幼い頃良く見た夢を、久しぶりに見た。
部屋は真っ赤に塗り潰されていた。子供の頃は、その赤が何であるのかわからなかった。
今は知っている。これは血だ。部屋に淀む生臭く据えた臭いは血臭だ。
父と母の血なのだろう、と思う。たぶんこれは、私が自分の中の力に押し流されて、父と母を殺めてしまった、その直後の光景だ。
だとしたら、あの背中は。
背の高い男の影だった。見えているのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
きっとあれは義父なのだ。やはり私は義父との出会いの光景を、こうして何度も夢に見ているのだろう。
やがて影は振り向くだろう。振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えない。それなのに、視線が合ったということだけはわかる。そして私は手を伸ばし、あの人の手も伸びて、ふたつの手は重なるのだ。
だが、振り向いたのは義父ではなかった。視線の先で、蛇のような金色の目がすうと細められ、口元が歪む。禍々しい笑いの形に。
逃げなければ、と思った。だが、体は動かない。声も出ない。
それなのに、手だけは動いた。私の手が伸び、蛇の目を持つ男の手も伸びた。
二つの手は、夢の通りに重なった。
「残念ながら、今は貴女を連れては行けないのですよ」
男の口調は優しい。口調だけが優しい。
「貴女は蒔いたばかりの種のようなものです。拾い上げて持ち去ってしまうのは簡単ですが、それではすぐに腐ってしまう。せめて芽を出すまで待たなければ、連れて行けないのですよ」
だから、時が満ちるのを待ってください。男は優しい声音でそう囁いた。
「いずれ私は、貴女を迎えに行きますよ。十年は掛からないでしょう。おそらく七、八年後でしょうね。その頃には他の八傑集も揃うでしょうし、貴女の力も充分に満ちるでしょう。だから、その日まで――」
男のもう片方の手が、私の額にそっと載せられる。
「眠りなさい。愛し子。私の娘よ」
「思い出しましたか、私のことを」
耳元で囁かれても、悲鳴も上げられなかった。
囁いたのは、夢の中の――ずっと義父のものだと思っていた、あの背中の正体だ。
吹き荒ぶ風のゲーニッツ。八年前、私の中の忌まわしい力を目覚めさせた男。そして昨年の夏、私が殺した私の同族。
よりにもよって、私はこの男の背中を義父のものと信じていたのか。
「自分の思い違いを責めてはいけませんよ」
ゲーニッツが口にしたのは、そんな私の心を読んだと言わんばかりの台詞だった。
「あの時、貴女はひどく混乱していたし、人というのはえてして過去を自分の都合のいいように記憶したがるものです。でも、これで思い出したでしょう? 貴女の手を取ったのは、この私です」
「そうよ、この人があなたが殺した、わたしたちのパパ」
その声は、あの赤毛の少女のものだ。少女はゲーニッツの懐に収まるように体を預け、機嫌よく笑っている。
その時、私は初めて少女の顔を見た。
それは私だった。髪の色だけを違えた私だ。すっかり背が伸びて大人びた少女は、私と同じ顔で笑っていた。
「そんな……あなたがパパだなんて……馬鹿なことを……」
「神の御前に人は皆、兄弟であり姉妹であり、親であり子ですよ。皆、神の創りたもうたものですから。とは言っても、貴女と私の間には、それ以上のものがありますが」
私が殺した男は、禍々しくも穏やかに笑って、腕の中の少女の赤い髪を撫でる。
「そう、私は確かにある意味で貴女たちの父親ですよ。貴女には三人の父親がいるんです。貴女に一族の血を伝えたガイデル。戦う術を教えたハイデルン。そして貴女の真なる魂の目覚めを促したこの私です。生みの親と育ての親、それから魂の親とでも言いましょうか。だから、私はずっと貴女と会えるのを楽しみにしていたんですよ。大切な娘ですからね」
ゲーニッツに髪を撫ぜられ、もう一人の私は猫のように目を細めている。
二人は似ている。髪の色も顔立ちも似ていないのに、笑う二人は本当の親子のように似通っていた。あれは闇の娘だ。ゲーニッツという闇の父によって生を受け、ずっと私の中で育っていた闇の娘だ。
それなのに、とゲーニッツは天を仰ぐ。
「貴女と来たら、私を殺してしまって。いえ、それ自体は、私にとっては大したことではないんですよ。貴女に殺されたのは所詮肉の器に過ぎず、魂はこうして在る訳ですから。転生に相応しい次の器に移ればいいだけのことですよ。私にとってはね――」
それはまるで、邪気のない子供の失敗を慰めるような口調だった。本当に、言葉だけを聞いていればこの男は神に仕える者以外の何者でもない。
ただ、その神が私には受け容れ難い存在というだけだ。あのの底冷えする金色の蛇目と同じように。
その目に射られて、思わず下がろうとしたときだった。
「――ですが、この子にとってはどうでしょうね」
赤い、風だった。
彼女が私自身であるという認識が私を油断させていた。まさか自分自身に攻撃されるとは思っていなかった私を、認識の甘さと一緒に刃の一条が容易く切り裂いた。
「嫌いよ」
口から血の塊が溢れる。胸にはもう一人の私の手刀が突き刺さっている。肺に達したらしい。致命傷だ。
夢で死んだらどうなるのだろう。みるみる目の前が暗くなる。
時間がない。私は忙しく思考を巡らせる。
「パパのことを忘れていたあなたなんか嫌い。パパを殺したあなたなんか嫌い。パパのくれた魂を押し殺して、わたしをあなたの中に封じ込めているあなたなんか嫌い。だからあなたなんて、ここで死んじゃえばいいのよ……!」
夢だ。ただの夢だ。夢なら、目を覚ませば終わる。だとしたら、夢で死ぬ前に目を覚ませばいいのだろうか。私はもう一人の私の罵倒を聞きながら、目覚めを強く念じる。
視界が暗くなるのは、死が近いからか。それとも目覚めが近いのか。夢の終わりはいつも暗い。現実こそが闇の中だと言うかのように。
だが、どうやら今回は逃げ切れるらしい。それを教えたのは、牧師の言葉だった。
「ハハッ、現実に逃げますか。貴女を取り囲む逃れようのない現実に。父を殺し、魂の父たる私を殺し、父という名の愛人の命令で誰かの父を殺し続ける現実に!」
少女が狂ったように笑い出す。甲高い笑い声に、ゲーニッツの声が重なる。その声は、まるで笑い声に合わせて歌うようだ。
「構いませんよ。私たちと同じ血と力を受け継ぐとはいえ、貴女も人の子の器に収まった以上、いくら逃げようと眠らぬわけには行きませんからね。待っていますよ、貴女の眠りを。貴女が眠り、また夢を見るのを。そしていつか、貴女はこの子に殺されてこの夢の中で眠り続け、代わりにこの子が目を覚ますのです」
暗転する世界の中、声はいつまでも頭の中に響き続ける。
「待っていますよ。貴女が私の胸の中で、血に塗れて眠りにつくその日を」
夢の中で私の鼓動が止まるのと、夢が終わるのはほとんど同時だった。
赤い部屋の窓から、一羽で飛ぶ鳥が見えたような気がした。
目を覚ますと、額にあの手があった。
「うなされていた」
そう囁く義父の手には、本も書類の束もない。ベッドの横に引き寄せられた椅子もない。「夢を、見ていました」
どんな夢を見ていたのか、それは良く覚えていない。良い夢ではなかったのは確かだ。そんな夢は見たことがない。見るのはいつも悪夢だ。
