十人十色
週末の少し遅い朝食。普段なら和やかな時間を過ごしているはずの桐生と遥だったが、今日は少々険悪だ。
ささいなきっかけから始まった口論。いつもの二人なら、すぐに関係修復という流れになるはずだった。
しかし、今回はどちらも譲らない。結果的に感情を爆発させたのは遥だった。
「おじさんのバカ!頑固者!もう知らない!」
「遥!」
けたたましい音を立て、遥は部屋を出て行く。後に残された桐生は苛立たしく溜息をつくと、すっかり冷めてしまった朝食を眺めた。
「もう、おじさんなんか知らないんだから!」
険しい表情で遥は呟く。平和なのんびりとした通りを、悪態をつきながら歩いていく遥は結構目立つ。彼女とすれ違った人々は
不思議そうな顔で彼女の後姿を追った。
勢いで飛び出しては来たものの、遥は途方にくれていた。所持金も多くなく、土曜の朝から会えそうな友人はいないだろう。
かといって、大きな事を言って出てきた手前、すぐに帰るのも癪だ。彼女は駅まで来て、ふと見覚えのある駅名が目に留まる。
すこしためらったが、彼女は思い切ったように切符を購入した。
「久しぶり……」
遥は辺りを見回す。都内一の歓楽街、神室町はこの時間だと眠ったようだ。飲み屋や風俗の看板は明かりを消し、逆にファースト
フードや雑貨屋などが客も少なく開店していた。
神室町に向かったのも、特に何かあったわけではない。誰か知ってる人がいたらいい、というくらいの気持ちだった。
堅気に戻った桐生は、彼女が極道や情報屋といった裏の世界の住人に接触するのを特に嫌った。悪い人間ではないのだろうが
かといってまるっきり善人でもない人々だ。彼女にとって知らなくてもいい事を彼らによって知らされることが怖かったのかもしれない。
そのため、桐生は彼女に一人で神室町に訪れることを禁じた。遥もそれを忠実に守っていた。
今日ここに訪れたのは、喧嘩したことによって桐生に対して生じた反発心もあったのかもしれない。遥は辺りを見回しながら
神室町のアーチをくぐった。
しばらく歩くと、小さな雑居ビルがある。ここは彼女にとって特別な場所。遥はしばらく迷っていたが、思い切ったようにその中に
足を踏み入れた。
階段を上り、重厚な木の扉には「セレナ」とある。そのノブに手をかけると何故か鍵はかかってなく、すんなり扉は開いた。
「……お母さん!麗奈さん!」
叫び、勢いよく開けた彼女の目に映ったのは薄暗い店内。埃の積もったカウンターや椅子。そうだ、ここの主たちはもうこの世にいない。
理解しているはずなのに、もしかしたらという気持ちが残っている。明かりをつけると、近くのソファーに腰を下ろした。
「お母、さん」
もう一度呟く。途端に寂しさが募ってきた。ここで待っていても、誰も来ない。街から忘れ去られた悲しい店の姿がここにあった。
ここにいてもしょうがないと立ち上がった時、扉のノブが動く。ひどく驚いて立ち尽くすと、やがて扉が開いた。
「うぉわ!」
店に入ってきた人間が、遥に気付いて情けない悲鳴を上げる。彼女はその人物をよく知っていた。
「お兄ちゃん…」
「わ、わ、来るなぁぁぁ!俺にとり憑いてもいいことないぞ!」
何か違うものと間違われているようだ。遥は這うように逃げようとする男の肩を叩いた。
「違うよ、ユウヤお兄ちゃん。私、遥だよ」
「は、遥ぁ?」
男は拍子抜けしたような顔で振り向く。ユウヤはこのビルの正面にあるホストクラブ「スターダスト」の店長をしている男だ。
桐生が出所して以来の付き合いで、いつも何かと力になってくれる青年だ。彼は安心したように大きく息を吐いた。
