基地の中でオートバイを見るのは、レオナにとっては珍しいことだったが、ラルフにはそうでもなかった。
少なくとも一昔前までは、軍用オートバイはかなり重宝されたものだ。伝令や隠密偵察に向いているとか、機動性が高く悪路も走れるとか、輸送しやすいとか、使い捨てにしても惜しくないコストだとか。ついでに自動車よりも運転技術を習得するのが簡単で、兵の訓練機関が短く済むということもあって、かつてはどこの戦場でもオートバイが走っていた。
だが、今は軍用オートバイの出番は減っている。センサーなどの技術の向上に伴って、地上からの隠密偵察が厳しくなっているからだ。そうなってくると偵察には飛行機を飛ばした方が早いし、地上で行うなら威力偵察の方が重視される世の中だ。さらにヘリコプターで運べる軽装甲車の登場もあって、装甲の薄いオートバイは軍隊と言うものから姿を消そうとしている。
ラルフは軍用オートバイが現役だった時代を知っている兵士の一人だ。これがクラークになると、ほんの数年の歳の差だが微妙なところになり、レオナはもちろん、その時代を知らない組に入る。
レオナが整備中のオートバイに視線を注いでいるのは、工場見学が趣味だと言うぐらい「物を作る行程」を見るのが好きだということもあるが、単純に物珍しいと言うこともあったのだ。オートバイに向かってスパナ片手に格闘しているのがラルフである、ということも理由のひとつだったが。整備班でもないラルフが、休日に機械油に塗れてバイクの整備をする理由などどこにもない。
「これ払い下げて貰ったんだよ。だから俺の私物。うちの部隊でももう少しバイク減らすんだと」
背中越しにレオナが首を傾げる気配に気付いたか、ラルフは振り返りもせずに答えた。
「こないだまで現役で整備点検されてたんだから走るにゃ問題ねえし、サイドカーと装甲外せば普通のバイクだろ。外に払い下げるつもりだったらしいんだけどよ、俺こういうの好きだから買い取った」
「……そうなの」
「もし乗りたかったら貸してやるぜ? どうせ俺の家のあたりなんかに停めといたら、一晩持たずに盗まれちまうんだ。基地の中に置いとくからさ」
「別にいいわ。運転できないもの」
ラルフはわざわざ振り返って、心底意外だという顔で青い髪の少女を見上げた。普段は逆だが、整備の為にしゃがみこんでいるラルフの方が、今は視線が低い。
「料理とか刺繍とかそういうのならともかく、お前の口から「できない」って台詞を聞くとは思わなかったぜ、おい。本当かそれ」
「嘘を吐く理由はないわ。訓練を受けてないの。それだけ」
「あー、そうか。最近は使わねえもんな」
ラルフが軍服に初めて袖を通したその頃は、オートバイの訓練はほとんど必須だった。レオナは違う。オートバイが消え始めた時代の兵士だ。無駄を好まぬ彼女の義父が、それに関する訓練をメニューから外したのは当然かもしれない。
「でも、できることなら覚えておいた方がいいぜ、これ」
「そう?」
「街中移動するのに、こいつほど都合のいい乗り物はねえぞ。一刻を争うって時は絶対にこいつだ。何しろ渋滞関係なしだからな」
それはそうかもしれない、とレオナは頷いた。並んだ車の間をすり抜けるのだから、当然スピードはそのままと言うわけには行かないが、それでも渋滞で身動き取れなくなる自動車よりは、オートバイの方が先に進める分早いだろう。自動車では入り込めない細い路地にも突っ込めるのも利点だ。
だが、逆に言えばそれだけだ。車輪がふたつしかないオートバイは、支えなしでは立っていることもできない。気を抜けば簡単に倒れる。屋根も覆いもないから、雨が降れば下着まで濡れるし、夏には容赦なく照り付ける日差しに背中が焼ける。逆に冬は凍るほど寒い。そして事故にでもなれば、乗り手は体ひとつでアスファルトに放り出されるのだ。
一刻を争う状況など、オフの時にどれだけあるというのだろう。だとしたら車で充分ではないか、とレオナなどは思う。
