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うろほろぞ
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vp3

再出発

プロローグ
「マネージャー。いたか、あいつは」
校庭に戻ったメリルを見つけ、新主将のギリアムが声を上げた。終業式の後、二年生がウォーミングアップを始めてもやって来ないヴァッシュを探すよう、マネージャーに頼んだのが彼である。
軽く息を弾ませてメリルは新主将の前に立った。
「はい、着替えてすぐ来ます。…けど…」
メリルは怪訝そうな表情で辺りを見回した。塀に沿うように並んでいる大勢の生徒達。
「…ずいぶん増えましたね」
ヴァッシュを探しに行った時よりもずっと多くなっている。
「見学と応援、だそうだ」
ギリアムが小声で答えた。
現在部員が五人しかいない野球部にとって、中途入部する男子生徒は喉から手が出るほど欲しい。見学者は勿論大歓迎である。が、生徒の約半分は女子だった。
「応援…ですか」
地区予選は既に終わっている。応援と言われても正直な話ピンとこない。
「どうせなら予選の時に応援して欲しかったな」
ギリアムのぼやきにメリルは僅かに苦笑した。
『すぐ負けるだろう』という意見が大勢を占めていて、トライガン学園の観客席はいつもがらがらだった。過去の戦績を考えれば無理からぬことではあったが。
その後甲子園出場を決めたバド・ラド高等学校との準々決勝でさえ『今度は相手が悪すぎる』などと言われ、三塁側とは対称的に一塁側はすいていたのだ。
「…今日は慣らしということで、ノックを中心にした軽めのメニューを」
俯いてメモを見ながら話していたメリルの声は、突然上がった黄色い歓声にかき消された。驚いて顔を上げ、女子生徒の視線を追う。全員の目が校庭に現れた金髪のクラスメイトに向けられていた。
「あれが人間台風なのぉ?」
「けっこうハンサムじゃない」
「意外と背ェ高いのね」
「ちょっと軟弱そう」
ヴァッシュは鳩が豆鉄砲を食らったような表情で足を止めた。聞こえてきた自分に対する批評にかすかに頬が赤くなる。
新主将に気づいてヴァッシュは急いで走り寄った。ぺきんと腰を折り、深々と頭を下げる。
「遅れてすみません!」
ギリアムは苦笑した。試合では別人のような気迫を見せる後輩が、今はいたずらをして飼い主の前で小さくなっている大型犬のように見える。
メリルからメモを受け取ると、ギリアムは逆立てた金髪の後頭部に話しかけた。
「こっちはアップは終わってる。お前はアップを済ませてから投げ込みだ」
「はい!」
元気よく返事をし、先輩達の邪魔にならないよう校庭の片隅に移動する。それに合わせて女子生徒が全員波のように動いてヴァッシュを遠巻きにした。
ストレッチで身体をほぐした後、ヴァッシュはノックをしているギリアムに向かって叫んだ。
「主将! ヴァッシュ・ザ・スタンピード、遅刻した罰にスペシャル外回りに行ってきます!」
野球部のランニングコースは三つある。一つ目は内回りで、学園の塀の内周を走るものである。二つ目は外回りと呼ばれるもので、学園の外に出て一般の道を走る。スペシャル外回りは今年の春から取り入れられたもので、外回りよりも長距離で起伏が激しく、三つの中で最も厳しいコースだ。
返事を待たず、ヴァッシュは走り出した。さすがにセーラー服の集団が追いかけてくるようなことはなかった。
『これじゃまるで動物園だよ…』
何か、檻の中の珍獣の気持ちが判ったような気がする…。走りながら、人間台風と呼ばれたトライガン学園のエースは内心ため息をついた。


多少人数は減ったものの、夏休みに入っても同じような状況が続いた。
黄色い声援はヴァッシュのみに向けられている。野球部の応援というよりはヴァッシュのファンクラブと呼ぶほうが正しい。
練習が終わるとヴァッシュは決まって女子生徒に囲まれ、タオルやスポーツドリンク、果ては手作りクッキーなど抱えきれないほど渡された。正確には問答無用で押しつけられた。
ヴァッシュは一人一人に丁寧に礼を言い、明るい笑顔で必ず最後にこう付け足した。
「部の皆で使わせて貰います」
「部の皆でいただきます」
満面の笑みを浮かべていた女子生徒は、それを聞いて必ず顔を曇らせて立ち去った。
遅れて部室に戻るヴァッシュは毎日他の部員に間接技を食らった。
「お・ま・え・ば・か・り・が・何・故・も・て・るっ!」
「ちち、違いますってば! これは野球部の皆にって…せ、先輩っ、この世はラブ&ピー…ノオ―――ッ!!!!」
こうして部活の最後はヴァッシュの悲鳴で締めくくられるのだった。
七月最後の日、校舎内の一般教室を借りてミーティングが行なわれた。部室では全員入れなかったからである。
その時点までに男子生徒から提出された入部届は十八通。紅白試合ができるだけの部員が集まったのは実に八年ぶりのことだった。運動部からの転部者は六名、内かつて野球部に在籍したことのある者は二名というのは少々不安なのだが。
マネージャー志願の女子生徒も大勢来たが、メリルがこなしている様々な仕事を実際に見てほとんど全員尻込みした。実際に入部届を出したのはただ一人、二年のナスティだけである。
男子生徒二十三人、女子生徒二人を前にして、顧問は口を開いた。
「今年も例年どおり…と言っても知ってるのは二年の四人だけだが、夏季合宿を行なう」
メリルとナスティが机の間を縫うようにして、日程と目的地、集合場所と時間、諸注意だけが書かれた簡単なプリントを配っていった。
「期間は八月十六日から二十五日までの十日間。強制ではないが、都合のつく者はなるべく参加して欲しい。
不参加者は五日までにギリアムまで連絡すること。詳しいスケジュールは現地で配布する」
「はーい先生、質問です。合宿にはマネージャーは参加するんですか?」
意外な発言に二人のマネージャーは顔を見合わせた。しばらくの間お互いに譲っていたが、結局マネージャーとしては先輩にあたるメリルが先に答えた。
「参加する予定ですわ」
「勿論あたしも」
かすかなどよめきが上がり、それはすぐに消えた。
「他に質問はないか? …では中途入部者は着替えてグラウンドに集合。今日は体力測定を行なう」
「ええーっ?」
「しっかりやれ。手を抜くなよ。旧部員とマネージャーは手分けして記録にあたること。以上!」
夕刻には十八人分のデータが揃った。文化部との兼部者は運動経験が乏しいらしく、基礎体力が劣る者が多い。
ギリアムは記録用紙を回収し、メリルに渡した。
「それじゃマネージャー、よろしく」
「はい」
メリルは紙の束を自分の鞄にしまっている。そのまま踵を返したギリアムにそっと歩み寄ると、ヴァッシュは小声で尋ねた。
「主将、あれ何に使うんですか?」
そう言えば、メリルが入部してすぐ同じように体力測定を受けて、四日後にブライアン先輩からプリントを渡されたんだ。『基礎体力は申し分なし、上体に左右の筋力差が見られるため左半身の強化を』なんて評価と具体的なトレーニングメニューが書いてあって、今でもそのトレーニングは続けてる。
「個人別の練習メニューを作るのさ。俺達の時と同様にな」
「え!? マネージャー、そんなこともできるんですか?」
目と口を丸くしたヴァッシュに、ギリアムは苦笑いを浮かべて答えた。
「彼女の両親は医者なんだ。父親はスポーツ療養や指導もしている外科医でね、内密に協力して貰ってるのさ」
ギリアムは近隣にある大きな総合病院の名を挙げた。
「そこは彼女の親族が中心になって経営している病院だ。…知らなかったのか?」
「僕高校からこっちに来たんで、家族のこととかはあんまり…」
ヴァッシュはもともとこちらに住んでいたのだが、小学校入学前に父親の仕事の都合で遠方に引っ越した。高校入学と同時に戻ることが決まっていたので、試験をこちらで受けトライガン学園に入学したのだ。入学当初、学校で知っている人はレムだけだった。
持ち前の人懐っこさからすぐにクラスにも馴染んだが、同級生の家族構成や親の職業など、付き合いが長ければ自然と知るような知識はあまりない。
「明日は俺達が体力測定される番だからな」
「はいっ」
元気よく答えながら、ヴァッシュは初めて知ったクラスメイト兼マネージャーの側面に軽いショックを覚えた。


八月十六日。快晴。
ヴァッシュはかなり早くに家を出た。夕べは遠足前日の小学生のようになかなか寝つけなかった。
白いTシャツにジーンズというラフな格好で、右肩に担いだ大きなスポーツバッグの重さも感じないかのように走る。
野球部の合宿――野球三昧の十日間は、自他共に認める野球馬鹿の自分にとっては至福の時だ。
誰も来てないだろう…と思いきや、先客がいた。メリルだ。白いVネックのTシャツと紺色のコットンパンツ、同色のスニーカーを履いている。
メリルは傍らに立つ黒髪の中年の男と立ち話をしているのだが。
『…??』
日本語は勿論判る。英語は得意だ。それなのにヴァッシュは二人の会話が理解できなかった。
「ヴァッシュさん、おはようございます。早いんですのね」
メリルがヴァッシュに気づいて声をかけた。ヴァッシュはメリルに走り寄り、スポーツバッグを地面に置いた。
「おはよう。マネージャーこそ早いじゃない。一番乗りだと思ってたのに」
笑顔で答えながら、失礼かと思いつつちらりと隣の人物を見る。メリルはすぐに視線の意味を理解した。
「あ、ごめんなさい紹介が遅れて。ヴァッシュさん、こちら私の父です。お父様、こちらが野球部のピッチャーでクラスメイトの」
「ヴァッシュ・ザ・スタンピード君ですね。はじめまして、メリルの父です。いつも娘がお世話になっております」
自分の子供と同い年のヴァッシュに深々と頭を下げる。ヴァッシュも慌ててお辞儀をした。
「とんでもないです! お世話になってるのは僕のほうで…」
顔を上げると、男はヴァッシュににっこりと笑いかけた。
「仕事の都合で、地区予選は残念ながら一試合しか見られなかったのですが…素晴らしい投球でした。さすが人間台風と呼ばれることはありますね」
「いえ、そんな…」
「来年、期待していますよ」
「はい、頑張ります!」
ヴァッシュは再び一礼した。
「鞄を右肩にかけるのが癖になっているようですが、ショルダーバッグは両肩に均等にかけるようにしなさい。身体を歪める原因になりますよ」
「え?」
きょとんとした表情のヴァッシュにもう一度にっこり笑いかけてから、男はメリルのほうに向き直った。
「それじゃメリル」
その後続いた言葉とメリルの返事は、やはりヴァッシュには理解不能だった。
男は軽く会釈すると、そばに停めてあった車に乗り込み走り去った。
「…あのさ」
「はい?」
「さっき、何て言ったの?」
「ああ…『いってらっしゃい、気をつけて』『ありがとうございます、行って参ります』ですわ」
「英語じゃないよね?」
「ええ、ドイツ語です」
難しい表情で沈黙したヴァッシュを、メリルは不思議そうに見上げた。
「どうかなさいました?」
「…もしかして、家ではドイツ語で話してる…とか?」
メリルは目をみはり、口元を手で押さえた。肩が小刻みに震える。
堪えきれなくなったのだろう、メリルはとうとう声を上げて笑い出した。
「…ヴァ、ヴァッシュさん…私…家では普通に日本語で話してますわ。…どうしたらそういう発想になるんですの?」
「だって、すごく流暢に話してたから…そんなに笑わなくてもいいんじゃない?」
目に涙を浮かべて笑っているメリルに、ヴァッシュは口を尖らせて抗議した。
「…ごめんなさい、笑い過ぎですわね。…ドイツ語は中学に入学した時から習ってますの。抜き打ちテストということではないんでしょうけど、両親とは時々あんな風にドイツ語で会話することがあるんです」
「はぁ…」
親と外国語で会話する。自分の家では到底考えられない話に、ヴァッシュは曖昧に相槌を打つしかなかった。
「…わざわざ見送りに来てくれたんだ」
「ええ。それと、荷物が多いからここまで運んでくれたんだと思いますわ」
メリルの傍らには大きな旅行鞄と、サラリーマンが持っていそうなアタッシュケースが置いてある。
「そっちの鞄、何?」
「ノートパソコンですわ」
「よう、早いな、二人とも」
ギリアムが手を上げて近づいてきた。
「主将、おはようございます」
会話はそこで途切れ、ヴァッシュはパソコンを何に使うのか訊きそびれた。


乗り換え二回、ホームでの待ち時間計四十分、電車に揺られること約九十分で一行はとある駅に降り立った。
宿泊先の民宿まで約五キロ、舗装されていない山道をひたすら登ることになる。
「ナスティ、そんな格好で大丈夫か?」
顧問が新米マネージャーに声をかけた。心配するのも無理はない。彼女はワンピースにヒールの高いサンダルという、これからデートにでも行くような格好なのだ。配布したプリントには靴に関する注意書きもあったのだが。
「大丈夫ですぅ」
その言葉はすぐに裏切られることになる。
もともと履きなれていなかったのだろう、歩き始めて十分もしない内にナスティは靴擦れを起こした。
「せんせぇい、あたし足が痛くてもう歩けません」
「だから言わんこっちゃない」
さてどうするか。駅前まで戻ればタクシーを使えるが、とてもそこまで歩けるとは思えない。
「ヴァッシュ君、おぶってくれない?」
「ええっ、ぼ、僕がですか!?」
ヴァッシュは素っ頓狂な声を上げた。矛先が自分に向けられるとは想像だにしなかった。
「そうよ。足腰の鍛練になるじゃない。ねぇ、いいでしょ?」
返答に窮したヴァッシュを助けるようにギリアムが口を開いた。
「着く前から一人だけ消耗させる訳にはいかない」
続けて、自分を含む基礎体力にお墨付きを貰った部員十二名の名を順に呼ぶ。
「…以上の者は五分交代で新マネージャーをおぶって歩くこと。荷物はその他のメンバーで運んでくれ」
「ええ~っ」
「これも野球部の為だ。協力してくれるな」
不満そうな声を大義名分で封じる。野球部の為、と言われればマネージャーとしては反論の余地はない。ナスティは渋々ながらも肯いた。
二年生から順に交代していき、やがてヴァッシュの番が回ってきた。人一人背負って歩くことくらい何でもないが、ナスティは必要以上にしがみついてくる。背中に当たる感触にヴァッシュは赤面した。
「ヴァッシュ君って純情なんだ」
交代間際に囁かれ、ヴァッシュは耳まで赤くなった。
不意にヴァッシュの目の前にウェットティッシュが差し出された。視線を横に向ける。メリルが並んで歩いていた。
「大丈夫ですか? 顔真っ赤ですよ? とりあえずこれを使って下さい」
濡らしたタオルでもあればいいんですけど…。小さく呟くメリルに礼を言い、ヴァッシュはそれを受け取った。汗を拭った後、顔や首をそれで拭く。ひんやりして気持ちがいい。
「…キミは大丈夫? 荷物重いんじゃない?」
彼女の息は上がり始めていた。
「大丈夫です。持ち運べないと思ったら、最初から持って来ませんわ」
にべもなく言われては、『持とうか?』なんてとても言い出せない。それでも。
「もし辛くなったら遠慮なく言ってね」
ヴァッシュは控えめに手伝う意思を示した。
「…ありがとうございます」
その後民宿に着くまで、メリルはずっと無言だった。


勝利荘――トライガン学園野球部が夏と冬に行なう合宿の際宿泊する民宿の名前である。そこを使う理由は二つ。一つは名前にあやかりたいから。もう一つは、そこを切り盛りしている老夫婦の一人息子がトライガン学園野球部のOBで、後輩に当たる彼らは格安で利用させて貰えるからだった。
かなり田舎であまり客もないこともあり、野球部が合宿する時はいつも貸切になっていた。
「今年もお世話になります」
顧問の挨拶に合わせて、全員が頭を下げる。細長い眼鏡をかけた老人と、髪をひっつめ丸眼鏡をかけた太めの老婦人は、目を細めて団体客を迎えた。
「ようこそおいでなすった」
「今年は大人数で…二十人以上で合宿するのは何年ぶりですかねぇ、おじいさん」
「いやあ、それは言わない約束ですよ」
顧問が所在なげに頭を掻く。部員の間から忍び笑いが洩れた。
「お前らは荷物を置いてさっさと着替えろ! すぐにアップだ!」
照れ隠しに怒鳴られ、部員達は慌てて荷物を手に割り当てられた部屋へと移動を始めた。
不意にTシャツを掴まれヴァッシュは足を止めた。老人が自分を見上げている。
「君が人間台風君か。活躍ぶりは知っとるよ。…今年は残念じゃったが、君にはまだ二年ある。頑張りなさい。悔いを残さんようにな」
「はい、ありがとうございます!」
ヴァッシュは一礼し、仲間の後を追った。その背中に、随分前に家を飛び出した息子の姿が重なる。
「なぁばあさん」
「はい」
「…夢は繋がっとるんじゃな」
「そうですねぇ」
ウォーミングアップを終えると部員達はランニングを始めた。アップダウンの激しい山道を走るグループと、比較的なだらかなコースをゆっくりしたペースで走る、いわゆるLSD(ロング・スロー・ディスタンス)のグループに分かれる。
マネージャーの二人は早速昼食の準備にとりかかった。何せ食べ盛りの高校生が二十三人もいるのだ。メニューはカレーだが、材料は一応四十人分用意して貰っていた。
「ナスティ先輩、お米をといでいただけませんか?」
「えーっ、あたしそんな事やったことなぁい」
老婦人に借りたつっかけサンダルを履いたナスティは、顔と声両方に拒絶の色を顕わにして言った。
「ではそれは私がやりますので、野菜の皮むきをお願いします」
「…めんどくさぁい」
「ピューラーを使えば簡単ですから」
調理実習の時どうしていたのかしら…。素朴かつもっともな疑問は顔にも口にも出さず、メリルはピューラーの使い方をナスティに説明し、玉ねぎを切っている老婦人にこっそりフォローを頼んで、米をとぐべく一人流しに向かった。
ナスティは一事が万事この調子だった。洗濯にしても、ひどい泥汚れは洗濯機で洗う前に手洗いしなければならない。ナスティはヴァッシュの服は丁寧に洗うのだが、他の部員の分はおざなりに済ませようとする。顧問と主将とヴァッシュの目がある時だけかいがいしく立ち働く。入部した目的が何であるか、火を見るより明らかだった。
『あてにしないほうがいいですわね…』
密かに戦力外通知を出して、メリルは老婦人と二人で切り盛りする覚悟を決めた。


