鳥が飛ぶ夢を見る。
陽はずっと落ちて空の大半は暗いというのに、鳥はまだ一羽で飛んでいる。
手に誰かの体温を感じて、見るとあの少女が隣に立っていた。今日も私と手を繋いでいる。前に見たときより少し背が伸びたように見えるのは気のせいだろうか。
「まだ仲間を見つけられないのね、あの鳥は」
「そうね。これからどんどん暗くなっていくから、夜目の効かない鳥には難しいかもしれない」
「仲間が見つからなかったら、どうなるか分かる?」
「ええ。知識としては知っているわ」
私はいつか読んだ本を思い出して、少女の問いに答える。
「普通は夜になる前に、仲間と一緒に下に降りるの。できれば池とか川とか、水の上に。水の上なら外敵に襲われにくいから」
「それで?」
「それだけではまだ、水を泳ぐことができる外敵からは身が守れない。だからなるべく仲間と身を寄せ合って眠るわ。集団になれば襲われにくいのね」
「それじゃあ、仲間のいないあの鳥は?」
鳥は一羽だ。まだ一羽きりで飛んでいる。
「一羽で降りて、今夜は何事もなく済むように祈りながら眠るか、何も見えない夜空を飛び続けるしかないわ」
「それで大丈夫だと思う?」
「難しいと思うわ。朝まで生き延びられる確立は低いでしょうね」
「ええ、きっと死ぬわ。あの鳥」
少女は歌うように言う。
「獣に襲われるか、落ちてしまうか。それは分からないけど、きっと生きてはいけないわ」
少女の言う通りだ。あの鳥はきっと死ぬ。
血のような夕焼けに照らされて、鳥はただ飛んでいる。
「わたしもおんなじ。わたしもあの鳥と同じよ。一羽では飛べない。どこへも行けない。あなたが私のパパを殺して、わたしを一人にしてしまったから、もうどこにも行けない。あなたのせいでどこにも行けない……」
そこで、目を覚ました。
忙しい職務の合間、まるでそこだけ抜け落ちたようにぽっかりと、ほんの数分の時間が空くことがある。そんな時、ハイデルンはいつも懐から写真を取り出して見る。
今は亡き、妻と娘の写真だ。まだ娘が幼い頃に、ハイデルンが撮ったものだ。
世の多くの父親と同じように、ハイデルンは彼の一人娘のことを愛していた。目の中に入れても、と言う言葉があるがまさにそういうものだった。職業柄、娘と過ごす時間は短かったが、その時間は全て娘と妻のために使った。そして会えない時間の隙間を埋めるように、沢山の写真を撮った。その写真の一枚がこれだ。
しかし、娘と妻は殺された。五十余名の彼の部下と、ハイデルン自身の右目と共に、彼が愛した家族の命は奪われた。守ってやることができなかったのだ。あれからもう十年が経つが、その記憶と怒りと悲しみと、悔恨は今も深い。
ハイデルンはこの九年、それに復讐心を交えたものを支えに生きてきた。守ってやれなかったのなら、せめて復讐を――娘と妻の写真と、部下の無念を携えて、彼はこの十年を復讐のために費やした。
そして二年前、ついに復讐は成った。
「終わったよ、何もかも」
ひっそりと写真に語りかける。二年間、何度も同じ言葉を繰り返した。
だが、返事は戻らない。かつてのように、二人が彼に笑いかけることはない。
空しいものだと思った。
復讐が成っても、それで娘と妻が甦るわけもない。ハイデルンの右目は永遠に光を取り戻さないし、部下達が家族が待つ家に戻れるわけでもない。ただ死者を一人、積み重ねただけのことだ。最初からわかっていたこととは言え、いざ全てが終わるとその空しさは重かった。
復讐の行程が何も生まなかったわけではない。復讐が与えたものもあった。
力を求めたがゆえに、部隊は以前の数倍にも大きくなった。今は腹心と呼べるまでになった部下との出会いがあり、義娘との出会いがあった。
だがやはり、復讐などと言うものは、所詮自己満足に過ぎないのだ。死者は全てを止めてしまったから死者なのだ。復讐を成し得なかったからといって泣きもしないし、復讐が成っても喜びはしない。ただ、生き残ったものが自分の遺恨に区切りをつけるだけの話だ。
空しいものだ。愚かな話だ。
そう自嘲した時、ドアの外に気配を感じた。懐に写真をしまいつつ、ノックの前に声を掛ける。
「――入れ」
それを受け、音を立てずにドアが開いた。
一礼して部屋に入ってきたのはレオナだった。左手にはファイルの束が抱えられているが、利き手の右は空けてある。いついかなる時でも戦えるようにと彼が教えた通りだ。それは合格だが、ドア越しに気配を感じさせるようではまだまだだ、とハイデルンは胸の内で義娘を評価する。
「次の作戦の企画書です」
「そうか」
「大佐と中尉は予定通り、五分後にはこちらに。企画書のみ、先にお持ちしました」
言いながら、レオナがデスクに置いたのはラルフとクラークの分のファイルだ。
次の予定は、ラルフのチームが次に遂行する予定の作戦の最終確認だ。ハイデルンを交えての確認が済み次第、チームはその作戦に向けての準備と訓練に掛かる。レオナが持ってきたのはその書類だった。
レオナ自身はその会議には参加しない。レオナには明確な階級はないが、少なくとも佐官尉官よりは下、むしろ新兵の扱いだ。まだこういった会議に出るべき立場ではない。ただ、支度の整わない上官の代わりに書類を持ってきただけだ。
自分の仕事を終えると、レオナは一礼して部屋を出て行こうとする。もうここに残る理由はない。
普段なら、そうしてレオナが出て行くのを見送り、ハイデルンは再び写真を見つめての自問自答の時間に戻る。だがその日、ふと思いついたように、ハイデルンはレオナを呼び止めた。
「レオナ」
「何でしょう?」
「手を、見せてくれ」
命令にしては奇妙な言葉に、レオナは首を傾げて義父を見上げる。言葉を繰り返す代わりにハイデルンが頷くと、レオナは怪訝そうな顔をしながら、それでも両手を揃えてハイデルンの前に差し出した。命令ならば絶対であるし、そうでなくても拒む理由はない。