「なんだよもう……めちゃくちゃ驚いた。どうしたんだよ、こんなところで」
知っている人間に会った安堵か、遥の瞳に涙が浮かぶ。ユウヤは思わぬ事態に、すっかりうろたえてしまった。
「遥、どうした?もしかして桐生さんになんかあったのか?それとも俺なんか驚かせたか?」
遥は俯いて何度も涙を拭い、首を振った。
「大丈夫。気にしないで、なんでもないから」
いきなり泣いて、なんでもないわけがない。困り果てて、ユウヤは思い出したようにポケットからティッシュを取り出した。
金融の広告が付いている。路上で渡されたものらしい。
「ちょっと俺やることあっから、これで涙拭いてろ」
「……やること?」
遥が涙を拭きつつ問いかけると、ユウヤは店の奥で作業を始めた。
「一ヶ月に一回ここに来て、電気とか水まわりチェックしてんだ。本当は不動産屋の仕事なんだけどな、そっちに任せると折角の
セレナが変わっちまうだろ。ここだけはこのままで残しとこうって、一輝さんが買い取ったんだ」
「そうだったんだ」
泣いていたのも忘れ、遥は納得した。鍵が開いてたのはその為だったらしい。一通り点検を終え、ユウヤは体を伸ばした。
「終わった終わった~!もうここは閉めるけど、おまえこれからどうすんの?」
遥は沈黙する。そのただならぬ雰囲気に、ユウヤは突然彼女を横抱きにしてセレナを出た。
「ちょっとうちの店で遊んで行け」
「え?ユウヤお兄ちゃん今から?って、私お金持ってないし未成年だよ~!」
騒ぐ彼女を気にも留めず、彼は足早にスターダストへと向かった。
数分後、遥は居心地悪そうにスターダストのVIP席に座っていた。すると奥からいい香りをさせ、ユウヤが何か持ってくる。
目の前に置かれたのはオムライス。サイドメニューにでもあるのか、彼の作ったそれはその辺のレストランで出されても
不思議ではないほどの出来栄えだ。
「食え」
「え、でも……」
戸惑う遥にユウヤはもう一度告げた。
「いいから、食え。金のことは気にするな」
「は、はい…いただきます」
彼の迫力に負け、遥はオムライスを食べ始める。それに満足したのか、ユウヤは笑みを浮かべた。
「よし、それでいい。いい子だな」
まるで犬猫のような扱いだ、と遥は思う。それにしても彼の作ったオムライスは、見た目はもちろん、味も申し分ない。
時間を聞くと、もう昼過ぎだと言う。どうりでお腹も空くわけだ。遥はいつしか夢中になってオムライスを食べ始めた。
「ハラがへると、寂しくなるよな。イライラして、ろくな事考えねえ」
顔を上げると、ユウヤが手すりにもたれて遥を見つめていた。遥は恥ずかしそうに笑う。
「さっきはごめんなさい。色々あって、どうしていいかわからなかったの」
「いいよ、気にすんなって。ほら、まだ残ってるぞ、食え」
「ありがとう。これすごく美味しいよ!ユウヤお兄ちゃんすごいね!」
素直に褒められ、ユウヤは思わず顔を赤らめた。それを隠すように彼女に背を向ける。
「あ、ああ、そうだ。水、持って来てやる。ちょっと待ってろ」
「うん!」
遥は返事をすると、再び食事を始める。そっと振り向き、ユウヤは微笑んで厨房に向かった。
食事を終えしばらくすると、この店の従業員がやってくる。彼らはユウヤと一緒にいる遥に気付くと、驚いた顔でやってきた。
「え、ユ、ユウヤさん。この子誰ですか?もしかしてユウヤさんの娘さん…」
「すっげえ、こんな大きな娘さんいたんすか?!」
取り囲まれ、好き放題言われるのに我慢ならなかったのか、ユウヤは叫んだ。
「んなわけねえだろ!知りあいの娘さんだよ!」
「わかってますって、だってこの子可愛すぎるもん。ユウヤさんに似てないっす」