------------



合宿三日目。ヴァッシュは部内に温度差を感じていた。
体力差を配慮したトレーニングメニューの為、全員が顔を揃えての練習はあまりない。だが、その数少ない機会や食事の時などにずれを感じるのだ。別グループのやる気が全く見えない。
写真部との兼部が四人いるが、話題はいつもマネージャーのことばかり。野球に関する話はしないし、振っても乗ってこない。他の連中も似たり寄ったりだ。
同じグループの中にも判らない奴はいる。文化部との兼部者では唯一自分と同じグループに属している、同じ学年のキール・バルドウだ。とにかく口数が少なく、何を言っても無反応。何を考えてるのか掴めない。
『何のつもりで入部したんだ…』
内心舌打ちする。最低でも四人、交代要員を考えると部員は多いほうがいい。しかし、やる気のない奴は必ず周りのやる気も奪ってしまう。それなら最初からいないでくれたほうがましだ。
主将や三人の先輩達も戸惑っているようだ。顧問が注意したり檄を飛ばしたりしたが効果はなかった。
合宿五日目。午前の練習中に副主将が足を捻った。
「ヴァッシュ、すまないがマネージャー…っと、メリルを呼んで来てくれ。救急箱を持ってな」
「はい!」
メリルは毎日、朝食の後食材を買いに老人と軽トラックで出かけていた。米や保存のきく野菜はまとめて発注し納品して貰ってあるが、肉や魚、生野菜は冷蔵庫の容量の問題もあり都度買うことにしたのだ。手間はかかるが、そのほうが栄養価も味もずっといい。
この時間ならもう戻っている筈。ヴァッシュは民宿を目指して走り出した。
厨房を覗いたが、そこにいたのは老婦人だけだった。
「すみません、マネージャーは…」
「ああ、今裏で洗濯してるよ」
「そうですか。ありがとうございます」
建物の裏手に回ったヴァッシュの耳に、ナスティの金切り声が飛び込んできた。
「何よあんた、先輩に意見しようっていうの!?」
「いえ、そんなつもりは」
メリルは後悔していた。『ヴァッシュさん以外の方の分もちゃんと洗って下さい』は失言だったと。部員からクレームがきているのは事実だが、もう少し言い方を考えるべきだった。
「だいたい生意気なのよ、あんた!」
ナスティの平手は空を切った。メリルが反射的に身を引いて躱したからだ。それがナスティの怒りに油を注いだ。
「何でよけるのよ!?」
更に平手がくる。叩かれるつもりで動きを止めたメリルが背後に人の気配を感じたのと、小さな両肩に大きな手が置かれたのはほぼ同時だった。そのまま横へ押しやられる。
パン、という乾いた音が辺りに響いた。
「あ…」
頬を打たれたのは――ヴァッシュだった。
ナスティは数歩後ずさった。狙っている男に喧嘩しているところなど絶対に見られてはならない。ましてや本人をひっぱたいてしまうなんて。
「き、来てたなんて知らなかったわ。お昼にはまだ」
慌てて言いつくろうとするナスティの声は、自分を見つめるヴァッシュの穏やかな瞳を見た途端に止まった。
「…平和にいきましょうよ、平和に」
ヴァッシュは微笑みながら静かに言った。左の頬を赤くして。
「ヴァッシュさん…どうして…」
「副主将が足を捻ったんだ。主将が呼んでる」
「判りました。救急箱を取ってきますわ」
走り出しかけて、メリルは水道の前で立ち止まった。ハンカチを取り出して濡らし、無言のままヴァッシュに差し出す。視線と表情が安否を問いかけている。
「…ありがとう。大丈夫だよ」
ヴァッシュはにっこり笑い、ハンカチを受け取った。それを頬に当てるのを確認してから、メリルは走り去った。
「…何があったのかは判りませんけど、暴力は反対です。この世はラブ&ピース、ですよ」
ナスティはふてくされたようにそっぽを向いた。それ以降、メリルが戻るまで沈黙の時間が続いた。
二人と救急箱が主将達に合流した。
「…やっと来たか。…ってヴァッシュ、どうしたその顔?」
その場にいた全員が抱いた疑問を、ギリアムが代表して尋ねた。
「蚊に食われそうになったところを新マネージャーに助けて貰ったんです。ね、マネージャー」
「え、ええ」
ウインク付きで突然話題を振られ、メリルは曖昧に肯いた。


夕食と入浴を終えた後は自由時間である。雑談をしたり、トランプで遊んでいる者が多い。中には練習で疲れて先に休む者もいた。
ヴァッシュは一人、裏庭で素振りをしていた。朝晩の素振りは日課で、サボると気持ちが悪いのだ。
その日は夕食の後、ギリアムとメリルが顧問に呼ばれた。
『やっぱり部の雰囲気のことかな…』
バットを振りながらヴァッシュはぼんやりと考えた。マネージャー同士もあまりうまくいっていないらしいのは、午前中の件を考えれば判る。
「どうして…」
小さな呟きは空を切る鋭い音にかき消された。
「…ずいぶん熱心なのね」
不意に聞こえた声に、ヴァッシュは手を止め振り返った。合宿に来た時と同じ服装のナスティが立っていた。
「…何かご用ですか?」
「今日は変なところを見られちゃって…誤解のないよう説明に来たの」
「僕が蚊に食われそうになったのを助けて貰った件なら気にしないで下さい」
再びバットを構えようとした手に、ナスティの手が重ねられた。
「…あたし、あなたの為に野球部に入部したのよ」
「…僕の為?」
「単刀直入に言うわ。…あたし、あなたのことが好きなの」
ヴァッシュが僅かに目を細めたのにナスティは気づかなかった。彼の表情が不信を表していることにも。
「ねえ、あたしの彼氏にならない? こう見えても、あたしってよく気がつく」
「違うでしょう、ナスティ先輩」
媚びを含む声を遮ってヴァッシュは静かに言った。さりげなく手を外し、触れられることのないよう後ろ手に組む。
「何が?」
「先輩が好きなのは僕じゃない」
意外な言葉にナスティは気色ばんだ。
「何を根拠にそんな…勝手なこと言わないで!」
「僕のフルネームを言ってみて下さい」
「え…ヴァッシュ、ヴァッシュ…」
言葉が続かない。覚えていないのだから当然なのだが。
「先輩が入部した時に、僕名乗ってるんですよ。それなのに覚えてないんでしょう?」
「あ、あの時はいろんな人をいっぺんに紹介されたから」
「後で名簿で確認できた筈ですよ。…よく判らないけど、本当に好きな人のことなら何でも知りたいって思うものじゃないんですか?」
ヴァッシュの指摘は正しい。ナスティは反論できずに俯いた。
「先輩が欲しいのは『人間台風の彼女』の肩書きだ。僕でなくても、周りに自慢できる奴なら誰でもいい…違いますか?」
話は終わったとばかりに、ヴァッシュはナスティに背を向け少し歩いた。危険のないよう充分な距離をとる。
それでも立ち去ろうとしない先輩に、素振りをしながら更に言葉を紡ぐ。
「…お節介かも知れないけど、一応忠告します。自分で自分のことを『よく気がつく』なんて言わないほうがいいですよ。本当によく気がつく人は、いきなりやって来て人の自主トレを邪魔するようなことはしませんから」
そう、彼女なら。身体を冷やすな、と口うるさく言う彼女なら。
きっと、自主トレと汗の始末が終わるのを待って声をかける。たぶんこんな風に。
『ヴァッシュさん、お話ししたいことがありますの。よろしかったら少々お時間をいただけませんか?』
自分の口元にかすかに笑みが浮かんだことに、彼自身気づいていなかった。
遠ざかる足音に何の関心も示さず、ヴァッシュは黙々と素振りを続けた。

素振りを終えると、ヴァッシュは老人に声をかけてシャワーを借りた。毎日のことで、老人も二つ返事だ。
手早く汗を流し、服を洗う。自主トレで汗だくになった服の洗濯までマネージャーに頼むのは心苦しかった。
裏庭の物干し台に服を干す。部屋に戻る途中で喉の渇きを覚えたヴァッシュは厨房に向かった。
「…あれ?」
食堂に明かりが点いている。皆部屋にいる筈なのに。
厨房からひょいと顔を出す。椅子に腰掛けた小さな背中が見えた。キーボードをせわしなく叩く音が聞こえる。
コップの水を一気に飲み干してから、ヴァッシュはメリルに歩み寄った。
「マネージャー」
びくりと肩が震えた。振り返ったメリルの表情が驚きから微笑みに変わる。
「ヴァッシュさん…どうしたんですの、こんなところに」
「それはこっちの台詞。打ち合わせ、終わったんだ。すいぶんかかったね」
「ええ…」
メリルは僅かに目をそらせた。
気まずい空気を打破するきっかけを探して、ヴァッシュはパソコンの画面を覗き込んだ。
「これ、ドイツ語?」
「独文和訳と和文独訳…本日のノルマですわ。いつもはもっと早い時間に終わらせるんですけど、今日は打ち合わせが入りましたから」
「じゃ、毎日ここで勉強してたの?」
首が縦に振られ、黒髪がさらりと揺れた。
「タイピングの音は意外とうるさいですし…部屋にあるのは座卓だけですから。正座よりも椅子に座るほうが足が楽なんですもの」
台詞の後半は冗談めかした口調だったが、同室のナスティに配慮してのことだろう。いたずらっ子のような笑みを浮かべたメリルに、ヴァッシュも微笑みを返した。
「それにしても…誰だ!?」
厨房に人の気配を感じて振り返る。暗い中動く人影。ヴァッシュはメリルを背に庇うように立ち、身構えた。
食堂に入ってきたのはキールだった。泥棒などではなかったことに胸をなで下ろし、メリルはヴァッシュに並んだ。
「やあやあお二人さん、こんなところで一体何を?」
自分のことは棚上げしての芝居がかった言い回しに神経が逆なでされる。
「メリルさん、勉強ならコソコソ隠れてすることもないでしょうに。是非僕にも見せて欲しいなぁ」
「…私の勉強方法に興味がおありのようですわね」
一学期に行なわれた二回の定期考査で、メリルは学年トップだった。クラスは違うが、二位のキールがひどく悔しがったという話は二人の耳にも入っている。
メリルに痛いところを指摘され、キールは一瞬鼻白んだ。眼鏡を押し上げ、何とか気を取り直す。
「部活の合宿に来てまでガリ勉とは…さすが才媛と呼ばれるだけのことはある」
「嫌味を言う暇があるんでしたら、その間にあなたも勉強なさったらいかがですの?」
「…ご高説痛みいるね。どうして君が高校受験に失敗したのか、不思議で仕方がないよ」
『え?』
驚きを押し隠すヴァッシュの隣で、メリルは沈黙を守った。
「こんな山奥にまでパソコンを持ち込んで、授業にはないドイツ語のお勉強か。嫌味なのはどっちだ。…そんなに勉学にいそしみたいんなら、こんな部はさっさとやめて」
突然メリルにつかつかと歩み寄られ、キールは口をつぐんだ。自分を見上げる強い光を湛えた菫色の双眸に身体が凍りつく。
キールの頬が鳴った。メリルがひっぱたいたのだ。
「…私は、やりたいことをするために義務を果たしているだけです。事情を知らない人に四の五の言われたくありませんわ」
僅かに潤んだ瞳を瞼で隠して、メリルは踵を返した。キールはしばらく呆然としていたが、何も言わずに食堂を出ていった。


足音にドアが開閉する音が続き、再び辺りが静けさを取り戻してから、メリルは記憶を頼りにパソコンを目指してぎこちなく歩き始めた。目を閉じたままで歩くのは危険だと判ってはいたが、どうしても目を開けられなかった。目を開けたら泣き出してしまいそうで。
石鹸の匂いを感じた次の瞬間、メリルはヴァッシュにぶつかった。
「と…大丈夫?」
咄嗟に小柄な身体を抱きとめ、ヴァッシュは戸惑いながらも問いかけた。
「ええ…ごめんなさい」
俯いていて顔は見えない。胸元から聞こえてくる消え入りそうな声。いつも気丈で、時には先輩を叱りつけたりする彼女の、思わず手を差し伸べずにはいられない頼りなげな姿。
こんな時、どうしたらいいのかさっぱり判らない。ヴァッシュの戸惑いは増す一方だった。
…でも、彼女なら。最後まで自分の荷物を持って欲しいと言わなかった彼女なら。
『こんな姿、見られたくないって思うよね…』
ヴァッシュはメリルの手を引き、パソコンの前の椅子に座らせた。隣の椅子を移動させ、背もたれを合わせるように置いてそれに腰掛ける。お互いに相手の姿は視界に入らない形だ。本当は立ち去るほうがいいのだろうが、今のメリルを一人にしておけなかった。
二人の息遣いだけが、静かな食堂に流れた。
「…何も…訊かないんですのね…」
「…話したくないなら、無理に話さなくていいよ」
一瞬背後に目をやったメリルの口元にかすかに微笑みが浮かんだ。顔を見ないように、背中合わせで傍にいてくれる。本当は事情を知りたい筈なのに、我慢してくれている。――優しさが胸にしみた。
「…私が…本命の高校の受験に失敗したのは…本当です」
ヴァッシュは何も言わずにメリルの声を聞いた。
「…ですから、私が野球部のマネージャーになりたい、と言った時には周囲に…特に母に猛反対されました」
大学受験での失敗は許されない。部活なんて無駄な時間を過ごす余裕などない、と。
「祖父母の口添えもあって、三つの条件付きで入部の許可を貰いました」
校内の定期考査で常に三位以内に入ること、夏と冬の全国模試では千位以内に入ること、週三回のドイツ語のレッスンはこれまでどおり続けること。一つでも破ったら即退部、という厳しいものだった。
「今まではクリアできたんですけど、この合宿がネックになってしまって…。先生にここまで来ていただく訳にもいきませんし」
そこで、合宿中はメールで毎日課題を出して貰い、翌日解答を送信することにした。それとは別に、帰宅後に会話の集中レッスンを受けるようになっている。
「…ただ、ここに着いてから困ったことがあって…」
勝利荘は携帯の圏外だったのだ。ここの電話は古い型で、モジュラージャックのタイプが違う。いくら課題をこなしても、送信できなければ意味がない。
「駅前なら大丈夫でしたので、食材の仕入れにパソコンを持ってついていって、朝送信するようにしたんです」
民宿のご主人一人で買い出しをするのは大変だろうから、と同行して。勿論買い物も手伝っている。
「…大変だね」
「大したことはありませんわ」
メリルは席を離れると、ヴァッシュの前に立った。綺麗なブルーグリーンの瞳をまっすぐに見つめる。
「…この話を知っているのは先生と主将と民宿のご夫妻だけです。ですから」
「判ってる。誰にも言わないよ」
その言葉にメリルは微笑んだ。
「でも、どうしてそうまでして合宿に参加したの? 強制参加じゃなかったのに」
「野球が大好きだから、ですわ」
口にしてから気恥ずかしくなったのだろう、メリルは頬を染めるとヴァッシュに背中を向けた。
「ごめんなさいヴァッシュさん、課題がまだ残ってますの」
「あ、ご、ごめんね。邪魔しちゃって」
ヴァッシュは慌てて席を立った。椅子を元の位置に戻す。
「明日も練習メニューが目白押しですわよ。しっかり休んで下さいね」
「うん、ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」


