北極星
まだ五月と言うのに蒸し暑い夜、遥はふと目を覚ました。一度目がさえると、もう一度眠りにつくのは難しい。幸い、今日は連休の
中日である。明日も休日という事もあり、彼女は思い切って夜更かしする事にした。とはいえ、もう一人の同居人を起こして、迷惑を
かけてはならない。彼女は物音を立てないように、部屋を出た。その足で、静まり返ったダイニングを抜け、リビングへ。ベランダに
通じる窓を開けると、昼間より幾分涼しくなった風を受け、目を細めた。
「涼し……」
ぽつりと呟き、彼女は空を見上げる。月はすでに傾き、星が静かに瞬いていた。授業で習ったのを思い出し、あれが何座、あれが…と
探しているうち、遥の視線が何かを捕らえた。
それは、闇の中で紅く光る星に見えた。しばらく消えては、また明るくなる光。しかし、その場所は夜空にしてはあまりにも低すぎる。
それが何かは遥にはとうにわかっているのだが、彼女は小さく笑って呟いた。
「星が、落っこちてきたみたい」
彼女の声がした瞬間、その光がわずかに揺れた。
「遥か」
ベランダの隅で、驚いたような、それでいて優しい声がする。遥は嬉しそうに歩み寄った。
「おじさん、どうしたの?」
問われ、桐生は左手で彼女の頭を撫でた。
「遥こそ、どうした?眠れないのか?」
遥は小さく頷くと、彼の手を握って体重を預けた。
「うん。ちょっとね」
小さな遥が寄りかかっても、彼には大した負担ではない。むしろ、桐生は彼女の重みを心地よく感じながら、ふと問いかけた。
「さっきの……星が、何だって?」
遥はああ、と微笑み、彼の手を指差した。
「煙草だよ。先の火の所がね、暗いところで星みたいに見えたの」
桐生は思わず右手の指に挟んだ煙草を眺めた。
「ああ、そういうことか」
「そういうことなの」
遥は声を潜めて笑う。彼女は、こんな小さな煙草の火を星のようだとだと言う。子供らしい感覚だと桐生は思った。
「こんな時間まで起きてて大丈夫か」
苦笑する桐生を、遥は不安げな顔で見上げた。
「……駄目?」
その顔色を窺うような視線に、桐生は首を振った。
「連休だからな。うるさく言うつもりはないさ」
やった、と遥は顔を輝かせる。彼は傍にいる彼女のために、煙草を消そうとした。
「あ、消さなくていいよ」
彼女の慌てたような声が聞こえ、桐生は手を止める。不思議そうに視線をやると、遥は微笑んだ。
「綺麗だから、見てていい?」
桐生は困ったように遥を見つめる。煙草の火は綺麗なのかもしれないが、煙は傍にいる人間の害になる。だからこそ、彼は遥の傍で
煙草は吸わない事にしているのだが。桐生はしばらく考え込み、自分の左手側にいた遥を、風上の右手側に促す。そして念を
押すように告げた。
「この一本だけだぞ」
「うん!」
大きく頷き、遥は嬉しそうに微笑んだ
深夜、灯りの少なくなった住宅街。その中の小さなマンションのベランダに、紅い星が一つ。ゆっくり明るくなっては、また暗くなる。
遥は、ぼんやりそれを眺めていたが、思いついたように口を開いた。
「あのね、北極星って知ってる?」
桐生は視線を動かし、小さく笑った。
「北極星って、北にある星だろう」
うん、と遥は頷き両手を後ろで組んだ。
「授業で習ったの。ほとんど動かない星で、北の目印になるんだって」
「それなら、俺も昔聞いた事があるな」
懐かしそうに遠い目をする桐生に、遥はそっと体を彼に預けた。
「私の北極星は、おじさんの煙草の火だね」
思わず見つめる桐生に、遥は笑顔を向けた。
「それを追いかけていけば、おじさんにたどり着くでしょ」
桐生は灰皿に灰を落としながら、遥の肩を抱いた。その肩は小さくて、彼の手にすっぽりと収まってしまう。
「追いかけなくても、遥の傍にいる」
優しい声が耳に心地よい。遥は嬉しそうに彼の体に腕を回して抱きついた。
「それなら、いいな」
二人は顔を見合わせ、そっと微笑みあった。やがて煙草も短くなり、桐生はそれを揉み消した。
「もう中に入れ」
「えー、もう?」
残念そうに口を尖らす遥に、桐生は微笑んだ。
「明日、どこにでも連れて行ってやるから」
「本当?」
顔を輝かせた遥に、桐生は大きく頷く。
「近場ならな。だから今日はもう寝ろ、いいな」
「うん!」
元気良く返事をし、遥は手を振ると部屋へと戻って行った。残された桐生は、ベランダにもたれて空を見上げた。
街の明かりに遮られ、星はそれほど見えないが、桐生はそれでもいいと思った。自分にとって望んでも手に入らないと思っていた
『幸せ』の目印になる星は、すでに傍で瞬いている。
「明日は晴れるといいが」
そっと呟き、彼はベランダを後にした。きっと明日も彼女と二人、賑やかで楽しい一日になることだろう。
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歌彫
「どこにいくの?」
何も言わず、物音も立てず、ひっそりと部屋を出て行く桐生を遥は呼び止めた。広いとは言いがたい部屋で彼女の視線を潜り抜けて
出て行くのは、さすがに難しかったようだ。桐生は難しい顔をして振り向き、口ごもった。
「……その、煙草を買いに」
「煙草あるよ。おじさん、前にまとめて買ってたじゃない」
遥の指差す方には、桐生が好んで吸っている煙草が積んである。それを見て彼は小さく呻き、視線を泳がせた。
「あ、違う。そうだ、あれだ……夕食の買い物をしてやろうと思ってな」
「そんなの私が行くよ。おじさんは休みの時くらいゆっくりして」
桐生のことをいつも第一に考えている遥には、逆効果だったらしい。困ったように宙を眺める彼を、遥は訝しげに見上げた。
「もしかして、私に言えないような所にいくの?」
ぎくりと桐生は身を引く。元来嘘は上手な方ではない彼を知っているのか、不審に思った彼女は更に追及する。
「この時間だし……飲み屋じゃないよねえ」
「あ、あのな遥……」
どうにか言い訳しようとする桐生に、遥は手を叩いた。
「わかった!神室町でしょ!ずるーい!私も行きたーい!」
予想できた遥の反応に、彼は観念したように溜息をついた。
数時間後、二人は電車に乗り神室町へと向かっていた。桐生は困り果てた顔で遥に諭す。
「あのな、本来なら神室町は子供が遊びに来るような街じゃないんだぞ」
「はいはーい」
彼の言うことなど全く気にしていない様子の遥に、桐生は頭を抱える。酒場や風俗店が軒を連ね、その筋の人間が闊歩している街に
少女を度々連れて行くことは、教育上好ましくないことはわかっていた。桐生自身くだらない小競り合いに巻き込まれることも
しょっちゅうだったし、遥を連れていてもそれは変わらない。
彼女の情操教育に危機感を覚えたのは、出会った頃からだった。以前行動を共にしていた時、数人の男を相手に大立ち回りを
やらかした。その時さすがに遥が心配になり視線を向けると、ギャラリーの中でも一番はしゃいで『やっちゃえー!』と声援を送っていた
のは他でもない遥だったのだ。しかもその後に、頼んでもない金銭の授受なども見られているのだから、彼女の頭の中の善悪は
どんなことになっているのか考えるだに恐ろしい。遥には普通の女の子として一生を送ってもらいたい。少なくとも必要最低限の
モラルを持っておいてほしいと望むのは、保護者として当然だろう。
今から桐生が向かおうとしている場所は、違法ではないが神室町の中でもアンダーグラウンド的な場所だ。そこに子供を連れて行く
人間はまずいない。さて、用が済む間、遥をどうしたものか。桐生は難しい顔で目を閉じた。横では遥は嬉しそうに窓の外を眺めている。
「今から用を済ませてくるから、ここで待っててくれるか?」
この街で一番安全と思われるスマイルバーガーの片隅で、二人は向かい合わせに座っていた。家を出る前と違い、今度は素直に
頼んでみる。すると意外に素直に遥は頷いた。
「いいよ。待ってるから」
桐生は安心したように息を吐くと、忙しなく立ち上がった。
「すぐ戻る」
「うん、後でね!」
遥が小さく手を振り、桐生は店を出て行った。それを見送ると、彼女は退屈そうにシェイクを飲みながら足をぶらぶらさせる。
「なんで神室町に来るのに嘘つくんだろ、変なの」
ぽつりと呟き、遥は頬杖を付く。平日のファーストフードは人も少なく、みんな退屈そうだ。彼女はその辺りにあるもの全てに目を
通してしまうと、飽きたように溜息をついた。ふと、思い出したように遥は携帯を取り出す。そして退屈しのぎにどこかへメールを打った。
ピンク通り裏の、更に裏路地。地下へと続く階段の先にそれはある。龍神会館と呼ばれるその場所は、桐生の背中の龍を彫った
歌彫という彫師がいる。
「お久しぶりです」
桐生は事務所に入り、深々と頭を下げる。奥にいた初老の男は彼を静かに見つめた。
「おう、桐生じゃねえか。一年ぶりか?」
「はい。ご無沙汰してます」
彼は申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。歌彫とは、かつて錦山と対峙する際、色を入れなおしてもらった以来の対面となる。
歌彫は椅子に座ったまま、桐生を促した。
「まあ、座れや」
桐生は歌彫に言われるままに、手近な椅子に座る。薄暗く静かな事務所は、ほんのり染料の香りがした。
「……錦山とのこと、聞いたぞ」
ふいに話を切り出され、桐生は顔を上げる。歌彫は頬杖をつきながらにやりと笑った。
「あいつ、最後の最後で龍門を抜けやがったみてえだな」
「そう、思われますか」
桐生は思い詰めたように視線を落とす。あの日、タワーでの死闘を経て全てのケジメをつけるため、錦山は100億と共に散った。
その最後の笑みが、桐生の頭から離れることは決してなかった。錦山の背に描かれていたのは鯉、鯉は龍門を経て龍となる。
あの時、彼は龍となり、天へと上ったのか。
だとしたなら、俺は、最後の最後であいつに負けたのかもしれない。わずかに表情を歪める桐生に、歌彫は小さく笑った。
「お前の顔見りゃあ、だいたいわかる。しかし、死んじまっちゃあ…勝ち逃げみてえなもんだな。悔しいだろう、桐生」
桐生は苦笑を浮かべると、ゆっくりと首を振った。
「いや、俺は満足でした。それまで、何もかもが偽られているような状態で、あいつと拳を交わした時だけが真実だった。
あの時、錦の考えていることが、口に出さなくても全て伝わってきた。あいつも同じだったでしょう。その上で、負けたのなら
俺は何の後悔もありません」
「……そうか」
呟いたきり、歌彫は何も言わなかった。老巧な目を細め、何か思い出している風でもあった。桐生は少しずつ、思い出すように
話し始める。
「関西の龍にも……会いました」
「その件、東城会のもんから聞いてるよ。郷田とか言ったな、あいつの黄龍もすごかったろう」
さすがに歌彫は彫師らしく、彼の刺青のことが気になるようだ。桐生は微笑み、椅子の背もたれに身をゆだねた。
「やっぱりその話ですか」
「あたりまえだろう、俺はカウンセラーじゃねえ、彫師だぞ。風彫さんの黄龍と言やあ、名を継いだ者しか彫れねえ別格よ。
あの爺さん、あれを彫り上げるなんざ、まだまだ現役だな」
嬉しそうに話す歌彫を眺め、桐生は表情を曇らせた。
「郷田龍司の黄龍は、4代目の仕事じゃないと聞きました」
「……なんだと?」
驚きのあまり目を丸くする歌彫に、桐生は頷いた。
「もう、4代目は手が動かないと。あれは、次期風彫のお嬢さんの手によるものだそうで」
桐生の話を聞き、歌彫は落胆の色を隠せない様子で呟いた。
「そうか、そりゃあ無念だったろうなあ……しかし、お嬢さん?次期風彫は女なのか?!」
「ええ、まだ若いお嬢さんでした」
歌彫はしばらく考えこみ、呻くように呟いた。
「小娘があの黄龍をなあ……にわかに信じがたいが、まあ、才能があれば自然と名が聞こえてくるだろうよ」
桐生が頷いた時だった。事務所の扉の向こうが何やら騒がしい。不審に思い、桐生が扉に近付いた瞬間、それがけたたましく開いた。
「桐生チャン、やっぱりここやった~!な、遥チャン。ワシの言うた通りやろ?!」
「真島のおじさん!ご挨拶もしないで入ったらダメだよ~!」
彼は言葉を失い、目の前に飛び出した真島と遥を眺めている。遥は桐生の視線に気付くと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「えと、その…ごめんなさい……」
「遥と一緒だなんて、しかもここに連れてくるなんて、どういうことなんですか、兄さん!」
事務所外で、桐生は真島に詰め寄る。しかし、彼はけろっとした顔で楽しそうに笑った。
「遥チャンが寂しそうにしとったからやないか~。可愛い女の子がな、メールで
『桐生のおじさんがいないから、アタシ寂しいの』
なんて送って来てみ、居ても立ってもおれへんやないかい。しかもワシがどこにでも連れてったるで、て言うたら遥チャン何て言うたと思う?」
問われ、桐生は嫌な予感を感じつつ黙っている。真島はわざとらしく遥の仕草を真似して桐生を見つめた。
「『気にしなくていいよ。でも、できるなら、おじさんがどこに行ったのかだけ、知りたいな』
やて!もう、ワシそのいじらしさに感動してもうて。涙で前が見えへん!即行遥チャンを小脇に抱えて賽の河原にゴーや!
