十傑集リーダーたる混世魔王樊瑞は重大な事実に気づきつつあった。
後見人として手元に引き取ったサニー・ザ・マジシャン。
彼女がこれからぐんぐん”女性”へ成長するという事実に。
「重々承知の上と思っていたが」
ぷかりと煙を吐き出し、白昼の残月は意外そうに呟いた。
樊瑞の屋敷の応接室。
暖炉でぱちぱちと薪木の燃える明るさだけが夜も更けた部屋を照らしていた。
長身の彼らをもしっかりささえ包み込むようなソファが暖炉へ向き合う形で並べられ、二人の間に置かれたテーブルには、ウィスキーの入ったグラスが各々置いてある。
「無論、頭ではわかっておったさ」
顎鬚を撫で、暖炉の火を眺めながら樊瑞は物憂げに応じる。
喫煙の類はとうにやめたはずが、こんな時には妙に手持ち無沙汰に感じた。
「後悔しているのか?」
表情を窺い知ることのできない仮面の下、残月の言葉は常に容赦がない。
「まさか…!後悔などしてはおらん。…ただ、な…」
言葉を濁し、樊瑞は困ったような、遠くを見る目をした。
残月は首をかしげる。
「ただ何だと言うのだ、樊瑞」
「うむ…」
言葉を探すように樊瑞が言い淀む。
と、ドアの向こうからぱたぱたと軽い足音。
ノックの音とともに「おじ様、よろしいでしょうか?」とサニーの声がした。
「…ああ、おいで」
樊瑞の返事を聞きドアが開けられると、白いネグリジェのレースの裾がふわりと揺れた。
「失礼します。…あら、残月のおじ様!」
「お邪魔している」
煙管を片手に残月が振り向くと、サニーはかすかに頬を染めた。
少女は残月の傍らに寄り挨拶のキスを送る。
「こんな恰好で、ごめんあそばせ」
「いや、眼福というもの」
上等なやわらかな生地に豪華なレース飾りがほどこされたネグリジェは、胸元からたっぷりとAのラインを描くように裾が広がっている。そこから伸びる腕も足も白く細い。洗い髪を乾かしたままの栗色の髪は、ふわふわと細いうなじを飾っていた。
人形のようなかわいらしさの中に、少女らしい、色気のような危うさがあるな、と残月は思う。
すっかり和んだ声で残月が言うのに少女は頬を染めたまま笑う。
「まあ!いやだわ、おじ様ったら」
「ふふ、おじ様か」
サニーの言葉に残月は小さく声に出して笑った。年齢なら十傑集の中でも一番近いはずだが、と心中で苦笑する。
「サニー、もう寝る時間かね」
「はい。お休みのご挨拶に」
樊瑞の声にくるりと少女が振り向くと、裾が風をはらんでふわりと揺れる。
暖炉の光に浮かび上がる少女の陰影はどこまでもやわらかい。
その様子に目を細め、樊瑞は小さく溜息をついた。
「…おやすみ、サニー」
「…おやすみなさい、おじ様。残月のおじ様も」
少々不満げに少女は唇をとがらせるが、大人しく踵を返す。
サニーのシャンプーの香りを残しドアが閉じられると、樊瑞はずるりと少しばかり深くソファへ埋もれた。
それを横目で見、残月は呟く。
「おやすみのキスが欲しかったようだが」
「…それはやめさせた」
「なるほど」
残月は小さく笑った。
樊瑞が”頭ではわかっていた”と言う意味を理解したのだ。
「馬鹿馬鹿しい話だが、我が身を信用し切れんのだ」
苦々しげに樊瑞が呟く。
細い首、やわらかな唇。無防備に伸ばされる腕。
大人になりきっていないしなやかな身体が、何故抱き締めてくれないのかとなじるようだった。
忍耐力を試されている気までしてくるが、それは己の勝手な受け取りようなのだ。少女は”おじ様”を信頼しきっているからこそ無防備な姿を晒しているに過ぎない。
「しかし、彼女は望んでいる気がするが…」
幼いとはいえ、あれでは無防備に過ぎる。
首をひねる残月に、樊瑞は肩をすくめた。
「例えそうだとしても、だ。サニーが分別のつけられる歳になる前にどうにかなってしまっては、アルベルトに申し訳が立たん」
セルバンテスのような真似をする気はないのだ、と遠くを見る目をする樊瑞に、残月はわずかばかり同情の眼差しを送る。
今の言いようでは、サニーが樊瑞の言う”分別のつけられる歳”ならばどうにかなりそうだと言っているようなものだ。
サニーは分別なら既についているのでは、とも思ったが残月は口にはしなかった。
言ったところで、十を幾つか過ぎたばかりの少女相手では慰めにもならない。
「だが、手放す気はないのだろう」
「当然だ」
渋い顔で樊瑞が黙り込む。
後見人としては目の届く所へ置きたいし、かわいいものはかわいい。
苦悩の種であろうとも手放したいわけがない。
「…幸せの苦しみといったところか」
ぷかりと煙を吐いて残月が呟く。
望む所だ、と樊瑞の口の中で呟かれた言葉は部屋の暗がりへ溶けて消えた。
後見人として手元に引き取ったサニー・ザ・マジシャン。
彼女がこれからぐんぐん”女性”へ成長するという事実に。
「重々承知の上と思っていたが」
ぷかりと煙を吐き出し、白昼の残月は意外そうに呟いた。
樊瑞の屋敷の応接室。
暖炉でぱちぱちと薪木の燃える明るさだけが夜も更けた部屋を照らしていた。
長身の彼らをもしっかりささえ包み込むようなソファが暖炉へ向き合う形で並べられ、二人の間に置かれたテーブルには、ウィスキーの入ったグラスが各々置いてある。
「無論、頭ではわかっておったさ」
顎鬚を撫で、暖炉の火を眺めながら樊瑞は物憂げに応じる。
喫煙の類はとうにやめたはずが、こんな時には妙に手持ち無沙汰に感じた。
「後悔しているのか?」
表情を窺い知ることのできない仮面の下、残月の言葉は常に容赦がない。
「まさか…!後悔などしてはおらん。…ただ、な…」
言葉を濁し、樊瑞は困ったような、遠くを見る目をした。
残月は首をかしげる。
「ただ何だと言うのだ、樊瑞」
「うむ…」
言葉を探すように樊瑞が言い淀む。
と、ドアの向こうからぱたぱたと軽い足音。
ノックの音とともに「おじ様、よろしいでしょうか?」とサニーの声がした。
「…ああ、おいで」
樊瑞の返事を聞きドアが開けられると、白いネグリジェのレースの裾がふわりと揺れた。
「失礼します。…あら、残月のおじ様!」
「お邪魔している」
煙管を片手に残月が振り向くと、サニーはかすかに頬を染めた。
少女は残月の傍らに寄り挨拶のキスを送る。
「こんな恰好で、ごめんあそばせ」
「いや、眼福というもの」
上等なやわらかな生地に豪華なレース飾りがほどこされたネグリジェは、胸元からたっぷりとAのラインを描くように裾が広がっている。そこから伸びる腕も足も白く細い。洗い髪を乾かしたままの栗色の髪は、ふわふわと細いうなじを飾っていた。
人形のようなかわいらしさの中に、少女らしい、色気のような危うさがあるな、と残月は思う。
すっかり和んだ声で残月が言うのに少女は頬を染めたまま笑う。
「まあ!いやだわ、おじ様ったら」
「ふふ、おじ様か」
サニーの言葉に残月は小さく声に出して笑った。年齢なら十傑集の中でも一番近いはずだが、と心中で苦笑する。
「サニー、もう寝る時間かね」
「はい。お休みのご挨拶に」
樊瑞の声にくるりと少女が振り向くと、裾が風をはらんでふわりと揺れる。
暖炉の光に浮かび上がる少女の陰影はどこまでもやわらかい。
その様子に目を細め、樊瑞は小さく溜息をついた。
「…おやすみ、サニー」
「…おやすみなさい、おじ様。残月のおじ様も」
少々不満げに少女は唇をとがらせるが、大人しく踵を返す。
サニーのシャンプーの香りを残しドアが閉じられると、樊瑞はずるりと少しばかり深くソファへ埋もれた。
それを横目で見、残月は呟く。
「おやすみのキスが欲しかったようだが」
「…それはやめさせた」
「なるほど」
残月は小さく笑った。
樊瑞が”頭ではわかっていた”と言う意味を理解したのだ。
「馬鹿馬鹿しい話だが、我が身を信用し切れんのだ」
苦々しげに樊瑞が呟く。
細い首、やわらかな唇。無防備に伸ばされる腕。
大人になりきっていないしなやかな身体が、何故抱き締めてくれないのかとなじるようだった。
忍耐力を試されている気までしてくるが、それは己の勝手な受け取りようなのだ。少女は”おじ様”を信頼しきっているからこそ無防備な姿を晒しているに過ぎない。
「しかし、彼女は望んでいる気がするが…」
幼いとはいえ、あれでは無防備に過ぎる。
首をひねる残月に、樊瑞は肩をすくめた。
「例えそうだとしても、だ。サニーが分別のつけられる歳になる前にどうにかなってしまっては、アルベルトに申し訳が立たん」
セルバンテスのような真似をする気はないのだ、と遠くを見る目をする樊瑞に、残月はわずかばかり同情の眼差しを送る。
今の言いようでは、サニーが樊瑞の言う”分別のつけられる歳”ならばどうにかなりそうだと言っているようなものだ。
サニーは分別なら既についているのでは、とも思ったが残月は口にはしなかった。
言ったところで、十を幾つか過ぎたばかりの少女相手では慰めにもならない。
「だが、手放す気はないのだろう」
「当然だ」
渋い顔で樊瑞が黙り込む。
