そして彼は途方に暮れる
プロローグ
『よっしゃ!』
朝練前には貼り出されていなかったクラス編成の掲示の前で、人間台風は心の中でガッツポーズをした。
「あら、今年も同じクラスですのね。ヴァッシュさん、ウルフウッドさん、もう一年よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
笑顔で挨拶を返すヴァッシュの心は、曇りという頭上の天気に関係なく晴れやかだった。今年はクラスだけでなく出席番号も同じ。きちんと席が決まるまでの数日間は隣に座れる。
「なぁにニヤついとんねん。無事進級できたんがそんなに嬉しいんか」
「大きなお世話!」
顔を顰めて舌を出した瞬間嫌な考えが脳裏をよぎり、ヴァッシュは真剣な面持ちで再び掲示板へと視線を戻した。
『アイツは……』
自分達の欄とは大幅に離れたところにキールの名を見つけ、ほっと胸をなで下ろす。これなら通常の授業での接点は皆無だ。
「さあて、クラスの確認も出来たことだし移動しますか。いつまでもここに陣取ってたら邪魔になっちゃうよ」
明るい声で提案すると、ヴァッシュはメリルの肩を軽く叩いてから進むべき方向を指差した。さりげなくウルフウッドに目配せする。
三人は人垣の最前列から外れ、校舎を目指した。
バッテリーはマネージャーの後ろを歩くようにした。掲示板を見ている生徒会長に彼女の存在を気づかれないように。
廊下を歩きながら、メリルは心配そうな表情で二人を等分に見やった。
「部活説明会の準備は大丈夫ですの?」
彼女が問いかけたのも当然である。本番は二日後なのに、何をやるのか教えて貰っていないのだから。
菫色の瞳に見つめられ、ヴァッシュは内心どぎまぎしながら元気よく答えた。
「平気平気! 準備万端、ノープロブレムってね」
「楽しみにしててや」
いたずらっ子のような表情が並んでいる。顔立ちは似ていないのにこういう時は何故かそっくりに見えて、メリルは小さくため息をついた。
『本当に大丈夫なのかしら……』
マネージャーの不安は二倍ではなく二乗された。
教室に入ると、三人は自分の出席番号に従って席についた。ヴァッシュの席は教卓に近い位置で、隣には勿論
想い人。ほんの少し目線を動かせば彼女の横顔が見られる。
『中吉の御利益ってやつかな』
幸先のいい新年度のスタートに、ヴァッシュの口元は自然とほころんだ。
Ⅰ
入学式の日は灰色一色だった昨日の空が嘘のような見事な晴天となった。期待と不安が入り交じる新入生への天からの贈り物のように。
いい天気は翌日も続いた。
体育館でカリキュラムと年中行事の説明、校歌の紹介が行なわれ、その後各クラスでホームルーム――昨年までオリエンテーリングは午前中だけで終わっていた。が、今年は昼食を挟んで午後に部活説明会がある。
食事を終えた一年生は再び体育館に集合した。
体育館の舞台には飾りつけも何もなかった。あるのは中央に置かれたスタンドマイクだけ。
その前にキールが立った。
「はじめまして、生徒会長のキール・バルドウです。部活説明会を行なう前に一言ご挨拶させていただきます。……
トライガン学園は部活は自由参加です。ですが、新入生諸君にはこれからの紹介を参考にして、是非積極的に参加して欲しい。何故なら、部活動を通して育まれる友情があるからです。授業とは違う貴重な体験の場になるからです。……」
自己陶酔しているようなキールの言葉に真面目に耳を傾ける者はごく僅かだった。大半は事前に配られた
クラブ名一覧と部室の場所を示したプリントを熱心に見ていた。
「それでは運動部の紹介を始めます。……合気道部」
メリルの声に白い道着姿の男子生徒が舞台に飛び出し、一列に並んだ。威勢のいい掛け声に合わせ、基本の型を披露する。
一つの部に与えられた時間は九十秒。同好会を含めると五十を越える部全てを中だるみすることなく紹介するにはそれが限界だったのである。『短すぎる』という苦情が多数寄せられたが、メリルは何とか説得した。
各部とも工夫を凝らした演出で自己紹介をしていった。
紹介が途中でも、時間が来るとメリルは終了の合図であるホイッスルを吹いた。すかさず書記・会計・会計監査が舞台に上がり、穏便かつ迅速に強制撤収する。舞台の袖に追いやられながらも往生際悪くクラブ名を連呼する部に体育館はどっと沸いた。
「野球部」
いつもより早い鼓動を無視し、メリルは自分が所属する部を呼んだ。
舞台に上がったのはバッテリーの二人だけだった。ユニフォーム姿でグラブをはめたヴァッシュが、同じくユニフォームを着てミットを構えたウルフウッドに向かって投球する。鋭い音が体育館に響き、どよめきがそれに続いた。
二球受けた後、ウルフウッドはミットを脇に置き、バットを手に立ちあがった。ホームランを予告するように右手のある一点をバットで指し示す。新入生が首を巡らすと体育館の窓が野球部員によって開けられるところだった。
キャッチャーがいないことを気にする風もなく、ヴァッシュはいつものようにボールを投げた。小気味いい音と共に白球は一枚だけ開けられた窓から外へ消えた。
今度は左手の一点を指し示すと、ウルフウッドは見事に打球を飛ばした。
「来たれ野球部、一緒に甲子園を目指そう!」
マイクに駆け寄り、ヴァッシュは拳を固めつつ元気よく決め台詞を言った。が、何故か一緒に言う筈の声がない。
不審に思い目だけ動かして横を見る。ウルフウッドは舞台の袖にいた。
「!?」
主将に腕を掴まれ、メリルは危うく声を上げそうになった。そのまま舞台の中央まで引っ張り出される。
ヴァッシュの隣に立つと、ウルフウッドは華奢な肩を抱くようにしてにこやかに付け足した。
「今なら美人のマネージャーがお出迎えするで! ……あいだだだだだだだ」
アドリブに続いて予定外の雑音が口から洩れた。ヴァッシュに容赦なく手をつねられ、メリルの肩から力ずくで引き剥がされたのだから無理もない。
「セクハラしませんからねー、マネージャー希望の女子の皆さんも安心して来て下さいねー」
