ひだまり
柔らかな風が頬を撫でる。
ディセムバのオフィス街を吹き抜ける風は、あの砂漠の荒野に吹き渡る物とは全く別の物のように思えて、メリルは思わず苦笑した。
同じ空の下、同じ世界を包む空気、同じ大地の上を通り過ぎる風。
別な物であるはずがない。
別な物があるとしたら、それは、自分自身。
ファイルを胸に抱えて、青い青い空を仰ぐ。
つながっているもの。この風が、空が、つなげているもの。
「……よし! メリル、ファイトッ」
自分自身に一発活を入れると、彼女はハイヒールのかかとを巡らせた。
時は、容赦なく彼女の脇を通り過ぎていく。
いつも彼女の傍らにあった、あの暖かな優しい笑顔の後輩は、彼女自身のために選んだ場所で、彼女の一人息子だけではなく、多くの子ども達のお母さんになっていた。
昨日から、何度も読み返した手紙を、休憩に入った喫茶店で、ミルクティーが来る前にもう一度広げる。
『お元気ですか、先輩。私は元気です! もちろんニコラスも含めて、です。』
元気いっぱいの、丸っこい字が、便せんの上で所狭しといろんな事を語る。
ニコラスが初めて縄跳びで後ろ回しができるようになったこと。納屋に住み着いた猫が子猫をたくさん産んだこと。
日常のたくさんの幸せと驚きに満ちた手紙は、メリルを不思議な気分にさせる。
あのころのまま変わらないもの。変わってしまったもの。
戻らないもの、得ていくもの。
ケーキとミルクティーが運ばれてきて、メリルは手紙を丁寧に折り畳んだ。
ふわりと紅茶の香りが彼女を包む。
カップを口に運びながら、メリルは手紙の文面を思い出していた。
『先輩、私思うんです。
人を愛するってことが、「心」を「受」け取ることだとしたら、私、そうできていたかなあって、思います。
ニコラスの寝顔を見ながら、そんなこと考えます。』
……ええミリィ。あなたはホントに、心を受け取ってくれる天才でしたわよ。
そっと、手紙を指先で撫でる。
自然と、引き結んでいたはずの唇がほころぶ。
ねえ? 私は、そうできていましたかしら?
喫茶店の窓ガラス越しに、メリルは青い青い空を見上げる。
この空の下で、風の中で、きっと今も困った騒ぎの真ん中で、あの笑顔で笑っているであろう人を想って。
ねえ? ヴァッシュさん……?
赤いコートと、あの銃を捨てて、満面の笑顔で帰ってきてくれて。
それだけでもいいと思える自分に少し驚いたが、不思議とイヤな感じはしなかった。
むしろ、そう思える自分をくすぐったい思いで受け止めていた。
しばらくは、意識を取り戻さない彼の兄弟の看病や、とりあえず戻ってきた日常にてんてこ舞いの日々が続いたが、そんな日々がそう長くは続かないことを、誰もが知っていたように思う。
なぜならあのとき、彼が告げた言葉に、ああやっぱり、と、そう思ったのだから。
『話があるんだ』
その言葉の後に何が続くか、知っていたのだから。
そう、知っていたのだから――。
柔らかな風が頬を撫でる。
ディセムバのオフィス街を吹き抜ける風は、あの砂漠の荒野に吹き渡る物とは全く別の物のように思えて、メリルは思わず苦笑した。
同じ空の下、同じ世界を包む空気、同じ大地の上を通り過ぎる風。
別な物であるはずがない。
別な物があるとしたら、それは、自分自身。
ファイルを胸に抱えて、青い青い空を仰ぐ。
つながっているもの。この風が、空が、つなげているもの。
「……よし! メリル、ファイトッ」
自分自身に一発活を入れると、彼女はハイヒールのかかとを巡らせた。
時は、容赦なく彼女の脇を通り過ぎていく。
いつも彼女の傍らにあった、あの暖かな優しい笑顔の後輩は、彼女自身のために選んだ場所で、彼女の一人息子だけではなく、多くの子ども達のお母さんになっていた。
昨日から、何度も読み返した手紙を、休憩に入った喫茶店で、ミルクティーが来る前にもう一度広げる。
『お元気ですか、先輩。私は元気です! もちろんニコラスも含めて、です。』
元気いっぱいの、丸っこい字が、便せんの上で所狭しといろんな事を語る。
ニコラスが初めて縄跳びで後ろ回しができるようになったこと。納屋に住み着いた猫が子猫をたくさん産んだこと。
日常のたくさんの幸せと驚きに満ちた手紙は、メリルを不思議な気分にさせる。
あのころのまま変わらないもの。変わってしまったもの。
戻らないもの、得ていくもの。
ケーキとミルクティーが運ばれてきて、メリルは手紙を丁寧に折り畳んだ。
ふわりと紅茶の香りが彼女を包む。
カップを口に運びながら、メリルは手紙の文面を思い出していた。
『先輩、私思うんです。
人を愛するってことが、「心」を「受」け取ることだとしたら、私、そうできていたかなあって、思います。
ニコラスの寝顔を見ながら、そんなこと考えます。』
……ええミリィ。あなたはホントに、心を受け取ってくれる天才でしたわよ。
そっと、手紙を指先で撫でる。
自然と、引き結んでいたはずの唇がほころぶ。
ねえ? 私は、そうできていましたかしら?
喫茶店の窓ガラス越しに、メリルは青い青い空を見上げる。
この空の下で、風の中で、きっと今も困った騒ぎの真ん中で、あの笑顔で笑っているであろう人を想って。
ねえ? ヴァッシュさん……?
赤いコートと、あの銃を捨てて、満面の笑顔で帰ってきてくれて。
それだけでもいいと思える自分に少し驚いたが、不思議とイヤな感じはしなかった。
むしろ、そう思える自分をくすぐったい思いで受け止めていた。
しばらくは、意識を取り戻さない彼の兄弟の看病や、とりあえず戻ってきた日常にてんてこ舞いの日々が続いたが、そんな日々がそう長くは続かないことを、誰もが知っていたように思う。
なぜならあのとき、彼が告げた言葉に、ああやっぱり、と、そう思ったのだから。
『話があるんだ』
その言葉の後に何が続くか、知っていたのだから。
そう、知っていたのだから――。
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とにかく、彼女は頑固で意地っ張りなのだった。
ヴァッシュは、ため息をつきながら手にしたグラスの、半分溶けた氷をからからと揺らした。
「かっこわるー。女と喧嘩してやけ酒かいな」
あいている目の前のいすに腰掛けながら、ウルフウッドがちゃかすように声をかけてきた。
「別に。飲みたいから飲んでるんだよ」
「へーへー。そーゆーことにしといたろ」
言ったウルフウッドが、カウンターに向かって酒を頼む。ヴァッシュはグラスの中身をあおって、もう一杯、同じものを注文した。
もうかなり夜も更けているが、宿屋の食堂兼酒場はくだを巻く男や、相手をする女たちでにぎわっていた。
「にしても今日は派手にやったなあ。お前も何ムキになっとったんや? 笑って聞き流すんは得意技やないか」
頼んだグラスと酒瓶の到着を待って、ウルフウッドが口を開いた。
「別に」
先ほどより不機嫌な口調で、ヴァッシュは答える。
けっけっけ、と、得体の知れない笑い方をしたウルフウッドは、自分のグラスになみなみとついだウイスキーを一口すすった。
「ガキの喧嘩やあるまいし、とりあえずお前がおれたら丸く収まるで?」
「収めるだけなら簡単だけどさ」
ヴァッシュが頬杖をついて、アルコールくさいため息をついた。
「それじゃあだめなんだったら」
「……そもそも何が原因やったんや?」
ウルフウッドが何気なく首を傾げた瞬間、ばんっとテーブルを打ち鳴らしてヴァッシュがウルフウッドの方へ身を乗り出した。
「聞いてくれる? 聞いてくれよ! 聞くこと決定!」
「……おう」
しもた。
首つっこむんやなかったな、と、今更ながらウルフウッドは後悔したのだった。
とにかく彼は、ごまかすような作り笑顔であしらうのだ。
「何も先輩、あんな派手に喧嘩することなかったんじゃないですかあ?」
「……私だって、別にしたくてした訳じゃあ……」
シャワーで湿った髪をタオルで拭いながら、メリルはミリィの問いに困ったように答えた。
ミリィのお下がりである男物のシャツを一枚羽織っただけの姿で、彼女の割り当てである寝台に腰掛ける。
「でも珍しいですねえ。いつもは、ヴァッシュさん、言い返したりしないのに」
「そうですわね」
答えたメリルの声にとげとげしさがなかったので、ミリィは首を傾げた。タオルの隙間から見える口元には、笑みすら浮かんでいる。
「……先輩、喧嘩嬉しいんですか?」
「え!?」
メリルはあわてて口元を押さえた。
「……嬉しそうに見えまして?」
「ハイ」
こっくりとうなずくミリィ。
メリルはしばらく、困ったように押し黙っていた。頬が、ほんのりと染まっているのは、湯上がりのせいだけではあるまい。
「……だって、適当にあしらわれなかったんですもの……向かい合ってくれた証拠ですから……嬉しいの、かしら」
ミリィは微笑んだ。最近のメリルは、こんな風に、穏やかに笑うことが多くなった。
この任務に就くまでのメリルは、常に肩肘を張って、並み居る男性職員にも負けず劣らずの活躍をして……それを保つのに、また肩肘を張って。
