幼い頃良く見た夢は、いつも赤い部屋から始まる。
その部屋は真っ赤に塗り潰されていた。一面赤だという印象が強いが、今思えばそれはひどい突貫作業のようだった。たっぷりとペンキをつけた刷毛で、手の届くところだけを乱雑に擦ったような赤。天井辺りなどは、ところどころに赤い点が散っているだけで手付かずだった。
天井のことなど覚えているのは、私がその部屋の床に寝ていて、天井ばかり見ていたからだ。違う。天井しか見えなかったからだ。
なぜか体が全く動かない。その上、体中がひどく痛む。鼓動に合わせて小刻みに痛みの満ち引きを繰り返す体を持て余して、無性に膝を抱えて丸くなりたいと思った。だが、指一本動かない。冷たく硬い床に、痛む体で仰向きで寝ているのはつらかった。できることなら眠ってしまいたかったが、瞼も閉じられない。それも自由にならなかった。
仕方なく、私はずっと天井を見ていた。
なにか、ひどいことがあったような気がした。なにかとてもひどいことが起きて、色々なものをめちゃくちゃにされてしまったような気がしたが、それが何なのかは思い出せなかった。何を壊されたのか、何が壊してしまったのか、そのどちらも思い出せなかった。考えようとすると頭が痛くなった。
だから私は、そのうち考えることもやめた。淀んだ空気、すえた臭いの篭った部屋の中で、ただ天井を見ていた。
どれぐらい、そうしていたのだろう。天井以外のものが視界に入ってきたことに、ずいぶん遅れて私は気が付いたのだと思う。というのは、気付いた時にはすでにそれがあったからだ。それが現れた、あるいは部屋に入ってきた瞬間を、私は覚えていない。
それは影だった。相変わらず体は動かなかったから、私は視線だけをいっぱいに動かして影を追った。
背の高い男の影だった。見えたのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
穏やかな寒色の背中は、しかし遠ざかろうとしていた。私はなぜだか直感的に、「この人はもうこの場所に用はないのだ」と思った。この人はここでの仕事をやり終えた、だから出て行くのだ、と感じたのだ。その直感が正しかったかどうかはわからないが、少なくともその人が部屋のドアに向かっている、それは確かだった。
行かないで、と思った。いや、それは正確ではない。ただ、こちらを向いて欲しいと思ったのだ。置き去りにしないでとも、助けてとも思ったのではない。それだけは間違いない。ただ、こちらを見て欲しかった。けれど声は出ない。喉も唇も動かない。
行かないで、行かないで。こちらを見て。私はその人の背中を見つめながら、一心に祈った。そう、私が神に祈ったことがあるとすれば、きっとあれがその最後の一回だ。
祈りは、届いた。
振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えなかった。それなのに、視線が合ったということだけはなわかった。
言葉は出なかった。けれど、それまでどうしても動かなかった手が動いた。
それは、引き合うようなものだったと思う。
私の手が伸び、その人の手も伸びた。二つの手が重なるまで、異様に時間がかかった気がするのはきっと、私の手が私が思っていたほどには力を持たなかったせいだ。力なく、ゆっくりと伸びたのだと思う。
手と手が、静かに重なったその瞬間のことは、部屋の赤さよりも鮮明に覚えている。
求めていたのは、この手だと思った。
この手を離さなければ、どこまでも行けると思った。
「眠りなさい」
その人はそう言って、もう片方の手をそっと私の額に載せた。体はまだ動かなくて頷くこともできなかったけれど、いつの間にか瞼だけは言うことを聞くようになっていて、私は答える代わりに目を閉じた。
手と額に感じるその人の手の感触が、やがて私を眠らせた。この手の感触があるなら、何も不安ではないと思った。
そこでいつも目が覚める。
その夢を見るのは、決まって熱を出した時だった。義父に引き取られたばかりの私は、その直前の「事故」で負った怪我のせいかあまり健康ではなく、良く熱を出して寝込んだ。成長と訓練を重ねるうちにそういうことはなくなったが、その頃は一ヶ月に一度はそうして寝込んでいたと思う。
寝込んだ私に付き添って、寝ずに夜を明かしてくれたのも義父だった。私が夢から覚めると、義父はいつも本や書類から目を上げてこう言うのだ。「眠りなさい」、と。
その声は夢で聞いた声と良く似ている気がして、私はあの夢の光景は、過去に現実にあったことなのではないかと考える。けれど、それを義父に確かめたことはない。確かめるのはなぜか怖かった。訊くべきではないことのような気がした。
訊かずに済まして来れたのは、義父の手のせいかもしれなかった。
「眠りなさい」というごく短い言葉と共に、義父はいつも私の額に手を載せる。その度に、私は思うのだ。何も不安に思うことはない。この手を離さなければ、私はきっとどこまでも行ける。夢の中で感じたのと同じ安堵を、義父の手は私に与えてくれるのだ。
だから私は目を閉じる。あの夢と同じように。何も不安なことはないのだから。
そうして夢と同じように、私はまた、眠りに落ちるのだ。
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最近ではあまり熱も出さなくなって、見なくなっていた夢を久しぶりに見た。
赤い部屋。去っていく寒色の背中。
行かないで、行かないで。
触れ合う手。
触れた、手。
はっとした。夢ではない。間違いなく手が触れた。が、それは短い夢のように優しくはなかった。
首筋が鈍く痛む。手刀を落とされた――手が触れた箇所だ。
ダメージは軽かった。ー瞬とは言え意識を失うほどの衝撃ではあったが、その程度に加減されていたらしい。本気でやられていたら、きっと今頃は命がない。
だが、こちらは加減しなかった。する余裕もないだけの話だが。
伏せたままの姿勢から、腕の力だけで体を浮かせざま後方を脚で薙ぎ払う。方向は直感だ。
動いてから、しまったと思った。私の勘はよく当るが、それに頼り過ぎだと言われている。直感に頼らないで行動できるよう、訓練を重ねろといつも言われているのだ。
その意味では失敗したが、ある意味では成功した。その蹴りを避ける気配があったのだ。弧を描いた蹴りを避けて、標的が左側へ移動した気配がある。
これで相手の位置は捕捉した。問題は、ここからどう反撃するかだ。効き手の右ならともかく、この無理な体勢から、左手で相手をー撃で仕留められるか。
不可能、と判断した。それならどうするか。
そこまで思考が回った時、まだ痛む首筋にひやりとした皮手袋の感触が落ちた。断頭台の刃の感触だ。ゲームオーバー。今度こそ終わりだ。
模擬戦が始まってから時間にしたら十秒にも満たない間に、私は二度も殺されたことになる。
首筋に置かれた手刀が引かれるのを待って、私は立ち上がった。皮手袋の手の主を見上げる。三十センチ以上の身長差では、顔を見るのにも苦労する。私は首を仰向けに反らせた姿勢で敬礼の形をとった。
「まだ勘で行動している部分があるな」
「申し訳ありません」
返答は軍隊式のそれだ。六年の訓練の間に、それが体に染み付いている。と言っても私にはそれより以前の記憶はないから、生まれてからずっとそういう風に育てられて、自然と身に付いたと言ってもいいかもしれない。普段の生活が全て訓練そのものだったといっても過言ではないのだ。
普段の生活が訓練そのものなら、この模擬戦は試験に似ているかもしれない。普段は南国の基地で過ごす義父が、北欧のこの国、この家に戻ると必ず行うのがこの模擬戦だ。実際に戦うことで、何よりも良く訓練の成果が見えるのだと言う。
「お前の直感は才能のひとつだが、そればかりに頼っては腕が上がらない。今後更に気を付けるように」
「了解」
「だが、腕を上げたな。手加減をし損ねた」
そう言われて、義父の手刀が私に触れたのは初めてだと気付いた。
いつもは触れる寸前で手が止まる。こちらが全力を出しても、義父の方にはそれだけの余裕があるのだ。けれど、それが自分の成長のせいだとは思わなかった。私は未熟だ。
戦いの最中に夢を見るほどに。
「教官の怪我のせいです」
義父――普段は教官と呼んでいる――は怪我を負っていた。
無駄な肉のない剃刀のような体には、初秋に相応しい薄いコートを羽織っているからわかりにくいが、服の下には幾重にも包帯が巻かれている。先の作戦で負傷したのだそうだ。頼まれて包帯を替えた時、抉れたようなその傷跡に思わず息を呑むほどの傷たった。
その傷のために、義父はこの家に戻ってきた。義父は多忙な人だ。滅多にこの家には戻らない。私の訓練が滞らない程度には顔を見せるが、それもほんの一日二日の滞在がやっとで、ひどい時にはとんぼ返りだ。
それが1週間もこの家にいた。静養が必要だったのだ。それほどの怪我でなければ、義父が手加減をし損なうことなどなかっただろう。
本来なら、まだ休むべきだろう。だが義父は忙しい人だ。望むと望むまいと、世界の戦場が義父を必要としている。
風が冷たい。まだ初秋だが明け方は冷える。自分はともかく、怪我をした義父にはそれが障るのではないか、と思った。
「車まで持ちます」
私は敬礼の手を下ろして、言葉と共に差し出した。
「鞄を」
普段はそういうことはしない。私を含め、部下に傅かれるのを好まない人だ。それを知っているのに手を伸ばしたのは、鞄の重さどころか冷たい風が酷に見えるほどの怪我のためだ。
義父は少し迷ったようだが、結局鞄を私に預けた。その重い鞄を、私は左手に持ち替えて利き手を空ける。毎日の訓練で鍛えた腕は、まだ発展途上だがそれなりの筋肉を付けていて、この鞄のぐらいなら片手で充分だ。利き手を空けたのは、そうすることでいつ敵に襲われても対応できるようにするためだ。
そういう動作が自然にできるように教えたのもこの義父だ。物の持ち方、歩き方、ドアの開け閉めに至るまで、「事故」で記憶を失った私に全てを義父は教えてくれた。
その度に私は想いを強くした。夢としか記憶していないあの時と同じように、この手を離さなければ、どこまでも行けるという想いを。今ではこの義父は、私にとって絶対の存在だ。
車の助手席に鞄を置いてドアを閉め、一歩車から離れる。
「ちゃんと朝食を食べるように。特にたんぱく質の補給に気を配ること。以上だ」
フライトが早朝の便になったため、朝食の前に義父は出て行く。私はちょうどそろそろ朝食を摂る時間だ。義父は空港で済ますつもりだろう。
「了解」
短い返事と敬礼で義父を見送って、私は家に戻った。玄関で土埃を払い、洗面所で手と顔を洗ってから台所へ向かう。着替えようとは思わない。どうせ食事の後はまた訓練のスケジュールだ。今着替えてもまた汚す。
パンを切り、冷蔵庫を開ける。昨日宅配の食品が届いたから、冷蔵庫の中はぎっしりと物が詰まって暗い。そこから野菜ジュースとミルクを取り出して、ミルクにはプロテインのパウダーを混ぜた。私は肉や魚が苦手でほとんど口にできないから、代わりにそうするようにと指示されている。