だが、ラルフに言わせると違うらしい。
「それに、こいつで走るとすっきりするんだよ。少なくとも、延々と拳銃撃ち続けるよりよっぽどいい」
自分のひそかなストレス解消法を揶揄されて、レオナは形のいい眉を顰めた。自分の趣味をどうこう言われるのは、レオナでも気分があまり良くない。クラークなら倍ほども濃くて厳しい文句を言い返すところだが、レオナは沈黙した。ラルフが後を続けたせいもある。
「風がな、いいんだよ」
「風?」
「こいつに乗ってると、体いっぱいに風がぶつかって来るんだよ。それが頭の中のもやもやしたものを吹き飛ばすんだ。気持ちいいぜ」
「……風なら、幌なしのジープに乗っててもぶつかってくるわ」
「それが違うんだよ」
ラルフは工具箱にスパナを戻してにやりと笑う。
「バイクってのはな、他の何とも違う乗り物なんだ。走り方そのものが違うんだよ――と言っても、口で言ってもわかりゃしねえだろ。ヘルメット持って来な、後ろに乗せてやる」
オートバイは鮮やかに車と車の間を抜け、何もかを置き去りにしていく。ラルフそのものを透かして見せるかのように、その運転は荒っぽいくせにとてつもなく正確だ。メーターはとてつもないスピードを指しているというのに、まるで不安な気がしない。
鉄の塊でしかない機械にもそういう言葉を使っていいのなら、これが気が合うということなのだろう。ラルフの気質に、この乗り物がぴたりと嵌っているのだ。考えてみれば、鋼鉄の暴れ馬の主にこれほど合った男はいない。
確かに走り方そのものが違うのだとレオナは思った。
自動車とはアクセルもブレーキも、タイミングが何もかも違う。自分はタンデムシートに座ってラルフの腰にしがみついているだけだが、それでもそれがはっきりとわかった。
オートバイにはオートバイの走り方がある。他のものと同じ走り方はできないし、他のものにはオートバイの走りはできない。
風もそうだ。オートバイに乗っていて受ける風は、他のものとはまるで違う。ジープと同じ、と言った時にラルフが笑った理由が、今ならレオナにもわかる。
風がぶつかってくるのではない。風に包まれて、同じものになるのだ。
ラルフの背に頬を押し付け、風に髪をなびかせながら、レオナは後ろに飛び去る世界を見ていた。
二人を乗せたバイクは基地に戻ってきたのは二時間後だった。
バイクを降りると、思ったより疲れていることにレオナは驚いた。独特の緊張感のせいだろう。自分で運転していたわけでもないのに体が重い。
「後でシャワーの熱いの浴びとけよ。風で冷えるし、慣れないと体が強張るからな」
数百キロもあるオートバイを自転車のように軽々と押して、ラルフはガレージの隅にバイクを停めた。チャン・コーハンあたりの体重を考えると、もしかすると担いで自室に持ち込むことだってできるのかもしれないが、流石にそこまで酔狂ではないらしい。
「で、どうだこいつは。少しはすっきりするって意味がわかっただろう?」
「……そうね。気持ちよかったわ」
「それじゃ運転覚えるか? 教えてやるぜ」
風に弄られてもつれた髪に指を通していたレオナは、しかし首を横に振った。
「任務で必要になってからでいい」
「気持ちよかったんじゃねえのかよ」
憮然としてラルフは聞き返す。子供のように口が尖るあたり、わかりやすい男だ。
確かにオートバイは、レオナにとっても気持ちよい乗り物だった。走っている間中、体を包んでいた風の感触も悪くはなかった。
「でも。これはたぶん、私のやり方とは違う」
オートバイにはオートバイの走り方があるように、レオナにはレオナに合うものがある。それがレオナにとっては射撃訓練であって、いくら心地よくてもオートバイは違うのだ。ラルフのそれが射撃訓練ではないように。
それに、と年も身長も十以上違う恋人を見上げて、レオナは付け加える。
「後ろに乗る方が、嬉しい気がする」
「甘えんな、こら」
そう言いながらラルフの顔が笑っているのを、オートバイのミラーが映していた。
