再出発
プロローグ
「マネージャー。いたか、あいつは」
校庭に戻ったメリルを見つけ、新主将のギリアムが声を上げた。終業式の後、二年生がウォーミングアップを始めてもやって来ないヴァッシュを探すよう、マネージャーに頼んだのが彼である。
軽く息を弾ませてメリルは新主将の前に立った。
「はい、着替えてすぐ来ます。…けど…」
メリルは怪訝そうな表情で辺りを見回した。塀に沿うように並んでいる大勢の生徒達。
「…ずいぶん増えましたね」
ヴァッシュを探しに行った時よりもずっと多くなっている。
「見学と応援、だそうだ」
ギリアムが小声で答えた。
現在部員が五人しかいない野球部にとって、中途入部する男子生徒は喉から手が出るほど欲しい。見学者は勿論大歓迎である。が、生徒の約半分は女子だった。
「応援…ですか」
地区予選は既に終わっている。応援と言われても正直な話ピンとこない。
「どうせなら予選の時に応援して欲しかったな」
ギリアムのぼやきにメリルは僅かに苦笑した。
『すぐ負けるだろう』という意見が大勢を占めていて、トライガン学園の観客席はいつもがらがらだった。過去の戦績を考えれば無理からぬことではあったが。
その後甲子園出場を決めたバド・ラド高等学校との準々決勝でさえ『今度は相手が悪すぎる』などと言われ、三塁側とは対称的に一塁側はすいていたのだ。
「…今日は慣らしということで、ノックを中心にした軽めのメニューを」
俯いてメモを見ながら話していたメリルの声は、突然上がった黄色い歓声にかき消された。驚いて顔を上げ、女子生徒の視線を追う。全員の目が校庭に現れた金髪のクラスメイトに向けられていた。
「あれが人間台風なのぉ?」
「けっこうハンサムじゃない」
「意外と背ェ高いのね」
「ちょっと軟弱そう」
ヴァッシュは鳩が豆鉄砲を食らったような表情で足を止めた。聞こえてきた自分に対する批評にかすかに頬が赤くなる。
新主将に気づいてヴァッシュは急いで走り寄った。ぺきんと腰を折り、深々と頭を下げる。
「遅れてすみません!」
ギリアムは苦笑した。試合では別人のような気迫を見せる後輩が、今はいたずらをして飼い主の前で小さくなっている大型犬のように見える。
メリルからメモを受け取ると、ギリアムは逆立てた金髪の後頭部に話しかけた。
「こっちはアップは終わってる。お前はアップを済ませてから投げ込みだ」
「はい!」
元気よく返事をし、先輩達の邪魔にならないよう校庭の片隅に移動する。それに合わせて女子生徒が全員波のように動いてヴァッシュを遠巻きにした。
ストレッチで身体をほぐした後、ヴァッシュはノックをしているギリアムに向かって叫んだ。
「主将! ヴァッシュ・ザ・スタンピード、遅刻した罰にスペシャル外回りに行ってきます!」
野球部のランニングコースは三つある。一つ目は内回りで、学園の塀の内周を走るものである。二つ目は外回りと呼ばれるもので、学園の外に出て一般の道を走る。スペシャル外回りは今年の春から取り入れられたもので、外回りよりも長距離で起伏が激しく、三つの中で最も厳しいコースだ。
返事を待たず、ヴァッシュは走り出した。さすがにセーラー服の集団が追いかけてくるようなことはなかった。
『これじゃまるで動物園だよ…』
何か、檻の中の珍獣の気持ちが判ったような気がする…。走りながら、人間台風と呼ばれたトライガン学園のエースは内心ため息をついた。
Ⅰ
多少人数は減ったものの、夏休みに入っても同じような状況が続いた。
黄色い声援はヴァッシュのみに向けられている。野球部の応援というよりはヴァッシュのファンクラブと呼ぶほうが正しい。
練習が終わるとヴァッシュは決まって女子生徒に囲まれ、タオルやスポーツドリンク、果ては手作りクッキーなど抱えきれないほど渡された。正確には問答無用で押しつけられた。
ヴァッシュは一人一人に丁寧に礼を言い、明るい笑顔で必ず最後にこう付け足した。
「部の皆で使わせて貰います」
「部の皆でいただきます」
満面の笑みを浮かべていた女子生徒は、それを聞いて必ず顔を曇らせて立ち去った。
遅れて部室に戻るヴァッシュは毎日他の部員に間接技を食らった。
「お・ま・え・ば・か・り・が・何・故・も・て・るっ!」
「ちち、違いますってば! これは野球部の皆にって…せ、先輩っ、この世はラブ&ピー…ノオ―――ッ!!!!」
こうして部活の最後はヴァッシュの悲鳴で締めくくられるのだった。
七月最後の日、校舎内の一般教室を借りてミーティングが行なわれた。部室では全員入れなかったからである。