漫才のようなやりとりに生徒達は爆笑した。明るくフォローしたピッチャーの笑顔がぎこちないことに気づいた新入生はいただろうか。
突然至近距離から聞こえた騒音にバッテリーは揃って顔を顰め耳を押さえた。発信源はマネージャー。片手でマイクを覆ってからホイッスルを吹いたのは流石である。
メリルは生徒会役員に促され退場する二人とは反対側の舞台の袖に戻った。咳払いをして気持ちを切り替え、何事もなかったように言葉を紡ぐ。
「……失礼しました。続いて陸上部」
----------
そして彼は途方に暮れる
Ⅱ
「何なんだよ、さっきのアレ」
放課後、ヴァッシュはウォーミングアップをしながら小声でキャッチャーに問いかけた。アレとは勿論先刻の部活説明会のことである。
「勝手に打ち合わせになかったことやって……」
「ええやんか、減るもんやないし」
「そういう問題じゃないだろ!?」
目をむいて怒りを顕わにするピッチャーにジェスチャーで落ち着くよう示してから、ウルフウッドは皮肉な笑みを浮かべた。
「結果オーライや。見学者ぎょーさんおるで」
確かに野球部を取り囲む生徒は多い。しかもほとんどが男子である。部員が欲しい野球部としては嬉しい事態なのだが。
「……野球に興味があって来てる奴ばっかりじゃないさ」
グラウンドを見ようとせず、きょろきょろと辺りを見回している生徒が何人もいる。誰を探しているのか一目瞭然だ。
「プレーヤーとして使えそうな奴が入部したらええんや。動機は関係あらへん」
「動機が不純だと長続きしないんじゃない?」
「入部者がおらんかったら話にならんやん。長続き云々は実際に入部した連中を見てから心配すればええ」
ウルフウッドはどこまでも楽天的だ。相棒の冷たい視線も全く意に介さない。
「ほな挨拶しとこか」
『去年の夏みたいなことにならなきゃいいけど……』
走り出した主将の後を追いながら、人間台風はこっそりため息をついた。
「皆さんようこそ。ワイが主将のニコラス・D・ウルフウッドです。今日はのんびり見学してって下さい」
見学者を校庭の一角に集めると、ウルフウッドは笑顔で挨拶した。いつにない愛想の良さに部員達の背中に悪寒が走る。
「副主将のヴァッシュ・ザ・スタンピードです。野球が好きな人、野球に感心のある人は大歓迎……」
寒気を堪えつつ発したヴァッシュの言葉は途中で途切れた。人垣をかき分け自分の前に立ったおさげ髪の女子生徒にじっと見つめられた為に。
「え、と……質問ですか?」
彼女は何も言わない。ただ固い表情で見上げているだけだ。
『……?』
既視感。どこかで会ったことがある。でもどこで……
「……ジェシカ?」
大急ぎで記憶を辿り、ようやく思いついた名前を口にした途端、彼女が破顔した。
「ン"ギャ――――、ヴァッシュウウウウウ」
飛びかかるような勢いで抱きつかれ、ヴァッシュの顔は瞬時に愉快なものに変わった。突然のことにどう対処していいのか判らず、人一人首からぶら下げたままただ口をぱくぱくさせるのみ。動揺の余り女子達の非難の声も耳に
届かない。
突き刺さるような視線を感じて目線を動かす。リーゼントの大柄な男が呪いをかけているかのような目で自分を睨んでいた。
『ブラド……』
いかつい顔に昔の面影はほとんどなかったが、変わらぬ髪と瞳の色からヴァッシュはそう確信した。
「…………ほら、もう泣かないでジェシカ……」
何とか気をとり直し、頭をそっと撫でながら幼なじみをなだめる。
「ヴァッシュ……ヴァッシュ……会いたかった……。……こっちに戻って来てたんならどうして連絡くれなかったの?」
「積もる話は後で。今は部活中だから……」
どうにか説得してジェシカを元の場所に帰すと、ヴァッシュは再び口を開いた。
「今日は見学だけとします。入部希望者は基礎体力の測定をしますので、明日の放課後運動できる恰好でここに来て下さい」
「はいは~い、質問で~す! マネージャー希望はどうしたらいいですか~?」
ぶんぶんと手を振りながら発言したのはミリィだった。
「明日の昼休みに部室に来て下さい。マネージャーのメリル・ストライフさんから説明があります」
「あのう……メリル先輩は……?」
控えめな質問にヴァッシュはそれまでと変わらぬ声で答えた。内心穏やかではなかったが。
「オリエンテーリングで判ったと思いますが、マネージャーは生徒会副会長を兼務しています。生徒会の仕事が忙しい場合は部活に参加しないこともあります」
それとなく全員の表情を確認する。落胆した男子生徒は一人や二人ではなかった。
ジェシカのこと、ブラドのこと、メリル目当ての見学者、ここにはいないがキールのこと……悩みの種は尽きない。
『ゼントタナンだなぁ……ところでゼントタナンってどう書くんだっけ?』
漢字の書き取りという、普段なら絶対やらない方法で現実逃避する人間台風であった。
Ⅲ
翌日の昼休み、ヴァッシュとメリルは部室で昼食をとることにした。万が一にもマネージャー希望者を待たせる
訳にはいかないとの判断からである。
副主将がいる必要はないのだが、ヴァッシュは『何か手伝えることがあるかも知れないから』と自ら同席を申し出た。
無論主たる目的は別にある。
「さあ、早く食事を済ませてしまいましょう」
「あ、あの……」
持参した弁当を手早く広げるメリルにヴァッシュは上ずった声で呼びかけた。
「? どうかなさいました?」
「……じ、実は……わ」
突然ノックもなくドアが開き、甲高い声が部室に響いた。
「ヴァッシュ~~~~~ッ」
「うわああああああっっっ!!!!」
体当たり同然に抱きつかれ、ヴァッシュは右手を鞄に突っ込んだまま尻餅をついた。
「ジェ、ジェ、ジェシカ!?」
「やっぱりこっちにいたのね! 教室にいなかったからそうだと思った!」
「ど、どうしてここに!?」
「決まってるじゃない、マネージャー希望だもの。そ・れ・に」
ようやくヴァッシュから離れると、ジェシカは満面の笑顔で持っていたトートバックを見せた。
