それは幾度目の逢瀬になるのか。
旅することを止めることのできないヴァッシュが、ディセムバにあるベルナルデリ保険協会の本社勤務からはずれることのできないメリルのもとへ、年に数度訪れる。
互いの生活と思いを尊重した、奇妙な生活。
ずっと一緒にいることが出来ない、ということにお互い不満がまるでないわけではない。
それでも、傍目にはいくら奇妙でも本人たちが幸せだと思っているのだからそれでいい、とヴァッシュもメリルも思っている。
金曜日の夕食を共にして。会うことのできなかった間を埋めるかのように、互いを暖めあった。
そしてすべての人に等しく、月曜日の朝は来る。
いっそ幼く見える寝顔のヴァッシュを残し、メリルはベッドを出る。
手早く着替えを終えると、トースターにパンを放り込み、顔を洗う。
これまた素早く朝食を済ませると、歯を磨き、化粧にうつる。
ファンデーション、パウダー、まゆずみ、シャドウ、チーク、口紅。いっそ感嘆の声を漏らしたくなるほどの手際よさで、色をのせてゆく。
カバンを肩にパンプスを履いていると、起きてきたヴァッシュが背後にやって来た。
「もう行くの?」
ええ、と振り返ったメリルにジーンズをはいただけのヴァッシュはひどく驚いた表情を浮かべる。
「どうかしまして?」
「いや、…きちんと、化粧しているんだ」
「いつも、していますわよ?」
確かに。旅路では必要最低限の薄いメークしかしていなかった。
旅に出なくなった今、彼と最もよく顔を会わせる夕刻には少々化粧崩れしているであろうことはメリルにも重々わかっているが。化粧していることに今初めて気付いた、と言わんばかりの口調はあんまりだとメリルは思う。
「街では、化粧も立派な女の武器ですし」
「キレイ、だね」
愛している、とささやくときと同じ熱で。もう一度、キレイだとつぶやくとヴァッシュはメリルを抱き寄せ、口づけた。深く、舌を絡め合う……朝の挨拶とは明らかに異なる、キス。
「仕事が、ありますの」
「休んじゃえば?」
長く続いたキスに息を上げるメリルに、軽く色うつりした赤い唇でヴァッシュがさらりと言う。
「会議が、あって…休むわけには…」
スーツのジャケットの下、背から腰にかけて、彼の手がうごめく。ブラウスの上をなぞる手が昨夜までの熱を容易に思い出させて、メリルは頬を染める。
「やだよ。ここに、いてよ」
「ヴァッシュさん!」
きつい声に手を止め、困った顔でヴァッシュがメリルの顔を覗き込む。捨てられた子犬のような目をして。
「ルール、違反ですわ。互いの生活を乱さないと…それが約束だったでしょう?」
「でも…」
でももしかしもない、と固めていたはずのメリルの決意は、ヴァッシュの次の言葉にもろくも崩れ去ってしまった。
「こんなにキレイな君を、他の人に見せたくない」
きっぱりとした物言いに、メリルはひとつため息をついた。
「2分…待っていただけます?」
ゆるめられた腕をすり抜け、電話の前に立って呼吸を整える。
風邪を引いたと会社に嘘を告げると、既にソファに座っていたヴァッシュが、無邪気に笑った。
「大変だね」
「勝手気ままな旅と違って、街には街のルールがありますの」
ワザとすねてみせるが、離れたくなかったのはメリルも同じで。
ジャケットとカバンをキッチンの椅子に置き、ヴァッシュのもとへと近づく。
「来てよ。僕の美しい人」
そして、差し伸べられた腕の中に、メリルは堕ちる。
変わらない人のざわめきと鳥の声の中、吐息を互いの唇で奪い合って、二人は笑った。
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離れずに暖めて
うららかな日差しの、とある日の午後。
カフェテラスで、一人の男がぼんやりと空を見上げていた。
「平和だな-」
ぽつりとつぶやく。
彼にとって、ごくごく日常的な平穏というものは、まれであった。
柔らかな風が金髪をそっとなで、また空へとかえっていく。
時折はためく赤いコートのすそを気にもとめずに、彼はテーブルに置かれたドーナツへと手を伸ばした。
ひとつ、またひとつと、ただもくもくと食していく。
「ほんと、平和だな-・・・」
再びつぶやくと、八個目のドーナツをほおばる。
と、彼の表情が一変する。-どうやら、のどに詰まったようだった。
胸元をたたいて、何とか事無きをえようとするが、うまくいかない。
苦しさのあまり、顔が変色し始めたころ、目の前にコップが差し出された。
天の助けと思いながら、彼はそれを引っ手繰るように受け取ると、中の水を一気に飲み干した。