後見人としては目の届く所へ置きたいし、かわいいものはかわいい。
苦悩の種であろうとも手放したいわけがない。
「…幸せの苦しみといったところか」
ぷかりと煙を吐いて残月が呟く。
望む所だ、と樊瑞の口の中で呟かれた言葉は部屋の暗がりへ溶けて消えた。
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ベルギーへ寄ったついで、いや、わざわざ寄って買い求めたチョコレートを樊瑞は少女へ渡す。
「嬉しい!おじ様、ありがとうございますっ」
ぱっと花が咲くようにサニーが笑う。
ぎゅっと腕に抱きつかれ、樊瑞は頬を緩めた。
かわいいものはかわいい。
むにっ、と腕に触れる柔らかい感触に首をかしげる間もなく、首に抱きつかれ頬へキスされる。
「こらこら、サニー」
苦笑して少女を見ると、ぺろりと小さく舌を出して「すみません」と笑う。
その背へ触れ、樊瑞はようやく首をかしげた。
何かが足りない。
何だ?としばし自問し、凍りつく。
後日、電撃のローザが緊急召集され、とある極秘作戦を任されたという。
-------------
「おい怒鬼、どうした?」
小皿に3個、盛られたチョコレートのひとつを口にした怒鬼が固まった。
そのまま冷や汗をかきはじめたのを目にし、レッドはサニーを振り返る。
「おいサニー・ザ・マジシャン!おまえ毒でも塗ったのか?」
「ひどいわ!取り分けたのはお兄様ですのよ?」
「―――わしは怒鬼が甘いものを食べているのを見た事がないが…」
食えるのか?と紅茶をすすりながらのんきに問う樊瑞に向かって、怒鬼はぶるぶると首を横に振った。
「なんだ怒鬼、チョコレートが甘いとは知らなかったのか?羊羹だって茶色いだろうが」
案外まぬけだなあ、とレッドがからから笑う。
「怒鬼のお兄様、ご無理なさることはありませんわ」
心配げな顔でサニーは紙ナプキンを差し出す。
それを一瞥し、怒鬼はすっくと立ち上がった。
「お?」
隣に座るレッドが思わず見上げると、その顔を両手でがしりとつかまえる。
殺気がないので思わず逃げそびれ、レッドは顔をしかめた。
「何だ?」
冷や汗をかいたまま無言で怒鬼はくわっと隻眼を見開いた。
サニーは思わず両手で口をおおった。
ぽろり、と樊瑞の手から小さなチョコレートが落ちた。
怒鬼の唇がレッドのそれに重ねられ、おおっている。
くちゅ、とひそやかに水音がした。
ようやく樊瑞は我に返り、サニーを振り返る。
「さ、サニー!見てはいかん!!」
「…え?あの、どうしてですの?」
かすかに頬を染めたサニーが不思議そうに見たが、樊瑞はかまわず少女を抱き寄せ目をふさいだ。
「どうしてでもだっ!!」
やけくそ気味に言う樊瑞の目の前では、離れようとした怒鬼を今度はレッドがつかまえ、くちづけている。
先にくちづけたはずの怒鬼はといえばどことなく焦っているようだ。
不満げなレッドを何とか引き剥がしようやくソファへ座りなおすと、怒鬼は紅茶をぐいっと飲み干した。
「…貴様ら、サニーの前でどういうつもりだ!」
精神的ダメージをこうむった樊瑞が不機嫌に言い放つと、レッドがけろりとした顔で口を開けてみせた。
そこには小さく丸くなったチョコレートのかけら。
「ま、まさか…」
「そのまさかだ!」
「あら、レッドのお兄様に差し上げたんですのね」
樊瑞は呆れ顔で絶句し、得意げにふんぞり返るレッドにサニーはころころと笑った。
「こいつは妙に貧乏性だからな!」
「…」
チョコレートが2つ残った小皿を無言のままレッドへ押しやり、怒鬼は真剣な顔で空になったティーカップをサニーへ差し出した。
「嬉しい!おじ様、ありがとうございますっ」
ぱっと花が咲くようにサニーが笑う。
ぎゅっと腕に抱きつかれ、樊瑞は頬を緩めた。
かわいいものはかわいい。
むにっ、と腕に触れる柔らかい感触に首をかしげる間もなく、首に抱きつかれ頬へキスされる。
「こらこら、サニー」
苦笑して少女を見ると、ぺろりと小さく舌を出して「すみません」と笑う。
その背へ触れ、樊瑞はようやく首をかしげた。
何かが足りない。
何だ?としばし自問し、凍りつく。
後日、電撃のローザが緊急召集され、とある極秘作戦を任されたという。
-------------
「おい怒鬼、どうした?」
小皿に3個、盛られたチョコレートのひとつを口にした怒鬼が固まった。
そのまま冷や汗をかきはじめたのを目にし、レッドはサニーを振り返る。
「おいサニー・ザ・マジシャン!おまえ毒でも塗ったのか?」
「ひどいわ!取り分けたのはお兄様ですのよ?」
「―――わしは怒鬼が甘いものを食べているのを見た事がないが…」
食えるのか?と紅茶をすすりながらのんきに問う樊瑞に向かって、怒鬼はぶるぶると首を横に振った。
「なんだ怒鬼、チョコレートが甘いとは知らなかったのか?羊羹だって茶色いだろうが」
案外まぬけだなあ、とレッドがからから笑う。
「怒鬼のお兄様、ご無理なさることはありませんわ」
心配げな顔でサニーは紙ナプキンを差し出す。
それを一瞥し、怒鬼はすっくと立ち上がった。
「お?」
隣に座るレッドが思わず見上げると、その顔を両手でがしりとつかまえる。
殺気がないので思わず逃げそびれ、レッドは顔をしかめた。
「何だ?」
冷や汗をかいたまま無言で怒鬼はくわっと隻眼を見開いた。
サニーは思わず両手で口をおおった。
ぽろり、と樊瑞の手から小さなチョコレートが落ちた。
怒鬼の唇がレッドのそれに重ねられ、おおっている。
くちゅ、とひそやかに水音がした。
ようやく樊瑞は我に返り、サニーを振り返る。
「さ、サニー!見てはいかん!!」
「…え?あの、どうしてですの?」
かすかに頬を染めたサニーが不思議そうに見たが、樊瑞はかまわず少女を抱き寄せ目をふさいだ。
「どうしてでもだっ!!」
やけくそ気味に言う樊瑞の目の前では、離れようとした怒鬼を今度はレッドがつかまえ、くちづけている。
先にくちづけたはずの怒鬼はといえばどことなく焦っているようだ。
不満げなレッドを何とか引き剥がしようやくソファへ座りなおすと、怒鬼は紅茶をぐいっと飲み干した。
「…貴様ら、サニーの前でどういうつもりだ!」
精神的ダメージをこうむった樊瑞が不機嫌に言い放つと、レッドがけろりとした顔で口を開けてみせた。
そこには小さく丸くなったチョコレートのかけら。
「ま、まさか…」
「そのまさかだ!」
「あら、レッドのお兄様に差し上げたんですのね」
樊瑞は呆れ顔で絶句し、得意げにふんぞり返るレッドにサニーはころころと笑った。
「こいつは妙に貧乏性だからな!」
「…」
チョコレートが2つ残った小皿を無言のままレッドへ押しやり、怒鬼は真剣な顔で空になったティーカップをサニーへ差し出した。
頭が痛い。
起きたくない。
目を覚ましたら、きっといやなことばかりが待っているの。
だめ。
いや。
「…サニー?」
かけられた声に、唐突に意識がはっきりする。
見上げた景色はベッドの天蓋。
…何度か見たことがあるわ。
おじ様の部屋の、天蓋。
「サニー、目が覚めたか?」
深い声。
いつも私を安心させてくれる声。
ゆっくり首を回すと戸惑ったようなおじ様の顔が見えた。
「は…、い」
声が掠れる。
どうして?
どうして?どうして?
何故おじ様はそんなに痛ましい顔でいるの?
起き上がろうとすると、何故だか身体中がぎしぎし音をたてるよう。
目の前に水の入ったコップを差し出され、私はそれを飲んだ。
ああ、どうしてかしら。
こんな感じはとても久しぶり。
「痛いところはないか?」
困ったような、怒ったような顔のおじ様。
「あ、りませんわ。ど、う…」
無意識にテレパスで父上を探し、答えの無いことに言葉を失う。
死んではいない、とずっと感じていた。
それなのに…!
トン、と断ち切られたような感覚。
その先には何もなく空虚。
いない。
父上はもう、いない。
私の手の届く所にはいらっしゃらない。
お母さまのところへ…行ったのね…。
ぱたり、と涙が布団へ落ちる音。
「サニー…」
おじ様が、私の頬を拭う。
一瞬にして私が置かれた立場を悟ってしまう。
父上はもういない。
「…おじ様、私…どうなるのですか?」
「…どうもせん。わしがついておる」
ずっと、今まで何度もそうしてくれたように、おじ様の腕がやさしく私の肩を引き寄せ、胸に抱いてくださる。
私、…私は、
「でも、…でも、それでは、おじ様に、ご迷惑を…」
「何を言う。お前は…わしの娘同然だ」
娘。
でも本当のおじ様の娘ではないわ。
おじ様がそう言ってくださるのはとっても嬉しいのだけれど。
おじ様の立場と、今の私の立場を考えれば…どれだけおじ様が苦悩なさっているのかがわからないほど、子供でもないの。
「今は何も考えずともよい。身体をいとえ」
ぎゅ、と抱き締めて髪を撫でてくださる。
最初はお母さま。次はセルバンテスのおじ様。そして父上。
おじ様も、私の手の届かないところへ行ってしまわれるのかしら?