パンと、野菜ジュースと、プロテイン入りのミルク。準備ができてしまえば、後はそれを淡々と口に運ぶだけだ。
硬いパンを咀嚼しながら、壁に飾られた写真を見る。私の食事の唯一の同席者がその写真だ。
古いと言うにはまだ鮮やかだが、ずっと飾られているせいで少し色が褪せてきている。映っているのは幼い少女と、その母親である女性の二人だ。目の辺りが良く似ているあたりに血の繋がりというものを感じる。
この二人の写真について、私から義父に訊いたことはない。触れてはいけないものであるような気がして訊こうとは思わなかったが、何かの折に義父の方から聞かされた。亡くなった妻と娘だという。
写真の中の二人は満面の笑顔を浮かべている。レンズの向こう、カメラを構える義父に向かって、これ以上ないぐらいの笑顔を向けている。
この屋敷で私が生活するようになって五年、その間に写真が架け替えられることは一度もなかった。多忙な義父は妻と娘と過ごす時間も短くて、写真を撮る機会もあまりなかったのだろう。この食堂だけではない。この屋敷のどの部屋にも、ニ人の写真が飾られているが、そのどれもが同じ写真だ。同じ写真を焼き増したものだ。おそらくこれが、たった一枚の写真なのだろう。同じ写真で家中を埋め尽くすほどに、義父の喪失感と絶望は深かったのだろう。たぶんそれを無意識に感じていて、私はこの写真について義父に訊かなかったのだ。
ふと、思った。この少女も義父の鞄を持ったのだろうか。
義父の鞄にはいつも書類やら何やらがぎっしりと詰まっていて、幼い少女が持つには重過ぎる。だがきっと、彼女も鞄を持ったのだろう。写真と同じ、満面の笑顔を浮かべて。きっと両手で抱えても鞄はまだ重く、足元は頼りなくふらついて、それでも笑顔で義父の隣を歩いたのだろう。
けれど、私は。
鞄を持つことはできる。片手で軽々と持って歩くこともできる。
だが、私はあの少女のようには笑えない。六年前の、「事故」で、私はそれ以前の記憶と共に、本来あるべき表情も失ってしまった。感情と言い換えてもいいかもしれない。
この写真の少女のように笑うことは、私にはできない。義父のために笑うことも、泣くことも。私にできるのは戦うことだけだ。義父の指示通りに訓練をこなし、教え通りに人と戦う術を覚える。それだけが私にできることだ。
訓練の成果を報告すれば、義父はそれでいいと言う。学び覚えた通りに動いて見せれば、義父はそれに頷いてくれる。
私はこれでいいのだ。笑えなくても。そう思う。義父が私にこの命をくれたようなものだ。半ば死の淵に落ちかけていたのを、手を引いて引き上げてくれたのは確かに義父だ。だから義父の望むとおり、戦えるならそれでいいのだと思う。
それでも私は、そっと頬に手をやって、そこを解すように揉んでみる。火の気のない台所の空気はしんと冷えていて、余計に強張る頬はいくら揉み解そうとしても緩まない。だから私は、すぐにそれを諦めた。こんな時は、せめて泣けたらいいのだろうか。
写真の中の二人は、ただ笑い続けている。
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鳥が飛んでいる。
「あの鳥はどこに行くの?」
問う声はだいぶ低いところからした。幼い少女だ。いつの間にか私と手を繋いでいる。染めたように鮮やかな赤い髪をしていた。
「たぶん、北へ行くのだと思う」
渡り鳥だ。群を作って長い旅をする鳥だ。
「それじゃあなんで、飛んでいかないの?」
空を見ていた視線を下ろしても、そう問う少女の顔は見えない。たっぷりとした赤い髪に隠されてしまっている。
私はもう一度、空を見る。
鳥は一羽で飛んでいた。群からはぐれたのだろう。一羽きりで、空に弧を描いて飛んでいる。
「迷子ね、きっと。群からはぐれたから、どこに飛んでいけばいいのか分からないのね」
空は赤い。もうすぐ陽が落ちるのだろうか。
今夜、あの鳥はどうするのだろうと思った。早く仲間の元に戻って、今夜の塒に降りなければならないはずだ。夜になったら鳥は飛べない。
なのに、鳥はいつまでも赤い空に弧を描いている。仲間を見付けられずに飛び続けている。
「わたしと同じね」
幼い声が言う。そう言えば、この子も家に戻るような時間ではないのだろうか。
その疑問に答えるように、少女が言う。
「わたしもどこにも行けないの」
「どうして?」
「知ってるでしょう。わたしも一人だから」
「……どうして?」
「忘れたの?」
声には、少女の歳に似合わない、嘲りと怒りが混じっていた。
「だってあなたが」
「ああ、そうね……そうだったわね」
思い出した。その声で思い出した。なんでそんな大切なことを忘れていたのだろう。
鳥はまだ飛んでいる。力尽きるまでそうして飛んでいるつもりなのだろうか。
「あなたがパパを殺してしまったんだもの。だからわたしはどこへも行けない。一人きりで、どこにも行けない」
そこで、目が覚めた。
頭が重いのは、何か嫌な夢でも見たせいだろうか。ここのところずっとそうだ。目を覚ますと最初に感じるのは、良く寝た後の爽快感ではなく疲労ばかりだ。朝起きればそのほとんどが記憶にない夢なのに、それに縛り付けられているような不快さが残る。特にこの数ヶ月は酷い。いっそ眠らない方が楽なのではないかと思うほどだ。
馬鹿な考えだ、と私は首を振った。少なくとも体の疲れは、眠らなければ消えはしない。
時計を見ると、本来の起床時刻の三十分ほど前だった。三十分、少し走るか何かして、体を動かして忘れてしまおう。そう考えて、私は手早く着替え、青い髪をきつく結い上げた。今日はこの後外出の予定だから、髪に縛り癖が付くのは好ましくないが、シャワーを浴びて髪を乾かしなおせば済むことだ。
その時間を考えると、走れるのは二十分ないかもしれない。そう計算しながら、私は部屋を後にした。
「お前、その癖は変わってないんだな」
そう言われて、ラルフは自分が煙草を咥えたまま、火を点けるのを忘れていたことに気が付いた。
真剣にものを考える時の癖だ。思考がそちら側にしか向かなくなるらしく、煙草を咥えるところまでは行くものの、火を点けるのを忘れてしまう。そうしてすっかりフィルタを噛み潰して駄目にしてしまっては、また新しい煙草を咥えるものだから、気が付けば半箱も無駄にしてしまうことも珍しくはない。ガムを好むようになったのはそのせいもある。とりあえず何かを口に入れておけば煙草に手をつけることはないし、ガムならいくら噛んでも無駄はない。
「そんなに入れ込んでるのか、あの子に」
「誤解すんな馬鹿。そんなんじゃねえよ。ありゃあ親父がいきなり連れてきた、歳の離れた妹みたいなもんだ」
「そういうことにしといてやるよ。まあ、お前らしいといえばお前らしい話しだしな。お前は昔からそうだった。お節介体質と言うか、世話焼き馬鹿と言うか、余計なとこまでどんどん首突っ込みやがって」
「うるせえ、お前だってあいつ見てればそういう気にもなるさ。危なっかしくてしょうがねえんだよ、あいつは」
今更火を点けたところでまともな味は期待できそうにない煙草を灰皿に放って、ラルフはコーヒーを啜った。それは十年以上前、ラルフがこの基地で星条旗に敬礼していた頃と変わらない、半端に薄い味がした。
コーヒーだけはでない。建物にも廊下にも昔の記憶は染み付いていて、案内なしで歩けることはもちろん、目を閉じてでも目的地に辿り着けるような気がする。いや、やって見せろと言われたら、コインを賭けるぐらいの自信はあった。もっとも彼がここを離れてから今までの間に、部屋の配置換えがなかったことが前提だが。
だから、一仕事終えた帰り際、すれ違いかけた男に不意に名を呼ばれても、ラルフにとってはそれほど驚くようなことではなかった。
振り向けば、懐かしさをいっぱいに溢れ返らせているのは、当時同じ部隊にいた男だった。
「デビッド! お前デビッドか!?」
「傭兵部隊から誰か来てるって聞いたから、もしかしたらと思ってたんだが……やっぱりお前だったかラルフ!」
思わず抱き合って再会を喜んだ。なにしろこの基地では一番といってもいいほど、気が合う友人だったのだ。ついでにアルコールと女の好みも合っていて、何度も一緒に酒場で朝を迎えた仲で、その度に一緒に上官の大目玉を食らった仲でもある。
しかも、別れ際に連絡先を交換するような柄でもなく、縁があればまた会えるだろうぐらいに考えていたから、これが十年ぶりの再会だ。嬉しくないはずがない。
「いやしかし、お前ちっとも老けてないな。現役で前線にいると違うのかね、やっぱり」
「お前が老けすぎだよ。後方に引っ込んでるうちにすっかり禿げちまいやがってこの野郎。一瞬、誰かわからなかったじゃねえか」
「うるさいよ、髪のことは言うなよ畜生。俺は苦労が多いんだよ」
「それじゃあ俺には悩みなんかないみたいじゃないかよ。これでも大変なんだぞ。階級だけならお偉いさんなのに、未だに使い走りばっかり多くて」
今も昔も変わらない丁々発止。時にはビールを、時には銃を片手に肩を組んで笑っていたころに、男たちは簡単に戻っていく。
「使い走りで忙しくても、少しぐらいなら時間あるんだろう? 昔話ついでにコーヒーでも奢ってやるよ。こんなところで立ち話もなんだ」
「そりゃ是非とも、と言いたいところだけどよ、その――」
「角を二つ戻ったところに、休憩用のベンチがあったわ」
躊躇う言葉を遮ったのは、中年男二人の大騒ぎが沈静化するのを辛抱強く待っていた、再会の熱に一人だけ無縁のレオナだった。今日は、ラルフの補佐として同行している。
その声には少し、呆れた感があった。気を遣って声を掛けたというより、これ以上付き合うのはごめんだというところなのだろう。
「私はそこで待ってる。次の予定まで三十分ぐらいなら余裕があるわ。行ってきたら、カフェテリア」
「明日は嵐だな。お前からそんなお優しい台詞が出るとは」
「おいおい、せっかくのお嬢さんがそういってくれてるって言うのに、お前ひどいな。ああ、こいつ昔からこんなんだから、いつも苦労してるんだろうね」
ラルフの言い草にさすがに憮然としたレオナに、余計な気を使わせてすまないね、と代わりにデビッドが頭を下げた。昔もそうだった。いつもこんな風に、頼まれもしないのにデビッドがラルフの代わりに頭を下げて、それでいつもなんとなく上手く行っていたのだ。
「男二人の思い出話なんて、聞いていて面白いもんでもないだろうし、せっかくのご好意だ。甘えさせてもらうよミス・レオナ。御礼にテイクアウトでミックスジュースでも奢らせてくれ。ここのは絶品なんだ」
「ありがとう、ミスター・デビッド」
レオナは儀礼的に感謝の言葉を口にし、握手を求められた手を、これも儀礼的に握り返す。
「それじゃあラルフ、三十分後に」
あっさりと初対面の挨拶を終わらせると、レオナは先程その前を通り過ぎたばかりのベンチに向かった。それを見送りながら、ラルフは彼女に出会ってもう何度目になるかわからない溜息を吐く。
「愛想なしですまんな、いつもあれで困るんだ」
「わかってる。噂のレベルだが、話はいろいろ届いてるんでな。それじゃ、俺たちも行くか」
「理解ある旧友に感謝するよ」