翌朝、朝食の席にメリルの姿はなかった。
『具合が悪いのかな…』
大人数の炊事と洗濯に追われ、ドイツ語の課題もこなさなければならない。疲れない筈はないだろう。
気にはなったが、食べなければ身体が持たない。ヴァッシュは黙々と箸を動かした。
食事が済むと、いつもは主将がその後の予定を発表してから解散を宣言する。しかし、その時口を開いたのは顧問だった。
「皆、そのままで聞いてくれ。…昨日、今ここにいない者からあるものを受け取った」
顧問は小さく折りたたまれたレポート用紙を広げ、静かに息を吸った。
「退部届」
その瞬間どよめきが起こった。ヴァッシュも目を見開いて顧問を凝視した。
『メリルが!?』
「退部届」
確認するようにもう一度言い、顧問は短い文面を読み上げた。
「一身上の都合により、八月二十日付で野球部を退部いたします」
昨日、夕食の後主将と一緒に顧問に呼ばれたのはこのせいだったのか。二人で説得したのだろうが、メリルの意志は固かった、ということなのか。そう言えば夕べ声をかけた時、少し様子がおかしかったような気もする。
ヴァッシュはかぶりを振った。野球が大好きだから、ですわ――そう言って赤くなった、照れたようなメリルの顔が目に浮かぶ。終業式の日に、お互い真剣な表情で『よろしくお願いします』と頭を下げてからまだ一月しか経っていない。
野球部に入部する為に過酷な条件を受け入れこなしてきた彼女が、そんなに簡単に投げ出すとは思えない。
…けど。
『辛かったのかな…』
野球部の雰囲気はこんなだし、ナスティ先輩ともうまくいってなかったみたいだし。一人で悩んでたのかも知れないのに、俺は全然気がつかなかった…
「おいナスティ、何か心当たりないのか!?」
新マネージャーとは同じクラスの副主将が声を荒げた。寝耳に水なのは誰もが同じらしい。
「し、知らないわよ! 今朝あたしが起きた時にはもういなかったし、荷物もなくなってたのよ!」
「朝食の準備を終えて、すぐここを出たそうだ」
顧問の言葉に、戸惑いの声があちこちから上がる。
仮に退部するにしても、挨拶もしないで逃げるように出て行くなんて彼女らしくない。それとも、俺達の顔を見られないくらい苦しかったのか…
ヴァッシュは膝の上で両手を固く握り締めた。
突然椅子を鳴らしてナスティが立ち上がった。
「冗談じゃないわ! あたし一人で野球部の面倒見ろっていうの!? 先生、あたしも退部します!」
ヴァッシュに脈がないと判った以上、野球部にいる理由はない。叫ぶように宣言してナスティは食堂を出ようとした。
「お、おい、どこへ行くんだ?」
「自分の部屋です! 届を出さなくちゃいけないんでしょう? それを書いて荷物をまとめたらすぐ帰ります!」
「…俺もやめます」
「俺も」
中途入部者が口々に言い、席を立っていく。
「主将、いいんですか!?」
「来る者拒まず去る者追わず、だ」
やる気のない奴はいないほうがいい。ギリアムの考えはヴァッシュと同じだった。
結局、午前の練習が始まる前に十二通の退部届が提出された。残ったのは体力お墨付きのグループ十二人のみ。
元男子部員は自分の荷物を手に山道を下って行く。ナスティだけは靴擦れの一件があったので、顧問が老人に頼み仕入れの車に便乗できるようにした。
予定時刻より少し遅れて練習が開始された。ウォーミングアップとランニングを終え、肩慣らしのキャッチボールが始まっても、部員達の表情は暗いままだった。
春からずっと苦楽を共にしたマネージャーが突然退部した。ましてやメリルは単なる雑用係ではなく、雰囲気を明るくしてくれる華であり、よきアドバイザーであり、外科医という協力者と野球部を繋ぐパイプ役だったのだ。失った痛手は大きい。
昼食の時間になった。シャワーを浴びて汗だくになった服を着替えた部員達が、重い足取りで食堂に向かう。
昨日までは明るい声が迎えてくれた。
「お疲れ様でした。お昼は豚肉の生姜焼きですわ」
そうそう、いつもこんな風に献立を教えてくれて…耳慣れたその声に全員の足が止まった。
テーブルに皿を並べていたのは退部した筈のメリル。
「…マネージャー!?」
十一人分の絶叫が山中にこだました。







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夏が終わって

プロローグ


全国高校野球選手権大会地区予選。去年まで一回戦で敗退していたトライガン学園は破竹の勢いで勝ち続けた。既に準々決勝進出を決めており、『今年一番のダークホース』と言われている。
 部員が九人しかいない野球部に勝利をもたらしているのが、今年入学したばかりの一年生投手、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。彼の球は重さとスピードを兼ね備えており、絶妙なコントロールで各校の打者達を翻弄し次々と三振を奪っていった。打率もよく、一騎当千の活躍ぶりから『人間台風』と呼ばれている。
 準々決勝第一試合はトライガン学園対バド・ラド高等学校。
 試合は一点を争う投手戦となり、両校とも無得点のまま延長戦にもつれ込んだ。
 十二回裏、バド・ラド高等学校の攻撃。ツーアウトで迎えるバッターは、四番で今大会随一のパワーヒッターであるブリリアント・ダイナマイツ・ネオン。
 ヴァッシュは額の汗を拭うと僅かに目を細めた。
『こいつは要注意だ』
 打席毎にタイミングが合ってきている。前の打席では三振にとったものの、きわどいファウルが二回あった。
 主将で三年生キャッチャーのブライアンとサインを交わす。小さく肯いて、ヴァッシュはセットポジションに入った。
 四球投げて、ストライク・ファウル・ボール・ファウル。ツーワンと追い込んではいるのだが、四球目のファウルはポールぎりぎりだった。
「タイム」
 ブライアンは審判に声をかけ、マウンドのヴァッシュの元へと向かった。
「ヴァッシュ、落ち着いていこう。あとワンストライクとればこっちの攻撃だ」
「はい…」
「大丈夫、いつものとおり投げれば勝てるさ」
 ブライアンはヴァッシュの肩をキャッチャーミットで軽く叩いてから踵を返した。
「!」
 遠ざかる背中に声をかけようとしたが、言葉が見つからない。
『先輩…』
「締まっていこう!」
「おおっ!」
 ブライアンが構える。ヴァッシュはグラブの中でボールを握り締めた。
 五球目は内角低目のストレート。コントロールは文句のつけようがなかったが、何故かそれまでよりスピードが落ちていた。
 ボールは小気味よい音と共に場外へ消え、ネオンはゆっくりとダイヤモンドを回りホームベースを踏んだ。
 延長十二回、一対ゼロ。バド・ラド高等学校のサヨナラ勝ち。――トライガン学園野球部の夏は終わった。
 最後の挨拶を終え、ナインがそれぞれのベンチに戻る。
「…俺達はよくやったよ」
 涙ぐむ部員達を前にしてブライアンは言った。
「長年『弱小』と呼ばれ続け、今年新入部員がいなかったら九人揃わなくて試合ができない、なんて心配してた俺達が…準々決勝まで来れたんだ。…ヴァッシュ、お前のお陰でな」
 人一倍泣いている金髪の後輩の肩に手を置く。
「ありがとう…」
「先輩…」
「俺を含む三年にとって最後の夏だが…いい思い出が…でき…」
 それ以上は言葉にならなかった。悔し涙が頬を濡らす。
「先輩…俺…」
「…何も言うな。…来年、頑張れよ」
 ヴァッシュは泣きじゃくりながら何度も肯いた。








++++++++++







 ヴァッシュに連投の疲れが出て最後の球のスピードが落ちたからだ、と言った人がいた。
 単発のヒットはあったものの、それを得点に結びつけられなかったのが原因だ、と言う人もいた。
 控えの選手、特に押さえのピッチャーがいなかったのが痛い、と言う人もいた。
 野球通を自負する人達がトライガン学園の敗因をしきりに分析しているが、当の選手達にとってはただの雑音にすぎない。負けた――その事実だけが、心に重くのしかかっていた。
 部活は準々決勝の翌日から終業式まで休みになった。
 そんな中、ヴァッシュは朝早くから登校していた。既に期末試験を終え試験休みに入っているので、本来なら登校しなければならない理由はない。現に彼の母親は、『昨日試合があったばかりなのに…少しは身体を休めなさい』と呆れ顔で息子を見送ったのだ。
 校庭でサッカー部やハンドボール部が練習している。テニスコートではテニス部が素振りの真っ最中だ。ヴァッシュは制服のまま、校庭の片隅でぼんやりとそれを眺めていた。
 不意に頭に何かかぶせられた。慌てて手に取ってそれを見る。自分の野球帽だった。
「こんなきつい日差しの下では日射病になってしまいますわよ」
 耳に心地よいやや低めのソプラノの声にヴァッシュは振り返った。
 そこにいたのはセーラー服姿のメリルだった。彼女は野球部のマネージャーであり、ヴァッシュのクラスメイトでもある。
「マネージャー…どうしてここに?」
「部室の掃除と資料整理ですわ。…ヴァッシュさんは?」
「ちょっと、ね…」
 曖昧な笑みを浮かべて視線を元に戻す。…今考えてることは誰にも話したくない。
「しばらくここにいらっしゃるおつもりですの?」
「うん…」
「でしたら、帽子はかぶっていて下さい。倒れてからでは遅いんですから」
 では、と短く挨拶するとメリルは走り去った。
「…これ、わざわざ部室から持って来てくれたのかな…」
 かぶり直した帽子のつばを指先で軽く突つく。
 あることに気づいてヴァッシュは首をかしげた。部室の掃除と資料整理をするなら、何もこんなに早く登校することはない。他の部が朝練をやっている時間に。
重い腰を上げると、ヴァッシュは野球部の部室へと向かった。ドアのノブを回してみるが、ドアは開かない。鍵がかかっているのだ。
「マネージャー…マネージャー?」
 ノックしながら声をかけてみたが返事はない。
 ヴァッシュは窓側に回ってみた。カーテンも鍵も閉まっている。掃除をするなら窓くらい開けるだろうし、冷房のない部室を締め切ったままでは暑くて資料整理などできる筈がない。
 寄り道でもしているのかとしばらく待ってみたが、メリルは姿を見せなかった。
『メリル…どこに行ったんだ…』



 ヴァッシュは先刻の場所に再び腰を下ろした。結局メリルは部室に来なかった。
ハンドボール部が練習試合を始めていた。陸上部が目の前を走り抜けていく。その他、さまざまな運動部が活動していて、朝来た時よりもだいぶ賑やかになっている。
 ヴァッシュは長いこと何をするでもなくそこに座っていた。ただぼんやりと校庭を眺めながら。
「はぁ…」
 浮かない顔でため息をつく。
『時間の無駄…なのかな…』
 自分のしていることに疑問を抱きつつ、それでも立ち去る気になれない。ヴァッシュはがっくりと肩を落とし、再び吐息した。
 近づく人の気配に振り返る。無地のTシャツに学校指定のジャージをはいたメリルだった。軽くみはった菫色の双眸と目が合う。
「あ…ま、まだいらしたんですの?」
「え?」
「もうすぐお昼ですわよ」
 空を見上げ、眩しさに目を細める。太陽は中空高く輝いていた。
「ヴァッシュさん、昼食はどうなさいます?」
「…考えてなかった…」
 『学校に行ってくる』とだけ告げて家を出た。母さんは仕事に行った筈。何時に帰るとは言わなかったから、用意はしてないだろう。どこかで食べるか、家に帰ってから自炊するか。…まだ帰りたくない。
「もしよろしかったら、一緒に食べませんか?」
 メリルは手にしていたコンビニの袋を振ってみせた。
「…いいの?」
 いつもは見上げるヴァッシュの顔を今は見下ろしている。メリルは不思議な気分を感じながら肯いて答えた。
 炎天下では食べる気になれず、二人は木陰に移動した。気温の高さはどうしようもないが、陽射しが遮られる分いくらかましだった。
「わぁい、サーモンサンドだ! いっただっき」
「まだです! ちゃんと手を拭いて下さい!」
 おしぼり代わりのウェットティッシュを渡され、ヴァッシュは僅かに苦笑した。これでは賢い母親と行儀の悪い子供だ。
 きちんと手を拭き、あらためていただきます、と宣言する。お伺いを立てるようにそっと目を向けると、メリルはにっこり笑って肯首した。
「うん、おいしいおいしい。サイコー」
 ヴァッシュは満面の笑みを浮かべてサンドイッチを頬張った。傍らでメリルも手を拭き、野菜サンドに手を伸ばす。
 このサーモンと冷たいトマトの組み合わせが…ヴァッシュは噛むのも忘れて並べられた食べ物を見回した。
 サーモンサンド、大根サラダ、ドーナツ――全部自分の好物だ。手渡された缶ジュースも、いつも飲んでいるアイスコーヒーとスポーツドリンク。
 野菜も飲み物も充分冷えている。それに、彼女一人の昼食にしてはどう見ても量が多すぎる。
『わざわざ買ってきてくれたんだ…』
「…どうなさいましたの?」
 ヴァッシュは大きく首を横に振った。慌てて口の中のものを飲み込もうとして喉につかえさせ、胸を叩きながらアイスコーヒーで流し込む。
「そんなに急いで食べなくても、誰も盗ったりしませんわ」
 メリルは呆れたような表情でヴァッシュの背中をさすった。







+++++++++






 昼食を食べ終えると、メリルは残されたゴミを一つにまとめて立ち上がった。
「それじゃ私は作業に戻りますわ」
「手伝おうか」
 咄嗟に自分の口から出た言葉に、ヴァッシュは内心ひどくうろたえた。
「あ、いや…ご馳走になったお礼と言うか…資料整理はできないかも知れないけど、掃除くらいなら僕でも…その…」
 メリルはどもりながらも言葉を紡ぐヴァッシュを見つめた。驚いたような表情がやがて微笑みに変わる。
「…ありがとうございます。でも、一人で大丈夫ですから。お気持ちだけいただきますわ」
「そ、そう」
「午後から夕立の可能性があるそうですから、早く用事を済ませてお帰りになるほうがよろしいですわよ」
 ヴァッシュがいつも自転車で通学しているのをメリルは知っていた。
「うん…ありがとう」
 軽く頭を下げて踵を返したメリルを、何とはなしに目で追う。
トライガン学園は広い敷地にL字型に建物が建っている。長い線が四階建ての校舎、短い線の部分にあるのが三階建ての体育館と二階建ての格技棟と新しいクラブハウスで、全て渡り廊下で繋がっている。L字型の角のちょうど反対側に古いクラブハウスがある。ちなみにプールは校舎の屋上にある。
 三年前、体育館を立て直す際に格技棟も合わせて建設された。それにより、バスケットなどの屋内球技の部は体育館、柔道や剣道といった部は格技棟を使うようになった。格技棟には部室が設けられていて、部員が多かったり優秀な成績を修めている運動部の部室はそちらにある。格技棟はシャワー室完備で生徒達の評判もいい。
 野球部の部室は古いクラブハウスにあった。格技棟の部室はおろか、新しいクラブハウスにも入れないのだ。古いクラブハウスは部室の六割が空き部屋で、いわば弱小運動部の為の離れ小島である。
 二人は校舎を背に座っていた。部室に行くならヴァッシュから見て左手に進み、突き当たったら右へ曲がって、校庭の端を行くのが一番早い。それなのにメリルは逆のほうへ足を向けた。体育館や格技棟があるほうへ。
 ヴァッシュは不思議に思ったが、何か用事があるのだろう、くらいにしか考えなかった。
首を巡らせ視線を校庭に戻す。昼食を終えた生徒達が三々五々活動を再開し始めていた。
「最初から木陰にいればよかったんだ…」
 そうしていれば、マネージャーに余計な手間をかけさせなくて済んだのに。
 手に持った帽子をくるくる回す。自分の間抜けさに思わず苦笑が洩れた。
 どのくらいそこに座っていただろうか。
 うだるような暑さはそのままだが、地面に落ちる影が薄くなり風が出てきたことに気づいて、ヴァッシュは木の下を離れ空を見上げた。暗い灰色の雨雲がかなりのスピードで流れてくる。
『すぐにでも降り出しそうだな…』
 思ったそばから、最初の一滴が校庭に黒い水玉模様を描いた。次々と落ちてくる水滴はすぐに地面の色を変え、木々に潤いをもたらした。
 校庭にいた生徒達がクラブハウスに向かって走り出す中、ヴァッシュはその場に立ち尽くしていた。



