季節は移り、人は
プロローグ
バレンタインから三日目の朝を迎えたが、野球部員達もマネージャーもわだかまりを消す機会を見出せずにいた。
その日、珍しく弁当を持参しなかったヴァッシュは、混雑した学食の一角に新会計の男子生徒を見つけトレイを手に歩み寄った。
「隣、いいかい?」
「あ、ああ」
どうしても確認しておきたいことがある。これはチャンスだ。
ヴァッシュはすぐ横の席に腰掛けると、いつもより速いペースでカレーライスをかき込んだ。
相手が食べ終えるのを待って声をかける。
「キミ、新しい生徒会の会計だよね。忙しい?」
「いや、今はそれほどでもないよ」
ヴァッシュは僅かに眉をひそめた。それじゃどうしてメリルは放課後部活に来ないんだ…。
「イキナリの質問だけど、何で?」
逆に訊かれてヴァッシュは我に返った。
「あ、突然ごめんね。僕野球部なんだけど、マネージャー…副会長がこのところ放課後の部活を休んでるもんだから」
「ああ…」
相槌とも独り言ともつかない言葉。彼の顔を不快の色が一瞬よぎる。
『!?』
だが、ヴァッシュが更に尋ねるよりも早く会計担当は席を立った。
「お先に」
離れていく背中はすぐに学ランとセーラー服に紛れて見えなくなった。
ヴァッシュは残っていた水を一気に飲み干し、食器を窓口に返却して食堂を後にした。
釈然としないどころか、胸のつかえが倍増した気分だ。廊下を歩きながらついため息が洩れる。
不意に誰かが無言のまま横に並んだ。目だけ動かして確認する。先刻話しかけた会計だった。
「生徒会長がごねてるんだ」
「え?」
小さな声が生徒会の現状を、メリルの苦境を告げた。無茶な予算申請をした部がたくさんあったこと。予算を成立させる為にメリルが生徒会の備品の貸出を提案したこと。そのしくみ作りから書類の作成まで彼女一人でやっていること。キールがいちいちクレームをつけてやり直しをさせていること。
「…俺に限らず手伝いを申し出たんだけど、当のメリルさんに断られた。あなた方まで睨まれることはありませんわ、私なら大丈夫ですから、ってね。…あの噂、本当らしいな」
「噂?」
視線は合わせず、顔を相手に向けることもしない。偶然傍を歩いているふりをしながら先を促す。
「何度メリルさんにアタックしても色よい返事が貰えなくて、業を煮やしたキールが生徒会役員にかこつけてメリルさんに近づこうとしたって話」
「…」
「引継ぎの時、キールはメリルさんのほうばっかり見てた。彼女がパソコンで作業してる時たまに後ろに立ってるけど、あれは絶対ディスプレイじゃなくて」
声は途中で途切れた。金髪を逆立てた男が拳を固く握り締めているのに気づいたからだ。
「…ありがとう、教えてくれて」
はらわたが煮えくりかえる思いを必死に押さえ、ヴァッシュはできるだけ穏やかな声で礼を言った。
「…できるのなら…できる範囲でいい、マネージャーを助けてやってくれないか。…頼む」
「勿論。俺達六人は副会長の味方だ。心配いらない」
その言葉を最後に、会計担当はさりげなくヴァッシュの横を離れ自分のクラスに入った。
Ⅰ
「どうする?」
「どうするったって…話をする時間もないんじゃ…」
西日が差し込む野球部の部室では堂々巡りの会話がくり返されていた。もっともこれは今日に限ったことではない。既に三日連続で行なわれている。テーマは、マネージャーと仲直りをする方法。
この会話の特徴は二つある。一つは主語がなくても意味が通じること。もう一つは決して結論が出ないということ。
部活休止期間まであと二日。バッテリーを除いて、メリルとはほとんど会えなくなってしまう。
「ヴァッシュ、もう一度マネージャーに話してみてくれないか」
そう言われるのも何度目だろう。心の中で吐息しながらヴァッシュは答えた。
「それは構いませんけど…何を言えばいいんですか?」
「…」
かける言葉が見つからないのはヴァッシュも同じだった。尻切れとんぼになってしまったが言いたいことは言った。
でもメリルの反応はなかった。あの時も、その後も。
クラスでメリルと話すことが何度かあったが、彼女は決して野球部のことを話題にしなかった。一度だけこちらから持ち出したら、困ったような微笑みを浮かべてすぐに話をそらしてしまった。
「…ちと整理しましょうや」
全く進展しない状況に辟易したのかウルフウッドが口を挟んだ。この会話に彼が加わるのはこれが初めてだった。
「先輩達はどうしたい、思ってはります? どうすればええか、やのうて」
「…謝りたい。許して欲しい。…できれば部に留まって欲しい」
「それ、まんま伝えたらええんとちゃいます?」
「どうやって!? マネージャーに俺達と話す時間はないんだぞ!? …わざと忙しそうに振る舞って、避けてるのかも知れないけど…」
「マネージャーがそんなことする訳ないでしょう!?」
突然声を荒げたピッチャーに一同は驚いた表情を浮かべた。発言した二年生はすまん、と短く謝罪した。
「…直接言うだけが方法やない。手紙、電話、録音して渡すっちう手もある。第一、面と向かって言えます?」
「それは…」
おそらくできないだろう。気まずくて、遠くからでさえメリルの顔をまともに見られないのだから。
「…言葉だけで…ちゃんと伝わるかな…」
「足りひんのやったら、何かつけたらどないです?」
「何かって…」
野球部員の八割が一斉に低く唸った。
「…ホワイトデーのお返しと一緒にメッセージを渡すってのは」
「駄目です」
ヴァッシュの容赦ない声が先輩の発言を遮った。
「それじゃどっちがメインか判らないですよ」
「礼儀正しいマネージャーのことやから、ホワイトデーにプレゼントしても『義理堅くお返ししてくれた』ぐらいにしか思わんやろな」
「それに、謝るなら早い方がいい。一ヶ月近くも後じゃ…」
昼に聞いた話を思い起こす。副会長の仕事は彼女にしかできない。たとえそれが理不尽なものであっても。それにひきかえ部活は自由参加だ。もし両立できないとなったら、今回のことを口実にメリルは野球部を――
彼女に負担をかけるのは判っている。マネージャーを続けて欲しいと思うのは我侭なのかも知れない。…でも。
「こういうのはどうでしょう」
ヴァッシュの提案に一同は真剣な面持ちで耳を傾けた。
Ⅱ
二月後半のある日、トライガン学園は入試の為休校となった。この日は在校生の登校は例外なく禁止された。既に学年末試験まで一週間を切っている。日頃の勉強不足を補うにはもってこいの貴重な一日だったが、メリルを除く野球部員は自宅で素直に机に向かうようなことはしなかった。
入試の翌日、打ち合わせを終えた黒髪の副会長は、生徒会室を出たところで金髪を逆立てたクラスメイトに呼び止められた。
「ヴァッシュさん…」
「お疲れ様。今日はもう終わり?」
「ええ」
「じゃあ…見せたいものがあるんだ。ちょっと時間貰えないかな」
すぐには答えず相手を見つめる。夕陽で茜色に染まった空間の中、いつもと変わらない笑みを浮かべる彼が意図していることは掴めない。
「…何ですの?」
「ナイショ」
メリルは小さく吐息した。今日はドイツ語のレッスンの日だ。帰りが遅くなるのは困る。
「今日は時間の余裕があまりありませんの。ですから…少しでよろしければ」
ヴァッシュの顔が悲しそうに歪むのを目の当たりにしたら断れなくなってしまった。自分の甘さに心の中でこっそりため息をつく。
消極的ながらも了承の返事に、男は嬉しそうににっこり笑った。
「大丈夫! すぐ済むし、家までちゃんと送るから!」
小さな手をしっかり握ると、ヴァッシュはまっすぐ昇降口を目指した。急いで運動靴に履き替え、メリルが外履きに履き替えるのを待って彼女の背後に回り込む。
「ちょっと目つむってくれる?」
訝しく思いながらもメリルは素直に目を閉じた。その途端、瞼に肌触りのよい布が押し当てられた。
「ヴァッシュさん!?」
「とっちゃ駄目だよ。目的地に着いたら外すから」
タオルで目隠しをしたメリルをひょいと抱き上げる。
「!?」
「見えないまんまで歩くのは危険でしょ?」
「大丈夫です! 歩けます! …って、目隠しをとれば済む話ですわ!」
「駄ぁ目。ちょっとの間だから辛抱して」
抗議の声を軽くいなして、ヴァッシュはそのまま歩き出した。十歩も行かないうちに方向転換する。
数え切れないほど曲がった為にメリルの方向感覚はあっけなく狂わされた。何処をどう進んでいるのか見当もつかない。
五分ほど経った後、ヴァッシュはそっとメリルを降ろした。
「…はい、もういいよ」
言いながら目隠しをとる。ゆっくりと目を開けたメリルの身体が強張った。