「っはー!助かったよ。ありがとう」
頭をかきながら、彼は笑顔で礼を言う。
「いえ。どういたしまして」
相手も、笑顔で返してきた。
だが、眼前の人物の笑顔に、彼は硬直する。
「ひ、久しぶり。保険屋さん」
「十四時間ぶりですわね。ヴァッシュさん」
「あは、あはははははは」
「ほほほほほほほほほほほほ」
「もうひとりは?」
「向こうの通りにある宿屋で、部屋を取っているところだと思いますわ」
「もしかして、青い屋根で三階建ての?」
「はい」
「・・・・・仕事、早いね。相変わらず」
「お褒め頂き、光栄ですわ」
彼女の言葉に、彼は少々引きつった笑みを返したのだった。
(いつまで、ついて来るつもりなんだろう・・・)
彼は、ふと胸中でつぶやく。
メリル・ストライフ-彼女の名を反芻する。
(変わった子だよな・・・)
ぼーっと、彼女を眺める。
その視線に気づいていないのか。
メリルは素知らぬ顔で、コーヒーを飲んでいた。
「あのさ・・・」
「はい?」
「いつまで、ついて来る気なの?」
「愚問ですわよ、それは・・・」
ヴァッシュの方へ向き直り、手にしていたカップをテーブルの上へと置くメリル。
「いや、仕事だってのはわかるんだけどさ」
「・・・・別に、仕事だけでついて来ているわけではありませんのよ」
「他に理由あるの?」
「ええ」
「なに?」
「あなたを放っておけないから。ひとりにしておきたくないから・・・です」
「そんなに、危なっかしいかな」
「とっても・・・ね」
ふっと、沈黙があたりを支配する。
いつしか、風もやんでいた。
二人は視線をはずしたまま、ただ黙り込んでいた。
先に口を開いたのは、メリルの方であった。
「・・・・時々、そのまま倒れてしまいそうに見えたりするんですのよ」
どこか悲しそうな、いたわりを含んだ言葉。
「全部ひとりで抱え込んで、何にもすがらずにいる。そんな生き方では、いつかツケが回ってきて自分では支えられなくなりますわよ」
「・・・・・・そうかも・・・・知れないね」
「私じゃあ、やっぱり役不足ですか?」
「・・・・・・・・」
「あなたを支えてあげられないですか?」
「・・・・たぶんね。そのまま、一緒に倒れちゃいそうだもの」
軽く放たれた言葉に、重みがあった。
口をつぐみ、メリルはうつむく。
ひざに置かれた手をぎゅっと握ると、か細い声で反論する。
「・・・・そんなこと」
きゅっと唇を引き結ぶと、ヴァッシュをきっと見据えて続ける。
「・・・・・そんなこと、ありませんわ!!」
声に、先ほどのような気弱さは、もうなかった。
勢いにまま立ち上がったメリルは、ヴァッシュに詰め寄る。
「そんなことありませんわよ!」
「そう?」
「大丈夫です!ヴァッシュさんぐらい、支えられますわ!!」
「ぐらい・・・か。それは、頼もしいな」
「なんなら、試してみます?」
「・・・・・じゃあ、そうしてみようか」
「は?」
ヴァッシュの返答の意味がわからず、メリルは間の抜けた声をだす。
当のヴァッシュは、それにかまわず自分の身体をメリルの肩にもたれかけさせた。
「えっ・・・。あ、あのっ・・・」
「ちゃんと支えていないと、本当に倒れちゃうよ」
「・・・・・・っ」
顔を少し赤らめながら、必死に肩でヴァッシュを支えようとするメリル。
それを見て、ヴァッシュはくすりと笑う。
「何が、おかしいんですの?」
「必死なとこが」
「!」
ヴァッシュの言葉にむっとして、メリルはすっと肩をずらした。
「あらっ」
当然のごとく、ヴァッシュはそのまま床に倒れてしまった。
「笑ったから、バツですわ」
「支えてくれっるて言ったのに・・・。そりゃないよー」
「それはこっちのセリフですわよ。ひとが真剣に・・・」
ぽすっと、ヴァッシュはメリルを抱きしめた。
なんの前触れもなかった出来事に、メリルは驚く。
「ヴァッシュさんっ」
腕の中にちょうどおさまったその身体の肩に顔を埋づめ、そっとつぶやく。
「ごめん・・・・。今のは、僕が悪かった」
「・・・・・・・」
「許してくれる?」
「・・・・・・しょうがないから、許してあげますわ」
「よかった・・・・・」
「-で、いつまでこうしている気ですの?」
「いや?」
「いやじゃ・・・・ないですけど」
「それなら、もう少しこのままでいさせてもらっていいかな」
「・・・かまいませんけど」
「ありがとう」
やさしく抱きしめたままで、ささやくようにヴァッシュはメリルに告げる。
「あったかいね・・・・・」
「そうですか?」
「・・・・・うん。子供の体温並みに」
