Ⅸ
ようやく靴を買い、残すはアクセサリーのみとなった。
もう夕方だというのに、母に疲れた様子は全くない。買ったものを全部自分が持っていることを差し引いても凄いバイタリティーだと思う。
しかし、感心したからといって早く帰りたいという気持ちは消えてはくれない。
『もう部活は終わっちゃっただろうな』
ヴァッシュは背中を丸めて小さく吐息し、気を取り直すように顔を上げた。その途端、彼の身体は不自然な姿勢のまま硬直した。
ブルーグリーンの瞳が食い入るように見つめているのは一枚のポスターだった。
黒髪を小さくまとめたモデルの凛とした横顔。キャリアウーマン風のスーツを着て、小ぶりの耳飾りをつけている。
ジャケットの襟元で輝くブローチ。
胸がざわめくのを感じた。でもそれは決して嫌なものではなく。
引き寄せられるように近づき、ショーケースを覗き込む。初詣の時に見た髪飾りの影響か、銀色の光には興味がなかった。ただひたすら金色の商品に視線を走らせた。
「あ…」
丸い飾りのついた金の留め金と細長い金の円筒を金糸で繋いだイヤリングに目が釘付けになった。メリルに似合う、そう確信した。
「何かお探しですか?」
声をかけられて思い出す。自分が何処にいるのかを。何をしていたのかを。
「え、いや、あの…ま、また来ます!」
顔が赤くなるのを自覚しつつ、ヴァッシュは逃げるようにその場を離れた。
らしくない行動。らしくない買い物。でも――
小遣いで気軽に買えるような値段ではないが、手が届かないほど高価でもない。
「母さん!」
頬を紅潮させた息子に突然呼ばれ、ヴァッシュの母はぎくりとした。長すぎる買い物にとうとう堪忍袋の尾が切れたのか、と。
「買いたいものがあるんだ。貯金を少し使いたい」
「…何を買うの? 無駄遣いは」
「無駄じゃない! …お世話になってるマネージャーに、プレゼントを」
自分の頬が更に熱くなるのが判った。金額を訊かれ、素直に答える。
「いいわよ」
あっさりした返事にヴァッシュは目を丸くした。もっといろいろ言われると思っていたのだ。
財布から紙幣を取り出すと、ヴァッシュの母はそれを息子に差し出した。
「…どうしたの? いらないの?」
「ありがとう! 後で返すから!」
電光石火の速さで紙幣を掴み、ヴァッシュは一目散に走り出した。
「…思わぬ産物ね。瓢箪から独楽ってことかしら。…でもあの子が、女の子にプレゼントをねぇ…」
後ろ姿が見えなくなってから、ヴァッシュの母は苦笑混じりに呟いた。僅かに俯いてそっと目を閉じる。緩みかけた涙腺をなだめる為に。
「あの、すみません! そこの、奥から二列目の…その横…はいそれです、そのイヤリングを下さい!」
さすがはプロである。赤い顔で息せき切って戻ってきた若い男を前にしても、店員の営業スマイルが崩れることはなかった。答えは判りきっているがマニュアルどおりに質問する。
「贈り物ですか?」
「はい!」
「では贈答用にお包みしますので少々お待ち下さいませ」
「あ、あの…」
「はい、何か?」
「き…綺麗に包んで下さい。よろしくお願いします!」
耳まで真っ赤にして一礼した姿に、初めて店員の顔に作ったものではない笑みが浮かんだ。
「かしこまりました」
しばらくして、手のひらに載るくらい小さな純白の紙袋がヴァッシュに渡された。清算を待つ間にそっと覗いてみる。白いリボンがかかった白い箱が見えた。
「お待たせ致しました。こちらお釣りとレシートでございます」
「あ、ありがとうございました!」
言うべき台詞を先に言われてしまった。店員は内心苦笑しながら、柔らかな笑顔で何も言わずに頭を下げ初々しい客を見送った。
Ⅹ
月曜日の昼休み、教室で昨日の話を聞いたヴァッシュはしばらく絶句した後酷く悔しがった。