だが、今夜の夢は何かが異質だった。悪夢であることは間違いない。しかし、ただの悪夢なら目を覚ませばそれで消える。今夜のそれはそんな儚いものではなかった。最近良く見る、魂を捉えて深淵に引きずり込むような重さを持った夢だ。それなのに、どんな夢だったかは思い出せない。
「…………っ」
無理に思い出そうとすると頭が痛む。鈍い頭痛に顔を顰めた私を、義父はそっと抱き寄せる。
寝室の冷えた夜気よりも、義父の腕は更に冷たい。冷たいが、それは安らかな冷たさだ。
「夜明けまでまだある。もう少し眠りなさい」
「……はい」
髪を撫ぜられ、裸の胸に顔を擦り寄せて、私は小さく息を吐く。
義父の胸は厚い。義父の放つ気配はよく鋭い刃物に喩えられるが、体そのものは決して細くない。闘争のための筋肉をみっしりと詰めて無駄のない、厚く重い体だ。
その胸の中で、私は再び目を閉じた。夢のない眠りを願いながら。
++++++++++++++++++++++++
夢を見る。鳥が飛ぶ夢を。空はもう暗く、太陽は光の残滓を赤く残すだけだ。
近頃の夢はいつも息苦しい。血の臭いが濃すぎて息が詰まる。風は吹いているが、それはちっとも空気を澄まさない。逆に血の臭いを運んでくる。重たい風だ。こんな重たい風では、鳥が羽ばたくのも辛いだろう。
風は血の臭いだけではなくもうひとつ、声も運んでくる。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
見えるのは赤く塗りつぶされた景色、聞こえるのは悲鳴ばかりで、私は目も耳も塞いでしゃがみ込みたくなる。
けれど耳を塞ぐことは出来ない。それが私に向けられた言葉だとわかっているから。
声のない悲鳴の気配もした。ひゅうひゅうと潰れた喉を鳴らしながら、それでも何かを叫ぼうと口だけを動かしている、そのもどかしさの気配。それを庇う声。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
子供の声だ。まだ幼い声。
ああ、この声はよく知っている。何度も夢で聞いた声。赤毛の少女の声だ。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
「それはパパよ、わたしたちのパパよ。お願い、パパを殺さないで!」
パパ。それは誰のことだったか。
幼い頃抱き上げてくれたひと。
私の血の宿命を思い出させ、ふたつめの命を花開かせた蛇目の男。
熱を出す度に額に触れてくれた、冷たい手の持ち主。
断末魔が聞こえる。それが父のものだったのか、あの牧師のものか、隻眼の義父のものか、それすらもわからない。もしかしたら砲弾が空気を切り裂く音だったのか、それとも上官の絶叫だったのか。
気が付いた時には上官に抱きかかえられるように庇われて、地面に伏せた体で着弾の衝撃を感じていた。
写真が伏せられている。
いつもハイデルンの机に置かれていた写真だ。木枠にガラスをはめただけのシンプルな写真立ての中で、かつて彼が愛して喪った妻と娘が笑っている。
特にそのつもりで眺めたことはなかったが、それでもラルフはその笑顔を良く覚えている。笑顔だけでなく、彼女たちの着ているブラウスの柄からスカートの色、後ろに写った花の様子まで、何もかも覚えてしまった。それぐらい長い間、その写真はハイデルンの机に置かれていた。それが伏せられている。
写真ひとつでこうも変わるものか、と思った。
上官の部屋というものはそれでなくても居心地の悪いものだ。中にはラルフ自身のような例外もいるが、部下と自室で茶を傍らに談笑できるような上官などそうそういない。大抵の場合、上官の部屋で交わされるのは胃が引き絞られるような話題ばかりだ。
その上、この部屋の場合は主が主である。季節に喩えるなら、百人が百人「厳冬」と答える男。ハイデルンが放つ凍てついた冬のような気配も加わって、この部屋の居心地はひどく悪い。
この写真は、その冬の寒さを緩める唯一の存在だった。完璧で絶対無比の人間に見られがちなハイデルンの、弱さ脆さを感じさせる一葉。
それが伏せられた今、部屋は凍りついた湖のような緊張感ばかりで満ちている。ほんの少し踏む場所を間違えたら何もかもが割れて砕けてしまうような、薄い氷で閉ざされた湖のような。
ラルフですら、そう思った。
「今回の作戦失敗に伴う処分に関してお教えいただきたいのですが……」
「作戦失敗?」
ハイデルンの隻眼が、いぶかしむように細められる。
「確かにアクシデントはあった。しかし、作戦の目的自体は遂行されたはずだが……?」
「いえ、それは結果論であって、実質的には生存者をみすみす死なせてしまうというミスを犯しました。これはプロにあるまじき行為です」
「厳しいのだな」
非戦闘員の生存者があれば全員保護、救出すること。それは確かにこの作戦の目標のひとつだったが、全てではない。作戦のメインの目標は完璧に達成され、味方側の被害は些少。サブの目的である生存者の保護もほとんど完璧に成し遂げた。処分を求める必要のある状況ではない。
しかも、だ。
「だが、お前たちの言う生存者の遺体は、未だ確認されていない。我々の調査を持ってしてもだ。生存者の存在そのものが疑わしい」
戦闘を避けて隠れている生存者はいないか、負傷して救出を待っている生存者はいないか、その後調査は丹念に行われたが、それらしい遺体を発見することはできなかった。他の生存者にも話を聞いたが、それらしい人物がいたという話もない。生死を問う以前に、存在自体が疑わしいのだ。
「生存者を確認したのは一人だけなのだろう?」
「はい、レオナだけです。レオナが倒れている子供を発見した、と」
「あれに見えて、お前たちに見えないとは考えにくい」
「自分の娘の目を信じられないと?」
「お前たちの戦場経験の方が信用できる――幻覚という可能性も考えられる」
まさかそんな、とはラルフには言えなかった。
心当たりはある。先日の、レオナが機関銃の前に飛び出した一件だ。
普通なら若気の至りの一言で終わる話だ。功を焦る年頃には、程度の差はあれど一度や二度はそういうことがある。最初はラルフもそういうものだと思っていた。しかもその道の師としては天上の存在である義父に恋をした少女だ。自分を認めさせたいという焦りがあったとしても無理はない。
だが、あれから何かがおかしい。何かが狂った。それが何なのかわからないまま、違和感だけを感じていたところで今回のこれだ。
精神を病んだのかもしれない。戦場では精神を病む者も少なくはないのだ。だとしたら、幻覚ぐらい有り得る。
だが、違う。ラルフはレオナのそれを、そういうものではないと思っている。
「あれには相応の診察と治療を受けさせるべきかも知れん」
だからハイデルンがそう言った時、ラルフは露骨に顔をしかめた。
「治療、ですか」
「不服か」
ラルフはそれを否定しない。
「並の治療で治るものとは思えないんですがね」
「何が言いたい」
凍てついた部屋の中、ふたつの視線が交差する。
短い沈黙を先に破ったのはラルフの方だった。
「あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです」
「それならば――必要だと言うのなら、私が戦いの場所に連れて行く」
「ええ、確かにあなたが命じれば、あいつはどんな戦場にでも行くでしょうよ」
