幼い頃良く見た夢を、久しぶりに見た。
部屋は真っ赤に塗り潰されていた。子供の頃は、その赤が何であるのかわからなかった。
今は知っている。これは血だ。部屋に淀む生臭く据えた臭いは血臭だ。
父と母の血なのだろう、と思う。たぶんこれは、私が自分の中の力に押し流されて、父と母を殺めてしまった、その直後の光景だ。
だとしたら、あの背中は。
背の高い男の影だった。見えているのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
きっとあれは義父なのだ。やはり私は義父との出会いの光景を、こうして何度も夢に見ているのだろう。
やがて影は振り向くだろう。振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えない。それなのに、視線が合ったということだけはわかる。そして私は手を伸ばし、あの人の手も伸びて、ふたつの手は重なるのだ。
だが、振り向いたのは義父ではなかった。視線の先で、蛇のような金色の目がすうと細められ、口元が歪む。禍々しい笑いの形に。
逃げなければ、と思った。だが、体は動かない。声も出ない。
それなのに、手だけは動いた。私の手が伸び、蛇の目を持つ男の手も伸びた。
二つの手は、夢の通りに重なった。
「残念ながら、今は貴女を連れては行けないのですよ」
男の口調は優しい。口調だけが優しい。
「貴女は蒔いたばかりの種のようなものです。拾い上げて持ち去ってしまうのは簡単ですが、それではすぐに腐ってしまう。せめて芽を出すまで待たなければ、連れて行けないのですよ」
だから、時が満ちるのを待ってください。男は優しい声音でそう囁いた。
「いずれ私は、貴女を迎えに行きますよ。十年は掛からないでしょう。おそらく七、八年後でしょうね。その頃には他の八傑集も揃うでしょうし、貴女の力も充分に満ちるでしょう。だから、その日まで――」
男のもう片方の手が、私の額にそっと載せられる。
「眠りなさい。愛し子。私の娘よ」
「思い出しましたか、私のことを」
耳元で囁かれても、悲鳴も上げられなかった。
囁いたのは、夢の中の――ずっと義父のものだと思っていた、あの背中の正体だ。
吹き荒ぶ風のゲーニッツ。八年前、私の中の忌まわしい力を目覚めさせた男。そして昨年の夏、私が殺した私の同族。
よりにもよって、私はこの男の背中を義父のものと信じていたのか。
「自分の思い違いを責めてはいけませんよ」
ゲーニッツが口にしたのは、そんな私の心を読んだと言わんばかりの台詞だった。
「あの時、貴女はひどく混乱していたし、人というのはえてして過去を自分の都合のいいように記憶したがるものです。でも、これで思い出したでしょう? 貴女の手を取ったのは、この私です」
「そうよ、この人があなたが殺した、わたしたちのパパ」
その声は、あの赤毛の少女のものだ。少女はゲーニッツの懐に収まるように体を預け、機嫌よく笑っている。
その時、私は初めて少女の顔を見た。
それは私だった。髪の色だけを違えた私だ。すっかり背が伸びて大人びた少女は、私と同じ顔で笑っていた。
「そんな……あなたがパパだなんて……馬鹿なことを……」
「神の御前に人は皆、兄弟であり姉妹であり、親であり子ですよ。皆、神の創りたもうたものですから。とは言っても、貴女と私の間には、それ以上のものがありますが」
私が殺した男は、禍々しくも穏やかに笑って、腕の中の少女の赤い髪を撫でる。
「そう、私は確かにある意味で貴女たちの父親ですよ。貴女には三人の父親がいるんです。貴女に一族の血を伝えたガイデル。戦う術を教えたハイデルン。そして貴女の真なる魂の目覚めを促したこの私です。生みの親と育ての親、それから魂の親とでも言いましょうか。だから、私はずっと貴女と会えるのを楽しみにしていたんですよ。大切な娘ですからね」
ゲーニッツに髪を撫ぜられ、もう一人の私は猫のように目を細めている。
二人は似ている。髪の色も顔立ちも似ていないのに、笑う二人は本当の親子のように似通っていた。あれは闇の娘だ。ゲーニッツという闇の父によって生を受け、ずっと私の中で育っていた闇の娘だ。
それなのに、とゲーニッツは天を仰ぐ。
「貴女と来たら、私を殺してしまって。いえ、それ自体は、私にとっては大したことではないんですよ。貴女に殺されたのは所詮肉の器に過ぎず、魂はこうして在る訳ですから。転生に相応しい次の器に移ればいいだけのことですよ。私にとってはね――」
それはまるで、邪気のない子供の失敗を慰めるような口調だった。本当に、言葉だけを聞いていればこの男は神に仕える者以外の何者でもない。
ただ、その神が私には受け容れ難い存在というだけだ。あのの底冷えする金色の蛇目と同じように。
その目に射られて、思わず下がろうとしたときだった。
「――ですが、この子にとってはどうでしょうね」
赤い、風だった。
彼女が私自身であるという認識が私を油断させていた。まさか自分自身に攻撃されるとは思っていなかった私を、認識の甘さと一緒に刃の一条が容易く切り裂いた。
「嫌いよ」
口から血の塊が溢れる。胸にはもう一人の私の手刀が突き刺さっている。肺に達したらしい。致命傷だ。
夢で死んだらどうなるのだろう。みるみる目の前が暗くなる。
時間がない。私は忙しく思考を巡らせる。
「パパのことを忘れていたあなたなんか嫌い。パパを殺したあなたなんか嫌い。パパのくれた魂を押し殺して、わたしをあなたの中に封じ込めているあなたなんか嫌い。だからあなたなんて、ここで死んじゃえばいいのよ……!」
夢だ。ただの夢だ。夢なら、目を覚ませば終わる。だとしたら、夢で死ぬ前に目を覚ませばいいのだろうか。私はもう一人の私の罵倒を聞きながら、目覚めを強く念じる。
視界が暗くなるのは、死が近いからか。それとも目覚めが近いのか。夢の終わりはいつも暗い。現実こそが闇の中だと言うかのように。
だが、どうやら今回は逃げ切れるらしい。それを教えたのは、牧師の言葉だった。
「ハハッ、現実に逃げますか。貴女を取り囲む逃れようのない現実に。父を殺し、魂の父たる私を殺し、父という名の愛人の命令で誰かの父を殺し続ける現実に!」
少女が狂ったように笑い出す。甲高い笑い声に、ゲーニッツの声が重なる。その声は、まるで笑い声に合わせて歌うようだ。
「構いませんよ。私たちと同じ血と力を受け継ぐとはいえ、貴女も人の子の器に収まった以上、いくら逃げようと眠らぬわけには行きませんからね。待っていますよ、貴女の眠りを。貴女が眠り、また夢を見るのを。そしていつか、貴女はこの子に殺されてこの夢の中で眠り続け、代わりにこの子が目を覚ますのです」
暗転する世界の中、声はいつまでも頭の中に響き続ける。
「待っていますよ。貴女が私の胸の中で、血に塗れて眠りにつくその日を」
夢の中で私の鼓動が止まるのと、夢が終わるのはほとんど同時だった。
赤い部屋の窓から、一羽で飛ぶ鳥が見えたような気がした。
目を覚ますと、額にあの手があった。
「うなされていた」
そう囁く義父の手には、本も書類の束もない。ベッドの横に引き寄せられた椅子もない。「夢を、見ていました」
どんな夢を見ていたのか、それは良く覚えていない。良い夢ではなかったのは確かだ。そんな夢は見たことがない。見るのはいつも悪夢だ。
だが、今夜の夢は何かが異質だった。悪夢であることは間違いない。しかし、ただの悪夢なら目を覚ませばそれで消える。今夜のそれはそんな儚いものではなかった。最近良く見る、魂を捉えて深淵に引きずり込むような重さを持った夢だ。それなのに、どんな夢だったかは思い出せない。
「…………っ」
無理に思い出そうとすると頭が痛む。鈍い頭痛に顔を顰めた私を、義父はそっと抱き寄せる。
寝室の冷えた夜気よりも、義父の腕は更に冷たい。冷たいが、それは安らかな冷たさだ。
「夜明けまでまだある。もう少し眠りなさい」
「……はい」
髪を撫ぜられ、裸の胸に顔を擦り寄せて、私は小さく息を吐く。
義父の胸は厚い。義父の放つ気配はよく鋭い刃物に喩えられるが、体そのものは決して細くない。闘争のための筋肉をみっしりと詰めて無駄のない、厚く重い体だ。
その胸の中で、私は再び目を閉じた。夢のない眠りを願いながら。
++++++++++++++++++++++++
夢を見る。鳥が飛ぶ夢を。空はもう暗く、太陽は光の残滓を赤く残すだけだ。
近頃の夢はいつも息苦しい。血の臭いが濃すぎて息が詰まる。風は吹いているが、それはちっとも空気を澄まさない。逆に血の臭いを運んでくる。重たい風だ。こんな重たい風では、鳥が羽ばたくのも辛いだろう。
風は血の臭いだけではなくもうひとつ、声も運んでくる。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
見えるのは赤く塗りつぶされた景色、聞こえるのは悲鳴ばかりで、私は目も耳も塞いでしゃがみ込みたくなる。
けれど耳を塞ぐことは出来ない。それが私に向けられた言葉だとわかっているから。
声のない悲鳴の気配もした。ひゅうひゅうと潰れた喉を鳴らしながら、それでも何かを叫ぼうと口だけを動かしている、そのもどかしさの気配。それを庇う声。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
子供の声だ。まだ幼い声。
ああ、この声はよく知っている。何度も夢で聞いた声。赤毛の少女の声だ。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
「それはパパよ、わたしたちのパパよ。お願い、パパを殺さないで!」
パパ。それは誰のことだったか。
幼い頃抱き上げてくれたひと。
私の血の宿命を思い出させ、ふたつめの命を花開かせた蛇目の男。
熱を出す度に額に触れてくれた、冷たい手の持ち主。
断末魔が聞こえる。それが父のものだったのか、あの牧師のものか、隻眼の義父のものか、それすらもわからない。もしかしたら砲弾が空気を切り裂く音だったのか、それとも上官の絶叫だったのか。
気が付いた時には上官に抱きかかえられるように庇われて、地面に伏せた体で着弾の衝撃を感じていた。
写真が伏せられている。
いつもハイデルンの机に置かれていた写真だ。木枠にガラスをはめただけのシンプルな写真立ての中で、かつて彼が愛して喪った妻と娘が笑っている。
特にそのつもりで眺めたことはなかったが、それでもラルフはその笑顔を良く覚えている。笑顔だけでなく、彼女たちの着ているブラウスの柄からスカートの色、後ろに写った花の様子まで、何もかも覚えてしまった。それぐらい長い間、その写真はハイデルンの机に置かれていた。それが伏せられている。
写真ひとつでこうも変わるものか、と思った。
上官の部屋というものはそれでなくても居心地の悪いものだ。中にはラルフ自身のような例外もいるが、部下と自室で茶を傍らに談笑できるような上官などそうそういない。大抵の場合、上官の部屋で交わされるのは胃が引き絞られるような話題ばかりだ。
その上、この部屋の場合は主が主である。季節に喩えるなら、百人が百人「厳冬」と答える男。ハイデルンが放つ凍てついた冬のような気配も加わって、この部屋の居心地はひどく悪い。
この写真は、その冬の寒さを緩める唯一の存在だった。完璧で絶対無比の人間に見られがちなハイデルンの、弱さ脆さを感じさせる一葉。
それが伏せられた今、部屋は凍りついた湖のような緊張感ばかりで満ちている。ほんの少し踏む場所を間違えたら何もかもが割れて砕けてしまうような、薄い氷で閉ざされた湖のような。
ラルフですら、そう思った。
「今回の作戦失敗に伴う処分に関してお教えいただきたいのですが……」
「作戦失敗?」
ハイデルンの隻眼が、いぶかしむように細められる。
「確かにアクシデントはあった。しかし、作戦の目的自体は遂行されたはずだが……?」
「いえ、それは結果論であって、実質的には生存者をみすみす死なせてしまうというミスを犯しました。これはプロにあるまじき行為です」
「厳しいのだな」
非戦闘員の生存者があれば全員保護、救出すること。それは確かにこの作戦の目標のひとつだったが、全てではない。作戦のメインの目標は完璧に達成され、味方側の被害は些少。サブの目的である生存者の保護もほとんど完璧に成し遂げた。処分を求める必要のある状況ではない。
しかも、だ。
「だが、お前たちの言う生存者の遺体は、未だ確認されていない。我々の調査を持ってしてもだ。生存者の存在そのものが疑わしい」
戦闘を避けて隠れている生存者はいないか、負傷して救出を待っている生存者はいないか、その後調査は丹念に行われたが、それらしい遺体を発見することはできなかった。他の生存者にも話を聞いたが、それらしい人物がいたという話もない。生死を問う以前に、存在自体が疑わしいのだ。
「生存者を確認したのは一人だけなのだろう?」
「はい、レオナだけです。レオナが倒れている子供を発見した、と」
「あれに見えて、お前たちに見えないとは考えにくい」
「自分の娘の目を信じられないと?」
「お前たちの戦場経験の方が信用できる――幻覚という可能性も考えられる」
まさかそんな、とはラルフには言えなかった。
心当たりはある。先日の、レオナが機関銃の前に飛び出した一件だ。
普通なら若気の至りの一言で終わる話だ。功を焦る年頃には、程度の差はあれど一度や二度はそういうことがある。最初はラルフもそういうものだと思っていた。しかもその道の師としては天上の存在である義父に恋をした少女だ。自分を認めさせたいという焦りがあったとしても無理はない。
だが、あれから何かがおかしい。何かが狂った。それが何なのかわからないまま、違和感だけを感じていたところで今回のこれだ。
精神を病んだのかもしれない。戦場では精神を病む者も少なくはないのだ。だとしたら、幻覚ぐらい有り得る。
だが、違う。ラルフはレオナのそれを、そういうものではないと思っている。
「あれには相応の診察と治療を受けさせるべきかも知れん」
だからハイデルンがそう言った時、ラルフは露骨に顔をしかめた。
「治療、ですか」
「不服か」
ラルフはそれを否定しない。
「並の治療で治るものとは思えないんですがね」
「何が言いたい」
凍てついた部屋の中、ふたつの視線が交差する。
短い沈黙を先に破ったのはラルフの方だった。
「あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです」
「それならば――必要だと言うのなら、私が戦いの場所に連れて行く」
「ええ、確かにあなたが命じれば、あいつはどんな戦場にでも行くでしょうよ」
「何が言いたい?」
「でも今のあなたじゃ、あいつを戦場に連れて行くことは出来ても、戦わせることは出来ないって言ってるんですよ」
今度こそ、ラルフの言葉はハイデルンの胸に爪を立てた。引っかかるなどという生易しいものではない。その爪は肉を裂く力に満ちていた。
「あいつが生きるためにあいつを戦わせることは、今のあんたには出来やしねえ! あんたはあいつと生きていこうとしてるんじゃねえ! あんたはあいつと一緒に死んでやろうとしているだけじゃねえか!」
ハイデルンは答えない。否定しない。
「否定出来ねえだろ!? 出来ねえからその写真を伏せてるんだろう!?」
伏せられた写真を見て、ラルフは気付いたのだ。この親子が互いを思い合うあまり、どうしようもないところまで迷い込んでしまったことに。
レオナは迷って己を失った。ハイデルンもまた、同様に。
だから写真は伏せられる。写真の中、彼がかつて愛した彼女らは何も言わない。ただ優しく微笑み続けるだけだ。だが、百の言葉よりも、その沈黙の方が重いこともある。それに耐えられず、ハイデルンは写真を伏せた。
だから物言わぬ死者の代わりにラルフは叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「あんたはそれでもいいかも知れねえ。その写真の中の二人を喪った時、その復讐が終わった時、あんたの人生は一度終わっちまったようなもんなんだから、それでもいいのかもしれねえ。でも、でもあいつはまだじゃねえのか? 自分の親を殺してそれで終わりの人生じゃあんまりじゃねえのか……っ!?」
一度にそこまで吐き切って、ラルフは肩で息をした。
「……あんたら、少し離れた方がいい」
怒声の激しさで、少し声が掠れて来ている。
「あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く。だから今だけは、少し手を離した方がいい。あいつは飛べる鳥だ。その手を離して飛ばせてやってくれ」
最後の言葉は、忠告と言うより懇願に近かったかもしれない。
「……言いたいことは、それだけか」
長い沈黙を破ってハイデルンがそう言った時、ラルフはやっと、自分がそんなにも激しく上官に食って掛かっていたということに気が付いた。ハイデルンを「あんた」と呼ばわりしたのなど何年ぶりだろう。それに自分が気付いていなかったことにも驚いた。
叱責されるかな、と思った。
しかし、ハイデルンの声は不思議なほど穏やかだった。
「それで、おまえは何を望む?」
お前の好きなようにしてみろ、と言われていることにラルフ気付くまで、少しかかった。
「作戦の失敗の責任を取るということで、しばらくの間、実働部隊から外していただけないかと……」
「謹慎するという事か」
「その様にとっていただいて構いません」
「いいだろう。だが、一つ条件がある。謹慎はチーム全体という事にしろ。「レオナ」とクラークを含めての三人だ。そうするのならば許可しよう」
はっとして顔を上げたラルフに、ハイデルンは無言で頷いた。
写真は伏せられている。だが、部屋はもう凍てつくだけではなかった。
それはラルフが持ち込んだ炎のせいもあったが、それだけではなかった。
「生意気な事を……おまえごときの考えが、私にわからないとでも思っているのか?」
苦笑こそなかったが、ハイデルンは一人になった部屋でささやかな皮肉をこぼした。
ハイデルンは机の引き出しを開ける。引き出しから摘み上げた白い封筒には、一枚のカードが収められていた。毎年届くカードの内容は、これも毎年似たようなもので、ハイデルンはその内容をすっかり覚えてしまった。
「キング・オブ・ファイターズ、か」
やはり、と思う。
格闘の試合であるKOFなら、生命に関わる危険からは比較的遠い。それに、一人の失敗が味方の小隊を丸ごと死に追いやるような戦場とは違う。足を引っ張ったとしても、被害を蒙るのはチームメイトの2人だけだ。リハビリとしてはこの上ない環境だ。
しかしそれは、かつて彼自身の復讐の幕を下ろし、昨年は義娘の宿命に関わる対決を運んできた大会でもある。おそらくは今年も、単なる格闘大会では済まないだろう。
ハイデルンが招待状を引き出しにしまいこんだのは、それが理由だ。軍人として磨き抜いてきた勘が、義娘をそこに行かせてはならないと言っていた。
しかし、
『あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです』
まるで炎のようだったラルフの言葉が、まだ耳の底に響いている。
戦うことでしか、前に進めないのなら。戦うしかないのなら。
『あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く』
「ラルフ」
ハイデルンは閉ざされた扉越しに、部屋を去った部下へと呼びかける。その目は、祈る者のそれに似ていた。
「……頼む」
そうして、97年のKOFの幕は上がる。
++++++++++++++++++++
夢を見る。
空はもう暗い。あの鳥がまだ飛んでいるのかどうかも解らない。
隣にはあの少女がいる。赤い髪をしたもう一人の私が。けれど、もう私達は手を繋いではいない。
「パパを殺したあなたなんか死んじゃえばいい! パパを殺した世界なんか壊れちゃえばいい! あなたなんか……あなたなんかっ!」
赤い突風のように、赤毛の私が私の懐に飛び込んでくる。首筋を狙う手刀は避けられたが、体の軸が崩れた。あっという間に地面に倒されて、首を絞められる。
返せない。どうやっても剥がれない。剥がされない方法を、私も彼女も知っている。
八年だ。八年学んだ。戦う術、人を殺す術を。義父が私に与えた八年は、彼女の上にも等しく積もっていた。
息が詰まる。酸素が足りない。思考が鈍る。圧迫された血管が目の奥で切れたのだろうか。視界が赤く染まる。いや、赤くて暗い。
意識が、闇に、落ちる。
「……オナ、レオナ……どうしたレオナ?」
呼びかけられて気が付くと、目の前が赤かった。
トマトジュースのグラスを手にしたまま物思いに耽ってしまった、と状況を理解するのが早かったのは幸いだ。野菜のジュースは好きだけれど、どろりとした赤色は時々別のものを私に連想させる。それが飲みかけのジュースだと気付くのがもう少し遅かったら、私は心配してこちらを覗き込んでいた上官に、悲鳴を上げてグラスの中身を浴びせかけていたに違いない。
「ちょっと考え事をしていただけよ」
「体調は? 睡眠は良く取れてるか? 食欲は――あるとは言えねえみてえだが」
朝食の席だ。まだ皿には全く手を付けていない。
「体調は変わらないわ。睡眠は少し浅いけれど問題なし。食欲は……これから食べるわ」
「しっかりしろよ。食うのも仕事のうちだぞ」
「ええ、わかってる」
目の前に並べた朝食の皿は少ない。食欲があまりないせいもあるが、意識して少なくしている。今日はこの後試合だ。満腹では体が重いしカンが鈍る。戦う時には少し飢えているぐらいがいい。
パンを齧り、機械的にサラダを咀嚼し嚥下し、ジュースとミルクのグラスを空にする。ささやかな朝食はすぐに片付いた。それを見て上官が言う。
「食い終わったなら少し部屋で休んで来い。不眠が続いてるんだろ? 目の下、クマになってるぜ」
「そうね……少しそうさせてもらうわ」
「じゃあ10時に例の場所で」
「了解」
ラルフの気遣いに感謝して、私は席を立った。真っ直ぐ部屋に戻る。KOFの主催者側が用意したホテルの部屋だ。窓からは決勝戦の会場が見える。
皺になりそうな制服とシャツを脱ぎ、ベッドの上に横たわる。眠ろうとは思わなかったが、軽く目を閉じた。
眠りたいとは思わない。眠りは相変わらず浅く、起きた時には覚えていないような夢ばかり見て、かえって寝る前よりも疲れているぐらいだ。前線近くで野営する時でさえ、もう少し良く眠れる。寝ないで済むのなら眠りたくない。
だが、やはり疲労が溜まっているのだろう。とろとろと押し寄せる睡魔は耐え難く、私はまた夢を見た。
ブラックアウトしていた意識が戻る。赤毛の私はまだ私の首を絞め続けている。
頚椎を折られるのを覚悟で、私は首を締め上げる腕から自分の手を離した。間髪いれず、赤毛の私の目を狙って指を突き出す。
「ッ!!」
少女が一瞬ひるんだ隙に、私は身を捩って彼女の手から抜け出した。飛び退るほどの余力はなく、そのまま地面を転がって距離をとった。痛む喉を押さえ、咳き込みながら立ち上がる。
焦りすぎだった。まだ酸素が足りていない。立ち上がった瞬間に目の前が暗くなった。まずい、と思ったがもう遅い。意識が飛ぶ。
「……レオナ……おいレオナ!」
はっとして呼ぶ声の方を見る。またぼうっとしてしまったらしい。
「準決勝なんだから、もうちょっと着合い入れとけ。ぼさっとするにも程があるぞ」
大将として3番手に立ったラルフが苦笑していた。目の前のリングでは先鋒のクラークが相手の2番手と戦っている。少し分が悪そうだ。2番手を抜くことは難しいだろう。
「あれはお前が倒せよ。向こうの大将一人相手にするなら、俺の負けはねえからな。お前が2番手きっちり倒せばそれで充分だ」
「了解」
タイムアップのコールが響いた。判定負けにクラークが肩を竦めている。一方、向こうにはだいぶ余力がありそうだ。油断はできない。続いて私の名前がコールされる。雌獅子の意味を持つその名前が、なぜか今日は他人のもののように聞こえる。
「それじゃ、行くわ」
「おう、無理するなよ。午後の決勝に備えて力を温存しとけ」
「了解……任務、遂行します」
そうだ、任務を。私の役目を、望まれたつとめを果たさないと。
動けない駒になってしまえばそれまでだ。ただの駒でさえ盤上を追われる――父親の血で穢れた駒なら、尚更。
私はまた、夢を見る。2番手は予定通りに倒したが、敵の大将を相手に少し欲が出た。無理に突っ込んでカウンターをもらったのだ。それがいい所に当たってしまったらしい。軽く意識が飛んだところで、夢に落ちた。
もう目を覚ましている合間に夢を見ているのか、夢の合間に目を覚ましているのか分からない。ほんの一瞬の空白に夢が入り込んでくる。
その度に夢の中で死にかけ、寸でで目を覚まして、そしてまた夢を見る。これではいけない。こんなことをいつまでも繰り返していても、いつかこちらが動けなくなるだけだ。それこそこの二人の思う壺だ。
戦わなければ。そう身構える私に、ゲーニッツが笑いかけ、問いかける。
「なぜそんなに、向こう側に拘るんです? そんなに人として生きたいんですか?」
私は答えない。答える必要もない。
「人の戒律。人の倫理。貴女はずっと、そういうものに縛られてきた。そういうものに絶えず断罪され、苦しめられてきた。なぜそんなところに戻りたがるのです?」
答えることは、できない。
その通りだからだ。親殺し、同族殺しの十字架は決して軽くはない。生き続ける限り、その重さに私は喘ぎ続ける。
「私達の神は、貴女に罪など認めませんよ。もちろん神の僕たる私も、そして貴女の本当の仲間である私達の一族も。在るがままの貴女を受け容れます。そんな十字架を背負う必要はないんですよ」
私は答えない。答えられずに、もう一人の自分にただ手刀を向ける。
彼女も構えた。同時に地を蹴る。
互いに斬りつけては跳ぶように離れ、再び互いの懐に飛び込んでは斬りあう。避けきれずに傷付いた肌からは血が溢れ、風に混じる濃い血臭を更に鮮やかにする。
「それでも貴女は、向こうに戻りたいのですか? いつか親殺しの鬼子と忌み嫌われ、追われることを恐れながら暮らす世界に?」
答えられない。答えることはできない。答えられないまま、胸を刺された。
いつかと同じだ。喉の奥から熱いものがせりあがってきて、咳と共に吐き出したそれは血の塊だった。肺に達している。致命傷だ。いつかより、深い。
だが、胸に刺さる手刀を、私はそのまましっかりと捕まえた。この距離ならこちらも外さない。この距離から逃がさない。刺し違えるつもりで手刀を振り上げた、その時だった。
「『貴方のために何でもするから』。そう請い願うことでしか生きられない世界でしょう?」
振り上げた手が止まる。
蛇眼の牧師の言葉はその手と同じように冷たいが、どこまでも穏やかだ。穏やかに私を追い詰める。
「『あなたが望むように何でもするから、あなたの役に立つようにしているから、だから私を嫌わないで』。そう震えて怯えて媚び続けて、永遠に贖罪を続けるだけの世界でしょう?血が嫌いな貴女なのに教えられるままに暗殺術など覚えたのも、戦場で血を流し続けるのも、何もかもが贖罪のつもりでいるのでしょう?そうしてすらなお、貴女を拒むかもしれない世界に、それでも貴女は戻りたいのですか?」
答えられない。否定できない。
見る間に足が力を失っていく。膝が笑った。すぐに立っていることも出来なくなって、
私は崩れるように倒れ込む。
それを、冷たい手が支えた。優しく抱くように支えられても、私はもうその手を振り払うことも出来なかった。
何か言おうにも、もう唇にすら力が入らなくて震えている。息をする度に胸が熱く、口からは血の泡ばかりが漏れる。
「疲れているのでしょう、あちらの世界で無理をし続けて」
髪を撫でられる感触があった。それから冷たい手が、額に落ちる。
「眠りなさい。後のことはあの子がちゃんとやってくれますよ……だから貴女は眠って、休みなさい」
嫌だ、と言うことも、首を振ることも出来なかった。
私に出来たことはただ、私の代わりに目を覚まそうとする赤い髪のわたしを見送ることだけだった。
「Hallo……Hello World」
そう言ったつもりだが、他人には唸り声にしか聞こえないだろう。
コンピュータープログラムの教科書の、最初の1ページの定番のセンテンス。こんにちわ、素晴らしいプログラムの世界へようこそ。
だが、わたしの目に映る世界はただ騒々しく、雑多で汚らわしくて、息苦しかった。
わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。
汚らわしい。
「レオナ……レオナっ、おいレオナ!?」
上官と呼んでいた男の声が聞こえる。だが、それに答えるつもりはなかった。
「Hallo World。そして、さようなら」
低い唸り声で、わたしは憎むべき世界に別れを告げる。
「……パパを……パパを殺した世界なんて! パパを殺したわたしを拒む世界なんて、みんなみんな滅びてしまえばいい……っ!」
絶叫は咆哮となって喉から溢れ、わたしという形をした赤い獣は地を蹴った。
部屋は真っ赤に塗り潰されていた。子供の頃は、その赤が何であるのかわからなかった。
今は知っている。これは血だ。部屋に淀む生臭く据えた臭いは血臭だ。
父と母の血なのだろう、と思う。たぶんこれは、私が自分の中の力に押し流されて、父と母を殺めてしまった、その直後の光景だ。
だとしたら、あの背中は。
背の高い男の影だった。見えているのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
きっとあれは義父なのだ。やはり私は義父との出会いの光景を、こうして何度も夢に見ているのだろう。
やがて影は振り向くだろう。振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えない。それなのに、視線が合ったということだけはわかる。そして私は手を伸ばし、あの人の手も伸びて、ふたつの手は重なるのだ。
だが、振り向いたのは義父ではなかった。視線の先で、蛇のような金色の目がすうと細められ、口元が歪む。禍々しい笑いの形に。
逃げなければ、と思った。だが、体は動かない。声も出ない。
それなのに、手だけは動いた。私の手が伸び、蛇の目を持つ男の手も伸びた。
二つの手は、夢の通りに重なった。
「残念ながら、今は貴女を連れては行けないのですよ」
男の口調は優しい。口調だけが優しい。
