夏が終わって
プロローグ
全国高校野球選手権大会地区予選。去年まで一回戦で敗退していたトライガン学園は破竹の勢いで勝ち続けた。既に準々決勝進出を決めており、『今年一番のダークホース』と言われている。
部員が九人しかいない野球部に勝利をもたらしているのが、今年入学したばかりの一年生投手、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。彼の球は重さとスピードを兼ね備えており、絶妙なコントロールで各校の打者達を翻弄し次々と三振を奪っていった。打率もよく、一騎当千の活躍ぶりから『人間台風』と呼ばれている。
準々決勝第一試合はトライガン学園対バド・ラド高等学校。
試合は一点を争う投手戦となり、両校とも無得点のまま延長戦にもつれ込んだ。
十二回裏、バド・ラド高等学校の攻撃。ツーアウトで迎えるバッターは、四番で今大会随一のパワーヒッターであるブリリアント・ダイナマイツ・ネオン。
ヴァッシュは額の汗を拭うと僅かに目を細めた。
『こいつは要注意だ』
打席毎にタイミングが合ってきている。前の打席では三振にとったものの、きわどいファウルが二回あった。
主将で三年生キャッチャーのブライアンとサインを交わす。小さく肯いて、ヴァッシュはセットポジションに入った。
四球投げて、ストライク・ファウル・ボール・ファウル。ツーワンと追い込んではいるのだが、四球目のファウルはポールぎりぎりだった。
「タイム」
ブライアンは審判に声をかけ、マウンドのヴァッシュの元へと向かった。
「ヴァッシュ、落ち着いていこう。あとワンストライクとればこっちの攻撃だ」
「はい…」
「大丈夫、いつものとおり投げれば勝てるさ」
ブライアンはヴァッシュの肩をキャッチャーミットで軽く叩いてから踵を返した。
「!」
遠ざかる背中に声をかけようとしたが、言葉が見つからない。
『先輩…』
「締まっていこう!」
「おおっ!」
ブライアンが構える。ヴァッシュはグラブの中でボールを握り締めた。
五球目は内角低目のストレート。コントロールは文句のつけようがなかったが、何故かそれまでよりスピードが落ちていた。
ボールは小気味よい音と共に場外へ消え、ネオンはゆっくりとダイヤモンドを回りホームベースを踏んだ。
延長十二回、一対ゼロ。バド・ラド高等学校のサヨナラ勝ち。――トライガン学園野球部の夏は終わった。
最後の挨拶を終え、ナインがそれぞれのベンチに戻る。
「…俺達はよくやったよ」
涙ぐむ部員達を前にしてブライアンは言った。
「長年『弱小』と呼ばれ続け、今年新入部員がいなかったら九人揃わなくて試合ができない、なんて心配してた俺達が…準々決勝まで来れたんだ。…ヴァッシュ、お前のお陰でな」
人一倍泣いている金髪の後輩の肩に手を置く。
「ありがとう…」
「先輩…」
「俺を含む三年にとって最後の夏だが…いい思い出が…でき…」
それ以上は言葉にならなかった。悔し涙が頬を濡らす。
「先輩…俺…」
「…何も言うな。…来年、頑張れよ」
ヴァッシュは泣きじゃくりながら何度も肯いた。
++++++++++
Ⅰ
ヴァッシュに連投の疲れが出て最後の球のスピードが落ちたからだ、と言った人がいた。
単発のヒットはあったものの、それを得点に結びつけられなかったのが原因だ、と言う人もいた。
控えの選手、特に押さえのピッチャーがいなかったのが痛い、と言う人もいた。
野球通を自負する人達がトライガン学園の敗因をしきりに分析しているが、当の選手達にとってはただの雑音にすぎない。負けた――その事実だけが、心に重くのしかかっていた。
部活は準々決勝の翌日から終業式まで休みになった。
そんな中、ヴァッシュは朝早くから登校していた。既に期末試験を終え試験休みに入っているので、本来なら登校しなければならない理由はない。現に彼の母親は、『昨日試合があったばかりなのに…少しは身体を休めなさい』と呆れ顔で息子を見送ったのだ。
校庭でサッカー部やハンドボール部が練習している。テニスコートではテニス部が素振りの真っ最中だ。ヴァッシュは制服のまま、校庭の片隅でぼんやりとそれを眺めていた。
不意に頭に何かかぶせられた。慌てて手に取ってそれを見る。自分の野球帽だった。
「こんなきつい日差しの下では日射病になってしまいますわよ」
耳に心地よいやや低めのソプラノの声にヴァッシュは振り返った。
そこにいたのはセーラー服姿のメリルだった。彼女は野球部のマネージャーであり、ヴァッシュのクラスメイトでもある。
「マネージャー…どうしてここに?」
「部室の掃除と資料整理ですわ。…ヴァッシュさんは?」
「ちょっと、ね…」
曖昧な笑みを浮かべて視線を元に戻す。…今考えてることは誰にも話したくない。
「しばらくここにいらっしゃるおつもりですの?」
「うん…」
「でしたら、帽子はかぶっていて下さい。倒れてからでは遅いんですから」
では、と短く挨拶するとメリルは走り去った。
「…これ、わざわざ部室から持って来てくれたのかな…」
かぶり直した帽子のつばを指先で軽く突つく。
あることに気づいてヴァッシュは首をかしげた。部室の掃除と資料整理をするなら、何もこんなに早く登校することはない。他の部が朝練をやっている時間に。
重い腰を上げると、ヴァッシュは野球部の部室へと向かった。ドアのノブを回してみるが、ドアは開かない。鍵がかかっているのだ。
「マネージャー…マネージャー?」
ノックしながら声をかけてみたが返事はない。
ヴァッシュは窓側に回ってみた。カーテンも鍵も閉まっている。掃除をするなら窓くらい開けるだろうし、冷房のない部室を締め切ったままでは暑くて資料整理などできる筈がない。
寄り道でもしているのかとしばらく待ってみたが、メリルは姿を見せなかった。
『メリル…どこに行ったんだ…』
Ⅱ
ヴァッシュは先刻の場所に再び腰を下ろした。結局メリルは部室に来なかった。
ハンドボール部が練習試合を始めていた。陸上部が目の前を走り抜けていく。その他、さまざまな運動部が活動していて、朝来た時よりもだいぶ賑やかになっている。
ヴァッシュは長いこと何をするでもなくそこに座っていた。ただぼんやりと校庭を眺めながら。
「はぁ…」
浮かない顔でため息をつく。
