玩具を見つけた子供のような顔だ。
「くそ……なんで当たんねえんだよ!」
「そりゃあ、簡単なことや」
真島は打ってきた男の腕を掴むとあっという間に体を屈め、投げ飛ばした。男はくぐもった声を上げ、仰向けのまま
立ち上がれずにいる。彼はそこに近づき、男の顔を覗き込んだ。
「ワシの方が強い。それだけやろ」
次の瞬間、躊躇いなく男の顔に真島の足がめり込んだ。出会ってわずか何秒かで二人が床に這った。残りの一人は
目の前の光景が信じられずに立ちつくしている。
「さて、最後はお前やな。どうしよかな~?」
自分に視線が向けられ、流石に危険を悟ったのか男は少女から手を離した。
「あ、や、俺はやめようっていったんです、けど。こいつらが勝手に。あは、あはは、し、失礼します!」
「待てや!」
逃げようとした男に、真島はそこにあった椅子を投げつける。それは見事に後頭部に直撃し、男はそのまま倒れこんだ
しかし、まだ意識はあるらしい。這いずって逃げようとしている男を追い詰めるように、真島はゆっくり歩み寄った。
「ワシがどうしよか悩んでるときに逃げるからやんか~悪い子やなあ」
「す、すみません!もうしないんで、許してください!」
「何言うてんねんな。許すもなにも、この子のことは関係あれへん。ワシは無駄に威勢のいい自分らと遊びたいだけや」
「か、金ならこれだけあります!ほ、他に何もないです!足りないなら他の奴のも渡します!!」
言うが早いか、男はあたふたと自分の財布から紙幣を掴み、他の倒れてる男達のポケットからも金を抜き取り、差し出した。
受け取った真島は金を数え、大げさに溜息をつき、かぶりを振った。
「三人でしめて6万7千円!この子となんぞしようと思ったにしてはしょぼい、しょぼいわ自分ら!ま、それはおいといて。
ええか?ワシはお金が欲しいんと違うねん。さっきみたいな威勢で遊んで欲しいだけやねん……来いや」
横で聞いていた少女でさえ、最後の声は身がすくんだ。言われた当人はすでに戦意を喪失している。
真島は男の正面にしゃがみこみ、大きく溜息をついた。
「しかたないわ。じゃ、今日はこの金で許したろ」
一瞬ほっとした男の後頭部を引っ掴み、真島は床にその顔を叩きつけた。嫌な音がして、男は動きを止めた。
「しまった。手が滑ってもうた。かんにんな」
しれっと言い、立ち上がると真島は両手をはらった。そして、呆然としている少女に今度は至極無邪気に笑いかけた
「正義のヒーロー登場や。遥ちゃん」
「今帰ったで~」
「あ、真島さん。お帰り……?」
真島が帰ると、真島組の事務所がにわかに活気が出る。しかし、今日はいつもと違うようだ。皆、真島の影から顔を覗かせた
少女、遥に目が釘付けだ。
「あの、真島さんこの子どこかで……」
思わず口を開いた男を遥は以前見たことがあった。自分が攫われた時に見た顔だ。真島は手を振った
「細かいことは言いっこなしや。そだ、これでなんか甘いもん買うてきて。それと……遥ちゃん飲むもん何がいい?」
真島の差し出した『これ』とは、さっきの男から貰った金だ。遥は急に聞かれたので、慌てて考えた。
「え、あの……それじゃあ『なっちゃん』」
「『なっちゃん』やて。それも買うてきたって。」
「あ、はい!今すぐ!」
組員が金を受け取ると事務所を出ていく、その背中に真島は声をかけた
「ええか?!『なっちゃん』の一番美味しいとこやで!」
「は?はい!」
遠くで返事がする。なっちゃんの一番美味しいとこ?遥は少々悩んだが放っておいた。
「ま、座りや。」
真島は遥に事務所の一番奥にあるソファーに遥を促した。あの後、遥をこのまま街中に置いておいたら補導されかねないと
自分の事務所に来ることを提案した。彼にしては至極まともな意見だったので、なんとなく遥も承諾した。学校へ行く気には