「前言撤回しますわ!離してください!!」
「いや」
「っ!!!」
「どうしても離れたいなら、自力でどうにかしてね」
「・・・・・・いじわる」
観念したように、自分の胸に顔を埋めたメリルを見て、ヴァッシュはうれしそうに目を細める。
すっと空を見上げると、背中に回している手に少しだけ力を込めた。
なくしたくはない、暖かさ。
求めていた暖かさ。
この暖かさを失わないために、遠ざけている自分。
本当は、何よりも一番近くに感じていたいものでもあるのに・・・。
失って悲しむのはいやだから遠ざけているのに、自分勝手に求めている。
ムシがよすぎる。
なんて、わがままなんだろうか。
けれども、そうしなければ歩いて行けない自分自身に対し苦笑すると、ヴァッシュはメリルの頭を軽くなで、髪にそっと口づけたのだった。
うららかな日差しの、とある日の午後。
カフェテラスで、一人の男がぼんやりと空を見上げていた。
「平和だな-」
ぽつりとつぶやく。
彼にとって、ごくごく日常的な平穏というものは、まれであった。
柔らかな風が金髪をそっとなで、また空へとかえっていく。
時折はためく赤いコートのすそを気にもとめずに、彼はテーブルに置かれたドーナツへと手を伸ばした。
ひとつ、またひとつと、ただもくもくと食していく。
「ほんと、平和だな-・・・」
再びつぶやくと、八個目のドーナツをほおばる。
と、彼の表情が一変する。-どうやら、のどに詰まったようだった。
胸元をたたいて、何とか事無きをえようとするが、うまくいかない。
苦しさのあまり、顔が変色し始めたころ、目の前にコップが差し出された。
天の助けと思いながら、彼はそれを引っ手繰るように受け取ると、中の水を一気に飲み干した。
「っはー!助かったよ。ありがとう」
頭をかきながら、彼は笑顔で礼を言う。
「いえ。どういたしまして」
相手も、笑顔で返してきた。
だが、眼前の人物の笑顔に、彼は硬直する。
「ひ、久しぶり。保険屋さん」
「十四時間ぶりですわね。ヴァッシュさん」
「あは、あはははははは」
「ほほほほほほほほほほほほ」
「もうひとりは?」
「向こうの通りにある宿屋で、部屋を取っているところだと思いますわ」
「もしかして、青い屋根で三階建ての?」
「はい」
「・・・・・仕事、早いね。相変わらず」
「お褒め頂き、光栄ですわ」
彼女の言葉に、彼は少々引きつった笑みを返したのだった。
(いつまで、ついて来るつもりなんだろう・・・)
彼は、ふと胸中でつぶやく。
メリル・ストライフ-彼女の名を反芻する。
(変わった子だよな・・・)
ぼーっと、彼女を眺める。
その視線に気づいていないのか。
メリルは素知らぬ顔で、コーヒーを飲んでいた。
「あのさ・・・」
「はい?」
「いつまで、ついて来る気なの?」
「愚問ですわよ、それは・・・」
ヴァッシュの方へ向き直り、手にしていたカップをテーブルの上へと置くメリル。
「いや、仕事だってのはわかるんだけどさ」
「・・・・別に、仕事だけでついて来ているわけではありませんのよ」
「他に理由あるの?」
「ええ」
「なに?」
「あなたを放っておけないから。ひとりにしておきたくないから・・・です」
「そんなに、危なっかしいかな」
「とっても・・・ね」
ふっと、沈黙があたりを支配する。
いつしか、風もやんでいた。
二人は視線をはずしたまま、ただ黙り込んでいた。
先に口を開いたのは、メリルの方であった。
「・・・・時々、そのまま倒れてしまいそうに見えたりするんですのよ」
どこか悲しそうな、いたわりを含んだ言葉。
「全部ひとりで抱え込んで、何にもすがらずにいる。そんな生き方では、いつかツケが回ってきて自分では支えられなくなりますわよ」
「・・・・・・そうかも・・・・知れないね」
「私じゃあ、やっぱり役不足ですか?」
「・・・・・・・・」
「あなたを支えてあげられないですか?」
「・・・・たぶんね。そのまま、一緒に倒れちゃいそうだもの」
軽く放たれた言葉に、重みがあった。
口をつぐみ、メリルはうつむく。
ひざに置かれた手をぎゅっと握ると、か細い声で反論する。
「・・・・そんなこと」
きゅっと唇を引き結ぶと、ヴァッシュをきっと見据えて続ける。
「・・・・・そんなこと、ありませんわ!!」
声に、先ほどのような気弱さは、もうなかった。
勢いにまま立ち上がったメリルは、ヴァッシュに詰め寄る。
「そんなことありませんわよ!」
「そう?」
「大丈夫です!ヴァッシュさんぐらい、支えられますわ!!」
「ぐらい・・・か。それは、頼もしいな」