「貴女は蒔いたばかりの種のようなものです。拾い上げて持ち去ってしまうのは簡単ですが、それではすぐに腐ってしまう。せめて芽を出すまで待たなければ、連れて行けないのですよ」
だから、時が満ちるのを待ってください。男は優しい声音でそう囁いた。
「いずれ私は、貴女を迎えに行きますよ。十年は掛からないでしょう。おそらく七、八年後でしょうね。その頃には他の八傑集も揃うでしょうし、貴女の力も充分に満ちるでしょう。だから、その日まで――」
男のもう片方の手が、私の額にそっと載せられる。
「眠りなさい。愛し子。私の娘よ」
「思い出しましたか、私のことを」
耳元で囁かれても、悲鳴も上げられなかった。
囁いたのは、夢の中の――ずっと義父のものだと思っていた、あの背中の正体だ。
吹き荒ぶ風のゲーニッツ。八年前、私の中の忌まわしい力を目覚めさせた男。そして昨年の夏、私が殺した私の同族。
よりにもよって、私はこの男の背中を義父のものと信じていたのか。
「自分の思い違いを責めてはいけませんよ」
ゲーニッツが口にしたのは、そんな私の心を読んだと言わんばかりの台詞だった。
「あの時、貴女はひどく混乱していたし、人というのはえてして過去を自分の都合のいいように記憶したがるものです。でも、これで思い出したでしょう? 貴女の手を取ったのは、この私です」
「そうよ、この人があなたが殺した、わたしたちのパパ」
その声は、あの赤毛の少女のものだ。少女はゲーニッツの懐に収まるように体を預け、機嫌よく笑っている。
その時、私は初めて少女の顔を見た。
それは私だった。髪の色だけを違えた私だ。すっかり背が伸びて大人びた少女は、私と同じ顔で笑っていた。
「そんな……あなたがパパだなんて……馬鹿なことを……」
「神の御前に人は皆、兄弟であり姉妹であり、親であり子ですよ。皆、神の創りたもうたものですから。とは言っても、貴女と私の間には、それ以上のものがありますが」
私が殺した男は、禍々しくも穏やかに笑って、腕の中の少女の赤い髪を撫でる。
「そう、私は確かにある意味で貴女たちの父親ですよ。貴女には三人の父親がいるんです。貴女に一族の血を伝えたガイデル。戦う術を教えたハイデルン。そして貴女の真なる魂の目覚めを促したこの私です。生みの親と育ての親、それから魂の親とでも言いましょうか。だから、私はずっと貴女と会えるのを楽しみにしていたんですよ。大切な娘ですからね」
ゲーニッツに髪を撫ぜられ、もう一人の私は猫のように目を細めている。
二人は似ている。髪の色も顔立ちも似ていないのに、笑う二人は本当の親子のように似通っていた。あれは闇の娘だ。ゲーニッツという闇の父によって生を受け、ずっと私の中で育っていた闇の娘だ。
それなのに、とゲーニッツは天を仰ぐ。
「貴女と来たら、私を殺してしまって。いえ、それ自体は、私にとっては大したことではないんですよ。貴女に殺されたのは所詮肉の器に過ぎず、魂はこうして在る訳ですから。転生に相応しい次の器に移ればいいだけのことですよ。私にとってはね――」
それはまるで、邪気のない子供の失敗を慰めるような口調だった。本当に、言葉だけを聞いていればこの男は神に仕える者以外の何者でもない。
ただ、その神が私には受け容れ難い存在というだけだ。あのの底冷えする金色の蛇目と同じように。
その目に射られて、思わず下がろうとしたときだった。
「――ですが、この子にとってはどうでしょうね」
赤い、風だった。
彼女が私自身であるという認識が私を油断させていた。まさか自分自身に攻撃されるとは思っていなかった私を、認識の甘さと一緒に刃の一条が容易く切り裂いた。
「嫌いよ」
口から血の塊が溢れる。胸にはもう一人の私の手刀が突き刺さっている。肺に達したらしい。致命傷だ。
夢で死んだらどうなるのだろう。みるみる目の前が暗くなる。
時間がない。私は忙しく思考を巡らせる。
「パパのことを忘れていたあなたなんか嫌い。パパを殺したあなたなんか嫌い。パパのくれた魂を押し殺して、わたしをあなたの中に封じ込めているあなたなんか嫌い。だからあなたなんて、ここで死んじゃえばいいのよ……!」
夢だ。ただの夢だ。夢なら、目を覚ませば終わる。だとしたら、夢で死ぬ前に目を覚ませばいいのだろうか。私はもう一人の私の罵倒を聞きながら、目覚めを強く念じる。
視界が暗くなるのは、死が近いからか。それとも目覚めが近いのか。夢の終わりはいつも暗い。現実こそが闇の中だと言うかのように。
だが、どうやら今回は逃げ切れるらしい。それを教えたのは、牧師の言葉だった。
「ハハッ、現実に逃げますか。貴女を取り囲む逃れようのない現実に。父を殺し、魂の父たる私を殺し、父という名の愛人の命令で誰かの父を殺し続ける現実に!」
少女が狂ったように笑い出す。甲高い笑い声に、ゲーニッツの声が重なる。その声は、まるで笑い声に合わせて歌うようだ。
「構いませんよ。私たちと同じ血と力を受け継ぐとはいえ、貴女も人の子の器に収まった以上、いくら逃げようと眠らぬわけには行きませんからね。待っていますよ、貴女の眠りを。貴女が眠り、また夢を見るのを。そしていつか、貴女はこの子に殺されてこの夢の中で眠り続け、代わりにこの子が目を覚ますのです」
暗転する世界の中、声はいつまでも頭の中に響き続ける。
「待っていますよ。貴女が私の胸の中で、血に塗れて眠りにつくその日を」
夢の中で私の鼓動が止まるのと、夢が終わるのはほとんど同時だった。
赤い部屋の窓から、一羽で飛ぶ鳥が見えたような気がした。
目を覚ますと、額にあの手があった。
「うなされていた」
そう囁く義父の手には、本も書類の束もない。ベッドの横に引き寄せられた椅子もない。「夢を、見ていました」
どんな夢を見ていたのか、それは良く覚えていない。良い夢ではなかったのは確かだ。そんな夢は見たことがない。見るのはいつも悪夢だ。
だが、今夜の夢は何かが異質だった。悪夢であることは間違いない。しかし、ただの悪夢なら目を覚ませばそれで消える。今夜のそれはそんな儚いものではなかった。最近良く見る、魂を捉えて深淵に引きずり込むような重さを持った夢だ。それなのに、どんな夢だったかは思い出せない。
「…………っ」
無理に思い出そうとすると頭が痛む。鈍い頭痛に顔を顰めた私を、義父はそっと抱き寄せる。
寝室の冷えた夜気よりも、義父の腕は更に冷たい。冷たいが、それは安らかな冷たさだ。
「夜明けまでまだある。もう少し眠りなさい」
「……はい」
髪を撫ぜられ、裸の胸に顔を擦り寄せて、私は小さく息を吐く。
義父の胸は厚い。義父の放つ気配はよく鋭い刃物に喩えられるが、体そのものは決して細くない。闘争のための筋肉をみっしりと詰めて無駄のない、厚く重い体だ。
その胸の中で、私は再び目を閉じた。夢のない眠りを願いながら。
++++++++++++++++++++++++
夢を見る。鳥が飛ぶ夢を。空はもう暗く、太陽は光の残滓を赤く残すだけだ。
近頃の夢はいつも息苦しい。血の臭いが濃すぎて息が詰まる。風は吹いているが、それはちっとも空気を澄まさない。逆に血の臭いを運んでくる。重たい風だ。こんな重たい風では、鳥が羽ばたくのも辛いだろう。
風は血の臭いだけではなくもうひとつ、声も運んでくる。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
見えるのは赤く塗りつぶされた景色、聞こえるのは悲鳴ばかりで、私は目も耳も塞いでしゃがみ込みたくなる。
けれど耳を塞ぐことは出来ない。それが私に向けられた言葉だとわかっているから。
声のない悲鳴の気配もした。ひゅうひゅうと潰れた喉を鳴らしながら、それでも何かを叫ぼうと口だけを動かしている、そのもどかしさの気配。それを庇う声。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
子供の声だ。まだ幼い声。
ああ、この声はよく知っている。何度も夢で聞いた声。赤毛の少女の声だ。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
「それはパパよ、わたしたちのパパよ。お願い、パパを殺さないで!」
パパ。それは誰のことだったか。
幼い頃抱き上げてくれたひと。
私の血の宿命を思い出させ、ふたつめの命を花開かせた蛇目の男。
熱を出す度に額に触れてくれた、冷たい手の持ち主。
断末魔が聞こえる。それが父のものだったのか、あの牧師のものか、隻眼の義父のものか、それすらもわからない。もしかしたら砲弾が空気を切り裂く音だったのか、それとも上官の絶叫だったのか。
気が付いた時には上官に抱きかかえられるように庇われて、地面に伏せた体で着弾の衝撃を感じていた。
写真が伏せられている。
いつもハイデルンの机に置かれていた写真だ。木枠にガラスをはめただけのシンプルな写真立ての中で、かつて彼が愛して喪った妻と娘が笑っている。
特にそのつもりで眺めたことはなかったが、それでもラルフはその笑顔を良く覚えている。笑顔だけでなく、彼女たちの着ているブラウスの柄からスカートの色、後ろに写った花の様子まで、何もかも覚えてしまった。それぐらい長い間、その写真はハイデルンの机に置かれていた。それが伏せられている。
写真ひとつでこうも変わるものか、と思った。
上官の部屋というものはそれでなくても居心地の悪いものだ。中にはラルフ自身のような例外もいるが、部下と自室で茶を傍らに談笑できるような上官などそうそういない。大抵の場合、上官の部屋で交わされるのは胃が引き絞られるような話題ばかりだ。
その上、この部屋の場合は主が主である。季節に喩えるなら、百人が百人「厳冬」と答える男。ハイデルンが放つ凍てついた冬のような気配も加わって、この部屋の居心地はひどく悪い。
この写真は、その冬の寒さを緩める唯一の存在だった。完璧で絶対無比の人間に見られがちなハイデルンの、弱さ脆さを感じさせる一葉。
それが伏せられた今、部屋は凍りついた湖のような緊張感ばかりで満ちている。ほんの少し踏む場所を間違えたら何もかもが割れて砕けてしまうような、薄い氷で閉ざされた湖のような。
ラルフですら、そう思った。
「今回の作戦失敗に伴う処分に関してお教えいただきたいのですが……」
「作戦失敗?」
ハイデルンの隻眼が、いぶかしむように細められる。
「確かにアクシデントはあった。しかし、作戦の目的自体は遂行されたはずだが……?」
「いえ、それは結果論であって、実質的には生存者をみすみす死なせてしまうというミスを犯しました。これはプロにあるまじき行為です」
「厳しいのだな」
非戦闘員の生存者があれば全員保護、救出すること。それは確かにこの作戦の目標のひとつだったが、全てではない。作戦のメインの目標は完璧に達成され、味方側の被害は些少。サブの目的である生存者の保護もほとんど完璧に成し遂げた。処分を求める必要のある状況ではない。
しかも、だ。
「だが、お前たちの言う生存者の遺体は、未だ確認されていない。我々の調査を持ってしてもだ。生存者の存在そのものが疑わしい」
戦闘を避けて隠れている生存者はいないか、負傷して救出を待っている生存者はいないか、その後調査は丹念に行われたが、それらしい遺体を発見することはできなかった。他の生存者にも話を聞いたが、それらしい人物がいたという話もない。生死を問う以前に、存在自体が疑わしいのだ。
「生存者を確認したのは一人だけなのだろう?」
「はい、レオナだけです。レオナが倒れている子供を発見した、と」
「あれに見えて、お前たちに見えないとは考えにくい」
「自分の娘の目を信じられないと?」
「お前たちの戦場経験の方が信用できる――幻覚という可能性も考えられる」
まさかそんな、とはラルフには言えなかった。
心当たりはある。先日の、レオナが機関銃の前に飛び出した一件だ。
普通なら若気の至りの一言で終わる話だ。功を焦る年頃には、程度の差はあれど一度や二度はそういうことがある。最初はラルフもそういうものだと思っていた。しかもその道の師としては天上の存在である義父に恋をした少女だ。自分を認めさせたいという焦りがあったとしても無理はない。
だが、あれから何かがおかしい。何かが狂った。それが何なのかわからないまま、違和感だけを感じていたところで今回のこれだ。
精神を病んだのかもしれない。戦場では精神を病む者も少なくはないのだ。だとしたら、幻覚ぐらい有り得る。
だが、違う。ラルフはレオナのそれを、そういうものではないと思っている。
「あれには相応の診察と治療を受けさせるべきかも知れん」
だからハイデルンがそう言った時、ラルフは露骨に顔をしかめた。
「治療、ですか」
「不服か」
ラルフはそれを否定しない。
「並の治療で治るものとは思えないんですがね」
「何が言いたい」
凍てついた部屋の中、ふたつの視線が交差する。
短い沈黙を先に破ったのはラルフの方だった。
「あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです」
「それならば――必要だと言うのなら、私が戦いの場所に連れて行く」
「ええ、確かにあなたが命じれば、あいつはどんな戦場にでも行くでしょうよ」
「何が言いたい?」
「でも今のあなたじゃ、あいつを戦場に連れて行くことは出来ても、戦わせることは出来ないって言ってるんですよ」
今度こそ、ラルフの言葉はハイデルンの胸に爪を立てた。引っかかるなどという生易しいものではない。その爪は肉を裂く力に満ちていた。
「あいつが生きるためにあいつを戦わせることは、今のあんたには出来やしねえ! あんたはあいつと生きていこうとしてるんじゃねえ! あんたはあいつと一緒に死んでやろうとしているだけじゃねえか!」
ハイデルンは答えない。否定しない。
「否定出来ねえだろ!? 出来ねえからその写真を伏せてるんだろう!?」
伏せられた写真を見て、ラルフは気付いたのだ。この親子が互いを思い合うあまり、どうしようもないところまで迷い込んでしまったことに。
レオナは迷って己を失った。ハイデルンもまた、同様に。
だから写真は伏せられる。写真の中、彼がかつて愛した彼女らは何も言わない。ただ優しく微笑み続けるだけだ。だが、百の言葉よりも、その沈黙の方が重いこともある。それに耐えられず、ハイデルンは写真を伏せた。
だから物言わぬ死者の代わりにラルフは叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「あんたはそれでもいいかも知れねえ。その写真の中の二人を喪った時、その復讐が終わった時、あんたの人生は一度終わっちまったようなもんなんだから、それでもいいのかもしれねえ。でも、でもあいつはまだじゃねえのか? 自分の親を殺してそれで終わりの人生じゃあんまりじゃねえのか……っ!?」
一度にそこまで吐き切って、ラルフは肩で息をした。
「……あんたら、少し離れた方がいい」
怒声の激しさで、少し声が掠れて来ている。
「あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く。だから今だけは、少し手を離した方がいい。あいつは飛べる鳥だ。その手を離して飛ばせてやってくれ」
最後の言葉は、忠告と言うより懇願に近かったかもしれない。
「……言いたいことは、それだけか」
長い沈黙を破ってハイデルンがそう言った時、ラルフはやっと、自分がそんなにも激しく上官に食って掛かっていたということに気が付いた。ハイデルンを「あんた」と呼ばわりしたのなど何年ぶりだろう。それに自分が気付いていなかったことにも驚いた。
叱責されるかな、と思った。
しかし、ハイデルンの声は不思議なほど穏やかだった。
「それで、おまえは何を望む?」
お前の好きなようにしてみろ、と言われていることにラルフ気付くまで、少しかかった。
「作戦の失敗の責任を取るということで、しばらくの間、実働部隊から外していただけないかと……」
「謹慎するという事か」
「その様にとっていただいて構いません」
「いいだろう。だが、一つ条件がある。謹慎はチーム全体という事にしろ。「レオナ」とクラークを含めての三人だ。そうするのならば許可しよう」
はっとして顔を上げたラルフに、ハイデルンは無言で頷いた。
写真は伏せられている。だが、部屋はもう凍てつくだけではなかった。
それはラルフが持ち込んだ炎のせいもあったが、それだけではなかった。
「生意気な事を……おまえごときの考えが、私にわからないとでも思っているのか?」
苦笑こそなかったが、ハイデルンは一人になった部屋でささやかな皮肉をこぼした。
ハイデルンは机の引き出しを開ける。引き出しから摘み上げた白い封筒には、一枚のカードが収められていた。毎年届くカードの内容は、これも毎年似たようなもので、ハイデルンはその内容をすっかり覚えてしまった。
「キング・オブ・ファイターズ、か」
やはり、と思う。
格闘の試合であるKOFなら、生命に関わる危険からは比較的遠い。それに、一人の失敗が味方の小隊を丸ごと死に追いやるような戦場とは違う。足を引っ張ったとしても、被害を蒙るのはチームメイトの2人だけだ。リハビリとしてはこの上ない環境だ。
しかしそれは、かつて彼自身の復讐の幕を下ろし、昨年は義娘の宿命に関わる対決を運んできた大会でもある。おそらくは今年も、単なる格闘大会では済まないだろう。
ハイデルンが招待状を引き出しにしまいこんだのは、それが理由だ。軍人として磨き抜いてきた勘が、義娘をそこに行かせてはならないと言っていた。
しかし、
『あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです』
まるで炎のようだったラルフの言葉が、まだ耳の底に響いている。
戦うことでしか、前に進めないのなら。戦うしかないのなら。
『あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く』
「ラルフ」
ハイデルンは閉ざされた扉越しに、部屋を去った部下へと呼びかける。その目は、祈る者のそれに似ていた。
「……頼む」
そうして、97年のKOFの幕は上がる。
++++++++++++++++++++
夢を見る。
空はもう暗い。あの鳥がまだ飛んでいるのかどうかも解らない。
隣にはあの少女がいる。赤い髪をしたもう一人の私が。けれど、もう私達は手を繋いではいない。
「パパを殺したあなたなんか死んじゃえばいい! パパを殺した世界なんか壊れちゃえばいい! あなたなんか……あなたなんかっ!」
赤い突風のように、赤毛の私が私の懐に飛び込んでくる。首筋を狙う手刀は避けられたが、体の軸が崩れた。あっという間に地面に倒されて、首を絞められる。
返せない。どうやっても剥がれない。剥がされない方法を、私も彼女も知っている。
八年だ。八年学んだ。戦う術、人を殺す術を。義父が私に与えた八年は、彼女の上にも等しく積もっていた。
息が詰まる。酸素が足りない。思考が鈍る。圧迫された血管が目の奥で切れたのだろうか。視界が赤く染まる。いや、赤くて暗い。
意識が、闇に、落ちる。
「……オナ、レオナ……どうしたレオナ?」
呼びかけられて気が付くと、目の前が赤かった。
トマトジュースのグラスを手にしたまま物思いに耽ってしまった、と状況を理解するのが早かったのは幸いだ。野菜のジュースは好きだけれど、どろりとした赤色は時々別のものを私に連想させる。それが飲みかけのジュースだと気付くのがもう少し遅かったら、私は心配してこちらを覗き込んでいた上官に、悲鳴を上げてグラスの中身を浴びせかけていたに違いない。
「ちょっと考え事をしていただけよ」
「体調は? 睡眠は良く取れてるか? 食欲は――あるとは言えねえみてえだが」
朝食の席だ。まだ皿には全く手を付けていない。
「体調は変わらないわ。睡眠は少し浅いけれど問題なし。食欲は……これから食べるわ」
「しっかりしろよ。食うのも仕事のうちだぞ」
「ええ、わかってる」
目の前に並べた朝食の皿は少ない。食欲があまりないせいもあるが、意識して少なくしている。今日はこの後試合だ。満腹では体が重いしカンが鈍る。戦う時には少し飢えているぐらいがいい。
パンを齧り、機械的にサラダを咀嚼し嚥下し、ジュースとミルクのグラスを空にする。ささやかな朝食はすぐに片付いた。それを見て上官が言う。
「食い終わったなら少し部屋で休んで来い。不眠が続いてるんだろ? 目の下、クマになってるぜ」
「そうね……少しそうさせてもらうわ」
「じゃあ10時に例の場所で」
「了解」
ラルフの気遣いに感謝して、私は席を立った。真っ直ぐ部屋に戻る。KOFの主催者側が用意したホテルの部屋だ。窓からは決勝戦の会場が見える。
皺になりそうな制服とシャツを脱ぎ、ベッドの上に横たわる。眠ろうとは思わなかったが、軽く目を閉じた。
眠りたいとは思わない。眠りは相変わらず浅く、起きた時には覚えていないような夢ばかり見て、かえって寝る前よりも疲れているぐらいだ。前線近くで野営する時でさえ、もう少し良く眠れる。寝ないで済むのなら眠りたくない。
だが、やはり疲労が溜まっているのだろう。とろとろと押し寄せる睡魔は耐え難く、私はまた夢を見た。
ブラックアウトしていた意識が戻る。赤毛の私はまだ私の首を絞め続けている。
頚椎を折られるのを覚悟で、私は首を締め上げる腕から自分の手を離した。間髪いれず、赤毛の私の目を狙って指を突き出す。
「ッ!!」
少女が一瞬ひるんだ隙に、私は身を捩って彼女の手から抜け出した。飛び退るほどの余力はなく、そのまま地面を転がって距離をとった。痛む喉を押さえ、咳き込みながら立ち上がる。
焦りすぎだった。まだ酸素が足りていない。立ち上がった瞬間に目の前が暗くなった。まずい、と思ったがもう遅い。意識が飛ぶ。
「……レオナ……おいレオナ!」
はっとして呼ぶ声の方を見る。またぼうっとしてしまったらしい。
「準決勝なんだから、もうちょっと着合い入れとけ。ぼさっとするにも程があるぞ」
大将として3番手に立ったラルフが苦笑していた。目の前のリングでは先鋒のクラークが相手の2番手と戦っている。少し分が悪そうだ。2番手を抜くことは難しいだろう。
「あれはお前が倒せよ。向こうの大将一人相手にするなら、俺の負けはねえからな。お前が2番手きっちり倒せばそれで充分だ」
「了解」
タイムアップのコールが響いた。判定負けにクラークが肩を竦めている。一方、向こうにはだいぶ余力がありそうだ。油断はできない。続いて私の名前がコールされる。雌獅子の意味を持つその名前が、なぜか今日は他人のもののように聞こえる。
「それじゃ、行くわ」
「おう、無理するなよ。午後の決勝に備えて力を温存しとけ」
「了解……任務、遂行します」
そうだ、任務を。私の役目を、望まれたつとめを果たさないと。
動けない駒になってしまえばそれまでだ。ただの駒でさえ盤上を追われる――父親の血で穢れた駒なら、尚更。
私はまた、夢を見る。2番手は予定通りに倒したが、敵の大将を相手に少し欲が出た。無理に突っ込んでカウンターをもらったのだ。それがいい所に当たってしまったらしい。軽く意識が飛んだところで、夢に落ちた。
もう目を覚ましている合間に夢を見ているのか、夢の合間に目を覚ましているのか分からない。ほんの一瞬の空白に夢が入り込んでくる。
その度に夢の中で死にかけ、寸でで目を覚まして、そしてまた夢を見る。これではいけない。こんなことをいつまでも繰り返していても、いつかこちらが動けなくなるだけだ。それこそこの二人の思う壺だ。
戦わなければ。そう身構える私に、ゲーニッツが笑いかけ、問いかける。
「なぜそんなに、向こう側に拘るんです? そんなに人として生きたいんですか?」
私は答えない。答える必要もない。
「人の戒律。人の倫理。貴女はずっと、そういうものに縛られてきた。そういうものに絶えず断罪され、苦しめられてきた。なぜそんなところに戻りたがるのです?」
答えることは、できない。
その通りだからだ。親殺し、同族殺しの十字架は決して軽くはない。生き続ける限り、その重さに私は喘ぎ続ける。
「私達の神は、貴女に罪など認めませんよ。もちろん神の僕たる私も、そして貴女の本当の仲間である私達の一族も。在るがままの貴女を受け容れます。そんな十字架を背負う必要はないんですよ」
私は答えない。答えられずに、もう一人の自分にただ手刀を向ける。
彼女も構えた。同時に地を蹴る。
互いに斬りつけては跳ぶように離れ、再び互いの懐に飛び込んでは斬りあう。避けきれずに傷付いた肌からは血が溢れ、風に混じる濃い血臭を更に鮮やかにする。
「それでも貴女は、向こうに戻りたいのですか? いつか親殺しの鬼子と忌み嫌われ、追われることを恐れながら暮らす世界に?」
答えられない。答えることはできない。答えられないまま、胸を刺された。
いつかと同じだ。喉の奥から熱いものがせりあがってきて、咳と共に吐き出したそれは血の塊だった。肺に達している。致命傷だ。いつかより、深い。
だが、胸に刺さる手刀を、私はそのまましっかりと捕まえた。この距離ならこちらも外さない。この距離から逃がさない。刺し違えるつもりで手刀を振り上げた、その時だった。
「『貴方のために何でもするから』。そう請い願うことでしか生きられない世界でしょう?」
振り上げた手が止まる。
蛇眼の牧師の言葉はその手と同じように冷たいが、どこまでも穏やかだ。穏やかに私を追い詰める。
「『あなたが望むように何でもするから、あなたの役に立つようにしているから、だから私を嫌わないで』。そう震えて怯えて媚び続けて、永遠に贖罪を続けるだけの世界でしょう?血が嫌いな貴女なのに教えられるままに暗殺術など覚えたのも、戦場で血を流し続けるのも、何もかもが贖罪のつもりでいるのでしょう?そうしてすらなお、貴女を拒むかもしれない世界に、それでも貴女は戻りたいのですか?」
答えられない。否定できない。
見る間に足が力を失っていく。膝が笑った。すぐに立っていることも出来なくなって、
私は崩れるように倒れ込む。
それを、冷たい手が支えた。優しく抱くように支えられても、私はもうその手を振り払うことも出来なかった。
何か言おうにも、もう唇にすら力が入らなくて震えている。息をする度に胸が熱く、口からは血の泡ばかりが漏れる。
「疲れているのでしょう、あちらの世界で無理をし続けて」
髪を撫でられる感触があった。それから冷たい手が、額に落ちる。
「眠りなさい。後のことはあの子がちゃんとやってくれますよ……だから貴女は眠って、休みなさい」
嫌だ、と言うことも、首を振ることも出来なかった。
私に出来たことはただ、私の代わりに目を覚まそうとする赤い髪のわたしを見送ることだけだった。
「Hallo……Hello World」
そう言ったつもりだが、他人には唸り声にしか聞こえないだろう。
コンピュータープログラムの教科書の、最初の1ページの定番のセンテンス。こんにちわ、素晴らしいプログラムの世界へようこそ。
だが、わたしの目に映る世界はただ騒々しく、雑多で汚らわしくて、息苦しかった。
わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。
汚らわしい。
「レオナ……レオナっ、おいレオナ!?」
上官と呼んでいた男の声が聞こえる。だが、それに答えるつもりはなかった。
「Hallo World。そして、さようなら」
低い唸り声で、わたしは憎むべき世界に別れを告げる。
「……パパを……パパを殺した世界なんて! パパを殺したわたしを拒む世界なんて、みんなみんな滅びてしまえばいい……っ!」
絶叫は咆哮となって喉から溢れ、わたしという形をした赤い獣は地を蹴った。
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鳥が飛ぶ夢を見る。
陽はずっと落ちて空の大半は暗いというのに、鳥はまだ一羽で飛んでいる。
手に誰かの体温を感じて、見るとあの少女が隣に立っていた。今日も私と手を繋いでいる。前に見たときより少し背が伸びたように見えるのは気のせいだろうか。
「まだ仲間を見つけられないのね、あの鳥は」
「そうね。これからどんどん暗くなっていくから、夜目の効かない鳥には難しいかもしれない」
「仲間が見つからなかったら、どうなるか分かる?」
「ええ。知識としては知っているわ」
私はいつか読んだ本を思い出して、少女の問いに答える。
「普通は夜になる前に、仲間と一緒に下に降りるの。できれば池とか川とか、水の上に。水の上なら外敵に襲われにくいから」
「それで?」
「それだけではまだ、水を泳ぐことができる外敵からは身が守れない。だからなるべく仲間と身を寄せ合って眠るわ。集団になれば襲われにくいのね」
「それじゃあ、仲間のいないあの鳥は?」
鳥は一羽だ。まだ一羽きりで飛んでいる。
「一羽で降りて、今夜は何事もなく済むように祈りながら眠るか、何も見えない夜空を飛び続けるしかないわ」
「それで大丈夫だと思う?」
「難しいと思うわ。朝まで生き延びられる確立は低いでしょうね」
「ええ、きっと死ぬわ。あの鳥」
少女は歌うように言う。
「獣に襲われるか、落ちてしまうか。それは分からないけど、きっと生きてはいけないわ」
少女の言う通りだ。あの鳥はきっと死ぬ。
血のような夕焼けに照らされて、鳥はただ飛んでいる。
「わたしもおんなじ。わたしもあの鳥と同じよ。一羽では飛べない。どこへも行けない。あなたが私のパパを殺して、わたしを一人にしてしまったから、もうどこにも行けない。あなたのせいでどこにも行けない……」
そこで、目を覚ました。
忙しい職務の合間、まるでそこだけ抜け落ちたようにぽっかりと、ほんの数分の時間が空くことがある。そんな時、ハイデルンはいつも懐から写真を取り出して見る。
今は亡き、妻と娘の写真だ。まだ娘が幼い頃に、ハイデルンが撮ったものだ。
世の多くの父親と同じように、ハイデルンは彼の一人娘のことを愛していた。目の中に入れても、と言う言葉があるがまさにそういうものだった。職業柄、娘と過ごす時間は短かったが、その時間は全て娘と妻のために使った。そして会えない時間の隙間を埋めるように、沢山の写真を撮った。その写真の一枚がこれだ。
しかし、娘と妻は殺された。五十余名の彼の部下と、ハイデルン自身の右目と共に、彼が愛した家族の命は奪われた。守ってやることができなかったのだ。あれからもう十年が経つが、その記憶と怒りと悲しみと、悔恨は今も深い。