到底なれなかったのだ。遥は真島を前にして少し緊張しながら頭を下げた
「あの、さっきはありがとう……ございます」
「タメ口でええて。さっきのことはかめへんよ。ワシも暴れたかったしな」
沈黙。遥は何を話していいか分からない。真島は目の前にどっかり座ったまま窓の外を眺めている。
彼は以前会った時と印象が全く違った。あのときは桐生に対しての戦意に満ち、好敵手との戦いを前に気分が高揚していた。
触れば切り裂かれそうな危うい感覚。それが今は影も形もない。
「桐生ちゃんは知ってんのか?」
ぽつりと尋ねられる。遥が学校に行ってないことについてだろう。それはこの姿と、この時間街を徘徊していることから
用意に見当はつく。遥は首を振った。
「ううん……」
「そか」
再び沈黙する。パーテーションの向こうでは、組員達が帳簿をつけたり電話したりと普通に会社のようだ。
遥が珍しそうに眺めているのを見て、真島は笑った。
「めっちゃ普通やろ」
「う、うん」
「やくざ言うてもやらなあかんことは沢山あんねん。取立て行ったり、みかじめ回収したり。ワシは面倒やから全部
あいつら任せやけどな」
へえ、と遥は男達を見つめた。時折興味深く遥を見る組員と目が合う。そのたびに男達は遥に会釈をした。
「礼儀正しいんだね」
「何もしてへんカタギにはな。ま、ワシがみっちり教育したったから当然やけどな!」
自慢げに胸をはる真島を見て、遥は思わず笑った。それを見て彼は指をさす。
「ああ、笑った。初めてみたわ」
真島の言葉に遥は驚く。そういえば、この人と会うときはいつも殺伐としていて、笑っていられる状況ではなかった。
彼の思わぬ指摘に、恥ずかしそうに俯くと彼は頬杖をついた。
「なんか、あったんか」
「え……?」
「ガッコ、行かへんねやろ?ま、言いたないんならいいけど」
遥の表情が曇る。しばらく黙っていたが、視線を膝に落としたまま口を開いた。
「……言われるの」
「あ?」
「学校の子に言われるの。『おまえの保護者はやくざだ』って。『犯罪者だ』って……。黒板に書かれたり、ノートに落書き
されたりするし……だから、行きたくない」
あちゃー……と真島は頭をかく。予想通りの答えだったらしい。
「ま、あながち違うとも言えんしな。ええやん、言わせとき」
「嫌!」
思わず大きな声を出した遥を真島は驚いた顔で見つめた。事務所も一瞬静かになったが、やがて元の喧騒に包まれた。
「私ならなんとだって言われてもいいの。落書きだって私のことだったら我慢する。ただ、桐生のおじさんのことだけは、
そういうこと言って欲しくないの。でもいつまでも言われるから……もう聞きたくなくて」
「遥ちゃんは、どうしたいんや?」
遥は黙る。彼女にもどうしたらいいか分からなかった。どうしたらこの嫌な状況から抜け出せるのか。ただ、こうやっていても
何も変わらないことはわかる。それに、経済的にも余裕がないのに、学校に行かせてくれている桐生にも申し訳なかった。
「喧嘩、したらええねん」
真島の言葉に遥は顔を上げた。彼は笑っている。
「ワシならそうする。言うてほしないって、そう言って聞いてもらえんかったら拳で決着つけたらええねん」
「む、無理だよ。先生に叱られちゃうよ」
「先公なんてほっとき。口で言って分からん相手に理屈なんて通じひん。ワシが勝ったら言うのやめてて約束させや」
「相手は男の子だよ。5人くらいいるのに」
突然出てきた遥をいじめている相手の詳細に、真島は両手をテーブルに叩きつけた。その音の大きさに遥がすくみ上がる
「なんやて!男5人がかりで女の子いじめてるやて?男の風上にも置けんやっちゃ!言うてみ、ワシが話しつけたる!」
「い、いいよ。おじさんは気にしないで……」
「いくない!まったく今日びのガキは大勢で女に絡むんか。しょーもな。ええか?こうなったらやっぱり喧嘩や!拳や!
