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そして彼は途方に暮れる
Ⅶ
人間台風の意識は真っ白に染まった。恥ずかしくて情けなくて、いっそ消えてしまいたいくらいだった。
メリルも戸惑っていた。固まってしまったピッチャーに何と声をかけたらいいのか判らない。
気まずい沈黙。それを打ち破ったのは耳まで真っ赤になったヴァッシュだった。
「そ、そう! 写真!」
「写真?」
「見せたかったんだ、レムの結婚式の写真」
ヴァッシュは机の上に置いてあった鞄に駆け寄ると、ごそごそと中身を漁り始めた。
写真を見せたい、というのは咄嗟に思いついたことだった。本当は、月一回の食事会より早くレムに渡せればと思い持ってきたものの、保健室に行く時間がなくてそのままになっていただけなのである。
『写真を使って何とか雰囲気を修復する。プレゼントを渡すのはその後だ』
ここから仕切り直し。心の中でくり返し自分に言い聞かせる。
「……あった。はいコレ」
ヴァッシュはフォトアルバムを差し出した。
椅子に座ってからメリルはアルバムを開いた。ヴァッシュはちゃっかり隣に腰掛け、細い指がゆっくりとページを繰るのを見守った。
純白のドレスを纏ったレムの写真が続く。
「……綺麗……」
ため息交じりの呟きにさりげなく目線を動かす。写真を見ているメリルは優しい微笑みを浮かべていた。
横顔に見とれつつ、ヴァッシュは事態が好転し始めたことを確信し密かに喜んだ。
やがて写真は二次会のものに変わった。結婚式の厳かな雰囲気とは全く違うパーティーの楽しい空気が伝わってくる。
突然メリルの肩が震え始めた。笑いを堪えているのだ。
「何か面白いものでもあった?」
「……この写真……」
ヴァッシュは椅子ごと移動してメリルとの距離を縮めた。アルバムを覗き込むという大義名分の元、思いきって身体を傾ける。腕が密着した。
メリルが指差していたのはヴァッシュの写真だった。髪を下ろし正装した彼が直立不動の姿勢で空を睨んでいる。
強張った全身と固い表情からひどく緊張しているのがよく判る。
緊張の原因は周囲を取り巻く女性達だった。隣に寄り添っているのはレムで、その他の五人も新婦とほぼ同年代、全員がチャイナドレス姿でポーズをとっている。
「ハーレム状態でよかったですわね」
「全然よくない! 俺が緊張してるの知ってて皆で囲んで、母さんが面白がってシャッター押して……ホント、ガチガチでみっともないったら……抜いときゃよかった」
本気で拗ねるヴァッシュの表情に堪えきれなくなり、メリルは声を上げて笑った。
「……そんなに笑わないでよ」
「ご、ごめんなさい……」
どうにか笑いを押さえ、メリルは再びアルバムに視線を戻した。
Ⅷ
「……あら?」
「? どうかした?」
問いかけへの返事はなかった。菫色の瞳はひととおり見た写真を最初から注意深く見直している。
全ての写真を確認した後、メリルは意外そうにある事実を指摘した。
「ナイブズさんの写真はありませんのね」
「ああ、アイツ来なかったんだ」
「え……?」
頭の後ろで手を組んで背もたれに体重を預けると、ヴァッシュは大袈裟にため息をついてみせた。
「ナイブズがこーんな薄情な奴だとは思わなかったよ。せっかくのレムの晴れ舞台なのに欠席だし、中学に入ってから一度も帰ってこないし」
全寮制で、『各々の個性を伸ばす教育』をモットーとするGUNG-HO-GUNS大付属高校は、器材や教師陣といったハード面を金に糸目をつけることなく整備している。その一方で『生徒の為にならない』と判断したものは徹底的に排除するのだ。例えば、強靭な精神を養う為に身内との接点を極力少なくし甘えさせないようにする、というように。
特待生の場合、年に一度の帰省は認められている。しかし、それ以外の私用外出については事前に申請し許可をとらなければならない。
「離婚したことを話しに母さんが会いに行こうとしたら、『来るのは勝手だが会えるとは限らない』って言ってたって」
部外者との面談も制限されている。例え家族でも、理由や所要時間の見込み等を書いた面談申込書を提出して審査を受け、それにパスしてからでないと面会できないのだ。