ハイデルンはこの九年、それに復讐心を交えたものを支えに生きてきた。守ってやれなかったのなら、せめて復讐を――娘と妻の写真と、部下の無念を携えて、彼はこの十年を復讐のために費やした。
そして二年前、ついに復讐は成った。
「終わったよ、何もかも」
ひっそりと写真に語りかける。二年間、何度も同じ言葉を繰り返した。
だが、返事は戻らない。かつてのように、二人が彼に笑いかけることはない。
空しいものだと思った。
復讐が成っても、それで娘と妻が甦るわけもない。ハイデルンの右目は永遠に光を取り戻さないし、部下達が家族が待つ家に戻れるわけでもない。ただ死者を一人、積み重ねただけのことだ。最初からわかっていたこととは言え、いざ全てが終わるとその空しさは重かった。
復讐の行程が何も生まなかったわけではない。復讐が与えたものもあった。
力を求めたがゆえに、部隊は以前の数倍にも大きくなった。今は腹心と呼べるまでになった部下との出会いがあり、義娘との出会いがあった。
だがやはり、復讐などと言うものは、所詮自己満足に過ぎないのだ。死者は全てを止めてしまったから死者なのだ。復讐を成し得なかったからといって泣きもしないし、復讐が成っても喜びはしない。ただ、生き残ったものが自分の遺恨に区切りをつけるだけの話だ。
空しいものだ。愚かな話だ。
そう自嘲した時、ドアの外に気配を感じた。懐に写真をしまいつつ、ノックの前に声を掛ける。
「――入れ」
それを受け、音を立てずにドアが開いた。
一礼して部屋に入ってきたのはレオナだった。左手にはファイルの束が抱えられているが、利き手の右は空けてある。いついかなる時でも戦えるようにと彼が教えた通りだ。それは合格だが、ドア越しに気配を感じさせるようではまだまだだ、とハイデルンは胸の内で義娘を評価する。
「次の作戦の企画書です」
「そうか」
「大佐と中尉は予定通り、五分後にはこちらに。企画書のみ、先にお持ちしました」
言いながら、レオナがデスクに置いたのはラルフとクラークの分のファイルだ。
次の予定は、ラルフのチームが次に遂行する予定の作戦の最終確認だ。ハイデルンを交えての確認が済み次第、チームはその作戦に向けての準備と訓練に掛かる。レオナが持ってきたのはその書類だった。
レオナ自身はその会議には参加しない。レオナには明確な階級はないが、少なくとも佐官尉官よりは下、むしろ新兵の扱いだ。まだこういった会議に出るべき立場ではない。ただ、支度の整わない上官の代わりに書類を持ってきただけだ。
自分の仕事を終えると、レオナは一礼して部屋を出て行こうとする。もうここに残る理由はない。
普段なら、そうしてレオナが出て行くのを見送り、ハイデルンは再び写真を見つめての自問自答の時間に戻る。だがその日、ふと思いついたように、ハイデルンはレオナを呼び止めた。
「レオナ」
「何でしょう?」
「手を、見せてくれ」
命令にしては奇妙な言葉に、レオナは首を傾げて義父を見上げる。言葉を繰り返す代わりにハイデルンが頷くと、レオナは怪訝そうな顔をしながら、それでも両手を揃えてハイデルンの前に差し出した。命令ならば絶対であるし、そうでなくても拒む理由はない。
手袋をすることが多いせいか、職業の割には陽に焼けていない、白い手だった。だが、良く見れば随分と痛んだ手であることがわかる。無数の傷跡に、何年も繰り返してきた射撃の訓練がつけた厚い胼胝(たこ)、指は少女のしなやかさを失ってはいないものの節が目立つ。うっすらと血と硝煙の臭いをまとわせているように感じるのは、おそらく気のせいだけではないだろう。
傭兵の手だった。
以前、誰かに言われたことがある。「あなたの義娘に「君が味方で良かった」と言ったら、「命令なら味方でも殺します」とあっさり切り捨てられたよ」と。おそらく相手は、義娘を殺人兵器のように育てたと揶揄するつもりだったのだろうが、ハイデルンはむしろその言葉に満足する部分もあった。
そうなるように、ハイデルンはレオナを育てた。傭兵の手を持ち、必要とあればそれが仲間であっても、その手で殺すことができるようにと。そうでなければ、運命に抗い人として生きることは難しいと思ったからだ。
だが、それも自己満足に過ぎなかったのかもしれない。義娘の手を見つめながら、ハイデルンはそう思う。
もし、ハイデルンがレオナを引き取らなければ、少女は実の両親が与えた名で呼ばれ、おそらくどこかの病院でいくらかの精神的な治療を受けて、平穏に暮らしただろう。そうすれば少しは感情も戻っただろうし、きっとそれなりに平穏で平凡な少女時代を送れたに違いない。
暗殺術などという血生臭い技を覚えることもなかった。確かにその技は、一度は彼女の災厄を撥ね退けたが、次もそれが通じるとは限らない。ほんの少しだけ、真の災厄を先延ばしにしただけかもしれない。それならたとえ一時でも、普通の少女らしく過ごさせてやる方が幸せだったのかもしれない。
レオナの人生を本当に狂わせたのは、もしかしたら自分だったのではないかと、ハイデルンは思う。
だからレオナの痛んだ手を、ハイデルンがそっと己の手で包んだのは悔恨の現われだったのかもしれなかった。レオナは珍しく、少し驚いた顔で義父を見上げる。そんなことをする義父は、レオナの記憶にはなかった。
だがすぐに、ハイデルンは義娘の手を離した。
「妙なことをさせてすまなかった。もう戻ってよろしい」
「はい」
レオナはもう一度、礼からやり直して部屋を出た。来た時と同じように、ドアを開ける音も閉める音もしない。
それを見送ってから、ハイデルンは再び懐から写真を取り出した。
「終わったよ、何もかも」
ひっそりと写真に語りかける。二年間、何度も同じ言葉を繰り返した。
「だが私には、新しい務めができたようだ」
やはり、写真は何も答えない。それでもハイデルンは続ける。
「あの痛んだ手と、あの手が流す血の為に。あの手が望むままに――それが、私の務めだ」
言葉は写真の上にこぼれて床に落ちるばかりで、まだ義父に触れられた感触が残る手を軽く握って歩いて行くレオナが、それを聞くことはない。
++++++++++++++++++++++++
夢だ。いつもの夢だ。
鳥はまだ飛んでいる。翼は次第に力を失い、視界が暗いのか方向が定まらない。それでもただひたすら、弧を描いて飛んでいる。
赤毛の少女もまた、いつものように隣にいた。気のせいではなく、確かに以前より背が伸びた。最初にこの夢の中で出会った時は、おそらく10歳前後。それが今では12、3歳の風貌だ。声も大人びてきている。
と言っても、私は少女の顔をまだ見たことがない。赤い髪に隠れて、その顔はいつも見えない。
「ねえ、今のあなたには群があるの?」
群。私にとっての群。それは「部隊」と置き換えてもいいものだろうか。部隊の仲間。それが私の群なのだろうか。
「……たぶん、あるわ」
「曖昧なのね――その群の居心地は良い?」
「ええ。みんな陽気で優しくて、上官にも恵まれていて」
「本当に?」
そこで「もちろんよ」と言い切れなかったのはなぜだろう。
きっと、私は幸せなのだと思う。心配されて励まされて笑いを促されて。年上の沢山の仲間達に恵まれて、気にかけられて、きっと私は幸せなのだ。
それなのに答えは曖昧で、聞き返されても答えられない。
「不安なんでしょう?」
くすり、と少女が笑う。
「いつまでその群の中にいられるか、不安で仕方がないんでしょう? 目が覚めれば周りにはたくさん人がいて、みんな優しくしてくれて、あなたを必要としていて。でも、それでは不安なんでしょう?」
少女は私の手を握っている。それが一人で不安だからではなく、私を逃がすまいとしているのだと、その時初めて気が付いた。
少女の手に力がこもる。
「あなたは、人殺しの自分をあの人たちが大事にしてくれるのが不安なのよね。人殺しの癖に、パパを殺したくせに、なんで私に優しくしてくれるの、って」
私はそれに答えられない。少女の手を振り払うこともできない。
「あなたの不安は間違いじゃないわ。あなたが利用できるから大事にしているだもの。あなたが便利だから、優しいふりをしているだけよ。あなたが役に立たなくなったら、みんな離れていくわ」
たぶん、それはその通りなのだ。だから私は少女の言葉を否定できない。
所詮、私は駒だ。そう思ったことがなかったとは言わない。役に立つ駒だから、みんな私の汚れた手を見ないふりをしてくれている。だけれど、動けない駒になってしまえばそれまでだ。ただの駒でさえ盤上を追われる――父親の血で穢れた駒など尚更だ。
「いつまで群にいられるでしょうね? いつまで一緒にいられるでしょうね? でも群からはぐれたらあなたもあの鳥と同じ」
落日の空をさまよって、羽を休めることができない一羽の鳥と何も変わらない。
「ねえ、だからあなたも早く落ちてきて。わたしとおなじ、一人の空に」
そうして世界は暗転し、その闇に押し潰されるような錯覚の中、私は気を喪って――
そこで、目を覚ました。
「お、起きた」
つい、うとうとしていたらしい。気付けば、人懐こい笑みを浮かべてラルフが顔を覗き込んでいた。
移動中の車の中だ。揺れから察するに、整備された道路を高速で走っているらしい。となると高速道路をまだ降りていないのかと時計を見れば、現場への到着予定時刻の一時間以上前だ。高速道路に入った時の記憶はあるから、眠っていたのはほんの数分ということになる。
「珍しいな、お前が居眠りなんて」
「ごめんなさい」
「いや、別に最前線を行軍してるって訳じゃねえんだ。問題ねえよ」
ラルフの言う通り、もう少し寝ていても何の問題もない状況だ。実際に眠っている仲間もいる。仕事の前に緊張して眠れなくなるようではこの部隊では話にならないし、眠っていても咎められることはない。
流石に直前になれば装備の最終点検など始めるが、それまでは寝ていようが遊んでいようが当人の勝手。やるべき時にやるべきことを間違いなく行えるならそれでいい。それが暗黙の了解だ。
ラルフがこちらを覗きこんでいたのも、注意をしようとかそういうことではなくて、当人の言う通り、純粋な物珍しさだったのだろう。
「もう少し寝てろよ。起こしてやるから」
「別に、平気よ」
「平気じゃねえだろ。お前、最近寝不足だろ? 目の下にクマできてるぞ」
「そう? 睡眠時間はいつもと同じよ……ただ」
「ただ、なんだ?」
「何か夢を見ているような気がするの。眠りが浅いのかもしれない」
「かもしれないって、自分のことなのにわかんねえのか、お前は」
ラルフは呆れ声で首を振る。
「いいか、俺らは体調の管理も込みで給料貰ってんだからな。ちゃんとしとけよ。なんなら今度、朝までぐっすり眠れる方法を教えてやろうか?」
「レオナ、悪いことは言わないからそれは遠慮しとけ」
そこで話に加わったのはクラークだ。続いて、なんだなんだと数人が首を突っ込んでくる。
「こいつの勧める眠り方なんざ、ボトル一本空にしろとか、大方そんなところだ。お前には向かないし、酒で眠るのは却って疲れが残るだけだ。やめとけやめとけ」
「え? 俺が昔、同じ台詞を聞いた時は口説き文句の一部でしたよ。ベッドの上でちょっと運動すれば不眠なんてって――」
「こら馬鹿。未成年者になんて話を聞かせやがる」
「あいたたたた。だって本当のことじゃないですか。勘弁してくださいよ大佐」
余計なことを言いやがったとチョークをかけられ、大げさに苦しがる姿を他の誰かが笑う。ラルフは調子に乗って更に腕に力を入れ、締められている方は演技だけではすまなくなってばたばたと狭い車内でもがく。
きっと、私は幸せなのだと思う。心配されて励まされて笑いを促されて。年上の沢山の仲間達に恵まれて、気にかけられて、きっと私は幸せなのだ。
けれど、それでは満たされた気がしない私は、きっとこの幸せと同じぐらい罪深い。私が欲しいのは彼らの声ではなく、彼らの笑いではなく、彼らの想いではない。その全てを失っても、たったひとつ、あの人が残るならそれでいい。私はそれに気付いてしまった。
笑い声が収まらない中、私はもう少し眠るふりをしてシートに身を沈め、目を閉じた。彼らを見るのが、今は少しつらかった。
「畜生、情報部は何調べてやがった! あいつらの目は節穴か!?」
ラルフの罵声に同意の声は上がらなかったが、皆思っていることは同じだった。単に、文句を言い立てるほどの余裕があるのはラルフとクラーク、それからレオナぐらいのもので、その中で一番怒りの沸点が低いのがラルフだったということだ。クラークも見た目の割には温厚とは言えない性格ではあるが、ラルフとは感情表現の方向性が違うし、レオナが怒鳴り散らしたらそれはほとんど天変地異のようなものだ。
「大した装備はねえって話じゃなかったのか? それじゃアレはなんだよ、あの非常識な代物は!」
その怒声を掻き消す銃声は規則的で、その軽快なリズムはいっそ小気味良いものでさえあったが、相手にする方にとってはそれは死の旋律だ。
機関銃であった。普通は装甲車両かジープあたりに積んで使う。そんなものをラルフ曰くの場末の悪党が持っているのも驚きだったが、郊外のホームセンターの駐車場に停まっているようなバンの後部に載せているのも冗談めいた光景だった。
それを見た瞬間、全員が物陰に飛び込んだのは流石だった。ほんの一瞬遅れて掃射が来る。喚くラルフのすぐ横を銃弾が掠め、獲物を捕らえ損ねた弾はコンクリートの床を削って破片を撒き散らした。それがサングラスに当って、顔を顰めたのはクラークだ。
「一丁しか出て来ないだけ、まだ常識の範囲内じゃないですか。あれが精一杯の虎の子なんでしょう。可愛いものですよ。まあ、向こうも弾が切れたら終わりだってのは解ってるでしょうから、こっちの盾が吹っ飛ぶまでは撃ち続けたりはしないでしょうし――ほら、止まった」
「そりゃいいけどな、こっちがこうして隠れんぼ続けなきゃならねえことには変わりねえんだ。飛び出しゃ蜂の巣、隠れてりゃその間にあいつら逃げちまう。さて、どうするよ?」
機銃掃射が止まって妙に静まり返った空間に、バンのエンジンに火を入れようとするセルの音が響く。運転手が焦っているせいかバッテリーがへたっているのか、一発では掛からないが、このエンジンさえ掛かってしまえば確実に逃走できるという向こうの余裕も感じられて、それが余計にラルフを苛立たせた。
相手は半年かけてここまで追い詰めた標的である。何が何でも確保するか、悪くても死体を持って帰らなければ、情報部の働きも含めてこの半年がふいになる。
逃してたまるかとは思うが、ここで打って出るには装備が足りない。情報部の調査報告を全て鵜呑みにしたわけではないが、ここまでの武装があるとは思っていなかった。余分に持ち込んだ装備は、それまでの激しい抵抗ですでに消費してしまっている。完全に作戦失敗だ。
その時、ラルフの通信機にコールが届いた。コールの主は、ラルフたちとは違う物陰に身を隠したレオナである。
「出るわ。援護をお願い」
遺言に等しい名乗りだった。
機関銃の撒き散らす弾は、物にもよるが毎秒二十発近い。三秒あれば六十発。人ひとり挽肉にして、まだ充分お釣りが来る。その銃撃に身を晒らすなどというのは、無謀を通り越して馬鹿な話だ。
「お前、まだ寝ぼけてんのか? 帰ったら始末書の山と格闘だぞ。それまでにちゃんと目ぇ覚ましとけ」
「エンジンが掛かった瞬間に出るわ。援護して」
「おいこら」
「お願い」
そう言い残すと、通信は切れた。
「畜生ッ」
戦場では何度吐いたか数え切れない台詞だが、これほど心底そう思ったのは今回が一番かもしれない。ラルフは通信機を叩き潰したい衝動を抑えるのがやっとだった。
「レオナが出る! 援護するぞ。エンジンが掛かったらぶっ放せ!」
レオナが有無を言わさず通信を切ったのは、そうすれば嫌でもラルフが援護すると狙ってのことだ。確認しなくてもわかる。昔、ラルフ自身が良くやった手だ。誰だってそんな思惑に乗るのは癪だが、援護しない訳にも行かなくなる。そういう手なのだ。
「命知らずの特攻ですか。そういうところは上官を見習わないで欲しいんですがねえ」
ハンドガンのカートリッジをフルに装弾されているものと取り替えながら、クラークが溜息を吐く。
「馬鹿言え。俺が無茶やるのは、そうでもしなきゃ誰も彼も皆死んじまうって時だけだ。無茶と無謀の区別もつかねえ餓鬼と一緒にするな!」
言い捨てた瞬間だった。気化したガソリンがシリンダーの中で爆発する、篭った炸裂音。バンのエンジンが息を吹き返した音だ。
「今だ、撃て!!」
手だけを突き出しての乱射だった。それでも狙い違わずトラックへ射線が集中したのは、日頃の厳しい訓練の賜物だ。この傭兵部隊では射撃訓練も並大抵のものではない。
機関銃は再びリズムを刻み出したが、明らかに射手は動揺していた。だから、駆け出した少女への対応も、一瞬遅れた。
体勢を低く保った姿勢で疾走する少女の姿は、まるで青い獣のようだ。その獣に牙はないが、代わりに手に握られた銃が火を噴く。傾いた姿勢から撃ったとは信じがたいような、正確な射撃が続けて四発。両肩と胸と腹から血を流して射手が倒れ、機関銃のリズムは狂って止まり、それきり二度と動かなかった。
やった、と誰かが呟く。歓喜の叫びにならなかったのは、仕事がまだ終わりでないのと、安堵の吐息が混じったからか。
「急げ! エンジンは掛かっちまってるんだ。逃がすなよ! それから機関銃にはもう誰も取り付かせるなよ!」
周囲に指示を飛ばしつつ、ラルフはレオナの元に走る。
レオナは再び、相手の死角になるよう物陰に身を隠していた。相手の機関銃を潰したとは言え、まだ武器は残っているだろう。ひとつ大仕事を終えたとは言え、敵の前で無防備に立ち尽くしているような間抜けはいない。標的の捕獲、残敵の掃討、まだやることは山程ある。一息吐く余裕はない。レオナも再び、銃を構えていた。
だがその姿を見て、ラルフは眉を顰めた。レオナの肩の少し下、二の腕の辺りが赤黒く染まっている。機関銃の掃射はレオナを捕らえはしなかったが、掠めて裂いたのだ。それで済んだのは奇跡的だ。まともに当っていれば腕が千切れ飛ぶ。
「お前さ、それでまだ行こうってのかよ」
ラルフに問われても、レオナは頷きもしなかった。当たり前でしょう、と言外に言っている。
出血は決して少なくない。戦闘服を染めてなお溢れた血が、ぽたぽたと床に散って奇妙な模様を描いていた。
「ここはもう充分だ。下がれ」
「いいえ」
やっと答えた。
「出血性のショックでひっくり返ったらどうするんだ、馬鹿」
「平気よ。まだ戦える」
「下がって衛生兵に止血してもらえ。それからすぐに軍医のところだ」
レオナは、もう答えなかった。黙ったまま、しかしやはり退く気配も銃を下ろす気配もない。
ラルフも、もう何も言わなかった。ただ、何も言わずにその頬を張った。
分厚い掌が少女の頬を打つ音は、どの銃声よりも乾いていた。
不眠不休が常の基地の中とは言え、夜になれば少し灯を抑える。廊下もそうだ。常夜灯を灯しただけの廊下には、薄暗闇が薄く積もっている。
その薄暗闇を踏みしめるラルフは、足音を立てなかった。現場から戻ったばかりの戦闘服姿だ。血と埃と硝煙のが混じった戦場の臭いを引きずっている。しかし、その荒々しさからは想像も付かないような歩き方だった。
元々ラルフは、足音が生む威圧感や焦燥感を利用する時以外はほとんど足音を立てない。後は相手を驚かさないように気を使って、わざと足音を立てるぐらいだ。いついかなる時でもそういう歩き方ができるように、積み重ねた訓練が身に染み付いている。同じ訓練を積んだクラークやレオナもそうだ。
だが、それでもノックよりもハイデルンの声の方が早かった。
「入れ」
今だかつて、ラルフもクラークも、もちろんレオナもハイデルンの部屋の扉を叩いたことがない。その前にいつも気配に気付かれ、声を掛けられる。三人に気配の消し方を叩き込んだ本人であるとは言え驚異的な能力だ。
「ラルフ=ジョーンズ、ただ今帰還しました。現場の処理にちょいと余計な手間を食いましたが、あとは万事問題なしです。被害は」
そこでラルフは、一度言葉を切った。それからちょっと言い難そうに、
「被害は、負傷者一名のみ。以上です」
「そうか」
告げる方も応える方も声が苦いのは、たった一人の負傷者がハイデルンの義娘であるというのも理由のひとつだ。レオナの無謀と命令違反、そしてそれによる負傷のことは、既にハイデルンの耳にも届いている。
レオナは衛生兵によって応急手当を受けた後、先に基地に戻された。基地には凄腕の軍医がいる。遠く離れた異国での任務だとか、即処置が必要というなら話は別だが、それほどの緊急でもなく、そこそこの時間で戻れる場所にいるなら、そこらの医者より軍医に任せた方が色々と都合がいい。今回はその都合を優先できる状況だった。
「で、レオナはどうなんです? 先にそちらに連絡が行ってるんじゃないですか?」
順当に考えれば、ドクターからその報告を先に受けるのは、直属上官であるラルフの方だ。だが、ハイデルンがレオナの義父でもあるということで、話は少し変わるだろうとラルフは踏んだ。義娘の容態を早く知りたいだろうと、ドクターが気を利かせるということは充分に考えられる。
それは間違った予想ではなかった。
「先程ドクターから連絡があった。失血量が多く、収容時に多少の意識の混濁が見られたそうだが、それだけらしい。骨にも神経にも異常はないそうだ。復帰にもそれほど時間は掛からないだろう。だが、今夜は大事を取って医療部内で休ませるということだ」
「そりゃ良かった――って、まだレオナの様子を見に行ってないんですかい?」
「部隊が戻らぬうちに部屋を離れる司令官がどこにいる」
「そりゃそうですが」
義娘が怪我をして担ぎ込まれたのだ。本当は飛んで行きたいだろうに、とラルフは思う。それはハイデルンの立場を考えれば確かに正しい行動だったが、ラルフにしてみればひどく歯痒い。
とはいえ、ハイデルンからドクターの話を聞いて、ラルフが胸を撫ぜ下ろしたのも確かだ。傷を見た時から大したことはないとわかっていたが、それでもやはり不安は拭いきれないものだ。これでハイデルンが部屋にいなかったら、すわ重傷かいや危篤かと慌てただろう。
だがもう安心だ。一息吐いたところで、いつもの調子が出た。
「血の気が引いたついでに、頭も冷やしてくれりゃいいんですがね」
「それについては、お前に訊かなければならないことがある」
にやりと笑ったラルフとは反対に、ハイデルンの表情はますます苦い。
「あれの命令違反だが、ここ数ヶ月で急に増えたようだな。相応の処分をし、こちらに報告が届いた分で四回。そこまでの問題ではないとお前の責任で処理した分を含めると十一回。今回も含めれば十二回だ」
報告しなかった七件分もやはり把握していたか、とラルフはばつが悪そうに頭を掻いた。ハイデルン相手に隠し通せるとは思っていなかったが、件数まで正確に知られているとは。
「全く面倒なことをしてくれる。他の者であれば、『あれを甘やかしても私に媚を売ったことにはならん』とでも言ってやれば済むことだ。だが、お前の場合はそうはいかん」
そんな媚がハイデルンを動かしはしないことをラルフは良く知っているし、媚びたところですでにラルフはこの基地の「不動のナンバー2」だ。これ以上の出世はハイデルンが去らなければ有り得ない。媚を売る理由などないのだ。
「聞かせてもらおうか。なぜ、あれをここまで野放しにした?」
「野放しって言うほど、手綱を緩めたつもりはないんですがね」
困ったように頭を掻くラルフの指の間から落ちるのは、銃弾で抉れたコンクリートの欠片だ。荒っぽい任務をこなして戻ってきた後は、いくら払い落としたつもりでもこういった戦場の破片いつまでもどこからかこぼれてくる。手や髪に染み付いた硝煙の臭いが消えるのは三日後。それが過ぎる前に日々の訓練を再開するから、結局は一年中、硝煙の臭いを撒き散らしていることになる。そんな暮らしが十数年も続いているのだから、ラルフには火薬の臭いが染み付いて取れることがない。
中でも最も火薬の臭いが強いのは手だ。その手を広げて、ラルフは指折り数えてみせる。
「俺が新兵のころだから、かれこれ二十年も前のことになりますがね、その頃の自分を思い出してみると、今のレオナにゃ口で言ってもわからねえだろうなって思ったんですよ。だから、少し痛い目に遭うまで手綱を緩めて、好き勝手に走らせてみようかと。周りをヤバいことに巻き込まない程度にコントロールはしてましたし、いよいよまずいって時にはそれなりの処分もしましたけどね」
それが報告の行った四回だ。軽微ではあっても損害を出したり、それがもっと大きな被害に繋がると判断した時は、ラルフは容赦なく処分を下したる。自分はつくづくレオナに甘いと自覚しているラルフだが、そこを外すほど甘やかすつもりはない。だからクラークも、今まで見て見ぬふりに付き合っていた。
「まあ、俺にもありましたからね。わかるんですよ。深追いするなって場面で突っ込んだり、勝手に先行したり。功名心やヒーロー願望じゃないんですが、そうせずにはいられないんです――ありゃ、ひよこが焦ってるんですよ。ひよこが不安がって焦ってるんです」
「ひよこ、か」
「ええ、ひよこですよ。群れの一番後ろをよちよち飛んでるひよこが、このままじゃ群れに置いて行かれると思って不安がって、自分はこんなに飛べるんだって主張して、精一杯ばたついてるんです」
可愛いもんじゃないですか、とラルフは笑う。
「まあ確かに、うちは孵ってもいない卵の成長を待てる商売じゃないですけどね。でも、どんな低空飛行でも群れの最後尾を飛んでても、飛んでさえいりゃいずれは追い付ける。ひよこに群れの先頭と同じ速度で飛べだなんて、誰も求めやしませんよ。でも、肝心なひよこにはそれがわからない。先頭と同じように、群れで一番高いところを飛んでるのと同じように飛べない自分が腹立たしくて、無茶をやろうとする。しかもあいつが追いかけてるのは、お天道様に届くような高さを悠々と飛んでいく鳥だ。そりゃ焦りもしまますよ」
あなたのことですよ、と言う代わりに、ラルフはちらりとハイデルンの様子を窺った。
ラルフには、表情を見せないハイデルンの心の内はわからない。同じ無表情でも、レオナのそれはある程度わかるようになったが、ハイデルンが感情を隠そうとすれば全く読み取れなくなる。
ラルフから見ても、ハイデルンはそれほどに遠い。それならレオナにとってその背中は、どれほど遠く見えるのだろう。
それは焦るだろう、ラルフは思う。自分も新兵の頃には、自分の無力さ不甲斐なさに随分と焦ったものだ。どんな英雄も自分と同じ人間に過ぎないとラルフが気付いたのは、自分が伝説と呼ばれるようになってからだ。もがいている最中は、決して自分の焦りの無意味さに気付けないものなのだと思う。
だが、それを見守っているだけでは済まされないのがラルフの立場だ。レオナの焦りが引き起こしたミスは、一歩間違えば部隊全体を危険に晒すことになる。ここはそういう剣呑な空を飛ぶ群れだ。
だから、ラルフは荒療治を狙った。
「でも、ひよこは所詮ひよこ。無茶したってたかが知れてる。無駄にもがいて大怪我して、羽根そのものを折っちまって二度と飛べなくなったら、それこそ洒落にならないでしょうよ。だったらちょいと痛い目に遭って、産毛の二~三本でもひっこ抜かれる程度の怪我でもすれば、自分のひよこぶりを自覚してくれるんじゃないかと期待してみたんですがね」
そしてラルフの狙い通りになった。産毛ニ~三本という言葉に見合った怪我かどうかはわからないが、少なくとも痛い目に遭ったことは確かである。これで目を覚ましてくれりゃあいいんだが、というのがラルフの正直な気持ちだった。
『そんなつもりはなかったはずなんだけれど――どう思う?』
あれから数ヶ月経った今も、ラルフはあの時のレオナの声を鮮やかに思い出すことができる。自覚どころか本人でさえ思いもよらなかった恋心は唐突に目を覚まし、少女を混乱させている。
ひよこの焦りだけならともかく、恋という熱病に背中を押された少女は、そう簡単には止まらないだろう。それで荒療治に走った。
「事情はわかった」
ハイデルンの声は、先程よりも更に低く苦かった。
「だが、不問にする訳にもいかん。あれには相応の処分が必要だ。お前にもな」
要するに、何の事情があろうと部下の暴走は上官の監督不行届きということである。
たとえ自分の義娘絡みであっても、そういうところを曖昧にしていては、軍という組織は簡単に崩壊してしまう。国という後ろ盾のない傭兵部隊なら尚更だ。ハイデルンはそのことを良く知っているから、処分は身内であるほど厳しくするだろう。
この場合、その対象には彼の身内と関わったラルフも含まれる。それも予測した上で、ラルフは腹を決めていた。第一、それぐらいでなくては「あなたの娘に怪我させるの承知で動いてました」などとぶちまけられる筈がないのだが。含み笑いで敬礼を返したのは、覚悟の上ですよと言う意味だ。
それに気付いたかどうか、ハイデルンは軽く時計を見遣った。時計の針はもう深夜を過ぎて、夜明け前の空が一番暗くなる時刻に近付いている。
「残りの報告は明日、書類で提出するように。今夜はこれで終わりだ」
了解と答えたものの、正直ラルフにとっては明日の仕事は頭痛の種だ。対書類戦の主力火器はクラークだが、その有能な片腕のレオナはいないし、それに関してはラルフは全くの戦力外だ。そのラルフも、明日はクラークを手伝うどころか自分の始末書で精一杯になるだろう。ついでに、情報部にミスを認めさせ、ある程度は責任を取らせなくては部下の腹が納まらない。それに手を回すのもラルフの仕事だし、世話を掛けたドクターにも頭を下げに行かなくてはならないだろう。
下手すりゃ明日は今日より遅くなるな、などと考えながら、ラルフが部屋を辞そうとしていた時だった。
「それから」
普段とどこか調子が違う声に、ラルフははっとして向き直った。思わず背筋が伸びるのは、軍人勤めの長さのせいか。
だが、次にハイデルンが述べたのは、軍人としての言葉ではなかった。
「あれの義父として、礼を言う」
一瞬呆気に取られたラルフの口元がみるみる緩み、しかしラルフはその口元を隠すようにハイデルンに背を向けた。
「……父親らしいことを言うなら、早くあいつのとこ行ってやってくださいよ、教官」
ラルフはそう答えて、今度こそ部屋を出た。
廊下には変わらず薄暗闇が積もり、ラルフはうつむいてそれを踏みしめて歩く。だがその口元は、今はもう隠しようもなく笑いの形を作っていた。