見慣れた扉。最近は朝しか見ることのできなかった。
「どうして…」
今は部活休止期間なのに。
「皆待ってる」
おそらく無意識にだろう、一歩退いたメリルの背中に腕を回すと、ヴァッシュは部室のドアのノブに手を伸ばした。
Ⅲ
扉が開いた瞬間メリルはきつく目を閉じた。光と、僅かな恐怖心から。
ヴァッシュにそっと背中を押され、自ら視覚を封じたまま室内に足を踏み入れる。
「ごめんなさいっ!!」
大音量の謝罪に恐る恐る目を開ける。見えたのは深々とお辞儀をした頭の群れだった。
「あ、あの…」
戸惑いながら真後ろにいるクラスメイトに目を向ける。ドアのすぐ横にもう一人のクラスメイトが立っていた。
「皆謝りたかったんだ、バレンタインデーのこと」
ヴァッシュは穏やかに微笑みながら、どうすればちゃんと気持ちを伝えられるのか判らなくて途方に暮れていたことを説明した。
「…ようやくどうするか決まって、準備が整ったんで、今日キミにここまで来て貰ったんだ」
「…あの時は悪かった。…マネージャーの話を聞く前に、一方的に怒鳴ったりして…。その…許して貰えるだろうか」
メリルを厳しく問い詰めた二年の部員が顔を上げ、口篭もりながらも言葉を紡いだ。
「そんな…。悪いのは…謝らなければならないのは私の方ですのに…」
「ほならこれで水に流すっちうことでええか?」
「勿論ですわ!」
異存などある筈がない。仲直りの印にメリルは部員全員と順に握手していった。
「ワイが昼に弁当食っとったら、こないな騒ぎにはならんかったかも知れんのに…すまんかったな」
「ウルフウッドさん達に別に渡したことが判れば、必然的に『何を貰ったんだ』という話になりますわ。どちらにしても同じだったと思います。ですから気にしないで下さい」
「そうそう。それにもう水に流したことなんだから蒸し返すのはナシ!」
人間台風が二人の会話に乱入した。さりげなく繋いだままの手を外し、ウルフウッドに代わってマネージャーの手を握る。
「見せたいものってこういうことでしたのね」
「うん!」
「でしたら最初にそうおっしゃって下さればよかったのに…。何もあんな方法で連れてこなくても」
「あんな方法って?」
メリルの説明に、主将らごく一部を除く部員達の口元が微妙に歪んだ。
「目隠しした上抱き上げて…」
「おまけに遠回りしましたわね。わざと何度も曲がりましたでしょ」
更なる指摘に部員達の顔は強張り、ヴァッシュの顔からは血の気が引いた。
「…なあんか役得じゃねぇ?」
「それってちょっとセクハラ…」
「な、何言ってんですか! おんなじクラスでウルフウッドより付き合いが長いってだけで、マネージャー連れてくるって大役押しつけたクセに!」
「問答無用!」
「ちょ、ちょっと、先ぱ…ノオ――――ッ!!!!」
関節技をかけられ、ヴァッシュは情けない悲鳴を上げた。
「白状しろ! 何でそんなことをした!?」
「…その方が何が起こるかって…ドキドキワクワクできるじゃないすか」
「…皆さん、判決は?」
「有罪!!」
これまで以上に締め上げられ顔色が土気色になりつつあるピッチャーを、ウルフウッドは少し離れたところから眺めていた。
『まったく…正直に言うたらええのに…』
目隠しで視覚を、抱き上げることで足を封じる。何も見えない状態にしてわざと遠回りし、目的地を悟られないようにする。全てマネージャーを確実に連れてくる為にしたことだ、と。
「う…うるふうっど…みてないでたすけて…」
妙にぎこちない声での救援要請。普通に話せないほど苦しいのだろうが。
「先輩、ワイの分もキッチリお灸を据えたって下さい」
まるっきり下心がなかった訳やあらへんやろ。
「そ…そんな…」
息も絶え絶えのヴァッシュであった。
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季節は移り、人は
Ⅳ
賑やかな一角をよそに、主将はマネージャーに歩み寄ると真っ白い大きな紙袋を差し出した。
「俺達からのお詫びの品だ。受け取ってくれ」
「え、でも…」
「いいから。それに、多分これはマネージャーにしか使えない」
メリルは許可を貰ってから中身を取り出した。崩してしまうのが惜しいくらい綺麗なラッピングを丁寧に開ける。
出てきたのは同じ柄のエプロンが三枚。厚手の白い生地に、紫でブルーベリー、緑で葉と蔦が繊細に描かれている。
「洗濯する時服が濡れないように」
「あ…ありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を言った後、メリルは僅かに首をかしげた。どうしてこれが自分にしか使えないのか。
「サイズ、大丈夫か?」
質問するより先に答えが示され、メリルは慌ててエプロンを身につけてみた。
「ええ、ピッタリですわ。でも探すのは大変でしたでしょう?」
市販のものは大きすぎて、いつも肩紐のボタンを付け直しているのだ。
「皆で手分けして探したんだ。ヴァッシュに言われて、少し小さめのものをね」
エプロン姿のマネージャーに気づいた部員が周りを囲んだ。ようやく解放されたヴァッシュがぐったりと床に倒れ伏す。
「あ、よかった。似合うよ」
「うん、いいね」
「ありがとうございます。大切にしますね」
盛り上がる一団の傍らで、ウルフウッドはヴァッシュの肩を指でつついた。
「おーい、生きとるかー?」
「…キミが…そーゆーこと…言う?」
横にしゃがみ込む男をブルーグリーンの瞳が睨みつける。が、鋭い視線とは反対に声には力がなかった。
「あっちはハッピーエンドのようやで」
指差された方向に目をやって、ヴァッシュは床に頬をつけたまま微笑んだ。ほとんど足しか見えないが、和やかな雰囲気はここまで伝わってくる。
「ヴァッシュの見立てが正解だったってことか」
「え?」
「それ見つけてきたのヴァッシュなんだよ」
「で、昨日皆で店に行って品物を確認して買ったんだけど」
「本当は他にも花とか貝とか、果物でも苺とかレモンとかリンゴとか、いろんな柄があったんだ」
「どうせなら柄違いのほうがいいんじゃないかって意見も出たんだけど」
「あいつが『絶対コレ!』って譲らなくて」
そこまで言って、一同は未だ床に密着しているピッチャーへと視線を向けた。
「…何で?」
尋ねる男達の声は見事に重なった。それに促されるようにヴァッシュは身を起こし、床にあぐらをかいた。
「…ブルーベリーって、マネージャーの大好物じゃなかった?」
「いいえ。嫌いではありませんけど、大好物という訳では」
正直に答えかけて、メリルははっと息を呑んだ。周囲の雰囲気が一変したのと、本当の理由に思い至って。
「ヴァッシュ君はだーれーと間違えたのかなー?」
「彼女か? それとも片思いか?」
「素直に吐いちまえよ」
じりじりと間合いを詰めてくる仲間達の笑顔が恐い。人間台風の背中を冷や汗が一筋伝った。
「あ、あの、私用事があってもう帰らなければなりませんの。ヴァッシュさん、送って下さるんでしたわね?」
メリルはエプロンを脱ぎながら、助け船を出すつもりでヴァッシュに声をかけた。
「え!?」
「ちょっとマネージャー、危ないんじゃないの!?」
「目隠し抱き上げ遠回りの男だぞ!?」
「送り狼に変身するかも知れないよ!?」
「あのねえ! 僕はスタンピード! 狼はウルフウッドでしょ!?」
酷い言われようにさすがにカチンときたのかヴァッシュが声を荒げた。が、素晴らしく的外れの反論は名指しされた男の神経をこの上ないほど逆なでした。
怪我をしないギリギリに手加減された回し蹴りを頭に食らい、ヴァッシュは誠に不本意ながら再び床に寝そべった。
「口は災いの元なんやで。よおく覚えとき」
突然の痛みに頭を抱え顔を顰めて耐える男に、ウルフウッドは冷たい声で古人の有り難い言葉を教えてやった。
Ⅴ
「あたた…まさか蹴りがくるとは思わなかった」
学校を出て間もなく、赤信号で自転車を停めたヴァッシュは左手でこめかみの辺りをさすった。当たる直前に身体を横にずらしてクリーンヒットは免れたが、痛いことには変わりがない。
「あの…ごめんなさい。大丈夫ですの? 辛いんでしたら、私電車で帰りますから」
「平気平気! ウルフウッドもちゃんと手加減してくれてたし、大したことないよ。それにキミのせいじゃないから、気にしないで」
背後から聞こえた遠慮がちな声に慌てて振り返り、満面の笑顔で元気よく答える。必要以上に大きい自分の動作と声に頭痛が酷くなったが、意地とやせ我慢で顔には出さなかった。
『ウルフウッドが見てたら思いっきり馬鹿にされただろうな』