「…チクショー、会いたかったなあ。初詣以来会ってないし…」
会えなかったのも残念だが、一番悔しいのはミリィの制服姿を見られなかったことだ。ミリィの母校、イコールメリルの母校。どんな制服なのか知りたかった。
まあ、写真を見せて貰うって手もあるさ。落胆しつつもそう思い、ヴァッシュは自分を慰めた。
「元気そうだった?」
「ええ、それはもう」
「言い間違いもパワフルやったで。二日モノは傑作やな」
「ふつかもの?」
メリルの説明にしばし笑い転げる。目尻に涙が浮かんだ。
「…お、おなか痛い…。…でも、あの子がマネージャーになってくれるんなら、キミも少し楽になるんじゃない?」
「そうですわね」
「あとは部員やな。もちっと人数欲しいわ」
「入学式の翌日に新入生のオリテンテーリングがあります。その時、部活の説明と各部のPRの時間をとりたいと考えてますの。一つの部の持ち時間は短いですけど、新入生にアピールするいい機会になると思いますわ」
「部活の説明? 僕らの時はなかったよね?」
「ええ。実行できればこれが初めての試みになります」
部活は自由参加の為、これまで勧誘活動は各々が勝手に行なっていた。当然効率は悪く、入部者獲得はどの部にとっても頭の痛い問題だった。
関係改善の一助になれば。そう考えて、メリルは会長の許可を得て企画書を作成し、教師達にオリエンテーリングの内容変更を願い出た。
手応えは感じている。実現できる確信がメリルにはあった。
「今日の職員会議で認められれば、明後日には各部に通達を出します」
「それでずっと放課後部活に来られなかったんだ」
「ええ…皆さんには申し訳ありませんけど、まだしばらくこの状態が続きそうですわ」
新しいことをやろうとするなら周到な準備は不可欠だ。発案者が自分である以上、自分が先頭に立って動かなければ。
「こっちのことは心配しないで。部室の掃除は皆でやってるから大丈夫だよ」
マネージャーに負担をかけないよう、部室の掃除は自分達でやろう。ヴァッシュの提案に全員が賛成した。
「トンガリの奴、掃除の最中はどこぞの頑固ジジイみたいに口うるさいんやで」
「悪かったね、口うるさくて。そういうキミはけっこう真面目にやってるよね」
「綺麗好きなんや」
「うわ、嘘っぽい」
ヴァッシュはこめかみに血管を浮かせたキャッチャーに容赦ないヘッドロックをかけられた。
「ヒドイじゃないか! あー、髪ぐちゃぐちゃ…」
「口は災いの元やて教えたったやろ? ちっとは学習しいや」
悪びれないキャッチャーに報復しようとにじり寄った瞬間、五時間目の予鈴が鳴り始めた。仕方なく低く唸りながら睨むだけにとどめる。
そんなヴァッシュに目もくれず、ウルフウッドは涼しい顔でさっさと自分の席に戻った。
『髪整える時間もないや』
椅子に腰掛けると、ヴァッシュは額にかかる大きな髪の束を指で引っぱった。ここまで崩れてしまうとドライヤーなしで直すのはほぼ不可能だ。
『ええい、こうなったら!』
ヴァッシュは両手で自分の髪をかき回した。
その日の午後、人間台風は起き抜けと大差ないぼさぼさの頭で授業を受け部活にいそしんだのだった。
ⅩⅠ
卒業式を明日に控えた三月十四日。
登校直後、メリルは部室の前でギリアムから何も入っていない大きな紙袋を手渡された。
「主将、あの、これは…」
「すぐに判る。まずは俺からだ」
続けて差し出されたのは、小さな造花とリボンをあしらった一辺十センチ程の立方体の箱。
「オーソドックスにキャンディを」
「あ…ありがとうございます」
微笑と苦笑が半々の笑みを浮かべてメリルは礼を言った。今日がホワイトデーだということをすっかり失念していたのだ。
