銃口を向けられたから撃ち返してみれば、相手はまだほんの子供だった。どういうわけか、その日はそんなことが三度も続いた。子供が戦場にいるのは珍しいことではないし、やり合うこともにも慣れてはいるが、決して気分のいいものではない。わずかばかりの食事と、とりあえずは雨風が防げる程度の寝ぐらという、とても割に合わない報酬のために戦って、十二やそこらの命を失う子供。それを手にかけて何とも思わないほど、ラルフは枯れてはいなかった。かといって、判断を迷えば自分が死ぬ。それでいいと思えるほど、お人良しでもなかった。
だからアフリカは嫌いなんだ、とラルフは思う。人買いの習慣が色濃く残る土地だ。どこに行っても、親に売られたり、どこからか攫われてきた子供が戦場を支えている。仕事先をより好みできるほど偉くなったつもりはないが、できれば避けて通りたい場所ではあった。
そんな風に思っていたからか、久しぶりに夢を見た。夢というよりむしろ幻覚だ。昔良く見た悪い夢だ。
親もなくて家もなくて、金も食い物ももちろんなくて、暖かい毛布なんざ知らないから憧れたこともなくて、ただこれを使ってこういうことをすればその日の飯にありつけるということだけ知っていて、毎日銃を持って人を殺した。悪い夢だ。しかもただの夢ではなくて、昔の記憶が夢になってやってくるのだから性質が悪い。
そんな日々を送っていた頃からかれこれ三十年近くも過ぎて、悲鳴を上げて飛び起きることこそなくなったが、今でも嫌な汗をたっぷりかいて、真夜中に目を覚ますことはある。
テントの中、簡易寝台の上で身を起こすと、汗を吸って嫌な手触りになった毛布が床に落ちた。横を見れば、十年来の相棒が静かな寝息を立てている。良く寝てやがるな畜生め、と思いながら、その眠りを妨げないように息を殺してテントを出た。
明日にはもう少し前線に近付く。そうしたらもう、テントも張れないし寝台も置けない。それどころかまともに寝る余裕があるかどうかもわからないのだから、今夜ぐらいは良く寝ておきたかったのになと頭を掻く。だが、すぐに寝台に戻る気にはなれない。悪い夢が寝台を離れていくまで、自分も少し離れていたい。
昼間のアレのせいかな、と煙草に火を点けながら考える。無造作に煙草を吸えるのも今の内だけだ。前線では火や煙を敵に気付かれるのを恐れて、煙草一本吸うにも気を使う。そんな状況で吸う煙草は旨くない。かと言って、滅入った気持ちのまま咥えた煙草もさして旨いわけではない。
ああいう子供を、憐れみたいわけでも、救いたいわけでもない。そんなことを考えていたら、銃を向けられても撃ち返せなくなる。いや、一瞬でも迷えばその間に自分が撃ち殺される。
それでも心のどこかに、何かわだかまるものがあって、それが悪夢になって寝台にやってくる。過去の自分を、悪夢の中に残る自分の亡霊を何度も何度も撃ち殺す、そんな気がして滅入ってくる。
夜に忍んでやって来るのなんて女だけで結構なのに、と忍び笑いを漏らしたところだった。
「……ラルフ?」
別のテントで寝ていたはずの恋人の姿に少し慌てたのは、その気配に気付かなかったせいではない。ここは戦場だ。最前線でなくても戦場だ。眠っていても油断なく周りの気配を伺っていて、何かあればすぐ飛び起きる。基地で過ごす訓練以外の大半はデスクに突っ伏して惰眠を貪っていようと、戦場に戻るとそういう風に意識が切り替わる。だから、敵ではない誰かが近付いてきているということぐらい、ちゃんとわかっていた。
それなのに驚いたのは、「忍んで来る女」の数にこの歳若い恋人を含めていなかったせいかもしれない。単に、レオナにはそういうことを期待していないだけなのだが。
「何やってんだお前。今日ぐらいはちゃんと寝とけよ。明日はテントはもう無理だぞ。良くて地べたに寝袋だ」
「それはあなたも同じよ」
「まあ、そうなんだけどよ」
座り込んで煙草の煙を吐き出すラルフの隣にレオナも座る。地面は堅く、夜気で冷えていて座り心地がいいとは言えない。当然寝心地だって悪い。そういう場所で敵の気配に気を配りつつ、それでも難なく眠れるようになったのはいつの頃だったろう。そして、すでにそれができるようになっているレオナを、ラルフは少し複雑な気持ちで見る。
憐れみたいわけではない。救いたいわけではない。きっかけはどうあれ、レオナは自分の意思でこの世界に残ることを選んだのだ。ラルフも同じだ。いつでも出て行くことができたはずなのに、どういうわけかずっと戦場に居残っている。
「眠れないのか、お前も」
「あなたも?」
「さっきちょっと、夢見が悪くて目が覚めた」
「私も」
「どんな夢を見た」
「私の知らない私の夢」
「なんだそりゃ」
ラルフは二本目の煙草に火を点ける。レオナは手持ち無沙汰を、髪を一房弄んで誤魔化す。
「それが私であることは確かなの。戦場にいて、銃を持って戦って、疲れると適当な木の陰を探すか浅い穴を掘ってそこで寝て、空腹になると装備から糧食を出して食べて。それは今と変わらないのだけれど」
でも、とレオナは言った。
「でも、一人なの。誰もいなかったわ。チームの皆も、クラークも、義父も、あなたも。今日のあの子達みたいに、一人だった」
なんだ、二人して似たような夢見てたのかよと笑おうとして、ラルフは上手く笑えなかった。
言い得て妙だ。私の知らない私の夢。確かにそれは、いつラルフやレオナの人生に置き換わってもおかしくはなかった。実際にラルフにはそうやって生きた時期があって、たまたまそこから抜け出す機会があっただけだ。レオナも同じだ。あの教官を義父に持ったお陰で、レオナは自分の人生を選択する自由を得た。それがなければ、レオナはおそらく、あの呪われた血の一族の一人として生き、戦う以外の道を知らなかっただろう。
今も戦っていることには変わりはない。だがいくつかの偶然が、二人に戦うことを止める自由をもたらした。それがどれほどの幸運であるか、ラルフもレオナもわかっている。だから笑えなかった。
「私と彼らと、何が違うというのかしら」
レオナがぽつりと漏らす。その声の重さに、ラルフはあの夏の終わりを思い出す。レオナが自ら命を絶とうとした、あの時の声に似ていた。
「私に、彼らを殺してまで生きる資格はあるのかしら」
自分達はきっと、あの子供たちよりほんの少しだけ運が良かったのだ。それだけで運のなかった何万人かの、もう一人の自分の屍の上を歩いている。それだけの価値が自分にはあるか。その資格はあるのか。そうレオナは訊いている。
「私に彼らを殺す権利はあるのかしら」
それはそのまま、ラルフ自身がずっと抱えてきた疑問でもあった。
「誰も誰かを殺す権利なんか持っちゃいないさ」
それでもすぐにそう言えたのは年の功だ。単に年の違いならほんの倍だが、悩みを抱えた時間は十倍を超える。それなりの答えも持っていた。
「例えば、教官や俺はお前の命を救ったことがあるけどよ、だからってお前を殺していいって法はないわな。お前の命はお前のもんだ。他の誰かにどうこうする権利はねえよ」
それじゃ、とレオナが何か言いかかるのを制して、ラルフは続ける。
「俺達にあるのは、生きる権利だけさ。誰だってみんな、獣だの魚だの植物だの、他の何かの命を皿の上に載せて、フォークとナイフでとどめ刺して、そいつを食らって生きてんだ。そういう意味では、誰でも自分が生きるために誰かを殺す権利を持ってるんだな。さっき言ったのとはまるで逆になっちまうが」
詭弁かもしれない。言い訳かもしれない。
「だからお前、殺していいとは言わねえけどよ――いや、言えねえけどよ」
だが、時にはその言葉が必要なのだ。誰かの許しの言葉が。
「生きていいんだぞ。それには権利も資格も必要ねえんだ」
くぅ、とレオナが小さく喉を詰まらせる気配がした。ラルフはそっと、その肩を抱いてやる。
それがやがて抱擁に変わり、レオナの手が背中に回されて抱き返される格好になった時、ラルフはその手に自分も許されているのだと思った。
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だからアフリカは嫌いなんだ、とラルフは思う。人買いの習慣が色濃く残る土地だ。どこに行っても、親に売られたり、どこからか攫われてきた子供が戦場を支えている。仕事先をより好みできるほど偉くなったつもりはないが、できれば避けて通りたい場所ではあった。
そんな風に思っていたからか、久しぶりに夢を見た。夢というよりむしろ幻覚だ。昔良く見た悪い夢だ。
親もなくて家もなくて、金も食い物ももちろんなくて、暖かい毛布なんざ知らないから憧れたこともなくて、ただこれを使ってこういうことをすればその日の飯にありつけるということだけ知っていて、毎日銃を持って人を殺した。悪い夢だ。しかもただの夢ではなくて、昔の記憶が夢になってやってくるのだから性質が悪い。
そんな日々を送っていた頃からかれこれ三十年近くも過ぎて、悲鳴を上げて飛び起きることこそなくなったが、今でも嫌な汗をたっぷりかいて、真夜中に目を覚ますことはある。
テントの中、簡易寝台の上で身を起こすと、汗を吸って嫌な手触りになった毛布が床に落ちた。横を見れば、十年来の相棒が静かな寝息を立てている。良く寝てやがるな畜生め、と思いながら、その眠りを妨げないように息を殺してテントを出た。
明日にはもう少し前線に近付く。そうしたらもう、テントも張れないし寝台も置けない。それどころかまともに寝る余裕があるかどうかもわからないのだから、今夜ぐらいは良く寝ておきたかったのになと頭を掻く。だが、すぐに寝台に戻る気にはなれない。悪い夢が寝台を離れていくまで、自分も少し離れていたい。
昼間のアレのせいかな、と煙草に火を点けながら考える。無造作に煙草を吸えるのも今の内だけだ。前線では火や煙を敵に気付かれるのを恐れて、煙草一本吸うにも気を使う。そんな状況で吸う煙草は旨くない。かと言って、滅入った気持ちのまま咥えた煙草もさして旨いわけではない。
ああいう子供を、憐れみたいわけでも、救いたいわけでもない。そんなことを考えていたら、銃を向けられても撃ち返せなくなる。いや、一瞬でも迷えばその間に自分が撃ち殺される。
それでも心のどこかに、何かわだかまるものがあって、それが悪夢になって寝台にやってくる。過去の自分を、悪夢の中に残る自分の亡霊を何度も何度も撃ち殺す、そんな気がして滅入ってくる。
夜に忍んでやって来るのなんて女だけで結構なのに、と忍び笑いを漏らしたところだった。
「……ラルフ?」
別のテントで寝ていたはずの恋人の姿に少し慌てたのは、その気配に気付かなかったせいではない。ここは戦場だ。最前線でなくても戦場だ。眠っていても油断なく周りの気配を伺っていて、何かあればすぐ飛び起きる。基地で過ごす訓練以外の大半はデスクに突っ伏して惰眠を貪っていようと、戦場に戻るとそういう風に意識が切り替わる。だから、敵ではない誰かが近付いてきているということぐらい、ちゃんとわかっていた。
それなのに驚いたのは、「忍んで来る女」の数にこの歳若い恋人を含めていなかったせいかもしれない。単に、レオナにはそういうことを期待していないだけなのだが。
「何やってんだお前。今日ぐらいはちゃんと寝とけよ。明日はテントはもう無理だぞ。良くて地べたに寝袋だ」
「それはあなたも同じよ」
「まあ、そうなんだけどよ」
座り込んで煙草の煙を吐き出すラルフの隣にレオナも座る。地面は堅く、夜気で冷えていて座り心地がいいとは言えない。当然寝心地だって悪い。そういう場所で敵の気配に気を配りつつ、それでも難なく眠れるようになったのはいつの頃だったろう。そして、すでにそれができるようになっているレオナを、ラルフは少し複雑な気持ちで見る。
憐れみたいわけではない。救いたいわけではない。きっかけはどうあれ、レオナは自分の意思でこの世界に残ることを選んだのだ。ラルフも同じだ。いつでも出て行くことができたはずなのに、どういうわけかずっと戦場に居残っている。
「眠れないのか、お前も」
「あなたも?」
「さっきちょっと、夢見が悪くて目が覚めた」
「私も」
「どんな夢を見た」
「私の知らない私の夢」
「なんだそりゃ」
ラルフは二本目の煙草に火を点ける。レオナは手持ち無沙汰を、髪を一房弄んで誤魔化す。
「それが私であることは確かなの。戦場にいて、銃を持って戦って、疲れると適当な木の陰を探すか浅い穴を掘ってそこで寝て、空腹になると装備から糧食を出して食べて。それは今と変わらないのだけれど」
でも、とレオナは言った。
「でも、一人なの。誰もいなかったわ。チームの皆も、クラークも、義父も、あなたも。今日のあの子達みたいに、一人だった」
なんだ、二人して似たような夢見てたのかよと笑おうとして、ラルフは上手く笑えなかった。
言い得て妙だ。私の知らない私の夢。確かにそれは、いつラルフやレオナの人生に置き換わってもおかしくはなかった。実際にラルフにはそうやって生きた時期があって、たまたまそこから抜け出す機会があっただけだ。レオナも同じだ。あの教官を義父に持ったお陰で、レオナは自分の人生を選択する自由を得た。それがなければ、レオナはおそらく、あの呪われた血の一族の一人として生き、戦う以外の道を知らなかっただろう。
今も戦っていることには変わりはない。だがいくつかの偶然が、二人に戦うことを止める自由をもたらした。それがどれほどの幸運であるか、ラルフもレオナもわかっている。だから笑えなかった。
「私と彼らと、何が違うというのかしら」
レオナがぽつりと漏らす。その声の重さに、ラルフはあの夏の終わりを思い出す。レオナが自ら命を絶とうとした、あの時の声に似ていた。