「何が言いたい?」
「でも今のあなたじゃ、あいつを戦場に連れて行くことは出来ても、戦わせることは出来ないって言ってるんですよ」
今度こそ、ラルフの言葉はハイデルンの胸に爪を立てた。引っかかるなどという生易しいものではない。その爪は肉を裂く力に満ちていた。
「あいつが生きるためにあいつを戦わせることは、今のあんたには出来やしねえ! あんたはあいつと生きていこうとしてるんじゃねえ! あんたはあいつと一緒に死んでやろうとしているだけじゃねえか!」
ハイデルンは答えない。否定しない。
「否定出来ねえだろ!? 出来ねえからその写真を伏せてるんだろう!?」
伏せられた写真を見て、ラルフは気付いたのだ。この親子が互いを思い合うあまり、どうしようもないところまで迷い込んでしまったことに。
レオナは迷って己を失った。ハイデルンもまた、同様に。
だから写真は伏せられる。写真の中、彼がかつて愛した彼女らは何も言わない。ただ優しく微笑み続けるだけだ。だが、百の言葉よりも、その沈黙の方が重いこともある。それに耐えられず、ハイデルンは写真を伏せた。
だから物言わぬ死者の代わりにラルフは叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「あんたはそれでもいいかも知れねえ。その写真の中の二人を喪った時、その復讐が終わった時、あんたの人生は一度終わっちまったようなもんなんだから、それでもいいのかもしれねえ。でも、でもあいつはまだじゃねえのか? 自分の親を殺してそれで終わりの人生じゃあんまりじゃねえのか……っ!?」
一度にそこまで吐き切って、ラルフは肩で息をした。
「……あんたら、少し離れた方がいい」
怒声の激しさで、少し声が掠れて来ている。
「あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く。だから今だけは、少し手を離した方がいい。あいつは飛べる鳥だ。その手を離して飛ばせてやってくれ」
最後の言葉は、忠告と言うより懇願に近かったかもしれない。
「……言いたいことは、それだけか」
長い沈黙を破ってハイデルンがそう言った時、ラルフはやっと、自分がそんなにも激しく上官に食って掛かっていたということに気が付いた。ハイデルンを「あんた」と呼ばわりしたのなど何年ぶりだろう。それに自分が気付いていなかったことにも驚いた。
叱責されるかな、と思った。
しかし、ハイデルンの声は不思議なほど穏やかだった。
「それで、おまえは何を望む?」
お前の好きなようにしてみろ、と言われていることにラルフ気付くまで、少しかかった。
「作戦の失敗の責任を取るということで、しばらくの間、実働部隊から外していただけないかと……」
「謹慎するという事か」
「その様にとっていただいて構いません」
「いいだろう。だが、一つ条件がある。謹慎はチーム全体という事にしろ。「レオナ」とクラークを含めての三人だ。そうするのならば許可しよう」
はっとして顔を上げたラルフに、ハイデルンは無言で頷いた。
写真は伏せられている。だが、部屋はもう凍てつくだけではなかった。
それはラルフが持ち込んだ炎のせいもあったが、それだけではなかった。
「生意気な事を……おまえごときの考えが、私にわからないとでも思っているのか?」
苦笑こそなかったが、ハイデルンは一人になった部屋でささやかな皮肉をこぼした。
ハイデルンは机の引き出しを開ける。引き出しから摘み上げた白い封筒には、一枚のカードが収められていた。毎年届くカードの内容は、これも毎年似たようなもので、ハイデルンはその内容をすっかり覚えてしまった。
「キング・オブ・ファイターズ、か」
やはり、と思う。
格闘の試合であるKOFなら、生命に関わる危険からは比較的遠い。それに、一人の失敗が味方の小隊を丸ごと死に追いやるような戦場とは違う。足を引っ張ったとしても、被害を蒙るのはチームメイトの2人だけだ。リハビリとしてはこの上ない環境だ。
しかしそれは、かつて彼自身の復讐の幕を下ろし、昨年は義娘の宿命に関わる対決を運んできた大会でもある。おそらくは今年も、単なる格闘大会では済まないだろう。
ハイデルンが招待状を引き出しにしまいこんだのは、それが理由だ。軍人として磨き抜いてきた勘が、義娘をそこに行かせてはならないと言っていた。
しかし、
『あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです』
まるで炎のようだったラルフの言葉が、まだ耳の底に響いている。
戦うことでしか、前に進めないのなら。戦うしかないのなら。
『あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く』
「ラルフ」
ハイデルンは閉ざされた扉越しに、部屋を去った部下へと呼びかける。その目は、祈る者のそれに似ていた。
「……頼む」
そうして、97年のKOFの幕は上がる。
++++++++++++++++++++
夢を見る。
空はもう暗い。あの鳥がまだ飛んでいるのかどうかも解らない。
隣にはあの少女がいる。赤い髪をしたもう一人の私が。けれど、もう私達は手を繋いではいない。
「パパを殺したあなたなんか死んじゃえばいい! パパを殺した世界なんか壊れちゃえばいい! あなたなんか……あなたなんかっ!」
赤い突風のように、赤毛の私が私の懐に飛び込んでくる。首筋を狙う手刀は避けられたが、体の軸が崩れた。あっという間に地面に倒されて、首を絞められる。
返せない。どうやっても剥がれない。剥がされない方法を、私も彼女も知っている。
八年だ。八年学んだ。戦う術、人を殺す術を。義父が私に与えた八年は、彼女の上にも等しく積もっていた。
息が詰まる。酸素が足りない。思考が鈍る。圧迫された血管が目の奥で切れたのだろうか。視界が赤く染まる。いや、赤くて暗い。
意識が、闇に、落ちる。
「……オナ、レオナ……どうしたレオナ?」
呼びかけられて気が付くと、目の前が赤かった。
トマトジュースのグラスを手にしたまま物思いに耽ってしまった、と状況を理解するのが早かったのは幸いだ。野菜のジュースは好きだけれど、どろりとした赤色は時々別のものを私に連想させる。それが飲みかけのジュースだと気付くのがもう少し遅かったら、私は心配してこちらを覗き込んでいた上官に、悲鳴を上げてグラスの中身を浴びせかけていたに違いない。
「ちょっと考え事をしていただけよ」
「体調は? 睡眠は良く取れてるか? 食欲は――あるとは言えねえみてえだが」
朝食の席だ。まだ皿には全く手を付けていない。
「体調は変わらないわ。睡眠は少し浅いけれど問題なし。食欲は……これから食べるわ」
「しっかりしろよ。食うのも仕事のうちだぞ」
「ええ、わかってる」
目の前に並べた朝食の皿は少ない。食欲があまりないせいもあるが、意識して少なくしている。今日はこの後試合だ。満腹では体が重いしカンが鈍る。戦う時には少し飢えているぐらいがいい。
パンを齧り、機械的にサラダを咀嚼し嚥下し、ジュースとミルクのグラスを空にする。ささやかな朝食はすぐに片付いた。それを見て上官が言う。
「食い終わったなら少し部屋で休んで来い。不眠が続いてるんだろ? 目の下、クマになってるぜ」