着替えに来た部員達が次々とマネージャーに用意した品物を渡していく。チョコやマシュマロといった菓子、アロマキャンドル、アイピロー、マフラー…メリルの両手はすぐにいっぱいになった。
『この紙袋…』
主将の配慮にメリルは頭が下がる思いだった。
各々が考え抜いて選んだであろうお返しの中で、飛びきり奇抜だったのはウルフウッドのものだった。
巷でブームを巻き起こしているという、中に動物の人形が入った卵型のチョコレート一個。それはラッピングも何もされず、むき出しのまま小さな手の上にぽんと置かれた。
「ウルフウッド、これは…」
さすがにそれではあんまりだと思ったのだろう、副主将が声をかけた。
「近所のスーパーで見つけたんですわ。『大人気』っちうラベルが棚に貼ってあったんで、そうなんか思てこおたんですけど」
「ありがとうございますウルフウッドさん、嬉しいですわ」
無駄な出費は避けたいだろうに、こうしてお返しを用意してくれた。それだけで充分だった。
ヴァッシュはチョコクッキーを詰めた可愛い缶をメリルに差し出した。あの白い紙袋は鞄の中にあるが、できれば二人だけの時に渡したかった。
メリルが贈り物を紙袋に入れ終えるのを待ってギリアムは口を開いた。
「皆、聞いてくれ」
重々しい口調に部員達は一斉に声の主を見、そのまま凍りついたように動けなくなった。いつになく強張った顔、瞳の中の強い光。
「俺は…主将をおりようと思う」
どよめきが上がった。部員達は顔を見合わせ、誰もが寝耳に水であることを確かめた。
「しゅ、主将! どうしてですか!?」
「バレンタインの時揉めただろう? あの時俺は皆を止められなかった。その後も問題を解決することができなかった。…自分の力不足を痛感したよ」
「でもあれは俺達が悪かったんであって、主将に責任はありません!」
「…もっと前から考えていたことなんだ」
十二月にマネージャーが退部届を出した時、自分は何もできなかった。
冬合宿では、写真部の連中の動きに気づかなかった。あの四人を封じ込める方法を思いつかなかった。
先月のいざこざの時、自分がマネージャーの考えを汲むことができていればあんな騒ぎにはならなかっただろう。
トラブルを収拾したのは。解決の糸口を提示したのは。
「…主将と副主将の交替は夏の地区予選の後に行なわれてきた。いつも話し合いで選んできたが、今回は指名させて欲しい。主将は…ウルフウッド、君に頼みたい」
「!!」
一同の動揺をよそに、いつの間にかギリアムに並んだ副主将が続けて言った。
「同じ理由で俺も副主将をおりる。後任は…ヴァッシュ、お前だ」
「ええっ!?」
ピッチャーの裏返った声に二人は揃って苦笑いを浮かべた。事前に話さずいきなり発表したのだ、驚くのも無理はない。
「交代の時期も人選方法も前例のないことなのは判ってる。でも…考えてみて欲しい。去年俺達は感じた筈だ。甲子園出場が手の届かない夢じゃないと」
全員が黙ったまま静かにギリアムの声に聞き入った。
「夢を実現させるには全員が一丸となることが必要不可欠だ。その為には、皆をしっかりまとめて引っ張っていける実力の持ち主がリーダーにならなければならない。…俺では力不足だ。人間的にも、プレーヤーとしても」
「そんなこと」
否定の言葉は静かな声に遮られた。
「ウルフウッドは心の機微に聡い。アイディアも豊富で、必要とあれば大胆な判断を下せる。行動力もある。運動神経は皆が知っているとおりだ。主将にもっとも相応しい奴だと確信している」
「これは俺と主将、それに先生も交えて何度も話し合って出した結論だ。主将にウルフウッド、副主将にヴァッシュ、俺達はこれがベストだと思ってる」
爆弾発言をした二人の目がバッテリーに向けられた。