「まるで、子どもですわね。気をひくために意地悪してるみたい」
苦笑混じりに呟く,その表情ですら柔らかかった。
ミリィはそれに笑顔を浮かべてから、立ち上がった。
「じゃ、私、のどかわいたんでホットミルクでももらってきますね」
「気をつけてね、きっと酔っぱらいの山でしてよこんな時間」
「はあい!」
元気に返事すると、ミリィは部屋の扉を背中で閉めた。
そのままドアに背中を預けて、ひとつため息をつく。よっこいしょ、とからだを起こすと、ミリィはてくてく歩き始めた。
「先輩も、ヴァッシュさんに、あーゆーふうに、笑って、あげれば、いいのに」
階段を下りながら、一歩ごとに区切りながら呟く。
「意地っ張りですねえ」
「……つまり、なんや具合の悪そうやった姉ちゃん気遣ったら突っぱねられたのが気にくわんと、そーゆーことやな?」
一通りヴァッシュの説明を聞き終えたウルフウッドは、5本目のタバコを灰皿に押しつけた。
「簡単に言うけどねえ! 平気です、何ともありません、はともかく、僕に心配されるいわれはないとか、人の心配してる暇があったら自分の心配しろとか、どーしてあの人は」
「とーぜんやろ」
ウルフウッドは新しいタバコに火をつけた。予想もしていないタイミングで話を遮られて、ヴァッシュは気がそがれたようにいすにもたれる。
「お姉ちゃんの立場からしたら、普通はそう思うやろ。お前が、なるべくならお姉ちゃんたちおいていきたい思てるんはバレバレなんやし、何か口実作るわけにいかんのやから」
今度はヴァッシュは黙り込んだ。
「そもそもやな、お姉ちゃんが頑固で意地っ張りなんはわかっとるんやから、気イ使いたいんやったらそれなりのやなあ」
「すごいです牧師さん! 先輩のことよっくわかってるんですねえ」
なにやら拍手とともに背後からした声に、ぎょっとしてウルフウッドが振り返る。
そこには、カップを片手に持ったまま、器用に拍手を続けるミリィが立っていた。
「……いつからおったん?」
ウルフウッドが多少ひきつって尋ねた。
カップを空いている席の前に置いて、ミリィはそこに腰掛ける。
「えっと、つまり、のあたりからです。原因、それだったんですねえ。先輩教えてくれなくって」
持参した、湯気の立ったカップを両手で包んで一口飲むと、ミリィはあち、と舌を出した。
「別に具合悪そうに見えなかったんですけど……どこかおかしかったですか?」
「……顔色は悪かったのに、手が熱かったから……」
ヴァッシュがぼそぼそ答える。
ミリィは首を傾げた。
「先輩、髪洗ってましたよ?」
「え? じゃあ、なんともないのかな」
ヴァッシュも首を傾げた。それなら、喧嘩する必要はなかったのに。
「か、無理してるかのどっちかやな」
ウルフウッドの突っ込みに、ヴァッシュとミリィの顔色が変わる。
あり得る……っ!
2人の顔にはありありとそう書かれていた。
しばらく、重苦しい沈黙があたりを支配した。
「……僕、ちょっと忘れ物」
言ってヴァッシュがそそくさと立ち去る。
その後ろ姿を見送りながら、ミリィはホットミルクをふうふう吹いてさましにかかった。
「……行かんでええんか?」
ミリィはにっこり微笑んだ。
「トマに蹴られて死ぬのはごめんです」
その答えに、ウルフウッドはカウンターにパンケーキを注文する。
「ひとつ疑問があるんやけどな」
6本目のタバコを灰皿に押しつけて、ウルフウッドは頬杖をついた。
「はい?」
「いつどこでなんのために、あいつ、お姉ちゃんの手なんか触ったんや?」
「……さあ?」
「保険屋さん? 起きてる?」
遠慮がちにドアをノックする音に、ぼうっと寝台に腰掛けていたメリルは、はじかれたように立ち上がった。
「起きてますわ、何か?」
「入っていいかな」
メリルは眉をひそめた。ミリィはいないし、すでに自分は寝間着姿だ。
「……どうぞ」
多少のためらいはあったが、メリルはそう答えた。
ひょっとして、昼間の件を気にして来たのだとしたら、ここで追い返すのは角が立つ。
メリルとしても、いつまでも怒っているわけにいかず、明日までこんな状態を持ち越したくはなかった。
ドアが開いて、ヴァッシュが顔を出す。
「……ごめん、もう眠るとこだった?」
「いえ、ミリィもまだですし……何かご用ですか?」
ドアを閉めて、こちらに歩いてくるヴァッシュに、メリルは問い返した。
ヴァッシュは無言のまま、右手の革手袋を外すと、そのてのひらをメリルの額にあてる。
「……!?」
突然の行動にしばらく突っ立っていたメリルが、我に返って後ずさったときには、ヴァッシュは顔をしかめていた。
「酒飲んでずっと手袋してた僕が熱いと思うんだから、結構高いよ、熱。……何で髪なんか洗ったの」
「べ、別に、何ともありませんったら」
メリルが、多少つっかえながらも反論する。
「それに髪ならもう乾いて……何で知ってるんですの?」
「君の相棒がね。乾いたらいいってもんでもないでしょ?」
少し険しい顔で、ヴァッシュはため息をついた。
「もうちょっと自分の身体いたわって……どうしてそう無理したがるかな」
「……したくてしてるわけではありませんわよ」
俯いたメリルが、低い声でそう呟く。
「無理しないと、あなたは私たちを放っていくじゃないですか」
痛いところをつかれて、ヴァッシュが黙り込む。それに気づかないまま、メリルは言葉を続けた。
「無理しないと、私、あなたに追いつけない……ついていけない。そのあなたが、私に、無理するなですって? ばかも休み休みいって下さい! 私が無理したいからしてるんです、余計な」
最後まで言わせずに、ヴァッシュはメリルの方へ手をのべて、その華奢な身体を抱き寄せた。小さな身体は、すっぽりと彼の胸の中に収まってしまう。
「……ヴァ、ヴァッシュさん……っ!?」
驚いたようにじたばたするメリルを抱き上げて、ヴァッシュは寝台に運んで、上掛けをめくった。そこにメリルを横たえて、上掛けをシッカリと押さえつける。
クロゼットから、余分においてある毛布も引っぱり出してきて、その上に掛けた。
呆気にとられたように自分を見上げているメリルの表情に、笑みが漏れる。
「暖かくして、眠って。薬は持ってる?」
「……もう、飲みましたから」
メリルの答えに、そう、とヴァッシュはうなずいた。
寝台の端に腰掛けて、頬にかかっている髪をそっと指で払ってやる。
「ついてくるなら、早く治さなくちゃ。君の相棒が戻ってくるまでいてあげるから、眠って」
安心させるように、にこ、と微笑みかける。とたんに、メリルが顔をしかめた。
「……ヴァッシュさんっていつもそう」
「え?」
だいぶ冷えたてのひらをメリルの額にあてながら、ヴァッシュは不思議そうに問い返した。
「そうやって、人を安心させようとして笑うでしょう? お心遣いは嬉しいんですけど」
言葉を区切ったメリルが、瞳を閉じる。
「でも、どこか痛いんですの……私が見たいのは、そんな笑顔じゃ、なくて……」
薬が効いてきているのか、眠たげに言葉を紡ぐ。
「そんな顔を、させたいんじゃなくて……」
メリルは、そのまま眠りについた。落ち着いた寝息が、静かな部屋にリズムを打つ。
しばらくヴァッシュはその寝顔を見つめていた。
微笑みが、浮かぶ。作ったものではなく、自然に。
意地っ張りで、頑固者で、でも誰より優しい人。
その優しさを表現する術を持たなくて、空回りしてしまう人。
ごめんね、と口の中で呟いて、そして気づく。この言葉じゃ、またきっと彼女は怒る。
「……ありがとう」
熱っぽい額に、唇を落とす。
ヴァッシュは、そっと髪を撫でてから、部屋の灯りを落とした。
とにかく、彼女は頑固で意地っ張りなのだった。
ヴァッシュは、ため息をつきながら手にしたグラスの、半分溶けた氷をからからと揺らした。
「かっこわるー。女と喧嘩してやけ酒かいな」
あいている目の前のいすに腰掛けながら、ウルフウッドがちゃかすように声をかけてきた。
「別に。飲みたいから飲んでるんだよ」
「へーへー。そーゆーことにしといたろ」
言ったウルフウッドが、カウンターに向かって酒を頼む。ヴァッシュはグラスの中身をあおって、もう一杯、同じものを注文した。
もうかなり夜も更けているが、宿屋の食堂兼酒場はくだを巻く男や、相手をする女たちでにぎわっていた。
「にしても今日は派手にやったなあ。お前も何ムキになっとったんや? 笑って聞き流すんは得意技やないか」
頼んだグラスと酒瓶の到着を待って、ウルフウッドが口を開いた。
「別に」
先ほどより不機嫌な口調で、ヴァッシュは答える。
けっけっけ、と、得体の知れない笑い方をしたウルフウッドは、自分のグラスになみなみとついだウイスキーを一口すすった。
「ガキの喧嘩やあるまいし、とりあえずお前がおれたら丸く収まるで?」
「収めるだけなら簡単だけどさ」
ヴァッシュが頬杖をついて、アルコールくさいため息をついた。
「それじゃあだめなんだったら」
「……そもそも何が原因やったんや?」
ウルフウッドが何気なく首を傾げた瞬間、ばんっとテーブルを打ち鳴らしてヴァッシュがウルフウッドの方へ身を乗り出した。