『時間の無駄…なのかな…』
自分のしていることに疑問を抱きつつ、それでも立ち去る気になれない。ヴァッシュはがっくりと肩を落とし、再び吐息した。
近づく人の気配に振り返る。無地のTシャツに学校指定のジャージをはいたメリルだった。軽くみはった菫色の双眸と目が合う。
「あ…ま、まだいらしたんですの?」
「え?」
「もうすぐお昼ですわよ」
空を見上げ、眩しさに目を細める。太陽は中空高く輝いていた。
「ヴァッシュさん、昼食はどうなさいます?」
「…考えてなかった…」
『学校に行ってくる』とだけ告げて家を出た。母さんは仕事に行った筈。何時に帰るとは言わなかったから、用意はしてないだろう。どこかで食べるか、家に帰ってから自炊するか。…まだ帰りたくない。
「もしよろしかったら、一緒に食べませんか?」
メリルは手にしていたコンビニの袋を振ってみせた。
「…いいの?」
いつもは見上げるヴァッシュの顔を今は見下ろしている。メリルは不思議な気分を感じながら肯いて答えた。
炎天下では食べる気になれず、二人は木陰に移動した。気温の高さはどうしようもないが、陽射しが遮られる分いくらかましだった。
「わぁい、サーモンサンドだ! いっただっき」
「まだです! ちゃんと手を拭いて下さい!」
おしぼり代わりのウェットティッシュを渡され、ヴァッシュは僅かに苦笑した。これでは賢い母親と行儀の悪い子供だ。
きちんと手を拭き、あらためていただきます、と宣言する。お伺いを立てるようにそっと目を向けると、メリルはにっこり笑って肯首した。
「うん、おいしいおいしい。サイコー」
ヴァッシュは満面の笑みを浮かべてサンドイッチを頬張った。傍らでメリルも手を拭き、野菜サンドに手を伸ばす。
このサーモンと冷たいトマトの組み合わせが…ヴァッシュは噛むのも忘れて並べられた食べ物を見回した。
サーモンサンド、大根サラダ、ドーナツ――全部自分の好物だ。手渡された缶ジュースも、いつも飲んでいるアイスコーヒーとスポーツドリンク。
野菜も飲み物も充分冷えている。それに、彼女一人の昼食にしてはどう見ても量が多すぎる。
『わざわざ買ってきてくれたんだ…』
「…どうなさいましたの?」
ヴァッシュは大きく首を横に振った。慌てて口の中のものを飲み込もうとして喉につかえさせ、胸を叩きながらアイスコーヒーで流し込む。
「そんなに急いで食べなくても、誰も盗ったりしませんわ」
メリルは呆れたような表情でヴァッシュの背中をさすった。
+++++++++
Ⅲ
昼食を食べ終えると、メリルは残されたゴミを一つにまとめて立ち上がった。
「それじゃ私は作業に戻りますわ」
「手伝おうか」
咄嗟に自分の口から出た言葉に、ヴァッシュは内心ひどくうろたえた。
「あ、いや…ご馳走になったお礼と言うか…資料整理はできないかも知れないけど、掃除くらいなら僕でも…その…」
メリルはどもりながらも言葉を紡ぐヴァッシュを見つめた。驚いたような表情がやがて微笑みに変わる。
「…ありがとうございます。でも、一人で大丈夫ですから。お気持ちだけいただきますわ」
「そ、そう」
「午後から夕立の可能性があるそうですから、早く用事を済ませてお帰りになるほうがよろしいですわよ」
ヴァッシュがいつも自転車で通学しているのをメリルは知っていた。
「うん…ありがとう」
軽く頭を下げて踵を返したメリルを、何とはなしに目で追う。
トライガン学園は広い敷地にL字型に建物が建っている。長い線が四階建ての校舎、短い線の部分にあるのが三階建ての体育館と二階建ての格技棟と新しいクラブハウスで、全て渡り廊下で繋がっている。L字型の角のちょうど反対側に古いクラブハウスがある。ちなみにプールは校舎の屋上にある。
三年前、体育館を立て直す際に格技棟も合わせて建設された。それにより、バスケットなどの屋内球技の部は体育館、柔道や剣道といった部は格技棟を使うようになった。格技棟には部室が設けられていて、部員が多かったり優秀な成績を修めている運動部の部室はそちらにある。格技棟はシャワー室完備で生徒達の評判もいい。
野球部の部室は古いクラブハウスにあった。格技棟の部室はおろか、新しいクラブハウスにも入れないのだ。古いクラブハウスは部室の六割が空き部屋で、いわば弱小運動部の為の離れ小島である。
二人は校舎を背に座っていた。部室に行くならヴァッシュから見て左手に進み、突き当たったら右へ曲がって、校庭の端を行くのが一番早い。それなのにメリルは逆のほうへ足を向けた。体育館や格技棟があるほうへ。
ヴァッシュは不思議に思ったが、何か用事があるのだろう、くらいにしか考えなかった。
首を巡らせ視線を校庭に戻す。昼食を終えた生徒達が三々五々活動を再開し始めていた。
「最初から木陰にいればよかったんだ…」
そうしていれば、マネージャーに余計な手間をかけさせなくて済んだのに。
手に持った帽子をくるくる回す。自分の間抜けさに思わず苦笑が洩れた。
どのくらいそこに座っていただろうか。
うだるような暑さはそのままだが、地面に落ちる影が薄くなり風が出てきたことに気づいて、ヴァッシュは木の下を離れ空を見上げた。暗い灰色の雨雲がかなりのスピードで流れてくる。
『すぐにでも降り出しそうだな…』
思ったそばから、最初の一滴が校庭に黒い水玉模様を描いた。次々と落ちてくる水滴はすぐに地面の色を変え、木々に潤いをもたらした。
校庭にいた生徒達がクラブハウスに向かって走り出す中、ヴァッシュはその場に立ち尽くしていた。
Ⅳ
「ヴァッシュさん!」
突然名前を呼ばれて、ヴァッシュは声のしたほうへ身体を向けた。白い傘を差したメリルが目を見開いて自分を見つめていた。
「こんな雨の中で何をしてるんですのっ!?」
メリルは慌てて駆け寄るとヴァッシュに傘を差し掛けた。いつも逆立てている金髪が、今は雨に濡れて全部おろした状態になっている。
ハンカチを差し出したが、ヴァッシュは凍りついたように動かない。メリルは仕方なく腕を伸ばしヴァッシュの髪を拭いた。水を吸ったハンカチがすぐに重くなる。
「こんなにずぶ濡れになって…とりあえず部室に行きましょう」
無言のまま立ち尽くすヴァッシュに業を煮やしたメリルは、彼の腕を強引に引っ張りながら歩き始めた。