その時点までに男子生徒から提出された入部届は十八通。紅白試合ができるだけの部員が集まったのは実に八年ぶりのことだった。運動部からの転部者は六名、内かつて野球部に在籍したことのある者は二名というのは少々不安なのだが。
マネージャー志願の女子生徒も大勢来たが、メリルがこなしている様々な仕事を実際に見てほとんど全員尻込みした。実際に入部届を出したのはただ一人、二年のナスティだけである。
男子生徒二十三人、女子生徒二人を前にして、顧問は口を開いた。
「今年も例年どおり…と言っても知ってるのは二年の四人だけだが、夏季合宿を行なう」
メリルとナスティが机の間を縫うようにして、日程と目的地、集合場所と時間、諸注意だけが書かれた簡単なプリントを配っていった。
「期間は八月十六日から二十五日までの十日間。強制ではないが、都合のつく者はなるべく参加して欲しい。
不参加者は五日までにギリアムまで連絡すること。詳しいスケジュールは現地で配布する」
「はーい先生、質問です。合宿にはマネージャーは参加するんですか?」
意外な発言に二人のマネージャーは顔を見合わせた。しばらくの間お互いに譲っていたが、結局マネージャーとしては先輩にあたるメリルが先に答えた。
「参加する予定ですわ」
「勿論あたしも」
かすかなどよめきが上がり、それはすぐに消えた。
「他に質問はないか? …では中途入部者は着替えてグラウンドに集合。今日は体力測定を行なう」
「ええーっ?」
「しっかりやれ。手を抜くなよ。旧部員とマネージャーは手分けして記録にあたること。以上!」
夕刻には十八人分のデータが揃った。文化部との兼部者は運動経験が乏しいらしく、基礎体力が劣る者が多い。
ギリアムは記録用紙を回収し、メリルに渡した。
「それじゃマネージャー、よろしく」
「はい」
メリルは紙の束を自分の鞄にしまっている。そのまま踵を返したギリアムにそっと歩み寄ると、ヴァッシュは小声で尋ねた。
「主将、あれ何に使うんですか?」
そう言えば、メリルが入部してすぐ同じように体力測定を受けて、四日後にブライアン先輩からプリントを渡されたんだ。『基礎体力は申し分なし、上体に左右の筋力差が見られるため左半身の強化を』なんて評価と具体的なトレーニングメニューが書いてあって、今でもそのトレーニングは続けてる。
「個人別の練習メニューを作るのさ。俺達の時と同様にな」
「え!? マネージャー、そんなこともできるんですか?」
目と口を丸くしたヴァッシュに、ギリアムは苦笑いを浮かべて答えた。
「彼女の両親は医者なんだ。父親はスポーツ療養や指導もしている外科医でね、内密に協力して貰ってるのさ」
ギリアムは近隣にある大きな総合病院の名を挙げた。
「そこは彼女の親族が中心になって経営している病院だ。…知らなかったのか?」
「僕高校からこっちに来たんで、家族のこととかはあんまり…」
ヴァッシュはもともとこちらに住んでいたのだが、小学校入学前に父親の仕事の都合で遠方に引っ越した。高校入学と同時に戻ることが決まっていたので、試験をこちらで受けトライガン学園に入学したのだ。入学当初、学校で知っている人はレムだけだった。
持ち前の人懐っこさからすぐにクラスにも馴染んだが、同級生の家族構成や親の職業など、付き合いが長ければ自然と知るような知識はあまりない。
「明日は俺達が体力測定される番だからな」
「はいっ」
元気よく答えながら、ヴァッシュは初めて知ったクラスメイト兼マネージャーの側面に軽いショックを覚えた。
Ⅱ
八月十六日。快晴。
ヴァッシュはかなり早くに家を出た。夕べは遠足前日の小学生のようになかなか寝つけなかった。
白いTシャツにジーンズというラフな格好で、右肩に担いだ大きなスポーツバッグの重さも感じないかのように走る。
野球部の合宿――野球三昧の十日間は、自他共に認める野球馬鹿の自分にとっては至福の時だ。
誰も来てないだろう…と思いきや、先客がいた。メリルだ。白いVネックのTシャツと紺色のコットンパンツ、同色のスニーカーを履いている。
メリルは傍らに立つ黒髪の中年の男と立ち話をしているのだが。
『…??』
日本語は勿論判る。英語は得意だ。それなのにヴァッシュは二人の会話が理解できなかった。
「ヴァッシュさん、おはようございます。早いんですのね」
メリルがヴァッシュに気づいて声をかけた。ヴァッシュはメリルに走り寄り、スポーツバッグを地面に置いた。
「おはよう。マネージャーこそ早いじゃない。一番乗りだと思ってたのに」
笑顔で答えながら、失礼かと思いつつちらりと隣の人物を見る。メリルはすぐに視線の意味を理解した。
「あ、ごめんなさい紹介が遅れて。ヴァッシュさん、こちら私の父です。お父様、こちらが野球部のピッチャーでクラスメイトの」