「私に、彼らを殺してまで生きる資格はあるのかしら」
自分達はきっと、あの子供たちよりほんの少しだけ運が良かったのだ。それだけで運のなかった何万人かの、もう一人の自分の屍の上を歩いている。それだけの価値が自分にはあるか。その資格はあるのか。そうレオナは訊いている。
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それでもすぐにそう言えたのは年の功だ。単に年の違いならほんの倍だが、悩みを抱えた時間は十倍を超える。それなりの答えも持っていた。
「例えば、教官や俺はお前の命を救ったことがあるけどよ、だからってお前を殺していいって法はないわな。お前の命はお前のもんだ。他の誰かにどうこうする権利はねえよ」
それじゃ、とレオナが何か言いかかるのを制して、ラルフは続ける。
「俺達にあるのは、生きる権利だけさ。誰だってみんな、獣だの魚だの植物だの、他の何かの命を皿の上に載せて、フォークとナイフでとどめ刺して、そいつを食らって生きてんだ。そういう意味では、誰でも自分が生きるために誰かを殺す権利を持ってるんだな。さっき言ったのとはまるで逆になっちまうが」
詭弁かもしれない。言い訳かもしれない。
「だからお前、殺していいとは言わねえけどよ――いや、言えねえけどよ」
だが、時にはその言葉が必要なのだ。誰かの許しの言葉が。
「生きていいんだぞ。それには権利も資格も必要ねえんだ」
くぅ、とレオナが小さく喉を詰まらせる気配がした。ラルフはそっと、その肩を抱いてやる。
それがやがて抱擁に変わり、レオナの手が背中に回されて抱き返される格好になった時、ラルフはその手に自分も許されているのだと思った。
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夜の街の人波には、様々な人間が漂っている。家路を急ぐ勤め人、友人達と飲み歩く若者、酔っ払いの財布を狙うスリ、暗がりには麻薬の密売人。それから、手を繋いで歩く恋人たち。
それは、傍目にも似合いのカップルだった。赤い髪の男は背が高く、体を鍛えているらしく筋肉が盛り上がった肩が広い。さぞや頼りがいのある恋人だろう。
女の方も、男と吊り合う長身である。赤の強いピンクのサマードレスが、金髪と長い脚に良く似合った。顔立ちはややきついが造作が整っていて、割と美人の部類と言える。
ふと、女が歩みを止めて、男の麻のジャケットの袖を引っ張った。反対の手で指差した先は、屋台のアイスクリーム売りだ。いいよ、買っておいで。そんな会話があったのか、女は男をその場において、華奢なサンダルの足元も軽やかに駆けていく。
「お、アイス買ってますよ。しかもダブル」
その様子を、近くのビルの屋上から双眼鏡で見ていた男達がいた。
「フレーバーは?」
「チョコミントとメロンでしょうかね、二段ともグリーンですよ」
デートの出歯亀にしては、物騒な集団だった。高倍率の双眼鏡と黒尽くめはともかく、完全武装である。ハンドガンやらナイフやら、ショットガンや手榴弾まで装備した出歯亀がどこの世界にいる。
「いや、あいつはどっちかというとフローズンヨーグルト派だからな。チョコミントじゃなくて、ジャパニーズグリーンティ入りのフローズンヨーグルトとかじゃねえか?」
「そんな小洒落たものが、屋台のアイス屋にありますかね」
「賭けるか?」
「いいですよ。何ドルにします?」
「俺、大佐が負ける方に10ドル」
「俺もそっち。しかし、いいなあ」
物騒すぎる出歯亀の一人がついに、堪りかねたような声を上げた。途端に同意するかのような溜息があちこちでこぼれる。
「馬鹿、言うなよ。みんな空しいんだから」
「そうだそうだ、俺だってこんなところに詰めてないで女の子とアイス舐めたいよ」
そんなことを言われているとは露知らず、いやもしかしたら予想の範疇かもしれないが、赤毛と金髪の恋人同士――クラークとレオナは、アイスを片手にまた歩き出す。
そう呼ぶにはお粗末なほどの、ごく簡単な変装だ。クラークがトレードマークの帽子とサングラスを取って額の傷跡をパテで埋め、レオナがちょっと化粧をして、らしくない格好をすれば、それだけでもうまるで他人に見える。ついでに髪の色まで変えてしまったら、いくらKOFを熱心にTV観戦していた者でも、なかなかあの二人だとは気付かない。
人間の思い込みとは恐ろしいものである。だからこそ、ラルフもクラークも、あえてトレードマークになるようなものを身に着けてKOFに臨んでいるのだが。
「あー、レオナちゃんからアイス分けてもらってるぜ、中尉ってば」
「レオナちゃんとデート、しかもアイスクリーム付きかよ! 畜生!!」
ほとんど悲鳴に近い声を、ラルフはうんざりした顔で聞いていた。
クラークとレオナの変装は、別にこの出歯亀――もとい、同じチームの仲間達の目を欺くためのものではない。任務のための変装である。
時と場合にもよるが、男女のペアは街中での尾行に向いている。女の気まぐれに付き合っているふりを装えば、突然止まっても進行方向を変えてもおかしくないし、歩みが遅くても早くてもそれなりに自然だ。腕を組むふりをして相手の体に触れていれば、何かあった時には言葉を発せずにサインを送ることもできる。それにターゲットが女性にしか入れない場所、男性にしか入れない場所に向かったとしても、一旦別れて都合のいい方が追えばいいのだ。だから、情報局には女性の工作員が多数配属されている。
しかし、通常の部隊にはまだ女性は少ないし、情報局の手を借りるには荒過ぎる仕事もやってくる。そういう時はなんとか自前でペアを用意するのだが、その役に立ちそうなのは、ラルフのチームにはレオナしかいなかった。
当然、部隊は相手役を巡って騒然となる。レオナは色気のないチームの中では、ちょっとした「隠れアイドル」的存在だ。普段は色恋沙汰に縁も興味もなく、口説いたところで走り込みやトレーニングルームを御一緒するのが精一杯、それ以上を望めばあの教官にどんな「教育的指導」を食らうかわからない、というレオナと、擬似とはいえ公認でデートができるのだ。
だが、ペアを組む最低条件はレオナの足を引っ張らない尾行スキルを持つこと、というラルフの言葉に部隊の盛り上がりは一気に消火した。そんなスキルを持っているのは、情報局出身のクラークと、いざという時は野性的なカンと能力を発揮するラルフだけだ。なにしろ、レオナの尾行術はハイデルン仕込である。並の人間ではスキルが釣り合わない。
そして、今回はクラークにその役目が行った。レオナと街中を歩くなら、クラークの方がより馴染む。これがナイトクラブやカジノなら、ラルフの方がそれらしい雰囲気になるだろう。ラルフにしてみたら、単にそれだけのことなのである。
「いい加減にしろよ、お前ら。これから一仕事だ」
だからラルフはうんざり顔だ。
クラークはレオナなど、というより女性全般が眼中にないような男だし、ラルフに言わせれば「あんなヒヨコなんか齧ったって俺の腹の足しにゃならねえよ」となる。つまり、レオナにそういった下心を持たない二人だけが条件に合致するというのは皮肉な話ではあるが、ラルフにしてみればそれ以上でもそれ以下でもない。確かにレオナは将来有望な美少女だが、チームの連中を狂騒っぷりを見ていると、何もそこまでという気分にもなる。
「そんな話は帰投してからにしろ。信号は「オールグリーン」だったんだ。無駄口叩いてる間にターゲットが来るぞ」
二段のアイスクリームのどちらも緑。それは二人の行動を双眼鏡で確認しているはずのラルフたちに対する、レオナからの「万事問題なし」のサインだ。無線を使っての連絡を傍受されることを恐れて、今回はそんな回りくどい手を使っている。
「確認するぞ。ターゲットが建物内に入り次第、正面入り口はレオナとクラーク、それから外で待機しているB班が制圧。C班は裏口他の脱出経路を押さえる。で、俺達A班の仕事は?」
「屋上から順に階下を制圧。ターゲットの身柄を確保するついでに、いい想いをした中尉に一杯奢ってもらう」
「アイスクリームで良けりゃ俺が奢ってやるよ」
無駄口は止めろと言いながら、自分も軽口を返してラルフは双眼鏡を覗く。レンズの向こうでは、相変わらず二人が恋人の演技を続けている。ターゲットが確実にこの建物に入らないと、今回の作戦は成り立たない。その瞬間を確実に捉えるために、戦力としては大きい二人をわざわざ割いて、ターゲットを尾行させているのだ。
普段のレオナは髪と軍服の色の暗さと無表情のせいで近寄りがたい雰囲気が強いが、こうして金髪にして明るい色のドレスを着せ、演技とはいえ笑って見せれば。
「……結構グラマーだし可愛いじゃねえかよ」
ラルフは思わずそう呟いて、それからしまったと口元を押さえた。そんな言葉を聞かれたら、後でなんと笑われるかわかったものではない。幸いにも、仲間達は相変わらず軽口を叩いてはいるが、装備の最後の確認やら何やらでラルフの様子など見ていなかった。
安堵しつつ、再び双眼鏡を覗いて、ラルフはちょっと首を傾げた。目に入る光景にどことなく違和感がある。何がおかしいとははっきり言えないのだが、何かが妙なのだ。それがレオナに関することだということまではわかるのだが、そこから先がわからない。
首を傾げているうちに、クラークとレオナは最終チェックポイントの到着した。クラークがレオナの肩をぽんと叩く。これも「問題なし」の合図だ。二人の目の前で、ターゲットはラルフ達が屋上に陣取ったビルに入ったらしい。
「よっしゃ、合図出たぞ。状況開始!」
「了解!!」
「いいか、絶対に周囲の建物や一般人に気取られるなよ! それも今回の任務のうちだからな。騒いでいいなら警察に任しときゃいいんだ」
そして静かに闘争の時は過ぎ、いくらかの血と命を散らせて終わる。
それでも街は何事もなかったかのように、人波に人を漂わせているだけだ。その一角で、小さな戦争が起きたことなど意に介さないように。
「A班総員、撤収準備完了しました」
「B班も撤収準備完了」
「C班も同じく」
「了解。それじゃ各班ごとに帰投だ。今日は気持ち良く眠れるぜ?」
これで終わりとばかりに掌をぱんぱんと払う仕草をして、ラルフは満足げに笑った。作戦は気持ちいいぐらい予定通りに進み、こちらの被害はゼロ。確保した馬鹿どもは警察に引き渡した。後は基地に戻るだけだ。
「――って、ちょっと待てレオナ」
ラルフの指示で、一度は報告に集まった各班の担当者が、再び自分の班に戻っていく。その中の、藍色の髪の後姿に再びラルフは違和感を覚えて、それを呼び止めた。
振り返ったレオナは、恋人の演技が終わって、もういつもの無表情だ。髪は藍色。金髪のウィッグは外してしまったらしい。
「何かお前、さっきから妙なんだよな。ケガでもしたか? それとも腹でも痛いか?」
「いいえ、そんなことないわ。大丈夫よ」
「本当か? 慣れない靴なんか履いてて、足首捻ったとかそんなんじゃないのか?」
「大佐、そりゃ心配し過ぎってもんですよ」
口を挟んだのは、通りがかったB班の連中だ。クラークもいる。
クラークも傷口を埋めるパテを剥がし、サングラスを掛けたいつものスタイルに戻っている。髪はまだ赤いが、これはシャンプー一度で落ちるはずだ。
「レオナ、今回はちょっと凄かったですよ。殊勲賞ものです。ありゃケガ人や病人の動きじゃないですってば。あれでケガ人なら、俺らの仕事なんてなくなっちまう」
「ああ、そんな高いヒールのサンダルで、良くそれだけ動けるもんだよ。レオナお前、情報局でも充分やっていけるぞ?」
クラークにもそう言われてしまえば、ラルフはそれ以上何も言えない。
「それじゃあ何だろうなあ。本当にお前、なんでもないのか?」
そう食い下がってみるものの、「なんでもないって、言っているでしょう?」と言われてしまえばそれまでだ。
「いや、でも何か違うんだよなあ」
「……用がないなら、帰投するわ」
「んー、本人がそう言うんじゃ仕方ねえよな。それじゃ、また後でな」
「了解」
そう言って再び離れかける後姿を見て、ラルフは再び首を捻る。どうにも腑に落ちない。まさか服と靴が違うせいで引っかかっている、と言うわけでもないだろう。だが、髪の色が戻った今、普段と違うのはその二ヶ所ぐらいなものなのだ。服と靴、服と――
「待てレオナ! お前、靴脱いで見ろ、そのサンダル!!」
振り向いたレオナは、何か言いたげな顔をして、しかしすぐに諦めた風でサンダルを脱いだ。
「うわ、こりゃひどい人魚姫だわ」
ラルフの予想通りだった。スニーカーと軍靴と、良くてパンプスしか履かないレオナが、服装に合わせるためとはいえ、急にヒールの高い華奢なサンダルなど履かされたのだ。作戦準備の訓練で履き馴らしたとはいえ、尾行を始めてから数時間、すっかり痛々しい靴擦れだらけである。
「お前、この足で良く動けたなあ」
「……戦場だもの」
「そりゃ俺だって、豆の上に豆ができるぐらいの強行軍は何度もやったけどよ。こいつはひでえぞ、皮がべろべろじゃねえか」
「大丈夫よ、まだ歩けるから」
「馬鹿、無理すると治りが遅くなって余計に迷惑だってんだよ。今回は楽な仕事だったんだ、例え靴擦れだろうと、後に引くようなダメージ残すな。次の任務に障ったらどうする」
「わかったわ」
今度はレオナが溜息を吐いた。誰にも気付かせないようにしていたつもりだったのだろう。こと戦場に関することには、プライドも高いし気の強いところを見せるレオナだ。その少々間の抜けた負傷を、最後の最後で上官に気付かれてしまったのは無念かもしれない。
それをこっそり笑ってから、ラルフはレオナに背を向けてしゃがむ。
「……?」
「車まで背負っていってやるよ。本当は立ってるのも辛いんだろ?」