「行きますわよ、ほら!」
校庭を突っ切り、部室のドアを開ける。電気を点けてから、メリルはヴァッシュの背を押して部室に入った。ドアを閉め、雨が吹き込まないよう窓を細めに開ける。
空気が重く淀んでいる。今日換気をしていない証拠だ。ヴァッシュはそれに気づいたが、何も言わなかった。
メリルは洗濯しておいたタオルを何枚も取り出した。ヴァッシュの頭に載せ、少々乱暴に髪を拭う。
「いくら暑いと言っても、これでは身体が冷えてしまいますわ。着替えはありまして? …ちょっとヴァッシュさん? 聞いてるんですの!?」
ヴァッシュの唇が僅かに動いた。が、その声はあまりにも小さく、メリルには聞き取れなかった。
「え?」
ヴァッシュががっくりと膝をついた。前のめりに倒れる身体をメリルが慌てて抱きとめ必死に支える。Tシャツもジャージも濡れたが、メリルは全く意に介さなかった。
「…あの…最後の一球…」
呻くようなかすかな声がメリルの耳朶を打った。
「…疲れてたからなんかじゃない…あれは……俺は…わざと…」
メリルの胸元を濡らす水はほのかに暖かかった。大きな背中に腕を回し、そっと抱きしめる。
「…わざと…力を抜いたんですのね」
ヴァッシュは息を呑んだ。
「…気づいてたのか…」
「ええ…」
たった一人でヴァッシュの豪速球を受け続けたブライアンは、予選の途中で左手を痛めていた。
頼む、誰にも言わないでくれ。メリルはブライアンに土下座せんばかりの勢いで懇願された。真剣なまなざしに、ただ黙って肯くことしかできなかった。
「俺を…励ましに…来てくれた時……先輩…左腕が…痙攣してて……それに気づいたら…俺…」
それまでのように投げられなかった。
試合が終われば先輩に休んで貰える。でも、だからと言って投球の手を抜いていいということにはならない。
三年生にとってはこれが最後の夏だったのに、自分の勝手な行動で終わらせてしまった。
「…俺は…間違ってたんじゃ…」
メリルは目を閉じると、何も言わずに少しだけ腕に力を込めた。
雨音と雷鳴にまぎれて、ヴァッシュはメリルの胸の中で声を上げて泣いた。
Ⅴ
ようやく落ち着いたヴァッシュは、頭からタオルをかぶったままそっとメリルから身を離した。気まずくて彼女の顔が見られない。顔を見られたくない。
メリルに半ば背を向けるようにして、ヴァッシュは渡されたタオルで制服を拭いた。それから、床の水を拭うべく掃除用具入れからモップを取り出す。
「…ごめん…」
何に対して謝っているのか自分でもよく判らないが、ヴァッシュはモップを動かしながら呟くように小さく詫びた。
「いえ…」
使ったタオルをまとめながら短く答えるとメリルは窓へ目を向けた。雨は峠を越えたようだが、まだ当分止みそうにない。
「ヴァッシュさん、着替えはありますの?」
「ううん…でも、レ…セイブレム先生のところで乾かさせて貰うから」
レム・セイブレム。トライガン学園の養護教諭である。運動部の生徒が怪我をした時の為に、試験休み中の今日も学校にいる筈だった。
「キミも着替えないとね。部屋、出てるよ」
「いえ、制服はここにはありませんの。女子更衣室で着替えて、ロッカーにしまいましたから」
「じゃ校舎に行かなきゃならないんだ」
何気なく相槌を打って、ふと疑問に思う。部室の掃除と資料整理をするなら、わざわざ校舎に行く必要はない。
制服を汚したくないのならここで着替えれば済む。
メリルが今日ここに来たのはたぶんこれが二回目。一回目は俺の為に帽子を取りに来ただけで、掃除も資料整理もしていない。そう考えれば、モップが乾いていた理由も空気が淀んでいた訳も説明がつく。
『どうしてそんな嘘をついたんだ…』
俺に内緒でやりたかったことがあるか、俺に内緒で会いたい奴がいたか。――かすかな胸の痛みにヴァッシュは戸惑った。
「…シュさん、ヴァッシュさん?」
「え…あ、ごめん。何?」
「早く校舎に行きましょう。肩を冷やしちゃいけませんから。傘はあります?」
ない、という簡単明瞭な答えにメリルは僅かに肩を竦めた。
「あまり大きな傘ではありませんけど、ないよりはましですわね。ご一緒しましょう」
窓を閉めて電気を消し、二人は部室を出た。メリルがしっかりと施錠する。
折り畳みの白い傘を開くと、メリルはヴァッシュにそれを差し掛けた。
「どうぞ」
「貸して。僕が持つよ。濡れたタオルは重いだろうし、身長差がこれだけあると大変でしょ?」
相手の顔を見ないようにして手を伸ばし、傘の柄を掴む。一瞬だけ小さな手に触れた。
「タオルも持とうか?」
「これくらい大丈夫です」
小降りになった雨の中、二人は無言のまま校庭を横切った。
『これって…傍から見ると相合傘なのかな…』
頬に血が上るのを自覚する。
メリルはどうなんだろう。ヴァッシュは目だけ動かした。濡れたTシャツが彼女の身体に張りつき下着が透けて見える。
ヴァッシュは慌てて視線を元に戻した。顔が更に赤くなる。
「ご、ごめん!」
「? 何がですの?」
赤面している隣の男を見上げながら、メリルは不思議そうに問いかけた。
「…服…濡らしちゃって」
「!」
ヴァッシュに負けず劣らず赤面すると、メリルは自分の身体に張りついているTシャツを両手で引き剥がしにかかった。
+++++++++++
Ⅵ
通り道なのをいいことに、ヴァッシュは自分達のクラスから女子更衣室前を経由して保健室に向かうことにした。
校舎内にはあまり人はいないが、今のメリルの姿を他の奴に見られたくなかった。
自分のロッカーを開けると、メリルは鞄からタオルを二枚取り出してヴァッシュに渡した。
「これ、使って下さい」
「いいよ悪いから。キミが使う分がなくなっちゃうし」
「大丈夫です。まだありますから」
言いながら、笑顔で鞄を軽く叩いてみせる。
「…ありがとう。借りるね」
ヴァッシュは微笑みながら礼を言った。彼女の言葉が優しい嘘だと知りながら。
メリルが更衣室に入るのを見届けてから、ヴァッシュは小さくため息をついた。
『ここまで一緒に来ちゃったけど、いやらしい人、とか思われてないよね』
やましい気持ちは全然なくて…いや全然でもないか…さっきは思わず目をそらせちゃって、『少うしもったいなかった、かな』なんて思ったり…ってそうじゃなく!