「聞いてくれる? 聞いてくれよ! 聞くこと決定!」
「……おう」
しもた。
首つっこむんやなかったな、と、今更ながらウルフウッドは後悔したのだった。
とにかく彼は、ごまかすような作り笑顔であしらうのだ。
「何も先輩、あんな派手に喧嘩することなかったんじゃないですかあ?」
「……私だって、別にしたくてした訳じゃあ……」
シャワーで湿った髪をタオルで拭いながら、メリルはミリィの問いに困ったように答えた。
ミリィのお下がりである男物のシャツを一枚羽織っただけの姿で、彼女の割り当てである寝台に腰掛ける。
「でも珍しいですねえ。いつもは、ヴァッシュさん、言い返したりしないのに」
「そうですわね」
答えたメリルの声にとげとげしさがなかったので、ミリィは首を傾げた。タオルの隙間から見える口元には、笑みすら浮かんでいる。
「……先輩、喧嘩嬉しいんですか?」
「え!?」
メリルはあわてて口元を押さえた。
「……嬉しそうに見えまして?」
「ハイ」
こっくりとうなずくミリィ。
メリルはしばらく、困ったように押し黙っていた。頬が、ほんのりと染まっているのは、湯上がりのせいだけではあるまい。
「……だって、適当にあしらわれなかったんですもの……向かい合ってくれた証拠ですから……嬉しいの、かしら」
ミリィは微笑んだ。最近のメリルは、こんな風に、穏やかに笑うことが多くなった。
この任務に就くまでのメリルは、常に肩肘を張って、並み居る男性職員にも負けず劣らずの活躍をして……それを保つのに、また肩肘を張って。
「まるで、子どもですわね。気をひくために意地悪してるみたい」
苦笑混じりに呟く,その表情ですら柔らかかった。
ミリィはそれに笑顔を浮かべてから、立ち上がった。
「じゃ、私、のどかわいたんでホットミルクでももらってきますね」
「気をつけてね、きっと酔っぱらいの山でしてよこんな時間」
「はあい!」
元気に返事すると、ミリィは部屋の扉を背中で閉めた。
そのままドアに背中を預けて、ひとつため息をつく。よっこいしょ、とからだを起こすと、ミリィはてくてく歩き始めた。
「先輩も、ヴァッシュさんに、あーゆーふうに、笑って、あげれば、いいのに」
階段を下りながら、一歩ごとに区切りながら呟く。
「意地っ張りですねえ」
「……つまり、なんや具合の悪そうやった姉ちゃん気遣ったら突っぱねられたのが気にくわんと、そーゆーことやな?」
一通りヴァッシュの説明を聞き終えたウルフウッドは、5本目のタバコを灰皿に押しつけた。
「簡単に言うけどねえ! 平気です、何ともありません、はともかく、僕に心配されるいわれはないとか、人の心配してる暇があったら自分の心配しろとか、どーしてあの人は」
「とーぜんやろ」
ウルフウッドは新しいタバコに火をつけた。予想もしていないタイミングで話を遮られて、ヴァッシュは気がそがれたようにいすにもたれる。
「お姉ちゃんの立場からしたら、普通はそう思うやろ。お前が、なるべくならお姉ちゃんたちおいていきたい思てるんはバレバレなんやし、何か口実作るわけにいかんのやから」
今度はヴァッシュは黙り込んだ。
「そもそもやな、お姉ちゃんが頑固で意地っ張りなんはわかっとるんやから、気イ使いたいんやったらそれなりのやなあ」
「すごいです牧師さん! 先輩のことよっくわかってるんですねえ」
なにやら拍手とともに背後からした声に、ぎょっとしてウルフウッドが振り返る。
そこには、カップを片手に持ったまま、器用に拍手を続けるミリィが立っていた。
「……いつからおったん?」
ウルフウッドが多少ひきつって尋ねた。
カップを空いている席の前に置いて、ミリィはそこに腰掛ける。
「えっと、つまり、のあたりからです。原因、それだったんですねえ。先輩教えてくれなくって」
持参した、湯気の立ったカップを両手で包んで一口飲むと、ミリィはあち、と舌を出した。
「別に具合悪そうに見えなかったんですけど……どこかおかしかったですか?」
「……顔色は悪かったのに、手が熱かったから……」
ヴァッシュがぼそぼそ答える。
ミリィは首を傾げた。
「先輩、髪洗ってましたよ?」
「え? じゃあ、なんともないのかな」
ヴァッシュも首を傾げた。それなら、喧嘩する必要はなかったのに。
「か、無理してるかのどっちかやな」
ウルフウッドの突っ込みに、ヴァッシュとミリィの顔色が変わる。
あり得る……っ!
2人の顔にはありありとそう書かれていた。
しばらく、重苦しい沈黙があたりを支配した。
「……僕、ちょっと忘れ物」
言ってヴァッシュがそそくさと立ち去る。
その後ろ姿を見送りながら、ミリィはホットミルクをふうふう吹いてさましにかかった。
「……行かんでええんか?」
ミリィはにっこり微笑んだ。
「トマに蹴られて死ぬのはごめんです」
その答えに、ウルフウッドはカウンターにパンケーキを注文する。
「ひとつ疑問があるんやけどな」
6本目のタバコを灰皿に押しつけて、ウルフウッドは頬杖をついた。
「はい?」
「いつどこでなんのために、あいつ、お姉ちゃんの手なんか触ったんや?」
「……さあ?」
「保険屋さん? 起きてる?」
遠慮がちにドアをノックする音に、ぼうっと寝台に腰掛けていたメリルは、はじかれたように立ち上がった。
「起きてますわ、何か?」
「入っていいかな」
メリルは眉をひそめた。ミリィはいないし、すでに自分は寝間着姿だ。
「……どうぞ」
多少のためらいはあったが、メリルはそう答えた。
ひょっとして、昼間の件を気にして来たのだとしたら、ここで追い返すのは角が立つ。
メリルとしても、いつまでも怒っているわけにいかず、明日までこんな状態を持ち越したくはなかった。
ドアが開いて、ヴァッシュが顔を出す。
「……ごめん、もう眠るとこだった?」
「いえ、ミリィもまだですし……何かご用ですか?」
ドアを閉めて、こちらに歩いてくるヴァッシュに、メリルは問い返した。
ヴァッシュは無言のまま、右手の革手袋を外すと、そのてのひらをメリルの額にあてる。
「……!?」
突然の行動にしばらく突っ立っていたメリルが、我に返って後ずさったときには、ヴァッシュは顔をしかめていた。
「酒飲んでずっと手袋してた僕が熱いと思うんだから、結構高いよ、熱。……何で髪なんか洗ったの」
「べ、別に、何ともありませんったら」
メリルが、多少つっかえながらも反論する。
「それに髪ならもう乾いて……何で知ってるんですの?」
「君の相棒がね。乾いたらいいってもんでもないでしょ?」
少し険しい顔で、ヴァッシュはため息をついた。
「もうちょっと自分の身体いたわって……どうしてそう無理したがるかな」
「……したくてしてるわけではありませんわよ」
俯いたメリルが、低い声でそう呟く。
「無理しないと、あなたは私たちを放っていくじゃないですか」
痛いところをつかれて、ヴァッシュが黙り込む。それに気づかないまま、メリルは言葉を続けた。
「無理しないと、私、あなたに追いつけない……ついていけない。そのあなたが、私に、無理するなですって? ばかも休み休みいって下さい! 私が無理したいからしてるんです、余計な」
最後まで言わせずに、ヴァッシュはメリルの方へ手をのべて、その華奢な身体を抱き寄せた。小さな身体は、すっぽりと彼の胸の中に収まってしまう。
「……ヴァ、ヴァッシュさん……っ!?」
驚いたようにじたばたするメリルを抱き上げて、ヴァッシュは寝台に運んで、上掛けをめくった。そこにメリルを横たえて、上掛けをシッカリと押さえつける。
クロゼットから、余分においてある毛布も引っぱり出してきて、その上に掛けた。
呆気にとられたように自分を見上げているメリルの表情に、笑みが漏れる。
「暖かくして、眠って。薬は持ってる?」
「……もう、飲みましたから」
メリルの答えに、そう、とヴァッシュはうなずいた。
寝台の端に腰掛けて、頬にかかっている髪をそっと指で払ってやる。
「ついてくるなら、早く治さなくちゃ。君の相棒が戻ってくるまでいてあげるから、眠って」
安心させるように、にこ、と微笑みかける。とたんに、メリルが顔をしかめた。
「……ヴァッシュさんっていつもそう」
「え?」
だいぶ冷えたてのひらをメリルの額にあてながら、ヴァッシュは不思議そうに問い返した。
「そうやって、人を安心させようとして笑うでしょう? お心遣いは嬉しいんですけど」
言葉を区切ったメリルが、瞳を閉じる。
「でも、どこか痛いんですの……私が見たいのは、そんな笑顔じゃ、なくて……」
薬が効いてきているのか、眠たげに言葉を紡ぐ。
「そんな顔を、させたいんじゃなくて……」
メリルは、そのまま眠りについた。落ち着いた寝息が、静かな部屋にリズムを打つ。
しばらくヴァッシュはその寝顔を見つめていた。
微笑みが、浮かぶ。作ったものではなく、自然に。
意地っ張りで、頑固者で、でも誰より優しい人。
その優しさを表現する術を持たなくて、空回りしてしまう人。
ごめんね、と口の中で呟いて、そして気づく。この言葉じゃ、またきっと彼女は怒る。
「……ありがとう」
熱っぽい額に、唇を落とす。
