ハイデルンは机を前に、静かに目を閉じていた。指先がこつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
きっかけは三日前、ラルフたちの部隊が任務中に、敵の伏兵に襲われたことだった。
狙われたのはチームの先頭だった。その真後ろにいたラルフが、こちらを狙う銃口に最初に気付いた。
狙われていた仲間を、ラルフがほとんどタックルの要領で強引に伏せさせるのと、敵の銃口が火を吹くのがほとんど同時。間一髪、体を捻ってラルフ自身も銃弾をかわす。その隙を突いてクラークとレオナが反撃した。もう少しで伝説の傭兵を屠った男になれるはずだった襲撃者の人生は、呆気なくそこで終わりを告げる。そこまでは、誰もが惚れ惚れするようなコンビネーションだった。
降り続く雨で、ぬかるんだ足元だけがいただけなかった。
ずるりとラルフの足元が滑る。普段ならなんでもないことだったが、銃撃を避けたせいで体の軸が傾いでいた。
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまろうとした足が空を掻く。やばい、と思った時にはもう、体が宙を舞っていた。
悪いことに、崖っぷちだった。夜の闇に紛れているのと、下に深い森が続いているせいで正確な高さは分からないが、決して低くはない。
「ラルフっ!!」
クラークが手を伸ばす。クラークなら、ラルフの指先だけでも掴めれば引き上げることもできるだろう。だが、その手は届かない。後は何メートルになるかもわからないフリーフォールが待つばかりだ。誰もがそう思った。
その時、薄紅色の風が疾った。
装備込みで120kg越えの、ラルフの落下速度よりまだ速い。そんなスピードが出せるのは、人の枷を弛めたものだけだ。
「レオナ……ッ」
薄紅色の髪が風に舞う。暴走のぎりぎり手前、人としての意識が保てる限界まで、血の宿命を背負う代わりに得た力を引き出しての跳躍だ。
空中でラルフの体を捉まえたレオナは、同時に反対の手を懸命に伸ばした。崖の途中に生える木の枝でも掴めれば、それで落下を止められる。
枝に手が届いた。弾かれた。
二人合わせて200kg超えだ。その落下の衝撃を片手で止めるなど。
枝に弾かれた時に傷付いたのか、赤いものが散る。それに近付くようにさらに深い赤に髪を染め、それでもレオナは次の枝に手を伸ばす。自我と力の限界に挑んでいる。
また、弾かれた。
ラルフはとっさにレオナを引き寄せ、自分の体で包むように抱きしめた。それにどれだけの意味があるか分からないが、地面に叩きつけられた時の衝撃を少しでも和らげることができたら、と思った。
「畜生おおおおおおっ……!」
ラルフの長い叫び声の尾を残し、二人が闇に吸い込まれるように落ちて行くのを、クラークたちは何もできないまま見つめるしかなかった。
だが、その後のクラークたちの動きは早かった。とてつもないスピードで残敵を掃討してのけ、夜を徹して二人を探したのである。あの二人が揃って死ぬはずがない。だがあの高さから落ちたなら、すぐに動くことはできないだろう。きっと助けを待っているはずだ。皆がそう信じていた。
果たして翌朝、崖下の川のを少し下った辺りで二人は見付かった。嘘のような軽傷だった。
川が雨で増水していたせいもあるだろう。いつもより深さを増した川がクッションになったに違いない。
だが、やはりレオナの力によるものが大きかったのは明確だった。川に落ちた後、レオナがラルフを掴まえたまま岸まで泳ぎ着いた跡も見付かった。結局のところ、ラルフはレオナに命を救われたのである。
その代償は軽くはなかった。
ラルフはすぐに意識を取り戻したが、レオナはいつまでも目を覚まさなかった。現地の病院では特に大きな外傷も見付からず、CTも脳波も異常なし。原因不明のまま基地の医療部に搬送されたが、そこでも意識を取り戻さない理由はわからなかった。並の病院よりも遥かに優秀な、ハイデルン傭兵部隊の軍医ですら首を振ったのである。