ピコピコしつつ心の中で自分に言い訳している自分に気づいて、ヴァッシュはまた赤面した。 おそるおそる辺りを見回して、誰もいなかったことに安堵する。
「…何やってんだろ、俺」
早く行こ。いつまでも濡れたままでいたら、またメリルに叱られる。
保健室のドアを軽くノックする。
「どうぞ」
明るい声にドアを開け、失礼します、と一礼してから部屋に入る。長い髪を束ねた白衣姿の養護教諭は、椅子ごと振り返ってヴァッシュの姿を確認すると微笑みを浮かべた。
「あらヴァッシュ、びっしょりじゃない。どうしたの?」
彼女が学校で自分を君づけで呼ばないのは二人きりの時だけだ。真面目な顔をしていたヴァッシュはにっこり笑って言った。
「あ、今誰もいないんだ。かしこまるんじゃなかったな」
その口調はクラスメイトを相手にしているかのようで、とても先生に対する話し方とは思えない。
「午前中は捻挫やら突き指やら結構多かったけどね。で、どうしたの、水も滴るいい男になって」
「濡れたくて濡れた訳じゃないよ…」
言いながら、ヴァッシュは僅かに目を伏せた。かすかに椅子を軋ませてレムが席を立つ。
「服、乾かしたいんだけど…いい?」
「いいわよ。全部脱いで、ベッドに横になりなさい。干しといてあげるから」
「でも」
「いいから。…夕べは眠れなかったんでしょ? 雨がやんで服が乾くまで動けないんだから、そうしなさい」
ヴァッシュの目の前に突き出されたのは備品の目薬。
「…レムにはかなわないや」
確かに眠れなかったけど、目が充血してるのはさっき泣いたからなんだけどな。
苦笑しながら受け取ると、ヴァッシュはそれを遠慮なく使った。目薬を返してベッドに歩み寄り、勢いよく仕切りのカーテンを引く。
「タオル持参とは用意がいいじゃない」
「…貸してもらったんだ」
誰に、とは言わなかった。
脱いだ服をカーテンの隙間から渡していく。全て脱ぎ終えると、ヴァッシュはタオルで身体を拭いた。
ベッドに潜り込み、大きく深呼吸する。眠れそうになかったが、暖かい上掛けに包まれるのは気持ちがいい。
『さっきも…あったかかった…』
ヴァッシュはゆっくり目を閉じると、手足を縮め胎児のように丸くなった。
Ⅶ
控えめなノックの音。それに応えるレムの声。
ああ、保健室らしいな…。ヴァッシュがそんなことをぼんやりと考えていた時。
「失礼します」
聞こえてきた声に、ヴァッシュは思わず目を見開いた。
「あらあなた…」
「あの、野球部のヴァッシュ・ザ・スタンピードさんは」
「今横になってるけど…会う?」
何言ってるんだよ、レム! 俺が今服着てないの知ってるだろ!?
ヴァッシュは音を立てないように上掛けを顔まで引き上げた。それでも耳だけはしっかり出している。
「いえ…休んでらっしゃるなら邪魔したくありませんから」
ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、続くレムの声にヴァッシュの心臓は跳ね上がる。
「メリル・ストライフさんでしょ? 野球部のマネージャーの」
「はい、そうです…けど」
保健室のお世話になったことは一度もないのに、どうしてセイブレム先生は私のことをご存知なのかしら。メリルは僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。
「いろいろと話を聞いてるのよ」
何言い出すんだよ、レム~~~~~!!