少なくとも一昔前までは、軍用オートバイはかなり重宝されたものだ。伝令や隠密偵察に向いているとか、機動性が高く悪路も走れるとか、輸送しやすいとか、使い捨てにしても惜しくないコストだとか。ついでに自動車よりも運転技術を習得するのが簡単で、兵の訓練機関が短く済むということもあって、かつてはどこの戦場でもオートバイが走っていた。
だが、今は軍用オートバイの出番は減っている。センサーなどの技術の向上に伴って、地上からの隠密偵察が厳しくなっているからだ。そうなってくると偵察には飛行機を飛ばした方が早いし、地上で行うなら威力偵察の方が重視される世の中だ。さらにヘリコプターで運べる軽装甲車の登場もあって、装甲の薄いオートバイは軍隊と言うものから姿を消そうとしている。
ラルフは軍用オートバイが現役だった時代を知っている兵士の一人だ。これがクラークになると、ほんの数年の歳の差だが微妙なところになり、レオナはもちろん、その時代を知らない組に入る。
レオナが整備中のオートバイに視線を注いでいるのは、工場見学が趣味だと言うぐらい「物を作る行程」を見るのが好きだということもあるが、単純に物珍しいと言うこともあったのだ。オートバイに向かってスパナ片手に格闘しているのがラルフである、ということも理由のひとつだったが。整備班でもないラルフが、休日に機械油に塗れてバイクの整備をする理由などどこにもない。
「これ払い下げて貰ったんだよ。だから俺の私物。うちの部隊でももう少しバイク減らすんだと」
背中越しにレオナが首を傾げる気配に気付いたか、ラルフは振り返りもせずに答えた。
「こないだまで現役で整備点検されてたんだから走るにゃ問題ねえし、サイドカーと装甲外せば普通のバイクだろ。外に払い下げるつもりだったらしいんだけどよ、俺こういうの好きだから買い取った」
「……そうなの」
「もし乗りたかったら貸してやるぜ? どうせ俺の家のあたりなんかに停めといたら、一晩持たずに盗まれちまうんだ。基地の中に置いとくからさ」
「別にいいわ。運転できないもの」
ラルフはわざわざ振り返って、心底意外だという顔で青い髪の少女を見上げた。普段は逆だが、整備の為にしゃがみこんでいるラルフの方が、今は視線が低い。
「料理とか刺繍とかそういうのならともかく、お前の口から「できない」って台詞を聞くとは思わなかったぜ、おい。本当かそれ」
「嘘を吐く理由はないわ。訓練を受けてないの。それだけ」
「あー、そうか。最近は使わねえもんな」
ラルフが軍服に初めて袖を通したその頃は、オートバイの訓練はほとんど必須だった。レオナは違う。オートバイが消え始めた時代の兵士だ。無駄を好まぬ彼女の義父が、それに関する訓練をメニューから外したのは当然かもしれない。
「でも、できることなら覚えておいた方がいいぜ、これ」
「そう?」
「街中移動するのに、こいつほど都合のいい乗り物はねえぞ。一刻を争うって時は絶対にこいつだ。何しろ渋滞関係なしだからな」
それはそうかもしれない、とレオナは頷いた。並んだ車の間をすり抜けるのだから、当然スピードはそのままと言うわけには行かないが、それでも渋滞で身動き取れなくなる自動車よりは、オートバイの方が先に進める分早いだろう。自動車では入り込めない細い路地にも突っ込めるのも利点だ。
だが、逆に言えばそれだけだ。車輪がふたつしかないオートバイは、支えなしでは立っていることもできない。気を抜けば簡単に倒れる。屋根も覆いもないから、雨が降れば下着まで濡れるし、夏には容赦なく照り付ける日差しに背中が焼ける。逆に冬は凍るほど寒い。そして事故にでもなれば、乗り手は体ひとつでアスファルトに放り出されるのだ。
一刻を争う状況など、オフの時にどれだけあるというのだろう。だとしたら車で充分ではないか、とレオナなどは思う。
だが、ラルフに言わせると違うらしい。
「それに、こいつで走るとすっきりするんだよ。少なくとも、延々と拳銃撃ち続けるよりよっぽどいい」
