白い木材で作られたテラス。
ベランダ越しに見えるのは、秋色に色づく木々たち。
麓の山は次第に紅く染まろうかというところ。
湖はそれを湛え、きらめいている。
庭の草木は夏の熱気からようやく解放され、
これから迎える実りの季節に己が身をしならせている。
樊瑞はサニーと共に、ある邸に来ていた。
サニーとのバカンスには、十分すぎるほど贅沢な邸。
わずかばかりしかない休暇を使って、少し遅い夏休みを楽しむ・・・という筋書き。
庭の手入れは事前に部下に任せておいた。
数年は使われていなかったであろうこの邸は、
部下達の苦心により、もとの美しさを取り戻すにいたる。
いや、むしろサニーが気に入るよう細心の注意を払ってリフォームした邸は、
重厚な雰囲気を伴って、樊瑞とサニーを迎えてくれた。
もう少なくとも三日は滞在しているが、
サニーは特に庭に植えつけてある白いブランコがお気に入りで、
数人のお目付け役と共に、風にゆられていた。
樊瑞もそれに付き合い、共に風にゆられたり、
美しい風景の見えるテラスでお茶を楽しんだり、
滅多にない休暇を、十分に楽しんでいた。
サニーのはしゃぎ様は、それはもう見ているこちらが心配するほどで、
樊瑞は、――多少は罪滅ぼしが出来たか。と、満足するに至っている。
今日はブランコにも飽きたのか、
サニーは「お絵かきをする」と言ってテラスまで樊瑞をつれて来た。
景色は爽やかな秋空から慕情を誘う夕暮れへ移行する途中。
西の空には、哀愁漂う空色と鮮やかな橙のグラデーション。
昼前にたっぷりと遊んだサニーは、疲れたのか短い午睡を楽しみ、
起きた後お目付け役とともに少々のお勉強をした。
時刻は多少遅くなったが、まだディナーには早い時間帯。
――そういえば、アレはいつ買ってやったものだったか・・・。
もうとうに記憶の隅に追いやられ、遠い存在になったものを、
楽しそうに眺めるサニー。
その近くには、何も描かれていない白い画用紙。
それは、ろくに構ってやれない分少しでも気持ちが伝わればと、
まだサニーが三つ四つの頃プレゼントした、色鉛筆。
ブラウンの木目調の箱に、百の色たち。
幼い子にこんなに色目が必要かね?と白いクフィーヤの男には笑われたが・・・。
「おじさま、サニーはまよっていますの。」
舌足らずの声でそう言う。
もう三年は使っている色鉛筆は、長さがふそろいになっている。
その色の鍵盤をなぞりながら、サニーは溜息をついた。
「おじさまのおすがたは、もうすでにたくさんかいていますし・・・。」
この幼いながらも樊瑞を思い遣るサニーは、
逢えないかわり、とばかりに頻繁に樊瑞の姿を描いた絵をプレゼントしていた。
会えるときにまとめてもらうこともあれば、
樊瑞の机の上に、部下が置いてくれている時もあった。
――今日はわしの姿ではなく、この景色を描くといい。サニーも気に入っただろう?
言った途端、サニーは思案顔を一変し、
穏やかな波をたたせている湖と秋の山々にむかって、
お気に入りの色鉛筆を、―その身丈にあわないほど大きな箱を持ち、
ベランダの柵のほうへパタパタと走っていった。
お目付け役たちがあわてて後につく。
そしてふと止まると、
「おじさま!わたくしみずうみへいってまいりますわ!」
この小さな芸術家は、他の者に絵を描いている姿を見られるのを極端に嫌う。
樊瑞も例外ではなかった。
一回、描いている途中に話しかけたことがあったが、それはひどい剣幕で怒られた。
みちゃだめですのと、耳元で大声で言われたときには、
さすがの樊瑞もショックで、この世の終わりかと思うくらい落ち込んだものだった。
後から部下にサニーがそういう性質だと聞いたが、
今でも思い出してはショックを受ける。
サニーは部下に柵の扉を開けてもらい、湖へ絵描きに向かっていく。
途中、樊瑞の方にふりむいて、手をおおきく振ってきたのだが、
あとはもういい場所をみつけて絵描きに熱中しだした。
ここのテラスからでもサニーは目に届く。
それに、お目付け役たちがあれこれと世話を焼いてくれているよう。
――そろそろ休憩するとしよう。
ディナーまで、あと1時間ほどある。
秋の夕暮れは釣瓶落とし・・・だが。
日に染まって紅く変貌する山や湖は、
さぞや小さい芸術家を感動させることだろう。
樊瑞はマントを外し、傍にあった椅子にかけた。
いつもは鮮やかなピンクが、
