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そして彼は途方に暮れる



人間台風の意識は真っ白に染まった。恥ずかしくて情けなくて、いっそ消えてしまいたいくらいだった。
メリルも戸惑っていた。固まってしまったピッチャーに何と声をかけたらいいのか判らない。
気まずい沈黙。それを打ち破ったのは耳まで真っ赤になったヴァッシュだった。
「そ、そう! 写真!」
「写真?」
「見せたかったんだ、レムの結婚式の写真」
ヴァッシュは机の上に置いてあった鞄に駆け寄ると、ごそごそと中身を漁り始めた。
写真を見せたい、というのは咄嗟に思いついたことだった。本当は、月一回の食事会より早くレムに渡せればと思い持ってきたものの、保健室に行く時間がなくてそのままになっていただけなのである。
『写真を使って何とか雰囲気を修復する。プレゼントを渡すのはその後だ』
ここから仕切り直し。心の中でくり返し自分に言い聞かせる。
「……あった。はいコレ」
ヴァッシュはフォトアルバムを差し出した。
椅子に座ってからメリルはアルバムを開いた。ヴァッシュはちゃっかり隣に腰掛け、細い指がゆっくりとページを繰るのを見守った。
純白のドレスを纏ったレムの写真が続く。
「……綺麗……」
ため息交じりの呟きにさりげなく目線を動かす。写真を見ているメリルは優しい微笑みを浮かべていた。
横顔に見とれつつ、ヴァッシュは事態が好転し始めたことを確信し密かに喜んだ。
やがて写真は二次会のものに変わった。結婚式の厳かな雰囲気とは全く違うパーティーの楽しい空気が伝わってくる。
突然メリルの肩が震え始めた。笑いを堪えているのだ。
「何か面白いものでもあった?」
「……この写真……」
ヴァッシュは椅子ごと移動してメリルとの距離を縮めた。アルバムを覗き込むという大義名分の元、思いきって身体を傾ける。腕が密着した。
メリルが指差していたのはヴァッシュの写真だった。髪を下ろし正装した彼が直立不動の姿勢で空を睨んでいる。
強張った全身と固い表情からひどく緊張しているのがよく判る。
緊張の原因は周囲を取り巻く女性達だった。隣に寄り添っているのはレムで、その他の五人も新婦とほぼ同年代、全員がチャイナドレス姿でポーズをとっている。
「ハーレム状態でよかったですわね」
「全然よくない! 俺が緊張してるの知ってて皆で囲んで、母さんが面白がってシャッター押して……ホント、ガチガチでみっともないったら……抜いときゃよかった」
本気で拗ねるヴァッシュの表情に堪えきれなくなり、メリルは声を上げて笑った。
「……そんなに笑わないでよ」
「ご、ごめんなさい……」
どうにか笑いを押さえ、メリルは再びアルバムに視線を戻した。


「……あら?」
「? どうかした?」
問いかけへの返事はなかった。菫色の瞳はひととおり見た写真を最初から注意深く見直している。
全ての写真を確認した後、メリルは意外そうにある事実を指摘した。
「ナイブズさんの写真はありませんのね」
「ああ、アイツ来なかったんだ」
「え……?」
頭の後ろで手を組んで背もたれに体重を預けると、ヴァッシュは大袈裟にため息をついてみせた。
「ナイブズがこーんな薄情な奴だとは思わなかったよ。せっかくのレムの晴れ舞台なのに欠席だし、中学に入ってから一度も帰ってこないし」
全寮制で、『各々の個性を伸ばす教育』をモットーとするGUNG-HO-GUNS大付属高校は、器材や教師陣といったハード面を金に糸目をつけることなく整備している。その一方で『生徒の為にならない』と判断したものは徹底的に排除するのだ。例えば、強靭な精神を養う為に身内との接点を極力少なくし甘えさせないようにする、というように。
特待生の場合、年に一度の帰省は認められている。しかし、それ以外の私用外出については事前に申請し許可をとらなければならない。
「離婚したことを話しに母さんが会いに行こうとしたら、『来るのは勝手だが会えるとは限らない』って言ってたって」
部外者との面談も制限されている。例え家族でも、理由や所要時間の見込み等を書いた面談申込書を提出して審査を受け、それにパスしてからでないと面会できないのだ。
GUNG-HO-GUNS大付属高校の規則が厳しいことはヴァッシュも承知している。だが、それを差し引いて考えても兄の行動は理解し難い。せめてレムの結婚式には参列して欲しかった。
「年賀状とか暑中見舞いを出しても返事はないし、電話しても本人は出ないで『用件を承ります』って言われるし。……この四年間で俺が話をしたのは一回、それも俺が高校への特待生入学を断った時にむこうから電話がかかってきて理由を訊かれただけ。そういう時って普通『久しぶり』とか『元気か』ぐらい言うよねぇ」
姿勢を戻し、同意を求めて隣を見やったヴァッシュは瞬時に自分の失態を悟った。
俯き加減で唇を引き結んだメリル。色白の顔に浮かんでいるのは痛みに耐えている表情。
『兄弟なのにどうして……』
一人っ子の自分には判らないことがあるのだと思う。でも……
ヴァッシュの生い立ちを思い起こす。四年も会えなくて、声を聞けたのも一回で……どんなに辛いだろう。
「や、元々ナイブズって判んないところがあるっていうか、変な奴なんだよね! 無口だし、野球なんてチームワークが大切なスポーツやってるクセに人付き合い悪いし」
何とかメリルの気持ちを盛り立てようとヴァッシュは明るく話しかける。
「愛想もないからインタビュアーの人とか大変そうで……。一昨年だったかな? レポーターがコメントをとろうとしてナイブズの横について歩きながら話しかけてるのをテレビで見たんだけど、アイツ完全に無視してたんだ。で、野球のことじゃ喋ってくれないと思ったのか、その人『どうしてナイブズ・ミリオンズじゃなくてミリオンズ・ナイブズなんですか』って質問したんだ」
フルネームを表記する場合、通常は名前の後に姓がくる。
両親が離婚した際、ナイブズは親権が母親にあるにもかかわらず何故か父方の姓を名乗るようになり、更に中学入学と同時に表記を逆にした。東洋式にしたのである。
その時の様子を思い出したのか、ヴァッシュはしばらく一人で笑ってから再び口を開いた。
「そしたらアイツ、相手をちらっと見てから答えた。たった一言、『語呂が悪い』」
思わず足を止めたレポーターには目もくれず、ナイブズは何事もなかったかのように立ち去った。
「レポーターは『いやあ、煙に巻かれちゃいました』なんて言ってたけど、アレ絶対本気だと思うよ。ね、変な奴でしょ?」
にっこり笑ってメリルの様子を確かめる。
辛そうな表情は変わっていなかった。


笑みを消し、小さくため息をついて、ヴァッシュはそっと目を閉じた。苦い後悔を噛み締める。
ただの雑談のつもりだったのに。そんな顔をさせたかったんじゃないのに。悲しい思いをさせたかったんじゃないのに。
どんなに悔やんでも言葉はもう取り返しがつかない。
「……ごめん、心配かけて」
静かな声にメリルは恐る恐る顔を上げた。クラスメイト兼クラブメイトは穏やかに微笑んでいた。
「確かに会えないのは少し寂しいけど、ナイブズには多分会いたくない理由があると思うんだ」
見当はついている。あの時俺のせいでナイブズは――
胸の痛みを必死に押し隠して言葉を紡ぐ。
「だから、今は無理に会おうとは思わない。アイツが元気でいるのはニュースで判るから。去年は甲子園で優勝した
お陰で動いてるナイブズをうんざりするほど見たしね」
「でも……」
兄の元気な姿をマスコミを通してしか見られないなんて。
「一生このままの状態が続く訳じゃない。いつか変わる。変われる。……そう信じてる」
自分が変われたように。
「……それに、今年地区大会で優勝すれば甲子園で会えるよ。例えアイツがどんなに嫌がってても」
ヴァッシュはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「今から再会の演出を考えとかなきゃ。ナイブズが目を真ん丸にして絶句するようなとびきりのやつを、ね」
ね、と同時に茶目っ気たっぷりにウインク。
「やっぱり『お兄様~~~~』って叫びながら駆け寄って熱~い抱擁、かな。それとも真っ赤なバラの花束をスッと差し出して……」
深刻な表情で眉間に指を当て悩める哲学者のように呟いている男の姿に、ようやくメリルの口元が僅かにほころんだ。
「……やっと笑った」
にわか哲学者はいつもの人懐っこい笑顔に戻った。
「大丈夫だから……キミは心配しないで」
「ヴァッシュさん……」
メリルは目を細めて微笑むと小さく肯いた。
沈黙。でもそれは先刻の気まずいものではなく、暖かい空気に満ちたもので。
今度こそ渡せる。ヴァッシュは大きく息を吸い込んだ。
「あ、あの……」
「はい?」
早鐘のような鼓動をなだめつつ、人間台風が再び口を開こうとしたその時。
無慈悲かつ無機質な音が部室に響いた。






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そして彼は途方に暮れる




「あ、ちょっとごめんなさい」
硬直したヴァッシュに短く謝罪し、メリルは鞄から携帯電話を取り出すと口元を手で覆って話し始めた。
「もしもし、はい……ごめんなさい、時間がかかってしまって……ええ、判りました」
通話は短時間で終わった。
マネージャーが慌てた様子で立ち上がった。人間台風の胸に嫌な予感が湧き上がる。
「ごめんなさい、私もう戻らないと」
……予感的中。
「もう遅いですし、ヴァッシュさんはお帰りになって下さい。掃除は明日早く来てやりますから」
「じゃ、じゃあ待ってるよ。暗い夜道は危ないし」
「大丈夫ですわ」
メリルは書記の女子生徒の名を挙げた。
「意外と家が近かったんですの。降りる駅も同じですし、途中までは一緒に帰れますから。それにいつ終わるか判りませんもの」
言いながら、机の上に置きっぱなしになっていた紙の束を揃えて鞄にしまう。小さな包みが目についた。
「でも」
更に言い募ろうとしたヴァッシュの前に差し出されたのはチョコレートバーを載せた小さな手。
「どうぞ」
「?」
「今日も自転車なのでしょう? 空腹時……つまり血糖値が低い状態で運動するのは危険ですのよ。とりあえずこれで
糖質を補充して下さい」
「あ……ありがとう」
「早く帰って、ちゃんとご飯を食べて下さいね。インスタントなんて以ての外ですわよ」
「うん……」
気が急いているメリルはヴァッシュの返事が上の空だったことに気づかなかった。
「それじゃ。お疲れ様でした」
「お疲れ様……」
椅子に座ったまま条件反射で手を振ってマネージャーを見送ったピッチャーは、小さな音を立ててドアが閉まった後もしばらく動けなかった。
ゆるゆると身体の力が抜け、自然と猫背になってゆく。もし立っていたらその場にへたり込んでいただろう。
長いため息をついたらがっくりと首が前に倒れた。
左拳を開き、自分の瞳に似た色のパッケージをぼんやりと見つめる。
――プレゼントを渡す筈が、逆にプレゼントされてしまった。
野球で鍛えた肩が小刻みに震え。
「……ヴァッシュ・ザ・スタンピードの大馬鹿やろおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!!!!」
喉が破れんばかりの絶叫が旧クラブハウスに轟いた。
その後、マネージャーのアドバイスに従い糖質を補充した自己嫌悪男は、不甲斐ない自分への怒りをモップがけのエネルギーへと変換した。生徒会の仕事と、おそらく今夜から始まるであろう練習メニュー作りに忙しい彼女に負担をかけたくなかった。
翌朝、バッテリーとメリルを除く野球部関係者は、何故かピカピカに磨き上げられた部室の床を見て一様に首を捻った。

ⅩⅠ
体力測定から二週間、メリルに渡された五十名を越える資料のうち約半分が無用のものとなっていた。練習についていけない者、メリル目当てで入部した者、単なる冷やかし等が自然に淘汰された結果である。
減ったのは部員だけではない。当初七名いたマネージャー希望者も、残っているのはミリィとジェシカのみ。
大人数の洗濯は重労働だし、こまごまとした雑用もきりがない。生半可な気持ちでは続かないのだ。
メリルは二人の後輩にマネージャーの仕事を教えることに専念した。行事の前は生徒会のほうに時間をとられ、部活にほとんど出られない日が続くようになる。部室の管理や雑務はなるべく早く自分がいなくてもできるようになって貰いたかった。
故に、先日己の頭を殴打したい衝動に駆られた男の悩みは日に日に深くなっていく。
何とかして二人きりになりたいのだが、メリルが部活に参加している時は必ずといっていいほど新人マネージャー達が傍にいる。ミリィはともかくジェシカがいるところでは個人的な話はできない。たまにメリルが一人でいることがあっても自分が練習中だったりで、何度も心の中で地団太を踏んだ。
それだけでも辛いのに。
「ヴァッシュ~~~、今日一緒に帰ろ~~~」
甘えるような声に勢いよく首を振る。勿論横に。
「方向が全然違うでショ? ブラドと一緒に帰ればいいじゃない。アイツが一緒なら変な人に絡まれることもないだろうし」
デカくて強面。元々悪い目つきがジェシカが絡むと更に悪くなる。ジェシカ専属のボディガードにはうってつけだ。
「そんなの嫌! あたしはヴァッシュと帰りたいの!」
「だぁめ」
「ええ~~~~」
毎日くり返される不毛な会話。いい加減諦めて欲しいのだがそんな気はないらしく。
『ジェシカはいいよなぁ……』
俺が言いたくても言えない台詞をあっさり言えて。
精神的疲労感と羨望のダブルパンチ。自転車をこぎながらため息を量産するのが新しい日課になりつつあった。
部活が駄目なら教室で、とも思ったがこちらも不可能だった。ひょうきんで面白いとの評判が仇になって、休み時間の度に誰かしらに声をかけられ騒ぎに巻き込まれてメリルに近づけない。おまけにウルフウッドが同じクラスにいるのだ。ばれたらどれだけからかわれるか、と思うとつい用心深くなる。
電話で呼び出すのはためらわれた。平日は授業に部活に生徒会、家に帰ればドイツ語のレッスンが週三回と、朝早くから夜遅くまでフル回転。部活は日曜・祝日もあるし、時には生徒会の仕事が割り込むことさえある。自分の為に
時間を割いて欲しいとは言えなかった。
手紙をつけて、机か鞄にこっそり入れてしまおうか。
「……でもなぁ……」
やっぱり手渡したい。直接感謝の気持ちを伝えたい。
できれば、自分の想いも……。
「なーに一人でブツブツ言っとんねん。気色悪いやっちゃな」
突然声をかけられ心臓が跳ねた。
「べ、別に! 何でもないよ」
笑顔で即座に否定する。うまく笑えた自信はない。
ウルフウッドは怪訝そうな表情で口を開きかけたが、結局何も言わずに踵を返した。

ⅩⅡ
校内の雰囲気がどことなく落ち着かない。それもその筈、明後日からゴールデンウィークなのだ。遊びに行く
計画を打ち合わせる楽しそうな声が教室のあちこちから聞こえてくる。
『ま、俺には関係ないけどね』
人間台風は僅かに肩を竦めた。
四月に入ってから野球部の休みは皆無になった。
一日練習を休むと取り戻すのに三日かかる、言うやろ。本気で甲子園目指すんやったらこれくらい当然や。
新主将は厳しい表情でそう言い、一部の反対を押し切り休日ゼロを決行した。
新入部員全員にという訳ではないが、ウルフウッドに対する潜在的な不満があることをヴァッシュは感じていた。
それが表面化しないのはウルフウッドが自分の発言を率先して守るからだ。練習中は誰よりも動くし自主トレも欠かさない。それを見たやる気のある部員は、自ら残って部活後の自主トレに加わるようになった。
自主トレには勿論ヴァッシュも参加している。野球三昧も嬉しいが、ジェシカの誘いを断る口実ができたことがありがたかった。
あとは二人きりになれれば。
視線を移す。副会長の席に本人はいない。メリルはできるだけ部活に出る為に連日弁当持参で生徒会室に行き、連休中の備品貸出について各部の担当者と分刻みで面談しながら昼食をとっていた。
だが、放課後ウルフウッドの言うところのちっさいマネージャーの姿は部室にも校庭にもない。残念ながら努力は実っていなかった。
『あれからずっと放課後部室で会ってないんだよな……』
思い出したくもない大失敗が鮮やかに蘇り、ヴァッシュは小さくため息をつくと空になった弁当箱を鞄にしまった。
部活と自主トレを終えた人間台風は、自転車置き場へと向かいながら深々と吐息した。
誰もいなくなった校庭を突っ切った時、何の気なしに校舎を見上げた。明かりがいくつか灯っている。その内の一つは生徒会室のもの。
「あんまり無理するなよ……」
呟く声がマネージャーに届く筈もなく。
自転車は数えるほどしか残っていなかった。
難なく自分の自転車を見つけ鞄をかごに放り込んだ時、ヴァッシュは意外な人物に名前を呼ばれ首を巡らせた。
「ケビン……」
「は……話したいことがあるんだ。もしよかったら少し時間を貰えないかな」
去年同じクラスだった時もそれほど親しかった訳ではない。ケビンの方から声をかけてくるのはこれが初めてだ。
よほどの訳があるんだろう。話の内容に心当たりはなかったが、ヴァッシュは無言のまま肯いた。
『人目を避けたい』というケビンの希望で、二人は旧クラブハウスの裏手へ移動した。最後まで残っていたのは野球部で、練習が終わった今そこには誰もいないし人が来る可能性もまずない。
「僕に話って何?」
声をかけてきた時のどこか思いつめたような雰囲気を思い出し、ヴァッシュは努めて明るく言った。
ケビンは何度も言い淀んだが、音を立てて唾を飲み込むとようやく口を開いた。
「……僕……今朝メリルさんに……告白した」





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そして彼は途方に暮れる



ⅩⅢ
最初は言葉の意味が判らなかった。
「…………えっ?」
長い沈黙の後、ようやく理解した人間台風はやっとの思いで短く問い返した。ずっと俯いている、自分より小柄な元クラスメイトの表情は見えない。
「憧れてたんだ……入学してからずっと。すごく綺麗で、頭がよくて、スポーツも得意で。……生徒会役員選挙の時には迷惑をかけたのに許してくれて……優しい人なんだってよく判った」
ヴァッシュは何も言わずに――何も言えずに、ただケビンの話を聞いた。
「あれからメリルさんのことが頭から離れなくなった。違うクラスになって少しは落ち着くかと思ったんだけど、好きだっていう気持ちがどんどん膨らんでいって……」
再び訪れた沈黙。それを破ったのはケビンだった。
「ストーカーみたいかな、とも思ったけど、今朝早くメリルさんの家に行ったんだ。メリルさんは驚いてたけど、僕のこと怒ったり追い返したりしなかった。……家の前で告白した。『好きです、僕とつきあって下さい』って……」
「……それで?」
激しい動悸を自覚しつつ、ヴァッシュは何とか平静を装い先を促した。
ケビンは顔を伏せたまま静かに首を横に振った。その時の、悲しそうな彼女の表情を思い出しながら。
「……『ありがとうございます、お気持ちはとても嬉しいですわ。でも……ごめんなさい。私は今自分のことで精一杯で、どなたともおつきあいするつもりはありませんの』……そう言われた」
ヴァッシュの顔が歪んだ。
ケビンがメリルに告白したことに対する動揺、返事がNOだったことへの安堵、ケビンの苦しみに同調する反面、彼の失恋を心のどこかで喜んでいる自分への嫌悪と怒り、誰ともつきあうつもりはないという言葉への落胆……
さまざまな想いが複雑に混ざりあい、インクのように胸に広がってゆく。
「……メリルさん、野球部に好きな人がいるのかな」
そう考えれば、副会長と兼務で忙しいのに部活を辞めないのも納得がいく。
「……それはないと思うよ。部員をひいきしたりしないし、野球部に入部したのも野球が大好きだからだって言ってたし。それに、もしそうならマネージャーはきちんと『好きな人がいます』って言ったんじゃないかな。真面目な言葉に対していい加減な答え方をする人じゃないから」
「……そうか……そうだよね」
ずっと俯いていたケビンが不意に顔を上げた。
「……ほんとはすごく不安だったんだ。本気にされないんじゃないか、笑われるんじゃないかって。でもメリルさんは真剣に話を聞いてくれて、きちんと答えてくれた。お詫びの印も受け取ってくれたし」
「お詫びの印?」
「手作りのオルゴール。……僕はこんなことしかできないから」
眼鏡をかけた顔が再び伏せられた。
「……僕が……君みたいにカッコよかったら……背が高くて、ハンサムで、スポーツ万能で、話も面白くて、人気者で……そうしたらメリルさんは……」
「そんなことない。キミはかっこいいよ」
ケビンは勢いよく人間台風を振り仰いだ。
「……誰かに自分の想いを伝えるのって凄く勇気が要るよね。それをやり遂げたキミはかっこいいよ。……それに、さっきキミは僕のこと誉めてくれたけど、僕は全然かっこよくなんかないよ。マネージャーには叱られてばっかりだし、ホント情けない奴なんだ」
言いたいことも言えないし、プレゼントも渡せない。
「オルゴールは全部手作りなんだろ? 外側だけじゃなくて中身も。それって凄い才能だよ。僕にはとてもできない。……尊敬するよ」
「……ありがとう……」
ケビンは笑った。泣き笑いのような表情ではあったが。
「ごめんね。部活で疲れてるのに引き止めて。……話、聞いてくれてありがとう……」
突然走り出した元クラスメイトの姿が見えなくなるまで人間台風はその場を動かなかった。
辛くて泣いている男の姿を見ちゃいけない――そう思った。