「精神的なものはあるかもしれないな」
軍医はベッドに横たわるレオナと、カルテを交互に見ながら言った。シーツの上に広がる髪は真紅、伏せた瞼に隠されてはいるが、瞳も真紅だ。レオナが限界以上にその力を引き出した状態、血の暴走と呼ばれる状態になった時と同じ色である。
「今起きたら、自分を抑えられないと思っているかもしれんよ。それで起きるようとしない、ってことも考えられる――様子を見るしかないね」
「……力に頼るつもりはない、って言ってたじゃねえかよ」
そう呟きながら、ラルフは壁を殴りつけた。さっきから何度も同じことを繰り返している。
剛拳で何度も殴りつけられた壁は、脆い表面をぽろぽろと崩して内側のコンクリートと鉄筋を晒していた。そこまですれば殴った拳の方も流石に傷付いて、爆ぜた皮膚から血が溢れている。それでもラルフは拳を止めなかった。
あの時、投げ出された宙で見た薄紅色の髪を、ラルフは以前にも見たことがある。
夕暮れの人気のない兵舎の裏だった。レオナは一人、手刀を振るっていた。
それが普通の訓練ではないことは一目で分かった。レオナが空を蹴る度に、見えない敵を手刀で薙ぎ払う度に、その髪の色が赤を帯びていく。青から紫へ、そこから徐々に明度を上げて薄紫に近くなり、やがて薄紅に染まっていく。
髪に瞳に赤色が濃くなるほど、蹴りも手刀も早くなった。人の身という枷を弛め、その限界を試しているかのように。
「力に頼るつもりはないんじゃなかったのか?」
「ええ、頼るつもりはないわ。頼るつもりはないけれど、限界を知って置こうと思って」
「限界?」
「戻れなくなる、限界」
「血の暴走か」
それにレオナは言葉で答えず、ただ頷いた。
「使わずに済むならその方がいいけれど、もしもの時に使えなかったら後悔すると思う。だから」
その考えを否定しようとは、ラルフは思わなかった。こういう血生臭い世界に生きていれば、『もしもの時』は日常茶飯事のようにやってくるし、それを避けるために皆とっておきの奥の手を隠している。レオナがそういうものを求め、模索するのは別に不思議なことではなかった。
だが、同時にラルフが願ったことがある。それは長い間、ひっそりとラルフの胸の奥に残って、やがて誓いとなっていった。
「……いくら制御できる力でも、できれば使わないで済みゃ、それが一番いいと思ってた」
レオナの父を、母を死なせた力だ。自分の中にそういう力があるということから目を背けることはできなくても、それを再び使わなければならないような『もしも』の時など、来なければいいと思っていた。
「使わないで済みゃあそれでいい。それでももし、使わなきゃならねえような時が来たら……それでも使わずに済むようにしてやりたいと思ってた」
この世の全てから守ってやれるなどと傲慢なことは思っていないが、せめてひとつだけ、それだけはしてやれたらと思っていた。想いはずっと胸の中にあって、いつか誓いになった。
それを、守れなかった。それどころか、『もしもの時』は自分の身の上に降りかかって来て、その為にレオナは人ならぬ力を使った――自分の為に使わせてしまった。
それが悔しくてならなくて、ラルフはもう一度壁を殴った。
さらにもう一度、と振り上げた拳を、クラークの言葉が止めた。
「もうやめとけ。いい加減に壁そのものが崩れるぞ」
「……修理代は俺の給料から引いといてくれ」
「それは別に構わんが、ここが崩壊したらどこの医者にレオナを診せるんだ?」
それが決定打になった。
ラルフは振り上げた拳を下ろすと、それに引き摺られるようにずるずると床に座り込んだ。
それに、レオナの病室には、今はハイデルンが多忙な時間を割いて訪れている。これ以上騒がしくして、邪魔をしてはいけないとも思った。
「赤い髪、か」
病室のハイデルンは、そっとレオナの髪を撫ぜた。