「なんなら、試してみます?」
「・・・・・じゃあ、そうしてみようか」
「は?」
ヴァッシュの返答の意味がわからず、メリルは間の抜けた声をだす。
当のヴァッシュは、それにかまわず自分の身体をメリルの肩にもたれかけさせた。
「えっ・・・。あ、あのっ・・・」
「ちゃんと支えていないと、本当に倒れちゃうよ」
「・・・・・・っ」
顔を少し赤らめながら、必死に肩でヴァッシュを支えようとするメリル。
それを見て、ヴァッシュはくすりと笑う。
「何が、おかしいんですの?」
「必死なとこが」
「!」
ヴァッシュの言葉にむっとして、メリルはすっと肩をずらした。
「あらっ」
当然のごとく、ヴァッシュはそのまま床に倒れてしまった。
「笑ったから、バツですわ」
「支えてくれっるて言ったのに・・・。そりゃないよー」
「それはこっちのセリフですわよ。ひとが真剣に・・・」
ぽすっと、ヴァッシュはメリルを抱きしめた。
なんの前触れもなかった出来事に、メリルは驚く。
「ヴァッシュさんっ」
腕の中にちょうどおさまったその身体の肩に顔を埋づめ、そっとつぶやく。
「ごめん・・・・。今のは、僕が悪かった」
「・・・・・・・」
「許してくれる?」
「・・・・・・しょうがないから、許してあげますわ」
「よかった・・・・・」
「-で、いつまでこうしている気ですの?」
「いや?」
「いやじゃ・・・・ないですけど」
「それなら、もう少しこのままでいさせてもらっていいかな」
「・・・かまいませんけど」
「ありがとう」
やさしく抱きしめたままで、ささやくようにヴァッシュはメリルに告げる。
「あったかいね・・・・・」
「そうですか?」
「・・・・・うん。子供の体温並みに」
「前言撤回しますわ!離してください!!」
「いや」
「っ!!!」
「どうしても離れたいなら、自力でどうにかしてね」
「・・・・・・いじわる」
観念したように、自分の胸に顔を埋めたメリルを見て、ヴァッシュはうれしそうに目を細める。
すっと空を見上げると、背中に回している手に少しだけ力を込めた。
なくしたくはない、暖かさ。
求めていた暖かさ。
この暖かさを失わないために、遠ざけている自分。
本当は、何よりも一番近くに感じていたいものでもあるのに・・・。
失って悲しむのはいやだから遠ざけているのに、自分勝手に求めている。
ムシがよすぎる。
なんて、わがままなんだろうか。
けれども、そうしなければ歩いて行けない自分自身に対し苦笑すると、ヴァッシュはメリルの頭を軽くなで、髪にそっと口づけたのだった。
訪問者
注:このお話は、我がサークル発行の「胸に咲いた黄色い花」の設定がベースになったオフィスラブパロディ話の後日談です。しかし読んでない方にも判るように解説致しますと、オフィスラブ厳禁の職場内しかも遠距離恋愛の末結婚したヴァッシュとメリルの新婚家庭に双子の兄であるナイブズが遊びに来たというパロディものです。心してお読み下さいませ。
壁紙は薄い紫のわすれな草をちりばめたものだった。
どっちの趣味だか知らないが――いやアイツの趣味だとは思いたくないから目の前で紅茶を容れている女の方の趣味なのかもしれないが、どちらにしろ壁紙に模様が入っているのはどうかと思う。
そもそも、家というものは長く住むものであるのからして、なるべく飽きの来ないシンプルでなものあることが望ましく思うのだが、そういう理念はないのであろうか。
だいたいこの壁紙は随分と柔らかい感じがする。今は二人で暮らしているのだろうから問題はないだろうが、もし子供が産まれてそれが男の子だったりしたらこの柄はどうだろうか。
そもそもドアや柱のこの木目のアイボリーの安っぽい合板はどうにかならないのか。
このディセムバは多少物価は高いがかわりに物資なども豊富だ。それならばもうちょっと選びようもあるだろうに、何故よりによってあからさまに合板だと主張しているような建具を使うのか理解に苦しむ。
選ぶというならそうだ、そもそも何故この家は2LDKなどといった造りになっているのだ。一部屋は寝室で一部屋は女の仕事場になっているという。
今はいい。しかし先も述べたように子供が産まれたらいくらなんでもこれは狭すぎはしないだろうか。
だいたいこいつらには明確な将来設計というモノが存在しているのだろうか。いやこの女はしっかりしているから何らかの展望を持っているのかもしれないが、アイツにそんな遠大な計画が持てるとも思えない。
「お茶が入りましたけれども、ミルクとお砂糖はどうされます?」