「大丈夫よ、歩ける」
「いいから、早いとこ乗れよ。結構この体勢、疲れるんだぞ?」
「でも」
「殊勲賞ものの働きだったんだろ? お祝いに上官殿が背負ってやるって言ってるんだ。速くしろよ」
「レオナ、こいつ言い出したら聞かないから、もう諦めろ」
上の方から降って来た声はクラークのものだ。
しばらく戸惑っていた気配があって、それからおずおずと肩に手が乗せられ、続いて体の重みが背中に預けられる。
「よいせ、っと」
足を抱えて立ち上がると、長い間ウィッグを被っていたせいか、妙な癖が付いてしまった髪が、居心地悪そうにラルフの顔の横に落ちてきた。
「あ、大佐がレオナちゃんおんぶしてる」
「いいなあ、俺も俺も」
「うるせえ、羨ましかったらクラークに背負ってもらえ」
「そっちが羨ましいんじゃないですよっ」
再び騒ぎ出す連中を無視して、レオナを背負ったラルフは歩き出す。まさかこの歳になって人に背負われるとは思わなかったのだろう。しかも車に着くまでは街中を歩かなければならない。集まる視線がさすがに恥ずかしいらしく、レオナは顔を伏せて無言だ。
「ところで、よお」
そのレオナに、ラルフは思い出したように訊いてみる。
「さっきの「オールグリーン」のアイス、フレーバーは何だったんだ?」
「……メロンと……アボカドのフローズンヨーグルト」
「うわ、そんなフレーバーあるのか。今度あの店、行ってみるかな」
「その時は、奢るわ」
「何でよ?」
「背負ってもらった、お礼」
「その時はサンダルじゃなくて、スニーカー履いて来いよ」
「そうね」
夜の街を、レオナを背負ってラルフが歩く。
車までは、あともう少しだ。二人とも、「あと少ししかない」と心のどこかで思っている自分に気付かないまま、夜が更けていく。
それは、傍目にも似合いのカップルだった。赤い髪の男は背が高く、体を鍛えているらしく筋肉が盛り上がった肩が広い。さぞや頼りがいのある恋人だろう。
女の方も、男と吊り合う長身である。赤の強いピンクのサマードレスが、金髪と長い脚に良く似合った。顔立ちはややきついが造作が整っていて、割と美人の部類と言える。
ふと、女が歩みを止めて、男の麻のジャケットの袖を引っ張った。反対の手で指差した先は、屋台のアイスクリーム売りだ。いいよ、買っておいで。そんな会話があったのか、女は男をその場において、華奢なサンダルの足元も軽やかに駆けていく。
「お、アイス買ってますよ。しかもダブル」
その様子を、近くのビルの屋上から双眼鏡で見ていた男達がいた。
「フレーバーは?」
「チョコミントとメロンでしょうかね、二段ともグリーンですよ」
デートの出歯亀にしては、物騒な集団だった。高倍率の双眼鏡と黒尽くめはともかく、完全武装である。ハンドガンやらナイフやら、ショットガンや手榴弾まで装備した出歯亀がどこの世界にいる。
「いや、あいつはどっちかというとフローズンヨーグルト派だからな。チョコミントじゃなくて、ジャパニーズグリーンティ入りのフローズンヨーグルトとかじゃねえか?」
「そんな小洒落たものが、屋台のアイス屋にありますかね」
「賭けるか?」
「いいですよ。何ドルにします?」
「俺、大佐が負ける方に10ドル」
「俺もそっち。しかし、いいなあ」
物騒すぎる出歯亀の一人がついに、堪りかねたような声を上げた。途端に同意するかのような溜息があちこちでこぼれる。
「馬鹿、言うなよ。みんな空しいんだから」
「そうだそうだ、俺だってこんなところに詰めてないで女の子とアイス舐めたいよ」
そんなことを言われているとは露知らず、いやもしかしたら予想の範疇かもしれないが、赤毛と金髪の恋人同士――クラークとレオナは、アイスを片手にまた歩き出す。
そう呼ぶにはお粗末なほどの、ごく簡単な変装だ。クラークがトレードマークの帽子とサングラスを取って額の傷跡をパテで埋め、レオナがちょっと化粧をして、らしくない格好をすれば、それだけでもうまるで他人に見える。ついでに髪の色まで変えてしまったら、いくらKOFを熱心にTV観戦していた者でも、なかなかあの二人だとは気付かない。
人間の思い込みとは恐ろしいものである。だからこそ、ラルフもクラークも、あえてトレードマークになるようなものを身に着けてKOFに臨んでいるのだが。
「あー、レオナちゃんからアイス分けてもらってるぜ、中尉ってば」
「レオナちゃんとデート、しかもアイスクリーム付きかよ! 畜生!!」
ほとんど悲鳴に近い声を、ラルフはうんざりした顔で聞いていた。
クラークとレオナの変装は、別にこの出歯亀――もとい、同じチームの仲間達の目を欺くためのものではない。任務のための変装である。
時と場合にもよるが、男女のペアは街中での尾行に向いている。女の気まぐれに付き合っているふりを装えば、突然止まっても進行方向を変えてもおかしくないし、歩みが遅くても早くてもそれなりに自然だ。腕を組むふりをして相手の体に触れていれば、何かあった時には言葉を発せずにサインを送ることもできる。それにターゲットが女性にしか入れない場所、男性にしか入れない場所に向かったとしても、一旦別れて都合のいい方が追えばいいのだ。だから、情報局には女性の工作員が多数配属されている。
しかし、通常の部隊にはまだ女性は少ないし、情報局の手を借りるには荒過ぎる仕事もやってくる。そういう時はなんとか自前でペアを用意するのだが、その役に立ちそうなのは、ラルフのチームにはレオナしかいなかった。
当然、部隊は相手役を巡って騒然となる。レオナは色気のないチームの中では、ちょっとした「隠れアイドル」的存在だ。普段は色恋沙汰に縁も興味もなく、口説いたところで走り込みやトレーニングルームを御一緒するのが精一杯、それ以上を望めばあの教官にどんな「教育的指導」を食らうかわからない、というレオナと、擬似とはいえ公認でデートができるのだ。
だが、ペアを組む最低条件はレオナの足を引っ張らない尾行スキルを持つこと、というラルフの言葉に部隊の盛り上がりは一気に消火した。そんなスキルを持っているのは、情報局出身のクラークと、いざという時は野性的なカンと能力を発揮するラルフだけだ。なにしろ、レオナの尾行術はハイデルン仕込である。並の人間ではスキルが釣り合わない。
そして、今回はクラークにその役目が行った。レオナと街中を歩くなら、クラークの方がより馴染む。これがナイトクラブやカジノなら、ラルフの方がそれらしい雰囲気になるだろう。ラルフにしてみたら、単にそれだけのことなのである。
「いい加減にしろよ、お前ら。これから一仕事だ」
だからラルフはうんざり顔だ。
クラークはレオナなど、というより女性全般が眼中にないような男だし、ラルフに言わせれば「あんなヒヨコなんか齧ったって俺の腹の足しにゃならねえよ」となる。つまり、レオナにそういった下心を持たない二人だけが条件に合致するというのは皮肉な話ではあるが、ラルフにしてみればそれ以上でもそれ以下でもない。確かにレオナは将来有望な美少女だが、チームの連中を狂騒っぷりを見ていると、何もそこまでという気分にもなる。
「そんな話は帰投してからにしろ。信号は「オールグリーン」だったんだ。無駄口叩いてる間にターゲットが来るぞ」
二段のアイスクリームのどちらも緑。それは二人の行動を双眼鏡で確認しているはずのラルフたちに対する、レオナからの「万事問題なし」のサインだ。無線を使っての連絡を傍受されることを恐れて、今回はそんな回りくどい手を使っている。
「確認するぞ。ターゲットが建物内に入り次第、正面入り口はレオナとクラーク、それから外で待機しているB班が制圧。C班は裏口他の脱出経路を押さえる。で、俺達A班の仕事は?」
「屋上から順に階下を制圧。ターゲットの身柄を確保するついでに、いい想いをした中尉に一杯奢ってもらう」
「アイスクリームで良けりゃ俺が奢ってやるよ」
無駄口は止めろと言いながら、自分も軽口を返してラルフは双眼鏡を覗く。レンズの向こうでは、相変わらず二人が恋人の演技を続けている。ターゲットが確実にこの建物に入らないと、今回の作戦は成り立たない。その瞬間を確実に捉えるために、戦力としては大きい二人をわざわざ割いて、ターゲットを尾行させているのだ。
普段のレオナは髪と軍服の色の暗さと無表情のせいで近寄りがたい雰囲気が強いが、こうして金髪にして明るい色のドレスを着せ、演技とはいえ笑って見せれば。
「……結構グラマーだし可愛いじゃねえかよ」
ラルフは思わずそう呟いて、それからしまったと口元を押さえた。そんな言葉を聞かれたら、後でなんと笑われるかわかったものではない。幸いにも、仲間達は相変わらず軽口を叩いてはいるが、装備の最後の確認やら何やらでラルフの様子など見ていなかった。
安堵しつつ、再び双眼鏡を覗いて、ラルフはちょっと首を傾げた。目に入る光景にどことなく違和感がある。何がおかしいとははっきり言えないのだが、何かが妙なのだ。それがレオナに関することだということまではわかるのだが、そこから先がわからない。
首を傾げているうちに、クラークとレオナは最終チェックポイントの到着した。クラークがレオナの肩をぽんと叩く。これも「問題なし」の合図だ。二人の目の前で、ターゲットはラルフ達が屋上に陣取ったビルに入ったらしい。
「よっしゃ、合図出たぞ。状況開始!」
「了解!!」
「いいか、絶対に周囲の建物や一般人に気取られるなよ! それも今回の任務のうちだからな。騒いでいいなら警察に任しときゃいいんだ」
そして静かに闘争の時は過ぎ、いくらかの血と命を散らせて終わる。
それでも街は何事もなかったかのように、人波に人を漂わせているだけだ。その一角で、小さな戦争が起きたことなど意に介さないように。
「A班総員、撤収準備完了しました」
「B班も撤収準備完了」
「C班も同じく」
「了解。それじゃ各班ごとに帰投だ。今日は気持ち良く眠れるぜ?」
これで終わりとばかりに掌をぱんぱんと払う仕草をして、ラルフは満足げに笑った。作戦は気持ちいいぐらい予定通りに進み、こちらの被害はゼロ。確保した馬鹿どもは警察に引き渡した。後は基地に戻るだけだ。
「――って、ちょっと待てレオナ」
ラルフの指示で、一度は報告に集まった各班の担当者が、再び自分の班に戻っていく。その中の、藍色の髪の後姿に再びラルフは違和感を覚えて、それを呼び止めた。
振り返ったレオナは、恋人の演技が終わって、もういつもの無表情だ。髪は藍色。金髪のウィッグは外してしまったらしい。
「何かお前、さっきから妙なんだよな。ケガでもしたか? それとも腹でも痛いか?」
「いいえ、そんなことないわ。大丈夫よ」
「本当か? 慣れない靴なんか履いてて、足首捻ったとかそんなんじゃないのか?」
「大佐、そりゃ心配し過ぎってもんですよ」
口を挟んだのは、通りがかったB班の連中だ。クラークもいる。
クラークも傷口を埋めるパテを剥がし、サングラスを掛けたいつものスタイルに戻っている。髪はまだ赤いが、これはシャンプー一度で落ちるはずだ。
「レオナ、今回はちょっと凄かったですよ。殊勲賞ものです。ありゃケガ人や病人の動きじゃないですってば。あれでケガ人なら、俺らの仕事なんてなくなっちまう」
「ああ、そんな高いヒールのサンダルで、良くそれだけ動けるもんだよ。レオナお前、情報局でも充分やっていけるぞ?」
クラークにもそう言われてしまえば、ラルフはそれ以上何も言えない。
「それじゃあ何だろうなあ。本当にお前、なんでもないのか?」
そう食い下がってみるものの、「なんでもないって、言っているでしょう?」と言われてしまえばそれまでだ。
「いや、でも何か違うんだよなあ」
「……用がないなら、帰投するわ」
「んー、本人がそう言うんじゃ仕方ねえよな。それじゃ、また後でな」
「了解」
そう言って再び離れかける後姿を見て、ラルフは再び首を捻る。どうにも腑に落ちない。まさか服と靴が違うせいで引っかかっている、と言うわけでもないだろう。だが、髪の色が戻った今、普段と違うのはその二ヶ所ぐらいなものなのだ。服と靴、服と――
「待てレオナ! お前、靴脱いで見ろ、そのサンダル!!」
振り向いたレオナは、何か言いたげな顔をして、しかしすぐに諦めた風でサンダルを脱いだ。
「うわ、こりゃひどい人魚姫だわ」
ラルフの予想通りだった。スニーカーと軍靴と、良くてパンプスしか履かないレオナが、服装に合わせるためとはいえ、急にヒールの高い華奢なサンダルなど履かされたのだ。作戦準備の訓練で履き馴らしたとはいえ、尾行を始めてから数時間、すっかり痛々しい靴擦れだらけである。
「お前、この足で良く動けたなあ」
「……戦場だもの」
「そりゃ俺だって、豆の上に豆ができるぐらいの強行軍は何度もやったけどよ。こいつはひでえぞ、皮がべろべろじゃねえか」
「大丈夫よ、まだ歩けるから」
「馬鹿、無理すると治りが遅くなって余計に迷惑だってんだよ。今回は楽な仕事だったんだ、例え靴擦れだろうと、後に引くようなダメージ残すな。次の任務に障ったらどうする」
「わかったわ」
今度はレオナが溜息を吐いた。誰にも気付かせないようにしていたつもりだったのだろう。こと戦場に関することには、プライドも高いし気の強いところを見せるレオナだ。その少々間の抜けた負傷を、最後の最後で上官に気付かれてしまったのは無念かもしれない。
それをこっそり笑ってから、ラルフはレオナに背を向けてしゃがむ。
「……?」
「車まで背負っていってやるよ。本当は立ってるのも辛いんだろ?」
「大丈夫よ、歩ける」
「いいから、早いとこ乗れよ。結構この体勢、疲れるんだぞ?」
「でも」
「殊勲賞ものの働きだったんだろ? お祝いに上官殿が背負ってやるって言ってるんだ。速くしろよ」