優しい花屋のオッサンに(無理やり)探してもろて、やっとここまで連れて来てやったんや。ほれ、ワシ、人情派やから!」
桐生は頭が痛そうに額を押さえ、その場にしゃがみこむ。あんなに気を遣っていたのに、よりにもよって遥に一番関わってほしくない
人間と会い、行ってほしくない場所に連れて行かれている。だいたい、遥のメールアドレスを何故真島が知っているのだろう。
その間にも、真島は今までのことを寸劇仕立てでまくしたてている。これは長くなりそうだ。
一方、遥は事務所の中で頭を下げていた。
「お話の邪魔をしてごめんなさい」
「気にすんな、お嬢ちゃん。別にこれといって深刻なことを話はしてねえから」
優しく告げられ、遥はほっとしたように辺りを見回す。壁に掛けられた下絵、刺青の関連書籍、中央の施術用の台など、彼女にとっては
見た事のない物で一杯だ。
「お爺さんは、刺青を彫るの?」
「知ってるのかい」
遥は微笑んで手を後ろに組んだ。。
「さっき、花屋のおじさんに聞いたの」
「そうかい」
歌彫は微笑んで遥に椅子を勧めた。彼女は先ほどまで桐生が座っていた所にちょこんと座る。
「お爺さんは、歌彫さんて言うんだよね」
「ああ、そうだ。それも聞いたのかい?」
遥は頷き、ふと問いかけた。
「歌彫さん、『月下美人』を覚えてる?」
歌彫は驚いて彼女に身を乗り出した。
「『月下美人』……刺青かい?」
「……うん。あのね、私のお母さんは胸に花の刺青を入れてたの。それが『月下美人』なんだって。それを彫ったのが歌彫さんだって
前に聞いたの」
歌彫は押し黙り、遥を見つめた。かつて、ここに刺青を施して欲しいと来た女がいた。その女は、大切な人を忘れないためにこれを
彫るのだと言っていた。よくよく見れば、遥にその女の面影がある。彼は苦笑を浮かべた。
「あの女が、お前のお袋さんだったのか」
「覚えてるの?」
驚く遥に、歌彫は目を細めた。
「ああ、強い目をした綺麗な女だった。彫ってる間中、呻き声ひとつ上げなくてなあ、よく覚えてるよ」
「やっぱり、お母さんここに来たんだ」
遥は部屋を見回す。まるでどこかに母の痕跡が残っているか、探すかのように。彼は小さく笑い、遥に問いかけた。
「お母さんに、会いたいのかい」
「……ううん。だって、もうお母さんいないもん」
死んだのか、歌彫は眉をひそめる。元々、命など惜しくないという雰囲気を持った女だったため、気にはなっていたが。
遥は彼の表情を見て、慌てたように手を振った。
「あ、でもね、たった一晩だけ会えたの。だからもういいの」
「たった一晩、か。月下美人があだになっちまったなあ……」
歌彫は遠い目をする。下絵の段階で、彼女の雰囲気もあってか、そんな刹那的な花はやめておけと言った事があった。
しかし、女はこれでいいのだと笑っていた。結果的にこんな小さな女の子に寂しい思いをさせてしまったのは、たとえ刺青が関係なくとも
気分のいいものではない。悲しげに呟いた歌彫に、遥は素直な笑顔を向けた。
「そんなことないよ。ちゃんと会えたんだもん。それにね、あの刺青、すごく綺麗だった!お母さんによく似合ってたよ」
小さいのに、いっぱしの口を利きやがる。歌彫は俯いて微笑んだ。
「ねえ、歌彫さん」
ふいに問いかけられ、歌彫は遥に視線を向けた。彼女は真剣な顔で彼を見ている。
「頼んだら、私にも刺青彫ってくれる?」
それは困った申し出だ。歌彫は宙を睨み。考え込んだ。
「駄目だな」
「なんで?!」
「未成年には彫れねえんだよ。お嬢ちゃん」
「あ、そうか……」
彼女が見た方向には「未成年お断り」との張り紙がある。歌彫は声を上げて笑った。
「それに、たとえ成人しても、俺はお嬢ちゃんには彫りたくねえなあ」
彼女は首を傾げる。歌彫は穏やかに彼女を見つめた。
「何で彫りたいのかは知らねえが、お袋さんの真似だったら、やめときな。あれは、時に彫った人間を縛り付けるものだからよ」
「縛り付ける?」
「刺青はな、彫った時点で社会の一定のラインから外れちまう。そして、彫った時に抱いた信念や思想なんてもんを、見るたびに
思い知らされるんだ。いざ忘れようと思っても、決して忘れる事を許さない。桐生も、あんたのお袋さんも、時にはそれに押しつぶされ
そうになっただろうよ。覚悟して刺青入れた奴は、みんなそうやって社会からはみ出しながらも、歯あ食いしばって生きて
死んでいくんだ。そんな人生、お嬢ちゃんには似合わねえ。だから俺はごめんだね、他を当たりな」
遥は真剣な顔で歌彫の話を聞いている。やがて、しばらく考えていた彼女は納得したように頷いた。
「そっか。うん、なんとなくわかったよ。ありがとう、歌彫さん!」
歌彫は満足そうに頷いた。
「賢い子だ。お嬢ちゃん、名前は?」
「遥だよ。澤村遥!」
微笑む彼女の頭を撫で、歌彫は席を立った。彼は扉を開くと、まだ外で騒いでいる二人を叱り付けた。
「いいかげんにしてくれ!うちは託児所じゃねえ!桐生、遥はお前のガキだろ、さっさと連れて行け!」
「あ、すみません!」
桐生は慌てて遥の下へ行く。そして深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけしました」
「おう、まあしっかりやれや。また来い、色入れてやる」
「いえ、俺はもう……」
堅気になったのに、刺青の色を気にするわけにはいかない。桐生が言おうとした時、歌彫は口の端に笑みを浮かべた。
「待ってるぞ」
それだけ言って歌彫は二人を事務所から出した。閉まった扉の前で、桐生は複雑な表情をする。
「おじさん?」
心配そうに覗き込む遥に、桐生は苦笑した。
「……行くぞ」
先に立って階段を上がっていく桐生を遥は慌てて追いかける。その先では真島が姿勢良く立っていた。
「遥チャン、長い間あの爺さんと何話してたんや?もしかして、刺青入れてもろたんか?」
その言葉に、桐生は驚いて遥を見る。しかし、彼女はゆっくり首を振った。
「一生駄目だって、断られちゃった」
ということは、遥は歌彫に刺青をせがんだという事になる。二人は顔を見合わせ、目を丸くした。
「そらごっついわ。遥ちゃん、刺青したかったんかいな!言うてくれれば腕のいい彫師紹介したるのに!」
桐生はひどく狼狽して、声を上げた。
「兄さん!そんなこと教えないでください!遥も、本気か?俺は許さんぞ!」
「大丈夫、もうそんな気ないから!」
遥は二人の先に立って歩き出す。その清々しい表情は、なにか吹っ切れたようにも見える。彼女は振り返り、素直に微笑んだ。
「行こ!三人で遊ぼう!」
「お、おい遥……!」
情けなく声を上げる桐生を、真島は豪快に笑った。
「そらええなあ、遊ぶでー!今日は遥チャンにとことん付き合うたるわ!」
「やったー」
遥ははしゃぎながら真島と手を取り合って歩いていく。桐生は必死の形相でその後を追いかけた。
追いつき追い越し、じゃれあうように歩いていく奇妙な三人組を、街行く人々は不思議そうに眺めていた。
「遥と一緒だなんて、しかもここに連れてくるなんて、どういうことなんですか、兄さん!」
事務所外で、桐生は真島に詰め寄る。しかし、彼はけろっとした顔で楽しそうに笑った。
「遥チャンが寂しそうにしとったからやないか~。可愛い女の子がな、メールで
『桐生のおじさんがいないから、アタシ寂しいの』
なんて送って来てみ、居ても立ってもおれへんやないかい。しかもワシがどこにでも連れてったるで、て言うたら遥チャン何て言うたと思う?」
問われ、桐生は嫌な予感を感じつつ黙っている。真島はわざとらしく遥の仕草を真似して桐生を見つめた。
「『気にしなくていいよ。でも、できるなら、おじさんがどこに行ったのかだけ、知りたいな』
やて!もう、ワシそのいじらしさに感動してもうて。涙で前が見えへん!即行遥チャンを小脇に抱えて賽の河原にゴーや!