「そうね……少しそうさせてもらうわ」
「じゃあ10時に例の場所で」
「了解」
ラルフの気遣いに感謝して、私は席を立った。真っ直ぐ部屋に戻る。KOFの主催者側が用意したホテルの部屋だ。窓からは決勝戦の会場が見える。
皺になりそうな制服とシャツを脱ぎ、ベッドの上に横たわる。眠ろうとは思わなかったが、軽く目を閉じた。
眠りたいとは思わない。眠りは相変わらず浅く、起きた時には覚えていないような夢ばかり見て、かえって寝る前よりも疲れているぐらいだ。前線近くで野営する時でさえ、もう少し良く眠れる。寝ないで済むのなら眠りたくない。
だが、やはり疲労が溜まっているのだろう。とろとろと押し寄せる睡魔は耐え難く、私はまた夢を見た。
ブラックアウトしていた意識が戻る。赤毛の私はまだ私の首を絞め続けている。
頚椎を折られるのを覚悟で、私は首を締め上げる腕から自分の手を離した。間髪いれず、赤毛の私の目を狙って指を突き出す。
「ッ!!」
少女が一瞬ひるんだ隙に、私は身を捩って彼女の手から抜け出した。飛び退るほどの余力はなく、そのまま地面を転がって距離をとった。痛む喉を押さえ、咳き込みながら立ち上がる。
焦りすぎだった。まだ酸素が足りていない。立ち上がった瞬間に目の前が暗くなった。まずい、と思ったがもう遅い。意識が飛ぶ。
「……レオナ……おいレオナ!」
はっとして呼ぶ声の方を見る。またぼうっとしてしまったらしい。
「準決勝なんだから、もうちょっと着合い入れとけ。ぼさっとするにも程があるぞ」
大将として3番手に立ったラルフが苦笑していた。目の前のリングでは先鋒のクラークが相手の2番手と戦っている。少し分が悪そうだ。2番手を抜くことは難しいだろう。
「あれはお前が倒せよ。向こうの大将一人相手にするなら、俺の負けはねえからな。お前が2番手きっちり倒せばそれで充分だ」
「了解」
タイムアップのコールが響いた。判定負けにクラークが肩を竦めている。一方、向こうにはだいぶ余力がありそうだ。油断はできない。続いて私の名前がコールされる。雌獅子の意味を持つその名前が、なぜか今日は他人のもののように聞こえる。
「それじゃ、行くわ」
「おう、無理するなよ。午後の決勝に備えて力を温存しとけ」
「了解……任務、遂行します」
そうだ、任務を。私の役目を、望まれたつとめを果たさないと。
動けない駒になってしまえばそれまでだ。ただの駒でさえ盤上を追われる――父親の血で穢れた駒なら、尚更。
私はまた、夢を見る。2番手は予定通りに倒したが、敵の大将を相手に少し欲が出た。無理に突っ込んでカウンターをもらったのだ。それがいい所に当たってしまったらしい。軽く意識が飛んだところで、夢に落ちた。
もう目を覚ましている合間に夢を見ているのか、夢の合間に目を覚ましているのか分からない。ほんの一瞬の空白に夢が入り込んでくる。
その度に夢の中で死にかけ、寸でで目を覚まして、そしてまた夢を見る。これではいけない。こんなことをいつまでも繰り返していても、いつかこちらが動けなくなるだけだ。それこそこの二人の思う壺だ。
戦わなければ。そう身構える私に、ゲーニッツが笑いかけ、問いかける。
「なぜそんなに、向こう側に拘るんです? そんなに人として生きたいんですか?」
私は答えない。答える必要もない。
「人の戒律。人の倫理。貴女はずっと、そういうものに縛られてきた。そういうものに絶えず断罪され、苦しめられてきた。なぜそんなところに戻りたがるのです?」
答えることは、できない。
その通りだからだ。親殺し、同族殺しの十字架は決して軽くはない。生き続ける限り、その重さに私は喘ぎ続ける。
「私達の神は、貴女に罪など認めませんよ。もちろん神の僕たる私も、そして貴女の本当の仲間である私達の一族も。在るがままの貴女を受け容れます。そんな十字架を背負う必要はないんですよ」
私は答えない。答えられずに、もう一人の自分にただ手刀を向ける。
彼女も構えた。同時に地を蹴る。
互いに斬りつけては跳ぶように離れ、再び互いの懐に飛び込んでは斬りあう。避けきれずに傷付いた肌からは血が溢れ、風に混じる濃い血臭を更に鮮やかにする。
「それでも貴女は、向こうに戻りたいのですか? いつか親殺しの鬼子と忌み嫌われ、追われることを恐れながら暮らす世界に?」
答えられない。答えることはできない。答えられないまま、胸を刺された。
いつかと同じだ。喉の奥から熱いものがせりあがってきて、咳と共に吐き出したそれは血の塊だった。肺に達している。致命傷だ。いつかより、深い。
だが、胸に刺さる手刀を、私はそのまましっかりと捕まえた。この距離ならこちらも外さない。この距離から逃がさない。刺し違えるつもりで手刀を振り上げた、その時だった。
「『貴方のために何でもするから』。そう請い願うことでしか生きられない世界でしょう?」
振り上げた手が止まる。
蛇眼の牧師の言葉はその手と同じように冷たいが、どこまでも穏やかだ。穏やかに私を追い詰める。
「『あなたが望むように何でもするから、あなたの役に立つようにしているから、だから私を嫌わないで』。そう震えて怯えて媚び続けて、永遠に贖罪を続けるだけの世界でしょう?血が嫌いな貴女なのに教えられるままに暗殺術など覚えたのも、戦場で血を流し続けるのも、何もかもが贖罪のつもりでいるのでしょう?そうしてすらなお、貴女を拒むかもしれない世界に、それでも貴女は戻りたいのですか?」
答えられない。否定できない。
見る間に足が力を失っていく。膝が笑った。すぐに立っていることも出来なくなって、
私は崩れるように倒れ込む。
それを、冷たい手が支えた。優しく抱くように支えられても、私はもうその手を振り払うことも出来なかった。
何か言おうにも、もう唇にすら力が入らなくて震えている。息をする度に胸が熱く、口からは血の泡ばかりが漏れる。
「疲れているのでしょう、あちらの世界で無理をし続けて」
髪を撫でられる感触があった。それから冷たい手が、額に落ちる。
「眠りなさい。後のことはあの子がちゃんとやってくれますよ……だから貴女は眠って、休みなさい」
嫌だ、と言うことも、首を振ることも出来なかった。
私に出来たことはただ、私の代わりに目を覚まそうとする赤い髪のわたしを見送ることだけだった。
「Hallo……Hello World」
そう言ったつもりだが、他人には唸り声にしか聞こえないだろう。
コンピュータープログラムの教科書の、最初の1ページの定番のセンテンス。こんにちわ、素晴らしいプログラムの世界へようこそ。
だが、わたしの目に映る世界はただ騒々しく、雑多で汚らわしくて、息苦しかった。
わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。
汚らわしい。
「レオナ……レオナっ、おいレオナ!?」
上官と呼んでいた男の声が聞こえる。だが、それに答えるつもりはなかった。
「Hallo World。そして、さようなら」
低い唸り声で、わたしは憎むべき世界に別れを告げる。
「……パパを……パパを殺した世界なんて! パパを殺したわたしを拒む世界なんて、みんなみんな滅びてしまえばいい……っ!」
絶叫は咆哮となって喉から溢れ、わたしという形をした赤い獣は地を蹴った。
部屋は真っ赤に塗り潰されていた。子供の頃は、その赤が何であるのかわからなかった。