手袋をすることが多いせいか、職業の割には陽に焼けていない、白い手だった。だが、良く見れば随分と痛んだ手であることがわかる。無数の傷跡に、何年も繰り返してきた射撃の訓練がつけた厚い胼胝(たこ)、指は少女のしなやかさを失ってはいないものの節が目立つ。うっすらと血と硝煙の臭いをまとわせているように感じるのは、おそらく気のせいだけではないだろう。
傭兵の手だった。
以前、誰かに言われたことがある。「あなたの義娘に「君が味方で良かった」と言ったら、「命令なら味方でも殺します」とあっさり切り捨てられたよ」と。おそらく相手は、義娘を殺人兵器のように育てたと揶揄するつもりだったのだろうが、ハイデルンはむしろその言葉に満足する部分もあった。
そうなるように、ハイデルンはレオナを育てた。傭兵の手を持ち、必要とあればそれが仲間であっても、その手で殺すことができるようにと。そうでなければ、運命に抗い人として生きることは難しいと思ったからだ。
だが、それも自己満足に過ぎなかったのかもしれない。義娘の手を見つめながら、ハイデルンはそう思う。
もし、ハイデルンがレオナを引き取らなければ、少女は実の両親が与えた名で呼ばれ、おそらくどこかの病院でいくらかの精神的な治療を受けて、平穏に暮らしただろう。そうすれば少しは感情も戻っただろうし、きっとそれなりに平穏で平凡な少女時代を送れたに違いない。
暗殺術などという血生臭い技を覚えることもなかった。確かにその技は、一度は彼女の災厄を撥ね退けたが、次もそれが通じるとは限らない。ほんの少しだけ、真の災厄を先延ばしにしただけかもしれない。それならたとえ一時でも、普通の少女らしく過ごさせてやる方が幸せだったのかもしれない。
レオナの人生を本当に狂わせたのは、もしかしたら自分だったのではないかと、ハイデルンは思う。
だからレオナの痛んだ手を、ハイデルンがそっと己の手で包んだのは悔恨の現われだったのかもしれなかった。レオナは珍しく、少し驚いた顔で義父を見上げる。そんなことをする義父は、レオナの記憶にはなかった。
だがすぐに、ハイデルンは義娘の手を離した。
「妙なことをさせてすまなかった。もう戻ってよろしい」
「はい」
レオナはもう一度、礼からやり直して部屋を出た。来た時と同じように、ドアを開ける音も閉める音もしない。
それを見送ってから、ハイデルンは再び懐から写真を取り出した。
「終わったよ、何もかも」
ひっそりと写真に語りかける。二年間、何度も同じ言葉を繰り返した。
「だが私には、新しい務めができたようだ」
やはり、写真は何も答えない。それでもハイデルンは続ける。
「あの痛んだ手と、あの手が流す血の為に。あの手が望むままに――それが、私の務めだ」
言葉は写真の上にこぼれて床に落ちるばかりで、まだ義父に触れられた感触が残る手を軽く握って歩いて行くレオナが、それを聞くことはない。
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夢だ。いつもの夢だ。
鳥はまだ飛んでいる。翼は次第に力を失い、視界が暗いのか方向が定まらない。それでもただひたすら、弧を描いて飛んでいる。
赤毛の少女もまた、いつものように隣にいた。気のせいではなく、確かに以前より背が伸びた。最初にこの夢の中で出会った時は、おそらく10歳前後。それが今では12、3歳の風貌だ。声も大人びてきている。
と言っても、私は少女の顔をまだ見たことがない。赤い髪に隠れて、その顔はいつも見えない。
「ねえ、今のあなたには群があるの?」
群。私にとっての群。それは「部隊」と置き換えてもいいものだろうか。部隊の仲間。それが私の群なのだろうか。
「……たぶん、あるわ」
「曖昧なのね――その群の居心地は良い?」
「ええ。みんな陽気で優しくて、上官にも恵まれていて」
「本当に?」
そこで「もちろんよ」と言い切れなかったのはなぜだろう。
きっと、私は幸せなのだと思う。心配されて励まされて笑いを促されて。年上の沢山の仲間達に恵まれて、気にかけられて、きっと私は幸せなのだ。
それなのに答えは曖昧で、聞き返されても答えられない。
「不安なんでしょう?」
くすり、と少女が笑う。
「いつまでその群の中にいられるか、不安で仕方がないんでしょう? 目が覚めれば周りにはたくさん人がいて、みんな優しくしてくれて、あなたを必要としていて。でも、それでは不安なんでしょう?」
少女は私の手を握っている。それが一人で不安だからではなく、私を逃がすまいとしているのだと、その時初めて気が付いた。
少女の手に力がこもる。
「あなたは、人殺しの自分をあの人たちが大事にしてくれるのが不安なのよね。人殺しの癖に、パパを殺したくせに、なんで私に優しくしてくれるの、って」
私はそれに答えられない。少女の手を振り払うこともできない。
「あなたの不安は間違いじゃないわ。あなたが利用できるから大事にしているだもの。あなたが便利だから、優しいふりをしているだけよ。あなたが役に立たなくなったら、みんな離れていくわ」
たぶん、それはその通りなのだ。だから私は少女の言葉を否定できない。
所詮、私は駒だ。そう思ったことがなかったとは言わない。役に立つ駒だから、みんな私の汚れた手を見ないふりをしてくれている。だけれど、動けない駒になってしまえばそれまでだ。ただの駒でさえ盤上を追われる――父親の血で穢れた駒など尚更だ。
「いつまで群にいられるでしょうね? いつまで一緒にいられるでしょうね? でも群からはぐれたらあなたもあの鳥と同じ」
落日の空をさまよって、羽を休めることができない一羽の鳥と何も変わらない。