「…そんなこと…」
させないわ。
思わず小さく呟きが漏れる。
背筋が少し寒い。
絶対に、させないわ。
絶対に。
「どうした?サニー…どこか具合が悪いのか?」
おろおろと、少し困った顔でおじ様が私を覗きこむ。
「…大丈夫ですわ、おじ様。…ごめんなさい、少しお腹が減ったの」
「そうか。食欲があるのはいいことだ。すぐ用意させよう」
お腹が減ったのは本当。
でも、半分は嘘。
ぱっと、ほっとした顔になったおじ様に、私もほっとしてしまう。
おじ様の首に腕を回して、ぎゅっとしがみつく。
「おじ様、私、早く大人になりますわ」
呟くと、おじ様は少し驚いたよう。
「…急がずとも、いずれは大人になるものだ」
「それでも、早くなりたいのですわ」
私の大切な人はもういなくなってしまった。
私が子供なばかりに、何の手立てもできないままに。
おじ様もそうさせてしまうなんて、絶対にいや。
「早くおじ様のお役に立ちたいの」
ぎゅっと、更に強く抱きつくと、おじ様の小さな溜息。
「では、とりあえず体調を戻すことだ。…役に立つ立たぬなど、子供の心配することではない」
やんわり私の腕をほどいてベッドにまた寝かせてくださる口調は、やっぱり優しい。
食事の用意ができたらまた起こすから、と言い置いて、おじ様は私の額を撫でた。
「おじ様、…大好き」
泣きたくなる。
目が熱いから、多分閉じた目蓋の下から涙が出てるかもしれない。
やさしく笑う気配がしたけれど、おじ様は黙ったままだった。
---------
十傑集裁判でもないのでしょうけれど、私はおじ様がたが「私を今後どう扱うか」を論じる席につかされた。
とは言っても、ずっと樊瑞のおじ様が側にいてくださるから怖くなんてない。
「わしはサニーの後見人だ。今後はわしの元で養育しよう」
「…異存はない。好きにすればよかろう」
「問題が出れば処分するまでのこと」
「で、お主の意思はどうなのだ?」
カワラザキのおじ様と残月のおじ様が頷くと、レッドのおじ様が私を見て訊ねてくださった。
私を心配して、というより、おもしろがってらっしゃる。
「私は、おじ様がたのお役に立てるなら、それで…ッ」
「お役に?ならば順繰りに夜の相手でもしてみるか?」
一瞬で私の目前に迫り、視線を合わせて下品に笑う。
「この…!」
「イヤッ!!」
夜の相手って何かしら?と思うよりレッドのおじ様の笑顔が怖くて、思わず押しのけようと勢いよく腕を伸ばすと、ゴオッっという風の音がして、すごい音とともに向側の壁が広範囲に抉られ、吹き飛び、廊下の向こうの壁が半壊しているのが見えた。
レッドのおじ様は、もちろん無傷で元の位置に戻ってらっしゃった。
…今のは、私が?
「―――見ての通りだ。サニーには充分な素質がある。…わしの手元に置くのに文句はあるまい」
樊瑞のおじ様は溜息をひとつついて、レッドのおじ様を睨みつけた。
その視線の先で、レッドのおじ様はとても楽しそう。
「確かに、おもしろそうだ」
声に出して笑う。
「朴念仁の樊瑞が光源氏を気取るなぞ、一生に一度見れるかどうかだろうな!」
「レッド!貴様…このわしを愚弄するか!」
ヒカルゲンジって、なんでしょう?
とにかく樊瑞のおじ様を挑発されていることはわかる。
ジャキン、と銅銭の剣を手にする樊瑞のおじ様に、レッドのおじ様はクナイを手にした。
「やめておけ、くだらん」
カワラザキのおじ様が溜息をついて首を振る。
「―――」
「あ、おい、何だ怒鬼、ここからが面白いってのに…」
怒鬼のおじ様がレッドのおじ様の腕を掴んでクナイを取り上げる。
樊瑞のおじ様は…、私が思わずマントを掴んで引いたのに気づいたのか、それとも最初から本気ではなかったのか、剣を納められた。
「…では、サニーの件はわしの預かりでよろしいな」
念を押すように樊瑞のおじ様が言うと、おじ様がたは一様に頷かれた。
レッドのおじ様だけは少し不機嫌そう、かしら。
では解散、ということになってそれぞれが部屋を後にし始めると、レッドのおじ様が私を振り向いた。
樊瑞のおじ様が警戒して私を引き寄せマントに隠そうとするのに構わず、私に顔を寄せてくる。
「サニー・ザ・マジシャン、また遊ぼうな!」
何故だかとっても楽しそうに笑う。
けれど、怖い笑顔。
負けるつもりはないわ。
「…ええ、レッドのおじ様。私、頑張ります」
笑い返すと、レッドのおじ様はきょとんとした顔。
首をかしげて樊瑞のおじ様を見て、それから怒鬼のおじ様を振り返る。
「…俺、おじ様?」
…何か、違ったかしら?
怒鬼のおじ様は無言で頷き、私に向かってほんの少しだけ笑った。
レッドのおじ様はやはり憮然とされて、私に向き直った。
「覚えておけ、サニー。俺は、オニイサマだ!…うん、レッドのお兄様。なかなかいい響きだ」
樊瑞のおじ様の溜息が頭の上で聞こえる。
レッドのおじ様は大威張りで宣言すると、悦に入ったように笑って去って行かれた。
…子供みたい。
怒鬼のおじ様も樊瑞のおじ様に小さく会釈してレッドのおじ様の後を追っていく。
ぽん、と大きな手が肩に触れる。
「気にするな。あやつにしてはあれで好意的だ」
諦め顔の樊瑞のおじ様を見上げて、思い出したことを聞いてみる。
「おじ様、ヒカルゲンジってなんでしょう?」
「う、…それは…」
困ったような、怒ったような顔をするおじ様の後ろから笑い声。
「それはわしやレッドの故郷の…そうさな、昔話に出てくる人だよ」
カワラザキのおじ様がにこりと笑う。
その後ろでは残月のおじ様がぷかりと煙管をふかし、幽鬼のおじ様はぼんやりこちらを見ている。
「どんな人なのですか?」
「小さな女の子を引き取って、自分の好みの女性に育てて恋人にする男、というところか…」
ちらりと樊瑞のおじ様を見て、カワラザキのおじ様が笑う。
「樊瑞なら、その心配はあるまい」
「あら、私、樊瑞のおじ様のお好みなら知りたいですわ。だって大好きですもの」
今おじ様のことで知っているのはお茶の好みくらいかしら?
何故だかいっせいに私に視線が集まる。
「…これは大胆だ。どうする樊瑞?」
「ぬ、いや、子供の言う事だ」
「幽鬼もそう言ってわしの元に来た事だしの。子供ゆえに語彙が足りんのだろ」
「…違う、ような…」
何だか、とっても子ども扱いされていることだけはわかる。
私は確かに子供だけれど、なんだかひどいわ。
「わしはどうかの、サニー。好きかね?」
ん?と首を傾げてカワラザキのおじ様が私に尋ねる。
「もちろん、好きですわ」
「では、残月は?幽鬼は?」
順に指を指すごとに「好きです」と答える。
「では、樊瑞は?」
「大好きです」
…どうしてこんなことを訊ねるのかしら?
おじ様がたが顔を見合わせる。
「良かったではないか、樊瑞」
「うむ、ちと違う事はわかったのう」
「…だから言った…」
黙り込む樊瑞のおじ様とは対照的に、他のおじ様がたが笑う。
「…あの、私、何かおかしなことを言ったのでしょうか?」
「いや、ちっともおかしくない」
残月のおじ様がきっぱりおっしゃるのがとっても嬉しい。
「…お主、面白がっておるだろう」
苦虫を噛み潰したような…って、こういうのかしら?そんな顔で樊瑞のおじ様が残月のおじ様を見る。
「樊瑞のおじ様、私、頑張ります」
力をコントロールできるようになって、レッドのおじ様にからかわれないようになって、そして樊瑞のおじ様の側にいても恥ずかしくないように。
私が言うと、やっぱり樊瑞のおじ様以外が笑う。
「…帰るぞ、サニー」
諦めたように溜息をついて歩き出す樊瑞のおじ様の背を追う前に、おじ様がたを振り向く。
「おじ様がた、失礼いたします。…また、以前のようにお茶を飲みにいらしてくださいませね」
以前のように。
父上が…、父上たちがいらした頃のように。
「うむ、是非」
「楽しみにしている」
「…」
やさしい返事にほっとしてお辞儀を返し、樊瑞のおじ様を追いかける。
おじ様のピンクのマントは随分遠くなっていたけれど、やはり立ち止まって私を待っていてくださった。
「ごめんなさい、おじ様。お待たせしました」
「いや。…随分夜更かしさせてしまったな。眠くはないか?」
先ほどの集まりは10分ほどで終わったのだけれど、始まった時間は夜の10時で、私はいつもならとうに眠っている時間。
「いいえ、ちっとも」
小さな頃から顔見知りのおじ様がたとはいえ、BF団の正式な場に出るなんて初めてですもの。
どきどきして眠くなんてないわ。
「そうか。では、帰ろうか」
「はい」
差し出される大きな手に手を差し伸べる。
父上は、私の手を取ろうとはしなかった。背中を向け、それでも私がようやく追いつけるくらいの速さでゆっくり歩いてくださった。
セルバンテスのおじ様は、私の手を取り、抱き上げて歩いてくださった。
お母さまは、私と歩くことすらできなかった。
…私は大丈夫。
ちゃんと歩けるわ。
こうして樊瑞のおじ様が手を取ってくださるから。
大丈夫。
おじ様の手をぎゅっと握る。
「…おじ様、私、頑張ります」
「…そうか」
何だか困ったような顔でおじ様が頷く。
「サニー、お前はお前の出来る事をやればいいのだ。無理をしてはいかん」
「はい、おじ様」
温かく優しい手が包んでくれる。
私は大丈夫。
でも、おじ様の手のあたたかさに安心してしまったのか、ちょっとだけ眠い。
それとも緊張して疲れたのかしら。
あんな能力を使ったのも初めてだわ。
小さくあくびをかみ殺したけれどおじ様に聞こえてしまったかしら?
「…やはり急ぐか。おいで」
「…すみません」
広げられた胸に腕を伸ばすとふわりと抱き上げられる。
おじ様の胸に頭を寄せればとても温かくて、幸せな気持ちで眠ってしまいそう。
「眠りたければかまわんぞ」
おじ様の声が胸から低く優しく響く。
マントにくるまれる感触にもう一度、すみません、と言おうとしたけれど、目蓋が重くて。
きちんと言えたかどうかはわからないままだった。
起きたくない。
目を覚ましたら、きっといやなことばかりが待っているの。
だめ。
いや。
「…サニー?」
かけられた声に、唐突に意識がはっきりする。
見上げた景色はベッドの天蓋。
…何度か見たことがあるわ。
おじ様の部屋の、天蓋。
「サニー、目が覚めたか?」
深い声。
いつも私を安心させてくれる声。
ゆっくり首を回すと戸惑ったようなおじ様の顔が見えた。
「は…、い」
声が掠れる。
どうして?