「一緒にお弁当食べようと思って!」
逆立てた金髪が大きく前に倒れた。うなだれた男はゆっくり吐息し、小さな紙袋からそろそろと手を離した。
二人きりの時にプレゼントを渡す。たったそれだけのことがどうしてできないんだろう。
メリルが苦笑混じりの微笑みを浮かべているのに気づいて、ヴァッシュは慌てて立ち上がった。
「あ、あの、マネージャー、この子は僕の幼なじみで、同じ保育園に通って」
「はじめまして! マネージャー希望、一年のジェシカです。よろしくお願いします!」
しどろもどろに説明するヴァッシュを差し置いて、ジェシカは元気よく挨拶しぴょこんと頭を下げた。
「はじめまして。マネージャーで二年のメリル・ストライフです。こちらこそよろしくお願いしますわね」
自分より背の高い後輩に礼を返してから、メリルはピッチャーへと視線を移した。
「折角ですから一緒に食べましょう」
反対する理由はない。複雑な心境のままヴァッシュは肯いて賛成の意を示した。
昼食は賑やかになった。当然のようにヴァッシュの隣に座ったジェシカが食べる間も惜しんで喋ったからだ。
「ヴァッシュはあたしの王子様なんです! ブラドっていういや~な幼なじみがいるんですけど、そいつがあたしのことよく苛めて、その度にヴァッシュが助けてくれて……」
食事を中断したジェシカは胸の前で両手を組み、目を輝かせて思い出に浸っている。
「ジェシカさんにとって、ヴァッシュさんは正義のヒーローでしたのね」
「はい! ほんとにカッコよかったんですよ!」
話が弾む女性陣とは裏腹にヴァッシュの心は沈んでいった。ブラドがジェシカを苛めていた理由を知っているからだ。
昨日自分に向けられた視線からして、ブラドの想いはあの頃と変わっていない。ジェシカの方はブラドの気持ちなどこれっぽっちも判っていないようだ。
ヴァッシュは暗い気分で黙々と箸を動かした。
食事を終え片づけをしている時、不意にジェシカがヴァッシュを見上げて首をかしげた。
「どうしてヴァッシュ・ザ・スタンピードなの? ヴァッシュ・ミリオンズじゃなくて」
去年、初めて新聞でトライガン学園のピッチャーの記事を見た時、姓が違うことを疑問に思った。昨日名前を呼ばれるまで『もしかしたら人違いかも知れない』とずっと不安だった。
「……両親が離婚したんだ。ナイブズとも離れて暮らしてる」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで」
しょげ返ったジェシカにヴァッシュは微笑んでみせたが、幼なじみの表情は明るくならない。
重苦しい沈黙。それを破ったのはまたもノックなしに飛び込んできた高い声だった。
「せんぱ~い、来ましたぁ! …………あれ? あたしの顔に何かついてます? もしかしてお弁当とか!?」
六つの瞳に見つめられ、ミリィは慌てて両手で自分の顔を撫で回した。
「あ、いえ、大丈夫ですわよ。何でもありませんわ」
本当にこの子には助けられてばかりですわね。この場の雰囲気を一変させてくれた後輩に心の中で感謝しつつ、メリルはゆっくりと首を横に振った。
-----------
そして彼は途方に暮れる
Ⅳ
放課後、入部希望者はいくつかのグループに分かれて体力測定を受けた。昼休み部室に集合したマネージャー志願の女子生徒も記録係として初仕事にいそしんでいる。
が、本来彼女達を監督する立場の筈のメリルは校庭にはいなかった。
『ごめんなさい、部活説明会の反省会が昨日終わらなかったんですの』
朝練の後申し訳なさそうに謝ったメリルの顔が脳裏に浮かび、副主将は僅かに顔を曇らせた。
どうせまたキールがいちゃもんをつけてるんだろう……そう思うと怒りがふつふつとこみ上げてくる。
突然筋肉質の腕にヘッドロックをかけられた。そのまま身体の向きを百八十度変えられる。
「なーにぶすくれとんねん」
囁きに近い声には怒りと呆れが同量ずつ含まれていた。
「誰が!?」
「入部希望者の前で不機嫌そうなツラするんやないわ、ボケ」
捨て台詞と共に身体の自由が戻った。
短距離走や遠投などの測定を終えた男子生徒がすぐ後ろで待っている。ヴァッシュは頬を軽く叩いて自分に気合を入れてから振り返り、てきぱきと指示を出した。
入部希望者を運動部経験者と未経験者の二つに分け、更に六人一組でグループを作る。それぞれにマネージャー希望の女子と部員を割り振ってタイムの記録を頼む。
「最後に持久力の測定をします。運動部経験者はスペシャル外回りを三周、未経験者は外回りを三周走って貰います」
ヴァッシュはトライガン学園周辺の大きな地図を指で辿りながらコースの説明をした。
「コースが判らない人はいますか? …………大丈夫ですね。……スペシャル外回りは主将が、外回りは僕が一緒に走ります」
凄い勢いでウルフウッドがこちらを見たが、何食わぬ顔で続ける。
「途中で具合が悪くなった人は遠慮なく申し出て下さい。では十分後、校門前に集合して下さい。……解散」
三々五々散っていく将来の仲間達を見送ってから、ヴァッシュは一人ウォーミングアップを始めた。と。
「ウラッ!」
屈伸していて立ち上がりかけたところに飛んできた平手。咄嗟に顔をそらせたものの避けきれず、左の頬がじんじんと痛んだ。
「何すんだ、このテロキャッチャー!」
「さっきの分担、どういうこっちゃ!?」
入部希望者達について走ることは前もって決めていた。どちらがスペシャル外回りを走るか決めたのは部活が始まる直前、方法はジャンケン三本勝負。
二勝一敗で勝者となったのはウルフウッドで、彼は当然の如く外回りを選択したのだが。
「いやあ、ゴメンゴメン。間違っちゃった」
頭を掻きながら詫びる人間台風に反省の色は見られない。わざと逆に言ったのは明白だった。
一度発表した役割分担を何の説明もせず変更したら入部希望者達が戸惑うだろう。かといってこんな馬鹿馬鹿しい理由は公表できないし、もっともらしい理屈も思いつかない。