GUNG-HO-GUNS大付属高校の規則が厳しいことはヴァッシュも承知している。だが、それを差し引いて考えても兄の行動は理解し難い。せめてレムの結婚式には参列して欲しかった。
「年賀状とか暑中見舞いを出しても返事はないし、電話しても本人は出ないで『用件を承ります』って言われるし。……この四年間で俺が話をしたのは一回、それも俺が高校への特待生入学を断った時にむこうから電話がかかってきて理由を訊かれただけ。そういう時って普通『久しぶり』とか『元気か』ぐらい言うよねぇ」
姿勢を戻し、同意を求めて隣を見やったヴァッシュは瞬時に自分の失態を悟った。
俯き加減で唇を引き結んだメリル。色白の顔に浮かんでいるのは痛みに耐えている表情。
『兄弟なのにどうして……』
一人っ子の自分には判らないことがあるのだと思う。でも……
ヴァッシュの生い立ちを思い起こす。四年も会えなくて、声を聞けたのも一回で……どんなに辛いだろう。
「や、元々ナイブズって判んないところがあるっていうか、変な奴なんだよね! 無口だし、野球なんてチームワークが大切なスポーツやってるクセに人付き合い悪いし」
何とかメリルの気持ちを盛り立てようとヴァッシュは明るく話しかける。
「愛想もないからインタビュアーの人とか大変そうで……。一昨年だったかな? レポーターがコメントをとろうとしてナイブズの横について歩きながら話しかけてるのをテレビで見たんだけど、アイツ完全に無視してたんだ。で、野球のことじゃ喋ってくれないと思ったのか、その人『どうしてナイブズ・ミリオンズじゃなくてミリオンズ・ナイブズなんですか』って質問したんだ」
フルネームを表記する場合、通常は名前の後に姓がくる。
両親が離婚した際、ナイブズは親権が母親にあるにもかかわらず何故か父方の姓を名乗るようになり、更に中学入学と同時に表記を逆にした。東洋式にしたのである。
その時の様子を思い出したのか、ヴァッシュはしばらく一人で笑ってから再び口を開いた。
「そしたらアイツ、相手をちらっと見てから答えた。たった一言、『語呂が悪い』」
思わず足を止めたレポーターには目もくれず、ナイブズは何事もなかったかのように立ち去った。
「レポーターは『いやあ、煙に巻かれちゃいました』なんて言ってたけど、アレ絶対本気だと思うよ。ね、変な奴でしょ?」
にっこり笑ってメリルの様子を確かめる。
辛そうな表情は変わっていなかった。
Ⅸ
笑みを消し、小さくため息をついて、ヴァッシュはそっと目を閉じた。苦い後悔を噛み締める。
ただの雑談のつもりだったのに。そんな顔をさせたかったんじゃないのに。悲しい思いをさせたかったんじゃないのに。
どんなに悔やんでも言葉はもう取り返しがつかない。
「……ごめん、心配かけて」
静かな声にメリルは恐る恐る顔を上げた。クラスメイト兼クラブメイトは穏やかに微笑んでいた。
「確かに会えないのは少し寂しいけど、ナイブズには多分会いたくない理由があると思うんだ」
見当はついている。あの時俺のせいでナイブズは――
胸の痛みを必死に押し隠して言葉を紡ぐ。
「だから、今は無理に会おうとは思わない。アイツが元気でいるのはニュースで判るから。去年は甲子園で優勝した
お陰で動いてるナイブズをうんざりするほど見たしね」
「でも……」
兄の元気な姿をマスコミを通してしか見られないなんて。
「一生このままの状態が続く訳じゃない。いつか変わる。変われる。……そう信じてる」
自分が変われたように。
「……それに、今年地区大会で優勝すれば甲子園で会えるよ。例えアイツがどんなに嫌がってても」
ヴァッシュはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「今から再会の演出を考えとかなきゃ。ナイブズが目を真ん丸にして絶句するようなとびきりのやつを、ね」
ね、と同時に茶目っ気たっぷりにウインク。
「やっぱり『お兄様~~~~』って叫びながら駆け寄って熱~い抱擁、かな。それとも真っ赤なバラの花束をスッと差し出して……」
深刻な表情で眉間に指を当て悩める哲学者のように呟いている男の姿に、ようやくメリルの口元が僅かにほころんだ。
「……やっと笑った」