人数合わんかったら武器でも何でも使ったらええねん。これで五分五分や」
五分五分か?遥は考えこんだが、上手く丸め込まれている気がして武器の件は考えるのをやめた。
「でも、喧嘩なんてしたらショーガイで捕まっちゃう」
ニュースで聞きかじった単語を出す。おそらくこういうことなのだろうと思っていた。捕まったりしたらそれこそ桐生に
迷惑がかかる。それだけはごめんだ。しかし、真島は親指を立ててみせた。
「大丈夫、相手に先一発殴らせれば、後は十分正当防衛や!」
「そういう問題じゃないよ~」
泣きそうな声を上げる遥を笑い、真島は長い足を組んだ。
「それは半分冗談としてやな。」
半分本気だったんだ。遥は心の中で突っ込む。どうも真島の話には突っこみを入れたくなるのは何故なのだろう。
「やってみ、喧嘩」
遥はまっすぐに真島を見つめた。
「口でもなんでもいいからとことん話してみ。ええやないか殴りあったって。タマの取り合いするわけでなし。
後で親が何か言ってきたら桐生ちゃんに任せたらええ。子の不始末の責任を取る。それが親っちゅうもんやろ。」
遥は真島の言葉を黙って聞いている。素直に聞けるのは、彼もまたこの世界で『親』の立場だからなのだろう。
それにな、と真島は大げさに声を潜めた
「もし女に喧嘩で負けたら男は親にもよう言わんて。プライドの塊やからな!それでも親に泣きつくような女々しい奴
やったらワシに言いや。親共々ナシつけたるわ」
「……うん!私、もう一度話し合ってみる。ダメなら喧嘩、してみるよ」
ふっきれたような遥の笑顔に、真島は満足そうに頷いた。
「よっしゃ!じゃワシの喧嘩の極意教えたろ。それにはまず、あれ食ってからな」
真島が指さすと、丁度事務所に買いだしに行っていた組員が戻ってくる。預けられたお金全部でお菓子を買ったのか、
前が見えないくらいの紙袋を抱えていた。
「か、買って来ました」
「ご苦労さん。さ、お待ちかねの『なっちゃん』やで遥ちゃん。一番美味しいところや」
「ありがとう……ね、真島のおじさん」
「なんや?」
「なっちゃんの一番美味しいところって、どこ?」
遥の素直なツッコミに、組員達が声をかみ殺して笑っている。真島は絶望をにじませた表情で頭を抱えた。
「アカン!アカンわ遥ちゃん。そんな無垢なツッコミ、桐生ちゃんそっくりや!ボケ殺しや~ってアホ!」
真島はおもむろに菓子を置いていた組員の頭を殴る。なんともいい音がした。組員は何故殴られたのかわからないまま
素直に謝った。
「す、すみません」
「まあええわ。遠慮せず食べや。これはあいつらから遥ちゃんへの迷惑料や」
遥の目の前に、食べきれないほどのお菓子が並ぶ。彼女は嬉しそうにお礼を言い、ジュースを飲んだ。
その時事務所の外で騒がしい物音がする。気がつけば他の組員達は一人も事務所にいなかった。
「なんや、えらい騒がしいな」
遠くでは「落ち着いてください」「何もしてません」などと叫ぶ声、そして物が壊されるような音も立て続けに聞こえた。
その尋常でない雰囲気で何が起きたのかわかったのか、真島はこのうえなく嬉しそうな顔をした。
「このことになると人の話を聞かんなあ、あの男は」
「なんなの?おじさん」
「まあ、待っときや遥ちゃん。もうすぐ正真正銘の正義のヒーローが来るで」
もしかして……遥が一人の人物を思ったとき、事務所の扉がけたたましく蹴破られた。
「遥!」
その人物は遥の名を呼ぶ。それは彼女が思い描いていた男だった。
「桐生のおじさん!」
かけ寄ろうとする遥を制して真島が立ち上がった。
「ヒーロー登場やな桐生ちゃん。」
「兄さん、何故遥をこんなところに!」
「ナンパしたんや。な?遥ちゃん」
「真島のおじさん。そんなこと言っちゃダメだよ~」
真島は桐生の怒りを煽ってたのしんでいるようだ。遥がいさめるのも聞いていない。
「遥を返してもらいます」