「レオナ、こいつ言い出したら聞かないから、もう諦めろ」
上の方から降って来た声はクラークのものだ。
しばらく戸惑っていた気配があって、それからおずおずと肩に手が乗せられ、続いて体の重みが背中に預けられる。
「よいせ、っと」
足を抱えて立ち上がると、長い間ウィッグを被っていたせいか、妙な癖が付いてしまった髪が、居心地悪そうにラルフの顔の横に落ちてきた。
「あ、大佐がレオナちゃんおんぶしてる」
「いいなあ、俺も俺も」
「うるせえ、羨ましかったらクラークに背負ってもらえ」
「そっちが羨ましいんじゃないですよっ」
再び騒ぎ出す連中を無視して、レオナを背負ったラルフは歩き出す。まさかこの歳になって人に背負われるとは思わなかったのだろう。しかも車に着くまでは街中を歩かなければならない。集まる視線がさすがに恥ずかしいらしく、レオナは顔を伏せて無言だ。
「ところで、よお」
そのレオナに、ラルフは思い出したように訊いてみる。
「さっきの「オールグリーン」のアイス、フレーバーは何だったんだ?」
「……メロンと……アボカドのフローズンヨーグルト」
「うわ、そんなフレーバーあるのか。今度あの店、行ってみるかな」
「その時は、奢るわ」
「何でよ?」
「背負ってもらった、お礼」
「その時はサンダルじゃなくて、スニーカー履いて来いよ」
「そうね」
夜の街を、レオナを背負ってラルフが歩く。
車までは、あともう少しだ。二人とも、「あと少ししかない」と心のどこかで思っている自分に気付かないまま、夜が更けていく。
基地の中でオートバイを見るのは、レオナにとっては珍しいことだったが、ラルフにはそうでもなかった。
少なくとも一昔前までは、軍用オートバイはかなり重宝されたものだ。伝令や隠密偵察に向いているとか、機動性が高く悪路も走れるとか、輸送しやすいとか、使い捨てにしても惜しくないコストだとか。ついでに自動車よりも運転技術を習得するのが簡単で、兵の訓練機関が短く済むということもあって、かつてはどこの戦場でもオートバイが走っていた。
だが、今は軍用オートバイの出番は減っている。センサーなどの技術の向上に伴って、地上からの隠密偵察が厳しくなっているからだ。そうなってくると偵察には飛行機を飛ばした方が早いし、地上で行うなら威力偵察の方が重視される世の中だ。さらにヘリコプターで運べる軽装甲車の登場もあって、装甲の薄いオートバイは軍隊と言うものから姿を消そうとしている。
ラルフは軍用オートバイが現役だった時代を知っている兵士の一人だ。これがクラークになると、ほんの数年の歳の差だが微妙なところになり、レオナはもちろん、その時代を知らない組に入る。
レオナが整備中のオートバイに視線を注いでいるのは、工場見学が趣味だと言うぐらい「物を作る行程」を見るのが好きだということもあるが、単純に物珍しいと言うこともあったのだ。オートバイに向かってスパナ片手に格闘しているのがラルフである、ということも理由のひとつだったが。整備班でもないラルフが、休日に機械油に塗れてバイクの整備をする理由などどこにもない。
「これ払い下げて貰ったんだよ。だから俺の私物。うちの部隊でももう少しバイク減らすんだと」
背中越しにレオナが首を傾げる気配に気付いたか、ラルフは振り返りもせずに答えた。
「こないだまで現役で整備点検されてたんだから走るにゃ問題ねえし、サイドカーと装甲外せば普通のバイクだろ。外に払い下げるつもりだったらしいんだけどよ、俺こういうの好きだから買い取った」
「……そうなの」
「もし乗りたかったら貸してやるぜ? どうせ俺の家のあたりなんかに停めといたら、一晩持たずに盗まれちまうんだ。基地の中に置いとくからさ」
「別にいいわ。運転できないもの」
ラルフはわざわざ振り返って、心底意外だという顔で青い髪の少女を見上げた。普段は逆だが、整備の為にしゃがみこんでいるラルフの方が、今は視線が低い。
「料理とか刺繍とかそういうのならともかく、お前の口から「できない」って台詞を聞くとは思わなかったぜ、おい。本当かそれ」
「嘘を吐く理由はないわ。訓練を受けてないの。それだけ」
「あー、そうか。最近は使わねえもんな」
ラルフが軍服に初めて袖を通したその頃は、オートバイの訓練はほとんど必須だった。レオナは違う。オートバイが消え始めた時代の兵士だ。無駄を好まぬ彼女の義父が、それに関する訓練をメニューから外したのは当然かもしれない。
「でも、できることなら覚えておいた方がいいぜ、これ」
「そう?」
「街中移動するのに、こいつほど都合のいい乗り物はねえぞ。一刻を争うって時は絶対にこいつだ。何しろ渋滞関係なしだからな」
それはそうかもしれない、とレオナは頷いた。並んだ車の間をすり抜けるのだから、当然スピードはそのままと言うわけには行かないが、それでも渋滞で身動き取れなくなる自動車よりは、オートバイの方が先に進める分早いだろう。自動車では入り込めない細い路地にも突っ込めるのも利点だ。
だが、逆に言えばそれだけだ。車輪がふたつしかないオートバイは、支えなしでは立っていることもできない。気を抜けば簡単に倒れる。屋根も覆いもないから、雨が降れば下着まで濡れるし、夏には容赦なく照り付ける日差しに背中が焼ける。逆に冬は凍るほど寒い。そして事故にでもなれば、乗り手は体ひとつでアスファルトに放り出されるのだ。
一刻を争う状況など、オフの時にどれだけあるというのだろう。だとしたら車で充分ではないか、とレオナなどは思う。
だが、ラルフに言わせると違うらしい。
「それに、こいつで走るとすっきりするんだよ。少なくとも、延々と拳銃撃ち続けるよりよっぽどいい」
自分のひそかなストレス解消法を揶揄されて、レオナは形のいい眉を顰めた。自分の趣味をどうこう言われるのは、レオナでも気分があまり良くない。クラークなら倍ほども濃くて厳しい文句を言い返すところだが、レオナは沈黙した。ラルフが後を続けたせいもある。
「風がな、いいんだよ」
「風?」
「こいつに乗ってると、体いっぱいに風がぶつかって来るんだよ。それが頭の中のもやもやしたものを吹き飛ばすんだ。気持ちいいぜ」
「……風なら、幌なしのジープに乗っててもぶつかってくるわ」
「それが違うんだよ」
ラルフは工具箱にスパナを戻してにやりと笑う。
「バイクってのはな、他の何とも違う乗り物なんだ。走り方そのものが違うんだよ――と言っても、口で言ってもわかりゃしねえだろ。ヘルメット持って来な、後ろに乗せてやる」
オートバイは鮮やかに車と車の間を抜け、何もかを置き去りにしていく。ラルフそのものを透かして見せるかのように、その運転は荒っぽいくせにとてつもなく正確だ。メーターはとてつもないスピードを指しているというのに、まるで不安な気がしない。
鉄の塊でしかない機械にもそういう言葉を使っていいのなら、これが気が合うということなのだろう。ラルフの気質に、この乗り物がぴたりと嵌っているのだ。考えてみれば、鋼鉄の暴れ馬の主にこれほど合った男はいない。
確かに走り方そのものが違うのだとレオナは思った。
自動車とはアクセルもブレーキも、タイミングが何もかも違う。自分はタンデムシートに座ってラルフの腰にしがみついているだけだが、それでもそれがはっきりとわかった。
オートバイにはオートバイの走り方がある。他のものと同じ走り方はできないし、他のものにはオートバイの走りはできない。
風もそうだ。オートバイに乗っていて受ける風は、他のものとはまるで違う。ジープと同じ、と言った時にラルフが笑った理由が、今ならレオナにもわかる。
風がぶつかってくるのではない。風に包まれて、同じものになるのだ。
ラルフの背に頬を押し付け、風に髪をなびかせながら、レオナは後ろに飛び去る世界を見ていた。
二人を乗せたバイクは基地に戻ってきたのは二時間後だった。
バイクを降りると、思ったより疲れていることにレオナは驚いた。独特の緊張感のせいだろう。自分で運転していたわけでもないのに体が重い。
「後でシャワーの熱いの浴びとけよ。風で冷えるし、慣れないと体が強張るからな」
数百キロもあるオートバイを自転車のように軽々と押して、ラルフはガレージの隅にバイクを停めた。チャン・コーハンあたりの体重を考えると、もしかすると担いで自室に持ち込むことだってできるのかもしれないが、流石にそこまで酔狂ではないらしい。
「で、どうだこいつは。少しはすっきりするって意味がわかっただろう?」
「……そうね。気持ちよかったわ」
「それじゃ運転覚えるか? 教えてやるぜ」
風に弄られてもつれた髪に指を通していたレオナは、しかし首を横に振った。
「任務で必要になってからでいい」
「気持ちよかったんじゃねえのかよ」
憮然としてラルフは聞き返す。子供のように口が尖るあたり、わかりやすい男だ。
確かにオートバイは、レオナにとっても気持ちよい乗り物だった。走っている間中、体を包んでいた風の感触も悪くはなかった。
「でも。これはたぶん、私のやり方とは違う」
オートバイにはオートバイの走り方があるように、レオナにはレオナに合うものがある。それがレオナにとっては射撃訓練であって、いくら心地よくてもオートバイは違うのだ。ラルフのそれが射撃訓練ではないように。
それに、と年も身長も十以上違う恋人を見上げて、レオナは付け加える。
「後ろに乗る方が、嬉しい気がする」
「甘えんな、こら」
そう言いながらラルフの顔が笑っているのを、オートバイのミラーが映していた。
少なくとも一昔前までは、軍用オートバイはかなり重宝されたものだ。伝令や隠密偵察に向いているとか、機動性が高く悪路も走れるとか、輸送しやすいとか、使い捨てにしても惜しくないコストだとか。ついでに自動車よりも運転技術を習得するのが簡単で、兵の訓練機関が短く済むということもあって、かつてはどこの戦場でもオートバイが走っていた。
だが、今は軍用オートバイの出番は減っている。センサーなどの技術の向上に伴って、地上からの隠密偵察が厳しくなっているからだ。そうなってくると偵察には飛行機を飛ばした方が早いし、地上で行うなら威力偵察の方が重視される世の中だ。さらにヘリコプターで運べる軽装甲車の登場もあって、装甲の薄いオートバイは軍隊と言うものから姿を消そうとしている。
ラルフは軍用オートバイが現役だった時代を知っている兵士の一人だ。これがクラークになると、ほんの数年の歳の差だが微妙なところになり、レオナはもちろん、その時代を知らない組に入る。
レオナが整備中のオートバイに視線を注いでいるのは、工場見学が趣味だと言うぐらい「物を作る行程」を見るのが好きだということもあるが、単純に物珍しいと言うこともあったのだ。オートバイに向かってスパナ片手に格闘しているのがラルフである、ということも理由のひとつだったが。整備班でもないラルフが、休日に機械油に塗れてバイクの整備をする理由などどこにもない。
「これ払い下げて貰ったんだよ。だから俺の私物。うちの部隊でももう少しバイク減らすんだと」
背中越しにレオナが首を傾げる気配に気付いたか、ラルフは振り返りもせずに答えた。
「こないだまで現役で整備点検されてたんだから走るにゃ問題ねえし、サイドカーと装甲外せば普通のバイクだろ。外に払い下げるつもりだったらしいんだけどよ、俺こういうの好きだから買い取った」
「……そうなの」
「もし乗りたかったら貸してやるぜ? どうせ俺の家のあたりなんかに停めといたら、一晩持たずに盗まれちまうんだ。基地の中に置いとくからさ」
「別にいいわ。運転できないもの」
ラルフはわざわざ振り返って、心底意外だという顔で青い髪の少女を見上げた。普段は逆だが、整備の為にしゃがみこんでいるラルフの方が、今は視線が低い。
「料理とか刺繍とかそういうのならともかく、お前の口から「できない」って台詞を聞くとは思わなかったぜ、おい。本当かそれ」
「嘘を吐く理由はないわ。訓練を受けてないの。それだけ」
「あー、そうか。最近は使わねえもんな」
ラルフが軍服に初めて袖を通したその頃は、オートバイの訓練はほとんど必須だった。レオナは違う。オートバイが消え始めた時代の兵士だ。無駄を好まぬ彼女の義父が、それに関する訓練をメニューから外したのは当然かもしれない。
「でも、できることなら覚えておいた方がいいぜ、これ」
「そう?」
「街中移動するのに、こいつほど都合のいい乗り物はねえぞ。一刻を争うって時は絶対にこいつだ。何しろ渋滞関係なしだからな」
それはそうかもしれない、とレオナは頷いた。並んだ車の間をすり抜けるのだから、当然スピードはそのままと言うわけには行かないが、それでも渋滞で身動き取れなくなる自動車よりは、オートバイの方が先に進める分早いだろう。自動車では入り込めない細い路地にも突っ込めるのも利点だ。
だが、逆に言えばそれだけだ。車輪がふたつしかないオートバイは、支えなしでは立っていることもできない。気を抜けば簡単に倒れる。屋根も覆いもないから、雨が降れば下着まで濡れるし、夏には容赦なく照り付ける日差しに背中が焼ける。逆に冬は凍るほど寒い。そして事故にでもなれば、乗り手は体ひとつでアスファルトに放り出されるのだ。
一刻を争う状況など、オフの時にどれだけあるというのだろう。だとしたら車で充分ではないか、とレオナなどは思う。
だが、ラルフに言わせると違うらしい。
「それに、こいつで走るとすっきりするんだよ。少なくとも、延々と拳銃撃ち続けるよりよっぽどいい」
自分のひそかなストレス解消法を揶揄されて、レオナは形のいい眉を顰めた。自分の趣味をどうこう言われるのは、レオナでも気分があまり良くない。クラークなら倍ほども濃くて厳しい文句を言い返すところだが、レオナは沈黙した。ラルフが後を続けたせいもある。