陶磁器がわずかに触れる音をさせて、女が俺の前に白いティーカップを置いた。
「ブランデーがよろしければ、ありますけれども」
「いや、何もいらない。気をつかわないでくれ」
片手を上げて合図すると、にこりと微笑んで女は台所に戻っていった。
このティーカップは趣味がいい。指で弾くとガラスのような音がするほど薄い材質だが、ほっそりとした柔らかなカーブを描いている。また、色が目にきつすぎないオフホワイトなのがいい。しかしこうも白いと茶渋をつけたりしたら台無しだ。手入れには細心の注意を払うべきであろう。
一口含む。渋くもなく、舌に柔らかい。きちんと紅茶のうまみ成分であるタンニンが抽出されている証拠だ。口に入るものならなんでも喜ぶアイツにはこの味は勿体ないのではないだろうかと思えるほどの腕前だった。
半分ほど飲み干してからもう一度壁に目が止まった。わすれな草の壁紙。そうだ、これはよした方がいい。
いやそもそも、長期展望を考えるのであれば、郊外に一戸建てでも購入した方がいいのではないだろうか。もしこの家が借家なら、壁紙を張り替えるのも面倒くさいであろうし、何よりいつか引っ越すつもりであるなら張り替えるだけ労力と資源の無駄と言うものだ。
そうだな、郊外に一戸建てというのはいいかもしれない。庭のついた家は昔からあちこちのアパートを点々としてきた俺には無縁のものだった。あいつはハーブやプランターの花を世話をしたりするのが好きだから、きっと庭も喜んで手入れするだろう――いや俺の話はどうでもいい。
しかし週末だから家にいるだろうと思って尋ねてきたのに、アイツがいないというのはどう言うことだろう。昼過ぎには戻ってくると思いますけれどと女は言っていたが、確か女はベルナルデリ保険協会の仕事を続けているはずだ。それならば今日は一週間ぶりの休日であるだろうに、しかも結婚したのはつい二週間前だというのに、仕事を辞めたはずのアイツが家にいないというのは問題ではないだろうか。
まさか休日から賭け事などに精を出すような事もないだろうと思うが――そもそも、このしっかりした女がそんなことに財布の紐を緩めるようにも見えない。
壁紙は気になるが、ひとまず不在の理由だけでも問いただしてみようかと台所の方を振り向いたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「どもークロネコサマ宅配でーす!」
――自分の家に何の荷物を持ってくる気だ。イヤその前に何かの冗談か?
チャイムの音に台所から出てきた女も、何やらこめかみのあたりを押さえながら扉のロックを外して帰ってきた人を迎え入れた。
「ごめん、間違えた。ただいま」
「間違えた、じゃあありませんわよ、ヴァッシュさん。何事かと思いましたわ」
「いやーなんか玄関見たらそういわなきゃいけないような気がして……お客様?」
「ええ、ナイブズさんが来て下さって……」
とたんに弟は狭い廊下を突っ切って俺の居るリビングまで駆け込んできた。
「な……何しにきたんだよ――!?」
「何って、レムが様子を見てこいと言うのでな。ああ、レムからの預かりモノはもう渡してあるから後であらためろ」
「あらためろって……連絡くらいしろよ、今日は早番だったから帰って来れたけど」
「別にお前の顔を見に来たワケじゃないからな」
言って、残りの紅茶を飲み干す。何やら爆発寸前になっている弟を、女がまあまあとなだめている。
「ナイブズさん、御夕飯は召し上がっていってくださるでしょう? せっかくお久しぶりにお会いできたんですもの、兄弟水入らずで話でもしていて下さいな」
言いながら、軽いアルコールと和え物を手際よくテーブルに並べられてしまった。
「メリル、昨日も遅かったんだからそんなことしなくても」
「あら、今朝はちょっと御寝坊しましたから大丈夫ですわよ」
俺の向かいに腰掛けて、気遣う弟に笑ってみせてから、女はお盆を抱えてまた台所へ引っ込んでしまった。
「あーあもう。本当に食ってくのか?」
「ああ言ってくれてるんだ、無下に断るなとレムからもきつく言われてる」
「あそ」
がくりと弟は肩を落とした。
「それよりお前、なんの冗談だったんだ、さっきのは」
「冗談?」
しばらく考え込んでから、ぽんと両手を打つ。
「ああ、さっきの? 今宅配便のバイトしてるんだ。まさかメリル一人に働かせるわけにいかないしね」
「……そんな情けない真似をして見ろ、レムがなんというか」
「考えるだけでも怖いからその先は頼むから言わないでくれ」