ヴァッシュの狼狽をよそに、レムはにっこり笑ってつけ足した。
「容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能。まさに才色兼備、高嶺の花だって」
保健室にやってくる生徒からメリルの名を何度も聞いているのは本当だ。大半は誉め言葉と共に。
「そんな…過大評価ですわ」
メリルの声には困惑の色がありありと窺える。
「…体調が…悪かったんでしょうか」
沈んだ声にヴァッシュは身体を固くした。
俺は大丈夫だから。心配なんてしなくていいから。――そう声に出して言えたらどんなにいいか。
「夕べは眠れなかったみたいね。無理もないと思うけど」
「そうですか…。あの、気がついたら『お大事に』と伝えて下さい」
よろしくお願いします、失礼しました。挨拶にドアが開閉する音が続いた。
「…ヴァッシュ、起きてる?」
寝てる。ヴァッシュは心の中だけで答えた。
「あの子が噂の名マネージャーね。写真よりずっとかわいいじゃない」
「写真!? あるの!?」
思わず声を上げ、即座に後悔する。カーテンの向こうから笑い声が聞こえてきた。
「クラスの集合写真よ。入学式の後撮ったでしょう?」
「…彼女に変なこと言わないでよね」
「変なことって?」
「…俺のことからかって遊んでるでしょ」
大きく憮然と書いてある、そんな印象の声でため息交じりに呟く。
「先週約束すっぽかした罰よ」
「…オ・ヤ・ス・ミ」
ほとんど義理でそう言うと、ヴァッシュは服が乾くまでたぬき寝入りを決め込んだ。
+++++++++
Ⅷ
次の日も、ヴァッシュはずっと校庭を眺めていた。昨日学習したことを早速活かし、木陰に陣取って。
今は校庭に人影はない。昼食の為休憩に入ったのだ。
「収穫なし…か」
がっくりとうなだれて吐息する。
気を取り直して顔を上げ、辺りを見回す。探し物が変わっていることに気づいて、ヴァッシュは僅かに苦笑した。
「今日も来てるはず…ないよね」
昨日はここで一緒にお昼を食べたけど。
視界の隅に動くものを捕らえて、ヴァッシュは右手に顔を向けた。格技棟から出てきた四人が、学校をぐるりと囲む塀に沿うように歩いていく。
先頭に立つのは小柄なセーラー服のショートカット。後に続く三人の男は皆大柄で、上下とも白い服を着ている。
『メリル! と、あれは…柔道部か?』
四人は古いクラブハウスの陰に消えた。柔道部は部員が多くて成績もよく、部室は格技棟の中にある。
理由は判らない。でも――胸騒ぎがする。
ヴァッシュは立ち上がると、四人とは逆のほうから古いクラブハウスを目指して走り出した。
休憩時間になるのを待って、メリルは柔道部員でモネヴという名の二年生に声をかけた。
「あの…お忙しいところ申し訳ありません。私、野球部マネージャーのメリル・ストライフと申します」
振り返ったモネヴが、メリルの全身に遠慮なく視線を走らせる。不快感を押し殺し、メリルは続けた。
「実はお話ししたいことがありますの。よろしかったら、少々お時間をいただけないでしょうか」
「…何の用だ?」
「野球部のことで」
「…いいぜ。じゃ、あんたらの部室に行こうか」
傍にいた一年生部員二人に目配せして、モネヴは腰を上げた。二人がそれに続く。
メリルは内心戸惑った。話をしたかったのはモネヴ一人だけなのに、何故二人もついて来るのか。しかしここで下手に質問して相手の機嫌を損ねるのはまずい。
『本当にこの人でよかったのかしら』
モネヴの目を見た時、自分の判断に自信が持てなくなった。…でも、自分の頭が胸に届かないほどの身長と、服の上からでも判るしっかりした筋肉の持ち主なら…。
『野球部の為ですわ。メリル、ファイトーッ!』
天気など差し障りのない話をした後メリルは質問した。
「先輩はどうして柔道部に入部されたんですか?」
「柔道が大好きだからさ」
ふざけているような口調でそう言われても信憑性はまるでない。
「…そうでしょうか。…私には、先輩が柔道に物足りなさを感じてらっしゃるように思えるのですが」
昨日ずっと練習を見ていたが、指示をされれば動くものの自分から積極的に練習してはいなかった。やる気が全く感じられなかった。
「…だったらどうだっていうんだ」
既にクラブハウスの横に来ていた。核心に近い話は部室で、と考えていたのだが、水を向けられてメリルは尋ねた。
「野球はお好きですか? 興味はありますか?」
先頭を歩いていたメリルには、その時モネヴが凶悪な表情を浮かべたのが見えなかった。後輩達と素早く視線を交わし、二人が小さく肯いたのも。
「そうだなぁ…。今一番興味があるのは」
モネヴは笑った。
「あんたかな」
意外な答えに思わず振り返ったメリルを軽く突き飛ばす。バランスを崩しかけた彼女の左右に回り込んだ柔道部員が、メリルの肩と手首を掴んでクラブハウスの外壁に押しつけた。間髪入れず、モネヴの左手がメリルの口を塞いだ。
「あんたに興味がある」
舐め回すように視線を往復させる。嫌悪感と恐怖に震えるメリルに嗜虐的な気分が高められる。
モネヴは空いている右手でメリルの腿を撫で回した後、おもむろに胸へと手を伸ばした。感触を味わうかのようにゆっくりと蠢かせる。
突然胸を鷲掴みにされて、メリルは身体をこわばらせた。見開いていた目をきつく閉じる。
「おい、部室の鍵を持ってる筈だ。探せ」
モネヴはメリルの左手を押さえていた後輩に命じると、胸から手を離しメリルの手首を押さえ込んだ。スカートのポケットを探っていた一年がにやりと笑い、お目当てのものを取り出す。
「俺は巨乳のほうが好みなんだがな」
「野球部のマネージャーっていったら高嶺の花じゃないですか。…たまんねえなぁ」
「モネヴ先輩、俺達にもヤラせてくれるんですよね?」
「ああ。三人にヤラれました、なんて言えねえだろうからな。ばれる心配はねえさ。たっぷり楽し」
下卑た会話は、腹に響く大きな音で遮られた。
Ⅸ
三人は驚いて音のしたほうへ目を向けた。試験休み期間に部活をするのは、試合が近いか毎日の練習を欠かさない一部の部だけだ。古いクラブハウスを使っている部が熱心に活動する訳がない。ここには誰もいない筈だった。