「風がな、いいんだよ」
「風?」
「こいつに乗ってると、体いっぱいに風がぶつかって来るんだよ。それが頭の中のもやもやしたものを吹き飛ばすんだ。気持ちいいぜ」
「……風なら、幌なしのジープに乗っててもぶつかってくるわ」
「それが違うんだよ」
ラルフは工具箱にスパナを戻してにやりと笑う。
「バイクってのはな、他の何とも違う乗り物なんだ。走り方そのものが違うんだよ――と言っても、口で言ってもわかりゃしねえだろ。ヘルメット持って来な、後ろに乗せてやる」
オートバイは鮮やかに車と車の間を抜け、何もかを置き去りにしていく。ラルフそのものを透かして見せるかのように、その運転は荒っぽいくせにとてつもなく正確だ。メーターはとてつもないスピードを指しているというのに、まるで不安な気がしない。
鉄の塊でしかない機械にもそういう言葉を使っていいのなら、これが気が合うということなのだろう。ラルフの気質に、この乗り物がぴたりと嵌っているのだ。考えてみれば、鋼鉄の暴れ馬の主にこれほど合った男はいない。
確かに走り方そのものが違うのだとレオナは思った。
自動車とはアクセルもブレーキも、タイミングが何もかも違う。自分はタンデムシートに座ってラルフの腰にしがみついているだけだが、それでもそれがはっきりとわかった。
オートバイにはオートバイの走り方がある。他のものと同じ走り方はできないし、他のものにはオートバイの走りはできない。
風もそうだ。オートバイに乗っていて受ける風は、他のものとはまるで違う。ジープと同じ、と言った時にラルフが笑った理由が、今ならレオナにもわかる。
風がぶつかってくるのではない。風に包まれて、同じものになるのだ。
ラルフの背に頬を押し付け、風に髪をなびかせながら、レオナは後ろに飛び去る世界を見ていた。
二人を乗せたバイクは基地に戻ってきたのは二時間後だった。
バイクを降りると、思ったより疲れていることにレオナは驚いた。独特の緊張感のせいだろう。自分で運転していたわけでもないのに体が重い。
「後でシャワーの熱いの浴びとけよ。風で冷えるし、慣れないと体が強張るからな」
数百キロもあるオートバイを自転車のように軽々と押して、ラルフはガレージの隅にバイクを停めた。チャン・コーハンあたりの体重を考えると、もしかすると担いで自室に持ち込むことだってできるのかもしれないが、流石にそこまで酔狂ではないらしい。
「で、どうだこいつは。少しはすっきりするって意味がわかっただろう?」
「……そうね。気持ちよかったわ」
「それじゃ運転覚えるか? 教えてやるぜ」
風に弄られてもつれた髪に指を通していたレオナは、しかし首を横に振った。
「任務で必要になってからでいい」
「気持ちよかったんじゃねえのかよ」
憮然としてラルフは聞き返す。子供のように口が尖るあたり、わかりやすい男だ。
確かにオートバイは、レオナにとっても気持ちよい乗り物だった。走っている間中、体を包んでいた風の感触も悪くはなかった。
「でも。これはたぶん、私のやり方とは違う」
オートバイにはオートバイの走り方があるように、レオナにはレオナに合うものがある。それがレオナにとっては射撃訓練であって、いくら心地よくてもオートバイは違うのだ。ラルフのそれが射撃訓練ではないように。
それに、と年も身長も十以上違う恋人を見上げて、レオナは付け加える。
「後ろに乗る方が、嬉しい気がする」
「甘えんな、こら」
そう言いながらラルフの顔が笑っているのを、オートバイのミラーが映していた。
突き上げる衝動。溢れる獣性。わたしは堪えきれずに吼える。
瞬間、自分の間合いに持ち込もうと二人が飛び込んで来る。わたしはそれを避けず、こちらも地面を強く蹴った。本来あるべき力を得て躍動する体は軽い。『私』が使うより数段早く動ける。
一瞬の攻防の後、お互い弾きあうように飛び退った後には斬撃の名残が一筋。獲物の胸板からは、薄皮一枚裂いて赤い切り口が覗いている。対してこちらは、髪が一房千切れ飛んだ。風に舞うそれも赤。
手には、肌を裂いた感触が残っている。窓越しに見るあやふやな景色ではなくて、確かな感触。確かな血の臭い。触れられる。いくら手を伸ばしても届かなかったものに、今なら触れられる。
わたしはもう一声吼える。これは歓喜。歓喜の声だ。
それまでのわたしにとっての世界は、小さな窓から見える四角に切り取られた風景だけだった。
わたしの部屋は狭い。そして暗く、何もない。ベッドや机はもちろん、出入り口さえない部屋だ。そういうものを部屋と呼んでいいかどうかはともかく。
そこにたったひとつ窓がある。出口もない部屋に外の世界を覗くための窓。残酷な部屋だ。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。
歓喜の声に微か、震えが混じる。あんな場所に戻りたくはない。そのためにはこの場を戦い抜いて、切り抜けなければならない。負ければまた、あの部屋だ。
相手は二人。いや、獲物が二匹。だが、狙いは片方に絞る。この二人を同時に相手にして、両方を仕留めようなどというのは甘い考えだとわたしは知っている。この二人は1+1が2にも3にもなるタイプだ。
だが、逆に言えば片方を潰せば残りにはそれほど苦労しないと言うことだ。とにかく片方を潰した方がいい、そう私は狙った。
問題はどちらを狙うかだが、それは最初から決めていた。赤いバンダナから溢れる、うねった黒髪。こちらだ。絶対にこちらだ。
本当は、別にどちらでもいい。どちらを殺したとしても、今度こそ『私』は今度こそ現実から目をそむけ、自分の殻に閉じこもるだろう。大切な人を再び自分の手にかけた。そのトラウマが『私』を押し潰す。それは同時にあの部屋の崩壊を意味し、わたしは完全に解き放たれる。
それでもわたしの狙いは決まっていた。ずっとずっと、そうすると決めていたのだ。
窓から見える風景が、割と楽しいものだったのが、せめてもの救いかもしれなかった。
この窓からは世界中の戦場が良く見える。銃声とか血の臭いとか泣き声とか誰かの死だとか、そういうものを見るのはとても楽しかった。血の赤は、窓越しのどこかあやふやな光景の中で、ただひとつ鮮やかに見えた。
もうひとつ鮮やかなものは、背中だった。名前も知らない誰かの背中。窓から見える光景の、どこにでもその背中があった。
うねる黒い髪。肩幅が広く、腕が太い。大きな手は銃を握っていることもあったし、ナイフを掴んでいることもあった。
それが容赦なく振るわれる瞬間を見るのが何よりも楽しかった。彼の作り出す死は、何よりも鮮やかで、心地良い光景だった。
でも、彼はわたしがこうして見ていることなど気付きもしない。わたしがいくら手を伸ばしても彼の背中に届くことはないし、もちろん彼がわたしをふりかえることもない。
その背中の持ち主の顔を、わたしは初めて見上げた。
いくら手を伸ばしても届かなかったその背中に、今なら触れられる。触れて、そこから引き裂いて、殺せる。
愉しかった。今まで一番。幸せというものがあるとしたら、きっとこれがそういうものだと思う。
機を捉えて、今度はこちらが一気に懐まで飛び込む。笑って見せる余裕さえあった。わたしが笑っても、獣が牙をむいたようにしか見えないだろうが。
「いい度胸だ! 捕まえてやるぞ、このじゃじゃ馬暴走娘ッ」
声を聞いたのも初めてだ。その背中に似合った、太い声だ。
飛び込んだ体ごと捕まえられる。厚い胸。わたしの倍も太い腕。戦いの均衡を崩すには充分の体格差だ。それを直に感じながら、わたしは笑う。捕まえられるのも計算のうちだ。
笑いながら、噛み付いた。
背中しか見たことがなかった。顔も名前も知らなかった。
それでもたぶん、わたしは彼のことを好きだったのだ。
だから、ずっとこうして殺してしまいたいと思っていた。
肩の肉の感触があった。実際に狙ったのは首だ。喉を噛み破るつもりでいた。それを避け得たのは戦場で研ぎ続けた直感か。
すかさず大きな手で頭を押さえ込まれる。頭を自由にしておけば、肉を噛み千切って持って行かれる。獣もそうだが、そういう時はかえって押し付けてしまった方がいい。
切れた裂かれたの傷ならば、それなりに治りもするが、肉をごっそり持っていかれるのは厄介だと判断したのだろう。
完全に動きが抑えられていた。もうこれで勝ち目はない。わたしは敗ける。抱きしめるように押さえつけられたわたしには次の攻撃は避けようもなくて、それで意識を持っていかれたら、次に目を醒ます時はまたあの部屋の中だ。
それなのに不思議と落ち着いていたのは、口の中に広がる血の味のせいだったかもしれない。
甘かった。当然だ。これは口付けなのだから。
文字通り噛み付くほどの深い口付け。血の味のする口付けは、わたしにだけは甘かった。
でもその想いは、きっと彼には届きはしない。だからほら、こうして彼はわたしのものであって私のものではない名を呼ぶのだ。
「くそっ 早く目ぇ醒ませ! 戻れよ、戻って来いよレオナあっ!!」
レオナ。それはわたしの牢獄の名前。そしてもう一人のわたしの名前。
わたし達は本来、同一のものだ。わたしとレオナの違いは、自分の中のオロチの血を受け入れたかどうか、ただそれだけ。
当然、レオナが惹かれるものにはわたしも惹かれる。パパとママも、義理の父親も、仲間たちも、レオナが大切に想うもののことは、わたしも同じように想っている。
でも、レオナがわたしをどうしても受け入れられないように、誰もがわたしを拒絶する。同じ肉体に宿った同じ魂だというのに、レオナは愛され、わたしだけが憎まれる。双子の姉妹の片方だけが、誰からも憎まれているようなものだ。
まるで聖書に記されたアベルとカイン。自分の捧げ物だけが神に顧みられなかった兄カインは、嫉妬から弟アベルを殺してしまう。人類最初の殺人だ。
けれどわたしはアベルを殺さない。そんなことをしても何の意味もないのを知っているから。
わたしが殺したいのは、わたしたちの大切な人。殺してしまえば、その相手は永遠に誰のものにもなりはしない。レオナのものにも、わたしのものにもならない。わたしを愛することもないけれど、レオナも愛さない。拒まれることもない。
わたしは神殺しのカインだ。
「クラーク、構わねえから俺ごとやっちまえ!」
「了解! 恨まないでくださいよ!!」
背後からの一撃が、わたしを抱き込んだ男ごと突き抜ける。衝撃で息が止まる。彼も同時に息を詰めるのがわかった。
その一撃を放ったのは、彼の相棒と呼ばれる男だ。味方ごとの一撃を躊躇わずに決められる。受ける方もそれを躊躇わない。
そんな二人だから、わたしは負けたのだろう。
視界が一瞬にして暗くなる。引き摺られるように倒れたのは、彼の手がそれでもわたしを離さなかったからだ。私は彼の上に重なるように倒れ込み、その隣に気力も体力も使い果たした彼の相棒がぐったりと座り込む。
それとほとんど同時に、わたしの意識は完全に途絶えた。その瞬間まで、彼の鼓動を聞いていられたのが、少し嬉しかった。
「おお、痛てててて。何気にこの噛み傷深いぞ。跡が残っちまうかもなあ。おいレオナ、お前狂犬病の予防接種は?」
この場合、狂犬病という単語は冗談にしてもセンスが悪いのではないだろうかとクラークは思った。しかもその相手があのレオナだ。冗談としてはかなり成立しにくい部類に入る。
「この間のF国での任務に合わせて済ませたわ――そんなに、深いの?」
案の定、生真面目な答えを返されてラルフは気まずい顔をする。もう一年近くの付き合いなのだ。いい加減にその加減を覚えろ。
「レオナ、お前がそんな顔する必要はないぞ。他はともかく、噛み付かれたとこからその後の傷に関しては、こいつの自業自得だ」
その苛立ちを込めて、クラークは皮肉たっぷり、ラルフの代わりに答えてやった。
「妙な格好ばかりつけてるからそうなるんだ。大体お前、その噛み傷だってやろうと思えば避けられただろう?」
ラルフの技量があれば避けられる状況だった。それを格好つけて抱き止めたりするから噛まれたんだ。そう指摘するクラークに向かって、ラルフは気まずい顔をますます渋くする。甘やかしすぎると突付かれたら言い訳のできない状況なのは、自分でもわかっているのだ。
「あー、あれなあ」
気のせいかも知れないけどな、とラルフは頭を掻く。
「なんかこう、上手く言えないけどよ。そうしなきゃいけないような、そんな顔してたんだよ、こいつが」
「こいつって、レオナが?」
「他に誰がいるよ。泣きながら懐に飛び込んでくる子供みたいでよ。避けられなかった」
「……ああ」
その言葉を聞いた瞬間の、レオナの嘆息はどこか祈るようだった。
それに短い言葉が続いたが、それは呟いた本人にも聞き取れないほど小さい。耳ざとく聞き返したラルフの方が人間離れしている。
「レオナ、お前、今何て言った?」
「いえ、何も」
おかしなことを聞く、と首を傾げた少女の頭上で、髪に結わえたばかりの赤いバンダナが揺れる。レオナには何かを言ったという自覚はない。
「おっかしいなあ。何か聞こえた気がしたんだけどなあ」
「俺も何も聞こえませんでしたよ。空耳じゃないですか。そうじゃなかったら痴呆の初期症状。幻聴ですね」
「あ、てめえ! そういうこと言うか、こら!」
痛むはずの腕を振り上げてラルフが怒鳴り、後は売り言葉に買い言葉。いつもの喧騒に紛れて日常が戻ってくる。
九十七年の夏は、そうして幕を閉じた。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。それだけがわたしの世界。