「ねえ、だからあなたも早く落ちてきて。わたしとおなじ、一人の空に」
そうして世界は暗転し、その闇に押し潰されるような錯覚の中、私は気を喪って――
そこで、目を覚ました。
「お、起きた」
つい、うとうとしていたらしい。気付けば、人懐こい笑みを浮かべてラルフが顔を覗き込んでいた。
移動中の車の中だ。揺れから察するに、整備された道路を高速で走っているらしい。となると高速道路をまだ降りていないのかと時計を見れば、現場への到着予定時刻の一時間以上前だ。高速道路に入った時の記憶はあるから、眠っていたのはほんの数分ということになる。
「珍しいな、お前が居眠りなんて」
「ごめんなさい」
「いや、別に最前線を行軍してるって訳じゃねえんだ。問題ねえよ」
ラルフの言う通り、もう少し寝ていても何の問題もない状況だ。実際に眠っている仲間もいる。仕事の前に緊張して眠れなくなるようではこの部隊では話にならないし、眠っていても咎められることはない。
流石に直前になれば装備の最終点検など始めるが、それまでは寝ていようが遊んでいようが当人の勝手。やるべき時にやるべきことを間違いなく行えるならそれでいい。それが暗黙の了解だ。
ラルフがこちらを覗きこんでいたのも、注意をしようとかそういうことではなくて、当人の言う通り、純粋な物珍しさだったのだろう。
「もう少し寝てろよ。起こしてやるから」
「別に、平気よ」
「平気じゃねえだろ。お前、最近寝不足だろ? 目の下にクマできてるぞ」
「そう? 睡眠時間はいつもと同じよ……ただ」
「ただ、なんだ?」
「何か夢を見ているような気がするの。眠りが浅いのかもしれない」
「かもしれないって、自分のことなのにわかんねえのか、お前は」
ラルフは呆れ声で首を振る。
「いいか、俺らは体調の管理も込みで給料貰ってんだからな。ちゃんとしとけよ。なんなら今度、朝までぐっすり眠れる方法を教えてやろうか?」
「レオナ、悪いことは言わないからそれは遠慮しとけ」
そこで話に加わったのはクラークだ。続いて、なんだなんだと数人が首を突っ込んでくる。
「こいつの勧める眠り方なんざ、ボトル一本空にしろとか、大方そんなところだ。お前には向かないし、酒で眠るのは却って疲れが残るだけだ。やめとけやめとけ」
「え? 俺が昔、同じ台詞を聞いた時は口説き文句の一部でしたよ。ベッドの上でちょっと運動すれば不眠なんてって――」
「こら馬鹿。未成年者になんて話を聞かせやがる」
「あいたたたた。だって本当のことじゃないですか。勘弁してくださいよ大佐」
余計なことを言いやがったとチョークをかけられ、大げさに苦しがる姿を他の誰かが笑う。ラルフは調子に乗って更に腕に力を入れ、締められている方は演技だけではすまなくなってばたばたと狭い車内でもがく。
きっと、私は幸せなのだと思う。心配されて励まされて笑いを促されて。年上の沢山の仲間達に恵まれて、気にかけられて、きっと私は幸せなのだ。
けれど、それでは満たされた気がしない私は、きっとこの幸せと同じぐらい罪深い。私が欲しいのは彼らの声ではなく、彼らの笑いではなく、彼らの想いではない。その全てを失っても、たったひとつ、あの人が残るならそれでいい。私はそれに気付いてしまった。
笑い声が収まらない中、私はもう少し眠るふりをしてシートに身を沈め、目を閉じた。彼らを見るのが、今は少しつらかった。
「畜生、情報部は何調べてやがった! あいつらの目は節穴か!?」
ラルフの罵声に同意の声は上がらなかったが、皆思っていることは同じだった。単に、文句を言い立てるほどの余裕があるのはラルフとクラーク、それからレオナぐらいのもので、その中で一番怒りの沸点が低いのがラルフだったということだ。クラークも見た目の割には温厚とは言えない性格ではあるが、ラルフとは感情表現の方向性が違うし、レオナが怒鳴り散らしたらそれはほとんど天変地異のようなものだ。
「大した装備はねえって話じゃなかったのか? それじゃアレはなんだよ、あの非常識な代物は!」
その怒声を掻き消す銃声は規則的で、その軽快なリズムはいっそ小気味良いものでさえあったが、相手にする方にとってはそれは死の旋律だ。
機関銃であった。普通は装甲車両かジープあたりに積んで使う。そんなものをラルフ曰くの場末の悪党が持っているのも驚きだったが、郊外のホームセンターの駐車場に停まっているようなバンの後部に載せているのも冗談めいた光景だった。
それを見た瞬間、全員が物陰に飛び込んだのは流石だった。ほんの一瞬遅れて掃射が来る。喚くラルフのすぐ横を銃弾が掠め、獲物を捕らえ損ねた弾はコンクリートの床を削って破片を撒き散らした。それがサングラスに当って、顔を顰めたのはクラークだ。
「一丁しか出て来ないだけ、まだ常識の範囲内じゃないですか。あれが精一杯の虎の子なんでしょう。可愛いものですよ。まあ、向こうも弾が切れたら終わりだってのは解ってるでしょうから、こっちの盾が吹っ飛ぶまでは撃ち続けたりはしないでしょうし――ほら、止まった」
「そりゃいいけどな、こっちがこうして隠れんぼ続けなきゃならねえことには変わりねえんだ。飛び出しゃ蜂の巣、隠れてりゃその間にあいつら逃げちまう。さて、どうするよ?」
機銃掃射が止まって妙に静まり返った空間に、バンのエンジンに火を入れようとするセルの音が響く。運転手が焦っているせいかバッテリーがへたっているのか、一発では掛からないが、このエンジンさえ掛かってしまえば確実に逃走できるという向こうの余裕も感じられて、それが余計にラルフを苛立たせた。
相手は半年かけてここまで追い詰めた標的である。何が何でも確保するか、悪くても死体を持って帰らなければ、情報部の働きも含めてこの半年がふいになる。
