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不協和音

プロローグ

生徒会の引継ぎが行なわれたのは、あと一週間で二月に入るというよく晴れた寒い日だった。
メリルは放課後、顧問に部活を休む旨申し出てから生徒会室に向かった。現役員全員と新役員のおよそ半分が既に来ていた。
「やあ、メリルさん」
満面の笑みを浮かべ大袈裟に両手を広げて自分を迎えたキールに軽く頭を下げ、メリルはわざとその横を通り過ぎて現副会長に歩み寄った。表情はあくまで平静に、心の中で眼鏡をかけた顔をこれでもかと平手打ちしながら。
「後任のメリル・ストライフです。ご指導のほどよろしくお願いいたします」
「そんなに堅苦しくしなくてもいいよ」
恭しく一礼したメリルに、現在二年の副会長は苦笑しながら答えた。
生真面目だが嫌な感じはしない。入学式の時、新入生代表として挨拶した彼女に感じた少々きつい印象はいい意味で覆された。
程なく十六人の新旧役員が揃い、現生徒会長が役割分担と年間業務について説明した。続けて役職ごとに別れて細かい引継ぎを行なった。
副会長の仕事は基本的に会長を補佐することだが、副会長独自の仕事もかなりの量に及んだ。
思っていたよりもやることが多い。メリルは貰った年間業務の一覧表にメモをしながら熱心に話を聞いた。
「…君、部活はどうするつもり?」
話が一段落したところで副会長がメリルに問いかけた。
「勿論続けます」
あっさりとした答えに、何故か副会長は眉根を寄せた。
「…部活との両立は大変だよ。行事の前はどうしても生徒会の仕事に追われて、部に顔出しもできなかった。俺は美術部だったけど、結局幽霊部員になってしまってね。五月に退部届を出した。…無理して続けても、まわりからはいい顔をされないし」
部活仲間からは、普段はあまり、行事の時は全く来ない部員として疎まれる。他の部からは、副会長であることを利用して自分の部に有利なように事を運ぶのではないかと勘繰られる。
「ご忠告ありがとうございます。でも、どちらも大切にしたいんです。実際やってみて、何か不都合が出たらその時に考えたいと思います」
柔らかな微笑みと穏やかな声。その奥に秘められた決意を感じて副会長は小さく吐息した。
「…各部からの予算申請の〆切が今月末。その後の予算編成が君達の初仕事になる。野球部は夏の予選で実績を残したから希望すれば予算は増額できるだろうし、無茶なことは言われないとは思うけど…多少は覚悟しておいたほうがいい」
「はい、肝に銘じます」
実体験に基づいているのであろうアドバイスに、メリルは深く頭を下げて感謝の意を表わした。
それでも心は変わらない。やる前に諦めるのは嫌。
菫色の瞳に宿る力強い光。副会長は再びため息をつき、声をひそめてつけ足した。
「会長があれだからね…苦労は多いだろうけど、頑張って」
キールは話の最中もしきりにこちらを盗み見ている。彼と今回の選挙に関する黒い噂を副会長は知っていた。
「…ありがとうございます」
後任の苦笑いにつられて副会長もようやく笑顔に戻った。


「これは…」
各部からの予算申請用紙をまとめていた新会計の二人は頭を抱えて絶句した。約半数が前年を大きく上回る額を申請してきたのだ。全ての部を合計すると部活用の予算を大幅に超えてしまう。
メリルも書類を数枚手にとって目を通した。品名の欄に並ぶのは耐久消費財と思しきものから消耗品まで様々。思いつくまま書き連ねたらしい行数に軽い目眩を覚える。
とんでもない数字を出した部の中にはいい成績を残せなかったところもある。ごく一部だが、今年めぼしい活動をしていない部もあった。申請の根拠は――新生徒会長との裏約束。
『早速ツケが回ってきましたわね』
ちらりとキールを見る。青ざめた顔は強張っていた。
「生徒会長、どうします!?」
悲鳴にも似た会計担当の声に返事はない。ただ低く唸るのみである。
「…いったん書類を部に戻して、優先順位をつけて貰ってはどうでしょう。必要度の高いものから順に記入した訳ではないようですから」
七人の目がメリルに集中する。菫色の双眸はまっすぐキールを見つめていた。
「その上で編成会議で調整をとり、必要なら削れるところは削って貰う。…いかがですか?」
「そ、そうだな。そうしよう」
他に案などない。キールは一も二もなく肯いた。
「会議は十日ですから…〆切は六日にしましょう」
「はい!」
書類を手に生徒会室を出ようとした会計担当をメリルは呼びとめた。
「もう一つ。消耗品でないものについては、カタログなどそれがどんな品物なのか判る資料をつけて貰うようにして下さい。記入された価格が妥当かの確認も必要でしょうから。それと…」
言いながら歩み寄り、書類の束を受け取る。
「返却は分担して全員で行きましょう。二人だけでは大変ですもの。その方が短時間で終わりますし」
十中八九クレームが出るだろう。謝罪と説明をくり返しているうちに夜になってしまう。
「え、でも」
金銭にかかわることは会計の仕事なのに。
「これは私達が一致団結して乗り越えなければならない最初の試練ですわ。担当がどうのと言ってる場合ではないと思うんですの。…皆さんはどう思われます?」
前代未聞の予算申請。旧役員に訊いてもおそらくいい知恵は出ないだろう。自分達で何とかするしかないのだ。
「…そうですよね」
新役員は互いに顔を見合わせ肯きあった。
「会長、よろしいですか?」
「あ、ああ」
最終的なお墨付きを取りつけ、メリルは書類を八つに分ける作業を始めた。特に無理な申請をしてきた部の書類をさりげなく抜き、ひとまとめにしてキールに手渡す。
「では会長、これをお願いします」
「判った」
残りの六つをそれぞれに託す。八人は校舎の内外に散った。
その後、二日かけてようやく割り当てられた部を回り終えたキールはひどくやつれていた。
『自業自得ですわ』
ぐったりした表情で椅子にもたれかかる生徒会長を一瞥してから、メリルは文句を言われ落ち込む他の役員を励ました。