ヴァッシュは、そっと髪を撫でてから、部屋の灯りを落とした。
Snowy Cristmas
「雪なんて見たことありませんもの」
メリルは、きょとんとした顔でそういった。
それは、移動途中に立ち寄った町でのことだった。
昼間は別行動を取っていたのだが、夕方に食堂で顔を合わせたときに、ウルフウッドがクリスマスミサを執り行うことになったことを、ミリィが報告したのである。
「……どうしてウルフウッドさんが?」
メリルが、食後の紅茶を口元に運ぶ手を止めて首を傾げる。
「なんや、この町の牧師が去年ぽっくり逝ってしもたんやて。その葬儀は、なんとかその牧師の友人がやってくれたらしいんやけど、その後替わりがみつからんとかで」
「ふーん」
ウイスキーに氷を放り込みながら、ヴァッシュはテーブルに肘をついた。
「それで、ウルフウッドさんが替わりを?」
「ま、そやねんけど……ゆーてもなあ、ワイも本式のミサやったことないし」
メリルの質問に、ウルフウッドは決まり悪げに後ろ頭をがしがしかいた。
「牧師のくせに?」
ウルフウッドにも酒瓶を差し出しながら、ヴァッシュが問う。
グラスをヴァッシュの方に押しやって、ウルフウッドはいすの背もたれにもたれかかった。
「あーゆーのはお偉いさんがやるんや。うちの教会で子供らとやるのとは勝手がちゃう」
「でも引き受けたんですよね♪」
ミリィの言葉に、ウルフウッドは力無く頭を垂れた。
「……そういえばミリィ、どうしてあなたがそれを知ってるんです?」
ミリィのカップに砂糖をおとしながら、メリルが尋ねる。ミリィはそれはですねえ、と胸を張った。
「わたしそこにいたんですよ。買い物してたらばったり牧師さんにあって、それでわたしが牧師さんって呼んだのを町の人が聞いててそれで」
「頼まれたの?」
完全に事態を面白がっているヴァッシュの問いに、うなだれたウルフウッドの首が小さく縦に振られる。
「嬢ちゃんと一緒におったんが敗因や」
「何か負けたんですか? 牧師さん」
「想像はつきますわ」
紅茶のカップをソーサーに戻しながら、メリルが口を開く。
「どうせ、ミリィあなたこう言ったんでしょ? 『牧師さんミサやるんですか!? わたしも出たいです』って」
「すごおい先輩! 念ずれば花開くって奴ですね!」
「違いましてよミリィ」
力のない笑顔でメリルがやんわりと突っ込む。ヴァッシュはにやにや笑いながら自分のグラスを目の高さに掲げた。
「押しに弱いよねえ、君」
「どでかいお世話や。お前はあのお嬢ちゃんにじっと無言でプリン見つめられて『欲しいんか?』て尋ねずに立ち去れるんか!?」
「ま、それはそれとして」
ひとしきり笑い転げてから、ヴァッシュは話題を仕切りなおした。
「いいんじゃない? 君がいつもやってたようなのでさ。この町の人だって、そんな形式張ったものをしたがってるんじゃないんでしょ?」
「まあ、向こうも簡単なもんでええとは言っとったけど」
おやつのケーキを平らげてミリィが首を傾げる。
「ミサって何やるんですか?」
「まあクリスマスにちなんだ説教、賛美歌、聖書の朗読、そんなもんかな」
ウルフウッドが指折りながら数える。ヴァッシュが少し考えて、あ、と声をあげた。
「キャンドルサービスは? あれは綺麗だよ」
「ああ、ろうそく用意できるんやったらそれもええな」
ウルフウッドがうなずく。果実酒の蜂蜜割りをカウンターに注文してから、メリルはヴァッシュに向き直った。
「ヴァッシュさん、ミサに出られたことあるんですの?」
「うーん、何度かはね。でも昔、記録映像でみた地球のクリスマスが印象深くて」
「地球の!?」
ミリィがテーブルに身を乗り出す。ウルフウッドもヴァッシュの方へ視線を向けた。
「うん。街の広場……公園かな? の木をたくさんの小さい電球で飾ってね、大きなクリスマスツリーが据えられて、それが真っ白な景色の中できらきら光ってて」
「どうして真っ白なんですの?」
メリルが首を傾げた。
「雪が積もってるんだよ。あ、ひょっとして雪知らない?」
「大兄ちゃんから聞いたことあります! 雨が凍ってシャーベットみたいになってるんでしょ?」
ミリィが元気良く手を挙げる。ヴァッシュは苦笑した。
「うーん……それはどっちかって言うと霙かな。雪がもうちょっととけた奴」
しばらく3人は見たことない雪と霙の違いを考えていたが、結局ぴんとこなかったようだ。
「雪なんて見たことありませんもの。どう違うかと言われても、わかりませんわよ」
最後の方は肩をすくめながら、メリルはそう言った。
それもそうか、と自分の部屋の寝台に寝ころんでヴァッシュは思う。
いくらこの星の砂漠の夜が息が白くなるほど寒いとは言っても、そもそも雨が降りにくいのだから雪など見たことがなくて当たり前なのだ。
シップの中で人工雪にふれたときの感触はもう遠いものになってはいるけれど。
『そんなに綺麗なものでしたら、一度見てみたいものですわね』
説明しようとして結局自分も訳が分からなくなったヴァッシュに、そう言ったメリルの言葉を思い出す。
「雪かあ……」
そう呟いたとき、ふとひらめくものがあった。
ろうそくは街の人たちの協力で集まり、キャンドルサービスも執り行われた。
照明を落とした教会の中で、いくつもの柔らかな灯りが揺らめく光景は好奇心半分で参加したヴァッシュ達ですら厳かな気分にさせた。
最後の祈りの唱和が終わり、キャンドルを手に家路につく人々の列を見送りながら、メリルがほう、と息をついた。
「いいミサでしたわね。牧師らしいウルフウッドさんを我慢できるか不安だったんですけれど」
「あははは。酷いね君も」
「笑っておいて何言ってるんですの」
そういうメリルの口調はきついが、瞳は笑っていた。
左斜め下後方にある、メリルの顔にちら、と目をやって、ヴァッシュはその手をとる。
「!?」
驚いてメリルが彼を見上げた。自分の胸より低い位置にあるすみれ色の瞳に、にこ、と微笑んでみせる。
「ちょっと付き合わない? 見せたいものがあるんだ」
「……え? あ、はい……?」
訝しげな表情のまま、うなずいたメリルの手を引いて、ヴァッシュは目的地へずんずん進んだ。
「ご苦労様でした、牧師さん!」
街の人々がお礼代わりに置いていったパンやキャンディー、焼き菓子などをバスケットにまとめながら、ミリィは満面の笑顔でウルフウッドをねぎらった。
「あー慣れんコトすると肩凝るわ」
こきこきと肩をならしながら、ウルフウッドがごちる。
「そんなことないですよ! なんだか本当に神様がわたしの横に座ってるみたいな気がしました」
まとめ終わったバスケットに布を掛けて、胸に抱きしめてミリィは笑う。ウルフウッドも、つられて笑みを浮かべた。
「……おおきに。そない言うてもらえたら気い楽やわ」
「町の人たちも幸せそうでしたね。やっぱり牧師さんてすごいです」
「別になんもすごかないで」
ほめすぎやがな、と苦笑するウルフウッドに、ミリィは首を振る。
「すごいですよ。あんなにたくさんの人に、幸せそうな笑顔プレゼントできるんですもん」
ウルフウッドは、何かまぶしいものでも見るように、目を細めた。それはひどく微笑みに似ていた。
「じゃ、わたしこれ片づけちゃいますね。先輩たち先帰っちゃったのかなあ」
ぱたぱた遠くへ行く背中を見送って、ウルフウッドはタバコに火をつけた。煙を吸い込んで、溜め息と一緒に吐き出す。
「……すごいんは、そっちやろ……」
呟きは、ミリィの元へは届かない。届けない。
ウルフウッドは、くゆる煙を出口の方へ吹いて散らした。
ヴァッシュに手を引かれてやってきたのは、この町の中心部にあるプラント施設だった。
「ヴァッシュさん、ここ……」
言いよどむメリルの目の前で、ヴァッシュは彼の背丈より高さのある、半地下へ潜る通路へ飛び降りる。
「大丈夫、ここ誰もいないから。はい」
言って、ヴァッシュがメリルに手をのべる。
「……はいって……なんですの?」
「え? 飛び降りるの。支えてあげるから、はい」
一瞬の間をおいて、メリルは自分の頬に一気に血が上ったのを自覚した。
「一人で降りれます!」
そういって、その場にしゃがみ込もうとするメリルに、ヴァッシュはあわてた。
「ちょ、ちょっとストップ保険屋さん! その体勢はまずいって僕!」
言われて自分を見下ろしたメリルは、さらに顔を赤くして、ミニのタイトスカートの裾を押さえながら立ち上がった。いくらタイツをはいているとは言っても、気持ちとしては恥ずかしい。
「だからふつーにそのまま飛び降りてったら」
「どっちも恥ずかしいです!」
メリルは叫んだ。このまま飛び降りたら、ヴァッシュに抱き止められることになる。それはそれで彼女には十分恥ずかしかった。
「誰も見てないって」
「私が恥ずかしいんです!」
苦笑しながらのヴァッシュのセリフに、メリルは反論する。ヴァッシュは今度は可笑しそうに口元をゆるめた。
「いいからおいで。ちゃんと支えるから」
子どもをなだめるような口調に、メリルは小さな唇をとがらせる。しばらく迷った末に、彼女は渋々飛び降りることにした。