エピローグ
翌朝、ヴァッシュは夜が明ける前からメリルの家の前にいた。
昨日のケビンの話は衝撃的だった。打ちのめされた気分になった。でも、大きな示唆を与えてくれた。
『一緒に帰れないんだったら一緒に登校すればいいんだよね』
そうすれば確実に二人きりになれる。
多くは望まない。二日連続で告白されたらメリルも困るだろうから。プレゼントを渡して感謝の気持ちを伝える。
今日はそれだけでいい。
「行って参ります」
ドアが開く音に続けて聞こえた涼やかな声。ヴァッシュはもたれかかっていた自転車から離れ、門扉へと歩み寄った。
「おはよう」
「ヴァッシュさん!?」
予想だにしなかった来訪者にメリルは門の取っ手を掴んだまま目を見開いた。が、それもごく短い間のことだった。
菫色の双眸がすっと細められた。黒髪に縁取られた顔に緊張が走る。
「……何かあったんですの?」
問いかける声も強張っている。その理由が判らず、ヴァッシュは困惑混じりの笑みを浮かべて逆に質問した。
「何かって?」
「……こんな時間にわざわざこんなところまでいらっしゃるなんて……野球部で何か問題が起きたんじゃ……」
あの時も何か言いたそうだった。でも肝心の話はその後も聞けずじまいで。
「え!? いや、なんにもないよ! ただ……」
右手が鞄に触れた。小さな紙袋の存在を確かめるように。
「……一緒に学校に行こうと思って」
『何言ってんだ俺! 小学生じゃあるまいし!』
本当に言いたいこととは大きくかけ離れた発言にどうしようもなく腹が立つ。人間台風の心の中で自分に対する罵詈雑言が吹き荒れた。
が、彼の内心の嵐は意外な返事の為にぴたりと止んだ。
「……ごめんなさい。それはできません」
驚いてメリルを見つめる。戸惑いと謝罪の気持ちが入り交じった複雑な表情を。
「……どうして?」
理由を尋ねる声は僅かに掠れた。
「一緒に登校したことがジェシカさんに知れたら大騒ぎになりますわ」
もっともな指摘にヴァッシュははっと息を呑んだ。それが原因で二人がぎくしゃくするようになったら、野球部全体に悪影響を及ぼすだろう。
『だからあの時も待たなくていいって言ったのか……』
マネージャーの細やかな心配り。それに対して……人間台風は己の浅慮を恥じた。
「お話でしたら学校で伺います。……部活にあまり出られない半幽霊部員にこんなこと言う資格なんてないのかも知れませんけど」
「そんなことない!! それに、話があった訳じゃないんだ。たまたま早く目が覚めて、思いつきでここまで来ただけ だから」
しどろもどろに言い訳しつつ、ヴァッシュは自分の自転車目指して後ずさりした。ハンドルが腰に当たり、目的地に着いたことを知る。
「せっかく時間に余裕があるんだから、早く行って自主トレするよ。今年こそ甲子園、頑張らなくちゃ! それじゃお先!」
言い終えると同時に自転車に飛び乗る。右足がペダルを踏み損ね危うくバランスを崩しかけたが、何とか持ち直し急発進させた。自分を心配する声は聞こえなかったことにした。
『話は学校で、か』
それはつまり、イヤリングを手渡すなら校内で、ということ。だが、めぼしい口実もない現状で二人きりになれる機会がそうそうあるとは思えない。
あの時、千載一遇のチャンスを二度も逃した自分が恨めしい。
「間違いない!! 俺にゃー疫病神か貧乏神が2ケタ以上ついてるんだ!!」
早朝故、猛スピードで大通りを走る自転車から発せられた悲痛な叫びを耳にした者は少なかった。


―FIN―

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そして彼は途方に暮れる

プロローグ
『よっしゃ!』
朝練前には貼り出されていなかったクラス編成の掲示の前で、人間台風は心の中でガッツポーズをした。
「あら、今年も同じクラスですのね。ヴァッシュさん、ウルフウッドさん、もう一年よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
笑顔で挨拶を返すヴァッシュの心は、曇りという頭上の天気に関係なく晴れやかだった。今年はクラスだけでなく出席番号も同じ。きちんと席が決まるまでの数日間は隣に座れる。
「なぁにニヤついとんねん。無事進級できたんがそんなに嬉しいんか」
「大きなお世話!」
顔を顰めて舌を出した瞬間嫌な考えが脳裏をよぎり、ヴァッシュは真剣な面持ちで再び掲示板へと視線を戻した。
『アイツは……』
自分達の欄とは大幅に離れたところにキールの名を見つけ、ほっと胸をなで下ろす。これなら通常の授業での接点は皆無だ。
「さあて、クラスの確認も出来たことだし移動しますか。いつまでもここに陣取ってたら邪魔になっちゃうよ」
明るい声で提案すると、ヴァッシュはメリルの肩を軽く叩いてから進むべき方向を指差した。さりげなくウルフウッドに目配せする。
三人は人垣の最前列から外れ、校舎を目指した。
バッテリーはマネージャーの後ろを歩くようにした。掲示板を見ている生徒会長に彼女の存在を気づかれないように。
廊下を歩きながら、メリルは心配そうな表情で二人を等分に見やった。
「部活説明会の準備は大丈夫ですの?」
彼女が問いかけたのも当然である。本番は二日後なのに、何をやるのか教えて貰っていないのだから。
菫色の瞳に見つめられ、ヴァッシュは内心どぎまぎしながら元気よく答えた。
「平気平気! 準備万端、ノープロブレムってね」
「楽しみにしててや」
いたずらっ子のような表情が並んでいる。顔立ちは似ていないのにこういう時は何故かそっくりに見えて、メリルは小さくため息をついた。
『本当に大丈夫なのかしら……』
マネージャーの不安は二倍ではなく二乗された。
教室に入ると、三人は自分の出席番号に従って席についた。ヴァッシュの席は教卓に近い位置で、隣には勿論
想い人。ほんの少し目線を動かせば彼女の横顔が見られる。
『中吉の御利益ってやつかな』
幸先のいい新年度のスタートに、ヴァッシュの口元は自然とほころんだ。


入学式の日は灰色一色だった昨日の空が嘘のような見事な晴天となった。期待と不安が入り交じる新入生への天からの贈り物のように。
いい天気は翌日も続いた。
体育館でカリキュラムと年中行事の説明、校歌の紹介が行なわれ、その後各クラスでホームルーム――昨年までオリエンテーリングは午前中だけで終わっていた。が、今年は昼食を挟んで午後に部活説明会がある。
食事を終えた一年生は再び体育館に集合した。
体育館の舞台には飾りつけも何もなかった。あるのは中央に置かれたスタンドマイクだけ。
その前にキールが立った。
「はじめまして、生徒会長のキール・バルドウです。部活説明会を行なう前に一言ご挨拶させていただきます。……
トライガン学園は部活は自由参加です。ですが、新入生諸君にはこれからの紹介を参考にして、是非積極的に参加して欲しい。何故なら、部活動を通して育まれる友情があるからです。授業とは違う貴重な体験の場になるからです。……」
自己陶酔しているようなキールの言葉に真面目に耳を傾ける者はごく僅かだった。大半は事前に配られた
クラブ名一覧と部室の場所を示したプリントを熱心に見ていた。
「それでは運動部の紹介を始めます。……合気道部」
メリルの声に白い道着姿の男子生徒が舞台に飛び出し、一列に並んだ。威勢のいい掛け声に合わせ、基本の型を披露する。
一つの部に与えられた時間は九十秒。同好会を含めると五十を越える部全てを中だるみすることなく紹介するにはそれが限界だったのである。『短すぎる』という苦情が多数寄せられたが、メリルは何とか説得した。
各部とも工夫を凝らした演出で自己紹介をしていった。
紹介が途中でも、時間が来るとメリルは終了の合図であるホイッスルを吹いた。すかさず書記・会計・会計監査が舞台に上がり、穏便かつ迅速に強制撤収する。舞台の袖に追いやられながらも往生際悪くクラブ名を連呼する部に体育館はどっと沸いた。
「野球部」
いつもより早い鼓動を無視し、メリルは自分が所属する部を呼んだ。
舞台に上がったのはバッテリーの二人だけだった。ユニフォーム姿でグラブをはめたヴァッシュが、同じくユニフォームを着てミットを構えたウルフウッドに向かって投球する。鋭い音が体育館に響き、どよめきがそれに続いた。
二球受けた後、ウルフウッドはミットを脇に置き、バットを手に立ちあがった。ホームランを予告するように右手のある一点をバットで指し示す。新入生が首を巡らすと体育館の窓が野球部員によって開けられるところだった。
キャッチャーがいないことを気にする風もなく、ヴァッシュはいつものようにボールを投げた。小気味いい音と共に白球は一枚だけ開けられた窓から外へ消えた。
今度は左手の一点を指し示すと、ウルフウッドは見事に打球を飛ばした。
「来たれ野球部、一緒に甲子園を目指そう!」
マイクに駆け寄り、ヴァッシュは拳を固めつつ元気よく決め台詞を言った。が、何故か一緒に言う筈の声がない。
不審に思い目だけ動かして横を見る。ウルフウッドは舞台の袖にいた。
「!?」
主将に腕を掴まれ、メリルは危うく声を上げそうになった。そのまま舞台の中央まで引っ張り出される。
ヴァッシュの隣に立つと、ウルフウッドは華奢な肩を抱くようにしてにこやかに付け足した。
「今なら美人のマネージャーがお出迎えするで! ……あいだだだだだだだ」
アドリブに続いて予定外の雑音が口から洩れた。ヴァッシュに容赦なく手をつねられ、メリルの肩から力ずくで引き剥がされたのだから無理もない。
「セクハラしませんからねー、マネージャー希望の女子の皆さんも安心して来て下さいねー」
漫才のようなやりとりに生徒達は爆笑した。明るくフォローしたピッチャーの笑顔がぎこちないことに気づいた新入生はいただろうか。
突然至近距離から聞こえた騒音にバッテリーは揃って顔を顰め耳を押さえた。発信源はマネージャー。片手でマイクを覆ってからホイッスルを吹いたのは流石である。
メリルは生徒会役員に促され退場する二人とは反対側の舞台の袖に戻った。咳払いをして気持ちを切り替え、何事もなかったように言葉を紡ぐ。
「……失礼しました。続いて陸上部」
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そして彼は途方に暮れる



「何なんだよ、さっきのアレ」
放課後、ヴァッシュはウォーミングアップをしながら小声でキャッチャーに問いかけた。アレとは勿論先刻の部活説明会のことである。
「勝手に打ち合わせになかったことやって……」
「ええやんか、減るもんやないし」
「そういう問題じゃないだろ!?」
目をむいて怒りを顕わにするピッチャーにジェスチャーで落ち着くよう示してから、ウルフウッドは皮肉な笑みを浮かべた。
「結果オーライや。見学者ぎょーさんおるで」
確かに野球部を取り囲む生徒は多い。しかもほとんどが男子である。部員が欲しい野球部としては嬉しい事態なのだが。
「……野球に興味があって来てる奴ばっかりじゃないさ」
グラウンドを見ようとせず、きょろきょろと辺りを見回している生徒が何人もいる。誰を探しているのか一目瞭然だ。
「プレーヤーとして使えそうな奴が入部したらええんや。動機は関係あらへん」
「動機が不純だと長続きしないんじゃない?」
「入部者がおらんかったら話にならんやん。長続き云々は実際に入部した連中を見てから心配すればええ」
ウルフウッドはどこまでも楽天的だ。相棒の冷たい視線も全く意に介さない。
「ほな挨拶しとこか」
『去年の夏みたいなことにならなきゃいいけど……』
走り出した主将の後を追いながら、人間台風はこっそりため息をついた。
「皆さんようこそ。ワイが主将のニコラス・D・ウルフウッドです。今日はのんびり見学してって下さい」
見学者を校庭の一角に集めると、ウルフウッドは笑顔で挨拶した。いつにない愛想の良さに部員達の背中に悪寒が走る。
「副主将のヴァッシュ・ザ・スタンピードです。野球が好きな人、野球に感心のある人は大歓迎……」
寒気を堪えつつ発したヴァッシュの言葉は途中で途切れた。人垣をかき分け自分の前に立ったおさげ髪の女子生徒にじっと見つめられた為に。
「え、と……質問ですか?」
彼女は何も言わない。ただ固い表情で見上げているだけだ。
『……?』
既視感。どこかで会ったことがある。でもどこで……
「……ジェシカ?」
大急ぎで記憶を辿り、ようやく思いついた名前を口にした途端、彼女が破顔した。
「ン"ギャ――――、ヴァッシュウウウウウ」
飛びかかるような勢いで抱きつかれ、ヴァッシュの顔は瞬時に愉快なものに変わった。突然のことにどう対処していいのか判らず、人一人首からぶら下げたままただ口をぱくぱくさせるのみ。動揺の余り女子達の非難の声も耳に
届かない。
突き刺さるような視線を感じて目線を動かす。リーゼントの大柄な男が呪いをかけているかのような目で自分を睨んでいた。
『ブラド……』
いかつい顔に昔の面影はほとんどなかったが、変わらぬ髪と瞳の色からヴァッシュはそう確信した。
「…………ほら、もう泣かないでジェシカ……」
何とか気をとり直し、頭をそっと撫でながら幼なじみをなだめる。
「ヴァッシュ……ヴァッシュ……会いたかった……。……こっちに戻って来てたんならどうして連絡くれなかったの?」
「積もる話は後で。今は部活中だから……」
どうにか説得してジェシカを元の場所に帰すと、ヴァッシュは再び口を開いた。
「今日は見学だけとします。入部希望者は基礎体力の測定をしますので、明日の放課後運動できる恰好でここに来て下さい」
「はいは~い、質問で~す! マネージャー希望はどうしたらいいですか~?」
ぶんぶんと手を振りながら発言したのはミリィだった。
「明日の昼休みに部室に来て下さい。マネージャーのメリル・ストライフさんから説明があります」
「あのう……メリル先輩は……?」
控えめな質問にヴァッシュはそれまでと変わらぬ声で答えた。内心穏やかではなかったが。
「オリエンテーリングで判ったと思いますが、マネージャーは生徒会副会長を兼務しています。生徒会の仕事が忙しい場合は部活に参加しないこともあります」
それとなく全員の表情を確認する。落胆した男子生徒は一人や二人ではなかった。
ジェシカのこと、ブラドのこと、メリル目当ての見学者、ここにはいないがキールのこと……悩みの種は尽きない。
『ゼントタナンだなぁ……ところでゼントタナンってどう書くんだっけ?』
漢字の書き取りという、普段なら絶対やらない方法で現実逃避する人間台風であった。


翌日の昼休み、ヴァッシュとメリルは部室で昼食をとることにした。万が一にもマネージャー希望者を待たせる
訳にはいかないとの判断からである。
副主将がいる必要はないのだが、ヴァッシュは『何か手伝えることがあるかも知れないから』と自ら同席を申し出た。
無論主たる目的は別にある。
「さあ、早く食事を済ませてしまいましょう」
「あ、あの……」
持参した弁当を手早く広げるメリルにヴァッシュは上ずった声で呼びかけた。
「? どうかなさいました?」
「……じ、実は……わ」
突然ノックもなくドアが開き、甲高い声が部室に響いた。
「ヴァッシュ~~~~~ッ」
「うわああああああっっっ!!!!」
体当たり同然に抱きつかれ、ヴァッシュは右手を鞄に突っ込んだまま尻餅をついた。
「ジェ、ジェ、ジェシカ!?」
「やっぱりこっちにいたのね! 教室にいなかったからそうだと思った!」
「ど、どうしてここに!?」
「決まってるじゃない、マネージャー希望だもの。そ・れ・に」
ようやくヴァッシュから離れると、ジェシカは満面の笑顔で持っていたトートバックを見せた。
「一緒にお弁当食べようと思って!」
逆立てた金髪が大きく前に倒れた。うなだれた男はゆっくり吐息し、小さな紙袋からそろそろと手を離した。
二人きりの時にプレゼントを渡す。たったそれだけのことがどうしてできないんだろう。
メリルが苦笑混じりの微笑みを浮かべているのに気づいて、ヴァッシュは慌てて立ち上がった。
「あ、あの、マネージャー、この子は僕の幼なじみで、同じ保育園に通って」
「はじめまして! マネージャー希望、一年のジェシカです。よろしくお願いします!」
しどろもどろに説明するヴァッシュを差し置いて、ジェシカは元気よく挨拶しぴょこんと頭を下げた。
「はじめまして。マネージャーで二年のメリル・ストライフです。こちらこそよろしくお願いしますわね」
自分より背の高い後輩に礼を返してから、メリルはピッチャーへと視線を移した。
「折角ですから一緒に食べましょう」
反対する理由はない。複雑な心境のままヴァッシュは肯いて賛成の意を示した。
昼食は賑やかになった。当然のようにヴァッシュの隣に座ったジェシカが食べる間も惜しんで喋ったからだ。
「ヴァッシュはあたしの王子様なんです! ブラドっていういや~な幼なじみがいるんですけど、そいつがあたしのことよく苛めて、その度にヴァッシュが助けてくれて……」
食事を中断したジェシカは胸の前で両手を組み、目を輝かせて思い出に浸っている。
「ジェシカさんにとって、ヴァッシュさんは正義のヒーローでしたのね」
「はい! ほんとにカッコよかったんですよ!」
話が弾む女性陣とは裏腹にヴァッシュの心は沈んでいった。ブラドがジェシカを苛めていた理由を知っているからだ。
昨日自分に向けられた視線からして、ブラドの想いはあの頃と変わっていない。ジェシカの方はブラドの気持ちなどこれっぽっちも判っていないようだ。
ヴァッシュは暗い気分で黙々と箸を動かした。
食事を終え片づけをしている時、不意にジェシカがヴァッシュを見上げて首をかしげた。
「どうしてヴァッシュ・ザ・スタンピードなの? ヴァッシュ・ミリオンズじゃなくて」
去年、初めて新聞でトライガン学園のピッチャーの記事を見た時、姓が違うことを疑問に思った。昨日名前を呼ばれるまで『もしかしたら人違いかも知れない』とずっと不安だった。
「……両親が離婚したんだ。ナイブズとも離れて暮らしてる」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで」
しょげ返ったジェシカにヴァッシュは微笑んでみせたが、幼なじみの表情は明るくならない。
重苦しい沈黙。それを破ったのはまたもノックなしに飛び込んできた高い声だった。
「せんぱ~い、来ましたぁ! …………あれ? あたしの顔に何かついてます? もしかしてお弁当とか!?」
六つの瞳に見つめられ、ミリィは慌てて両手で自分の顔を撫で回した。
「あ、いえ、大丈夫ですわよ。何でもありませんわ」
本当にこの子には助けられてばかりですわね。この場の雰囲気を一変させてくれた後輩に心の中で感謝しつつ、メリルはゆっくりと首を横に振った。