優しい花屋のオッサンに(無理やり)探してもろて、やっとここまで連れて来てやったんや。ほれ、ワシ、人情派やから!」
桐生は頭が痛そうに額を押さえ、その場にしゃがみこむ。あんなに気を遣っていたのに、よりにもよって遥に一番関わってほしくない
人間と会い、行ってほしくない場所に連れて行かれている。だいたい、遥のメールアドレスを何故真島が知っているのだろう。
その間にも、真島は今までのことを寸劇仕立てでまくしたてている。これは長くなりそうだ。
一方、遥は事務所の中で頭を下げていた。
「お話の邪魔をしてごめんなさい」
「気にすんな、お嬢ちゃん。別にこれといって深刻なことを話はしてねえから」
優しく告げられ、遥はほっとしたように辺りを見回す。壁に掛けられた下絵、刺青の関連書籍、中央の施術用の台など、彼女にとっては
見た事のない物で一杯だ。
「お爺さんは、刺青を彫るの?」
「知ってるのかい」
遥は微笑んで手を後ろに組んだ。。
「さっき、花屋のおじさんに聞いたの」
「そうかい」
歌彫は微笑んで遥に椅子を勧めた。彼女は先ほどまで桐生が座っていた所にちょこんと座る。
「お爺さんは、歌彫さんて言うんだよね」
「ああ、そうだ。それも聞いたのかい?」
遥は頷き、ふと問いかけた。
「歌彫さん、『月下美人』を覚えてる?」
歌彫は驚いて彼女に身を乗り出した。
「『月下美人』……刺青かい?」
「……うん。あのね、私のお母さんは胸に花の刺青を入れてたの。それが『月下美人』なんだって。それを彫ったのが歌彫さんだって
前に聞いたの」
歌彫は押し黙り、遥を見つめた。かつて、ここに刺青を施して欲しいと来た女がいた。その女は、大切な人を忘れないためにこれを
彫るのだと言っていた。よくよく見れば、遥にその女の面影がある。彼は苦笑を浮かべた。
「あの女が、お前のお袋さんだったのか」
「覚えてるの?」
驚く遥に、歌彫は目を細めた。
「ああ、強い目をした綺麗な女だった。彫ってる間中、呻き声ひとつ上げなくてなあ、よく覚えてるよ」
「やっぱり、お母さんここに来たんだ」
遥は部屋を見回す。まるでどこかに母の痕跡が残っているか、探すかのように。彼は小さく笑い、遥に問いかけた。
「お母さんに、会いたいのかい」
「……ううん。だって、もうお母さんいないもん」
死んだのか、歌彫は眉をひそめる。元々、命など惜しくないという雰囲気を持った女だったため、気にはなっていたが。
遥は彼の表情を見て、慌てたように手を振った。
「あ、でもね、たった一晩だけ会えたの。だからもういいの」
「たった一晩、か。月下美人があだになっちまったなあ……」
歌彫は遠い目をする。下絵の段階で、彼女の雰囲気もあってか、そんな刹那的な花はやめておけと言った事があった。
しかし、女はこれでいいのだと笑っていた。結果的にこんな小さな女の子に寂しい思いをさせてしまったのは、たとえ刺青が関係なくとも
気分のいいものではない。悲しげに呟いた歌彫に、遥は素直な笑顔を向けた。
「そんなことないよ。ちゃんと会えたんだもん。それにね、あの刺青、すごく綺麗だった!お母さんによく似合ってたよ」
小さいのに、いっぱしの口を利きやがる。歌彫は俯いて微笑んだ。
「ねえ、歌彫さん」
ふいに問いかけられ、歌彫は遥に視線を向けた。彼女は真剣な顔で彼を見ている。
「頼んだら、私にも刺青彫ってくれる?」
それは困った申し出だ。歌彫は宙を睨み。考え込んだ。
「駄目だな」
「なんで?!」
「未成年には彫れねえんだよ。お嬢ちゃん」
「あ、そうか……」
彼女が見た方向には「未成年お断り」との張り紙がある。歌彫は声を上げて笑った。
「それに、たとえ成人しても、俺はお嬢ちゃんには彫りたくねえなあ」
彼女は首を傾げる。歌彫は穏やかに彼女を見つめた。
「何で彫りたいのかは知らねえが、お袋さんの真似だったら、やめときな。あれは、時に彫った人間を縛り付けるものだからよ」
「縛り付ける?」
「刺青はな、彫った時点で社会の一定のラインから外れちまう。そして、彫った時に抱いた信念や思想なんてもんを、見るたびに
思い知らされるんだ。いざ忘れようと思っても、決して忘れる事を許さない。桐生も、あんたのお袋さんも、時にはそれに押しつぶされ
そうになっただろうよ。覚悟して刺青入れた奴は、みんなそうやって社会からはみ出しながらも、歯あ食いしばって生きて
死んでいくんだ。そんな人生、お嬢ちゃんには似合わねえ。だから俺はごめんだね、他を当たりな」
遥は真剣な顔で歌彫の話を聞いている。やがて、しばらく考えていた彼女は納得したように頷いた。
「そっか。うん、なんとなくわかったよ。ありがとう、歌彫さん!」
歌彫は満足そうに頷いた。
「賢い子だ。お嬢ちゃん、名前は?」
「遥だよ。澤村遥!」
微笑む彼女の頭を撫で、歌彫は席を立った。彼は扉を開くと、まだ外で騒いでいる二人を叱り付けた。
「いいかげんにしてくれ!うちは託児所じゃねえ!桐生、遥はお前のガキだろ、さっさと連れて行け!」
「あ、すみません!」
桐生は慌てて遥の下へ行く。そして深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけしました」
「おう、まあしっかりやれや。また来い、色入れてやる」
「いえ、俺はもう……」
堅気になったのに、刺青の色を気にするわけにはいかない。桐生が言おうとした時、歌彫は口の端に笑みを浮かべた。
「待ってるぞ」
それだけ言って歌彫は二人を事務所から出した。閉まった扉の前で、桐生は複雑な表情をする。
「おじさん?」
心配そうに覗き込む遥に、桐生は苦笑した。
「……行くぞ」
先に立って階段を上がっていく桐生を遥は慌てて追いかける。その先では真島が姿勢良く立っていた。
「遥チャン、長い間あの爺さんと何話してたんや?もしかして、刺青入れてもろたんか?」
その言葉に、桐生は驚いて遥を見る。しかし、彼女はゆっくり首を振った。
「一生駄目だって、断られちゃった」
ということは、遥は歌彫に刺青をせがんだという事になる。二人は顔を見合わせ、目を丸くした。
「そらごっついわ。遥ちゃん、刺青したかったんかいな!言うてくれれば腕のいい彫師紹介したるのに!」
桐生はひどく狼狽して、声を上げた。
「兄さん!そんなこと教えないでください!遥も、本気か?俺は許さんぞ!」
「大丈夫、もうそんな気ないから!」
遥は二人の先に立って歩き出す。その清々しい表情は、なにか吹っ切れたようにも見える。彼女は振り返り、素直に微笑んだ。
「行こ!三人で遊ぼう!」
「お、おい遥……!」
情けなく声を上げる桐生を、真島は豪快に笑った。
「そらええなあ、遊ぶでー!今日は遥チャンにとことん付き合うたるわ!」
「やったー」
遥ははしゃぎながら真島と手を取り合って歩いていく。桐生は必死の形相でその後を追いかけた。
追いつき追い越し、じゃれあうように歩いていく奇妙な三人組を、街行く人々は不思議そうに眺めていた。
「遥と一緒だなんて、しかもここに連れてくるなんて、どういうことなんですか、兄さん!」
事務所外で、桐生は真島に詰め寄る。しかし、彼はけろっとした顔で楽しそうに笑った。
「遥チャンが寂しそうにしとったからやないか~。可愛い女の子がな、メールで
『桐生のおじさんがいないから、アタシ寂しいの』
なんて送って来てみ、居ても立ってもおれへんやないかい。しかもワシがどこにでも連れてったるで、て言うたら遥チャン何て言うたと思う?」
問われ、桐生は嫌な予感を感じつつ黙っている。真島はわざとらしく遥の仕草を真似して桐生を見つめた。
「『気にしなくていいよ。でも、できるなら、おじさんがどこに行ったのかだけ、知りたいな』
やて!もう、ワシそのいじらしさに感動してもうて。涙で前が見えへん!即行遥チャンを小脇に抱えて賽の河原にゴーや!
優しい花屋のオッサンに(無理やり)探してもろて、やっとここまで連れて来てやったんや。ほれ、ワシ、人情派やから!」
桐生は頭が痛そうに額を押さえ、その場にしゃがみこむ。あんなに気を遣っていたのに、よりにもよって遥に一番関わってほしくない
人間と会い、行ってほしくない場所に連れて行かれている。だいたい、遥のメールアドレスを何故真島が知っているのだろう。
その間にも、真島は今までのことを寸劇仕立てでまくしたてている。これは長くなりそうだ。
一方、遥は事務所の中で頭を下げていた。
「お話の邪魔をしてごめんなさい」
「気にすんな、お嬢ちゃん。別にこれといって深刻なことを話はしてねえから」
優しく告げられ、遥はほっとしたように辺りを見回す。壁に掛けられた下絵、刺青の関連書籍、中央の施術用の台など、彼女にとっては
見た事のない物で一杯だ。
「お爺さんは、刺青を彫るの?」
「知ってるのかい」
遥は微笑んで手を後ろに組んだ。。
「さっき、花屋のおじさんに聞いたの」
「そうかい」
歌彫は微笑んで遥に椅子を勧めた。彼女は先ほどまで桐生が座っていた所にちょこんと座る。
「お爺さんは、歌彫さんて言うんだよね」
「ああ、そうだ。それも聞いたのかい?」
遥は頷き、ふと問いかけた。
「歌彫さん、『月下美人』を覚えてる?」
歌彫は驚いて彼女に身を乗り出した。
「『月下美人』……刺青かい?」
「……うん。あのね、私のお母さんは胸に花の刺青を入れてたの。それが『月下美人』なんだって。それを彫ったのが歌彫さんだって
前に聞いたの」
歌彫は押し黙り、遥を見つめた。かつて、ここに刺青を施して欲しいと来た女がいた。その女は、大切な人を忘れないためにこれを
彫るのだと言っていた。よくよく見れば、遥にその女の面影がある。彼は苦笑を浮かべた。
「あの女が、お前のお袋さんだったのか」
「覚えてるの?」
驚く遥に、歌彫は目を細めた。
「ああ、強い目をした綺麗な女だった。彫ってる間中、呻き声ひとつ上げなくてなあ、よく覚えてるよ」
「やっぱり、お母さんここに来たんだ」
遥は部屋を見回す。まるでどこかに母の痕跡が残っているか、探すかのように。彼は小さく笑い、遥に問いかけた。
「お母さんに、会いたいのかい」
「……ううん。だって、もうお母さんいないもん」
死んだのか、歌彫は眉をひそめる。元々、命など惜しくないという雰囲気を持った女だったため、気にはなっていたが。
遥は彼の表情を見て、慌てたように手を振った。
「あ、でもね、たった一晩だけ会えたの。だからもういいの」
「たった一晩、か。月下美人があだになっちまったなあ……」
歌彫は遠い目をする。下絵の段階で、彼女の雰囲気もあってか、そんな刹那的な花はやめておけと言った事があった。
しかし、女はこれでいいのだと笑っていた。結果的にこんな小さな女の子に寂しい思いをさせてしまったのは、たとえ刺青が関係なくとも
気分のいいものではない。悲しげに呟いた歌彫に、遥は素直な笑顔を向けた。
「そんなことないよ。ちゃんと会えたんだもん。それにね、あの刺青、すごく綺麗だった!お母さんによく似合ってたよ」
小さいのに、いっぱしの口を利きやがる。歌彫は俯いて微笑んだ。
「ねえ、歌彫さん」
ふいに問いかけられ、歌彫は遥に視線を向けた。彼女は真剣な顔で彼を見ている。
「頼んだら、私にも刺青彫ってくれる?」
それは困った申し出だ。歌彫は宙を睨み。考え込んだ。
「駄目だな」
「なんで?!」
「未成年には彫れねえんだよ。お嬢ちゃん」
「あ、そうか……」
彼女が見た方向には「未成年お断り」との張り紙がある。歌彫は声を上げて笑った。
「それに、たとえ成人しても、俺はお嬢ちゃんには彫りたくねえなあ」
彼女は首を傾げる。歌彫は穏やかに彼女を見つめた。
「何で彫りたいのかは知らねえが、お袋さんの真似だったら、やめときな。あれは、時に彫った人間を縛り付けるものだからよ」
「縛り付ける?」
「刺青はな、彫った時点で社会の一定のラインから外れちまう。そして、彫った時に抱いた信念や思想なんてもんを、見るたびに
思い知らされるんだ。いざ忘れようと思っても、決して忘れる事を許さない。桐生も、あんたのお袋さんも、時にはそれに押しつぶされ
そうになっただろうよ。覚悟して刺青入れた奴は、みんなそうやって社会からはみ出しながらも、歯あ食いしばって生きて
死んでいくんだ。そんな人生、お嬢ちゃんには似合わねえ。だから俺はごめんだね、他を当たりな」
遥は真剣な顔で歌彫の話を聞いている。やがて、しばらく考えていた彼女は納得したように頷いた。
「そっか。うん、なんとなくわかったよ。ありがとう、歌彫さん!」
歌彫は満足そうに頷いた。
「賢い子だ。お嬢ちゃん、名前は?」
「遥だよ。澤村遥!」
微笑む彼女の頭を撫で、歌彫は席を立った。彼は扉を開くと、まだ外で騒いでいる二人を叱り付けた。
「いいかげんにしてくれ!うちは託児所じゃねえ!桐生、遥はお前のガキだろ、さっさと連れて行け!」
「あ、すみません!」
桐生は慌てて遥の下へ行く。そして深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけしました」
「おう、まあしっかりやれや。また来い、色入れてやる」
「いえ、俺はもう……」
堅気になったのに、刺青の色を気にするわけにはいかない。桐生が言おうとした時、歌彫は口の端に笑みを浮かべた。
「待ってるぞ」
それだけ言って歌彫は二人を事務所から出した。閉まった扉の前で、桐生は複雑な表情をする。
「おじさん?」
心配そうに覗き込む遥に、桐生は苦笑した。
「……行くぞ」
先に立って階段を上がっていく桐生を遥は慌てて追いかける。その先では真島が姿勢良く立っていた。
「遥チャン、長い間あの爺さんと何話してたんや?もしかして、刺青入れてもろたんか?」
その言葉に、桐生は驚いて遥を見る。しかし、彼女はゆっくり首を振った。
「一生駄目だって、断られちゃった」
ということは、遥は歌彫に刺青をせがんだという事になる。二人は顔を見合わせ、目を丸くした。
「そらごっついわ。遥ちゃん、刺青したかったんかいな!言うてくれれば腕のいい彫師紹介したるのに!」
桐生はひどく狼狽して、声を上げた。
「兄さん!そんなこと教えないでください!遥も、本気か?俺は許さんぞ!」
「大丈夫、もうそんな気ないから!」
遥は二人の先に立って歩き出す。その清々しい表情は、なにか吹っ切れたようにも見える。彼女は振り返り、素直に微笑んだ。
「行こ!三人で遊ぼう!」
「お、おい遥……!」
情けなく声を上げる桐生を、真島は豪快に笑った。
「そらええなあ、遊ぶでー!今日は遥チャンにとことん付き合うたるわ!」
「やったー」
遥ははしゃぎながら真島と手を取り合って歩いていく。桐生は必死の形相でその後を追いかけた。
追いつき追い越し、じゃれあうように歩いていく奇妙な三人組を、街行く人々は不思議そうに眺めていた。
「遥と一緒だなんて、しかもここに連れてくるなんて、どういうことなんですか、兄さん!」
事務所外で、桐生は真島に詰め寄る。しかし、彼はけろっとした顔で楽しそうに笑った。
「遥チャンが寂しそうにしとったからやないか~。可愛い女の子がな、メールで
『桐生のおじさんがいないから、アタシ寂しいの』
なんて送って来てみ、居ても立ってもおれへんやないかい。しかもワシがどこにでも連れてったるで、て言うたら遥チャン何て言うたと思う?」
問われ、桐生は嫌な予感を感じつつ黙っている。真島はわざとらしく遥の仕草を真似して桐生を見つめた。
「『気にしなくていいよ。でも、できるなら、おじさんがどこに行ったのかだけ、知りたいな』
やて!もう、ワシそのいじらしさに感動してもうて。涙で前が見えへん!即行遥チャンを小脇に抱えて賽の河原にゴーや!