「…即答…できません」
「ちと考えさして下さい」
「…そうだな。でもなるべく早く結論を出してくれ」
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季節は移り、人は
ⅩⅡ
卒業式が終わった。終業式も終わった。
が、春休みに入ってもヴァッシュは結論を出せずにいた。
メリルもこの話は知らなかったという。ウルフウッドにどうするつもりなのか尋ねたが答えはなかった。
野球が好きで、野球がやりたくて、野球部に入部した。ただそれだけだ。それなのに副主将だなんて。
主将と副主将が真剣に考えて提案したことだ、こちらも真剣に考えなければ。とは思うものの、『荷が重い』というのが率直な感想だ。誰かの上に立つ自分…想像もつかない。
「はぁ…」
「何ため息なんてついてるの。もっと嬉しそうな顔をしなさい」
母から小声で注意され、ヴァッシュは自分の頬を軽く二回叩いて気持ちを切り替えた。一日がかりの買い物から三週間後の今日はレムとアレックスの結婚式だ。
そっと周囲を見回す。貸切にした一軒家のレストランの中、静かに座っている正装した人達。
こういう堅苦しい雰囲気は苦手だ。心の中でこっそりため息をつく。と、入り口の扉が開け放たれ、新郎新婦がしずしずと入場してきた。
二人を見た瞬間、ヴァッシュは先刻までの重い気分も、軽く横分けにし後ろに流すようにして整えた違和感を覚える髪のことも、窮屈なスーツを着ていることも、息苦しいようなネクタイの存在も全部忘れた。
「レム…綺麗だね…」
「ええ」
それに凄く幸せそうだ。ヴァッシュの顔に自然と笑みが浮かんだ。
『まったく…ナイブズの奴、どうして来ないんだよ』
人数が一人少ない分、ヴァッシュのいるテーブルは他のテーブルより余裕があった。寮に招待状を送ったが、返ってきたのは短いお祝いの言葉を添えた欠席の通知だったという。
『大丈夫だよレム、俺が二人分お祝いするから』
声には出さずに呼びかけ、膝の上のレンズ付フィルムに手をやる。こうなったら綺麗なレムの写真をたくさん撮って薄情者に送りつけてやろう。
人前結婚式、という言葉をヴァッシュは初めて耳にした。神様にではなく出席者に対して永遠の愛を誓う。仲人はいない、派手な演出もない。結婚式らしいことといえば新婦の純白のドレス、宣誓、指輪の交換、店特製のケーキに入刀したことくらい。
披露宴を兼ねた式は滞りなく進み、最後にアレックスが挨拶してお開きとなった。次は二次会。会場はこのレストラン自慢の中庭である。
中庭の隅で所在なげにジュースを飲んでいたヴァッシュは後ろから名前を呼ばれて振り返った。
「レム!?」
落っことしそうになったグラスを慌ててしっかり持ち直す。中身が少なかったので零さずに済んだ。
「うふ、いいでしょ。純白のチャイナドレスよ」
レムは困惑している従兄弟にいたずらっ子のような表情でウインクした。
お色直しって式の最中にやるもんじゃ…ていうか、そもそもチャイナドレスってありなの? 混乱する頭で考えつつ、ヴァッシュは視線をあちこちさ迷わせた。服の上からでも判る身体のライン、深いスリットから覗く足。目のやり場に困る。よく見ると、レムの他にもチャイナドレスに着替えた人が何人かいた。
「…ずいぶん思いきったことしたね」
「あら、前例がないとやっちゃいけないの?」
返答に窮したヴァッシュに、レムは優しい微笑みを向けた。
「私達が出会ったきっかけは少林寺拳法ですもの。この服が相応しいと思ったの。ベストじゃないけど」
「ベストじゃない?」
「一番相応しいのは道着でしょ? でもそれじゃあんまりだから」
二人の出会いは大学でだった。レムが入部した少林寺拳法部の一年先輩にアレックスがいたのだ。