そういう流れがあったせいか、カフェテリアに移動してからも、二人の話題の中心は昔の思い出ではなく、レオナのことが中心になった。
「何がこう、危なっかしいってよ。あいつ、あるところでは異常に大人なんだが、そうでないところは年齢よりずっと餓鬼臭いんだよな。バランスが取れてなくて、いつひっくり返るかわからねえ」
「そりゃお前だって同じじゃねえか。来年四十とは思えないぞ、お前も」
「混ぜっ返すなよ。そりゃ赤の他人ならいつひっくり返られてもかまわねえけどよ、同じチームなんだ。任務中になんかあったらこっちの命がやべえんだぞ」
ラルフは首を振りながら、新しい煙草を咥えた。今度は忘れないうちに火を点ける。
「あいつにゃ経験ってもんが足りねえんだ。まだ若いせいもあるけどよ」
「経験って、実戦のか?」
「それもあるけどよ。例えば、あいつ余所の水の味を知らねえんだ。教官の純粋培養だから」
「ああ、なるほど」
これだけで言いたいことが伝わると言うのが、長い付き合いのいいところだ、とラルフは思う。長い説明なしでも意思の疎通ができるというのはありがたい。
幼い頃からハイデルンの指導を受けていたレオナは、戦闘能力に限って言えば、ラルフやクラークに引けを取らない。しかし、経験と言う点では話が別だ。
どんなに厳しい訓練を積んでも、実戦でしか養えない、ある種の直感のようなものがある。それがいざという時、生死を分けることも少なくない。だが、それはおいおい身に付いていくだろうし、実際レオナはそうなりつつあった。まだ二年程度の実戦参加にしてはたいしたものだ。
それよりもラルフが気にしているのは、レオナがハイデルンの部隊しか知らないということだった。
例えばラルフにしろクラークにしろ、ハイデルンの元に落ち着く以前は各国の外人部隊や傭兵部隊を渡り歩いた時期がある。部隊の他の傭兵達も、その期間や数に違いはあれど、皆似たような過去を持っているはずだ。
レオナにはそれがない。余所の部隊の気質や癖というものがわからない。
傭兵はどんな国のどんな部隊とも、すぐに馴染めなければ仕事にならない。そういう時、過去に所属した部隊での経験が役に立つ。この部隊はあそこと似た癖がある。それならこういうフォローが必要だ。経験があれば、すぐにそんな風に考えることができる。それが今のレオナにはできない。
「うちの部隊にいれば、嫌でもあっちこっち引きずり回されるからよ、いずれは覚えると思うんだがな。でも、早く覚えることに越したことはないだろ? だからなるべく連れ回してるんだ」
「今日ここに連れてきたのも、言わば社会見学って訳か。若くて美人な部下を見せびらかしたいわけじゃないんだな」
「そういう気持ちが全くないって言ったら嘘になるけどな」
こんなこと、お前が相手から言うんだぞと付け加えてラルフは笑った。ついでに言うと、相手が1mm鼻の下でも伸ばしてくれれば、その分交渉が有利になるという打算もなくはない。無表情でも仏頂面でも、美少女が同じ部屋にいるだけで、気が緩む男は多いのだ。
「いやしかし、冗談抜きで俺はお前が羨ましいよ。美人だなんだはまた別として、素直そうでいい子じゃないか」
「どうしようもないファザコンだったり、時々暴走したりするんだぞ?」
「若いうちは誰だって暴走するだろ。俺だってお前だってそうだった」
ラルフの言う暴走が、言葉通り以上の代物で、若気の至りというには多分に危険すぎるということをデビッドは知らない。知らないゆえに彼は笑い、だからラルフもそれに合わせて笑うしかない。だが、デビッドの笑いは見る間に曇った。
「うちの連中の暴走ったらひどいぞ。ここ何年かの新人の中じゃ最悪だ」
「お前、新人の担当やってるのか?」
「五年前からな」
「そりゃ大変だ。それで禿げたか」
「だから頭のことは言うなよ」
本当にどうしようもない連中なんだよ、と今度はデビッドが溜息を吐く。
「スラムでギャングまがいのことやってた連中でも、あれよりはだいぶマシだった」
「そんなにか」
「訓練の成績はいいんだ。表面上は規律も守ってる。ただ、どうにも性根が悪くてな。なまじ成績がいい分、天狗になってる部分もあるし」
それだけ聞けばよくある話なのだが、当事者のデビッドにしてみれば相当な心労だろう。語る声にも表情にも苦悩が滲み出ている。
「あの伸びきっちまった鼻をとっととへし折ってやらないと、きっと戦場でどうしようもないことになる。それが自分たちだけの問題で済むならいいが、任務中なら他人も巻き込みかねん」
「結局、どこも悩みは同じか」
「だからさ、お前のところはまだ、素直な子でいいじゃないかと言ってるんだよ」
「なるほどなあ」
自分が新兵だったころの担当教官の、いつも苦虫を噛み潰したような顔を思い出して、ラルフは心底旧友に同情した。自分も相当ひどいものだったが、どうもデビッドが相手をしているのはそれと同等か、もしかすると上回るような問題児なのだろう。それに比べたら、多少偏食で愛想がなくて、その上極度のファザコンで暴走癖があるとしても、レオナは決して悪い方ではない。
「そんな連中に愛想を尽かさずに、心配して面倒見てやってるあたり、お前もつくづく馬鹿だなあ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
冷め始めたコーヒーを啜って、デビッドはそう答えた。
そうして結局、思い出話はほとんどないまま、愚痴を言い合うだけで三十分という短い時間は過ぎてしまう。中間管理職の悲哀というものは、こういうところにあるのかもしれない。
もう時間だと席を立って、二人はカフェテリアを出た。
「すまん、俺はこの後ちょっと、西ブロックの方で用事があってな。お前の見送りをすると遠回りだ。ここで挨拶させてくれ。レオナ嬢にもよろしくな」
「おお、それじゃ」
テイクアウトのミックスジュースの紙コップを受け取って、ラルフはデビッドに手を振った。
また、とか今度、という約束はしない。それが無意味なことであると、二人とも知っている。もし次に会うとしても、それは戦場で相手の死体を確認する時かもしれないし、それならまだしも、敵兵を狙って覗いたスコープ越しになるかもしれない。むしろ、再会などない方がいいかもしれないのだ。
だから二人は、そのまま左右に別れた。デビットは西ブロックへ続く通路へ、ラルフは元来た通路へ。
先のことはともかく、旧友に会えたというのは嬉しいものだ。カフェテリアのコーヒーは記憶のままの味で、旧友は相変わらず愉快でいいやつで、ラルフはあとちょっとで鼻歌も出る、というぐらいに気分が良かった。少なくとも、その声が聞こえるまでは。
若い男の声だ。何を言っているかまではわからないが、何か嫌な調子の喋り方をしている。やがて、その声の一語一句までも聞き取れる位置まで近付いた時、ラルフはレオナを置いて行ったことを心の底から後悔した。
聞くに堪えない罵詈雑言だった。
「大事な父上の保身の為とは言え、二十一も年上の男にあてがわれるとは苦労するなあ?」
「仕方ねえさ、昔からお姫様の仕事は政略結婚と決まってる」
違いねえ、と笑う声を聞く前に拳を固めた。
お姫様と言うのはレオナのことだろう。その父上と言うならハイデルンに違いないし、二十一も年上の男、これは状況から考えて自分のことでしかありえない。
レオナはどうにも、顔が売れ過ぎた節がある。歴戦の勇者ばかりのKOFを初陣とした少女傭兵。伝説の傭兵達に並んだ若き雌獅子。隻眼の傭兵隊長の養女にして秘蔵の懐刀。しかもちょっと陰のある、なかなかの美形。
身の程を知らない若い兵士たちなら、ちょっとからかってみたい、怒り顔を見てみたい、あるいは泣かせてみたいと思う、そんな存在なのだろう。
こりゃデビッドも苦労するな、と思うのと、こいつらにはキツ目のお仕置きが必要だな、と思うのが同時だった。余所の兵士を殴り飛ばせばどういう問題になるか、それはラルフもわかっている。しかし、一発食らわせてやらなければ気が済まなかった。
歩調を速める。もうひとつ角を曲がったところに、レオナの待っているベンチがある。連中にはとりあえず一発ずつぶち込んで、怒鳴るのはそれからでいい。うちの部隊に喧嘩売ったらどうなるか、それを思い知らせてやる。
爆発寸前まで加熱した思考は、角の向こうから突然現れたレオナに遮られた。
おそらく、レオナを囲んで暴言を浴びせかけていた男たちの間を、彼らが引きとめる間もなくするりと抜けてやって来たのだろう。それぐらいのことは、レオナなら簡単にやってのける。
虚を突かれて紙コップを取り落としそうになるラルフの腕を掴み、レオナは足早に、ラルフが元来た方向へと向かった。半ば引きずられる形になって、ラルフは抗議の声を上げる。
「お、おい、こら待てレオナ! お前このままでいいのかよ! あんなこと言われて黙ってるつもりか?」
「ここで問題を起こすと後が大変だもの。大丈夫、慣れてるわ」
「大丈夫、っておい」
「いつものことだから」
「いつものこと、って――まさかお前、しょっちゅうあんなこと言われてるのかよ?」
「……どこから聞こえてたの?」
「二十一も年上の、って辺りから」
「あなたが引き合いに出されるたのはそこだけよ。だから気にしないで」
「待て、ちょっと待て。とにかく止まれ!」
掴まれた腕を強引に振り解いて、ラルフはレオナの正面に回る。
聞き逃せない単語がいくつかあった。慣れてる、いつものこと、気にしないで。そんなことを言われて、黙っていられる性分ではない。
「聞いちまった以上、気にするなってのはもう無理だ。説明しろよ」
「どうしても話さないといけない?」
「自分と部下が侮辱されたんだ。上官として状況の説明を求めてもいいんだぜ」
普段は滅多に、上官だの階級だのという権限を引き合いに出さないラルフである。それがそういう言葉を出したのを見て、レオナは沈黙を諦めた。
「あなたが引き合いに出されるようになったのは最近のことよ。その前は、亡くした娘の代わりに引き取った養女に暗殺術を教えるなんて、悪趣味な義父を持って苦労するな、とかそんなことを言われていただけ。その次に多かったのは、ハイデルンは決して裏切らない殺人兵器が欲しいから、義娘をそう仕立てたんだって指をさされた。後は、愛人を連れ歩くとなると問題になるけれど、それが義娘という名目なら何かと都合がいいだろうとか、それから」
「わかった、悪かった、もう言うな。その先は言わなくていい」
レオナに説明させたことを、ラルフは後悔していた。ちょっと考えればわかることだった。
ハイデルンは敵の多い男だ。その手で直接屠っただけでも数えきれない人間を死に追いやってきたのだし、傭兵部隊の隊長という肩書きは、時に部隊に向けられる恨みの全てを一身に引き受けることになる。命を狙われることが日常にすらなった男だ。
だが、銃やナイフを向けられているうちはいい。それならまだ、いくらでもあしらいようがある。
本当に厄介なのは、明確な形にならない敵意だ。そこまでの動機がないのか、度胸がないのか、それとも力がないのかはわからないが、そういう敵意は、ひどく陰湿なものに変わりやすい。その典型が誹謗中傷である。