今は知っている。これは血だ。部屋に淀む生臭く据えた臭いは血臭だ。
父と母の血なのだろう、と思う。たぶんこれは、私が自分の中の力に押し流されて、父と母を殺めてしまった、その直後の光景だ。
だとしたら、あの背中は。
背の高い男の影だった。見えているのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
きっとあれは義父なのだ。やはり私は義父との出会いの光景を、こうして何度も夢に見ているのだろう。
やがて影は振り向くだろう。振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えない。それなのに、視線が合ったということだけはわかる。そして私は手を伸ばし、あの人の手も伸びて、ふたつの手は重なるのだ。
だが、振り向いたのは義父ではなかった。視線の先で、蛇のような金色の目がすうと細められ、口元が歪む。禍々しい笑いの形に。
逃げなければ、と思った。だが、体は動かない。声も出ない。
それなのに、手だけは動いた。私の手が伸び、蛇の目を持つ男の手も伸びた。
二つの手は、夢の通りに重なった。
「残念ながら、今は貴女を連れては行けないのですよ」
男の口調は優しい。口調だけが優しい。
「貴女は蒔いたばかりの種のようなものです。拾い上げて持ち去ってしまうのは簡単ですが、それではすぐに腐ってしまう。せめて芽を出すまで待たなければ、連れて行けないのですよ」
だから、時が満ちるのを待ってください。男は優しい声音でそう囁いた。
「いずれ私は、貴女を迎えに行きますよ。十年は掛からないでしょう。おそらく七、八年後でしょうね。その頃には他の八傑集も揃うでしょうし、貴女の力も充分に満ちるでしょう。だから、その日まで――」
男のもう片方の手が、私の額にそっと載せられる。
「眠りなさい。愛し子。私の娘よ」
「思い出しましたか、私のことを」
耳元で囁かれても、悲鳴も上げられなかった。
囁いたのは、夢の中の――ずっと義父のものだと思っていた、あの背中の正体だ。
吹き荒ぶ風のゲーニッツ。八年前、私の中の忌まわしい力を目覚めさせた男。そして昨年の夏、私が殺した私の同族。
よりにもよって、私はこの男の背中を義父のものと信じていたのか。
「自分の思い違いを責めてはいけませんよ」
ゲーニッツが口にしたのは、そんな私の心を読んだと言わんばかりの台詞だった。
「あの時、貴女はひどく混乱していたし、人というのはえてして過去を自分の都合のいいように記憶したがるものです。でも、これで思い出したでしょう? 貴女の手を取ったのは、この私です」
「そうよ、この人があなたが殺した、わたしたちのパパ」
その声は、あの赤毛の少女のものだ。少女はゲーニッツの懐に収まるように体を預け、機嫌よく笑っている。
その時、私は初めて少女の顔を見た。
それは私だった。髪の色だけを違えた私だ。すっかり背が伸びて大人びた少女は、私と同じ顔で笑っていた。
「そんな……あなたがパパだなんて……馬鹿なことを……」
「神の御前に人は皆、兄弟であり姉妹であり、親であり子ですよ。皆、神の創りたもうたものですから。とは言っても、貴女と私の間には、それ以上のものがありますが」
私が殺した男は、禍々しくも穏やかに笑って、腕の中の少女の赤い髪を撫でる。
「そう、私は確かにある意味で貴女たちの父親ですよ。貴女には三人の父親がいるんです。貴女に一族の血を伝えたガイデル。戦う術を教えたハイデルン。そして貴女の真なる魂の目覚めを促したこの私です。生みの親と育ての親、それから魂の親とでも言いましょうか。だから、私はずっと貴女と会えるのを楽しみにしていたんですよ。大切な娘ですからね」
ゲーニッツに髪を撫ぜられ、もう一人の私は猫のように目を細めている。
二人は似ている。髪の色も顔立ちも似ていないのに、笑う二人は本当の親子のように似通っていた。あれは闇の娘だ。ゲーニッツという闇の父によって生を受け、ずっと私の中で育っていた闇の娘だ。
それなのに、とゲーニッツは天を仰ぐ。
「貴女と来たら、私を殺してしまって。いえ、それ自体は、私にとっては大したことではないんですよ。貴女に殺されたのは所詮肉の器に過ぎず、魂はこうして在る訳ですから。転生に相応しい次の器に移ればいいだけのことですよ。私にとってはね――」
それはまるで、邪気のない子供の失敗を慰めるような口調だった。本当に、言葉だけを聞いていればこの男は神に仕える者以外の何者でもない。
ただ、その神が私には受け容れ難い存在というだけだ。あのの底冷えする金色の蛇目と同じように。
その目に射られて、思わず下がろうとしたときだった。
「――ですが、この子にとってはどうでしょうね」
赤い、風だった。
彼女が私自身であるという認識が私を油断させていた。まさか自分自身に攻撃されるとは思っていなかった私を、認識の甘さと一緒に刃の一条が容易く切り裂いた。
「嫌いよ」
口から血の塊が溢れる。胸にはもう一人の私の手刀が突き刺さっている。肺に達したらしい。致命傷だ。
夢で死んだらどうなるのだろう。みるみる目の前が暗くなる。
時間がない。私は忙しく思考を巡らせる。
「パパのことを忘れていたあなたなんか嫌い。パパを殺したあなたなんか嫌い。パパのくれた魂を押し殺して、わたしをあなたの中に封じ込めているあなたなんか嫌い。だからあなたなんて、ここで死んじゃえばいいのよ……!」
夢だ。ただの夢だ。夢なら、目を覚ませば終わる。だとしたら、夢で死ぬ前に目を覚ませばいいのだろうか。私はもう一人の私の罵倒を聞きながら、目覚めを強く念じる。
視界が暗くなるのは、死が近いからか。それとも目覚めが近いのか。夢の終わりはいつも暗い。現実こそが闇の中だと言うかのように。
だが、どうやら今回は逃げ切れるらしい。それを教えたのは、牧師の言葉だった。
「ハハッ、現実に逃げますか。貴女を取り囲む逃れようのない現実に。父を殺し、魂の父たる私を殺し、父という名の愛人の命令で誰かの父を殺し続ける現実に!」
少女が狂ったように笑い出す。甲高い笑い声に、ゲーニッツの声が重なる。その声は、まるで笑い声に合わせて歌うようだ。
「構いませんよ。私たちと同じ血と力を受け継ぐとはいえ、貴女も人の子の器に収まった以上、いくら逃げようと眠らぬわけには行きませんからね。待っていますよ、貴女の眠りを。貴女が眠り、また夢を見るのを。そしていつか、貴女はこの子に殺されてこの夢の中で眠り続け、代わりにこの子が目を覚ますのです」
暗転する世界の中、声はいつまでも頭の中に響き続ける。
「待っていますよ。貴女が私の胸の中で、血に塗れて眠りにつくその日を」
夢の中で私の鼓動が止まるのと、夢が終わるのはほとんど同時だった。
赤い部屋の窓から、一羽で飛ぶ鳥が見えたような気がした。
目を覚ますと、額にあの手があった。
「うなされていた」
そう囁く義父の手には、本も書類の束もない。ベッドの横に引き寄せられた椅子もない。「夢を、見ていました」
どんな夢を見ていたのか、それは良く覚えていない。良い夢ではなかったのは確かだ。そんな夢は見たことがない。見るのはいつも悪夢だ。