二月六日。生徒会室の机上には紙の山ができた。
メリルは申請書にざっと目を通し、同じ商品でも記入されている単価が異なるものが多数あることに気づいた。
「価格調査の必要があると思いますが、いかがでしょうか」
いくつか例を示しながらメリルは全員に尋ねた。反対する者はいなかった。
「調査は二種類行ないましょう。金額に差のあるものと、特殊な備品と」
言いながら、耐久消費財の申請があるものを抜き出していく。
「事務用品の類と運動部の備品については私が調べます」
「一人じゃ大変じゃありませんか?」
会計担当の女子生徒が控えめに異を唱える。自分を思いやっての発言にメリルは穏やかな笑みを返した。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
事務用品は病院でも使っている。購入担当者に頼んで業者と価格を教えて貰えばいい。運動部が使う道具なら、父の知人に取り扱っている人が大勢いる。
「…問題は特殊な備品ですわ。演劇部の可動式ライト、写真部の現像用機器、吹奏楽部の譜面台人数分、他にもいろいろありますけど…自宅にパソコンがある方はどのくらいいらっしゃいます?」
キールの他、三人が手を挙げた。
「インターネットはできます?」
四人とも肯首した。
「では、四人で手分けしてネット通販のサイトを調べていただけませんか? 中間マージンがない分安くなっている筈ですし、中古でいいものが見つかればそれにこした事はありませんから」
パソコンがない、という三人の顔を順に見つめてからメリルは再び口を開いた。
「お三方には近場のディスカウントショップを回っていただきたいのですけれど…。申請書にあった商品を取り扱っているかどうか、価格は…大まかで構いませんから、そういったことの確認をお願いしたいんです。足で調べなければならない分大変だと思いますけど…」
申し訳なさそうにメリルが顔を曇らせる。三人は笑顔で快諾し、早速回る店の選定を始めた。
「…会長、私の個人的な意見を皆さんにお聞きいただきましたが、いかがでしょうか」
一応キールの顔を立てておかなければならない。それに、後から『あれは君が勝手に決めたことだ、僕は認めた覚えはない』などと言い出されては困る。
「そうだな。それでいい」
メリルの問いかけにキールは鷹揚に肯いてみせた。発案は副会長でも決定を下したのは自分。プライドは保たれている。
インターネット組と足で調べる組がそれぞれ分担を決めるのを待って、メリルは小声でキールに言った。
「十日の会議の前に結果を取りまとめておく必要がありますわ。前もってもう一度集まって確認作業をしなければいけませんわね」
「ああ」
わざとらしく咳払いをすると、キールは必要以上に声を張り上げた。
「八日までに各々調査結果をまとめ、九日の放課後に持参すること。では本日は解散!」
突然の命令口調にメリルを除く六人は眉をひそめた。自分の意見はないくせに最後だけ偉そうに振る舞われるのは正直不愉快だ。
最初に生徒会室を出たキールは、自分の背中に向けられている白い目に気づかなかった。
メリルは吐息した。予算編成会議は荒れるだろう。せめて役員同士は団結したいところだが、会長自ら和を乱してくれる。
『先が思いやられますわ…』


事務用品は生徒会が一括で購入することで単価を引き下げ、個別に購入するよりも安い価格で各部に引き渡す。
高価な備品は中古や一つ前の型に変更して貰う。
了承を得られたものと仮定して金額を修正してみたが、申請された額の合計は予算を上回っていた。
「やはり削って貰うしかありませんわね…」
僅かに眉根を寄せてメリルは呟いた。約束が果たされないと判ったら、裏取り引きのあった部はどういう行動に出るだろうか。
脳裏に浮かぶのは嫌な予測ばかり。
何の気なしに首を巡らせ、役員の表情が暗いことに気づく。これではまるでお通夜だ。
メリルはばしばしと音を立てて自分の頬を三回叩き、自分に活を入れた。その音に驚いた面々が顔を上げる。
『弱気こいてる場合じゃなくてよ。メリル、ファーイト!!』
口元に笑みを刻んで、メリルは書記の二人の名前を呼んだ。
「すみませんけど、残っていただけます? 明日の資料を作成しないと」
「はい判りました」
「会長、書類の作成は私達三人でできますから、今日はこれでお開きにしてはいかがでしょうか」
「ああ、じゃ任せるよ」
予想どおりの返事。首を縦に振るキールから目をそらし、一同を見回して微笑む。
「皆さん、本当にお疲れ様でした。会議では価格についての質問が出ると思います。答弁は実際に調べて下さった方にしていただきますから、そのつもりでいて下さい」
会長に頼んだところで満足に答えられるか疑わしいし、一部の部は聞く耳を持たないだろう。何より、あの口調で説明されたら反発は必至だ。揉める原因は作らないに限る。
前年の実績と今年の申請額の対照表。調査した品物の価格一覧。生徒会の提案書。生徒会の備品であるパソコンを使って、三人はそれぞれ書類を作成した。出来上がったものを印刷し、ホチキスでとめる。
「…これで完了ですわね。遅くまでごめんなさい。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。…メリルさんが生徒会長になった方がよかったんじゃないですか?」
「えっ?」
意外な言葉に思わず相手の顔をまじまじと見つめる。冗談めかした口調とは裏腹に目は真剣だった。
「どうしてあんな人が生徒会長になったんでしょうね…」
その隣から聞こえた小さな呟き。どちらも偽らざる本音だろう。
「…後片づけは私がやります。もう真っ暗ですから、気をつけて帰って下さいね」
それには答えず、メリルは遠慮する二人をドアのところで見送った。
片づけといっても使った道具を元の場所に戻すだけ。さほど時間はかからなかった。
入り口を施錠し、当直の教師に挨拶してから昇降口に向かう。部活も既に終わっている時間、廊下の照明は非常灯だけで辺りは暗かった。
「やあ」
突然声をかけられ、メリルは飛び上がるほど驚いた。
「ヴァッシュさん! 脅かさないで下さい!」
「そんなつもりじゃなかったんだけど…」
「あ…あの、ごめんなさい。私が勝手に驚いただけですのに…」
回れ右をし、肩を落としてしょげ返る大柄な男に慌てて謝る。
背中を丸めたヴァッシュは肩越しにちらりとメリルのほうを見てから泣き真似を始めた。
「なぜ僕がこんな目にあうのママン。何も悪いことしてないのにマネージャーが僕を叱るよママン」
「私が悪かったですわ。ごめんなさい。何度でも謝ります。お願いですから機嫌を直して下さい」
「…ほんとに悪かったって思ってる?」
猫背のままゆっくり振り返り、顔の大半を両手で隠したまま、半信半疑といった目をメリルに向ける。
「ええ、勿論」
「…じゃあ、僕のお願いきいてくれる?」
「ええ」
短い返事にヴァッシュは勢いよく両手を降ろした。下から現れたのは、その場がぱっと明るくなるほどの笑顔。
「一緒に帰ろう!」
…つまりそれは『自宅まで送る』ということ。どうしてそれが罪滅ぼしになるのか疑問に思うが、肯いてしまった手前断れない。
並んで自転車置き場まで歩きながら、メリルはヴァッシュに問いかけた。
「ずっと待ってて下さったんですの?」
「まあね。着替え終わって何となく校舎を見たら、まだ電気がついてたから。でもそんなに長い時間じゃないよ」
メリルは小さくため息をついた。しかしその口元には微笑とも苦笑ともとれる笑みが浮かんでいる。
『嘘つき…』
校庭の照明設備では野球をするのに充分な明るさは作り出せない。だから練習は夏よりも早い時間に終わる。
そうなるようメニューを組んだのは他ならぬ自分だ。
「…ありがとうございます。でも、明日は待たないで下さいね」
「どうして!?」
「予算の編成会議がありますの。かなりの人が残りますから帰りも心配いりませんわ。それに…」
「それに?」
「…たぶん、今日よりもっと遅くなります」
「…そっか」
メリルの言葉や表情からは彼女の心は読み取れない。自分の行動が迷惑なのか、そうじゃないのか。
心に棘が刺さったような痛みを感じながらヴァッシュは足を進めた。