その言葉に、ホスト達は声を上げて笑う。ユウヤは顔を真っ赤にして皆を睨みつけた。
「うっせえぞ、お前らさっさと着替えてこい!」
ホスト達はユウヤの指示を聞かず、遥に興味深々だ。一人の少女に店中のホストが取り囲むその光景は、スターダストの営業中
でもそうそう見られるものではないだろう。
「お嬢さん、名前は?」
「あ、遥…です」
「可愛いね、もてるでしょ」
「そ、そんなことないですよ!」
「だったら俺立候補しちゃおかな。どう?」
「立候補しなくていいです~」
戸惑う遥を見かねて、ユウヤは皆をたしなめた。
「おい、もう遥にちょっかいかけるなよ」
「サービスっすよ、サービス!」
すっかり悪乗りしている。ホスト達は、今までに接したことがない少女の反応が面白いらしい。ユウヤは彼らを止めるのを諦め
静かに遥に問いかけた。
「で、遥はなんであんな所にいたんだ?桐生さんとなんかあったのか?」
遥は表情を曇らせ、俯く。皆が心配そうに顔を覗き込むと、彼女はぽつりと呟いた。
「だって…おじさんが醤油をかけるって言うんだもん」
「……醤油?」
思いも寄らなかった単語の登場に、皆は首を傾げる。口に出して勢いが付いたのか、遥は顔を上げた。
「おじさん、目玉焼きに醤油をかけるって言うんだもん!信じられないでしょ?普通、目玉焼きにはケチャップだよね!」
「目玉焼き…」
ユウヤは脱力する。そんなことで怒るとは、大人びているようで遥はやっぱり子供だ。彼は首を振ると、遥に告げた。
「遥、そんなことで怒んなよ。桐生さんの気持ち、俺にはわかる。普通目玉焼きには醤油だろ」
遥は心底落胆したように、泣きそうな顔でユウヤに詰め寄った。
「え~!絶対ケチャップだもん!醤油なんて聞いたことないもん!」
「そうっすよ、ユウヤさん。目玉焼きには塩ですよ」
それまでぽかんとして聞いていたホストの一人が声を上げる。それが引き金となって場が騒然となった。
「塩って。お前バカだろ。目玉焼きにはソース!これ常識!」
「え、俺ずっとコショウのみなんだけど……ソース濃くない?」
「何言ってんの?マヨネーズがガチ。他は考えられねー」
「おいおいおい、ポン酢を忘れてもらっては困るな!」
「冗談、絶対味噌。味噌だって」
「味噌?ハァ?おまえ目玉焼きに謝れ!」
「そっちこそふざけんな。お前こそ謝れ!」
もう収拾がつかない。遥は新たなトッピングの連続に、あっけにとられて皆を眺めた。場は混乱を極め、一触即発の事態になったとき
遠くから聞きなれた声がした。
「騒がしいと思ったら、可愛いお客様だね」
「一輝お兄ちゃん!」
「一輝さん!」
視線を向けると、一輝が優しい笑顔を浮かべ、階段を上がってくるのが見えた。遥は嬉しそうに駆け寄り、頭を下げた。
「お久しぶりです。あ、おじさんから聞いたけど、体の方は大丈夫?」
彼は大きく頷くと、少しかがんで遥に視線を合わせた。
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね。で、皆なにを騒いでいたんだ?」
「……目玉焼きっす」
憮然と言い放つユウヤに、一輝が目を丸くした。
「目玉焼き?」
「そうだ、一輝さん!目玉焼きに何かけます?やっぱり醤油でしょ?」
「お兄ちゃん、ケチャップだよね!?」
ユウヤと遥に詰め寄られ一輝は面食らっていたようだったが、やがて困ったように口を開いた。
「何をかけるって……もしかして、皆目玉焼きに何かかけるのか?」
「……え?」
言われたことが理解できていない皆を笑い、一輝は極上の微笑みを浮かべた。
「俺は、目玉焼きになにもかけないよ」