子供じみた悪口と、当の本人が笑うのは簡単だ。だが、世間の見方も同じとは限らない。ただの中傷だったはずが話が一人歩きし、やがてスキャンダルとして周囲を揺さぶり、それに引き摺られるように失脚することは、決して珍しい話ではない。
レオナの存在は、そういう攻撃にはまさにお誂え向けの材料だった。隠し子と疑うこともできたし(もしそうであれば、彼の妻子が存命のうちに設けた娘ということになる!)、義娘に暗殺術を教えるという行為は表面だけ見ればいかにも非人道的だ。そしてその義娘が美しく成長したとあれば、親子の関係を別なものと邪推するのも容易い。
いったいどれだけの中傷がそうやって流されたのか、考えるのもラルフは嫌だった。
たぶん先程の若い兵士たちも、そういう噂をどこかで聞いたのだろう。そこに噂の主の片割れ、それも一見、扱い易そうな方が現れた。向こう見ずで血気だけは盛んな若い兵士が、ちょっかいを出してみようと思うのは自然な成り行きだったのかもしれなかった。
「お前、昔からそんなこと言われてずっと黙ってたのか?」
「騒ぐと面倒なことになると思ったし」
「それは否定しないけどよ」
「誰かに話したら解決するものでもないし」
「それも否定しないがな。で、教官は? まさか教官にも話してないのか?」
「言ってない」
レオナは淡々と言葉を繋ぐ。
「でもきっと、あの人は知っているわ。気付かないような人ではないから。ああいうことをしてくるのはたいてい外部の人間だから、気付かないふりをしているだけ」
なるほど、とラルフは頷いた。ハイデルンが余所の部隊に干渉すれば大きな問題になる。ラルフが短気を起こして怒鳴り込むのとは、訳と地位と責任が違うのだ。
ハイデルンがそれをしてしまえば、やれ公私混同だ、娘贔屓だと批判されるのは間違いない。ハイデルンを快く思わない者たちは、それを材料にこぞって彼を叩くだろう。それがわかっていて動くのは馬鹿のすることだ。
かといって、逆に何も行動を起こさなければ、今度は身内から批判が出かねない。義娘があんなことを言われているというのに何もしないとは何事だ、冷血だ、無情だ。そんな声が上がるのは目に見えていた。最悪の場合は部隊の士気にも関わる。義娘に対してそうならば、赤の他人の部下の窮地など気にも留めないだろう、と思われたら終わりである。司令官を疑った兵士など、前線には出せない。
何も気付かないふりをするのが、ハイデルンにとっては最善の選択肢なのだ。
「私が気にしなければ、それで済むことよ。実際、どうでもいいこただし」
「どうでもいいってことはないだろうよ。お前とお前の父親が侮辱されてるんだぞ?」
「あの人がそういう人間じゃないってことを、私はちゃんとわかってる。あなたも、中尉も、部隊の皆も。それで充分だわ」
「お前自身のことはどうなんだ」
「それこそどうでもいいことだわ。私の知らない誰かが私をどう思っていようと、構いはしない」
本当にどうでもいい、と思っているわけではないだろう。レオナは寡黙ではあるが、お人好しではない。感情の起伏は小さいとはいえ、怒る時は怒る。
どうでもいい、と思いたいだけなのだ。ハイデルンが気付かぬふりをしている以上、レオナが声を上げるわけにはいかない。レオナが声を上げてしまえば、ハイデルンも無視できなくなる。だからどうでもいいことだと、自分に言い聞かせたいだけなのだ。
「お前、ねえ」
そこまで父親に尽くすこともなかろうに、とラルフは呆れ果てる。
「今はいいぞ、今は。でもいつか、それじゃ済まないってことにお前も気付くんだ。で、気付くような時にはたいてい、手遅れなんだぞ」
「……どういうこと?」
「お前も恋でもすればわかるさ」
いきなり縁のない単語を聞かされ、レオナは途方にくれたような顔をした。
「恋」
「そう。好きな相手にゃ、それでなくても自分のいいとこしか見せたくないもんだ。それなのに根も葉もない噂話なんぞ一つまみでも信じられてみろ。ありゃ泣けるなんてもんじゃねえぞ」
まだわかりゃしねえだろうが、とラルフは付け加えた。レオナには遠い話だ。ほんのたとえ話のつもりだった。
だから、レオナの答えは少し意外だった。
「……それなら、わかるような気がする」
戸惑い顔で首を傾げたレオナを、ラルフはほとんど呆然と見た。
「それが恋というものかどうかはわからないけれど、そういうふうに思う相手なら、いなくはないわ」
「回りくどい言い回しをするね、お前。で、相手は誰よ」
「教官」
「やっぱりそれか、このファザコン娘」
負け惜しみでない。予想はできた。レオナの答えを聞いた時には確かに驚いたが、訊き返したその時には、もうその答えを予想していたのだ。
この、人との関わりを諦めきってしまったような少女にそこまで思わせる相手など他にいない。
「親兄弟は解答欄から外しとけよ。こういう時に勘定に入れる相手じゃないだろ」
「そうね、私も入れるつもりはなかったのだけれど、そんなつもりはなかったはずなんだけれど――どう思う?」
「そんなもん俺に聞かれても困る」
ラルフは憮然とした。それを訊いてしまうあたりが、レオナらしいといえばその通りなのだが。
「俺にわかるわけないだろ。お前自身以外の誰にわかるって言うんだ」
レオナはそれに頷いたが、本当はラルフにはわかっていた。伊達に少女の倍の歳を重ねているわけではない。
とんだ薮蛇だ。藪ならぬレオナを突付いて出て来たものは、もしかしたら気付かないままの方が幸せだったかもしれない、義父への淡い恋心だ。
まあ不自然なことではないけどなと思いながら、ラルフは胸ポケットから煙草のパッケージを出し、片手で器用に中身を取り出して咥えた。
子供というのは一時期、異性の親に擬似的な恋愛感情を抱くものだ。それは誰でも通る成長過程で、不自然なものではないし、やがて子供はそれを卒業して一人立ちしていく。
だがレオナの場合は、擬似的な、通過儀礼的な恋心では済まないだろう。
二人は血の繋がらない親子で、しかもレオナにとってハイデルンは、単に義父というものを超えた存在だ。長い熱病になるだろうな、とラルフは思った。
そう、恋というのは熱病のようなものだ。その時は命懸けとさえ思っても、一時の熱が冷めてしまえば嘘のように忘れてしまう。
だが、熱も上がり過ぎれば脳を冒す。場合によっては命に関わる。その上、熱病というものは伝染すると、相場が決まっているのだ。
レオナの熱病は、ハイデルンをも冒すだろう。なぜかラルフは、確信めいてそう思っていた。
あの悲劇からそういうものに背を向け続けているハイデルンに、義娘の熱病が伝染した時、それはどういう結末に向かうのか。何事もなく冷めるか、またはその熱と共存する方法を見付けられるのか。
今はこれ以上考えたくなかった。考えたところでどうにもならない。ラルフがまあ、あれだ、と話を切り替えたのはそういう理由だ。
「とにかく、引っ叩いて来いよ、あいつらを」
「でも」
「おまえ自身が怒ってなくても、教官の分ってもんがある。いくら黙ってるって言ったって、自分の娘を侮辱されて怒らない父親はいねえぞ。少なくともあの人は、そういう親だ」
親だ、と繰り返したのは、やはり先程の会話をどこかで引き摺っているせいかもしれない。
「それでもあの人は動けねえ。お前の言うとおり、問題になるからな。けどお前がやる分には、俺が「若気の至りです、許してやってください」ってあっちこっちに頭下げて、教官がそれを黙認すりゃ済むことだ。あの人にはそれ以上の迷惑はかからねえ。思い切り引っ叩いて、教官をすっきりさせてやれ」
それでもまだ動けないレオナの背を、ラルフは更に押してやる。
「ついでに俺の分も頼まれてくれると助かるんだが。なあ、俺も腹が立ってんだ。頼まれろよ」
「それは、命令?」
「命令じゃねえな。でも、後始末はしてやるって言ってるんだ。察しろ」
「……了解」
「命令じゃねえって言ってんだろ。敬礼するなよ」
苦笑するラルフに背を向けて、レオナは再びベンチに向かって、やや足早に歩いて行く。
その背中が廊下の向こうに消えたところで、ラルフは先程から感じていた気配に向かって声を掛けた。
「つーことで、後始末の手伝い頼むわ」
「やっぱり気付いてたか」
苦笑いしながら隣に並んだデビッドより、さらに苦い顔を浮かべてラルフはそれを隠そうとしない。
「狙っただろ、お前」
「やっぱりわかるか」
若い娘だからといって気軽にちょっかいを出して、想像以上の痛い目に遭えば、どんな威勢のいい連中の天狗の鼻でも折れるだろう。それを期待してラルフを誘ったのだと、デビッドは認めた。レオナが席を外すと言い出してくれたのは好都合で、そうでなければそう頼むつもりでいたのだ。
「いつ気付いた?」
「お前が黙って見てる気配に気付いた時から。昔のお前なら、まず飛び出してきて謝って、あの連中ぶん殴ってからまた謝っただろ?」
「すまんな。今のうちに、若いお嬢さんにでも頬を張られないことには、あいつらの性根は治りそうにないんだ」
「わからなくもないけどよ」
「すまんな」
言葉少なに、デビッドはもう一度謝った。
「軟派な火遊びで済むかと思ったんだが、ああいう暴言を吐くとは思わなかった。どこであんなネタ仕入れたんだか……あの子には辛い想いをさせた。本当にすまない」
「うちの教官殿にゃ敵が多いからな。どこから吹き込まれてもおかしかねえよ。ただ、ガセ掴まされるのは情報管理が甘い証拠だぞ。気を付けろ――吸うか?」
そうやってデビッドに煙草を勧めて、ラルフはやっと、自分がまた煙草に火を点けていなかったことに気が付いた。フィルターはすっかり噛み潰されて、唇の間で力なく萎れている。
「俺は引退するよ、ラルフ」
紫煙と共に吐き出されたデビッドの声は、先程よりも更に疲れを色濃くしていた。
「いくらどうしようもない新人だからって、他人を利用してどうにかしようなんて考える時点で、もう駄目だったんだな俺は。この後始末が終わったら軍を辞めて、田舎に帰るさ」
「ああ、それがいい」
萎れた煙草の隙間から漏れたラルフの声も、デビッドに負けず疲れていた。
「さて、そろそろ迎えに行ってやるか。あいつ、喧嘩慣れしてないから引っ込みどころってもんがわからねえだろうしな」
ああそうだ、今日はいろいろなことがありすぎて疲れた。早くレオナを連れて帰ろう。そればかりがラルフの頭の中を回り始める。
「まだ静かじゃないか。終わってないんじゃないか?」
「あいつのは生粋の隊長仕込みだ。俺なんかの亜流とは訳が違う。あんな若造相手に音なんか立てるかよ」
「そうか、それじゃあ早く行ってやらないとな」
「でもあれだ。その前に一発殴らせろ」
その唐突で乱暴な物言いに、旧友はただ、横顔を伏せて笑った。笑うよりない、という顔をしていた。
「ああ、お前を誘った時から覚悟はできてる」
やっぱり付き合いの長い奴はいい。ラルフは心からそう思う。長々と理由を説明する必要がない。最低限の言葉でちゃんと伝わる。
「馬鹿だね、お前も大概」
「お前にゃ負けるさ」
程なくして、拳が肉を打つ鈍い音がし、続いてまだ長い煙草が床に落ちた。それを爪先で踏み消しながら、もう二度とこの旧友に会うことはないだろうととラルフは思っていた。
手の中では紙コップが汗をかいて、掌をじっとりと濡らしている。