雪が降っているかのように木の葉が舞い散る中、金髪を逆立てた男が左の拳を樹の幹に当て佇んでいた。
「誰だてめぇは!!」
「モ、モネヴ先輩、野球部のピッチャーですよ! 『人間台風』とか呼ばれて」
ヴァッシュの眼光に柔道部員の舌は凍りついた。キーホルダーのついた鍵がコンクリートのたたきに落ちて、その場に不似合いな軽やかな音を立てた。
左腕をおろしたヴァッシュが一歩進んだ。メリルを押さえつけていた手が離れたが、メリルは動けなかった。
「何を…している…」
低い、怒りを湛えた声。三人の背中を冷たいものが走った。
「…お、お話ししてたのさ! 『野球に興味はありますか』って訊かれてな。大方野球部に勧誘したかったんだろうよ!」
先輩としてのメンツからか、モネヴが声を張り上げた。笑ってみせたが口元が引きつっている。虚勢であることは一目瞭然だ。
『メリル…君も探してたのか』
野球に向いていそうな奴を。
ヴァッシュは炎天下での長時間の試合に耐えられる持久力の持ち主を校庭で探し、メリルはヴァッシュの豪速球を受けられる体格の持ち主を格技棟で探していたのだ。
ヴァッシュは四人の間に入ると、メリルを背中に庇うように立った。
「…なら、入部テストを受けてみるか?」
「テ、テストだと!?」
「俺の球を受ける。それだけだ」
不敵なヴァッシュの表情を蔑みと取ったのか、モネヴの顔は真っ赤になった。
「よし、やってやろうじゃないか!!」
ヴァッシュは部室の鍵を拾うと、それを未だ震えているメリルに差し出した。
「俺のグラブと予備のキャッチャーミット、それとボールを取ってくれないか」
微笑みを浮かべ、できるだけ優しい声で言う。メリルは小さく肯くと、鍵を手にようやく動き出した。何故かヴァッシュはその後を追い、部室の前でメリルを待った。
ドア越しにグラブなどを受け取る。ヴァッシュは礼を言い、小声で続けた。
「鍵をかけるんだ」
返事を待たず、部室にメリルを残したままドアを閉める。施錠する小さな音を確認してから、ヴァッシュはモネヴ達に向き直った。首を動かし、校庭に移動するよう促す。
クラブハウスの前でモネヴにキャッチャーミットを渡すと、ヴァッシュはグラブを左手にはめながら移動した。マウンドからホームベースまでの距離に相当する分だけ離れたところで足を止める。ミットをはめたモネヴがしゃがみ込み、ゆっくりと構えた。
メリルが部室の窓から心配そうに見守る中、ヴァッシュはセットポジションに入った。
第一球。地区予選でも見たことがない豪速球が見事キャッチャーミットにおさまった。モネヴが後ろに立っていた後輩もろともひっくり返る。
「ストライクワン」
静かな声がカウントを告げた。
「三球三振として、スリーアウトチェンジまであと八球。…構えろ」
「…ディ…ディアブロ…」
モネヴは小さく呟いた。今起きたことが信じられない。悪い夢でも見ているような気分だった。
「うわあああああああっ!!」
三人はわめきながら一目散に逃げ出した。
++++++++
Ⅹ
その場に残されたキャッチャーミットとボールを拾うと、ヴァッシュは野球部の部室に目を向けた。
メリルの姿はなかった。
『!?』
慌てて窓に駆け寄る。メリルが窓枠の下に掴まって座り込んでいた。
ヴァッシュは軽く窓ガラスを叩いた。その音にメリルが顔を上げる。顔色が悪く、ひどく消耗している様子だ。
「ここを開けて」
ヴァッシュの声に、メリルは力の入らない足を心の中で叱責してどうにか立ち上がり、窓の鍵を開けた。が、すぐにまた座り込んでしまう。
ヴァッシュは窓からむっとする部室に入った。グラブなどを机に置き、震えているメリルのそばに片膝をつく。
「大丈夫? 気分が悪くなったの?」
労るように右手をそっと肩に置く。その刹那メリルの身体が硬直して、ヴァッシュは電流に触れたかのように手を引っ込めた。
「…ごめん…恐いものを見せちゃって…」
自分がどうなるか判らないから、ずっと本気で怒らないようにしてたのに。
「僕は…僕は、キミを傷つけたりしないから…絶対しないから…」
メリルの震えは止まらない。ヴァッシュは目を伏せるといったんメリルから離れた。窓を施錠し、グラブなどを片づけて机に置いてあった鍵を手に取る。ドアを開け電気を消すと、ヴァッシュは再びメリルに近づいた。
「…しばらくの間我慢してね」
メリルを抱き上げる。華奢な体が竦むのを感じた。――胸が痛い。
「すぐだから」
もう一度メリルに声をかけると、ヴァッシュはそのまま足早に歩き出した。
昇降口に二人分の靴を残し、ヴァッシュは靴下のまま廊下を歩いた。
保健室のドアをノックする。返事はあったがヴァッシュは待った。
ドアが開いてレムが顔を出した。
「ヴァッシュ、どう」
言いかけて、レムはメリルに気づき目を丸くした。
ヴァッシュは保健室に入ると、手近な椅子にメリルを座らせた。
「レム…彼女を頼むね」
弱々しい微笑みを浮かべてそれだけ言うと、ヴァッシュは保健室から出ていった。
重大なことが起きたのは判るが、それが何なのか判らない。レムは自分の椅子を持ってメリルに歩み寄った。
彼女のすぐ前にそれを置き、腰掛ける。
顔色が悪い。表情は俯いていてよく見えないが、口元がこわばっている。両手首に刻まれた指の跡。特に左手が酷い。
「…まず手当てをしましょう」
レムはメリルの手首に湿布を貼り、包帯を巻いた。その間もメリルはずっと震えていた。
「野球部の部室でボールを踏み転倒しそうになる。咄嗟に両手をついたが両手首捻挫。そういうことにしておくわ。
…まさかと思うけど、ヴァッシュがやったの?」
「違います!!」
メリルがはじかれたように顔を上げた。
「ちょっと訊きにくいけど、大事なことだから訊くわ。…最後までされた?」
メリルはきつく目を閉じ、激しくかぶりを振った。
レムは柔らかく微笑みながら肯くと、メリルの手を取って昨日ヴァッシュが横になったベッドへ連れていった。
「帰り、遅くなっても大丈夫? …そう。じゃ、仕事が終わったら車で送るから、それまでそこで休んでなさい」
固辞するメリルの肩を乱暴にならないように押さえつけ、上掛けをかける。