えいっとばかりに地面を蹴ると、一瞬の浮遊感がメリルを包む。次の瞬間、彼女はヴァッシュに易々と抱き止められていた。
「あれだけデリンジャー下げてるのに……ちゃんと食べてる?」
すとん、と地面に下ろしながらのヴァッシュのセリフに、メリルは食べてますわよ、とすねたように答えた。
「それより離して下さいません事!?」
「あ、うん」
支えていた手を離したヴァッシュは、その手で再びメリルの手をとる。
「こっちこっち」
「ちょ、ちょっとヴァッシュさん……!」
「ん?」
手、離れてませんわよ、という言葉をすんでの所で飲み込んで、メリルは別のことを口にした。
「どこに行くんですの? このあたり立入禁止なんじゃ」
「大丈夫、管理のおじさんとは仲良しだから。今日はクリスマスで人も少ないんだ」
……いいのかしら、と悩んでいる間に、ヴァッシュは手早く端末に数字を打ち込んでドアを開ける。
ドアの向こうには、不思議な淡い光に満ちた、コードとパイプだらけのただっぴろい空間。
そこへ促されるままに足を踏み入れて、メリルは上を見上げ息を呑んだ。
「プラント……!?」
「そう。この町の電力プラント」
言いながら、ヴァッシュがメリルの手を離して壁際にある端末操作盤へと向かう。
「でも今日はクリスマスだから。毎年、あまり電力いらないんだって。だから、一部だけこっちに回して……」
説明しながら、ヴァッシュの指がキーボードを叩く。一通り打ち込み終わったのか、ヴァッシュはプラント見上げた。
「ちょっとだけ、頼み聞いてくれよね」
微笑みかけて、ヴァッシュは視線をメリルに移す。そこ動かないでね、と、とまどったままの彼女に念を押し、最後のキーを押し下げた。
「……なんですの?」
作業を終えて、彼女の方へ歩いてくるヴァッシュに尋ねたメリルの頬に、何か冷たいものが触れた。
「つめたっ」
首をすくめて頬を押さえた彼女の手のひらに、ひんやりとした水滴がつく。
「え?」
ふと視界の端を、何か白い小さなものが落ちていく。
「な、なに……!?」
あわてて振り仰ぐと、そこには米粒ほどの小さい白い粒がたくさん舞い降りてきては、メリルの頬に瞼に髪に手のひらに落ちてくる。
しばらく呆然としていたメリルは、はっとして、すぐ傍らにたたずんでいたヴァッシュの碧色の瞳を見上げた。
「まさか、これ……!」
「うん。雪」
ひとつうなずいてから、ヴァッシュも上を仰ぐ。
「綺麗だろ? これがホームでは空から一面に降って来るんだって」
笑ったままの顔に、寂しげな影がよぎる。
「それは綺麗なんだって……音も色も全部吸い込んで、もう一度まっさらにするんだって」
遠くを見つめる瞳。そんな瞳を彼が見せるたびに、メリルは目を伏せる。
立ち入れない。この人は、何かを心に抱え込んで、それを誰にも見せようとしない。
でもそれは、きっとこの人の一番大事なところだから、だから何も言わない。
気づかぬ振りをして、ただ黙り込む。
それは、メリルの精一杯の強がりでもあったけれど。
「君に、見せようと思って」
声に、メリルはヴァッシュを見上げた。先ほどの影は、瞳から消えていて、メリルは少しほっとした。
「私に?」
おうむ返しに問い返してから、メリルは首を傾げた。
「うん。クリスマスプレゼント」
しばらく、何も言葉が出てこずに、メリルは呆然とヴァッシュを見上げていた。
「……あ」
掠れたような声が喉から出たのは、ヴァッシュが、メリルの髪についた雪を払おうと腕を伸ばしたときだった。
「あ?」
短くそろえられた、夜の色をした髪から白い雪を払いながら、ヴァッシュは尋ねる。
「ありがとう、ございます……」
唇から漏れる言葉は、感情を表して不安定に揺れていた。それに気がついて、メリルは視線を足元に落とす。何度か瞬きをして、ゆるみかけた涙腺を叱咤する。
幾分落ち着いたのを自分自身で確認すると、メリルはもう一度、ヴァッシュの瞳を見上げた。
「今まで頂いた中で、一番嬉しいプレゼントですわ」
自然と、笑みがほころんだ。ヴァッシュが嬉しそうに、うん、とうなずく。
2人のまわりだけに音もなく降りしきる雪の中、メリルはまあいいか、と思った。
今、横にいられるのだから。 こうして、同じものを見上げることができるのだから。
「……寒くない?」
「大丈夫ですわ」
手のひらの上で溶ける雪を飽きもせずに眺めているメリルに、ヴァッシュは微笑んだ。
そっと、その細い肩を、降りしきる雪から守るように抱き寄せる。
猫が触れられて身じろぐ様を思わせる動作で、メリルが顔を上げた。
「風邪ひいたら大変でしょ?」
肩に置かれた手に、居心地悪そうに身をすくめていたメリルは、ふ、とため息をついて瞳を閉じた。
「そうですわね。誰かさんはすぐに人を放ってどこかへ行くんですから」
「ひどいな」
片目を開けて見上げたヴァッシュの顔は笑っていて、メリルも安心して笑った。
大切にしよう。
時は流れ、頬に触れる冷たさも、肩に置かれた手のひらの暖かな重みも、いずれは消えて行くけれど。
確かに消えないものを、心に刻んでおこう。
「……これ、ミリィ達に持って帰ってあげられないかしら」
「……雪だるまにしてみよっか」
「なんですの、それ?」
そのてのひらの
ヴァッシュの故郷とも言うべきシップの中で繰り広げられた戦いの傷跡から、住民達が立ち直り始めた頃。
当のヴァッシュとウルフウッドは、寝台の上で、退屈な療養生活を余儀なくされていた。
「本当にもう大丈夫なんだって! ほらぴんぴんしてるんだから」
「あなたの口から出る言葉である限り信用できませんわね。先生がまだ、とおっしゃってるんですから」
見慣れた白いマントではなく、衛生服を身につけたメリルにぴしゃりと言われ、ヴァッシュは視線を宙にさまよわせた。
戦いの後に気を失い、次に目が覚めたときにはすでに彼女とその後輩は衛生服を着てシップの中での位置を確保していた。
本来保険屋の彼女たちが、どうしてそんなことになっているのかは知らなかったが。
「ほら、腕見せてください」
ガーゼと包帯の乗ったトレイを寝台の脇に置いて、彼に向き直るメリルの白い手をそっと握る。
「……ヴァッシュさん?」
「僕ってそんなに信用ない……?」
上目遣いに泣き落としにかける。
しかしメリルは、は、と短いため息をついた。
「……ご自分の胸に手をあててよおく考えてください」
言って、ヴァッシュの手の中から自分の手を引き抜く。
「ないの!? やっぱり!?」
「当たり前です。さ、腕見せてください」
きっぱりと答えるとメリルは、ヴァッシュに背を向けてガーゼを適当な大きさにカットし始めた。
彼女は、自分の頬に上った熱を冷ますことに必死だったので、ヴァッシュが自分のてのひらを複雑な顔で見つめていたことに気づかなかった。
どうもしばらくうとうとしていたらしい。ヴァッシュは、誰かの話し声に引きずられるように、ゆっくりと目を開けた。
「えーっ、そうですよ、私と先輩でやったんです! なんでわかったんですか牧師さん!」
カーテンの向こうから、一応いくぶんボリュームを抑えた感嘆の叫びが聞こえてくる。
「あんなお嬢ちゃん、世の中広いっつっても、あのスタンガン扱える女がどんだけいると思てんねん」
「そですね、あんまり見かけませんねえ」
あんまりどころか全然だ。ヴァッシュは心の中でそう突っ込んだが、ウルフウッドもしばらく無言だったのでおそらく同じ事を思っていたのだろう。
どうやら、保険屋さんの片割れが、やはり隣の寝台にくくりつけられているウルフウッドとおしゃべりをしているようだった。
「けど、来とったんならなんで顔も見せんかったんや? あの時トンガリ捕まえて恩売っといたら、ここ来るのも楽やったやろうに」
「あ、あのときは有給休暇だったんですよ! お仕事命じられてたのは、あくまであの……ナントカって人でしたから」
「なんや、ボランティアか?」
「はい!」
ヴァッシュは首をひねった。
……なんの話だろう。そもそも、この二人にそうまで共通する話題があるとも思えないのだが。
「仕事やないのにごくろーさんやなあ。ほっといても死にゃせんで、あの男は」
どうやらそれが自分のことらしいことに気づいて、ヴァッシュは憮然とする。
「……ひょっとして牧師さん、私たちがお仕事だからヴァッシュさん追っかけてると思ってます?」
ミリィの問いに、違うんか、とウルフウッドが問い返す。
ヴァッシュも答えを聞こうと、ちょっと体を話し声のする方へ動かしたとき、いきなりドアが開く音がして、二人があわてて口を閉じる気配がした。
「……何あわててますの?」
メリルの声だ。いすから立ち上がる音がする。
「あ、先輩! ジェシカさんのお手伝い終わったんですか?」
「ええ、終わりましたけど……2人とも、ヴァッシュさん休んでおられるようですから、静かに……」
言って、彼女がこちらのカーテンを開ける。ヴァッシュはあわてて目を閉じた。
「ミリィ、交代で食事取りましょうって。あなた先にお行きなさいな」
声をかけながら、彼女のてのひらがそっとヴァッシュの額にあてられる。 水仕事をしていたのか、その手はひんやりと湿っていた。