この場にあいつがいないのは不幸中の幸いだ。それに不幸なだけじゃない。メリルがこうして自分のことを心配してくれるのは、申し訳ないと思う反面ちょっぴり嬉しかったりする。
信号が変わり、ヴァッシュは勢いよくペダルを踏んだ。
「あのエプロンを選んで下さったのはヴァッシュさんだそうですわね」
「あ、うん。…もしかして、気に入らなかった?」
「いいえ! 逆ですわ! サイズが合うものってなかなか見つからなくて、困ることが多いんですの」
「ああやっぱり」
「?」
「合宿の時気になってたんだ。エプロンにゆとりがあり過ぎるっていうか、だぼだぼした印象だったっていうか…」
だから、『マネージャーへのプレゼント』と言われた時真っ先にエプロンを思いついたのだ。
提案が皆にすんなり受け入れられたのはよかったが、どこで買うかが問題になった。誰にも心当たりはなく、結局手分けして探すことになった。
これまで自分でエプロンを買ったことなど一度もない。当然いい店など知らない。やむを得ず、母とレムにいくつか候補を挙げて貰うことにした。覚悟はしていたが予想以上にからかわれ閉口した。
突然メリルがくすくす笑い出した。思考を読まれる筈はないが、それでもヴァッシュはぎくりとする。
「何? どうしたの?」
「いえ…皆でエプロンを買いに行った、という話を思い出してしまって…。男性がこういうものを品定めするのって凄く大変だったんじゃないかと…」
ヴァッシュは自転車に乗っていたことに感謝した。お陰で赤面した顔をメリルに見られずに済むからだ。
あのエプロンを見つけたのは、レムに『行くなら覚悟しておいたほうがいいわよ』と言われた店だった。謎の発言の意味は行ってみて判った。ブライダル関連の商品の専門店だったのだ。
幸せそうなカップルが寄り添って歩く店内を男一人でうろつくのは正直勇気が要った。でも、理想のエプロンを発見できたことで恥ずかしさも報われたような気がした。
昨日皆に品物を確認して貰った。男ばっかり十人で押しかけたのだ、店の人も困惑したに違いない。
質はいい。ペアルックにする為かサイズも豊富で、メリルに合いそうな大きさのものがすぐに見つかった。それを贈ることは満場一致で即決した。
しかしどの柄にするかで意見が分かれた。少々揉めたが、ヴァッシュは決して折れなかった。
メリルの為のエプロンだから。でも。
「…違う柄のほうがよかった?」
「そんなことありませんわ。とても綺麗な模様ですし…私の瞳の色に合わせて下さったんでしょう? ありがとうございます」
さすがはメリルだ。ちゃんと判ってくれてる。ヴァッシュの口元に笑みが浮かんだ。
「洗剤もつけようか、なんて言ってたんだけどね」
「お洗濯、頑張りますわ」
「うん。…でも、エプロン贈っといてこういうこと言うのも何だけど、頑張り過ぎないでね。キミにしかできないことってあるでしょ? それをやって欲しいんだ。練習メニューを作るとかね」
「ええ…え!?」
メリルは何気なく相槌を打った後絶句した。
「やっぱりキミが作ってたんだ」
「ど…どうして…」
「合宿の時必ずパソコンを持参してたでしょ。もっと小さな…モバイルって言ったっけ? 持ち運びに便利な奴がある筈なのに、何でかなってずっと疑問に思ってたんだ。合宿中もあれを使ってメニューを組んでたんだね」
「…」
「十二月に一緒に食事をして、キミのお父さんが凄く真面目で誠実な人なのがよく判った。そんな人が相手に一度も会わずに練習メニューを組むなんてことは絶対しないだろう…そう考えて、適任者が他にいることに気がついた」
「…ごめんなさい。騙すつもりじゃなかったんですけど…。でも、チェックはして貰ってますの。たまに修正」
「ストップ! 俺が聞いたのは『マネージャーのお父さんに内密に協力して貰ってる』ってことだけだ。チェックだって立派な協力だから、騙したことにはならないよ」
「…そうおっしゃっていただけると、心が軽くなります」
それからしばらく沈黙が続いた。
「…両立はすごく大変だろうけど…でも…」
マネージャーを続けて欲しい――その一言がどうしても言えない。自分の我侭かも知れないと判っているから。
「大丈夫、続けますわ。皆さん助けて下さいますし。…必ずやり遂げてみせます!」
それは、ヴァッシュを証人にした自分との約束。
「うん…」
ありがとう。口の中だけで呟かれた感謝の言葉はメリルには聞こえなかった。
Ⅵ
月をまたいで行なわれた学年末試験が終わり、校内にはほっとした雰囲気が漂っていた。残された大きな行事は三年生の送別会と卒業式のみ。
送別会には三年生は全員、一・二年生は各クラスとクラブの代表が出席する。やることといえば、校長を始めとする諸先生の話を聞くことと生徒代表達によるスピーチ。その後立食形式で軽く食事をする。最後の食事を除けば酷く堅苦しいもので、生徒達からは不評だった。
その準備に、生徒会と運営委員会は慌ただしい毎日を過ごしていた。
今回、立食パーティーの時に生演奏でBGMを流すことになった。生徒会長が提案したのだが、実はメリルが入れ知恵したのである。
音楽関係の部は大会や文化祭を除いて発表の場がほとんどない。実績を作ろうにも難しいのが現状だ。その為に予算の配分で差が生じるのは不公平だと考えてのことだった。
吹奏楽部と合唱部、琴同好会が名乗りをあげ、交替で演奏することになった。
退屈な送別会はつつがなく進行していったのだが。
卒業生の一人が緊張の余りスピーチの内容を忘れて沈黙した。その時、すかさず吹奏楽部のトランペット奏者が短いフレーズを演奏した。野球でバッターが三振した時によく耳にする、『残念でした』とでもいうようなあの曲である。
突然の出来事に体育館の中はどっと沸いた。
「えー、今のは僕の後任の吹奏楽部部長による名演奏でした。ナイスなフォローありがとう。…後で覚えてろよ」
元部長がぼそっと呟いた一言に生徒達は再び爆笑した。どことなく白けたムードは綺麗に吹き飛んだ。
全てのスピーチが終わり立食パーティーが始まった。先刻のハプニングの影響もあって、参加者達は賑やかに言葉を交わし交流を深めた。
その席で、キールは前例のないことを敢行したとして先生や生徒から口々に賞賛された。
「いやあ、どうなるかと冷や冷やしましたけど、上手くいってよかったですよ」
誉め言葉の雨にキールは終始ご機嫌だった。
メリルは乾杯の直後に、舞台の上にある照明器具などをメンテナンスする為の細い通路に移動した。幕を少しずらして下の様子を確かめる。
現場は常に把握できるが出席者からは見えない。そこは二つの条件を満たす絶好の場所だった。有事の際にすぐに駆けつけられないのが難点だが、念の為携帯電話は持っているし、キール以外の生徒会役員には事前にその旨話してある。
『どうやら無事終わりそうですわね…』
数年前に卒業生と在校生が取っ組み合いの喧嘩をしたことがあったらしいが、そんな剣呑な雰囲気はどこにもない。
「マネージャー、いる?」
ほっと息をついた瞬間に呼びかけられ、メリルの心臓は跳ね上がった。声を出さないよう手で口を押さえつつ、急いで声のしたほうに目を向ける。薄暗い中、せわしなく動く逆立てた金髪が見て取れた。自分を探しているのだろう。
「ここですわ。…そう言えば、野球部代表でしたわね」
「うん。…つまんないって聞いてたし、先生の話ではちょっと居眠りしちゃったけど、大成功だね」
「吹奏楽部の二人の部長のお陰ですわ」
言いながら目線を落とし、賑やかな様子を眺める。横に並んだヴァッシュもそれに倣った。
「どうしてこんな所に…参加しないの?」
「ええ」
菫色の双眸が生徒会長を捉えた。生徒達に囲まれ笑顔で応えている。
この方法なら…。メリルは今後の生徒会運営に一筋の光明を見たような気がした。
各部が活躍できる場を提供することで生徒会に対する反発を打ち消していく。今年予算の申請を大幅に削らされた吹奏楽部との関係は、今日のことで多少改善されるだろう。
その一方で自分はできるだけ裏方に徹し、成功の功績は全てキールのものとする。彼の自尊心を常に満足させることができれば、備品貸出のしくみ作りのような仕事のやり方をさせられることは減っていく筈。だが、もし失敗したら。
気分を害したキールに八つ当たりされるのは必至だ。各部との関係も険悪な状態に戻ってしまう。
失敗した時は責任は自分が取る。その覚悟はできているけれど。
「失敗は…許されませんわね」
低い呟きにヴァッシュは視線を隣に移した。僅かに細められた目。ほんの少し強張った横顔。厳しい空気が彼女を包んでいるのを感じる。