窓越しのぼやけてあやふやな光景の中、今日も血の色と、あの背中だけが鮮やかに踊っている。
彼はわたしを知らない。『レオナ』の中の牢獄に閉じ込められた、わたしの視線になど気付きもしない。もちろんわたしが彼を想っていることなど知らない。それでも。
「見つけてくれたのね」
それでも、彼はわたしを見つけた。見つけたというにはあまりにささやかな欠片でしかなくて、そのうち残った傷口を見ても思い出すことさえなくなるのだろうけれど。パパもママも、誰も見つけてくれなかったわたしを彼だけが見つけてくれた。
期待してもいいのだろうか。
彼はわたしのことも受け入れてくれるのかと。
彼を殺す以外の道を探させてくれるのかと。
見上げた小さな窓が、少し滲んで見えた。
瞬間、自分の間合いに持ち込もうと二人が飛び込んで来る。わたしはそれを避けず、こちらも地面を強く蹴った。本来あるべき力を得て躍動する体は軽い。『私』が使うより数段早く動ける。
一瞬の攻防の後、お互い弾きあうように飛び退った後には斬撃の名残が一筋。獲物の胸板からは、薄皮一枚裂いて赤い切り口が覗いている。対してこちらは、髪が一房千切れ飛んだ。風に舞うそれも赤。
手には、肌を裂いた感触が残っている。窓越しに見るあやふやな景色ではなくて、確かな感触。確かな血の臭い。触れられる。いくら手を伸ばしても届かなかったものに、今なら触れられる。
わたしはもう一声吼える。これは歓喜。歓喜の声だ。
それまでのわたしにとっての世界は、小さな窓から見える四角に切り取られた風景だけだった。
わたしの部屋は狭い。そして暗く、何もない。ベッドや机はもちろん、出入り口さえない部屋だ。そういうものを部屋と呼んでいいかどうかはともかく。
そこにたったひとつ窓がある。出口もない部屋に外の世界を覗くための窓。残酷な部屋だ。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。
歓喜の声に微か、震えが混じる。あんな場所に戻りたくはない。そのためにはこの場を戦い抜いて、切り抜けなければならない。負ければまた、あの部屋だ。
相手は二人。いや、獲物が二匹。だが、狙いは片方に絞る。この二人を同時に相手にして、両方を仕留めようなどというのは甘い考えだとわたしは知っている。この二人は1+1が2にも3にもなるタイプだ。
だが、逆に言えば片方を潰せば残りにはそれほど苦労しないと言うことだ。とにかく片方を潰した方がいい、そう私は狙った。
問題はどちらを狙うかだが、それは最初から決めていた。赤いバンダナから溢れる、うねった黒髪。こちらだ。絶対にこちらだ。
本当は、別にどちらでもいい。どちらを殺したとしても、今度こそ『私』は今度こそ現実から目をそむけ、自分の殻に閉じこもるだろう。大切な人を再び自分の手にかけた。そのトラウマが『私』を押し潰す。それは同時にあの部屋の崩壊を意味し、わたしは完全に解き放たれる。
それでもわたしの狙いは決まっていた。ずっとずっと、そうすると決めていたのだ。
窓から見える風景が、割と楽しいものだったのが、せめてもの救いかもしれなかった。
この窓からは世界中の戦場が良く見える。銃声とか血の臭いとか泣き声とか誰かの死だとか、そういうものを見るのはとても楽しかった。血の赤は、窓越しのどこかあやふやな光景の中で、ただひとつ鮮やかに見えた。
もうひとつ鮮やかなものは、背中だった。名前も知らない誰かの背中。窓から見える光景の、どこにでもその背中があった。
うねる黒い髪。肩幅が広く、腕が太い。大きな手は銃を握っていることもあったし、ナイフを掴んでいることもあった。
それが容赦なく振るわれる瞬間を見るのが何よりも楽しかった。彼の作り出す死は、何よりも鮮やかで、心地良い光景だった。
でも、彼はわたしがこうして見ていることなど気付きもしない。わたしがいくら手を伸ばしても彼の背中に届くことはないし、もちろん彼がわたしをふりかえることもない。
その背中の持ち主の顔を、わたしは初めて見上げた。
いくら手を伸ばしても届かなかったその背中に、今なら触れられる。触れて、そこから引き裂いて、殺せる。
愉しかった。今まで一番。幸せというものがあるとしたら、きっとこれがそういうものだと思う。
機を捉えて、今度はこちらが一気に懐まで飛び込む。笑って見せる余裕さえあった。わたしが笑っても、獣が牙をむいたようにしか見えないだろうが。
「いい度胸だ! 捕まえてやるぞ、このじゃじゃ馬暴走娘ッ」
声を聞いたのも初めてだ。その背中に似合った、太い声だ。
飛び込んだ体ごと捕まえられる。厚い胸。わたしの倍も太い腕。戦いの均衡を崩すには充分の体格差だ。それを直に感じながら、わたしは笑う。捕まえられるのも計算のうちだ。
笑いながら、噛み付いた。
背中しか見たことがなかった。顔も名前も知らなかった。
それでもたぶん、わたしは彼のことを好きだったのだ。
だから、ずっとこうして殺してしまいたいと思っていた。
肩の肉の感触があった。実際に狙ったのは首だ。喉を噛み破るつもりでいた。それを避け得たのは戦場で研ぎ続けた直感か。
すかさず大きな手で頭を押さえ込まれる。頭を自由にしておけば、肉を噛み千切って持って行かれる。獣もそうだが、そういう時はかえって押し付けてしまった方がいい。
切れた裂かれたの傷ならば、それなりに治りもするが、肉をごっそり持っていかれるのは厄介だと判断したのだろう。
完全に動きが抑えられていた。もうこれで勝ち目はない。わたしは敗ける。抱きしめるように押さえつけられたわたしには次の攻撃は避けようもなくて、それで意識を持っていかれたら、次に目を醒ます時はまたあの部屋の中だ。
それなのに不思議と落ち着いていたのは、口の中に広がる血の味のせいだったかもしれない。
甘かった。当然だ。これは口付けなのだから。
文字通り噛み付くほどの深い口付け。血の味のする口付けは、わたしにだけは甘かった。
でもその想いは、きっと彼には届きはしない。だからほら、こうして彼はわたしのものであって私のものではない名を呼ぶのだ。
「くそっ 早く目ぇ醒ませ! 戻れよ、戻って来いよレオナあっ!!」
レオナ。それはわたしの牢獄の名前。そしてもう一人のわたしの名前。
わたし達は本来、同一のものだ。わたしとレオナの違いは、自分の中のオロチの血を受け入れたかどうか、ただそれだけ。
当然、レオナが惹かれるものにはわたしも惹かれる。パパとママも、義理の父親も、仲間たちも、レオナが大切に想うもののことは、わたしも同じように想っている。
でも、レオナがわたしをどうしても受け入れられないように、誰もがわたしを拒絶する。同じ肉体に宿った同じ魂だというのに、レオナは愛され、わたしだけが憎まれる。双子の姉妹の片方だけが、誰からも憎まれているようなものだ。
まるで聖書に記されたアベルとカイン。自分の捧げ物だけが神に顧みられなかった兄カインは、嫉妬から弟アベルを殺してしまう。人類最初の殺人だ。
けれどわたしはアベルを殺さない。そんなことをしても何の意味もないのを知っているから。
わたしが殺したいのは、わたしたちの大切な人。殺してしまえば、その相手は永遠に誰のものにもなりはしない。レオナのものにも、わたしのものにもならない。わたしを愛することもないけれど、レオナも愛さない。拒まれることもない。
わたしは神殺しのカインだ。
「クラーク、構わねえから俺ごとやっちまえ!」
「了解! 恨まないでくださいよ!!」
背後からの一撃が、わたしを抱き込んだ男ごと突き抜ける。衝撃で息が止まる。彼も同時に息を詰めるのがわかった。
その一撃を放ったのは、彼の相棒と呼ばれる男だ。味方ごとの一撃を躊躇わずに決められる。受ける方もそれを躊躇わない。
そんな二人だから、わたしは負けたのだろう。
視界が一瞬にして暗くなる。引き摺られるように倒れたのは、彼の手がそれでもわたしを離さなかったからだ。私は彼の上に重なるように倒れ込み、その隣に気力も体力も使い果たした彼の相棒がぐったりと座り込む。
それとほとんど同時に、わたしの意識は完全に途絶えた。その瞬間まで、彼の鼓動を聞いていられたのが、少し嬉しかった。
「おお、痛てててて。何気にこの噛み傷深いぞ。跡が残っちまうかもなあ。おいレオナ、お前狂犬病の予防接種は?」
この場合、狂犬病という単語は冗談にしてもセンスが悪いのではないだろうかとクラークは思った。しかもその相手があのレオナだ。冗談としてはかなり成立しにくい部類に入る。
「この間のF国での任務に合わせて済ませたわ――そんなに、深いの?」
案の定、生真面目な答えを返されてラルフは気まずい顔をする。もう一年近くの付き合いなのだ。いい加減にその加減を覚えろ。
「レオナ、お前がそんな顔する必要はないぞ。他はともかく、噛み付かれたとこからその後の傷に関しては、こいつの自業自得だ」
その苛立ちを込めて、クラークは皮肉たっぷり、ラルフの代わりに答えてやった。
「妙な格好ばかりつけてるからそうなるんだ。大体お前、その噛み傷だってやろうと思えば避けられただろう?」
ラルフの技量があれば避けられる状況だった。それを格好つけて抱き止めたりするから噛まれたんだ。そう指摘するクラークに向かって、ラルフは気まずい顔をますます渋くする。甘やかしすぎると突付かれたら言い訳のできない状況なのは、自分でもわかっているのだ。
「あー、あれなあ」
気のせいかも知れないけどな、とラルフは頭を掻く。
「なんかこう、上手く言えないけどよ。そうしなきゃいけないような、そんな顔してたんだよ、こいつが」
「こいつって、レオナが?」
「他に誰がいるよ。泣きながら懐に飛び込んでくる子供みたいでよ。避けられなかった」
「……ああ」
その言葉を聞いた瞬間の、レオナの嘆息はどこか祈るようだった。
それに短い言葉が続いたが、それは呟いた本人にも聞き取れないほど小さい。耳ざとく聞き返したラルフの方が人間離れしている。
「レオナ、お前、今何て言った?」
「いえ、何も」
おかしなことを聞く、と首を傾げた少女の頭上で、髪に結わえたばかりの赤いバンダナが揺れる。レオナには何かを言ったという自覚はない。
「おっかしいなあ。何か聞こえた気がしたんだけどなあ」
「俺も何も聞こえませんでしたよ。空耳じゃないですか。そうじゃなかったら痴呆の初期症状。幻聴ですね」
「あ、てめえ! そういうこと言うか、こら!」
痛むはずの腕を振り上げてラルフが怒鳴り、後は売り言葉に買い言葉。いつもの喧騒に紛れて日常が戻ってくる。
九十七年の夏は、そうして幕を閉じた。
小さな窓から見える四角に切り取られた風景。それだけの世界。それだけがわたしの世界。
窓越しのぼやけてあやふやな光景の中、今日も血の色と、あの背中だけが鮮やかに踊っている。
彼はわたしを知らない。『レオナ』の中の牢獄に閉じ込められた、わたしの視線になど気付きもしない。もちろんわたしが彼を想っていることなど知らない。それでも。
「見つけてくれたのね」
それでも、彼はわたしを見つけた。見つけたというにはあまりにささやかな欠片でしかなくて、そのうち残った傷口を見ても思い出すことさえなくなるのだろうけれど。パパもママも、誰も見つけてくれなかったわたしを彼だけが見つけてくれた。
期待してもいいのだろうか。
彼はわたしのことも受け入れてくれるのかと。
彼を殺す以外の道を探させてくれるのかと。
見上げた小さな窓が、少し滲んで見えた。
ハイデルンは机を前に、静かに目を閉じていた。指先がこつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
きっかけは三日前、ラルフたちの部隊が任務中に、敵の伏兵に襲われたことだった。
狙われたのはチームの先頭だった。その真後ろにいたラルフが、こちらを狙う銃口に最初に気付いた。
狙われていた仲間を、ラルフがほとんどタックルの要領で強引に伏せさせるのと、敵の銃口が火を吹くのがほとんど同時。間一髪、体を捻ってラルフ自身も銃弾をかわす。その隙を突いてクラークとレオナが反撃した。もう少しで伝説の傭兵を屠った男になれるはずだった襲撃者の人生は、呆気なくそこで終わりを告げる。そこまでは、誰もが惚れ惚れするようなコンビネーションだった。
降り続く雨で、ぬかるんだ足元だけがいただけなかった。
ずるりとラルフの足元が滑る。普段ならなんでもないことだったが、銃撃を避けたせいで体の軸が傾いでいた。
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまろうとした足が空を掻く。やばい、と思った時にはもう、体が宙を舞っていた。
悪いことに、崖っぷちだった。夜の闇に紛れているのと、下に深い森が続いているせいで正確な高さは分からないが、決して低くはない。
「ラルフっ!!」
クラークが手を伸ばす。クラークなら、ラルフの指先だけでも掴めれば引き上げることもできるだろう。だが、その手は届かない。後は何メートルになるかもわからないフリーフォールが待つばかりだ。誰もがそう思った。
その時、薄紅色の風が疾った。
装備込みで120kg越えの、ラルフの落下速度よりまだ速い。そんなスピードが出せるのは、人の枷を弛めたものだけだ。
「レオナ……ッ」
薄紅色の髪が風に舞う。暴走のぎりぎり手前、人としての意識が保てる限界まで、血の宿命を背負う代わりに得た力を引き出しての跳躍だ。
空中でラルフの体を捉まえたレオナは、同時に反対の手を懸命に伸ばした。崖の途中に生える木の枝でも掴めれば、それで落下を止められる。
枝に手が届いた。弾かれた。
二人合わせて200kg超えだ。その落下の衝撃を片手で止めるなど。