逃してたまるかとは思うが、ここで打って出るには装備が足りない。情報部の調査報告を全て鵜呑みにしたわけではないが、ここまでの武装があるとは思っていなかった。余分に持ち込んだ装備は、それまでの激しい抵抗ですでに消費してしまっている。完全に作戦失敗だ。
その時、ラルフの通信機にコールが届いた。コールの主は、ラルフたちとは違う物陰に身を隠したレオナである。
「出るわ。援護をお願い」
遺言に等しい名乗りだった。
機関銃の撒き散らす弾は、物にもよるが毎秒二十発近い。三秒あれば六十発。人ひとり挽肉にして、まだ充分お釣りが来る。その銃撃に身を晒らすなどというのは、無謀を通り越して馬鹿な話だ。
「お前、まだ寝ぼけてんのか? 帰ったら始末書の山と格闘だぞ。それまでにちゃんと目ぇ覚ましとけ」
「エンジンが掛かった瞬間に出るわ。援護して」
「おいこら」
「お願い」
そう言い残すと、通信は切れた。
「畜生ッ」
戦場では何度吐いたか数え切れない台詞だが、これほど心底そう思ったのは今回が一番かもしれない。ラルフは通信機を叩き潰したい衝動を抑えるのがやっとだった。
「レオナが出る! 援護するぞ。エンジンが掛かったらぶっ放せ!」
レオナが有無を言わさず通信を切ったのは、そうすれば嫌でもラルフが援護すると狙ってのことだ。確認しなくてもわかる。昔、ラルフ自身が良くやった手だ。誰だってそんな思惑に乗るのは癪だが、援護しない訳にも行かなくなる。そういう手なのだ。
「命知らずの特攻ですか。そういうところは上官を見習わないで欲しいんですがねえ」
ハンドガンのカートリッジをフルに装弾されているものと取り替えながら、クラークが溜息を吐く。
「馬鹿言え。俺が無茶やるのは、そうでもしなきゃ誰も彼も皆死んじまうって時だけだ。無茶と無謀の区別もつかねえ餓鬼と一緒にするな!」
言い捨てた瞬間だった。気化したガソリンがシリンダーの中で爆発する、篭った炸裂音。バンのエンジンが息を吹き返した音だ。
「今だ、撃て!!」
手だけを突き出しての乱射だった。それでも狙い違わずトラックへ射線が集中したのは、日頃の厳しい訓練の賜物だ。この傭兵部隊では射撃訓練も並大抵のものではない。
機関銃は再びリズムを刻み出したが、明らかに射手は動揺していた。だから、駆け出した少女への対応も、一瞬遅れた。
体勢を低く保った姿勢で疾走する少女の姿は、まるで青い獣のようだ。その獣に牙はないが、代わりに手に握られた銃が火を噴く。傾いた姿勢から撃ったとは信じがたいような、正確な射撃が続けて四発。両肩と胸と腹から血を流して射手が倒れ、機関銃のリズムは狂って止まり、それきり二度と動かなかった。
やった、と誰かが呟く。歓喜の叫びにならなかったのは、仕事がまだ終わりでないのと、安堵の吐息が混じったからか。
「急げ! エンジンは掛かっちまってるんだ。逃がすなよ! それから機関銃にはもう誰も取り付かせるなよ!」
周囲に指示を飛ばしつつ、ラルフはレオナの元に走る。
レオナは再び、相手の死角になるよう物陰に身を隠していた。相手の機関銃を潰したとは言え、まだ武器は残っているだろう。ひとつ大仕事を終えたとは言え、敵の前で無防備に立ち尽くしているような間抜けはいない。標的の捕獲、残敵の掃討、まだやることは山程ある。一息吐く余裕はない。レオナも再び、銃を構えていた。
だがその姿を見て、ラルフは眉を顰めた。レオナの肩の少し下、二の腕の辺りが赤黒く染まっている。機関銃の掃射はレオナを捕らえはしなかったが、掠めて裂いたのだ。それで済んだのは奇跡的だ。まともに当っていれば腕が千切れ飛ぶ。
「お前さ、それでまだ行こうってのかよ」
ラルフに問われても、レオナは頷きもしなかった。当たり前でしょう、と言外に言っている。
出血は決して少なくない。戦闘服を染めてなお溢れた血が、ぽたぽたと床に散って奇妙な模様を描いていた。
「ここはもう充分だ。下がれ」
「いいえ」
やっと答えた。
「出血性のショックでひっくり返ったらどうするんだ、馬鹿」
「平気よ。まだ戦える」
「下がって衛生兵に止血してもらえ。それからすぐに軍医のところだ」
レオナは、もう答えなかった。黙ったまま、しかしやはり退く気配も銃を下ろす気配もない。
ラルフも、もう何も言わなかった。ただ、何も言わずにその頬を張った。
分厚い掌が少女の頬を打つ音は、どの銃声よりも乾いていた。
不眠不休が常の基地の中とは言え、夜になれば少し灯を抑える。廊下もそうだ。常夜灯を灯しただけの廊下には、薄暗闇が薄く積もっている。
その薄暗闇を踏みしめるラルフは、足音を立てなかった。現場から戻ったばかりの戦闘服姿だ。血と埃と硝煙のが混じった戦場の臭いを引きずっている。しかし、その荒々しさからは想像も付かないような歩き方だった。
元々ラルフは、足音が生む威圧感や焦燥感を利用する時以外はほとんど足音を立てない。後は相手を驚かさないように気を使って、わざと足音を立てるぐらいだ。いついかなる時でもそういう歩き方ができるように、積み重ねた訓練が身に染み付いている。同じ訓練を積んだクラークやレオナもそうだ。
だが、それでもノックよりもハイデルンの声の方が早かった。
「入れ」
今だかつて、ラルフもクラークも、もちろんレオナもハイデルンの部屋の扉を叩いたことがない。その前にいつも気配に気付かれ、声を掛けられる。三人に気配の消し方を叩き込んだ本人であるとは言え驚異的な能力だ。
「ラルフ=ジョーンズ、ただ今帰還しました。現場の処理にちょいと余計な手間を食いましたが、あとは万事問題なしです。被害は」
そこでラルフは、一度言葉を切った。それからちょっと言い難そうに、
「被害は、負傷者一名のみ。以上です」
「そうか」