メリルが今後のことを考えているのは判る。でも今くらいは少し力を抜いて欲しい。
背中を軽く叩く。驚いたような表情を浮かべてこちらを見たマネージャーににっこり笑いかけ、手のひらを上にして両手を差し出す。ホームランを打ったチームメイトを迎える時のように。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
大きな手に小さな手のひらが勢いよく打ちつけられ、小気味よい音を立てた。
Ⅶ
三月最初の日曜日、トライガン学園の体育館にはさまざまな制服姿の中学生がいた。壁に貼られた一覧表に視線が集中する。長い受験勉強の結果が今日判るのだ。
あちこちから歓声が上がる。抱き合って喜ぶ姿もそこかしこで見られた。落胆する者も中にはいた。
「賑やかですわね」
久しぶりに日曜の練習に参加したメリルは、洗濯の手を休めて体育館のほうを見た。
一年前、自分は合否の確認に来なかった。合格して当たり前だったし、入学するつもりもなかった。
それなのに、ひょんな事からこうして三年間通うことになった。
不思議な巡り合わせだと思う。
視線を落とし、ブルーベリー模様のエプロンを見つめる。ここに来なければ、部活仲間からエプロンをプレゼントされるなんてことは一生なかっただろう…。
メリルの口元が自然とほころんだ。
「あの中に野球部に入部しようという人がいるといいんですけど…」
もう一度体育館に目をやって小さく呟くと、メリルは洗濯を再開した。
「せんぱ~い!」
耳慣れた、しかし学校という場所ではこの一年聞くことのなかった声。驚いて辺りを見回す。高々と挙げた右手を盛んに振りながら走ってくる大柄な後輩の姿が目に飛び込んできた。
「ミリィ!?」
「先輩っ!」
ミリィは満面の笑みを浮かべてメリルに抱きついた。
「ミリィ…あなた」
どうして、と訊きかけてメリルは口をつぐんだ。今日ここに中学生がいる理由は一つしかない。
「えへへ…ジャーン!」
自分でファンファーレを鳴らすと、ミリィは左脇に抱えていた定型外の封筒を誇らしげにメリルに見せた。
「…おめでとう!」
「ありがとうございます! これでまた先輩といっしょの学校に通えます!」
二人は抱き合ってミリィの合格を喜んだ。
「…志望校を教えてくれなかったのは私を驚かせる為だったんですのね」
「はい! …でも、落ちたらミットがないなっていうのもちょっぴりあったんです」
トライガン学園はいわゆる進学校ではないが、大学進学率は高く偏差値も高めだ。
「それを言うならみっともない、ですわよ」
相変わらずのボケっぷりにメリルは苦笑した。訂正する声も笑いを含んでいる。
ふと気がつくと野球部員が二人を取り巻いていた。マネージャー達の声を聞きつけて何事かと駆けつけたのだ。
「あ、皆さん紹介しますわ。こちらミリィ・トンプソン。私の中学時代の後輩ですの」
「はじめまして、ミリィ・トンプソンです! 先輩がいつもお世話してます!」
「ミ、ミリィ!? お世話してますじゃなくてお世話になってますでしょう!? あの、ごめんなさい! この子よく言い間違いをするんですの」
深々と一礼するミリィの横で、メリルは慌てて部員達に謝罪した。周囲からどっと笑いが起こる。
「いや、お世話されてるのはこっちだから、彼女の言葉は正しいよ」
「い、いえ、そんなことありませんわ。全然、あの」
ギリアムの言葉にマネージャーがしどろもどろになる。
こんなにうろたえる彼女を見ることなど滅多にない。自分に向けられている珍しいものを見るような視線に気づいてメリルの頬が紅潮した。
彼女にとって幸いなことに全員の関心はすぐに別のものに移った。ミリィの思いがけない発言によって。
「四月からは皆さんの後輩になります!」
「え?」
「ミリィ、それじゃ…」
「はい! あたしも野球部のマネージャーになります! 二日モノですがよろしくお願いします!」
「それを言うなら不束者ですわ…」
訂正は本日三度目。呻くようなメリルの声に再び大きな笑い声が上がった。
「…あれ? 今日はヴァッシュさんいないんですねぇ」
「ヴァッシュのこと知ってるの?」
ミリィが答えるより早くメリルが口を開いた。
「夏の予選の時に応援に来てくれたことがあって、その時に会ったんですの。ね、ミリィ」
部の中ではあくまでも部員とマネージャー。四人で初詣に行った等、学校の外でヴァッシュやウルフウッドと何度も会っていることは知られたくない。
「あ、はいそうです」
理由は判らないまでも何かを察し、ミリィはすぐにメリルに調子を合わせた。
「ヴァッシュさんは家の都合で今日はお休みですの。早く用事が終われば午後からでも来るとおっしゃってましたけど」
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季節は移り、人は
Ⅷ
「え~っと、次は六階ね」
「まだ行くの!?」
楽しそうな母の声に、ヴァッシュは周囲の目も憚らず素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前じゃない。靴とアクセサリーがまだだもの」
「これで何軒目だよ…」
デパートをはしごすること五軒目、回った店の数を数えるのは途中でやめた。今はただ従者よろしく後についていってるだけだ。
ヴァッシュが部活を休んだ理由、それは買い物だった。
「…俺の分はとっくに終わってるんだよ。先に帰ってもいいでしょ? 荷物は持って帰るから。部活だって行きたいし」
彼の両手には大きな紙袋が合計五つ。
「駄目よ。ちゃんと服に合わせて選ぶんだから。レムの一生一度の晴れ舞台なんだもの、きちんとしなくちゃ」
「母さんが結婚するんじゃないんだから…」
吐息混じりの呟きが聞こえたのか、それまでとは打って変わった沈んだ声でヴァッシュの母は言った。
「…息子と出かける機会なんてそうそうないのよ。もう少し付き合ってくれてもいいじゃない」
ヴァッシュははっと息を呑んだ。母の寂しさを垣間見たような気がした。
「…判ったよ。でも買い物に付き合うのは今日だけだからね」
「うん、ありがとう! エスカレーターはあっちよ」
この変わり身の早さ…さっきの暗いムードは何だったのか。ついため息が洩れてしまう。
「何してるの、早く早く!」
母に急かされ、ヴァッシュは重い足を動かした。――
金曜の夜、ヴァッシュは母に明後日の部活を休むよう言われた。
「何で?」
「もうすぐレムの結婚式でしょう? いい機会だから、ちゃんとしたスーツを一着買っとこうかと思って」
母の言葉に、礼服の類は持っていないことを思い起こす。葬儀の場合は学生服に喪章でも問題ないが、結婚式のようなおめでたい席ではそれなりの恰好をしなければならない。
「うん、判った。でも早く終わったら部活に行くからね」
「はいはい。それじゃ紳士服売り場から回ることにしましょう」
日曜日、約束どおりヴァッシュの母は息子の買い物から始めた。営業スマイルを浮かべた店員があれこれ持ってくるスーツの中から迷うことなく選び出し、ヴァッシュに手渡した。
「コレ。試着させて貰いなさい」
言われるままにヴァッシュは袖を通し、ズボンをはいた。
それは黒のシンプルな上下だった。ジャケットはウエストの辺りがややシェイプされたデザインでシングルボタン、ズボンも細身の為ほっそりした印象を受ける。
「寸足らずのズボンの裾は直して貰うとして…いいじゃない。似合うわよ。これなら筋肉ダルマも誤魔化せるわ」
「誰が筋肉ダルマだって?」
買い物が早く終われば部活に出られる。口を尖らせてみせたものの、ヴァッシュはそれ以上文句を言わなかった。
同じ店でワイシャツと白のネクタイも買った。靴もすぐに見つかった。
これでお役御免と思ったが甘かった。母の分の買い物に付き合わされたのだ。
多くのご婦人の例に洩れず、ヴァッシュの母も自分の買い物となると目の色が変わった。あちこち見て回るのも全く苦にならないらしい。
遅い昼食を終えた時点で母が買ったのはスーツとブラウスと鞄だけ。
歩き回るのも荷物持ちも大変だとは思わない。婦人物売り場という場違いなところにいるのが苦痛なのだ。暇つぶしに売り場を眺めても楽しくないことこの上ない。
「母さん…俺帰っちゃ駄目?」
精神的に疲労困ぱいし、ヴァッシュは上目遣いに母親を見た。実際には彼のほうが背が高いので見下ろす形になったのだが。
「駄ぁ目」
楽しそうな母を見ると何も言えなくなる。ヴァッシュは今日いくつ目になるのか判らないため息をついた。
プロローグ
