そのてのひらの
ヴァッシュの故郷とも言うべきシップの中で繰り広げられた戦いの傷跡から、住民達が立ち直り始めた頃。
当のヴァッシュとウルフウッドは、寝台の上で、退屈な療養生活を余儀なくされていた。
「本当にもう大丈夫なんだって! ほらぴんぴんしてるんだから」
「あなたの口から出る言葉である限り信用できませんわね。先生がまだ、とおっしゃってるんですから」
見慣れた白いマントではなく、衛生服を身につけたメリルにぴしゃりと言われ、ヴァッシュは視線を宙にさまよわせた。
戦いの後に気を失い、次に目が覚めたときにはすでに彼女とその後輩は衛生服を着てシップの中での位置を確保していた。
本来保険屋の彼女たちが、どうしてそんなことになっているのかは知らなかったが。
「ほら、腕見せてください」
ガーゼと包帯の乗ったトレイを寝台の脇に置いて、彼に向き直るメリルの白い手をそっと握る。
「……ヴァッシュさん?」
「僕ってそんなに信用ない……?」
上目遣いに泣き落としにかける。
しかしメリルは、は、と短いため息をついた。
「……ご自分の胸に手をあててよおく考えてください」
言って、ヴァッシュの手の中から自分の手を引き抜く。
「ないの!? やっぱり!?」
「当たり前です。さ、腕見せてください」
きっぱりと答えるとメリルは、ヴァッシュに背を向けてガーゼを適当な大きさにカットし始めた。
彼女は、自分の頬に上った熱を冷ますことに必死だったので、ヴァッシュが自分のてのひらを複雑な顔で見つめていたことに気づかなかった。
どうもしばらくうとうとしていたらしい。ヴァッシュは、誰かの話し声に引きずられるように、ゆっくりと目を開けた。
「えーっ、そうですよ、私と先輩でやったんです! なんでわかったんですか牧師さん!」
カーテンの向こうから、一応いくぶんボリュームを抑えた感嘆の叫びが聞こえてくる。
「あんなお嬢ちゃん、世の中広いっつっても、あのスタンガン扱える女がどんだけいると思てんねん」
「そですね、あんまり見かけませんねえ」
あんまりどころか全然だ。ヴァッシュは心の中でそう突っ込んだが、ウルフウッドもしばらく無言だったのでおそらく同じ事を思っていたのだろう。
どうやら、保険屋さんの片割れが、やはり隣の寝台にくくりつけられているウルフウッドとおしゃべりをしているようだった。
「けど、来とったんならなんで顔も見せんかったんや? あの時トンガリ捕まえて恩売っといたら、ここ来るのも楽やったやろうに」
「あ、あのときは有給休暇だったんですよ! お仕事命じられてたのは、あくまであの……ナントカって人でしたから」
「なんや、ボランティアか?」
「はい!」
ヴァッシュは首をひねった。
……なんの話だろう。そもそも、この二人にそうまで共通する話題があるとも思えないのだが。
「仕事やないのにごくろーさんやなあ。ほっといても死にゃせんで、あの男は」
どうやらそれが自分のことらしいことに気づいて、ヴァッシュは憮然とする。
「……ひょっとして牧師さん、私たちがお仕事だからヴァッシュさん追っかけてると思ってます?」
ミリィの問いに、違うんか、とウルフウッドが問い返す。
ヴァッシュも答えを聞こうと、ちょっと体を話し声のする方へ動かしたとき、いきなりドアが開く音がして、二人があわてて口を閉じる気配がした。
「……何あわててますの?」
メリルの声だ。いすから立ち上がる音がする。
「あ、先輩! ジェシカさんのお手伝い終わったんですか?」
「ええ、終わりましたけど……2人とも、ヴァッシュさん休んでおられるようですから、静かに……」
言って、彼女がこちらのカーテンを開ける。ヴァッシュはあわてて目を閉じた。
「ミリィ、交代で食事取りましょうって。あなた先にお行きなさいな」
声をかけながら、彼女のてのひらがそっとヴァッシュの額にあてられる。 水仕事をしていたのか、その手はひんやりと湿っていた。
仕事じゃないのなら、何故。
そう尋ねたかったが、ヴァッシュは寝たフリを続けた。
ああ、思い出した。
リィナとばあちゃんと暮らしたあの村から旅立って、しばらくしてから、ベルナルデリ保険協会から派遣されてきた男が、自分を殺そうとして失敗した件の話か。
白い天井を見上げながら、ヴァッシュはあのときのことを思い出していた。