告げる方も応える方も声が苦いのは、たった一人の負傷者がハイデルンの義娘であるというのも理由のひとつだ。レオナの無謀と命令違反、そしてそれによる負傷のことは、既にハイデルンの耳にも届いている。
レオナは衛生兵によって応急手当を受けた後、先に基地に戻された。基地には凄腕の軍医がいる。遠く離れた異国での任務だとか、即処置が必要というなら話は別だが、それほどの緊急でもなく、そこそこの時間で戻れる場所にいるなら、そこらの医者より軍医に任せた方が色々と都合がいい。今回はその都合を優先できる状況だった。
「で、レオナはどうなんです? 先にそちらに連絡が行ってるんじゃないですか?」
順当に考えれば、ドクターからその報告を先に受けるのは、直属上官であるラルフの方だ。だが、ハイデルンがレオナの義父でもあるということで、話は少し変わるだろうとラルフは踏んだ。義娘の容態を早く知りたいだろうと、ドクターが気を利かせるということは充分に考えられる。
それは間違った予想ではなかった。
「先程ドクターから連絡があった。失血量が多く、収容時に多少の意識の混濁が見られたそうだが、それだけらしい。骨にも神経にも異常はないそうだ。復帰にもそれほど時間は掛からないだろう。だが、今夜は大事を取って医療部内で休ませるということだ」
「そりゃ良かった――って、まだレオナの様子を見に行ってないんですかい?」
「部隊が戻らぬうちに部屋を離れる司令官がどこにいる」
「そりゃそうですが」
義娘が怪我をして担ぎ込まれたのだ。本当は飛んで行きたいだろうに、とラルフは思う。それはハイデルンの立場を考えれば確かに正しい行動だったが、ラルフにしてみればひどく歯痒い。
とはいえ、ハイデルンからドクターの話を聞いて、ラルフが胸を撫ぜ下ろしたのも確かだ。傷を見た時から大したことはないとわかっていたが、それでもやはり不安は拭いきれないものだ。これでハイデルンが部屋にいなかったら、すわ重傷かいや危篤かと慌てただろう。
だがもう安心だ。一息吐いたところで、いつもの調子が出た。
「血の気が引いたついでに、頭も冷やしてくれりゃいいんですがね」
「それについては、お前に訊かなければならないことがある」
にやりと笑ったラルフとは反対に、ハイデルンの表情はますます苦い。
「あれの命令違反だが、ここ数ヶ月で急に増えたようだな。相応の処分をし、こちらに報告が届いた分で四回。そこまでの問題ではないとお前の責任で処理した分を含めると十一回。今回も含めれば十二回だ」
報告しなかった七件分もやはり把握していたか、とラルフはばつが悪そうに頭を掻いた。ハイデルン相手に隠し通せるとは思っていなかったが、件数まで正確に知られているとは。
「全く面倒なことをしてくれる。他の者であれば、『あれを甘やかしても私に媚を売ったことにはならん』とでも言ってやれば済むことだ。だが、お前の場合はそうはいかん」
そんな媚がハイデルンを動かしはしないことをラルフは良く知っているし、媚びたところですでにラルフはこの基地の「不動のナンバー2」だ。これ以上の出世はハイデルンが去らなければ有り得ない。媚を売る理由などないのだ。
「聞かせてもらおうか。なぜ、あれをここまで野放しにした?」
「野放しって言うほど、手綱を緩めたつもりはないんですがね」
困ったように頭を掻くラルフの指の間から落ちるのは、銃弾で抉れたコンクリートの欠片だ。荒っぽい任務をこなして戻ってきた後は、いくら払い落としたつもりでもこういった戦場の破片いつまでもどこからかこぼれてくる。手や髪に染み付いた硝煙の臭いが消えるのは三日後。それが過ぎる前に日々の訓練を再開するから、結局は一年中、硝煙の臭いを撒き散らしていることになる。そんな暮らしが十数年も続いているのだから、ラルフには火薬の臭いが染み付いて取れることがない。
中でも最も火薬の臭いが強いのは手だ。その手を広げて、ラルフは指折り数えてみせる。
「俺が新兵のころだから、かれこれ二十年も前のことになりますがね、その頃の自分を思い出してみると、今のレオナにゃ口で言ってもわからねえだろうなって思ったんですよ。だから、少し痛い目に遭うまで手綱を緩めて、好き勝手に走らせてみようかと。周りをヤバいことに巻き込まない程度にコントロールはしてましたし、いよいよまずいって時にはそれなりの処分もしましたけどね」
それが報告の行った四回だ。軽微ではあっても損害を出したり、それがもっと大きな被害に繋がると判断した時は、ラルフは容赦なく処分を下したる。自分はつくづくレオナに甘いと自覚しているラルフだが、そこを外すほど甘やかすつもりはない。だからクラークも、今まで見て見ぬふりに付き合っていた。
「まあ、俺にもありましたからね。わかるんですよ。深追いするなって場面で突っ込んだり、勝手に先行したり。功名心やヒーロー願望じゃないんですが、そうせずにはいられないんです――ありゃ、ひよこが焦ってるんですよ。ひよこが不安がって焦ってるんです」
「ひよこ、か」
「ええ、ひよこですよ。群れの一番後ろをよちよち飛んでるひよこが、このままじゃ群れに置いて行かれると思って不安がって、自分はこんなに飛べるんだって主張して、精一杯ばたついてるんです」
可愛いもんじゃないですか、とラルフは笑う。
「まあ確かに、うちは孵ってもいない卵の成長を待てる商売じゃないですけどね。でも、どんな低空飛行でも群れの最後尾を飛んでても、飛んでさえいりゃいずれは追い付ける。ひよこに群れの先頭と同じ速度で飛べだなんて、誰も求めやしませんよ。でも、肝心なひよこにはそれがわからない。先頭と同じように、群れで一番高いところを飛んでるのと同じように飛べない自分が腹立たしくて、無茶をやろうとする。しかもあいつが追いかけてるのは、お天道様に届くような高さを悠々と飛んでいく鳥だ。そりゃ焦りもしまますよ」