どうして?どうして?
何故おじ様はそんなに痛ましい顔でいるの?
起き上がろうとすると、何故だか身体中がぎしぎし音をたてるよう。
目の前に水の入ったコップを差し出され、私はそれを飲んだ。
ああ、どうしてかしら。
こんな感じはとても久しぶり。
「痛いところはないか?」
困ったような、怒ったような顔のおじ様。
「あ、りませんわ。ど、う…」
無意識にテレパスで父上を探し、答えの無いことに言葉を失う。
死んではいない、とずっと感じていた。
それなのに…!
トン、と断ち切られたような感覚。
その先には何もなく空虚。
いない。
父上はもう、いない。
私の手の届く所にはいらっしゃらない。
お母さまのところへ…行ったのね…。
ぱたり、と涙が布団へ落ちる音。
「サニー…」
おじ様が、私の頬を拭う。
一瞬にして私が置かれた立場を悟ってしまう。
父上はもういない。
「…おじ様、私…どうなるのですか?」
「…どうもせん。わしがついておる」
ずっと、今まで何度もそうしてくれたように、おじ様の腕がやさしく私の肩を引き寄せ、胸に抱いてくださる。
私、…私は、
「でも、…でも、それでは、おじ様に、ご迷惑を…」
「何を言う。お前は…わしの娘同然だ」
娘。
でも本当のおじ様の娘ではないわ。
おじ様がそう言ってくださるのはとっても嬉しいのだけれど。
おじ様の立場と、今の私の立場を考えれば…どれだけおじ様が苦悩なさっているのかがわからないほど、子供でもないの。
「今は何も考えずともよい。身体をいとえ」
ぎゅ、と抱き締めて髪を撫でてくださる。
最初はお母さま。次はセルバンテスのおじ様。そして父上。
おじ様も、私の手の届かないところへ行ってしまわれるのかしら?
「…そんなこと…」
させないわ。
思わず小さく呟きが漏れる。
背筋が少し寒い。
絶対に、させないわ。
絶対に。
「どうした?サニー…どこか具合が悪いのか?」
おろおろと、少し困った顔でおじ様が私を覗きこむ。
「…大丈夫ですわ、おじ様。…ごめんなさい、少しお腹が減ったの」
「そうか。食欲があるのはいいことだ。すぐ用意させよう」
お腹が減ったのは本当。
でも、半分は嘘。
ぱっと、ほっとした顔になったおじ様に、私もほっとしてしまう。
おじ様の首に腕を回して、ぎゅっとしがみつく。
「おじ様、私、早く大人になりますわ」
呟くと、おじ様は少し驚いたよう。
「…急がずとも、いずれは大人になるものだ」
「それでも、早くなりたいのですわ」
私の大切な人はもういなくなってしまった。
私が子供なばかりに、何の手立てもできないままに。
おじ様もそうさせてしまうなんて、絶対にいや。
「早くおじ様のお役に立ちたいの」
ぎゅっと、更に強く抱きつくと、おじ様の小さな溜息。
「では、とりあえず体調を戻すことだ。…役に立つ立たぬなど、子供の心配することではない」
やんわり私の腕をほどいてベッドにまた寝かせてくださる口調は、やっぱり優しい。
食事の用意ができたらまた起こすから、と言い置いて、おじ様は私の額を撫でた。
「おじ様、…大好き」
泣きたくなる。
目が熱いから、多分閉じた目蓋の下から涙が出てるかもしれない。
やさしく笑う気配がしたけれど、おじ様は黙ったままだった。
---------
十傑集裁判でもないのでしょうけれど、私はおじ様がたが「私を今後どう扱うか」を論じる席につかされた。
とは言っても、ずっと樊瑞のおじ様が側にいてくださるから怖くなんてない。
「わしはサニーの後見人だ。今後はわしの元で養育しよう」
「…異存はない。好きにすればよかろう」
「問題が出れば処分するまでのこと」
「で、お主の意思はどうなのだ?」
カワラザキのおじ様と残月のおじ様が頷くと、レッドのおじ様が私を見て訊ねてくださった。
私を心配して、というより、おもしろがってらっしゃる。
「私は、おじ様がたのお役に立てるなら、それで…ッ」
「お役に?ならば順繰りに夜の相手でもしてみるか?」
一瞬で私の目前に迫り、視線を合わせて下品に笑う。
「この…!」
「イヤッ!!」
夜の相手って何かしら?と思うよりレッドのおじ様の笑顔が怖くて、思わず押しのけようと勢いよく腕を伸ばすと、ゴオッっという風の音がして、すごい音とともに向側の壁が広範囲に抉られ、吹き飛び、廊下の向こうの壁が半壊しているのが見えた。
レッドのおじ様は、もちろん無傷で元の位置に戻ってらっしゃった。
…今のは、私が?
「―――見ての通りだ。サニーには充分な素質がある。…わしの手元に置くのに文句はあるまい」
樊瑞のおじ様は溜息をひとつついて、レッドのおじ様を睨みつけた。
その視線の先で、レッドのおじ様はとても楽しそう。
「確かに、おもしろそうだ」
声に出して笑う。
「朴念仁の樊瑞が光源氏を気取るなぞ、一生に一度見れるかどうかだろうな!」
「レッド!貴様…このわしを愚弄するか!」
ヒカルゲンジって、なんでしょう?
とにかく樊瑞のおじ様を挑発されていることはわかる。
ジャキン、と銅銭の剣を手にする樊瑞のおじ様に、レッドのおじ様はクナイを手にした。
「やめておけ、くだらん」
カワラザキのおじ様が溜息をついて首を振る。
「―――」
「あ、おい、何だ怒鬼、ここからが面白いってのに…」
怒鬼のおじ様がレッドのおじ様の腕を掴んでクナイを取り上げる。
樊瑞のおじ様は…、私が思わずマントを掴んで引いたのに気づいたのか、それとも最初から本気ではなかったのか、剣を納められた。
「…では、サニーの件はわしの預かりでよろしいな」
念を押すように樊瑞のおじ様が言うと、おじ様がたは一様に頷かれた。
レッドのおじ様だけは少し不機嫌そう、かしら。
では解散、ということになってそれぞれが部屋を後にし始めると、レッドのおじ様が私を振り向いた。
樊瑞のおじ様が警戒して私を引き寄せマントに隠そうとするのに構わず、私に顔を寄せてくる。
「サニー・ザ・マジシャン、また遊ぼうな!」
何故だかとっても楽しそうに笑う。
けれど、怖い笑顔。
負けるつもりはないわ。
「…ええ、レッドのおじ様。私、頑張ります」
笑い返すと、レッドのおじ様はきょとんとした顔。
首をかしげて樊瑞のおじ様を見て、それから怒鬼のおじ様を振り返る。
「…俺、おじ様?」
…何か、違ったかしら?
怒鬼のおじ様は無言で頷き、私に向かってほんの少しだけ笑った。
レッドのおじ様はやはり憮然とされて、私に向き直った。
「覚えておけ、サニー。俺は、オニイサマだ!…うん、レッドのお兄様。なかなかいい響きだ」
樊瑞のおじ様の溜息が頭の上で聞こえる。
レッドのおじ様は大威張りで宣言すると、悦に入ったように笑って去って行かれた。
…子供みたい。
怒鬼のおじ様も樊瑞のおじ様に小さく会釈してレッドのおじ様の後を追っていく。
ぽん、と大きな手が肩に触れる。
「気にするな。あやつにしてはあれで好意的だ」
諦め顔の樊瑞のおじ様を見上げて、思い出したことを聞いてみる。
「おじ様、ヒカルゲンジってなんでしょう?」
「う、…それは…」
困ったような、怒ったような顔をするおじ様の後ろから笑い声。
「それはわしやレッドの故郷の…そうさな、昔話に出てくる人だよ」
カワラザキのおじ様がにこりと笑う。
その後ろでは残月のおじ様がぷかりと煙管をふかし、幽鬼のおじ様はぼんやりこちらを見ている。
「どんな人なのですか?」
「小さな女の子を引き取って、自分の好みの女性に育てて恋人にする男、というところか…」
ちらりと樊瑞のおじ様を見て、カワラザキのおじ様が笑う。
「樊瑞なら、その心配はあるまい」
「あら、私、樊瑞のおじ様のお好みなら知りたいですわ。だって大好きですもの」
今おじ様のことで知っているのはお茶の好みくらいかしら?
何故だかいっせいに私に視線が集まる。
「…これは大胆だ。どうする樊瑞?」
「ぬ、いや、子供の言う事だ」
「幽鬼もそう言ってわしの元に来た事だしの。子供ゆえに語彙が足りんのだろ」
「…違う、ような…」
何だか、とっても子ども扱いされていることだけはわかる。
私は確かに子供だけれど、なんだかひどいわ。
「わしはどうかの、サニー。好きかね?」
ん?と首を傾げてカワラザキのおじ様が私に尋ねる。
「もちろん、好きですわ」
「では、残月は?幽鬼は?」
順に指を指すごとに「好きです」と答える。
「では、樊瑞は?」
「大好きです」
…どうしてこんなことを訊ねるのかしら?