仕事じゃないのなら、何故。
そう尋ねたかったが、ヴァッシュは寝たフリを続けた。
ああ、思い出した。
リィナとばあちゃんと暮らしたあの村から旅立って、しばらくしてから、ベルナルデリ保険協会から派遣されてきた男が、自分を殺そうとして失敗した件の話か。
白い天井を見上げながら、ヴァッシュはあのときのことを思い出していた。
確か、自分があの男に撃たれて病院にかつぎ込まれた後、何故かあの男もひどい怪我をして入院してきたあげく、ウルフウッドによってタバスコの洗礼を受けたはずだった。
じゃああの時も、彼女たちは助けてくれたのか。
仕事でもないのに。
ヴァッシュは寝返りを打って、枕に左の頬を押しつける。
いけないな、と苦笑する。彼女たちと出会った頃ならいざ知らず……今は、状況はせっぱ詰まってきている。巻き込むわけにはいかない。
2年前にも告げたはずの言葉を、とったはずの行動を、もう一度繰り返さなければならないのか。
あのとき、あの状況で、自分の左頬を思いっきりひっぱたいたときの、メリルのすみれ色の瞳を今でも覚えている。
彼女自身の命の心配より、自分の心配をして、涙を流した彼女を覚えている。
まっすぐに、何もかも見透かすように、見上げてくる瞳の力の強さは、2年経っても変わっていなかったから。
さて、どうやって置いていこうか。
ヴァッシュは、そう考えて、あまりの難しさにめまいを覚えた。
ここなら、多分もう安全だろう。ジェシカやルイーダもいるし、仲良くやっているみたいだし。
しかし、残れと言われて残る人たちじゃない。置いていったところで、きっとまた追いかけてくるだろう。
まいてまいてまきまくるにしても限界というものがあるし、彼女たちは何度はぐれても自分を見つけているのだ。
一番簡単なのは、傷つけて切り捨てることだ。もう、自分とは二度と関わりたくないと思わせるほどに傷つけて、置いていく。
それは同時に、あの瞳を曇らせることになる。あの暖かな、小さなてのひらを、手放すことを意味する。
ヴァッシュは、枕に顔を埋めた。だめだ。そんな事は思ってはいけない。
「……わかってるさ、置いていくよ。なんと言われても、巻き込むわけにはいかないからね……」
自分自身に納得させるように口にした呟きは、柔らかな枕に吸い込まれた。
起きあがっても良くなった2日後に、またもやヴァッシュは手術台の上にくくりつけられる羽目になってしまった。
「麻酔が切れるまでは動いちゃ駄目ですわよ」
義手の手術のための局部麻酔がまだ効いているので、違和感にもぞもぞしているヴァッシュに、後片づけをしていたメリルが声をかける。
「動けるのに……」
「駄目なものは駄目です。どうしてあなたって人は、見ている人間が痛くなるような戦い方しかできないんですの?」
使わなかった包帯や洗浄に回す器具をひとまとめにして、ワゴンを廊下に出してから、メリルはヴァッシュの枕元に置いてあるいすに腰掛けた。
「あなたが誰かが傷つくのを見たくないように、あなたが傷つくことが痛い人間だっているんです。ジェシカさんの悲鳴を聞かせたかったですわよ、全く」
言いながら彼女は、持って入ってきたかごの中から、先ほど襲われたときに彼が着ていた元カッターシャツを取り上げると、縫い目の糸をほどき始めた。
「……どうするの? それ……」
「布は布ですから。雑巾にくらいなりますわよ。きっと」
単調な作業を繰り返す、メリルの手元を眺める。細い指が器用に動く。
ふと視線をあげたメリルの瞳にぶつかって、ヴァッシュは意味もなくうろたえた。
「何か?」
「え、あ、えーっと、その……助けてくれてありがとう」
唐突なセリフに、作業の手を止めてメリルが眉をひそめる。
「今日助けていただいたのは私ですけれど……」
「いや、今日じゃなくて! その、メルドレークで、君の後任の人から」
「!」
メリルが息をのむ。ややあってから、飲み込んだ息を吐き出した。
「ミリィですわね。あれほど言っておいたのに」
「あ、違う違う。僕が立ち聞き……いやねてたけど、したんだ」
あきれたように絶句して、メリルは作業に戻った。
「礼を言っていただくには及びませんわ。うちの社のものがご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「けど」
「私たちは休暇の途中で、たまたま寄っただけですから。お気になさらず」
「仕事でもないのに?」
言うと、ハサミをおいて、彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
「ボランティアですわ。誰かさんのお人好しの首突っ込みたがりやが移ったみたいで」
「……僕のこと、それは……?」
くすくす笑いながら、メリルがかごを持って立ち上がった。
「じゃ、ちょっとはずしますけど、まだ休んでいてくださいね」
ドアの向こうに華奢な背中が消えて、ヴァッシュはため息をついた。
「あれ、先輩いないんですか?」
入れ替わりに、ミリィがやってきた。片手でホールドしたお盆に、水差しとコップが乗っている。
「今出てったよ。そう遠くへは行ってないと思うけど」
「そですか。ヴァッシュさんノド渇いてるだろうから、冷ましたお茶持ってきたんですけど」
「ありがとう」
どういたしまして、と屈託なく笑いながら、ミリィが吸い口にお茶を注ぐ。渡されたお茶を一口飲んで、ヴァッシュは保険屋さん、と話しかけた。
「はい?」
「お仕事熱心なのはわかるけど……僕に関わると危ないことはわかってるだろう?」
「そりゃーもう。毎日ドキドキはらはらですねえ」
のんきに答えるミリィに、ヴァッシュはかっくりと肩の力を落とした。
「だったらさ、もうやめちゃって帰らない?」
ミリィがお茶を注いでいた手を止める。しばらくヴァッシュの顔をじっと見つめて、それからにぱ、と笑って見せた。
「ヴァッシュさん、わかってないですね」
「……何を?」
「先輩は、あ、もちろん私も、このお仕事を選んだんです。断ることだって出来たんですけど、でも選んだんです。危ないことくらい知ってます」
やっぱり普通の説得じゃ無理だよ、とヴァッシュはため息をついた。
「足手まといですか?」
核心をつかれて、ヴァッシュは絶句したまま、ミリィの目を見返した。
「そりゃ、ヴァッシュさんや牧師さんに比べたら、私らなんてへのカッパですけど、でもこうやってお手伝いするくらいなら出来ますよ?」
「……わかってるよ。何度も助けてもらってるのも……ちゃんと、知ってる」
けれど、それでも。
今回はこのシップがねらわれた。次に、そのねらいが彼女たちではないと言う保証がどこにあるか。
もう巻き込めない。自分のせいで、誰かが傷つくところなんて見たくない。
これ以上、増やしちゃいけない。
「あら、ミリィ、こっちにいたんですの?」
声に顔を上げると、首を傾げるようにして、メリルが入り口の所に立っていた。
「あ、先輩、聞いてくださいよう! ヴァッシュさんったらまた帰れって言うんですよお!」
あちゃ、とヴァッシュは動く右手で額を押さえた。百倍くらいになって怒りの反論が返ってくるに違いない。
しかし、予想に反して、メリルは表情も変えずに口を開いた。
「ま、ヴァッシュさんならそんなところでしょうね」
「……それだけ?」
「何か他に言って欲しいんですの?」
シンプルな答えに、ヴァッシュは口の中でもごもごと、いや別に、と呟いた。
「どうせ平行線ですから、この話はおしまいにしましょう。ミリィ、夕飯の支度手伝いに行きますわよ」
「はーい!」
ミリィが扉をくぐるのを待ってかかとを巡らしかけたメリルが、立ち止まって振り返る。
「ヴァッシュさん」
「はいっなんでしょう!?」
時間差で反論が来るのかと身構えたヴァッシュに、メリルはふっと頬の力を緩めた。
微笑み、と言うほど力のあるものでなく。
「……ちゃんと、休んでて下さいね」
イナクナラナイデクダサイネ。
そう聞こえた気がして、ヴァッシュは、返事をすることが出来なかった。
けれど、それでも。置いていくことしか出来なくて。
きっと怒るだろう。追いかけて来るんだろう。
傷つけたくないだけなのに、ただそれだけなのに。
「どないしたんや?」
シップを夜更けに抜け出して、砂漠を横切りながら、すでに砂嵐の中にある故郷を振り返ったヴァッシュに、ウルフウッドが声をかける。
「うん……そろそろ気づいた頃かなと思って。みんな」
「どうせ追いかけてくるんとちゃうんか?」
ヴァッシュは答えなかった。
「選ばなならん時が、きっと来るで」
「わかってるよ」
この風なら、砂に刻まれた足跡も、きっと消えてしまうだろう。
それでいい。追いかけてこないでくれ。見つけないでくれ。
たとえあのてのひらのぬくもりを、失うことになっても。
G B 4 ~最強の魔法~(TRIGUN)
俺の名はヴァッシュ・ザ・スタンピード。
愛という名の陽炎を追い求めて早幾年…、その間、朝の訓練を欠かしたことはない。
チッ チッ チッ チッ・・・・・
ジリ……
バン!!