自分のひそかなストレス解消法を揶揄されて、レオナは形のいい眉を顰めた。自分の趣味をどうこう言われるのは、レオナでも気分があまり良くない。クラークなら倍ほども濃くて厳しい文句を言い返すところだが、レオナは沈黙した。ラルフが後を続けたせいもある。
「風がな、いいんだよ」
「風?」
「こいつに乗ってると、体いっぱいに風がぶつかって来るんだよ。それが頭の中のもやもやしたものを吹き飛ばすんだ。気持ちいいぜ」
「……風なら、幌なしのジープに乗っててもぶつかってくるわ」
「それが違うんだよ」
ラルフは工具箱にスパナを戻してにやりと笑う。
「バイクってのはな、他の何とも違う乗り物なんだ。走り方そのものが違うんだよ――と言っても、口で言ってもわかりゃしねえだろ。ヘルメット持って来な、後ろに乗せてやる」
オートバイは鮮やかに車と車の間を抜け、何もかを置き去りにしていく。ラルフそのものを透かして見せるかのように、その運転は荒っぽいくせにとてつもなく正確だ。メーターはとてつもないスピードを指しているというのに、まるで不安な気がしない。
鉄の塊でしかない機械にもそういう言葉を使っていいのなら、これが気が合うということなのだろう。ラルフの気質に、この乗り物がぴたりと嵌っているのだ。考えてみれば、鋼鉄の暴れ馬の主にこれほど合った男はいない。
確かに走り方そのものが違うのだとレオナは思った。
自動車とはアクセルもブレーキも、タイミングが何もかも違う。自分はタンデムシートに座ってラルフの腰にしがみついているだけだが、それでもそれがはっきりとわかった。
オートバイにはオートバイの走り方がある。他のものと同じ走り方はできないし、他のものにはオートバイの走りはできない。
風もそうだ。オートバイに乗っていて受ける風は、他のものとはまるで違う。ジープと同じ、と言った時にラルフが笑った理由が、今ならレオナにもわかる。
風がぶつかってくるのではない。風に包まれて、同じものになるのだ。
ラルフの背に頬を押し付け、風に髪をなびかせながら、レオナは後ろに飛び去る世界を見ていた。
二人を乗せたバイクは基地に戻ってきたのは二時間後だった。
バイクを降りると、思ったより疲れていることにレオナは驚いた。独特の緊張感のせいだろう。自分で運転していたわけでもないのに体が重い。
「後でシャワーの熱いの浴びとけよ。風で冷えるし、慣れないと体が強張るからな」
数百キロもあるオートバイを自転車のように軽々と押して、ラルフはガレージの隅にバイクを停めた。チャン・コーハンあたりの体重を考えると、もしかすると担いで自室に持ち込むことだってできるのかもしれないが、流石にそこまで酔狂ではないらしい。
「で、どうだこいつは。少しはすっきりするって意味がわかっただろう?」
「……そうね。気持ちよかったわ」
「それじゃ運転覚えるか? 教えてやるぜ」
風に弄られてもつれた髪に指を通していたレオナは、しかし首を横に振った。
「任務で必要になってからでいい」
「気持ちよかったんじゃねえのかよ」
憮然としてラルフは聞き返す。子供のように口が尖るあたり、わかりやすい男だ。
確かにオートバイは、レオナにとっても気持ちよい乗り物だった。走っている間中、体を包んでいた風の感触も悪くはなかった。
「でも。これはたぶん、私のやり方とは違う」
オートバイにはオートバイの走り方があるように、レオナにはレオナに合うものがある。それがレオナにとっては射撃訓練であって、いくら心地よくてもオートバイは違うのだ。ラルフのそれが射撃訓練ではないように。
それに、と年も身長も十以上違う恋人を見上げて、レオナは付け加える。
「後ろに乗る方が、嬉しい気がする」
「甘えんな、こら」
そう言いながらラルフの顔が笑っているのを、オートバイのミラーが映していた。
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