舌打ちして苛立ちを紛らわせると、ウルフウッドは何も言わずにヴァッシュに背を向け立ち去った。
『ヘッドロックと人のことボケ呼ばわりしたお礼だよ』
だが、この配役変更はピッチャーにとって仇となった。
ウルフウッドはスペシャル外回りを六周走った。入部希望者の実力を自分の目で確かめたかったのと、コースを外れて楽をしようとする連中が出ることを警戒したのだ。
運動神経に多少は自信があった男子達も心臓破りの階段にはずいぶん消耗した。息を切らして階段を登る彼らに短く声をかけながら主将は平然と追い越していく。走り終えた後も疲れた様子は微塵もなかった。
ヴァッシュは外回りを八周走った後、迷子になった新入生を探してかなりの距離を走る羽目になった。しかし、二人で校庭に戻った時、息も絶え絶えな一年生とは対照的に彼の呼吸はほとんど乱れていなかった。
この話が広まり、トライガン学園野球部のバッテリーが密かに"デタラメーズ"と呼ばれるようになったのはそれから数日後のことである。
Ⅴ
「トンガリ、オドレ居残りな」
「はあ!?」
部室で着替えている時に突然下された命令にヴァッシュは素っ頓狂な声を上げた。予想外のアクシデントに加え平謝りする一年生をなだめるのにずいぶん時間がかかってしまい、窓の外はすっかり暗くなっている。
「俺だけ!? 何で!?」
「ええやん、用事がある訳やないんやろ?」
「用事なんてないけど……」
結構な量の運動をこなしたお陰でおなかも空いている。できれば早く帰りたい。
ワイシャツのボタンをとめつつ反論のネタを探しているピッチャーの目の前に、ウルフウッドは白い紙の束を突きつけた。
「今日の測定結果。これをマネージャーに渡すんや」
「……メリルに!?」
「生徒会のほうが終わったらこっち来る、ゆうとったけど、長引いとるようやな」
こんなに遅くまで……? ヴァッシュの眉間に深い皺が刻まれた。
「で、どうなんや? 居残りするんか?」
「喜んでやらせていただきます!」
元気一杯の返事にウルフウッドの口元が緩む。だが、その笑顔は天使の微笑みには程遠いものだった。
「マネージャーが来るのが何時になるかは判らんけど、それまでじ――っと待っとるのも阿呆らしいから部室の掃除頼むわ」
「え!?」
「昨日今日とろくすっぽ掃除してへんからなぁ、ちょうどええわ。……居残りするんやろ?」
黒い双眸は訴えている。『男に二言はあらへんで』と。
ヴァッシュはがっくりと項垂れ、呟くように答えた。
「喜ンデヤラセテイタダキマス……」
手早く荷物をまとめると、ウルフウッドは満面の笑みを浮かべつつ机に部室の鍵を置いた。部員で鍵を持っているのは主将とマネージャーだけでヴァッシュは持っていないからだ。
「鍵は明日返してや。ほなお先に」
音を立てて閉まったドアに向かって思いきり舌を出してみたが胸のもやもやは晴れない。ヴァッシュは我知らずため息をついた。
ひねくれた思いやりか、ささやかな復讐に対する報復か、単に掃除をさせたかっただけなのか。正直判断に苦しむ。
『……でも!』
ウルフウッドの思惑がどうであれ、これがチャンスであることには変わりがない。おまけに今度は邪魔が入る可能性はかなり低いのだ。
「よしっ、お掃除タイムスタート!」
大きな声で自らに宣言し、ヴァッシュは袖をまくりつつ掃除用具入れに歩み寄った。
Ⅵ
部室のドアがノックされたのは、ヴァッシュが床の掃き掃除を終えモップがけを始めて間もなくのことだった。
「は~い、どうぞ~」
明るい返事にドアから顔を覗かせたのはやはりメリルだった。手にしていたモップを壁に立てかけ、部室に入ってきた彼女に向き直る。
「電気が点いていたからもしやと思ったんですけど……こんな遅くまでどうしたんですの?」
「汚れが気になっちゃってね、ちょっとお掃除してたところ」
正直に『キミを待ってた』と言うつもりは毛頭なかった。そうと知ったら彼女は罪悪感を覚えるだろうから。
「キミこそ遅いじゃない。生徒会のほう、大変だね。お疲れ様」
労ったつもりだったが、何故かメリルは顔を曇らせた。
「……まだ終わってないんです。ちょっと抜けさせて貰っただけですの。……ごめんなさい。新入部員獲得で大切な時期なのに来られなくて……」
「や、だ、大丈夫だよ! 皆で対応してるし、昼休みに来てたマネージャー希望の子達も頑張ってくれたし。あ、これ今日の測定結果」
しどろもどろになりながら書類を手渡す。これで任務は完了。残るは個人的な用件のみ。
それとなく様子を窺う。真剣な表情で書類をめくっていたメリルの表情がふっと和らいだ。
「思ってたより多いですわ。それに……この人とこの人……この人も……」
「お眼鏡にかなう輩はおりますかな、マネージャー殿」
恭しく一礼する。芝居がかった言動にメリルは吹き出した。
「ええ、是非欲しい人材が何人か。……ブラドさん、なかなかいい数値ですわよ。中学時代は野球部に在籍していたとのことですし、入部してくれるといいんですけど」
「大丈夫だよ。アイツは絶対野球部に入る」
「あら、どうして断言できるんですの?」
誰が誰を好きだとか、そういうゴシップめいた話をするのは気が進まない。
理由を説明すべきか否か。僅かに逡巡した後口から出た言葉は本人にとっても意外なものだった。
「男のカン」
「……ヴァッシュさんのカンなら信じてよさそうですわね」
冗談だと思ったのだろう、メリルはくすくす笑っている。
部室に二人きり。なごやかな雰囲気。
『ロマンチックなムードとは言えないけど……』
今なら渡せる。ヴァッシュは唾を飲み込み、心を落ち着かせるべく深呼吸をした。
「メリル……」
それまでと微妙に異なる声のトーン。強張った表情。名前を呼んだこと。
クラスメイト兼クラブメイトの変化に気づいてメリルは表情を引き締めた。ブルーグリーンの瞳をまっすぐに見つめ、
静かに次の言葉を待つ。
「……キミに……」
その時、ヴァッシュの腹の虫が派手に自己主張した。
プロローグ
『よっしゃ!』
朝練前には貼り出されていなかったクラス編成の掲示の前で、人間台風は心の中でガッツポーズをした。