「いややなあ。そうや、遥ちゃんうちの組においで。お茶運びとかさせたるし。ええマスコットや」
「兄さん!」
のらりくらりと話を茶化す真島に業を煮やして桐生は真島に殴りかかった。真島は拳を受け流して下段に流し、上体を
下げさせると、すかさずヘッドロックをかけた。
「に、兄さ……」
「頭に血い上った桐生ちゃんなんて相手にならんわ。やりあうのはまたな。遥ちゃんは昼間に街にいたから連れてきた
だけやし。頼むわ、落ち着いたって」
真島の冷静さが伝染したのか、桐生は状況を把握できたようだ。真島が彼を解放すると深々と頭を下げた。
「す、すみません。大変な勘違いをしてしまって……」
「ええ、ええ。貸しにしとくわ。遥ちゃん、桐生ちゃん落ち着いたから来いや」
遥が申し訳なさそうにやってきた。桐生は腰に手を当てて彼女を見下ろす。
「昼間に街にいたのは本当か?」
「うん」
「学校は行かなかったのか?」
「……うん」
「そうか」
桐生は俯く彼女の前にしゃがみこんで、まっすぐに彼女の目を見つめた。そして、彼女に手を伸ばすと、その大きな手で
彼女の頬をぱちん、と叩いた。痛みよりその行為に驚いている遥に桐生はぽつりと告げた。
「心配した」
「うん」
「……無事でよかった」
「ごめん、なさい……」
大きな瞳から涙がこぼれる。叱られたことより桐生にそんな悲しい顔をさせていることが辛くて、胸が苦しい。
「痛かったか?」
遥は首を横に振る。ほっとしたように桐生は頭を撫でた。彼女は桐生の首に抱きついて少しだけ泣いた。
「はいお2人さんそこで終了~さっさと帰りや。」
真島の声で我に返ったのか、桐生は顔を赤らめて立ち上がった。あれだけの大立ち回りをしでかしたからか
ばつが悪い。
「すみません、兄さん。今日はこれで。後ほどお詫びにあがります」
「ええよ。そのかわり、ちょっと遥ちゃんと話させてや」
桐生は首をかしげる。いつの間にこんなに仲良くなったんだろう、この二人。真島は彼女にお菓子を全部渡して
にやりと笑った。
「喧嘩の極意や遥ちゃん」
「あ、うん!」
身構える遥に、真島は腕を組んで告げた。
「目を逸らさんことや。」
「目を……?」
「そうや。喧嘩中何があっても、こいつ、と決めたらそいつから目を逸らさんこっちゃ。逸らしたら負ける、
絶対逃げたらアカン。」
遥は大きく頷く。桐生は何がどうなっているのかわからないようだ。
「ワシが言えるんはそれだけや。いっちょ『男』の意地見せて来いや!」
「うん!ありがとう、真島のおじさん!」
「兄さん、遥に変なこと教えないでください」
桐生の言葉に真島はがっくり肩を落とした。
「突っ込む場所違うがな……やっぱボケ殺しや桐生ちゃん」
後日、遥はいじめっ子相手に完全勝利を得ることとなる。いじめっこたちは幸いにも真島の言った通り表沙汰にはせず、
いじめも鳴りを潜めた。こうして、ようやく遥は学校での安息の日々を過ごす事となる。
この事件がきっかけで、遥は時折真島と会っているようだ。桐生はそれを容認してはいるが、心中穏やかではないようだ。
どうか遥は人の道を踏み外さないようにと、当分由美の遺影前で祈る姿があったという。
-終-
(20061204)
「冬の贈り物」
「遥ちゃんじゃない?」
突然呼び止められ、振り向くとブレザーの制服を着た少女が立っていた。
その少女に以前会ったような気がする。遥は記憶を手繰り寄せ、慎重にその名を呼んだ。
「え……っと。沙耶ちゃん、だよね?」
「あたりー。結構前に会ったきりだもんね、覚えてないか。」
沙耶が残念そうな顔をするのを見、遥は慌てて訂正した。
「覚えてるよ!でも、なんか今日の沙耶ちゃんはいつもと違うから…」
そう、今日の沙耶は以前会った時と違っていた。紙の色は落ち着いたブラウン、化粧もナチュラルで前のような派手さは
微塵も感じなかった。それを聞くと沙耶は少し顔を赤らめて笑う。