食の原点ここに極まれり。皆は毒気を抜かれたように、がっくりとうなだれた。
一輝はしばらくユウヤから事の次第を聞き、やっと遥がこの店にいた理由を知った。彼はソファーに遥を座らせ、目の前に跪く。
「遥ちゃん、皆が言うように好みは人それぞれだと思うんだ。いくら好きだからって、自分の好みを押し付けたりしたら、桐生さんだって
困ってしまうよ。もう、遥ちゃんなら改めて言わなくてもわかってるよね」
遥は彼の言葉を素直に聞いている。彼の言葉に納得したように彼女は頷いた。
「はい。おじさんにはちゃんと謝ります」
「よかった。それじゃ、もう少しうちで遊んでいたらいいよ。桐生さんには俺から連絡しておくから」
「ありがとう、一輝お兄ちゃん」
礼を言われ、彼は遥の頭を撫でた。
「さて、遥様。のどが渇きませんか?オレンジジュースが冷えてますよ」
遥は嬉しそうに頷き、元気よく答えた。
「えっと、それじゃ、オレンジジュースください!」
一輝は立ち上がると、ホストたちに向かって声を上げた。
「みんな、こちらのお嬢様からオレンジジュースいただきました!」
ホスト達が歓声を上げる。その後、世にも珍しいスターダストの「シャンパンコール」ならぬ「オレンジコール」が巻き起こったが、これは
後にも先にも関係者以外聞いたものはいなかったとか。開店に合わせて店を出るまで遥はずっとご満悦で、女達がホストに入れあげる
のもわからなくはないと思った。
遥は何度も皆に礼を言い、神室町を出た。帰ったらすぐ桐生に謝ろう。そして彼が許してくれたなら、今日あったことを話して聞かせよう。
今後、もしまた二人で目玉焼きを食べたなら、今度は醤油をかけてみよう。遥は小さく笑いながら足取りも軽く家路についた。
週末の少し遅い朝食。普段なら和やかな時間を過ごしているはずの桐生と遥だったが、今日は少々険悪だ。
ささいなきっかけから始まった口論。いつもの二人なら、すぐに関係修復という流れになるはずだった。
しかし、今回はどちらも譲らない。結果的に感情を爆発させたのは遥だった。
「おじさんのバカ!頑固者!もう知らない!」
「遥!」
けたたましい音を立て、遥は部屋を出て行く。後に残された桐生は苛立たしく溜息をつくと、すっかり冷めてしまった朝食を眺めた。
「もう、おじさんなんか知らないんだから!」
険しい表情で遥は呟く。平和なのんびりとした通りを、悪態をつきながら歩いていく遥は結構目立つ。彼女とすれ違った人々は
不思議そうな顔で彼女の後姿を追った。
勢いで飛び出しては来たものの、遥は途方にくれていた。所持金も多くなく、土曜の朝から会えそうな友人はいないだろう。
かといって、大きな事を言って出てきた手前、すぐに帰るのも癪だ。彼女は駅まで来て、ふと見覚えのある駅名が目に留まる。
すこしためらったが、彼女は思い切ったように切符を購入した。
「久しぶり……」
遥は辺りを見回す。都内一の歓楽街、神室町はこの時間だと眠ったようだ。飲み屋や風俗の看板は明かりを消し、逆にファースト
フードや雑貨屋などが客も少なく開店していた。
神室町に向かったのも、特に何かあったわけではない。誰か知ってる人がいたらいい、というくらいの気持ちだった。
堅気に戻った桐生は、彼女が極道や情報屋といった裏の世界の住人に接触するのを特に嫌った。悪い人間ではないのだろうが
かといってまるっきり善人でもない人々だ。彼女にとって知らなくてもいい事を彼らによって知らされることが怖かったのかもしれない。
そのため、桐生は彼女に一人で神室町に訪れることを禁じた。遥もそれを忠実に守っていた。