つくづく不器用な親子だ、とラルフは笑う。義娘はあんな形でしか義父への想いを形にできず、義父はあんな風にしか義娘を語れない。自ら望んだとは言え、傭兵部隊などに身を置いてしまったために手を伸ばしあうこともできない不器用な親子。それがあの二人だ。
親子揃って不器用で、血なんか繋がってないのに良く似ているよな、とラルフは笑う。
笑いはいつまでも消えなかったが、どこか寂しげなものだった。
+++++++++++++++
夢の中では痛みを感じないという話があるが、それは嘘だ。夢の中でも傷は痛む。夢の中で生じた傷はもちろん、夢の外で生じた傷も痛む。
夢の中で飛び続ける鳥を見上げながら、私は痛む腕に手をやった。
腕には傷口があった。その少し上には止血帯の跡がうっすらと残っている。銃弾で裂けた傷口からの出血がひどく、私は止血帯を巻かれて軍医のところに担ぎこまれた。その時に付いた跡だ。そんなところまで夢に繋がっているのが、少しおかしかった。
その傷に、私は力を込めて爪を立てた。傷口に爪を立てれば、剥き出しになった神経が抉れる。その痛みは、痛みというより熱となって脳を灼く。あまりの痛みに息が詰まり、悲鳴さえ出ない。それでも指先に、もっともっとと力を込める。
痛みを感じたいのだ。苦しみたいのだ。
「それは罰のつもり? 自分で自分を罰しているつもり?」
傷の向こう、血の気を失った白い手を握って赤毛の少女が笑う。少女はまた大きくなった。そろそろ14、5歳だろうか。最初は見下ろすほどだった身長も随分伸びて、私に並びかけている。
「……そうかもしれない」
私は少しだけ、手を緩めていた。そうしないと答えるための声も出せない。それなのに、少女の声だけはひどく鮮明に私の耳に届く。
「だめよ。あなたに本当に罰を与えることができるのは、あなた自身じゃないわ。自分では何をやっても無駄。そんなの自己満足よ」
「そうかもしれない」
曖昧に答えたが、本当はわかっている。そうだ、これは間違いなく自己満足だ。ただ自分で自分を罰した気になれば、少しは許される理由になるのではないかと期待して、そうやって楽になろうとしているだけだ。
「そうやって自分で自分を傷付けて、傷付いた顔をして、「こんなに私は傷付いているの、だから私をこの群にいさせてください」って懇願するつもり?」
「わかってる。わかっているわ、こんなこと無意味だってことぐらい。でも」
けれど、無意味だとわかっていても、私は傷を抉り続けずにはいられない。痛みはそれ以外の何も感じさせなくなる。不安に押しつぶされそうな心を、痛みで支えたいのだ。
所詮、私は駒だ。役に立つ駒だから、みんな私の汚れた手を見ないふりをしてくれている。だから一度の失敗も許されない、そう思っていた。周囲に望まれるとおり仕事をやり遂げて、誰にも迷惑をかけないように、上手く飛び続けよう。そう思っていた。動けない駒になってしまえばそれまでだ。父親の血で穢れた駒なら、尚更。
それなのに、こんな傷を負って。
そうやって自分を苛む手を、掴んで剥がした手があった。私は最初、それが少女の手だと思った。だが、その手は私の隣ではなく、背後から伸びている。ひんやりと冷たい、男の手だった。
「おやめなさい、自分でも無駄だとわかっているのでしょう」
優しい口調だと思った。少なくとも口調だけは。
「無意味なことで、神様に頂いた大切な体を傷付けてはいけませんよ」
だが、口調の優しさに反して、その声はひどく私を不安にさせた。声もそうだが、その手もだ。神を語るには冷た過ぎるものが、声からも手からも溢れ出している。そんな風に感じさせる声と手だった。
「罪を裁けるのも、お赦しくださるのも、神様だけです。私たちの神に、あなたも全てを委ねなさい。無意味な痛みに赦しを請うのではなく」
「……あなたは、誰……?」
「忘れたの?」
答えたのは、赤毛の少女だ。
「パパよ。この人がわたしのパパ。いいえ、わたしたちのパパ――あなたが殺したわたしたちのパパよ」
「そうですよ、忘れられてしまうとは、淋しいですね」
「違……違う……っ!」
私はとっさに、二つの手を振り解こうとした。
パパの声じゃない。パパなんかじゃない。この声は、神を語るにも父と呼ぶにもあまりに禍々しい。
だが、手はしっかりと私の手を捕らえたまま離れなかった。
「……違う、違う……あなたなんか知らない! あなたなんかパパじゃない……!!」
息が詰まる。喉が糸ほどの細さにしか開かないような気がする。それでも振り絞るように声にした否定は、あっさりと拒まれた。
「いいえ。貴女も私の大切な娘ですよ」
違う、違う、違う。パパじゃない。パパなんかじゃない。繰り返し否定しようと思ったが、もう声は出なかった。
ただ、意識を失う瞬間、ちらりと見えた「パパ」の瞳は蛇に似ていると思った。
額に懐かしい手を感じて、レオナは目を覚ました。
子供の頃、こんなことが良くあった。ハイデルンに引き取られた直後、レオナが両親を喪った『事故』のせいで、精神的にも肉体的にもひどく不安定だった頃だ。
熱を出して寝込み、熱に熔かされるように眠っては夢を見て、夢を見ては目を覚ます。浅い眠りが続く中、うなされることもよくあったらしい。
そんな夜、レオナが目を覚ますと必ず見た光景があった。
ベッドの横に椅子を引き寄せ、長身の人影が座っている。その視線は大抵、分厚い本か書類の束に向けられている。片目で細かい文字を読むのはそれでなくても疲れるだろうに、部屋の明かりは眠るレオナを気遣ってか、いつも低く落とされていた。
レオナの幼い日の記憶をそのまま映したように、ベッドの横にはハイデルンの姿があった。額の手は、ハイデルンのものだった。
「うなされていた」
珍しく皮手袋を外したハイデルンは、義娘が目を覚ましたのに気付くと手を書類の上に戻し、短く告げた。
「夢を、見ていました」
「傷から熱が出ているようだから、きっとそのせいだろう」
傷。そう、傷だ。その言葉で、レオナはやっと夢と現の境から抜け出した。眠るまでの記憶が、一気に意識へと流れ込んでくる。
機関銃の音。作戦中の命令違反。銃弾が腕を掠めて切り裂く感触。頬を打たれた痛み。
「……申し訳ありませんでした……」
「詫びる相手を間違えるな。私に詫びれば良いというものではない」
その通りだ。レオナは自分の顔を打ったその時の、ラルフの凄まじい顔を思い出す。本当に謝らなければならない相手はハイデルンではなく、ラルフやチームの皆だ。
今思えば馬鹿げた行動だとレオナは思う。あそこであんなことをする必要がどこにある。確かに、あそこであの標的を逃すのは惜しかった。少なくとも、この件に関する情報部の働きはその大半が無駄になるのだし、ああいう手合いを世に放てば逃亡の間に新たな犠牲も出るだろう。
だが、それだけだ。自分が出なくてもチームの誰が死ぬわけでもなかったし、何が失われるだけでもなかった。それどころか、レオナが出たせいで余計な犠牲を出す可能性すらあった。
今ならそう思えるのに、あの時は駄目だった。
「……止められませんでした。自分を」
レオナはごく短い言葉で、それをハイデルンに伝えた。ハイデルンは黙って頷く。
あれはまるで恐慌だ。ここで動かなければ――何も出来ずにいたら、何もかも失ってしまうような気がして、気が付いたら体が動いていた。
きっと自分は疲れているのだ。昨年夏のKOF、初めての戦場、そこから始まって今日まで続く任務の日々。新兵にありがちな、精神が昂ぶりすぎた状態になっていたとしてもおかしくはない。戦いのための技や能力はともかく、経験という点で言えば、自分ははまだまだ未熟な新兵なのだ。昂ぶりすぎて疲れてしまっているだけだ。だから眠っても熟睡できずに夢ばかり見る。その夢を、起きてからも引き摺っている。そう思い込もうとしていた。
だが、心の底から湧き上がる不安感は抑えきれない。否定しきれないのだ。失われた記憶のその先、思い出せないほど遠い過去、同じことがあった気がする。それは、予感というより確信に近かった。
望まれない行いで、全てを失くした。
だから望まれるように、誰かの望みのままに上手く飛ばなければ。それが出来ないということが恐怖だった。
無理に言葉にしなくてもいい。そう言って、ハイデルンは義娘の青い髪を撫ぜてやった。
「眠りなさい」
そしてハイデルンの手は、レオナの額の上に置かれる。レオナが子供の頃、悪夢にうなされて目を覚ます度にそうしていたように。
「朝になれば熱も下がる。血も戻るだろうし、少し落ち着くだろう。まず眠りなさい」
子供の頃なら、それで眠れた。この手とこの声があれば、何もかも大丈夫だとレオナは思っていた。ただこの手の導くままに、この声の命じるままに眠れば、きっと何も怖いものはなく、何事もなく朝が来ると。そう思って、レオナはいつも目を閉じた。
だが今、レオナは目を閉じることさえできなかった。義父への信頼が揺らいだわけではない。むしろ、あの頃とは別の意味合いを重ねて、ハイデルンの存在は絶対のものとなった。彼に命じられたなら、レオナは味方を殺すことさえ躊躇いはしない。
それでも、目を閉じることはできなかった。一度明確な形を取ってしまった恐怖は、潮のように満ちて退きはしなかった。
その手が、今は遠く感じる。触れているのに。
レオナは額に置かれたハイデルンの手を引き寄せ、頬に押し当てる。
冷たい手だ。自分より体温が低いというだけが理由ではない。良く研いだ刀が纏う剣気と同質の、周りを圧倒し凍てつかせるような気をこの手は持っている。
しかし、その手が触れたレオナの頬は冷えない。却って次第に熱を帯びていく頬と、その熱を与える冷たい手だけが、夢という得体の知れないものに自分が侵食されていく自分を現実に繋ぎとめてくれる。そういう唯一確かなものに思えて、レオナは一層強く、頬に義父の手を押し当てる。
「眠りなさい」
行かないで。それだけを切望した、赤い部屋の記憶。
この手が遠ざかったら、きっともう二度と私は飛べない。
「……眠らせて、ください」
喘ぐように囁いた瞬間、レオナの視界は瞼ではない何かに塞がれた。
最初は、掌で目を覆われたのだと思った。そうではないと気付いたのは、掌にしてはそれが大き過ぎたからだ。
レオナが腕を取って引き寄せたのか、ハイデルンの方から抱き寄せたのかはわからなかった。もしかしたら、同時だったのかもしれない。
レオナを抱きしめる腕もまた、冷たかった。だが、それもまた触れる場所全てに熱を生んで、レオナはもう一度喘いだ。恐怖とは違う喘ぎだ。喘ぎながら、レオナは腕を義父の背中に回した。
「動くな。傷に障る」
言われても、一度堰を切って溢れ出してしまったものは簡単には止まらない。ぎゅっと掴んだシャツの生地越しに感じる背中も冷たい。顔を押し付けた広い胸も冷たい。
もっとその冷たさを感じていたかった。もっと強く、もっと深く。
「レオナ」
震える義娘にそう呼びかける直前、ハイデルンの表情が一瞬曇ったのをレオナは知らない。その一瞬が、ハイデルンにとってどれほど長かったのかも知らない。ハイデルンが何を思い、何を覚悟したのかも知らない。普段のレオナであれば多少は何かを察することもできたかもしれないが、その時レオナにできたのは、名を呼ぶ声に応えておずおずと顔を上げることだけだった。
そこに、ハイデルンのかさついた唇が落ちた。
この人は唇も冷たいのか、とレオナは思った。そう言えば、抱きしめられたことはあってもキスの記憶は頬にすらなかったことに、レオナは唐突に気が付いた。
その冷たい唇が、唇を離れて首筋を伝う。唇が伝う場所に薄く残る赤は、止血帯の跡に少し似ていた。
そうだ、止血帯だ。夢という傷口がどれだけ血を流しても、この義父の存在が、必ず自分を繋ぎとめていてくれる。そう思うと、レオナは傷の痛みも、溢れる恐れも何もかもが薄く溶けて、強張った体がほどけていくような気がした。
その先に、もう言葉はなかった。ただ繰り返される浅く荒い呼吸の音だけが、部屋に満ちていた。
寝台の上で溶け合った影は、やがて再び分かれる。そのひとつは長身の男となって、もうひとつはベッドに横たわる少女になって、ほんの一瞬、互いを見詰め合った。
「眠りなさい」
冷たい手が、そっと青い髪を撫ぜる。
青い髪をシーツに広げた少女は、小さく頷いて目を閉じる。
長身の影は再びベッドの横に引き寄せた椅子に戻り、薄暗い部屋の中で書類の束を繰り始める。
子供の頃、こんなことが良くあった。それは少女の幼い日の記憶をそのまま映したような光景だったが、あの頃とは何もかもが違い過ぎた。
幼い頃良く見た夢は、いつも赤い部屋から始まる。
その部屋は真っ赤に塗り潰されていた。一面赤だという印象が強いが、今思えばそれはひどい突貫作業のようだった。たっぷりとペンキをつけた刷毛で、手の届くところだけを乱雑に擦ったような赤。天井辺りなどは、ところどころに赤い点が散っているだけで手付かずだった。
天井のことなど覚えているのは、私がその部屋の床に寝ていて、天井ばかり見ていたからだ。違う。天井しか見えなかったからだ。
なぜか体が全く動かない。その上、体中がひどく痛む。鼓動に合わせて小刻みに痛みの満ち引きを繰り返す体を持て余して、無性に膝を抱えて丸くなりたいと思った。だが、指一本動かない。冷たく硬い床に、痛む体で仰向きで寝ているのはつらかった。できることなら眠ってしまいたかったが、瞼も閉じられない。それも自由にならなかった。
仕方なく、私はずっと天井を見ていた。
なにか、ひどいことがあったような気がした。なにかとてもひどいことが起きて、色々なものをめちゃくちゃにされてしまったような気がしたが、それが何なのかは思い出せなかった。何を壊されたのか、何が壊してしまったのか、そのどちらも思い出せなかった。考えようとすると頭が痛くなった。
だから私は、そのうち考えることもやめた。淀んだ空気、すえた臭いの篭った部屋の中で、ただ天井を見ていた。
どれぐらい、そうしていたのだろう。天井以外のものが視界に入ってきたことに、ずいぶん遅れて私は気が付いたのだと思う。というのは、気付いた時にはすでにそれがあったからだ。それが現れた、あるいは部屋に入ってきた瞬間を、私は覚えていない。
それは影だった。相変わらず体は動かなかったから、私は視線だけをいっぱいに動かして影を追った。
背の高い男の影だった。見えたのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
穏やかな寒色の背中は、しかし遠ざかろうとしていた。私はなぜだか直感的に、「この人はもうこの場所に用はないのだ」と思った。この人はここでの仕事をやり終えた、だから出て行くのだ、と感じたのだ。その直感が正しかったかどうかはわからないが、少なくともその人が部屋のドアに向かっている、それは確かだった。
行かないで、と思った。いや、それは正確ではない。ただ、こちらを向いて欲しいと思ったのだ。置き去りにしないでとも、助けてとも思ったのではない。それだけは間違いない。ただ、こちらを見て欲しかった。けれど声は出ない。喉も唇も動かない。
行かないで、行かないで。こちらを見て。私はその人の背中を見つめながら、一心に祈った。そう、私が神に祈ったことがあるとすれば、きっとあれがその最後の一回だ。
祈りは、届いた。
振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えなかった。それなのに、視線が合ったということだけはなわかった。
言葉は出なかった。けれど、それまでどうしても動かなかった手が動いた。
それは、引き合うようなものだったと思う。
私の手が伸び、その人の手も伸びた。二つの手が重なるまで、異様に時間がかかった気がするのはきっと、私の手が私が思っていたほどには力を持たなかったせいだ。力なく、ゆっくりと伸びたのだと思う。
手と手が、静かに重なったその瞬間のことは、部屋の赤さよりも鮮明に覚えている。
求めていたのは、この手だと思った。
この手を離さなければ、どこまでも行けると思った。
「眠りなさい」
その人はそう言って、もう片方の手をそっと私の額に載せた。体はまだ動かなくて頷くこともできなかったけれど、いつの間にか瞼だけは言うことを聞くようになっていて、私は答える代わりに目を閉じた。
手と額に感じるその人の手の感触が、やがて私を眠らせた。この手の感触があるなら、何も不安ではないと思った。
そこでいつも目が覚める。
その夢を見るのは、決まって熱を出した時だった。義父に引き取られたばかりの私は、その直前の「事故」で負った怪我のせいかあまり健康ではなく、良く熱を出して寝込んだ。成長と訓練を重ねるうちにそういうことはなくなったが、その頃は一ヶ月に一度はそうして寝込んでいたと思う。
寝込んだ私に付き添って、寝ずに夜を明かしてくれたのも義父だった。私が夢から覚めると、義父はいつも本や書類から目を上げてこう言うのだ。「眠りなさい」、と。
その声は夢で聞いた声と良く似ている気がして、私はあの夢の光景は、過去に現実にあったことなのではないかと考える。けれど、それを義父に確かめたことはない。確かめるのはなぜか怖かった。訊くべきではないことのような気がした。
訊かずに済まして来れたのは、義父の手のせいかもしれなかった。
「眠りなさい」というごく短い言葉と共に、義父はいつも私の額に手を載せる。その度に、私は思うのだ。何も不安に思うことはない。この手を離さなければ、私はきっとどこまでも行ける。夢の中で感じたのと同じ安堵を、義父の手は私に与えてくれるのだ。
だから私は目を閉じる。あの夢と同じように。何も不安なことはないのだから。
そうして夢と同じように、私はまた、眠りに落ちるのだ。
+++++++++++++++++++++++++++
最近ではあまり熱も出さなくなって、見なくなっていた夢を久しぶりに見た。
赤い部屋。去っていく寒色の背中。
行かないで、行かないで。
触れ合う手。
触れた、手。
はっとした。夢ではない。間違いなく手が触れた。が、それは短い夢のように優しくはなかった。
首筋が鈍く痛む。手刀を落とされた――手が触れた箇所だ。
ダメージは軽かった。ー瞬とは言え意識を失うほどの衝撃ではあったが、その程度に加減されていたらしい。本気でやられていたら、きっと今頃は命がない。
だが、こちらは加減しなかった。する余裕もないだけの話だが。
伏せたままの姿勢から、腕の力だけで体を浮かせざま後方を脚で薙ぎ払う。方向は直感だ。
動いてから、しまったと思った。私の勘はよく当るが、それに頼り過ぎだと言われている。直感に頼らないで行動できるよう、訓練を重ねろといつも言われているのだ。
その意味では失敗したが、ある意味では成功した。その蹴りを避ける気配があったのだ。弧を描いた蹴りを避けて、標的が左側へ移動した気配がある。
これで相手の位置は捕捉した。問題は、ここからどう反撃するかだ。効き手の右ならともかく、この無理な体勢から、左手で相手をー撃で仕留められるか。
不可能、と判断した。それならどうするか。
そこまで思考が回った時、まだ痛む首筋にひやりとした皮手袋の感触が落ちた。断頭台の刃の感触だ。ゲームオーバー。今度こそ終わりだ。
模擬戦が始まってから時間にしたら十秒にも満たない間に、私は二度も殺されたことになる。
首筋に置かれた手刀が引かれるのを待って、私は立ち上がった。皮手袋の手の主を見上げる。三十センチ以上の身長差では、顔を見るのにも苦労する。私は首を仰向けに反らせた姿勢で敬礼の形をとった。
「まだ勘で行動している部分があるな」
「申し訳ありません」
返答は軍隊式のそれだ。六年の訓練の間に、それが体に染み付いている。と言っても私にはそれより以前の記憶はないから、生まれてからずっとそういう風に育てられて、自然と身に付いたと言ってもいいかもしれない。普段の生活が全て訓練そのものだったといっても過言ではないのだ。
普段の生活が訓練そのものなら、この模擬戦は試験に似ているかもしれない。普段は南国の基地で過ごす義父が、北欧のこの国、この家に戻ると必ず行うのがこの模擬戦だ。実際に戦うことで、何よりも良く訓練の成果が見えるのだと言う。
「お前の直感は才能のひとつだが、そればかりに頼っては腕が上がらない。今後更に気を付けるように」
「了解」
「だが、腕を上げたな。手加減をし損ねた」
そう言われて、義父の手刀が私に触れたのは初めてだと気付いた。
いつもは触れる寸前で手が止まる。こちらが全力を出しても、義父の方にはそれだけの余裕があるのだ。けれど、それが自分の成長のせいだとは思わなかった。私は未熟だ。
戦いの最中に夢を見るほどに。
「教官の怪我のせいです」
義父――普段は教官と呼んでいる――は怪我を負っていた。
無駄な肉のない剃刀のような体には、初秋に相応しい薄いコートを羽織っているからわかりにくいが、服の下には幾重にも包帯が巻かれている。先の作戦で負傷したのだそうだ。頼まれて包帯を替えた時、抉れたようなその傷跡に思わず息を呑むほどの傷たった。
その傷のために、義父はこの家に戻ってきた。義父は多忙な人だ。滅多にこの家には戻らない。私の訓練が滞らない程度には顔を見せるが、それもほんの一日二日の滞在がやっとで、ひどい時にはとんぼ返りだ。
それが1週間もこの家にいた。静養が必要だったのだ。それほどの怪我でなければ、義父が手加減をし損なうことなどなかっただろう。
本来なら、まだ休むべきだろう。だが義父は忙しい人だ。望むと望むまいと、世界の戦場が義父を必要としている。
風が冷たい。まだ初秋だが明け方は冷える。自分はともかく、怪我をした義父にはそれが障るのではないか、と思った。
「車まで持ちます」
私は敬礼の手を下ろして、言葉と共に差し出した。
「鞄を」
普段はそういうことはしない。私を含め、部下に傅かれるのを好まない人だ。それを知っているのに手を伸ばしたのは、鞄の重さどころか冷たい風が酷に見えるほどの怪我のためだ。
義父は少し迷ったようだが、結局鞄を私に預けた。その重い鞄を、私は左手に持ち替えて利き手を空ける。毎日の訓練で鍛えた腕は、まだ発展途上だがそれなりの筋肉を付けていて、この鞄のぐらいなら片手で充分だ。利き手を空けたのは、そうすることでいつ敵に襲われても対応できるようにするためだ。
そういう動作が自然にできるように教えたのもこの義父だ。物の持ち方、歩き方、ドアの開け閉めに至るまで、「事故」で記憶を失った私に全てを義父は教えてくれた。
その度に私は想いを強くした。夢としか記憶していないあの時と同じように、この手を離さなければ、どこまでも行けるという想いを。今ではこの義父は、私にとって絶対の存在だ。
車の助手席に鞄を置いてドアを閉め、一歩車から離れる。
「ちゃんと朝食を食べるように。特にたんぱく質の補給に気を配ること。以上だ」
フライトが早朝の便になったため、朝食の前に義父は出て行く。私はちょうどそろそろ朝食を摂る時間だ。義父は空港で済ますつもりだろう。
「了解」
短い返事と敬礼で義父を見送って、私は家に戻った。玄関で土埃を払い、洗面所で手と顔を洗ってから台所へ向かう。着替えようとは思わない。どうせ食事の後はまた訓練のスケジュールだ。今着替えてもまた汚す。
パンを切り、冷蔵庫を開ける。昨日宅配の食品が届いたから、冷蔵庫の中はぎっしりと物が詰まって暗い。そこから野菜ジュースとミルクを取り出して、ミルクにはプロテインのパウダーを混ぜた。私は肉や魚が苦手でほとんど口にできないから、代わりにそうするようにと指示されている。
パンと、野菜ジュースと、プロテイン入りのミルク。準備ができてしまえば、後はそれを淡々と口に運ぶだけだ。
硬いパンを咀嚼しながら、壁に飾られた写真を見る。私の食事の唯一の同席者がその写真だ。
古いと言うにはまだ鮮やかだが、ずっと飾られているせいで少し色が褪せてきている。映っているのは幼い少女と、その母親である女性の二人だ。目の辺りが良く似ているあたりに血の繋がりというものを感じる。
この二人の写真について、私から義父に訊いたことはない。触れてはいけないものであるような気がして訊こうとは思わなかったが、何かの折に義父の方から聞かされた。亡くなった妻と娘だという。
写真の中の二人は満面の笑顔を浮かべている。レンズの向こう、カメラを構える義父に向かって、これ以上ないぐらいの笑顔を向けている。
この屋敷で私が生活するようになって五年、その間に写真が架け替えられることは一度もなかった。多忙な義父は妻と娘と過ごす時間も短くて、写真を撮る機会もあまりなかったのだろう。この食堂だけではない。この屋敷のどの部屋にも、ニ人の写真が飾られているが、そのどれもが同じ写真だ。同じ写真を焼き増したものだ。おそらくこれが、たった一枚の写真なのだろう。同じ写真で家中を埋め尽くすほどに、義父の喪失感と絶望は深かったのだろう。たぶんそれを無意識に感じていて、私はこの写真について義父に訊かなかったのだ。
ふと、思った。この少女も義父の鞄を持ったのだろうか。
義父の鞄にはいつも書類やら何やらがぎっしりと詰まっていて、幼い少女が持つには重過ぎる。だがきっと、彼女も鞄を持ったのだろう。写真と同じ、満面の笑顔を浮かべて。きっと両手で抱えても鞄はまだ重く、足元は頼りなくふらついて、それでも笑顔で義父の隣を歩いたのだろう。
けれど、私は。
鞄を持つことはできる。片手で軽々と持って歩くこともできる。
だが、私はあの少女のようには笑えない。六年前の、「事故」で、私はそれ以前の記憶と共に、本来あるべき表情も失ってしまった。感情と言い換えてもいいかもしれない。
この写真の少女のように笑うことは、私にはできない。義父のために笑うことも、泣くことも。私にできるのは戦うことだけだ。義父の指示通りに訓練をこなし、教え通りに人と戦う術を覚える。それだけが私にできることだ。
訓練の成果を報告すれば、義父はそれでいいと言う。学び覚えた通りに動いて見せれば、義父はそれに頷いてくれる。
私はこれでいいのだ。笑えなくても。そう思う。義父が私にこの命をくれたようなものだ。半ば死の淵に落ちかけていたのを、手を引いて引き上げてくれたのは確かに義父だ。だから義父の望むとおり、戦えるならそれでいいのだと思う。
それでも私は、そっと頬に手をやって、そこを解すように揉んでみる。火の気のない台所の空気はしんと冷えていて、余計に強張る頬はいくら揉み解そうとしても緩まない。だから私は、すぐにそれを諦めた。こんな時は、せめて泣けたらいいのだろうか。
写真の中の二人は、ただ笑い続けている。
+++++++++++++++++++++++++++++
鳥が飛んでいる。
「あの鳥はどこに行くの?」
問う声はだいぶ低いところからした。幼い少女だ。いつの間にか私と手を繋いでいる。染めたように鮮やかな赤い髪をしていた。
「たぶん、北へ行くのだと思う」
渡り鳥だ。群を作って長い旅をする鳥だ。
「それじゃあなんで、飛んでいかないの?」
空を見ていた視線を下ろしても、そう問う少女の顔は見えない。たっぷりとした赤い髪に隠されてしまっている。
私はもう一度、空を見る。
鳥は一羽で飛んでいた。群からはぐれたのだろう。一羽きりで、空に弧を描いて飛んでいる。
「迷子ね、きっと。群からはぐれたから、どこに飛んでいけばいいのか分からないのね」
空は赤い。もうすぐ陽が落ちるのだろうか。
今夜、あの鳥はどうするのだろうと思った。早く仲間の元に戻って、今夜の塒に降りなければならないはずだ。夜になったら鳥は飛べない。
なのに、鳥はいつまでも赤い空に弧を描いている。仲間を見付けられずに飛び続けている。
「わたしと同じね」
幼い声が言う。そう言えば、この子も家に戻るような時間ではないのだろうか。
その疑問に答えるように、少女が言う。
「わたしもどこにも行けないの」
「どうして?」
「知ってるでしょう。わたしも一人だから」
「……どうして?」
「忘れたの?」
声には、少女の歳に似合わない、嘲りと怒りが混じっていた。
「だってあなたが」
「ああ、そうね……そうだったわね」
思い出した。その声で思い出した。なんでそんな大切なことを忘れていたのだろう。
鳥はまだ飛んでいる。力尽きるまでそうして飛んでいるつもりなのだろうか。
「あなたがパパを殺してしまったんだもの。だからわたしはどこへも行けない。一人きりで、どこにも行けない」
そこで、目が覚めた。
頭が重いのは、何か嫌な夢でも見たせいだろうか。ここのところずっとそうだ。目を覚ますと最初に感じるのは、良く寝た後の爽快感ではなく疲労ばかりだ。朝起きればそのほとんどが記憶にない夢なのに、それに縛り付けられているような不快さが残る。特にこの数ヶ月は酷い。いっそ眠らない方が楽なのではないかと思うほどだ。
馬鹿な考えだ、と私は首を振った。少なくとも体の疲れは、眠らなければ消えはしない。
時計を見ると、本来の起床時刻の三十分ほど前だった。三十分、少し走るか何かして、体を動かして忘れてしまおう。そう考えて、私は手早く着替え、青い髪をきつく結い上げた。今日はこの後外出の予定だから、髪に縛り癖が付くのは好ましくないが、シャワーを浴びて髪を乾かしなおせば済むことだ。
その時間を考えると、走れるのは二十分ないかもしれない。そう計算しながら、私は部屋を後にした。
「お前、その癖は変わってないんだな」
そう言われて、ラルフは自分が煙草を咥えたまま、火を点けるのを忘れていたことに気が付いた。
真剣にものを考える時の癖だ。思考がそちら側にしか向かなくなるらしく、煙草を咥えるところまでは行くものの、火を点けるのを忘れてしまう。そうしてすっかりフィルタを噛み潰して駄目にしてしまっては、また新しい煙草を咥えるものだから、気が付けば半箱も無駄にしてしまうことも珍しくはない。ガムを好むようになったのはそのせいもある。とりあえず何かを口に入れておけば煙草に手をつけることはないし、ガムならいくら噛んでも無駄はない。
「そんなに入れ込んでるのか、あの子に」
「誤解すんな馬鹿。そんなんじゃねえよ。ありゃあ親父がいきなり連れてきた、歳の離れた妹みたいなもんだ」
「そういうことにしといてやるよ。まあ、お前らしいといえばお前らしい話しだしな。お前は昔からそうだった。お節介体質と言うか、世話焼き馬鹿と言うか、余計なとこまでどんどん首突っ込みやがって」
「うるせえ、お前だってあいつ見てればそういう気にもなるさ。危なっかしくてしょうがねえんだよ、あいつは」
今更火を点けたところでまともな味は期待できそうにない煙草を灰皿に放って、ラルフはコーヒーを啜った。それは十年以上前、ラルフがこの基地で星条旗に敬礼していた頃と変わらない、半端に薄い味がした。