あなたのことですよ、と言う代わりに、ラルフはちらりとハイデルンの様子を窺った。
ラルフには、表情を見せないハイデルンの心の内はわからない。同じ無表情でも、レオナのそれはある程度わかるようになったが、ハイデルンが感情を隠そうとすれば全く読み取れなくなる。
ラルフから見ても、ハイデルンはそれほどに遠い。それならレオナにとってその背中は、どれほど遠く見えるのだろう。
それは焦るだろう、ラルフは思う。自分も新兵の頃には、自分の無力さ不甲斐なさに随分と焦ったものだ。どんな英雄も自分と同じ人間に過ぎないとラルフが気付いたのは、自分が伝説と呼ばれるようになってからだ。もがいている最中は、決して自分の焦りの無意味さに気付けないものなのだと思う。
だが、それを見守っているだけでは済まされないのがラルフの立場だ。レオナの焦りが引き起こしたミスは、一歩間違えば部隊全体を危険に晒すことになる。ここはそういう剣呑な空を飛ぶ群れだ。
だから、ラルフは荒療治を狙った。
「でも、ひよこは所詮ひよこ。無茶したってたかが知れてる。無駄にもがいて大怪我して、羽根そのものを折っちまって二度と飛べなくなったら、それこそ洒落にならないでしょうよ。だったらちょいと痛い目に遭って、産毛の二~三本でもひっこ抜かれる程度の怪我でもすれば、自分のひよこぶりを自覚してくれるんじゃないかと期待してみたんですがね」
そしてラルフの狙い通りになった。産毛ニ~三本という言葉に見合った怪我かどうかはわからないが、少なくとも痛い目に遭ったことは確かである。これで目を覚ましてくれりゃあいいんだが、というのがラルフの正直な気持ちだった。
『そんなつもりはなかったはずなんだけれど――どう思う?』
あれから数ヶ月経った今も、ラルフはあの時のレオナの声を鮮やかに思い出すことができる。自覚どころか本人でさえ思いもよらなかった恋心は唐突に目を覚まし、少女を混乱させている。
ひよこの焦りだけならともかく、恋という熱病に背中を押された少女は、そう簡単には止まらないだろう。それで荒療治に走った。
「事情はわかった」
ハイデルンの声は、先程よりも更に低く苦かった。
「だが、不問にする訳にもいかん。あれには相応の処分が必要だ。お前にもな」
要するに、何の事情があろうと部下の暴走は上官の監督不行届きということである。
たとえ自分の義娘絡みであっても、そういうところを曖昧にしていては、軍という組織は簡単に崩壊してしまう。国という後ろ盾のない傭兵部隊なら尚更だ。ハイデルンはそのことを良く知っているから、処分は身内であるほど厳しくするだろう。
この場合、その対象には彼の身内と関わったラルフも含まれる。それも予測した上で、ラルフは腹を決めていた。第一、それぐらいでなくては「あなたの娘に怪我させるの承知で動いてました」などとぶちまけられる筈がないのだが。含み笑いで敬礼を返したのは、覚悟の上ですよと言う意味だ。
それに気付いたかどうか、ハイデルンは軽く時計を見遣った。時計の針はもう深夜を過ぎて、夜明け前の空が一番暗くなる時刻に近付いている。
「残りの報告は明日、書類で提出するように。今夜はこれで終わりだ」
了解と答えたものの、正直ラルフにとっては明日の仕事は頭痛の種だ。対書類戦の主力火器はクラークだが、その有能な片腕のレオナはいないし、それに関してはラルフは全くの戦力外だ。そのラルフも、明日はクラークを手伝うどころか自分の始末書で精一杯になるだろう。ついでに、情報部にミスを認めさせ、ある程度は責任を取らせなくては部下の腹が納まらない。それに手を回すのもラルフの仕事だし、世話を掛けたドクターにも頭を下げに行かなくてはならないだろう。
下手すりゃ明日は今日より遅くなるな、などと考えながら、ラルフが部屋を辞そうとしていた時だった。
「それから」
普段とどこか調子が違う声に、ラルフははっとして向き直った。思わず背筋が伸びるのは、軍人勤めの長さのせいか。
だが、次にハイデルンが述べたのは、軍人としての言葉ではなかった。
「あれの義父として、礼を言う」
一瞬呆気に取られたラルフの口元がみるみる緩み、しかしラルフはその口元を隠すようにハイデルンに背を向けた。
「……父親らしいことを言うなら、早くあいつのとこ行ってやってくださいよ、教官」
ラルフはそう答えて、今度こそ部屋を出た。
廊下には変わらず薄暗闇が積もり、ラルフはうつむいてそれを踏みしめて歩く。だがその口元は、今はもう隠しようもなく笑いの形を作っていた。
つくづく不器用な親子だ、とラルフは笑う。義娘はあんな形でしか義父への想いを形にできず、義父はあんな風にしか義娘を語れない。自ら望んだとは言え、傭兵部隊などに身を置いてしまったために手を伸ばしあうこともできない不器用な親子。それがあの二人だ。
親子揃って不器用で、血なんか繋がってないのに良く似ているよな、とラルフは笑う。
笑いはいつまでも消えなかったが、どこか寂しげなものだった。
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夢の中では痛みを感じないという話があるが、それは嘘だ。夢の中でも傷は痛む。夢の中で生じた傷はもちろん、夢の外で生じた傷も痛む。
夢の中で飛び続ける鳥を見上げながら、私は痛む腕に手をやった。
腕には傷口があった。その少し上には止血帯の跡がうっすらと残っている。銃弾で裂けた傷口からの出血がひどく、私は止血帯を巻かれて軍医のところに担ぎこまれた。その時に付いた跡だ。そんなところまで夢に繋がっているのが、少しおかしかった。
その傷に、私は力を込めて爪を立てた。傷口に爪を立てれば、剥き出しになった神経が抉れる。その痛みは、痛みというより熱となって脳を灼く。あまりの痛みに息が詰まり、悲鳴さえ出ない。それでも指先に、もっともっとと力を込める。