バレンタインから三日目の朝を迎えたが、野球部員達もマネージャーもわだかまりを消す機会を見出せずにいた。
その日、珍しく弁当を持参しなかったヴァッシュは、混雑した学食の一角に新会計の男子生徒を見つけトレイを手に歩み寄った。
「隣、いいかい?」
「あ、ああ」
どうしても確認しておきたいことがある。これはチャンスだ。
ヴァッシュはすぐ横の席に腰掛けると、いつもより速いペースでカレーライスをかき込んだ。
相手が食べ終えるのを待って声をかける。
「キミ、新しい生徒会の会計だよね。忙しい?」
「いや、今はそれほどでもないよ」
ヴァッシュは僅かに眉をひそめた。それじゃどうしてメリルは放課後部活に来ないんだ…。
「イキナリの質問だけど、何で?」
逆に訊かれてヴァッシュは我に返った。
「あ、突然ごめんね。僕野球部なんだけど、マネージャー…副会長がこのところ放課後の部活を休んでるもんだから」
「ああ…」
相槌とも独り言ともつかない言葉。彼の顔を不快の色が一瞬よぎる。
『!?』
だが、ヴァッシュが更に尋ねるよりも早く会計担当は席を立った。
「お先に」
離れていく背中はすぐに学ランとセーラー服に紛れて見えなくなった。
ヴァッシュは残っていた水を一気に飲み干し、食器を窓口に返却して食堂を後にした。
釈然としないどころか、胸のつかえが倍増した気分だ。廊下を歩きながらついため息が洩れる。
不意に誰かが無言のまま横に並んだ。目だけ動かして確認する。先刻話しかけた会計だった。
「生徒会長がごねてるんだ」
「え?」
小さな声が生徒会の現状を、メリルの苦境を告げた。無茶な予算申請をした部がたくさんあったこと。予算を成立させる為にメリルが生徒会の備品の貸出を提案したこと。そのしくみ作りから書類の作成まで彼女一人でやっていること。キールがいちいちクレームをつけてやり直しをさせていること。
「…俺に限らず手伝いを申し出たんだけど、当のメリルさんに断られた。あなた方まで睨まれることはありませんわ、私なら大丈夫ですから、ってね。…あの噂、本当らしいな」
「噂?」
視線は合わせず、顔を相手に向けることもしない。偶然傍を歩いているふりをしながら先を促す。
「何度メリルさんにアタックしても色よい返事が貰えなくて、業を煮やしたキールが生徒会役員にかこつけてメリルさんに近づこうとしたって話」
「…」
「引継ぎの時、キールはメリルさんのほうばっかり見てた。彼女がパソコンで作業してる時たまに後ろに立ってるけど、あれは絶対ディスプレイじゃなくて」
声は途中で途切れた。金髪を逆立てた男が拳を固く握り締めているのに気づいたからだ。
「…ありがとう、教えてくれて」
はらわたが煮えくりかえる思いを必死に押さえ、ヴァッシュはできるだけ穏やかな声で礼を言った。
「…できるのなら…できる範囲でいい、マネージャーを助けてやってくれないか。…頼む」
「勿論。俺達六人は副会長の味方だ。心配いらない」
その言葉を最後に、会計担当はさりげなくヴァッシュの横を離れ自分のクラスに入った。
Ⅰ
「どうする?」
「どうするったって…話をする時間もないんじゃ…」
西日が差し込む野球部の部室では堂々巡りの会話がくり返されていた。もっともこれは今日に限ったことではない。既に三日連続で行なわれている。テーマは、マネージャーと仲直りをする方法。
この会話の特徴は二つある。一つは主語がなくても意味が通じること。もう一つは決して結論が出ないということ。
部活休止期間まであと二日。バッテリーを除いて、メリルとはほとんど会えなくなってしまう。
「ヴァッシュ、もう一度マネージャーに話してみてくれないか」
そう言われるのも何度目だろう。心の中で吐息しながらヴァッシュは答えた。
「それは構いませんけど…何を言えばいいんですか?」
「…」
かける言葉が見つからないのはヴァッシュも同じだった。尻切れとんぼになってしまったが言いたいことは言った。
でもメリルの反応はなかった。あの時も、その後も。
クラスでメリルと話すことが何度かあったが、彼女は決して野球部のことを話題にしなかった。一度だけこちらから持ち出したら、困ったような微笑みを浮かべてすぐに話をそらしてしまった。
「…ちと整理しましょうや」
全く進展しない状況に辟易したのかウルフウッドが口を挟んだ。この会話に彼が加わるのはこれが初めてだった。
「先輩達はどうしたい、思ってはります? どうすればええか、やのうて」
「…謝りたい。許して欲しい。…できれば部に留まって欲しい」
「それ、まんま伝えたらええんとちゃいます?」
「どうやって!? マネージャーに俺達と話す時間はないんだぞ!? …わざと忙しそうに振る舞って、避けてるのかも知れないけど…」
「マネージャーがそんなことする訳ないでしょう!?」
突然声を荒げたピッチャーに一同は驚いた表情を浮かべた。発言した二年生はすまん、と短く謝罪した。
「…直接言うだけが方法やない。手紙、電話、録音して渡すっちう手もある。第一、面と向かって言えます?」
「それは…」
おそらくできないだろう。気まずくて、遠くからでさえメリルの顔をまともに見られないのだから。
「…言葉だけで…ちゃんと伝わるかな…」
「足りひんのやったら、何かつけたらどないです?」
「何かって…」
野球部員の八割が一斉に低く唸った。
「…ホワイトデーのお返しと一緒にメッセージを渡すってのは」
「駄目です」
ヴァッシュの容赦ない声が先輩の発言を遮った。
「それじゃどっちがメインか判らないですよ」
「礼儀正しいマネージャーのことやから、ホワイトデーにプレゼントしても『義理堅くお返ししてくれた』ぐらいにしか思わんやろな」
「それに、謝るなら早い方がいい。一ヶ月近くも後じゃ…」
昼に聞いた話を思い起こす。副会長の仕事は彼女にしかできない。たとえそれが理不尽なものであっても。それにひきかえ部活は自由参加だ。もし両立できないとなったら、今回のことを口実にメリルは野球部を――
彼女に負担をかけるのは判っている。マネージャーを続けて欲しいと思うのは我侭なのかも知れない。…でも。
「こういうのはどうでしょう」
ヴァッシュの提案に一同は真剣な面持ちで耳を傾けた。
Ⅱ
二月後半のある日、トライガン学園は入試の為休校となった。この日は在校生の登校は例外なく禁止された。既に学年末試験まで一週間を切っている。日頃の勉強不足を補うにはもってこいの貴重な一日だったが、メリルを除く野球部員は自宅で素直に机に向かうようなことはしなかった。
入試の翌日、打ち合わせを終えた黒髪の副会長は、生徒会室を出たところで金髪を逆立てたクラスメイトに呼び止められた。
「ヴァッシュさん…」
「お疲れ様。今日はもう終わり?」
「ええ」
「じゃあ…見せたいものがあるんだ。ちょっと時間貰えないかな」
すぐには答えず相手を見つめる。夕陽で茜色に染まった空間の中、いつもと変わらない笑みを浮かべる彼が意図していることは掴めない。
「…何ですの?」
「ナイショ」
メリルは小さく吐息した。今日はドイツ語のレッスンの日だ。帰りが遅くなるのは困る。
「今日は時間の余裕があまりありませんの。ですから…少しでよろしければ」
ヴァッシュの顔が悲しそうに歪むのを目の当たりにしたら断れなくなってしまった。自分の甘さに心の中でこっそりため息をつく。
消極的ながらも了承の返事に、男は嬉しそうににっこり笑った。
「大丈夫! すぐ済むし、家までちゃんと送るから!」
小さな手をしっかり握ると、ヴァッシュはまっすぐ昇降口を目指した。急いで運動靴に履き替え、メリルが外履きに履き替えるのを待って彼女の背後に回り込む。
「ちょっと目つむってくれる?」
訝しく思いながらもメリルは素直に目を閉じた。その途端、瞼に肌触りのよい布が押し当てられた。
「ヴァッシュさん!?」
「とっちゃ駄目だよ。目的地に着いたら外すから」
タオルで目隠しをしたメリルをひょいと抱き上げる。
「!?」
「見えないまんまで歩くのは危険でしょ?」
「大丈夫です! 歩けます! …って、目隠しをとれば済む話ですわ!」
「駄ぁ目。ちょっとの間だから辛抱して」
抗議の声を軽くいなして、ヴァッシュはそのまま歩き出した。十歩も行かないうちに方向転換する。
数え切れないほど曲がった為にメリルの方向感覚はあっけなく狂わされた。何処をどう進んでいるのか見当もつかない。
五分ほど経った後、ヴァッシュはそっとメリルを降ろした。
「…はい、もういいよ」
言いながら目隠しをとる。ゆっくりと目を開けたメリルの身体が強張った。
見慣れた扉。最近は朝しか見ることのできなかった。