「あら、今年も同じクラスですのね。ヴァッシュさん、ウルフウッドさん、もう一年よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
笑顔で挨拶を返すヴァッシュの心は、曇りという頭上の天気に関係なく晴れやかだった。今年はクラスだけでなく出席番号も同じ。きちんと席が決まるまでの数日間は隣に座れる。
「なぁにニヤついとんねん。無事進級できたんがそんなに嬉しいんか」
「大きなお世話!」
顔を顰めて舌を出した瞬間嫌な考えが脳裏をよぎり、ヴァッシュは真剣な面持ちで再び掲示板へと視線を戻した。
『アイツは……』
自分達の欄とは大幅に離れたところにキールの名を見つけ、ほっと胸をなで下ろす。これなら通常の授業での接点は皆無だ。
「さあて、クラスの確認も出来たことだし移動しますか。いつまでもここに陣取ってたら邪魔になっちゃうよ」
明るい声で提案すると、ヴァッシュはメリルの肩を軽く叩いてから進むべき方向を指差した。さりげなくウルフウッドに目配せする。
三人は人垣の最前列から外れ、校舎を目指した。
バッテリーはマネージャーの後ろを歩くようにした。掲示板を見ている生徒会長に彼女の存在を気づかれないように。
廊下を歩きながら、メリルは心配そうな表情で二人を等分に見やった。
「部活説明会の準備は大丈夫ですの?」
彼女が問いかけたのも当然である。本番は二日後なのに、何をやるのか教えて貰っていないのだから。
菫色の瞳に見つめられ、ヴァッシュは内心どぎまぎしながら元気よく答えた。
「平気平気! 準備万端、ノープロブレムってね」
「楽しみにしててや」
いたずらっ子のような表情が並んでいる。顔立ちは似ていないのにこういう時は何故かそっくりに見えて、メリルは小さくため息をついた。
『本当に大丈夫なのかしら……』
マネージャーの不安は二倍ではなく二乗された。
教室に入ると、三人は自分の出席番号に従って席についた。ヴァッシュの席は教卓に近い位置で、隣には勿論
想い人。ほんの少し目線を動かせば彼女の横顔が見られる。
『中吉の御利益ってやつかな』
幸先のいい新年度のスタートに、ヴァッシュの口元は自然とほころんだ。
Ⅰ
入学式の日は灰色一色だった昨日の空が嘘のような見事な晴天となった。期待と不安が入り交じる新入生への天からの贈り物のように。
いい天気は翌日も続いた。
体育館でカリキュラムと年中行事の説明、校歌の紹介が行なわれ、その後各クラスでホームルーム――昨年までオリエンテーリングは午前中だけで終わっていた。が、今年は昼食を挟んで午後に部活説明会がある。
食事を終えた一年生は再び体育館に集合した。
体育館の舞台には飾りつけも何もなかった。あるのは中央に置かれたスタンドマイクだけ。
その前にキールが立った。
「はじめまして、生徒会長のキール・バルドウです。部活説明会を行なう前に一言ご挨拶させていただきます。……
トライガン学園は部活は自由参加です。ですが、新入生諸君にはこれからの紹介を参考にして、是非積極的に参加して欲しい。何故なら、部活動を通して育まれる友情があるからです。授業とは違う貴重な体験の場になるからです。……」
自己陶酔しているようなキールの言葉に真面目に耳を傾ける者はごく僅かだった。大半は事前に配られた
クラブ名一覧と部室の場所を示したプリントを熱心に見ていた。
「それでは運動部の紹介を始めます。……合気道部」
メリルの声に白い道着姿の男子生徒が舞台に飛び出し、一列に並んだ。威勢のいい掛け声に合わせ、基本の型を披露する。
一つの部に与えられた時間は九十秒。同好会を含めると五十を越える部全てを中だるみすることなく紹介するにはそれが限界だったのである。『短すぎる』という苦情が多数寄せられたが、メリルは何とか説得した。
各部とも工夫を凝らした演出で自己紹介をしていった。
紹介が途中でも、時間が来るとメリルは終了の合図であるホイッスルを吹いた。すかさず書記・会計・会計監査が舞台に上がり、穏便かつ迅速に強制撤収する。舞台の袖に追いやられながらも往生際悪くクラブ名を連呼する部に体育館はどっと沸いた。
「野球部」
いつもより早い鼓動を無視し、メリルは自分が所属する部を呼んだ。
舞台に上がったのはバッテリーの二人だけだった。ユニフォーム姿でグラブをはめたヴァッシュが、同じくユニフォームを着てミットを構えたウルフウッドに向かって投球する。鋭い音が体育館に響き、どよめきがそれに続いた。
二球受けた後、ウルフウッドはミットを脇に置き、バットを手に立ちあがった。ホームランを予告するように右手のある一点をバットで指し示す。新入生が首を巡らすと体育館の窓が野球部員によって開けられるところだった。
キャッチャーがいないことを気にする風もなく、ヴァッシュはいつものようにボールを投げた。小気味いい音と共に白球は一枚だけ開けられた窓から外へ消えた。
今度は左手の一点を指し示すと、ウルフウッドは見事に打球を飛ばした。
「来たれ野球部、一緒に甲子園を目指そう!」
マイクに駆け寄り、ヴァッシュは拳を固めつつ元気よく決め台詞を言った。が、何故か一緒に言う筈の声がない。
不審に思い目だけ動かして横を見る。ウルフウッドは舞台の袖にいた。
「!?」
主将に腕を掴まれ、メリルは危うく声を上げそうになった。そのまま舞台の中央まで引っ張り出される。
ヴァッシュの隣に立つと、ウルフウッドは華奢な肩を抱くようにしてにこやかに付け足した。
「今なら美人のマネージャーがお出迎えするで! ……あいだだだだだだだ」
アドリブに続いて予定外の雑音が口から洩れた。ヴァッシュに容赦なく手をつねられ、メリルの肩から力ずくで引き剥がされたのだから無理もない。
「セクハラしませんからねー、マネージャー希望の女子の皆さんも安心して来て下さいねー」
漫才のようなやりとりに生徒達は爆笑した。明るくフォローしたピッチャーの笑顔がぎこちないことに気づいた新入生はいただろうか。