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そして彼は途方に暮れる



放課後、入部希望者はいくつかのグループに分かれて体力測定を受けた。昼休み部室に集合したマネージャー志願の女子生徒も記録係として初仕事にいそしんでいる。
が、本来彼女達を監督する立場の筈のメリルは校庭にはいなかった。
『ごめんなさい、部活説明会の反省会が昨日終わらなかったんですの』
朝練の後申し訳なさそうに謝ったメリルの顔が脳裏に浮かび、副主将は僅かに顔を曇らせた。
どうせまたキールがいちゃもんをつけてるんだろう……そう思うと怒りがふつふつとこみ上げてくる。
突然筋肉質の腕にヘッドロックをかけられた。そのまま身体の向きを百八十度変えられる。
「なーにぶすくれとんねん」
囁きに近い声には怒りと呆れが同量ずつ含まれていた。
「誰が!?」
「入部希望者の前で不機嫌そうなツラするんやないわ、ボケ」
捨て台詞と共に身体の自由が戻った。
短距離走や遠投などの測定を終えた男子生徒がすぐ後ろで待っている。ヴァッシュは頬を軽く叩いて自分に気合を入れてから振り返り、てきぱきと指示を出した。
入部希望者を運動部経験者と未経験者の二つに分け、更に六人一組でグループを作る。それぞれにマネージャー希望の女子と部員を割り振ってタイムの記録を頼む。
「最後に持久力の測定をします。運動部経験者はスペシャル外回りを三周、未経験者は外回りを三周走って貰います」
ヴァッシュはトライガン学園周辺の大きな地図を指で辿りながらコースの説明をした。
「コースが判らない人はいますか? …………大丈夫ですね。……スペシャル外回りは主将が、外回りは僕が一緒に走ります」
凄い勢いでウルフウッドがこちらを見たが、何食わぬ顔で続ける。
「途中で具合が悪くなった人は遠慮なく申し出て下さい。では十分後、校門前に集合して下さい。……解散」
三々五々散っていく将来の仲間達を見送ってから、ヴァッシュは一人ウォーミングアップを始めた。と。
「ウラッ!」
屈伸していて立ち上がりかけたところに飛んできた平手。咄嗟に顔をそらせたものの避けきれず、左の頬がじんじんと痛んだ。
「何すんだ、このテロキャッチャー!」
「さっきの分担、どういうこっちゃ!?」
入部希望者達について走ることは前もって決めていた。どちらがスペシャル外回りを走るか決めたのは部活が始まる直前、方法はジャンケン三本勝負。
二勝一敗で勝者となったのはウルフウッドで、彼は当然の如く外回りを選択したのだが。
「いやあ、ゴメンゴメン。間違っちゃった」
頭を掻きながら詫びる人間台風に反省の色は見られない。わざと逆に言ったのは明白だった。
一度発表した役割分担を何の説明もせず変更したら入部希望者達が戸惑うだろう。かといってこんな馬鹿馬鹿しい理由は公表できないし、もっともらしい理屈も思いつかない。
舌打ちして苛立ちを紛らわせると、ウルフウッドは何も言わずにヴァッシュに背を向け立ち去った。
『ヘッドロックと人のことボケ呼ばわりしたお礼だよ』
だが、この配役変更はピッチャーにとって仇となった。
ウルフウッドはスペシャル外回りを六周走った。入部希望者の実力を自分の目で確かめたかったのと、コースを外れて楽をしようとする連中が出ることを警戒したのだ。
運動神経に多少は自信があった男子達も心臓破りの階段にはずいぶん消耗した。息を切らして階段を登る彼らに短く声をかけながら主将は平然と追い越していく。走り終えた後も疲れた様子は微塵もなかった。
ヴァッシュは外回りを八周走った後、迷子になった新入生を探してかなりの距離を走る羽目になった。しかし、二人で校庭に戻った時、息も絶え絶えな一年生とは対照的に彼の呼吸はほとんど乱れていなかった。
この話が広まり、トライガン学園野球部のバッテリーが密かに"デタラメーズ"と呼ばれるようになったのはそれから数日後のことである。


「トンガリ、オドレ居残りな」
「はあ!?」
部室で着替えている時に突然下された命令にヴァッシュは素っ頓狂な声を上げた。予想外のアクシデントに加え平謝りする一年生をなだめるのにずいぶん時間がかかってしまい、窓の外はすっかり暗くなっている。
「俺だけ!? 何で!?」
「ええやん、用事がある訳やないんやろ?」
「用事なんてないけど……」
結構な量の運動をこなしたお陰でおなかも空いている。できれば早く帰りたい。
ワイシャツのボタンをとめつつ反論のネタを探しているピッチャーの目の前に、ウルフウッドは白い紙の束を突きつけた。
「今日の測定結果。これをマネージャーに渡すんや」
「……メリルに!?」
「生徒会のほうが終わったらこっち来る、ゆうとったけど、長引いとるようやな」
こんなに遅くまで……? ヴァッシュの眉間に深い皺が刻まれた。
「で、どうなんや? 居残りするんか?」
「喜んでやらせていただきます!」
元気一杯の返事にウルフウッドの口元が緩む。だが、その笑顔は天使の微笑みには程遠いものだった。
「マネージャーが来るのが何時になるかは判らんけど、それまでじ――っと待っとるのも阿呆らしいから部室の掃除頼むわ」
「え!?」
「昨日今日とろくすっぽ掃除してへんからなぁ、ちょうどええわ。……居残りするんやろ?」
黒い双眸は訴えている。『男に二言はあらへんで』と。
ヴァッシュはがっくりと項垂れ、呟くように答えた。
「喜ンデヤラセテイタダキマス……」
手早く荷物をまとめると、ウルフウッドは満面の笑みを浮かべつつ机に部室の鍵を置いた。部員で鍵を持っているのは主将とマネージャーだけでヴァッシュは持っていないからだ。
「鍵は明日返してや。ほなお先に」
音を立てて閉まったドアに向かって思いきり舌を出してみたが胸のもやもやは晴れない。ヴァッシュは我知らずため息をついた。
ひねくれた思いやりか、ささやかな復讐に対する報復か、単に掃除をさせたかっただけなのか。正直判断に苦しむ。
『……でも!』
ウルフウッドの思惑がどうであれ、これがチャンスであることには変わりがない。おまけに今度は邪魔が入る可能性はかなり低いのだ。
「よしっ、お掃除タイムスタート!」
大きな声で自らに宣言し、ヴァッシュは袖をまくりつつ掃除用具入れに歩み寄った。



部室のドアがノックされたのは、ヴァッシュが床の掃き掃除を終えモップがけを始めて間もなくのことだった。
「は~い、どうぞ~」
明るい返事にドアから顔を覗かせたのはやはりメリルだった。手にしていたモップを壁に立てかけ、部室に入ってきた彼女に向き直る。
「電気が点いていたからもしやと思ったんですけど……こんな遅くまでどうしたんですの?」
「汚れが気になっちゃってね、ちょっとお掃除してたところ」
正直に『キミを待ってた』と言うつもりは毛頭なかった。そうと知ったら彼女は罪悪感を覚えるだろうから。
「キミこそ遅いじゃない。生徒会のほう、大変だね。お疲れ様」
労ったつもりだったが、何故かメリルは顔を曇らせた。
「……まだ終わってないんです。ちょっと抜けさせて貰っただけですの。……ごめんなさい。新入部員獲得で大切な時期なのに来られなくて……」
「や、だ、大丈夫だよ! 皆で対応してるし、昼休みに来てたマネージャー希望の子達も頑張ってくれたし。あ、これ今日の測定結果」
しどろもどろになりながら書類を手渡す。これで任務は完了。残るは個人的な用件のみ。
それとなく様子を窺う。真剣な表情で書類をめくっていたメリルの表情がふっと和らいだ。
「思ってたより多いですわ。それに……この人とこの人……この人も……」
「お眼鏡にかなう輩はおりますかな、マネージャー殿」
恭しく一礼する。芝居がかった言動にメリルは吹き出した。
「ええ、是非欲しい人材が何人か。……ブラドさん、なかなかいい数値ですわよ。中学時代は野球部に在籍していたとのことですし、入部してくれるといいんですけど」
「大丈夫だよ。アイツは絶対野球部に入る」
「あら、どうして断言できるんですの?」
誰が誰を好きだとか、そういうゴシップめいた話をするのは気が進まない。
理由を説明すべきか否か。僅かに逡巡した後口から出た言葉は本人にとっても意外なものだった。
「男のカン」
「……ヴァッシュさんのカンなら信じてよさそうですわね」
冗談だと思ったのだろう、メリルはくすくす笑っている。
部室に二人きり。なごやかな雰囲気。
『ロマンチックなムードとは言えないけど……』
今なら渡せる。ヴァッシュは唾を飲み込み、心を落ち着かせるべく深呼吸をした。
「メリル……」
それまでと微妙に異なる声のトーン。強張った表情。名前を呼んだこと。
クラスメイト兼クラブメイトの変化に気づいてメリルは表情を引き締めた。ブルーグリーンの瞳をまっすぐに見つめ、
静かに次の言葉を待つ。
「……キミに……」
その時、ヴァッシュの腹の虫が派手に自己主張した。






 ようやく靴を買い、残すはアクセサリーのみとなった。
 もう夕方だというのに、母に疲れた様子は全くない。買ったものを全部自分が持っていることを差し引いても凄いバイタリティーだと思う。
 しかし、感心したからといって早く帰りたいという気持ちは消えてはくれない。
『もう部活は終わっちゃっただろうな』
 ヴァッシュは背中を丸めて小さく吐息し、気を取り直すように顔を上げた。その途端、彼の身体は不自然な姿勢のまま硬直した。
 ブルーグリーンの瞳が食い入るように見つめているのは一枚のポスターだった。
 黒髪を小さくまとめたモデルの凛とした横顔。キャリアウーマン風のスーツを着て、小ぶりの耳飾りをつけている。
 ジャケットの襟元で輝くブローチ。
 胸がざわめくのを感じた。でもそれは決して嫌なものではなく。
 引き寄せられるように近づき、ショーケースを覗き込む。初詣の時に見た髪飾りの影響か、銀色の光には興味がなかった。ただひたすら金色の商品に視線を走らせた。
「あ…」
 丸い飾りのついた金の留め金と細長い金の円筒を金糸で繋いだイヤリングに目が釘付けになった。メリルに似合う、そう確信した。
「何かお探しですか?」
 声をかけられて思い出す。自分が何処にいるのかを。何をしていたのかを。
「え、いや、あの…ま、また来ます!」
 顔が赤くなるのを自覚しつつ、ヴァッシュは逃げるようにその場を離れた。
 らしくない行動。らしくない買い物。でも――
 小遣いで気軽に買えるような値段ではないが、手が届かないほど高価でもない。
「母さん!」
 頬を紅潮させた息子に突然呼ばれ、ヴァッシュの母はぎくりとした。長すぎる買い物にとうとう堪忍袋の尾が切れたのか、と。
「買いたいものがあるんだ。貯金を少し使いたい」
「…何を買うの? 無駄遣いは」
「無駄じゃない! …お世話になってるマネージャーに、プレゼントを」
 自分の頬が更に熱くなるのが判った。金額を訊かれ、素直に答える。
「いいわよ」
 あっさりした返事にヴァッシュは目を丸くした。もっといろいろ言われると思っていたのだ。
 財布から紙幣を取り出すと、ヴァッシュの母はそれを息子に差し出した。
「…どうしたの? いらないの?」
「ありがとう! 後で返すから!」
 電光石火の速さで紙幣を掴み、ヴァッシュは一目散に走り出した。
「…思わぬ産物ね。瓢箪から独楽ってことかしら。…でもあの子が、女の子にプレゼントをねぇ…」
 後ろ姿が見えなくなってから、ヴァッシュの母は苦笑混じりに呟いた。僅かに俯いてそっと目を閉じる。緩みかけた涙腺をなだめる為に。
「あの、すみません! そこの、奥から二列目の…その横…はいそれです、そのイヤリングを下さい!」
 さすがはプロである。赤い顔で息せき切って戻ってきた若い男を前にしても、店員の営業スマイルが崩れることはなかった。答えは判りきっているがマニュアルどおりに質問する。
「贈り物ですか?」
「はい!」
「では贈答用にお包みしますので少々お待ち下さいませ」
「あ、あの…」
「はい、何か?」
「き…綺麗に包んで下さい。よろしくお願いします!」
 耳まで真っ赤にして一礼した姿に、初めて店員の顔に作ったものではない笑みが浮かんだ。
「かしこまりました」
 しばらくして、手のひらに載るくらい小さな純白の紙袋がヴァッシュに渡された。清算を待つ間にそっと覗いてみる。白いリボンがかかった白い箱が見えた。
「お待たせ致しました。こちらお釣りとレシートでございます」
「あ、ありがとうございました!」
 言うべき台詞を先に言われてしまった。店員は内心苦笑しながら、柔らかな笑顔で何も言わずに頭を下げ初々しい客を見送った。


 月曜日の昼休み、教室で昨日の話を聞いたヴァッシュはしばらく絶句した後酷く悔しがった。
「…チクショー、会いたかったなあ。初詣以来会ってないし…」
 会えなかったのも残念だが、一番悔しいのはミリィの制服姿を見られなかったことだ。ミリィの母校、イコールメリルの母校。どんな制服なのか知りたかった。
 まあ、写真を見せて貰うって手もあるさ。落胆しつつもそう思い、ヴァッシュは自分を慰めた。
「元気そうだった?」
「ええ、それはもう」
「言い間違いもパワフルやったで。二日モノは傑作やな」
「ふつかもの?」
 メリルの説明にしばし笑い転げる。目尻に涙が浮かんだ。
「…お、おなか痛い…。…でも、あの子がマネージャーになってくれるんなら、キミも少し楽になるんじゃない?」
「そうですわね」
「あとは部員やな。もちっと人数欲しいわ」
「入学式の翌日に新入生のオリテンテーリングがあります。その時、部活の説明と各部のPRの時間をとりたいと考えてますの。一つの部の持ち時間は短いですけど、新入生にアピールするいい機会になると思いますわ」
「部活の説明? 僕らの時はなかったよね?」
「ええ。実行できればこれが初めての試みになります」
 部活は自由参加の為、これまで勧誘活動は各々が勝手に行なっていた。当然効率は悪く、入部者獲得はどの部にとっても頭の痛い問題だった。
 関係改善の一助になれば。そう考えて、メリルは会長の許可を得て企画書を作成し、教師達にオリエンテーリングの内容変更を願い出た。
 手応えは感じている。実現できる確信がメリルにはあった。
「今日の職員会議で認められれば、明後日には各部に通達を出します」
「それでずっと放課後部活に来られなかったんだ」
「ええ…皆さんには申し訳ありませんけど、まだしばらくこの状態が続きそうですわ」
 新しいことをやろうとするなら周到な準備は不可欠だ。発案者が自分である以上、自分が先頭に立って動かなければ。
「こっちのことは心配しないで。部室の掃除は皆でやってるから大丈夫だよ」
 マネージャーに負担をかけないよう、部室の掃除は自分達でやろう。ヴァッシュの提案に全員が賛成した。
「トンガリの奴、掃除の最中はどこぞの頑固ジジイみたいに口うるさいんやで」
「悪かったね、口うるさくて。そういうキミはけっこう真面目にやってるよね」
「綺麗好きなんや」
「うわ、嘘っぽい」
 ヴァッシュはこめかみに血管を浮かせたキャッチャーに容赦ないヘッドロックをかけられた。
「ヒドイじゃないか! あー、髪ぐちゃぐちゃ…」
「口は災いの元やて教えたったやろ? ちっとは学習しいや」
 悪びれないキャッチャーに報復しようとにじり寄った瞬間、五時間目の予鈴が鳴り始めた。仕方なく低く唸りながら睨むだけにとどめる。
 そんなヴァッシュに目もくれず、ウルフウッドは涼しい顔でさっさと自分の席に戻った。
『髪整える時間もないや』
 椅子に腰掛けると、ヴァッシュは額にかかる大きな髪の束を指で引っぱった。ここまで崩れてしまうとドライヤーなしで直すのはほぼ不可能だ。
『ええい、こうなったら!』
 ヴァッシュは両手で自分の髪をかき回した。
 その日の午後、人間台風は起き抜けと大差ないぼさぼさの頭で授業を受け部活にいそしんだのだった。

ⅩⅠ
 卒業式を明日に控えた三月十四日。
 登校直後、メリルは部室の前でギリアムから何も入っていない大きな紙袋を手渡された。
「主将、あの、これは…」
「すぐに判る。まずは俺からだ」
 続けて差し出されたのは、小さな造花とリボンをあしらった一辺十センチ程の立方体の箱。
「オーソドックスにキャンディを」
「あ…ありがとうございます」
 微笑と苦笑が半々の笑みを浮かべてメリルは礼を言った。今日がホワイトデーだということをすっかり失念していたのだ。
 着替えに来た部員達が次々とマネージャーに用意した品物を渡していく。チョコやマシュマロといった菓子、アロマキャンドル、アイピロー、マフラー…メリルの両手はすぐにいっぱいになった。
『この紙袋…』
 主将の配慮にメリルは頭が下がる思いだった。
 各々が考え抜いて選んだであろうお返しの中で、飛びきり奇抜だったのはウルフウッドのものだった。
 巷でブームを巻き起こしているという、中に動物の人形が入った卵型のチョコレート一個。それはラッピングも何もされず、むき出しのまま小さな手の上にぽんと置かれた。
「ウルフウッド、これは…」
 さすがにそれではあんまりだと思ったのだろう、副主将が声をかけた。
「近所のスーパーで見つけたんですわ。『大人気』っちうラベルが棚に貼ってあったんで、そうなんか思てこおたんですけど」
「ありがとうございますウルフウッドさん、嬉しいですわ」
 無駄な出費は避けたいだろうに、こうしてお返しを用意してくれた。それだけで充分だった。
 ヴァッシュはチョコクッキーを詰めた可愛い缶をメリルに差し出した。あの白い紙袋は鞄の中にあるが、できれば二人だけの時に渡したかった。
 メリルが贈り物を紙袋に入れ終えるのを待ってギリアムは口を開いた。
「皆、聞いてくれ」
 重々しい口調に部員達は一斉に声の主を見、そのまま凍りついたように動けなくなった。いつになく強張った顔、瞳の中の強い光。
「俺は…主将をおりようと思う」
 どよめきが上がった。部員達は顔を見合わせ、誰もが寝耳に水であることを確かめた。
「しゅ、主将! どうしてですか!?」
「バレンタインの時揉めただろう? あの時俺は皆を止められなかった。その後も問題を解決することができなかった。…自分の力不足を痛感したよ」
「でもあれは俺達が悪かったんであって、主将に責任はありません!」
「…もっと前から考えていたことなんだ」
 十二月にマネージャーが退部届を出した時、自分は何もできなかった。
 冬合宿では、写真部の連中の動きに気づかなかった。あの四人を封じ込める方法を思いつかなかった。
 先月のいざこざの時、自分がマネージャーの考えを汲むことができていればあんな騒ぎにはならなかっただろう。
 トラブルを収拾したのは。解決の糸口を提示したのは。
「…主将と副主将の交替は夏の地区予選の後に行なわれてきた。いつも話し合いで選んできたが、今回は指名させて欲しい。主将は…ウルフウッド、君に頼みたい」
「!!」
 一同の動揺をよそに、いつの間にかギリアムに並んだ副主将が続けて言った。
「同じ理由で俺も副主将をおりる。後任は…ヴァッシュ、お前だ」
「ええっ!?」
 ピッチャーの裏返った声に二人は揃って苦笑いを浮かべた。事前に話さずいきなり発表したのだ、驚くのも無理はない。
「交代の時期も人選方法も前例のないことなのは判ってる。でも…考えてみて欲しい。去年俺達は感じた筈だ。甲子園出場が手の届かない夢じゃないと」
 全員が黙ったまま静かにギリアムの声に聞き入った。
「夢を実現させるには全員が一丸となることが必要不可欠だ。その為には、皆をしっかりまとめて引っ張っていける実力の持ち主がリーダーにならなければならない。…俺では力不足だ。人間的にも、プレーヤーとしても」
「そんなこと」
 否定の言葉は静かな声に遮られた。
「ウルフウッドは心の機微に聡い。アイディアも豊富で、必要とあれば大胆な判断を下せる。行動力もある。運動神経は皆が知っているとおりだ。主将にもっとも相応しい奴だと確信している」
「これは俺と主将、それに先生も交えて何度も話し合って出した結論だ。主将にウルフウッド、副主将にヴァッシュ、俺達はこれがベストだと思ってる」
 爆弾発言をした二人の目がバッテリーに向けられた。
「…即答…できません」
「ちと考えさして下さい」
「…そうだな。でもなるべく早く結論を出してくれ」