おじ様がたが顔を見合わせる。
「良かったではないか、樊瑞」
「うむ、ちと違う事はわかったのう」
「…だから言った…」
黙り込む樊瑞のおじ様とは対照的に、他のおじ様がたが笑う。
「…あの、私、何かおかしなことを言ったのでしょうか?」
「いや、ちっともおかしくない」
残月のおじ様がきっぱりおっしゃるのがとっても嬉しい。
「…お主、面白がっておるだろう」
苦虫を噛み潰したような…って、こういうのかしら?そんな顔で樊瑞のおじ様が残月のおじ様を見る。
「樊瑞のおじ様、私、頑張ります」
力をコントロールできるようになって、レッドのおじ様にからかわれないようになって、そして樊瑞のおじ様の側にいても恥ずかしくないように。
私が言うと、やっぱり樊瑞のおじ様以外が笑う。
「…帰るぞ、サニー」
諦めたように溜息をついて歩き出す樊瑞のおじ様の背を追う前に、おじ様がたを振り向く。
「おじ様がた、失礼いたします。…また、以前のようにお茶を飲みにいらしてくださいませね」
以前のように。
父上が…、父上たちがいらした頃のように。
「うむ、是非」
「楽しみにしている」
「…」
やさしい返事にほっとしてお辞儀を返し、樊瑞のおじ様を追いかける。
おじ様のピンクのマントは随分遠くなっていたけれど、やはり立ち止まって私を待っていてくださった。
「ごめんなさい、おじ様。お待たせしました」
「いや。…随分夜更かしさせてしまったな。眠くはないか?」
先ほどの集まりは10分ほどで終わったのだけれど、始まった時間は夜の10時で、私はいつもならとうに眠っている時間。
「いいえ、ちっとも」
小さな頃から顔見知りのおじ様がたとはいえ、BF団の正式な場に出るなんて初めてですもの。
どきどきして眠くなんてないわ。
「そうか。では、帰ろうか」
「はい」
差し出される大きな手に手を差し伸べる。
父上は、私の手を取ろうとはしなかった。背中を向け、それでも私がようやく追いつけるくらいの速さでゆっくり歩いてくださった。
セルバンテスのおじ様は、私の手を取り、抱き上げて歩いてくださった。
お母さまは、私と歩くことすらできなかった。
…私は大丈夫。
ちゃんと歩けるわ。
こうして樊瑞のおじ様が手を取ってくださるから。
大丈夫。
おじ様の手をぎゅっと握る。
「…おじ様、私、頑張ります」
「…そうか」
何だか困ったような顔でおじ様が頷く。
「サニー、お前はお前の出来る事をやればいいのだ。無理をしてはいかん」
「はい、おじ様」
温かく優しい手が包んでくれる。
私は大丈夫。
でも、おじ様の手のあたたかさに安心してしまったのか、ちょっとだけ眠い。
それとも緊張して疲れたのかしら。
あんな能力を使ったのも初めてだわ。
小さくあくびをかみ殺したけれどおじ様に聞こえてしまったかしら?
「…やはり急ぐか。おいで」
「…すみません」
広げられた胸に腕を伸ばすとふわりと抱き上げられる。
おじ様の胸に頭を寄せればとても温かくて、幸せな気持ちで眠ってしまいそう。
「眠りたければかまわんぞ」
おじ様の声が胸から低く優しく響く。
マントにくるまれる感触にもう一度、すみません、と言おうとしたけれど、目蓋が重くて。
きちんと言えたかどうかはわからないままだった。
昼下がりのBF団本部。
樊瑞の屋敷にある執務室は重厚なデザインのデスクと家具、大き目のソファセットが置かれている。手入れの行き届いた庭に面するバルコニーへ続く窓は大きく、暖かくなり始めた午後の日差しを惜しみなく室内へ注いでいた。
十傑集リーダーの主な役目、それは主にBF団全体の事務処理担当を示すため、ここ何年か樊瑞は最前線へ出ることもまれだった。
自宅と机に縛られる時間が相当に増えると、それまでほとんど埃をかぶったままだった机も椅子も絨毯すらもいつしかそれなりの物に取って代わった。部下に見繕わせているうちにそうなってしまったのだ。
書類の束に目を通しサインをする樊瑞の横で、その書類をまとめ、整理しているサニーがふと、時計に目をやった。
「おじ様、ティータイムですわ。少しお休みになってはいかが?」
「うん?…ああ、そうだな」
書類から目を上げ、樊瑞も頷く。
サニーはうきうきと書類を置きにっこり笑った。
「では、お茶を。玉露のおいしいのをカワラザキのおじ様にいただいたんですの」
育ちがいいのか大人びているのか、少女の口調ではない。
「玉露と聞いては引くわけにはいかんな!」
「きゃ!」
頭上からの声。
唐突にマスク・ザ・レッドが目の前に現れ、サニーは小さく悲鳴をあげた。
腰を浮かし臨戦体勢を取りかけた樊瑞は相手がレッドとわかり、取り合えずは座り直す。
「…どこから出てきたのだ、レッド」
「天井だ」
「お茶に呼んだのかね、サニー」
悪びれる様子のまったくないレッドに呆れ、樊瑞はサニーに水を向ける。
「いいえ」
首を振るサニーに、心外だとレッドが言い募る。
「茶を飲みに来い、と言っただろ。来てやったんだ、感謝するがいい」
「…お主には直接言ってないと思うが」
「同じ事だ」
呆れ顔の樊瑞と、引く気のないレッドに挟まれ、サニーは微笑んだ。
「大勢でいただいたほうが楽しいですわ。どうぞいらしてくださいませ、レッドのおじ…」
「お兄様だ!」
言い終える前に言い直され、サニーは困ったように樊瑞を見た。
苦笑しながら頷く樊瑞に頷き返し、サニーは困ったように笑いながら「どうぞ、レッドのお兄様」と言い直す。
「よし。菓子は好きか、サニー・ザ・マジシャン。どうだ、好きだろう?子供だからな。これをくれてやろう!」
ご満悦の表情でレッドが印籠のごとく差し出したのは虎屋の羊羹だった。
「まあ!これは和菓子ね。私、とっても久しぶりに見ました」
「怒鬼の奴がどうしても持っていけと言うのでな!」
「嬉しい!怒鬼のお兄様によろしくお伝えくださいね」
サニーがさりげなく怒鬼に対しては”お兄様”と言った事に樊瑞は気づいたが、ご機嫌のレッドは気づかないようだった。
「ありがとうございます、レッドの…お兄様!」
背伸びをしてレッドの頬にキスをする。
と、ガタッと樊瑞が椅子を蹴って立ち上がり、レッドはぽかんと口を開けた。
しかし次の瞬間にはレッドが下卑た笑いと共に樊瑞を見やる。
「…おい、このガキはこんな事まで仕込まれているのか?」
「下衆な物言いをするな!欧米ではごく普通の挨拶だろうがっ」
くたびれたように再び椅子へ崩れる樊瑞を、サニーが不安げな顔で振り返る。
「私、何かおかしなことをしたんでしょうか…?」
「…気にするな。文化の違いという奴だ」
不安そうな顔をするサニーを宥め、樊瑞はがしがしと頭を掻いた。
今まさにサニーがしたような”挨拶”としてのキスをやめさせるため、先日もサニーと話したばかりだった。
ひと言で言えば、要するに、こそばゆい。挨拶としてのキスであることは重々承知していても、欧米で育ったわけではない樊瑞にとっては近しすぎる挨拶であり、面映くこそばゆい。何だか困った気分になるのだ。
そのつもりはまるで無くとも、レッドに揶揄されたように光源氏の真似事をしている気分になってしまう。
そもそも、シチュエーションからして既にそうなのだからどうしようもないのだが。
いい年をした自分が引き取る手前、後見人としての責任を果たさねばと樊瑞は思い定めていた。亡きアルベルトのためにも、本当に光源氏のようなことになるわけにはいかない。
とはいえ、ちょっとした弾みにかわいいキスをされてしまう事は多々あるし、その素直さと共に彼女の美徳であるとも思ってはいる。
だが。
「…おじ様?」
不安げに見上げてくる少女に、樊瑞はため息を押し殺した。
自分以外の人間に対してまでは言及していなかったことを樊瑞は深く後悔した。この先サニーが十傑集のメンバーと顔を合わせる機会は格段に多くなるはずなのだ。身内には甘いとはいえBF団は悪の秘密結社であり、個々人の理由は違えど、結論からすれば女子供をどうこうすることに抵抗のある者は十傑集にはいない。
レッドは物騒な笑みをもらし、サニーの目線までひょいとかがんだ。
「どうせなら口にしてほしいもんだ」
「口、ですか?」
不思議そうに首を傾げるサニーに樊瑞が慌てる。
「サニー!ちょっと待ちなさい!!」
「わかりました、はい」
止める間もなくサニーはちゅ、と唇を掠めるようにレッドのそれに触れさせる。
少女が赤くなって困り果てるのを期待していたレッドが今度こそ固まった。
「サニー!!」
「はい、おじ様」
「それはいかんとアルベルトにも言われただろう!!!」
「あら、でも、赤ちゃんにするご挨拶ですもの。別に…」
「あ、赤ちゃん…だと?」
その言葉にようやくレッドが口を開く。
彼の場合は女子供は殺戮の対象であり、そもそも性的暴力どうこうというのはあまり興味が無い。
樊瑞はいまいましそうにレッドを見、サニーを見て今度こそ大きな溜息をついた。
「…セルバンテスがな、そう言ってサニーにしておった」
「変態だな」
「まさしく」
既に亡いクフィーヤ姿のおじ様への暴言に、サリーは眉を吊り上げる。
「まあ!ひどい!!セルバンテスのおじ様はお優しいステキな方ですわ!」
いくらおじ様方でもそれ以上酷いことをおっしゃるのは許しません、と怒るサニーに、樊瑞は溜息しか出ない。赤ん坊の頃から親しんだ彼女にとって”ステキなおじ様”なのはわかっているが、それを周囲で見聞きする側にとっては必ずしもそうではない。亡き幻惑のセルバンテスは守備範囲の広いことで有名だったのだ。
「それがアルベルトにバレてな」