痛みを感じたいのだ。苦しみたいのだ。
「それは罰のつもり? 自分で自分を罰しているつもり?」
傷の向こう、血の気を失った白い手を握って赤毛の少女が笑う。少女はまた大きくなった。そろそろ14、5歳だろうか。最初は見下ろすほどだった身長も随分伸びて、私に並びかけている。
「……そうかもしれない」
私は少しだけ、手を緩めていた。そうしないと答えるための声も出せない。それなのに、少女の声だけはひどく鮮明に私の耳に届く。
「だめよ。あなたに本当に罰を与えることができるのは、あなた自身じゃないわ。自分では何をやっても無駄。そんなの自己満足よ」
「そうかもしれない」
曖昧に答えたが、本当はわかっている。そうだ、これは間違いなく自己満足だ。ただ自分で自分を罰した気になれば、少しは許される理由になるのではないかと期待して、そうやって楽になろうとしているだけだ。
「そうやって自分で自分を傷付けて、傷付いた顔をして、「こんなに私は傷付いているの、だから私をこの群にいさせてください」って懇願するつもり?」
「わかってる。わかっているわ、こんなこと無意味だってことぐらい。でも」
けれど、無意味だとわかっていても、私は傷を抉り続けずにはいられない。痛みはそれ以外の何も感じさせなくなる。不安に押しつぶされそうな心を、痛みで支えたいのだ。
所詮、私は駒だ。役に立つ駒だから、みんな私の汚れた手を見ないふりをしてくれている。だから一度の失敗も許されない、そう思っていた。周囲に望まれるとおり仕事をやり遂げて、誰にも迷惑をかけないように、上手く飛び続けよう。そう思っていた。動けない駒になってしまえばそれまでだ。父親の血で穢れた駒なら、尚更。
それなのに、こんな傷を負って。
そうやって自分を苛む手を、掴んで剥がした手があった。私は最初、それが少女の手だと思った。だが、その手は私の隣ではなく、背後から伸びている。ひんやりと冷たい、男の手だった。
「おやめなさい、自分でも無駄だとわかっているのでしょう」
優しい口調だと思った。少なくとも口調だけは。
「無意味なことで、神様に頂いた大切な体を傷付けてはいけませんよ」
だが、口調の優しさに反して、その声はひどく私を不安にさせた。声もそうだが、その手もだ。神を語るには冷た過ぎるものが、声からも手からも溢れ出している。そんな風に感じさせる声と手だった。
「罪を裁けるのも、お赦しくださるのも、神様だけです。私たちの神に、あなたも全てを委ねなさい。無意味な痛みに赦しを請うのではなく」
「……あなたは、誰……?」
「忘れたの?」
答えたのは、赤毛の少女だ。
「パパよ。この人がわたしのパパ。いいえ、わたしたちのパパ――あなたが殺したわたしたちのパパよ」
「そうですよ、忘れられてしまうとは、淋しいですね」
「違……違う……っ!」
私はとっさに、二つの手を振り解こうとした。
パパの声じゃない。パパなんかじゃない。この声は、神を語るにも父と呼ぶにもあまりに禍々しい。
だが、手はしっかりと私の手を捕らえたまま離れなかった。
「……違う、違う……あなたなんか知らない! あなたなんかパパじゃない……!!」
息が詰まる。喉が糸ほどの細さにしか開かないような気がする。それでも振り絞るように声にした否定は、あっさりと拒まれた。
「いいえ。貴女も私の大切な娘ですよ」
違う、違う、違う。パパじゃない。パパなんかじゃない。繰り返し否定しようと思ったが、もう声は出なかった。
ただ、意識を失う瞬間、ちらりと見えた「パパ」の瞳は蛇に似ていると思った。
額に懐かしい手を感じて、レオナは目を覚ました。
子供の頃、こんなことが良くあった。ハイデルンに引き取られた直後、レオナが両親を喪った『事故』のせいで、精神的にも肉体的にもひどく不安定だった頃だ。
熱を出して寝込み、熱に熔かされるように眠っては夢を見て、夢を見ては目を覚ます。浅い眠りが続く中、うなされることもよくあったらしい。
そんな夜、レオナが目を覚ますと必ず見た光景があった。
ベッドの横に椅子を引き寄せ、長身の人影が座っている。その視線は大抵、分厚い本か書類の束に向けられている。片目で細かい文字を読むのはそれでなくても疲れるだろうに、部屋の明かりは眠るレオナを気遣ってか、いつも低く落とされていた。
レオナの幼い日の記憶をそのまま映したように、ベッドの横にはハイデルンの姿があった。額の手は、ハイデルンのものだった。
「うなされていた」
珍しく皮手袋を外したハイデルンは、義娘が目を覚ましたのに気付くと手を書類の上に戻し、短く告げた。
「夢を、見ていました」
「傷から熱が出ているようだから、きっとそのせいだろう」
傷。そう、傷だ。その言葉で、レオナはやっと夢と現の境から抜け出した。眠るまでの記憶が、一気に意識へと流れ込んでくる。
機関銃の音。作戦中の命令違反。銃弾が腕を掠めて切り裂く感触。頬を打たれた痛み。
「……申し訳ありませんでした……」
「詫びる相手を間違えるな。私に詫びれば良いというものではない」
その通りだ。レオナは自分の顔を打ったその時の、ラルフの凄まじい顔を思い出す。本当に謝らなければならない相手はハイデルンではなく、ラルフやチームの皆だ。
今思えば馬鹿げた行動だとレオナは思う。あそこであんなことをする必要がどこにある。確かに、あそこであの標的を逃すのは惜しかった。少なくとも、この件に関する情報部の働きはその大半が無駄になるのだし、ああいう手合いを世に放てば逃亡の間に新たな犠牲も出るだろう。
だが、それだけだ。自分が出なくてもチームの誰が死ぬわけでもなかったし、何が失われるだけでもなかった。それどころか、レオナが出たせいで余計な犠牲を出す可能性すらあった。