だが、今夜の夢は何かが異質だった。悪夢であることは間違いない。しかし、ただの悪夢なら目を覚ませばそれで消える。今夜のそれはそんな儚いものではなかった。最近良く見る、魂を捉えて深淵に引きずり込むような重さを持った夢だ。それなのに、どんな夢だったかは思い出せない。
「…………っ」
無理に思い出そうとすると頭が痛む。鈍い頭痛に顔を顰めた私を、義父はそっと抱き寄せる。
寝室の冷えた夜気よりも、義父の腕は更に冷たい。冷たいが、それは安らかな冷たさだ。
「夜明けまでまだある。もう少し眠りなさい」
「……はい」
髪を撫ぜられ、裸の胸に顔を擦り寄せて、私は小さく息を吐く。
義父の胸は厚い。義父の放つ気配はよく鋭い刃物に喩えられるが、体そのものは決して細くない。闘争のための筋肉をみっしりと詰めて無駄のない、厚く重い体だ。
その胸の中で、私は再び目を閉じた。夢のない眠りを願いながら。
++++++++++++++++++++++++
夢を見る。鳥が飛ぶ夢を。空はもう暗く、太陽は光の残滓を赤く残すだけだ。
近頃の夢はいつも息苦しい。血の臭いが濃すぎて息が詰まる。風は吹いているが、それはちっとも空気を澄まさない。逆に血の臭いを運んでくる。重たい風だ。こんな重たい風では、鳥が羽ばたくのも辛いだろう。
風は血の臭いだけではなくもうひとつ、声も運んでくる。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
見えるのは赤く塗りつぶされた景色、聞こえるのは悲鳴ばかりで、私は目も耳も塞いでしゃがみ込みたくなる。
けれど耳を塞ぐことは出来ない。それが私に向けられた言葉だとわかっているから。
声のない悲鳴の気配もした。ひゅうひゅうと潰れた喉を鳴らしながら、それでも何かを叫ぼうと口だけを動かしている、そのもどかしさの気配。それを庇う声。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
子供の声だ。まだ幼い声。
ああ、この声はよく知っている。何度も夢で聞いた声。赤毛の少女の声だ。
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
「それはパパよ、わたしたちのパパよ。お願い、パパを殺さないで!」
パパ。それは誰のことだったか。
幼い頃抱き上げてくれたひと。
私の血の宿命を思い出させ、ふたつめの命を花開かせた蛇目の男。
熱を出す度に額に触れてくれた、冷たい手の持ち主。
断末魔が聞こえる。それが父のものだったのか、あの牧師のものか、隻眼の義父のものか、それすらもわからない。もしかしたら砲弾が空気を切り裂く音だったのか、それとも上官の絶叫だったのか。
気が付いた時には上官に抱きかかえられるように庇われて、地面に伏せた体で着弾の衝撃を感じていた。
写真が伏せられている。
いつもハイデルンの机に置かれていた写真だ。木枠にガラスをはめただけのシンプルな写真立ての中で、かつて彼が愛して喪った妻と娘が笑っている。
特にそのつもりで眺めたことはなかったが、それでもラルフはその笑顔を良く覚えている。笑顔だけでなく、彼女たちの着ているブラウスの柄からスカートの色、後ろに写った花の様子まで、何もかも覚えてしまった。それぐらい長い間、その写真はハイデルンの机に置かれていた。それが伏せられている。
写真ひとつでこうも変わるものか、と思った。
上官の部屋というものはそれでなくても居心地の悪いものだ。中にはラルフ自身のような例外もいるが、部下と自室で茶を傍らに談笑できるような上官などそうそういない。大抵の場合、上官の部屋で交わされるのは胃が引き絞られるような話題ばかりだ。
その上、この部屋の場合は主が主である。季節に喩えるなら、百人が百人「厳冬」と答える男。ハイデルンが放つ凍てついた冬のような気配も加わって、この部屋の居心地はひどく悪い。
この写真は、その冬の寒さを緩める唯一の存在だった。完璧で絶対無比の人間に見られがちなハイデルンの、弱さ脆さを感じさせる一葉。
それが伏せられた今、部屋は凍りついた湖のような緊張感ばかりで満ちている。ほんの少し踏む場所を間違えたら何もかもが割れて砕けてしまうような、薄い氷で閉ざされた湖のような。
ラルフですら、そう思った。
「今回の作戦失敗に伴う処分に関してお教えいただきたいのですが……」
「作戦失敗?」
ハイデルンの隻眼が、いぶかしむように細められる。
「確かにアクシデントはあった。しかし、作戦の目的自体は遂行されたはずだが……?」
「いえ、それは結果論であって、実質的には生存者をみすみす死なせてしまうというミスを犯しました。これはプロにあるまじき行為です」
「厳しいのだな」
非戦闘員の生存者があれば全員保護、救出すること。それは確かにこの作戦の目標のひとつだったが、全てではない。作戦のメインの目標は完璧に達成され、味方側の被害は些少。サブの目的である生存者の保護もほとんど完璧に成し遂げた。処分を求める必要のある状況ではない。
しかも、だ。
「だが、お前たちの言う生存者の遺体は、未だ確認されていない。我々の調査を持ってしてもだ。生存者の存在そのものが疑わしい」
戦闘を避けて隠れている生存者はいないか、負傷して救出を待っている生存者はいないか、その後調査は丹念に行われたが、それらしい遺体を発見することはできなかった。他の生存者にも話を聞いたが、それらしい人物がいたという話もない。生死を問う以前に、存在自体が疑わしいのだ。
「生存者を確認したのは一人だけなのだろう?」
「はい、レオナだけです。レオナが倒れている子供を発見した、と」
「あれに見えて、お前たちに見えないとは考えにくい」
「自分の娘の目を信じられないと?」
「お前たちの戦場経験の方が信用できる――幻覚という可能性も考えられる」
まさかそんな、とはラルフには言えなかった。
心当たりはある。先日の、レオナが機関銃の前に飛び出した一件だ。
普通なら若気の至りの一言で終わる話だ。功を焦る年頃には、程度の差はあれど一度や二度はそういうことがある。最初はラルフもそういうものだと思っていた。しかもその道の師としては天上の存在である義父に恋をした少女だ。自分を認めさせたいという焦りがあったとしても無理はない。
だが、あれから何かがおかしい。何かが狂った。それが何なのかわからないまま、違和感だけを感じていたところで今回のこれだ。
精神を病んだのかもしれない。戦場では精神を病む者も少なくはないのだ。だとしたら、幻覚ぐらい有り得る。
だが、違う。ラルフはレオナのそれを、そういうものではないと思っている。
「あれには相応の診察と治療を受けさせるべきかも知れん」
だからハイデルンがそう言った時、ラルフは露骨に顔をしかめた。
「治療、ですか」
「不服か」
ラルフはそれを否定しない。
「並の治療で治るものとは思えないんですがね」
「何が言いたい」
凍てついた部屋の中、ふたつの視線が交差する。
短い沈黙を先に破ったのはラルフの方だった。
「あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです」
「それならば――必要だと言うのなら、私が戦いの場所に連れて行く」
「ええ、確かにあなたが命じれば、あいつはどんな戦場にでも行くでしょうよ」
「何が言いたい?」
「でも今のあなたじゃ、あいつを戦場に連れて行くことは出来ても、戦わせることは出来ないって言ってるんですよ」