「どうして…」
今は部活休止期間なのに。
「皆待ってる」
おそらく無意識にだろう、一歩退いたメリルの背中に腕を回すと、ヴァッシュは部室のドアのノブに手を伸ばした。
Ⅲ
扉が開いた瞬間メリルはきつく目を閉じた。光と、僅かな恐怖心から。
ヴァッシュにそっと背中を押され、自ら視覚を封じたまま室内に足を踏み入れる。
「ごめんなさいっ!!」
大音量の謝罪に恐る恐る目を開ける。見えたのは深々とお辞儀をした頭の群れだった。
「あ、あの…」
戸惑いながら真後ろにいるクラスメイトに目を向ける。ドアのすぐ横にもう一人のクラスメイトが立っていた。
「皆謝りたかったんだ、バレンタインデーのこと」
ヴァッシュは穏やかに微笑みながら、どうすればちゃんと気持ちを伝えられるのか判らなくて途方に暮れていたことを説明した。
「…ようやくどうするか決まって、準備が整ったんで、今日キミにここまで来て貰ったんだ」
「…あの時は悪かった。…マネージャーの話を聞く前に、一方的に怒鳴ったりして…。その…許して貰えるだろうか」
メリルを厳しく問い詰めた二年の部員が顔を上げ、口篭もりながらも言葉を紡いだ。
「そんな…。悪いのは…謝らなければならないのは私の方ですのに…」
「ほならこれで水に流すっちうことでええか?」
「勿論ですわ!」
異存などある筈がない。仲直りの印にメリルは部員全員と順に握手していった。
「ワイが昼に弁当食っとったら、こないな騒ぎにはならんかったかも知れんのに…すまんかったな」
「ウルフウッドさん達に別に渡したことが判れば、必然的に『何を貰ったんだ』という話になりますわ。どちらにしても同じだったと思います。ですから気にしないで下さい」
「そうそう。それにもう水に流したことなんだから蒸し返すのはナシ!」
人間台風が二人の会話に乱入した。さりげなく繋いだままの手を外し、ウルフウッドに代わってマネージャーの手を握る。
「見せたいものってこういうことでしたのね」
「うん!」
「でしたら最初にそうおっしゃって下さればよかったのに…。何もあんな方法で連れてこなくても」
「あんな方法って?」
メリルの説明に、主将らごく一部を除く部員達の口元が微妙に歪んだ。
「目隠しした上抱き上げて…」
「おまけに遠回りしましたわね。わざと何度も曲がりましたでしょ」
更なる指摘に部員達の顔は強張り、ヴァッシュの顔からは血の気が引いた。
「…なあんか役得じゃねぇ?」
「それってちょっとセクハラ…」
「な、何言ってんですか! おんなじクラスでウルフウッドより付き合いが長いってだけで、マネージャー連れてくるって大役押しつけたクセに!」
「問答無用!」
「ちょ、ちょっと、先ぱ…ノオ――――ッ!!!!」
関節技をかけられ、ヴァッシュは情けない悲鳴を上げた。
「白状しろ! 何でそんなことをした!?」
「…その方が何が起こるかって…ドキドキワクワクできるじゃないすか」
「…皆さん、判決は?」
「有罪!!」
これまで以上に締め上げられ顔色が土気色になりつつあるピッチャーを、ウルフウッドは少し離れたところから眺めていた。
『まったく…正直に言うたらええのに…』
目隠しで視覚を、抱き上げることで足を封じる。何も見えない状態にしてわざと遠回りし、目的地を悟られないようにする。全てマネージャーを確実に連れてくる為にしたことだ、と。
「う…うるふうっど…みてないでたすけて…」
妙にぎこちない声での救援要請。普通に話せないほど苦しいのだろうが。
「先輩、ワイの分もキッチリお灸を据えたって下さい」
まるっきり下心がなかった訳やあらへんやろ。
「そ…そんな…」
息も絶え絶えのヴァッシュであった。
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季節は移り、人は
Ⅳ
賑やかな一角をよそに、主将はマネージャーに歩み寄ると真っ白い大きな紙袋を差し出した。
「俺達からのお詫びの品だ。受け取ってくれ」
「え、でも…」
「いいから。それに、多分これはマネージャーにしか使えない」
メリルは許可を貰ってから中身を取り出した。崩してしまうのが惜しいくらい綺麗なラッピングを丁寧に開ける。
出てきたのは同じ柄のエプロンが三枚。厚手の白い生地に、紫でブルーベリー、緑で葉と蔦が繊細に描かれている。
「洗濯する時服が濡れないように」
「あ…ありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を言った後、メリルは僅かに首をかしげた。どうしてこれが自分にしか使えないのか。
「サイズ、大丈夫か?」
質問するより先に答えが示され、メリルは慌ててエプロンを身につけてみた。
「ええ、ピッタリですわ。でも探すのは大変でしたでしょう?」
市販のものは大きすぎて、いつも肩紐のボタンを付け直しているのだ。
「皆で手分けして探したんだ。ヴァッシュに言われて、少し小さめのものをね」
エプロン姿のマネージャーに気づいた部員が周りを囲んだ。ようやく解放されたヴァッシュがぐったりと床に倒れ伏す。
「あ、よかった。似合うよ」
「うん、いいね」
「ありがとうございます。大切にしますね」
盛り上がる一団の傍らで、ウルフウッドはヴァッシュの肩を指でつついた。
「おーい、生きとるかー?」
「…キミが…そーゆーこと…言う?」
横にしゃがみ込む男をブルーグリーンの瞳が睨みつける。が、鋭い視線とは反対に声には力がなかった。
「あっちはハッピーエンドのようやで」
指差された方向に目をやって、ヴァッシュは床に頬をつけたまま微笑んだ。ほとんど足しか見えないが、和やかな雰囲気はここまで伝わってくる。
「ヴァッシュの見立てが正解だったってことか」
「え?」
「それ見つけてきたのヴァッシュなんだよ」
「で、昨日皆で店に行って品物を確認して買ったんだけど」
「本当は他にも花とか貝とか、果物でも苺とかレモンとかリンゴとか、いろんな柄があったんだ」
「どうせなら柄違いのほうがいいんじゃないかって意見も出たんだけど」
「あいつが『絶対コレ!』って譲らなくて」
そこまで言って、一同は未だ床に密着しているピッチャーへと視線を向けた。
「…何で?」
尋ねる男達の声は見事に重なった。それに促されるようにヴァッシュは身を起こし、床にあぐらをかいた。
「…ブルーベリーって、マネージャーの大好物じゃなかった?」
「いいえ。嫌いではありませんけど、大好物という訳では」
正直に答えかけて、メリルははっと息を呑んだ。周囲の雰囲気が一変したのと、本当の理由に思い至って。
「ヴァッシュ君はだーれーと間違えたのかなー?」
「彼女か? それとも片思いか?」
「素直に吐いちまえよ」
じりじりと間合いを詰めてくる仲間達の笑顔が恐い。人間台風の背中を冷や汗が一筋伝った。
「あ、あの、私用事があってもう帰らなければなりませんの。ヴァッシュさん、送って下さるんでしたわね?」
メリルはエプロンを脱ぎながら、助け船を出すつもりでヴァッシュに声をかけた。
「え!?」
「ちょっとマネージャー、危ないんじゃないの!?」
「目隠し抱き上げ遠回りの男だぞ!?」
「送り狼に変身するかも知れないよ!?」
「あのねえ! 僕はスタンピード! 狼はウルフウッドでしょ!?」
酷い言われようにさすがにカチンときたのかヴァッシュが声を荒げた。が、素晴らしく的外れの反論は名指しされた男の神経をこの上ないほど逆なでした。
怪我をしないギリギリに手加減された回し蹴りを頭に食らい、ヴァッシュは誠に不本意ながら再び床に寝そべった。
「口は災いの元なんやで。よおく覚えとき」
突然の痛みに頭を抱え顔を顰めて耐える男に、ウルフウッドは冷たい声で古人の有り難い言葉を教えてやった。
Ⅴ
「あたた…まさか蹴りがくるとは思わなかった」
学校を出て間もなく、赤信号で自転車を停めたヴァッシュは左手でこめかみの辺りをさすった。当たる直前に身体を横にずらしてクリーンヒットは免れたが、痛いことには変わりがない。
「あの…ごめんなさい。大丈夫ですの? 辛いんでしたら、私電車で帰りますから」
「平気平気! ウルフウッドもちゃんと手加減してくれてたし、大したことないよ。それにキミのせいじゃないから、気にしないで」
背後から聞こえた遠慮がちな声に慌てて振り返り、満面の笑顔で元気よく答える。必要以上に大きい自分の動作と声に頭痛が酷くなったが、意地とやせ我慢で顔には出さなかった。
『ウルフウッドが見てたら思いっきり馬鹿にされただろうな』