--------------



不協和音


明日の予算編成会議は長引くだろう。――メリルの予想は半分的中した。
十日の会議は短時間で終わった。生徒会からの削減要求が受け入れられず、仕切り直しとなった為である。
特に耐久消費財を申請してきた部からの反発はメリルの想像を超えていた。
キールが理由を説明したのだが、その半ばで野次が飛び始めた。交替したメリルが話をしている最中は多少静かになったものの、終わった後は怒号と罵声が飛び交い誰が何を言っているのか判らない有り様。
これではとても会議にならない。そう判断したメリルは大きく息を吸ってから両手を高らかに打ち鳴らした。
小気味いい音が室内に響き渡り、一瞬静まり返る。
「生徒会の意向は先程お話ししたとおりです。会計担当の方の一存では判断できかねることもあると思いますので、皆さん一度部に持ち帰って検討して下さい。会議は十二日に再開します。異議のある方はいらっしゃいますか?」
今を逃したら収拾がつかなくなる可能性が高い。キールに発言させるべきなのは判っていたが、メリルは一気にまくしたて反応を見た。全員呆気に取られた様子で声も出ないようだ。
「…ないようですわね。では一時休会といたします。価格に関して詳しく知りたい方は生徒会室までお越し下さい。皆さんお疲れ様でした」
確かに自分の判断で即答はできない。生徒達は口々に文句を言いながらも、会議の場となった視聴覚室を出ていった。それを見送ってから、メリルは生徒会室に向かった。
後ろから近づく人の気配を感じる。足音で誰なのかは判っているが振り返る気にもならない。
キールは副会長の横に並ぶと、気難しそうな表情で口を開いた。
「メリル君、さっきのあれは困るよ」
生徒会室の中で主導権を握られるのはともかく、大勢の生徒の前で自分をないがしろにされるのはプライドが許さない。
「申し訳ありません。差し出がましいことをしました」
歩きながら軽く頭を下げ目を伏せる。キールの顔を見ないように。不快感が滲み出ているかも知れない自分の顔を見られないように。
「うん、判ってくれてればいい。でもこれからは気をつけるように」
華奢な肩を叩こうとした手は、メリルが抱きかかえた資料を持ち直そうと上体を僅かに倒した為空振りした。
「はい。…ですが、会長にはもっと重要なお仕事がありますから、あの場を収めるくらいのことは副会長がやるべきだと思いまして」
「重要な仕事?」
「会長にしかできないことですわ」
メリルはキールをいったん持ち上げてから、法外な申請をしてきた五つの部を挙げた。
「元の申請額が大きすぎますから、多少削減していただいたとしても他の部からクレームが出ると思われます」
ほとんど削らないでしょうけど、とは言わなかった。
「会長には十二日の会議までに各部を回って、何とか大幅に見直していただけるよう交渉していただきたいのです」
「僕が!?」
書類を返しに行った時の殺気立った雰囲気を思い出し、キールの顔から血の気が引いた。
「ええ」
「し、しかし…」
「根回しは得意の筈ですわね」
声をひそめてとどめの一言。
その場に棒立ちになったキールを残して、メリルは一人生徒会室に入った。