一息で俺の言葉を遮ると、ヴァッシュは麦酒の瓶を俺に向けて差し出した。まあいいかと、グラスを取り上げるとなみなみと注がれる。
「レムは元気? ああ、御礼も言わないと、結婚祝いにこのソファーくれたんだよ」
「そんなことは自分で言え」
「レムも君も世界中飛び回ってるくせに……どうやって会いに行くんだよ」
和え物は一瞬舌に辛みがあるが、後には残らないなかなかの味具合だった。つくづく胃に入ればそれでいいこの弟には勿体ない。
「ああヴァッシュ、お前いつまでここに住むつもりだ? 直に手狭になるだろう」
「手狭って……」
首を傾げる。
「別に、そんな今のままで家具も足りてるし、十分広いくらいだけど」
「馬鹿者。子どもが出来たらそれどころではないぞ」
「……気が早いよナイブズ……」
肩を落とす弟をグラスを傾けながら眺めやって俺は溜息をついた。よくこの弟にあんなしっかり者の嫁さんが出来たもんだ。
「その時はその時で考えるよ。この家も借家だし、契約切れたら出ていかなきゃならないし」
「そうか借家か。それならいいんだ」
この壁紙はよした方がいい。
何がいいんだと不思議がっている弟は放って置いて、俺は麦酒の二杯目をグラスに注いだ。
晩飯は美味であった。食器もシンプルだが品のいい、同じブランドというわけでもないのにどこか雰囲気の統一されたものばかりで好感が持てた。
どうも、食器やなんかを買っているのは女の方らしい。さもありなん。あの弟にそんな真似は不可能だ。
「まあ、長期的に考えるなら、一戸建てでもちゃんと探しておくんだな」
辞去する際にそう述べると、弟はハイハイと肩をすくめた。
判っているのか本当に。あの壁紙はよした方がいい。
おしまい。
たとえばまあそんな感じの日。
「――どうするよ……」
「どうするってオマエ……どないしようもないやんか」
カウンターのところでガタイの大きな男が二人、顔をつきあわせるようにしてひそひそ話をしている様子を、戸口のところで見つけたミリィは首を傾げた。
確かヴァッシュさんと牧師さんって、宿屋取ってきなさいって先輩に頼まれてた……んですよね?
とても宿をとるときの様子には見えない。
と、どしんと背中に衝撃が走る。
「あああああ先輩! すみませんすみません、大丈夫です?」
慌てて振り向くと、案の定小柄なメリルが鼻の頭を押さえながら首を振っている。
「気にしないでミリィ、私が気付かなかっただけですから。それより、あの二人は?」
「それがあ……」
言葉を濁して、ミリィは奥のカウンターを指さした。ミリィの脇の下から覗き込むようにして、メリルがそちらを確認する。
カウンターに肘をついて何やら熱心に話し込んでいるヴァッシュとウルフウッドを、宿屋の主人らしき男がやれやれ、と言った表情で眺めている。
「……何やってるんですのあの二人は」
「さあ……。でもさっきからずっとああやってひそひそと」
ミリィの答えにひとつ嘆息して、メリルはひょいとミリィの腕の下をくぐってカウンターの方へと進んだ。
「何かトラブルでもありましたの?」
かけられた声に、ぎょっと二人が振り返る。各々、頭みっつよっつ低い位置にある菫色の瞳を認めて、しどろもどろに、やあ、などと挨拶をした。
メリルは半眼になった。
「……何かありましたのね?」
既に確認である。ヴァッシュはそっぽを向いてこめかみの辺りを意味もなくかきはじめ、ウルフウッドは煙草の箱を探り出した。
と、宿屋の主人らしき男が、このままでは埒が明かないと判断したのか、メリルに向き直った。
「お連れの方とはご婦人でしたか……。実はですね、こちらの方がツインを二つと仰るのですが、生憎一杯でして、大部屋がひとつしか空いていないのですよ」
「……大部屋?」
メリルが怪訝な表情で問い返す。あくまでもにこやかに、主人ははげ上がった頭をつるりと撫でてから頷いた。
「はい。寝台は4つあるのですが、お連れの方が女性とは仰らなかったもので、お薦めしていたのですが」
「あ、4つあるんですのね? それなら、すみませんけどそこを」
さらりと言ってのけるメリルに、男二人はぎょっとした。
「ちょちょちょ、ちょっと保険屋さん!?」
「おいおいおいちっこいねーちゃん、大部屋やでわかっとんのか!?」
慌てて問いつめる男どもの叫びを涼しい顔で聞き流しながら、メリルは宿帳に記入を始める。
「何仰ってますの。今までだって野宿の時は4人きりだったじゃないですか。それともなんですか、お風呂に入ってゆっくり寝台で寝たいというささやかな願いを、二度も打ち砕かれるおつもり?」