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その部屋は真っ赤に塗り潰されていた。一面赤だという印象が強いが、今思えばそれはひどい突貫作業のようだった。たっぷりとペンキをつけた刷毛で、手の届くところだけを乱雑に擦ったような赤。天井辺りなどは、ところどころに赤い点が散っているだけで手付かずだった。
天井のことなど覚えているのは、私がその部屋の床に寝ていて、天井ばかり見ていたからだ。違う。天井しか見えなかったからだ。
なぜか体が全く動かない。その上、体中がひどく痛む。鼓動に合わせて小刻みに痛みの満ち引きを繰り返す体を持て余して、無性に膝を抱えて丸くなりたいと思った。だが、指一本動かない。冷たく硬い床に、痛む体で仰向きで寝ているのはつらかった。できることなら眠ってしまいたかったが、瞼も閉じられない。それも自由にならなかった。
仕方なく、私はずっと天井を見ていた。
なにか、ひどいことがあったような気がした。なにかとてもひどいことが起きて、色々なものをめちゃくちゃにされてしまったような気がしたが、それが何なのかは思い出せなかった。何を壊されたのか、何が壊してしまったのか、そのどちらも思い出せなかった。考えようとすると頭が痛くなった。
だから私は、そのうち考えることもやめた。淀んだ空気、すえた臭いの篭った部屋の中で、ただ天井を見ていた。
どれぐらい、そうしていたのだろう。天井以外のものが視界に入ってきたことに、ずいぶん遅れて私は気が付いたのだと思う。というのは、気付いた時にはすでにそれがあったからだ。それが現れた、あるいは部屋に入ってきた瞬間を、私は覚えていない。
それは影だった。相変わらず体は動かなかったから、私は視線だけをいっぱいに動かして影を追った。
背の高い男の影だった。見えたのは背中だ。暗い色の服に身を包んだその人の姿は、狂った色彩の部屋の中、とても穏やかに見えた。
穏やかな寒色の背中は、しかし遠ざかろうとしていた。私はなぜだか直感的に、「この人はもうこの場所に用はないのだ」と思った。この人はここでの仕事をやり終えた、だから出て行くのだ、と感じたのだ。その直感が正しかったかどうかはわからないが、少なくともその人が部屋のドアに向かっている、それは確かだった。
行かないで、と思った。いや、それは正確ではない。ただ、こちらを向いて欲しいと思ったのだ。置き去りにしないでとも、助けてとも思ったのではない。それだけは間違いない。ただ、こちらを見て欲しかった。けれど声は出ない。喉も唇も動かない。
行かないで、行かないで。こちらを見て。私はその人の背中を見つめながら、一心に祈った。そう、私が神に祈ったことがあるとすれば、きっとあれがその最後の一回だ。
祈りは、届いた。
振り向いたその人の顔は、逆光で良く見えなかった。それなのに、視線が合ったということだけはなわかった。
言葉は出なかった。けれど、それまでどうしても動かなかった手が動いた。
それは、引き合うようなものだったと思う。
私の手が伸び、その人の手も伸びた。二つの手が重なるまで、異様に時間がかかった気がするのはきっと、私の手が私が思っていたほどには力を持たなかったせいだ。力なく、ゆっくりと伸びたのだと思う。
手と手が、静かに重なったその瞬間のことは、部屋の赤さよりも鮮明に覚えている。
求めていたのは、この手だと思った。
この手を離さなければ、どこまでも行けると思った。
「眠りなさい」
その人はそう言って、もう片方の手をそっと私の額に載せた。体はまだ動かなくて頷くこともできなかったけれど、いつの間にか瞼だけは言うことを聞くようになっていて、私は答える代わりに目を閉じた。
手と額に感じるその人の手の感触が、やがて私を眠らせた。この手の感触があるなら、何も不安ではないと思った。
そこでいつも目が覚める。
その夢を見るのは、決まって熱を出した時だった。義父に引き取られたばかりの私は、その直前の「事故」で負った怪我のせいかあまり健康ではなく、良く熱を出して寝込んだ。成長と訓練を重ねるうちにそういうことはなくなったが、その頃は一ヶ月に一度はそうして寝込んでいたと思う。
寝込んだ私に付き添って、寝ずに夜を明かしてくれたのも義父だった。私が夢から覚めると、義父はいつも本や書類から目を上げてこう言うのだ。「眠りなさい」、と。
その声は夢で聞いた声と良く似ている気がして、私はあの夢の光景は、過去に現実にあったことなのではないかと考える。けれど、それを義父に確かめたことはない。確かめるのはなぜか怖かった。訊くべきではないことのような気がした。
訊かずに済まして来れたのは、義父の手のせいかもしれなかった。
「眠りなさい」というごく短い言葉と共に、義父はいつも私の額に手を載せる。その度に、私は思うのだ。何も不安に思うことはない。この手を離さなければ、私はきっとどこまでも行ける。夢の中で感じたのと同じ安堵を、義父の手は私に与えてくれるのだ。
だから私は目を閉じる。あの夢と同じように。何も不安なことはないのだから。
そうして夢と同じように、私はまた、眠りに落ちるのだ。
+++++++++++++++++++++++++++
最近ではあまり熱も出さなくなって、見なくなっていた夢を久しぶりに見た。
赤い部屋。去っていく寒色の背中。
行かないで、行かないで。
触れ合う手。
触れた、手。
はっとした。夢ではない。間違いなく手が触れた。が、それは短い夢のように優しくはなかった。
首筋が鈍く痛む。手刀を落とされた――手が触れた箇所だ。
ダメージは軽かった。ー瞬とは言え意識を失うほどの衝撃ではあったが、その程度に加減されていたらしい。本気でやられていたら、きっと今頃は命がない。
だが、こちらは加減しなかった。する余裕もないだけの話だが。
伏せたままの姿勢から、腕の力だけで体を浮かせざま後方を脚で薙ぎ払う。方向は直感だ。
動いてから、しまったと思った。私の勘はよく当るが、それに頼り過ぎだと言われている。直感に頼らないで行動できるよう、訓練を重ねろといつも言われているのだ。
その意味では失敗したが、ある意味では成功した。その蹴りを避ける気配があったのだ。弧を描いた蹴りを避けて、標的が左側へ移動した気配がある。
これで相手の位置は捕捉した。問題は、ここからどう反撃するかだ。効き手の右ならともかく、この無理な体勢から、左手で相手をー撃で仕留められるか。
不可能、と判断した。それならどうするか。
そこまで思考が回った時、まだ痛む首筋にひやりとした皮手袋の感触が落ちた。断頭台の刃の感触だ。ゲームオーバー。今度こそ終わりだ。
模擬戦が始まってから時間にしたら十秒にも満たない間に、私は二度も殺されたことになる。
首筋に置かれた手刀が引かれるのを待って、私は立ち上がった。皮手袋の手の主を見上げる。三十センチ以上の身長差では、顔を見るのにも苦労する。私は首を仰向けに反らせた姿勢で敬礼の形をとった。
「まだ勘で行動している部分があるな」
「申し訳ありません」
返答は軍隊式のそれだ。六年の訓練の間に、それが体に染み付いている。と言っても私にはそれより以前の記憶はないから、生まれてからずっとそういう風に育てられて、自然と身に付いたと言ってもいいかもしれない。普段の生活が全て訓練そのものだったといっても過言ではないのだ。
普段の生活が訓練そのものなら、この模擬戦は試験に似ているかもしれない。普段は南国の基地で過ごす義父が、北欧のこの国、この家に戻ると必ず行うのがこの模擬戦だ。実際に戦うことで、何よりも良く訓練の成果が見えるのだと言う。
「お前の直感は才能のひとつだが、そればかりに頼っては腕が上がらない。今後更に気を付けるように」
「了解」
「だが、腕を上げたな。手加減をし損ねた」
そう言われて、義父の手刀が私に触れたのは初めてだと気付いた。
いつもは触れる寸前で手が止まる。こちらが全力を出しても、義父の方にはそれだけの余裕があるのだ。けれど、それが自分の成長のせいだとは思わなかった。私は未熟だ。
戦いの最中に夢を見るほどに。
「教官の怪我のせいです」
義父――普段は教官と呼んでいる――は怪我を負っていた。
無駄な肉のない剃刀のような体には、初秋に相応しい薄いコートを羽織っているからわかりにくいが、服の下には幾重にも包帯が巻かれている。先の作戦で負傷したのだそうだ。頼まれて包帯を替えた時、抉れたようなその傷跡に思わず息を呑むほどの傷たった。
その傷のために、義父はこの家に戻ってきた。義父は多忙な人だ。滅多にこの家には戻らない。私の訓練が滞らない程度には顔を見せるが、それもほんの一日二日の滞在がやっとで、ひどい時にはとんぼ返りだ。
それが1週間もこの家にいた。静養が必要だったのだ。それほどの怪我でなければ、義父が手加減をし損なうことなどなかっただろう。
本来なら、まだ休むべきだろう。だが義父は忙しい人だ。望むと望むまいと、世界の戦場が義父を必要としている。
風が冷たい。まだ初秋だが明け方は冷える。自分はともかく、怪我をした義父にはそれが障るのではないか、と思った。
「車まで持ちます」
私は敬礼の手を下ろして、言葉と共に差し出した。
「鞄を」
普段はそういうことはしない。私を含め、部下に傅かれるのを好まない人だ。それを知っているのに手を伸ばしたのは、鞄の重さどころか冷たい風が酷に見えるほどの怪我のためだ。
義父は少し迷ったようだが、結局鞄を私に預けた。その重い鞄を、私は左手に持ち替えて利き手を空ける。毎日の訓練で鍛えた腕は、まだ発展途上だがそれなりの筋肉を付けていて、この鞄のぐらいなら片手で充分だ。利き手を空けたのは、そうすることでいつ敵に襲われても対応できるようにするためだ。
そういう動作が自然にできるように教えたのもこの義父だ。物の持ち方、歩き方、ドアの開け閉めに至るまで、「事故」で記憶を失った私に全てを義父は教えてくれた。
その度に私は想いを強くした。夢としか記憶していないあの時と同じように、この手を離さなければ、どこまでも行けるという想いを。今ではこの義父は、私にとって絶対の存在だ。
車の助手席に鞄を置いてドアを閉め、一歩車から離れる。
「ちゃんと朝食を食べるように。特にたんぱく質の補給に気を配ること。以上だ」
フライトが早朝の便になったため、朝食の前に義父は出て行く。私はちょうどそろそろ朝食を摂る時間だ。義父は空港で済ますつもりだろう。
「了解」
短い返事と敬礼で義父を見送って、私は家に戻った。玄関で土埃を払い、洗面所で手と顔を洗ってから台所へ向かう。着替えようとは思わない。どうせ食事の後はまた訓練のスケジュールだ。今着替えてもまた汚す。
パンを切り、冷蔵庫を開ける。昨日宅配の食品が届いたから、冷蔵庫の中はぎっしりと物が詰まって暗い。そこから野菜ジュースとミルクを取り出して、ミルクにはプロテインのパウダーを混ぜた。私は肉や魚が苦手でほとんど口にできないから、代わりにそうするようにと指示されている。
パンと、野菜ジュースと、プロテイン入りのミルク。準備ができてしまえば、後はそれを淡々と口に運ぶだけだ。