優しい花屋のオッサンに(無理やり)探してもろて、やっとここまで連れて来てやったんや。ほれ、ワシ、人情派やから!」
桐生は頭が痛そうに額を押さえ、その場にしゃがみこむ。あんなに気を遣っていたのに、よりにもよって遥に一番関わってほしくない
人間と会い、行ってほしくない場所に連れて行かれている。だいたい、遥のメールアドレスを何故真島が知っているのだろう。
その間にも、真島は今までのことを寸劇仕立てでまくしたてている。これは長くなりそうだ。
一方、遥は事務所の中で頭を下げていた。
「お話の邪魔をしてごめんなさい」
「気にすんな、お嬢ちゃん。別にこれといって深刻なことを話はしてねえから」
優しく告げられ、遥はほっとしたように辺りを見回す。壁に掛けられた下絵、刺青の関連書籍、中央の施術用の台など、彼女にとっては
見た事のない物で一杯だ。
「お爺さんは、刺青を彫るの?」
「知ってるのかい」
遥は微笑んで手を後ろに組んだ。。
「さっき、花屋のおじさんに聞いたの」
「そうかい」
歌彫は微笑んで遥に椅子を勧めた。彼女は先ほどまで桐生が座っていた所にちょこんと座る。
「お爺さんは、歌彫さんて言うんだよね」
「ああ、そうだ。それも聞いたのかい?」
遥は頷き、ふと問いかけた。
「歌彫さん、『月下美人』を覚えてる?」
歌彫は驚いて彼女に身を乗り出した。
「『月下美人』……刺青かい?」
「……うん。あのね、私のお母さんは胸に花の刺青を入れてたの。それが『月下美人』なんだって。それを彫ったのが歌彫さんだって
前に聞いたの」
歌彫は押し黙り、遥を見つめた。かつて、ここに刺青を施して欲しいと来た女がいた。その女は、大切な人を忘れないためにこれを
彫るのだと言っていた。よくよく見れば、遥にその女の面影がある。彼は苦笑を浮かべた。
「あの女が、お前のお袋さんだったのか」
「覚えてるの?」
驚く遥に、歌彫は目を細めた。
「ああ、強い目をした綺麗な女だった。彫ってる間中、呻き声ひとつ上げなくてなあ、よく覚えてるよ」
「やっぱり、お母さんここに来たんだ」
遥は部屋を見回す。まるでどこかに母の痕跡が残っているか、探すかのように。彼は小さく笑い、遥に問いかけた。
「お母さんに、会いたいのかい」
「……ううん。だって、もうお母さんいないもん」
死んだのか、歌彫は眉をひそめる。元々、命など惜しくないという雰囲気を持った女だったため、気にはなっていたが。
遥は彼の表情を見て、慌てたように手を振った。
「あ、でもね、たった一晩だけ会えたの。だからもういいの」
「たった一晩、か。月下美人があだになっちまったなあ……」
歌彫は遠い目をする。下絵の段階で、彼女の雰囲気もあってか、そんな刹那的な花はやめておけと言った事があった。
しかし、女はこれでいいのだと笑っていた。結果的にこんな小さな女の子に寂しい思いをさせてしまったのは、たとえ刺青が関係なくとも
気分のいいものではない。悲しげに呟いた歌彫に、遥は素直な笑顔を向けた。
「そんなことないよ。ちゃんと会えたんだもん。それにね、あの刺青、すごく綺麗だった!お母さんによく似合ってたよ」
小さいのに、いっぱしの口を利きやがる。歌彫は俯いて微笑んだ。
「ねえ、歌彫さん」
ふいに問いかけられ、歌彫は遥に視線を向けた。彼女は真剣な顔で彼を見ている。
「頼んだら、私にも刺青彫ってくれる?」
それは困った申し出だ。歌彫は宙を睨み。考え込んだ。
「駄目だな」
「なんで?!」
「未成年には彫れねえんだよ。お嬢ちゃん」
「あ、そうか……」
彼女が見た方向には「未成年お断り」との張り紙がある。歌彫は声を上げて笑った。
「それに、たとえ成人しても、俺はお嬢ちゃんには彫りたくねえなあ」
彼女は首を傾げる。歌彫は穏やかに彼女を見つめた。
「何で彫りたいのかは知らねえが、お袋さんの真似だったら、やめときな。あれは、時に彫った人間を縛り付けるものだからよ」
「縛り付ける?」
「刺青はな、彫った時点で社会の一定のラインから外れちまう。そして、彫った時に抱いた信念や思想なんてもんを、見るたびに
思い知らされるんだ。いざ忘れようと思っても、決して忘れる事を許さない。桐生も、あんたのお袋さんも、時にはそれに押しつぶされ
そうになっただろうよ。覚悟して刺青入れた奴は、みんなそうやって社会からはみ出しながらも、歯あ食いしばって生きて
死んでいくんだ。そんな人生、お嬢ちゃんには似合わねえ。だから俺はごめんだね、他を当たりな」
遥は真剣な顔で歌彫の話を聞いている。やがて、しばらく考えていた彼女は納得したように頷いた。
「そっか。うん、なんとなくわかったよ。ありがとう、歌彫さん!」
歌彫は満足そうに頷いた。
「賢い子だ。お嬢ちゃん、名前は?」
「遥だよ。澤村遥!」
微笑む彼女の頭を撫で、歌彫は席を立った。彼は扉を開くと、まだ外で騒いでいる二人を叱り付けた。
「いいかげんにしてくれ!うちは託児所じゃねえ!桐生、遥はお前のガキだろ、さっさと連れて行け!」
「あ、すみません!」
桐生は慌てて遥の下へ行く。そして深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけしました」
「おう、まあしっかりやれや。また来い、色入れてやる」
「いえ、俺はもう……」
堅気になったのに、刺青の色を気にするわけにはいかない。桐生が言おうとした時、歌彫は口の端に笑みを浮かべた。
「待ってるぞ」
それだけ言って歌彫は二人を事務所から出した。閉まった扉の前で、桐生は複雑な表情をする。
「おじさん?」
心配そうに覗き込む遥に、桐生は苦笑した。
「……行くぞ」
先に立って階段を上がっていく桐生を遥は慌てて追いかける。その先では真島が姿勢良く立っていた。
「遥チャン、長い間あの爺さんと何話してたんや?もしかして、刺青入れてもろたんか?」
その言葉に、桐生は驚いて遥を見る。しかし、彼女はゆっくり首を振った。
「一生駄目だって、断られちゃった」
ということは、遥は歌彫に刺青をせがんだという事になる。二人は顔を見合わせ、目を丸くした。
「そらごっついわ。遥ちゃん、刺青したかったんかいな!言うてくれれば腕のいい彫師紹介したるのに!」
桐生はひどく狼狽して、声を上げた。
「兄さん!そんなこと教えないでください!遥も、本気か?俺は許さんぞ!」
「大丈夫、もうそんな気ないから!」
遥は二人の先に立って歩き出す。その清々しい表情は、なにか吹っ切れたようにも見える。彼女は振り返り、素直に微笑んだ。
「行こ!三人で遊ぼう!」
「お、おい遥……!」
情けなく声を上げる桐生を、真島は豪快に笑った。
「そらええなあ、遊ぶでー!今日は遥チャンにとことん付き合うたるわ!」
「やったー」
遥ははしゃぎながら真島と手を取り合って歩いていく。桐生は必死の形相でその後を追いかけた。
追いつき追い越し、じゃれあうように歩いていく奇妙な三人組を、街行く人々は不思議そうに眺めていた。
「遥と一緒だなんて、しかもここに連れてくるなんて、どういうことなんですか、兄さん!」
事務所外で、桐生は真島に詰め寄る。しかし、彼はけろっとした顔で楽しそうに笑った。
「遥チャンが寂しそうにしとったからやないか~。可愛い女の子がな、メールで
『桐生のおじさんがいないから、アタシ寂しいの』
なんて送って来てみ、居ても立ってもおれへんやないかい。しかもワシがどこにでも連れてったるで、て言うたら遥チャン何て言うたと思う?」
問われ、桐生は嫌な予感を感じつつ黙っている。真島はわざとらしく遥の仕草を真似して桐生を見つめた。
「『気にしなくていいよ。でも、できるなら、おじさんがどこに行ったのかだけ、知りたいな』
やて!もう、ワシそのいじらしさに感動してもうて。涙で前が見えへん!即行遥チャンを小脇に抱えて賽の河原にゴーや!