「あぁ、お父さんがうるさいんだよね。やれスカートの丈が短いだの、化粧が濃いだの、喋り方が乱暴だの……
確かに前の私は派手すぎたよね。あ、それとも今の私地味すぎ?」
問われ、遥は笑顔で大きく首を振った。
「そんなことないよ!沙耶ちゃん、そっちのほうが可愛い!」
彼女の素直な感想に、いささか沙耶も照れたのか小声で礼を言った。
「沙耶ちゃん、今日はどうしたの?大きな紙袋だね」
ずっと気になっていた。彼女が抱えている茶色の大きな紙袋。遥に尋ねられ沙耶はああ、と袋を覗いた。
「あ、これ?これは……そうだ、遥ちゃんもやってみる?」
冬にしては暖かな昼下がり、二人は公園のベンチに並んで腰掛けていた。遥の両手には竹製の長い棒が二本。
そこから濃紺の毛糸が伸びている。遥は教えてもらいながらたどたどしい手つきで毛糸と格闘している。
「沙耶ちゃんは編み物やるんだ、私に出来るかな~」
彼女の袋の中身は編み物セットだった。沙耶は笑顔で答える。
「元々こういうことが好きだったんだよね。高校に上がってからはしなかったんだけどさ。
大丈夫、遥ちゃんならできるよ。私も小学校の低学年くらいからマフラー編めたもん」
「でも、いいの?毛糸と編み棒使っちゃって」
「大丈夫。家にも編み棒はあるし、毛糸は色を迷っちゃって各色多めに買ってあるんだ」
「ありがとう、沙耶ちゃん!」
沙耶は喜ぶ遥の頭を優しく撫でた。
「これであの時のお礼ができるとは思ってないけど、お詫びくらいになるかな?」
沙耶がホストのために起こした事件のことを言っているのだろう。遥は彼女の顔を覗き込んだ。
「沙耶ちゃんが伊達のおじさんと仲良くできて、今幸せならいいんだよ?」
「遥ちゃん……」
「それに、こうやってると沙耶ちゃんと私、姉妹みたい。お姉さんができたみたいで嬉しいな!」
屈託のない笑顔だ。沙耶は嬉しそうに礼を言うと、編み物の説明を再開した。
1時間後、沙耶は説明を終え遥に告げた。
「それじゃ、私は家に帰るね。遥ちゃんはまだここにいるの?」
「うん。外もあったかいし、早く編みたいから!」
「そっか。それじゃ、気をつけてね」
「沙耶ちゃん、ありがとう~!」
お互いに手を振り合って別れ、遥は再びマフラーを編み始める。基本さえ掴めばあとはその繰り返しだ。
せっせと編み進めていると、ふと声をかけられた。
「あれ、遥ちゃん?」
目の前に、髪を短く刈った男が驚いた顔で立っていた。桐生の舎弟だったシンジだ。
「シンジくんだ。どうしたの?」
「そっちこそどうしたんだ?何、編み物?」
「うん。マフラー!桐生のおじさんにあげるんだ!」
桐生の名を聞き、シンジの目の色が変わった。
「き、桐生の兄さんに……」
「うん」
頷く遥にシンジは突然両手を合わせた。
「それ!少しやらせてください!」
しばらくぽかんとしていた遥は、とまどいがちに編み棒を差し出した。
「……いいよ」
「恩に着ます!!」
遥はさっき習ったとおりに編み方をシンジに伝える。元来不器用な男らしく、一生懸命さは認めるが一向に上達しない。
しかし、三、四段編むと満足したようにそれを返した。
「ありがとうございます!それじゃ、俺まだ用があるんで!」」
「うん。シンジ君ばいば~い」
シンジは鼻歌交じりに去っていく。遥はまた一人作業を進めた。公園では暇をもてあましている会社員の男や、
タクシーの運転手などが時間をつぶしている。時折見知ったホームレスが通りかかって遥に挨拶をした。
そんな中、遥は時間も忘れ編み物に没頭していた。
「遥ちゃん」
しばらくの後、名前を呼ばれた。手を止めて声の方を向くと、上品な女性と腕を組みこちらを見ている男がいた。
「えっと~あの人は……」
名前が出なくて悩んでいると、男の隣にいた女性が不満げな声を上げた。
「一輝さ~ん。この子誰?」
それで遥もやっと思い出す。あのホストクラブにいた人だ。
「ああ!一輝お兄ちゃんだ」