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季節は移り、人は

ⅩⅡ
 卒業式が終わった。終業式も終わった。
 が、春休みに入ってもヴァッシュは結論を出せずにいた。
 メリルもこの話は知らなかったという。ウルフウッドにどうするつもりなのか尋ねたが答えはなかった。
 野球が好きで、野球がやりたくて、野球部に入部した。ただそれだけだ。それなのに副主将だなんて。
 主将と副主将が真剣に考えて提案したことだ、こちらも真剣に考えなければ。とは思うものの、『荷が重い』というのが率直な感想だ。誰かの上に立つ自分…想像もつかない。
「はぁ…」
「何ため息なんてついてるの。もっと嬉しそうな顔をしなさい」
 母から小声で注意され、ヴァッシュは自分の頬を軽く二回叩いて気持ちを切り替えた。一日がかりの買い物から三週間後の今日はレムとアレックスの結婚式だ。
 そっと周囲を見回す。貸切にした一軒家のレストランの中、静かに座っている正装した人達。
 こういう堅苦しい雰囲気は苦手だ。心の中でこっそりため息をつく。と、入り口の扉が開け放たれ、新郎新婦がしずしずと入場してきた。
 二人を見た瞬間、ヴァッシュは先刻までの重い気分も、軽く横分けにし後ろに流すようにして整えた違和感を覚える髪のことも、窮屈なスーツを着ていることも、息苦しいようなネクタイの存在も全部忘れた。
「レム…綺麗だね…」
「ええ」
 それに凄く幸せそうだ。ヴァッシュの顔に自然と笑みが浮かんだ。
『まったく…ナイブズの奴、どうして来ないんだよ』
 人数が一人少ない分、ヴァッシュのいるテーブルは他のテーブルより余裕があった。寮に招待状を送ったが、返ってきたのは短いお祝いの言葉を添えた欠席の通知だったという。
『大丈夫だよレム、俺が二人分お祝いするから』
 声には出さずに呼びかけ、膝の上のレンズ付フィルムに手をやる。こうなったら綺麗なレムの写真をたくさん撮って薄情者に送りつけてやろう。
 人前結婚式、という言葉をヴァッシュは初めて耳にした。神様にではなく出席者に対して永遠の愛を誓う。仲人はいない、派手な演出もない。結婚式らしいことといえば新婦の純白のドレス、宣誓、指輪の交換、店特製のケーキに入刀したことくらい。
 披露宴を兼ねた式は滞りなく進み、最後にアレックスが挨拶してお開きとなった。次は二次会。会場はこのレストラン自慢の中庭である。
 中庭の隅で所在なげにジュースを飲んでいたヴァッシュは後ろから名前を呼ばれて振り返った。
「レム!?」
 落っことしそうになったグラスを慌ててしっかり持ち直す。中身が少なかったので零さずに済んだ。
「うふ、いいでしょ。純白のチャイナドレスよ」
 レムは困惑している従兄弟にいたずらっ子のような表情でウインクした。
 お色直しって式の最中にやるもんじゃ…ていうか、そもそもチャイナドレスってありなの? 混乱する頭で考えつつ、ヴァッシュは視線をあちこちさ迷わせた。服の上からでも判る身体のライン、深いスリットから覗く足。目のやり場に困る。よく見ると、レムの他にもチャイナドレスに着替えた人が何人かいた。
「…ずいぶん思いきったことしたね」
「あら、前例がないとやっちゃいけないの?」
 返答に窮したヴァッシュに、レムは優しい微笑みを向けた。
「私達が出会ったきっかけは少林寺拳法ですもの。この服が相応しいと思ったの。ベストじゃないけど」
「ベストじゃない?」
「一番相応しいのは道着でしょ? でもそれじゃあんまりだから」
 二人の出会いは大学でだった。レムが入部した少林寺拳法部の一年先輩にアレックスがいたのだ。
「まあ確かに、年配の人とかは反発するかも知れないわね。その時はごめんなさいって謝るわ」
 あっけらかんとした口調にヴァッシュは思わず苦笑した。
「これに限らず失敗した時はね」
「?」
「初めてだもの。夫婦っていう人間関係も、自分が中心になって家庭を築くのも。失敗して当たり前だと思うの。
でも、失敗したらやり直せばいい」
「…」
「大切なのは失敗しても諦めないこと。自分がどうしたいのかを見失わないこと。そして、何ができるかを常に自分の胸に訊くこと」
 ヴァッシュはレムの言葉を心の中で反芻した。失敗しても諦めないこと…
「生まれた時に手わたされた白紙の切符に征き先を書き込んだのに、どうすればそこに行けるのか判らないんだったら、誰かに質問すればいいのよ。家族や友達、周りにいる人みんながきっと手がかりをくれる。前に進むのに協力してくれる」
 迷子になったらおまわりさん、ってね。とんでもない例えにヴァッシュは吹き出した。
「私はアレックスと幸せになりたい。この気持ちを見失わなければ、どんな障害だって乗り越えていける。そう思うの」
「はいはい、ご馳走様でした! いい話だと思って拝聴してたら結局のろけなんだから…」
「ヴァッシュのほうはどうなの? バレンタインがあったでしょ? クラスメイトでクラブメイトなんだから、チョコの一つも貰えたんじゃない?」
「貰いましたけどねー、新婚ほやほやのお二人に比べたら不幸のどん底ですよーだ」
 胸がずきんと痛んだ。二人きりになれる機会に恵まれず、イヤリングはまだ自分の手元にある。
「やっぱりあの子のこと、そーいう目で見てたんだ」
「…!!」
「で? ホワイトデーには何をお返ししたの?」
「アアアレックスがこっちを気にしてる! 旦那さんほったらかしにしちゃ駄目じゃないか。ほら、奥さんは行った行った!」
 話せば話すほど自分の墓穴を掘りそうだ。ヴァッシュはアレックスのほうへとレムの背中を押した。
「…ありがと、レム…」
 笑いながら歩き出した後ろ姿を見送りながら呟いた言葉は、誰の耳にも届くことなく風にまぎれて消えた。

ⅩⅢ
 人間台風が従兄弟の結婚式の為に部活を休んでから三日後のこと。
 生徒会の仕事が思いの他早く終わったメリルは、春休みに入って以降初めて野球部の部室を訪れた。入学式とオリエンテーリングの準備で、全く部活に出られない状態が続いていた。
前副会長が言っていたことを思い出す。こういうことだったのか、と実感したし、両立が大変なのもよく判ったが、野球部をやめる気にはならなかった。
 鍵を開けて中に入る。思っていたよりも綺麗な部室にほっと安堵のため息をつく。それでも部屋の隅など細かいところが気になって、箒とちりとりを取り出して掃除を始めた。
「あ、マネージャー」
 ギリアムの声に手を休めて振り向く。部員達が続々と部室に入ってくるのが見えた。髪やユニフォームが濡れている。
「とうとう降ってきたよ。今日はこれで終わりだな」
「お疲れ様でした。それじゃ私は外しますね」
 掃除用具を片づけ鞄を手にドアへと向かう。ヴァッシュの横を通り過ぎようとした時、かすかな声が聞こえた。
「ミリィ」
 目だけ動かして声の主を見やり、唇にかすかに笑みを浮かべる。
 メリルの表情の変化を確かめてから、ヴァッシュはちらりとウルフウッドを見た。
 名前と微笑と視線。意思疎通にはそれだけで充分だった。
 クラブハウスの角まで移動すると、メリルは携帯電話を取り出した。
「もしもし…ミリィですの? …ええ、私ですわ。突然でごめんなさい。あなたの都合がよければ、これからあなたの合格祝いをやりたいのですけど…」
 ミリィの合格祝いをやろうとヴァッシュやウルフウッドと話はしていた。本人にもその旨伝えてあるのだが、自分の時間の都合が判らず前もって約束できずにいたのだ。
 短い電話を終えると、メリルは扉の横で部員達が出てくるのを待った。
「マネージャー、お先」
「お疲れ様でした。傘はあります? 身体を冷やさないで下さいね」
 ついお小言のような台詞になってしまう。が、それはいつものことで皆慣れている。部員達は苦笑しつつ手を挙げて応え、帰っていった。
 最後まで部室に残ったのは三人。ヴァッシュ、ウルフウッド、そしてギリアムである。
「…決心はついたか?」
 バッテリーからの答えはない。ギリアムは小さく吐息した。
「…いい返事を期待してる。それじゃお先に」
「失礼します」
 扉の向こうでメリルと何か言葉を交わしているのが聞こえた。ヴァッシュは窓の戸締まりを確認し、首を巡らせて室内が片づいているのを確かめた。
 しばらく待ってから部室のドアを開ける。ギリアムの姿はなかった。
「お待たせ」
「いえ。…あら? ヴァッシュさん、傘は?」
「持ってこなかった」
 小さなため息がマネージャーの口から洩れた。
「仕方がありませんわね。ご一緒します?」
「いいの?」
「こんな雨の中雨具なしで歩いたら肩を冷やしてしまいますもの。…それとも、ウルフウッドさんの傘に入れて貰います?」
「冗談でしょ!?」
「冗談やない!!」
 メリルは勢いよく首を横に振る二人の姿にきょとんとし、嫌がる理由に思い至って吹き出した。他意はなく、単に彼の傘のほうが大きかったが故に提案しただけなのだが。
「…判りましたわ。それじゃ行きましょうか」
 ドアに鍵をかけたマネージャーから傘を受け取ると、ヴァッシュはそれを開いてメリルを招き入れた。
 雨の中を相合傘で歩く。未だ鞄の中にある小さな紙袋を渡すには絶好のシチュエーションだが。
『ウルフウッドがいなけりゃなぁ…』
 からかわれるネタを自ら提供したくない。ヴァッシュは呼吸に紛らわせてこっそり吐息した。

エピローグ
 三人が駅近くの喫茶店に着いた時、ミリィは既に店の前にいた。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いいえ全然! ほら、指長くなってませんよね」
 肩で傘を支え、両手を開いて三人の前に突き出す。傍から見ればまるでギャグのようだが本人はいたって真面目だ。
「長時間待った時に長くなるのは首ですわ」
 メリルは苦笑しながら律義に訂正した。知り合ってもう三年、その間に何回こんな会話をしただろうか。
 二人のやり取りに笑みを浮かべると、ヴァッシュは遅れた理由――オレンジを基調とした花束をミリィに差し出した。
「これ僕達から。遅くなったけど、合格おめでとう」
「ありがとうございます!!」
 本当に嬉しそうな笑顔。見ているこちらまで幸せな気分になる。
 店に入り注文を終えた後、早速ミリィは隣のメリルを見やった。
「先輩ほんとに忙しいんですね。生徒会のお仕事、大変なんですか?」
「ええ、今は特に。部活に参加できない日が何日も続いてましたの。四月以降どうなるか判りませんし、あなたがマネージャーになってくれれば心強いですわ。…でもいいんですの? トライガン学園にはソフトボール部もありますのよ?」
「はい! ソフトボールも楽しいですけど、あたしは先輩といっしょにいたいんです!」
 ミリィは小さな身体をしっかりと抱きしめた。メリルが照れくさそうな表情でそっと腕を回す。
 見守るバッテリーの胸中は複雑だったが、どちらも顔には出さなかった。
「あ…野球部に入ったら、ヴァッシュさんはヴァッシュ先輩、ウルフウッドさんはウルフウッド先輩って呼ばなきゃいけなくなるんですよね」
「…主将、副主将と呼ぶようになるかも知れませんわよ」
 男達は動きを止め、真顔でマネージャーを見つめた。菫色の瞳が向かいに座る部活仲間を等分に見返す。
「…主将に頼まれましたの。皆の気持ちは固まってる、二人の考えを訊いてくれないか、と」
 ギリアム達の提案に反対する者は皆無だった。メリルも賛成した。あとはバッテリー次第だ。
「それじゃヴァッシュ主将にウルフウッド副主将って呼ぶんですね! 今から練習して慣れとかないと。ヴァッシュ主将、ヴァッシュしゅしょう、ヴァッシュしゅそう…あれ?」
 ミリィはしばらくの間小声でくり返し練習した後、申し訳なさそうに人間台風のほうを見た。
「…ヴァッシュさん駄目ですごめんなさい。うまく言えません。ヴァッシュしゅそう…せせ先輩どうしましょう!?」
「ごめんなさいミリィ、言い方が悪かったですわね。違いますのよ」
「そうそう、僕がなるのは主将じゃなくて副主将。こっちなら言いやすいんじゃない?」
「…!」
 目を見開いて自分を凝視するマネージャーにヴァッシュはにっこり笑いかけた。
「決めたよ。僕は引き受ける」
 野球が好き。野球がやりたい。甲子園に行きたい。その為に、プレーヤーとして以外に自分にできることがあるのなら喜んでやる。
 自分がどうしたいのか、自分に何ができるか、くり返し問いかけて出した結論だった。
「はいっ判りました! ヴァッシュ副主将、ヴァッシュふくくしょう…あれれ?」
「副主将は一人しかいないからね。副主将だけでいいと思うよ。これまでもそうしてきたし」
「そ、そですか」
 苦笑混じりのヴァッシュのアドバイスにミリィは安堵の表情を浮かべた。
 六つの目は自然とウルフウッドに向けられた。
「…トンガリに指図されるんは癪やしな。やったるわ」
 偽悪的な言い方。だが三人は理解していた。それが、彼が野球部の今後や先輩達の気持ちを熟慮した上で導き出した答えだということを。
「そういう理由で引き受けるかなフツー」
 本当の理由は敢えて追求せず、ヴァッシュは片眉だけ跳ね上げて隣の男をからかった。
 ウルフウッドが反論する前にミリィの明るい声が響いた。
「それじゃ今日はウルフウッドさんが主将になるのとヴァッシュさんが副主将になるののお祝いでもあるんですね!」
 その時、注文した飲み物やケーキがテーブルに並べられた。
「すみません! いちごショート追加、お願いしまあす!」
「食べたかったんですのね、苺ショート」
「えへへ…ガトーミルフィーユとどっちにしようかギリギリまで悩んだんですけど」
 ケーキ二個は食べ過ぎですかねぇ。ミリィは肩を落とすと悲しげに呟いた。
「ま、たまにはいいでしょう。おめでたい日ですもの。苺ショートは御祝儀代わりにご馳走しますわ」
「ほんとですか!? ありがとうございます! 先輩だあい好き!!」
 力一杯抱きしめられ、途端に息が苦しくなる。慌てて後輩をなだめながらメリルは思った。
 今日は珍しく一息つけた。でも明日から、マネージャーとして、副会長として、また目のまわる様な忙しい日々がやってくるのだろう。
 でもそれはきっと、賑やかで活気に満ちた楽しい日々――
 未来に思いを馳せるメリルとスキンシップにいそしむミリィはしばらく気づかなかった。バッテリーが揃って口をへの字に曲げて自分達を見つめていることに。
「…あっ、ご、ごめんなさいお待たせしてしまって。お茶が冷めてしまいますわね。いただきましょうか」
「あ、うんそうだね。それじゃ…いっただっきまーす」
 不機嫌の原因を理解して貰えず更にへこんだことはおくびにも出さず、男達は妙に苦いコーヒーを同時に一口啜った。

―FIN―   
季節は移り、人は

プロローグ
 バレンタインから三日目の朝を迎えたが、野球部員達もマネージャーもわだかまりを消す機会を見出せずにいた。
 その日、珍しく弁当を持参しなかったヴァッシュは、混雑した学食の一角に新会計の男子生徒を見つけトレイを手に歩み寄った。
「隣、いいかい?」
「あ、ああ」
 どうしても確認しておきたいことがある。これはチャンスだ。
 ヴァッシュはすぐ横の席に腰掛けると、いつもより速いペースでカレーライスをかき込んだ。
 相手が食べ終えるのを待って声をかける。
「キミ、新しい生徒会の会計だよね。忙しい?」
「いや、今はそれほどでもないよ」
 ヴァッシュは僅かに眉をひそめた。それじゃどうしてメリルは放課後部活に来ないんだ…。
「イキナリの質問だけど、何で?」
 逆に訊かれてヴァッシュは我に返った。
「あ、突然ごめんね。僕野球部なんだけど、マネージャー…副会長がこのところ放課後の部活を休んでるもんだから」
「ああ…」
 相槌とも独り言ともつかない言葉。彼の顔を不快の色が一瞬よぎる。
『!?』
 だが、ヴァッシュが更に尋ねるよりも早く会計担当は席を立った。
「お先に」
 離れていく背中はすぐに学ランとセーラー服に紛れて見えなくなった。
 ヴァッシュは残っていた水を一気に飲み干し、食器を窓口に返却して食堂を後にした。
 釈然としないどころか、胸のつかえが倍増した気分だ。廊下を歩きながらついため息が洩れる。
 不意に誰かが無言のまま横に並んだ。目だけ動かして確認する。先刻話しかけた会計だった。
「生徒会長がごねてるんだ」
「え?」
 小さな声が生徒会の現状を、メリルの苦境を告げた。無茶な予算申請をした部がたくさんあったこと。予算を成立させる為にメリルが生徒会の備品の貸出を提案したこと。そのしくみ作りから書類の作成まで彼女一人でやっていること。キールがいちいちクレームをつけてやり直しをさせていること。
「…俺に限らず手伝いを申し出たんだけど、当のメリルさんに断られた。あなた方まで睨まれることはありませんわ、私なら大丈夫ですから、ってね。…あの噂、本当らしいな」
「噂?」
 視線は合わせず、顔を相手に向けることもしない。偶然傍を歩いているふりをしながら先を促す。
「何度メリルさんにアタックしても色よい返事が貰えなくて、業を煮やしたキールが生徒会役員にかこつけてメリルさんに近づこうとしたって話」
「…」
「引継ぎの時、キールはメリルさんのほうばっかり見てた。彼女がパソコンで作業してる時たまに後ろに立ってるけど、あれは絶対ディスプレイじゃなくて」
 声は途中で途切れた。金髪を逆立てた男が拳を固く握り締めているのに気づいたからだ。
「…ありがとう、教えてくれて」
 はらわたが煮えくりかえる思いを必死に押さえ、ヴァッシュはできるだけ穏やかな声で礼を言った。
「…できるのなら…できる範囲でいい、マネージャーを助けてやってくれないか。…頼む」
「勿論。俺達六人は副会長の味方だ。心配いらない」
 その言葉を最後に、会計担当はさりげなくヴァッシュの横を離れ自分のクラスに入った。