「ヴァッシュさん!」
 突然名前を呼ばれて、ヴァッシュは声のしたほうへ身体を向けた。白い傘を差したメリルが目を見開いて自分を見つめていた。
「こんな雨の中で何をしてるんですのっ!?」
 メリルは慌てて駆け寄るとヴァッシュに傘を差し掛けた。いつも逆立てている金髪が、今は雨に濡れて全部おろした状態になっている。
 ハンカチを差し出したが、ヴァッシュは凍りついたように動かない。メリルは仕方なく腕を伸ばしヴァッシュの髪を拭いた。水を吸ったハンカチがすぐに重くなる。
「こんなにずぶ濡れになって…とりあえず部室に行きましょう」
 無言のまま立ち尽くすヴァッシュに業を煮やしたメリルは、彼の腕を強引に引っ張りながら歩き始めた。
「行きますわよ、ほら!」
 校庭を突っ切り、部室のドアを開ける。電気を点けてから、メリルはヴァッシュの背を押して部室に入った。ドアを閉め、雨が吹き込まないよう窓を細めに開ける。
 空気が重く淀んでいる。今日換気をしていない証拠だ。ヴァッシュはそれに気づいたが、何も言わなかった。
 メリルは洗濯しておいたタオルを何枚も取り出した。ヴァッシュの頭に載せ、少々乱暴に髪を拭う。
「いくら暑いと言っても、これでは身体が冷えてしまいますわ。着替えはありまして? …ちょっとヴァッシュさん? 聞いてるんですの!?」
 ヴァッシュの唇が僅かに動いた。が、その声はあまりにも小さく、メリルには聞き取れなかった。
「え?」
 ヴァッシュががっくりと膝をついた。前のめりに倒れる身体をメリルが慌てて抱きとめ必死に支える。Tシャツもジャージも濡れたが、メリルは全く意に介さなかった。
「…あの…最後の一球…」
 呻くようなかすかな声がメリルの耳朶を打った。
「…疲れてたからなんかじゃない…あれは……俺は…わざと…」
 メリルの胸元を濡らす水はほのかに暖かかった。大きな背中に腕を回し、そっと抱きしめる。
「…わざと…力を抜いたんですのね」
 ヴァッシュは息を呑んだ。
「…気づいてたのか…」
「ええ…」
 たった一人でヴァッシュの豪速球を受け続けたブライアンは、予選の途中で左手を痛めていた。
 頼む、誰にも言わないでくれ。メリルはブライアンに土下座せんばかりの勢いで懇願された。真剣なまなざしに、ただ黙って肯くことしかできなかった。
「俺を…励ましに…来てくれた時……先輩…左腕が…痙攣してて……それに気づいたら…俺…」
 それまでのように投げられなかった。
 試合が終われば先輩に休んで貰える。でも、だからと言って投球の手を抜いていいということにはならない。
 三年生にとってはこれが最後の夏だったのに、自分の勝手な行動で終わらせてしまった。
「…俺は…間違ってたんじゃ…」
 メリルは目を閉じると、何も言わずに少しだけ腕に力を込めた。
 雨音と雷鳴にまぎれて、ヴァッシュはメリルの胸の中で声を上げて泣いた。



 ようやく落ち着いたヴァッシュは、頭からタオルをかぶったままそっとメリルから身を離した。気まずくて彼女の顔が見られない。顔を見られたくない。
 メリルに半ば背を向けるようにして、ヴァッシュは渡されたタオルで制服を拭いた。それから、床の水を拭うべく掃除用具入れからモップを取り出す。
「…ごめん…」
 何に対して謝っているのか自分でもよく判らないが、ヴァッシュはモップを動かしながら呟くように小さく詫びた。
「いえ…」
 使ったタオルをまとめながら短く答えるとメリルは窓へ目を向けた。雨は峠を越えたようだが、まだ当分止みそうにない。
「ヴァッシュさん、着替えはありますの?」
「ううん…でも、レ…セイブレム先生のところで乾かさせて貰うから」
 レム・セイブレム。トライガン学園の養護教諭である。運動部の生徒が怪我をした時の為に、試験休み中の今日も学校にいる筈だった。
「キミも着替えないとね。部屋、出てるよ」
「いえ、制服はここにはありませんの。女子更衣室で着替えて、ロッカーにしまいましたから」
「じゃ校舎に行かなきゃならないんだ」
 何気なく相槌を打って、ふと疑問に思う。部室の掃除と資料整理をするなら、わざわざ校舎に行く必要はない。
 制服を汚したくないのならここで着替えれば済む。
 メリルが今日ここに来たのはたぶんこれが二回目。一回目は俺の為に帽子を取りに来ただけで、掃除も資料整理もしていない。そう考えれば、モップが乾いていた理由も空気が淀んでいた訳も説明がつく。
『どうしてそんな嘘をついたんだ…』
 俺に内緒でやりたかったことがあるか、俺に内緒で会いたい奴がいたか。――かすかな胸の痛みにヴァッシュは戸惑った。
「…シュさん、ヴァッシュさん?」
「え…あ、ごめん。何?」
「早く校舎に行きましょう。肩を冷やしちゃいけませんから。傘はあります?」
 ない、という簡単明瞭な答えにメリルは僅かに肩を竦めた。
「あまり大きな傘ではありませんけど、ないよりはましですわね。ご一緒しましょう」
 窓を閉めて電気を消し、二人は部室を出た。メリルがしっかりと施錠する。
 折り畳みの白い傘を開くと、メリルはヴァッシュにそれを差し掛けた。
「どうぞ」
「貸して。僕が持つよ。濡れたタオルは重いだろうし、身長差がこれだけあると大変でしょ?」
 相手の顔を見ないようにして手を伸ばし、傘の柄を掴む。一瞬だけ小さな手に触れた。
「タオルも持とうか?」
「これくらい大丈夫です」
 小降りになった雨の中、二人は無言のまま校庭を横切った。
『これって…傍から見ると相合傘なのかな…』
 頬に血が上るのを自覚する。
 メリルはどうなんだろう。ヴァッシュは目だけ動かした。濡れたTシャツが彼女の身体に張りつき下着が透けて見える。
 ヴァッシュは慌てて視線を元に戻した。顔が更に赤くなる。
「ご、ごめん!」
「? 何がですの?」
 赤面している隣の男を見上げながら、メリルは不思議そうに問いかけた。
「…服…濡らしちゃって」
「!」
 ヴァッシュに負けず劣らず赤面すると、メリルは自分の身体に張りついているTシャツを両手で引き剥がしにかかった。


+++++++++++





 通り道なのをいいことに、ヴァッシュは自分達のクラスから女子更衣室前を経由して保健室に向かうことにした。
 校舎内にはあまり人はいないが、今のメリルの姿を他の奴に見られたくなかった。
 自分のロッカーを開けると、メリルは鞄からタオルを二枚取り出してヴァッシュに渡した。
「これ、使って下さい」
「いいよ悪いから。キミが使う分がなくなっちゃうし」
「大丈夫です。まだありますから」
 言いながら、笑顔で鞄を軽く叩いてみせる。
「…ありがとう。借りるね」
 ヴァッシュは微笑みながら礼を言った。彼女の言葉が優しい嘘だと知りながら。
 メリルが更衣室に入るのを見届けてから、ヴァッシュは小さくため息をついた。
『ここまで一緒に来ちゃったけど、いやらしい人、とか思われてないよね』
 やましい気持ちは全然なくて…いや全然でもないか…さっきは思わず目をそらせちゃって、『少うしもったいなかった、かな』なんて思ったり…ってそうじゃなく!
 ピコピコしつつ心の中で自分に言い訳している自分に気づいて、ヴァッシュはまた赤面した。 おそるおそる辺りを見回して、誰もいなかったことに安堵する。
「…何やってんだろ、俺」
 早く行こ。いつまでも濡れたままでいたら、またメリルに叱られる。
 保健室のドアを軽くノックする。
「どうぞ」
 明るい声にドアを開け、失礼します、と一礼してから部屋に入る。長い髪を束ねた白衣姿の養護教諭は、椅子ごと振り返ってヴァッシュの姿を確認すると微笑みを浮かべた。
「あらヴァッシュ、びっしょりじゃない。どうしたの?」
 彼女が学校で自分を君づけで呼ばないのは二人きりの時だけだ。真面目な顔をしていたヴァッシュはにっこり笑って言った。
「あ、今誰もいないんだ。かしこまるんじゃなかったな」
 その口調はクラスメイトを相手にしているかのようで、とても先生に対する話し方とは思えない。
「午前中は捻挫やら突き指やら結構多かったけどね。で、どうしたの、水も滴るいい男になって」
「濡れたくて濡れた訳じゃないよ…」
 言いながら、ヴァッシュは僅かに目を伏せた。かすかに椅子を軋ませてレムが席を立つ。
「服、乾かしたいんだけど…いい?」
「いいわよ。全部脱いで、ベッドに横になりなさい。干しといてあげるから」
「でも」
「いいから。…夕べは眠れなかったんでしょ? 雨がやんで服が乾くまで動けないんだから、そうしなさい」
 ヴァッシュの目の前に突き出されたのは備品の目薬。
「…レムにはかなわないや」
 確かに眠れなかったけど、目が充血してるのはさっき泣いたからなんだけどな。
 苦笑しながら受け取ると、ヴァッシュはそれを遠慮なく使った。目薬を返してベッドに歩み寄り、勢いよく仕切りのカーテンを引く。
「タオル持参とは用意がいいじゃない」
「…貸してもらったんだ」
 誰に、とは言わなかった。
 脱いだ服をカーテンの隙間から渡していく。全て脱ぎ終えると、ヴァッシュはタオルで身体を拭いた。
 ベッドに潜り込み、大きく深呼吸する。眠れそうになかったが、暖かい上掛けに包まれるのは気持ちがいい。
『さっきも…あったかかった…』
 ヴァッシュはゆっくり目を閉じると、手足を縮め胎児のように丸くなった。


 控えめなノックの音。それに応えるレムの声。
 ああ、保健室らしいな…。ヴァッシュがそんなことをぼんやりと考えていた時。
「失礼します」
 聞こえてきた声に、ヴァッシュは思わず目を見開いた。
「あらあなた…」
「あの、野球部のヴァッシュ・ザ・スタンピードさんは」
「今横になってるけど…会う?」
 何言ってるんだよ、レム! 俺が今服着てないの知ってるだろ!?
 ヴァッシュは音を立てないように上掛けを顔まで引き上げた。それでも耳だけはしっかり出している。
「いえ…休んでらっしゃるなら邪魔したくありませんから」
 ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、続くレムの声にヴァッシュの心臓は跳ね上がる。
「メリル・ストライフさんでしょ? 野球部のマネージャーの」
「はい、そうです…けど」
 保健室のお世話になったことは一度もないのに、どうしてセイブレム先生は私のことをご存知なのかしら。メリルは僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。
「いろいろと話を聞いてるのよ」
 何言い出すんだよ、レム~~~~~!!
 ヴァッシュの狼狽をよそに、レムはにっこり笑ってつけ足した。
「容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能。まさに才色兼備、高嶺の花だって」
 保健室にやってくる生徒からメリルの名を何度も聞いているのは本当だ。大半は誉め言葉と共に。
「そんな…過大評価ですわ」
 メリルの声には困惑の色がありありと窺える。
「…体調が…悪かったんでしょうか」
 沈んだ声にヴァッシュは身体を固くした。
 俺は大丈夫だから。心配なんてしなくていいから。――そう声に出して言えたらどんなにいいか。
「夕べは眠れなかったみたいね。無理もないと思うけど」
「そうですか…。あの、気がついたら『お大事に』と伝えて下さい」
 よろしくお願いします、失礼しました。挨拶にドアが開閉する音が続いた。
「…ヴァッシュ、起きてる?」
 寝てる。ヴァッシュは心の中だけで答えた。
「あの子が噂の名マネージャーね。写真よりずっとかわいいじゃない」
「写真!? あるの!?」
 思わず声を上げ、即座に後悔する。カーテンの向こうから笑い声が聞こえてきた。
「クラスの集合写真よ。入学式の後撮ったでしょう?」
「…彼女に変なこと言わないでよね」
「変なことって?」
「…俺のことからかって遊んでるでしょ」
 大きく憮然と書いてある、そんな印象の声でため息交じりに呟く。
「先週約束すっぽかした罰よ」
「…オ・ヤ・ス・ミ」
 ほとんど義理でそう言うと、ヴァッシュは服が乾くまでたぬき寝入りを決め込んだ。






+++++++++







 次の日も、ヴァッシュはずっと校庭を眺めていた。昨日学習したことを早速活かし、木陰に陣取って。
 今は校庭に人影はない。昼食の為休憩に入ったのだ。
「収穫なし…か」
 がっくりとうなだれて吐息する。
 気を取り直して顔を上げ、辺りを見回す。探し物が変わっていることに気づいて、ヴァッシュは僅かに苦笑した。
「今日も来てるはず…ないよね」
 昨日はここで一緒にお昼を食べたけど。
 視界の隅に動くものを捕らえて、ヴァッシュは右手に顔を向けた。格技棟から出てきた四人が、学校をぐるりと囲む塀に沿うように歩いていく。
 先頭に立つのは小柄なセーラー服のショートカット。後に続く三人の男は皆大柄で、上下とも白い服を着ている。
『メリル! と、あれは…柔道部か?』
 四人は古いクラブハウスの陰に消えた。柔道部は部員が多くて成績もよく、部室は格技棟の中にある。
 理由は判らない。でも――胸騒ぎがする。
 ヴァッシュは立ち上がると、四人とは逆のほうから古いクラブハウスを目指して走り出した。
 休憩時間になるのを待って、メリルは柔道部員でモネヴという名の二年生に声をかけた。
「あの…お忙しいところ申し訳ありません。私、野球部マネージャーのメリル・ストライフと申します」
 振り返ったモネヴが、メリルの全身に遠慮なく視線を走らせる。不快感を押し殺し、メリルは続けた。
「実はお話ししたいことがありますの。よろしかったら、少々お時間をいただけないでしょうか」
「…何の用だ?」
「野球部のことで」
「…いいぜ。じゃ、あんたらの部室に行こうか」
 傍にいた一年生部員二人に目配せして、モネヴは腰を上げた。二人がそれに続く。
 メリルは内心戸惑った。話をしたかったのはモネヴ一人だけなのに、何故二人もついて来るのか。しかしここで下手に質問して相手の機嫌を損ねるのはまずい。
『本当にこの人でよかったのかしら』
 モネヴの目を見た時、自分の判断に自信が持てなくなった。…でも、自分の頭が胸に届かないほどの身長と、服の上からでも判るしっかりした筋肉の持ち主なら…。
『野球部の為ですわ。メリル、ファイトーッ!』
 天気など差し障りのない話をした後メリルは質問した。
「先輩はどうして柔道部に入部されたんですか?」
「柔道が大好きだからさ」
 ふざけているような口調でそう言われても信憑性はまるでない。
「…そうでしょうか。…私には、先輩が柔道に物足りなさを感じてらっしゃるように思えるのですが」
 昨日ずっと練習を見ていたが、指示をされれば動くものの自分から積極的に練習してはいなかった。やる気が全く感じられなかった。
「…だったらどうだっていうんだ」
 既にクラブハウスの横に来ていた。核心に近い話は部室で、と考えていたのだが、水を向けられてメリルは尋ねた。
「野球はお好きですか? 興味はありますか?」
 先頭を歩いていたメリルには、その時モネヴが凶悪な表情を浮かべたのが見えなかった。後輩達と素早く視線を交わし、二人が小さく肯いたのも。
「そうだなぁ…。今一番興味があるのは」
 モネヴは笑った。
「あんたかな」
 意外な答えに思わず振り返ったメリルを軽く突き飛ばす。バランスを崩しかけた彼女の左右に回り込んだ柔道部員が、メリルの肩と手首を掴んでクラブハウスの外壁に押しつけた。間髪入れず、モネヴの左手がメリルの口を塞いだ。
「あんたに興味がある」
 舐め回すように視線を往復させる。嫌悪感と恐怖に震えるメリルに嗜虐的な気分が高められる。
 モネヴは空いている右手でメリルの腿を撫で回した後、おもむろに胸へと手を伸ばした。感触を味わうかのようにゆっくりと蠢かせる。
 突然胸を鷲掴みにされて、メリルは身体をこわばらせた。見開いていた目をきつく閉じる。
「おい、部室の鍵を持ってる筈だ。探せ」
 モネヴはメリルの左手を押さえていた後輩に命じると、胸から手を離しメリルの手首を押さえ込んだ。スカートのポケットを探っていた一年がにやりと笑い、お目当てのものを取り出す。
「俺は巨乳のほうが好みなんだがな」
「野球部のマネージャーっていったら高嶺の花じゃないですか。…たまんねえなぁ」
「モネヴ先輩、俺達にもヤラせてくれるんですよね?」
「ああ。三人にヤラれました、なんて言えねえだろうからな。ばれる心配はねえさ。たっぷり楽し」
 下卑た会話は、腹に響く大きな音で遮られた。



 三人は驚いて音のしたほうへ目を向けた。試験休み期間に部活をするのは、試合が近いか毎日の練習を欠かさない一部の部だけだ。古いクラブハウスを使っている部が熱心に活動する訳がない。ここには誰もいない筈だった。
 雪が降っているかのように木の葉が舞い散る中、金髪を逆立てた男が左の拳を樹の幹に当て佇んでいた。
「誰だてめぇは!!」
「モ、モネヴ先輩、野球部のピッチャーですよ! 『人間台風』とか呼ばれて」
 ヴァッシュの眼光に柔道部員の舌は凍りついた。キーホルダーのついた鍵がコンクリートのたたきに落ちて、その場に不似合いな軽やかな音を立てた。
 左腕をおろしたヴァッシュが一歩進んだ。メリルを押さえつけていた手が離れたが、メリルは動けなかった。
「何を…している…」
 低い、怒りを湛えた声。三人の背中を冷たいものが走った。
「…お、お話ししてたのさ! 『野球に興味はありますか』って訊かれてな。大方野球部に勧誘したかったんだろうよ!」
 先輩としてのメンツからか、モネヴが声を張り上げた。笑ってみせたが口元が引きつっている。虚勢であることは一目瞭然だ。
『メリル…君も探してたのか』
 野球に向いていそうな奴を。
 ヴァッシュは炎天下での長時間の試合に耐えられる持久力の持ち主を校庭で探し、メリルはヴァッシュの豪速球を受けられる体格の持ち主を格技棟で探していたのだ。
 ヴァッシュは四人の間に入ると、メリルを背中に庇うように立った。
「…なら、入部テストを受けてみるか?」
「テ、テストだと!?」
「俺の球を受ける。それだけだ」
 不敵なヴァッシュの表情を蔑みと取ったのか、モネヴの顔は真っ赤になった。
「よし、やってやろうじゃないか!!」
 ヴァッシュは部室の鍵を拾うと、それを未だ震えているメリルに差し出した。
「俺のグラブと予備のキャッチャーミット、それとボールを取ってくれないか」
 微笑みを浮かべ、できるだけ優しい声で言う。メリルは小さく肯くと、鍵を手にようやく動き出した。何故かヴァッシュはその後を追い、部室の前でメリルを待った。
ドア越しにグラブなどを受け取る。ヴァッシュは礼を言い、小声で続けた。
「鍵をかけるんだ」
 返事を待たず、部室にメリルを残したままドアを閉める。施錠する小さな音を確認してから、ヴァッシュはモネヴ達に向き直った。首を動かし、校庭に移動するよう促す。
 クラブハウスの前でモネヴにキャッチャーミットを渡すと、ヴァッシュはグラブを左手にはめながら移動した。マウンドからホームベースまでの距離に相当する分だけ離れたところで足を止める。ミットをはめたモネヴがしゃがみ込み、ゆっくりと構えた。
 メリルが部室の窓から心配そうに見守る中、ヴァッシュはセットポジションに入った。
 第一球。地区予選でも見たことがない豪速球が見事キャッチャーミットにおさまった。モネヴが後ろに立っていた後輩もろともひっくり返る。
「ストライクワン」
 静かな声がカウントを告げた。
「三球三振として、スリーアウトチェンジまであと八球。…構えろ」
「…ディ…ディアブロ…」
 モネヴは小さく呟いた。今起きたことが信じられない。悪い夢でも見ているような気分だった。
「うわあああああああっ!!」
 三人はわめきながら一目散に逃げ出した。