にわか哲学者はいつもの人懐っこい笑顔に戻った。
「大丈夫だから……キミは心配しないで」
「ヴァッシュさん……」
メリルは目を細めて微笑むと小さく肯いた。
沈黙。でもそれは先刻の気まずいものではなく、暖かい空気に満ちたもので。
今度こそ渡せる。ヴァッシュは大きく息を吸い込んだ。
「あ、あの……」
「はい?」
早鐘のような鼓動をなだめつつ、人間台風が再び口を開こうとしたその時。
無慈悲かつ無機質な音が部室に響いた。
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そして彼は途方に暮れる
Ⅹ
「あ、ちょっとごめんなさい」
硬直したヴァッシュに短く謝罪し、メリルは鞄から携帯電話を取り出すと口元を手で覆って話し始めた。
「もしもし、はい……ごめんなさい、時間がかかってしまって……ええ、判りました」
通話は短時間で終わった。
マネージャーが慌てた様子で立ち上がった。人間台風の胸に嫌な予感が湧き上がる。
「ごめんなさい、私もう戻らないと」
……予感的中。
「もう遅いですし、ヴァッシュさんはお帰りになって下さい。掃除は明日早く来てやりますから」
「じゃ、じゃあ待ってるよ。暗い夜道は危ないし」
「大丈夫ですわ」
メリルは書記の女子生徒の名を挙げた。
「意外と家が近かったんですの。降りる駅も同じですし、途中までは一緒に帰れますから。それにいつ終わるか判りませんもの」
言いながら、机の上に置きっぱなしになっていた紙の束を揃えて鞄にしまう。小さな包みが目についた。
「でも」
更に言い募ろうとしたヴァッシュの前に差し出されたのはチョコレートバーを載せた小さな手。
「どうぞ」
「?」
「今日も自転車なのでしょう? 空腹時……つまり血糖値が低い状態で運動するのは危険ですのよ。とりあえずこれで
糖質を補充して下さい」
「あ……ありがとう」
「早く帰って、ちゃんとご飯を食べて下さいね。インスタントなんて以ての外ですわよ」
「うん……」
気が急いているメリルはヴァッシュの返事が上の空だったことに気づかなかった。
「それじゃ。お疲れ様でした」
「お疲れ様……」
椅子に座ったまま条件反射で手を振ってマネージャーを見送ったピッチャーは、小さな音を立ててドアが閉まった後もしばらく動けなかった。
ゆるゆると身体の力が抜け、自然と猫背になってゆく。もし立っていたらその場にへたり込んでいただろう。
長いため息をついたらがっくりと首が前に倒れた。
左拳を開き、自分の瞳に似た色のパッケージをぼんやりと見つめる。
――プレゼントを渡す筈が、逆にプレゼントされてしまった。
野球で鍛えた肩が小刻みに震え。
「……ヴァッシュ・ザ・スタンピードの大馬鹿やろおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!!!!」
喉が破れんばかりの絶叫が旧クラブハウスに轟いた。
その後、マネージャーのアドバイスに従い糖質を補充した自己嫌悪男は、不甲斐ない自分への怒りをモップがけのエネルギーへと変換した。生徒会の仕事と、おそらく今夜から始まるであろう練習メニュー作りに忙しい彼女に負担をかけたくなかった。
翌朝、バッテリーとメリルを除く野球部関係者は、何故かピカピカに磨き上げられた部室の床を見て一様に首を捻った。
ⅩⅠ
体力測定から二週間、メリルに渡された五十名を越える資料のうち約半分が無用のものとなっていた。練習についていけない者、メリル目当てで入部した者、単なる冷やかし等が自然に淘汰された結果である。
減ったのは部員だけではない。当初七名いたマネージャー希望者も、残っているのはミリィとジェシカのみ。
大人数の洗濯は重労働だし、こまごまとした雑用もきりがない。生半可な気持ちでは続かないのだ。
メリルは二人の後輩にマネージャーの仕事を教えることに専念した。行事の前は生徒会のほうに時間をとられ、部活にほとんど出られない日が続くようになる。部室の管理や雑務はなるべく早く自分がいなくてもできるようになって貰いたかった。
故に、先日己の頭を殴打したい衝動に駆られた男の悩みは日に日に深くなっていく。