「どうする?」
「どうするったって…話をする時間もないんじゃ…」
 西日が差し込む野球部の部室では堂々巡りの会話がくり返されていた。もっともこれは今日に限ったことではない。既に三日連続で行なわれている。テーマは、マネージャーと仲直りをする方法。
 この会話の特徴は二つある。一つは主語がなくても意味が通じること。もう一つは決して結論が出ないということ。
 部活休止期間まであと二日。バッテリーを除いて、メリルとはほとんど会えなくなってしまう。
「ヴァッシュ、もう一度マネージャーに話してみてくれないか」
 そう言われるのも何度目だろう。心の中で吐息しながらヴァッシュは答えた。
「それは構いませんけど…何を言えばいいんですか?」
「…」
 かける言葉が見つからないのはヴァッシュも同じだった。尻切れとんぼになってしまったが言いたいことは言った。
 でもメリルの反応はなかった。あの時も、その後も。
 クラスでメリルと話すことが何度かあったが、彼女は決して野球部のことを話題にしなかった。一度だけこちらから持ち出したら、困ったような微笑みを浮かべてすぐに話をそらしてしまった。
「…ちと整理しましょうや」
 全く進展しない状況に辟易したのかウルフウッドが口を挟んだ。この会話に彼が加わるのはこれが初めてだった。
「先輩達はどうしたい、思ってはります? どうすればええか、やのうて」
「…謝りたい。許して欲しい。…できれば部に留まって欲しい」
「それ、まんま伝えたらええんとちゃいます?」
「どうやって!? マネージャーに俺達と話す時間はないんだぞ!? …わざと忙しそうに振る舞って、避けてるのかも知れないけど…」
「マネージャーがそんなことする訳ないでしょう!?」
 突然声を荒げたピッチャーに一同は驚いた表情を浮かべた。発言した二年生はすまん、と短く謝罪した。
「…直接言うだけが方法やない。手紙、電話、録音して渡すっちう手もある。第一、面と向かって言えます?」
「それは…」
 おそらくできないだろう。気まずくて、遠くからでさえメリルの顔をまともに見られないのだから。
「…言葉だけで…ちゃんと伝わるかな…」
「足りひんのやったら、何かつけたらどないです?」
「何かって…」
 野球部員の八割が一斉に低く唸った。
「…ホワイトデーのお返しと一緒にメッセージを渡すってのは」
「駄目です」
 ヴァッシュの容赦ない声が先輩の発言を遮った。
「それじゃどっちがメインか判らないですよ」
「礼儀正しいマネージャーのことやから、ホワイトデーにプレゼントしても『義理堅くお返ししてくれた』ぐらいにしか思わんやろな」
「それに、謝るなら早い方がいい。一ヶ月近くも後じゃ…」
 昼に聞いた話を思い起こす。副会長の仕事は彼女にしかできない。たとえそれが理不尽なものであっても。それにひきかえ部活は自由参加だ。もし両立できないとなったら、今回のことを口実にメリルは野球部を――
 彼女に負担をかけるのは判っている。マネージャーを続けて欲しいと思うのは我侭なのかも知れない。…でも。
「こういうのはどうでしょう」
 ヴァッシュの提案に一同は真剣な面持ちで耳を傾けた。


 二月後半のある日、トライガン学園は入試の為休校となった。この日は在校生の登校は例外なく禁止された。既に学年末試験まで一週間を切っている。日頃の勉強不足を補うにはもってこいの貴重な一日だったが、メリルを除く野球部員は自宅で素直に机に向かうようなことはしなかった。
 入試の翌日、打ち合わせを終えた黒髪の副会長は、生徒会室を出たところで金髪を逆立てたクラスメイトに呼び止められた。
「ヴァッシュさん…」
「お疲れ様。今日はもう終わり?」
「ええ」
「じゃあ…見せたいものがあるんだ。ちょっと時間貰えないかな」
 すぐには答えず相手を見つめる。夕陽で茜色に染まった空間の中、いつもと変わらない笑みを浮かべる彼が意図していることは掴めない。
「…何ですの?」
「ナイショ」
 メリルは小さく吐息した。今日はドイツ語のレッスンの日だ。帰りが遅くなるのは困る。
「今日は時間の余裕があまりありませんの。ですから…少しでよろしければ」
 ヴァッシュの顔が悲しそうに歪むのを目の当たりにしたら断れなくなってしまった。自分の甘さに心の中でこっそりため息をつく。
 消極的ながらも了承の返事に、男は嬉しそうににっこり笑った。
「大丈夫! すぐ済むし、家までちゃんと送るから!」
 小さな手をしっかり握ると、ヴァッシュはまっすぐ昇降口を目指した。急いで運動靴に履き替え、メリルが外履きに履き替えるのを待って彼女の背後に回り込む。
「ちょっと目つむってくれる?」
 訝しく思いながらもメリルは素直に目を閉じた。その途端、瞼に肌触りのよい布が押し当てられた。
「ヴァッシュさん!?」
「とっちゃ駄目だよ。目的地に着いたら外すから」
 タオルで目隠しをしたメリルをひょいと抱き上げる。
「!?」
「見えないまんまで歩くのは危険でしょ?」
「大丈夫です! 歩けます! …って、目隠しをとれば済む話ですわ!」
「駄ぁ目。ちょっとの間だから辛抱して」
 抗議の声を軽くいなして、ヴァッシュはそのまま歩き出した。十歩も行かないうちに方向転換する。
 数え切れないほど曲がった為にメリルの方向感覚はあっけなく狂わされた。何処をどう進んでいるのか見当もつかない。
 五分ほど経った後、ヴァッシュはそっとメリルを降ろした。
「…はい、もういいよ」
 言いながら目隠しをとる。ゆっくりと目を開けたメリルの身体が強張った。
 見慣れた扉。最近は朝しか見ることのできなかった。
「どうして…」
 今は部活休止期間なのに。
「皆待ってる」
 おそらく無意識にだろう、一歩退いたメリルの背中に腕を回すと、ヴァッシュは部室のドアのノブに手を伸ばした。


 扉が開いた瞬間メリルはきつく目を閉じた。光と、僅かな恐怖心から。
 ヴァッシュにそっと背中を押され、自ら視覚を封じたまま室内に足を踏み入れる。
「ごめんなさいっ!!」
 大音量の謝罪に恐る恐る目を開ける。見えたのは深々とお辞儀をした頭の群れだった。
「あ、あの…」
 戸惑いながら真後ろにいるクラスメイトに目を向ける。ドアのすぐ横にもう一人のクラスメイトが立っていた。
「皆謝りたかったんだ、バレンタインデーのこと」
 ヴァッシュは穏やかに微笑みながら、どうすればちゃんと気持ちを伝えられるのか判らなくて途方に暮れていたことを説明した。
「…ようやくどうするか決まって、準備が整ったんで、今日キミにここまで来て貰ったんだ」
「…あの時は悪かった。…マネージャーの話を聞く前に、一方的に怒鳴ったりして…。その…許して貰えるだろうか」
 メリルを厳しく問い詰めた二年の部員が顔を上げ、口篭もりながらも言葉を紡いだ。
「そんな…。悪いのは…謝らなければならないのは私の方ですのに…」
「ほならこれで水に流すっちうことでええか?」
「勿論ですわ!」
 異存などある筈がない。仲直りの印にメリルは部員全員と順に握手していった。
「ワイが昼に弁当食っとったら、こないな騒ぎにはならんかったかも知れんのに…すまんかったな」
「ウルフウッドさん達に別に渡したことが判れば、必然的に『何を貰ったんだ』という話になりますわ。どちらにしても同じだったと思います。ですから気にしないで下さい」
「そうそう。それにもう水に流したことなんだから蒸し返すのはナシ!」
 人間台風が二人の会話に乱入した。さりげなく繋いだままの手を外し、ウルフウッドに代わってマネージャーの手を握る。
「見せたいものってこういうことでしたのね」
「うん!」
「でしたら最初にそうおっしゃって下さればよかったのに…。何もあんな方法で連れてこなくても」
「あんな方法って?」
 メリルの説明に、主将らごく一部を除く部員達の口元が微妙に歪んだ。
「目隠しした上抱き上げて…」
「おまけに遠回りしましたわね。わざと何度も曲がりましたでしょ」
 更なる指摘に部員達の顔は強張り、ヴァッシュの顔からは血の気が引いた。
「…なあんか役得じゃねぇ?」
「それってちょっとセクハラ…」
「な、何言ってんですか! おんなじクラスでウルフウッドより付き合いが長いってだけで、マネージャー連れてくるって大役押しつけたクセに!」
「問答無用!」
「ちょ、ちょっと、先ぱ…ノオ――――ッ!!!!」
 関節技をかけられ、ヴァッシュは情けない悲鳴を上げた。
「白状しろ! 何でそんなことをした!?」
「…その方が何が起こるかって…ドキドキワクワクできるじゃないすか」
「…皆さん、判決は?」
「有罪!!」
 これまで以上に締め上げられ顔色が土気色になりつつあるピッチャーを、ウルフウッドは少し離れたところから眺めていた。
『まったく…正直に言うたらええのに…』
 目隠しで視覚を、抱き上げることで足を封じる。何も見えない状態にしてわざと遠回りし、目的地を悟られないようにする。全てマネージャーを確実に連れてくる為にしたことだ、と。
「う…うるふうっど…みてないでたすけて…」
 妙にぎこちない声での救援要請。普通に話せないほど苦しいのだろうが。
「先輩、ワイの分もキッチリお灸を据えたって下さい」
 まるっきり下心がなかった訳やあらへんやろ。
「そ…そんな…」
 息も絶え絶えのヴァッシュであった。
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季節は移り、人は


 賑やかな一角をよそに、主将はマネージャーに歩み寄ると真っ白い大きな紙袋を差し出した。
「俺達からのお詫びの品だ。受け取ってくれ」
「え、でも…」
「いいから。それに、多分これはマネージャーにしか使えない」
 メリルは許可を貰ってから中身を取り出した。崩してしまうのが惜しいくらい綺麗なラッピングを丁寧に開ける。
 出てきたのは同じ柄のエプロンが三枚。厚手の白い生地に、紫でブルーベリー、緑で葉と蔦が繊細に描かれている。
「洗濯する時服が濡れないように」
「あ…ありがとうございます」
 軽く頭を下げて礼を言った後、メリルは僅かに首をかしげた。どうしてこれが自分にしか使えないのか。
「サイズ、大丈夫か?」
 質問するより先に答えが示され、メリルは慌ててエプロンを身につけてみた。
「ええ、ピッタリですわ。でも探すのは大変でしたでしょう?」
 市販のものは大きすぎて、いつも肩紐のボタンを付け直しているのだ。
「皆で手分けして探したんだ。ヴァッシュに言われて、少し小さめのものをね」
 エプロン姿のマネージャーに気づいた部員が周りを囲んだ。ようやく解放されたヴァッシュがぐったりと床に倒れ伏す。
「あ、よかった。似合うよ」
「うん、いいね」
「ありがとうございます。大切にしますね」
 盛り上がる一団の傍らで、ウルフウッドはヴァッシュの肩を指でつついた。
「おーい、生きとるかー?」
「…キミが…そーゆーこと…言う?」
 横にしゃがみ込む男をブルーグリーンの瞳が睨みつける。が、鋭い視線とは反対に声には力がなかった。
「あっちはハッピーエンドのようやで」
 指差された方向に目をやって、ヴァッシュは床に頬をつけたまま微笑んだ。ほとんど足しか見えないが、和やかな雰囲気はここまで伝わってくる。
「ヴァッシュの見立てが正解だったってことか」
「え?」
「それ見つけてきたのヴァッシュなんだよ」
「で、昨日皆で店に行って品物を確認して買ったんだけど」
「本当は他にも花とか貝とか、果物でも苺とかレモンとかリンゴとか、いろんな柄があったんだ」
「どうせなら柄違いのほうがいいんじゃないかって意見も出たんだけど」
「あいつが『絶対コレ!』って譲らなくて」
 そこまで言って、一同は未だ床に密着しているピッチャーへと視線を向けた。
「…何で?」
 尋ねる男達の声は見事に重なった。それに促されるようにヴァッシュは身を起こし、床にあぐらをかいた。
「…ブルーベリーって、マネージャーの大好物じゃなかった?」
「いいえ。嫌いではありませんけど、大好物という訳では」
 正直に答えかけて、メリルははっと息を呑んだ。周囲の雰囲気が一変したのと、本当の理由に思い至って。
「ヴァッシュ君はだーれーと間違えたのかなー?」
「彼女か? それとも片思いか?」
「素直に吐いちまえよ」
 じりじりと間合いを詰めてくる仲間達の笑顔が恐い。人間台風の背中を冷や汗が一筋伝った。
「あ、あの、私用事があってもう帰らなければなりませんの。ヴァッシュさん、送って下さるんでしたわね?」
 メリルはエプロンを脱ぎながら、助け船を出すつもりでヴァッシュに声をかけた。
「え!?」
「ちょっとマネージャー、危ないんじゃないの!?」
「目隠し抱き上げ遠回りの男だぞ!?」
「送り狼に変身するかも知れないよ!?」
「あのねえ! 僕はスタンピード! 狼はウルフウッドでしょ!?」
 酷い言われようにさすがにカチンときたのかヴァッシュが声を荒げた。が、素晴らしく的外れの反論は名指しされた男の神経をこの上ないほど逆なでした。
 怪我をしないギリギリに手加減された回し蹴りを頭に食らい、ヴァッシュは誠に不本意ながら再び床に寝そべった。
「口は災いの元なんやで。よおく覚えとき」
 突然の痛みに頭を抱え顔を顰めて耐える男に、ウルフウッドは冷たい声で古人の有り難い言葉を教えてやった。


「あたた…まさか蹴りがくるとは思わなかった」
 学校を出て間もなく、赤信号で自転車を停めたヴァッシュは左手でこめかみの辺りをさすった。当たる直前に身体を横にずらしてクリーンヒットは免れたが、痛いことには変わりがない。
「あの…ごめんなさい。大丈夫ですの? 辛いんでしたら、私電車で帰りますから」
「平気平気! ウルフウッドもちゃんと手加減してくれてたし、大したことないよ。それにキミのせいじゃないから、気にしないで」
 背後から聞こえた遠慮がちな声に慌てて振り返り、満面の笑顔で元気よく答える。必要以上に大きい自分の動作と声に頭痛が酷くなったが、意地とやせ我慢で顔には出さなかった。
『ウルフウッドが見てたら思いっきり馬鹿にされただろうな』
 この場にあいつがいないのは不幸中の幸いだ。それに不幸なだけじゃない。メリルがこうして自分のことを心配してくれるのは、申し訳ないと思う反面ちょっぴり嬉しかったりする。
 信号が変わり、ヴァッシュは勢いよくペダルを踏んだ。
「あのエプロンを選んで下さったのはヴァッシュさんだそうですわね」
「あ、うん。…もしかして、気に入らなかった?」
「いいえ! 逆ですわ! サイズが合うものってなかなか見つからなくて、困ることが多いんですの」
「ああやっぱり」
「?」
「合宿の時気になってたんだ。エプロンにゆとりがあり過ぎるっていうか、だぼだぼした印象だったっていうか…」
 だから、『マネージャーへのプレゼント』と言われた時真っ先にエプロンを思いついたのだ。
 提案が皆にすんなり受け入れられたのはよかったが、どこで買うかが問題になった。誰にも心当たりはなく、結局手分けして探すことになった。
 これまで自分でエプロンを買ったことなど一度もない。当然いい店など知らない。やむを得ず、母とレムにいくつか候補を挙げて貰うことにした。覚悟はしていたが予想以上にからかわれ閉口した。
 突然メリルがくすくす笑い出した。思考を読まれる筈はないが、それでもヴァッシュはぎくりとする。
「何? どうしたの?」
「いえ…皆でエプロンを買いに行った、という話を思い出してしまって…。男性がこういうものを品定めするのって凄く大変だったんじゃないかと…」
 ヴァッシュは自転車に乗っていたことに感謝した。お陰で赤面した顔をメリルに見られずに済むからだ。
 あのエプロンを見つけたのは、レムに『行くなら覚悟しておいたほうがいいわよ』と言われた店だった。謎の発言の意味は行ってみて判った。ブライダル関連の商品の専門店だったのだ。
 幸せそうなカップルが寄り添って歩く店内を男一人でうろつくのは正直勇気が要った。でも、理想のエプロンを発見できたことで恥ずかしさも報われたような気がした。
 昨日皆に品物を確認して貰った。男ばっかり十人で押しかけたのだ、店の人も困惑したに違いない。
 質はいい。ペアルックにする為かサイズも豊富で、メリルに合いそうな大きさのものがすぐに見つかった。それを贈ることは満場一致で即決した。
 しかしどの柄にするかで意見が分かれた。少々揉めたが、ヴァッシュは決して折れなかった。
 メリルの為のエプロンだから。でも。
「…違う柄のほうがよかった?」
「そんなことありませんわ。とても綺麗な模様ですし…私の瞳の色に合わせて下さったんでしょう? ありがとうございます」
 さすがはメリルだ。ちゃんと判ってくれてる。ヴァッシュの口元に笑みが浮かんだ。
「洗剤もつけようか、なんて言ってたんだけどね」
「お洗濯、頑張りますわ」
「うん。…でも、エプロン贈っといてこういうこと言うのも何だけど、頑張り過ぎないでね。キミにしかできないことってあるでしょ? それをやって欲しいんだ。練習メニューを作るとかね」
「ええ…え!?」
 メリルは何気なく相槌を打った後絶句した。
「やっぱりキミが作ってたんだ」
「ど…どうして…」
「合宿の時必ずパソコンを持参してたでしょ。もっと小さな…モバイルって言ったっけ? 持ち運びに便利な奴がある筈なのに、何でかなってずっと疑問に思ってたんだ。合宿中もあれを使ってメニューを組んでたんだね」
「…」
「十二月に一緒に食事をして、キミのお父さんが凄く真面目で誠実な人なのがよく判った。そんな人が相手に一度も会わずに練習メニューを組むなんてことは絶対しないだろう…そう考えて、適任者が他にいることに気がついた」
「…ごめんなさい。騙すつもりじゃなかったんですけど…。でも、チェックはして貰ってますの。たまに修正」
「ストップ! 俺が聞いたのは『マネージャーのお父さんに内密に協力して貰ってる』ってことだけだ。チェックだって立派な協力だから、騙したことにはならないよ」
「…そうおっしゃっていただけると、心が軽くなります」
 それからしばらく沈黙が続いた。
「…両立はすごく大変だろうけど…でも…」
 マネージャーを続けて欲しい――その一言がどうしても言えない。自分の我侭かも知れないと判っているから。
「大丈夫、続けますわ。皆さん助けて下さいますし。…必ずやり遂げてみせます!」
 それは、ヴァッシュを証人にした自分との約束。
「うん…」
 ありがとう。口の中だけで呟かれた感謝の言葉はメリルには聞こえなかった。