優しい花屋のオッサンに(無理やり)探してもろて、やっとここまで連れて来てやったんや。ほれ、ワシ、人情派やから!」
桐生は頭が痛そうに額を押さえ、その場にしゃがみこむ。あんなに気を遣っていたのに、よりにもよって遥に一番関わってほしくない
人間と会い、行ってほしくない場所に連れて行かれている。だいたい、遥のメールアドレスを何故真島が知っているのだろう。
その間にも、真島は今までのことを寸劇仕立てでまくしたてている。これは長くなりそうだ。
一方、遥は事務所の中で頭を下げていた。
「お話の邪魔をしてごめんなさい」
「気にすんな、お嬢ちゃん。別にこれといって深刻なことを話はしてねえから」
優しく告げられ、遥はほっとしたように辺りを見回す。壁に掛けられた下絵、刺青の関連書籍、中央の施術用の台など、彼女にとっては
見た事のない物で一杯だ。
「お爺さんは、刺青を彫るの?」
「知ってるのかい」
遥は微笑んで手を後ろに組んだ。。
「さっき、花屋のおじさんに聞いたの」
「そうかい」
歌彫は微笑んで遥に椅子を勧めた。彼女は先ほどまで桐生が座っていた所にちょこんと座る。
「お爺さんは、歌彫さんて言うんだよね」
「ああ、そうだ。それも聞いたのかい?」
遥は頷き、ふと問いかけた。
「歌彫さん、『月下美人』を覚えてる?」
歌彫は驚いて彼女に身を乗り出した。
「『月下美人』……刺青かい?」
「……うん。あのね、私のお母さんは胸に花の刺青を入れてたの。それが『月下美人』なんだって。それを彫ったのが歌彫さんだって
前に聞いたの」
歌彫は押し黙り、遥を見つめた。かつて、ここに刺青を施して欲しいと来た女がいた。その女は、大切な人を忘れないためにこれを
彫るのだと言っていた。よくよく見れば、遥にその女の面影がある。彼は苦笑を浮かべた。
「あの女が、お前のお袋さんだったのか」
「覚えてるの?」
驚く遥に、歌彫は目を細めた。
「ああ、強い目をした綺麗な女だった。彫ってる間中、呻き声ひとつ上げなくてなあ、よく覚えてるよ」
「やっぱり、お母さんここに来たんだ」
遥は部屋を見回す。まるでどこかに母の痕跡が残っているか、探すかのように。彼は小さく笑い、遥に問いかけた。
「お母さんに、会いたいのかい」
「……ううん。だって、もうお母さんいないもん」
死んだのか、歌彫は眉をひそめる。元々、命など惜しくないという雰囲気を持った女だったため、気にはなっていたが。
遥は彼の表情を見て、慌てたように手を振った。
「あ、でもね、たった一晩だけ会えたの。だからもういいの」
「たった一晩、か。月下美人があだになっちまったなあ……」
歌彫は遠い目をする。下絵の段階で、彼女の雰囲気もあってか、そんな刹那的な花はやめておけと言った事があった。
しかし、女はこれでいいのだと笑っていた。結果的にこんな小さな女の子に寂しい思いをさせてしまったのは、たとえ刺青が関係なくとも
気分のいいものではない。悲しげに呟いた歌彫に、遥は素直な笑顔を向けた。
「そんなことないよ。ちゃんと会えたんだもん。それにね、あの刺青、すごく綺麗だった!お母さんによく似合ってたよ」
小さいのに、いっぱしの口を利きやがる。歌彫は俯いて微笑んだ。
「ねえ、歌彫さん」
ふいに問いかけられ、歌彫は遥に視線を向けた。彼女は真剣な顔で彼を見ている。
「頼んだら、私にも刺青彫ってくれる?」
それは困った申し出だ。歌彫は宙を睨み。考え込んだ。
「駄目だな」
「なんで?!」
「未成年には彫れねえんだよ。お嬢ちゃん」
「あ、そうか……」
彼女が見た方向には「未成年お断り」との張り紙がある。歌彫は声を上げて笑った。
「それに、たとえ成人しても、俺はお嬢ちゃんには彫りたくねえなあ」
彼女は首を傾げる。歌彫は穏やかに彼女を見つめた。
「何で彫りたいのかは知らねえが、お袋さんの真似だったら、やめときな。あれは、時に彫った人間を縛り付けるものだからよ」
「縛り付ける?」
「刺青はな、彫った時点で社会の一定のラインから外れちまう。そして、彫った時に抱いた信念や思想なんてもんを、見るたびに
思い知らされるんだ。いざ忘れようと思っても、決して忘れる事を許さない。桐生も、あんたのお袋さんも、時にはそれに押しつぶされ
そうになっただろうよ。覚悟して刺青入れた奴は、みんなそうやって社会からはみ出しながらも、歯あ食いしばって生きて
死んでいくんだ。そんな人生、お嬢ちゃんには似合わねえ。だから俺はごめんだね、他を当たりな」
遥は真剣な顔で歌彫の話を聞いている。やがて、しばらく考えていた彼女は納得したように頷いた。
「そっか。うん、なんとなくわかったよ。ありがとう、歌彫さん!」
歌彫は満足そうに頷いた。
「賢い子だ。お嬢ちゃん、名前は?」
「遥だよ。澤村遥!」
微笑む彼女の頭を撫で、歌彫は席を立った。彼は扉を開くと、まだ外で騒いでいる二人を叱り付けた。
「いいかげんにしてくれ!うちは託児所じゃねえ!桐生、遥はお前のガキだろ、さっさと連れて行け!」
「あ、すみません!」
桐生は慌てて遥の下へ行く。そして深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけしました」
「おう、まあしっかりやれや。また来い、色入れてやる」
「いえ、俺はもう……」
堅気になったのに、刺青の色を気にするわけにはいかない。桐生が言おうとした時、歌彫は口の端に笑みを浮かべた。
「待ってるぞ」
それだけ言って歌彫は二人を事務所から出した。閉まった扉の前で、桐生は複雑な表情をする。
「おじさん?」
心配そうに覗き込む遥に、桐生は苦笑した。
「……行くぞ」
先に立って階段を上がっていく桐生を遥は慌てて追いかける。その先では真島が姿勢良く立っていた。
「遥チャン、長い間あの爺さんと何話してたんや?もしかして、刺青入れてもろたんか?」
その言葉に、桐生は驚いて遥を見る。しかし、彼女はゆっくり首を振った。
「一生駄目だって、断られちゃった」
ということは、遥は歌彫に刺青をせがんだという事になる。二人は顔を見合わせ、目を丸くした。
「そらごっついわ。遥ちゃん、刺青したかったんかいな!言うてくれれば腕のいい彫師紹介したるのに!」
桐生はひどく狼狽して、声を上げた。
「兄さん!そんなこと教えないでください!遥も、本気か?俺は許さんぞ!」
「大丈夫、もうそんな気ないから!」
遥は二人の先に立って歩き出す。その清々しい表情は、なにか吹っ切れたようにも見える。彼女は振り返り、素直に微笑んだ。
「行こ!三人で遊ぼう!」
「お、おい遥……!」
情けなく声を上げる桐生を、真島は豪快に笑った。
「そらええなあ、遊ぶでー!今日は遥チャンにとことん付き合うたるわ!」
「やったー」
遥ははしゃぎながら真島と手を取り合って歩いていく。桐生は必死の形相でその後を追いかけた。
追いつき追い越し、じゃれあうように歩いていく奇妙な三人組を、街行く人々は不思議そうに眺めていた。
相談
「あ、痛」
流し台から小さな悲鳴が聞こえた。桐生が振り向くと、遥が小走りにやってくるのが見えた。
「ティッシュ、ティッシュ~」
「切ったのか?」
遥は頷いて指をティッシュで押さえる。先ほどから包丁の音が聞こえていたから、恐らくそれだろう。
「うっかりしちゃった。でもそんなに深くないから、大丈夫だよ」
「ちょっと待ってろ」
桐生は立ち上がり、棚から絆創膏を持ってくる。おとなしく待っている彼女の前に座ると彼は遥を促した。
「指、見せてみろ」
「うん……」
おずおずと差し出した遥の人差し指は、わずかに切れて血が滲んでいる。桐生は手馴れたように絆創膏をはった。
「できたぞ。これからは気をつけろ……遥?」
遥は指を見つめたままぼんやりしている。桐生に呼ばれたのに驚いたのか、慌てたように立ち上がった。
「あ、ごめんなさい。絆創膏、ありがとうね!」
「おい、遥…」
彼女は再び小走りにキッチンに行ってしまう。このところ遥はおかしい。毎日ぼんやりしては溜息をつき、時にこうやってなにか
失敗している。明らかに思い悩んでいることは分かるのだが、桐生は追求できないでいる。そしてまたキッチンから悲鳴があがった。
「うわ~吹き零れた~!焦げる~!」
桐生は溜息をつくと首を振った。
「……今日の夕食は、全滅か」
数十分後、どうにか形にした(ように思われる)夕食を食べながら、桐生は切り出した。
「遥、何か悩み事でもあるのか」
その言葉に、彼女は大きく首を振った。
「え?な、ないよ。全然ない」
明らかに動揺している。桐生は苦笑を浮かべ、遥を見つめた。
「俺でよかったら話を聞くぞ。と、いってもあてにはならんがな」
「そんなことない……けど」
遥は言ったきり、黙々と夕食を続ける。彼はそれ以上追及せず、再び食事を始めた。
食事が終わり、お茶を飲みながらゆっくりしていた時だった。後片付けを終えた遥がやってくる。彼女はぼんやりテレビを眺めている
桐生の横に座り、思い切ったように口を開いた。
「おじさん、聞いてくれる?」
「ああ、聞こうか」
彼はテレビを消すと、遥に向き合った。彼女は何から話していいものかと逡巡していたが、やがて話し始めた。
「私、クラスの男の子と付き合うことになりそう」
「……何だと?」
桐生の頭の中が真っ白になる。付き合う?誰が?誰と?彼がかろうじて発した言葉はひどく混乱していた。
「相手は誰だ、どういう仲なんだ!……いや、そういう問題じゃなくて……だいたい遥はまだ小学生だろ!」
尋常でない桐生に驚き、遥は慌てたように手を振った。
「ちょ、ちょっと待ってよおじさん。まだ付き合うって決まったわけじゃないの。そのことで今、困ってるんだよ~」
彼女の顔は浮かない。少なくとも、望んでそういう事態になったわけではなさそうだ。桐生は幾分落ち着きを取り戻し、溜息をついた。
「全部、言ってみろ」
遥は真剣な顔で頷いた。
「最初は、女の子同士で誰が誰を好きかっていう話だったの。それがなんだか男子にも広がっちゃって……その中の一人が
私が好きだって言ったみたいなの」
桐生の表情がわずかに強張る。正直、こういった話が出た段階で心中穏やかではないが、今口を挟むわけに行かない。
彼女は溜息をついた。
「そうしたらクラス中大騒ぎになってさ……みんなが私のところに来て『澤村はどうなんだよ』って聞くんだよ。半分いじめだよ……
私はその子のことなんとも思ってなかったし、でも友達だからこう言ったの。『大事なクラスの友達だと思う。でも、私に好意を持って
くれたことは嬉しいな』って」
「無難な返事だ」
桐生は何度か頷く。普通に聞けば、当たり障りのないコメントだろう。しかし遥は疲れたように座卓に頭を乗せた。
「でも、みんな私の『好意を持ってくれたことは嬉しい』って言葉を『私も好きだ』って意味に受け取っちゃったんだよ~それでまた
クラス中大騒ぎ。いつのまにか両思いだ、付き合うんだって話になっちゃって……」
「そんなものか」
桐生は目を丸くする。確かに、あの頃の子供は、言葉をそのまま受け取ってしまう時期かもしれない。大人から見れば体のいい
断り文句でも、遥の話を聞くとそうもいかないようだ。
「そうなったら、はっきり断るしかないだろう」
苦笑する桐生に、遥は脱力したまま視線だけ向けた。
「同級生なんだよ~、まだまだ一緒に生活しなきゃいけないのに、はっきり断ったら後々気まずいよ」