++++++++




 その場に残されたキャッチャーミットとボールを拾うと、ヴァッシュは野球部の部室に目を向けた。
 メリルの姿はなかった。
『!?』
 慌てて窓に駆け寄る。メリルが窓枠の下に掴まって座り込んでいた。
 ヴァッシュは軽く窓ガラスを叩いた。その音にメリルが顔を上げる。顔色が悪く、ひどく消耗している様子だ。
「ここを開けて」
 ヴァッシュの声に、メリルは力の入らない足を心の中で叱責してどうにか立ち上がり、窓の鍵を開けた。が、すぐにまた座り込んでしまう。
 ヴァッシュは窓からむっとする部室に入った。グラブなどを机に置き、震えているメリルのそばに片膝をつく。
「大丈夫? 気分が悪くなったの?」
 労るように右手をそっと肩に置く。その刹那メリルの身体が硬直して、ヴァッシュは電流に触れたかのように手を引っ込めた。
「…ごめん…恐いものを見せちゃって…」
 自分がどうなるか判らないから、ずっと本気で怒らないようにしてたのに。
「僕は…僕は、キミを傷つけたりしないから…絶対しないから…」
 メリルの震えは止まらない。ヴァッシュは目を伏せるといったんメリルから離れた。窓を施錠し、グラブなどを片づけて机に置いてあった鍵を手に取る。ドアを開け電気を消すと、ヴァッシュは再びメリルに近づいた。
「…しばらくの間我慢してね」
メリルを抱き上げる。華奢な体が竦むのを感じた。――胸が痛い。
「すぐだから」
 もう一度メリルに声をかけると、ヴァッシュはそのまま足早に歩き出した。
 昇降口に二人分の靴を残し、ヴァッシュは靴下のまま廊下を歩いた。
 保健室のドアをノックする。返事はあったがヴァッシュは待った。
 ドアが開いてレムが顔を出した。
「ヴァッシュ、どう」
 言いかけて、レムはメリルに気づき目を丸くした。
 ヴァッシュは保健室に入ると、手近な椅子にメリルを座らせた。
「レム…彼女を頼むね」
 弱々しい微笑みを浮かべてそれだけ言うと、ヴァッシュは保健室から出ていった。
重大なことが起きたのは判るが、それが何なのか判らない。レムは自分の椅子を持ってメリルに歩み寄った。
 彼女のすぐ前にそれを置き、腰掛ける。
 顔色が悪い。表情は俯いていてよく見えないが、口元がこわばっている。両手首に刻まれた指の跡。特に左手が酷い。
「…まず手当てをしましょう」
 レムはメリルの手首に湿布を貼り、包帯を巻いた。その間もメリルはずっと震えていた。
「野球部の部室でボールを踏み転倒しそうになる。咄嗟に両手をついたが両手首捻挫。そういうことにしておくわ。
…まさかと思うけど、ヴァッシュがやったの?」
「違います!!」
 メリルがはじかれたように顔を上げた。
「ちょっと訊きにくいけど、大事なことだから訊くわ。…最後までされた?」
 メリルはきつく目を閉じ、激しくかぶりを振った。
 レムは柔らかく微笑みながら肯くと、メリルの手を取って昨日ヴァッシュが横になったベッドへ連れていった。
「帰り、遅くなっても大丈夫? …そう。じゃ、仕事が終わったら車で送るから、それまでそこで休んでなさい」
 固辞するメリルの肩を乱暴にならないように押さえつけ、上掛けをかける。
「そんな顔色の生徒を一人で帰らせる訳にはいかないわ。教師の指示には従うものよ。…目を閉じて、ゆっくり呼吸 する。今はそれだけでいいから」
 安心させるように微笑みかける。ようやくメリルは小さく肯き、静かに目を閉じた。軽い音を立てて仕切りのカーテンが引かれた。
 どのくらい経ってからかは判らないが、かすかなノックの音が聞こえた。

ⅩⅠ
 西の空が茜色に染まっている。さすがに少し涼しくなってきた。
 メリルはレムの車の助手席にいた。
「ちょっと失礼」
 レムはダッシュボードから小さな箱を取り出すと蓋を開けた。そこにあったダイヤのリングを左手薬指にはめる。
「セイブレム先生…」
「私、婚約者がいるの。皆には内緒よ」
 レムは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
『似てる…』
 あの人に。今の表情も、さっきの微笑みも。そして思い出した。二人ともお互いを呼び捨てにしていたことを。
 似たもの夫婦、という単語が脳裏をよぎる。
『夫婦はどちらからともなく似てくるといいますけど、結婚前でもそうなのかしら…』
 車が動き出してから、しばらく沈黙の時間が続いた。
「あ、そうそう」
 信号待ちの時、レムは鞄から缶ジュースを取り出した。
「預かった時は冷たかったんだけど…ごめんなさい、ぬるくなっちゃったわね」
 手渡されたそれに視線を落とす。いつも自分が好んで飲むアイスミルクティー。
「部員探しは俺がやる。キミは終業式まで学校に来るな。それから、恐い思いをさせてごめん。本当に本当にごめん。…贈り主からのメッセージよ」
「そんな…あれは私が勝手にしたことで、ヴァッシュさんに責任はありませんわ!!」
「…何があったのか、差し支えなかったら話して貰えないかしら?」
 メリルは言葉少なに語った。三年で引退してしまったキャッチャーの代わりの人を探していたこと。ある人に声をかけたが、セクハラまがいのことをされそうになったこと。ヴァッシュが助けてくれたこと。
「…ですから、あの人が私に謝る理由なんて…何も…」
 缶を握り締めながらメリルは俯いた。部室で見た辛そうな顔が目に浮かぶ。
「…私…迷惑をかけたのに…助けて貰ったのに…あの人にお詫びも…お礼も…」
 語尾が震え、掠れて消えた。
「…たぶん勘違いしてるのよ。男の子には、痴漢に遭った女の子がどんなにショックを受けるか、なんて理解できないでしょう? あなたが震えてた理由を、本気で怒った自分を見たあなたが、自分に脅えてるからだと思ったんだわ。
 前にも一度そんなことがあったから。あれはあの子が小学」
「いえ…言わないで下さい」
「どうして? 知りたくないの?」
「…知りたいです。でも、あの人が話さないあの人自身のことを、他の人から聞きたくないんです。話さないのは 話したくない理由があるからでしょうし…」
 レムは僅かに眉を上げた。この子、ほんとにいい子じゃない…。
「…でも、一つだけ教えて下さい。…どうしてセイブレム先生はヴァッシュさんのこと、そんなにお詳しいんですか?」
「ヴァッシュは私の従兄弟なの。私の母とあの子の母親が姉妹でね。あの子のことは生まれた時から知ってるわ」
「従兄弟…」
 呟くようにくり返す。でも、心に芽吹いた疑問は消えなかった。従兄弟なら結婚できるのだから。
「あなたの質問に答えたんだから、私にも質問させてちょうだい。…あなた、本気で怒ったヴァッシュのこと、恐いと思わなかった?」
「…思いました。表情も目つきも話し方も声もいつもと全然違っていて、私が知ってるヴァッシュさんじゃなくて。怒りの炎が目に見えるようでした。…でも…」
 続いた言葉に、レムは嬉しそうににっこり笑った。







++++++++






ⅩⅡ

「ただいま」
「ああレム、お帰りなさい。帰って早々悪いんだけどヴァッシュに電話してちょうだい。もう、何度かかって来たか判らないわ」
 嘆息する母親はげんなりといった表情だ。
 レムは玄関に鞄を置くと、早速受話器を取り上げた。一回目のコールが鳴るか鳴らないかで応答がある。
『はいっ、スタンピードですっ!』
「…ヴァッシュ…耳元で怒鳴らないで…」
『レム!! 何で携帯の電源切っとくのさ! ずっと電話してたのに!』
「仕事中に出られる訳ないでしょう。それより五分おきにうちに電話するのやめてよ。お母さん困ってたわ」
『五分おきじゃない、十分おきだ!』
「大差ないわよ」
 レムはため息をついた。開けっぴろげに見えて実は人を深く寄せつけないヴァッシュが、どうしてあのマネージャーにだけはこんなにも過剰反応するのか。
『で…その…メリルは?』
「少しドライブしてから家まで送ったわ。だいぶ落ち着いたみたい。『お詫びもお礼も言ってない』って、ずいぶん気にしてたわ」
『そんな! 謝んなきゃならないのは俺のほうなのに! 恐いもの見せちゃって…』
「そう思うんなら、今度会った時に謝るのね」
『…話…聞いてくれるかな…』
 近づくだけで、顔を見るだけで、逃げ出しちゃうんじゃないかな…。
 こんな不安そうな従兄弟の声を聞くのは何年ぶりだろう。レムは目を閉じると、声を出さずに少し笑った。
「さあ、そこまで責任持てないわ。俺の代わりに家まで送り届けて欲しい、これを渡して欲しい、それと伝言も…」
 わざとヴァッシュの口調を真似て言う。
「頼まれたことは全部やったもの」
『レムのいじわる…』
「泣き言言う暇があるなら、どうすれば自分の気持ちをきちんと伝えられるか考えるのね。顔を合わせる時は必ず来るんだから」
『うん…』
「大丈夫、きっとうまくいくわよ」
『どうしてそう思うの?』
 車内で聞いた話をしようか…レムは少し考えて、やめた。メリルは言っていた。他の人から聞きたくない、と。
「女の勘よ」
『あてになるの? ソレ』
 レムは受話器を本体に叩きつけるように置いた。かなり派手な音がしたから、電話の向こうではヴァッシュが耳を押さえていることだろう。
 何の気なしに受話器の上の左手に視線を落とす。薬指に輝く指輪を見て、レムはふと思った。
『あの子にも、たった一人の特別大切な存在ができたってことなのかしら』
 本人は全く自覚してないような気がするけど。
「レム、電話終わったの? …あら、何かいいことあった?」
「ちょっとね」

エピローグ

 終業式。生徒達には成績表と大量の宿題が贈られた。長い休みは嬉しいが、喜びも半減といったところだ。
「はぁ…」
 教室の自分の机に突っ伏してヴァッシュは吐息した。
 ヴァッシュとモネヴ達のことが噂になったのだろう。登校早々ヴァッシュは担任と学年主任の呼び出しを受け、何があったのか問いただされた。
「マネージャーが引退した部員の代わりの人材を探してくれてたんです。モネヴ先輩も乗り気だったんですが、体格と運動神経がよくても、だから野球に向いているという訳ではなくて…」
 嘘は言ってない。隠し事はしているが。ヴァッシュは事情を説明し、最後ににっこり笑って言った。
「残念ですけど、モネヴ先輩には柔道で頑張って欲しいです」
 その話が本人に伝わり、モネヴは真面目に練習するようになった。もともと才能はあったのだろう、翌年全国大会で準優勝するほど実力を伸ばした。
 三年生部員が引退し、野球部員は二年生四人と一年生一人の計五人になった。試合に出るどころの話ではなく、部そのものの存続さえ危ぶまれている。ヴァッシュは何人かに声をかけてみたが、皆今の部活にやりがいを感じているらしく、勧誘は全て失敗に終わった。
「はぁ…」
 メリルとは朝挨拶したし会話もした。しかしヴァッシュはメリルの顔をまともに見られなかったし、腕を伸ばせば彼女に触れられる位置に立てなかった。
 きちんと謝りたい。でも恐い思いはさせたくない。
 こういうのを、板挟みって言うのかな。
「はぁ…」
 もはや何回目か判らないため息をつく。
「こんなところで何をしてるんですの?」
「うひゃおうえいおあっ!」
 突然声をかけられ、ヴァッシュは謎の叫び声を上げつつ立ち上がった。いつの間にか誰もいなくなった教室の出入口に、Tシャツにジャージ姿のメリルが立っていた。
「…発声練習のような悲鳴ですわね」
 怪訝そうな表情を浮かべながら、メリルはヴァッシュに歩み寄った。
「いつもは一番にやってくるあなたがどうして…具合でも悪いんですの?」
「ううん…何でもないよ」
 顔をそらせて曖昧に答える。自分にまっすぐ向けられる視線が辛い。
「皆さんもうキャッチボールを始めてますわ。あなたも早く来て下さい」
 軽く肩を叩かれる。――自分の肩を叩ける位置に彼女が立っている。
 そのまま踵を返したメリルを、ヴァッシュは思わず呼び止めた。
「キミは…僕が恐くないの?」
 思いつめたような表情のヴァッシュに、メリルは優しく微笑みかけた。
「…あの時…恐くなかった、と言えば…嘘になりますわ」
 ヴァッシュの顔が今にも泣き出しそうに歪んだのを見て、メリルは慌てて言葉を続けた。
「今まであなたが怒るところなんて見たことがありませんでしたから。…でも、あなたが殴ったのは先輩達ではなく樹の幹でしたわ。わざとボールを当てることだってできた筈ですのにそうしなかった。…あなたは、怒りに任せて暴力を振るうような人ではありませんわ。それに…」
 メリルは顔を伏せた。
「あなたは…自分じゃなく他人の為に怒ったり泣いたりする人ですもの。…そんな人を恐がる理由がありまして?」
 顔を上げてにっこり笑う。視線の先の顔が泣き笑いのような表情に変わった。
「…あの時は動揺してしまって、お詫びもお礼も言えなくて…遅くなってしまいましたけど、迷惑をかけて本当にごめんなさい。助けて下さってありがとうございました」
「そんなこと! …僕はてっきりキミが僕を恐がってるんだと思って、その…前にもあったから」
「セイブレム先生もそのようなことをおっしゃってましたわ」
「話…聞いた?」
「いいえ、何があったかは何も」
 ヴァッシュは密かに胸をなで下ろした。
「…ヴァッシュさんとセイブレム先生は従兄弟なんですってね」
「あ、それは聞いたんだ。学校にいる時は先生・生徒で通してるけど、他に誰もいない時はついいつもどおり 話しちゃったりするけどね。いきなり呼び捨てにしたから驚いたでしょ」
「…どうしてセイブレム先生は婚約指輪をいつもなさらないのかしら…」
 本当はちゃんと訊きたいのに何故かできない。回りくどい言い方をする自分に自己嫌悪を感じつつ、メリルは小さく呟いた。
「仕事中だからだよ。養護教諭って薬品とかしょっちゅう扱うから、指輪が邪魔になるのと大切にしたいからだって」
「大切に…?」
「仕事も婚約者も両方。指輪を気にして仕事をおろそかにしたくないし、仕事中に万一にも婚約指輪を傷つけたくないって」
 ヴァッシュはそこで嬉しそうに破顔した。
「アレックスもレムの気持ちを理解してるから。『どうして婚約指輪を外すんだ、僕を愛していないのか』なんて言う人じゃないし。僕から見てもお似合いだと思うよ、あの二人。…あ、アレックスっていうのはレムの婚約者の名前」
 一緒に食事をしたことがあるんだ。ずいぶんのろけられちゃって…。ヴァッシュの言葉をメリルは半ば聞き流した。
 胸のわだかまりが溶けた――そんな気がした。
 突然チャイムが鳴り、二人は同時に時計を見た。
「いけない、もうこんな時間! ヴァッシュさん、早く」
 言いかけて、メリルはいつになく真摯な表情のヴァッシュに見つめられ、その場に立ち尽くした。
「…この先も、いろいろと苦労をかけちゃうと思うけど」
 いったん言葉を切り、大きく息を吸う。
「これからも、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げる。
「…こちらこそ、よろしくお願いします」
 メリルも深く頭を下げた。
 どちらからともなく顔を上げ、気恥ずかしさに苦笑する。
「さ、行きましょう」
「うん」
 並んで廊下を足早に歩きながら、ヴァッシュはふと何故急にあらたまってあんな挨拶をしたのか疑問に思った。
 答えの手がかりを求めてそれまでの会話を思い起こす。
 不意にヴァッシュは耳まで赤くなった。
 メリルには話さなかったが、自分の言葉と彼女の返事は、アレックスのプロポーズの言葉とレムの返事そのままだったのだ。