「おお、それは血を見たのだろうな!」
血生臭そうな話の成り行きに嬉々として目を輝かせるレッドを、嫌そうに見ながらも樊瑞が頷く。
「うむ。わしもそこに居合わせたのだが…何しろサニーはセルバンテスの膝の上におってアルベルトは衝撃波を撃てん」
-----
バタン!と派手な音とともに樊瑞の執務室のドアが開けられた。
「おい、茶!」
開口一番、言い放つのはマスク・ザ・レッド。
ノックもされずに開け放たれたドアに、サニー・ザ・マジシャンは一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに微笑んだ。
「お久しぶりです、レッドのお兄様、それに怒鬼のお兄様」
自然体でふんぞり返るレッドの後ろには、直系の怒鬼が無言で詫びるようにたたずんでいる。
樊瑞はもはや顔も上げずに書類を目を落としたまま「まだおやつの時間には早いぞ」と呟いた。
それを無視してレッドが首をひねる。
「…久しぶり?久しぶりだったか?」
「この前いらしてからひと月ぶりですわ、お兄様」
怒鬼を振り返るレッドに、サニーがにっこり笑う。
納得したのかニヤリとレッドが物騒な笑みを返した。
「ああ、あの後すぐに作戦に参加したからな!何人殺ってきたか当ててみるか?」
「遠慮しておきますわ。さあ、どうぞ。この間おじ様がベルギーで買ってきてくださったチョコレートはいかが?」
血生臭い話を楽しげに始めようとするレッドを、サニーは子供にするようにあしらう。
「チョコレートか!」
喜色満面でレッドはソファへ移動しようとして、ふとサニーを振り返る。
上から下まで眺め首をひねると、怒鬼がどうした、と言いたげにレッドを覗きこんだ。
「おい怒鬼、こいつこの前より大きくなってないか?」
前はこのあたりに頭があったぞ、と自分のスーツの合わせ目あたりに手をかざす。
今のサニーは、その合わせ目よりは明かに頭の位置が高い。
”こいつ”と言われたことに憤慨しかけたサニーは溜息をつき苦笑した。悪気があって言っているのではなく、知らないのだ。お兄様は悪ガキなのだわ、とサニーは思う。
「成長期というやつだ」
「そうなんです。お洋服もくつも、何だか小さくなってしまって…」
気に入らない報告書があったのか不機嫌な樊瑞の言葉を、サニーが困ったように引き継ぐ。
それを不思議そうにレッドは眺めた。
「そうか、だからここも出っ張って…」
サニーの胸元へひょいと伸ばしかけたレッドの手を怒鬼が掴む。
サニーとレッドが不思議そうに怒鬼を見ると、無言のまま首を横に振った。
首をかしげる二人に、彼はサニーの背後を指差した。
「あら、おじ様」
「何だ?俺の分のチョコレートはやらんぞ」
さすがは十傑集というべき素早さでサニーのすぐ後ろへ立った樊瑞は、苦りきった顔でサニーの肩をわずかに自分のほうへ引き寄せた。
「…すまんな、怒鬼」
溜息のように言葉をかけられ、怒鬼はただ頷く。
その様子にレッドは不満げに口を尖らせた。
「なんだ怒鬼、お前の分を樊瑞にやるのか?」
「もう…レッドのお兄様ったら。チョコレートはちゃんと皆さんにお出しします!」
俺が食ってやろうと思っていたのに、と今にもぶーぶー言い出しそうなレッドに負けぬ勢いで唇を尖らせ、サニーが言い返す。
一回り以上年若いレッドと、軽く二回り以上は下のサニーの言い合いに、本当に頭痛がしそうだと樊瑞は思った。
お前は今どこを触ろうとしたのだ、とか。
チョコレートなど好き好んで自分が山ほど食うものか、とか。
どこから収拾をつければいいのか考えるのも嫌になり、樊瑞はその場を放棄した。
「ああもう、いい加減にしなさい。サニー、お茶をいれてくれないか」
ばさり、とピンクのマントをひるがえしサニーの背を押す。
少女は尖らせたままの唇で、それでも「はい、おじ様」と応えた。
「あ、おい、俺にチョコレートを選ばせろ!」
キッチンへ向かうサニーの小さな背中を追って、レッドの赤いマフラーがひらりと舞う。
肩で溜息をつく樊瑞に知らぬふりで怒鬼はソファに落ち着いた。
泰然自若、無言を通す青年は元々そういう性質なのだろうが、どうにも気苦労の増えた樊瑞にとっては羨ましいようにも思える。
何しろ、今この瞬間ですらキッチンで二人きりのレッドが先ほどの続きを始めはしないかと気が気ではない。
もちろん、気が弱い子ではないのだから、もし何かあればサニーは大声を出すだろうが、そんな目に少女が遭う事自体が樊瑞には許せないのだ。
かといって、わざわざ追いかけてレッドを引きずってくるというのも大人げない。ましてや十傑集候補にまでなっているサニーが最低限でも自分の身を守れないようでは困るのだ。
まだ昼前の明るい窓の外は青い空に鳥など鳴いている。
ひとつ首を振り、樊瑞がどさりとソファへ座った。
ごとり、と音を立ててテーブルに日本の酒らしい瓶が置かれる。
詫びの代わりにとでも言いたげに、怒鬼はやはり無言で酒瓶を樊瑞のほうへ押しやった。
樊瑞の屋敷にある執務室は重厚なデザインのデスクと家具、大き目のソファセットが置かれている。手入れの行き届いた庭に面するバルコニーへ続く窓は大きく、暖かくなり始めた午後の日差しを惜しみなく室内へ注いでいた。
十傑集リーダーの主な役目、それは主にBF団全体の事務処理担当を示すため、ここ何年か樊瑞は最前線へ出ることもまれだった。
自宅と机に縛られる時間が相当に増えると、それまでほとんど埃をかぶったままだった机も椅子も絨毯すらもいつしかそれなりの物に取って代わった。部下に見繕わせているうちにそうなってしまったのだ。
書類の束に目を通しサインをする樊瑞の横で、その書類をまとめ、整理しているサニーがふと、時計に目をやった。
「おじ様、ティータイムですわ。少しお休みになってはいかが?」
「うん?…ああ、そうだな」
書類から目を上げ、樊瑞も頷く。
サニーはうきうきと書類を置きにっこり笑った。
「では、お茶を。玉露のおいしいのをカワラザキのおじ様にいただいたんですの」
育ちがいいのか大人びているのか、少女の口調ではない。
「玉露と聞いては引くわけにはいかんな!」
「きゃ!」
頭上からの声。
唐突にマスク・ザ・レッドが目の前に現れ、サニーは小さく悲鳴をあげた。
腰を浮かし臨戦体勢を取りかけた樊瑞は相手がレッドとわかり、取り合えずは座り直す。
「…どこから出てきたのだ、レッド」
「天井だ」
「お茶に呼んだのかね、サニー」
悪びれる様子のまったくないレッドに呆れ、樊瑞はサニーに水を向ける。
「いいえ」
首を振るサニーに、心外だとレッドが言い募る。
「茶を飲みに来い、と言っただろ。来てやったんだ、感謝するがいい」
「…お主には直接言ってないと思うが」
「同じ事だ」
呆れ顔の樊瑞と、引く気のないレッドに挟まれ、サニーは微笑んだ。
「大勢でいただいたほうが楽しいですわ。どうぞいらしてくださいませ、レッドのおじ…」
「お兄様だ!」
言い終える前に言い直され、サニーは困ったように樊瑞を見た。
苦笑しながら頷く樊瑞に頷き返し、サニーは困ったように笑いながら「どうぞ、レッドのお兄様」と言い直す。
「よし。菓子は好きか、サニー・ザ・マジシャン。どうだ、好きだろう?子供だからな。これをくれてやろう!」
ご満悦の表情でレッドが印籠のごとく差し出したのは虎屋の羊羹だった。
「まあ!これは和菓子ね。私、とっても久しぶりに見ました」
「怒鬼の奴がどうしても持っていけと言うのでな!」
「嬉しい!怒鬼のお兄様によろしくお伝えくださいね」
サニーがさりげなく怒鬼に対しては”お兄様”と言った事に樊瑞は気づいたが、ご機嫌のレッドは気づかないようだった。
「ありがとうございます、レッドの…お兄様!」
背伸びをしてレッドの頬にキスをする。
と、ガタッと樊瑞が椅子を蹴って立ち上がり、レッドはぽかんと口を開けた。
しかし次の瞬間にはレッドが下卑た笑いと共に樊瑞を見やる。
「…おい、このガキはこんな事まで仕込まれているのか?」
「下衆な物言いをするな!欧米ではごく普通の挨拶だろうがっ」
くたびれたように再び椅子へ崩れる樊瑞を、サニーが不安げな顔で振り返る。
「私、何かおかしなことをしたんでしょうか…?」
「…気にするな。文化の違いという奴だ」
不安そうな顔をするサニーを宥め、樊瑞はがしがしと頭を掻いた。
今まさにサニーがしたような”挨拶”としてのキスをやめさせるため、先日もサニーと話したばかりだった。
ひと言で言えば、要するに、こそばゆい。挨拶としてのキスであることは重々承知していても、欧米で育ったわけではない樊瑞にとっては近しすぎる挨拶であり、面映くこそばゆい。何だか困った気分になるのだ。
そのつもりはまるで無くとも、レッドに揶揄されたように光源氏の真似事をしている気分になってしまう。
そもそも、シチュエーションからして既にそうなのだからどうしようもないのだが。
いい年をした自分が引き取る手前、後見人としての責任を果たさねばと樊瑞は思い定めていた。亡きアルベルトのためにも、本当に光源氏のようなことになるわけにはいかない。
とはいえ、ちょっとした弾みにかわいいキスをされてしまう事は多々あるし、その素直さと共に彼女の美徳であるとも思ってはいる。
だが。
「…おじ様?」
不安げに見上げてくる少女に、樊瑞はため息を押し殺した。
自分以外の人間に対してまでは言及していなかったことを樊瑞は深く後悔した。この先サニーが十傑集のメンバーと顔を合わせる機会は格段に多くなるはずなのだ。身内には甘いとはいえBF団は悪の秘密結社であり、個々人の理由は違えど、結論からすれば女子供をどうこうすることに抵抗のある者は十傑集にはいない。