名を呼んでくれたのが嬉しいのか、女性を待たせて彼が寄ってきた。
「何やってるの?」
「編み物。マフラーを桐生のおじさんに編むのよ」
「編み物か。懐かしいな……前にそういうのが好きな女の子がお客様にいてね…ちょっと貸して」
遥が編み棒を手渡すと一輝は器用にすいすい編んでいく。二段くらい編んだだろうか、彼は極上の笑顔で返してくれた。
「桐生さんによろしく」
「は~い。お兄ちゃんもがんばってね~」
一輝が去り、そして遥はまた一人になった。
「遥」
低音の心地よい声がした。杖をついてたたずむ男。髭を蓄えた厳しい顔つきが、今は少し和らいでいる。
「風間のおじさん」
「シンジに聞いたよ。編み物だって?一馬も幸せ者だな」
遥の隣に座ると風間は彼女に缶ジュースを渡した。暖かいロイヤルミルクティーは冷えた手にぬくもりを与えた。
「ありがとう、おじさん」
「マフラー、よくできているな、遥」
遥はミルクティーを飲みながら嬉しそうに笑った。
「えへへ。でもね、いろんな人が編んでくれちゃった」
そうか。風間は少し考える。そしておもむろにその編み棒を手にとった。
「では自分も参加させてもらおうかな」
「できるの?おじさん」
「こういうものは、少し観察すればどういう構成なのかわかるものさ」
そういうもの?遥は疑問に思ったが、黙っていた。風間は自分の発言を裏付けるように自己流で編んでいく。
遥も横から覗いたが、完璧だ。
「これでいいのだろう?」
「すごーい。風間のおじさんって何でもできるんだね!」
「……なんでも、というわけではないがね」
彼は寂しそうに微笑み、席を立った。
「そろそろ戻らないとな。遥、あまり外にいたら風邪をひくぞ」
風間にとって、編み物は口実で、実は遥が心配だったようだ。遥は大きく手を振った。
「はーい!ありがとう、風間のおじさん!」
風間が去り、しばらくすると少し陽が傾いてきた。そろそろこの街も夜に侵食されていくだろう。
マフラーもだいぶんできてきた。このぶんだと今日できるかも。遥が嬉しく思ったときだった。
「あっれ~。遥チャンやないか~!!」
幾度か聞いた訛りの強い口調に、遥は思わず手を止めた。
「あ、おじさんは……」
夜になり、桐生は伊達と賽の河原で落ち合った。ちょっとした近況報告と、これからバンタムで一杯飲りにいくか
などと話していた時、遥がやっと戻ってきた。
「遅いぞ。なにやってた」
桐生が叱ると彼女は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい。伊達のおじさんこんばんは。大変だった……終わらなくて……」
「終わらなくて?」
伊達が聞き返す。遥は少々疲れた顔だったが、思い出したように手に持っていたものを桐生に差し出した。
「そうだ、これ!マフラーなんだけどおじさんにプレゼント!」
「これ……遥が?」
驚いたようにマフラーを眺め、桐生は問いかけた。
「うん。頑張ったんだよ~巻いてみて、おじさん!」
「やるなぁ、桐生。幸せ者め」
伊達に冷やかされ、桐生は照れくさそうに頭をかくと、マフラーを首に巻いた。とても暖かい。
嬉しそうに微笑むと、桐生は遥の頭を撫でた。
「ありがとうな、遥」
遥も桐生の反応に嬉しそうだ。彼女はマフラーに触れて話し始めた。
「よかった。でもね、そのマフラーすごいのよ。いろんな人が編んでくれたの」
「……え?」
遥は桐生からマフラーを渡してもらうと説明を始めた。
「ここからここまでがシンジくん。ここからここまでが一輝お兄ちゃんかな」
シンジお前何やってんだ……しかも編目がガタガタだ。一輝も酔狂なことを……しかも結構な腕だなこれ。
桐生は呆れたように溜息をついた。
「でね、ここからここまでが風間のおじさん!」
「か、風間のおやっさん?」
よくみると機械のように正確で丁寧な編目。俺のために……?しかし、編み物?おやっさんが?