―FIN―









vp1
trouble of the amusement park

プロローグ


トライガン学園野球部は、長年『弱小』というありがたくない形容詞を冠していた。
一昨年前までは。
昨年は地区予選の準々決勝で惜しくも敗退。しかし今年、激戦に次ぐ激戦を勝ち抜いて念願の甲子園初出場を決めたのである。
その原動力となったのは、『豪腕ピッチャー』の誉高きヴァッシュ・ザ・スタンピード。二年で副主将を務めている。
どんな苦しい試合でも笑顔とギャグを忘れない、チームのムードメーカーでもある。
もう一人。ヴァッシュのよき女房役で同じく二年、主将のニコラス・D・ウルフウッド。ヴァッシュが注目を集める分あまり目立たないのだが、絶妙の配球や要所要所での的を射たアドバイスなど、チームにとってなくてはならない存在だ。
昨年秋に転校してきた彼の入部によって野球部は劇的に変わった。何よりも、ヴァッシュの豪速球を受けられるキャッチャーができたことが大きかった。ウルフウッドが入部するまで、ヴァッシュはずっと全力を出せなかったのだ。
そして、野球部を影で支え続けたマネージャー、メリル・ストライフ。ユニフォームの洗濯やこまごまとした雑用は勿論、部員の個人別練習メニューを考えたりと活動範囲は広く、その活躍ぶりは参謀と呼ぶのに相応しいほど。
二年になった今年は生徒会の副会長を務めるようになり、掛け持ちで忙しい毎日を送っている。生徒会長のキール・バルドウが職務にかこつけて近づいてくるのだが、角が立たないよううまくあしらっていた。時にはヴァッシュ
やウルフウッドがそれとなく壁の役割を果たしたりもした。
多忙なメリルを助ける新人マネージャーがミリィとジェシカの二人。どちらも今年入学してきた一年生で、ミリィはメリルの中学時代からの後輩である。ジェシカはもともとヴァッシュの幼なじみで同じ保育園に通っていた。彼の一家が引っ越した後は音信不通となっていたのだが、高校で十年ぶりに再会したのである。
忘れてはいけない、一年ながらレギュラー入りを果たしたブラド。長身のヴァッシュやウルフウッドをも超える恵まれた体躯の持ち主で、ポジションはセンター。彼もヴァッシュとは幼なじみで、ジェシカとの付き合いは長い。
本人の希望に反して近所付き合いが、だが。
一時は廃部かと危ぶまれた野球部も、今は部員三十四名マネージャー三名を擁する大所帯になった。四月には部員は六十名を超えていたのだが、マネージャー目当てに入部した者やきつい練習についていけない者は次々と退部していった。
「甲子園か…」
放課後、一人を除いてクラスメイトのいなくなった教室の窓からぼんやりと空を眺めながらヴァッシュは呟いた。
野球をやる者なら甲子園出場はいわば悲願だ。その夢をついに今年叶えることができたのだ。
「なんや、出場できるだけで満足しとるんやないやろな。出るからには優勝! 二位以下なんざ興味あらへんわ」
「強気だねぇ…」
拳を固めて力説するウルフウッドに、ヴァッシュは苦笑を禁じ得ない。
だが、ウルフウッドは必ず自分の発言に責任を持つ。主将として部員に檄を飛ばす時でも、まず自分が率先して動く。あまりの厳しさに反発する新入部員も中にはいるが、彼らからも信頼はされている。
「ところで話は変わるんやけどな、ちと相談したいことがあんねん」
先刻までの熱血野球馬鹿はどこへやら、ウルフウッドは含みのある笑みを浮かべるとヴァッシュに顔を近づけた。
「…何?」
嫌な予感を感じつつ、ヴァッシュは儀礼的に問い返す。
「今度の日曜、練習休みやんか」
甲子園出場を果たしたご褒美に、一日だけ練習が完全オフになったのだ。もっとも、月曜日から更なる地獄のメニューが待ち構えているのだが。
「それがどうかした?」
「ワイらとマネージャーとでデートせえへん?」
「!? だって、マネージャー誘ったら二対三になっちゃうよ」
大声を上げたヴァッシュにジェスチャーで『静かに』と指示した後、ウルフウッドはわかっていないと言いたげにかぶりを振った。
「ちゃうちゃう、誘うんはおっきいマネージャーと小っさいマネージャーや」
前者はミリィ、後者はメリルのことである。
何故かウルフウッドはマネージャーを名前で呼ばない。ちなみにジェシカのことは『おさげのマネージャー』と呼んでいる。
「…それはいいけど…誘っても来るかな?」
ミリィはともかく、メリルには速攻で断られそうな気がする。
「大丈夫や。ワイに考えがあるさかい」
「でもねぇ…」
「のらへんのやったらええで。ワイ一人で両手に花で…いや、小っさいマネージャーにゾッコンの生徒会長でも誘って」
立ち去りかけた自分の腕を鷲掴みにした副主将を、ウルフウッドは会心の笑みを浮かべて見やった。
「…決まりやな」




「本日は終了! !」
「お疲れ様でしたー! !」
ウルフウッドの声に全員で答える。練習を締めくくるいつもの習慣だ。
「あ、マネージャー…」
部員が次々と部室に向かう中、ヴァッシュはベンチで片づけものをしているメリルに声をかけた。
「はい?」
「ちょっと打ち合わせしたいことがあるんだ。後で部室に来てくれないかな?」
「判りました。皆さん着替えてらっしゃるでしょうから、三十分くらいしてから行きますわ」
「ごめんね。もう遅いのに」
空はすっかり暗くなっている。
「いいえ、構いませんわ。それよりヴァッシュさんも早く着替えて下さい。肩を冷やさないように」
「うん。じゃ後で」
部室の前でメリルはミリィと鉢合わせた。
「先輩!」
「ミリィ、あなたもですの?」
「はい、ウルフウッド先輩に呼ばれました!」
メリルは辺りを見回した。マネージャーに相談したいことがあるなら、ここにいるべきはずのジェシカの姿はない。
訝しく思いつつドアをノックする。メリルとミリィです、と言うとすぐに答えが返ってきた。
「入ってきいや」
「失礼します」
ドアを開けて一歩踏み出す。その途端、メリルの足は止まってしまった。後ろから来た後輩がぶつかり、華奢な身体がよろける。
「す、すみません先輩! …どうしたんですかぁ?」
「あ、あ、あなた方は一体何をしてるんですの!?」
メリルが声を荒げたのも無理はない。部室にいた主将と副主将はトランプで遊んでいたのだから。
「ポーカーや、ポーカー」
「キミ達も混ざんない?」
「わあい、やりますやります!」
メリルが説教を始める前に、ミリィが嬉々として加わってしまった。メリルは眉間に指を当てるとため息をついた。
「せや、どうせやったら賭けせえへん?」
「ウルフウッドさん!?」
柳眉を逆立てたメリルを意に介さず、ウルフウッドは豪快に笑う。
「その方が盛り上がるやんか。賭ける、ゆうても金やのうて、例えばやって欲しいこととか…」
「いいねぇそれ。じゃ僕達男性チームとキミ達女性チームで」
「一騎打ちの対戦や」
「それって、何かご馳走してもらうっていうのでもいいんですか!?」
「勿論」
目を輝かせて質問したミリィに、ヴァッシュはいつもの優しい笑顔で答えた。
「先輩、やりましょう!」
やる気満々の表情で両手をしっかり握られる。
部室でポーカー、しかも賭けまで…メリルは再び深々とため息をついた。
「…一回だけですわよ」

そして日曜日。午前九時。
とある遊園地の前で四人は落ち合った。
「今日は遅刻せえへんかったな、おっきいマネージャー」
「あた、痛いところ突かれちゃいました」
額に手をやり顔を顰めたミリィの姿に、誰からともなく笑みが洩れる。
ポーカーの賭けの商品は次のとおりだった。
『今年は夏休みの宿題は全部自分でやる』
『駅前に新しくできた喫茶店でプリンアラモードをご馳走してもらう』
『四人で遊園地に遊びに行く』
『その時おっきいマネージャーと小っさいマネージャーは生足でサンダル履きのこと』
誰がどれを言ったか、説明の必要はないだろう。
ヴァッシュとメリル、ウルフウッドとミリィが対戦したのだが、その結果は…男性陣の二連勝。
『じゃ、日曜九時に入り口のところで』
『生足やで!』
駅で別れた時に念を押され、メリルの疑念は確信に変わった。
「カードを配ったのがあの二人だったことを、もっと早く思い出すべきでしたわ…」
イカサマは立証できなければイカサマではない。二人はグルで、自分とミリィはまんまとはめられたのだ。――
メリルはオフホワイトのブラウスに紺地に白い小花を散らしたフレアスカートを着、ややヒールの高い華奢な作りのサンダルを履いていた。第一ボタンを外した襟元で、時折アクアマリンの小さなペンダントトップが輝く。揺れる裾からかわいらしく膝小僧が覗いていた。
対するミリィは、グリーンのタンクトップにベージュで七分丈のカプリパンツ、足元はコルクでできたごつい印象のサンダル。腕に時計と銀のブレスレットを重ねてつけている。
ちなみにヴァッシュは白のコットンシャツにブルージーンズ、ウルフウッドは黒のTシャツにブラックジーンズ、靴は二人ともスニーカーというラフな服装だ。
「そんな格好ありなんか…」
「約束どおり生足にサンダルですよ! それに上半身は露出度高めですし!」
喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、ウルフウッドは複雑そうな表情だ。
ミリィのような対処方法もあったのか…。メリルは内心後悔した。生足と言われて、ミニスカートをはくものと思い
込んでしまった自分の頭の固さに怒りがこみ上げてくる。
「その服…よく似合うよ」
不意に声をかけられ、メリルは声の主の方へ首を巡らせた。ヴァッシュは頬を染め、あらぬ方向を見ながら頬を掻いている。
「あ、ありがとうございます」
たまにははめられるのも悪くないかも知れませんわね。
小声で礼を言いながら、メリルは心の中で小さく呟いた。先刻までの怒りは雲散霧消していた。
「どれから乗りますか?」
「ワイ、ここ来んの初めてなんや」
「春に新しい絶叫マシーンができたんだよね」
他愛のない話をしながら、四人はチケット売り場へ向かった。



「ヴァ~ッシュウウウウウ~~! !」
いくつか乗り物に乗った後のことである。背後から名前を呼ばれたヴァッシュは、続けて背中に受けた衝撃に思わず前のめりに倒れそうになった。かろうじて転倒するのを堪え、おそるおそる振り返る。抱きついてきた相手が誰なのか、声で判ってはいるのだが。
「ジェシカ…」
「ヴァッシュったらひどおい。せっかくのお休みだから二人で出かけようって思って電話したのに、おばさんに『遊園地に行きましたよ』って言われてすっごいショックだったんだから!」
「…で、追っかけてきたわけ?」
「当然でしょ!」
胸を張るジェシカの姿に、思わず小さなため息が洩れる。
幼なじみとか高校の先輩後輩といった以上の好意を、彼女が持ってくれているのは判っている。
『でも俺は…』
ふと突き刺さるような視線を感じて、ヴァッシュは顔を上げた。恨みがましい表情で自分を睨んでいるブラドと目が合う。
ブラドのジェシカに対する気持ちも知っている。気づいていないのはジェシカだけだろう。
「あ、あははははは…」
もう乾いた笑いしか出ない。
ウルフウッドが苦虫を噛み潰したような表情で口を開いた。
「…トンガリとは幼なじみかも知れへんけど、一応先輩後輩なんやで。先輩呼び捨てにするんはどういう了見」
「ここは学校じゃありませ~ん」
口答えの上にべーっと舌まで出されて、ウルフウッドの拳はわなわなと震えた。
「ウルフウッド先輩、ここはひとつトンビに」
「それを言うなら穏便に、ですわよ、ミリィ」
嘆息した後、メリルはジェシカ達のほうに向き直った。
「折角ですからご一緒しませんこと? 大勢のほうが賑やかで楽しいですし」
「いいんですか!?」
何か言いたげなヴァッシュを目で制して、メリルは続けた。
「でも、主将の言葉も一理ありますわ。運動部は割合上下関係にうるさいところですし…。今日のようなお休みの時はともかく、学校では『ヴァッシュ先輩』と呼ぶようにして下さい」
「…はぁい」
渋々ながらもジェシカは肯いた。
六人でコーヒーカップに乗ることになった。ヴァッシュ・ミリィ・ジェシカのグループと、ウルフウッド・メリル・ブラドのグループに別れる。
「さっきはすまんかったな、小っさいマネージャー」
めちゃくちゃに回るヴァッシュ達とは対称的に至極ゆっくりと回るカップの中で、ウルフウッドは小声でメリルに詫びた。
「ほんとすいません、メリル先輩。俺が言ってもきかなくて…」
「いえ…。つまらない理由であの子がつまはじきにされてしまうのは可哀相ですし…」
トライガン学園を甲子園に導いた立役者ともいうべきヴァッシュは、いわば学園のヒーローとなっていた。そんな彼を、後輩でありながら呼び捨てにし、やたら親しげに振る舞うジェシカへの反感が校内に広がっていた。
今日に限らずウルフウッドは何度も注意したし、ブラドもそれとなく言うのだが、ジェシカは聞く耳を持たない。
担任や顧問が話しても言動は直らなかった。何故か生徒会にまで匿名で苦情が来て、副会長としても放ってはおけなかったのだ。
「あ~れ~~、たあすけてぇ~~~…」
「…校内だけでも先輩後輩のけじめを見せれば、少しは変わってくると思いますわ」
聞こえてきたヴァッシュの悲鳴に苦笑しながら、メリルはため息交じりに呟いた。
「コーヒーカップって…過激な乗り物だったんだ…僕はもう乗んないぞ…」
ベンチに腰掛け背もたれに寄りかかったヴァッシュはぐったりした表情で呻いた。顔色が青白くなっている。
「んもうヴァッシュったらぁ、あれくらいで情けないんだから!」
「……」
乗る前と何ら変わらないジェシカにこき下ろされても、反論する気力さえない。
ぐるぐる回していたのはミリィとジェシカ。乗り合わせたヴァッシュは貧乏クジを引いたようなものだ。
「一緒に乗った相手が悪かったな、トンガリ」
「…あれ、先輩は?」
こちらも元気なミリィが辺りを見回して首をかしげた。そう言えばメリルの姿がない。
「あそこだ」
ブラドの声に四人は一斉に同じ方向へ目を向けた。メリルが息を弾ませて走ってくる。
「せんぱ~い、迷子になっちゃったかと思いましたよぉ」
「ごめんなさい、勝手に離れて」
メリルは手にしていたものをヴァッシュに渡した。濡らしたハンカチと、缶ジュースが二本。
「レモンスカッシュとグレープフルーツジュースですわ」
「…ありがと」
彼女の思いやりに何とか答えたい。ヴァッシュはそれだけ言うと、気力と根性で微笑んだ。

     







++++++++++





trouble of the amusement park



しばらく休んでヴァッシュの回復を待った。五人で遊んできて、とヴァッシュは言ったが、そういう訳にもいかない。
観覧車などおとなしめの乗り物に乗った後、園内のレストランで昼食を摂ることにした。
注文したエビピラフが届くと、ウルフウッドは鞄からタバスコを取り出した。たっぷりとふりかけ、まんべんなく混ぜる。
「旨いで」
見た目にも辛そうな真っ赤なピラフをウルフウッドは平然と食べている。
「噂にゃ聞いてたけど…本当に辛党なんですね…」
ブラドが思わず呟いた。ミリィとジェシカも信じられないといった表情で呆然としている。
「こいつ、学食でもうどんのつゆが真っ赤になるくらい七味唐辛子入れるから」
ヴァッシュは笑いながら補足した。最初は驚いたがもう慣れてしまった。
「去年の冬合宿の時は苦労しましたわ。顧問の先生と私を入れても十二人でしたけど、献立が…」
「ウルフウッドだけスペシャルメニューだったよね」
その言葉に、顔を曇らせたメリルがため息をつく。
「味見ができませんでしたわ」
「僕も一口貰ったけど、辛いを通り越して舌が痛かったよ。その後自分のご飯食べても味なんて判んなかった」
「甲子園出場のお陰で、夏合宿は去年よりも短期間になるでしょうけど…今年はどうしましょう…」
今から先が思いやられる。メリルは再びため息をついた。
「先輩、鍋とか焼き肉はどうですか? タレだけ特別製にすれば手間はかかりませんよ!」
「真夏に鍋はちょっと…でも焼き肉はいいアイディアですわね」
メリルに誉められミリィは破顔した。
「一応マネージャーの宿題ということにしておきましょう。ミリィ、ジェシカさん、お願いできます?」
「はい」
去年のスペシャルメニューを後輩に説明するメリルに、ヴァッシュは優しい視線を向けた。
「何見とれとんねん」
「いやあ、わがままな主将のお陰でマネージャーは苦労して大変だなぁって思ってたトコ」
「さっきコーヒーカップで気持ち悪なって、マネージャーに迷惑かけた奴に言われたないわ」
無言の睨み合いの後、二人はそっぽを向いた。
一部に険悪なムードを残しながらも食事は終わった。
「次どれ乗ります?」
ジェシカが広げた園内マップをミリィとブラドが覗き込む。メリルはヴァッシュにちらりと視線を走らせてから三人に提案した。
「食事をしたばかりですから、きつい乗り物は避けたほうがいいと思いますわ」
「そうですね」
「その前にちと頼まれてんか」
ウルフウッドは紙幣をジェシカに渡した。
「確か向こうのほうにアイスクリームのワゴンがあったんや。さっきのピラフ辛すぎてな、デザート代わりに甘いもん食いたいねん。みんなの分こうてきてくれるか?」
この時、ヴァッシュとメリルが僅かに眉を上げたことに一年生は気がつかなかった。
主将の使い走りをさせられるのは癪だが、アイスのおごりは魅力的だ。ジェシカは肯いて走り出した。
「ブラド、おどれも行け」
「え?」
「一人で六個は大変やろ。手伝ったり」
「はい、行ってきます!」
ブラドが嬉しそうに後を追う。二人の姿はすぐに人込みに消えた。
「さて、移動するか」
「…やっぱりそのつもりだったんだ。キミは甘いものは果物以外食べないもんね」
「四人で遊園地、がおどれの希望やったやろ?」
「ジェシカと二人きりになれたらブラドは喜ぶだろうけど…恨まれるよ、キミ」
「慰謝料のアイス六個、支払い済みや」
その後、四人に巻かれたと気づいたジェシカはアイスを全部やけ食いして腹痛を起こし、ブラドに付き添われて家に帰った。