けたたましく鳴り始める直前の目覚ましをはたいて彼は目覚める。
いつもどおり。そう。いつもどおりの時間だ。
「鶏おこし」「日曜日の子供」「朝日に左右される男」等の異名は健在である。
本日、ただ一つ違っていたのは…彼の体調がこの上も無く最悪だということだけであった。
「ごふ!ごふがふごふ…!」
咳き込みながら日課の訓練を始める彼の目に精気は無い。
そして。
この星一番のガンマンの受難の一日はこうして始まったのである。
まず、朝の瞑想(三秒)を終える。
のろりと起き上がった男はまずいつもの訓練の用意に入った。
ばさばさの髪に半ば隠れた表情は厳しく別人のようだ。肩から腕、手にかけて真っ直ぐに伸ばされ握られた銃身の上には生卵が絶妙のバランスで静止している。
研ぎ澄まされた緊張感。
肌が粟立つほどに集中力を高め、彼は軽くヒュッと呼気を吐く。
と共に卵を空中に置いたままで銃だけを目にも止まらぬ速度で下げ…
ガチャ
「あ~~っ!だめですよ~ちゃんと寝てないと~」
部屋に入ってくるなり開口一番そう口火を切ったのは大きい保険屋さん、ことミリィである。
「全く、何してますの?」
呆れたように後ろ手にドアを閉めたメリルは手に看病セットを抱えている。
意図はわかる。…むしろ分かりすぎるほど分かるが。
(あああ~~俺の朝飯……)
床でぐしゃぐしゃになった卵の残骸に視線をやり、保険屋二人にぎぎぎと首を動かしたヴァッシュは硬い声でぼそりとのたまった。
「キミタチ…何?」
「ベルナルデリ保険会社のミリィ・トンプソンです」
「同じくメリル・ストライフですわ」
(それはわかってるんだけど…)
時々この二人の言動は本気なのか冗談なのか掴みかねる。
脱力した彼の身体をミリィがベッドの上に引きずり上げた。同時に捲り上げられていたシーツが彼の上にかけられる。保険屋コンビは相変わらず感嘆するほど絶妙のコンビネーションだ。
半身を起こしながら苦笑し、首までしっかり上げられたシーツを下ろしてヴァッシュは口を開いた。
「僕は大丈夫だっ…、…もがっ!」
すかさず口に体温計が放り込まれた。
「熱がありますねぇ~」
「起きちゃ駄目ですわよ」
肩を押さえられ彼はマットに逆戻りする。
刹那、くらりと来た眩暈に、仕方ないかと諦める気持ちが沸き起こった。
彼女達が自分を心配してくれているのが分かっていたからだ。もう一つの理由にも気付いてはいたが、あえて知らない振りをしておこうと思う。
今日は―――この街でバーゲンがあるのだ。
「じゃ、これ飲んで下さい」
唐突に目の前に差し出されたものにヴァッシュは息を飲んだ。
「これ……何?」
「おばあちゃん直伝の風邪特効薬ミリィスペシャルです~~よぉっく効くんですよぉ~」
この緑色の泡立っている怪しい液体が?
気付くとさりげなくメリルが顔を背けている。どうやらやばい物らしい。
臭いもかなり強烈だ。
「え…遠慮しとくよ…」
「遠慮なんてしなくていいですよぉ」
「いや…いい!あのさ…本気で…!要らないって…!」
「大丈夫ですって~」
笑顔と共に、取られた体温計の代わりにコップが押し当てられた。眉を顰めて拒否の言葉を紡ごうとした口の中に容赦なく暗緑色の異物が流れ込む。
「……………!!!!!!!!」
無言で口を押さえて身体をくの字に折っている彼のベッドから保険屋二人の離れる気配。
「それじゃ、大人しくしててくださいね。私達は看病に必要な備品の買出しに行ってきますので」
「お土産かってきますね~~」
「ミリィ」
「あ。すみませんセンパイ~」
来たときと同じく唐突に慌しく二人は去っていった。
そして
この星最悪の名を轟かすガンマンは、その気合と根性で持って、数分後にはなんとか口の中のモノを全て飲み下すことに成功したのである。
『最悪だ…最悪の、一日だ』
ピシッ
軽い音を立てて秒針が重なる。瞬間、男は唐突に目を見開いた。
瞳孔が縮小していく。徐々に焦点を成して行く視界に見知らぬ天井。
(何故だ……?)
最初に思ったのはその一言だった。
な・ぜ。
答えは無かった。周囲を認識して、天井に吊られるように腹筋だけで上体を起こす。そのまま視線は天井から壁に移り身体にあわせて目的物を捉えた。―――時計。時間が間違っていなければ、正午。
カチリ
ぶれた秒針に長針が自身を僅かに傾ける。狂ってはいないようだ。ヴァッシュは微かに眉を顰めた。
何時でも起きられるように身体を訓練していたはずだ。永い旅生活の間これほどまでに完全に寝入ったことなど、かつて無かった。だが、今現実に彼は数時間完全に無防備を晒していたのだ。その事実に背筋が総毛だつ。
(やべぇな……気ぃつけねえと)
この星で、生き抜くために。
用心を兼ねた保険屋二人がミリィスペシャル(仮名)に睡眠薬を混入したことなど彼が知る由も無い。最も熱で麻痺した味覚とあの味では激薬を混ぜていた所でわかりはしないだろうが。
ヴァッシュは熱の引きかけた頭を軽く振って起きだした。何か足りないような気がして回りを見回す。
考えて―――はた、と思いついた。あの二人が居ないのだ。
食べ物の恨みはなんとやら。頭もだいぶすっきりしていたし動けないことはない。何よりここに居たら次は何を食べさせられるか判ったものではない。
膝の上に預けた男の肘が震えた。伏せられた前髪の向こうの口元はにやり、と形容するに相応しい不敵な笑みが浮かんでいる。数分後、コートを羽織り、愛用の黒いバッグを肩越しに背中に放り上げ、至極幸せそうな表情でドアを出て行く男の姿があった。
「さあ。行ってみようか~!?」
それは。
不幸の死神を意図せずして常備している哀れなガンマンの、ささやかな自由の一瞬であった。
「え~っと。これと、これと…あとこれ。御願いします」
にっこり笑って紙幣を払ったミリィは愛想よく品物を包んでいる店女から隣でまだ品物を物色中のメリルに視線を落とした。
「そういえば、ヴァッシュさん…大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですわよ」
あっさりと云ったメリルは条件反射だけで答えた様子だった。完全に意識は目的物の入手のみに向けられている。
よりいいものを、より安く。
今は苛酷な状況下なだけに余計に貴重な余暇―――無理矢理作ったのだが―――の時間なのである。
「身体の事もですけど、また起きて先に行っちゃったりなんかしたら…」
釣りを受け取り女に会釈をしたミリィは真剣な顔でメリルに向き直った。そんな後輩をメリルは呆れたように見やる。
「気の回しすぎですわよ。確かに薬は入れたんでしょう?」
「はい。念には念をいれて、少し多めに入れときました~」
「……どの位入れたんですの?」
「ん~…」
思案するようにミリィは顎に手を当て、ややしてにっこり微笑んだ。
「大型猛獣も一発でころりって位です!」
「明日の朝までぐっすりですわね」
さらりと返したメリルは更に人込の奥へ向けて歩を進める。慌ててミリィはその後を追った。
途中ふと彼女は何かを感じ、振り返ったがその数メートル先を上機嫌で過ぎていく―――眠っている筈の―――トンガリ頭には気付くことは無かった。
件の男は鼻歌など口ずさみつつ人を掻き分け歩いて行っている。さして広くも無い町のメインの大通りがフェスティバルで埋もれているということは其処を通らないと町の外には出られないということだ。だが、ごった返す人々の群れの中では逢う確立はゼロに近いと云って良い。時折人並みに巻き込まれた裾を引っ張りながら漸く人垣を抜けたヴァッシュは大きく深呼吸をした。荷物を抱えなおして歩き出す。
少し心残りな気もしたが、あの二人を危険に巻き込むこと、そしてあの二人に危険に今まで巻き込まされた事を考えると、今の状況は上々といえた。
男は進みだす。二つの重なりかけた太陽の方向へ。
ザシュ、と特別製の靴が砂地を踏みしめて、そして彼はぽそりと呟いた、
「しっかし、どうしてこんなに眠ぃんだ……?」