 月をまたいで行なわれた学年末試験が終わり、校内にはほっとした雰囲気が漂っていた。残された大きな行事は三年生の送別会と卒業式のみ。
 送別会には三年生は全員、一・二年生は各クラスとクラブの代表が出席する。やることといえば、校長を始めとする諸先生の話を聞くことと生徒代表達によるスピーチ。その後立食形式で軽く食事をする。最後の食事を除けば酷く堅苦しいもので、生徒達からは不評だった。
 その準備に、生徒会と運営委員会は慌ただしい毎日を過ごしていた。
 今回、立食パーティーの時に生演奏でBGMを流すことになった。生徒会長が提案したのだが、実はメリルが入れ知恵したのである。
 音楽関係の部は大会や文化祭を除いて発表の場がほとんどない。実績を作ろうにも難しいのが現状だ。その為に予算の配分で差が生じるのは不公平だと考えてのことだった。
 吹奏楽部と合唱部、琴同好会が名乗りをあげ、交替で演奏することになった。
 退屈な送別会はつつがなく進行していったのだが。
 卒業生の一人が緊張の余りスピーチの内容を忘れて沈黙した。その時、すかさず吹奏楽部のトランペット奏者が短いフレーズを演奏した。野球でバッターが三振した時によく耳にする、『残念でした』とでもいうようなあの曲である。
 突然の出来事に体育館の中はどっと沸いた。
「えー、今のは僕の後任の吹奏楽部部長による名演奏でした。ナイスなフォローありがとう。…後で覚えてろよ」
 元部長がぼそっと呟いた一言に生徒達は再び爆笑した。どことなく白けたムードは綺麗に吹き飛んだ。
 全てのスピーチが終わり立食パーティーが始まった。先刻のハプニングの影響もあって、参加者達は賑やかに言葉を交わし交流を深めた。
 その席で、キールは前例のないことを敢行したとして先生や生徒から口々に賞賛された。
「いやあ、どうなるかと冷や冷やしましたけど、上手くいってよかったですよ」
 誉め言葉の雨にキールは終始ご機嫌だった。
 メリルは乾杯の直後に、舞台の上にある照明器具などをメンテナンスする為の細い通路に移動した。幕を少しずらして下の様子を確かめる。
 現場は常に把握できるが出席者からは見えない。そこは二つの条件を満たす絶好の場所だった。有事の際にすぐに駆けつけられないのが難点だが、念の為携帯電話は持っているし、キール以外の生徒会役員には事前にその旨話してある。
『どうやら無事終わりそうですわね…』
 数年前に卒業生と在校生が取っ組み合いの喧嘩をしたことがあったらしいが、そんな剣呑な雰囲気はどこにもない。
「マネージャー、いる?」
 ほっと息をついた瞬間に呼びかけられ、メリルの心臓は跳ね上がった。声を出さないよう手で口を押さえつつ、急いで声のしたほうに目を向ける。薄暗い中、せわしなく動く逆立てた金髪が見て取れた。自分を探しているのだろう。
「ここですわ。…そう言えば、野球部代表でしたわね」
「うん。…つまんないって聞いてたし、先生の話ではちょっと居眠りしちゃったけど、大成功だね」
「吹奏楽部の二人の部長のお陰ですわ」
 言いながら目線を落とし、賑やかな様子を眺める。横に並んだヴァッシュもそれに倣った。
「どうしてこんな所に…参加しないの?」
「ええ」
 菫色の双眸が生徒会長を捉えた。生徒達に囲まれ笑顔で応えている。
 この方法なら…。メリルは今後の生徒会運営に一筋の光明を見たような気がした。
 各部が活躍できる場を提供することで生徒会に対する反発を打ち消していく。今年予算の申請を大幅に削らされた吹奏楽部との関係は、今日のことで多少改善されるだろう。
 その一方で自分はできるだけ裏方に徹し、成功の功績は全てキールのものとする。彼の自尊心を常に満足させることができれば、備品貸出のしくみ作りのような仕事のやり方をさせられることは減っていく筈。だが、もし失敗したら。
 気分を害したキールに八つ当たりされるのは必至だ。各部との関係も険悪な状態に戻ってしまう。
 失敗した時は責任は自分が取る。その覚悟はできているけれど。
「失敗は…許されませんわね」
 低い呟きにヴァッシュは視線を隣に移した。僅かに細められた目。ほんの少し強張った横顔。厳しい空気が彼女を包んでいるのを感じる。
 メリルが今後のことを考えているのは判る。でも今くらいは少し力を抜いて欲しい。
 背中を軽く叩く。驚いたような表情を浮かべてこちらを見たマネージャーににっこり笑いかけ、手のひらを上にして両手を差し出す。ホームランを打ったチームメイトを迎える時のように。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
 大きな手に小さな手のひらが勢いよく打ちつけられ、小気味よい音を立てた。


 三月最初の日曜日、トライガン学園の体育館にはさまざまな制服姿の中学生がいた。壁に貼られた一覧表に視線が集中する。長い受験勉強の結果が今日判るのだ。
 あちこちから歓声が上がる。抱き合って喜ぶ姿もそこかしこで見られた。落胆する者も中にはいた。
「賑やかですわね」
 久しぶりに日曜の練習に参加したメリルは、洗濯の手を休めて体育館のほうを見た。
 一年前、自分は合否の確認に来なかった。合格して当たり前だったし、入学するつもりもなかった。
 それなのに、ひょんな事からこうして三年間通うことになった。
 不思議な巡り合わせだと思う。
 視線を落とし、ブルーベリー模様のエプロンを見つめる。ここに来なければ、部活仲間からエプロンをプレゼントされるなんてことは一生なかっただろう…。
 メリルの口元が自然とほころんだ。
「あの中に野球部に入部しようという人がいるといいんですけど…」
 もう一度体育館に目をやって小さく呟くと、メリルは洗濯を再開した。
「せんぱ~い!」
 耳慣れた、しかし学校という場所ではこの一年聞くことのなかった声。驚いて辺りを見回す。高々と挙げた右手を盛んに振りながら走ってくる大柄な後輩の姿が目に飛び込んできた。
「ミリィ!?」
「先輩っ!」
 ミリィは満面の笑みを浮かべてメリルに抱きついた。
「ミリィ…あなた」
 どうして、と訊きかけてメリルは口をつぐんだ。今日ここに中学生がいる理由は一つしかない。
「えへへ…ジャーン!」
 自分でファンファーレを鳴らすと、ミリィは左脇に抱えていた定型外の封筒を誇らしげにメリルに見せた。
「…おめでとう!」
「ありがとうございます! これでまた先輩といっしょの学校に通えます!」
 二人は抱き合ってミリィの合格を喜んだ。
「…志望校を教えてくれなかったのは私を驚かせる為だったんですのね」
「はい! …でも、落ちたらミットがないなっていうのもちょっぴりあったんです」
 トライガン学園はいわゆる進学校ではないが、大学進学率は高く偏差値も高めだ。
「それを言うならみっともない、ですわよ」
 相変わらずのボケっぷりにメリルは苦笑した。訂正する声も笑いを含んでいる。
 ふと気がつくと野球部員が二人を取り巻いていた。マネージャー達の声を聞きつけて何事かと駆けつけたのだ。
「あ、皆さん紹介しますわ。こちらミリィ・トンプソン。私の中学時代の後輩ですの」
「はじめまして、ミリィ・トンプソンです! 先輩がいつもお世話してます!」
「ミ、ミリィ!? お世話してますじゃなくてお世話になってますでしょう!? あの、ごめんなさい! この子よく言い間違いをするんですの」
 深々と一礼するミリィの横で、メリルは慌てて部員達に謝罪した。周囲からどっと笑いが起こる。
「いや、お世話されてるのはこっちだから、彼女の言葉は正しいよ」
「い、いえ、そんなことありませんわ。全然、あの」
 ギリアムの言葉にマネージャーがしどろもどろになる。
 こんなにうろたえる彼女を見ることなど滅多にない。自分に向けられている珍しいものを見るような視線に気づいてメリルの頬が紅潮した。
 彼女にとって幸いなことに全員の関心はすぐに別のものに移った。ミリィの思いがけない発言によって。
「四月からは皆さんの後輩になります!」
「え?」
「ミリィ、それじゃ…」
「はい! あたしも野球部のマネージャーになります! 二日モノですがよろしくお願いします!」
「それを言うなら不束者ですわ…」
 訂正は本日三度目。呻くようなメリルの声に再び大きな笑い声が上がった。
「…あれ? 今日はヴァッシュさんいないんですねぇ」
「ヴァッシュのこと知ってるの?」
 ミリィが答えるより早くメリルが口を開いた。
「夏の予選の時に応援に来てくれたことがあって、その時に会ったんですの。ね、ミリィ」
 部の中ではあくまでも部員とマネージャー。四人で初詣に行った等、学校の外でヴァッシュやウルフウッドと何度も会っていることは知られたくない。
「あ、はいそうです」
 理由は判らないまでも何かを察し、ミリィはすぐにメリルに調子を合わせた。
「ヴァッシュさんは家の都合で今日はお休みですの。早く用事が終われば午後からでも来るとおっしゃってましたけど」






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季節は移り、人は


「え~っと、次は六階ね」
「まだ行くの!?」
 楽しそうな母の声に、ヴァッシュは周囲の目も憚らず素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前じゃない。靴とアクセサリーがまだだもの」
「これで何軒目だよ…」
 デパートをはしごすること五軒目、回った店の数を数えるのは途中でやめた。今はただ従者よろしく後についていってるだけだ。
 ヴァッシュが部活を休んだ理由、それは買い物だった。
「…俺の分はとっくに終わってるんだよ。先に帰ってもいいでしょ? 荷物は持って帰るから。部活だって行きたいし」
 彼の両手には大きな紙袋が合計五つ。
「駄目よ。ちゃんと服に合わせて選ぶんだから。レムの一生一度の晴れ舞台なんだもの、きちんとしなくちゃ」
「母さんが結婚するんじゃないんだから…」
 吐息混じりの呟きが聞こえたのか、それまでとは打って変わった沈んだ声でヴァッシュの母は言った。
「…息子と出かける機会なんてそうそうないのよ。もう少し付き合ってくれてもいいじゃない」
 ヴァッシュははっと息を呑んだ。母の寂しさを垣間見たような気がした。
「…判ったよ。でも買い物に付き合うのは今日だけだからね」
「うん、ありがとう! エスカレーターはあっちよ」
 この変わり身の早さ…さっきの暗いムードは何だったのか。ついため息が洩れてしまう。
「何してるの、早く早く!」
 母に急かされ、ヴァッシュは重い足を動かした。――
 金曜の夜、ヴァッシュは母に明後日の部活を休むよう言われた。
「何で?」
「もうすぐレムの結婚式でしょう? いい機会だから、ちゃんとしたスーツを一着買っとこうかと思って」
 母の言葉に、礼服の類は持っていないことを思い起こす。葬儀の場合は学生服に喪章でも問題ないが、結婚式のようなおめでたい席ではそれなりの恰好をしなければならない。
「うん、判った。でも早く終わったら部活に行くからね」
「はいはい。それじゃ紳士服売り場から回ることにしましょう」
 日曜日、約束どおりヴァッシュの母は息子の買い物から始めた。営業スマイルを浮かべた店員があれこれ持ってくるスーツの中から迷うことなく選び出し、ヴァッシュに手渡した。
「コレ。試着させて貰いなさい」
 言われるままにヴァッシュは袖を通し、ズボンをはいた。
 それは黒のシンプルな上下だった。ジャケットはウエストの辺りがややシェイプされたデザインでシングルボタン、ズボンも細身の為ほっそりした印象を受ける。
「寸足らずのズボンの裾は直して貰うとして…いいじゃない。似合うわよ。これなら筋肉ダルマも誤魔化せるわ」
「誰が筋肉ダルマだって?」
 買い物が早く終われば部活に出られる。口を尖らせてみせたものの、ヴァッシュはそれ以上文句を言わなかった。
 同じ店でワイシャツと白のネクタイも買った。靴もすぐに見つかった。
 これでお役御免と思ったが甘かった。母の分の買い物に付き合わされたのだ。
 多くのご婦人の例に洩れず、ヴァッシュの母も自分の買い物となると目の色が変わった。あちこち見て回るのも全く苦にならないらしい。
 遅い昼食を終えた時点で母が買ったのはスーツとブラウスと鞄だけ。
 歩き回るのも荷物持ちも大変だとは思わない。婦人物売り場という場違いなところにいるのが苦痛なのだ。暇つぶしに売り場を眺めても楽しくないことこの上ない。
「母さん…俺帰っちゃ駄目?」
 精神的に疲労困ぱいし、ヴァッシュは上目遣いに母親を見た。実際には彼のほうが背が高いので見下ろす形になったのだが。
「駄ぁ目」
 楽しそうな母を見ると何も言えなくなる。ヴァッシュは今日いくつ目になるのか判らないため息をついた。


不協和音

プロローグ

生徒会の引継ぎが行なわれたのは、あと一週間で二月に入るというよく晴れた寒い日だった。
メリルは放課後、顧問に部活を休む旨申し出てから生徒会室に向かった。現役員全員と新役員のおよそ半分が既に来ていた。
「やあ、メリルさん」
満面の笑みを浮かべ大袈裟に両手を広げて自分を迎えたキールに軽く頭を下げ、メリルはわざとその横を通り過ぎて現副会長に歩み寄った。表情はあくまで平静に、心の中で眼鏡をかけた顔をこれでもかと平手打ちしながら。
「後任のメリル・ストライフです。ご指導のほどよろしくお願いいたします」
「そんなに堅苦しくしなくてもいいよ」
恭しく一礼したメリルに、現在二年の副会長は苦笑しながら答えた。
生真面目だが嫌な感じはしない。入学式の時、新入生代表として挨拶した彼女に感じた少々きつい印象はいい意味で覆された。
程なく十六人の新旧役員が揃い、現生徒会長が役割分担と年間業務について説明した。続けて役職ごとに別れて細かい引継ぎを行なった。
副会長の仕事は基本的に会長を補佐することだが、副会長独自の仕事もかなりの量に及んだ。
思っていたよりもやることが多い。メリルは貰った年間業務の一覧表にメモをしながら熱心に話を聞いた。
「…君、部活はどうするつもり?」
話が一段落したところで副会長がメリルに問いかけた。
「勿論続けます」
あっさりとした答えに、何故か副会長は眉根を寄せた。
「…部活との両立は大変だよ。行事の前はどうしても生徒会の仕事に追われて、部に顔出しもできなかった。俺は美術部だったけど、結局幽霊部員になってしまってね。五月に退部届を出した。…無理して続けても、まわりからはいい顔をされないし」
部活仲間からは、普段はあまり、行事の時は全く来ない部員として疎まれる。他の部からは、副会長であることを利用して自分の部に有利なように事を運ぶのではないかと勘繰られる。
「ご忠告ありがとうございます。でも、どちらも大切にしたいんです。実際やってみて、何か不都合が出たらその時に考えたいと思います」
柔らかな微笑みと穏やかな声。その奥に秘められた決意を感じて副会長は小さく吐息した。
「…各部からの予算申請の〆切が今月末。その後の予算編成が君達の初仕事になる。野球部は夏の予選で実績を残したから希望すれば予算は増額できるだろうし、無茶なことは言われないとは思うけど…多少は覚悟しておいたほうがいい」
「はい、肝に銘じます」
実体験に基づいているのであろうアドバイスに、メリルは深く頭を下げて感謝の意を表わした。
それでも心は変わらない。やる前に諦めるのは嫌。
菫色の瞳に宿る力強い光。副会長は再びため息をつき、声をひそめてつけ足した。
「会長があれだからね…苦労は多いだろうけど、頑張って」
キールは話の最中もしきりにこちらを盗み見ている。彼と今回の選挙に関する黒い噂を副会長は知っていた。
「…ありがとうございます」
後任の苦笑いにつられて副会長もようやく笑顔に戻った。


「これは…」
各部からの予算申請用紙をまとめていた新会計の二人は頭を抱えて絶句した。約半数が前年を大きく上回る額を申請してきたのだ。全ての部を合計すると部活用の予算を大幅に超えてしまう。
メリルも書類を数枚手にとって目を通した。品名の欄に並ぶのは耐久消費財と思しきものから消耗品まで様々。思いつくまま書き連ねたらしい行数に軽い目眩を覚える。
とんでもない数字を出した部の中にはいい成績を残せなかったところもある。ごく一部だが、今年めぼしい活動をしていない部もあった。申請の根拠は――新生徒会長との裏約束。
『早速ツケが回ってきましたわね』
ちらりとキールを見る。青ざめた顔は強張っていた。
「生徒会長、どうします!?」
悲鳴にも似た会計担当の声に返事はない。ただ低く唸るのみである。
「…いったん書類を部に戻して、優先順位をつけて貰ってはどうでしょう。必要度の高いものから順に記入した訳ではないようですから」
七人の目がメリルに集中する。菫色の双眸はまっすぐキールを見つめていた。
「その上で編成会議で調整をとり、必要なら削れるところは削って貰う。…いかがですか?」
「そ、そうだな。そうしよう」
他に案などない。キールは一も二もなく肯いた。
「会議は十日ですから…〆切は六日にしましょう」
「はい!」
書類を手に生徒会室を出ようとした会計担当をメリルは呼びとめた。
「もう一つ。消耗品でないものについては、カタログなどそれがどんな品物なのか判る資料をつけて貰うようにして下さい。記入された価格が妥当かの確認も必要でしょうから。それと…」
言いながら歩み寄り、書類の束を受け取る。
「返却は分担して全員で行きましょう。二人だけでは大変ですもの。その方が短時間で終わりますし」
十中八九クレームが出るだろう。謝罪と説明をくり返しているうちに夜になってしまう。
「え、でも」
金銭にかかわることは会計の仕事なのに。
「これは私達が一致団結して乗り越えなければならない最初の試練ですわ。担当がどうのと言ってる場合ではないと思うんですの。…皆さんはどう思われます?」
前代未聞の予算申請。旧役員に訊いてもおそらくいい知恵は出ないだろう。自分達で何とかするしかないのだ。
「…そうですよね」
新役員は互いに顔を見合わせ肯きあった。
「会長、よろしいですか?」
「あ、ああ」
最終的なお墨付きを取りつけ、メリルは書類を八つに分ける作業を始めた。特に無理な申請をしてきた部の書類をさりげなく抜き、ひとまとめにしてキールに手渡す。
「では会長、これをお願いします」
「判った」
残りの六つをそれぞれに託す。八人は校舎の内外に散った。
その後、二日かけてようやく割り当てられた部を回り終えたキールはひどくやつれていた。
『自業自得ですわ』
ぐったりした表情で椅子にもたれかかる生徒会長を一瞥してから、メリルは文句を言われ落ち込む他の役員を励ました。


二月六日。生徒会室の机上には紙の山ができた。
メリルは申請書にざっと目を通し、同じ商品でも記入されている単価が異なるものが多数あることに気づいた。
「価格調査の必要があると思いますが、いかがでしょうか」
いくつか例を示しながらメリルは全員に尋ねた。反対する者はいなかった。
「調査は二種類行ないましょう。金額に差のあるものと、特殊な備品と」
言いながら、耐久消費財の申請があるものを抜き出していく。
「事務用品の類と運動部の備品については私が調べます」
「一人じゃ大変じゃありませんか?」
会計担当の女子生徒が控えめに異を唱える。自分を思いやっての発言にメリルは穏やかな笑みを返した。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
事務用品は病院でも使っている。購入担当者に頼んで業者と価格を教えて貰えばいい。運動部が使う道具なら、父の知人に取り扱っている人が大勢いる。
「…問題は特殊な備品ですわ。演劇部の可動式ライト、写真部の現像用機器、吹奏楽部の譜面台人数分、他にもいろいろありますけど…自宅にパソコンがある方はどのくらいいらっしゃいます?」
キールの他、三人が手を挙げた。
「インターネットはできます?」
四人とも肯首した。
「では、四人で手分けしてネット通販のサイトを調べていただけませんか? 中間マージンがない分安くなっている筈ですし、中古でいいものが見つかればそれにこした事はありませんから」
パソコンがない、という三人の顔を順に見つめてからメリルは再び口を開いた。
「お三方には近場のディスカウントショップを回っていただきたいのですけれど…。申請書にあった商品を取り扱っているかどうか、価格は…大まかで構いませんから、そういったことの確認をお願いしたいんです。足で調べなければならない分大変だと思いますけど…」
申し訳なさそうにメリルが顔を曇らせる。三人は笑顔で快諾し、早速回る店の選定を始めた。
「…会長、私の個人的な意見を皆さんにお聞きいただきましたが、いかがでしょうか」
一応キールの顔を立てておかなければならない。それに、後から『あれは君が勝手に決めたことだ、僕は認めた覚えはない』などと言い出されては困る。
「そうだな。それでいい」
メリルの問いかけにキールは鷹揚に肯いてみせた。発案は副会長でも決定を下したのは自分。プライドは保たれている。
インターネット組と足で調べる組がそれぞれ分担を決めるのを待って、メリルは小声でキールに言った。
「十日の会議の前に結果を取りまとめておく必要がありますわ。前もってもう一度集まって確認作業をしなければいけませんわね」
「ああ」
わざとらしく咳払いをすると、キールは必要以上に声を張り上げた。
「八日までに各々調査結果をまとめ、九日の放課後に持参すること。では本日は解散!」
突然の命令口調にメリルを除く六人は眉をひそめた。自分の意見はないくせに最後だけ偉そうに振る舞われるのは正直不愉快だ。
最初に生徒会室を出たキールは、自分の背中に向けられている白い目に気づかなかった。
メリルは吐息した。予算編成会議は荒れるだろう。せめて役員同士は団結したいところだが、会長自ら和を乱してくれる。
『先が思いやられますわ…』