しばらく絶叫系以外の乗り物に乗ったり、土産物屋を冷やかしたりした。メリルとミリィは遊園地のイメージキャラであるつぶらな瞳の黒猫がいたく気に入ったらしい。マグカップなどを手に取って楽しそうに見ている。
「かわいいなぁ…買っちゃおうかな…でもなぁ…」
黒猫のぬいぐるみを目の高さまで抱き上げ、ミリィはずっと悩んでいた。
「…そういうのが好きなんか?」
「はい。でも買っても姪っ子に取られちゃうかもって思うと、踏ん切りがつかなくて…」
ウルフウッドはミリィの手からぬいぐるみを取り上げると、すたすたとレジへと歩いていった。ミリィが慌ててその後を追いかける。
「ウ、ウルフウッド先輩?」
「今日の記念にプレゼントするわ。そのかわり、姪っ子に取られんようにしてくれ」
「…ありがとうございます!」
そんな二人を横目で見ながら、ヴァッシュは傍らのメリルに話しかけた。
「キミはぬいぐるみとか買わないの?」
「ええ。部屋には人形の類は置かないことにしてますの」
「そう…」
ヴァッシュの顔が僅かに曇った。
結局、買い物をしたのはウルフウッドだけだった。
「あれ、何かあるのかな?」
店を出た四人の横を、子供達が歓声を上げながら走り抜けていく。それを見送りながらヴァッシュは誰に言うともなく呟いた。
「えと…向こうのイベント広場でアトラクションがあるみたいです」
「アトラクション?」
ミリィは子供達に絶大な人気を誇っている特撮番組のタイトルを挙げた。
この遊園地では、土日と祝日はその番組のアトラクションをやっていた。
「ふーん、そんなのがあるんだ」
ヴァッシュもウルフウッドも毎日練習に明け暮れていてテレビを見る暇なんてない。何かと忙しいメリルも同様だ。
「詳しいんやな、おっきいマネージャー」
「甥っ子と姪っ子がたくさんいますから。自然と詳しくなっちゃうんですよぉ」
「きゃあっ!」
不意にメリルの悲鳴が聞こえ、ヴァッシュは首を巡らせた。隣にいた筈の彼女の姿がない。慌てて周囲を見回す
と、全身黒ずくめの人物がマントを翻しつつメリルを引っ張って走っていくのが見えた。
「何や、あれ…」
奇抜としか表現できない服装にウルフウッドがぼそりと呟く。
「ブラックキングです!」
「…あ?」
「さっき話した番組って、地球を支配しようとしている悪の組織があって、それと戦う正義のヒーローがいるんです。
あれは悪の組織の親玉なんですよ!」
「ほならこれもアトラクションの一部なんか」
「…でも…イベント広場って…向こうだろ?」
ヴァッシュが指差したのはメリルが連れ去られた方向とは全く違う。
「…まさか…先輩!?」
三人は慌てて後を追った。
走りながら、ヴァッシュは遊園地のスタッフの動きが慌ただしいことに気づいた。耳をそばだて、会話の断片を
拾う。役者。衣装。ブラックキング。気絶。――ブラックキング役の役者が気絶させられ衣装が盗まれた、といったところか。
『やっぱりアトラクションなんかじゃない…メリル!』



「ちょっとっ、一体何なんですの!?」
転ばないために訳も判らず走りながら、メリルは声を荒げた。が、黒ずくめの人物は高笑いをするだけで立ち止まろうとしない。顔がマスクで覆われているため、その笑い声もひどくくぐもって聞こえた。
『でも、私はこの声を知っている…誰?』
客の大半はアトラクションが行なわれることを知っているのだろう。二人の進行方向にいる人はすぐに道を譲って
くれる。
「あっ、ゆうかいだ!」
「ブラックキングがお姉ちゃんをさらってく!」
「ゴールドナイト、早くきてー!」
子供達の声が聞こえて、メリルにも何かのイベントの一環だという見当はついた。しかし何故自分なのか。子供向けのイベントなら、人質役も子供のほうがいいだろう。
「メリル! !」
背後から聞こえたヴァッシュの声に、ブラックキングははじかれたように足を止めた。
「ヴァッシュめ、また僕の邪魔をするのか」
「! !」
小さな独り言をメリルは聞き逃さなかった。
ブラックキングは左腕でメリルを抱きすくめ、奇妙なデザインのナイフらしき武器を右手に持ちメリルに突きつけた。
「止まれ! さもなくばこの女の命はないぞ!」
まさか本当に怪我をさせるつもりはないだろうが、武器にはかなり鋭い突起などもある。万一メリルを傷つけるようなことがあったら…三人は仕方なく足を止めた。
「ひきょうものー!」
「ゴールドナイト、早くやっつけて!」
無邪気な野次と声援が飛び交う中、ブラックキングはじりじりと後退していく。背後にはミラータワーと呼ばれる高さ
十メートルほどの直方体が建っている。鏡の迷路のような施設だが、今日はメンテナンスの為稼動していない。
ブラックキングはメリルを連れて外壁清掃用のゴンドラに乗った。何やらパネルを操作する。
「メリル! !」
一気に距離を詰めたヴァッシュの前で、二人を乗せたゴンドラがゆっくりと上昇していく。
ヴァッシュはいったん立ち止まった。その場に屈み込み、姿勢を低くしたままダッシュして――跳んだ。
ゴンドラの柵を掴み、かろうじてぶら下がる。ゴンドラ全体がひどく揺れメリル達は離れた。
「逃がさん!」
ブラックキングがメリルに詰め寄る。
ヴァッシュは鉄棒の要領でゴンドラに飛び乗った。メリルの襟元を掴んでいる黒い腕を引き剥がそうとする。
派手な音と共にブラウスが破れ、ヴァッシュ達とブラックキングの距離が開いた。
『今だ!』
ヴァッシュはメリルを抱き上げ、四メートル近い高さから飛び降りた。メリルが短く悲鳴を上げ、ヴァッシュの首にしがみつく。
「そのまましがみついてて」
見事に着地すると、ヴァッシュは小声でメリルに耳打ちしてからきっとゴンドラを睨んだ。
これだけ人が集まっているところで、服を破られたメリルを晒し者にできない。
「この決着はいつか必ずつけてやる! !」
大声で怒鳴りつけると、ヴァッシュはメリルを抱き上げたまま走り去った。子供達のひときわ大きな歓声が上がる。
「やっぱりゴールドナイトはすごいや!」
「あんまり似てなかったし変身しなかったけど、かっこよかったよな!」
ウルフウッドとミリィは、自分達の半分ほどの身長しかない子供達に囲まれて身動きが取れずにいた。
「なあ、おっきいマネージャー」
「はい?」
「ゴールドナイトって、ひょっとして…」
「金髪です」
軽い目眩を覚えつつ、ウルフウッドは園内マップを開いた。
「ワイはブラックキングとやらを追っかける。トンガリ達は多分ここにおる筈や。後から合流するさかい、先に行っとって
くれ」


     




++++++++


trouble of the amusement park




「ここまでくれば…大丈夫…かな…」
息を切らして全力疾走していたヴァッシュは、ある建物の裏手でようやく立ち止まった。ミラータワー同様、そこもメンテナンスの為今日は稼動していない。ここなら客やスタッフが近づく可能性はかなり低いだろう。
メリルをそっと地面に降ろす。途端に平手打ちが飛んできた。
「な」
「どうしてあんな危険なことをしたんですのっ! !」
抗議しようとしたヴァッシュの声は、メリルの涙声に遮られた。
「動いてるゴンドラに飛び乗って、あんな高いところから飛び降りるなんて…しかも私を抱き上げて…どうして…どうして! !」
「それは…」
キミがひどい目に逢わされるかも知れない。そう思ったら勝手に身体が動いた。危険かどうか、なんて考えてもみなかった。
メリルは泣きながらヴァッシュの胸倉を何度も拳で叩いた。
「あなたがもし怪我をするようなことがあったら…あなたに万一のことがあったら…私…」
「メリル…」
涙に濡れた菫色の瞳と優しい光を湛えたブルーグリーンの瞳が見つめ合い――
突然ヴァッシュは首をのけぞらせるようにして上を向いた。
「あ、あのさ…キミが怒るのももっともだけど…お説教は後にして貰えないかな。…その…目のやり場が…」
メリルは慌てて両手で破られたブラウスを押さえた。
「ちょっと待って」
言いおいて、空を見上げたまま自分のシャツのボタンに手をかける。
「駄目です!」
メリルの鋭い声が飛んだ。
「ピッチャーが肩を冷やすなんて言語道断ですわ!」
「…」
さっき俺のことを心配したのは、野球部のマネージャーとしてなのか?
…訊いてみたい。でも…答えを聞くのが恐い。
その時ミリィの不安そうな声が聞こえてきた。
「せんぱ~い…ヴァッシュせんぱ~い…ここにいますか~?」
「ミリィ、こっちですわ」
メリルの声を聞きつけて、ミリィが顔を出した。
「ああよかった。ウルフウッド先輩の言ったとおりで」
「あいつが何か言ったの?」
「先輩とヴァッシュ先輩はたぶんここにいる筈だから先に行ってくれって」
さすが名バッテリーですね。そう言ってミリィはにっこり笑った。
「先にって…ウルフウッドさんは今どこにいますの?」
「ブラックキングを追いかけるそうです」
『気がついたのかしら…』
メリルは僅かに眉根を寄せた。表沙汰になるとまずいことになるかも知れない…。
「ウルフウッド…ずるいよ、一人でけりつけに行くなんて」
この決着はいつか必ずつけてやる、と啖呵を切った。あれは俺の本音だ。できることならウルフウッドと合流したい。
…でも、メリルがまた絡まれない保証はない。もしこれが彼女を狙ってのことなら傍を離れるのは危険だ。
「キミに頼みがあるんだけど」
ミリィに自分の財布を渡しながらヴァッシュは言った。
「はい?」
「彼女、ブラウス破られちゃってね。あのままじゃ歩けないから、着替えを買ってきて欲しいんだ。女物の服は僕じゃ判らないし」


植え込みの陰に男が屈み込んでいた。全身ずぶぬれで息が荒い。
「…こないなところで何しとんねん」
降ってわいたような声に男がぎくりと振り向く。数歩近づいて、ウルフウッドは練習終了直後のようなひどい汗の
匂いに気がついた。
「お前は野球部の…」
「これはこれは、我らが生徒会長殿ではございませんか」
わざと標準語で言う。
「それとも、ブラックキング様とお呼びするほうがよろしいですか?」
メリルの口調を真似るウルフウッドの目は笑っていない。
「…あんたやったんか。うちのマネージャーかっ攫ってくれたんは」
「な、何の話だ」
「ほなら何でそないに汗かいとるんや?」
キールが返答に詰まる。
「この暑い中あんな全身黒ずくめの格好で走り回りゃ、そら汗だくにもなるわな」
「僕は何も」
しどろもどろの言い訳は、黒く輝く瞳の前にあっさりと打ち切られた。
不意にウルフウッドが笑った。爽やかな笑顔に、かえってキールの背筋が凍りつく。
ウルフウッドは鞄から取り出したものを左手に持つと、無言のままキールに歩み寄った。軽く肩を小突かれ尻餅をついたキールの鼻を右手で乱暴につまんで仰向かせる。
「何を」
呼吸と文句を言うために開かれた口に、ウルフウッドは手にしていたものの中身を一気に流し込んだ。
それはまだ半分ほど残っていた、辛党である彼の必需品。
「! !」
吐き出そうにも顔が上を向いていてできない。必死にもがいたが、野球で鍛えた男の腕を振りほどくことはできなかった。
相手が全部飲み込むのを待って、ウルフウッドは手を離した。灼けるような熱さと痛みに、キールは目に涙を浮かべ口を覆い声にならない悲鳴を上げて地面を転がる。
ようやく落ち着いた生徒会長を睨み据えると、ウルフウッドは声色だけは明るく言った。
「おどれがしたことが学校にばれたら、よくて停学、悪けりゃ退学やろな」
キールの身体がこわばった。
「…安心し、このことは誰にも言わへん。けどな、勘違いするんやないで。アンタの為やない、ワイらの為や」
眼光でダメ押しする。キールはうずくまったまま動けなくなった。
踵を返して歩きながら、ウルフウッドはひらひらと手を振った。
「わざと噴水にでも落ちるほうがええで。そないに汗臭いと社会の迷惑、電車で帰れんわ。この天気やったら風邪も引かんし、服かてすぐ乾くやろ」



ミリィと入れ違いにウルフウッドが合流した。ヴァッシュの背に隠れるように立つメリルに怪訝そうな顔をする。
「あいつにブラウス破られたんだ。今、ミリィに着替えを買いにいって貰ってる」
ヴァッシュの説明にウルフウッドは顔を顰め舌打ちした。
「…手ぬるかったわ。二・三発ぶん殴っときゃよかったで」
「会ったのか!?」
無言のまま肯くウルフウッドにヴァッシュは険しい表情で詰め寄った。
「教えてくれウルフウッド、誰なんだあいつは!?」
「…聞いてどうするつもりや?」
「決まってるだろ!?」
怒鳴って殴ってケリ入れて。服も弁償させて。
「ヴァッシュさん! !」
メリルはヴァッシュの腕にしがみついた。
「もし…もし私の為に怒ってらっしゃるのなら…いいんです、気にしないで下さい。私は怒ってませんから」
「だけど!」
「おどれがここで問題起こしたら、甲子園出場辞退せなならなくなるんやで」
「!」
「…皆で…皆で頑張ってここまで来たんです。…こんなつまらないことで駄目にしたくありません…」
ヴァッシュは自分を見上げるメリルを見つめた。
去年、部員が九人しかいなかった時からずっと影になり日向になり助けてくれた。試合が近づくと、毎朝学校の近くにある神社に必勝祈願をしていたのも知ってる。長い石段は野球部のジョギングコースに組み込まれるほどだ、昇るのはかなり大変な筈。
部員だって、あれだけきつい練習に歯を食いしばって耐えてきた。
そして勝ち取った甲子園への切符。自分が短絡的な行動をすればそれが消えてしまう。
ヴァッシュの腕から力が抜けた。
「それにな、一応礼はしといた。ちと手ぬるかったけどな」
「何をしたんですの?」
ウルフウッドは空になった瓶を見せながら顛末を話した。
「タバスコ半分…一気に…」
「それは…」
小さく呟いて二人は絶句した。
「灼熱地獄アーンド地面のた打ち回りの刑や」
ウルフウッドは悪びれない。三人は誰からともなく笑った。
「ただいま戻りましたぁ! あ、ウルフウッド先輩来てたんですね」
ミリィはヴァッシュに財布を返し、メリルに紙袋を差し出した。
「はい先輩、かわいいですよ!」
悪い予感にかすかに口元をこわばらせながらメリルは紙袋を開けた。出てきたのは黒猫が大きくプリントされたTシャツ。自分に着こなせるとは思えない。
「ねっ、かわいいでしょ!」
「…ええ、そうね…」
三人が背中で作った壁に隠れてメリルは着替えた。
「サイズ…ちょっと大きすぎない?」
Tシャツの肩は落ち、本来半袖の筈が肘まで隠れている。裾もかなり長い。ヴァッシュの控えめな指摘にミリィが身体を縮こまらせた。
「自分のサイズで買ってきちゃいました…交換頼んできます!」
「構いませんわミリィ、もう袖を通してしまいましたし…小さいならともかく、大きい分には困りませんもの」
「ほな帰るか」
「えーっ、あたし花火見たかったのに」
ミリィが残念そうに声を上げた。空はまだ茜色になりかけたばかりで、花火が始まる時間までだいぶ間がある。
「また変なのが出てきて小っさいマネージャーにちょっかい出されたら大変やろ」
「私だけ先に帰りますから、皆さんは花火まで見てから」
「駄目だ! あいつが尾けてこないとも限らない。家まで送るよ」
「じゃみんなで帰りましょう。花火はまた見に来ればいいんですから」
エピローグ