「ヴァッシュ・ザ・スタンピード君ですね。はじめまして、メリルの父です。いつも娘がお世話になっております」
自分の子供と同い年のヴァッシュに深々と頭を下げる。ヴァッシュも慌ててお辞儀をした。
「とんでもないです! お世話になってるのは僕のほうで…」
顔を上げると、男はヴァッシュににっこりと笑いかけた。
「仕事の都合で、地区予選は残念ながら一試合しか見られなかったのですが…素晴らしい投球でした。さすが人間台風と呼ばれることはありますね」
「いえ、そんな…」
「来年、期待していますよ」
「はい、頑張ります!」
ヴァッシュは再び一礼した。
「鞄を右肩にかけるのが癖になっているようですが、ショルダーバッグは両肩に均等にかけるようにしなさい。身体を歪める原因になりますよ」
「え?」
きょとんとした表情のヴァッシュにもう一度にっこり笑いかけてから、男はメリルのほうに向き直った。
「それじゃメリル」
その後続いた言葉とメリルの返事は、やはりヴァッシュには理解不能だった。
男は軽く会釈すると、そばに停めてあった車に乗り込み走り去った。
「…あのさ」
「はい?」
「さっき、何て言ったの?」
「ああ…『いってらっしゃい、気をつけて』『ありがとうございます、行って参ります』ですわ」
「英語じゃないよね?」
「ええ、ドイツ語です」
難しい表情で沈黙したヴァッシュを、メリルは不思議そうに見上げた。
「どうかなさいました?」
「…もしかして、家ではドイツ語で話してる…とか?」
メリルは目をみはり、口元を手で押さえた。肩が小刻みに震える。
堪えきれなくなったのだろう、メリルはとうとう声を上げて笑い出した。
「…ヴァ、ヴァッシュさん…私…家では普通に日本語で話してますわ。…どうしたらそういう発想になるんですの?」
「だって、すごく流暢に話してたから…そんなに笑わなくてもいいんじゃない?」
目に涙を浮かべて笑っているメリルに、ヴァッシュは口を尖らせて抗議した。
「…ごめんなさい、笑い過ぎですわね。…ドイツ語は中学に入学した時から習ってますの。抜き打ちテストということではないんでしょうけど、両親とは時々あんな風にドイツ語で会話することがあるんです」
「はぁ…」
親と外国語で会話する。自分の家では到底考えられない話に、ヴァッシュは曖昧に相槌を打つしかなかった。
「…わざわざ見送りに来てくれたんだ」
「ええ。それと、荷物が多いからここまで運んでくれたんだと思いますわ」
メリルの傍らには大きな旅行鞄と、サラリーマンが持っていそうなアタッシュケースが置いてある。
「そっちの鞄、何?」
「ノートパソコンですわ」
「よう、早いな、二人とも」
ギリアムが手を上げて近づいてきた。
「主将、おはようございます」
会話はそこで途切れ、ヴァッシュはパソコンを何に使うのか訊きそびれた。
Ⅲ
乗り換え二回、ホームでの待ち時間計四十分、電車に揺られること約九十分で一行はとある駅に降り立った。
宿泊先の民宿まで約五キロ、舗装されていない山道をひたすら登ることになる。
「ナスティ、そんな格好で大丈夫か?」
顧問が新米マネージャーに声をかけた。心配するのも無理はない。彼女はワンピースにヒールの高いサンダルという、これからデートにでも行くような格好なのだ。配布したプリントには靴に関する注意書きもあったのだが。
「大丈夫ですぅ」
その言葉はすぐに裏切られることになる。
もともと履きなれていなかったのだろう、歩き始めて十分もしない内にナスティは靴擦れを起こした。
「せんせぇい、あたし足が痛くてもう歩けません」
「だから言わんこっちゃない」
さてどうするか。駅前まで戻ればタクシーを使えるが、とてもそこまで歩けるとは思えない。
「ヴァッシュ君、おぶってくれない?」
「ええっ、ぼ、僕がですか!?」
ヴァッシュは素っ頓狂な声を上げた。矛先が自分に向けられるとは想像だにしなかった。
「そうよ。足腰の鍛練になるじゃない。ねぇ、いいでしょ?」
返答に窮したヴァッシュを助けるようにギリアムが口を開いた。
「着く前から一人だけ消耗させる訳にはいかない」
続けて、自分を含む基礎体力にお墨付きを貰った部員十二名の名を順に呼ぶ。
「…以上の者は五分交代で新マネージャーをおぶって歩くこと。荷物はその他のメンバーで運んでくれ」
「ええ~っ」
「これも野球部の為だ。協力してくれるな」
不満そうな声を大義名分で封じる。野球部の為、と言われればマネージャーとしては反論の余地はない。ナスティは渋々ながらも肯いた。
二年生から順に交代していき、やがてヴァッシュの番が回ってきた。人一人背負って歩くことくらい何でもないが、ナスティは必要以上にしがみついてくる。背中に当たる感触にヴァッシュは赤面した。