彼女をしばらく見つめていた桐生は、やがて口を開いた。
「断る優しさ、というものもあるんだぞ」
遥は驚いたように顔を上げた。桐生は優しく微笑む。
「そんな態度で付き合ってやっても、結局遥にその気がないのなら、そいつは逆に傷つくだろう。たとえ気まずくなっても、はっきり
断ってやったほうが、そいつも別の思い人を見つけられるんじゃないのか。それもまた、優しさの一つだ」
「……そうかな」
「まあ、付き合ったとして、遥が……そいつを、その、好きになる……可能性もあるわけだが……」
桐生の表情がだんだん暗くなり、やがて言い終わる頃には肩を落として俯いていた。自分で言っていて精神的ダメージを受けたらしい。
しかし、逆に遥は声を上げて笑った。もう思い悩んでいた彼女ではない。
「まさか。そんなこと絶対無いよ!だって……」
「だって?」
思わず問い返す桐生に、遥は意味ありげに笑って見せた。
「ちゃんと私には好きな人いるもん」
「え……」
桐生は目を丸くする。遥は元気よく立ち上がり、彼に手を振った。
「なんかおじさんに話し聞いてもらってすっきりしちゃった!私、ちゃんと断るよ。それで駄目ならまた一緒に考えてね」
「お、おい遥!好きな人って誰なんだ」
立ち去ろうとする遥に、桐生は慌てて声をかける。彼女は振り返ると、照れたように笑った。
「ナイショ」
「内緒……いや、駄目だ。ちゃんと名前を…名前が駄目なら歳とか、性格とかあるだろう!」
必死で食い下がる桐生を笑い、遥はしょうがないな、と少し考えた。
「年上で、優しくて、喧嘩が強くて、頑固で……鈍感な人!」
特徴を聞き、にわかに悩み始めた桐生を後に、遥は自分の部屋に入る。そして再び扉を少し開け、まだ悩んでいる桐生を眺め
彼女は小さく笑って呟いた。
「ほんと、鈍感だね」
まさに灯台下暗し。その夜桐生は一睡もできなかったという。
賽
珍しく遥は神室町に足を踏み入れていた。当然、桐生も一緒なのだが、ただ遊びに来たわけではないようだ。遥には詳しいことは
言わないが、桐生に東城会のことで話があるらしいとのことだった。本来なら桐生一人でくるつもりだったのだが、彼女も久しぶりに
神室町に行きたいとねだったため、桐生が渋々ながら承諾したというわけだ。
「用が終わったらどこにでも連れて行ってやるから、ここを動くな」
風間組の事務所に向かう桐生は、ミレニアムタワーのホールで言い聞かせた。少々過保護な気もするが、それだけ子供には危険な
場所も多いと言うことだろう。遥は不満を漏らしながらも、頷いた。ここで桐生の機嫌を損ねたら、強制送還もありうる。
とはいえ、ミレニアムタワーはビジネスビルであり、特に見るところもない。遥は途方にくれたように近くのソファに腰掛けた。
「おや、見た顔だね」
ふと、彼女に声がかけられる。彼女が視線を動かすと、そこには小さな老人が立っていた。灰色のソフト帽に、落ち着いた色の和服を
粋に着こなし、使い込んだ杖をつく老人は、細い目を更に細めながら、遥に微笑みかけている。彼女は首をかしげて問いかけた。
「お爺さん、誰?」
「おや、お嬢は私をお忘れかな?」
遥は首を縦に振る。老人は手に提げた巾着から、何か取り出した。
「これではどうかな?手を出してごらん」
彼女の差し出した手に、老人は何かを転がす。手の中のものを見るなり、遥は声を上げた。
「サイコロ、そうか!賭場のお爺さん!」
そこにいたのは、かつて宝くじ売り場の裏で賭場を開いていた胴元の男だった。以前、壷ふりの男がイカサマをはたらき、それを遥が
指摘して大騒ぎになったことがある。思い出してもらえたことが嬉しいのか、老人は帽子を脱いで頭を下げた。
「こんにちは。その節は、怖い思いをさせちまったね」
遥は首を振り、思わぬ人物との再会に思わず立ち上がった。
「おじさんも無事だったし、もういいよ。お爺さん、ここにご用事?」
「ま、私も賭場だけじゃやっていけないからね。座って、いいかい?」
彼がソファを指差すと、遥は嬉しそうに頷いた。
「お爺さん、龍宮城の賭場もお爺さんの場所?」
「さてね」
老人は曖昧に呟いた。こういった場所のことは、例え子供でもみだりに話すようなことではないのだろう。ただ微笑むだけだ。
「私はお嬢の目の良さに惚れていてね。あの賭けっぷりといい、見極めの速さといい、たいしたもんだ」
遥は恥ずかしげに笑い、手の中のサイコロを眺めた。うっすら黄色がかっているそれが二つ、彼女の手のひらで転がされ数字を変えた。
「それなら、私、壷ふりになれるかな」
無邪気に呟く彼女に老人は声を上げて笑った。
「おや、お嬢は壷ふりになりたいのかい」
「だめかなあ、女だもんね」
苦笑する遥に、老人は首を振った。
「そんなこたあない。女でも腕のいい壷ふりはいるもんだ……なら、私がお嬢を試してやろう」
首を傾げる遥を見つめ、老人はサイコロを手に取ると、手の中で振った。
「丁半だ。どちらかな」
遥は彼の手を真剣に見詰める。老人は手を止め、彼女に差し出した。遥は即答する。
「半」
「相変わらず、威勢がいいねえ」
老人は微笑み、手を開く。五二の半だ。ほうほう、と老人はまた手の中でサイコロを転がした。
「さて、どちらかな」
「丁!」
遥の声に呼応するように手を開く。一一の丁。遥は思わず万歳をした。
「やったー!また当たった」
「やっぱりいい目をしとる。なら、次の勝負は何か賭けよう。そうだね……お嬢ちゃんが買ったら1000万あげるよ」
「え……」
突然の申し出に、遥は戸惑う。老人は口の端に笑みを浮かべた。
「なに、お嬢からは何も取りゃあせん。もちろん、あの男からもね。お嬢はただ丁半言えばいい。当たれば1000万、外れたら0だ」
「でも」
「老い先短い老人の、酔狂な遊びだ。気楽に付き合いなよ」
老人は、構わずサイを振る。そして、手を止めるとゆっくり差し出した。
「イカサマなしの一発勝負。さあ、張った」
遥は沈黙する。先ほどの威勢が嘘のように、彼の手を見つめたままでいる。ひとしきり悩んだ後、彼女は首を振った。
「わかんない」
「ほう、わからんと」
「急に頭の中がごちゃごちゃしてきて……なんでだろ」
考え込む遥に、老人は声を上げて笑った。
「それは、欲が出たからさ」
「欲?」
思わず彼の顔を覗き込む遥に、老人は頷く。そして遥を穏やかに見つめた。
「お嬢、あの時一緒にいた兄さんが、最終的にどれだけ儲かってたか知ってるかい」
「……うーん、わかんない」
首を振る彼女に、老人はやっぱりな、と微笑んで遠くを見つめた。
「お嬢ちゃんがあれだけ出目を当てられたのは、それほど欲がないからだよ。金が入ることは分かっていたようだが、その決定が
どれだけの額を動かすかなんて考えてもいなかったろう?さっき、お嬢は現実に金を想像した。それが判断を狂わせたんだよ」
「それが、欲?」
問い返す彼女に、老人はそう、と頭を撫で話を続けた。
「それにな、壷ふりというものは、お嬢には考えられないほどの金を賭場で支配する。指示があれば客に儲けさせ、時には胴元に
還元する。お嬢はいい目をしているが、金が絡むとからきしだ。それは一般的には長所にもなるが、大金を動かす博打打ちには
致命的でもある。一瞬の迷いも許されない世界で、今のように悩んではいられないんだよ」
「そうかぁ」
遥は何度も頷く。老人はサイコロを手の中で転がした。
「だが、おしいのう。いい目は持っとるんだが……だが、あの兄さんが許さんかな。まあ、お嬢はお嬢らしく、表の世界で生きるといい」
そこまで話し、老人は視線を動かした。遠くから黒いスーツの男が足早に歩み寄ってきた。
「お話中申し訳ありません。お時間が…」
「そうか。せっかく会えたのに、残念だ。お嬢、兄さんによろしく」
老人はゆっくり立ち上がり、帽子をかぶる。遥は立ち上がって両手を振った。
「お爺さん、お話してくれてありがとう!またね!」
老人は振り向かず、右手だけをそっと上げた。遥は微笑みながら、彼をずっと見送っていた。
「遥」
後ろから声をかけられる。振り向くと桐生が歩いてくるところだった。
「おじさん、もう終わったの?」
桐生は頷き、彼女の頭を撫でた。
「ああ、待たせて悪かったな。どこか行きたいところはあるか?」
「うーん、それじゃあ、賭場!」
ぎょっとする桐生に遥は声を上げて笑い、ニ、三歩歩いて振り返った。
「嘘だよ。あのね、私、博打に向いてないんだって。もうしないよ」
桐生は困惑した表情で彼女を追った。
「話が見えないんだが……遥、誰かと会ったのか?」
「秘密!そうだ、ケーキ食べたいな~」
秘密か、桐生は苦笑して歩き出した。理由は知らないが、何か彼女の心に変化があったらしい。少なくとも、悪いことではないだろう。
二人は穏やかに微笑みながら通りを歩き出した。神室町は春の日差しを受け、いつもよりゆっくりと時間が過ぎていくようだった。
十人十色
週末の少し遅い朝食。普段なら和やかな時間を過ごしているはずの桐生と遥だったが、今日は少々険悪だ。
ささいなきっかけから始まった口論。いつもの二人なら、すぐに関係修復という流れになるはずだった。
しかし、今回はどちらも譲らない。結果的に感情を爆発させたのは遥だった。
「おじさんのバカ!頑固者!もう知らない!」
「遥!」
けたたましい音を立て、遥は部屋を出て行く。後に残された桐生は苛立たしく溜息をつくと、すっかり冷めてしまった朝食を眺めた。
「もう、おじさんなんか知らないんだから!」
険しい表情で遥は呟く。平和なのんびりとした通りを、悪態をつきながら歩いていく遥は結構目立つ。彼女とすれ違った人々は
不思議そうな顔で彼女の後姿を追った。
勢いで飛び出しては来たものの、遥は途方にくれていた。所持金も多くなく、土曜の朝から会えそうな友人はいないだろう。
かといって、大きな事を言って出てきた手前、すぐに帰るのも癪だ。彼女は駅まで来て、ふと見覚えのある駅名が目に留まる。
すこしためらったが、彼女は思い切ったように切符を購入した。
「久しぶり……」
遥は辺りを見回す。都内一の歓楽街、神室町はこの時間だと眠ったようだ。飲み屋や風俗の看板は明かりを消し、逆にファースト
フードや雑貨屋などが客も少なく開店していた。
神室町に向かったのも、特に何かあったわけではない。誰か知ってる人がいたらいい、というくらいの気持ちだった。
堅気に戻った桐生は、彼女が極道や情報屋といった裏の世界の住人に接触するのを特に嫌った。悪い人間ではないのだろうが
かといってまるっきり善人でもない人々だ。彼女にとって知らなくてもいい事を彼らによって知らされることが怖かったのかもしれない。
そのため、桐生は彼女に一人で神室町に訪れることを禁じた。遥もそれを忠実に守っていた。
今日ここに訪れたのは、喧嘩したことによって桐生に対して生じた反発心もあったのかもしれない。遥は辺りを見回しながら
神室町のアーチをくぐった。
しばらく歩くと、小さな雑居ビルがある。ここは彼女にとって特別な場所。遥はしばらく迷っていたが、思い切ったようにその中に
足を踏み入れた。
階段を上り、重厚な木の扉には「セレナ」とある。そのノブに手をかけると何故か鍵はかかってなく、すんなり扉は開いた。
「……お母さん!麗奈さん!」
叫び、勢いよく開けた彼女の目に映ったのは薄暗い店内。埃の積もったカウンターや椅子。そうだ、ここの主たちはもうこの世にいない。