予定どおり十二日に会議が再開されたが、予算の編成は終わらなかった。会議は翌日も続けられることになった。
長引く会議に譲歩を示した部もあったが、キールが交渉した――そして決裂した――五つの部を含む一部が譲ろうとしない。それが場の雰囲気を悪化させた。
互いの主張を述べ、質疑応答をしていた筈が、いつの間にか相手を罵り中傷するだけになる。その度にキールが軌道修正するのだが、すぐに同じことが始まってしまう。
結論の出ない現状に皆疲れていた。苛立ちは募り、罵声の矛先はメリルにも向けられた。
「副会長! あんたまだ野球部にいるそうだな! えこひいきしようってんなら承知しねえぜ!」
頭に血が上った陸上部の先輩に怒鳴られても、メリルが冷静さを失うことはなかった。
「確かに私は野球部のマネージャーで会計も担当しています。でも、今私は中立の立場である副会長としてこの場におります。野球部の副主将に出席していただいているのも、私が野球部の会計担当として発言しない為です」
菫色の双眸が副主将を見つめる。
「今回の申請における野球部の見解をご説明下さい」
「資料を見ていただければ判るかと思いますが、今回申請したのはボールやバットなど古くなった消耗品です。ユニフォームと帽子は、部員達から別途費用を集めて作成する予定です。金額的には昨年とほぼ同じですし、問題はないものと考えます」
答弁の見本のような説明は、朝練の時にマネージャーから『もし質問されたらこうおっしゃって下さい』と言われたそのままだった。まごつかずきちんと話せたことに密かに胸をなで下ろす。
「…ということだそうですが、よろしいですか?」
感情論に対する理詰めの解答。陸上部員は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。
このままでは埒があかない。一つ深呼吸をして、メリルは自ら憎まれ役になる覚悟を固めた。
客観的に見て無理な申請をしてきた部を名指しし、申請の根拠を確かめる。満足な説明のできないものは更に追求し、その大半を撤回させた。どうしても削減できないものについては、中古品や一つ前の型に変更することを了承させた。生徒会の備品を貸し出すことで個別購入をとりやめたものもあった。
適切な代替案。厳しいが公正な采配。メリルの提案に異を唱える者はいなかった。
「…写真部の現像用機器一式は削除、と。…これで予算内に収まるものと思われます」
一同を見回し、再び言葉を紡ぐ。
「明日の放課後もう一度お集まり下さい。会議の結果を反映させた資料をお配りして、採決を取らせていただきます。承認されれば予算は成立、ということで。…何かご質問のある方はいらっしゃいますか?」
答えは沈黙。メリルは小さく肯き、手持ち無沙汰な様子の会長のほうを見た。視線に促されキールが立ち上がる。
「では本日の会議を終了とする!」
どこか芝居じみた閉会を告げる声に参加者の疲労感は一気に増した。視聴覚室を後にする生徒達の足取りは一様に重かった。
生徒会長に対する不満は募る一方だった。特に彼の当選に協力したと自負する部は、いわば約束を反古にされたようなものだ。恨み骨髄に徹す、といった心境だった。
そして、不満を募らせた者がもう一人。
「メリル君」
「お説教でしたら後日伺います」
仕事はまだ残っている。自分の責務を果たさない男にかまっている暇はない。足早に生徒会室に向かうメリルの答えはそっけなかった。
「まだ予算は成立していないんです。これから明日の資料を作ります。それとも、手伝って下さるんですか?」
「そ、それは書記の仕事だろう」
「でしたら明日に備えて早くお帰りになったらいかがですの?」
歩幅をこころもち広くする。少しずつ互いの距離が開いてゆく。キールはそれ以上何も言わずに踵を返した。
メリルが生徒会室でパソコンを立ち上げていると、控えめなノックに続いて書記の二人が入室してきた。会計と会計監査がそれに続く。
「手伝いますよ。一人じゃ大変でしょう?」
「皆さん…。ありがとうございます。それじゃチャッチャと片づけちゃいましょうか」
メリルと書記の三人で資料を作成し、会計がミスがないかを確認する。出来上がった書類は会計監査が印刷した。
最後に全員でホチキス止めをしてようやく作業は終了した。
「…何で生徒会長は来ないんですかね」
会計監査の一人が不快そうに眉根を寄せた。
「ごめんなさい。私が『明日に備えて早くお帰りになったら』なんて言ったから…」
「言われたからって本当に帰りますか、普通」
その通りだ。自分が会長だと――組織の長だという自覚があるのなら率先して居残りする筈。
メリルは全員の表情をそれとなく確かめた。程度の差はあるものの皆納得できないといった様子だ。
「…今期の生徒会の運営はかなり大変なことになるでしょう。予算のことに限らず、何かにつけて風当たりは強いかと思います。でも…」
役員達は真剣な面持ちでメリルを見つめている。
「いろいろあったけど、楽しいことばかりじゃなかったけど、やってよかった…一年後にそう思えたら素敵ですわね」
どこかで聞いたような自分の台詞に内心苦笑しながら静かに目を閉じる。痛いほどの視線は変わらない。
「予算の編成が終わったら、次は三年生の送別会です。第一回の打ち合わせが二十二日…」
目を開けてにっこり笑う。
「明日予算が成立したらそれまでの一週間、せいぜい羽根をのばす事としましょう」
席を立つ。右手を腰に当て、左腕は斜め上に真っ直ぐ伸ばして手首を曲げ、奇妙なポーズをとる。
「オーマイスウィートニューマイアミ!」
それは、昨日たまたまテレビで見た旅行代理店のCMのキャッチフレーズだった。頭についていた『OLらしく休暇を存分に楽しもう』の部分はカットしたが、ポーズはそっくりそのままだ。
「…残念ながらバカンスには行けませんけど」
突拍子もないメリルの行動に、六人は暫し呆然とした後爆笑した。
「それって…CMの…」
「…メ、メリルさんて…面白い人だったんですね…」
「すごくお堅いイメージがあったけど…」
「もっととっつきにくい人かと思ってた」
「息…苦し…おなか痛い…」
いろいろなことを言いながら役員達は笑い続けている。
『どうやらわだかまりを吹っ飛ばせたようですわね』
メリルは静かに椅子に座った。自分のらしくない行動に頬を赤らめながら。