硬いパンを咀嚼しながら、壁に飾られた写真を見る。私の食事の唯一の同席者がその写真だ。
古いと言うにはまだ鮮やかだが、ずっと飾られているせいで少し色が褪せてきている。映っているのは幼い少女と、その母親である女性の二人だ。目の辺りが良く似ているあたりに血の繋がりというものを感じる。
この二人の写真について、私から義父に訊いたことはない。触れてはいけないものであるような気がして訊こうとは思わなかったが、何かの折に義父の方から聞かされた。亡くなった妻と娘だという。
写真の中の二人は満面の笑顔を浮かべている。レンズの向こう、カメラを構える義父に向かって、これ以上ないぐらいの笑顔を向けている。
この屋敷で私が生活するようになって五年、その間に写真が架け替えられることは一度もなかった。多忙な義父は妻と娘と過ごす時間も短くて、写真を撮る機会もあまりなかったのだろう。この食堂だけではない。この屋敷のどの部屋にも、ニ人の写真が飾られているが、そのどれもが同じ写真だ。同じ写真を焼き増したものだ。おそらくこれが、たった一枚の写真なのだろう。同じ写真で家中を埋め尽くすほどに、義父の喪失感と絶望は深かったのだろう。たぶんそれを無意識に感じていて、私はこの写真について義父に訊かなかったのだ。
ふと、思った。この少女も義父の鞄を持ったのだろうか。
義父の鞄にはいつも書類やら何やらがぎっしりと詰まっていて、幼い少女が持つには重過ぎる。だがきっと、彼女も鞄を持ったのだろう。写真と同じ、満面の笑顔を浮かべて。きっと両手で抱えても鞄はまだ重く、足元は頼りなくふらついて、それでも笑顔で義父の隣を歩いたのだろう。
けれど、私は。
鞄を持つことはできる。片手で軽々と持って歩くこともできる。
だが、私はあの少女のようには笑えない。六年前の、「事故」で、私はそれ以前の記憶と共に、本来あるべき表情も失ってしまった。感情と言い換えてもいいかもしれない。
この写真の少女のように笑うことは、私にはできない。義父のために笑うことも、泣くことも。私にできるのは戦うことだけだ。義父の指示通りに訓練をこなし、教え通りに人と戦う術を覚える。それだけが私にできることだ。
訓練の成果を報告すれば、義父はそれでいいと言う。学び覚えた通りに動いて見せれば、義父はそれに頷いてくれる。
私はこれでいいのだ。笑えなくても。そう思う。義父が私にこの命をくれたようなものだ。半ば死の淵に落ちかけていたのを、手を引いて引き上げてくれたのは確かに義父だ。だから義父の望むとおり、戦えるならそれでいいのだと思う。
それでも私は、そっと頬に手をやって、そこを解すように揉んでみる。火の気のない台所の空気はしんと冷えていて、余計に強張る頬はいくら揉み解そうとしても緩まない。だから私は、すぐにそれを諦めた。こんな時は、せめて泣けたらいいのだろうか。
写真の中の二人は、ただ笑い続けている。
+++++++++++++++++++++++++++++
鳥が飛んでいる。
「あの鳥はどこに行くの?」
問う声はだいぶ低いところからした。幼い少女だ。いつの間にか私と手を繋いでいる。染めたように鮮やかな赤い髪をしていた。
「たぶん、北へ行くのだと思う」
渡り鳥だ。群を作って長い旅をする鳥だ。
「それじゃあなんで、飛んでいかないの?」
空を見ていた視線を下ろしても、そう問う少女の顔は見えない。たっぷりとした赤い髪に隠されてしまっている。
私はもう一度、空を見る。
鳥は一羽で飛んでいた。群からはぐれたのだろう。一羽きりで、空に弧を描いて飛んでいる。
「迷子ね、きっと。群からはぐれたから、どこに飛んでいけばいいのか分からないのね」
空は赤い。もうすぐ陽が落ちるのだろうか。
今夜、あの鳥はどうするのだろうと思った。早く仲間の元に戻って、今夜の塒に降りなければならないはずだ。夜になったら鳥は飛べない。
なのに、鳥はいつまでも赤い空に弧を描いている。仲間を見付けられずに飛び続けている。
「わたしと同じね」
幼い声が言う。そう言えば、この子も家に戻るような時間ではないのだろうか。
その疑問に答えるように、少女が言う。
「わたしもどこにも行けないの」
「どうして?」
「知ってるでしょう。わたしも一人だから」
「……どうして?」
「忘れたの?」
声には、少女の歳に似合わない、嘲りと怒りが混じっていた。
「だってあなたが」
「ああ、そうね……そうだったわね」
思い出した。その声で思い出した。なんでそんな大切なことを忘れていたのだろう。
鳥はまだ飛んでいる。力尽きるまでそうして飛んでいるつもりなのだろうか。
「あなたがパパを殺してしまったんだもの。だからわたしはどこへも行けない。一人きりで、どこにも行けない」
そこで、目が覚めた。
頭が重いのは、何か嫌な夢でも見たせいだろうか。ここのところずっとそうだ。目を覚ますと最初に感じるのは、良く寝た後の爽快感ではなく疲労ばかりだ。朝起きればそのほとんどが記憶にない夢なのに、それに縛り付けられているような不快さが残る。特にこの数ヶ月は酷い。いっそ眠らない方が楽なのではないかと思うほどだ。
馬鹿な考えだ、と私は首を振った。少なくとも体の疲れは、眠らなければ消えはしない。
時計を見ると、本来の起床時刻の三十分ほど前だった。三十分、少し走るか何かして、体を動かして忘れてしまおう。そう考えて、私は手早く着替え、青い髪をきつく結い上げた。今日はこの後外出の予定だから、髪に縛り癖が付くのは好ましくないが、シャワーを浴びて髪を乾かしなおせば済むことだ。
その時間を考えると、走れるのは二十分ないかもしれない。そう計算しながら、私は部屋を後にした。
「お前、その癖は変わってないんだな」
そう言われて、ラルフは自分が煙草を咥えたまま、火を点けるのを忘れていたことに気が付いた。
真剣にものを考える時の癖だ。思考がそちら側にしか向かなくなるらしく、煙草を咥えるところまでは行くものの、火を点けるのを忘れてしまう。そうしてすっかりフィルタを噛み潰して駄目にしてしまっては、また新しい煙草を咥えるものだから、気が付けば半箱も無駄にしてしまうことも珍しくはない。ガムを好むようになったのはそのせいもある。とりあえず何かを口に入れておけば煙草に手をつけることはないし、ガムならいくら噛んでも無駄はない。
「そんなに入れ込んでるのか、あの子に」
「誤解すんな馬鹿。そんなんじゃねえよ。ありゃあ親父がいきなり連れてきた、歳の離れた妹みたいなもんだ」
「そういうことにしといてやるよ。まあ、お前らしいといえばお前らしい話しだしな。お前は昔からそうだった。お節介体質と言うか、世話焼き馬鹿と言うか、余計なとこまでどんどん首突っ込みやがって」
「うるせえ、お前だってあいつ見てればそういう気にもなるさ。危なっかしくてしょうがねえんだよ、あいつは」
今更火を点けたところでまともな味は期待できそうにない煙草を灰皿に放って、ラルフはコーヒーを啜った。それは十年以上前、ラルフがこの基地で星条旗に敬礼していた頃と変わらない、半端に薄い味がした。
コーヒーだけはでない。建物にも廊下にも昔の記憶は染み付いていて、案内なしで歩けることはもちろん、目を閉じてでも目的地に辿り着けるような気がする。いや、やって見せろと言われたら、コインを賭けるぐらいの自信はあった。もっとも彼がここを離れてから今までの間に、部屋の配置換えがなかったことが前提だが。
だから、一仕事終えた帰り際、すれ違いかけた男に不意に名を呼ばれても、ラルフにとってはそれほど驚くようなことではなかった。
振り向けば、懐かしさをいっぱいに溢れ返らせているのは、当時同じ部隊にいた男だった。
「デビッド! お前デビッドか!?」
「傭兵部隊から誰か来てるって聞いたから、もしかしたらと思ってたんだが……やっぱりお前だったかラルフ!」
思わず抱き合って再会を喜んだ。なにしろこの基地では一番といってもいいほど、気が合う友人だったのだ。ついでにアルコールと女の好みも合っていて、何度も一緒に酒場で朝を迎えた仲で、その度に一緒に上官の大目玉を食らった仲でもある。
しかも、別れ際に連絡先を交換するような柄でもなく、縁があればまた会えるだろうぐらいに考えていたから、これが十年ぶりの再会だ。嬉しくないはずがない。
「いやしかし、お前ちっとも老けてないな。現役で前線にいると違うのかね、やっぱり」
「お前が老けすぎだよ。後方に引っ込んでるうちにすっかり禿げちまいやがってこの野郎。一瞬、誰かわからなかったじゃねえか」
「うるさいよ、髪のことは言うなよ畜生。俺は苦労が多いんだよ」
「それじゃあ俺には悩みなんかないみたいじゃないかよ。これでも大変なんだぞ。階級だけならお偉いさんなのに、未だに使い走りばっかり多くて」
今も昔も変わらない丁々発止。時にはビールを、時には銃を片手に肩を組んで笑っていたころに、男たちは簡単に戻っていく。
「使い走りで忙しくても、少しぐらいなら時間あるんだろう? 昔話ついでにコーヒーでも奢ってやるよ。こんなところで立ち話もなんだ」
「そりゃ是非とも、と言いたいところだけどよ、その――」
「角を二つ戻ったところに、休憩用のベンチがあったわ」
躊躇う言葉を遮ったのは、中年男二人の大騒ぎが沈静化するのを辛抱強く待っていた、再会の熱に一人だけ無縁のレオナだった。今日は、ラルフの補佐として同行している。
その声には少し、呆れた感があった。気を遣って声を掛けたというより、これ以上付き合うのはごめんだというところなのだろう。
「私はそこで待ってる。次の予定まで三十分ぐらいなら余裕があるわ。行ってきたら、カフェテリア」
「明日は嵐だな。お前からそんなお優しい台詞が出るとは」
「おいおい、せっかくのお嬢さんがそういってくれてるって言うのに、お前ひどいな。ああ、こいつ昔からこんなんだから、いつも苦労してるんだろうね」
ラルフの言い草にさすがに憮然としたレオナに、余計な気を使わせてすまないね、と代わりにデビッドが頭を下げた。昔もそうだった。いつもこんな風に、頼まれもしないのにデビッドがラルフの代わりに頭を下げて、それでいつもなんとなく上手く行っていたのだ。
「男二人の思い出話なんて、聞いていて面白いもんでもないだろうし、せっかくのご好意だ。甘えさせてもらうよミス・レオナ。御礼にテイクアウトでミックスジュースでも奢らせてくれ。ここのは絶品なんだ」
「ありがとう、ミスター・デビッド」
レオナは儀礼的に感謝の言葉を口にし、握手を求められた手を、これも儀礼的に握り返す。
「それじゃあラルフ、三十分後に」
あっさりと初対面の挨拶を終わらせると、レオナは先程その前を通り過ぎたばかりのベンチに向かった。それを見送りながら、ラルフは彼女に出会ってもう何度目になるかわからない溜息を吐く。
「愛想なしですまんな、いつもあれで困るんだ」
「わかってる。噂のレベルだが、話はいろいろ届いてるんでな。それじゃ、俺たちも行くか」
「理解ある旧友に感謝するよ」
そういう流れがあったせいか、カフェテリアに移動してからも、二人の話題の中心は昔の思い出ではなく、レオナのことが中心になった。