今日ここに訪れたのは、喧嘩したことによって桐生に対して生じた反発心もあったのかもしれない。遥は辺りを見回しながら
神室町のアーチをくぐった。
しばらく歩くと、小さな雑居ビルがある。ここは彼女にとって特別な場所。遥はしばらく迷っていたが、思い切ったようにその中に
足を踏み入れた。
階段を上り、重厚な木の扉には「セレナ」とある。そのノブに手をかけると何故か鍵はかかってなく、すんなり扉は開いた。
「……お母さん!麗奈さん!」
叫び、勢いよく開けた彼女の目に映ったのは薄暗い店内。埃の積もったカウンターや椅子。そうだ、ここの主たちはもうこの世にいない。
理解しているはずなのに、もしかしたらという気持ちが残っている。明かりをつけると、近くのソファーに腰を下ろした。
「お母、さん」
もう一度呟く。途端に寂しさが募ってきた。ここで待っていても、誰も来ない。街から忘れ去られた悲しい店の姿がここにあった。
ここにいてもしょうがないと立ち上がった時、扉のノブが動く。ひどく驚いて立ち尽くすと、やがて扉が開いた。
「うぉわ!」
店に入ってきた人間が、遥に気付いて情けない悲鳴を上げる。彼女はその人物をよく知っていた。
「お兄ちゃん…」
「わ、わ、来るなぁぁぁ!俺にとり憑いてもいいことないぞ!」
何か違うものと間違われているようだ。遥は這うように逃げようとする男の肩を叩いた。
「違うよ、ユウヤお兄ちゃん。私、遥だよ」
「は、遥ぁ?」
男は拍子抜けしたような顔で振り向く。ユウヤはこのビルの正面にあるホストクラブ「スターダスト」の店長をしている男だ。
桐生が出所して以来の付き合いで、いつも何かと力になってくれる青年だ。彼は安心したように大きく息を吐いた。
「なんだよもう……めちゃくちゃ驚いた。どうしたんだよ、こんなところで」
知っている人間に会った安堵か、遥の瞳に涙が浮かぶ。ユウヤは思わぬ事態に、すっかりうろたえてしまった。
「遥、どうした?もしかして桐生さんになんかあったのか?それとも俺なんか驚かせたか?」
遥は俯いて何度も涙を拭い、首を振った。
「大丈夫。気にしないで、なんでもないから」
いきなり泣いて、なんでもないわけがない。困り果てて、ユウヤは思い出したようにポケットからティッシュを取り出した。
金融の広告が付いている。路上で渡されたものらしい。
「ちょっと俺やることあっから、これで涙拭いてろ」
「……やること?」
遥が涙を拭きつつ問いかけると、ユウヤは店の奥で作業を始めた。
「一ヶ月に一回ここに来て、電気とか水まわりチェックしてんだ。本当は不動産屋の仕事なんだけどな、そっちに任せると折角の
セレナが変わっちまうだろ。ここだけはこのままで残しとこうって、一輝さんが買い取ったんだ」
「そうだったんだ」
泣いていたのも忘れ、遥は納得した。鍵が開いてたのはその為だったらしい。一通り点検を終え、ユウヤは体を伸ばした。
「終わった終わった~!もうここは閉めるけど、おまえこれからどうすんの?」
遥は沈黙する。そのただならぬ雰囲気に、ユウヤは突然彼女を横抱きにしてセレナを出た。
「ちょっとうちの店で遊んで行け」
「え?ユウヤお兄ちゃん今から?って、私お金持ってないし未成年だよ~!」
騒ぐ彼女を気にも留めず、彼は足早にスターダストへと向かった。
数分後、遥は居心地悪そうにスターダストのVIP席に座っていた。すると奥からいい香りをさせ、ユウヤが何か持ってくる。
目の前に置かれたのはオムライス。サイドメニューにでもあるのか、彼の作ったそれはその辺のレストランで出されても
不思議ではないほどの出来栄えだ。
「食え」
「え、でも……」