枝に弾かれた時に傷付いたのか、赤いものが散る。それに近付くようにさらに深い赤に髪を染め、それでもレオナは次の枝に手を伸ばす。自我と力の限界に挑んでいる。
また、弾かれた。
ラルフはとっさにレオナを引き寄せ、自分の体で包むように抱きしめた。それにどれだけの意味があるか分からないが、地面に叩きつけられた時の衝撃を少しでも和らげることができたら、と思った。
「畜生おおおおおおっ……!」
ラルフの長い叫び声の尾を残し、二人が闇に吸い込まれるように落ちて行くのを、クラークたちは何もできないまま見つめるしかなかった。
だが、その後のクラークたちの動きは早かった。とてつもないスピードで残敵を掃討してのけ、夜を徹して二人を探したのである。あの二人が揃って死ぬはずがない。だがあの高さから落ちたなら、すぐに動くことはできないだろう。きっと助けを待っているはずだ。皆がそう信じていた。
果たして翌朝、崖下の川のを少し下った辺りで二人は見付かった。嘘のような軽傷だった。
川が雨で増水していたせいもあるだろう。いつもより深さを増した川がクッションになったに違いない。
だが、やはりレオナの力によるものが大きかったのは明確だった。川に落ちた後、レオナがラルフを掴まえたまま岸まで泳ぎ着いた跡も見付かった。結局のところ、ラルフはレオナに命を救われたのである。
その代償は軽くはなかった。
ラルフはすぐに意識を取り戻したが、レオナはいつまでも目を覚まさなかった。現地の病院では特に大きな外傷も見付からず、CTも脳波も異常なし。原因不明のまま基地の医療部に搬送されたが、そこでも意識を取り戻さない理由はわからなかった。並の病院よりも遥かに優秀な、ハイデルン傭兵部隊の軍医ですら首を振ったのである。
「精神的なものはあるかもしれないな」
軍医はベッドに横たわるレオナと、カルテを交互に見ながら言った。シーツの上に広がる髪は真紅、伏せた瞼に隠されてはいるが、瞳も真紅だ。レオナが限界以上にその力を引き出した状態、血の暴走と呼ばれる状態になった時と同じ色である。
「今起きたら、自分を抑えられないと思っているかもしれんよ。それで起きるようとしない、ってことも考えられる――様子を見るしかないね」
「……力に頼るつもりはない、って言ってたじゃねえかよ」
そう呟きながら、ラルフは壁を殴りつけた。さっきから何度も同じことを繰り返している。
剛拳で何度も殴りつけられた壁は、脆い表面をぽろぽろと崩して内側のコンクリートと鉄筋を晒していた。そこまですれば殴った拳の方も流石に傷付いて、爆ぜた皮膚から血が溢れている。それでもラルフは拳を止めなかった。
あの時、投げ出された宙で見た薄紅色の髪を、ラルフは以前にも見たことがある。
夕暮れの人気のない兵舎の裏だった。レオナは一人、手刀を振るっていた。
それが普通の訓練ではないことは一目で分かった。レオナが空を蹴る度に、見えない敵を手刀で薙ぎ払う度に、その髪の色が赤を帯びていく。青から紫へ、そこから徐々に明度を上げて薄紫に近くなり、やがて薄紅に染まっていく。
髪に瞳に赤色が濃くなるほど、蹴りも手刀も早くなった。人の身という枷を弛め、その限界を試しているかのように。
「力に頼るつもりはないんじゃなかったのか?」
「ええ、頼るつもりはないわ。頼るつもりはないけれど、限界を知って置こうと思って」
「限界?」
「戻れなくなる、限界」
「血の暴走か」
それにレオナは言葉で答えず、ただ頷いた。
「使わずに済むならその方がいいけれど、もしもの時に使えなかったら後悔すると思う。だから」
その考えを否定しようとは、ラルフは思わなかった。こういう血生臭い世界に生きていれば、『もしもの時』は日常茶飯事のようにやってくるし、それを避けるために皆とっておきの奥の手を隠している。レオナがそういうものを求め、模索するのは別に不思議なことではなかった。
だが、同時にラルフが願ったことがある。それは長い間、ひっそりとラルフの胸の奥に残って、やがて誓いとなっていった。
「……いくら制御できる力でも、できれば使わないで済みゃ、それが一番いいと思ってた」
レオナの父を、母を死なせた力だ。自分の中にそういう力があるということから目を背けることはできなくても、それを再び使わなければならないような『もしも』の時など、来なければいいと思っていた。
「使わないで済みゃあそれでいい。それでももし、使わなきゃならねえような時が来たら……それでも使わずに済むようにしてやりたいと思ってた」
この世の全てから守ってやれるなどと傲慢なことは思っていないが、せめてひとつだけ、それだけはしてやれたらと思っていた。想いはずっと胸の中にあって、いつか誓いになった。
それを、守れなかった。それどころか、『もしもの時』は自分の身の上に降りかかって来て、その為にレオナは人ならぬ力を使った――自分の為に使わせてしまった。
それが悔しくてならなくて、ラルフはもう一度壁を殴った。
さらにもう一度、と振り上げた拳を、クラークの言葉が止めた。
「もうやめとけ。いい加減に壁そのものが崩れるぞ」
「……修理代は俺の給料から引いといてくれ」
「それは別に構わんが、ここが崩壊したらどこの医者にレオナを診せるんだ?」
それが決定打になった。
ラルフは振り上げた拳を下ろすと、それに引き摺られるようにずるずると床に座り込んだ。
それに、レオナの病室には、今はハイデルンが多忙な時間を割いて訪れている。これ以上騒がしくして、邪魔をしてはいけないとも思った。
「赤い髪、か」
病室のハイデルンは、そっとレオナの髪を撫ぜた。
ハイデルンが赤い髪をしたレオナと直接会うのはこれが初めてだった。過去現れたそれを、ハイデルンはモニタ越しに見ただけだ。
初めて見る娘の姿だった。
いや、親子だと思っているのは自分だけで、彼女にとって自分は父という存在ではないのかもしれない。この八年、ハイデルンが接してきたのは青い髪の少女だけなのだ。
だがハイデルンは、いつか叶うのなら、赤い髪をした娘に話したいことがあった。それはおそらく叶わない願いだと思っていたが、思いがけないこの状況がそれを叶えた。
「いつか、お前と話をしたいと思っていた」
ハイデルンが話しかけても、レオナの赤い瞳は動かない。長い睫は伏せられたままだ。
それを意に介さず、ハイデルンは続けた。
「憎みたいのなら、私を憎むといい」
いつか、そう告げてやりたかった。
娘の中にはふたつの魂がある。モニタ越しに見た光景の中、それに気付いたハイデルンは、いつかそう告げたいと思っていた。
レオナの中のふたつの魂の違いは、己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけだ。どちらもレオナの魂であることには変わりない。
だが、その片方は暗く深く、この世の全てを憎んでいる。自分を拒むこの世界を憎んでいる。
そんな風に全てを憎む必要はないのだと、孤独な魂に告げてやりたかった。
憎まれるのは、この義父だけでいい。
レオナの血の宿命から彼女を遠ざけようとした、実の父親を憎む必要はない。確かに彼は、オロチとしてではなく人として生きようとした。だがそれは、彼自身の生だ。それで娘の生まで縛ろうとしたわけではあるまい。
彼はただ、レオナが自身の意思ではなく、他者の力によって強引に瞼を抉じ開けられ、目覚めるのを望まなかっただけだ。娘がもっと歳を重ねて、自分の意思で血の宿命を受け入れようとするなら、それを喜びはしなかったろうが、拒みもしなかっただろう。
大体にして、オロチとして生きることが不幸だと誰が決めた。マチュアは、バイスは、社はクリスはシェルミーは不幸であったと誰が言える? 彼らが彼らの信念の元に幸せでなかったと誰が言える?
結局、父としてできることは、娘が娘の思う幸せを得られることを祈るだけだ。それ以上のことは、たとえ血の繋がった父でもできないし、してはならない。レオナの人生を変えていいのは、彼女自身だけだ。
だからと言って、人として生きようとするもう一人の自分を、レオナが憎む必要もない。
生きとし生けるものは皆、心の内に相反する願望を抱いているものだ。レオナの中で血の宿命への葛藤が起こるのも、それはごく自然なことだ。その全てを許し受け入れろとはどちらの娘にも言うつもりはないが、どうか己を憎まないでくれたらとハイデルンは願う。
その想いを込めて、ハイデルンは繰り返した。
「お前が憎むのは、私だけでいい」
レオナが宿命に立ち向かえるよう戦う術を教え、人として生きられるよう道を示したのはハイデルンだ。血の暴走を命懸けで止めた、ラルフとクラークを彼女に引き合わせたのもハイデルンだ。
もしもハイデルンがレオナを引き取らなければ、おそらくレオナは血の定めのままに生きただろう。そういう意味では、レオナの道行きを決定付けたのはハイデルンだと言える。
「他の誰も、何も憎まなくていい」
だがきっと、もしも本当にレオナが己の意思で、人ではなく神の代行者として生きることを選んだのなら、ハイデルンもただ父として、巣立つ娘を見送るだろう。無理に人の世界に引き止めることはしないだろう。
それでも、ハイデルンは己を憎めと言った。
他のものは何ひとつ憎まなくていい。それでもどうしても、何かを憎まなければいられないというのなら、ただ父として娘を見送って、それから人として戦う道を選ぶ――いや、選ばざるを得ないであろう義父を憎めばいい。
少なくとも自分は、憎まれるのには慣れている。
「世界はお前を憎んではいない。だから、安心して目を覚ますといい」
ベッドの上、赤い髪を広げたレオナの答えはなかった。ハイデルンも無言を選んだ。それ以上多くを語る気はなかった。
そのまま部屋には無音の空気が満ち、しかししばらくして、ハイデルンは娘の言葉に頷いた。
父は娘の声を聞くことのないまま、もしかしたら生涯にたった一度の会話を終えて、静かに病室を出て行った。
病室を出たハイデルンは、もうすぐレオナが目を覚ますだろうから、その後の処置と、念のための再検査の支度をするようにと軍医に告げた。顔に疑問符を浮かべながら病室に向かう軍医を見送り、ハイデルンは自室に戻る。
自室に戻ったハイデルンは、広いデスクの前に座り、それから目を閉じた。
目を閉じたまま、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回、長く1回、短く長く長く短く、また短く――モールス信号というものを娘に教えた時、まさかそれがこういう風に使われるとは思ってもいなかった。
赤い髪のレオナは最後まで声を上げなかった。おそらくそれは、彼女の自由にならなかったのだろう。
その代わりに、指先でハイデルンの掌を叩いて短い言葉を残した。
残した言葉は短かった。それが2回繰り返された。繰り返して伝えればいいのかと確かめたら、Noと返された。
その後、叩かれたのは5つの数字だ。825。続けて95。
ハイデルンはもう一度、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回長く1回、短く長く長く短く、また短く――『HAPPY BIRTHDAY』。825はラルフの誕生日で、95は十日ほど先のハイデルンの誕生日だ。
己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけが違う魂だ。青い髪の少女と同じように、誕生日を覚え祝うほどに、赤い髪の少女も彼女の恋人を、そして父を想っている。
ハイデルンが頷くと、赤い髪の少女の顔はひどく穏やかな顔をした。そう見えた。
おそらく、再び赤い髪の少女は眠る。次の『もしもの時』が来るまで。そしてその時がまた来たのなら、二人の少女は手を取ってそれと戦うのだろう。薄紅色の髪をなびかせて。
いつか薄紅色の髪をした娘とも話ができるだろうか。ハイデルンは目を閉じたまま、そんなことを思った。
ハイデルンの指先が、こつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、レオナが目を覚ましたんです、だから何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
きっとその後には金髪の傭兵が苦笑しながら立っていて、神様もずいぶん粋な誕生日プレゼントをくれるじゃないですかと言うだろう。8月25日が終わるまでにはあと数十分ある。赤い髪の娘からの伝言も、それと一緒に伝えようか。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
きっかけは三日前、ラルフたちの部隊が任務中に、敵の伏兵に襲われたことだった。
狙われたのはチームの先頭だった。その真後ろにいたラルフが、こちらを狙う銃口に最初に気付いた。
狙われていた仲間を、ラルフがほとんどタックルの要領で強引に伏せさせるのと、敵の銃口が火を吹くのがほとんど同時。間一髪、体を捻ってラルフ自身も銃弾をかわす。その隙を突いてクラークとレオナが反撃した。もう少しで伝説の傭兵を屠った男になれるはずだった襲撃者の人生は、呆気なくそこで終わりを告げる。そこまでは、誰もが惚れ惚れするようなコンビネーションだった。
降り続く雨で、ぬかるんだ足元だけがいただけなかった。
ずるりとラルフの足元が滑る。普段ならなんでもないことだったが、銃撃を避けたせいで体の軸が傾いでいた。
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまろうとした足が空を掻く。やばい、と思った時にはもう、体が宙を舞っていた。