事務用品は生徒会が一括で購入することで単価を引き下げ、個別に購入するよりも安い価格で各部に引き渡す。
高価な備品は中古や一つ前の型に変更して貰う。
了承を得られたものと仮定して金額を修正してみたが、申請された額の合計は予算を上回っていた。
「やはり削って貰うしかありませんわね…」
僅かに眉根を寄せてメリルは呟いた。約束が果たされないと判ったら、裏取り引きのあった部はどういう行動に出るだろうか。
脳裏に浮かぶのは嫌な予測ばかり。
何の気なしに首を巡らせ、役員の表情が暗いことに気づく。これではまるでお通夜だ。
メリルはばしばしと音を立てて自分の頬を三回叩き、自分に活を入れた。その音に驚いた面々が顔を上げる。
『弱気こいてる場合じゃなくてよ。メリル、ファーイト!!』
口元に笑みを刻んで、メリルは書記の二人の名前を呼んだ。
「すみませんけど、残っていただけます? 明日の資料を作成しないと」
「はい判りました」
「会長、書類の作成は私達三人でできますから、今日はこれでお開きにしてはいかがでしょうか」
「ああ、じゃ任せるよ」
予想どおりの返事。首を縦に振るキールから目をそらし、一同を見回して微笑む。
「皆さん、本当にお疲れ様でした。会議では価格についての質問が出ると思います。答弁は実際に調べて下さった方にしていただきますから、そのつもりでいて下さい」
会長に頼んだところで満足に答えられるか疑わしいし、一部の部は聞く耳を持たないだろう。何より、あの口調で説明されたら反発は必至だ。揉める原因は作らないに限る。
前年の実績と今年の申請額の対照表。調査した品物の価格一覧。生徒会の提案書。生徒会の備品であるパソコンを使って、三人はそれぞれ書類を作成した。出来上がったものを印刷し、ホチキスでとめる。
「…これで完了ですわね。遅くまでごめんなさい。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。…メリルさんが生徒会長になった方がよかったんじゃないですか?」
「えっ?」
意外な言葉に思わず相手の顔をまじまじと見つめる。冗談めかした口調とは裏腹に目は真剣だった。
「どうしてあんな人が生徒会長になったんでしょうね…」
その隣から聞こえた小さな呟き。どちらも偽らざる本音だろう。
「…後片づけは私がやります。もう真っ暗ですから、気をつけて帰って下さいね」
それには答えず、メリルは遠慮する二人をドアのところで見送った。
片づけといっても使った道具を元の場所に戻すだけ。さほど時間はかからなかった。
入り口を施錠し、当直の教師に挨拶してから昇降口に向かう。部活も既に終わっている時間、廊下の照明は非常灯だけで辺りは暗かった。
「やあ」
突然声をかけられ、メリルは飛び上がるほど驚いた。
「ヴァッシュさん! 脅かさないで下さい!」
「そんなつもりじゃなかったんだけど…」
「あ…あの、ごめんなさい。私が勝手に驚いただけですのに…」
回れ右をし、肩を落としてしょげ返る大柄な男に慌てて謝る。
背中を丸めたヴァッシュは肩越しにちらりとメリルのほうを見てから泣き真似を始めた。
「なぜ僕がこんな目にあうのママン。何も悪いことしてないのにマネージャーが僕を叱るよママン」
「私が悪かったですわ。ごめんなさい。何度でも謝ります。お願いですから機嫌を直して下さい」
「…ほんとに悪かったって思ってる?」
猫背のままゆっくり振り返り、顔の大半を両手で隠したまま、半信半疑といった目をメリルに向ける。
「ええ、勿論」
「…じゃあ、僕のお願いきいてくれる?」
「ええ」
短い返事にヴァッシュは勢いよく両手を降ろした。下から現れたのは、その場がぱっと明るくなるほどの笑顔。
「一緒に帰ろう!」
…つまりそれは『自宅まで送る』ということ。どうしてそれが罪滅ぼしになるのか疑問に思うが、肯いてしまった手前断れない。
並んで自転車置き場まで歩きながら、メリルはヴァッシュに問いかけた。
「ずっと待ってて下さったんですの?」
「まあね。着替え終わって何となく校舎を見たら、まだ電気がついてたから。でもそんなに長い時間じゃないよ」
メリルは小さくため息をついた。しかしその口元には微笑とも苦笑ともとれる笑みが浮かんでいる。
『嘘つき…』
校庭の照明設備では野球をするのに充分な明るさは作り出せない。だから練習は夏よりも早い時間に終わる。
そうなるようメニューを組んだのは他ならぬ自分だ。
「…ありがとうございます。でも、明日は待たないで下さいね」
「どうして!?」
「予算の編成会議がありますの。かなりの人が残りますから帰りも心配いりませんわ。それに…」
「それに?」
「…たぶん、今日よりもっと遅くなります」
「…そっか」
メリルの言葉や表情からは彼女の心は読み取れない。自分の行動が迷惑なのか、そうじゃないのか。
心に棘が刺さったような痛みを感じながらヴァッシュは足を進めた。

--------------



不協和音


明日の予算編成会議は長引くだろう。――メリルの予想は半分的中した。
十日の会議は短時間で終わった。生徒会からの削減要求が受け入れられず、仕切り直しとなった為である。
特に耐久消費財を申請してきた部からの反発はメリルの想像を超えていた。
キールが理由を説明したのだが、その半ばで野次が飛び始めた。交替したメリルが話をしている最中は多少静かになったものの、終わった後は怒号と罵声が飛び交い誰が何を言っているのか判らない有り様。
これではとても会議にならない。そう判断したメリルは大きく息を吸ってから両手を高らかに打ち鳴らした。
小気味いい音が室内に響き渡り、一瞬静まり返る。
「生徒会の意向は先程お話ししたとおりです。会計担当の方の一存では判断できかねることもあると思いますので、皆さん一度部に持ち帰って検討して下さい。会議は十二日に再開します。異議のある方はいらっしゃいますか?」
今を逃したら収拾がつかなくなる可能性が高い。キールに発言させるべきなのは判っていたが、メリルは一気にまくしたて反応を見た。全員呆気に取られた様子で声も出ないようだ。
「…ないようですわね。では一時休会といたします。価格に関して詳しく知りたい方は生徒会室までお越し下さい。皆さんお疲れ様でした」
確かに自分の判断で即答はできない。生徒達は口々に文句を言いながらも、会議の場となった視聴覚室を出ていった。それを見送ってから、メリルは生徒会室に向かった。
後ろから近づく人の気配を感じる。足音で誰なのかは判っているが振り返る気にもならない。
キールは副会長の横に並ぶと、気難しそうな表情で口を開いた。
「メリル君、さっきのあれは困るよ」
生徒会室の中で主導権を握られるのはともかく、大勢の生徒の前で自分をないがしろにされるのはプライドが許さない。
「申し訳ありません。差し出がましいことをしました」
歩きながら軽く頭を下げ目を伏せる。キールの顔を見ないように。不快感が滲み出ているかも知れない自分の顔を見られないように。
「うん、判ってくれてればいい。でもこれからは気をつけるように」
華奢な肩を叩こうとした手は、メリルが抱きかかえた資料を持ち直そうと上体を僅かに倒した為空振りした。
「はい。…ですが、会長にはもっと重要なお仕事がありますから、あの場を収めるくらいのことは副会長がやるべきだと思いまして」
「重要な仕事?」
「会長にしかできないことですわ」
メリルはキールをいったん持ち上げてから、法外な申請をしてきた五つの部を挙げた。
「元の申請額が大きすぎますから、多少削減していただいたとしても他の部からクレームが出ると思われます」
ほとんど削らないでしょうけど、とは言わなかった。
「会長には十二日の会議までに各部を回って、何とか大幅に見直していただけるよう交渉していただきたいのです」
「僕が!?」
書類を返しに行った時の殺気立った雰囲気を思い出し、キールの顔から血の気が引いた。
「ええ」
「し、しかし…」
「根回しは得意の筈ですわね」
声をひそめてとどめの一言。
その場に棒立ちになったキールを残して、メリルは一人生徒会室に入った。


予定どおり十二日に会議が再開されたが、予算の編成は終わらなかった。会議は翌日も続けられることになった。
長引く会議に譲歩を示した部もあったが、キールが交渉した――そして決裂した――五つの部を含む一部が譲ろうとしない。それが場の雰囲気を悪化させた。
互いの主張を述べ、質疑応答をしていた筈が、いつの間にか相手を罵り中傷するだけになる。その度にキールが軌道修正するのだが、すぐに同じことが始まってしまう。
結論の出ない現状に皆疲れていた。苛立ちは募り、罵声の矛先はメリルにも向けられた。
「副会長! あんたまだ野球部にいるそうだな! えこひいきしようってんなら承知しねえぜ!」
頭に血が上った陸上部の先輩に怒鳴られても、メリルが冷静さを失うことはなかった。
「確かに私は野球部のマネージャーで会計も担当しています。でも、今私は中立の立場である副会長としてこの場におります。野球部の副主将に出席していただいているのも、私が野球部の会計担当として発言しない為です」
菫色の双眸が副主将を見つめる。
「今回の申請における野球部の見解をご説明下さい」
「資料を見ていただければ判るかと思いますが、今回申請したのはボールやバットなど古くなった消耗品です。ユニフォームと帽子は、部員達から別途費用を集めて作成する予定です。金額的には昨年とほぼ同じですし、問題はないものと考えます」
答弁の見本のような説明は、朝練の時にマネージャーから『もし質問されたらこうおっしゃって下さい』と言われたそのままだった。まごつかずきちんと話せたことに密かに胸をなで下ろす。
「…ということだそうですが、よろしいですか?」
感情論に対する理詰めの解答。陸上部員は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。
このままでは埒があかない。一つ深呼吸をして、メリルは自ら憎まれ役になる覚悟を固めた。
客観的に見て無理な申請をしてきた部を名指しし、申請の根拠を確かめる。満足な説明のできないものは更に追求し、その大半を撤回させた。どうしても削減できないものについては、中古品や一つ前の型に変更することを了承させた。生徒会の備品を貸し出すことで個別購入をとりやめたものもあった。
適切な代替案。厳しいが公正な采配。メリルの提案に異を唱える者はいなかった。
「…写真部の現像用機器一式は削除、と。…これで予算内に収まるものと思われます」
一同を見回し、再び言葉を紡ぐ。
「明日の放課後もう一度お集まり下さい。会議の結果を反映させた資料をお配りして、採決を取らせていただきます。承認されれば予算は成立、ということで。…何かご質問のある方はいらっしゃいますか?」
答えは沈黙。メリルは小さく肯き、手持ち無沙汰な様子の会長のほうを見た。視線に促されキールが立ち上がる。
「では本日の会議を終了とする!」
どこか芝居じみた閉会を告げる声に参加者の疲労感は一気に増した。視聴覚室を後にする生徒達の足取りは一様に重かった。
生徒会長に対する不満は募る一方だった。特に彼の当選に協力したと自負する部は、いわば約束を反古にされたようなものだ。恨み骨髄に徹す、といった心境だった。
そして、不満を募らせた者がもう一人。
「メリル君」
「お説教でしたら後日伺います」
仕事はまだ残っている。自分の責務を果たさない男にかまっている暇はない。足早に生徒会室に向かうメリルの答えはそっけなかった。
「まだ予算は成立していないんです。これから明日の資料を作ります。それとも、手伝って下さるんですか?」
「そ、それは書記の仕事だろう」
「でしたら明日に備えて早くお帰りになったらいかがですの?」
歩幅をこころもち広くする。少しずつ互いの距離が開いてゆく。キールはそれ以上何も言わずに踵を返した。
メリルが生徒会室でパソコンを立ち上げていると、控えめなノックに続いて書記の二人が入室してきた。会計と会計監査がそれに続く。
「手伝いますよ。一人じゃ大変でしょう?」
「皆さん…。ありがとうございます。それじゃチャッチャと片づけちゃいましょうか」
メリルと書記の三人で資料を作成し、会計がミスがないかを確認する。出来上がった書類は会計監査が印刷した。
最後に全員でホチキス止めをしてようやく作業は終了した。
「…何で生徒会長は来ないんですかね」
会計監査の一人が不快そうに眉根を寄せた。
「ごめんなさい。私が『明日に備えて早くお帰りになったら』なんて言ったから…」
「言われたからって本当に帰りますか、普通」
その通りだ。自分が会長だと――組織の長だという自覚があるのなら率先して居残りする筈。
メリルは全員の表情をそれとなく確かめた。程度の差はあるものの皆納得できないといった様子だ。
「…今期の生徒会の運営はかなり大変なことになるでしょう。予算のことに限らず、何かにつけて風当たりは強いかと思います。でも…」
役員達は真剣な面持ちでメリルを見つめている。
「いろいろあったけど、楽しいことばかりじゃなかったけど、やってよかった…一年後にそう思えたら素敵ですわね」
どこかで聞いたような自分の台詞に内心苦笑しながら静かに目を閉じる。痛いほどの視線は変わらない。
「予算の編成が終わったら、次は三年生の送別会です。第一回の打ち合わせが二十二日…」
目を開けてにっこり笑う。
「明日予算が成立したらそれまでの一週間、せいぜい羽根をのばす事としましょう」
席を立つ。右手を腰に当て、左腕は斜め上に真っ直ぐ伸ばして手首を曲げ、奇妙なポーズをとる。
「オーマイスウィートニューマイアミ!」
それは、昨日たまたまテレビで見た旅行代理店のCMのキャッチフレーズだった。頭についていた『OLらしく休暇を存分に楽しもう』の部分はカットしたが、ポーズはそっくりそのままだ。
「…残念ながらバカンスには行けませんけど」
突拍子もないメリルの行動に、六人は暫し呆然とした後爆笑した。
「それって…CMの…」
「…メ、メリルさんて…面白い人だったんですね…」
「すごくお堅いイメージがあったけど…」
「もっととっつきにくい人かと思ってた」
「息…苦し…おなか痛い…」
いろいろなことを言いながら役員達は笑い続けている。
『どうやらわだかまりを吹っ飛ばせたようですわね』
メリルは静かに椅子に座った。自分のらしくない行動に頬を赤らめながら。


予算成立まであと一歩までこぎつけた二月十四日。
朝練を終えてクラスに向かう途中、メリルはヴァッシュとウルフウッドに持っていた紙袋を差し出した。
「はいどうぞ」
「?」
「今日はバレンタインですから」
「…ありがとう!!」
はじけそうな笑顔で礼を言うと、ヴァッシュは早速中身を確認した。
「やった! ドーナツだ!!」
リボンで口を閉じた透明な袋の中にリングドーナツが五個。片側半分がチョコレートでコーティングされている。
廊下を歩きながらいそいそと手を伸ばす。が、『お行儀が悪いですわよ』とたしなめられ、慌てて引っ込めた。
「…大丈夫ですわ。ウルフウッドさんの分は甘いものじゃありません」
黒髪の男の顔色が急に悪くなったのに気づいたメリルは、苦笑混じりにそう告げて安心させた。
「ほ、ほうか。おおきに」
ウルフウッドはあからさまに安堵の表情を浮かべた。彼が自分の感情を顕わにするのは珍しい。
「キミ、本当に甘いものが駄目なんだ」
「果物やったら食うけど…どうも砂糖の甘さっちう奴は苦手でな」
「だからってあの香辛料三昧の食生活はどうかと思うけど」
「いらんお世話や」
言葉と同時に放たれた拳を身体をかがめてかわす。その拍子にある疑問がヴァッシュの脳裏をよぎった。
「あれ? これって僕達だけにじゃないよね?」
細かい気配りをするメリルが他の部員に何もしないなんて考えられない。でも、朝練で彼女が皆に何かを渡した様子はなかった。
「え、ええ。皆さんには放課後お渡ししますわ」
どうして口篭もったのが不思議に思ったが、ヴァッシュはそのことには触れなかった。
「じゃあ今日は部活に出られるんだ」
「ええ。予算の採決だけですから、よほどのことがない限りすぐに終わると思います」
「ずいぶん揉めたんだってね」
「まあ、いろいろと」
揉めた原因は判っている。ヴァッシュは眉間にしわを寄せ、メリルは僅かに目を伏せ、ウルフウッドは口元を歪めて、同時に短く吐息した。思わず顔を見合わせ苦笑する。
「ゴールは目前、あと少しですわ。頑張らなくちゃ」
教室に入り、自分を励ますようにそう言うと、メリルはそれじゃ、と挨拶して自分の席に向かった。
「…予算はもうじきカタがつくんだろうけど…」
「似たようなトラブルはこの先も起こるやろな」
「…大丈夫かな」
席に着きながら、ヴァッシュは誰に言うともなく呟いた。
いつもは早めに朝練に来るのに今日はギリギリだった。凄く眠そうだった。それに目が少し充血していた。
先刻受け取った紙袋からドーナツの入った袋を取り出す。店名や賞味期限を記したシールはない。紙袋も同様だ。おそらく彼女の手作りなのだろう。
『あんまり寝てないんじゃ…』
連日の会議で疲れているだろうに。無理して身体を壊しでもしたら…
ヴァッシュの思考は、突然視界に割り込んできたものの為に中断を余儀なくされた。咄嗟に袋を抱きかかえ、クラスメイトの魔の手からドーナツを守る。
「ずりぃぞヴァッシュ! 幸せは分かち合うもんだろ!?」
「これは駄目!!」
「ラブ&ピースの精神はどうした!?」
「都合のいい時だけ持ち出さないでよね!!」
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、教室中を駆け回る。
逃げるのに夢中で、ヴァッシュは菫色の双眸がそれとなく自分を追いかけていることに気がつかなかった。
『昨日のアレは…あの人の影響ですわね』
笑いの効能は医学的にも証明されている。でもまさか自分にあんなことができるとは思わなかった。やってみようと考えたことも。
メリルの口元に僅かに苦笑が刻まれた瞬間予鈴が鳴り始めた。
『た、助かった…』
人間台風の耳には、軽やかなチャイムの音が幸運の女神の声に聞こえた。