確か、自分があの男に撃たれて病院にかつぎ込まれた後、何故かあの男もひどい怪我をして入院してきたあげく、ウルフウッドによってタバスコの洗礼を受けたはずだった。
じゃああの時も、彼女たちは助けてくれたのか。
仕事でもないのに。
ヴァッシュは寝返りを打って、枕に左の頬を押しつける。
いけないな、と苦笑する。彼女たちと出会った頃ならいざ知らず……今は、状況はせっぱ詰まってきている。巻き込むわけにはいかない。
2年前にも告げたはずの言葉を、とったはずの行動を、もう一度繰り返さなければならないのか。
あのとき、あの状況で、自分の左頬を思いっきりひっぱたいたときの、メリルのすみれ色の瞳を今でも覚えている。
彼女自身の命の心配より、自分の心配をして、涙を流した彼女を覚えている。
まっすぐに、何もかも見透かすように、見上げてくる瞳の力の強さは、2年経っても変わっていなかったから。
さて、どうやって置いていこうか。
ヴァッシュは、そう考えて、あまりの難しさにめまいを覚えた。
ここなら、多分もう安全だろう。ジェシカやルイーダもいるし、仲良くやっているみたいだし。
しかし、残れと言われて残る人たちじゃない。置いていったところで、きっとまた追いかけてくるだろう。
まいてまいてまきまくるにしても限界というものがあるし、彼女たちは何度はぐれても自分を見つけているのだ。
一番簡単なのは、傷つけて切り捨てることだ。もう、自分とは二度と関わりたくないと思わせるほどに傷つけて、置いていく。
それは同時に、あの瞳を曇らせることになる。あの暖かな、小さなてのひらを、手放すことを意味する。
ヴァッシュは、枕に顔を埋めた。だめだ。そんな事は思ってはいけない。
「……わかってるさ、置いていくよ。なんと言われても、巻き込むわけにはいかないからね……」
自分自身に納得させるように口にした呟きは、柔らかな枕に吸い込まれた。
起きあがっても良くなった2日後に、またもやヴァッシュは手術台の上にくくりつけられる羽目になってしまった。
「麻酔が切れるまでは動いちゃ駄目ですわよ」
義手の手術のための局部麻酔がまだ効いているので、違和感にもぞもぞしているヴァッシュに、後片づけをしていたメリルが声をかける。
「動けるのに……」
「駄目なものは駄目です。どうしてあなたって人は、見ている人間が痛くなるような戦い方しかできないんですの?」
使わなかった包帯や洗浄に回す器具をひとまとめにして、ワゴンを廊下に出してから、メリルはヴァッシュの枕元に置いてあるいすに腰掛けた。
「あなたが誰かが傷つくのを見たくないように、あなたが傷つくことが痛い人間だっているんです。ジェシカさんの悲鳴を聞かせたかったですわよ、全く」
言いながら彼女は、持って入ってきたかごの中から、先ほど襲われたときに彼が着ていた元カッターシャツを取り上げると、縫い目の糸をほどき始めた。
「……どうするの? それ……」
「布は布ですから。雑巾にくらいなりますわよ。きっと」
単調な作業を繰り返す、メリルの手元を眺める。細い指が器用に動く。
ふと視線をあげたメリルの瞳にぶつかって、ヴァッシュは意味もなくうろたえた。
「何か?」
「え、あ、えーっと、その……助けてくれてありがとう」
唐突なセリフに、作業の手を止めてメリルが眉をひそめる。
「今日助けていただいたのは私ですけれど……」
「いや、今日じゃなくて! その、メルドレークで、君の後任の人から」
「!」
メリルが息をのむ。ややあってから、飲み込んだ息を吐き出した。
「ミリィですわね。あれほど言っておいたのに」
「あ、違う違う。僕が立ち聞き……いやねてたけど、したんだ」
あきれたように絶句して、メリルは作業に戻った。
「礼を言っていただくには及びませんわ。うちの社のものがご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「けど」
「私たちは休暇の途中で、たまたま寄っただけですから。お気になさらず」
「仕事でもないのに?」
言うと、ハサミをおいて、彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