悪いことに、崖っぷちだった。夜の闇に紛れているのと、下に深い森が続いているせいで正確な高さは分からないが、決して低くはない。
「ラルフっ!!」
クラークが手を伸ばす。クラークなら、ラルフの指先だけでも掴めれば引き上げることもできるだろう。だが、その手は届かない。後は何メートルになるかもわからないフリーフォールが待つばかりだ。誰もがそう思った。
その時、薄紅色の風が疾った。
装備込みで120kg越えの、ラルフの落下速度よりまだ速い。そんなスピードが出せるのは、人の枷を弛めたものだけだ。
「レオナ……ッ」
薄紅色の髪が風に舞う。暴走のぎりぎり手前、人としての意識が保てる限界まで、血の宿命を背負う代わりに得た力を引き出しての跳躍だ。
空中でラルフの体を捉まえたレオナは、同時に反対の手を懸命に伸ばした。崖の途中に生える木の枝でも掴めれば、それで落下を止められる。
枝に手が届いた。弾かれた。
二人合わせて200kg超えだ。その落下の衝撃を片手で止めるなど。
枝に弾かれた時に傷付いたのか、赤いものが散る。それに近付くようにさらに深い赤に髪を染め、それでもレオナは次の枝に手を伸ばす。自我と力の限界に挑んでいる。
また、弾かれた。
ラルフはとっさにレオナを引き寄せ、自分の体で包むように抱きしめた。それにどれだけの意味があるか分からないが、地面に叩きつけられた時の衝撃を少しでも和らげることができたら、と思った。
「畜生おおおおおおっ……!」
ラルフの長い叫び声の尾を残し、二人が闇に吸い込まれるように落ちて行くのを、クラークたちは何もできないまま見つめるしかなかった。
だが、その後のクラークたちの動きは早かった。とてつもないスピードで残敵を掃討してのけ、夜を徹して二人を探したのである。あの二人が揃って死ぬはずがない。だがあの高さから落ちたなら、すぐに動くことはできないだろう。きっと助けを待っているはずだ。皆がそう信じていた。
果たして翌朝、崖下の川のを少し下った辺りで二人は見付かった。嘘のような軽傷だった。
川が雨で増水していたせいもあるだろう。いつもより深さを増した川がクッションになったに違いない。
だが、やはりレオナの力によるものが大きかったのは明確だった。川に落ちた後、レオナがラルフを掴まえたまま岸まで泳ぎ着いた跡も見付かった。結局のところ、ラルフはレオナに命を救われたのである。
その代償は軽くはなかった。
ラルフはすぐに意識を取り戻したが、レオナはいつまでも目を覚まさなかった。現地の病院では特に大きな外傷も見付からず、CTも脳波も異常なし。原因不明のまま基地の医療部に搬送されたが、そこでも意識を取り戻さない理由はわからなかった。並の病院よりも遥かに優秀な、ハイデルン傭兵部隊の軍医ですら首を振ったのである。
「精神的なものはあるかもしれないな」
軍医はベッドに横たわるレオナと、カルテを交互に見ながら言った。シーツの上に広がる髪は真紅、伏せた瞼に隠されてはいるが、瞳も真紅だ。レオナが限界以上にその力を引き出した状態、血の暴走と呼ばれる状態になった時と同じ色である。
「今起きたら、自分を抑えられないと思っているかもしれんよ。それで起きるようとしない、ってことも考えられる――様子を見るしかないね」
「……力に頼るつもりはない、って言ってたじゃねえかよ」
そう呟きながら、ラルフは壁を殴りつけた。さっきから何度も同じことを繰り返している。
剛拳で何度も殴りつけられた壁は、脆い表面をぽろぽろと崩して内側のコンクリートと鉄筋を晒していた。そこまですれば殴った拳の方も流石に傷付いて、爆ぜた皮膚から血が溢れている。それでもラルフは拳を止めなかった。
あの時、投げ出された宙で見た薄紅色の髪を、ラルフは以前にも見たことがある。
夕暮れの人気のない兵舎の裏だった。レオナは一人、手刀を振るっていた。
それが普通の訓練ではないことは一目で分かった。レオナが空を蹴る度に、見えない敵を手刀で薙ぎ払う度に、その髪の色が赤を帯びていく。青から紫へ、そこから徐々に明度を上げて薄紫に近くなり、やがて薄紅に染まっていく。
髪に瞳に赤色が濃くなるほど、蹴りも手刀も早くなった。人の身という枷を弛め、その限界を試しているかのように。
「力に頼るつもりはないんじゃなかったのか?」
「ええ、頼るつもりはないわ。頼るつもりはないけれど、限界を知って置こうと思って」
「限界?」
「戻れなくなる、限界」
「血の暴走か」
それにレオナは言葉で答えず、ただ頷いた。
「使わずに済むならその方がいいけれど、もしもの時に使えなかったら後悔すると思う。だから」
その考えを否定しようとは、ラルフは思わなかった。こういう血生臭い世界に生きていれば、『もしもの時』は日常茶飯事のようにやってくるし、それを避けるために皆とっておきの奥の手を隠している。レオナがそういうものを求め、模索するのは別に不思議なことではなかった。
だが、同時にラルフが願ったことがある。それは長い間、ひっそりとラルフの胸の奥に残って、やがて誓いとなっていった。
「……いくら制御できる力でも、できれば使わないで済みゃ、それが一番いいと思ってた」
レオナの父を、母を死なせた力だ。自分の中にそういう力があるということから目を背けることはできなくても、それを再び使わなければならないような『もしも』の時など、来なければいいと思っていた。
「使わないで済みゃあそれでいい。それでももし、使わなきゃならねえような時が来たら……それでも使わずに済むようにしてやりたいと思ってた」
この世の全てから守ってやれるなどと傲慢なことは思っていないが、せめてひとつだけ、それだけはしてやれたらと思っていた。想いはずっと胸の中にあって、いつか誓いになった。
それを、守れなかった。それどころか、『もしもの時』は自分の身の上に降りかかって来て、その為にレオナは人ならぬ力を使った――自分の為に使わせてしまった。
それが悔しくてならなくて、ラルフはもう一度壁を殴った。
さらにもう一度、と振り上げた拳を、クラークの言葉が止めた。
「もうやめとけ。いい加減に壁そのものが崩れるぞ」
「……修理代は俺の給料から引いといてくれ」
「それは別に構わんが、ここが崩壊したらどこの医者にレオナを診せるんだ?」
それが決定打になった。
ラルフは振り上げた拳を下ろすと、それに引き摺られるようにずるずると床に座り込んだ。
それに、レオナの病室には、今はハイデルンが多忙な時間を割いて訪れている。これ以上騒がしくして、邪魔をしてはいけないとも思った。
「赤い髪、か」
病室のハイデルンは、そっとレオナの髪を撫ぜた。
ハイデルンが赤い髪をしたレオナと直接会うのはこれが初めてだった。過去現れたそれを、ハイデルンはモニタ越しに見ただけだ。
初めて見る娘の姿だった。
いや、親子だと思っているのは自分だけで、彼女にとって自分は父という存在ではないのかもしれない。この八年、ハイデルンが接してきたのは青い髪の少女だけなのだ。
だがハイデルンは、いつか叶うのなら、赤い髪をした娘に話したいことがあった。それはおそらく叶わない願いだと思っていたが、思いがけないこの状況がそれを叶えた。
「いつか、お前と話をしたいと思っていた」
ハイデルンが話しかけても、レオナの赤い瞳は動かない。長い睫は伏せられたままだ。
それを意に介さず、ハイデルンは続けた。
「憎みたいのなら、私を憎むといい」
いつか、そう告げてやりたかった。
娘の中にはふたつの魂がある。モニタ越しに見た光景の中、それに気付いたハイデルンは、いつかそう告げたいと思っていた。
レオナの中のふたつの魂の違いは、己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけだ。どちらもレオナの魂であることには変わりない。
だが、その片方は暗く深く、この世の全てを憎んでいる。自分を拒むこの世界を憎んでいる。
そんな風に全てを憎む必要はないのだと、孤独な魂に告げてやりたかった。
憎まれるのは、この義父だけでいい。
レオナの血の宿命から彼女を遠ざけようとした、実の父親を憎む必要はない。確かに彼は、オロチとしてではなく人として生きようとした。だがそれは、彼自身の生だ。それで娘の生まで縛ろうとしたわけではあるまい。
彼はただ、レオナが自身の意思ではなく、他者の力によって強引に瞼を抉じ開けられ、目覚めるのを望まなかっただけだ。娘がもっと歳を重ねて、自分の意思で血の宿命を受け入れようとするなら、それを喜びはしなかったろうが、拒みもしなかっただろう。
大体にして、オロチとして生きることが不幸だと誰が決めた。マチュアは、バイスは、社はクリスはシェルミーは不幸であったと誰が言える? 彼らが彼らの信念の元に幸せでなかったと誰が言える?
結局、父としてできることは、娘が娘の思う幸せを得られることを祈るだけだ。それ以上のことは、たとえ血の繋がった父でもできないし、してはならない。レオナの人生を変えていいのは、彼女自身だけだ。
だからと言って、人として生きようとするもう一人の自分を、レオナが憎む必要もない。
生きとし生けるものは皆、心の内に相反する願望を抱いているものだ。レオナの中で血の宿命への葛藤が起こるのも、それはごく自然なことだ。その全てを許し受け入れろとはどちらの娘にも言うつもりはないが、どうか己を憎まないでくれたらとハイデルンは願う。
その想いを込めて、ハイデルンは繰り返した。
「お前が憎むのは、私だけでいい」
レオナが宿命に立ち向かえるよう戦う術を教え、人として生きられるよう道を示したのはハイデルンだ。血の暴走を命懸けで止めた、ラルフとクラークを彼女に引き合わせたのもハイデルンだ。
もしもハイデルンがレオナを引き取らなければ、おそらくレオナは血の定めのままに生きただろう。そういう意味では、レオナの道行きを決定付けたのはハイデルンだと言える。
「他の誰も、何も憎まなくていい」
だがきっと、もしも本当にレオナが己の意思で、人ではなく神の代行者として生きることを選んだのなら、ハイデルンもただ父として、巣立つ娘を見送るだろう。無理に人の世界に引き止めることはしないだろう。
それでも、ハイデルンは己を憎めと言った。
他のものは何ひとつ憎まなくていい。それでもどうしても、何かを憎まなければいられないというのなら、ただ父として娘を見送って、それから人として戦う道を選ぶ――いや、選ばざるを得ないであろう義父を憎めばいい。
少なくとも自分は、憎まれるのには慣れている。
「世界はお前を憎んではいない。だから、安心して目を覚ますといい」
ベッドの上、赤い髪を広げたレオナの答えはなかった。ハイデルンも無言を選んだ。それ以上多くを語る気はなかった。
そのまま部屋には無音の空気が満ち、しかししばらくして、ハイデルンは娘の言葉に頷いた。
父は娘の声を聞くことのないまま、もしかしたら生涯にたった一度の会話を終えて、静かに病室を出て行った。
病室を出たハイデルンは、もうすぐレオナが目を覚ますだろうから、その後の処置と、念のための再検査の支度をするようにと軍医に告げた。顔に疑問符を浮かべながら病室に向かう軍医を見送り、ハイデルンは自室に戻る。
自室に戻ったハイデルンは、広いデスクの前に座り、それから目を閉じた。
目を閉じたまま、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回、長く1回、短く長く長く短く、また短く――モールス信号というものを娘に教えた時、まさかそれがこういう風に使われるとは思ってもいなかった。
赤い髪のレオナは最後まで声を上げなかった。おそらくそれは、彼女の自由にならなかったのだろう。
その代わりに、指先でハイデルンの掌を叩いて短い言葉を残した。
残した言葉は短かった。それが2回繰り返された。繰り返して伝えればいいのかと確かめたら、Noと返された。
その後、叩かれたのは5つの数字だ。825。続けて95。
ハイデルンはもう一度、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回長く1回、短く長く長く短く、また短く――『HAPPY BIRTHDAY』。825はラルフの誕生日で、95は十日ほど先のハイデルンの誕生日だ。
己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけが違う魂だ。青い髪の少女と同じように、誕生日を覚え祝うほどに、赤い髪の少女も彼女の恋人を、そして父を想っている。
ハイデルンが頷くと、赤い髪の少女の顔はひどく穏やかな顔をした。そう見えた。
おそらく、再び赤い髪の少女は眠る。次の『もしもの時』が来るまで。そしてその時がまた来たのなら、二人の少女は手を取ってそれと戦うのだろう。薄紅色の髪をなびかせて。
いつか薄紅色の髪をした娘とも話ができるだろうか。ハイデルンは目を閉じたまま、そんなことを思った。
ハイデルンの指先が、こつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、レオナが目を覚ましたんです、だから何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
きっとその後には金髪の傭兵が苦笑しながら立っていて、神様もずいぶん粋な誕生日プレゼントをくれるじゃないですかと言うだろう。8月25日が終わるまでにはあと数十分ある。赤い髪の娘からの伝言も、それと一緒に伝えようか。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。