「ヴァッシュ君って純情なんだ」
交代間際に囁かれ、ヴァッシュは耳まで赤くなった。
不意にヴァッシュの目の前にウェットティッシュが差し出された。視線を横に向ける。メリルが並んで歩いていた。
「大丈夫ですか? 顔真っ赤ですよ? とりあえずこれを使って下さい」
濡らしたタオルでもあればいいんですけど…。小さく呟くメリルに礼を言い、ヴァッシュはそれを受け取った。汗を拭った後、顔や首をそれで拭く。ひんやりして気持ちがいい。
「…キミは大丈夫? 荷物重いんじゃない?」
彼女の息は上がり始めていた。
「大丈夫です。持ち運べないと思ったら、最初から持って来ませんわ」
にべもなく言われては、『持とうか?』なんてとても言い出せない。それでも。
「もし辛くなったら遠慮なく言ってね」
ヴァッシュは控えめに手伝う意思を示した。
「…ありがとうございます」
その後民宿に着くまで、メリルはずっと無言だった。
Ⅳ
勝利荘――トライガン学園野球部が夏と冬に行なう合宿の際宿泊する民宿の名前である。そこを使う理由は二つ。一つは名前にあやかりたいから。もう一つは、そこを切り盛りしている老夫婦の一人息子がトライガン学園野球部のOBで、後輩に当たる彼らは格安で利用させて貰えるからだった。
かなり田舎であまり客もないこともあり、野球部が合宿する時はいつも貸切になっていた。
「今年もお世話になります」
顧問の挨拶に合わせて、全員が頭を下げる。細長い眼鏡をかけた老人と、髪をひっつめ丸眼鏡をかけた太めの老婦人は、目を細めて団体客を迎えた。
「ようこそおいでなすった」
「今年は大人数で…二十人以上で合宿するのは何年ぶりですかねぇ、おじいさん」
「いやあ、それは言わない約束ですよ」
顧問が所在なげに頭を掻く。部員の間から忍び笑いが洩れた。
「お前らは荷物を置いてさっさと着替えろ! すぐにアップだ!」
照れ隠しに怒鳴られ、部員達は慌てて荷物を手に割り当てられた部屋へと移動を始めた。
不意にTシャツを掴まれヴァッシュは足を止めた。老人が自分を見上げている。
「君が人間台風君か。活躍ぶりは知っとるよ。…今年は残念じゃったが、君にはまだ二年ある。頑張りなさい。悔いを残さんようにな」
「はい、ありがとうございます!」
ヴァッシュは一礼し、仲間の後を追った。その背中に、随分前に家を飛び出した息子の姿が重なる。
「なぁばあさん」
「はい」
「…夢は繋がっとるんじゃな」
「そうですねぇ」
ウォーミングアップを終えると部員達はランニングを始めた。アップダウンの激しい山道を走るグループと、比較的なだらかなコースをゆっくりしたペースで走る、いわゆるLSD(ロング・スロー・ディスタンス)のグループに分かれる。
マネージャーの二人は早速昼食の準備にとりかかった。何せ食べ盛りの高校生が二十三人もいるのだ。メニューはカレーだが、材料は一応四十人分用意して貰っていた。
「ナスティ先輩、お米をといでいただけませんか?」
「えーっ、あたしそんな事やったことなぁい」
老婦人に借りたつっかけサンダルを履いたナスティは、顔と声両方に拒絶の色を顕わにして言った。
「ではそれは私がやりますので、野菜の皮むきをお願いします」
「…めんどくさぁい」
「ピューラーを使えば簡単ですから」
調理実習の時どうしていたのかしら…。素朴かつもっともな疑問は顔にも口にも出さず、メリルはピューラーの使い方をナスティに説明し、玉ねぎを切っている老婦人にこっそりフォローを頼んで、米をとぐべく一人流しに向かった。
ナスティは一事が万事この調子だった。洗濯にしても、ひどい泥汚れは洗濯機で洗う前に手洗いしなければならない。ナスティはヴァッシュの服は丁寧に洗うのだが、他の部員の分はおざなりに済ませようとする。顧問と主将とヴァッシュの目がある時だけかいがいしく立ち働く。入部した目的が何であるか、火を見るより明らかだった。
『あてにしないほうがいいですわね…』
密かに戦力外通知を出して、メリルは老婦人と二人で切り盛りする覚悟を決めた。
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Ⅴ
合宿三日目。ヴァッシュは部内に温度差を感じていた。
体力差を配慮したトレーニングメニューの為、全員が顔を揃えての練習はあまりない。だが、その数少ない機会や食事の時などにずれを感じるのだ。別グループのやる気が全く見えない。
写真部との兼部が四人いるが、話題はいつもマネージャーのことばかり。野球に関する話はしないし、振っても乗ってこない。他の連中も似たり寄ったりだ。