今ならそう思えるのに、あの時は駄目だった。
「……止められませんでした。自分を」
レオナはごく短い言葉で、それをハイデルンに伝えた。ハイデルンは黙って頷く。
あれはまるで恐慌だ。ここで動かなければ――何も出来ずにいたら、何もかも失ってしまうような気がして、気が付いたら体が動いていた。
きっと自分は疲れているのだ。昨年夏のKOF、初めての戦場、そこから始まって今日まで続く任務の日々。新兵にありがちな、精神が昂ぶりすぎた状態になっていたとしてもおかしくはない。戦いのための技や能力はともかく、経験という点で言えば、自分ははまだまだ未熟な新兵なのだ。昂ぶりすぎて疲れてしまっているだけだ。だから眠っても熟睡できずに夢ばかり見る。その夢を、起きてからも引き摺っている。そう思い込もうとしていた。
だが、心の底から湧き上がる不安感は抑えきれない。否定しきれないのだ。失われた記憶のその先、思い出せないほど遠い過去、同じことがあった気がする。それは、予感というより確信に近かった。
望まれない行いで、全てを失くした。
だから望まれるように、誰かの望みのままに上手く飛ばなければ。それが出来ないということが恐怖だった。
無理に言葉にしなくてもいい。そう言って、ハイデルンは義娘の青い髪を撫ぜてやった。
「眠りなさい」
そしてハイデルンの手は、レオナの額の上に置かれる。レオナが子供の頃、悪夢にうなされて目を覚ます度にそうしていたように。
「朝になれば熱も下がる。血も戻るだろうし、少し落ち着くだろう。まず眠りなさい」
子供の頃なら、それで眠れた。この手とこの声があれば、何もかも大丈夫だとレオナは思っていた。ただこの手の導くままに、この声の命じるままに眠れば、きっと何も怖いものはなく、何事もなく朝が来ると。そう思って、レオナはいつも目を閉じた。
だが今、レオナは目を閉じることさえできなかった。義父への信頼が揺らいだわけではない。むしろ、あの頃とは別の意味合いを重ねて、ハイデルンの存在は絶対のものとなった。彼に命じられたなら、レオナは味方を殺すことさえ躊躇いはしない。
それでも、目を閉じることはできなかった。一度明確な形を取ってしまった恐怖は、潮のように満ちて退きはしなかった。
その手が、今は遠く感じる。触れているのに。
レオナは額に置かれたハイデルンの手を引き寄せ、頬に押し当てる。
冷たい手だ。自分より体温が低いというだけが理由ではない。良く研いだ刀が纏う剣気と同質の、周りを圧倒し凍てつかせるような気をこの手は持っている。
しかし、その手が触れたレオナの頬は冷えない。却って次第に熱を帯びていく頬と、その熱を与える冷たい手だけが、夢という得体の知れないものに自分が侵食されていく自分を現実に繋ぎとめてくれる。そういう唯一確かなものに思えて、レオナは一層強く、頬に義父の手を押し当てる。
「眠りなさい」
行かないで。それだけを切望した、赤い部屋の記憶。
この手が遠ざかったら、きっともう二度と私は飛べない。
「……眠らせて、ください」
喘ぐように囁いた瞬間、レオナの視界は瞼ではない何かに塞がれた。
最初は、掌で目を覆われたのだと思った。そうではないと気付いたのは、掌にしてはそれが大き過ぎたからだ。
レオナが腕を取って引き寄せたのか、ハイデルンの方から抱き寄せたのかはわからなかった。もしかしたら、同時だったのかもしれない。
レオナを抱きしめる腕もまた、冷たかった。だが、それもまた触れる場所全てに熱を生んで、レオナはもう一度喘いだ。恐怖とは違う喘ぎだ。喘ぎながら、レオナは腕を義父の背中に回した。
「動くな。傷に障る」
言われても、一度堰を切って溢れ出してしまったものは簡単には止まらない。ぎゅっと掴んだシャツの生地越しに感じる背中も冷たい。顔を押し付けた広い胸も冷たい。
もっとその冷たさを感じていたかった。もっと強く、もっと深く。
「レオナ」
震える義娘にそう呼びかける直前、ハイデルンの表情が一瞬曇ったのをレオナは知らない。その一瞬が、ハイデルンにとってどれほど長かったのかも知らない。ハイデルンが何を思い、何を覚悟したのかも知らない。普段のレオナであれば多少は何かを察することもできたかもしれないが、その時レオナにできたのは、名を呼ぶ声に応えておずおずと顔を上げることだけだった。
そこに、ハイデルンのかさついた唇が落ちた。
この人は唇も冷たいのか、とレオナは思った。そう言えば、抱きしめられたことはあってもキスの記憶は頬にすらなかったことに、レオナは唐突に気が付いた。
その冷たい唇が、唇を離れて首筋を伝う。唇が伝う場所に薄く残る赤は、止血帯の跡に少し似ていた。
そうだ、止血帯だ。夢という傷口がどれだけ血を流しても、この義父の存在が、必ず自分を繋ぎとめていてくれる。そう思うと、レオナは傷の痛みも、溢れる恐れも何もかもが薄く溶けて、強張った体がほどけていくような気がした。
その先に、もう言葉はなかった。ただ繰り返される浅く荒い呼吸の音だけが、部屋に満ちていた。
寝台の上で溶け合った影は、やがて再び分かれる。そのひとつは長身の男となって、もうひとつはベッドに横たわる少女になって、ほんの一瞬、互いを見詰め合った。
「眠りなさい」
冷たい手が、そっと青い髪を撫ぜる。
青い髪をシーツに広げた少女は、小さく頷いて目を閉じる。
長身の影は再びベッドの横に引き寄せた椅子に戻り、薄暗い部屋の中で書類の束を繰り始める。
子供の頃、こんなことが良くあった。それは少女の幼い日の記憶をそのまま映したような光景だったが、あの頃とは何もかもが違い過ぎた。
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