突然至近距離から聞こえた騒音にバッテリーは揃って顔を顰め耳を押さえた。発信源はマネージャー。片手でマイクを覆ってからホイッスルを吹いたのは流石である。
メリルは生徒会役員に促され退場する二人とは反対側の舞台の袖に戻った。咳払いをして気持ちを切り替え、何事もなかったように言葉を紡ぐ。
「……失礼しました。続いて陸上部」
----------
そして彼は途方に暮れる
Ⅱ
「何なんだよ、さっきのアレ」
放課後、ヴァッシュはウォーミングアップをしながら小声でキャッチャーに問いかけた。アレとは勿論先刻の部活説明会のことである。
「勝手に打ち合わせになかったことやって……」
「ええやんか、減るもんやないし」
「そういう問題じゃないだろ!?」
目をむいて怒りを顕わにするピッチャーにジェスチャーで落ち着くよう示してから、ウルフウッドは皮肉な笑みを浮かべた。
「結果オーライや。見学者ぎょーさんおるで」
確かに野球部を取り囲む生徒は多い。しかもほとんどが男子である。部員が欲しい野球部としては嬉しい事態なのだが。
「……野球に興味があって来てる奴ばっかりじゃないさ」
グラウンドを見ようとせず、きょろきょろと辺りを見回している生徒が何人もいる。誰を探しているのか一目瞭然だ。
「プレーヤーとして使えそうな奴が入部したらええんや。動機は関係あらへん」
「動機が不純だと長続きしないんじゃない?」
「入部者がおらんかったら話にならんやん。長続き云々は実際に入部した連中を見てから心配すればええ」
ウルフウッドはどこまでも楽天的だ。相棒の冷たい視線も全く意に介さない。
「ほな挨拶しとこか」
『去年の夏みたいなことにならなきゃいいけど……』
走り出した主将の後を追いながら、人間台風はこっそりため息をついた。
「皆さんようこそ。ワイが主将のニコラス・D・ウルフウッドです。今日はのんびり見学してって下さい」
見学者を校庭の一角に集めると、ウルフウッドは笑顔で挨拶した。いつにない愛想の良さに部員達の背中に悪寒が走る。
「副主将のヴァッシュ・ザ・スタンピードです。野球が好きな人、野球に感心のある人は大歓迎……」
寒気を堪えつつ発したヴァッシュの言葉は途中で途切れた。人垣をかき分け自分の前に立ったおさげ髪の女子生徒にじっと見つめられた為に。
「え、と……質問ですか?」
彼女は何も言わない。ただ固い表情で見上げているだけだ。
『……?』
既視感。どこかで会ったことがある。でもどこで……
「……ジェシカ?」
大急ぎで記憶を辿り、ようやく思いついた名前を口にした途端、彼女が破顔した。
「ン"ギャ――――、ヴァッシュウウウウウ」
飛びかかるような勢いで抱きつかれ、ヴァッシュの顔は瞬時に愉快なものに変わった。突然のことにどう対処していいのか判らず、人一人首からぶら下げたままただ口をぱくぱくさせるのみ。動揺の余り女子達の非難の声も耳に
届かない。
突き刺さるような視線を感じて目線を動かす。リーゼントの大柄な男が呪いをかけているかのような目で自分を睨んでいた。
『ブラド……』
いかつい顔に昔の面影はほとんどなかったが、変わらぬ髪と瞳の色からヴァッシュはそう確信した。
「…………ほら、もう泣かないでジェシカ……」
何とか気をとり直し、頭をそっと撫でながら幼なじみをなだめる。
「ヴァッシュ……ヴァッシュ……会いたかった……。……こっちに戻って来てたんならどうして連絡くれなかったの?」
「積もる話は後で。今は部活中だから……」
どうにか説得してジェシカを元の場所に帰すと、ヴァッシュは再び口を開いた。
「今日は見学だけとします。入部希望者は基礎体力の測定をしますので、明日の放課後運動できる恰好でここに来て下さい」
「はいは~い、質問で~す! マネージャー希望はどうしたらいいですか~?」
ぶんぶんと手を振りながら発言したのはミリィだった。
「明日の昼休みに部室に来て下さい。マネージャーのメリル・ストライフさんから説明があります」
「あのう……メリル先輩は……?」
控えめな質問にヴァッシュはそれまでと変わらぬ声で答えた。内心穏やかではなかったが。
「オリエンテーリングで判ったと思いますが、マネージャーは生徒会副会長を兼務しています。生徒会の仕事が忙しい場合は部活に参加しないこともあります」
それとなく全員の表情を確認する。落胆した男子生徒は一人や二人ではなかった。
ジェシカのこと、ブラドのこと、メリル目当ての見学者、ここにはいないがキールのこと……悩みの種は尽きない。
『ゼントタナンだなぁ……ところでゼントタナンってどう書くんだっけ?』
漢字の書き取りという、普段なら絶対やらない方法で現実逃避する人間台風であった。
Ⅲ
翌日の昼休み、ヴァッシュとメリルは部室で昼食をとることにした。万が一にもマネージャー希望者を待たせる
訳にはいかないとの判断からである。
副主将がいる必要はないのだが、ヴァッシュは『何か手伝えることがあるかも知れないから』と自ら同席を申し出た。
無論主たる目的は別にある。
「さあ、早く食事を済ませてしまいましょう」
「あ、あの……」
持参した弁当を手早く広げるメリルにヴァッシュは上ずった声で呼びかけた。
「? どうかなさいました?」
「……じ、実は……わ」
突然ノックもなくドアが開き、甲高い声が部室に響いた。
「ヴァッシュ~~~~~ッ」
「うわああああああっっっ!!!!」
体当たり同然に抱きつかれ、ヴァッシュは右手を鞄に突っ込んだまま尻餅をついた。
「ジェ、ジェ、ジェシカ!?」
「やっぱりこっちにいたのね! 教室にいなかったからそうだと思った!」
「ど、どうしてここに!?」
「決まってるじゃない、マネージャー希望だもの。そ・れ・に」
ようやくヴァッシュから離れると、ジェシカは満面の笑顔で持っていたトートバックを見せた。
「一緒にお弁当食べようと思って!」
逆立てた金髪が大きく前に倒れた。うなだれた男はゆっくり吐息し、小さな紙袋からそろそろと手を離した。