予算成立まであと一歩までこぎつけた二月十四日。
朝練を終えてクラスに向かう途中、メリルはヴァッシュとウルフウッドに持っていた紙袋を差し出した。
「はいどうぞ」
「?」
「今日はバレンタインですから」
「…ありがとう!!」
はじけそうな笑顔で礼を言うと、ヴァッシュは早速中身を確認した。
「やった! ドーナツだ!!」
リボンで口を閉じた透明な袋の中にリングドーナツが五個。片側半分がチョコレートでコーティングされている。
廊下を歩きながらいそいそと手を伸ばす。が、『お行儀が悪いですわよ』とたしなめられ、慌てて引っ込めた。
「…大丈夫ですわ。ウルフウッドさんの分は甘いものじゃありません」
黒髪の男の顔色が急に悪くなったのに気づいたメリルは、苦笑混じりにそう告げて安心させた。
「ほ、ほうか。おおきに」
ウルフウッドはあからさまに安堵の表情を浮かべた。彼が自分の感情を顕わにするのは珍しい。
「キミ、本当に甘いものが駄目なんだ」
「果物やったら食うけど…どうも砂糖の甘さっちう奴は苦手でな」
「だからってあの香辛料三昧の食生活はどうかと思うけど」
「いらんお世話や」
言葉と同時に放たれた拳を身体をかがめてかわす。その拍子にある疑問がヴァッシュの脳裏をよぎった。
「あれ? これって僕達だけにじゃないよね?」
細かい気配りをするメリルが他の部員に何もしないなんて考えられない。でも、朝練で彼女が皆に何かを渡した様子はなかった。
「え、ええ。皆さんには放課後お渡ししますわ」
どうして口篭もったのが不思議に思ったが、ヴァッシュはそのことには触れなかった。
「じゃあ今日は部活に出られるんだ」
「ええ。予算の採決だけですから、よほどのことがない限りすぐに終わると思います」
「ずいぶん揉めたんだってね」
「まあ、いろいろと」
揉めた原因は判っている。ヴァッシュは眉間にしわを寄せ、メリルは僅かに目を伏せ、ウルフウッドは口元を歪めて、同時に短く吐息した。思わず顔を見合わせ苦笑する。
「ゴールは目前、あと少しですわ。頑張らなくちゃ」
教室に入り、自分を励ますようにそう言うと、メリルはそれじゃ、と挨拶して自分の席に向かった。
「…予算はもうじきカタがつくんだろうけど…」
「似たようなトラブルはこの先も起こるやろな」
「…大丈夫かな」
席に着きながら、ヴァッシュは誰に言うともなく呟いた。
いつもは早めに朝練に来るのに今日はギリギリだった。凄く眠そうだった。それに目が少し充血していた。
先刻受け取った紙袋からドーナツの入った袋を取り出す。店名や賞味期限を記したシールはない。紙袋も同様だ。おそらく彼女の手作りなのだろう。
『あんまり寝てないんじゃ…』
連日の会議で疲れているだろうに。無理して身体を壊しでもしたら…
ヴァッシュの思考は、突然視界に割り込んできたものの為に中断を余儀なくされた。咄嗟に袋を抱きかかえ、クラスメイトの魔の手からドーナツを守る。
「ずりぃぞヴァッシュ! 幸せは分かち合うもんだろ!?」
「これは駄目!!」
「ラブ&ピースの精神はどうした!?」
「都合のいい時だけ持ち出さないでよね!!」
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、教室中を駆け回る。
逃げるのに夢中で、ヴァッシュは菫色の双眸がそれとなく自分を追いかけていることに気がつかなかった。
『昨日のアレは…あの人の影響ですわね』
笑いの効能は医学的にも証明されている。でもまさか自分にあんなことができるとは思わなかった。やってみようと考えたことも。
メリルの口元に僅かに苦笑が刻まれた瞬間予鈴が鳴り始めた。
『た、助かった…』
人間台風の耳には、軽やかなチャイムの音が幸運の女神の声に聞こえた。


二時間目と三時間目の間に一個。昼食後にデザートと称して二個。
ヴァッシュは幸せを噛み締めるようにドーナツを食べた。ウルフウッドが呆れるほどの至福の笑みを浮かべて。
四時間目が終わった後、食事をする前にメリルが教室を出ていくのを見かけた。十分もしないうちに戻ってきたが、朝にはなかった見慣れない紙袋を持っていた。黒字に金の文字とイラスト。GODIVAと書いてあるのが読めた。
『あれにみんなの分が入ってるのかな…』
忘れてきたのをジョアンナさんに届けて貰ったのか。だから放課後渡すって言ってたんだ。
本日三つ目のドーナツを堪能しながら、ヴァッシュはぼんやりと考えた。
「…何も全部学校で食わんでもええやんか」
放課後、ウルフウッドは再びドーナツに手を伸ばしたピッチャーに思わず声をかけた。自分のすぐ横に幸せ一杯の笑顔で甘いものを食す男がいるというのはかなり気色悪い。
「腹が減っては戦はできぬ、って言うでしょ?」
最後のドーナツを頬張りながらヴァッシュは答えた。
自分の甘いもの好きは母親の影響だ。持って帰れば半分取られる、というのが過去の経験則である。
メリルから貰ったものだと知られたら、受け取った時の状況を根掘り葉掘り訊かれるに違いない。おまけに当分の間『進展は?』と追跡調査されるだろう。
名残惜しげに最後の一切れをゆっくり味わい、喉を鳴らして飲み込む。
「あーおいしかった。さぁて、エネルギー充填完了、部活に行きますか!」
指を舐めながら立ち上がったヴァッシュは、ふと隣の席の男に目を向けた。
「キミのは何だったの? マネージャーは甘いものじゃないって言ってたけど」
「ああ…何やろ」
その場でずっこけた金髪の男を尻目に、ウルフウッドは紙袋に手を突っ込んだ。
出てきたのは使い捨ての透明なプラスチック製容器。キムチ入りチャーハンに海老のチリソース炒め、中華風あえものなど辛そうな料理が綺麗に詰められている。ご丁寧に割り箸まで入っていた。
「…これってキミの昼ご飯のつもりだったんじゃないの?」
「かも知れんな。ま、これで晩メシ作らんでええようになったわ」
鞄と紙袋を持つと、ウルフウッドは立ち上がった。
「ほな行こか」
教室を出る直前、ヴァッシュはふと足を止め肩越しに振り返った。マネージャーの席には誰もいない。今頃は会議の準備をしているのだろう。
『そう言えば、放課後部活で会うのって三日ぶりだな』
二月に入ってから放課後の部活に遅れてきたり休んだりすることが多くなった。噂に違わぬ激務ぶりだ。
部活をしていた歴代の役員のほぼ全員が退部した、という話を聞いた。両立が困難なのだという。
『メリルは…どうするんだろう…』
やめないで欲しい。続けて欲しい。でも、無理を重ねてもし身体を壊すようなことになったら…
物思いは突発性頭痛によってあえなく打ち切りとなった。
「いっ…! 前にも言ったけど、口より先に手ェ出すのやめてくんない!?」
「まぁた遅刻してスペシャル外回り走らんでもええように目ェ覚まさせてやったっちうのに…人の親切が判らん奴には天罰が下るで」
「イキナリ暴力に訴えないで、声をかければ済むことでしょ!?」
ピコピコしながら怒っているピッチャーは放っておいて、ウルフウッドはすたすたと先に歩き始めた。
「汝の隣人を愛せよ、じゃないの!?」
後を追うヴァッシュの叫びは空しく廊下にこだまして消えた。