二時間目と三時間目の間に一個。昼食後にデザートと称して二個。
ヴァッシュは幸せを噛み締めるようにドーナツを食べた。ウルフウッドが呆れるほどの至福の笑みを浮かべて。
四時間目が終わった後、食事をする前にメリルが教室を出ていくのを見かけた。十分もしないうちに戻ってきたが、朝にはなかった見慣れない紙袋を持っていた。黒字に金の文字とイラスト。GODIVAと書いてあるのが読めた。
『あれにみんなの分が入ってるのかな…』
忘れてきたのをジョアンナさんに届けて貰ったのか。だから放課後渡すって言ってたんだ。
本日三つ目のドーナツを堪能しながら、ヴァッシュはぼんやりと考えた。
「…何も全部学校で食わんでもええやんか」
放課後、ウルフウッドは再びドーナツに手を伸ばしたピッチャーに思わず声をかけた。自分のすぐ横に幸せ一杯の笑顔で甘いものを食す男がいるというのはかなり気色悪い。
「腹が減っては戦はできぬ、って言うでしょ?」
最後のドーナツを頬張りながらヴァッシュは答えた。
自分の甘いもの好きは母親の影響だ。持って帰れば半分取られる、というのが過去の経験則である。
メリルから貰ったものだと知られたら、受け取った時の状況を根掘り葉掘り訊かれるに違いない。おまけに当分の間『進展は?』と追跡調査されるだろう。
名残惜しげに最後の一切れをゆっくり味わい、喉を鳴らして飲み込む。
「あーおいしかった。さぁて、エネルギー充填完了、部活に行きますか!」
指を舐めながら立ち上がったヴァッシュは、ふと隣の席の男に目を向けた。
「キミのは何だったの? マネージャーは甘いものじゃないって言ってたけど」
「ああ…何やろ」
その場でずっこけた金髪の男を尻目に、ウルフウッドは紙袋に手を突っ込んだ。
出てきたのは使い捨ての透明なプラスチック製容器。キムチ入りチャーハンに海老のチリソース炒め、中華風あえものなど辛そうな料理が綺麗に詰められている。ご丁寧に割り箸まで入っていた。
「…これってキミの昼ご飯のつもりだったんじゃないの?」
「かも知れんな。ま、これで晩メシ作らんでええようになったわ」
鞄と紙袋を持つと、ウルフウッドは立ち上がった。
「ほな行こか」
教室を出る直前、ヴァッシュはふと足を止め肩越しに振り返った。マネージャーの席には誰もいない。今頃は会議の準備をしているのだろう。
『そう言えば、放課後部活で会うのって三日ぶりだな』
二月に入ってから放課後の部活に遅れてきたり休んだりすることが多くなった。噂に違わぬ激務ぶりだ。
部活をしていた歴代の役員のほぼ全員が退部した、という話を聞いた。両立が困難なのだという。
『メリルは…どうするんだろう…』
やめないで欲しい。続けて欲しい。でも、無理を重ねてもし身体を壊すようなことになったら…
物思いは突発性頭痛によってあえなく打ち切りとなった。
「いっ…! 前にも言ったけど、口より先に手ェ出すのやめてくんない!?」
「まぁた遅刻してスペシャル外回り走らんでもええように目ェ覚まさせてやったっちうのに…人の親切が判らん奴には天罰が下るで」
「イキナリ暴力に訴えないで、声をかければ済むことでしょ!?」
ピコピコしながら怒っているピッチャーは放っておいて、ウルフウッドはすたすたと先に歩き始めた。
「汝の隣人を愛せよ、じゃないの!?」
後を追うヴァッシュの叫びは空しく廊下にこだまして消えた。




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不協和音


校庭で野球部員がウォーミングアップを始めた頃、視聴覚室ではキールが採決をとっていた。
「この予算案に異議のある人はご起立下さい」
昨夜メリル達が残って作成した書類を手にキールは言った。
ゆっくりと首を巡らせ確認する。立ち上がる者はいなかった。本当に納得しているかどうかは別にして。
「…満場一致によりこの予算案は成立しました。皆さんお疲れ様でした」
会議そのものは五分ほどで終わった。
「副会長、お疲れ様でした」
書記の一人がメリルに歩み寄り声をかけた。他の役員も集まってくる。皆の笑顔にメリルも微笑みを浮かべて応えた。
「お疲れ様でした。これで一段落ですわね。議事録は急がなくてもいいでしょうから、今日は早く」
不意に肩を叩かれ、口をつぐんで振り返る。顔が強張るのが自分でも判った。
「会長…」
「ちょっと打ち合わせたいことがある。生徒会室まで来てくれ」
返事を待たずにキールは踵を返した。
「え…」
メリルは慌てて自分の資料をまとめると、急ぎ足でキールの後を追った。会議が終わったらすぐに部活に出るつもりで、今日の練習メニューはまだ自分が持ったままだ。それに。
「会長、あの、打ち合わせというのは…きゃあッ」
振り向きざまにキールの左腕が空を凪いだ。メリルには当たらなかったが、持っていた書類がはらはらと宙を舞った。
「急ぎの件だ」
短く告げると、キールは散乱した書類には目もくれず再び歩き始めた。
押さえた声。厳しい視線。この行動。廊下にしゃがみ込んで散らばった紙を拾い集めながら、メリルは自分が彼を怒らせたことを悟った。でも。
『…私は職務を遂行しているだけですわ』
ふつふつと怒りが湧いてくる。
書類を床に置き、遠ざかる背中に向かって派手に舌を出してやろうと思ったが。
「どうしたの?」
「え…いえ、何でもありませんわ」
通りがかったクラスメイトに声をかけられ、メリルは慌ててぎこちない笑みを浮かべた。
少し遅れて生徒会室に入る。途端に『遅い』と叱責された。
「申し訳ありません。…急ぎの打ち合わせとは何でしょうか」
早く終わらせて部活に行きたい。メリルは頭を下げて素直に詫びてから早速本題を切り出した。
「昨日の会議で、君が生徒会の備品を貸し出すからと提案して個別購入をやめさせたものがあったな」
「はい」
「新規の業務だ。どういうしくみにするつもりなのか、君の考えを説明して貰いたい」
「今…ですか?」
「前例のないことだからな。できるだけ早く手順を決めて、三月を試用期間にしたい。不具合があれば三月中に全て解決し、四月からは何の問題もなく動けるように」
「…判りました」
何も考えずに提案した訳ではない。入室してきた書記の二人に黙礼してから、メリルは自分の案を説明した。
生徒会が所有する備品から、貸出できるものとこの場で使用して貰うものとをピックアップする。それぞれの一覧表と申請書を作成して各部に配り、運用していく。かち合ったものについては個別に調整をとる。
「…なるほど。では早速備品の選定を始めてくれ」
「これからですか!?」
今日から準備をしなければならないほど緊急のこととは思えない。
「そうだ。準備は早いほどいいだろう?」
…何を言っても無駄ですわね。温和とは程遠いキールの表情にメリルは腹をくくった。こうなったら相手の怒りがおさまるまでとことん付き合うしかない。
「判りました。ですが、その前に少しお時間をいただけませんか? 野球部に届けなければならな」
「駄目だ。一部の部のことより部全体にかかわる業務のほうが優先する」
思わず声を荒げそうになった瞬間ドアがノックされ、メリルは言葉を飲み込んだ。書記の一人が席を立ち、短いやりとりの後メリルのほうに視線を向けた。
「副会長にお客様です。野球部の主将です」
「…ちょっと失礼します」
一礼してからドアへと歩み寄る。ギリアムが戸惑ったような表情で立っていた。
「予算会議は終わったと聞いたんだが…来られないのか?」
「すみません、急ぎの仕事が入ってしまって…。今日のメニューですよね。ロッカーにあるんです。会長、書類を主将にお渡ししたいのですが、クラスまで行ってきてもよろしいでしょうか?」
「…五分だけだ」
流石に拒否はできず、キールはしぶしぶ肯いた。
足早に自分のクラスまで行くと、メリルはロッカーから数枚の紙と黒い紙袋を取り出しギリアムに差し出した。
「こちらが練習メニューです。それからこれを…もし私が部活が終わるまでに行けなかったら、主将から先生と皆さんに渡していただけませんか。ヴァッシュさんとウルフウッドさんには先にお渡ししましたので、お二人以外の方に」


『結局来なかったな…』
部室で汗の始末をしながらヴァッシュは小さく吐息した。部活が終わるまでとうとうメリルは姿を見せなかった。
全員が着替え終わるのを待ってギリアムが口を開いた。
「皆、マネージャーから預かったものがある。配るからちょっと待ってくれ」
主将はヴァッシュとウルフウッド以外の部員に紙袋の中身を渡していった。手のひらに載る大きさの箱。黒のラッピングペーパーに金と銀の細いリボンがかけられている。洒落ているが手作りの暖かみはない。
「うわ、高そう」
「ゴディバって確かどっかの王室御用達の店じゃなかったか?」
賑やかに感想を言い合っていた部員の一人が不意に首をかしげた。
「ヴァッシュとウルフウッドの分は?」
「あ、僕らは朝練の後に貰ったんです」
二年の部員がウルフウッドの鞄の横に置いてある紙袋に気づいた。
「もしかしてこれか? 随分大きい…」
中を覗き込んだ二年生の顔が強張った。
「? どうかしたのか?」
部員達が次々と中身を確認し、不快そうに口元を歪める。
「…ヴァッシュ…お前、マネージャーから何を貰った?」
「ドーナツでした。チョコレートがかかったやつです」
「手作りか?」
「ええと…はい、多分」
自分が答える度に大半の表情が険しくなる。ヴァッシュはみぞおちの辺りが重くなっていくのを感じた。
「…バッテリーだけ特別扱いかよ」
「いくら同じクラスだからって…」
低い呟きにヴァッシュはようやく事態を理解した。要するに拗ねているのだ。
「あ、あの、マネージャーは多分」
「なんか…ムカつく」
「こういう差別はないよな」
険悪な雰囲気。ヴァッシュの声も届いていない。ギリアムが慌ててなだめにかかった。
「皆落ち着け。マネージャーも他意があってした訳じゃない筈だ」
「じゃあどうしてですか!」
「それは…」
メリルには配布を頼まれただけで何の話も聞いていない。いかに主将でも明確な答えは出せなかった。それが部員達の不満を更に大きくした。
「マネージャーに確認しようぜ!」
最初に紙袋に気づいた二年の部員の声にあちこちから賛同の声が上がった。
間の悪いことはあるものだ。ちょうどその時、ノックの音に続いて話題の主の声が扉の向こうから聞こえてきた。
「皆さんまだいらっしゃいます?」
肩をいからせたある部員が何も言わずにドアを開けた。
「よかった、間に合…きゃ」
メリルの声は途中で小さな悲鳴に変わった。突然腕を掴まれ、問答無用で部室に引っ張り込まれたのだ。大きな音を立てて背後で扉が閉まる。
自分に向けられている複数の厳しい視線に気づき、メリルはその場に立ち竦んだ。
「あ、あの」
「説明してくれないか…どうしてヴァッシュとウルフウッドだけ特別扱いなのか!」
自分に詰め寄った先輩の手の中で小さな箱がひしゃげている。それに気づいて、メリルは僅かに俯いた。
「まあまあ先輩、落ち着いて」
間に割って入ろうとしたヴァッシュを押しのけ、二年の部員は更にマネージャーを詰問した。
「同じ野球部員を差別するのか!?」
「…ごめんなさい…」
「謝って欲しいんじゃない!!」
腹に響く声の後訪れた沈黙。それを破ったのはキャッチャーだった。
「責めるんは、話聞いてからにしたほうがええんちゃいます?」
部室にいた全員の目がメリルに向けられた。
「…私…皆さんに手作りのお菓子を贈るつもりだったんです。でも、ウルフウッドさんは皆さんご存知のとおり辛党で、一人暮らしをされてることはヴァッシュさんから聞いて知ってました」
部員達は顔を見合わせた。その事実はクラスメイトの二人を除いて全員初耳だったのだ。
「それでお菓子ではなくお弁当を作ることにしたんです。…ヴァッシュさんはよく『ドーナツ、ドーナツ』とおっしゃってますから、大好物なのだろうと思って…。他の皆さんの好みは判らなかったのでトリュフを作ることにしました」
声が震えているのが自分でも判る。メリルは大きく深呼吸をしてから再び口を開いた。
「でも…お菓子って作ったことがなくて、トリュフは失敗してしまったんです。…念の為二倍の材料を用意してたんですけど、二回とも…」
両手を握り締める。目をきつく閉じる。
「…とても差し上げられるものにはならなくて…それである方にお願いして、チョコを買いに行っていただいたんです」
もう一度深呼吸。――もう少し、あと少しだけ。
「…差別している、と言われても当然ですわね。…配慮が足りず、皆さんに不愉快な思いをさせてしまいました。…本当に…申し訳ありません」
深く頭を下げる。そのままの姿勢で更に言葉を紡ぐ。
「…明日…作り直してきます。…チョコレートは…捨てるなり何なり、気の済むように…処分して下さい…すみません、失礼します!」
派手な音を立ててドアが開閉し、マネージャーの姿が部室から消えた。


「トンガリ、行け!」
「でも」
「ええから、早よ追わんかい!」
再びドアが開閉し、人口密度が更に低くなった。
「…二つ質問したいことがあるんやけど…ええですか?」
質問の形をとってはいるが答えを求めている訳ではない。返事を待たず、ウルフウッドは続けた。
「マネージャーに嫌いな食いもん言ったことがあるゆう人、いてはりますか?」
七人が手を挙げた。
「合宿ん時に、そのメニューが出たっちうことありますか?」
「…あ」
ない。ただの一度も。
「そういうことですわ。嫌いや判っとるもんを人に贈ることはマネージャーはせえへんでしょう。…副主将」
「な、何だ」
「昨日一昨日と放課後の部活休まれましたけど、何でですか?」
「予算の会議が長引いて…」
「…っちうことは、マネージャーはワイらが部活を終わった後も生徒会の仕事をしとった、ゆうことになる…」
小さく吐息すると、ウルフウッドは右手で黒髪をかき回した。
「気ぃつきました? 今朝時間ギリギリに駆け込んできたマネージャーの目が赤くなっとったの。…連日の会議で疲れとる筈やのに、睡眠削って、料理して…義理チョコなんやから、個人の好みなんぞ無視してこおてきたもん
配ればええのに…。まったく、難儀なこっちゃで」
誰もが言葉を失っていた。胸に広がる罪悪感。
「不満や、ゆうんでしたらワイの弁当食って下さい。トンガリは部活前に全部食ってしもたから無理やけど…」
もっとも…ウルフウッドは心の中だけでつけ足した。マネージャーのことや、味付けもワイに合わせてしとる筈。
食ったら地獄見るハメになるけどな。
「お…俺達…」
「全員で行ったかてマネージャーも困るだけやろし、この場はトンガリに任せるほうがええでしょう」
部室の殺気立った雰囲気が重苦しいものに変わりつつある頃。
先を走るメリルに追いついたヴァッシュはその細い腕を掴んだ。
「待って!」
「離して下さい!!」
思いの外強い拒絶の声。暗い中頬を伝う光を見たような気がして、ヴァッシュは思わず手を引っ込めた。それでも自分を無視して立ち去ろうとする小柄な身体の横に並んで速度を合わせる。
メリルは顔を背けて、決してヴァッシュのほうを見ようとしなかった。
「話を聞いて。…皆、どうかしてたんだ。あんな酷いこと言う連中じゃないってキミも知ってるだろ?」
「…」
「それに…皆キミのことが…好きなんだ。だから自分が軽く扱われたような気がして、その…寂しくて、キミの事情を考えないで、それで」
「どうして…」
「え?」
「どうして、追いかけてきたんですの?」
「それは…」
強張った声での問いかけにヴァッシュは即答できなかった。キミのことが心配で、と素直に言えなかった。
「部室に戻って下さい」
私の味方をしたらあなたまで嫌われてしまうかも知れない。だから。
「私…もう帰りますから」
「送るよ」
「結構です」
校門までもう距離がない。そこまで来て、ヴァッシュは自分の失敗に気づいた。鞄を部室に置いてきてしまったのだ。
自転車の鍵も財布も鞄の中にある。これでは自転車で家まで送ることはできないし、切符も買えない。
ヴァッシュはメリルの腕を取ると、半ば強引に自分の自転車の傍まで連れていった。
「…すぐ戻るから待っててくれ、頼む」
メリルは俯いたまま何も言わない。返事がないのを不安に思いながらヴァッシュは全力で走った。
部室に飛び込み、自分の鞄を掴んで踵を返す。主将に何か言われたような気もしたが立ち止まらなかった。
時間にして二分足らずだったと思う。しかしそこにメリルの姿はなかった。辺りを見回したが人影はない。
追いかけなきゃ。自転車の鍵を外そうとして、ヴァッシュはハンドルのブレーキレバーの隙間に小さく折りたたまれた紙が挟んであるのに気づいた。慌てて手に取り広げてみる。
手帳を破ったらしい白い紙にたった一言。
『ごめんなさい』
「メリル…」
二つの大きな手が労るように紙片をそっと包み込んだ。

エピローグ
ヴァッシュは駅までの道を自転車で走ったが、華奢な後ろ姿を目にすることはなかった。
追いつけない筈はない。あちこち捜しまわったがとうとう見つけられず、ヴァッシュは仕方なく学校に引き返した。
彼は知らないことだが、メリルはタクシーを拾い自宅に向かったのだった。身体が酷くだるくて電車で帰る気になれなかった。
「…遅かったな。どうやった?」
「歩きながら話はしたけど返事はなかった。家まで送るって言ったんだけど、鞄を取りに行ってる間に帰られちゃって…追っかけたけど駄目だった」
「ほうか…」
ウルフウッドはかすかに吐息した。
「どうしよう…」
「マネージャーの出方を見ましょうや。このまま水に流してくれればよし、そやなかったら…そん時考える、ゆうことで」
今できることは何もない。部員達は暗い表情で肯いた。
翌朝、メリルは部員にチーズがたっぷり入った手作りの甘くないクッキーを手渡していった。一人一人に頭を下げ、謝罪の言葉を添えて。
「あ、いや…」
昨日怒りの目をマネージャーに向けた部員達は一様に言葉を濁した。お礼を言えばいいのか、それともお詫びか――どうすればいいのか判らなかった。
「メシ、旨かったで」
誉め言葉への返事は弱々しい微笑みだった。
「…受け取れないよ。俺、ドーナツ全部食べちゃったし」
「…クッキーはお嫌いですか?」
「いや、好きだよ」
「…でしたら貰って下さい」
差別になってしまいますから。
彼女の考えは判る。ヴァッシュは沈痛な面持ちで差し出された袋を受け取った。
その日も、次の日も、メリルは放課後の部活に来なかった。
顧問が『生徒会の仕事が忙しいからだ』と説明したが、信じる者はいなかった。予算編成は終わり、次の行事は三月。二月中旬に忙しい筈がない。バレンタインのことが原因では…部員達の不安は募る一方だった。
顧問の説明は正しいが言葉が不足している。生徒会は現在、備品貸出の準備という新規業務に取り組んでいるのだ。
準備はなかなか進まなかった。キールがメリルの提示したものにことごとくケチをつける為に。
「…では、会長はどうするのがベストだとお考えですか?」
質問に対する明確な答えはない。よりよいしくみを作る為に連日作業するのなら納得できるが、キールの行動は自分をないがしろにされたことへの報復のように思えた。
貸出申請書の修正を求められたメリルは、小さくため息をつきながら生徒会室に備え付けられたパソコンの前に座った。
ちらりと窓のほうへ目をやる。濃い朱色に染まったグラウンドが見えた。長く伸びる人影は既にまばらになっている。
『これで朝練しか出られない日が何日目になるのかしら…』
軽く頭を振って意識を切り替える。今は目の前の仕事を終わらせなければ。
静かな室内にキーボードを叩く音だけが流れた。
人の気配が近づいてきて、すぐ後ろで止まった。
「…!」
遅まきながらもう一つの理由に思い至り、鳥肌が立つ思いがした。これが彼の『女性の束縛方法』なのだ。
気が散るから離れて欲しい、と頼んでも無駄だろう。メリルはうなじに痛いほどの視線を感じながらひたすら作業に集中した。
生徒会室の明かりが消えたのは校庭が静まり返った後だった。
二月に入ってから放課後の部活に参加することが難しくなったメリルは、マネージャーとしての仕事を全て朝のうちに片づけるようになっていた。時間に余裕はなく、部室の掃除と洗濯、顧問との打ち合わせをこなすのが
精一杯。部員達と話をすることはほとんどない。バレンタイン以降は――
何とかしなければと思いながら、時間もいいアイディアもないこの現状。家路を急ぎながらメリルは大きなため息をついた。

―FIN―   

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