「まあ確かに、年配の人とかは反発するかも知れないわね。その時はごめんなさいって謝るわ」
あっけらかんとした口調にヴァッシュは思わず苦笑した。
「これに限らず失敗した時はね」
「?」
「初めてだもの。夫婦っていう人間関係も、自分が中心になって家庭を築くのも。失敗して当たり前だと思うの。
でも、失敗したらやり直せばいい」
「…」
「大切なのは失敗しても諦めないこと。自分がどうしたいのかを見失わないこと。そして、何ができるかを常に自分の胸に訊くこと」
ヴァッシュはレムの言葉を心の中で反芻した。失敗しても諦めないこと…
「生まれた時に手わたされた白紙の切符に征き先を書き込んだのに、どうすればそこに行けるのか判らないんだったら、誰かに質問すればいいのよ。家族や友達、周りにいる人みんながきっと手がかりをくれる。前に進むのに協力してくれる」
迷子になったらおまわりさん、ってね。とんでもない例えにヴァッシュは吹き出した。
「私はアレックスと幸せになりたい。この気持ちを見失わなければ、どんな障害だって乗り越えていける。そう思うの」
「はいはい、ご馳走様でした! いい話だと思って拝聴してたら結局のろけなんだから…」
「ヴァッシュのほうはどうなの? バレンタインがあったでしょ? クラスメイトでクラブメイトなんだから、チョコの一つも貰えたんじゃない?」
「貰いましたけどねー、新婚ほやほやのお二人に比べたら不幸のどん底ですよーだ」
胸がずきんと痛んだ。二人きりになれる機会に恵まれず、イヤリングはまだ自分の手元にある。
「やっぱりあの子のこと、そーいう目で見てたんだ」
「…!!」
「で? ホワイトデーには何をお返ししたの?」
「アアアレックスがこっちを気にしてる! 旦那さんほったらかしにしちゃ駄目じゃないか。ほら、奥さんは行った行った!」
話せば話すほど自分の墓穴を掘りそうだ。ヴァッシュはアレックスのほうへとレムの背中を押した。
「…ありがと、レム…」
笑いながら歩き出した後ろ姿を見送りながら呟いた言葉は、誰の耳にも届くことなく風にまぎれて消えた。
ⅩⅢ
人間台風が従兄弟の結婚式の為に部活を休んでから三日後のこと。
生徒会の仕事が思いの他早く終わったメリルは、春休みに入って以降初めて野球部の部室を訪れた。入学式とオリエンテーリングの準備で、全く部活に出られない状態が続いていた。
前副会長が言っていたことを思い出す。こういうことだったのか、と実感したし、両立が大変なのもよく判ったが、野球部をやめる気にはならなかった。
鍵を開けて中に入る。思っていたよりも綺麗な部室にほっと安堵のため息をつく。それでも部屋の隅など細かいところが気になって、箒とちりとりを取り出して掃除を始めた。
「あ、マネージャー」
ギリアムの声に手を休めて振り向く。部員達が続々と部室に入ってくるのが見えた。髪やユニフォームが濡れている。
「とうとう降ってきたよ。今日はこれで終わりだな」
「お疲れ様でした。それじゃ私は外しますね」
掃除用具を片づけ鞄を手にドアへと向かう。ヴァッシュの横を通り過ぎようとした時、かすかな声が聞こえた。
「ミリィ」
目だけ動かして声の主を見やり、唇にかすかに笑みを浮かべる。
メリルの表情の変化を確かめてから、ヴァッシュはちらりとウルフウッドを見た。
名前と微笑と視線。意思疎通にはそれだけで充分だった。
クラブハウスの角まで移動すると、メリルは携帯電話を取り出した。
「もしもし…ミリィですの? …ええ、私ですわ。突然でごめんなさい。あなたの都合がよければ、これからあなたの合格祝いをやりたいのですけど…」