何とかして二人きりになりたいのだが、メリルが部活に参加している時は必ずといっていいほど新人マネージャー達が傍にいる。ミリィはともかくジェシカがいるところでは個人的な話はできない。たまにメリルが一人でいることがあっても自分が練習中だったりで、何度も心の中で地団太を踏んだ。
それだけでも辛いのに。
「ヴァッシュ~~~、今日一緒に帰ろ~~~」
甘えるような声に勢いよく首を振る。勿論横に。
「方向が全然違うでショ? ブラドと一緒に帰ればいいじゃない。アイツが一緒なら変な人に絡まれることもないだろうし」
デカくて強面。元々悪い目つきがジェシカが絡むと更に悪くなる。ジェシカ専属のボディガードにはうってつけだ。
「そんなの嫌! あたしはヴァッシュと帰りたいの!」
「だぁめ」
「ええ~~~~」
毎日くり返される不毛な会話。いい加減諦めて欲しいのだがそんな気はないらしく。
『ジェシカはいいよなぁ……』
俺が言いたくても言えない台詞をあっさり言えて。
精神的疲労感と羨望のダブルパンチ。自転車をこぎながらため息を量産するのが新しい日課になりつつあった。
部活が駄目なら教室で、とも思ったがこちらも不可能だった。ひょうきんで面白いとの評判が仇になって、休み時間の度に誰かしらに声をかけられ騒ぎに巻き込まれてメリルに近づけない。おまけにウルフウッドが同じクラスにいるのだ。ばれたらどれだけからかわれるか、と思うとつい用心深くなる。
電話で呼び出すのはためらわれた。平日は授業に部活に生徒会、家に帰ればドイツ語のレッスンが週三回と、朝早くから夜遅くまでフル回転。部活は日曜・祝日もあるし、時には生徒会の仕事が割り込むことさえある。自分の為に
時間を割いて欲しいとは言えなかった。
手紙をつけて、机か鞄にこっそり入れてしまおうか。
「……でもなぁ……」
やっぱり手渡したい。直接感謝の気持ちを伝えたい。
できれば、自分の想いも……。
「なーに一人でブツブツ言っとんねん。気色悪いやっちゃな」
突然声をかけられ心臓が跳ねた。
「べ、別に! 何でもないよ」
笑顔で即座に否定する。うまく笑えた自信はない。
ウルフウッドは怪訝そうな表情で口を開きかけたが、結局何も言わずに踵を返した。
ⅩⅡ
校内の雰囲気がどことなく落ち着かない。それもその筈、明後日からゴールデンウィークなのだ。遊びに行く
計画を打ち合わせる楽しそうな声が教室のあちこちから聞こえてくる。
『ま、俺には関係ないけどね』
人間台風は僅かに肩を竦めた。
四月に入ってから野球部の休みは皆無になった。
一日練習を休むと取り戻すのに三日かかる、言うやろ。本気で甲子園目指すんやったらこれくらい当然や。
新主将は厳しい表情でそう言い、一部の反対を押し切り休日ゼロを決行した。
新入部員全員にという訳ではないが、ウルフウッドに対する潜在的な不満があることをヴァッシュは感じていた。
それが表面化しないのはウルフウッドが自分の発言を率先して守るからだ。練習中は誰よりも動くし自主トレも欠かさない。それを見たやる気のある部員は、自ら残って部活後の自主トレに加わるようになった。
自主トレには勿論ヴァッシュも参加している。野球三昧も嬉しいが、ジェシカの誘いを断る口実ができたことがありがたかった。
あとは二人きりになれれば。
視線を移す。副会長の席に本人はいない。メリルはできるだけ部活に出る為に連日弁当持参で生徒会室に行き、連休中の備品貸出について各部の担当者と分刻みで面談しながら昼食をとっていた。
だが、放課後ウルフウッドの言うところのちっさいマネージャーの姿は部室にも校庭にもない。残念ながら努力は実っていなかった。
『あれからずっと放課後部室で会ってないんだよな……』
思い出したくもない大失敗が鮮やかに蘇り、ヴァッシュは小さくため息をつくと空になった弁当箱を鞄にしまった。
部活と自主トレを終えた人間台風は、自転車置き場へと向かいながら深々と吐息した。
誰もいなくなった校庭を突っ切った時、何の気なしに校舎を見上げた。明かりがいくつか灯っている。その内の一つは生徒会室のもの。
「あんまり無理するなよ……」
呟く声がマネージャーに届く筈もなく。
自転車は数えるほどしか残っていなかった。
難なく自分の自転車を見つけ鞄をかごに放り込んだ時、ヴァッシュは意外な人物に名前を呼ばれ首を巡らせた。