レッドは物騒な笑みをもらし、サニーの目線までひょいとかがんだ。
「どうせなら口にしてほしいもんだ」
「口、ですか?」
不思議そうに首を傾げるサニーに樊瑞が慌てる。
「サニー!ちょっと待ちなさい!!」
「わかりました、はい」
止める間もなくサニーはちゅ、と唇を掠めるようにレッドのそれに触れさせる。
少女が赤くなって困り果てるのを期待していたレッドが今度こそ固まった。
「サニー!!」
「はい、おじ様」
「それはいかんとアルベルトにも言われただろう!!!」
「あら、でも、赤ちゃんにするご挨拶ですもの。別に…」
「あ、赤ちゃん…だと?」
その言葉にようやくレッドが口を開く。
彼の場合は女子供は殺戮の対象であり、そもそも性的暴力どうこうというのはあまり興味が無い。
樊瑞はいまいましそうにレッドを見、サニーを見て今度こそ大きな溜息をついた。
「…セルバンテスがな、そう言ってサニーにしておった」
「変態だな」
「まさしく」
既に亡いクフィーヤ姿のおじ様への暴言に、サリーは眉を吊り上げる。
「まあ!ひどい!!セルバンテスのおじ様はお優しいステキな方ですわ!」
いくらおじ様方でもそれ以上酷いことをおっしゃるのは許しません、と怒るサニーに、樊瑞は溜息しか出ない。赤ん坊の頃から親しんだ彼女にとって”ステキなおじ様”なのはわかっているが、それを周囲で見聞きする側にとっては必ずしもそうではない。亡き幻惑のセルバンテスは守備範囲の広いことで有名だったのだ。
「それがアルベルトにバレてな」
「おお、それは血を見たのだろうな!」
血生臭そうな話の成り行きに嬉々として目を輝かせるレッドを、嫌そうに見ながらも樊瑞が頷く。
「うむ。わしもそこに居合わせたのだが…何しろサニーはセルバンテスの膝の上におってアルベルトは衝撃波を撃てん」
-----
バタン!と派手な音とともに樊瑞の執務室のドアが開けられた。
「おい、茶!」
開口一番、言い放つのはマスク・ザ・レッド。
ノックもされずに開け放たれたドアに、サニー・ザ・マジシャンは一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに微笑んだ。
「お久しぶりです、レッドのお兄様、それに怒鬼のお兄様」
自然体でふんぞり返るレッドの後ろには、直系の怒鬼が無言で詫びるようにたたずんでいる。
樊瑞はもはや顔も上げずに書類を目を落としたまま「まだおやつの時間には早いぞ」と呟いた。
それを無視してレッドが首をひねる。
「…久しぶり?久しぶりだったか?」
「この前いらしてからひと月ぶりですわ、お兄様」
怒鬼を振り返るレッドに、サニーがにっこり笑う。
納得したのかニヤリとレッドが物騒な笑みを返した。
「ああ、あの後すぐに作戦に参加したからな!何人殺ってきたか当ててみるか?」
「遠慮しておきますわ。さあ、どうぞ。この間おじ様がベルギーで買ってきてくださったチョコレートはいかが?」
血生臭い話を楽しげに始めようとするレッドを、サニーは子供にするようにあしらう。
「チョコレートか!」
喜色満面でレッドはソファへ移動しようとして、ふとサニーを振り返る。
上から下まで眺め首をひねると、怒鬼がどうした、と言いたげにレッドを覗きこんだ。
「おい怒鬼、こいつこの前より大きくなってないか?」
前はこのあたりに頭があったぞ、と自分のスーツの合わせ目あたりに手をかざす。
今のサニーは、その合わせ目よりは明かに頭の位置が高い。
”こいつ”と言われたことに憤慨しかけたサニーは溜息をつき苦笑した。悪気があって言っているのではなく、知らないのだ。お兄様は悪ガキなのだわ、とサニーは思う。
「成長期というやつだ」
「そうなんです。お洋服もくつも、何だか小さくなってしまって…」
気に入らない報告書があったのか不機嫌な樊瑞の言葉を、サニーが困ったように引き継ぐ。
それを不思議そうにレッドは眺めた。
「そうか、だからここも出っ張って…」
サニーの胸元へひょいと伸ばしかけたレッドの手を怒鬼が掴む。
サニーとレッドが不思議そうに怒鬼を見ると、無言のまま首を横に振った。
首をかしげる二人に、彼はサニーの背後を指差した。
「あら、おじ様」
「何だ?俺の分のチョコレートはやらんぞ」
さすがは十傑集というべき素早さでサニーのすぐ後ろへ立った樊瑞は、苦りきった顔でサニーの肩をわずかに自分のほうへ引き寄せた。
「…すまんな、怒鬼」
溜息のように言葉をかけられ、怒鬼はただ頷く。
その様子にレッドは不満げに口を尖らせた。
「なんだ怒鬼、お前の分を樊瑞にやるのか?」
「もう…レッドのお兄様ったら。チョコレートはちゃんと皆さんにお出しします!」
俺が食ってやろうと思っていたのに、と今にもぶーぶー言い出しそうなレッドに負けぬ勢いで唇を尖らせ、サニーが言い返す。
一回り以上年若いレッドと、軽く二回り以上は下のサニーの言い合いに、本当に頭痛がしそうだと樊瑞は思った。
お前は今どこを触ろうとしたのだ、とか。
チョコレートなど好き好んで自分が山ほど食うものか、とか。
どこから収拾をつければいいのか考えるのも嫌になり、樊瑞はその場を放棄した。
「ああもう、いい加減にしなさい。サニー、お茶をいれてくれないか」
ばさり、とピンクのマントをひるがえしサニーの背を押す。
少女は尖らせたままの唇で、それでも「はい、おじ様」と応えた。
「あ、おい、俺にチョコレートを選ばせろ!」
キッチンへ向かうサニーの小さな背中を追って、レッドの赤いマフラーがひらりと舞う。
肩で溜息をつく樊瑞に知らぬふりで怒鬼はソファに落ち着いた。
泰然自若、無言を通す青年は元々そういう性質なのだろうが、どうにも気苦労の増えた樊瑞にとっては羨ましいようにも思える。
何しろ、今この瞬間ですらキッチンで二人きりのレッドが先ほどの続きを始めはしないかと気が気ではない。
もちろん、気が弱い子ではないのだから、もし何かあればサニーは大声を出すだろうが、そんな目に少女が遭う事自体が樊瑞には許せないのだ。
かといって、わざわざ追いかけてレッドを引きずってくるというのも大人げない。ましてや十傑集候補にまでなっているサニーが最低限でも自分の身を守れないようでは困るのだ。
まだ昼前の明るい窓の外は青い空に鳥など鳴いている。
ひとつ首を振り、樊瑞がどさりとソファへ座った。
ごとり、と音を立ててテーブルに日本の酒らしい瓶が置かれる。
詫びの代わりにとでも言いたげに、怒鬼はやはり無言で酒瓶を樊瑞のほうへ押しやった。
白い木材で作られたテラス。
ベランダ越しに見えるのは、秋色に色づく木々たち。
麓の山は次第に紅く染まろうかというところ。
湖はそれを湛え、きらめいている。
庭の草木は夏の熱気からようやく解放され、
これから迎える実りの季節に己が身をしならせている。
樊瑞はサニーと共に、ある邸に来ていた。
サニーとのバカンスには、十分すぎるほど贅沢な邸。
わずかばかりしかない休暇を使って、少し遅い夏休みを楽しむ・・・という筋書き。
庭の手入れは事前に部下に任せておいた。
数年は使われていなかったであろうこの邸は、
部下達の苦心により、もとの美しさを取り戻すにいたる。
いや、むしろサニーが気に入るよう細心の注意を払ってリフォームした邸は、
重厚な雰囲気を伴って、樊瑞とサニーを迎えてくれた。
もう少なくとも三日は滞在しているが、
サニーは特に庭に植えつけてある白いブランコがお気に入りで、
数人のお目付け役と共に、風にゆられていた。
樊瑞もそれに付き合い、共に風にゆられたり、
美しい風景の見えるテラスでお茶を楽しんだり、
滅多にない休暇を、十分に楽しんでいた。
サニーのはしゃぎ様は、それはもう見ているこちらが心配するほどで、
樊瑞は、――多少は罪滅ぼしが出来たか。と、満足するに至っている。
今日はブランコにも飽きたのか、
サニーは「お絵かきをする」と言ってテラスまで樊瑞をつれて来た。
景色は爽やかな秋空から慕情を誘う夕暮れへ移行する途中。
西の空には、哀愁漂う空色と鮮やかな橙のグラデーション。
昼前にたっぷりと遊んだサニーは、疲れたのか短い午睡を楽しみ、
起きた後お目付け役とともに少々のお勉強をした。
時刻は多少遅くなったが、まだディナーには早い時間帯。
――そういえば、アレはいつ買ってやったものだったか・・・。
もうとうに記憶の隅に追いやられ、遠い存在になったものを、
楽しそうに眺めるサニー。
その近くには、何も描かれていない白い画用紙。
それは、ろくに構ってやれない分少しでも気持ちが伝わればと、
まだサニーが三つ四つの頃プレゼントした、色鉛筆。
ブラウンの木目調の箱に、百の色たち。
幼い子にこんなに色目が必要かね?と白いクフィーヤの男には笑われたが・・・。
「おじさま、サニーはまよっていますの。」
舌足らずの声でそう言う。
もう三年は使っている色鉛筆は、長さがふそろいになっている。
その色の鍵盤をなぞりながら、サニーは溜息をついた。
「おじさまのおすがたは、もうすでにたくさんかいていますし・・・。」
この幼いながらも樊瑞を思い遣るサニーは、
逢えないかわり、とばかりに頻繁に樊瑞の姿を描いた絵をプレゼントしていた。
会えるときにまとめてもらうこともあれば、
樊瑞の机の上に、部下が置いてくれている時もあった。
――今日はわしの姿ではなく、この景色を描くといい。サニーも気に入っただろう?