心なしか穏やかに見える。
テラスから戻って、樊瑞はゆったりとしたソファーに沈んでいた。
ここはテラスの隣というだけあって、
外の景色を切り取って見ることの出来るくらい、大きな部屋であり、
この場所ならば、サニーが帰ってきてもすぐに出迎えてやれる。
全体的に白い家具調の中、
大柄な紺色のスーツ姿がソファーに座っている姿はどこか可笑しい。
もともと殺伐とした雰囲気の中にいる事が多い樊瑞としては、
こういった安らかな時間、面映くなる。
――もといる時間が荒みすぎているのだ・・・。
そう自分に言い聞かすも、
やはり血が騒ぐ場所の方が落ち着くというのは、
これも一種の宿命というものなのか。
サニーを預かった時も、
自分はこういった場所に慣れない性質であるため戸惑った。
だが、戸惑いながらも精一杯育てて来たこの数年で、大分マシになったというもの。
育児は己をも成長させてくれるというが、まさにその通り。
――サニーはいい子に育ってくれている・・・。
身を粉にして働く身としては、あまり構ってやれないにも関わらず、
思いやりのある子に育ってくれて、感慨も深い。
――混世魔王という二つ名も、返上してもらわねばなりませんなぁ・・・。
思い出す。
白いゆらめき。
人を人とも思わぬ、氷の声。
たまたま机の上においてあった絵を取り上げながら、策士は言った。
サニーと一緒に暮らし始めてから、眩惑氏や爺様に揶揄されたことはあったが、
ここまで嫌味に聞こえた台詞は、後にも先にも策士が発した言葉以外無いに等しい。
策士自ら十傑集がリーダーである樊瑞に、
「頼み事」を聞き入れてくれるよう請いに来たのは、
まだ日差しの強い、残暑の事。
外気温は日中三十度を超え、時には四十度に近づこうか、という日もある。
もちろん基地内は空調が効いている。
しかし、外の茹だる様な暑さは、
細やかな神経を持つ策士にとって不快極まりないらしい。
移動手段は影ではあるが、
外に出、
それも樊瑞に会う為に、
わざわざ地球の裏側の基地へ出向くという事実が、
嫌味の一つも言ってやらねば気がすまない原因らしい。
だが、樊瑞はそこには触れずに、
「策士自らわしの許へ来るとは・・・」
それほどまでに重大な禍が起こったか?
リーダーであるが故、子煩悩だと暗に皮肉った発言は聞き流す。
それよりも、今は事態の明瞭化が先決・・・。
策士は樊瑞の切り替えの早さに、多少訝んだが、今はそれどころではない。
「実は。」
策士らしく、理路整然と、分かりやすく、だが真実は掴ませない様に、話し出した。
――北欧の基地が国警の手によって暴かれ、制圧されたらしい。
だがその情報はすでにこちらに伝わっていたので、別段慌てなかった。
樊瑞は問う。
「問題は――・・・、」
問題は、その基地の性質。
BF団は下は地下奥深く、上は月面と、いたる所に基地を持っている。
今回制圧された基地は、確か。
「あの基地は、確かサニーが教育を受けにいっていたな。」
「左様。」
いま樊瑞がいる基地は、外気温との差が著しい。
幼いサニーが滞在するには、あまりにも弊害があると判断した樊瑞は、
サニーをお目付け役に預け、しばらく他国の屋敷へ住まわせていた。
幼い子が屋敷住まいではつまらないだろうと、
避暑をかねて・・・と誘ってくれたのは眩惑のセルバンテス。
また暫く逢えなくなるな、と思うと多少暗くはなったが、
同じ十傑集が付くとあってはそうそう無碍に断るわけにはいかなかった。
北欧の基地は小規模なもので、しかも守りは堅固。
それも重なって、・・・油断していた。
だが。
「サニーの安否はすでに知れている。今はもう、眩惑のセルバンテスと共に脱出し、今は中東にいるはずだが?」
「ええ、セルバンテス殿の別荘におります。サニー殿の身に危険は及んでおりません。ご安心を。ただ・・・――問題は。」
あの基地の、教育機関。
BF団の支部には、次世代を担う子供をBF団寄りの思想を持って育成する機関が併設されている。
まだ実験段階ではあるが、着実に実績を積んでいた。
いたる支部で、似たような機関はあったのだが、本年度をもって正式にBF団教育機関として統一。
教育にムラは致し方ないことかもしれないが、
それでもビッグファイア様への忠誠を誓わせるには、
ムラが無いほうが良いに決まっている。
――サニー殿の教育は、樊瑞殿手ずからしておられるのか?