今度こそ、ラルフの言葉はハイデルンの胸に爪を立てた。引っかかるなどという生易しいものではない。その爪は肉を裂く力に満ちていた。
「あいつが生きるためにあいつを戦わせることは、今のあんたには出来やしねえ! あんたはあいつと生きていこうとしてるんじゃねえ! あんたはあいつと一緒に死んでやろうとしているだけじゃねえか!」
ハイデルンは答えない。否定しない。
「否定出来ねえだろ!? 出来ねえからその写真を伏せてるんだろう!?」
伏せられた写真を見て、ラルフは気付いたのだ。この親子が互いを思い合うあまり、どうしようもないところまで迷い込んでしまったことに。
レオナは迷って己を失った。ハイデルンもまた、同様に。
だから写真は伏せられる。写真の中、彼がかつて愛した彼女らは何も言わない。ただ優しく微笑み続けるだけだ。だが、百の言葉よりも、その沈黙の方が重いこともある。それに耐えられず、ハイデルンは写真を伏せた。
だから物言わぬ死者の代わりにラルフは叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「あんたはそれでもいいかも知れねえ。その写真の中の二人を喪った時、その復讐が終わった時、あんたの人生は一度終わっちまったようなもんなんだから、それでもいいのかもしれねえ。でも、でもあいつはまだじゃねえのか? 自分の親を殺してそれで終わりの人生じゃあんまりじゃねえのか……っ!?」
一度にそこまで吐き切って、ラルフは肩で息をした。
「……あんたら、少し離れた方がいい」
怒声の激しさで、少し声が掠れて来ている。
「あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く。だから今だけは、少し手を離した方がいい。あいつは飛べる鳥だ。その手を離して飛ばせてやってくれ」
最後の言葉は、忠告と言うより懇願に近かったかもしれない。
「……言いたいことは、それだけか」
長い沈黙を破ってハイデルンがそう言った時、ラルフはやっと、自分がそんなにも激しく上官に食って掛かっていたということに気が付いた。ハイデルンを「あんた」と呼ばわりしたのなど何年ぶりだろう。それに自分が気付いていなかったことにも驚いた。
叱責されるかな、と思った。
しかし、ハイデルンの声は不思議なほど穏やかだった。
「それで、おまえは何を望む?」
お前の好きなようにしてみろ、と言われていることにラルフ気付くまで、少しかかった。
「作戦の失敗の責任を取るということで、しばらくの間、実働部隊から外していただけないかと……」
「謹慎するという事か」
「その様にとっていただいて構いません」
「いいだろう。だが、一つ条件がある。謹慎はチーム全体という事にしろ。「レオナ」とクラークを含めての三人だ。そうするのならば許可しよう」
はっとして顔を上げたラルフに、ハイデルンは無言で頷いた。
写真は伏せられている。だが、部屋はもう凍てつくだけではなかった。
それはラルフが持ち込んだ炎のせいもあったが、それだけではなかった。
「生意気な事を……おまえごときの考えが、私にわからないとでも思っているのか?」
苦笑こそなかったが、ハイデルンは一人になった部屋でささやかな皮肉をこぼした。
ハイデルンは机の引き出しを開ける。引き出しから摘み上げた白い封筒には、一枚のカードが収められていた。毎年届くカードの内容は、これも毎年似たようなもので、ハイデルンはその内容をすっかり覚えてしまった。
「キング・オブ・ファイターズ、か」
やはり、と思う。
格闘の試合であるKOFなら、生命に関わる危険からは比較的遠い。それに、一人の失敗が味方の小隊を丸ごと死に追いやるような戦場とは違う。足を引っ張ったとしても、被害を蒙るのはチームメイトの2人だけだ。リハビリとしてはこの上ない環境だ。
しかしそれは、かつて彼自身の復讐の幕を下ろし、昨年は義娘の宿命に関わる対決を運んできた大会でもある。おそらくは今年も、単なる格闘大会では済まないだろう。
ハイデルンが招待状を引き出しにしまいこんだのは、それが理由だ。軍人として磨き抜いてきた勘が、義娘をそこに行かせてはならないと言っていた。
しかし、
『あいつは良くも悪くもあなたの娘で、俺の部下ですよ。あいつに必要なのは、休息でも医者でも治療でもない。あいつも戦うことでしか前に進めないんです』
まるで炎のようだったラルフの言葉が、まだ耳の底に響いている。
戦うことでしか、前に進めないのなら。戦うしかないのなら。
『あんたが連れて行けないのなら、俺があいつを連れて行く。あんたの代わりに、俺が戦いに連れて行く』
「ラルフ」
ハイデルンは閉ざされた扉越しに、部屋を去った部下へと呼びかける。その目は、祈る者のそれに似ていた。
「……頼む」
そうして、97年のKOFの幕は上がる。
++++++++++++++++++++
夢を見る。
空はもう暗い。あの鳥がまだ飛んでいるのかどうかも解らない。
隣にはあの少女がいる。赤い髪をしたもう一人の私が。けれど、もう私達は手を繋いではいない。
「パパを殺したあなたなんか死んじゃえばいい! パパを殺した世界なんか壊れちゃえばいい! あなたなんか……あなたなんかっ!」
赤い突風のように、赤毛の私が私の懐に飛び込んでくる。首筋を狙う手刀は避けられたが、体の軸が崩れた。あっという間に地面に倒されて、首を絞められる。
返せない。どうやっても剥がれない。剥がされない方法を、私も彼女も知っている。
八年だ。八年学んだ。戦う術、人を殺す術を。義父が私に与えた八年は、彼女の上にも等しく積もっていた。
息が詰まる。酸素が足りない。思考が鈍る。圧迫された血管が目の奥で切れたのだろうか。視界が赤く染まる。いや、赤くて暗い。
意識が、闇に、落ちる。
「……オナ、レオナ……どうしたレオナ?」
呼びかけられて気が付くと、目の前が赤かった。
トマトジュースのグラスを手にしたまま物思いに耽ってしまった、と状況を理解するのが早かったのは幸いだ。野菜のジュースは好きだけれど、どろりとした赤色は時々別のものを私に連想させる。それが飲みかけのジュースだと気付くのがもう少し遅かったら、私は心配してこちらを覗き込んでいた上官に、悲鳴を上げてグラスの中身を浴びせかけていたに違いない。
「ちょっと考え事をしていただけよ」
「体調は? 睡眠は良く取れてるか? 食欲は――あるとは言えねえみてえだが」
朝食の席だ。まだ皿には全く手を付けていない。
「体調は変わらないわ。睡眠は少し浅いけれど問題なし。食欲は……これから食べるわ」
「しっかりしろよ。食うのも仕事のうちだぞ」
「ええ、わかってる」
目の前に並べた朝食の皿は少ない。食欲があまりないせいもあるが、意識して少なくしている。今日はこの後試合だ。満腹では体が重いしカンが鈍る。戦う時には少し飢えているぐらいがいい。
パンを齧り、機械的にサラダを咀嚼し嚥下し、ジュースとミルクのグラスを空にする。ささやかな朝食はすぐに片付いた。それを見て上官が言う。
「食い終わったなら少し部屋で休んで来い。不眠が続いてるんだろ? 目の下、クマになってるぜ」
「そうね……少しそうさせてもらうわ」
「じゃあ10時に例の場所で」
「了解」