同じグループの中にも判らない奴はいる。文化部との兼部者では唯一自分と同じグループに属している、同じ学年のキール・バルドウだ。とにかく口数が少なく、何を言っても無反応。何を考えてるのか掴めない。
『何のつもりで入部したんだ…』
内心舌打ちする。最低でも四人、交代要員を考えると部員は多いほうがいい。しかし、やる気のない奴は必ず周りのやる気も奪ってしまう。それなら最初からいないでくれたほうがましだ。
主将や三人の先輩達も戸惑っているようだ。顧問が注意したり檄を飛ばしたりしたが効果はなかった。
合宿五日目。午前の練習中に副主将が足を捻った。
「ヴァッシュ、すまないがマネージャー…っと、メリルを呼んで来てくれ。救急箱を持ってな」
「はい!」
メリルは毎日、朝食の後食材を買いに老人と軽トラックで出かけていた。米や保存のきく野菜はまとめて発注し納品して貰ってあるが、肉や魚、生野菜は冷蔵庫の容量の問題もあり都度買うことにしたのだ。手間はかかるが、そのほうが栄養価も味もずっといい。
この時間ならもう戻っている筈。ヴァッシュは民宿を目指して走り出した。
厨房を覗いたが、そこにいたのは老婦人だけだった。
「すみません、マネージャーは…」
「ああ、今裏で洗濯してるよ」
「そうですか。ありがとうございます」
建物の裏手に回ったヴァッシュの耳に、ナスティの金切り声が飛び込んできた。
「何よあんた、先輩に意見しようっていうの!?」
「いえ、そんなつもりは」
メリルは後悔していた。『ヴァッシュさん以外の方の分もちゃんと洗って下さい』は失言だったと。部員からクレームがきているのは事実だが、もう少し言い方を考えるべきだった。
「だいたい生意気なのよ、あんた!」
ナスティの平手は空を切った。メリルが反射的に身を引いて躱したからだ。それがナスティの怒りに油を注いだ。
「何でよけるのよ!?」
更に平手がくる。叩かれるつもりで動きを止めたメリルが背後に人の気配を感じたのと、小さな両肩に大きな手が置かれたのはほぼ同時だった。そのまま横へ押しやられる。
パン、という乾いた音が辺りに響いた。
「あ…」
頬を打たれたのは――ヴァッシュだった。
ナスティは数歩後ずさった。狙っている男に喧嘩しているところなど絶対に見られてはならない。ましてや本人をひっぱたいてしまうなんて。
「き、来てたなんて知らなかったわ。お昼にはまだ」
慌てて言いつくろうとするナスティの声は、自分を見つめるヴァッシュの穏やかな瞳を見た途端に止まった。
「…平和にいきましょうよ、平和に」
ヴァッシュは微笑みながら静かに言った。左の頬を赤くして。
「ヴァッシュさん…どうして…」
「副主将が足を捻ったんだ。主将が呼んでる」
「判りました。救急箱を取ってきますわ」
走り出しかけて、メリルは水道の前で立ち止まった。ハンカチを取り出して濡らし、無言のままヴァッシュに差し出す。視線と表情が安否を問いかけている。
「…ありがとう。大丈夫だよ」
ヴァッシュはにっこり笑い、ハンカチを受け取った。それを頬に当てるのを確認してから、メリルは走り去った。
「…何があったのかは判りませんけど、暴力は反対です。この世はラブ&ピース、ですよ」
ナスティはふてくされたようにそっぽを向いた。それ以降、メリルが戻るまで沈黙の時間が続いた。
二人と救急箱が主将達に合流した。
「…やっと来たか。…ってヴァッシュ、どうしたその顔?」
その場にいた全員が抱いた疑問を、ギリアムが代表して尋ねた。
「蚊に食われそうになったところを新マネージャーに助けて貰ったんです。ね、マネージャー」
「え、ええ」
ウインク付きで突然話題を振られ、メリルは曖昧に肯いた。
Ⅵ
夕食と入浴を終えた後は自由時間である。雑談をしたり、トランプで遊んでいる者が多い。中には練習で疲れて先に休む者もいた。
ヴァッシュは一人、裏庭で素振りをしていた。朝晩の素振りは日課で、サボると気持ちが悪いのだ。
その日は夕食の後、ギリアムとメリルが顧問に呼ばれた。
『やっぱり部の雰囲気のことかな…』
バットを振りながらヴァッシュはぼんやりと考えた。マネージャー同士もあまりうまくいっていないらしいのは、午前中の件を考えれば判る。
「どうして…」
小さな呟きは空を切る鋭い音にかき消された。
「…ずいぶん熱心なのね」
不意に聞こえた声に、ヴァッシュは手を止め振り返った。合宿に来た時と同じ服装のナスティが立っていた。
「…何かご用ですか?」
「今日は変なところを見られちゃって…誤解のないよう説明に来たの」
「僕が蚊に食われそうになったのを助けて貰った件なら気にしないで下さい」
再びバットを構えようとした手に、ナスティの手が重ねられた。