ミリィの合格祝いをやろうとヴァッシュやウルフウッドと話はしていた。本人にもその旨伝えてあるのだが、自分の時間の都合が判らず前もって約束できずにいたのだ。
短い電話を終えると、メリルは扉の横で部員達が出てくるのを待った。
「マネージャー、お先」
「お疲れ様でした。傘はあります? 身体を冷やさないで下さいね」
ついお小言のような台詞になってしまう。が、それはいつものことで皆慣れている。部員達は苦笑しつつ手を挙げて応え、帰っていった。
最後まで部室に残ったのは三人。ヴァッシュ、ウルフウッド、そしてギリアムである。
「…決心はついたか?」
バッテリーからの答えはない。ギリアムは小さく吐息した。
「…いい返事を期待してる。それじゃお先に」
「失礼します」
扉の向こうでメリルと何か言葉を交わしているのが聞こえた。ヴァッシュは窓の戸締まりを確認し、首を巡らせて室内が片づいているのを確かめた。
しばらく待ってから部室のドアを開ける。ギリアムの姿はなかった。
「お待たせ」
「いえ。…あら? ヴァッシュさん、傘は?」
「持ってこなかった」
小さなため息がマネージャーの口から洩れた。
「仕方がありませんわね。ご一緒します?」
「いいの?」
「こんな雨の中雨具なしで歩いたら肩を冷やしてしまいますもの。…それとも、ウルフウッドさんの傘に入れて貰います?」
「冗談でしょ!?」
「冗談やない!!」
メリルは勢いよく首を横に振る二人の姿にきょとんとし、嫌がる理由に思い至って吹き出した。他意はなく、単に彼の傘のほうが大きかったが故に提案しただけなのだが。
「…判りましたわ。それじゃ行きましょうか」
ドアに鍵をかけたマネージャーから傘を受け取ると、ヴァッシュはそれを開いてメリルを招き入れた。
雨の中を相合傘で歩く。未だ鞄の中にある小さな紙袋を渡すには絶好のシチュエーションだが。
『ウルフウッドがいなけりゃなぁ…』
からかわれるネタを自ら提供したくない。ヴァッシュは呼吸に紛らわせてこっそり吐息した。
エピローグ
三人が駅近くの喫茶店に着いた時、ミリィは既に店の前にいた。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いいえ全然! ほら、指長くなってませんよね」
肩で傘を支え、両手を開いて三人の前に突き出す。傍から見ればまるでギャグのようだが本人はいたって真面目だ。
「長時間待った時に長くなるのは首ですわ」
メリルは苦笑しながら律義に訂正した。知り合ってもう三年、その間に何回こんな会話をしただろうか。
二人のやり取りに笑みを浮かべると、ヴァッシュは遅れた理由――オレンジを基調とした花束をミリィに差し出した。
「これ僕達から。遅くなったけど、合格おめでとう」
「ありがとうございます!!」
本当に嬉しそうな笑顔。見ているこちらまで幸せな気分になる。
店に入り注文を終えた後、早速ミリィは隣のメリルを見やった。
「先輩ほんとに忙しいんですね。生徒会のお仕事、大変なんですか?」
「ええ、今は特に。部活に参加できない日が何日も続いてましたの。四月以降どうなるか判りませんし、あなたがマネージャーになってくれれば心強いですわ。…でもいいんですの? トライガン学園にはソフトボール部もありますのよ?」
「はい! ソフトボールも楽しいですけど、あたしは先輩といっしょにいたいんです!」
ミリィは小さな身体をしっかりと抱きしめた。メリルが照れくさそうな表情でそっと腕を回す。
見守るバッテリーの胸中は複雑だったが、どちらも顔には出さなかった。
「あ…野球部に入ったら、ヴァッシュさんはヴァッシュ先輩、ウルフウッドさんはウルフウッド先輩って呼ばなきゃいけなくなるんですよね」
「…主将、副主将と呼ぶようになるかも知れませんわよ」