戸惑う遥にユウヤはもう一度告げた。
「いいから、食え。金のことは気にするな」
「は、はい…いただきます」
彼の迫力に負け、遥はオムライスを食べ始める。それに満足したのか、ユウヤは笑みを浮かべた。
「よし、それでいい。いい子だな」
まるで犬猫のような扱いだ、と遥は思う。それにしても彼の作ったオムライスは、見た目はもちろん、味も申し分ない。
時間を聞くと、もう昼過ぎだと言う。どうりでお腹も空くわけだ。遥はいつしか夢中になってオムライスを食べ始めた。
「ハラがへると、寂しくなるよな。イライラして、ろくな事考えねえ」
顔を上げると、ユウヤが手すりにもたれて遥を見つめていた。遥は恥ずかしそうに笑う。
「さっきはごめんなさい。色々あって、どうしていいかわからなかったの」
「いいよ、気にすんなって。ほら、まだ残ってるぞ、食え」
「ありがとう。これすごく美味しいよ!ユウヤお兄ちゃんすごいね!」
素直に褒められ、ユウヤは思わず顔を赤らめた。それを隠すように彼女に背を向ける。
「あ、ああ、そうだ。水、持って来てやる。ちょっと待ってろ」
「うん!」
遥は返事をすると、再び食事を始める。そっと振り向き、ユウヤは微笑んで厨房に向かった。
食事を終えしばらくすると、この店の従業員がやってくる。彼らはユウヤと一緒にいる遥に気付くと、驚いた顔でやってきた。
「え、ユ、ユウヤさん。この子誰ですか?もしかしてユウヤさんの娘さん…」
「すっげえ、こんな大きな娘さんいたんすか?!」
取り囲まれ、好き放題言われるのに我慢ならなかったのか、ユウヤは叫んだ。
「んなわけねえだろ!知りあいの娘さんだよ!」
「わかってますって、だってこの子可愛すぎるもん。ユウヤさんに似てないっす」
その言葉に、ホスト達は声を上げて笑う。ユウヤは顔を真っ赤にして皆を睨みつけた。
「うっせえぞ、お前らさっさと着替えてこい!」
ホスト達はユウヤの指示を聞かず、遥に興味深々だ。一人の少女に店中のホストが取り囲むその光景は、スターダストの営業中
でもそうそう見られるものではないだろう。
「お嬢さん、名前は?」
「あ、遥…です」
「可愛いね、もてるでしょ」
「そ、そんなことないですよ!」
「だったら俺立候補しちゃおかな。どう?」
「立候補しなくていいです~」
戸惑う遥を見かねて、ユウヤは皆をたしなめた。
「おい、もう遥にちょっかいかけるなよ」
「サービスっすよ、サービス!」
すっかり悪乗りしている。ホスト達は、今までに接したことがない少女の反応が面白いらしい。ユウヤは彼らを止めるのを諦め
静かに遥に問いかけた。
「で、遥はなんであんな所にいたんだ?桐生さんとなんかあったのか?」
遥は表情を曇らせ、俯く。皆が心配そうに顔を覗き込むと、彼女はぽつりと呟いた。
「だって…おじさんが醤油をかけるって言うんだもん」
「……醤油?」
思いも寄らなかった単語の登場に、皆は首を傾げる。口に出して勢いが付いたのか、遥は顔を上げた。
「おじさん、目玉焼きに醤油をかけるって言うんだもん!信じられないでしょ?普通、目玉焼きにはケチャップだよね!」
「目玉焼き…」
ユウヤは脱力する。そんなことで怒るとは、大人びているようで遥はやっぱり子供だ。彼は首を振ると、遥に告げた。
「遥、そんなことで怒んなよ。桐生さんの気持ち、俺にはわかる。普通目玉焼きには醤油だろ」
遥は心底落胆したように、泣きそうな顔でユウヤに詰め寄った。
「え~!絶対ケチャップだもん!醤油なんて聞いたことないもん!」
「そうっすよ、ユウヤさん。目玉焼きには塩ですよ」