「何がこう、危なっかしいってよ。あいつ、あるところでは異常に大人なんだが、そうでないところは年齢よりずっと餓鬼臭いんだよな。バランスが取れてなくて、いつひっくり返るかわからねえ」
「そりゃお前だって同じじゃねえか。来年四十とは思えないぞ、お前も」
「混ぜっ返すなよ。そりゃ赤の他人ならいつひっくり返られてもかまわねえけどよ、同じチームなんだ。任務中になんかあったらこっちの命がやべえんだぞ」
ラルフは首を振りながら、新しい煙草を咥えた。今度は忘れないうちに火を点ける。
「あいつにゃ経験ってもんが足りねえんだ。まだ若いせいもあるけどよ」
「経験って、実戦のか?」
「それもあるけどよ。例えば、あいつ余所の水の味を知らねえんだ。教官の純粋培養だから」
「ああ、なるほど」
これだけで言いたいことが伝わると言うのが、長い付き合いのいいところだ、とラルフは思う。長い説明なしでも意思の疎通ができるというのはありがたい。
幼い頃からハイデルンの指導を受けていたレオナは、戦闘能力に限って言えば、ラルフやクラークに引けを取らない。しかし、経験と言う点では話が別だ。
どんなに厳しい訓練を積んでも、実戦でしか養えない、ある種の直感のようなものがある。それがいざという時、生死を分けることも少なくない。だが、それはおいおい身に付いていくだろうし、実際レオナはそうなりつつあった。まだ二年程度の実戦参加にしてはたいしたものだ。
それよりもラルフが気にしているのは、レオナがハイデルンの部隊しか知らないということだった。
例えばラルフにしろクラークにしろ、ハイデルンの元に落ち着く以前は各国の外人部隊や傭兵部隊を渡り歩いた時期がある。部隊の他の傭兵達も、その期間や数に違いはあれど、皆似たような過去を持っているはずだ。
レオナにはそれがない。余所の部隊の気質や癖というものがわからない。
傭兵はどんな国のどんな部隊とも、すぐに馴染めなければ仕事にならない。そういう時、過去に所属した部隊での経験が役に立つ。この部隊はあそこと似た癖がある。それならこういうフォローが必要だ。経験があれば、すぐにそんな風に考えることができる。それが今のレオナにはできない。
「うちの部隊にいれば、嫌でもあっちこっち引きずり回されるからよ、いずれは覚えると思うんだがな。でも、早く覚えることに越したことはないだろ? だからなるべく連れ回してるんだ」
「今日ここに連れてきたのも、言わば社会見学って訳か。若くて美人な部下を見せびらかしたいわけじゃないんだな」
「そういう気持ちが全くないって言ったら嘘になるけどな」
こんなこと、お前が相手から言うんだぞと付け加えてラルフは笑った。ついでに言うと、相手が1mm鼻の下でも伸ばしてくれれば、その分交渉が有利になるという打算もなくはない。無表情でも仏頂面でも、美少女が同じ部屋にいるだけで、気が緩む男は多いのだ。
「いやしかし、冗談抜きで俺はお前が羨ましいよ。美人だなんだはまた別として、素直そうでいい子じゃないか」
「どうしようもないファザコンだったり、時々暴走したりするんだぞ?」
「若いうちは誰だって暴走するだろ。俺だってお前だってそうだった」
ラルフの言う暴走が、言葉通り以上の代物で、若気の至りというには多分に危険すぎるということをデビッドは知らない。知らないゆえに彼は笑い、だからラルフもそれに合わせて笑うしかない。だが、デビッドの笑いは見る間に曇った。
「うちの連中の暴走ったらひどいぞ。ここ何年かの新人の中じゃ最悪だ」
「お前、新人の担当やってるのか?」
「五年前からな」
「そりゃ大変だ。それで禿げたか」
「だから頭のことは言うなよ」
本当にどうしようもない連中なんだよ、と今度はデビッドが溜息を吐く。
「スラムでギャングまがいのことやってた連中でも、あれよりはだいぶマシだった」
「そんなにか」
「訓練の成績はいいんだ。表面上は規律も守ってる。ただ、どうにも性根が悪くてな。なまじ成績がいい分、天狗になってる部分もあるし」
それだけ聞けばよくある話なのだが、当事者のデビッドにしてみれば相当な心労だろう。語る声にも表情にも苦悩が滲み出ている。
「あの伸びきっちまった鼻をとっととへし折ってやらないと、きっと戦場でどうしようもないことになる。それが自分たちだけの問題で済むならいいが、任務中なら他人も巻き込みかねん」
「結局、どこも悩みは同じか」
「だからさ、お前のところはまだ、素直な子でいいじゃないかと言ってるんだよ」
「なるほどなあ」
自分が新兵だったころの担当教官の、いつも苦虫を噛み潰したような顔を思い出して、ラルフは心底旧友に同情した。自分も相当ひどいものだったが、どうもデビッドが相手をしているのはそれと同等か、もしかすると上回るような問題児なのだろう。それに比べたら、多少偏食で愛想がなくて、その上極度のファザコンで暴走癖があるとしても、レオナは決して悪い方ではない。
「そんな連中に愛想を尽かさずに、心配して面倒見てやってるあたり、お前もつくづく馬鹿だなあ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
冷め始めたコーヒーを啜って、デビッドはそう答えた。
そうして結局、思い出話はほとんどないまま、愚痴を言い合うだけで三十分という短い時間は過ぎてしまう。中間管理職の悲哀というものは、こういうところにあるのかもしれない。
もう時間だと席を立って、二人はカフェテリアを出た。
「すまん、俺はこの後ちょっと、西ブロックの方で用事があってな。お前の見送りをすると遠回りだ。ここで挨拶させてくれ。レオナ嬢にもよろしくな」
「おお、それじゃ」
テイクアウトのミックスジュースの紙コップを受け取って、ラルフはデビッドに手を振った。
また、とか今度、という約束はしない。それが無意味なことであると、二人とも知っている。もし次に会うとしても、それは戦場で相手の死体を確認する時かもしれないし、それならまだしも、敵兵を狙って覗いたスコープ越しになるかもしれない。むしろ、再会などない方がいいかもしれないのだ。
だから二人は、そのまま左右に別れた。デビットは西ブロックへ続く通路へ、ラルフは元来た通路へ。
先のことはともかく、旧友に会えたというのは嬉しいものだ。カフェテリアのコーヒーは記憶のままの味で、旧友は相変わらず愉快でいいやつで、ラルフはあとちょっとで鼻歌も出る、というぐらいに気分が良かった。少なくとも、その声が聞こえるまでは。
若い男の声だ。何を言っているかまではわからないが、何か嫌な調子の喋り方をしている。やがて、その声の一語一句までも聞き取れる位置まで近付いた時、ラルフはレオナを置いて行ったことを心の底から後悔した。
聞くに堪えない罵詈雑言だった。
「大事な父上の保身の為とは言え、二十一も年上の男にあてがわれるとは苦労するなあ?」
「仕方ねえさ、昔からお姫様の仕事は政略結婚と決まってる」
違いねえ、と笑う声を聞く前に拳を固めた。
お姫様と言うのはレオナのことだろう。その父上と言うならハイデルンに違いないし、二十一も年上の男、これは状況から考えて自分のことでしかありえない。
レオナはどうにも、顔が売れ過ぎた節がある。歴戦の勇者ばかりのKOFを初陣とした少女傭兵。伝説の傭兵達に並んだ若き雌獅子。隻眼の傭兵隊長の養女にして秘蔵の懐刀。しかもちょっと陰のある、なかなかの美形。
身の程を知らない若い兵士たちなら、ちょっとからかってみたい、怒り顔を見てみたい、あるいは泣かせてみたいと思う、そんな存在なのだろう。
こりゃデビッドも苦労するな、と思うのと、こいつらにはキツ目のお仕置きが必要だな、と思うのが同時だった。余所の兵士を殴り飛ばせばどういう問題になるか、それはラルフもわかっている。しかし、一発食らわせてやらなければ気が済まなかった。
歩調を速める。もうひとつ角を曲がったところに、レオナの待っているベンチがある。連中にはとりあえず一発ずつぶち込んで、怒鳴るのはそれからでいい。うちの部隊に喧嘩売ったらどうなるか、それを思い知らせてやる。
爆発寸前まで加熱した思考は、角の向こうから突然現れたレオナに遮られた。
おそらく、レオナを囲んで暴言を浴びせかけていた男たちの間を、彼らが引きとめる間もなくするりと抜けてやって来たのだろう。それぐらいのことは、レオナなら簡単にやってのける。
虚を突かれて紙コップを取り落としそうになるラルフの腕を掴み、レオナは足早に、ラルフが元来た方向へと向かった。半ば引きずられる形になって、ラルフは抗議の声を上げる。
「お、おい、こら待てレオナ! お前このままでいいのかよ! あんなこと言われて黙ってるつもりか?」
「ここで問題を起こすと後が大変だもの。大丈夫、慣れてるわ」
「大丈夫、っておい」
「いつものことだから」
「いつものこと、って――まさかお前、しょっちゅうあんなこと言われてるのかよ?」
「……どこから聞こえてたの?」
「二十一も年上の、って辺りから」
「あなたが引き合いに出されるたのはそこだけよ。だから気にしないで」
「待て、ちょっと待て。とにかく止まれ!」
掴まれた腕を強引に振り解いて、ラルフはレオナの正面に回る。
聞き逃せない単語がいくつかあった。慣れてる、いつものこと、気にしないで。そんなことを言われて、黙っていられる性分ではない。
「聞いちまった以上、気にするなってのはもう無理だ。説明しろよ」
「どうしても話さないといけない?」
「自分と部下が侮辱されたんだ。上官として状況の説明を求めてもいいんだぜ」
普段は滅多に、上官だの階級だのという権限を引き合いに出さないラルフである。それがそういう言葉を出したのを見て、レオナは沈黙を諦めた。
「あなたが引き合いに出されるようになったのは最近のことよ。その前は、亡くした娘の代わりに引き取った養女に暗殺術を教えるなんて、悪趣味な義父を持って苦労するな、とかそんなことを言われていただけ。その次に多かったのは、ハイデルンは決して裏切らない殺人兵器が欲しいから、義娘をそう仕立てたんだって指をさされた。後は、愛人を連れ歩くとなると問題になるけれど、それが義娘という名目なら何かと都合がいいだろうとか、それから」
「わかった、悪かった、もう言うな。その先は言わなくていい」
レオナに説明させたことを、ラルフは後悔していた。ちょっと考えればわかることだった。
ハイデルンは敵の多い男だ。その手で直接屠っただけでも数えきれない人間を死に追いやってきたのだし、傭兵部隊の隊長という肩書きは、時に部隊に向けられる恨みの全てを一身に引き受けることになる。命を狙われることが日常にすらなった男だ。
だが、銃やナイフを向けられているうちはいい。それならまだ、いくらでもあしらいようがある。
本当に厄介なのは、明確な形にならない敵意だ。そこまでの動機がないのか、度胸がないのか、それとも力がないのかはわからないが、そういう敵意は、ひどく陰湿なものに変わりやすい。その典型が誹謗中傷である。
子供じみた悪口と、当の本人が笑うのは簡単だ。だが、世間の見方も同じとは限らない。ただの中傷だったはずが話が一人歩きし、やがてスキャンダルとして周囲を揺さぶり、それに引き摺られるように失脚することは、決して珍しい話ではない。