二人きりの時にプレゼントを渡す。たったそれだけのことがどうしてできないんだろう。
メリルが苦笑混じりの微笑みを浮かべているのに気づいて、ヴァッシュは慌てて立ち上がった。
「あ、あの、マネージャー、この子は僕の幼なじみで、同じ保育園に通って」
「はじめまして! マネージャー希望、一年のジェシカです。よろしくお願いします!」
しどろもどろに説明するヴァッシュを差し置いて、ジェシカは元気よく挨拶しぴょこんと頭を下げた。
「はじめまして。マネージャーで二年のメリル・ストライフです。こちらこそよろしくお願いしますわね」
自分より背の高い後輩に礼を返してから、メリルはピッチャーへと視線を移した。
「折角ですから一緒に食べましょう」
反対する理由はない。複雑な心境のままヴァッシュは肯いて賛成の意を示した。
昼食は賑やかになった。当然のようにヴァッシュの隣に座ったジェシカが食べる間も惜しんで喋ったからだ。
「ヴァッシュはあたしの王子様なんです! ブラドっていういや~な幼なじみがいるんですけど、そいつがあたしのことよく苛めて、その度にヴァッシュが助けてくれて……」
食事を中断したジェシカは胸の前で両手を組み、目を輝かせて思い出に浸っている。
「ジェシカさんにとって、ヴァッシュさんは正義のヒーローでしたのね」
「はい! ほんとにカッコよかったんですよ!」
話が弾む女性陣とは裏腹にヴァッシュの心は沈んでいった。ブラドがジェシカを苛めていた理由を知っているからだ。
昨日自分に向けられた視線からして、ブラドの想いはあの頃と変わっていない。ジェシカの方はブラドの気持ちなどこれっぽっちも判っていないようだ。
ヴァッシュは暗い気分で黙々と箸を動かした。
食事を終え片づけをしている時、不意にジェシカがヴァッシュを見上げて首をかしげた。
「どうしてヴァッシュ・ザ・スタンピードなの? ヴァッシュ・ミリオンズじゃなくて」
去年、初めて新聞でトライガン学園のピッチャーの記事を見た時、姓が違うことを疑問に思った。昨日名前を呼ばれるまで『もしかしたら人違いかも知れない』とずっと不安だった。
「……両親が離婚したんだ。ナイブズとも離れて暮らしてる」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで」
しょげ返ったジェシカにヴァッシュは微笑んでみせたが、幼なじみの表情は明るくならない。
重苦しい沈黙。それを破ったのはまたもノックなしに飛び込んできた高い声だった。
「せんぱ~い、来ましたぁ! …………あれ? あたしの顔に何かついてます? もしかしてお弁当とか!?」
六つの瞳に見つめられ、ミリィは慌てて両手で自分の顔を撫で回した。
「あ、いえ、大丈夫ですわよ。何でもありませんわ」
本当にこの子には助けられてばかりですわね。この場の雰囲気を一変させてくれた後輩に心の中で感謝しつつ、メリルはゆっくりと首を横に振った。
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そして彼は途方に暮れる
Ⅳ
放課後、入部希望者はいくつかのグループに分かれて体力測定を受けた。昼休み部室に集合したマネージャー志願の女子生徒も記録係として初仕事にいそしんでいる。
が、本来彼女達を監督する立場の筈のメリルは校庭にはいなかった。
『ごめんなさい、部活説明会の反省会が昨日終わらなかったんですの』
朝練の後申し訳なさそうに謝ったメリルの顔が脳裏に浮かび、副主将は僅かに顔を曇らせた。
どうせまたキールがいちゃもんをつけてるんだろう……そう思うと怒りがふつふつとこみ上げてくる。
突然筋肉質の腕にヘッドロックをかけられた。そのまま身体の向きを百八十度変えられる。
「なーにぶすくれとんねん」
囁きに近い声には怒りと呆れが同量ずつ含まれていた。
「誰が!?」
「入部希望者の前で不機嫌そうなツラするんやないわ、ボケ」
捨て台詞と共に身体の自由が戻った。
短距離走や遠投などの測定を終えた男子生徒がすぐ後ろで待っている。ヴァッシュは頬を軽く叩いて自分に気合を入れてから振り返り、てきぱきと指示を出した。
入部希望者を運動部経験者と未経験者の二つに分け、更に六人一組でグループを作る。それぞれにマネージャー希望の女子と部員を割り振ってタイムの記録を頼む。
「最後に持久力の測定をします。運動部経験者はスペシャル外回りを三周、未経験者は外回りを三周走って貰います」
ヴァッシュはトライガン学園周辺の大きな地図を指で辿りながらコースの説明をした。
「コースが判らない人はいますか? …………大丈夫ですね。……スペシャル外回りは主将が、外回りは僕が一緒に走ります」
凄い勢いでウルフウッドがこちらを見たが、何食わぬ顔で続ける。
「途中で具合が悪くなった人は遠慮なく申し出て下さい。では十分後、校門前に集合して下さい。……解散」
三々五々散っていく将来の仲間達を見送ってから、ヴァッシュは一人ウォーミングアップを始めた。と。
「ウラッ!」
屈伸していて立ち上がりかけたところに飛んできた平手。咄嗟に顔をそらせたものの避けきれず、左の頬がじんじんと痛んだ。
「何すんだ、このテロキャッチャー!」
「さっきの分担、どういうこっちゃ!?」
入部希望者達について走ることは前もって決めていた。どちらがスペシャル外回りを走るか決めたのは部活が始まる直前、方法はジャンケン三本勝負。
二勝一敗で勝者となったのはウルフウッドで、彼は当然の如く外回りを選択したのだが。
「いやあ、ゴメンゴメン。間違っちゃった」
頭を掻きながら詫びる人間台風に反省の色は見られない。わざと逆に言ったのは明白だった。
一度発表した役割分担を何の説明もせず変更したら入部希望者達が戸惑うだろう。かといってこんな馬鹿馬鹿しい理由は公表できないし、もっともらしい理屈も思いつかない。
舌打ちして苛立ちを紛らわせると、ウルフウッドは何も言わずにヴァッシュに背を向け立ち去った。