「そんな顔色の生徒を一人で帰らせる訳にはいかないわ。教師の指示には従うものよ。…目を閉じて、ゆっくり呼吸 する。今はそれだけでいいから」
安心させるように微笑みかける。ようやくメリルは小さく肯き、静かに目を閉じた。軽い音を立てて仕切りのカーテンが引かれた。
どのくらい経ってからかは判らないが、かすかなノックの音が聞こえた。
ⅩⅠ
西の空が茜色に染まっている。さすがに少し涼しくなってきた。
メリルはレムの車の助手席にいた。
「ちょっと失礼」
レムはダッシュボードから小さな箱を取り出すと蓋を開けた。そこにあったダイヤのリングを左手薬指にはめる。
「セイブレム先生…」
「私、婚約者がいるの。皆には内緒よ」
レムは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
『似てる…』
あの人に。今の表情も、さっきの微笑みも。そして思い出した。二人ともお互いを呼び捨てにしていたことを。
似たもの夫婦、という単語が脳裏をよぎる。
『夫婦はどちらからともなく似てくるといいますけど、結婚前でもそうなのかしら…』
車が動き出してから、しばらく沈黙の時間が続いた。
「あ、そうそう」
信号待ちの時、レムは鞄から缶ジュースを取り出した。
「預かった時は冷たかったんだけど…ごめんなさい、ぬるくなっちゃったわね」
手渡されたそれに視線を落とす。いつも自分が好んで飲むアイスミルクティー。
「部員探しは俺がやる。キミは終業式まで学校に来るな。それから、恐い思いをさせてごめん。本当に本当にごめん。…贈り主からのメッセージよ」
「そんな…あれは私が勝手にしたことで、ヴァッシュさんに責任はありませんわ!!」
「…何があったのか、差し支えなかったら話して貰えないかしら?」
メリルは言葉少なに語った。三年で引退してしまったキャッチャーの代わりの人を探していたこと。ある人に声をかけたが、セクハラまがいのことをされそうになったこと。ヴァッシュが助けてくれたこと。
「…ですから、あの人が私に謝る理由なんて…何も…」
缶を握り締めながらメリルは俯いた。部室で見た辛そうな顔が目に浮かぶ。
「…私…迷惑をかけたのに…助けて貰ったのに…あの人にお詫びも…お礼も…」
語尾が震え、掠れて消えた。
「…たぶん勘違いしてるのよ。男の子には、痴漢に遭った女の子がどんなにショックを受けるか、なんて理解できないでしょう? あなたが震えてた理由を、本気で怒った自分を見たあなたが、自分に脅えてるからだと思ったんだわ。
前にも一度そんなことがあったから。あれはあの子が小学」
「いえ…言わないで下さい」
「どうして? 知りたくないの?」
「…知りたいです。でも、あの人が話さないあの人自身のことを、他の人から聞きたくないんです。話さないのは 話したくない理由があるからでしょうし…」
レムは僅かに眉を上げた。この子、ほんとにいい子じゃない…。
「…でも、一つだけ教えて下さい。…どうしてセイブレム先生はヴァッシュさんのこと、そんなにお詳しいんですか?」
「ヴァッシュは私の従兄弟なの。私の母とあの子の母親が姉妹でね。あの子のことは生まれた時から知ってるわ」
「従兄弟…」
呟くようにくり返す。でも、心に芽吹いた疑問は消えなかった。従兄弟なら結婚できるのだから。
「あなたの質問に答えたんだから、私にも質問させてちょうだい。…あなた、本気で怒ったヴァッシュのこと、恐いと思わなかった?」
「…思いました。表情も目つきも話し方も声もいつもと全然違っていて、私が知ってるヴァッシュさんじゃなくて。怒りの炎が目に見えるようでした。…でも…」
続いた言葉に、レムは嬉しそうににっこり笑った。
++++++++
ⅩⅡ
「ただいま」
「ああレム、お帰りなさい。帰って早々悪いんだけどヴァッシュに電話してちょうだい。もう、何度かかって来たか判らないわ」
嘆息する母親はげんなりといった表情だ。
レムは玄関に鞄を置くと、早速受話器を取り上げた。一回目のコールが鳴るか鳴らないかで応答がある。
『はいっ、スタンピードですっ!』
「…ヴァッシュ…耳元で怒鳴らないで…」
『レム!! 何で携帯の電源切っとくのさ! ずっと電話してたのに!』
「仕事中に出られる訳ないでしょう。それより五分おきにうちに電話するのやめてよ。お母さん困ってたわ」
『五分おきじゃない、十分おきだ!』
「大差ないわよ」
レムはため息をついた。開けっぴろげに見えて実は人を深く寄せつけないヴァッシュが、どうしてあのマネージャーにだけはこんなにも過剰反応するのか。
『で…その…メリルは?』
「少しドライブしてから家まで送ったわ。だいぶ落ち着いたみたい。『お詫びもお礼も言ってない』って、ずいぶん気にしてたわ」
『そんな! 謝んなきゃならないのは俺のほうなのに! 恐いもの見せちゃって…』
「そう思うんなら、今度会った時に謝るのね」
『…話…聞いてくれるかな…』
近づくだけで、顔を見るだけで、逃げ出しちゃうんじゃないかな…。
こんな不安そうな従兄弟の声を聞くのは何年ぶりだろう。レムは目を閉じると、声を出さずに少し笑った。
「さあ、そこまで責任持てないわ。俺の代わりに家まで送り届けて欲しい、これを渡して欲しい、それと伝言も…」
わざとヴァッシュの口調を真似て言う。
「頼まれたことは全部やったもの」
『レムのいじわる…』
「泣き言言う暇があるなら、どうすれば自分の気持ちをきちんと伝えられるか考えるのね。顔を合わせる時は必ず来るんだから」
『うん…』
「大丈夫、きっとうまくいくわよ」
『どうしてそう思うの?』
車内で聞いた話をしようか…レムは少し考えて、やめた。メリルは言っていた。他の人から聞きたくない、と。
「女の勘よ」
『あてになるの? ソレ』
レムは受話器を本体に叩きつけるように置いた。かなり派手な音がしたから、電話の向こうではヴァッシュが耳を押さえていることだろう。
何の気なしに受話器の上の左手に視線を落とす。薬指に輝く指輪を見て、レムはふと思った。
『あの子にも、たった一人の特別大切な存在ができたってことなのかしら』
本人は全く自覚してないような気がするけど。