理解しているはずなのに、もしかしたらという気持ちが残っている。明かりをつけると、近くのソファーに腰を下ろした。
「お母、さん」
もう一度呟く。途端に寂しさが募ってきた。ここで待っていても、誰も来ない。街から忘れ去られた悲しい店の姿がここにあった。
ここにいてもしょうがないと立ち上がった時、扉のノブが動く。ひどく驚いて立ち尽くすと、やがて扉が開いた。
「うぉわ!」
店に入ってきた人間が、遥に気付いて情けない悲鳴を上げる。彼女はその人物をよく知っていた。
「お兄ちゃん…」
「わ、わ、来るなぁぁぁ!俺にとり憑いてもいいことないぞ!」
何か違うものと間違われているようだ。遥は這うように逃げようとする男の肩を叩いた。
「違うよ、ユウヤお兄ちゃん。私、遥だよ」
「は、遥ぁ?」
男は拍子抜けしたような顔で振り向く。ユウヤはこのビルの正面にあるホストクラブ「スターダスト」の店長をしている男だ。
桐生が出所して以来の付き合いで、いつも何かと力になってくれる青年だ。彼は安心したように大きく息を吐いた。
「なんだよもう……めちゃくちゃ驚いた。どうしたんだよ、こんなところで」
知っている人間に会った安堵か、遥の瞳に涙が浮かぶ。ユウヤは思わぬ事態に、すっかりうろたえてしまった。
「遥、どうした?もしかして桐生さんになんかあったのか?それとも俺なんか驚かせたか?」
遥は俯いて何度も涙を拭い、首を振った。
「大丈夫。気にしないで、なんでもないから」
いきなり泣いて、なんでもないわけがない。困り果てて、ユウヤは思い出したようにポケットからティッシュを取り出した。
金融の広告が付いている。路上で渡されたものらしい。
「ちょっと俺やることあっから、これで涙拭いてろ」
「……やること?」
遥が涙を拭きつつ問いかけると、ユウヤは店の奥で作業を始めた。
「一ヶ月に一回ここに来て、電気とか水まわりチェックしてんだ。本当は不動産屋の仕事なんだけどな、そっちに任せると折角の
セレナが変わっちまうだろ。ここだけはこのままで残しとこうって、一輝さんが買い取ったんだ」
「そうだったんだ」
泣いていたのも忘れ、遥は納得した。鍵が開いてたのはその為だったらしい。一通り点検を終え、ユウヤは体を伸ばした。
「終わった終わった~!もうここは閉めるけど、おまえこれからどうすんの?」
遥は沈黙する。そのただならぬ雰囲気に、ユウヤは突然彼女を横抱きにしてセレナを出た。
「ちょっとうちの店で遊んで行け」
「え?ユウヤお兄ちゃん今から?って、私お金持ってないし未成年だよ~!」
騒ぐ彼女を気にも留めず、彼は足早にスターダストへと向かった。
数分後、遥は居心地悪そうにスターダストのVIP席に座っていた。すると奥からいい香りをさせ、ユウヤが何か持ってくる。
目の前に置かれたのはオムライス。サイドメニューにでもあるのか、彼の作ったそれはその辺のレストランで出されても
不思議ではないほどの出来栄えだ。
「食え」
「え、でも……」
戸惑う遥にユウヤはもう一度告げた。
「いいから、食え。金のことは気にするな」
「は、はい…いただきます」
彼の迫力に負け、遥はオムライスを食べ始める。それに満足したのか、ユウヤは笑みを浮かべた。
「よし、それでいい。いい子だな」
まるで犬猫のような扱いだ、と遥は思う。それにしても彼の作ったオムライスは、見た目はもちろん、味も申し分ない。
時間を聞くと、もう昼過ぎだと言う。どうりでお腹も空くわけだ。遥はいつしか夢中になってオムライスを食べ始めた。
「ハラがへると、寂しくなるよな。イライラして、ろくな事考えねえ」
顔を上げると、ユウヤが手すりにもたれて遥を見つめていた。遥は恥ずかしそうに笑う。
「さっきはごめんなさい。色々あって、どうしていいかわからなかったの」
「いいよ、気にすんなって。ほら、まだ残ってるぞ、食え」
「ありがとう。これすごく美味しいよ!ユウヤお兄ちゃんすごいね!」
素直に褒められ、ユウヤは思わず顔を赤らめた。それを隠すように彼女に背を向ける。
「あ、ああ、そうだ。水、持って来てやる。ちょっと待ってろ」
「うん!」
遥は返事をすると、再び食事を始める。そっと振り向き、ユウヤは微笑んで厨房に向かった。
食事を終えしばらくすると、この店の従業員がやってくる。彼らはユウヤと一緒にいる遥に気付くと、驚いた顔でやってきた。
「え、ユ、ユウヤさん。この子誰ですか?もしかしてユウヤさんの娘さん…」
「すっげえ、こんな大きな娘さんいたんすか?!」
取り囲まれ、好き放題言われるのに我慢ならなかったのか、ユウヤは叫んだ。
「んなわけねえだろ!知りあいの娘さんだよ!」
「わかってますって、だってこの子可愛すぎるもん。ユウヤさんに似てないっす」
その言葉に、ホスト達は声を上げて笑う。ユウヤは顔を真っ赤にして皆を睨みつけた。
「うっせえぞ、お前らさっさと着替えてこい!」
ホスト達はユウヤの指示を聞かず、遥に興味深々だ。一人の少女に店中のホストが取り囲むその光景は、スターダストの営業中
でもそうそう見られるものではないだろう。
「お嬢さん、名前は?」
「あ、遥…です」
「可愛いね、もてるでしょ」
「そ、そんなことないですよ!」
「だったら俺立候補しちゃおかな。どう?」
「立候補しなくていいです~」
戸惑う遥を見かねて、ユウヤは皆をたしなめた。
「おい、もう遥にちょっかいかけるなよ」
「サービスっすよ、サービス!」
すっかり悪乗りしている。ホスト達は、今までに接したことがない少女の反応が面白いらしい。ユウヤは彼らを止めるのを諦め
静かに遥に問いかけた。
「で、遥はなんであんな所にいたんだ?桐生さんとなんかあったのか?」
遥は表情を曇らせ、俯く。皆が心配そうに顔を覗き込むと、彼女はぽつりと呟いた。
「だって…おじさんが醤油をかけるって言うんだもん」
「……醤油?」
思いも寄らなかった単語の登場に、皆は首を傾げる。口に出して勢いが付いたのか、遥は顔を上げた。
「おじさん、目玉焼きに醤油をかけるって言うんだもん!信じられないでしょ?普通、目玉焼きにはケチャップだよね!」
「目玉焼き…」
ユウヤは脱力する。そんなことで怒るとは、大人びているようで遥はやっぱり子供だ。彼は首を振ると、遥に告げた。
「遥、そんなことで怒んなよ。桐生さんの気持ち、俺にはわかる。普通目玉焼きには醤油だろ」
遥は心底落胆したように、泣きそうな顔でユウヤに詰め寄った。
「え~!絶対ケチャップだもん!醤油なんて聞いたことないもん!」
「そうっすよ、ユウヤさん。目玉焼きには塩ですよ」
それまでぽかんとして聞いていたホストの一人が声を上げる。それが引き金となって場が騒然となった。
「塩って。お前バカだろ。目玉焼きにはソース!これ常識!」
「え、俺ずっとコショウのみなんだけど……ソース濃くない?」
「何言ってんの?マヨネーズがガチ。他は考えられねー」
「おいおいおい、ポン酢を忘れてもらっては困るな!」
「冗談、絶対味噌。味噌だって」
「味噌?ハァ?おまえ目玉焼きに謝れ!」
「そっちこそふざけんな。お前こそ謝れ!」
もう収拾がつかない。遥は新たなトッピングの連続に、あっけにとられて皆を眺めた。場は混乱を極め、一触即発の事態になったとき
遠くから聞きなれた声がした。
「騒がしいと思ったら、可愛いお客様だね」
「一輝お兄ちゃん!」
「一輝さん!」
視線を向けると、一輝が優しい笑顔を浮かべ、階段を上がってくるのが見えた。遥は嬉しそうに駆け寄り、頭を下げた。
「お久しぶりです。あ、おじさんから聞いたけど、体の方は大丈夫?」
彼は大きく頷くと、少しかがんで遥に視線を合わせた。
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね。で、皆なにを騒いでいたんだ?」
「……目玉焼きっす」
憮然と言い放つユウヤに、一輝が目を丸くした。
「目玉焼き?」
「そうだ、一輝さん!目玉焼きに何かけます?やっぱり醤油でしょ?」
「お兄ちゃん、ケチャップだよね!?」
ユウヤと遥に詰め寄られ一輝は面食らっていたようだったが、やがて困ったように口を開いた。
「何をかけるって……もしかして、皆目玉焼きに何かかけるのか?」
「……え?」
言われたことが理解できていない皆を笑い、一輝は極上の微笑みを浮かべた。
「俺は、目玉焼きになにもかけないよ」
食の原点ここに極まれり。皆は毒気を抜かれたように、がっくりとうなだれた。
一輝はしばらくユウヤから事の次第を聞き、やっと遥がこの店にいた理由を知った。彼はソファーに遥を座らせ、目の前に跪く。
「遥ちゃん、皆が言うように好みは人それぞれだと思うんだ。いくら好きだからって、自分の好みを押し付けたりしたら、桐生さんだって
困ってしまうよ。もう、遥ちゃんなら改めて言わなくてもわかってるよね」
遥は彼の言葉を素直に聞いている。彼の言葉に納得したように彼女は頷いた。
「はい。おじさんにはちゃんと謝ります」
「よかった。それじゃ、もう少しうちで遊んでいたらいいよ。桐生さんには俺から連絡しておくから」
「ありがとう、一輝お兄ちゃん」
礼を言われ、彼は遥の頭を撫でた。
「さて、遥様。のどが渇きませんか?オレンジジュースが冷えてますよ」
遥は嬉しそうに頷き、元気よく答えた。
「えっと、それじゃ、オレンジジュースください!」
一輝は立ち上がると、ホストたちに向かって声を上げた。
「みんな、こちらのお嬢様からオレンジジュースいただきました!」
ホスト達が歓声を上げる。その後、世にも珍しいスターダストの「シャンパンコール」ならぬ「オレンジコール」が巻き起こったが、これは
後にも先にも関係者以外聞いたものはいなかったとか。開店に合わせて店を出るまで遥はずっとご満悦で、女達がホストに入れあげる
のもわからなくはないと思った。
遥は何度も皆に礼を言い、神室町を出た。帰ったらすぐ桐生に謝ろう。そして彼が許してくれたなら、今日あったことを話して聞かせよう。
今後、もしまた二人で目玉焼きを食べたなら、今度は醤油をかけてみよう。遥は小さく笑いながら足取りも軽く家路についた。
週末の少し遅い朝食。普段なら和やかな時間を過ごしているはずの桐生と遥だったが、今日は少々険悪だ。
ささいなきっかけから始まった口論。いつもの二人なら、すぐに関係修復という流れになるはずだった。
しかし、今回はどちらも譲らない。結果的に感情を爆発させたのは遥だった。
「おじさんのバカ!頑固者!もう知らない!」
「遥!」
けたたましい音を立て、遥は部屋を出て行く。後に残された桐生は苛立たしく溜息をつくと、すっかり冷めてしまった朝食を眺めた。
「もう、おじさんなんか知らないんだから!」
険しい表情で遥は呟く。平和なのんびりとした通りを、悪態をつきながら歩いていく遥は結構目立つ。彼女とすれ違った人々は
不思議そうな顔で彼女の後姿を追った。
勢いで飛び出しては来たものの、遥は途方にくれていた。所持金も多くなく、土曜の朝から会えそうな友人はいないだろう。
かといって、大きな事を言って出てきた手前、すぐに帰るのも癪だ。彼女は駅まで来て、ふと見覚えのある駅名が目に留まる。
すこしためらったが、彼女は思い切ったように切符を購入した。
「久しぶり……」
遥は辺りを見回す。都内一の歓楽街、神室町はこの時間だと眠ったようだ。飲み屋や風俗の看板は明かりを消し、逆にファースト