遥は興奮して二人に話して聞かせた。
「すごいんだよ。すいすい~って教えてあげてもないのにできちゃうの。上手だよね!」
「……あの人なら、出来そうなところがすごいな桐生」
伊達がマフラーを覗き込んで呟いた。確かに。遥はそれを広げて説明を続けた。
「でね、ここから最後までが真島のおじさん!」
「真島の兄さん?!」
今まで隠れてた部分が見せられる。そこにいたのは一面の龍。しかも丁寧に編みこんである。
「もうね、大変だったんだから。おじさんにマフラー編んでるって言ったら『やらせてくれ』って言われてそのまま
編み棒返してくれないし。途中まで編んだら『ちょっと毛糸買ってくるわ』って真島のおじさん沢山毛糸買ってきたの。
そのままその龍編んじゃって『完璧や~~惚れ惚れする出来やな~~』だって。でもすごいよね。
ちゃんと龍だよね~」
遥は感心したように何度も頷く。そこで、少し疲れたように溜息をついた。
「だからこんなに遅くなっちゃったんだ。真島のおじさん完璧を目指す人なんだね……あ、そうだ。おじさんが
『桐生ちゃん、これであったまって、わしとやりあう日まで風邪ひかんようにな~』だって」
聞いているうちにだんだんマフラーが重くなってくる。なんだろう、この感覚は……伊達はそんな桐生の肩を
そっとたたいて声をかけた。
「……まぁ、いいじゃねえか。千人針みたいでよ。」
「伊達さん……フォローにもなってない」
そんな二人の心中を知ってか知らずか、遥はずっと満面の笑みで桐生におねだりを続けていた。
「ねえねえ、おじさん。マフラー巻いてみんなに見せて歩こうよ~どうしたの?頭抱えて。ねえ、おじさんってば~!」
新防具誕生
「愛の手編みマフラー」 防御力+1000
効果:殺しても死なない。女にモテモテ(ホストスキルUP)。
その代わりにヒートゲージは溜まらない。(嘘)
-終ー
「香水」
あの街を離れ、幾月。小さいながらも部屋を借り、二人で静かに生きていた。あの場所であったことは、
お互いにまだ口にしようとしない。思い出すだけで、胸が疼くあの出来事を、ごく自然に、あたりまえに思い出すには
まだ時間が必要なようだ。
そしてまた、冬が来る。
木枯らしが通りを吹き抜け、投げ捨てられた空き缶が高い音をたてて転がっていく。少しでも早く帰ってやりたい、
桐生はスーパーのレジ袋を風に煽らせながら足を速めた。
「遥、今帰った……」
部屋に入ると、遥がこちらに背を向けて座っている。ドアの音に気付かなかったのだろうか。しかし、それほど集中して
何をしているのか、彼は後ろから静かに近づいた。近くまで来ると、そっと覗き込む。遥は両手で大事そうになにかを
包み込んでいた。そして、時折それに顔を寄せては目を閉じ微笑を浮かべた。
「帰ったぞ」
「きゃっ!!」
あえて少し大きな声で告げると、遥は文字通り飛び上がって驚いた。その様を驚くように眺める桐生に、彼女は抗議した
「もう、おじさん!いきなり帰ってきたらびっくりするよ~」
「前に言われたように、電話したはずだがな」
「そ、そういうことじゃなくって。あ、そんなことよりご飯作ろうよ。おなか空いたね!」
遥は手に持っていたものを自分専用の引き出しにしまうと、桐生を後ろから押しやった。あまりにも不自然な遥の言動に
疑問を覚えたが、今は詮索するのをやめた。
「にんじん~じゃがいも~た~ま~ねぎ~カレーはらくちん~」
機嫌がいいのか、遥が自作の歌を歌いながら野菜を洗い、切っている。幼い遥に火は危ないので、調理は桐生だ。
一緒に暮らすようになって、こういうことも上手くなった。最初の頃はおよそ人の食べるものではない物体が
できていたものだが。そんなことを考えつつ、ぼんやり歌を聴きながら、ガス台の前で材料が来るのを待った。
「おじさん、はい」
「ああ」
流し台は遥には高すぎるので、踏み台を使っている。料理の時は、いつもより近くに遥の顔が見えた。彼女が差し出した
材料を受け取ろうとした時だった。一瞬桐生の動きが止まる。
『……馬、よく……ね』
(なんだ?何か一瞬……香り?)