----------------



不協和音


校庭で野球部員がウォーミングアップを始めた頃、視聴覚室ではキールが採決をとっていた。
「この予算案に異議のある人はご起立下さい」
昨夜メリル達が残って作成した書類を手にキールは言った。
ゆっくりと首を巡らせ確認する。立ち上がる者はいなかった。本当に納得しているかどうかは別にして。
「…満場一致によりこの予算案は成立しました。皆さんお疲れ様でした」
会議そのものは五分ほどで終わった。
「副会長、お疲れ様でした」
書記の一人がメリルに歩み寄り声をかけた。他の役員も集まってくる。皆の笑顔にメリルも微笑みを浮かべて応えた。
「お疲れ様でした。これで一段落ですわね。議事録は急がなくてもいいでしょうから、今日は早く」
不意に肩を叩かれ、口をつぐんで振り返る。顔が強張るのが自分でも判った。
「会長…」
「ちょっと打ち合わせたいことがある。生徒会室まで来てくれ」
返事を待たずにキールは踵を返した。
「え…」
メリルは慌てて自分の資料をまとめると、急ぎ足でキールの後を追った。会議が終わったらすぐに部活に出るつもりで、今日の練習メニューはまだ自分が持ったままだ。それに。
「会長、あの、打ち合わせというのは…きゃあッ」
振り向きざまにキールの左腕が空を凪いだ。メリルには当たらなかったが、持っていた書類がはらはらと宙を舞った。
「急ぎの件だ」
短く告げると、キールは散乱した書類には目もくれず再び歩き始めた。
押さえた声。厳しい視線。この行動。廊下にしゃがみ込んで散らばった紙を拾い集めながら、メリルは自分が彼を怒らせたことを悟った。でも。
『…私は職務を遂行しているだけですわ』
ふつふつと怒りが湧いてくる。
書類を床に置き、遠ざかる背中に向かって派手に舌を出してやろうと思ったが。
「どうしたの?」
「え…いえ、何でもありませんわ」
通りがかったクラスメイトに声をかけられ、メリルは慌ててぎこちない笑みを浮かべた。
少し遅れて生徒会室に入る。途端に『遅い』と叱責された。
「申し訳ありません。…急ぎの打ち合わせとは何でしょうか」
早く終わらせて部活に行きたい。メリルは頭を下げて素直に詫びてから早速本題を切り出した。
「昨日の会議で、君が生徒会の備品を貸し出すからと提案して個別購入をやめさせたものがあったな」
「はい」
「新規の業務だ。どういうしくみにするつもりなのか、君の考えを説明して貰いたい」
「今…ですか?」
「前例のないことだからな。できるだけ早く手順を決めて、三月を試用期間にしたい。不具合があれば三月中に全て解決し、四月からは何の問題もなく動けるように」
「…判りました」
何も考えずに提案した訳ではない。入室してきた書記の二人に黙礼してから、メリルは自分の案を説明した。
生徒会が所有する備品から、貸出できるものとこの場で使用して貰うものとをピックアップする。それぞれの一覧表と申請書を作成して各部に配り、運用していく。かち合ったものについては個別に調整をとる。
「…なるほど。では早速備品の選定を始めてくれ」
「これからですか!?」
今日から準備をしなければならないほど緊急のこととは思えない。
「そうだ。準備は早いほどいいだろう?」
…何を言っても無駄ですわね。温和とは程遠いキールの表情にメリルは腹をくくった。こうなったら相手の怒りがおさまるまでとことん付き合うしかない。
「判りました。ですが、その前に少しお時間をいただけませんか? 野球部に届けなければならな」
「駄目だ。一部の部のことより部全体にかかわる業務のほうが優先する」
思わず声を荒げそうになった瞬間ドアがノックされ、メリルは言葉を飲み込んだ。書記の一人が席を立ち、短いやりとりの後メリルのほうに視線を向けた。
「副会長にお客様です。野球部の主将です」
「…ちょっと失礼します」
一礼してからドアへと歩み寄る。ギリアムが戸惑ったような表情で立っていた。
「予算会議は終わったと聞いたんだが…来られないのか?」
「すみません、急ぎの仕事が入ってしまって…。今日のメニューですよね。ロッカーにあるんです。会長、書類を主将にお渡ししたいのですが、クラスまで行ってきてもよろしいでしょうか?」
「…五分だけだ」
流石に拒否はできず、キールはしぶしぶ肯いた。
足早に自分のクラスまで行くと、メリルはロッカーから数枚の紙と黒い紙袋を取り出しギリアムに差し出した。
「こちらが練習メニューです。それからこれを…もし私が部活が終わるまでに行けなかったら、主将から先生と皆さんに渡していただけませんか。ヴァッシュさんとウルフウッドさんには先にお渡ししましたので、お二人以外の方に」