そう尋ねられたのは数年前。
珍しく策士の方から話しかけてきたと思えば、
いつもは気にも留めていないはずのサニーの事。
今まで策士の会話に幼子の事など一切なかったし、
樊瑞もあえて触れなかった。
だが、策士がこう尋ねてきたからには、
――何かあるに違いない。
幼子をこの策士の毒牙にかけるわけには行かないと、
ますますもって親として自覚を持ち始めた樊瑞は身構えた。
しかし、
今までとは内容が違っていた。
・・・策士は、サニーに幼児教育を施すよう、樊瑞に忠告した本人である。
それもあって、セルバンテスに―教育研究が進んだ北欧はどうかい?と聞かれた時、
不承不承肯いたのだった。
それに、「世界征服を策謀するBF団」・・・なのだ。
資金は潤沢にあるとはいえ、人材は沸いて溢れる泉のようはいかない。
BF団同士の婚姻で生まれた子供、また、世界中にいる孤児――・・・。
BF団で教育を受けている者たちが、
あの基地には沢山ではないが、
それでもいた。
――いくら制圧されたからといって、国警はみすみす生け捕った人質を殺したりはしないはず・・・。
何らかの利になると見て、必ずや誘き出す餌にされること間違いなし。
「――・・・では、その者たちの救出にあたれ、と?」
「まさか。」
そんなことをして何の得になるのか。
馬鹿馬鹿しい。
策士は薄ら笑う。
「基地にいた子供たちはすべて国警に”保護”されてると、報告がありました。
――もしかすると国警の特殊能力者が、教育的洗脳の浅い子供の思考を探り、BF団の教育方法を知るやもしれません。
特に北欧基地は教育に力をいれてましたのでな、知られては困る情報も、僅かながらにあるのです。」
――そこで、国警に”保護”されている子供達を、すべて処理していただきたい。
淡々と、策士は言葉を紡ぐ。
――それに。
「国警の能力者は、子供に再洗脳を施し、利用してくるやも知れません。
優秀な人材を失うのは惜しいですが・・・。
――新たな敵が生まれてしまっては困りますので。」
「頼み事」をしているのは孔明であるというのに、不遜な態度。
それがまるで当然といったような体。
ここで樊瑞が一笑にふしてしまえば、
孔明の計画にほんの少しでも砂礫をいれることが出来ようが、
――すべてビッグファイア様の御意志にございますれば。
暗に、訴えてくる。
作戦が失敗するということは、我らが当主にも負荷がかかるという事。
一個人の私怨などで、
この当主代理である策士の頼みごとなど、
断れるはずが無い。
樊瑞は言う。
「このわしを頼る、という事は、それほどに急を要することなのだな。」
「――いかにも。」
「して、報酬は。」
「・・・サニー殿とバカンスを楽しむ程度の休暇ならばご用意できます。」
十傑集の休暇など、無い訳ではないが、
報酬として貰わなければ、
過労死という言葉をしらない策士が、
勝手に作戦をたててしまう。
「・・・ほう、そなたにしてはやけに気が利くな。」
珍しく意地の悪い笑みを返す樊瑞が癪に障ったのか、
孔明は羽扇でそれ以上の会話を拒み、
「委細お任せしましたぞ、樊瑞殿。」
あとは影に飲み込まれて、
樊瑞一人が残されるのみ。
「樊瑞様、そろそろディナーのお時間でございます。」
この邸の執事がそう伝えに来て、はっと眼が覚めた。
どうやら睡んでいたらしい。
サニーが隣に座って、
「おじさま、おつかれでございますの?」
心配そうに擦り寄ってくる。
いつの間にやら薄いグラデーションだった空が濃い橙色に覆われ、
今沈まんとする夕日の光が部屋を明るくしている。
白に反射して一層眩しい橙の光が、サニーの髪を明るくしていた。
「・・・大丈夫だ、サニー。さ、ディナーにしようか。」
「はいっ」
サニーの頭の上に手をのせ、髪をすく。
ソファーから立ち、ゆっくりと背伸びをする。
どうやら疲れが出たようだ。
「サニーはきょう、いっぱいえをかきましたの!おじさまにもあとでおみせしますわ!」
「・・・そうか、それは楽しみだ。」
はやくはやく、と食事の間へせかされた。
もうバカンスはそれほど長くないと感づいたのか、
サニーはいっそう甘えて、
食事のあとも樊瑞を独り占めしていた。
樊瑞はめったに甘えてこないこの少女に、肉親の情愛というものを感じていた。
初めはあんなに戸惑ったのに、今ではこの少女が全てになりつつある。
――まったく皮肉なことだ。
樊瑞は思う。
たかだか子供四、五十人。
国警が制圧しているとはいえ、十傑集がリーダーを煩わせるほどの任務ではない。
これは当て付けだ。
せいぜい情に流されるなと、言いたかったのだろう。
ものの数秒で終わった。
――もし、サニーが人質となっていたら・・・。
セルバンテスがあの基地に避暑へ誘ったのは偶然だろうが、
もとはあの策士が幼児教育をせよと言ってきたのだから。
――油断するな、と釘を刺したかったのか。
それとも。
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