「…あたし、あなたの為に野球部に入部したのよ」
「…僕の為?」
「単刀直入に言うわ。…あたし、あなたのことが好きなの」
ヴァッシュが僅かに目を細めたのにナスティは気づかなかった。彼の表情が不信を表していることにも。
「ねえ、あたしの彼氏にならない? こう見えても、あたしってよく気がつく」
「違うでしょう、ナスティ先輩」
媚びを含む声を遮ってヴァッシュは静かに言った。さりげなく手を外し、触れられることのないよう後ろ手に組む。
「何が?」
「先輩が好きなのは僕じゃない」
意外な言葉にナスティは気色ばんだ。
「何を根拠にそんな…勝手なこと言わないで!」
「僕のフルネームを言ってみて下さい」
「え…ヴァッシュ、ヴァッシュ…」
言葉が続かない。覚えていないのだから当然なのだが。
「先輩が入部した時に、僕名乗ってるんですよ。それなのに覚えてないんでしょう?」
「あ、あの時はいろんな人をいっぺんに紹介されたから」
「後で名簿で確認できた筈ですよ。…よく判らないけど、本当に好きな人のことなら何でも知りたいって思うものじゃないんですか?」
ヴァッシュの指摘は正しい。ナスティは反論できずに俯いた。
「先輩が欲しいのは『人間台風の彼女』の肩書きだ。僕でなくても、周りに自慢できる奴なら誰でもいい…違いますか?」
話は終わったとばかりに、ヴァッシュはナスティに背を向け少し歩いた。危険のないよう充分な距離をとる。
それでも立ち去ろうとしない先輩に、素振りをしながら更に言葉を紡ぐ。
「…お節介かも知れないけど、一応忠告します。自分で自分のことを『よく気がつく』なんて言わないほうがいいですよ。本当によく気がつく人は、いきなりやって来て人の自主トレを邪魔するようなことはしませんから」
そう、彼女なら。身体を冷やすな、と口うるさく言う彼女なら。
きっと、自主トレと汗の始末が終わるのを待って声をかける。たぶんこんな風に。
『ヴァッシュさん、お話ししたいことがありますの。よろしかったら少々お時間をいただけませんか?』
自分の口元にかすかに笑みが浮かんだことに、彼自身気づいていなかった。
遠ざかる足音に何の関心も示さず、ヴァッシュは黙々と素振りを続けた。
Ⅶ
素振りを終えると、ヴァッシュは老人に声をかけてシャワーを借りた。毎日のことで、老人も二つ返事だ。
手早く汗を流し、服を洗う。自主トレで汗だくになった服の洗濯までマネージャーに頼むのは心苦しかった。
裏庭の物干し台に服を干す。部屋に戻る途中で喉の渇きを覚えたヴァッシュは厨房に向かった。
「…あれ?」
食堂に明かりが点いている。皆部屋にいる筈なのに。
厨房からひょいと顔を出す。椅子に腰掛けた小さな背中が見えた。キーボードをせわしなく叩く音が聞こえる。
コップの水を一気に飲み干してから、ヴァッシュはメリルに歩み寄った。
「マネージャー」
びくりと肩が震えた。振り返ったメリルの表情が驚きから微笑みに変わる。
「ヴァッシュさん…どうしたんですの、こんなところに」
「それはこっちの台詞。打ち合わせ、終わったんだ。すいぶんかかったね」
「ええ…」
メリルは僅かに目をそらせた。
気まずい空気を打破するきっかけを探して、ヴァッシュはパソコンの画面を覗き込んだ。
「これ、ドイツ語?」
「独文和訳と和文独訳…本日のノルマですわ。いつもはもっと早い時間に終わらせるんですけど、今日は打ち合わせが入りましたから」
「じゃ、毎日ここで勉強してたの?」
首が縦に振られ、黒髪がさらりと揺れた。
「タイピングの音は意外とうるさいですし…部屋にあるのは座卓だけですから。正座よりも椅子に座るほうが足が楽なんですもの」
台詞の後半は冗談めかした口調だったが、同室のナスティに配慮してのことだろう。いたずらっ子のような笑みを浮かべたメリルに、ヴァッシュも微笑みを返した。
「それにしても…誰だ!?」
厨房に人の気配を感じて振り返る。暗い中動く人影。ヴァッシュはメリルを背に庇うように立ち、身構えた。
食堂に入ってきたのはキールだった。泥棒などではなかったことに胸をなで下ろし、メリルはヴァッシュに並んだ。
「やあやあお二人さん、こんなところで一体何を?」
自分のことは棚上げしての芝居がかった言い回しに神経が逆なでされる。
「メリルさん、勉強ならコソコソ隠れてすることもないでしょうに。是非僕にも見せて欲しいなぁ」
「…私の勉強方法に興味がおありのようですわね」
一学期に行なわれた二回の定期考査で、メリルは学年トップだった。クラスは違うが、二位のキールがひどく悔しがったという話は二人の耳にも入っている。