男達は動きを止め、真顔でマネージャーを見つめた。菫色の瞳が向かいに座る部活仲間を等分に見返す。
「…主将に頼まれましたの。皆の気持ちは固まってる、二人の考えを訊いてくれないか、と」
ギリアム達の提案に反対する者は皆無だった。メリルも賛成した。あとはバッテリー次第だ。
「それじゃヴァッシュ主将にウルフウッド副主将って呼ぶんですね! 今から練習して慣れとかないと。ヴァッシュ主将、ヴァッシュしゅしょう、ヴァッシュしゅそう…あれ?」
ミリィはしばらくの間小声でくり返し練習した後、申し訳なさそうに人間台風のほうを見た。
「…ヴァッシュさん駄目ですごめんなさい。うまく言えません。ヴァッシュしゅそう…せせ先輩どうしましょう!?」
「ごめんなさいミリィ、言い方が悪かったですわね。違いますのよ」
「そうそう、僕がなるのは主将じゃなくて副主将。こっちなら言いやすいんじゃない?」
「…!」
目を見開いて自分を凝視するマネージャーにヴァッシュはにっこり笑いかけた。
「決めたよ。僕は引き受ける」
野球が好き。野球がやりたい。甲子園に行きたい。その為に、プレーヤーとして以外に自分にできることがあるのなら喜んでやる。
自分がどうしたいのか、自分に何ができるか、くり返し問いかけて出した結論だった。
「はいっ判りました! ヴァッシュ副主将、ヴァッシュふくくしょう…あれれ?」
「副主将は一人しかいないからね。副主将だけでいいと思うよ。これまでもそうしてきたし」
「そ、そですか」
苦笑混じりのヴァッシュのアドバイスにミリィは安堵の表情を浮かべた。
六つの目は自然とウルフウッドに向けられた。
「…トンガリに指図されるんは癪やしな。やったるわ」
偽悪的な言い方。だが三人は理解していた。それが、彼が野球部の今後や先輩達の気持ちを熟慮した上で導き出した答えだということを。
「そういう理由で引き受けるかなフツー」
本当の理由は敢えて追求せず、ヴァッシュは片眉だけ跳ね上げて隣の男をからかった。
ウルフウッドが反論する前にミリィの明るい声が響いた。
「それじゃ今日はウルフウッドさんが主将になるのとヴァッシュさんが副主将になるののお祝いでもあるんですね!」
その時、注文した飲み物やケーキがテーブルに並べられた。
「すみません! いちごショート追加、お願いしまあす!」
「食べたかったんですのね、苺ショート」
「えへへ…ガトーミルフィーユとどっちにしようかギリギリまで悩んだんですけど」
ケーキ二個は食べ過ぎですかねぇ。ミリィは肩を落とすと悲しげに呟いた。
「ま、たまにはいいでしょう。おめでたい日ですもの。苺ショートは御祝儀代わりにご馳走しますわ」
「ほんとですか!? ありがとうございます! 先輩だあい好き!!」
力一杯抱きしめられ、途端に息が苦しくなる。慌てて後輩をなだめながらメリルは思った。
今日は珍しく一息つけた。でも明日から、マネージャーとして、副会長として、また目のまわる様な忙しい日々がやってくるのだろう。
でもそれはきっと、賑やかで活気に満ちた楽しい日々――
未来に思いを馳せるメリルとスキンシップにいそしむミリィはしばらく気づかなかった。バッテリーが揃って口をへの字に曲げて自分達を見つめていることに。
「…あっ、ご、ごめんなさいお待たせしてしまって。お茶が冷めてしまいますわね。いただきましょうか」
「あ、うんそうだね。それじゃ…いっただっきまーす」
不機嫌の原因を理解して貰えず更にへこんだことはおくびにも出さず、男達は妙に苦いコーヒーを同時に一口啜った。
―FIN―
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