じろりと横目で睨み上げられて、二人はとりあえず押し黙った。
「ですよねえ、こないだ町で泊まろうとしたときも結局騒ぎのどさくさで、逃げ出すことになっちゃいましたもんね♪」
悪意はないはずのミリィの一言が一番ささる。その騒ぎのきっかけはヴァッシュがつくり、ウルフウッドはそれに火をつけてなおかつ煽ってしまった格好だったのだ。
「……アレはトンガリのせいやないか」
「勝手なこと言うなよ。誰が煽ったんだ」
互いに小突きあいながらひそひそ話しているのを無視して、メリルはかたんとペンを置いた。
「じゃあすみません、案内していただけますか?」
にこりと営業用スマイルで微笑むメリルに、主人は愛想良く頷いた。
案内された先は、一部屋に寝台を4つ詰め込んである他は、テーブルと椅子があるだけの部屋だった。
「安いはずですわね……。まあシャワーがあるだけマシとしましょう。さて」
どさりと、戸口に近い寝台の傍らに荷物を下ろしたメリルが、何故かドアのところに突っ立っている男二人に向き直った。
「荷物を置いたら、すいませんけれど先に食堂でごはんでも食べていて下さいます? その間に、私もミリィもお風呂を済ませてしまいますから」
狐につままれたような表情で、とりあえずテーブルの上に荷物を載せ、二人は無言のままそそくさと出ていった。
その様子を、さっさとメリルの隣を確保したミリィが不思議そうに見送る。
「先輩、どうしたんでしょうねえヴァッシュさん達」
「……バカなんですわよ」
あれっと思ったミリィが聞き返すより早く、メリルは鞄から出した洗面道具などを手に立ち上がっていた。
「じゃ、先にシャワーを借りても良いかしら、ミリィ?」
「あ、はいどぞです!」
どうして先輩笑ってるんですか、と尋ねられなかったけれども、ミリィはまあいっかと寝台に腰掛けて荷ほどきを始めた。
「……何か……反応に困るんですけど……」
「阿呆。困るどころかどうしたらええのか見当もつかんわ」
食事より先に、軽いアルコールを頼んだ二人は、とりあえずそれを一息に煽ってからぽつりと呟く。
部屋が全部埋まっている影響か、食堂はひどく混んでいて、4人掛けの席を確保するのもやっとだった。
そのテーブルの上で、頬杖をつきながら自分のグラスに麦酒をなみなみと注ぎながらヴァッシュはごちた。
「普通は、こう、同室なんてとんでもないとか、騒ぐもんだよなあ?」
「あんまりあっさり言うもんやからタイミング逃したわ……まずったなあ……」
ヴァッシュの手から瓶を奪って、やはり溢れる寸前まで酒を注いだウルフウッドが、再びそれを一息に空ける。
「やっぱり一部屋しかないから俺達は別のところ探すって先に言うべきだったんだ」
「もう他がないことわかっとんのにか?」
二人揃って深い溜め息。
「何か、思うけど」
「おう。オマエが何言いたいんかはだいたい判る」
「男扱いされてないんじゃねえか、俺達……」
「舐められとるんか信用されとるんかわからんのがミソやなあ……」
「でも絶対誘われてるわけでもなんでもないのは確か」
つまみに頼んだピーナツの殻を、ぽいとウルフウッドの鼻先に投げつけてヴァッシュは溜息をついた。
「当たり前や。あのちっこいねーちゃんがそんなわかりやすい誘い方するかい」
負けじと、同じように殻をヴァッシュにぽこんとぶつけてウルフウッドは椅子の背にどっかともたれた。
「大きい保険屋さんがそんな誘い方出来るようにも見えねえっての」
お返しとばかりに更にぶつけて、ヴァッシュも椅子の背にもたれた。
「――まあ、彼女の言うとおり、野宿と一緒だよな……多分」
「そう思うほかないやろ。ったく、よーわからんわ、あのお姉ちゃん達は」
「何が判らないんですって?」
突然頭の上から降って湧いた声に、ヴァッシュは驚いてバランスを崩してそのまま床に椅子ごと転げた。
「な、なんや姉ちゃん、もう上がったんか?」
こちらはなんとか持ち直したウルフウッドが、テーブルにもたれかかるようにして愛想笑いを浮かべる。
呆れたような表情のまま、ヴァッシュが起き上がるのに手を貸してから、メリルは空いている椅子に腰掛けた。
「ええ、ミリィももうすぐ参りますわ。あ、すいません、メニュー貸してくださいます?」
「え、あ、うん」
ヴァッシュが差し出したメニューを眺めているメリルに、いつもと違うところは見あたらない。
おたおたしてるのが自分達だけだと言う事実を確認して、なんとなく情けない気分に陥ったのは、ヴァッシュだけではなく、その向かいに座る牧師も一緒だったようだった。