「ボランティアですわ。誰かさんのお人好しの首突っ込みたがりやが移ったみたいで」
「……僕のこと、それは……?」
くすくす笑いながら、メリルがかごを持って立ち上がった。
「じゃ、ちょっとはずしますけど、まだ休んでいてくださいね」
ドアの向こうに華奢な背中が消えて、ヴァッシュはため息をついた。
「あれ、先輩いないんですか?」
入れ替わりに、ミリィがやってきた。片手でホールドしたお盆に、水差しとコップが乗っている。
「今出てったよ。そう遠くへは行ってないと思うけど」
「そですか。ヴァッシュさんノド渇いてるだろうから、冷ましたお茶持ってきたんですけど」
「ありがとう」
どういたしまして、と屈託なく笑いながら、ミリィが吸い口にお茶を注ぐ。渡されたお茶を一口飲んで、ヴァッシュは保険屋さん、と話しかけた。
「はい?」
「お仕事熱心なのはわかるけど……僕に関わると危ないことはわかってるだろう?」
「そりゃーもう。毎日ドキドキはらはらですねえ」
のんきに答えるミリィに、ヴァッシュはかっくりと肩の力を落とした。
「だったらさ、もうやめちゃって帰らない?」
ミリィがお茶を注いでいた手を止める。しばらくヴァッシュの顔をじっと見つめて、それからにぱ、と笑って見せた。
「ヴァッシュさん、わかってないですね」
「……何を?」
「先輩は、あ、もちろん私も、このお仕事を選んだんです。断ることだって出来たんですけど、でも選んだんです。危ないことくらい知ってます」
やっぱり普通の説得じゃ無理だよ、とヴァッシュはため息をついた。
「足手まといですか?」
核心をつかれて、ヴァッシュは絶句したまま、ミリィの目を見返した。
「そりゃ、ヴァッシュさんや牧師さんに比べたら、私らなんてへのカッパですけど、でもこうやってお手伝いするくらいなら出来ますよ?」
「……わかってるよ。何度も助けてもらってるのも……ちゃんと、知ってる」
けれど、それでも。
今回はこのシップがねらわれた。次に、そのねらいが彼女たちではないと言う保証がどこにあるか。
もう巻き込めない。自分のせいで、誰かが傷つくところなんて見たくない。
これ以上、増やしちゃいけない。
「あら、ミリィ、こっちにいたんですの?」
声に顔を上げると、首を傾げるようにして、メリルが入り口の所に立っていた。
「あ、先輩、聞いてくださいよう! ヴァッシュさんったらまた帰れって言うんですよお!」
あちゃ、とヴァッシュは動く右手で額を押さえた。百倍くらいになって怒りの反論が返ってくるに違いない。
しかし、予想に反して、メリルは表情も変えずに口を開いた。
「ま、ヴァッシュさんならそんなところでしょうね」
「……それだけ?」
「何か他に言って欲しいんですの?」
シンプルな答えに、ヴァッシュは口の中でもごもごと、いや別に、と呟いた。
「どうせ平行線ですから、この話はおしまいにしましょう。ミリィ、夕飯の支度手伝いに行きますわよ」
「はーい!」
ミリィが扉をくぐるのを待ってかかとを巡らしかけたメリルが、立ち止まって振り返る。
「ヴァッシュさん」
「はいっなんでしょう!?」
時間差で反論が来るのかと身構えたヴァッシュに、メリルはふっと頬の力を緩めた。
微笑み、と言うほど力のあるものでなく。
「……ちゃんと、休んでて下さいね」
イナクナラナイデクダサイネ。
そう聞こえた気がして、ヴァッシュは、返事をすることが出来なかった。
けれど、それでも。置いていくことしか出来なくて。
きっと怒るだろう。追いかけて来るんだろう。
傷つけたくないだけなのに、ただそれだけなのに。
「どないしたんや?」
シップを夜更けに抜け出して、砂漠を横切りながら、すでに砂嵐の中にある故郷を振り返ったヴァッシュに、ウルフウッドが声をかける。
「うん……そろそろ気づいた頃かなと思って。みんな」
「どうせ追いかけてくるんとちゃうんか?」
ヴァッシュは答えなかった。
「選ばなならん時が、きっと来るで」
「わかってるよ」
この風なら、砂に刻まれた足跡も、きっと消えてしまうだろう。
それでいい。追いかけてこないでくれ。見つけないでくれ。
たとえあのてのひらのぬくもりを、失うことになっても。
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