フードや雑貨屋などが客も少なく開店していた。
神室町に向かったのも、特に何かあったわけではない。誰か知ってる人がいたらいい、というくらいの気持ちだった。
堅気に戻った桐生は、彼女が極道や情報屋といった裏の世界の住人に接触するのを特に嫌った。悪い人間ではないのだろうが
かといってまるっきり善人でもない人々だ。彼女にとって知らなくてもいい事を彼らによって知らされることが怖かったのかもしれない。
そのため、桐生は彼女に一人で神室町に訪れることを禁じた。遥もそれを忠実に守っていた。
今日ここに訪れたのは、喧嘩したことによって桐生に対して生じた反発心もあったのかもしれない。遥は辺りを見回しながら
神室町のアーチをくぐった。
しばらく歩くと、小さな雑居ビルがある。ここは彼女にとって特別な場所。遥はしばらく迷っていたが、思い切ったようにその中に
足を踏み入れた。
階段を上り、重厚な木の扉には「セレナ」とある。そのノブに手をかけると何故か鍵はかかってなく、すんなり扉は開いた。
「……お母さん!麗奈さん!」
叫び、勢いよく開けた彼女の目に映ったのは薄暗い店内。埃の積もったカウンターや椅子。そうだ、ここの主たちはもうこの世にいない。
理解しているはずなのに、もしかしたらという気持ちが残っている。明かりをつけると、近くのソファーに腰を下ろした。
「お母、さん」
もう一度呟く。途端に寂しさが募ってきた。ここで待っていても、誰も来ない。街から忘れ去られた悲しい店の姿がここにあった。
ここにいてもしょうがないと立ち上がった時、扉のノブが動く。ひどく驚いて立ち尽くすと、やがて扉が開いた。
「うぉわ!」
店に入ってきた人間が、遥に気付いて情けない悲鳴を上げる。彼女はその人物をよく知っていた。
「お兄ちゃん…」
「わ、わ、来るなぁぁぁ!俺にとり憑いてもいいことないぞ!」
何か違うものと間違われているようだ。遥は這うように逃げようとする男の肩を叩いた。
「違うよ、ユウヤお兄ちゃん。私、遥だよ」
「は、遥ぁ?」
男は拍子抜けしたような顔で振り向く。ユウヤはこのビルの正面にあるホストクラブ「スターダスト」の店長をしている男だ。
桐生が出所して以来の付き合いで、いつも何かと力になってくれる青年だ。彼は安心したように大きく息を吐いた。
「なんだよもう……めちゃくちゃ驚いた。どうしたんだよ、こんなところで」
知っている人間に会った安堵か、遥の瞳に涙が浮かぶ。ユウヤは思わぬ事態に、すっかりうろたえてしまった。
「遥、どうした?もしかして桐生さんになんかあったのか?それとも俺なんか驚かせたか?」
遥は俯いて何度も涙を拭い、首を振った。
「大丈夫。気にしないで、なんでもないから」
いきなり泣いて、なんでもないわけがない。困り果てて、ユウヤは思い出したようにポケットからティッシュを取り出した。
金融の広告が付いている。路上で渡されたものらしい。
「ちょっと俺やることあっから、これで涙拭いてろ」
「……やること?」
遥が涙を拭きつつ問いかけると、ユウヤは店の奥で作業を始めた。
「一ヶ月に一回ここに来て、電気とか水まわりチェックしてんだ。本当は不動産屋の仕事なんだけどな、そっちに任せると折角の
セレナが変わっちまうだろ。ここだけはこのままで残しとこうって、一輝さんが買い取ったんだ」
「そうだったんだ」
泣いていたのも忘れ、遥は納得した。鍵が開いてたのはその為だったらしい。一通り点検を終え、ユウヤは体を伸ばした。
「終わった終わった~!もうここは閉めるけど、おまえこれからどうすんの?」
遥は沈黙する。そのただならぬ雰囲気に、ユウヤは突然彼女を横抱きにしてセレナを出た。
「ちょっとうちの店で遊んで行け」
「え?ユウヤお兄ちゃん今から?って、私お金持ってないし未成年だよ~!」
騒ぐ彼女を気にも留めず、彼は足早にスターダストへと向かった。
数分後、遥は居心地悪そうにスターダストのVIP席に座っていた。すると奥からいい香りをさせ、ユウヤが何か持ってくる。
目の前に置かれたのはオムライス。サイドメニューにでもあるのか、彼の作ったそれはその辺のレストランで出されても
不思議ではないほどの出来栄えだ。
「食え」
「え、でも……」
戸惑う遥にユウヤはもう一度告げた。
「いいから、食え。金のことは気にするな」
「は、はい…いただきます」
彼の迫力に負け、遥はオムライスを食べ始める。それに満足したのか、ユウヤは笑みを浮かべた。
「よし、それでいい。いい子だな」
まるで犬猫のような扱いだ、と遥は思う。それにしても彼の作ったオムライスは、見た目はもちろん、味も申し分ない。
時間を聞くと、もう昼過ぎだと言う。どうりでお腹も空くわけだ。遥はいつしか夢中になってオムライスを食べ始めた。
「ハラがへると、寂しくなるよな。イライラして、ろくな事考えねえ」
顔を上げると、ユウヤが手すりにもたれて遥を見つめていた。遥は恥ずかしそうに笑う。
「さっきはごめんなさい。色々あって、どうしていいかわからなかったの」
「いいよ、気にすんなって。ほら、まだ残ってるぞ、食え」
「ありがとう。これすごく美味しいよ!ユウヤお兄ちゃんすごいね!」
素直に褒められ、ユウヤは思わず顔を赤らめた。それを隠すように彼女に背を向ける。
「あ、ああ、そうだ。水、持って来てやる。ちょっと待ってろ」
「うん!」
遥は返事をすると、再び食事を始める。そっと振り向き、ユウヤは微笑んで厨房に向かった。
食事を終えしばらくすると、この店の従業員がやってくる。彼らはユウヤと一緒にいる遥に気付くと、驚いた顔でやってきた。
「え、ユ、ユウヤさん。この子誰ですか?もしかしてユウヤさんの娘さん…」
「すっげえ、こんな大きな娘さんいたんすか?!」
取り囲まれ、好き放題言われるのに我慢ならなかったのか、ユウヤは叫んだ。
「んなわけねえだろ!知りあいの娘さんだよ!」
「わかってますって、だってこの子可愛すぎるもん。ユウヤさんに似てないっす」
その言葉に、ホスト達は声を上げて笑う。ユウヤは顔を真っ赤にして皆を睨みつけた。
「うっせえぞ、お前らさっさと着替えてこい!」
ホスト達はユウヤの指示を聞かず、遥に興味深々だ。一人の少女に店中のホストが取り囲むその光景は、スターダストの営業中
でもそうそう見られるものではないだろう。
「お嬢さん、名前は?」
「あ、遥…です」
「可愛いね、もてるでしょ」
「そ、そんなことないですよ!」
「だったら俺立候補しちゃおかな。どう?」
「立候補しなくていいです~」
戸惑う遥を見かねて、ユウヤは皆をたしなめた。
「おい、もう遥にちょっかいかけるなよ」
「サービスっすよ、サービス!」
すっかり悪乗りしている。ホスト達は、今までに接したことがない少女の反応が面白いらしい。ユウヤは彼らを止めるのを諦め
静かに遥に問いかけた。
「で、遥はなんであんな所にいたんだ?桐生さんとなんかあったのか?」
遥は表情を曇らせ、俯く。皆が心配そうに顔を覗き込むと、彼女はぽつりと呟いた。
「だって…おじさんが醤油をかけるって言うんだもん」
「……醤油?」
思いも寄らなかった単語の登場に、皆は首を傾げる。口に出して勢いが付いたのか、遥は顔を上げた。
「おじさん、目玉焼きに醤油をかけるって言うんだもん!信じられないでしょ?普通、目玉焼きにはケチャップだよね!」
「目玉焼き…」
ユウヤは脱力する。そんなことで怒るとは、大人びているようで遥はやっぱり子供だ。彼は首を振ると、遥に告げた。
「遥、そんなことで怒んなよ。桐生さんの気持ち、俺にはわかる。普通目玉焼きには醤油だろ」
遥は心底落胆したように、泣きそうな顔でユウヤに詰め寄った。
「え~!絶対ケチャップだもん!醤油なんて聞いたことないもん!」
「そうっすよ、ユウヤさん。目玉焼きには塩ですよ」
それまでぽかんとして聞いていたホストの一人が声を上げる。それが引き金となって場が騒然となった。
「塩って。お前バカだろ。目玉焼きにはソース!これ常識!」
「え、俺ずっとコショウのみなんだけど……ソース濃くない?」
「何言ってんの?マヨネーズがガチ。他は考えられねー」
「おいおいおい、ポン酢を忘れてもらっては困るな!」
「冗談、絶対味噌。味噌だって」
「味噌?ハァ?おまえ目玉焼きに謝れ!」
「そっちこそふざけんな。お前こそ謝れ!」
もう収拾がつかない。遥は新たなトッピングの連続に、あっけにとられて皆を眺めた。場は混乱を極め、一触即発の事態になったとき
遠くから聞きなれた声がした。
「騒がしいと思ったら、可愛いお客様だね」
「一輝お兄ちゃん!」
「一輝さん!」
視線を向けると、一輝が優しい笑顔を浮かべ、階段を上がってくるのが見えた。遥は嬉しそうに駆け寄り、頭を下げた。
「お久しぶりです。あ、おじさんから聞いたけど、体の方は大丈夫?」
彼は大きく頷くと、少しかがんで遥に視線を合わせた。
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね。で、皆なにを騒いでいたんだ?」
「……目玉焼きっす」
憮然と言い放つユウヤに、一輝が目を丸くした。
「目玉焼き?」
「そうだ、一輝さん!目玉焼きに何かけます?やっぱり醤油でしょ?」
「お兄ちゃん、ケチャップだよね!?」
ユウヤと遥に詰め寄られ一輝は面食らっていたようだったが、やがて困ったように口を開いた。
「何をかけるって……もしかして、皆目玉焼きに何かかけるのか?」
「……え?」
言われたことが理解できていない皆を笑い、一輝は極上の微笑みを浮かべた。
「俺は、目玉焼きになにもかけないよ」
食の原点ここに極まれり。皆は毒気を抜かれたように、がっくりとうなだれた。
一輝はしばらくユウヤから事の次第を聞き、やっと遥がこの店にいた理由を知った。彼はソファーに遥を座らせ、目の前に跪く。
「遥ちゃん、皆が言うように好みは人それぞれだと思うんだ。いくら好きだからって、自分の好みを押し付けたりしたら、桐生さんだって
困ってしまうよ。もう、遥ちゃんなら改めて言わなくてもわかってるよね」
遥は彼の言葉を素直に聞いている。彼の言葉に納得したように彼女は頷いた。
「はい。おじさんにはちゃんと謝ります」
「よかった。それじゃ、もう少しうちで遊んでいたらいいよ。桐生さんには俺から連絡しておくから」
「ありがとう、一輝お兄ちゃん」
礼を言われ、彼は遥の頭を撫でた。
「さて、遥様。のどが渇きませんか?オレンジジュースが冷えてますよ」
遥は嬉しそうに頷き、元気よく答えた。
「えっと、それじゃ、オレンジジュースください!」
一輝は立ち上がると、ホストたちに向かって声を上げた。
「みんな、こちらのお嬢様からオレンジジュースいただきました!」
ホスト達が歓声を上げる。その後、世にも珍しいスターダストの「シャンパンコール」ならぬ「オレンジコール」が巻き起こったが、これは
後にも先にも関係者以外聞いたものはいなかったとか。開店に合わせて店を出るまで遥はずっとご満悦で、女達がホストに入れあげる
のもわからなくはないと思った。
遥は何度も皆に礼を言い、神室町を出た。帰ったらすぐ桐生に謝ろう。そして彼が許してくれたなら、今日あったことを話して聞かせよう。
今後、もしまた二人で目玉焼きを食べたなら、今度は醤油をかけてみよう。遥は小さく笑いながら足取りも軽く家路についた。