目が合うと苦虫を噛み潰したような表情で、小さく首を振ってみせる。
――すなわち。駄目だこりゃ。
メリルとミリィを食堂に残して、男二人は先に部屋に追いやられた。風呂を使ってこいと言うのである。
おとなしく階段を上がっていくのを眺めて、ミリィはデザートで頼んだアイスクリームを突っついた。
「ねえ先輩?」
同じく、優雅にコーヒーを飲んでいるメリルが軽く首を傾げる
「なんですの?」
「意地悪ですね♪」
にっこり笑いながらの後輩の台詞に、メリルは同じようににっこりと笑い返した。
「あらミリィ、人聞きの悪い。たまには、引っ張り回される方の気分も味わっていただかないと、公平とは言えないでしょう?」
「そうですねえ。あ、お酒ちょっとお部屋に買って帰りましょうか。飲み足りないみたいでしたよ、二人とも」
「素面で居られるかとかなんとか呟いてましたから……。ま、ちょっとなら、ね」
くすり、と肩をすくめてメリルは笑った。
同じようにくすくす笑いながら、ミリィは最後のアイスクリームを大事そうに口に運んで、ゆっくりと飲み込んだ。
そして、幸せそうな笑顔のままで、ふと思いついたようにスプーンを掲げる。
「ねえねえ先輩、男の人って可愛いですねえ!」
「……同意するのはよしておきますわね」
結局。
ひさしぶりの柔らかい寝台ですやすやと眠る保険屋さん達に背を向けて、男二人は虚しく徹夜で酒を呑み続けたのであった。
おしまい。
断片
白いシーツがふとはためく様子に思わず息を呑む瞬間がある。
遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がして、血が凍る思いをする瞬間がある。
無理矢理に引き剥がしてきた何かを拒絶するたび、ぎりぎりと螺子が巻き上げられるようにどこかが痛む。
銃も、名前も、コートも、何もかも捨ててきたはずなのに。
どうしても捨てきれない記憶の断片は、何かを蝕むかのように意識の隅をひっかく。
「やめにしませんか? こんな生き方」
菫色の瞳は、責めるでもなく哀れむでもなく。
「銃を捨てて、全てを断ち切って静かに暮らす」
柔らかな声が告げた、その通りの暮らしを手に入れて、躰に染みついた硝煙の匂いも薄れていくのに。
どうして、だろう。
夢を見る。
「エリクース!」
喚ばれると同時に頭に何かぶつかった。ぽかん、と、妙な音をたてた場所を右手で押さえて声がした方に視線を転じる。
「リィナ」
口が勝手に声の主の名前を呟いた。栗色の髪を少年のように短くした少女が、駆け寄ればすぐの距離で憤然と腰に手を当てている。
「何やってんのよ! 手はお留守にしない! 晩ご飯が遅れるじゃない」
「はいはい」
答えて、自分の手元に目をやる。斧と、丸太。そろそろ疲労に抗議を始めた腰をとんとんと叩いて、もう一度斧を構え直す。
斧を振り下ろして薪を作り、次の丸太に手を伸ばそうとしたとき、ふと視界の隅にまださっきの場所にいるリィナを見つけた。
汗でずり落ちる丸眼鏡を元の位置に戻しながら、腰を伸ばす。
「どした、リィナ?」
「――ん」
ちょっと視線を迷わせて、そしてリィナは口をとがらせた。
「なんかエリクスぼーっとしてたから。まあいつものことっちゃそうなんだけど、でも……」
どっかに消えてなくなりそうだったんだもん、と、拗ねたように続けるリィナに、肩をすくめてみせる。
「――むかしの人はね、リィナ。この世界は、誰かが見てる夢の中だって言ってたんだってさ」
「はあ?」
「だから、夢の中。その人の目が覚めたら、終わり。みんな消えちゃうんだって」
リィナが顔をしかめた。
「やだよそんなの。まっぴらだわ。まだまだ人生これからだってのに、そんなんで終わりにされたらたまらないじゃない」
強気で勝ち気で前向きな答えに、思わず笑みがこぼれる。
「ともかくそれ早くやっちゃってね。待ってるから」
びしと薪を指さしてリィナが家の中へと駆けていくのを、ぼんやりと見送った。
夢を見る。
もう戻らない日々の夢を。
まだ得てもいない日々の夢を。
どれが現実なのか判らなくなる。
目が覚めて起き上がる。
ブランケットを蹴飛ばして裸足で床に降りるその感触も。
これも夢で見ているだけではないかと思えてくる。
これが夢ならいいのか。
それとも、――?
視界の端を白いマントがよぎったような気がして、ぎょっと振り返る。
けれども、洗濯物がはためいているだけ。
ほっとしたような、がっかりしたような、不思議な気分で頭を振ってその影を追い出す。
とどめておくと何かが狂ってきそうで。
そして夢を見る。