メリルに痛いところを指摘され、キールは一瞬鼻白んだ。眼鏡を押し上げ、何とか気を取り直す。
「部活の合宿に来てまでガリ勉とは…さすが才媛と呼ばれるだけのことはある」
「嫌味を言う暇があるんでしたら、その間にあなたも勉強なさったらいかがですの?」
「…ご高説痛みいるね。どうして君が高校受験に失敗したのか、不思議で仕方がないよ」
『え?』
驚きを押し隠すヴァッシュの隣で、メリルは沈黙を守った。
「こんな山奥にまでパソコンを持ち込んで、授業にはないドイツ語のお勉強か。嫌味なのはどっちだ。…そんなに勉学にいそしみたいんなら、こんな部はさっさとやめて」
突然メリルにつかつかと歩み寄られ、キールは口をつぐんだ。自分を見上げる強い光を湛えた菫色の双眸に身体が凍りつく。
キールの頬が鳴った。メリルがひっぱたいたのだ。
「…私は、やりたいことをするために義務を果たしているだけです。事情を知らない人に四の五の言われたくありませんわ」
僅かに潤んだ瞳を瞼で隠して、メリルは踵を返した。キールはしばらく呆然としていたが、何も言わずに食堂を出ていった。
Ⅷ
足音にドアが開閉する音が続き、再び辺りが静けさを取り戻してから、メリルは記憶を頼りにパソコンを目指してぎこちなく歩き始めた。目を閉じたままで歩くのは危険だと判ってはいたが、どうしても目を開けられなかった。目を開けたら泣き出してしまいそうで。
石鹸の匂いを感じた次の瞬間、メリルはヴァッシュにぶつかった。
「と…大丈夫?」
咄嗟に小柄な身体を抱きとめ、ヴァッシュは戸惑いながらも問いかけた。
「ええ…ごめんなさい」
俯いていて顔は見えない。胸元から聞こえてくる消え入りそうな声。いつも気丈で、時には先輩を叱りつけたりする彼女の、思わず手を差し伸べずにはいられない頼りなげな姿。
こんな時、どうしたらいいのかさっぱり判らない。ヴァッシュの戸惑いは増す一方だった。
…でも、彼女なら。最後まで自分の荷物を持って欲しいと言わなかった彼女なら。
『こんな姿、見られたくないって思うよね…』
ヴァッシュはメリルの手を引き、パソコンの前の椅子に座らせた。隣の椅子を移動させ、背もたれを合わせるように置いてそれに腰掛ける。お互いに相手の姿は視界に入らない形だ。本当は立ち去るほうがいいのだろうが、今のメリルを一人にしておけなかった。
二人の息遣いだけが、静かな食堂に流れた。
「…何も…訊かないんですのね…」
「…話したくないなら、無理に話さなくていいよ」
一瞬背後に目をやったメリルの口元にかすかに微笑みが浮かんだ。顔を見ないように、背中合わせで傍にいてくれる。本当は事情を知りたい筈なのに、我慢してくれている。――優しさが胸にしみた。
「…私が…本命の高校の受験に失敗したのは…本当です」
ヴァッシュは何も言わずにメリルの声を聞いた。
「…ですから、私が野球部のマネージャーになりたい、と言った時には周囲に…特に母に猛反対されました」
大学受験での失敗は許されない。部活なんて無駄な時間を過ごす余裕などない、と。
「祖父母の口添えもあって、三つの条件付きで入部の許可を貰いました」
校内の定期考査で常に三位以内に入ること、夏と冬の全国模試では千位以内に入ること、週三回のドイツ語のレッスンはこれまでどおり続けること。一つでも破ったら即退部、という厳しいものだった。
「今まではクリアできたんですけど、この合宿がネックになってしまって…。先生にここまで来ていただく訳にもいきませんし」
そこで、合宿中はメールで毎日課題を出して貰い、翌日解答を送信することにした。それとは別に、帰宅後に会話の集中レッスンを受けるようになっている。
「…ただ、ここに着いてから困ったことがあって…」
勝利荘は携帯の圏外だったのだ。ここの電話は古い型で、モジュラージャックのタイプが違う。いくら課題をこなしても、送信できなければ意味がない。
「駅前なら大丈夫でしたので、食材の仕入れにパソコンを持ってついていって、朝送信するようにしたんです」
民宿のご主人一人で買い出しをするのは大変だろうから、と同行して。勿論買い物も手伝っている。
「…大変だね」
「大したことはありませんわ」
メリルは席を離れると、ヴァッシュの前に立った。綺麗なブルーグリーンの瞳をまっすぐに見つめる。
「…この話を知っているのは先生と主将と民宿のご夫妻だけです。ですから」
「判ってる。誰にも言わないよ」
その言葉にメリルは微笑んだ。
「でも、どうしてそうまでして合宿に参加したの? 強制参加じゃなかったのに」
「野球が大好きだから、ですわ」
口にしてから気恥ずかしくなったのだろう、メリルは頬を染めるとヴァッシュに背中を向けた。