東の空に星が輝く頃。
「ごめんなさいヴァッシュさん、遠回りさせてしまって…」
自分の家の前でメリルは深々と頭を下げた。
「気にしないで。僕がそうしたかったんだから」
駅でウルフウッド達と別れた。幸い帰りは何事もなく、無事ここまで来た。
「あの服似合ってたのに…」
「いいんです。ずいぶん長く着た服でしたから」
これは嘘。ブラウスもスカートも今日の為に大急ぎで買ったもの。ゆっくり吟味する時間がなくて、似合うかどうか少し不安だった。
だから、誉められた時は本当に嬉しかった。
「今日はいろいろとありましたけど…」
ぎく。ヴァッシュの身体が硬直した。ジェシカ達のことで気を使わせ、変な奴に絡まれ、服を駄目にされた。そもそも遊園地に行くきっかけと言えばあのイカサマポーカーだ。責任の半分はウルフウッドの話に乗った自分にある。
後ろめたさに彼女の顔が見られない。
「…楽しかったですわ」
ヴァッシュはメリルの顔を見つめた。柔らかい笑顔は社交辞令ではない。
「…うん。僕も…僕も楽しかった」
ヴァッシュもとびきりの笑顔を返した。
「それじゃ明日学校で」
「またね」
星が賑やかに煌く頃。
「何でワイは今日もここ昇っとんのやろ」
トライガン学園の近くにある神社の石段を昇りながらウルフウッドはぼやいた。訳も判らずミリィに引っ張られてここに来たのだ。
「明日っからまたぎょーさん昇らなあかんのに…」
「ウルフウッドせんぱーい、早く早く! 始まっちゃいますよお!」
境内から自分を呼ぶミリィの声がする。ウルフウッドはペースを上げ、一気に石段を昇りきった。
「始まるって何がや」
「あれです!」
ミリィが指差すタイミングに合わせたかのように、一発目の花火が上がった。かなり遅れて低い音が届く。
「電車の中で先輩に教えてもらったんです。ちょっと遠くなるけど、あの遊園地の花火を見るならここが穴場だって」
「…綺麗やな」
「はい!」
それから二人はしばらく無言のまま花火に見とれていた。
不意に腕に感じたぬくもりに、ウルフウッドは首を巡らせた。ミリィが自分に寄り添っている。
「また遊園地に行きたいですね」
「せやな」
「…花火…今度はもっと近くで見ましょうね」
「…せやな」
そん時は、アンタと二人っきりがええな。
深夜に近い時刻。
机に向かって練習メニューの見直しをしていたメリルは小さく欠伸をした。
「もう寝ましょうか…明日は早いですし…」
手早く机を片づけ、コットンのワンピースから着替えようとパジャマに伸ばした手が不意に止まる。
ベッドの上に置かれているのは黒猫模様のTシャツ。メリルは代金を払うと言ったのだが、ヴァッシュは頑として受け取らなかった。
選んだのはミリィですけど、スポンサーはあの人。
「これも…プレゼントって言えるのかしら…」
呟いて、苦笑する。
メリルはTシャツに着替えると、電気を消してベッドに潜り込んだ。
その夏、彼女の自宅での寝間着がぶかぶかTシャツになったのは、本人のみが知る事実。

―FIN―


   


vm

「おはよーございますっ、先輩!」
「ふぁ・・・おはようございますですわ、ミリィ。朝から元気がいいですわね」
メリルはあくびをかみ殺しながら彼女に朝の挨拶を返した。昨晩、遅くまで書類の整理をしていたせいである
ミリィはにっこりと笑って答えてきた。
「だって、今日はみんなでデートの日じゃないですか。わたし、楽しみで楽しみで、つい早く起きちゃったんですよー」
「ミリィ・・・デートではありませんわよ。あくまで、お仕事ですからね」
苦笑しながらも一応、釘はさしておく。同時に、さらりと『デート』という言葉を使える彼女を少しうらやましく思いながら。
今日は本部からの辞令で、たまたま立ち寄った街の老朽化した美術館の視察に行くことになっていたのだが――ミリィが突然、ヴァッシュとウルフウッドも連れていこうと言い出したのだ。
(だって、デートみたいじゃないですか)
理由を尋ねると、ミリィはあっさりとそう答えてきた。とりあえず二人にも聞いてみると、ヴァッシュもウルフウッドもすぐにOKしたのである。
「センパイッ、わたし、牧師さん起こしてきますね」
「あ、お願いしますわ」
一応館主との待ち合わせの時刻を決めてあるため、遅刻するわけにはいかない。メリルはすぐにヴァッシュの部屋へと向かった。メリルたちは相部屋だが、ヴァッシュとウルフウッドはいつも別の部屋を使っている。今回はたまたま部屋が空いていなかったため、ヴァッシュの部屋だけが少し離れたところにあった。
「ヴァッシュさん?  入りますわよ?」
ノックをしても返事は無く、少し待ってからメリルは扉を開けた。昔なら、こうも簡単に彼の部屋に入ることなど出来なかったはずだが。
案の定――というか経験上予想はしていたが――部屋に残っている酒の匂いにメリルは顔をしかめた。ベッドの脇にはいくつかの酒瓶も転がっており、当の本人――ヴァッシュ・ザ・スタンピードは私服のままで高いびきをかいている。
(また、ウルフウッドさんと飲んでいたのですわね)
あきれてメリルはため息をついた。いつも思っていることだが――酔いつぶれるまで飲む必要は無いだろうに。
だが、いつまでもあきれている訳にもいかない。メリルはヴァッシュに近寄り、体を揺さぶりながら声をかけた。
「ヴァッシュさん、起きてくださいな。ヴァッシュさん!」
「ん・・・あと5分~」
情けないうめき声をあげてヴァッシュが逃げるように寝返りをうつ。なんとなくほほえましく思いながらも、メリルは追撃をかけた。
「ヴァッシュさん!  早く起きないと遅刻してしまうんですのよ!」
「頼むよ~・・・レム~」
寝言のようにつぶやかれたヴァッシュの台詞に、メリルはぴたりと動きを止めた。『レム』――前にヴァッシュ自身が話してくれた、彼の姉であり母であり、憧れの人(?)でもあった女性の名前。
知らず知らずのうちにほほが引きつるのを感じながら、メリルはヴァッシュの肩に乗せていた手を離し、ゆっくりと握り締め――そのまま、こめかみにねじ込んだ。
「起・き・て・く・だ・さ・い・な、ヴァッシュさん♪」
「あだだだだだだだだ!」
たまらず悲鳴を上げて、ヴァッシュが跳び起きる。
「何すんだよ、イタイじゃない・・・か・・・」
と、こちらの表情を見て、ぎくりと動きを止める。メリルはにっこりと微笑んで(ただしこめかみのあたりが痙攣しているのは自覚していた)ヴァッシュに告げた。
「おはようございますですわ、ヴァッシュさん」
「や、やあメリル・・・おはよう」
「レムさんじゃなくて悪かったですわね」
「ぐあ・・・」
と、ヴァッシュがよろめく。メリルはそのままくるりと振りむいて、扉へと向かった。
「食堂で待ってますから、着替えたら降りてきてくださいね。では」
「・・・待ってくれ」
「きゃあっ?」
そっけなく用件だけを告げて部屋を出ようとしたところで背後から抱きすくめられ、メリルは思わず悲鳴を上げた。いつの間にか、ヴァッシュがメリルのすぐ後ろに来ていたのだ。
「ななな、何をするんですの!  離して!」
「・・・ごめん、メリル。また君を傷つけてしまって」
つぶやく声。それだけで、メリルは自分の中の苛立ちが急速にしぼんでいくのを感じていた。同時に、レムに嫉妬していた自分への自己嫌悪の念すら浮かんでくる。
「・・・とにかく、離してくださいな。もう怒っていませんから」
「いや、言っておきたいことがあるんだ」
ヴァッシュは一旦言葉を切り――ささやくような声で続けてきた。
「僕は今まで長い時間を生きてきて、いろんな娘に出会ったけど・・・本気で好きになったのは、メリルだけだから」
「なっ・・・」
冷めかけた頭に先ほどとは違う意味で血が昇る。きっと自分の顔がどうしようもなく赤くなってしまっているのだろうと思いながらも、照れくささを隠すためにメリルはわざと強い口調で言い返した。
「ず、ずるいですわよ! そんな、口先だけで、甘い言葉で・・・そんなこと言われてしまったら、わたし・・・」
「じゃ」
と、振り向かされる。間近にせまった、ヴァッシュのいたずらっぽく、そして優しい微笑み。
「態度で示すよ」
「ちょっ・・・」
何か言い返す暇も無く、メリルの唇はヴァッシュのそれでふさがれていた。

「・・・どうしたのウルフウッド。鼻血?」
「やかましい。トンガリのその顔も嬢ちゃんにやられたんやろが」
まだ痛みの残る自分のほほを押さえながら苦笑したヴァッシュに、ウルフウッドは憮然とした面持ちで言い返してきた。
「牧師さん、大丈夫ですかー?」
「・・・調子に乗るからですわ」
と、メリルが照れたような怒っているような、複雑な表情でつぶやいている。そんな彼女もかわいらしくて、ヴァッシュは知らず微笑んでいた。
「なぁ、ウルフフッド。女の子ってさ・・・」
「難解なやっちゃで」
ウルフウッドがヴァッシュの後に続けてつぶやき――そして男たちは苦笑したのだった。



あとがきのようなもの
う~ん、ヴァッシュ動かすのって意外に難しいですね。
状況としては既にヴァ×メリ、ウル×ミリ共にカップルとして成立している状態の日常です。メリルがヴァッシュをさん付けで呼んでいるのは、まだ慣れてないから(笑) メリルとウルフは恋愛に関しては苦手な気がしています。で、ヴァッシュとミリィが相手を強引にリードする、と・・・あくまで個人的なイメージですけどね(^^)
レムに嫉妬するメリルが書きたかったんですけど、あんまりかわいくならなかったので、反省。さらにタイトルは「ある朝の恋人たち」を英語にしただけ。格好付けめ←自己ツッコミ
こんな思い付きの文章を掲載してくださったまのさんとぴゅーさんには大感謝。またなにか機会があれば、よろしくお願いしますね。

ま:……一体これは何事なのでしょう! サプライズもサプライズ、仕事で疲れて腹ぺこで帰ってきたならば(そしてまた出陣せねばならないのである……)、いきなり意識すらも吹っ飛ばしてくれた驚きが!(すでに日本語使用不能。)
ぴ:博キリ様ありがとうございます!! なんでウチなんかにこんな素晴らしいもの送って下さるのですかああああああああああ(爆)。私ら何もして差し上げてないのに!!?
ま:ああああああああああ本当だ! 前回も御礼のひとつもしてないよ! 遊びに行って素敵な小説に惚れ込んでも掲示板にカキコもしてないのに!(本当に博キリさんのファンか私!?)
ぴ:ありがたすぎて涙が出るお話ですね……(ほろほろ)。全国の博キリさんファンを敵に回すぞわたしら……(むしろ確定!?)
ま:……でもこれは私のだもん! 拗ねてるメリルのかわいさと来たらどうでしょう!? これは私のです今決めました!
ぴ:いいよもらっていきなよ止めないよ……そうすれば私は博キリさんファンの白眼に晒されずに済むというもの(をい)。
ま:たとえ闇討ちされよーとも離すもんですかああああああ!! 本当にありがとうございました!

vvm


安全地帯

いつも、いつでも思考は止まることがなくて連綿と続いていく記憶の集合体をなんども構築しては壊す。その先に幾つもの可能性を考えては幸せになったり苦しくなったり。考え込みすぎなのは分かってるんだけどそれも性分なんだから仕方ない。
時々酷く、息が詰まる。
だけど、唐突なくらいに思考を吹き飛ばしてくれる奴がたまに居たりする。
彼女は今日も健在で、いつのまにか普通に呼吸できてる自分に気付いたりする。
今まで自分のペースでやってきて関わること、関わらせないことになんとなく慣れてきていた俺の中にずかずか踏み込む闖入者。
だから―――彼女との距離はいつも空けてる。

久し振りに出会った瞬間殴られた。
オレが何したってんだ。ただ、呼んだだけなのに。
―――前みたいに。
「ベルナルデリ保健協会でございます!!!」
敬礼なんかされながら名刺を差し出されて、なんとはなしに名刺に目を落とした。
ミリィ・トンプソン。メリル・ストライフ。
……そんな事はわかってる。
キミタチとは四ヶ月ずっと一緒に居たんだしさ。
無茶苦茶なとこも優しいとこも今時珍しいくらい素直なとこも知ってる。
再会は一瞬で、どやどやと踏み込んできた船の皆にあっという間に見えなくなって。
ジェシカを首にぶら下げたまま、大きくなったなぁなんて頭の隅で感動しながら俺の目はなんとはなしに彼女を追ってみたりしてた。
殴られた頭はずきずきしてたけど、エミリオが虚空に消えて行った時のどうしようもない思いとか口に出せない つかえ みたいなものが少し楽になってる気がした。
知らない間に心の奥まで気を抜いた隙に入ってきてるから。
―――油断してるとやべえ
なんて、改めて気を引き締めたりする。

夜は嫌いだ。
眠りにつく前に思い出す。沢山の「死」の事を。
目を見開いたまま天井をずっと眺めたりして気を紛らわしたりもするけど思い出しかけたら止まらない。さっき目覚めたばかりのウルフウッドも一騒ぎした後すぐ眠りについたようだし、眠れないのは僕だけか。
そっとシーツを除けて足を床に下ろす。ひんやりとした床の感触が足裏に心地よかった。
ドアを閉めてもまだウルフウッドは眠ったままだった。
すうすうと安らかな寝息にドアごしにお休みと呟いて、気配を殺したままシップの一角へ向かう。
いくつかあるドーム上の屋根を持つ「庭」はジオプラントと半球から透けて見える満天の星空が気にいってた。レムと一緒に見た宇宙船の丸窓からの星空に似てる。
軽い音を立てて開いたドアから身を滑り込ませて久し振りの「大地」に寝転んだ。
土のぬくもりに訳もなく零れそうになった涙を、頬を撫でる草の感触に埋める。
ごろんとそのまま仰向けに身体を反転させて目を開いて、そして俺は悲鳴を少し噛み殺した。
「やあ」
経験を駆使して笑顔を作り、ひらひら手を振る。
本当は内心、どうしていつもこうタイミングよく来るんだ?なんて疑問が山積みなんだけど。
昔映像で見たイルカの事なんか思い出す。どうやってか知らないけど傷付いた人や病人の所に寄ってくるらしい。見たところさしずめ彼女は砂海のイルカだ。
そしてまた俺は気付くのだ。
俺的安全地帯――誰も寄せ付けず誰にも入られない筈の私的距離――の中に彼女が居ることに。
「お散歩ですの?」
「は?」
彼女――メリル・ストライフとの会話はいつもかみあわねえ。

ぽすんと隣に座られて逃げる機会を逸した。
何よりまずいのは彼女がここに居ることに違和感を覚えない自分自身。
「すいません」
「な?何が?」
「殴ったりして」
「いや。そんなに痛くなかったし」
「今日じゃなくて……その」
なんだか必死にピコピコしている彼女をみながら、はっと理解する。
彼女が言いたいのは―――あの時のことだ。
ぎくりとした。自分でも忘れようとしていた罪。月に穿たれた傷痕。
君が俺を…殴ったって?
ふっ、と何かが頭を過ぎった。
誰かが…泣いてた。
あの時、ナイブズと同調して世界が―――視えた。
連続する憎しみの波動。生まれいずる祝福の賛美歌は逃げ出す人々の悲鳴。
コワイ コワイ コワイ コワイ
半身を通して伝わってきた幾つもの思念の塊。
片隅で…誰かが泣いてた。
呼吸が荒くなる。肌が引き攣れるような感覚に背筋を冷や汗が伝った。
視界が朱色に染まる。酷く乾いた無彩色の光景の中、ぽたりと落ちた血がじわりと視界を埋めていく。
(思い…出したくない)
エリクスと呼ばれ過ごした二年間。思い出す度に吐いた。
身体の中の毒を全て吐き出してしまいたかった。
微かな記憶の断片が躯の中を抉る度に抱き締めてくれた優しい腕は今此処にはない。
(思い出しちゃ…いけない……)
「ヴァッシュさん?」
きょとんと平和な顔に、一瞬凶暴な――そう、憎悪に最も似かよった感覚――が湧き上がる。
指先から震えのように振動が、心臓に届く前に。
(誰の所為だと思ってんだ)
はぁ、と一つ重い息をついて俺は視線を上げた。つられるようにメリルもそれにあわせる。
視線の高さが違うから、同じ物を見ていてもきっと違うように見えているんだろう。
例えば、あの月とか。
猫の瞳みたいに細く切れそうなナイフの月。失われていく現実感。
どんどん曖昧になっていく何かを掴みたくて何度も何度も唱える言葉はもう意味をなさない。
無意味な記号の羅列になっていって。
「綺麗な、月ですわね」
「ああ」

消えていく月が、未来を予言しているのだとしても。
君に対する思いを表現する言葉さえ、俺は持ってない。

この危険な安全地帯の中、入ってくる誰かを予想はしていなかったから。
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