言った途端、サニーは思案顔を一変し、
穏やかな波をたたせている湖と秋の山々にむかって、
お気に入りの色鉛筆を、―その身丈にあわないほど大きな箱を持ち、
ベランダの柵のほうへパタパタと走っていった。
お目付け役たちがあわてて後につく。
そしてふと止まると、
「おじさま!わたくしみずうみへいってまいりますわ!」
この小さな芸術家は、他の者に絵を描いている姿を見られるのを極端に嫌う。
樊瑞も例外ではなかった。
一回、描いている途中に話しかけたことがあったが、それはひどい剣幕で怒られた。
みちゃだめですのと、耳元で大声で言われたときには、
さすがの樊瑞もショックで、この世の終わりかと思うくらい落ち込んだものだった。
後から部下にサニーがそういう性質だと聞いたが、
今でも思い出してはショックを受ける。
サニーは部下に柵の扉を開けてもらい、湖へ絵描きに向かっていく。
途中、樊瑞の方にふりむいて、手をおおきく振ってきたのだが、
あとはもういい場所をみつけて絵描きに熱中しだした。
ここのテラスからでもサニーは目に届く。
それに、お目付け役たちがあれこれと世話を焼いてくれているよう。
――そろそろ休憩するとしよう。
ディナーまで、あと1時間ほどある。
秋の夕暮れは釣瓶落とし・・・だが。
日に染まって紅く変貌する山や湖は、
さぞや小さい芸術家を感動させることだろう。
樊瑞はマントを外し、傍にあった椅子にかけた。
いつもは鮮やかなピンクが、
心なしか穏やかに見える。
テラスから戻って、樊瑞はゆったりとしたソファーに沈んでいた。
ここはテラスの隣というだけあって、
外の景色を切り取って見ることの出来るくらい、大きな部屋であり、
この場所ならば、サニーが帰ってきてもすぐに出迎えてやれる。
全体的に白い家具調の中、
大柄な紺色のスーツ姿がソファーに座っている姿はどこか可笑しい。
もともと殺伐とした雰囲気の中にいる事が多い樊瑞としては、
こういった安らかな時間、面映くなる。
――もといる時間が荒みすぎているのだ・・・。
そう自分に言い聞かすも、
やはり血が騒ぐ場所の方が落ち着くというのは、
これも一種の宿命というものなのか。
サニーを預かった時も、
自分はこういった場所に慣れない性質であるため戸惑った。
だが、戸惑いながらも精一杯育てて来たこの数年で、大分マシになったというもの。
育児は己をも成長させてくれるというが、まさにその通り。
――サニーはいい子に育ってくれている・・・。
身を粉にして働く身としては、あまり構ってやれないにも関わらず、
思いやりのある子に育ってくれて、感慨も深い。
――混世魔王という二つ名も、返上してもらわねばなりませんなぁ・・・。
思い出す。
白いゆらめき。
人を人とも思わぬ、氷の声。
たまたま机の上においてあった絵を取り上げながら、策士は言った。
サニーと一緒に暮らし始めてから、眩惑氏や爺様に揶揄されたことはあったが、
ここまで嫌味に聞こえた台詞は、後にも先にも策士が発した言葉以外無いに等しい。
策士自ら十傑集がリーダーである樊瑞に、
「頼み事」を聞き入れてくれるよう請いに来たのは、
まだ日差しの強い、残暑の事。
外気温は日中三十度を超え、時には四十度に近づこうか、という日もある。
もちろん基地内は空調が効いている。
しかし、外の茹だる様な暑さは、
細やかな神経を持つ策士にとって不快極まりないらしい。
移動手段は影ではあるが、
外に出、
それも樊瑞に会う為に、
わざわざ地球の裏側の基地へ出向くという事実が、
嫌味の一つも言ってやらねば気がすまない原因らしい。
だが、樊瑞はそこには触れずに、
「策士自らわしの許へ来るとは・・・」
それほどまでに重大な禍が起こったか?
リーダーであるが故、子煩悩だと暗に皮肉った発言は聞き流す。
それよりも、今は事態の明瞭化が先決・・・。
策士は樊瑞の切り替えの早さに、多少訝んだが、今はそれどころではない。
「実は。」
策士らしく、理路整然と、分かりやすく、だが真実は掴ませない様に、話し出した。
――北欧の基地が国警の手によって暴かれ、制圧されたらしい。
だがその情報はすでにこちらに伝わっていたので、別段慌てなかった。
樊瑞は問う。
「問題は――・・・、」
問題は、その基地の性質。
BF団は下は地下奥深く、上は月面と、いたる所に基地を持っている。
今回制圧された基地は、確か。
「あの基地は、確かサニーが教育を受けにいっていたな。」
「左様。」
いま樊瑞がいる基地は、外気温との差が著しい。
幼いサニーが滞在するには、あまりにも弊害があると判断した樊瑞は、
サニーをお目付け役に預け、しばらく他国の屋敷へ住まわせていた。
幼い子が屋敷住まいではつまらないだろうと、
避暑をかねて・・・と誘ってくれたのは眩惑のセルバンテス。
また暫く逢えなくなるな、と思うと多少暗くはなったが、
同じ十傑集が付くとあってはそうそう無碍に断るわけにはいかなかった。
北欧の基地は小規模なもので、しかも守りは堅固。
それも重なって、・・・油断していた。
だが。
「サニーの安否はすでに知れている。今はもう、眩惑のセルバンテスと共に脱出し、今は中東にいるはずだが?」
「ええ、セルバンテス殿の別荘におります。サニー殿の身に危険は及んでおりません。ご安心を。ただ・・・――問題は。」
あの基地の、教育機関。
BF団の支部には、次世代を担う子供をBF団寄りの思想を持って育成する機関が併設されている。
まだ実験段階ではあるが、着実に実績を積んでいた。
いたる支部で、似たような機関はあったのだが、本年度をもって正式にBF団教育機関として統一。
教育にムラは致し方ないことかもしれないが、
それでもビッグファイア様への忠誠を誓わせるには、
ムラが無いほうが良いに決まっている。
――サニー殿の教育は、樊瑞殿手ずからしておられるのか?
そう尋ねられたのは数年前。
珍しく策士の方から話しかけてきたと思えば、
いつもは気にも留めていないはずのサニーの事。
今まで策士の会話に幼子の事など一切なかったし、
樊瑞もあえて触れなかった。
だが、策士がこう尋ねてきたからには、
――何かあるに違いない。
幼子をこの策士の毒牙にかけるわけには行かないと、
ますますもって親として自覚を持ち始めた樊瑞は身構えた。
しかし、
今までとは内容が違っていた。
・・・策士は、サニーに幼児教育を施すよう、樊瑞に忠告した本人である。
それもあって、セルバンテスに―教育研究が進んだ北欧はどうかい?と聞かれた時、
不承不承肯いたのだった。
それに、「世界征服を策謀するBF団」・・・なのだ。
資金は潤沢にあるとはいえ、人材は沸いて溢れる泉のようはいかない。
BF団同士の婚姻で生まれた子供、また、世界中にいる孤児――・・・。
BF団で教育を受けている者たちが、
あの基地には沢山ではないが、
それでもいた。
――いくら制圧されたからといって、国警はみすみす生け捕った人質を殺したりはしないはず・・・。
何らかの利になると見て、必ずや誘き出す餌にされること間違いなし。
「――・・・では、その者たちの救出にあたれ、と?」
「まさか。」
そんなことをして何の得になるのか。
馬鹿馬鹿しい。
策士は薄ら笑う。
「基地にいた子供たちはすべて国警に”保護”されてると、報告がありました。
――もしかすると国警の特殊能力者が、教育的洗脳の浅い子供の思考を探り、BF団の教育方法を知るやもしれません。
特に北欧基地は教育に力をいれてましたのでな、知られては困る情報も、僅かながらにあるのです。」
――そこで、国警に”保護”されている子供達を、すべて処理していただきたい。
淡々と、策士は言葉を紡ぐ。
――それに。
「国警の能力者は、子供に再洗脳を施し、利用してくるやも知れません。
優秀な人材を失うのは惜しいですが・・・。
――新たな敵が生まれてしまっては困りますので。」
「頼み事」をしているのは孔明であるというのに、不遜な態度。
それがまるで当然といったような体。
ここで樊瑞が一笑にふしてしまえば、
孔明の計画にほんの少しでも砂礫をいれることが出来ようが、
――すべてビッグファイア様の御意志にございますれば。
暗に、訴えてくる。
作戦が失敗するということは、我らが当主にも負荷がかかるという事。
一個人の私怨などで、
この当主代理である策士の頼みごとなど、
断れるはずが無い。
樊瑞は言う。
「このわしを頼る、という事は、それほどに急を要することなのだな。」
「――いかにも。」
「して、報酬は。」
「・・・サニー殿とバカンスを楽しむ程度の休暇ならばご用意できます。」
十傑集の休暇など、無い訳ではないが、
報酬として貰わなければ、
過労死という言葉をしらない策士が、
勝手に作戦をたててしまう。
「・・・ほう、そなたにしてはやけに気が利くな。」
珍しく意地の悪い笑みを返す樊瑞が癪に障ったのか、
孔明は羽扇でそれ以上の会話を拒み、
「委細お任せしましたぞ、樊瑞殿。」
あとは影に飲み込まれて、
樊瑞一人が残されるのみ。
「樊瑞様、そろそろディナーのお時間でございます。」
この邸の執事がそう伝えに来て、はっと眼が覚めた。
どうやら睡んでいたらしい。
サニーが隣に座って、
「おじさま、おつかれでございますの?」
心配そうに擦り寄ってくる。
いつの間にやら薄いグラデーションだった空が濃い橙色に覆われ、
今沈まんとする夕日の光が部屋を明るくしている。
白に反射して一層眩しい橙の光が、サニーの髪を明るくしていた。
「・・・大丈夫だ、サニー。さ、ディナーにしようか。」
「はいっ」
サニーの頭の上に手をのせ、髪をすく。
ソファーから立ち、ゆっくりと背伸びをする。
どうやら疲れが出たようだ。
「サニーはきょう、いっぱいえをかきましたの!おじさまにもあとでおみせしますわ!」
「・・・そうか、それは楽しみだ。」
はやくはやく、と食事の間へせかされた。
もうバカンスはそれほど長くないと感づいたのか、
サニーはいっそう甘えて、
食事のあとも樊瑞を独り占めしていた。
樊瑞はめったに甘えてこないこの少女に、肉親の情愛というものを感じていた。
初めはあんなに戸惑ったのに、今ではこの少女が全てになりつつある。
――まったく皮肉なことだ。
樊瑞は思う。
たかだか子供四、五十人。
国警が制圧しているとはいえ、十傑集がリーダーを煩わせるほどの任務ではない。
これは当て付けだ。
せいぜい情に流されるなと、言いたかったのだろう。
ものの数秒で終わった。
――もし、サニーが人質となっていたら・・・。
セルバンテスがあの基地に避暑へ誘ったのは偶然だろうが、
もとはあの策士が幼児教育をせよと言ってきたのだから。
――油断するな、と釘を刺したかったのか。
それとも。