『結局来なかったな…』
部室で汗の始末をしながらヴァッシュは小さく吐息した。部活が終わるまでとうとうメリルは姿を見せなかった。
全員が着替え終わるのを待ってギリアムが口を開いた。
「皆、マネージャーから預かったものがある。配るからちょっと待ってくれ」
主将はヴァッシュとウルフウッド以外の部員に紙袋の中身を渡していった。手のひらに載る大きさの箱。黒のラッピングペーパーに金と銀の細いリボンがかけられている。洒落ているが手作りの暖かみはない。
「うわ、高そう」
「ゴディバって確かどっかの王室御用達の店じゃなかったか?」
賑やかに感想を言い合っていた部員の一人が不意に首をかしげた。
「ヴァッシュとウルフウッドの分は?」
「あ、僕らは朝練の後に貰ったんです」
二年の部員がウルフウッドの鞄の横に置いてある紙袋に気づいた。
「もしかしてこれか? 随分大きい…」
中を覗き込んだ二年生の顔が強張った。
「? どうかしたのか?」
部員達が次々と中身を確認し、不快そうに口元を歪める。
「…ヴァッシュ…お前、マネージャーから何を貰った?」
「ドーナツでした。チョコレートがかかったやつです」
「手作りか?」
「ええと…はい、多分」
自分が答える度に大半の表情が険しくなる。ヴァッシュはみぞおちの辺りが重くなっていくのを感じた。
「…バッテリーだけ特別扱いかよ」
「いくら同じクラスだからって…」
低い呟きにヴァッシュはようやく事態を理解した。要するに拗ねているのだ。
「あ、あの、マネージャーは多分」
「なんか…ムカつく」
「こういう差別はないよな」
険悪な雰囲気。ヴァッシュの声も届いていない。ギリアムが慌ててなだめにかかった。
「皆落ち着け。マネージャーも他意があってした訳じゃない筈だ」
「じゃあどうしてですか!」
「それは…」
メリルには配布を頼まれただけで何の話も聞いていない。いかに主将でも明確な答えは出せなかった。それが部員達の不満を更に大きくした。
「マネージャーに確認しようぜ!」
最初に紙袋に気づいた二年の部員の声にあちこちから賛同の声が上がった。
間の悪いことはあるものだ。ちょうどその時、ノックの音に続いて話題の主の声が扉の向こうから聞こえてきた。
「皆さんまだいらっしゃいます?」
肩をいからせたある部員が何も言わずにドアを開けた。
「よかった、間に合…きゃ」
メリルの声は途中で小さな悲鳴に変わった。突然腕を掴まれ、問答無用で部室に引っ張り込まれたのだ。大きな音を立てて背後で扉が閉まる。
自分に向けられている複数の厳しい視線に気づき、メリルはその場に立ち竦んだ。
「あ、あの」
「説明してくれないか…どうしてヴァッシュとウルフウッドだけ特別扱いなのか!」
自分に詰め寄った先輩の手の中で小さな箱がひしゃげている。それに気づいて、メリルは僅かに俯いた。
「まあまあ先輩、落ち着いて」
間に割って入ろうとしたヴァッシュを押しのけ、二年の部員は更にマネージャーを詰問した。
「同じ野球部員を差別するのか!?」
「…ごめんなさい…」
「謝って欲しいんじゃない!!」
腹に響く声の後訪れた沈黙。それを破ったのはキャッチャーだった。
「責めるんは、話聞いてからにしたほうがええんちゃいます?」
部室にいた全員の目がメリルに向けられた。
「…私…皆さんに手作りのお菓子を贈るつもりだったんです。でも、ウルフウッドさんは皆さんご存知のとおり辛党で、一人暮らしをされてることはヴァッシュさんから聞いて知ってました」
部員達は顔を見合わせた。その事実はクラスメイトの二人を除いて全員初耳だったのだ。
「それでお菓子ではなくお弁当を作ることにしたんです。…ヴァッシュさんはよく『ドーナツ、ドーナツ』とおっしゃってますから、大好物なのだろうと思って…。他の皆さんの好みは判らなかったのでトリュフを作ることにしました」
声が震えているのが自分でも判る。メリルは大きく深呼吸をしてから再び口を開いた。
「でも…お菓子って作ったことがなくて、トリュフは失敗してしまったんです。…念の為二倍の材料を用意してたんですけど、二回とも…」
両手を握り締める。目をきつく閉じる。
「…とても差し上げられるものにはならなくて…それである方にお願いして、チョコを買いに行っていただいたんです」
もう一度深呼吸。――もう少し、あと少しだけ。
「…差別している、と言われても当然ですわね。…配慮が足りず、皆さんに不愉快な思いをさせてしまいました。…本当に…申し訳ありません」
深く頭を下げる。そのままの姿勢で更に言葉を紡ぐ。
「…明日…作り直してきます。…チョコレートは…捨てるなり何なり、気の済むように…処分して下さい…すみません、失礼します!」
派手な音を立ててドアが開閉し、マネージャーの姿が部室から消えた。