「ケビン……」
「は……話したいことがあるんだ。もしよかったら少し時間を貰えないかな」
去年同じクラスだった時もそれほど親しかった訳ではない。ケビンの方から声をかけてくるのはこれが初めてだ。
よほどの訳があるんだろう。話の内容に心当たりはなかったが、ヴァッシュは無言のまま肯いた。
『人目を避けたい』というケビンの希望で、二人は旧クラブハウスの裏手へ移動した。最後まで残っていたのは野球部で、練習が終わった今そこには誰もいないし人が来る可能性もまずない。
「僕に話って何?」
声をかけてきた時のどこか思いつめたような雰囲気を思い出し、ヴァッシュは努めて明るく言った。
ケビンは何度も言い淀んだが、音を立てて唾を飲み込むとようやく口を開いた。
「……僕……今朝メリルさんに……告白した」
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そして彼は途方に暮れる
ⅩⅢ
最初は言葉の意味が判らなかった。
「…………えっ?」
長い沈黙の後、ようやく理解した人間台風はやっとの思いで短く問い返した。ずっと俯いている、自分より小柄な元クラスメイトの表情は見えない。
「憧れてたんだ……入学してからずっと。すごく綺麗で、頭がよくて、スポーツも得意で。……生徒会役員選挙の時には迷惑をかけたのに許してくれて……優しい人なんだってよく判った」
ヴァッシュは何も言わずに――何も言えずに、ただケビンの話を聞いた。
「あれからメリルさんのことが頭から離れなくなった。違うクラスになって少しは落ち着くかと思ったんだけど、好きだっていう気持ちがどんどん膨らんでいって……」
再び訪れた沈黙。それを破ったのはケビンだった。
「ストーカーみたいかな、とも思ったけど、今朝早くメリルさんの家に行ったんだ。メリルさんは驚いてたけど、僕のこと怒ったり追い返したりしなかった。……家の前で告白した。『好きです、僕とつきあって下さい』って……」
「……それで?」
激しい動悸を自覚しつつ、ヴァッシュは何とか平静を装い先を促した。
ケビンは顔を伏せたまま静かに首を横に振った。その時の、悲しそうな彼女の表情を思い出しながら。
「……『ありがとうございます、お気持ちはとても嬉しいですわ。でも……ごめんなさい。私は今自分のことで精一杯で、どなたともおつきあいするつもりはありませんの』……そう言われた」
ヴァッシュの顔が歪んだ。
ケビンがメリルに告白したことに対する動揺、返事がNOだったことへの安堵、ケビンの苦しみに同調する反面、彼の失恋を心のどこかで喜んでいる自分への嫌悪と怒り、誰ともつきあうつもりはないという言葉への落胆……
さまざまな想いが複雑に混ざりあい、インクのように胸に広がってゆく。
「……メリルさん、野球部に好きな人がいるのかな」
そう考えれば、副会長と兼務で忙しいのに部活を辞めないのも納得がいく。
「……それはないと思うよ。部員をひいきしたりしないし、野球部に入部したのも野球が大好きだからだって言ってたし。それに、もしそうならマネージャーはきちんと『好きな人がいます』って言ったんじゃないかな。真面目な言葉に対していい加減な答え方をする人じゃないから」
「……そうか……そうだよね」
ずっと俯いていたケビンが不意に顔を上げた。
「……ほんとはすごく不安だったんだ。本気にされないんじゃないか、笑われるんじゃないかって。でもメリルさんは真剣に話を聞いてくれて、きちんと答えてくれた。お詫びの印も受け取ってくれたし」
「お詫びの印?」
「手作りのオルゴール。……僕はこんなことしかできないから」
眼鏡をかけた顔が再び伏せられた。
「……僕が……君みたいにカッコよかったら……背が高くて、ハンサムで、スポーツ万能で、話も面白くて、人気者で……そうしたらメリルさんは……」
「そんなことない。キミはかっこいいよ」
ケビンは勢いよく人間台風を振り仰いだ。
「……誰かに自分の想いを伝えるのって凄く勇気が要るよね。それをやり遂げたキミはかっこいいよ。……それに、さっきキミは僕のこと誉めてくれたけど、僕は全然かっこよくなんかないよ。マネージャーには叱られてばっかりだし、ホント情けない奴なんだ」
