賽
珍しく遥は神室町に足を踏み入れていた。当然、桐生も一緒なのだが、ただ遊びに来たわけではないようだ。遥には詳しいことは
言わないが、桐生に東城会のことで話があるらしいとのことだった。本来なら桐生一人でくるつもりだったのだが、彼女も久しぶりに
神室町に行きたいとねだったため、桐生が渋々ながら承諾したというわけだ。
「用が終わったらどこにでも連れて行ってやるから、ここを動くな」
風間組の事務所に向かう桐生は、ミレニアムタワーのホールで言い聞かせた。少々過保護な気もするが、それだけ子供には危険な
場所も多いと言うことだろう。遥は不満を漏らしながらも、頷いた。ここで桐生の機嫌を損ねたら、強制送還もありうる。
とはいえ、ミレニアムタワーはビジネスビルであり、特に見るところもない。遥は途方にくれたように近くのソファに腰掛けた。
「おや、見た顔だね」
ふと、彼女に声がかけられる。彼女が視線を動かすと、そこには小さな老人が立っていた。灰色のソフト帽に、落ち着いた色の和服を
粋に着こなし、使い込んだ杖をつく老人は、細い目を更に細めながら、遥に微笑みかけている。彼女は首をかしげて問いかけた。
「お爺さん、誰?」
「おや、お嬢は私をお忘れかな?」
遥は首を縦に振る。老人は手に提げた巾着から、何か取り出した。
「これではどうかな?手を出してごらん」
彼女の差し出した手に、老人は何かを転がす。手の中のものを見るなり、遥は声を上げた。
「サイコロ、そうか!賭場のお爺さん!」
そこにいたのは、かつて宝くじ売り場の裏で賭場を開いていた胴元の男だった。以前、壷ふりの男がイカサマをはたらき、それを遥が
指摘して大騒ぎになったことがある。思い出してもらえたことが嬉しいのか、老人は帽子を脱いで頭を下げた。
「こんにちは。その節は、怖い思いをさせちまったね」
遥は首を振り、思わぬ人物との再会に思わず立ち上がった。
「おじさんも無事だったし、もういいよ。お爺さん、ここにご用事?」
「ま、私も賭場だけじゃやっていけないからね。座って、いいかい?」
彼がソファを指差すと、遥は嬉しそうに頷いた。
「お爺さん、龍宮城の賭場もお爺さんの場所?」
「さてね」
老人は曖昧に呟いた。こういった場所のことは、例え子供でもみだりに話すようなことではないのだろう。ただ微笑むだけだ。
「私はお嬢の目の良さに惚れていてね。あの賭けっぷりといい、見極めの速さといい、たいしたもんだ」
遥は恥ずかしげに笑い、手の中のサイコロを眺めた。うっすら黄色がかっているそれが二つ、彼女の手のひらで転がされ数字を変えた。
「それなら、私、壷ふりになれるかな」
無邪気に呟く彼女に老人は声を上げて笑った。
「おや、お嬢は壷ふりになりたいのかい」
「だめかなあ、女だもんね」
苦笑する遥に、老人は首を振った。
「そんなこたあない。女でも腕のいい壷ふりはいるもんだ……なら、私がお嬢を試してやろう」
首を傾げる遥を見つめ、老人はサイコロを手に取ると、手の中で振った。
「丁半だ。どちらかな」
遥は彼の手を真剣に見詰める。老人は手を止め、彼女に差し出した。遥は即答する。
「半」
「相変わらず、威勢がいいねえ」
老人は微笑み、手を開く。五二の半だ。ほうほう、と老人はまた手の中でサイコロを転がした。
「さて、どちらかな」
「丁!」
遥の声に呼応するように手を開く。一一の丁。遥は思わず万歳をした。
「やったー!また当たった」
「やっぱりいい目をしとる。なら、次の勝負は何か賭けよう。そうだね……お嬢ちゃんが買ったら1000万あげるよ」
「え……」
突然の申し出に、遥は戸惑う。老人は口の端に笑みを浮かべた。
「なに、お嬢からは何も取りゃあせん。もちろん、あの男からもね。お嬢はただ丁半言えばいい。当たれば1000万、外れたら0だ」
「でも」
「老い先短い老人の、酔狂な遊びだ。気楽に付き合いなよ」
老人は、構わずサイを振る。そして、手を止めるとゆっくり差し出した。
「イカサマなしの一発勝負。さあ、張った」
遥は沈黙する。先ほどの威勢が嘘のように、彼の手を見つめたままでいる。ひとしきり悩んだ後、彼女は首を振った。
「わかんない」
「ほう、わからんと」
「急に頭の中がごちゃごちゃしてきて……なんでだろ」
考え込む遥に、老人は声を上げて笑った。
「それは、欲が出たからさ」
「欲?」
思わず彼の顔を覗き込む遥に、老人は頷く。そして遥を穏やかに見つめた。
「お嬢、あの時一緒にいた兄さんが、最終的にどれだけ儲かってたか知ってるかい」
「……うーん、わかんない」
首を振る彼女に、老人はやっぱりな、と微笑んで遠くを見つめた。
「お嬢ちゃんがあれだけ出目を当てられたのは、それほど欲がないからだよ。金が入ることは分かっていたようだが、その決定が
どれだけの額を動かすかなんて考えてもいなかったろう?さっき、お嬢は現実に金を想像した。それが判断を狂わせたんだよ」
「それが、欲?」
問い返す彼女に、老人はそう、と頭を撫で話を続けた。
「それにな、壷ふりというものは、お嬢には考えられないほどの金を賭場で支配する。指示があれば客に儲けさせ、時には胴元に
還元する。お嬢はいい目をしているが、金が絡むとからきしだ。それは一般的には長所にもなるが、大金を動かす博打打ちには
致命的でもある。一瞬の迷いも許されない世界で、今のように悩んではいられないんだよ」
「そうかぁ」
遥は何度も頷く。老人はサイコロを手の中で転がした。
「だが、おしいのう。いい目は持っとるんだが……だが、あの兄さんが許さんかな。まあ、お嬢はお嬢らしく、表の世界で生きるといい」
そこまで話し、老人は視線を動かした。遠くから黒いスーツの男が足早に歩み寄ってきた。
「お話中申し訳ありません。お時間が…」
「そうか。せっかく会えたのに、残念だ。お嬢、兄さんによろしく」
老人はゆっくり立ち上がり、帽子をかぶる。遥は立ち上がって両手を振った。
「お爺さん、お話してくれてありがとう!またね!」
老人は振り向かず、右手だけをそっと上げた。遥は微笑みながら、彼をずっと見送っていた。
「遥」
後ろから声をかけられる。振り向くと桐生が歩いてくるところだった。
「おじさん、もう終わったの?」
桐生は頷き、彼女の頭を撫でた。
「ああ、待たせて悪かったな。どこか行きたいところはあるか?」
「うーん、それじゃあ、賭場!」
ぎょっとする桐生に遥は声を上げて笑い、ニ、三歩歩いて振り返った。
「嘘だよ。あのね、私、博打に向いてないんだって。もうしないよ」
桐生は困惑した表情で彼女を追った。
「話が見えないんだが……遥、誰かと会ったのか?」
「秘密!そうだ、ケーキ食べたいな~」
秘密か、桐生は苦笑して歩き出した。理由は知らないが、何か彼女の心に変化があったらしい。少なくとも、悪いことではないだろう。
二人は穏やかに微笑みながら通りを歩き出した。神室町は春の日差しを受け、いつもよりゆっくりと時間が過ぎていくようだった。
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