コーヒーだけはでない。建物にも廊下にも昔の記憶は染み付いていて、案内なしで歩けることはもちろん、目を閉じてでも目的地に辿り着けるような気がする。いや、やって見せろと言われたら、コインを賭けるぐらいの自信はあった。もっとも彼がここを離れてから今までの間に、部屋の配置換えがなかったことが前提だが。
だから、一仕事終えた帰り際、すれ違いかけた男に不意に名を呼ばれても、ラルフにとってはそれほど驚くようなことではなかった。
振り向けば、懐かしさをいっぱいに溢れ返らせているのは、当時同じ部隊にいた男だった。
「デビッド! お前デビッドか!?」
「傭兵部隊から誰か来てるって聞いたから、もしかしたらと思ってたんだが……やっぱりお前だったかラルフ!」
思わず抱き合って再会を喜んだ。なにしろこの基地では一番といってもいいほど、気が合う友人だったのだ。ついでにアルコールと女の好みも合っていて、何度も一緒に酒場で朝を迎えた仲で、その度に一緒に上官の大目玉を食らった仲でもある。
しかも、別れ際に連絡先を交換するような柄でもなく、縁があればまた会えるだろうぐらいに考えていたから、これが十年ぶりの再会だ。嬉しくないはずがない。
「いやしかし、お前ちっとも老けてないな。現役で前線にいると違うのかね、やっぱり」
「お前が老けすぎだよ。後方に引っ込んでるうちにすっかり禿げちまいやがってこの野郎。一瞬、誰かわからなかったじゃねえか」
「うるさいよ、髪のことは言うなよ畜生。俺は苦労が多いんだよ」
「それじゃあ俺には悩みなんかないみたいじゃないかよ。これでも大変なんだぞ。階級だけならお偉いさんなのに、未だに使い走りばっかり多くて」
今も昔も変わらない丁々発止。時にはビールを、時には銃を片手に肩を組んで笑っていたころに、男たちは簡単に戻っていく。
「使い走りで忙しくても、少しぐらいなら時間あるんだろう? 昔話ついでにコーヒーでも奢ってやるよ。こんなところで立ち話もなんだ」
「そりゃ是非とも、と言いたいところだけどよ、その――」
「角を二つ戻ったところに、休憩用のベンチがあったわ」
躊躇う言葉を遮ったのは、中年男二人の大騒ぎが沈静化するのを辛抱強く待っていた、再会の熱に一人だけ無縁のレオナだった。今日は、ラルフの補佐として同行している。
その声には少し、呆れた感があった。気を遣って声を掛けたというより、これ以上付き合うのはごめんだというところなのだろう。
「私はそこで待ってる。次の予定まで三十分ぐらいなら余裕があるわ。行ってきたら、カフェテリア」
「明日は嵐だな。お前からそんなお優しい台詞が出るとは」
「おいおい、せっかくのお嬢さんがそういってくれてるって言うのに、お前ひどいな。ああ、こいつ昔からこんなんだから、いつも苦労してるんだろうね」
ラルフの言い草にさすがに憮然としたレオナに、余計な気を使わせてすまないね、と代わりにデビッドが頭を下げた。昔もそうだった。いつもこんな風に、頼まれもしないのにデビッドがラルフの代わりに頭を下げて、それでいつもなんとなく上手く行っていたのだ。
「男二人の思い出話なんて、聞いていて面白いもんでもないだろうし、せっかくのご好意だ。甘えさせてもらうよミス・レオナ。御礼にテイクアウトでミックスジュースでも奢らせてくれ。ここのは絶品なんだ」
「ありがとう、ミスター・デビッド」
レオナは儀礼的に感謝の言葉を口にし、握手を求められた手を、これも儀礼的に握り返す。
「それじゃあラルフ、三十分後に」
あっさりと初対面の挨拶を終わらせると、レオナは先程その前を通り過ぎたばかりのベンチに向かった。それを見送りながら、ラルフは彼女に出会ってもう何度目になるかわからない溜息を吐く。
「愛想なしですまんな、いつもあれで困るんだ」
「わかってる。噂のレベルだが、話はいろいろ届いてるんでな。それじゃ、俺たちも行くか」
「理解ある旧友に感謝するよ」
そういう流れがあったせいか、カフェテリアに移動してからも、二人の話題の中心は昔の思い出ではなく、レオナのことが中心になった。
「何がこう、危なっかしいってよ。あいつ、あるところでは異常に大人なんだが、そうでないところは年齢よりずっと餓鬼臭いんだよな。バランスが取れてなくて、いつひっくり返るかわからねえ」
「そりゃお前だって同じじゃねえか。来年四十とは思えないぞ、お前も」
「混ぜっ返すなよ。そりゃ赤の他人ならいつひっくり返られてもかまわねえけどよ、同じチームなんだ。任務中になんかあったらこっちの命がやべえんだぞ」
ラルフは首を振りながら、新しい煙草を咥えた。今度は忘れないうちに火を点ける。
「あいつにゃ経験ってもんが足りねえんだ。まだ若いせいもあるけどよ」
「経験って、実戦のか?」
「それもあるけどよ。例えば、あいつ余所の水の味を知らねえんだ。教官の純粋培養だから」
「ああ、なるほど」
これだけで言いたいことが伝わると言うのが、長い付き合いのいいところだ、とラルフは思う。長い説明なしでも意思の疎通ができるというのはありがたい。
幼い頃からハイデルンの指導を受けていたレオナは、戦闘能力に限って言えば、ラルフやクラークに引けを取らない。しかし、経験と言う点では話が別だ。
どんなに厳しい訓練を積んでも、実戦でしか養えない、ある種の直感のようなものがある。それがいざという時、生死を分けることも少なくない。だが、それはおいおい身に付いていくだろうし、実際レオナはそうなりつつあった。まだ二年程度の実戦参加にしてはたいしたものだ。
それよりもラルフが気にしているのは、レオナがハイデルンの部隊しか知らないということだった。
例えばラルフにしろクラークにしろ、ハイデルンの元に落ち着く以前は各国の外人部隊や傭兵部隊を渡り歩いた時期がある。部隊の他の傭兵達も、その期間や数に違いはあれど、皆似たような過去を持っているはずだ。
レオナにはそれがない。余所の部隊の気質や癖というものがわからない。
傭兵はどんな国のどんな部隊とも、すぐに馴染めなければ仕事にならない。そういう時、過去に所属した部隊での経験が役に立つ。この部隊はあそこと似た癖がある。それならこういうフォローが必要だ。経験があれば、すぐにそんな風に考えることができる。それが今のレオナにはできない。
「うちの部隊にいれば、嫌でもあっちこっち引きずり回されるからよ、いずれは覚えると思うんだがな。でも、早く覚えることに越したことはないだろ? だからなるべく連れ回してるんだ」
「今日ここに連れてきたのも、言わば社会見学って訳か。若くて美人な部下を見せびらかしたいわけじゃないんだな」
「そういう気持ちが全くないって言ったら嘘になるけどな」
こんなこと、お前が相手から言うんだぞと付け加えてラルフは笑った。ついでに言うと、相手が1mm鼻の下でも伸ばしてくれれば、その分交渉が有利になるという打算もなくはない。無表情でも仏頂面でも、美少女が同じ部屋にいるだけで、気が緩む男は多いのだ。
「いやしかし、冗談抜きで俺はお前が羨ましいよ。美人だなんだはまた別として、素直そうでいい子じゃないか」
「どうしようもないファザコンだったり、時々暴走したりするんだぞ?」
「若いうちは誰だって暴走するだろ。俺だってお前だってそうだった」
ラルフの言う暴走が、言葉通り以上の代物で、若気の至りというには多分に危険すぎるということをデビッドは知らない。知らないゆえに彼は笑い、だからラルフもそれに合わせて笑うしかない。だが、デビッドの笑いは見る間に曇った。
「うちの連中の暴走ったらひどいぞ。ここ何年かの新人の中じゃ最悪だ」
「お前、新人の担当やってるのか?」
「五年前からな」
「そりゃ大変だ。それで禿げたか」
「だから頭のことは言うなよ」
本当にどうしようもない連中なんだよ、と今度はデビッドが溜息を吐く。
「スラムでギャングまがいのことやってた連中でも、あれよりはだいぶマシだった」
「そんなにか」
「訓練の成績はいいんだ。表面上は規律も守ってる。ただ、どうにも性根が悪くてな。なまじ成績がいい分、天狗になってる部分もあるし」
それだけ聞けばよくある話なのだが、当事者のデビッドにしてみれば相当な心労だろう。語る声にも表情にも苦悩が滲み出ている。
「あの伸びきっちまった鼻をとっととへし折ってやらないと、きっと戦場でどうしようもないことになる。それが自分たちだけの問題で済むならいいが、任務中なら他人も巻き込みかねん」
「結局、どこも悩みは同じか」
「だからさ、お前のところはまだ、素直な子でいいじゃないかと言ってるんだよ」
「なるほどなあ」
自分が新兵だったころの担当教官の、いつも苦虫を噛み潰したような顔を思い出して、ラルフは心底旧友に同情した。自分も相当ひどいものだったが、どうもデビッドが相手をしているのはそれと同等か、もしかすると上回るような問題児なのだろう。それに比べたら、多少偏食で愛想がなくて、その上極度のファザコンで暴走癖があるとしても、レオナは決して悪い方ではない。
「そんな連中に愛想を尽かさずに、心配して面倒見てやってるあたり、お前もつくづく馬鹿だなあ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
冷め始めたコーヒーを啜って、デビッドはそう答えた。
そうして結局、思い出話はほとんどないまま、愚痴を言い合うだけで三十分という短い時間は過ぎてしまう。中間管理職の悲哀というものは、こういうところにあるのかもしれない。
もう時間だと席を立って、二人はカフェテリアを出た。
「すまん、俺はこの後ちょっと、西ブロックの方で用事があってな。お前の見送りをすると遠回りだ。ここで挨拶させてくれ。レオナ嬢にもよろしくな」
「おお、それじゃ」
テイクアウトのミックスジュースの紙コップを受け取って、ラルフはデビッドに手を振った。
また、とか今度、という約束はしない。それが無意味なことであると、二人とも知っている。もし次に会うとしても、それは戦場で相手の死体を確認する時かもしれないし、それならまだしも、敵兵を狙って覗いたスコープ越しになるかもしれない。むしろ、再会などない方がいいかもしれないのだ。
だから二人は、そのまま左右に別れた。デビットは西ブロックへ続く通路へ、ラルフは元来た通路へ。
先のことはともかく、旧友に会えたというのは嬉しいものだ。カフェテリアのコーヒーは記憶のままの味で、旧友は相変わらず愉快でいいやつで、ラルフはあとちょっとで鼻歌も出る、というぐらいに気分が良かった。少なくとも、その声が聞こえるまでは。
若い男の声だ。何を言っているかまではわからないが、何か嫌な調子の喋り方をしている。やがて、その声の一語一句までも聞き取れる位置まで近付いた時、ラルフはレオナを置いて行ったことを心の底から後悔した。
聞くに堪えない罵詈雑言だった。
「大事な父上の保身の為とは言え、二十一も年上の男にあてがわれるとは苦労するなあ?」
「仕方ねえさ、昔からお姫様の仕事は政略結婚と決まってる」
違いねえ、と笑う声を聞く前に拳を固めた。
お姫様と言うのはレオナのことだろう。その父上と言うならハイデルンに違いないし、二十一も年上の男、これは状況から考えて自分のことでしかありえない。
レオナはどうにも、顔が売れ過ぎた節がある。歴戦の勇者ばかりのKOFを初陣とした少女傭兵。伝説の傭兵達に並んだ若き雌獅子。隻眼の傭兵隊長の養女にして秘蔵の懐刀。しかもちょっと陰のある、なかなかの美形。
身の程を知らない若い兵士たちなら、ちょっとからかってみたい、怒り顔を見てみたい、あるいは泣かせてみたいと思う、そんな存在なのだろう。
こりゃデビッドも苦労するな、と思うのと、こいつらにはキツ目のお仕置きが必要だな、と思うのが同時だった。余所の兵士を殴り飛ばせばどういう問題になるか、それはラルフもわかっている。しかし、一発食らわせてやらなければ気が済まなかった。
歩調を速める。もうひとつ角を曲がったところに、レオナの待っているベンチがある。連中にはとりあえず一発ずつぶち込んで、怒鳴るのはそれからでいい。うちの部隊に喧嘩売ったらどうなるか、それを思い知らせてやる。
爆発寸前まで加熱した思考は、角の向こうから突然現れたレオナに遮られた。
おそらく、レオナを囲んで暴言を浴びせかけていた男たちの間を、彼らが引きとめる間もなくするりと抜けてやって来たのだろう。それぐらいのことは、レオナなら簡単にやってのける。
虚を突かれて紙コップを取り落としそうになるラルフの腕を掴み、レオナは足早に、ラルフが元来た方向へと向かった。半ば引きずられる形になって、ラルフは抗議の声を上げる。
「お、おい、こら待てレオナ! お前このままでいいのかよ! あんなこと言われて黙ってるつもりか?」
「ここで問題を起こすと後が大変だもの。大丈夫、慣れてるわ」
「大丈夫、っておい」
「いつものことだから」
「いつものこと、って――まさかお前、しょっちゅうあんなこと言われてるのかよ?」
「……どこから聞こえてたの?」
「二十一も年上の、って辺りから」
「あなたが引き合いに出されるたのはそこだけよ。だから気にしないで」
「待て、ちょっと待て。とにかく止まれ!」
掴まれた腕を強引に振り解いて、ラルフはレオナの正面に回る。
聞き逃せない単語がいくつかあった。慣れてる、いつものこと、気にしないで。そんなことを言われて、黙っていられる性分ではない。
「聞いちまった以上、気にするなってのはもう無理だ。説明しろよ」
「どうしても話さないといけない?」
「自分と部下が侮辱されたんだ。上官として状況の説明を求めてもいいんだぜ」
普段は滅多に、上官だの階級だのという権限を引き合いに出さないラルフである。それがそういう言葉を出したのを見て、レオナは沈黙を諦めた。
「あなたが引き合いに出されるようになったのは最近のことよ。その前は、亡くした娘の代わりに引き取った養女に暗殺術を教えるなんて、悪趣味な義父を持って苦労するな、とかそんなことを言われていただけ。その次に多かったのは、ハイデルンは決して裏切らない殺人兵器が欲しいから、義娘をそう仕立てたんだって指をさされた。後は、愛人を連れ歩くとなると問題になるけれど、それが義娘という名目なら何かと都合がいいだろうとか、それから」
「わかった、悪かった、もう言うな。その先は言わなくていい」
レオナに説明させたことを、ラルフは後悔していた。ちょっと考えればわかることだった。
ハイデルンは敵の多い男だ。その手で直接屠っただけでも数えきれない人間を死に追いやってきたのだし、傭兵部隊の隊長という肩書きは、時に部隊に向けられる恨みの全てを一身に引き受けることになる。命を狙われることが日常にすらなった男だ。
だが、銃やナイフを向けられているうちはいい。それならまだ、いくらでもあしらいようがある。
本当に厄介なのは、明確な形にならない敵意だ。そこまでの動機がないのか、度胸がないのか、それとも力がないのかはわからないが、そういう敵意は、ひどく陰湿なものに変わりやすい。その典型が誹謗中傷である。
子供じみた悪口と、当の本人が笑うのは簡単だ。だが、世間の見方も同じとは限らない。ただの中傷だったはずが話が一人歩きし、やがてスキャンダルとして周囲を揺さぶり、それに引き摺られるように失脚することは、決して珍しい話ではない。
レオナの存在は、そういう攻撃にはまさにお誂え向けの材料だった。隠し子と疑うこともできたし(もしそうであれば、彼の妻子が存命のうちに設けた娘ということになる!)、義娘に暗殺術を教えるという行為は表面だけ見ればいかにも非人道的だ。そしてその義娘が美しく成長したとあれば、親子の関係を別なものと邪推するのも容易い。
いったいどれだけの中傷がそうやって流されたのか、考えるのもラルフは嫌だった。
たぶん先程の若い兵士たちも、そういう噂をどこかで聞いたのだろう。そこに噂の主の片割れ、それも一見、扱い易そうな方が現れた。向こう見ずで血気だけは盛んな若い兵士が、ちょっかいを出してみようと思うのは自然な成り行きだったのかもしれなかった。
「お前、昔からそんなこと言われてずっと黙ってたのか?」
「騒ぐと面倒なことになると思ったし」
「それは否定しないけどよ」
「誰かに話したら解決するものでもないし」
「それも否定しないがな。で、教官は? まさか教官にも話してないのか?」
「言ってない」
レオナは淡々と言葉を繋ぐ。
「でもきっと、あの人は知っているわ。気付かないような人ではないから。ああいうことをしてくるのはたいてい外部の人間だから、気付かないふりをしているだけ」
なるほど、とラルフは頷いた。ハイデルンが余所の部隊に干渉すれば大きな問題になる。ラルフが短気を起こして怒鳴り込むのとは、訳と地位と責任が違うのだ。
ハイデルンがそれをしてしまえば、やれ公私混同だ、娘贔屓だと批判されるのは間違いない。ハイデルンを快く思わない者たちは、それを材料にこぞって彼を叩くだろう。それがわかっていて動くのは馬鹿のすることだ。
かといって、逆に何も行動を起こさなければ、今度は身内から批判が出かねない。義娘があんなことを言われているというのに何もしないとは何事だ、冷血だ、無情だ。そんな声が上がるのは目に見えていた。最悪の場合は部隊の士気にも関わる。義娘に対してそうならば、赤の他人の部下の窮地など気にも留めないだろう、と思われたら終わりである。司令官を疑った兵士など、前線には出せない。
何も気付かないふりをするのが、ハイデルンにとっては最善の選択肢なのだ。
「私が気にしなければ、それで済むことよ。実際、どうでもいいこただし」
「どうでもいいってことはないだろうよ。お前とお前の父親が侮辱されてるんだぞ?」
「あの人がそういう人間じゃないってことを、私はちゃんとわかってる。あなたも、中尉も、部隊の皆も。それで充分だわ」
「お前自身のことはどうなんだ」
「それこそどうでもいいことだわ。私の知らない誰かが私をどう思っていようと、構いはしない」
本当にどうでもいい、と思っているわけではないだろう。レオナは寡黙ではあるが、お人好しではない。感情の起伏は小さいとはいえ、怒る時は怒る。
どうでもいい、と思いたいだけなのだ。ハイデルンが気付かぬふりをしている以上、レオナが声を上げるわけにはいかない。レオナが声を上げてしまえば、ハイデルンも無視できなくなる。だからどうでもいいことだと、自分に言い聞かせたいだけなのだ。
「お前、ねえ」
そこまで父親に尽くすこともなかろうに、とラルフは呆れ果てる。
「今はいいぞ、今は。でもいつか、それじゃ済まないってことにお前も気付くんだ。で、気付くような時にはたいてい、手遅れなんだぞ」
「……どういうこと?」
「お前も恋でもすればわかるさ」
いきなり縁のない単語を聞かされ、レオナは途方にくれたような顔をした。
「恋」
「そう。好きな相手にゃ、それでなくても自分のいいとこしか見せたくないもんだ。それなのに根も葉もない噂話なんぞ一つまみでも信じられてみろ。ありゃ泣けるなんてもんじゃねえぞ」
まだわかりゃしねえだろうが、とラルフは付け加えた。レオナには遠い話だ。ほんのたとえ話のつもりだった。
だから、レオナの答えは少し意外だった。
「……それなら、わかるような気がする」
戸惑い顔で首を傾げたレオナを、ラルフはほとんど呆然と見た。
「それが恋というものかどうかはわからないけれど、そういうふうに思う相手なら、いなくはないわ」
「回りくどい言い回しをするね、お前。で、相手は誰よ」
「教官」
「やっぱりそれか、このファザコン娘」
負け惜しみでない。予想はできた。レオナの答えを聞いた時には確かに驚いたが、訊き返したその時には、もうその答えを予想していたのだ。
この、人との関わりを諦めきってしまったような少女にそこまで思わせる相手など他にいない。
「親兄弟は解答欄から外しとけよ。こういう時に勘定に入れる相手じゃないだろ」
「そうね、私も入れるつもりはなかったのだけれど、そんなつもりはなかったはずなんだけれど――どう思う?」
「そんなもん俺に聞かれても困る」
ラルフは憮然とした。それを訊いてしまうあたりが、レオナらしいといえばその通りなのだが。
「俺にわかるわけないだろ。お前自身以外の誰にわかるって言うんだ」
レオナはそれに頷いたが、本当はラルフにはわかっていた。伊達に少女の倍の歳を重ねているわけではない。
とんだ薮蛇だ。藪ならぬレオナを突付いて出て来たものは、もしかしたら気付かないままの方が幸せだったかもしれない、義父への淡い恋心だ。
まあ不自然なことではないけどなと思いながら、ラルフは胸ポケットから煙草のパッケージを出し、片手で器用に中身を取り出して咥えた。
子供というのは一時期、異性の親に擬似的な恋愛感情を抱くものだ。それは誰でも通る成長過程で、不自然なものではないし、やがて子供はそれを卒業して一人立ちしていく。
だがレオナの場合は、擬似的な、通過儀礼的な恋心では済まないだろう。
二人は血の繋がらない親子で、しかもレオナにとってハイデルンは、単に義父というものを超えた存在だ。長い熱病になるだろうな、とラルフは思った。
そう、恋というのは熱病のようなものだ。その時は命懸けとさえ思っても、一時の熱が冷めてしまえば嘘のように忘れてしまう。
だが、熱も上がり過ぎれば脳を冒す。場合によっては命に関わる。その上、熱病というものは伝染すると、相場が決まっているのだ。
レオナの熱病は、ハイデルンをも冒すだろう。なぜかラルフは、確信めいてそう思っていた。
あの悲劇からそういうものに背を向け続けているハイデルンに、義娘の熱病が伝染した時、それはどういう結末に向かうのか。何事もなく冷めるか、またはその熱と共存する方法を見付けられるのか。
今はこれ以上考えたくなかった。考えたところでどうにもならない。ラルフがまあ、あれだ、と話を切り替えたのはそういう理由だ。
「とにかく、引っ叩いて来いよ、あいつらを」
「でも」
「おまえ自身が怒ってなくても、教官の分ってもんがある。いくら黙ってるって言ったって、自分の娘を侮辱されて怒らない父親はいねえぞ。少なくともあの人は、そういう親だ」
親だ、と繰り返したのは、やはり先程の会話をどこかで引き摺っているせいかもしれない。
「それでもあの人は動けねえ。お前の言うとおり、問題になるからな。けどお前がやる分には、俺が「若気の至りです、許してやってください」ってあっちこっちに頭下げて、教官がそれを黙認すりゃ済むことだ。あの人にはそれ以上の迷惑はかからねえ。思い切り引っ叩いて、教官をすっきりさせてやれ」
それでもまだ動けないレオナの背を、ラルフは更に押してやる。
「ついでに俺の分も頼まれてくれると助かるんだが。なあ、俺も腹が立ってんだ。頼まれろよ」
「それは、命令?」
「命令じゃねえな。でも、後始末はしてやるって言ってるんだ。察しろ」
「……了解」
「命令じゃねえって言ってんだろ。敬礼するなよ」
苦笑するラルフに背を向けて、レオナは再びベンチに向かって、やや足早に歩いて行く。
その背中が廊下の向こうに消えたところで、ラルフは先程から感じていた気配に向かって声を掛けた。
「つーことで、後始末の手伝い頼むわ」
「やっぱり気付いてたか」
苦笑いしながら隣に並んだデビッドより、さらに苦い顔を浮かべてラルフはそれを隠そうとしない。
「狙っただろ、お前」
「やっぱりわかるか」
若い娘だからといって気軽にちょっかいを出して、想像以上の痛い目に遭えば、どんな威勢のいい連中の天狗の鼻でも折れるだろう。それを期待してラルフを誘ったのだと、デビッドは認めた。レオナが席を外すと言い出してくれたのは好都合で、そうでなければそう頼むつもりでいたのだ。
「いつ気付いた?」
「お前が黙って見てる気配に気付いた時から。昔のお前なら、まず飛び出してきて謝って、あの連中ぶん殴ってからまた謝っただろ?」
「すまんな。今のうちに、若いお嬢さんにでも頬を張られないことには、あいつらの性根は治りそうにないんだ」
「わからなくもないけどよ」
「すまんな」
言葉少なに、デビッドはもう一度謝った。
「軟派な火遊びで済むかと思ったんだが、ああいう暴言を吐くとは思わなかった。どこであんなネタ仕入れたんだか……あの子には辛い想いをさせた。本当にすまない」
「うちの教官殿にゃ敵が多いからな。どこから吹き込まれてもおかしかねえよ。ただ、ガセ掴まされるのは情報管理が甘い証拠だぞ。気を付けろ――吸うか?」
そうやってデビッドに煙草を勧めて、ラルフはやっと、自分がまた煙草に火を点けていなかったことに気が付いた。フィルターはすっかり噛み潰されて、唇の間で力なく萎れている。
「俺は引退するよ、ラルフ」
紫煙と共に吐き出されたデビッドの声は、先程よりも更に疲れを色濃くしていた。
「いくらどうしようもない新人だからって、他人を利用してどうにかしようなんて考える時点で、もう駄目だったんだな俺は。この後始末が終わったら軍を辞めて、田舎に帰るさ」
「ああ、それがいい」
萎れた煙草の隙間から漏れたラルフの声も、デビッドに負けず疲れていた。
「さて、そろそろ迎えに行ってやるか。あいつ、喧嘩慣れしてないから引っ込みどころってもんがわからねえだろうしな」
ああそうだ、今日はいろいろなことがありすぎて疲れた。早くレオナを連れて帰ろう。そればかりがラルフの頭の中を回り始める。
「まだ静かじゃないか。終わってないんじゃないか?」
「あいつのは生粋の隊長仕込みだ。俺なんかの亜流とは訳が違う。あんな若造相手に音なんか立てるかよ」
「そうか、それじゃあ早く行ってやらないとな」
「でもあれだ。その前に一発殴らせろ」
その唐突で乱暴な物言いに、旧友はただ、横顔を伏せて笑った。笑うよりない、という顔をしていた。
「ああ、お前を誘った時から覚悟はできてる」
やっぱり付き合いの長い奴はいい。ラルフは心からそう思う。長々と理由を説明する必要がない。最低限の言葉でちゃんと伝わる。
「馬鹿だね、お前も大概」
「お前にゃ負けるさ」
程なくして、拳が肉を打つ鈍い音がし、続いてまだ長い煙草が床に落ちた。それを爪先で踏み消しながら、もう二度とこの旧友に会うことはないだろうととラルフは思っていた。
手の中では紙コップが汗をかいて、掌をじっとりと濡らしている。
++++++++++++++++++++
その部屋は真っ赤に塗り潰されていた。一面赤だという印象が強いが、今思えばそれはひどい突貫作業のようだった。たっぷりとペンキをつけた刷毛で、手の届くところだけを乱雑に擦ったような赤。天井辺りなどは、ところどころに赤い点が散っているだけで手付かずだった。
天井のことなど覚えているのは、私がその部屋の床に寝ていて、天井ばかり見ていたからだ。違う。天井しか見えなかったからだ。
なぜか体が全く動かない。その上、体中がひどく痛む。鼓動に合わせて小刻みに痛みの満ち引きを繰り返す体を持て余して、無性に膝を抱えて丸くなりたいと思った。だが、指一本動かない。冷たく硬い床に、痛む体で仰向きで寝ているのはつらかった。できることなら眠ってしまいたかったが、瞼も閉じられない。それも自由にならなかった。
仕方なく、私はずっと天井を見ていた。
なにか、ひどいことがあったような気がした。なにかとてもひどいことが起きて、色々なものをめちゃくちゃにされてしまったような気がしたが、それが何なのかは思い出せなかった。何を壊されたのか、何が壊してしまったのか、そのどちらも思い出せなかった。考えようとすると頭が痛くなった。
だから私は、そのうち考えることもやめた。淀んだ空気、すえた臭いの篭った部屋の中で、ただ天井を見ていた。
どれぐらい、そうしていたのだろう。天井以外のものが視界に入ってきたことに、ずいぶん遅れて私は気が付いたのだと思う。というのは、気付いた時にはすでにそれがあったからだ。それが現れた、あるいは部屋に入ってきた瞬間を、私は覚えていない。
それは影だった。相変わらず体は動かなかったから、私は視線だけをいっぱいに動かして影を追った。
背の高い男の影だった。見えたのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
穏やかな寒色の背中は、しかし遠ざかろうとしていた。私はなぜだか直感的に、「この人はもうこの場所に用はないのだ」と思った。この人はここでの仕事をやり終えた、だから出て行くのだ、と感じたのだ。その直感が正しかったかどうかはわからないが、少なくともその人が部屋のドアに向かっている、それは確かだった。
行かないで、と思った。いや、それは正確ではない。ただ、こちらを向いて欲しいと思ったのだ。置き去りにしないでとも、助けてとも思ったのではない。それだけは間違いない。ただ、こちらを見て欲しかった。けれど声は出ない。喉も唇も動かない。
行かないで、行かないで。こちらを見て。私はその人の背中を見つめながら、一心に祈った。そう、私が神に祈ったことがあるとすれば、きっとあれがその最後の一回だ。
祈りは、届いた。
振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えなかった。それなのに、視線が合ったということだけはなわかった。
言葉は出なかった。けれど、それまでどうしても動かなかった手が動いた。
それは、引き合うようなものだったと思う。
私の手が伸び、その人の手も伸びた。二つの手が重なるまで、異様に時間がかかった気がするのはきっと、私の手が私が思っていたほどには力を持たなかったせいだ。力なく、ゆっくりと伸びたのだと思う。
手と手が、静かに重なったその瞬間のことは、部屋の赤さよりも鮮明に覚えている。
求めていたのは、この手だと思った。
この手を離さなければ、どこまでも行けると思った。
「眠りなさい」
その人はそう言って、もう片方の手をそっと私の額に載せた。体はまだ動かなくて頷くこともできなかったけれど、いつの間にか瞼だけは言うことを聞くようになっていて、私は答える代わりに目を閉じた。
手と額に感じるその人の手の感触が、やがて私を眠らせた。この手の感触があるなら、何も不安ではないと思った。
そこでいつも目が覚める。
その夢を見るのは、決まって熱を出した時だった。義父に引き取られたばかりの私は、その直前の「事故」で負った怪我のせいかあまり健康ではなく、良く熱を出して寝込んだ。成長と訓練を重ねるうちにそういうことはなくなったが、その頃は一ヶ月に一度はそうして寝込んでいたと思う。