言いたいことも言えないし、プレゼントも渡せない。
「オルゴールは全部手作りなんだろ? 外側だけじゃなくて中身も。それって凄い才能だよ。僕にはとてもできない。……尊敬するよ」
「……ありがとう……」
ケビンは笑った。泣き笑いのような表情ではあったが。
「ごめんね。部活で疲れてるのに引き止めて。……話、聞いてくれてありがとう……」
突然走り出した元クラスメイトの姿が見えなくなるまで人間台風はその場を動かなかった。
辛くて泣いている男の姿を見ちゃいけない――そう思った。
エピローグ
翌朝、ヴァッシュは夜が明ける前からメリルの家の前にいた。
昨日のケビンの話は衝撃的だった。打ちのめされた気分になった。でも、大きな示唆を与えてくれた。
『一緒に帰れないんだったら一緒に登校すればいいんだよね』
そうすれば確実に二人きりになれる。
多くは望まない。二日連続で告白されたらメリルも困るだろうから。プレゼントを渡して感謝の気持ちを伝える。
今日はそれだけでいい。
「行って参ります」
ドアが開く音に続けて聞こえた涼やかな声。ヴァッシュはもたれかかっていた自転車から離れ、門扉へと歩み寄った。
「おはよう」
「ヴァッシュさん!?」
予想だにしなかった来訪者にメリルは門の取っ手を掴んだまま目を見開いた。が、それもごく短い間のことだった。
菫色の双眸がすっと細められた。黒髪に縁取られた顔に緊張が走る。
「……何かあったんですの?」
問いかける声も強張っている。その理由が判らず、ヴァッシュは困惑混じりの笑みを浮かべて逆に質問した。
「何かって?」
「……こんな時間にわざわざこんなところまでいらっしゃるなんて……野球部で何か問題が起きたんじゃ……」
あの時も何か言いたそうだった。でも肝心の話はその後も聞けずじまいで。
「え!? いや、なんにもないよ! ただ……」
右手が鞄に触れた。小さな紙袋の存在を確かめるように。
「……一緒に学校に行こうと思って」
『何言ってんだ俺! 小学生じゃあるまいし!』
本当に言いたいこととは大きくかけ離れた発言にどうしようもなく腹が立つ。人間台風の心の中で自分に対する罵詈雑言が吹き荒れた。
が、彼の内心の嵐は意外な返事の為にぴたりと止んだ。
「……ごめんなさい。それはできません」
驚いてメリルを見つめる。戸惑いと謝罪の気持ちが入り交じった複雑な表情を。
「……どうして?」
理由を尋ねる声は僅かに掠れた。
「一緒に登校したことがジェシカさんに知れたら大騒ぎになりますわ」
もっともな指摘にヴァッシュははっと息を呑んだ。それが原因で二人がぎくしゃくするようになったら、野球部全体に悪影響を及ぼすだろう。
『だからあの時も待たなくていいって言ったのか……』
マネージャーの細やかな心配り。それに対して……人間台風は己の浅慮を恥じた。
「お話でしたら学校で伺います。……部活にあまり出られない半幽霊部員にこんなこと言う資格なんてないのかも知れませんけど」
「そんなことない!! それに、話があった訳じゃないんだ。たまたま早く目が覚めて、思いつきでここまで来ただけ だから」
しどろもどろに言い訳しつつ、ヴァッシュは自分の自転車目指して後ずさりした。ハンドルが腰に当たり、目的地に着いたことを知る。
「せっかく時間に余裕があるんだから、早く行って自主トレするよ。今年こそ甲子園、頑張らなくちゃ! それじゃお先!」
言い終えると同時に自転車に飛び乗る。右足がペダルを踏み損ね危うくバランスを崩しかけたが、何とか持ち直し急発進させた。自分を心配する声は聞こえなかったことにした。
『話は学校で、か』
それはつまり、イヤリングを手渡すなら校内で、ということ。だが、めぼしい口実もない現状で二人きりになれる機会がそうそうあるとは思えない。
あの時、千載一遇のチャンスを二度も逃した自分が恨めしい。
「間違いない!! 俺にゃー疫病神か貧乏神が2ケタ以上ついてるんだ!!」
早朝故、猛スピードで大通りを走る自転車から発せられた悲痛な叫びを耳にした者は少なかった。
―FIN―
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