ハイデルンが赤い髪をしたレオナと直接会うのはこれが初めてだった。過去現れたそれを、ハイデルンはモニタ越しに見ただけだ。
初めて見る娘の姿だった。
いや、親子だと思っているのは自分だけで、彼女にとって自分は父という存在ではないのかもしれない。この八年、ハイデルンが接してきたのは青い髪の少女だけなのだ。
だがハイデルンは、いつか叶うのなら、赤い髪をした娘に話したいことがあった。それはおそらく叶わない願いだと思っていたが、思いがけないこの状況がそれを叶えた。
「いつか、お前と話をしたいと思っていた」
ハイデルンが話しかけても、レオナの赤い瞳は動かない。長い睫は伏せられたままだ。
それを意に介さず、ハイデルンは続けた。
「憎みたいのなら、私を憎むといい」
いつか、そう告げてやりたかった。
娘の中にはふたつの魂がある。モニタ越しに見た光景の中、それに気付いたハイデルンは、いつかそう告げたいと思っていた。
レオナの中のふたつの魂の違いは、己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけだ。どちらもレオナの魂であることには変わりない。
だが、その片方は暗く深く、この世の全てを憎んでいる。自分を拒むこの世界を憎んでいる。
そんな風に全てを憎む必要はないのだと、孤独な魂に告げてやりたかった。
憎まれるのは、この義父だけでいい。
レオナの血の宿命から彼女を遠ざけようとした、実の父親を憎む必要はない。確かに彼は、オロチとしてではなく人として生きようとした。だがそれは、彼自身の生だ。それで娘の生まで縛ろうとしたわけではあるまい。
彼はただ、レオナが自身の意思ではなく、他者の力によって強引に瞼を抉じ開けられ、目覚めるのを望まなかっただけだ。娘がもっと歳を重ねて、自分の意思で血の宿命を受け入れようとするなら、それを喜びはしなかったろうが、拒みもしなかっただろう。
大体にして、オロチとして生きることが不幸だと誰が決めた。マチュアは、バイスは、社はクリスはシェルミーは不幸であったと誰が言える? 彼らが彼らの信念の元に幸せでなかったと誰が言える?
結局、父としてできることは、娘が娘の思う幸せを得られることを祈るだけだ。それ以上のことは、たとえ血の繋がった父でもできないし、してはならない。レオナの人生を変えていいのは、彼女自身だけだ。
だからと言って、人として生きようとするもう一人の自分を、レオナが憎む必要もない。
生きとし生けるものは皆、心の内に相反する願望を抱いているものだ。レオナの中で血の宿命への葛藤が起こるのも、それはごく自然なことだ。その全てを許し受け入れろとはどちらの娘にも言うつもりはないが、どうか己を憎まないでくれたらとハイデルンは願う。
その想いを込めて、ハイデルンは繰り返した。
「お前が憎むのは、私だけでいい」
レオナが宿命に立ち向かえるよう戦う術を教え、人として生きられるよう道を示したのはハイデルンだ。血の暴走を命懸けで止めた、ラルフとクラークを彼女に引き合わせたのもハイデルンだ。
もしもハイデルンがレオナを引き取らなければ、おそらくレオナは血の定めのままに生きただろう。そういう意味では、レオナの道行きを決定付けたのはハイデルンだと言える。
「他の誰も、何も憎まなくていい」
だがきっと、もしも本当にレオナが己の意思で、人ではなく神の代行者として生きることを選んだのなら、ハイデルンもただ父として、巣立つ娘を見送るだろう。無理に人の世界に引き止めることはしないだろう。
それでも、ハイデルンは己を憎めと言った。
他のものは何ひとつ憎まなくていい。それでもどうしても、何かを憎まなければいられないというのなら、ただ父として娘を見送って、それから人として戦う道を選ぶ――いや、選ばざるを得ないであろう義父を憎めばいい。
少なくとも自分は、憎まれるのには慣れている。
「世界はお前を憎んではいない。だから、安心して目を覚ますといい」