「……おじさん?どうか、した?」
心配そうに尋ねる遥の声に我に返る。少し首を振り、今度はしっかり受け取った。
「いや、なんでもない」
「変なの」
声を立てて笑い、遥は台から飛び降りた。皿を並べ始める彼女を眺め、桐生は首をかしげた。
(何か、思い出しそうだった。とても懐かしかった事のような気がする)
夕食を終え、遥は座卓で宿題をしている。桐生はテレビをつけ、見るともなしに眺めていた。
「あ、そうだ。学校からプリント来てたんだ!」
遥が慌てて立ち上がる、恐らく保護者宛の書類だろう。提出が遅くなると何かとどやされるのだが。桐生は苦笑した。
「そういうのは早く出しとけと言っただろ?」
「すっかり忘れてたよ~あれ、どこに入れたかな……」
遥が泣きそうな声をあげて引き出しを引っ掻き回す。その時、引き出しの中のものが落下した。
「あ!嫌!!」
悲鳴のような声を聞き、桐生は反射的に落ちてきたものをキャッチした。
「これは……」
自分の手の中にある物を見、思わず声を上げる。これは、遥と出会ったときにねだられて買い与えたフランス製の
香水だった。
「見つかっちゃった」
照れたように笑い、遥は香水瓶を桐生から返してもらう。
「まだ持ってたのか」
苦笑する桐生に、彼女は大きく頷いた。
「うん、ほとんど使ってないもの」
「香水をつけてるのか?」
大人びた香水を使う彼女が想像できない。まさか学校につけて行ってるわけではないだろうに。桐生の問いかけに
遥はゆっくり首を横に振った。
「香りをかぐだけ。だって、これ……お母さんの香りだから」
「由美の……」
うん、遥は香水瓶に視線を落とした。
「最初はね、お母さんに似合う香りだなって思ったの。でね、もし一緒に暮らせるようになったら、これをあげようかと
思ったんだ。それでね、二人でこれをつけて歩くの。親子で一緒の香りって、なんかいいよね……」
桐生は黙っていた。今はただ彼女の話を最後まで聞いてやろうと思った。遥は顔を上げる。
「あのね、お母さんに抱きしめてもらった時、驚いたの!同じ香水だったんだよ。私が選んだ香水、
お母さんも好きだったんだね。だから、この香水はお母さんの香りなの。宝物なんだ」
由美の最後の抱擁。あのときの母の顔をした由美を、桐生は今でも鮮明に覚えている。自愛に満ちた、聖母のような顔だった。
桐生は少しずつ、かみ締めるように話し始めた。
「遥、お前を産む前から、その香水は由美のお気に入りだ」
「ほんと?やっぱり!」
「香水なんて、なんでも同じだと思ってたが……それだったんだな。」
『由美、なんか今日は違わねえか?』
『すごい。一馬、よく気付いたね。ちょっと香水変えてみたんだ』
『……いいな、お前に合ってる』
『あら、貴方がこんなこと言うなんて雪でも降るんじゃない?』
『ひでえな。まぁ、間違っちゃいないが』
『嘘よ、嘘。そんなに合ってる?嬉しいよ、一馬!』
それからずっと、由美はその香水だった。桐生は遥を見つめた。
「遥のセンスは間違いないな。由美は、その香水がよく似合ってた」
「そうかぁ……」
遥は嬉しそうに瓶を眺め、おもむろに香水を空中に吹きつけた。部屋の一角が由美の香りに満ちる。
「おじさん、私、この香水が似合うようになるかな?」
そう言って笑う遥はあどけないがとても綺麗だ。桐生は立ち上がり、遥の頭を乱暴に撫でた。
「さあなぁ、お前次第だな」
さらりとかわされ、遥は不満顔で頬を膨らませた。
「え~そんなふうに言うの~?いいもん、がんばるもん!」
「煙草買ってくる。カギ閉めといてくれ」
遥を残し、桐生は部屋を後にした。冷えた空気の下、月だけが彼を見ていた。言葉を紡ぐたびに息が白くこぼれた。
「なれるさ、遥なら……」
ジャケットの袖口から香水の残り香が漂う。桐生はそこに唇を押しあてて、由美を思い出すようにそっと目を閉じた。
由美、俺は生きる。
どれだけ格好悪くても、命張っても、遥だけを守って生きるから。
不器用にしか生きられない俺達を
どうか見守っていてくれ。
なぁ、由美……
-終-
(20061129)