寝込んだ私に付き添って、寝ずに夜を明かしてくれたのも義父だった。私が夢から覚めると、義父はいつも本や書類から目を上げてこう言うのだ。「眠りなさい」、と。
その声は夢で聞いた声と良く似ている気がして、私はあの夢の光景は、過去に現実にあったことなのではないかと考える。けれど、それを義父に確かめたことはない。確かめるのはなぜか怖かった。訊くべきではないことのような気がした。
訊かずに済まして来れたのは、義父の手のせいかもしれなかった。
「眠りなさい」というごく短い言葉と共に、義父はいつも私の額に手を載せる。その度に、私は思うのだ。何も不安に思うことはない。この手を離さなければ、私はきっとどこまでも行ける。夢の中で感じたのと同じ安堵を、義父の手は私に与えてくれるのだ。
だから私は目を閉じる。あの夢と同じように。何も不安なことはないのだから。
そうして夢と同じように、私はまた、眠りに落ちるのだ。
+++++++++++++++++++++++++++
最近ではあまり熱も出さなくなって、見なくなっていた夢を久しぶりに見た。
赤い部屋。去っていく寒色の背中。
行かないで、行かないで。
触れ合う手。
触れた、手。
はっとした。夢ではない。間違いなく手が触れた。が、それは短い夢のように優しくはなかった。
首筋が鈍く痛む。手刀を落とされた――手が触れた箇所だ。
ダメージは軽かった。ー瞬とは言え意識を失うほどの衝撃ではあったが、その程度に加減されていたらしい。本気でやられていたら、きっと今頃は命がない。
だが、こちらは加減しなかった。する余裕もないだけの話だが。
伏せたままの姿勢から、腕の力だけで体を浮かせざま後方を脚で薙ぎ払う。方向は直感だ。
動いてから、しまったと思った。私の勘はよく当るが、それに頼り過ぎだと言われている。直感に頼らないで行動できるよう、訓練を重ねろといつも言われているのだ。
その意味では失敗したが、ある意味では成功した。その蹴りを避ける気配があったのだ。弧を描いた蹴りを避けて、標的が左側へ移動した気配がある。
これで相手の位置は捕捉した。問題は、ここからどう反撃するかだ。効き手の右ならともかく、この無理な体勢から、左手で相手をー撃で仕留められるか。
不可能、と判断した。それならどうするか。
そこまで思考が回った時、まだ痛む首筋にひやりとした皮手袋の感触が落ちた。断頭台の刃の感触だ。ゲームオーバー。今度こそ終わりだ。
模擬戦が始まってから時間にしたら十秒にも満たない間に、私は二度も殺されたことになる。
首筋に置かれた手刀が引かれるのを待って、私は立ち上がった。皮手袋の手の主を見上げる。三十センチ以上の身長差では、顔を見るのにも苦労する。私は首を仰向けに反らせた姿勢で敬礼の形をとった。
「まだ勘で行動している部分があるな」
「申し訳ありません」
返答は軍隊式のそれだ。六年の訓練の間に、それが体に染み付いている。と言っても私にはそれより以前の記憶はないから、生まれてからずっとそういう風に育てられて、自然と身に付いたと言ってもいいかもしれない。普段の生活が全て訓練そのものだったといっても過言ではないのだ。
普段の生活が訓練そのものなら、この模擬戦は試験に似ているかもしれない。普段は南国の基地で過ごす義父が、北欧のこの国、この家に戻ると必ず行うのがこの模擬戦だ。実際に戦うことで、何よりも良く訓練の成果が見えるのだと言う。
「お前の直感は才能のひとつだが、そればかりに頼っては腕が上がらない。今後更に気を付けるように」
「了解」
「だが、腕を上げたな。手加減をし損ねた」
そう言われて、義父の手刀が私に触れたのは初めてだと気付いた。
いつもは触れる寸前で手が止まる。こちらが全力を出しても、義父の方にはそれだけの余裕があるのだ。けれど、それが自分の成長のせいだとは思わなかった。私は未熟だ。
戦いの最中に夢を見るほどに。
「教官の怪我のせいです」
義父――普段は教官と呼んでいる――は怪我を負っていた。
無駄な肉のない剃刀のような体には、初秋に相応しい薄いコートを羽織っているからわかりにくいが、服の下には幾重にも包帯が巻かれている。先の作戦で負傷したのだそうだ。頼まれて包帯を替えた時、抉れたようなその傷跡に思わず息を呑むほどの傷たった。
その傷のために、義父はこの家に戻ってきた。義父は多忙な人だ。滅多にこの家には戻らない。私の訓練が滞らない程度には顔を見せるが、それもほんの一日二日の滞在がやっとで、ひどい時にはとんぼ返りだ。
それが1週間もこの家にいた。静養が必要だったのだ。それほどの怪我でなければ、義父が手加減をし損なうことなどなかっただろう。
本来なら、まだ休むべきだろう。だが義父は忙しい人だ。望むと望むまいと、世界の戦場が義父を必要としている。
風が冷たい。まだ初秋だが明け方は冷える。自分はともかく、怪我をした義父にはそれが障るのではないか、と思った。
「車まで持ちます」
私は敬礼の手を下ろして、言葉と共に差し出した。
「鞄を」
普段はそういうことはしない。私を含め、部下に傅かれるのを好まない人だ。それを知っているのに手を伸ばしたのは、鞄の重さどころか冷たい風が酷に見えるほどの怪我のためだ。
義父は少し迷ったようだが、結局鞄を私に預けた。その重い鞄を、私は左手に持ち替えて利き手を空ける。毎日の訓練で鍛えた腕は、まだ発展途上だがそれなりの筋肉を付けていて、この鞄のぐらいなら片手で充分だ。利き手を空けたのは、そうすることでいつ敵に襲われても対応できるようにするためだ。
そういう動作が自然にできるように教えたのもこの義父だ。物の持ち方、歩き方、ドアの開け閉めに至るまで、「事故」で記憶を失った私に全てを義父は教えてくれた。
その度に私は想いを強くした。夢としか記憶していないあの時と同じように、この手を離さなければ、どこまでも行けるという想いを。今ではこの義父は、私にとって絶対の存在だ。
車の助手席に鞄を置いてドアを閉め、一歩車から離れる。
「ちゃんと朝食を食べるように。特にたんぱく質の補給に気を配ること。以上だ」
フライトが早朝の便になったため、朝食の前に義父は出て行く。私はちょうどそろそろ朝食を摂る時間だ。義父は空港で済ますつもりだろう。
「了解」
短い返事と敬礼で義父を見送って、私は家に戻った。玄関で土埃を払い、洗面所で手と顔を洗ってから台所へ向かう。着替えようとは思わない。どうせ食事の後はまた訓練のスケジュールだ。今着替えてもまた汚す。
パンを切り、冷蔵庫を開ける。昨日宅配の食品が届いたから、冷蔵庫の中はぎっしりと物が詰まって暗い。そこから野菜ジュースとミルクを取り出して、ミルクにはプロテインのパウダーを混ぜた。私は肉や魚が苦手でほとんど口にできないから、代わりにそうするようにと指示されている。
パンと、野菜ジュースと、プロテイン入りのミルク。準備ができてしまえば、後はそれを淡々と口に運ぶだけだ。
硬いパンを咀嚼しながら、壁に飾られた写真を見る。私の食事の唯一の同席者がその写真だ。
古いと言うにはまだ鮮やかだが、ずっと飾られているせいで少し色が褪せてきている。映っているのは幼い少女と、その母親である女性の二人だ。目の辺りが良く似ているあたりに血の繋がりというものを感じる。
この二人の写真について、私から義父に訊いたことはない。触れてはいけないものであるような気がして訊こうとは思わなかったが、何かの折に義父の方から聞かされた。亡くなった妻と娘だという。
写真の中の二人は満面の笑顔を浮かべている。レンズの向こう、カメラを構える義父に向かって、これ以上ないぐらいの笑顔を向けている。
この屋敷で私が生活するようになって五年、その間に写真が架け替えられることは一度もなかった。多忙な義父は妻と娘と過ごす時間も短くて、写真を撮る機会もあまりなかったのだろう。この食堂だけではない。この屋敷のどの部屋にも、ニ人の写真が飾られているが、そのどれもが同じ写真だ。同じ写真を焼き増したものだ。おそらくこれが、たった一枚の写真なのだろう。同じ写真で家中を埋め尽くすほどに、義父の喪失感と絶望は深かったのだろう。たぶんそれを無意識に感じていて、私はこの写真について義父に訊かなかったのだ。
ふと、思った。この少女も義父の鞄を持ったのだろうか。
義父の鞄にはいつも書類やら何やらがぎっしりと詰まっていて、幼い少女が持つには重過ぎる。だがきっと、彼女も鞄を持ったのだろう。写真と同じ、満面の笑顔を浮かべて。きっと両手で抱えても鞄はまだ重く、足元は頼りなくふらついて、それでも笑顔で義父の隣を歩いたのだろう。
けれど、私は。
鞄を持つことはできる。片手で軽々と持って歩くこともできる。
だが、私はあの少女のようには笑えない。六年前の、「事故」で、私はそれ以前の記憶と共に、本来あるべき表情も失ってしまった。感情と言い換えてもいいかもしれない。
この写真の少女のように笑うことは、私にはできない。義父のために笑うことも、泣くことも。私にできるのは戦うことだけだ。義父の指示通りに訓練をこなし、教え通りに人と戦う術を覚える。それだけが私にできることだ。
訓練の成果を報告すれば、義父はそれでいいと言う。学び覚えた通りに動いて見せれば、義父はそれに頷いてくれる。
私はこれでいいのだ。笑えなくても。そう思う。義父が私にこの命をくれたようなものだ。半ば死の淵に落ちかけていたのを、手を引いて引き上げてくれたのは確かに義父だ。だから義父の望むとおり、戦えるならそれでいいのだと思う。
それでも私は、そっと頬に手をやって、そこを解すように揉んでみる。火の気のない台所の空気はしんと冷えていて、余計に強張る頬はいくら揉み解そうとしても緩まない。だから私は、すぐにそれを諦めた。こんな時は、せめて泣けたらいいのだろうか。
写真の中の二人は、ただ笑い続けている。
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鳥が飛んでいる。
「あの鳥はどこに行くの?」
問う声はだいぶ低いところからした。幼い少女だ。いつの間にか私と手を繋いでいる。染めたように鮮やかな赤い髪をしていた。
「たぶん、北へ行くのだと思う」
渡り鳥だ。群を作って長い旅をする鳥だ。
「それじゃあなんで、飛んでいかないの?」
空を見ていた視線を下ろしても、そう問う少女の顔は見えない。たっぷりとした赤い髪に隠されてしまっている。
私はもう一度、空を見る。
鳥は一羽で飛んでいた。群からはぐれたのだろう。一羽きりで、空に弧を描いて飛んでいる。
「迷子ね、きっと。群からはぐれたから、どこに飛んでいけばいいのか分からないのね」
空は赤い。もうすぐ陽が落ちるのだろうか。
今夜、あの鳥はどうするのだろうと思った。早く仲間の元に戻って、今夜の塒に降りなければならないはずだ。夜になったら鳥は飛べない。
なのに、鳥はいつまでも赤い空に弧を描いている。仲間を見付けられずに飛び続けている。
「わたしと同じね」
幼い声が言う。そう言えば、この子も家に戻るような時間ではないのだろうか。
その疑問に答えるように、少女が言う。
「わたしもどこにも行けないの」
「どうして?」
「知ってるでしょう。わたしも一人だから」
「……どうして?」
「忘れたの?」
声には、少女の歳に似合わない、嘲りと怒りが混じっていた。
「だってあなたが」
「ああ、そうね……そうだったわね」
思い出した。その声で思い出した。なんでそんな大切なことを忘れていたのだろう。
鳥はまだ飛んでいる。力尽きるまでそうして飛んでいるつもりなのだろうか。
「あなたがパパを殺してしまったんだもの。だからわたしはどこへも行けない。一人きりで、どこにも行けない」
そこで、目が覚めた。
頭が重いのは、何か嫌な夢でも見たせいだろうか。ここのところずっとそうだ。目を覚ますと最初に感じるのは、良く寝た後の爽快感ではなく疲労ばかりだ。朝起きればそのほとんどが記憶にない夢なのに、それに縛り付けられているような不快さが残る。特にこの数ヶ月は酷い。いっそ眠らない方が楽なのではないかと思うほどだ。
馬鹿な考えだ、と私は首を振った。少なくとも体の疲れは、眠らなければ消えはしない。
時計を見ると、本来の起床時刻の三十分ほど前だった。三十分、少し走るか何かして、体を動かして忘れてしまおう。そう考えて、私は手早く着替え、青い髪をきつく結い上げた。今日はこの後外出の予定だから、髪に縛り癖が付くのは好ましくないが、シャワーを浴びて髪を乾かしなおせば済むことだ。
その時間を考えると、走れるのは二十分ないかもしれない。そう計算しながら、私は部屋を後にした。
「お前、その癖は変わってないんだな」
そう言われて、ラルフは自分が煙草を咥えたまま、火を点けるのを忘れていたことに気が付いた。
真剣にものを考える時の癖だ。思考がそちら側にしか向かなくなるらしく、煙草を咥えるところまでは行くものの、火を点けるのを忘れてしまう。そうしてすっかりフィルタを噛み潰して駄目にしてしまっては、また新しい煙草を咥えるものだから、気が付けば半箱も無駄にしてしまうことも珍しくはない。ガムを好むようになったのはそのせいもある。とりあえず何かを口に入れておけば煙草に手をつけることはないし、ガムならいくら噛んでも無駄はない。
「そんなに入れ込んでるのか、あの子に」
「誤解すんな馬鹿。そんなんじゃねえよ。ありゃあ親父がいきなり連れてきた、歳の離れた妹みたいなもんだ」
「そういうことにしといてやるよ。まあ、お前らしいといえばお前らしい話しだしな。お前は昔からそうだった。お節介体質と言うか、世話焼き馬鹿と言うか、余計なとこまでどんどん首突っ込みやがって」
「うるせえ、お前だってあいつ見てればそういう気にもなるさ。危なっかしくてしょうがねえんだよ、あいつは」
今更火を点けたところでまともな味は期待できそうにない煙草を灰皿に放って、ラルフはコーヒーを啜った。それは十年以上前、ラルフがこの基地で星条旗に敬礼していた頃と変わらない、半端に薄い味がした。
コーヒーだけはでない。建物にも廊下にも昔の記憶は染み付いていて、案内なしで歩けることはもちろん、目を閉じてでも目的地に辿り着けるような気がする。いや、やって見せろと言われたら、コインを賭けるぐらいの自信はあった。もっとも彼がここを離れてから今までの間に、部屋の配置換えがなかったことが前提だが。
だから、一仕事終えた帰り際、すれ違いかけた男に不意に名を呼ばれても、ラルフにとってはそれほど驚くようなことではなかった。
振り向けば、懐かしさをいっぱいに溢れ返らせているのは、当時同じ部隊にいた男だった。
「デビッド! お前デビッドか!?」
「傭兵部隊から誰か来てるって聞いたから、もしかしたらと思ってたんだが……やっぱりお前だったかラルフ!」
思わず抱き合って再会を喜んだ。なにしろこの基地では一番といってもいいほど、気が合う友人だったのだ。ついでにアルコールと女の好みも合っていて、何度も一緒に酒場で朝を迎えた仲で、その度に一緒に上官の大目玉を食らった仲でもある。
しかも、別れ際に連絡先を交換するような柄でもなく、縁があればまた会えるだろうぐらいに考えていたから、これが十年ぶりの再会だ。嬉しくないはずがない。
「いやしかし、お前ちっとも老けてないな。現役で前線にいると違うのかね、やっぱり」
「お前が老けすぎだよ。後方に引っ込んでるうちにすっかり禿げちまいやがってこの野郎。一瞬、誰かわからなかったじゃねえか」
「うるさいよ、髪のことは言うなよ畜生。俺は苦労が多いんだよ」
「それじゃあ俺には悩みなんかないみたいじゃないかよ。これでも大変なんだぞ。階級だけならお偉いさんなのに、未だに使い走りばっかり多くて」
今も昔も変わらない丁々発止。時にはビールを、時には銃を片手に肩を組んで笑っていたころに、男たちは簡単に戻っていく。
「使い走りで忙しくても、少しぐらいなら時間あるんだろう? 昔話ついでにコーヒーでも奢ってやるよ。こんなところで立ち話もなんだ」
「そりゃ是非とも、と言いたいところだけどよ、その――」
「角を二つ戻ったところに、休憩用のベンチがあったわ」
躊躇う言葉を遮ったのは、中年男二人の大騒ぎが沈静化するのを辛抱強く待っていた、再会の熱に一人だけ無縁のレオナだった。今日は、ラルフの補佐として同行している。
その声には少し、呆れた感があった。気を遣って声を掛けたというより、これ以上付き合うのはごめんだというところなのだろう。
「私はそこで待ってる。次の予定まで三十分ぐらいなら余裕があるわ。行ってきたら、カフェテリア」
「明日は嵐だな。お前からそんなお優しい台詞が出るとは」
「おいおい、せっかくのお嬢さんがそういってくれてるって言うのに、お前ひどいな。ああ、こいつ昔からこんなんだから、いつも苦労してるんだろうね」
ラルフの言い草にさすがに憮然としたレオナに、余計な気を使わせてすまないね、と代わりにデビッドが頭を下げた。昔もそうだった。いつもこんな風に、頼まれもしないのにデビッドがラルフの代わりに頭を下げて、それでいつもなんとなく上手く行っていたのだ。
「男二人の思い出話なんて、聞いていて面白いもんでもないだろうし、せっかくのご好意だ。甘えさせてもらうよミス・レオナ。御礼にテイクアウトでミックスジュースでも奢らせてくれ。ここのは絶品なんだ」
「ありがとう、ミスター・デビッド」
レオナは儀礼的に感謝の言葉を口にし、握手を求められた手を、これも儀礼的に握り返す。
「それじゃあラルフ、三十分後に」
あっさりと初対面の挨拶を終わらせると、レオナは先程その前を通り過ぎたばかりのベンチに向かった。それを見送りながら、ラルフは彼女に出会ってもう何度目になるかわからない溜息を吐く。
「愛想なしですまんな、いつもあれで困るんだ」
「わかってる。噂のレベルだが、話はいろいろ届いてるんでな。それじゃ、俺たちも行くか」
「理解ある旧友に感謝するよ」
そういう流れがあったせいか、カフェテリアに移動してからも、二人の話題の中心は昔の思い出ではなく、レオナのことが中心になった。
「何がこう、危なっかしいってよ。あいつ、あるところでは異常に大人なんだが、そうでないところは年齢よりずっと餓鬼臭いんだよな。バランスが取れてなくて、いつひっくり返るかわからねえ」
「そりゃお前だって同じじゃねえか。来年四十とは思えないぞ、お前も」
「混ぜっ返すなよ。そりゃ赤の他人ならいつひっくり返られてもかまわねえけどよ、同じチームなんだ。任務中になんかあったらこっちの命がやべえんだぞ」
ラルフは首を振りながら、新しい煙草を咥えた。今度は忘れないうちに火を点ける。
「あいつにゃ経験ってもんが足りねえんだ。まだ若いせいもあるけどよ」
「経験って、実戦のか?」
「それもあるけどよ。例えば、あいつ余所の水の味を知らねえんだ。教官の純粋培養だから」
「ああ、なるほど」
これだけで言いたいことが伝わると言うのが、長い付き合いのいいところだ、とラルフは思う。長い説明なしでも意思の疎通ができるというのはありがたい。
幼い頃からハイデルンの指導を受けていたレオナは、戦闘能力に限って言えば、ラルフやクラークに引けを取らない。しかし、経験と言う点では話が別だ。
どんなに厳しい訓練を積んでも、実戦でしか養えない、ある種の直感のようなものがある。それがいざという時、生死を分けることも少なくない。だが、それはおいおい身に付いていくだろうし、実際レオナはそうなりつつあった。まだ二年程度の実戦参加にしてはたいしたものだ。
それよりもラルフが気にしているのは、レオナがハイデルンの部隊しか知らないということだった。
例えばラルフにしろクラークにしろ、ハイデルンの元に落ち着く以前は各国の外人部隊や傭兵部隊を渡り歩いた時期がある。部隊の他の傭兵達も、その期間や数に違いはあれど、皆似たような過去を持っているはずだ。
レオナにはそれがない。余所の部隊の気質や癖というものがわからない。
傭兵はどんな国のどんな部隊とも、すぐに馴染めなければ仕事にならない。そういう時、過去に所属した部隊での経験が役に立つ。この部隊はあそこと似た癖がある。それならこういうフォローが必要だ。経験があれば、すぐにそんな風に考えることができる。それが今のレオナにはできない。
「うちの部隊にいれば、嫌でもあっちこっち引きずり回されるからよ、いずれは覚えると思うんだがな。でも、早く覚えることに越したことはないだろ? だからなるべく連れ回してるんだ」
「今日ここに連れてきたのも、言わば社会見学って訳か。若くて美人な部下を見せびらかしたいわけじゃないんだな」
「そういう気持ちが全くないって言ったら嘘になるけどな」
こんなこと、お前が相手から言うんだぞと付け加えてラルフは笑った。ついでに言うと、相手が1mm鼻の下でも伸ばしてくれれば、その分交渉が有利になるという打算もなくはない。無表情でも仏頂面でも、美少女が同じ部屋にいるだけで、気が緩む男は多いのだ。
「いやしかし、冗談抜きで俺はお前が羨ましいよ。美人だなんだはまた別として、素直そうでいい子じゃないか」
「どうしようもないファザコンだったり、時々暴走したりするんだぞ?」
「若いうちは誰だって暴走するだろ。俺だってお前だってそうだった」
ラルフの言う暴走が、言葉通り以上の代物で、若気の至りというには多分に危険すぎるということをデビッドは知らない。知らないゆえに彼は笑い、だからラルフもそれに合わせて笑うしかない。だが、デビッドの笑いは見る間に曇った。
「うちの連中の暴走ったらひどいぞ。ここ何年かの新人の中じゃ最悪だ」
「お前、新人の担当やってるのか?」
「五年前からな」
「そりゃ大変だ。それで禿げたか」
「だから頭のことは言うなよ」
本当にどうしようもない連中なんだよ、と今度はデビッドが溜息を吐く。
「スラムでギャングまがいのことやってた連中でも、あれよりはだいぶマシだった」
「そんなにか」
「訓練の成績はいいんだ。表面上は規律も守ってる。ただ、どうにも性根が悪くてな。なまじ成績がいい分、天狗になってる部分もあるし」
それだけ聞けばよくある話なのだが、当事者のデビッドにしてみれば相当な心労だろう。語る声にも表情にも苦悩が滲み出ている。
「あの伸びきっちまった鼻をとっととへし折ってやらないと、きっと戦場でどうしようもないことになる。それが自分たちだけの問題で済むならいいが、任務中なら他人も巻き込みかねん」
「結局、どこも悩みは同じか」
「だからさ、お前のところはまだ、素直な子でいいじゃないかと言ってるんだよ」
「なるほどなあ」
自分が新兵だったころの担当教官の、いつも苦虫を噛み潰したような顔を思い出して、ラルフは心底旧友に同情した。自分も相当ひどいものだったが、どうもデビッドが相手をしているのはそれと同等か、もしかすると上回るような問題児なのだろう。それに比べたら、多少偏食で愛想がなくて、その上極度のファザコンで暴走癖があるとしても、レオナは決して悪い方ではない。
「そんな連中に愛想を尽かさずに、心配して面倒見てやってるあたり、お前もつくづく馬鹿だなあ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
冷め始めたコーヒーを啜って、デビッドはそう答えた。
そうして結局、思い出話はほとんどないまま、愚痴を言い合うだけで三十分という短い時間は過ぎてしまう。中間管理職の悲哀というものは、こういうところにあるのかもしれない。
もう時間だと席を立って、二人はカフェテリアを出た。
「すまん、俺はこの後ちょっと、西ブロックの方で用事があってな。お前の見送りをすると遠回りだ。ここで挨拶させてくれ。レオナ嬢にもよろしくな」
「おお、それじゃ」
テイクアウトのミックスジュースの紙コップを受け取って、ラルフはデビッドに手を振った。
また、とか今度、という約束はしない。それが無意味なことであると、二人とも知っている。もし次に会うとしても、それは戦場で相手の死体を確認する時かもしれないし、それならまだしも、敵兵を狙って覗いたスコープ越しになるかもしれない。むしろ、再会などない方がいいかもしれないのだ。
だから二人は、そのまま左右に別れた。デビットは西ブロックへ続く通路へ、ラルフは元来た通路へ。
先のことはともかく、旧友に会えたというのは嬉しいものだ。カフェテリアのコーヒーは記憶のままの味で、旧友は相変わらず愉快でいいやつで、ラルフはあとちょっとで鼻歌も出る、というぐらいに気分が良かった。少なくとも、その声が聞こえるまでは。
若い男の声だ。何を言っているかまではわからないが、何か嫌な調子の喋り方をしている。やがて、その声の一語一句までも聞き取れる位置まで近付いた時、ラルフはレオナを置いて行ったことを心の底から後悔した。
聞くに堪えない罵詈雑言だった。
「大事な父上の保身の為とは言え、二十一も年上の男にあてがわれるとは苦労するなあ?」
「仕方ねえさ、昔からお姫様の仕事は政略結婚と決まってる」
違いねえ、と笑う声を聞く前に拳を固めた。
お姫様と言うのはレオナのことだろう。その父上と言うならハイデルンに違いないし、二十一も年上の男、これは状況から考えて自分のことでしかありえない。
レオナはどうにも、顔が売れ過ぎた節がある。歴戦の勇者ばかりのKOFを初陣とした少女傭兵。伝説の傭兵達に並んだ若き雌獅子。隻眼の傭兵隊長の養女にして秘蔵の懐刀。しかもちょっと陰のある、なかなかの美形。
身の程を知らない若い兵士たちなら、ちょっとからかってみたい、怒り顔を見てみたい、あるいは泣かせてみたいと思う、そんな存在なのだろう。
こりゃデビッドも苦労するな、と思うのと、こいつらにはキツ目のお仕置きが必要だな、と思うのが同時だった。余所の兵士を殴り飛ばせばどういう問題になるか、それはラルフもわかっている。しかし、一発食らわせてやらなければ気が済まなかった。
歩調を速める。もうひとつ角を曲がったところに、レオナの待っているベンチがある。連中にはとりあえず一発ずつぶち込んで、怒鳴るのはそれからでいい。うちの部隊に喧嘩売ったらどうなるか、それを思い知らせてやる。
爆発寸前まで加熱した思考は、角の向こうから突然現れたレオナに遮られた。
おそらく、レオナを囲んで暴言を浴びせかけていた男たちの間を、彼らが引きとめる間もなくするりと抜けてやって来たのだろう。それぐらいのことは、レオナなら簡単にやってのける。
虚を突かれて紙コップを取り落としそうになるラルフの腕を掴み、レオナは足早に、ラルフが元来た方向へと向かった。半ば引きずられる形になって、ラルフは抗議の声を上げる。
「お、おい、こら待てレオナ! お前このままでいいのかよ! あんなこと言われて黙ってるつもりか?」
「ここで問題を起こすと後が大変だもの。大丈夫、慣れてるわ」
「大丈夫、っておい」
「いつものことだから」
「いつものこと、って――まさかお前、しょっちゅうあんなこと言われてるのかよ?」
「……どこから聞こえてたの?」
「二十一も年上の、って辺りから」
「あなたが引き合いに出されるたのはそこだけよ。だから気にしないで」
「待て、ちょっと待て。とにかく止まれ!」
掴まれた腕を強引に振り解いて、ラルフはレオナの正面に回る。
聞き逃せない単語がいくつかあった。慣れてる、いつものこと、気にしないで。そんなことを言われて、黙っていられる性分ではない。
「聞いちまった以上、気にするなってのはもう無理だ。説明しろよ」
「どうしても話さないといけない?」
「自分と部下が侮辱されたんだ。上官として状況の説明を求めてもいいんだぜ」
普段は滅多に、上官だの階級だのという権限を引き合いに出さないラルフである。それがそういう言葉を出したのを見て、レオナは沈黙を諦めた。
「あなたが引き合いに出されるようになったのは最近のことよ。その前は、亡くした娘の代わりに引き取った養女に暗殺術を教えるなんて、悪趣味な義父を持って苦労するな、とかそんなことを言われていただけ。その次に多かったのは、ハイデルンは決して裏切らない殺人兵器が欲しいから、義娘をそう仕立てたんだって指をさされた。後は、愛人を連れ歩くとなると問題になるけれど、それが義娘という名目なら何かと都合がいいだろうとか、それから」
「わかった、悪かった、もう言うな。その先は言わなくていい」
レオナに説明させたことを、ラルフは後悔していた。ちょっと考えればわかることだった。
ハイデルンは敵の多い男だ。その手で直接屠っただけでも数えきれない人間を死に追いやってきたのだし、傭兵部隊の隊長という肩書きは、時に部隊に向けられる恨みの全てを一身に引き受けることになる。命を狙われることが日常にすらなった男だ。
だが、銃やナイフを向けられているうちはいい。それならまだ、いくらでもあしらいようがある。
本当に厄介なのは、明確な形にならない敵意だ。そこまでの動機がないのか、度胸がないのか、それとも力がないのかはわからないが、そういう敵意は、ひどく陰湿なものに変わりやすい。その典型が誹謗中傷である。
子供じみた悪口と、当の本人が笑うのは簡単だ。だが、世間の見方も同じとは限らない。ただの中傷だったはずが話が一人歩きし、やがてスキャンダルとして周囲を揺さぶり、それに引き摺られるように失脚することは、決して珍しい話ではない。
レオナの存在は、そういう攻撃にはまさにお誂え向けの材料だった。隠し子と疑うこともできたし(もしそうであれば、彼の妻子が存命のうちに設けた娘ということになる!)、義娘に暗殺術を教えるという行為は表面だけ見ればいかにも非人道的だ。そしてその義娘が美しく成長したとあれば、親子の関係を別なものと邪推するのも容易い。
いったいどれだけの中傷がそうやって流されたのか、考えるのもラルフは嫌だった。
たぶん先程の若い兵士たちも、そういう噂をどこかで聞いたのだろう。そこに噂の主の片割れ、それも一見、扱い易そうな方が現れた。向こう見ずで血気だけは盛んな若い兵士が、ちょっかいを出してみようと思うのは自然な成り行きだったのかもしれなかった。
「お前、昔からそんなこと言われてずっと黙ってたのか?」
「騒ぐと面倒なことになると思ったし」
「それは否定しないけどよ」
「誰かに話したら解決するものでもないし」
「それも否定しないがな。で、教官は? まさか教官にも話してないのか?」
「言ってない」
レオナは淡々と言葉を繋ぐ。
「でもきっと、あの人は知っているわ。気付かないような人ではないから。ああいうことをしてくるのはたいてい外部の人間だから、気付かないふりをしているだけ」