『ヘッドロックと人のことボケ呼ばわりしたお礼だよ』
だが、この配役変更はピッチャーにとって仇となった。
ウルフウッドはスペシャル外回りを六周走った。入部希望者の実力を自分の目で確かめたかったのと、コースを外れて楽をしようとする連中が出ることを警戒したのだ。
運動神経に多少は自信があった男子達も心臓破りの階段にはずいぶん消耗した。息を切らして階段を登る彼らに短く声をかけながら主将は平然と追い越していく。走り終えた後も疲れた様子は微塵もなかった。
ヴァッシュは外回りを八周走った後、迷子になった新入生を探してかなりの距離を走る羽目になった。しかし、二人で校庭に戻った時、息も絶え絶えな一年生とは対照的に彼の呼吸はほとんど乱れていなかった。
この話が広まり、トライガン学園野球部のバッテリーが密かに"デタラメーズ"と呼ばれるようになったのはそれから数日後のことである。
Ⅴ
「トンガリ、オドレ居残りな」
「はあ!?」
部室で着替えている時に突然下された命令にヴァッシュは素っ頓狂な声を上げた。予想外のアクシデントに加え平謝りする一年生をなだめるのにずいぶん時間がかかってしまい、窓の外はすっかり暗くなっている。
「俺だけ!? 何で!?」
「ええやん、用事がある訳やないんやろ?」
「用事なんてないけど……」
結構な量の運動をこなしたお陰でおなかも空いている。できれば早く帰りたい。
ワイシャツのボタンをとめつつ反論のネタを探しているピッチャーの目の前に、ウルフウッドは白い紙の束を突きつけた。
「今日の測定結果。これをマネージャーに渡すんや」
「……メリルに!?」
「生徒会のほうが終わったらこっち来る、ゆうとったけど、長引いとるようやな」
こんなに遅くまで……? ヴァッシュの眉間に深い皺が刻まれた。
「で、どうなんや? 居残りするんか?」
「喜んでやらせていただきます!」
元気一杯の返事にウルフウッドの口元が緩む。だが、その笑顔は天使の微笑みには程遠いものだった。
「マネージャーが来るのが何時になるかは判らんけど、それまでじ――っと待っとるのも阿呆らしいから部室の掃除頼むわ」
「え!?」
「昨日今日とろくすっぽ掃除してへんからなぁ、ちょうどええわ。……居残りするんやろ?」
黒い双眸は訴えている。『男に二言はあらへんで』と。
ヴァッシュはがっくりと項垂れ、呟くように答えた。
「喜ンデヤラセテイタダキマス……」
手早く荷物をまとめると、ウルフウッドは満面の笑みを浮かべつつ机に部室の鍵を置いた。部員で鍵を持っているのは主将とマネージャーだけでヴァッシュは持っていないからだ。
「鍵は明日返してや。ほなお先に」
音を立てて閉まったドアに向かって思いきり舌を出してみたが胸のもやもやは晴れない。ヴァッシュは我知らずため息をついた。
ひねくれた思いやりか、ささやかな復讐に対する報復か、単に掃除をさせたかっただけなのか。正直判断に苦しむ。
『……でも!』
ウルフウッドの思惑がどうであれ、これがチャンスであることには変わりがない。おまけに今度は邪魔が入る可能性はかなり低いのだ。
「よしっ、お掃除タイムスタート!」
大きな声で自らに宣言し、ヴァッシュは袖をまくりつつ掃除用具入れに歩み寄った。
Ⅵ
部室のドアがノックされたのは、ヴァッシュが床の掃き掃除を終えモップがけを始めて間もなくのことだった。
「は~い、どうぞ~」
明るい返事にドアから顔を覗かせたのはやはりメリルだった。手にしていたモップを壁に立てかけ、部室に入ってきた彼女に向き直る。
「電気が点いていたからもしやと思ったんですけど……こんな遅くまでどうしたんですの?」
「汚れが気になっちゃってね、ちょっとお掃除してたところ」
正直に『キミを待ってた』と言うつもりは毛頭なかった。そうと知ったら彼女は罪悪感を覚えるだろうから。
「キミこそ遅いじゃない。生徒会のほう、大変だね。お疲れ様」
労ったつもりだったが、何故かメリルは顔を曇らせた。
「……まだ終わってないんです。ちょっと抜けさせて貰っただけですの。……ごめんなさい。新入部員獲得で大切な時期なのに来られなくて……」
「や、だ、大丈夫だよ! 皆で対応してるし、昼休みに来てたマネージャー希望の子達も頑張ってくれたし。あ、これ今日の測定結果」
しどろもどろになりながら書類を手渡す。これで任務は完了。残るは個人的な用件のみ。
それとなく様子を窺う。真剣な表情で書類をめくっていたメリルの表情がふっと和らいだ。
「思ってたより多いですわ。それに……この人とこの人……この人も……」
「お眼鏡にかなう輩はおりますかな、マネージャー殿」
恭しく一礼する。芝居がかった言動にメリルは吹き出した。
「ええ、是非欲しい人材が何人か。……ブラドさん、なかなかいい数値ですわよ。中学時代は野球部に在籍していたとのことですし、入部してくれるといいんですけど」
「大丈夫だよ。アイツは絶対野球部に入る」
「あら、どうして断言できるんですの?」
誰が誰を好きだとか、そういうゴシップめいた話をするのは気が進まない。
理由を説明すべきか否か。僅かに逡巡した後口から出た言葉は本人にとっても意外なものだった。
「男のカン」
「……ヴァッシュさんのカンなら信じてよさそうですわね」
冗談だと思ったのだろう、メリルはくすくす笑っている。
部室に二人きり。なごやかな雰囲気。
『ロマンチックなムードとは言えないけど……』
今なら渡せる。ヴァッシュは唾を飲み込み、心を落ち着かせるべく深呼吸をした。
「メリル……」
それまでと微妙に異なる声のトーン。強張った表情。名前を呼んだこと。
クラスメイト兼クラブメイトの変化に気づいてメリルは表情を引き締めた。ブルーグリーンの瞳をまっすぐに見つめ、
静かに次の言葉を待つ。
「……キミに……」
その時、ヴァッシュの腹の虫が派手に自己主張した。
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