それまでぽかんとして聞いていたホストの一人が声を上げる。それが引き金となって場が騒然となった。
「塩って。お前バカだろ。目玉焼きにはソース!これ常識!」
「え、俺ずっとコショウのみなんだけど……ソース濃くない?」
「何言ってんの?マヨネーズがガチ。他は考えられねー」
「おいおいおい、ポン酢を忘れてもらっては困るな!」
「冗談、絶対味噌。味噌だって」
「味噌?ハァ?おまえ目玉焼きに謝れ!」
「そっちこそふざけんな。お前こそ謝れ!」
もう収拾がつかない。遥は新たなトッピングの連続に、あっけにとられて皆を眺めた。場は混乱を極め、一触即発の事態になったとき
遠くから聞きなれた声がした。
「騒がしいと思ったら、可愛いお客様だね」
「一輝お兄ちゃん!」
「一輝さん!」
視線を向けると、一輝が優しい笑顔を浮かべ、階段を上がってくるのが見えた。遥は嬉しそうに駆け寄り、頭を下げた。
「お久しぶりです。あ、おじさんから聞いたけど、体の方は大丈夫?」
彼は大きく頷くと、少しかがんで遥に視線を合わせた。
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね。で、皆なにを騒いでいたんだ?」
「……目玉焼きっす」
憮然と言い放つユウヤに、一輝が目を丸くした。
「目玉焼き?」
「そうだ、一輝さん!目玉焼きに何かけます?やっぱり醤油でしょ?」
「お兄ちゃん、ケチャップだよね!?」
ユウヤと遥に詰め寄られ一輝は面食らっていたようだったが、やがて困ったように口を開いた。
「何をかけるって……もしかして、皆目玉焼きに何かかけるのか?」
「……え?」
言われたことが理解できていない皆を笑い、一輝は極上の微笑みを浮かべた。
「俺は、目玉焼きになにもかけないよ」
食の原点ここに極まれり。皆は毒気を抜かれたように、がっくりとうなだれた。
一輝はしばらくユウヤから事の次第を聞き、やっと遥がこの店にいた理由を知った。彼はソファーに遥を座らせ、目の前に跪く。
「遥ちゃん、皆が言うように好みは人それぞれだと思うんだ。いくら好きだからって、自分の好みを押し付けたりしたら、桐生さんだって
困ってしまうよ。もう、遥ちゃんなら改めて言わなくてもわかってるよね」
遥は彼の言葉を素直に聞いている。彼の言葉に納得したように彼女は頷いた。
「はい。おじさんにはちゃんと謝ります」
「よかった。それじゃ、もう少しうちで遊んでいたらいいよ。桐生さんには俺から連絡しておくから」
「ありがとう、一輝お兄ちゃん」
礼を言われ、彼は遥の頭を撫でた。
「さて、遥様。のどが渇きませんか?オレンジジュースが冷えてますよ」
遥は嬉しそうに頷き、元気よく答えた。
「えっと、それじゃ、オレンジジュースください!」
一輝は立ち上がると、ホストたちに向かって声を上げた。
「みんな、こちらのお嬢様からオレンジジュースいただきました!」
ホスト達が歓声を上げる。その後、世にも珍しいスターダストの「シャンパンコール」ならぬ「オレンジコール」が巻き起こったが、これは
後にも先にも関係者以外聞いたものはいなかったとか。開店に合わせて店を出るまで遥はずっとご満悦で、女達がホストに入れあげる
のもわからなくはないと思った。
遥は何度も皆に礼を言い、神室町を出た。帰ったらすぐ桐生に謝ろう。そして彼が許してくれたなら、今日あったことを話して聞かせよう。
今後、もしまた二人で目玉焼きを食べたなら、今度は醤油をかけてみよう。遥は小さく笑いながら足取りも軽く家路についた。
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