なるほど、とラルフは頷いた。ハイデルンが余所の部隊に干渉すれば大きな問題になる。ラルフが短気を起こして怒鳴り込むのとは、訳と地位と責任が違うのだ。
ハイデルンがそれをしてしまえば、やれ公私混同だ、娘贔屓だと批判されるのは間違いない。ハイデルンを快く思わない者たちは、それを材料にこぞって彼を叩くだろう。それがわかっていて動くのは馬鹿のすることだ。
かといって、逆に何も行動を起こさなければ、今度は身内から批判が出かねない。義娘があんなことを言われているというのに何もしないとは何事だ、冷血だ、無情だ。そんな声が上がるのは目に見えていた。最悪の場合は部隊の士気にも関わる。義娘に対してそうならば、赤の他人の部下の窮地など気にも留めないだろう、と思われたら終わりである。司令官を疑った兵士など、前線には出せない。
何も気付かないふりをするのが、ハイデルンにとっては最善の選択肢なのだ。
「私が気にしなければ、それで済むことよ。実際、どうでもいいこただし」
「どうでもいいってことはないだろうよ。お前とお前の父親が侮辱されてるんだぞ?」
「あの人がそういう人間じゃないってことを、私はちゃんとわかってる。あなたも、中尉も、部隊の皆も。それで充分だわ」
「お前自身のことはどうなんだ」
「それこそどうでもいいことだわ。私の知らない誰かが私をどう思っていようと、構いはしない」
本当にどうでもいい、と思っているわけではないだろう。レオナは寡黙ではあるが、お人好しではない。感情の起伏は小さいとはいえ、怒る時は怒る。
どうでもいい、と思いたいだけなのだ。ハイデルンが気付かぬふりをしている以上、レオナが声を上げるわけにはいかない。レオナが声を上げてしまえば、ハイデルンも無視できなくなる。だからどうでもいいことだと、自分に言い聞かせたいだけなのだ。
「お前、ねえ」
そこまで父親に尽くすこともなかろうに、とラルフは呆れ果てる。
「今はいいぞ、今は。でもいつか、それじゃ済まないってことにお前も気付くんだ。で、気付くような時にはたいてい、手遅れなんだぞ」
「……どういうこと?」
「お前も恋でもすればわかるさ」
いきなり縁のない単語を聞かされ、レオナは途方にくれたような顔をした。
「恋」
「そう。好きな相手にゃ、それでなくても自分のいいとこしか見せたくないもんだ。それなのに根も葉もない噂話なんぞ一つまみでも信じられてみろ。ありゃ泣けるなんてもんじゃねえぞ」
まだわかりゃしねえだろうが、とラルフは付け加えた。レオナには遠い話だ。ほんのたとえ話のつもりだった。
だから、レオナの答えは少し意外だった。
「……それなら、わかるような気がする」
戸惑い顔で首を傾げたレオナを、ラルフはほとんど呆然と見た。
「それが恋というものかどうかはわからないけれど、そういうふうに思う相手なら、いなくはないわ」
「回りくどい言い回しをするね、お前。で、相手は誰よ」
「教官」
「やっぱりそれか、このファザコン娘」
負け惜しみでない。予想はできた。レオナの答えを聞いた時には確かに驚いたが、訊き返したその時には、もうその答えを予想していたのだ。
この、人との関わりを諦めきってしまったような少女にそこまで思わせる相手など他にいない。
「親兄弟は解答欄から外しとけよ。こういう時に勘定に入れる相手じゃないだろ」
「そうね、私も入れるつもりはなかったのだけれど、そんなつもりはなかったはずなんだけれど――どう思う?」
「そんなもん俺に聞かれても困る」
ラルフは憮然とした。それを訊いてしまうあたりが、レオナらしいといえばその通りなのだが。
「俺にわかるわけないだろ。お前自身以外の誰にわかるって言うんだ」
レオナはそれに頷いたが、本当はラルフにはわかっていた。伊達に少女の倍の歳を重ねているわけではない。
とんだ薮蛇だ。藪ならぬレオナを突付いて出て来たものは、もしかしたら気付かないままの方が幸せだったかもしれない、義父への淡い恋心だ。
まあ不自然なことではないけどなと思いながら、ラルフは胸ポケットから煙草のパッケージを出し、片手で器用に中身を取り出して咥えた。
子供というのは一時期、異性の親に擬似的な恋愛感情を抱くものだ。それは誰でも通る成長過程で、不自然なものではないし、やがて子供はそれを卒業して一人立ちしていく。
だがレオナの場合は、擬似的な、通過儀礼的な恋心では済まないだろう。
二人は血の繋がらない親子で、しかもレオナにとってハイデルンは、単に義父というものを超えた存在だ。長い熱病になるだろうな、とラルフは思った。
そう、恋というのは熱病のようなものだ。その時は命懸けとさえ思っても、一時の熱が冷めてしまえば嘘のように忘れてしまう。
だが、熱も上がり過ぎれば脳を冒す。場合によっては命に関わる。その上、熱病というものは伝染すると、相場が決まっているのだ。
レオナの熱病は、ハイデルンをも冒すだろう。なぜかラルフは、確信めいてそう思っていた。
あの悲劇からそういうものに背を向け続けているハイデルンに、義娘の熱病が伝染した時、それはどういう結末に向かうのか。何事もなく冷めるか、またはその熱と共存する方法を見付けられるのか。
今はこれ以上考えたくなかった。考えたところでどうにもならない。ラルフがまあ、あれだ、と話を切り替えたのはそういう理由だ。
「とにかく、引っ叩いて来いよ、あいつらを」
「でも」
「おまえ自身が怒ってなくても、教官の分ってもんがある。いくら黙ってるって言ったって、自分の娘を侮辱されて怒らない父親はいねえぞ。少なくともあの人は、そういう親だ」
親だ、と繰り返したのは、やはり先程の会話をどこかで引き摺っているせいかもしれない。
「それでもあの人は動けねえ。お前の言うとおり、問題になるからな。けどお前がやる分には、俺が「若気の至りです、許してやってください」ってあっちこっちに頭下げて、教官がそれを黙認すりゃ済むことだ。あの人にはそれ以上の迷惑はかからねえ。思い切り引っ叩いて、教官をすっきりさせてやれ」
それでもまだ動けないレオナの背を、ラルフは更に押してやる。
「ついでに俺の分も頼まれてくれると助かるんだが。なあ、俺も腹が立ってんだ。頼まれろよ」
「それは、命令?」
「命令じゃねえな。でも、後始末はしてやるって言ってるんだ。察しろ」
「……了解」
「命令じゃねえって言ってんだろ。敬礼するなよ」
苦笑するラルフに背を向けて、レオナは再びベンチに向かって、やや足早に歩いて行く。
その背中が廊下の向こうに消えたところで、ラルフは先程から感じていた気配に向かって声を掛けた。
「つーことで、後始末の手伝い頼むわ」
「やっぱり気付いてたか」
苦笑いしながら隣に並んだデビッドより、さらに苦い顔を浮かべてラルフはそれを隠そうとしない。
「狙っただろ、お前」
「やっぱりわかるか」
若い娘だからといって気軽にちょっかいを出して、想像以上の痛い目に遭えば、どんな威勢のいい連中の天狗の鼻でも折れるだろう。それを期待してラルフを誘ったのだと、デビッドは認めた。レオナが席を外すと言い出してくれたのは好都合で、そうでなければそう頼むつもりでいたのだ。
「いつ気付いた?」
「お前が黙って見てる気配に気付いた時から。昔のお前なら、まず飛び出してきて謝って、あの連中ぶん殴ってからまた謝っただろ?」
「すまんな。今のうちに、若いお嬢さんにでも頬を張られないことには、あいつらの性根は治りそうにないんだ」
「わからなくもないけどよ」
「すまんな」
言葉少なに、デビッドはもう一度謝った。
「軟派な火遊びで済むかと思ったんだが、ああいう暴言を吐くとは思わなかった。どこであんなネタ仕入れたんだか……あの子には辛い想いをさせた。本当にすまない」
「うちの教官殿にゃ敵が多いからな。どこから吹き込まれてもおかしかねえよ。ただ、ガセ掴まされるのは情報管理が甘い証拠だぞ。気を付けろ――吸うか?」
そうやってデビッドに煙草を勧めて、ラルフはやっと、自分がまた煙草に火を点けていなかったことに気が付いた。フィルターはすっかり噛み潰されて、唇の間で力なく萎れている。
「俺は引退するよ、ラルフ」
紫煙と共に吐き出されたデビッドの声は、先程よりも更に疲れを色濃くしていた。
「いくらどうしようもない新人だからって、他人を利用してどうにかしようなんて考える時点で、もう駄目だったんだな俺は。この後始末が終わったら軍を辞めて、田舎に帰るさ」
「ああ、それがいい」
萎れた煙草の隙間から漏れたラルフの声も、デビッドに負けず疲れていた。
「さて、そろそろ迎えに行ってやるか。あいつ、喧嘩慣れしてないから引っ込みどころってもんがわからねえだろうしな」
ああそうだ、今日はいろいろなことがありすぎて疲れた。早くレオナを連れて帰ろう。そればかりがラルフの頭の中を回り始める。
「まだ静かじゃないか。終わってないんじゃないか?」
「あいつのは生粋の隊長仕込みだ。俺なんかの亜流とは訳が違う。あんな若造相手に音なんか立てるかよ」
「そうか、それじゃあ早く行ってやらないとな」
「でもあれだ。その前に一発殴らせろ」
その唐突で乱暴な物言いに、旧友はただ、横顔を伏せて笑った。笑うよりない、という顔をしていた。
「ああ、お前を誘った時から覚悟はできてる」
やっぱり付き合いの長い奴はいい。ラルフは心からそう思う。長々と理由を説明する必要がない。最低限の言葉でちゃんと伝わる。
「馬鹿だね、お前も大概」
「お前にゃ負けるさ」
程なくして、拳が肉を打つ鈍い音がし、続いてまだ長い煙草が床に落ちた。それを爪先で踏み消しながら、もう二度とこの旧友に会うことはないだろうととラルフは思っていた。
手の中では紙コップが汗をかいて、掌をじっとりと濡らしている。
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戦場のメリークリスマス
「レオナ、お前、どこの引いた?」
「フランス」
「お、当たりじゃねえか。クラークは?」
「アメリカですね」
「なんだ、外れ組か。俺もだけどさ」
「エネルギーバーに当たりも外れもないでしょうよ。パウチならともかく」
「けどなあ」
ぼやくラルフの手元にあるのは、レーション(戦闘糧食)の通称「エネルギーバー」だ。
傭兵部隊の装備品その他は、各国の横流しによるものが多く、レーションもそのひとつである。だが、レーションの味には各国で大きな差があるため、不公平にならないよう、ランダムに配給されることになっている。そこで、当たり外れというものが発生するのだ。
レオナが齧っているフランスのものは、「美味しい」ことで有名な部類だ。他にも、イタリアや日本のものが美味しいと言われ、配給された者は「当たり」と羨ましがられる。
逆に外れがアメリカ。かつての物よりはだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ微妙な味である。それが一番、一般市場に流出しやすく、傭兵部隊の糧食の8割以上を占めているのだから不満の声が上がるのも当然だろう。
しかし、エネルギー不足を補うためだけの、油脂と炭水化物と糖分の塊であるエネルギーバーに関しては、どこの国も大して差はない。せいぜい、ナッツが主体だとか、ドライフルーツが多いとか、その程度の差だ。クラークなど、かえって慣れた味のアメリカ産の方が口に合う。
もそもそとバーを齧り、水筒の水を飲む。
気温は低い。底冷えするような夜だというのに、敵に発見されることを恐れて火も焚けずにいるせいで、体が冷えて来ている。こうしてカロリーを摂取して、内側から体温を上げないと、凍えきって体が動かなくなりそうだ。
本当は、同じレーションでももう少し料理らしい料理が入ったパウチを温め、きちんとした食事を摂りたいところだが、それが許される状況ではなかった。。
敵陣の真っ只中である。作戦のメインである目標の破壊には成功したが、撤退にしくじった。負傷者もいるから無茶な行動はできないし、なにより圧倒的多数の敵兵に包囲されてしまっている。
幸いにも、まだこちらの居場所は発見されていないが、脱出する程の隙もない。このままでは、じわじわと包囲の輪を狭められて、発見されるのは時間の問題だ。
「しかし参ったな」
いち早くバーを胃に収めたラルフが、バーの包装紙をぐしゃりと握りつぶしてポケットに押し込む。
別にラルフは、自然環境の保護を心がけてゴミを残さないわけではない。その辺りに適当に捨てて、それをきっかけに追跡されるのはあまりにも馬鹿らしいと思っているだけだ。移動を前提にしているなら、自分達がここにいたという痕跡は、なるべく減らすに限る。
「参りましたね。こんな風に追い詰められたのは、数年ぶりじゃないですか」
「確かにここんとこなかったな。若い頃は負け戦なんか日常茶飯事で、しょっちゅうこんな目に遭ってたけどな」
そういや、こいつはこういうの、初めてじゃなかったっけ?と、ラルフは傍らの少女を見る。
レオナは、バーの最後のひとかけらを、口に入れたところだった。この、戦場に出てから日の浅い少女は、まだ本当の負け戦を知らない。こんな風に、呑気にバーを齧っていられるようなものではない、本当の負け戦。少し前まで仲間と呼んでいたものがただの肉の塊になって、それを踏み越えて逃げ惑うような負け戦を知らない。
動揺するでもなく、食事が喉を通らないということもなく、黙々とバーを齧っていられるのは、そのせいだろうかなどと考えてみる。
レオナがバーを飲み込んだのを見計らって、ラルフは声を掛けた。
「レオナ」
「何?」
やはり、不安の色など微塵も見せない声である。
「負傷者の具合を、ちょっと聞いてきてくれ」
「了解」
負傷者を抱えたチームは、ラルフたちが隠れている岩陰から少し離れた、別の岩の陰に身を潜めている。普通なら大声を出せば済む距離だが、今はそういう訳にはいかない。となると、習い覚えた暗殺術の成果として、足音をほとんど立てずに移動できるレオナは、これ以上ない伝令と言えた。
レオナは周囲を伺いながら、素早く岩陰を飛び出していく。その矢先に、ぽつりと来た。
雨である。
雨は更に体温を、そして体力を奪う。その上、ここの土地は泥質でぬかるみやすい。雨が降れば降るほど、脱出が更に困難になるのは目に見えていた。
「参ったな」
そう繰り返し、ラルフは空を見上げた。夜空には、雲が厚く重なっている。通り雨で済む気配ではなかった。
慣れたはずの装備が妙に重く感じるのは、ブーツの中までずぶ濡れになってしまったせいだろうか。いくら防水素材の戦闘服とはいえ、雨を防ぐには限界がある。こんなに激しく動いていればなおさらだ。雨滴は、襟元やあちこちの裂け目から容赦なく入り込んでくる。
体が冷えている、そう自覚していた。冷えて筋肉が強張った体が、思考の速度に付いていかない。まるで自分だけがスローモーションの世界にいるような気がする。
後方から声が聞こえた。味方の声では有り得ない。
一番近くて太くて、盾にできるぐらい頑丈そうに見える木の陰に飛び込みながら、挨拶代わりに小銃を何発か撃ち込んでやった。悲鳴が上がったところを見ると、少なくとも1発は当たったらしい。相手は何秒かそれに気を取られる、と予測してまた走る。
「やべえかな」
そんな台詞が出てくるうちはまだ大丈夫だと思いつつ、頭の中で残弾を計算した。あまり余裕のある数は残っていない。もう無駄遣いはできない。
「やべえな、やっぱり」
先程より、怒りの度合いが増した声が追ってくる。仲間を撃たれて逆上したのだろう。ばら撒かれる鉛弾を横っ飛びに避けて、また走る。
走るより、ない。
表情の変化の乏しいレオナから、感情の起伏を読み取るのは難しい。だが、そこは長い付き合いだ。戻ってきたレオナの報告を聞く前に、普段よりも僅かに眉を顰めた顔から、ラルフとクラークは状況があまり芳しくないことを理解した。
「早いうちに、まともな医療施設に搬送した方がいいわ。このまま4時間も放っておいたら、担架じゃなくて死体袋が必要になると思う」
「お前、そんなブラックな冗談、どこで覚えた?」
「ここで。大佐と中尉から」
その答えに、ラルフは憮然とし、クラークは苦笑した。確かにそれは、ラルフとクラークのやり取りに良く使われるような冗談だ。
「だからって、お前ね。使って笑いが取れる人間と、そうでない人間がいるってことをわきまえろよ」
「使う場所はわきまえたつもり」
「あのなあ――」
「で、どうします?」
非建設的なやり取りに、終止符を打ったのはクラークだった。クラークも、レオナの冗談などという滅多に出ない貴重な代物をもう少し聞いていたいという気持ちはあったが、状況が状況である。
「完全包囲の四面楚歌。戦力差は計算するのも馬鹿らしいぐらい圧倒的。援軍を待つ時間もない。どうやって、切り抜けます?」
「あー、そうだよなー」
がりがりと頭を掻きながら、ラルフが考え込む。その間、ほんの数秒。
悩むのは苦手で、決断の早い男である。それを無謀と言うか、英断と評するかは別の問題として。
「俺がちょっと、引っ掻き回してくるから、お前たちはその間に脱出しろ」
「大佐1人で?」
「陽動にそんなに人数裂くもんじゃねえだろ。かえって1人の方が身軽でいいさ」
「無謀だわ」
レオナが、ゆっくりと首を横に振る。
「1人じゃ無理よ。私も行くわ」
「駄目だ。お前はクラークの補佐」
「あれだけの人数を、1人で相手にするの? 危険だわ」
「1人の方がいいんだよ」
今度は、ラルフが首を横に振る番だ。まだまだ分かっちゃいねえヒヨコだな、という顔だ。
「味方が周りにいないからこそ、できる無茶ってもんがあるんだよ。大体、負傷者連れて移動するそっちの方が、ある意味よっぽど面倒で危険だっての。そこからこれ以上、主力を割けるか?」
「でも……!」
「レオナ、指揮官命令」
クラークの言葉に、急に現実に引き戻されたかのように、レオナは絶句する。
この場の最高指揮官はラルフだ。そのラルフがやる、と言っている。レオナは、それに口答えして良い立場ではない。
上官の命令は絶対。それはレオナにも骨の髄まで染み込んでいる、軍人の最低限にして最大のルールだ。
それを、一瞬とは言え、忘れた。忘れさせるほど、ラルフの存在はレオナの中で重かった。
「……了解」
納得したわけではないが、そう答えるよりない。
「よし、それじゃあ俺は出る準備するわ。30分きっかり経ったら、D地点で行動起こすから、そっちはそれに合わせて脱出しろ。合流予定時間は現時刻から2時間後、場所はA地点。俺が合流しなくても、時間が来たらそのまま撤退。その間の指揮はクラークに任す。いいな?」
自分が本隊を離れる時の指示は最低限、というのがラルフの信条だ。代理の指揮官さえしっかりしていれば、後は状況に応じて、臨機応変に何とかするはずだ。そこに妙な口を挟むような指示を残して、余計な問題を起こすのはつまらない。
性格上、大雑把な指示しか残せないと見る向きもあるが、少なくともクラークと組んで、それが悪い方に転んだことはないのだから、それはそれで良いのだろう。
「了解――それじゃあ、これ。いつものです」
そう言ってラルフに差し出されたのは、クラーク愛用のコルトガバメント、それもじっくりと時間をかけてカスタムされた1丁である。
「わかった、借りとくぜ」
そのやり取りに、レオナが首をかしげた。確かにクラークの銃は良いものだ。圧倒的不利な状況に飛び込もうという戦友への選別には悪くない。
だが、ラルフの武器が不足しているわけではない。弾もそれなりの数を持っているし、何よりこういう時に必要なのは、良い武器よりも使い慣れた武器だ。何かあった時、使い方に一瞬でも戸惑っては命取りだからだ。
クラークの銃は、彼の手のサイズや射撃の癖に合わせてカスタムされている。ラルフにとって使いやすい銃――この状況で差し出し、受け取るのに相応しい武器かというと、疑問だった。
疑問符を顔に浮かべたレオナを見て、何を考えているのか悟ったのだろう。質問の前に、クラークが答えた。
「験担ぎみたいなものさ。お互いに預けるんだよ、自分の大切な物を」
それは、2人が出会った頃からの、奇妙なルールだと言う。
預けたものは銃だったことも、勲章だったこともある。暗闇で押し付けられたものを後で見たら、手持ち最後の糧食に入っていたガムだったこともある。
それが何の役に立つということではない。ただ、預かったということが大切なのだ。
「これを返すまで、返してもらうまで、死ぬなってことさ」
どんな小さな約束でも、果たそうという意地が力になる。意地で全てが解決するほど戦場は甘くはないが、それでもそういうものが、必要になる時がある。
「で、大佐は何を預けます? 今回はナイフですか? バンダナですか?」
「それじゃ、こいつ」
言葉と同時に、乱暴に背中を押され、レオナは軽くよろめいた。
「頼むわ。預かっといてくれ」
クラークが、笑った。確かに、ラルフにとってこれ以上大切なものはない。
ラルフも笑った。笑いながら、その間も淀みなく、ラルフは出撃の準備を整えていく。
と言っても、元々臨戦態勢だから、改めて整えるほどの装備はない。せいぜい予備の銃弾を確認するぐらいだ。それとクラークから預かった分の銃をホルスターに収めて、ほとんどそれだけで準備は終わる。
「じゃ、また後で」
「おう」
あっさりと別れの言葉を交わして、クラークは自分の仕事に向かった。ラルフが言うとおり、負傷者を連れての脱出行は楽なものではない。長年の相棒であるラルフとのコンビネーションを使えないならなおさらだ。かといって、経験の浅いレオナを陽動に使うのは心もとない。その不利を埋める為に、指揮官としてやらなければならないことは山ほどある。
だが、レオナはその後を追わなかった。
「どうした、レオナ。お前はクラークの補佐だろうが」
先程まで、冷静すぎるほどだった顔が、明らかに動揺し、不安げに揺れている。滅多に見せない表情だ。
「馬鹿、そんな顔するな」
レオナの気持ちは、ラルフにもよく分かる。
かつての自分がそうだった。誰かが死ぬかもしれない、と思うと出撃前夜は眠れなかった。恐怖のあまり吐き気を催し、しまいには吐くものもなくなって、涙目で胃液ばかりを吐き出したことも1度や2度ではない。
「ちゃんと帰ってくるって、な?。もっとヤバい橋だって随分渡ってきたんだ。こんなん大したことじゃねえ。ちゃんと帰ってくるって」
帰ってくる、とラルフが言う度に、ただレオナは頷いた。
繰り返した言葉は、意味のない約束だ。奇跡的な生還の度に、英雄だ伝説だと祭り上げられてきたが、ラルフ自身は魔法使いでも超能力者でもない。ただ運が良かっただけだ。
その運が続くとは限らない。今日死神に見初められているのは、敵ではなくラルフ自身かもしれない。それどころか、今この瞬間にも銃弾に貫かれ、2人ともただの血塗れの肉塊となって転がるかもしれない。
それでも、傭兵達は約束をする。銃を預け、大切な人を預けて。
「クラークにお前を預けっぱなしじゃ死ねねえよ。だから、お前も死ぬな」
「……了解」
「じゃ、行ってくる。もう出ねえと、間に合わないからな。クラークのこと、頼んだぜ」
「ええ。了解」
それ以上、言葉はなかった。
そして2人は、互いに背を向ける。それぞれの戦場に向かう為に。
ぬかるみで足を滑らせ、転んだ拍子に、口の中に泥が入り込んだ。先程からずっと口の中に広がっていた鉄錆の臭いと混じって、ひどい味だ。
戦場で1人きり、と言うのは何年ぶりだろう。ふと、そんなことを思った。
ここのところ、いつも誰かと一緒だった。味方がほぼ全滅し、孤立するような負け戦になった記憶はもう随分長い間ないし、安心して背中を預けられる戦友も得た。それは悪いことではないが、慣れすぎてしまった気がする。
昔は、こういう状況を単純に楽しんでいた。いくら銃を乱射しても、味方に当たる心配をすることがない状況。人影と見れば撃てばいい。ただそれだけの世界。命懸けの爽快感。
もっと昔は、同じ状況で、泣きながら這いずっていた。仲間の死体に泣き、千切れた腕に泣き、誰のものかもわからない認識票を握り締めて泣きながら、それでも生きることを諦められずに、いつ自分も死ぬかと怯えながら這い進んだ。
今は、そのどちらとも違う。
背中の軽さには懐かしい爽快感を思い出さなくもないが、妙な寂しさも感じる。泣くほどの恐怖や怯えがある訳でもないが、何ともないと言うにはどこかが虚ろだった。
老けたのかね、俺も。そんなことを思ったすぐ脇を、銃弾が走り抜けた。狙われた気配はない。威嚇を兼ねて撃った1発が、偶然掠めただけだろう。だが、次の1発も外れるとは限らない。
「老けたかもしれないが、まだおとなしく死ぬ気になるほど歳喰っちゃいねえよ」
残弾はもう僅かだが、ナイフで行くには骨が折れる人数か。ぼそりと呟きながら、そんなことを考えていた。
夜明け前には雨も上がった。夜明けを目前にして空は白み始め、光は差さないまでもだいぶ明るくなってきている。
戦場は静かだった。昨夜の騒乱が嘘のようである。
「もうすぐ約束の時間だな」
腕時計を見ながら、クラークは誰にともなく呟いた。
負傷者が数人増えたが、それ以上の犠牲はなく、クラーク率いる本隊は無事、脱出を遂げた。
これも、ラルフが派手に立ち回ってくれたお陰だ。ひっきりなしに聞こえた銃声から推測すると、相手は相当な苦戦を強いられたらしい。そちらの対応に追われ、こちらに割く兵力がなかったのだろう。
ラルフなら当然だ、とクラークは戦友を思う。あれは、そういうことができる男だと。
「あと5分」
「そうね、5分あるわ」
何気なく口に出した言葉を、レオナが拾い上げて繰り返す。
ラルフは、まだ戻らない。いくら戦場を見渡しても、あの見慣れた姿は見えなかった。
それでも予定通り、5分後には移動しなければならない。いつまでもここにいれば、また敵に追撃されるおそれがある。
「……中尉は……」
「ん? なんだレオナ」
「中尉は、不安じゃないの?」
「そりゃ、不安さ」
誰も口には出さないが、最悪の結果を覚悟しているのは確かだ。有り得ないことではない。むしろ、今までそうならなかったことが不思議なのだ。
クラークはそれを、正直に答えた。
「でも、あなたは迷わないのね」
「迷う?」
「時間が来たら、あなたは移動を始めるでしょう?」
「ああ、そうだな」
「私は、ずっと迷っているわ」
言いながら、レオナはラルフを探し、遠くに目を凝らしている。
「命令に従って、帰投するか。命令違反と承知で、ラルフを探しに戻るか。どちらの道を選ぶべきか。自分はどちらを望んでいるのか……ずっと迷っているわ」
「不安、なのか?」
「ええ……そうね」
「お前、随分まともになったな」
それは、クラークの正直な感想だった。
出会った頃のレオナは、ただ作りの良い人形のような娘で、悲しみ以外の感情がすっぽりと抜け落ちているようなところがあった。
だが、近頃ではどうだ。相変わらず表情は乏しいが、笑いもするし、喜びもする。こんな風に、不安にもなる。
だが、レオナをそう変えた男は、まだ戻らない。かつて、同じようにクラークの何かを変えた男は。
「俺は、 あの馬鹿が簡単にくたばるはずがない、って信じている。だから、迷わない」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った時、時計の針が動いた。
「――時間だ、撤退する」
「中尉……!」
レオナが短く、しかし鋭く叫ぶ。思わずクラークがそちらを見てしまうほどの、縋るような声で。
後に続きそうな言葉は簡単に想像できる。レオナがそれを口に出すかどうかは分からないが、「もう少し待って」と、そう続けたいに違いない。
そう言いたい気持ちは分かる。
だから、言われる前に遮ろうとした。
「合流できるポイントは、まだいくらでも――」
「良かったら、もう少し待ってくれねえか?」
声は、逆にクラークの言葉を遮った。
最初、それは人型の泥の塊にしか見えなかった。だが、泥人形の顔が作る、あの人懐こい笑顔は。
歓声が、どっと押し寄せてラルフを包んだ。さすが大佐だ、やっぱり帰ってきた、万歳、俺は信じてましたよ――
何をどう切り抜けてきたのか、傷だらけの泥だらけで、しかもあちらこちらに返り血らしい血飛沫まで飛ばして、顔は煤けて黒くなった上に乾きかけた泥が貼り付いている。ひどい格好だが、傷はどれも浅いらしいのは幸いだ。
「クラーク、悪い。銃な、途中で落としちまったみたいでよ。帰ったら――わ、やめろよ、冷てえ」
誰かが水筒を開け、中身を盛大にラルフに掛けて、顔の泥を拭う。1人が始めると、我も我もと後に続くのが大変だ。泥まみれの上に水浸しまで加わって、かえってひどい有様である。しまいには泥を流そうというより、勝利者へのシャンペンシャワーの様相を呈してきた。
「いや、俺はあれが気に入ってたんですけどね」
不服そうに言いながら、サングラスの向こうで、大騒ぎを見詰める青い目が笑っている。
「あれを返してくれないと、こっちの分は返せませんよ――と、言いたいところですが、まあ、今日のところは貸しにしておいてあげますよ」
今度はクラークに背を押され、レオナが一歩、前に出る。泥水に塗れた手が伸ばされてその髪を撫ぜ、青い髪も泥で汚れたが、レオナは嫌がらなかった。不器用な表情のせいで分かりにくいが、むしろ喜んでいるようにも見える。
レオナの髪を撫ぜながら、ラルフが怪訝そうに聞き返す。
「随分と寛大だな。どういう風の吹き回しだ? 俺が戻ったのが嬉しくて、何て気持ち悪いこと言うなよ?」
「まさか」
クラークは、肩を竦めて笑う。
「今日はクリスマスですから。プレゼントの代わりに、まけときますよ」
戦場に、朝日が差し込み始めていた。
「Good Morning、Merry Christmas!」
誰かが、そう叫んだ。
「レオナ、お前、どこの引いた?」
「フランス」
「お、当たりじゃねえか。クラークは?」
「アメリカですね」
「なんだ、外れ組か。俺もだけどさ」
「エネルギーバーに当たりも外れもないでしょうよ。パウチならともかく」
「けどなあ」
ぼやくラルフの手元にあるのは、レーション(戦闘糧食)の通称「エネルギーバー」だ。
傭兵部隊の装備品その他は、各国の横流しによるものが多く、レーションもそのひとつである。だが、レーションの味には各国で大きな差があるため、不公平にならないよう、ランダムに配給されることになっている。そこで、当たり外れというものが発生するのだ。
レオナが齧っているフランスのものは、「美味しい」ことで有名な部類だ。他にも、イタリアや日本のものが美味しいと言われ、配給された者は「当たり」と羨ましがられる。