「ごめんなさいヴァッシュさん、課題がまだ残ってますの」
「あ、ご、ごめんね。邪魔しちゃって」
ヴァッシュは慌てて席を立った。椅子を元の位置に戻す。
「明日も練習メニューが目白押しですわよ。しっかり休んで下さいね」
「うん、ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
Ⅸ
翌朝、朝食の席にメリルの姿はなかった。
『具合が悪いのかな…』
大人数の炊事と洗濯に追われ、ドイツ語の課題もこなさなければならない。疲れない筈はないだろう。
気にはなったが、食べなければ身体が持たない。ヴァッシュは黙々と箸を動かした。
食事が済むと、いつもは主将がその後の予定を発表してから解散を宣言する。しかし、その時口を開いたのは顧問だった。
「皆、そのままで聞いてくれ。…昨日、今ここにいない者からあるものを受け取った」
顧問は小さく折りたたまれたレポート用紙を広げ、静かに息を吸った。
「退部届」
その瞬間どよめきが起こった。ヴァッシュも目を見開いて顧問を凝視した。
『メリルが!?』
「退部届」
確認するようにもう一度言い、顧問は短い文面を読み上げた。
「一身上の都合により、八月二十日付で野球部を退部いたします」
昨日、夕食の後主将と一緒に顧問に呼ばれたのはこのせいだったのか。二人で説得したのだろうが、メリルの意志は固かった、ということなのか。そう言えば夕べ声をかけた時、少し様子がおかしかったような気もする。
ヴァッシュはかぶりを振った。野球が大好きだから、ですわ――そう言って赤くなった、照れたようなメリルの顔が目に浮かぶ。終業式の日に、お互い真剣な表情で『よろしくお願いします』と頭を下げてからまだ一月しか経っていない。
野球部に入部する為に過酷な条件を受け入れこなしてきた彼女が、そんなに簡単に投げ出すとは思えない。
…けど。
『辛かったのかな…』
野球部の雰囲気はこんなだし、ナスティ先輩ともうまくいってなかったみたいだし。一人で悩んでたのかも知れないのに、俺は全然気がつかなかった…
「おいナスティ、何か心当たりないのか!?」
新マネージャーとは同じクラスの副主将が声を荒げた。寝耳に水なのは誰もが同じらしい。
「し、知らないわよ! 今朝あたしが起きた時にはもういなかったし、荷物もなくなってたのよ!」
「朝食の準備を終えて、すぐここを出たそうだ」
顧問の言葉に、戸惑いの声があちこちから上がる。
仮に退部するにしても、挨拶もしないで逃げるように出て行くなんて彼女らしくない。それとも、俺達の顔を見られないくらい苦しかったのか…
ヴァッシュは膝の上で両手を固く握り締めた。
突然椅子を鳴らしてナスティが立ち上がった。
「冗談じゃないわ! あたし一人で野球部の面倒見ろっていうの!? 先生、あたしも退部します!」
ヴァッシュに脈がないと判った以上、野球部にいる理由はない。叫ぶように宣言してナスティは食堂を出ようとした。
「お、おい、どこへ行くんだ?」
「自分の部屋です! 届を出さなくちゃいけないんでしょう? それを書いて荷物をまとめたらすぐ帰ります!」
「…俺もやめます」
「俺も」
中途入部者が口々に言い、席を立っていく。
「主将、いいんですか!?」
「来る者拒まず去る者追わず、だ」
やる気のない奴はいないほうがいい。ギリアムの考えはヴァッシュと同じだった。
結局、午前の練習が始まる前に十二通の退部届が提出された。残ったのは体力お墨付きのグループ十二人のみ。
元男子部員は自分の荷物を手に山道を下って行く。ナスティだけは靴擦れの一件があったので、顧問が老人に頼み仕入れの車に便乗できるようにした。
予定時刻より少し遅れて練習が開始された。ウォーミングアップとランニングを終え、肩慣らしのキャッチボールが始まっても、部員達の表情は暗いままだった。
春からずっと苦楽を共にしたマネージャーが突然退部した。ましてやメリルは単なる雑用係ではなく、雰囲気を明るくしてくれる華であり、よきアドバイザーであり、外科医という協力者と野球部を繋ぐパイプ役だったのだ。失った痛手は大きい。
昼食の時間になった。シャワーを浴びて汗だくになった服を着替えた部員達が、重い足取りで食堂に向かう。
昨日までは明るい声が迎えてくれた。
「お疲れ様でした。お昼は豚肉の生姜焼きですわ」
そうそう、いつもこんな風に献立を教えてくれて…耳慣れたその声に全員の足が止まった。
テーブルに皿を並べていたのは退部した筈のメリル。
「…マネージャー!?」
十一人分の絶叫が山中にこだました。
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