ラルフの気遣いに感謝して、私は席を立った。真っ直ぐ部屋に戻る。KOFの主催者側が用意したホテルの部屋だ。窓からは決勝戦の会場が見える。
皺になりそうな制服とシャツを脱ぎ、ベッドの上に横たわる。眠ろうとは思わなかったが、軽く目を閉じた。
眠りたいとは思わない。眠りは相変わらず浅く、起きた時には覚えていないような夢ばかり見て、かえって寝る前よりも疲れているぐらいだ。前線近くで野営する時でさえ、もう少し良く眠れる。寝ないで済むのなら眠りたくない。
だが、やはり疲労が溜まっているのだろう。とろとろと押し寄せる睡魔は耐え難く、私はまた夢を見た。
ブラックアウトしていた意識が戻る。赤毛の私はまだ私の首を絞め続けている。
頚椎を折られるのを覚悟で、私は首を締め上げる腕から自分の手を離した。間髪いれず、赤毛の私の目を狙って指を突き出す。
「ッ!!」
少女が一瞬ひるんだ隙に、私は身を捩って彼女の手から抜け出した。飛び退るほどの余力はなく、そのまま地面を転がって距離をとった。痛む喉を押さえ、咳き込みながら立ち上がる。
焦りすぎだった。まだ酸素が足りていない。立ち上がった瞬間に目の前が暗くなった。まずい、と思ったがもう遅い。意識が飛ぶ。
「……レオナ……おいレオナ!」
はっとして呼ぶ声の方を見る。またぼうっとしてしまったらしい。
「準決勝なんだから、もうちょっと着合い入れとけ。ぼさっとするにも程があるぞ」
大将として3番手に立ったラルフが苦笑していた。目の前のリングでは先鋒のクラークが相手の2番手と戦っている。少し分が悪そうだ。2番手を抜くことは難しいだろう。
「あれはお前が倒せよ。向こうの大将一人相手にするなら、俺の負けはねえからな。お前が2番手きっちり倒せばそれで充分だ」
「了解」
タイムアップのコールが響いた。判定負けにクラークが肩を竦めている。一方、向こうにはだいぶ余力がありそうだ。油断はできない。続いて私の名前がコールされる。雌獅子の意味を持つその名前が、なぜか今日は他人のもののように聞こえる。
「それじゃ、行くわ」
「おう、無理するなよ。午後の決勝に備えて力を温存しとけ」
「了解……任務、遂行します」
そうだ、任務を。私の役目を、望まれたつとめを果たさないと。
動けない駒になってしまえばそれまでだ。ただの駒でさえ盤上を追われる――父親の血で穢れた駒なら、尚更。
私はまた、夢を見る。2番手は予定通りに倒したが、敵の大将を相手に少し欲が出た。無理に突っ込んでカウンターをもらったのだ。それがいい所に当たってしまったらしい。軽く意識が飛んだところで、夢に落ちた。
もう目を覚ましている合間に夢を見ているのか、夢の合間に目を覚ましているのか分からない。ほんの一瞬の空白に夢が入り込んでくる。
その度に夢の中で死にかけ、寸でで目を覚まして、そしてまた夢を見る。これではいけない。こんなことをいつまでも繰り返していても、いつかこちらが動けなくなるだけだ。それこそこの二人の思う壺だ。
戦わなければ。そう身構える私に、ゲーニッツが笑いかけ、問いかける。
「なぜそんなに、向こう側に拘るんです? そんなに人として生きたいんですか?」
私は答えない。答える必要もない。
「人の戒律。人の倫理。貴女はずっと、そういうものに縛られてきた。そういうものに絶えず断罪され、苦しめられてきた。なぜそんなところに戻りたがるのです?」
答えることは、できない。
その通りだからだ。親殺し、同族殺しの十字架は決して軽くはない。生き続ける限り、その重さに私は喘ぎ続ける。
「私達の神は、貴女に罪など認めませんよ。もちろん神の僕たる私も、そして貴女の本当の仲間である私達の一族も。在るがままの貴女を受け容れます。そんな十字架を背負う必要はないんですよ」
私は答えない。答えられずに、もう一人の自分にただ手刀を向ける。
彼女も構えた。同時に地を蹴る。
互いに斬りつけては跳ぶように離れ、再び互いの懐に飛び込んでは斬りあう。避けきれずに傷付いた肌からは血が溢れ、風に混じる濃い血臭を更に鮮やかにする。
「それでも貴女は、向こうに戻りたいのですか? いつか親殺しの鬼子と忌み嫌われ、追われることを恐れながら暮らす世界に?」
答えられない。答えることはできない。答えられないまま、胸を刺された。
いつかと同じだ。喉の奥から熱いものがせりあがってきて、咳と共に吐き出したそれは血の塊だった。肺に達している。致命傷だ。いつかより、深い。
だが、胸に刺さる手刀を、私はそのまましっかりと捕まえた。この距離ならこちらも外さない。この距離から逃がさない。刺し違えるつもりで手刀を振り上げた、その時だった。
「『貴方のために何でもするから』。そう請い願うことでしか生きられない世界でしょう?」
振り上げた手が止まる。
蛇眼の牧師の言葉はその手と同じように冷たいが、どこまでも穏やかだ。穏やかに私を追い詰める。
「『あなたが望むように何でもするから、あなたの役に立つようにしているから、だから私を嫌わないで』。そう震えて怯えて媚び続けて、永遠に贖罪を続けるだけの世界でしょう?血が嫌いな貴女なのに教えられるままに暗殺術など覚えたのも、戦場で血を流し続けるのも、何もかもが贖罪のつもりでいるのでしょう?そうしてすらなお、貴女を拒むかもしれない世界に、それでも貴女は戻りたいのですか?」
答えられない。否定できない。
見る間に足が力を失っていく。膝が笑った。すぐに立っていることも出来なくなって、
私は崩れるように倒れ込む。
それを、冷たい手が支えた。優しく抱くように支えられても、私はもうその手を振り払うことも出来なかった。
何か言おうにも、もう唇にすら力が入らなくて震えている。息をする度に胸が熱く、口からは血の泡ばかりが漏れる。
「疲れているのでしょう、あちらの世界で無理をし続けて」
髪を撫でられる感触があった。それから冷たい手が、額に落ちる。
「眠りなさい。後のことはあの子がちゃんとやってくれますよ……だから貴女は眠って、休みなさい」
嫌だ、と言うことも、首を振ることも出来なかった。
私に出来たことはただ、私の代わりに目を覚まそうとする赤い髪のわたしを見送ることだけだった。
「Hallo……Hello World」
そう言ったつもりだが、他人には唸り声にしか聞こえないだろう。
コンピュータープログラムの教科書の、最初の1ページの定番のセンテンス。こんにちわ、素晴らしいプログラムの世界へようこそ。
だが、わたしの目に映る世界はただ騒々しく、雑多で汚らわしくて、息苦しかった。
わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。わたしのパパを殺す術を「私」に教えた世界。
汚らわしい。
「レオナ……レオナっ、おいレオナ!?」
上官と呼んでいた男の声が聞こえる。だが、それに答えるつもりはなかった。
「Hallo World。そして、さようなら」
低い唸り声で、わたしは憎むべき世界に別れを告げる。
「……パパを……パパを殺した世界なんて! パパを殺したわたしを拒む世界なんて、みんなみんな滅びてしまえばいい……っ!」
絶叫は咆哮となって喉から溢れ、わたしという形をした赤い獣は地を蹴った。
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