「レム、電話終わったの? …あら、何かいいことあった?」
「ちょっとね」
エピローグ
終業式。生徒達には成績表と大量の宿題が贈られた。長い休みは嬉しいが、喜びも半減といったところだ。
「はぁ…」
教室の自分の机に突っ伏してヴァッシュは吐息した。
ヴァッシュとモネヴ達のことが噂になったのだろう。登校早々ヴァッシュは担任と学年主任の呼び出しを受け、何があったのか問いただされた。
「マネージャーが引退した部員の代わりの人材を探してくれてたんです。モネヴ先輩も乗り気だったんですが、体格と運動神経がよくても、だから野球に向いているという訳ではなくて…」
嘘は言ってない。隠し事はしているが。ヴァッシュは事情を説明し、最後ににっこり笑って言った。
「残念ですけど、モネヴ先輩には柔道で頑張って欲しいです」
その話が本人に伝わり、モネヴは真面目に練習するようになった。もともと才能はあったのだろう、翌年全国大会で準優勝するほど実力を伸ばした。
三年生部員が引退し、野球部員は二年生四人と一年生一人の計五人になった。試合に出るどころの話ではなく、部そのものの存続さえ危ぶまれている。ヴァッシュは何人かに声をかけてみたが、皆今の部活にやりがいを感じているらしく、勧誘は全て失敗に終わった。
「はぁ…」
メリルとは朝挨拶したし会話もした。しかしヴァッシュはメリルの顔をまともに見られなかったし、腕を伸ばせば彼女に触れられる位置に立てなかった。
きちんと謝りたい。でも恐い思いはさせたくない。
こういうのを、板挟みって言うのかな。
「はぁ…」
もはや何回目か判らないため息をつく。
「こんなところで何をしてるんですの?」
「うひゃおうえいおあっ!」
突然声をかけられ、ヴァッシュは謎の叫び声を上げつつ立ち上がった。いつの間にか誰もいなくなった教室の出入口に、Tシャツにジャージ姿のメリルが立っていた。
「…発声練習のような悲鳴ですわね」
怪訝そうな表情を浮かべながら、メリルはヴァッシュに歩み寄った。
「いつもは一番にやってくるあなたがどうして…具合でも悪いんですの?」
「ううん…何でもないよ」
顔をそらせて曖昧に答える。自分にまっすぐ向けられる視線が辛い。
「皆さんもうキャッチボールを始めてますわ。あなたも早く来て下さい」
軽く肩を叩かれる。――自分の肩を叩ける位置に彼女が立っている。
そのまま踵を返したメリルを、ヴァッシュは思わず呼び止めた。
「キミは…僕が恐くないの?」
思いつめたような表情のヴァッシュに、メリルは優しく微笑みかけた。
「…あの時…恐くなかった、と言えば…嘘になりますわ」
ヴァッシュの顔が今にも泣き出しそうに歪んだのを見て、メリルは慌てて言葉を続けた。
「今まであなたが怒るところなんて見たことがありませんでしたから。…でも、あなたが殴ったのは先輩達ではなく樹の幹でしたわ。わざとボールを当てることだってできた筈ですのにそうしなかった。…あなたは、怒りに任せて暴力を振るうような人ではありませんわ。それに…」
メリルは顔を伏せた。
「あなたは…自分じゃなく他人の為に怒ったり泣いたりする人ですもの。…そんな人を恐がる理由がありまして?」
顔を上げてにっこり笑う。視線の先の顔が泣き笑いのような表情に変わった。
「…あの時は動揺してしまって、お詫びもお礼も言えなくて…遅くなってしまいましたけど、迷惑をかけて本当にごめんなさい。助けて下さってありがとうございました」
「そんなこと! …僕はてっきりキミが僕を恐がってるんだと思って、その…前にもあったから」
「セイブレム先生もそのようなことをおっしゃってましたわ」
「話…聞いた?」
「いいえ、何があったかは何も」
ヴァッシュは密かに胸をなで下ろした。
「…ヴァッシュさんとセイブレム先生は従兄弟なんですってね」
「あ、それは聞いたんだ。学校にいる時は先生・生徒で通してるけど、他に誰もいない時はついいつもどおり 話しちゃったりするけどね。いきなり呼び捨てにしたから驚いたでしょ」
「…どうしてセイブレム先生は婚約指輪をいつもなさらないのかしら…」
本当はちゃんと訊きたいのに何故かできない。回りくどい言い方をする自分に自己嫌悪を感じつつ、メリルは小さく呟いた。
「仕事中だからだよ。養護教諭って薬品とかしょっちゅう扱うから、指輪が邪魔になるのと大切にしたいからだって」
「大切に…?」
「仕事も婚約者も両方。指輪を気にして仕事をおろそかにしたくないし、仕事中に万一にも婚約指輪を傷つけたくないって」
ヴァッシュはそこで嬉しそうに破顔した。
「アレックスもレムの気持ちを理解してるから。『どうして婚約指輪を外すんだ、僕を愛していないのか』なんて言う人じゃないし。僕から見てもお似合いだと思うよ、あの二人。…あ、アレックスっていうのはレムの婚約者の名前」
一緒に食事をしたことがあるんだ。ずいぶんのろけられちゃって…。ヴァッシュの言葉をメリルは半ば聞き流した。
胸のわだかまりが溶けた――そんな気がした。
突然チャイムが鳴り、二人は同時に時計を見た。
「いけない、もうこんな時間! ヴァッシュさん、早く」
言いかけて、メリルはいつになく真摯な表情のヴァッシュに見つめられ、その場に立ち尽くした。
「…この先も、いろいろと苦労をかけちゃうと思うけど」
いったん言葉を切り、大きく息を吸う。
「これからも、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる。
「…こちらこそ、よろしくお願いします」
メリルも深く頭を下げた。
どちらからともなく顔を上げ、気恥ずかしさに苦笑する。
「さ、行きましょう」
「うん」
並んで廊下を足早に歩きながら、ヴァッシュはふと何故急にあらたまってあんな挨拶をしたのか疑問に思った。
答えの手がかりを求めてそれまでの会話を思い起こす。
不意にヴァッシュは耳まで赤くなった。
メリルには話さなかったが、自分の言葉と彼女の返事は、アレックスのプロポーズの言葉とレムの返事そのままだったのだ。
―FIN―
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