この場にあいつがいないのは不幸中の幸いだ。それに不幸なだけじゃない。メリルがこうして自分のことを心配してくれるのは、申し訳ないと思う反面ちょっぴり嬉しかったりする。
信号が変わり、ヴァッシュは勢いよくペダルを踏んだ。
「あのエプロンを選んで下さったのはヴァッシュさんだそうですわね」
「あ、うん。…もしかして、気に入らなかった?」
「いいえ! 逆ですわ! サイズが合うものってなかなか見つからなくて、困ることが多いんですの」
「ああやっぱり」
「?」
「合宿の時気になってたんだ。エプロンにゆとりがあり過ぎるっていうか、だぼだぼした印象だったっていうか…」
だから、『マネージャーへのプレゼント』と言われた時真っ先にエプロンを思いついたのだ。
提案が皆にすんなり受け入れられたのはよかったが、どこで買うかが問題になった。誰にも心当たりはなく、結局手分けして探すことになった。
これまで自分でエプロンを買ったことなど一度もない。当然いい店など知らない。やむを得ず、母とレムにいくつか候補を挙げて貰うことにした。覚悟はしていたが予想以上にからかわれ閉口した。
突然メリルがくすくす笑い出した。思考を読まれる筈はないが、それでもヴァッシュはぎくりとする。
「何? どうしたの?」
「いえ…皆でエプロンを買いに行った、という話を思い出してしまって…。男性がこういうものを品定めするのって凄く大変だったんじゃないかと…」
ヴァッシュは自転車に乗っていたことに感謝した。お陰で赤面した顔をメリルに見られずに済むからだ。
あのエプロンを見つけたのは、レムに『行くなら覚悟しておいたほうがいいわよ』と言われた店だった。謎の発言の意味は行ってみて判った。ブライダル関連の商品の専門店だったのだ。
幸せそうなカップルが寄り添って歩く店内を男一人でうろつくのは正直勇気が要った。でも、理想のエプロンを発見できたことで恥ずかしさも報われたような気がした。
昨日皆に品物を確認して貰った。男ばっかり十人で押しかけたのだ、店の人も困惑したに違いない。
質はいい。ペアルックにする為かサイズも豊富で、メリルに合いそうな大きさのものがすぐに見つかった。それを贈ることは満場一致で即決した。
しかしどの柄にするかで意見が分かれた。少々揉めたが、ヴァッシュは決して折れなかった。
メリルの為のエプロンだから。でも。
「…違う柄のほうがよかった?」
「そんなことありませんわ。とても綺麗な模様ですし…私の瞳の色に合わせて下さったんでしょう? ありがとうございます」
さすがはメリルだ。ちゃんと判ってくれてる。ヴァッシュの口元に笑みが浮かんだ。
「洗剤もつけようか、なんて言ってたんだけどね」
「お洗濯、頑張りますわ」
「うん。…でも、エプロン贈っといてこういうこと言うのも何だけど、頑張り過ぎないでね。キミにしかできないことってあるでしょ? それをやって欲しいんだ。練習メニューを作るとかね」
「ええ…え!?」
メリルは何気なく相槌を打った後絶句した。
「やっぱりキミが作ってたんだ」
「ど…どうして…」
「合宿の時必ずパソコンを持参してたでしょ。もっと小さな…モバイルって言ったっけ? 持ち運びに便利な奴がある筈なのに、何でかなってずっと疑問に思ってたんだ。合宿中もあれを使ってメニューを組んでたんだね」
「…」
「十二月に一緒に食事をして、キミのお父さんが凄く真面目で誠実な人なのがよく判った。そんな人が相手に一度も会わずに練習メニューを組むなんてことは絶対しないだろう…そう考えて、適任者が他にいることに気がついた」
「…ごめんなさい。騙すつもりじゃなかったんですけど…。でも、チェックはして貰ってますの。たまに修正」
「ストップ! 俺が聞いたのは『マネージャーのお父さんに内密に協力して貰ってる』ってことだけだ。チェックだって立派な協力だから、騙したことにはならないよ」
「…そうおっしゃっていただけると、心が軽くなります」
それからしばらく沈黙が続いた。
「…両立はすごく大変だろうけど…でも…」
マネージャーを続けて欲しい――その一言がどうしても言えない。自分の我侭かも知れないと判っているから。
「大丈夫、続けますわ。皆さん助けて下さいますし。…必ずやり遂げてみせます!」
それは、ヴァッシュを証人にした自分との約束。
「うん…」
ありがとう。口の中だけで呟かれた感謝の言葉はメリルには聞こえなかった。
Ⅵ
月をまたいで行なわれた学年末試験が終わり、校内にはほっとした雰囲気が漂っていた。残された大きな行事は三年生の送別会と卒業式のみ。
送別会には三年生は全員、一・二年生は各クラスとクラブの代表が出席する。やることといえば、校長を始めとする諸先生の話を聞くことと生徒代表達によるスピーチ。その後立食形式で軽く食事をする。最後の食事を除けば酷く堅苦しいもので、生徒達からは不評だった。
その準備に、生徒会と運営委員会は慌ただしい毎日を過ごしていた。
今回、立食パーティーの時に生演奏でBGMを流すことになった。生徒会長が提案したのだが、実はメリルが入れ知恵したのである。
音楽関係の部は大会や文化祭を除いて発表の場がほとんどない。実績を作ろうにも難しいのが現状だ。その為に予算の配分で差が生じるのは不公平だと考えてのことだった。
吹奏楽部と合唱部、琴同好会が名乗りをあげ、交替で演奏することになった。
退屈な送別会はつつがなく進行していったのだが。
卒業生の一人が緊張の余りスピーチの内容を忘れて沈黙した。その時、すかさず吹奏楽部のトランペット奏者が短いフレーズを演奏した。野球でバッターが三振した時によく耳にする、『残念でした』とでもいうようなあの曲である。
突然の出来事に体育館の中はどっと沸いた。
「えー、今のは僕の後任の吹奏楽部部長による名演奏でした。ナイスなフォローありがとう。…後で覚えてろよ」
元部長がぼそっと呟いた一言に生徒達は再び爆笑した。どことなく白けたムードは綺麗に吹き飛んだ。
全てのスピーチが終わり立食パーティーが始まった。先刻のハプニングの影響もあって、参加者達は賑やかに言葉を交わし交流を深めた。
その席で、キールは前例のないことを敢行したとして先生や生徒から口々に賞賛された。
「いやあ、どうなるかと冷や冷やしましたけど、上手くいってよかったですよ」
誉め言葉の雨にキールは終始ご機嫌だった。
メリルは乾杯の直後に、舞台の上にある照明器具などをメンテナンスする為の細い通路に移動した。幕を少しずらして下の様子を確かめる。
現場は常に把握できるが出席者からは見えない。そこは二つの条件を満たす絶好の場所だった。有事の際にすぐに駆けつけられないのが難点だが、念の為携帯電話は持っているし、キール以外の生徒会役員には事前にその旨話してある。
『どうやら無事終わりそうですわね…』
数年前に卒業生と在校生が取っ組み合いの喧嘩をしたことがあったらしいが、そんな剣呑な雰囲気はどこにもない。
「マネージャー、いる?」
ほっと息をついた瞬間に呼びかけられ、メリルの心臓は跳ね上がった。声を出さないよう手で口を押さえつつ、急いで声のしたほうに目を向ける。薄暗い中、せわしなく動く逆立てた金髪が見て取れた。自分を探しているのだろう。
「ここですわ。…そう言えば、野球部代表でしたわね」
「うん。…つまんないって聞いてたし、先生の話ではちょっと居眠りしちゃったけど、大成功だね」
「吹奏楽部の二人の部長のお陰ですわ」
言いながら目線を落とし、賑やかな様子を眺める。横に並んだヴァッシュもそれに倣った。
「どうしてこんな所に…参加しないの?」
「ええ」
菫色の双眸が生徒会長を捉えた。生徒達に囲まれ笑顔で応えている。
この方法なら…。メリルは今後の生徒会運営に一筋の光明を見たような気がした。
各部が活躍できる場を提供することで生徒会に対する反発を打ち消していく。今年予算の申請を大幅に削らされた吹奏楽部との関係は、今日のことで多少改善されるだろう。
その一方で自分はできるだけ裏方に徹し、成功の功績は全てキールのものとする。彼の自尊心を常に満足させることができれば、備品貸出のしくみ作りのような仕事のやり方をさせられることは減っていく筈。だが、もし失敗したら。
気分を害したキールに八つ当たりされるのは必至だ。各部との関係も険悪な状態に戻ってしまう。
失敗した時は責任は自分が取る。その覚悟はできているけれど。
「失敗は…許されませんわね」
低い呟きにヴァッシュは視線を隣に移した。僅かに細められた目。ほんの少し強張った横顔。厳しい空気が彼女を包んでいるのを感じる。
メリルが今後のことを考えているのは判る。でも今くらいは少し力を抜いて欲しい。