ぐわ~んとしばしば歪んだ様になる視界に首を傾げつつ。
子供が泣いている。
眼鏡の男は、ケチャップをめいっぱいかけたフランクフルトを一口齧った。
男が、泣いている。
眼鏡の男は、すっかり身の無くなってしまった芯をゴミ箱へ放り投げた。
一番酷い所は離れたとはいえ、まだ街中で人通りも多い場所である。
雑多な言葉の群に一際高い騒動の声。
「その子は関係ないんだ!放してくれ!」
「金が払えねえってんだ。だったら仕方ねえ事だろう。なあ、おっさん」
「金が必ず返す!」
「じゃあ今、耳を揃えて出しなってんだ!」
言葉と共に蹴り飛ばされた男は後ろにいた誰かに派手にぶつかり倒れこんだ。起き上がると、彼の横には身体を二つに折ってゴミ箱に突っ込んでいる赤いコートがあった。
「……」
「……ガァア!」
「うわっ!」
機械じみた所作で唐突に起き上がった「それ」に、男は飛び上がった。立ち上がると、上背がある。彼は頭から異臭を放ちながらそれに負けない異様なオーラを放っていた。
男の第一印象:なんだか強そう
「た、助けて下さいっ!」
男はばっ、とそのコートの後ろに隠れた。ぐいぐいと後ろから、無意識にだろうが、押されて三人の接近度は先程よりも上がっていたりする。暑苦しい男の団子状態に人は誰しも避けながら通っていっていた。
「あぁ?やんのか?」
「……」
ゴミを払いのけながら、その男は歪んだ眼鏡をかけなおした。妙な威圧感がある。気圧されて野卑な男も黙り込む。
緊迫感が立ち込め……
「こんなことをしてちゃだめだ~~!!!」
「ぐあッ!」
唐突に襲い掛かり、もとい抱きついてきたその男にごろつきは地面へ倒れこんだ。引き剥がそうとするが、まるではずれない。もがけばもがくほど締まって行く。まるでボーイスカウトのロープのようだ。
ごろつきの第一印象:なんだか解らないが恐ろしい
「放せ!はなしやがれ、この野郎!」
「ラブ&ピィイイス!!!」
訂正、とんでもなく怖い。
恐怖に駆られてひたすらに両手を動かし数ヤーズ程転がった所で、なんとか男はその赤い陸型海洋生物を引き剥がす事に成功した。既に二人とも泥塗れになってしまっている。すぐさま飛び離れて、怒りに顔を染めながら彼は腰の銃を抜いた。照準をばさばさのホウキ頭にぴたりと合わせてトリガーに力を込める。
ズドン
それが、何の音か一瞬理解が出来なかった。
ただ、わかったのは自分の手から銃が取りおとされた事だ。眼前の男が何時の間にかその手に硝煙の上がる銃を持っている。視線は外して居ないはずなのに、何時の間に現れたのか全く見えなかった。
まるで―――
「魔法?」
不意に聞こえてきた声に心を代弁されたかのようで彼はぎくりとした。
「そうなんです。何でも美味しくできる『魔法みたいな』鍋って!!」
「鍋なんてなんに使うんですの……」
「家で足りないって言ってたので送ろうかと思ったんですけど……ほら、あたしん家、大家族ですから」
「鍋だけでなんでも美味しく出来たら手間は要りませんわ。大体『魔法』なんてのは大昔のお伽話……」
そこで話は止まった。ごろつきの後ろ側、人込みの中に目立つ二人連れの女が立っている。
男の第一印象:なんだろう、この妙な凸凹は。
見ていると、止まった二人はこちらを見ながら何やらバタバタしている。大きい方が真っ直ぐに手を伸ばして男を、いやその前に立つ赤いコートを指しているのがわかった。
「せ、せ、せ先輩!あれ!あれ、ドッペルゲンガーって奴です!」
「違う」
ビシ、と絶妙の突っ込みが入った。
ごろつきの第一印象:また変なのが増えやがった。
「ちゃんと生身ですわ」
諦めたように小さい方の女が溜息を付いた。メリル・ストライフだ。大きい方、ミリィ・トンプソンは大きな目を更に見張って一言質問した。頭からゴミを被ったまま人に銃を向けている、寝ているはずの旅の連れに向かって。
「なんでおきてるんスか」
「何したのサ、君タチい」
そこでぐらり、とヴァッシュの身体が傾ぐ。
ギリギリの所で起き上がり人形のように体勢を戻した男に女性二人は溜息を禁じえない。
「もう少し薬の量増やして置けばよかったっス!」
「誰にでも誤算はありますわ。オッケードンマイレッツゴーミリィ!」
「てめぇら!仲間か」
叫んだのはごろつきである。満面にどす黒く怒りを刷いて新しく出てきた女二人を睨めあげた。同時に、
ドゥン!
「はいはい、動かないで下さいね~」
鼻先スレスレを銃弾が掠めた。
意識を戻すと、オレンジ色がかった丸眼鏡の向こう側、口調と裏腹な目付きに背筋が凍った。少しでも動けば殺される、と実感する。急激な喉の渇きを感じて男はしゃっくりのような息を何度も繰り返した。じっとり、と冷たい汗が流れていく。息づまる、緊張感。
―――と。
……がくり。
唐突にヴァッシュの顎が落ちた。
「ね、眠ィ……」
「ふざけてんのかてめぇ!」
「いや、極めて真面目なんだケド」
ふらふらと定まらない手付きの割に銃口だけは動いていないのは寧ろ驚異的だ。隙だらけそうに見えるのに、いざ動こうとすると一片の隙も無い。
「今体調が悪くて、ぐし、チョッと手加減が出来そうも無いから……グシュン!」
ドギュン!
「ぎゃああああ!」
全く正反対方向、助ける筈だった男の手のぎりぎりを弾丸が通り過ぎていった。
「あ、失敗」
父親の生命の危機に引き攣った子供の顔が印象的である。青ざめた父親は、子供を引っ掴むと脱兎の如く人込みの中に逃げ去っていった。
ヴァッシュ・ザ・スタンピード。別名、赤い悪魔は伊達ではない。
この惑星最強のガンマンは、敵にしても味方にしても恐ろしい男であった。
「これにて一件落着、ですわね」
保安官に連行されていく男を林立した三人の後姿が見送っている。
「大事にならなくて何よりでしたね!」
にこり、と笑いあった保険屋に男は少しだけ笑んだ。
「助かったよ」
見上げたメリルの上で、眼鏡を外した目が優しく細められる。いつもは隠されている鋭い容貌と、その表情のギャップにメリルは目を奪われた。と、だんだんそれが近付いてくるような気がする。
いや、それは気の所為ではなかった。本当に近付いている。
徐々に視点が合わなくなり、息遣いが肌を嬲るほどに接近する。僅かに閉じかけた瞳。傾く顎。
この体勢は、まさか。
「え……え?あ、あの、あーえと。ヴァヴァヴァヴァッシュ、さん……ッ!?」
伏せられた長い睫。少し苦しげに寄せられた眉。通った鼻筋。熱い息遣いが首筋を撫で上げる。
「……もう、限界」
掠れた声にメリルはぺたん、と腰を落とした。動揺のあまりピコピコしているその上に重みが伸し掛かる。メリルは目の前が真っ赤に染まるのを感じた。ぎゅっと目を閉じていても近くに感じる硝煙の香りに血が上る。
「ッあ、あの!」
「……」
「私は……!」
「……」
返事は帰ってこない。おそるおそるメリルが目を開けると、なんと其処には完全に熟睡した男の寝顔があった。至極、幸せそうな顔である。暫く呆気にとられていたメリルは、その頬を引き伸ばしてみた。
ぐに。
伸びる。伸びるが、起きる気配さえも無い。
「先輩、なに遊んでるんですか?」
聞かれて、メリルは無言で男の顔を指した。しゃがんだミリィはまじまじと男の顔を凝視する。
そしてメリルに向き直り、
「完っ全に、寝てますね」
「そのようですわ」
今頃になって、ミリィスペシャルの猛威がその効果を表したようだ。
暫く二人は考え込む。
光明のように過ぎる一つの御伽噺。
「眠り姫はキスで起こすんですよね」
「相手が王子の場合はどうするんですの?」
「やっぱコレ、じゃないっすか?」
手渡されたのは、先ほど買ったばかりのバーゲン品、激安特価仕送り用炊事鍋(1980¢¢)であった。えへら、と笑んだメリルとミリィは一気に両手を振り上げる。黒光りする鍋とフライパンが太陽に照り映えた。
そして。
この惑星最強のガンマンは。
目覚めて初めて、身体にかかった本当の魔法を知る事になるのだ。
とけない、笑顔の魔法を。