「トンガリ、行け!」
「でも」
「ええから、早よ追わんかい!」
再びドアが開閉し、人口密度が更に低くなった。
「…二つ質問したいことがあるんやけど…ええですか?」
質問の形をとってはいるが答えを求めている訳ではない。返事を待たず、ウルフウッドは続けた。
「マネージャーに嫌いな食いもん言ったことがあるゆう人、いてはりますか?」
七人が手を挙げた。
「合宿ん時に、そのメニューが出たっちうことありますか?」
「…あ」
ない。ただの一度も。
「そういうことですわ。嫌いや判っとるもんを人に贈ることはマネージャーはせえへんでしょう。…副主将」
「な、何だ」
「昨日一昨日と放課後の部活休まれましたけど、何でですか?」
「予算の会議が長引いて…」
「…っちうことは、マネージャーはワイらが部活を終わった後も生徒会の仕事をしとった、ゆうことになる…」
小さく吐息すると、ウルフウッドは右手で黒髪をかき回した。
「気ぃつきました? 今朝時間ギリギリに駆け込んできたマネージャーの目が赤くなっとったの。…連日の会議で疲れとる筈やのに、睡眠削って、料理して…義理チョコなんやから、個人の好みなんぞ無視してこおてきたもん
配ればええのに…。まったく、難儀なこっちゃで」
誰もが言葉を失っていた。胸に広がる罪悪感。
「不満や、ゆうんでしたらワイの弁当食って下さい。トンガリは部活前に全部食ってしもたから無理やけど…」
もっとも…ウルフウッドは心の中だけでつけ足した。マネージャーのことや、味付けもワイに合わせてしとる筈。
食ったら地獄見るハメになるけどな。
「お…俺達…」
「全員で行ったかてマネージャーも困るだけやろし、この場はトンガリに任せるほうがええでしょう」
部室の殺気立った雰囲気が重苦しいものに変わりつつある頃。
先を走るメリルに追いついたヴァッシュはその細い腕を掴んだ。
「待って!」
「離して下さい!!」
思いの外強い拒絶の声。暗い中頬を伝う光を見たような気がして、ヴァッシュは思わず手を引っ込めた。それでも自分を無視して立ち去ろうとする小柄な身体の横に並んで速度を合わせる。
メリルは顔を背けて、決してヴァッシュのほうを見ようとしなかった。
「話を聞いて。…皆、どうかしてたんだ。あんな酷いこと言う連中じゃないってキミも知ってるだろ?」
「…」
「それに…皆キミのことが…好きなんだ。だから自分が軽く扱われたような気がして、その…寂しくて、キミの事情を考えないで、それで」
「どうして…」
「え?」
「どうして、追いかけてきたんですの?」
「それは…」
強張った声での問いかけにヴァッシュは即答できなかった。キミのことが心配で、と素直に言えなかった。
「部室に戻って下さい」
私の味方をしたらあなたまで嫌われてしまうかも知れない。だから。
「私…もう帰りますから」
「送るよ」
「結構です」
校門までもう距離がない。そこまで来て、ヴァッシュは自分の失敗に気づいた。鞄を部室に置いてきてしまったのだ。
自転車の鍵も財布も鞄の中にある。これでは自転車で家まで送ることはできないし、切符も買えない。
ヴァッシュはメリルの腕を取ると、半ば強引に自分の自転車の傍まで連れていった。
「…すぐ戻るから待っててくれ、頼む」
メリルは俯いたまま何も言わない。返事がないのを不安に思いながらヴァッシュは全力で走った。
部室に飛び込み、自分の鞄を掴んで踵を返す。主将に何か言われたような気もしたが立ち止まらなかった。
時間にして二分足らずだったと思う。しかしそこにメリルの姿はなかった。辺りを見回したが人影はない。
追いかけなきゃ。自転車の鍵を外そうとして、ヴァッシュはハンドルのブレーキレバーの隙間に小さく折りたたまれた紙が挟んであるのに気づいた。慌てて手に取り広げてみる。
手帳を破ったらしい白い紙にたった一言。
『ごめんなさい』
「メリル…」
二つの大きな手が労るように紙片をそっと包み込んだ。

エピローグ
ヴァッシュは駅までの道を自転車で走ったが、華奢な後ろ姿を目にすることはなかった。
追いつけない筈はない。あちこち捜しまわったがとうとう見つけられず、ヴァッシュは仕方なく学校に引き返した。
彼は知らないことだが、メリルはタクシーを拾い自宅に向かったのだった。身体が酷くだるくて電車で帰る気になれなかった。
「…遅かったな。どうやった?」
「歩きながら話はしたけど返事はなかった。家まで送るって言ったんだけど、鞄を取りに行ってる間に帰られちゃって…追っかけたけど駄目だった」
「ほうか…」
ウルフウッドはかすかに吐息した。
「どうしよう…」
「マネージャーの出方を見ましょうや。このまま水に流してくれればよし、そやなかったら…そん時考える、ゆうことで」
今できることは何もない。部員達は暗い表情で肯いた。
翌朝、メリルは部員にチーズがたっぷり入った手作りの甘くないクッキーを手渡していった。一人一人に頭を下げ、謝罪の言葉を添えて。
「あ、いや…」
昨日怒りの目をマネージャーに向けた部員達は一様に言葉を濁した。お礼を言えばいいのか、それともお詫びか――どうすればいいのか判らなかった。
「メシ、旨かったで」
誉め言葉への返事は弱々しい微笑みだった。
「…受け取れないよ。俺、ドーナツ全部食べちゃったし」
「…クッキーはお嫌いですか?」
「いや、好きだよ」
「…でしたら貰って下さい」
差別になってしまいますから。
彼女の考えは判る。ヴァッシュは沈痛な面持ちで差し出された袋を受け取った。
その日も、次の日も、メリルは放課後の部活に来なかった。
顧問が『生徒会の仕事が忙しいからだ』と説明したが、信じる者はいなかった。予算編成は終わり、次の行事は三月。二月中旬に忙しい筈がない。バレンタインのことが原因では…部員達の不安は募る一方だった。
顧問の説明は正しいが言葉が不足している。生徒会は現在、備品貸出の準備という新規業務に取り組んでいるのだ。
準備はなかなか進まなかった。キールがメリルの提示したものにことごとくケチをつける為に。
「…では、会長はどうするのがベストだとお考えですか?」
質問に対する明確な答えはない。よりよいしくみを作る為に連日作業するのなら納得できるが、キールの行動は自分をないがしろにされたことへの報復のように思えた。
貸出申請書の修正を求められたメリルは、小さくため息をつきながら生徒会室に備え付けられたパソコンの前に座った。
ちらりと窓のほうへ目をやる。濃い朱色に染まったグラウンドが見えた。長く伸びる人影は既にまばらになっている。
『これで朝練しか出られない日が何日目になるのかしら…』
軽く頭を振って意識を切り替える。今は目の前の仕事を終わらせなければ。
静かな室内にキーボードを叩く音だけが流れた。
人の気配が近づいてきて、すぐ後ろで止まった。
「…!」
遅まきながらもう一つの理由に思い至り、鳥肌が立つ思いがした。これが彼の『女性の束縛方法』なのだ。
気が散るから離れて欲しい、と頼んでも無駄だろう。メリルはうなじに痛いほどの視線を感じながらひたすら作業に集中した。
生徒会室の明かりが消えたのは校庭が静まり返った後だった。
二月に入ってから放課後の部活に参加することが難しくなったメリルは、マネージャーとしての仕事を全て朝のうちに片づけるようになっていた。時間に余裕はなく、部室の掃除と洗濯、顧問との打ち合わせをこなすのが
精一杯。部員達と話をすることはほとんどない。バレンタイン以降は――
何とかしなければと思いながら、時間もいいアイディアもないこの現状。家路を急ぎながらメリルは大きなため息をついた。

―FIN―   

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