背中を軽く叩く。驚いたような表情を浮かべてこちらを見たマネージャーににっこり笑いかけ、手のひらを上にして両手を差し出す。ホームランを打ったチームメイトを迎える時のように。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
大きな手に小さな手のひらが勢いよく打ちつけられ、小気味よい音を立てた。
Ⅶ
三月最初の日曜日、トライガン学園の体育館にはさまざまな制服姿の中学生がいた。壁に貼られた一覧表に視線が集中する。長い受験勉強の結果が今日判るのだ。
あちこちから歓声が上がる。抱き合って喜ぶ姿もそこかしこで見られた。落胆する者も中にはいた。
「賑やかですわね」
久しぶりに日曜の練習に参加したメリルは、洗濯の手を休めて体育館のほうを見た。
一年前、自分は合否の確認に来なかった。合格して当たり前だったし、入学するつもりもなかった。
それなのに、ひょんな事からこうして三年間通うことになった。
不思議な巡り合わせだと思う。
視線を落とし、ブルーベリー模様のエプロンを見つめる。ここに来なければ、部活仲間からエプロンをプレゼントされるなんてことは一生なかっただろう…。
メリルの口元が自然とほころんだ。
「あの中に野球部に入部しようという人がいるといいんですけど…」
もう一度体育館に目をやって小さく呟くと、メリルは洗濯を再開した。
「せんぱ~い!」
耳慣れた、しかし学校という場所ではこの一年聞くことのなかった声。驚いて辺りを見回す。高々と挙げた右手を盛んに振りながら走ってくる大柄な後輩の姿が目に飛び込んできた。
「ミリィ!?」
「先輩っ!」
ミリィは満面の笑みを浮かべてメリルに抱きついた。
「ミリィ…あなた」
どうして、と訊きかけてメリルは口をつぐんだ。今日ここに中学生がいる理由は一つしかない。
「えへへ…ジャーン!」
自分でファンファーレを鳴らすと、ミリィは左脇に抱えていた定型外の封筒を誇らしげにメリルに見せた。
「…おめでとう!」
「ありがとうございます! これでまた先輩といっしょの学校に通えます!」
二人は抱き合ってミリィの合格を喜んだ。
「…志望校を教えてくれなかったのは私を驚かせる為だったんですのね」
「はい! …でも、落ちたらミットがないなっていうのもちょっぴりあったんです」
トライガン学園はいわゆる進学校ではないが、大学進学率は高く偏差値も高めだ。
「それを言うならみっともない、ですわよ」
相変わらずのボケっぷりにメリルは苦笑した。訂正する声も笑いを含んでいる。
ふと気がつくと野球部員が二人を取り巻いていた。マネージャー達の声を聞きつけて何事かと駆けつけたのだ。
「あ、皆さん紹介しますわ。こちらミリィ・トンプソン。私の中学時代の後輩ですの」
「はじめまして、ミリィ・トンプソンです! 先輩がいつもお世話してます!」
「ミ、ミリィ!? お世話してますじゃなくてお世話になってますでしょう!? あの、ごめんなさい! この子よく言い間違いをするんですの」
深々と一礼するミリィの横で、メリルは慌てて部員達に謝罪した。周囲からどっと笑いが起こる。
「いや、お世話されてるのはこっちだから、彼女の言葉は正しいよ」
「い、いえ、そんなことありませんわ。全然、あの」
ギリアムの言葉にマネージャーがしどろもどろになる。
こんなにうろたえる彼女を見ることなど滅多にない。自分に向けられている珍しいものを見るような視線に気づいてメリルの頬が紅潮した。
彼女にとって幸いなことに全員の関心はすぐに別のものに移った。ミリィの思いがけない発言によって。
「四月からは皆さんの後輩になります!」
「え?」
「ミリィ、それじゃ…」
「はい! あたしも野球部のマネージャーになります! 二日モノですがよろしくお願いします!」
「それを言うなら不束者ですわ…」
訂正は本日三度目。呻くようなメリルの声に再び大きな笑い声が上がった。
「…あれ? 今日はヴァッシュさんいないんですねぇ」
「ヴァッシュのこと知ってるの?」
ミリィが答えるより早くメリルが口を開いた。
「夏の予選の時に応援に来てくれたことがあって、その時に会ったんですの。ね、ミリィ」
部の中ではあくまでも部員とマネージャー。四人で初詣に行った等、学校の外でヴァッシュやウルフウッドと何度も会っていることは知られたくない。
「あ、はいそうです」
理由は判らないまでも何かを察し、ミリィはすぐにメリルに調子を合わせた。
「ヴァッシュさんは家の都合で今日はお休みですの。早く用事が終われば午後からでも来るとおっしゃってましたけど」
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季節は移り、人は
Ⅷ
「え~っと、次は六階ね」
「まだ行くの!?」
楽しそうな母の声に、ヴァッシュは周囲の目も憚らず素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前じゃない。靴とアクセサリーがまだだもの」
「これで何軒目だよ…」
デパートをはしごすること五軒目、回った店の数を数えるのは途中でやめた。今はただ従者よろしく後についていってるだけだ。
ヴァッシュが部活を休んだ理由、それは買い物だった。
「…俺の分はとっくに終わってるんだよ。先に帰ってもいいでしょ? 荷物は持って帰るから。部活だって行きたいし」
彼の両手には大きな紙袋が合計五つ。
「駄目よ。ちゃんと服に合わせて選ぶんだから。レムの一生一度の晴れ舞台なんだもの、きちんとしなくちゃ」
「母さんが結婚するんじゃないんだから…」
吐息混じりの呟きが聞こえたのか、それまでとは打って変わった沈んだ声でヴァッシュの母は言った。
「…息子と出かける機会なんてそうそうないのよ。もう少し付き合ってくれてもいいじゃない」
ヴァッシュははっと息を呑んだ。母の寂しさを垣間見たような気がした。
「…判ったよ。でも買い物に付き合うのは今日だけだからね」
「うん、ありがとう! エスカレーターはあっちよ」
この変わり身の早さ…さっきの暗いムードは何だったのか。ついため息が洩れてしまう。
「何してるの、早く早く!」
母に急かされ、ヴァッシュは重い足を動かした。――
金曜の夜、ヴァッシュは母に明後日の部活を休むよう言われた。
「何で?」
「もうすぐレムの結婚式でしょう? いい機会だから、ちゃんとしたスーツを一着買っとこうかと思って」
母の言葉に、礼服の類は持っていないことを思い起こす。葬儀の場合は学生服に喪章でも問題ないが、結婚式のようなおめでたい席ではそれなりの恰好をしなければならない。
「うん、判った。でも早く終わったら部活に行くからね」
「はいはい。それじゃ紳士服売り場から回ることにしましょう」
日曜日、約束どおりヴァッシュの母は息子の買い物から始めた。営業スマイルを浮かべた店員があれこれ持ってくるスーツの中から迷うことなく選び出し、ヴァッシュに手渡した。
「コレ。試着させて貰いなさい」
言われるままにヴァッシュは袖を通し、ズボンをはいた。
それは黒のシンプルな上下だった。ジャケットはウエストの辺りがややシェイプされたデザインでシングルボタン、ズボンも細身の為ほっそりした印象を受ける。
「寸足らずのズボンの裾は直して貰うとして…いいじゃない。似合うわよ。これなら筋肉ダルマも誤魔化せるわ」
「誰が筋肉ダルマだって?」
買い物が早く終われば部活に出られる。口を尖らせてみせたものの、ヴァッシュはそれ以上文句を言わなかった。
同じ店でワイシャツと白のネクタイも買った。靴もすぐに見つかった。
これでお役御免と思ったが甘かった。母の分の買い物に付き合わされたのだ。
多くのご婦人の例に洩れず、ヴァッシュの母も自分の買い物となると目の色が変わった。あちこち見て回るのも全く苦にならないらしい。
遅い昼食を終えた時点で母が買ったのはスーツとブラウスと鞄だけ。
歩き回るのも荷物持ちも大変だとは思わない。婦人物売り場という場違いなところにいるのが苦痛なのだ。暇つぶしに売り場を眺めても楽しくないことこの上ない。
「母さん…俺帰っちゃ駄目?」
精神的に疲労困ぱいし、ヴァッシュは上目遣いに母親を見た。実際には彼のほうが背が高いので見下ろす形になったのだが。
「駄ぁ目」
楽しそうな母を見ると何も言えなくなる。ヴァッシュは今日いくつ目になるのか判らないため息をついた。
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