レオナの存在は、そういう攻撃にはまさにお誂え向けの材料だった。隠し子と疑うこともできたし(もしそうであれば、彼の妻子が存命のうちに設けた娘ということになる!)、義娘に暗殺術を教えるという行為は表面だけ見ればいかにも非人道的だ。そしてその義娘が美しく成長したとあれば、親子の関係を別なものと邪推するのも容易い。
いったいどれだけの中傷がそうやって流されたのか、考えるのもラルフは嫌だった。
たぶん先程の若い兵士たちも、そういう噂をどこかで聞いたのだろう。そこに噂の主の片割れ、それも一見、扱い易そうな方が現れた。向こう見ずで血気だけは盛んな若い兵士が、ちょっかいを出してみようと思うのは自然な成り行きだったのかもしれなかった。
「お前、昔からそんなこと言われてずっと黙ってたのか?」
「騒ぐと面倒なことになると思ったし」
「それは否定しないけどよ」
「誰かに話したら解決するものでもないし」
「それも否定しないがな。で、教官は? まさか教官にも話してないのか?」
「言ってない」
レオナは淡々と言葉を繋ぐ。
「でもきっと、あの人は知っているわ。気付かないような人ではないから。ああいうことをしてくるのはたいてい外部の人間だから、気付かないふりをしているだけ」
なるほど、とラルフは頷いた。ハイデルンが余所の部隊に干渉すれば大きな問題になる。ラルフが短気を起こして怒鳴り込むのとは、訳と地位と責任が違うのだ。
ハイデルンがそれをしてしまえば、やれ公私混同だ、娘贔屓だと批判されるのは間違いない。ハイデルンを快く思わない者たちは、それを材料にこぞって彼を叩くだろう。それがわかっていて動くのは馬鹿のすることだ。
かといって、逆に何も行動を起こさなければ、今度は身内から批判が出かねない。義娘があんなことを言われているというのに何もしないとは何事だ、冷血だ、無情だ。そんな声が上がるのは目に見えていた。最悪の場合は部隊の士気にも関わる。義娘に対してそうならば、赤の他人の部下の窮地など気にも留めないだろう、と思われたら終わりである。司令官を疑った兵士など、前線には出せない。
何も気付かないふりをするのが、ハイデルンにとっては最善の選択肢なのだ。
「私が気にしなければ、それで済むことよ。実際、どうでもいいこただし」
「どうでもいいってことはないだろうよ。お前とお前の父親が侮辱されてるんだぞ?」
「あの人がそういう人間じゃないってことを、私はちゃんとわかってる。あなたも、中尉も、部隊の皆も。それで充分だわ」
「お前自身のことはどうなんだ」
「それこそどうでもいいことだわ。私の知らない誰かが私をどう思っていようと、構いはしない」
本当にどうでもいい、と思っているわけではないだろう。レオナは寡黙ではあるが、お人好しではない。感情の起伏は小さいとはいえ、怒る時は怒る。
どうでもいい、と思いたいだけなのだ。ハイデルンが気付かぬふりをしている以上、レオナが声を上げるわけにはいかない。レオナが声を上げてしまえば、ハイデルンも無視できなくなる。だからどうでもいいことだと、自分に言い聞かせたいだけなのだ。
「お前、ねえ」
そこまで父親に尽くすこともなかろうに、とラルフは呆れ果てる。
「今はいいぞ、今は。でもいつか、それじゃ済まないってことにお前も気付くんだ。で、気付くような時にはたいてい、手遅れなんだぞ」
「……どういうこと?」
「お前も恋でもすればわかるさ」
いきなり縁のない単語を聞かされ、レオナは途方にくれたような顔をした。
「恋」
「そう。好きな相手にゃ、それでなくても自分のいいとこしか見せたくないもんだ。それなのに根も葉もない噂話なんぞ一つまみでも信じられてみろ。ありゃ泣けるなんてもんじゃねえぞ」
まだわかりゃしねえだろうが、とラルフは付け加えた。レオナには遠い話だ。ほんのたとえ話のつもりだった。
だから、レオナの答えは少し意外だった。
「……それなら、わかるような気がする」
戸惑い顔で首を傾げたレオナを、ラルフはほとんど呆然と見た。
「それが恋というものかどうかはわからないけれど、そういうふうに思う相手なら、いなくはないわ」
「回りくどい言い回しをするね、お前。で、相手は誰よ」
「教官」
「やっぱりそれか、このファザコン娘」
負け惜しみでない。予想はできた。レオナの答えを聞いた時には確かに驚いたが、訊き返したその時には、もうその答えを予想していたのだ。
この、人との関わりを諦めきってしまったような少女にそこまで思わせる相手など他にいない。
「親兄弟は解答欄から外しとけよ。こういう時に勘定に入れる相手じゃないだろ」
「そうね、私も入れるつもりはなかったのだけれど、そんなつもりはなかったはずなんだけれど――どう思う?」
「そんなもん俺に聞かれても困る」
ラルフは憮然とした。それを訊いてしまうあたりが、レオナらしいといえばその通りなのだが。
「俺にわかるわけないだろ。お前自身以外の誰にわかるって言うんだ」
レオナはそれに頷いたが、本当はラルフにはわかっていた。伊達に少女の倍の歳を重ねているわけではない。
とんだ薮蛇だ。藪ならぬレオナを突付いて出て来たものは、もしかしたら気付かないままの方が幸せだったかもしれない、義父への淡い恋心だ。
まあ不自然なことではないけどなと思いながら、ラルフは胸ポケットから煙草のパッケージを出し、片手で器用に中身を取り出して咥えた。
子供というのは一時期、異性の親に擬似的な恋愛感情を抱くものだ。それは誰でも通る成長過程で、不自然なものではないし、やがて子供はそれを卒業して一人立ちしていく。
だがレオナの場合は、擬似的な、通過儀礼的な恋心では済まないだろう。
二人は血の繋がらない親子で、しかもレオナにとってハイデルンは、単に義父というものを超えた存在だ。長い熱病になるだろうな、とラルフは思った。
そう、恋というのは熱病のようなものだ。その時は命懸けとさえ思っても、一時の熱が冷めてしまえば嘘のように忘れてしまう。
だが、熱も上がり過ぎれば脳を冒す。場合によっては命に関わる。その上、熱病というものは伝染すると、相場が決まっているのだ。
レオナの熱病は、ハイデルンをも冒すだろう。なぜかラルフは、確信めいてそう思っていた。
あの悲劇からそういうものに背を向け続けているハイデルンに、義娘の熱病が伝染した時、それはどういう結末に向かうのか。何事もなく冷めるか、またはその熱と共存する方法を見付けられるのか。
今はこれ以上考えたくなかった。考えたところでどうにもならない。ラルフがまあ、あれだ、と話を切り替えたのはそういう理由だ。
「とにかく、引っ叩いて来いよ、あいつらを」
「でも」
「おまえ自身が怒ってなくても、教官の分ってもんがある。いくら黙ってるって言ったって、自分の娘を侮辱されて怒らない父親はいねえぞ。少なくともあの人は、そういう親だ」
親だ、と繰り返したのは、やはり先程の会話をどこかで引き摺っているせいかもしれない。
「それでもあの人は動けねえ。お前の言うとおり、問題になるからな。けどお前がやる分には、俺が「若気の至りです、許してやってください」ってあっちこっちに頭下げて、教官がそれを黙認すりゃ済むことだ。あの人にはそれ以上の迷惑はかからねえ。思い切り引っ叩いて、教官をすっきりさせてやれ」
それでもまだ動けないレオナの背を、ラルフは更に押してやる。
「ついでに俺の分も頼まれてくれると助かるんだが。なあ、俺も腹が立ってんだ。頼まれろよ」
「それは、命令?」
「命令じゃねえな。でも、後始末はしてやるって言ってるんだ。察しろ」
「……了解」
「命令じゃねえって言ってんだろ。敬礼するなよ」
苦笑するラルフに背を向けて、レオナは再びベンチに向かって、やや足早に歩いて行く。
その背中が廊下の向こうに消えたところで、ラルフは先程から感じていた気配に向かって声を掛けた。
「つーことで、後始末の手伝い頼むわ」
「やっぱり気付いてたか」
苦笑いしながら隣に並んだデビッドより、さらに苦い顔を浮かべてラルフはそれを隠そうとしない。
「狙っただろ、お前」
「やっぱりわかるか」
若い娘だからといって気軽にちょっかいを出して、想像以上の痛い目に遭えば、どんな威勢のいい連中の天狗の鼻でも折れるだろう。それを期待してラルフを誘ったのだと、デビッドは認めた。レオナが席を外すと言い出してくれたのは好都合で、そうでなければそう頼むつもりでいたのだ。
「いつ気付いた?」
「お前が黙って見てる気配に気付いた時から。昔のお前なら、まず飛び出してきて謝って、あの連中ぶん殴ってからまた謝っただろ?」
「すまんな。今のうちに、若いお嬢さんにでも頬を張られないことには、あいつらの性根は治りそうにないんだ」
「わからなくもないけどよ」
「すまんな」
言葉少なに、デビッドはもう一度謝った。
「軟派な火遊びで済むかと思ったんだが、ああいう暴言を吐くとは思わなかった。どこであんなネタ仕入れたんだか……あの子には辛い想いをさせた。本当にすまない」
「うちの教官殿にゃ敵が多いからな。どこから吹き込まれてもおかしかねえよ。ただ、ガセ掴まされるのは情報管理が甘い証拠だぞ。気を付けろ――吸うか?」
そうやってデビッドに煙草を勧めて、ラルフはやっと、自分がまた煙草に火を点けていなかったことに気が付いた。フィルターはすっかり噛み潰されて、唇の間で力なく萎れている。
「俺は引退するよ、ラルフ」
紫煙と共に吐き出されたデビッドの声は、先程よりも更に疲れを色濃くしていた。
「いくらどうしようもない新人だからって、他人を利用してどうにかしようなんて考える時点で、もう駄目だったんだな俺は。この後始末が終わったら軍を辞めて、田舎に帰るさ」
「ああ、それがいい」
萎れた煙草の隙間から漏れたラルフの声も、デビッドに負けず疲れていた。
「さて、そろそろ迎えに行ってやるか。あいつ、喧嘩慣れしてないから引っ込みどころってもんがわからねえだろうしな」
ああそうだ、今日はいろいろなことがありすぎて疲れた。早くレオナを連れて帰ろう。そればかりがラルフの頭の中を回り始める。
「まだ静かじゃないか。終わってないんじゃないか?」
「あいつのは生粋の隊長仕込みだ。俺なんかの亜流とは訳が違う。あんな若造相手に音なんか立てるかよ」
「そうか、それじゃあ早く行ってやらないとな」
「でもあれだ。その前に一発殴らせろ」
その唐突で乱暴な物言いに、旧友はただ、横顔を伏せて笑った。笑うよりない、という顔をしていた。
「ああ、お前を誘った時から覚悟はできてる」
やっぱり付き合いの長い奴はいい。ラルフは心からそう思う。長々と理由を説明する必要がない。最低限の言葉でちゃんと伝わる。
「馬鹿だね、お前も大概」
「お前にゃ負けるさ」
程なくして、拳が肉を打つ鈍い音がし、続いてまだ長い煙草が床に落ちた。それを爪先で踏み消しながら、もう二度とこの旧友に会うことはないだろうととラルフは思っていた。
手の中では紙コップが汗をかいて、掌をじっとりと濡らしている。
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