逆に外れがアメリカ。かつての物よりはだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ微妙な味である。それが一番、一般市場に流出しやすく、傭兵部隊の糧食の8割以上を占めているのだから不満の声が上がるのも当然だろう。
しかし、エネルギー不足を補うためだけの、油脂と炭水化物と糖分の塊であるエネルギーバーに関しては、どこの国も大して差はない。せいぜい、ナッツが主体だとか、ドライフルーツが多いとか、その程度の差だ。クラークなど、かえって慣れた味のアメリカ産の方が口に合う。
もそもそとバーを齧り、水筒の水を飲む。
気温は低い。底冷えするような夜だというのに、敵に発見されることを恐れて火も焚けずにいるせいで、体が冷えて来ている。こうしてカロリーを摂取して、内側から体温を上げないと、凍えきって体が動かなくなりそうだ。
本当は、同じレーションでももう少し料理らしい料理が入ったパウチを温め、きちんとした食事を摂りたいところだが、それが許される状況ではなかった。。
敵陣の真っ只中である。作戦のメインである目標の破壊には成功したが、撤退にしくじった。負傷者もいるから無茶な行動はできないし、なにより圧倒的多数の敵兵に包囲されてしまっている。
幸いにも、まだこちらの居場所は発見されていないが、脱出する程の隙もない。このままでは、じわじわと包囲の輪を狭められて、発見されるのは時間の問題だ。
「しかし参ったな」
いち早くバーを胃に収めたラルフが、バーの包装紙をぐしゃりと握りつぶしてポケットに押し込む。
別にラルフは、自然環境の保護を心がけてゴミを残さないわけではない。その辺りに適当に捨てて、それをきっかけに追跡されるのはあまりにも馬鹿らしいと思っているだけだ。移動を前提にしているなら、自分達がここにいたという痕跡は、なるべく減らすに限る。
「参りましたね。こんな風に追い詰められたのは、数年ぶりじゃないですか」
「確かにここんとこなかったな。若い頃は負け戦なんか日常茶飯事で、しょっちゅうこんな目に遭ってたけどな」
そういや、こいつはこういうの、初めてじゃなかったっけ?と、ラルフは傍らの少女を見る。
レオナは、バーの最後のひとかけらを、口に入れたところだった。この、戦場に出てから日の浅い少女は、まだ本当の負け戦を知らない。こんな風に、呑気にバーを齧っていられるようなものではない、本当の負け戦。少し前まで仲間と呼んでいたものがただの肉の塊になって、それを踏み越えて逃げ惑うような負け戦を知らない。
動揺するでもなく、食事が喉を通らないということもなく、黙々とバーを齧っていられるのは、そのせいだろうかなどと考えてみる。
レオナがバーを飲み込んだのを見計らって、ラルフは声を掛けた。
「レオナ」
「何?」
やはり、不安の色など微塵も見せない声である。
「負傷者の具合を、ちょっと聞いてきてくれ」
「了解」
負傷者を抱えたチームは、ラルフたちが隠れている岩陰から少し離れた、別の岩の陰に身を潜めている。普通なら大声を出せば済む距離だが、今はそういう訳にはいかない。となると、習い覚えた暗殺術の成果として、足音をほとんど立てずに移動できるレオナは、これ以上ない伝令と言えた。
レオナは周囲を伺いながら、素早く岩陰を飛び出していく。その矢先に、ぽつりと来た。
雨である。
雨は更に体温を、そして体力を奪う。その上、ここの土地は泥質でぬかるみやすい。雨が降れば降るほど、脱出が更に困難になるのは目に見えていた。
「参ったな」
そう繰り返し、ラルフは空を見上げた。夜空には、雲が厚く重なっている。通り雨で済む気配ではなかった。
慣れたはずの装備が妙に重く感じるのは、ブーツの中までずぶ濡れになってしまったせいだろうか。いくら防水素材の戦闘服とはいえ、雨を防ぐには限界がある。こんなに激しく動いていればなおさらだ。雨滴は、襟元やあちこちの裂け目から容赦なく入り込んでくる。
体が冷えている、そう自覚していた。冷えて筋肉が強張った体が、思考の速度に付いていかない。まるで自分だけがスローモーションの世界にいるような気がする。
後方から声が聞こえた。味方の声では有り得ない。
一番近くて太くて、盾にできるぐらい頑丈そうに見える木の陰に飛び込みながら、挨拶代わりに小銃を何発か撃ち込んでやった。悲鳴が上がったところを見ると、少なくとも1発は当たったらしい。相手は何秒かそれに気を取られる、と予測してまた走る。
「やべえかな」
そんな台詞が出てくるうちはまだ大丈夫だと思いつつ、頭の中で残弾を計算した。あまり余裕のある数は残っていない。もう無駄遣いはできない。
「やべえな、やっぱり」
先程より、怒りの度合いが増した声が追ってくる。仲間を撃たれて逆上したのだろう。ばら撒かれる鉛弾を横っ飛びに避けて、また走る。
走るより、ない。
表情の変化の乏しいレオナから、感情の起伏を読み取るのは難しい。だが、そこは長い付き合いだ。戻ってきたレオナの報告を聞く前に、普段よりも僅かに眉を顰めた顔から、ラルフとクラークは状況があまり芳しくないことを理解した。
「早いうちに、まともな医療施設に搬送した方がいいわ。このまま4時間も放っておいたら、担架じゃなくて死体袋が必要になると思う」
「お前、そんなブラックな冗談、どこで覚えた?」
「ここで。大佐と中尉から」
その答えに、ラルフは憮然とし、クラークは苦笑した。確かにそれは、ラルフとクラークのやり取りに良く使われるような冗談だ。
「だからって、お前ね。使って笑いが取れる人間と、そうでない人間がいるってことをわきまえろよ」
「使う場所はわきまえたつもり」
「あのなあ――」
「で、どうします?」
非建設的なやり取りに、終止符を打ったのはクラークだった。クラークも、レオナの冗談などという滅多に出ない貴重な代物をもう少し聞いていたいという気持ちはあったが、状況が状況である。
「完全包囲の四面楚歌。戦力差は計算するのも馬鹿らしいぐらい圧倒的。援軍を待つ時間もない。どうやって、切り抜けます?」
「あー、そうだよなー」
がりがりと頭を掻きながら、ラルフが考え込む。その間、ほんの数秒。
悩むのは苦手で、決断の早い男である。それを無謀と言うか、英断と評するかは別の問題として。
「俺がちょっと、引っ掻き回してくるから、お前たちはその間に脱出しろ」
「大佐1人で?」
「陽動にそんなに人数裂くもんじゃねえだろ。かえって1人の方が身軽でいいさ」
「無謀だわ」
レオナが、ゆっくりと首を横に振る。
「1人じゃ無理よ。私も行くわ」
「駄目だ。お前はクラークの補佐」
「あれだけの人数を、1人で相手にするの? 危険だわ」
「1人の方がいいんだよ」
今度は、ラルフが首を横に振る番だ。まだまだ分かっちゃいねえヒヨコだな、という顔だ。
「味方が周りにいないからこそ、できる無茶ってもんがあるんだよ。大体、負傷者連れて移動するそっちの方が、ある意味よっぽど面倒で危険だっての。そこからこれ以上、主力を割けるか?」
「でも……!」
「レオナ、指揮官命令」
クラークの言葉に、急に現実に引き戻されたかのように、レオナは絶句する。
この場の最高指揮官はラルフだ。そのラルフがやる、と言っている。レオナは、それに口答えして良い立場ではない。
上官の命令は絶対。それはレオナにも骨の髄まで染み込んでいる、軍人の最低限にして最大のルールだ。
それを、一瞬とは言え、忘れた。忘れさせるほど、ラルフの存在はレオナの中で重かった。
「……了解」
納得したわけではないが、そう答えるよりない。
「よし、それじゃあ俺は出る準備するわ。30分きっかり経ったら、D地点で行動起こすから、そっちはそれに合わせて脱出しろ。合流予定時間は現時刻から2時間後、場所はA地点。俺が合流しなくても、時間が来たらそのまま撤退。その間の指揮はクラークに任す。いいな?」
自分が本隊を離れる時の指示は最低限、というのがラルフの信条だ。代理の指揮官さえしっかりしていれば、後は状況に応じて、臨機応変に何とかするはずだ。そこに妙な口を挟むような指示を残して、余計な問題を起こすのはつまらない。
性格上、大雑把な指示しか残せないと見る向きもあるが、少なくともクラークと組んで、それが悪い方に転んだことはないのだから、それはそれで良いのだろう。
「了解――それじゃあ、これ。いつものです」
そう言ってラルフに差し出されたのは、クラーク愛用のコルトガバメント、それもじっくりと時間をかけてカスタムされた1丁である。
「わかった、借りとくぜ」
そのやり取りに、レオナが首をかしげた。確かにクラークの銃は良いものだ。圧倒的不利な状況に飛び込もうという戦友への選別には悪くない。
だが、ラルフの武器が不足しているわけではない。弾もそれなりの数を持っているし、何よりこういう時に必要なのは、良い武器よりも使い慣れた武器だ。何かあった時、使い方に一瞬でも戸惑っては命取りだからだ。
クラークの銃は、彼の手のサイズや射撃の癖に合わせてカスタムされている。ラルフにとって使いやすい銃――この状況で差し出し、受け取るのに相応しい武器かというと、疑問だった。
疑問符を顔に浮かべたレオナを見て、何を考えているのか悟ったのだろう。質問の前に、クラークが答えた。
「験担ぎみたいなものさ。お互いに預けるんだよ、自分の大切な物を」
それは、2人が出会った頃からの、奇妙なルールだと言う。
預けたものは銃だったことも、勲章だったこともある。暗闇で押し付けられたものを後で見たら、手持ち最後の糧食に入っていたガムだったこともある。
それが何の役に立つということではない。ただ、預かったということが大切なのだ。
「これを返すまで、返してもらうまで、死ぬなってことさ」
どんな小さな約束でも、果たそうという意地が力になる。意地で全てが解決するほど戦場は甘くはないが、それでもそういうものが、必要になる時がある。
「で、大佐は何を預けます? 今回はナイフですか? バンダナですか?」
「それじゃ、こいつ」
言葉と同時に、乱暴に背中を押され、レオナは軽くよろめいた。
「頼むわ。預かっといてくれ」
クラークが、笑った。確かに、ラルフにとってこれ以上大切なものはない。
ラルフも笑った。笑いながら、その間も淀みなく、ラルフは出撃の準備を整えていく。
と言っても、元々臨戦態勢だから、改めて整えるほどの装備はない。せいぜい予備の銃弾を確認するぐらいだ。それとクラークから預かった分の銃をホルスターに収めて、ほとんどそれだけで準備は終わる。
「じゃ、また後で」
「おう」
あっさりと別れの言葉を交わして、クラークは自分の仕事に向かった。ラルフが言うとおり、負傷者を連れての脱出行は楽なものではない。長年の相棒であるラルフとのコンビネーションを使えないならなおさらだ。かといって、経験の浅いレオナを陽動に使うのは心もとない。その不利を埋める為に、指揮官としてやらなければならないことは山ほどある。
だが、レオナはその後を追わなかった。
「どうした、レオナ。お前はクラークの補佐だろうが」
先程まで、冷静すぎるほどだった顔が、明らかに動揺し、不安げに揺れている。滅多に見せない表情だ。
「馬鹿、そんな顔するな」
レオナの気持ちは、ラルフにもよく分かる。
かつての自分がそうだった。誰かが死ぬかもしれない、と思うと出撃前夜は眠れなかった。恐怖のあまり吐き気を催し、しまいには吐くものもなくなって、涙目で胃液ばかりを吐き出したことも1度や2度ではない。
「ちゃんと帰ってくるって、な?。もっとヤバい橋だって随分渡ってきたんだ。こんなん大したことじゃねえ。ちゃんと帰ってくるって」
帰ってくる、とラルフが言う度に、ただレオナは頷いた。
繰り返した言葉は、意味のない約束だ。奇跡的な生還の度に、英雄だ伝説だと祭り上げられてきたが、ラルフ自身は魔法使いでも超能力者でもない。ただ運が良かっただけだ。
その運が続くとは限らない。今日死神に見初められているのは、敵ではなくラルフ自身かもしれない。それどころか、今この瞬間にも銃弾に貫かれ、2人ともただの血塗れの肉塊となって転がるかもしれない。
それでも、傭兵達は約束をする。銃を預け、大切な人を預けて。
「クラークにお前を預けっぱなしじゃ死ねねえよ。だから、お前も死ぬな」
「……了解」
「じゃ、行ってくる。もう出ねえと、間に合わないからな。クラークのこと、頼んだぜ」
「ええ。了解」
それ以上、言葉はなかった。
そして2人は、互いに背を向ける。それぞれの戦場に向かう為に。
ぬかるみで足を滑らせ、転んだ拍子に、口の中に泥が入り込んだ。先程からずっと口の中に広がっていた鉄錆の臭いと混じって、ひどい味だ。
戦場で1人きり、と言うのは何年ぶりだろう。ふと、そんなことを思った。
ここのところ、いつも誰かと一緒だった。味方がほぼ全滅し、孤立するような負け戦になった記憶はもう随分長い間ないし、安心して背中を預けられる戦友も得た。それは悪いことではないが、慣れすぎてしまった気がする。
昔は、こういう状況を単純に楽しんでいた。いくら銃を乱射しても、味方に当たる心配をすることがない状況。人影と見れば撃てばいい。ただそれだけの世界。命懸けの爽快感。
もっと昔は、同じ状況で、泣きながら這いずっていた。仲間の死体に泣き、千切れた腕に泣き、誰のものかもわからない認識票を握り締めて泣きながら、それでも生きることを諦められずに、いつ自分も死ぬかと怯えながら這い進んだ。
今は、そのどちらとも違う。
背中の軽さには懐かしい爽快感を思い出さなくもないが、妙な寂しさも感じる。泣くほどの恐怖や怯えがある訳でもないが、何ともないと言うにはどこかが虚ろだった。
老けたのかね、俺も。そんなことを思ったすぐ脇を、銃弾が走り抜けた。狙われた気配はない。威嚇を兼ねて撃った1発が、偶然掠めただけだろう。だが、次の1発も外れるとは限らない。
「老けたかもしれないが、まだおとなしく死ぬ気になるほど歳喰っちゃいねえよ」
残弾はもう僅かだが、ナイフで行くには骨が折れる人数か。ぼそりと呟きながら、そんなことを考えていた。
夜明け前には雨も上がった。夜明けを目前にして空は白み始め、光は差さないまでもだいぶ明るくなってきている。
戦場は静かだった。昨夜の騒乱が嘘のようである。
「もうすぐ約束の時間だな」
腕時計を見ながら、クラークは誰にともなく呟いた。
負傷者が数人増えたが、それ以上の犠牲はなく、クラーク率いる本隊は無事、脱出を遂げた。
これも、ラルフが派手に立ち回ってくれたお陰だ。ひっきりなしに聞こえた銃声から推測すると、相手は相当な苦戦を強いられたらしい。そちらの対応に追われ、こちらに割く兵力がなかったのだろう。
ラルフなら当然だ、とクラークは戦友を思う。あれは、そういうことができる男だと。
「あと5分」
「そうね、5分あるわ」
何気なく口に出した言葉を、レオナが拾い上げて繰り返す。
ラルフは、まだ戻らない。いくら戦場を見渡しても、あの見慣れた姿は見えなかった。
それでも予定通り、5分後には移動しなければならない。いつまでもここにいれば、また敵に追撃されるおそれがある。
「……中尉は……」
「ん? なんだレオナ」
「中尉は、不安じゃないの?」
「そりゃ、不安さ」
誰も口には出さないが、最悪の結果を覚悟しているのは確かだ。有り得ないことではない。むしろ、今までそうならなかったことが不思議なのだ。
クラークはそれを、正直に答えた。
「でも、あなたは迷わないのね」
「迷う?」
「時間が来たら、あなたは移動を始めるでしょう?」
「ああ、そうだな」
「私は、ずっと迷っているわ」
言いながら、レオナはラルフを探し、遠くに目を凝らしている。
「命令に従って、帰投するか。命令違反と承知で、ラルフを探しに戻るか。どちらの道を選ぶべきか。自分はどちらを望んでいるのか……ずっと迷っているわ」
「不安、なのか?」
「ええ……そうね」
「お前、随分まともになったな」
それは、クラークの正直な感想だった。
出会った頃のレオナは、ただ作りの良い人形のような娘で、悲しみ以外の感情がすっぽりと抜け落ちているようなところがあった。
だが、近頃ではどうだ。相変わらず表情は乏しいが、笑いもするし、喜びもする。こんな風に、不安にもなる。
だが、レオナをそう変えた男は、まだ戻らない。かつて、同じようにクラークの何かを変えた男は。
「俺は、 あの馬鹿が簡単にくたばるはずがない、って信じている。だから、迷わない」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った時、時計の針が動いた。
「――時間だ、撤退する」
「中尉……!」
レオナが短く、しかし鋭く叫ぶ。思わずクラークがそちらを見てしまうほどの、縋るような声で。
後に続きそうな言葉は簡単に想像できる。レオナがそれを口に出すかどうかは分からないが、「もう少し待って」と、そう続けたいに違いない。
そう言いたい気持ちは分かる。
だから、言われる前に遮ろうとした。
「合流できるポイントは、まだいくらでも――」
「良かったら、もう少し待ってくれねえか?」
声は、逆にクラークの言葉を遮った。
最初、それは人型の泥の塊にしか見えなかった。だが、泥人形の顔が作る、あの人懐こい笑顔は。
歓声が、どっと押し寄せてラルフを包んだ。さすが大佐だ、やっぱり帰ってきた、万歳、俺は信じてましたよ――
何をどう切り抜けてきたのか、傷だらけの泥だらけで、しかもあちらこちらに返り血らしい血飛沫まで飛ばして、顔は煤けて黒くなった上に乾きかけた泥が貼り付いている。ひどい格好だが、傷はどれも浅いらしいのは幸いだ。
「クラーク、悪い。銃な、途中で落としちまったみたいでよ。帰ったら――わ、やめろよ、冷てえ」
誰かが水筒を開け、中身を盛大にラルフに掛けて、顔の泥を拭う。1人が始めると、我も我もと後に続くのが大変だ。泥まみれの上に水浸しまで加わって、かえってひどい有様である。しまいには泥を流そうというより、勝利者へのシャンペンシャワーの様相を呈してきた。
「いや、俺はあれが気に入ってたんですけどね」
不服そうに言いながら、サングラスの向こうで、大騒ぎを見詰める青い目が笑っている。
「あれを返してくれないと、こっちの分は返せませんよ――と、言いたいところですが、まあ、今日のところは貸しにしておいてあげますよ」
今度はクラークに背を押され、レオナが一歩、前に出る。泥水に塗れた手が伸ばされてその髪を撫ぜ、青い髪も泥で汚れたが、レオナは嫌がらなかった。不器用な表情のせいで分かりにくいが、むしろ喜んでいるようにも見える。
レオナの髪を撫ぜながら、ラルフが怪訝そうに聞き返す。
「随分と寛大だな。どういう風の吹き回しだ? 俺が戻ったのが嬉しくて、何て気持ち悪いこと言うなよ?」
「まさか」
クラークは、肩を竦めて笑う。
「今日はクリスマスですから。プレゼントの代わりに、まけときますよ」
戦場に、朝日が差し込み始めていた。
「Good Morning、Merry Christmas!」
誰かが、そう叫んだ。
粗雑で乱暴で鈍感で、そういうことはまるで不得手なように見えて、ラルフは案外、女性の扱いというものに長けている。本人曰く、女遊びも四半世紀続けてりゃ誰でもそれなりに覚えるものさというのだが、クラークに言わせると、あれは女というより人間の扱いが得意なんだ、ということになる。両者の言い分を聞いたものは、圧倒的な確率でクラークの方を支持する。確かに経験や馴れというものもあるだろうが、ラルフの持つ、なんというか他人に壁を作らせない人懐っこさは、男女を問わず相手を自分の側に引きずり込むだけの魅力がある。
それはともかく、ラルフが女性の扱いに長けているのは確かなことで、そういう男が予定外に懐に入ってきた小銭を若すぎる恋人へのプレゼントに変えようか、と考えるのはそれほど不自然な話ではなかった。
小銭といっても文字通りのコインではない。ちょっとした任務を遂行してみたら、その時に確保した馬鹿どもの中に賞金首が混じっていて、その報奨金がチームに分配されたのである。それはそれなりの額になって、皆で飲みに行ってもまだ残った。それをこつこつ貯金をするような甲斐性はない。実際、貯金なんぞしておいても降ろす前にあの世に行ってしまう可能性もあるのだから、通帳の残高を気にする方がナンセンスというものだ。
で、レオナに何か、身に着けるものでも買ってやろうか、となった。恋人からのプレゼントというのは、贈った方も贈られた方も気分がいいものだ。そして自分の贈ったものを恋人が身に着けているというのは、かなり気分がいいものである。
ところが、改めて考えるとこれがなかなか難しい。洒落た服やバッグなど、贈ったところであまり使う機会もないし、普段使いのシャツだブーツだ背嚢だではあまりに味気ない。かといって、部屋着や下着ではあまりに親密な相手への贈り物だ。いや、実際そうなのだが、ラルフはまだハイデルンにレオナとのことを告げていない。あの過剰に娘想いな父親に、あなたの娘さんに手を付けましたと言う度胸がない。腰抜けと笑いたくば笑え、俺はレオナも好きだが命も惜しい―― わかりやすい話ではある。
とにかく、下着なんぞ贈ったら、ハイデルンに見咎められた時に面倒なことになるのは必至だ。それならもっと実用的な品ならどうかと考えるが、財布はこの間新調したばかりらしいし、キーケースは愛用のものがある。それじゃあナイフか拳銃か、と考えそうになってラルフは頭を振った。それでは背嚢よりもまだ悪い。
口紅あたりも考えたが、使わないものを贈っても仕方がない。最近になってやっと1本99セントのリップクリームを塗り始めたようなレオナに、化粧品など贈っても持て余すだけだ。
いや、持て余すというのも間違いだ。あれは、不要なのだ。
飾らない女ならいくらでもいるが、飾ることを必要としない女というのは珍しい。たとえ口紅ひとつ塗らなくても、泥だらけの戦闘服姿だろうと、それでレオナは充分に美しいのだ。それは若さのなせる奇跡かもしれないが、そこにわざわざ化粧などという手を施すのは、それが自分が贈ったものであっても野暮になる気がした。
結局、無難なのは定番だがアクセサリーか、と考えて周りを見渡し、最初に目に付いた店に入る。
「プレゼントですか? どんなものをお探しで?」
商魂たくましい店員がまとわりついてくるのに、プレゼントに決まってるだろ、俺が着けるんじゃ怖いだろうがと冗談を飛ばしながら、ラルフはケースに収められた華奢なアクセサリーを見る。
イヤリングは駄目だ。あいつの耳たぶにはおっかない先客がいる。指輪も駄目だ。下着と同じ理由で却下だ。バングルやアンクレットは悪くないが、任務中には邪魔になるだろう。その時だけ外せばいいことだが、生真面目なレオナのことだ、律儀に着けたままにして難儀することになるに違いない。
となると、ペンダントあたりが無難か。それなら制服のシャツの下に隠れて目立たないし、たいして邪魔にもならない。そうだ、青い石のペンダントだ。青い髪に青い瞳のレオナには、きっと青い石が似合う。
「青でございますか。でしたらこちらに」
案内されたショーケースの中には、ありとあらゆる青い宝石がきらめいていた。トルコ石、アクアマリン、タンザナイト。レオナの髪に一番似て、いかにも似合いそうなのはラピスラズリ。
けど、あいつももうすぐ十九だからな。少し大人っぽい石にしてもいいだろう。そうするとサファイアがいいか。あまり大きな石だと仰々しすぎるから、シンプルな台に小さな石が乗ったやつ。でも小さくても良い石がいい。レオナの瞳に負けないような深い青で、良く光る……
…………
………………
……………………
「何かお気に入りのものはありましたか?」
「……すまん、気が変わった。また来る」
戸惑う店員を置き去りに、ラルフは店を出た。低い位置のショーケースを覗き込んでいたせいか、なんだか重くなった背をぐいと伸ばす。
遠くに、ドラッグストアの派手な看板が見えた。
「おいレオナ」
ひょいと放られたものを受け取って、レオナは首を傾げた。
「目薬?」
疲れ目・充血用の、何の変哲もない目薬である。
「ああ。それ、お前にやる」
「……ありがとう。最近パソコン仕事が多いから助かる。でも、どうして?」
「いや、なんとなく。目は大切にしろよってことだ」
「だから、どうして急に?」
「ほら、商売道具だからよ。悪くすると困るだろ。だから使っとけ」
本当の理由なんていくらなんでも言えるかよ、というのが正直なところだ。臭い口説き文句も相当口にしてきたが、今回のは核爆弾級だ。そんな言葉が素で思い浮かんでしまったことを自己嫌悪したいぐらいだ。
まさか、「お前の目より綺麗なサファイアなんてなかった」なんて言えるもんか。お前の目玉に比べたら、あんなの全部クズ石だ。そんなことを考えてしまった馬鹿さ加減に、自分でもがっくりくる。
それなのに、でもやっぱりあれだけの目なんだから大事にして欲しいよな、などと結局目薬なんか買ってきた。ほとんど笑い話のレベルだ。それも百年先まで人から笑われる類の。
首を傾げたままのレオナに、ラルフは何でもないふりでそっぽを向いた。
それはともかく、ラルフが女性の扱いに長けているのは確かなことで、そういう男が予定外に懐に入ってきた小銭を若すぎる恋人へのプレゼントに変えようか、と考えるのはそれほど不自然な話ではなかった。
小銭といっても文字通りのコインではない。ちょっとした任務を遂行してみたら、その時に確保した馬鹿どもの中に賞金首が混じっていて、その報奨金がチームに分配されたのである。それはそれなりの額になって、皆で飲みに行ってもまだ残った。それをこつこつ貯金をするような甲斐性はない。実際、貯金なんぞしておいても降ろす前にあの世に行ってしまう可能性もあるのだから、通帳の残高を気にする方がナンセンスというものだ。
で、レオナに何か、身に着けるものでも買ってやろうか、となった。恋人からのプレゼントというのは、贈った方も贈られた方も気分がいいものだ。そして自分の贈ったものを恋人が身に着けているというのは、かなり気分がいいものである。
ところが、改めて考えるとこれがなかなか難しい。洒落た服やバッグなど、贈ったところであまり使う機会もないし、普段使いのシャツだブーツだ背嚢だではあまりに味気ない。かといって、部屋着や下着ではあまりに親密な相手への贈り物だ。いや、実際そうなのだが、ラルフはまだハイデルンにレオナとのことを告げていない。あの過剰に娘想いな父親に、あなたの娘さんに手を付けましたと言う度胸がない。腰抜けと笑いたくば笑え、俺はレオナも好きだが命も惜しい―― わかりやすい話ではある。
とにかく、下着なんぞ贈ったら、ハイデルンに見咎められた時に面倒なことになるのは必至だ。それならもっと実用的な品ならどうかと考えるが、財布はこの間新調したばかりらしいし、キーケースは愛用のものがある。それじゃあナイフか拳銃か、と考えそうになってラルフは頭を振った。それでは背嚢よりもまだ悪い。
口紅あたりも考えたが、使わないものを贈っても仕方がない。最近になってやっと1本99セントのリップクリームを塗り始めたようなレオナに、化粧品など贈っても持て余すだけだ。
いや、持て余すというのも間違いだ。あれは、不要なのだ。
飾らない女ならいくらでもいるが、飾ることを必要としない女というのは珍しい。たとえ口紅ひとつ塗らなくても、泥だらけの戦闘服姿だろうと、それでレオナは充分に美しいのだ。それは若さのなせる奇跡かもしれないが、そこにわざわざ化粧などという手を施すのは、それが自分が贈ったものであっても野暮になる気がした。
結局、無難なのは定番だがアクセサリーか、と考えて周りを見渡し、最初に目に付いた店に入る。
「プレゼントですか? どんなものをお探しで?」
商魂たくましい店員がまとわりついてくるのに、プレゼントに決まってるだろ、俺が着けるんじゃ怖いだろうがと冗談を飛ばしながら、ラルフはケースに収められた華奢なアクセサリーを見る。
イヤリングは駄目だ。あいつの耳たぶにはおっかない先客がいる。指輪も駄目だ。下着と同じ理由で却下だ。バングルやアンクレットは悪くないが、任務中には邪魔になるだろう。その時だけ外せばいいことだが、生真面目なレオナのことだ、律儀に着けたままにして難儀することになるに違いない。
となると、ペンダントあたりが無難か。それなら制服のシャツの下に隠れて目立たないし、たいして邪魔にもならない。そうだ、青い石のペンダントだ。青い髪に青い瞳のレオナには、きっと青い石が似合う。
「青でございますか。でしたらこちらに」
案内されたショーケースの中には、ありとあらゆる青い宝石がきらめいていた。トルコ石、アクアマリン、タンザナイト。レオナの髪に一番似て、いかにも似合いそうなのはラピスラズリ。
けど、あいつももうすぐ十九だからな。少し大人っぽい石にしてもいいだろう。そうするとサファイアがいいか。あまり大きな石だと仰々しすぎるから、シンプルな台に小さな石が乗ったやつ。でも小さくても良い石がいい。レオナの瞳に負けないような深い青で、良く光る……
…………
………………
……………………
「何かお気に入りのものはありましたか?」
「……すまん、気が変わった。また来る」
戸惑う店員を置き去りに、ラルフは店を出た。低い位置のショーケースを覗き込んでいたせいか、なんだか重くなった背をぐいと伸ばす。
遠くに、ドラッグストアの派手な看板が見えた。
「おいレオナ」
ひょいと放られたものを受け取って、レオナは首を傾げた。
「目薬?」
疲れ目・充血用の、何の変哲もない目薬である。
「ああ。それ、お前にやる」
「……ありがとう。最近パソコン仕事が多いから助かる。でも、どうして?」
「いや、なんとなく。目は大切にしろよってことだ」
「だから、どうして急に?」
「ほら、商売道具だからよ。悪くすると困るだろ。だから使っとけ」
本当の理由なんていくらなんでも言えるかよ、というのが正直なところだ。臭い口説き文句も相当口にしてきたが、今回のは核爆弾級だ。そんな言葉が素で思い浮かんでしまったことを自己嫌悪したいぐらいだ。
まさか、「お前の目より綺麗なサファイアなんてなかった」なんて言えるもんか。お前の目玉に比べたら、あんなの全部クズ石だ。そんなことを考えてしまった馬鹿さ加減に、自分でもがっくりくる。
それなのに、でもやっぱりあれだけの目なんだから大事にして欲しいよな、などと結局目薬なんか買ってきた。ほとんど笑い話のレベルだ。それも百年先まで人から笑われる類の。
首を傾げたままのレオナに、ラルフは何でもないふりでそっぽを向いた。