ベッドの上、赤い髪を広げたレオナの答えはなかった。ハイデルンも無言を選んだ。それ以上多くを語る気はなかった。
そのまま部屋には無音の空気が満ち、しかししばらくして、ハイデルンは娘の言葉に頷いた。
父は娘の声を聞くことのないまま、もしかしたら生涯にたった一度の会話を終えて、静かに病室を出て行った。
病室を出たハイデルンは、もうすぐレオナが目を覚ますだろうから、その後の処置と、念のための再検査の支度をするようにと軍医に告げた。顔に疑問符を浮かべながら病室に向かう軍医を見送り、ハイデルンは自室に戻る。
自室に戻ったハイデルンは、広いデスクの前に座り、それから目を閉じた。
目を閉じたまま、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回、長く1回、短く長く長く短く、また短く――モールス信号というものを娘に教えた時、まさかそれがこういう風に使われるとは思ってもいなかった。
赤い髪のレオナは最後まで声を上げなかった。おそらくそれは、彼女の自由にならなかったのだろう。
その代わりに、指先でハイデルンの掌を叩いて短い言葉を残した。
残した言葉は短かった。それが2回繰り返された。繰り返して伝えればいいのかと確かめたら、Noと返された。
その後、叩かれたのは5つの数字だ。825。続けて95。
ハイデルンはもう一度、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回長く1回、短く長く長く短く、また短く――『HAPPY BIRTHDAY』。825はラルフの誕生日で、95は十日ほど先のハイデルンの誕生日だ。
己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけが違う魂だ。青い髪の少女と同じように、誕生日を覚え祝うほどに、赤い髪の少女も彼女の恋人を、そして父を想っている。
ハイデルンが頷くと、赤い髪の少女の顔はひどく穏やかな顔をした。そう見えた。
おそらく、再び赤い髪の少女は眠る。次の『もしもの時』が来るまで。そしてその時がまた来たのなら、二人の少女は手を取ってそれと戦うのだろう。薄紅色の髪をなびかせて。
いつか薄紅色の髪をした娘とも話ができるだろうか。ハイデルンは目を閉じたまま、そんなことを思った。
ハイデルンの指先が、こつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、レオナが目を覚ましたんです、だから何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
きっとその後には金髪の傭兵が苦笑しながら立っていて、神様もずいぶん粋な誕生日プレゼントをくれるじゃないですかと言うだろう。8月25日が終わるまでにはあと数十分ある。赤い髪の娘からの伝言も、それと一緒に伝えようか。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
きっかけは三日前、ラルフたちの部隊が任務中に、敵の伏兵に襲われたことだった。
狙われたのはチームの先頭だった。その真後ろにいたラルフが、こちらを狙う銃口に最初に気付いた。
狙われていた仲間を、ラルフがほとんどタックルの要領で強引に伏せさせるのと、敵の銃口が火を吹くのがほとんど同時。間一髪、体を捻ってラルフ自身も銃弾をかわす。その隙を突いてクラークとレオナが反撃した。もう少しで伝説の傭兵を屠った男になれるはずだった襲撃者の人生は、呆気なくそこで終わりを告げる。そこまでは、誰もが惚れ惚れするようなコンビネーションだった。
降り続く雨で、ぬかるんだ足元だけがいただけなかった。
ずるりとラルフの足元が滑る。普段ならなんでもないことだったが、銃撃を避けたせいで体の軸が傾いでいた。
倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまろうとした足が空を掻く。やばい、と思った時にはもう、体が宙を舞っていた。
悪いことに、崖っぷちだった。夜の闇に紛れているのと、下に深い森が続いているせいで正確な高さは分からないが、決して低くはない。
「ラルフっ!!」
クラークが手を伸ばす。クラークなら、ラルフの指先だけでも掴めれば引き上げることもできるだろう。だが、その手は届かない。後は何メートルになるかもわからないフリーフォールが待つばかりだ。誰もがそう思った。
その時、薄紅色の風が疾った。
装備込みで120kg越えの、ラルフの落下速度よりまだ速い。そんなスピードが出せるのは、人の枷を弛めたものだけだ。
「レオナ……ッ」
薄紅色の髪が風に舞う。暴走のぎりぎり手前、人としての意識が保てる限界まで、血の宿命を背負う代わりに得た力を引き出しての跳躍だ。
空中でラルフの体を捉まえたレオナは、同時に反対の手を懸命に伸ばした。崖の途中に生える木の枝でも掴めれば、それで落下を止められる。
枝に手が届いた。弾かれた。
二人合わせて200kg超えだ。その落下の衝撃を片手で止めるなど。
枝に弾かれた時に傷付いたのか、赤いものが散る。それに近付くようにさらに深い赤に髪を染め、それでもレオナは次の枝に手を伸ばす。自我と力の限界に挑んでいる。
また、弾かれた。
ラルフはとっさにレオナを引き寄せ、自分の体で包むように抱きしめた。それにどれだけの意味があるか分からないが、地面に叩きつけられた時の衝撃を少しでも和らげることができたら、と思った。
「畜生おおおおおおっ……!」
ラルフの長い叫び声の尾を残し、二人が闇に吸い込まれるように落ちて行くのを、クラークたちは何もできないまま見つめるしかなかった。
だが、その後のクラークたちの動きは早かった。とてつもないスピードで残敵を掃討してのけ、夜を徹して二人を探したのである。あの二人が揃って死ぬはずがない。だがあの高さから落ちたなら、すぐに動くことはできないだろう。きっと助けを待っているはずだ。皆がそう信じていた。
果たして翌朝、崖下の川のを少し下った辺りで二人は見付かった。嘘のような軽傷だった。
川が雨で増水していたせいもあるだろう。いつもより深さを増した川がクッションになったに違いない。
だが、やはりレオナの力によるものが大きかったのは明確だった。川に落ちた後、レオナがラルフを掴まえたまま岸まで泳ぎ着いた跡も見付かった。結局のところ、ラルフはレオナに命を救われたのである。
その代償は軽くはなかった。
ラルフはすぐに意識を取り戻したが、レオナはいつまでも目を覚まさなかった。現地の病院では特に大きな外傷も見付からず、CTも脳波も異常なし。原因不明のまま基地の医療部に搬送されたが、そこでも意識を取り戻さない理由はわからなかった。並の病院よりも遥かに優秀な、ハイデルン傭兵部隊の軍医ですら首を振ったのである。
「精神的なものはあるかもしれないな」
軍医はベッドに横たわるレオナと、カルテを交互に見ながら言った。シーツの上に広がる髪は真紅、伏せた瞼に隠されてはいるが、瞳も真紅だ。レオナが限界以上にその力を引き出した状態、血の暴走と呼ばれる状態になった時と同じ色である。
「今起きたら、自分を抑えられないと思っているかもしれんよ。それで起きるようとしない、ってことも考えられる――様子を見るしかないね」
「……力に頼るつもりはない、って言ってたじゃねえかよ」
そう呟きながら、ラルフは壁を殴りつけた。さっきから何度も同じことを繰り返している。
剛拳で何度も殴りつけられた壁は、脆い表面をぽろぽろと崩して内側のコンクリートと鉄筋を晒していた。そこまですれば殴った拳の方も流石に傷付いて、爆ぜた皮膚から血が溢れている。それでもラルフは拳を止めなかった。
あの時、投げ出された宙で見た薄紅色の髪を、ラルフは以前にも見たことがある。
夕暮れの人気のない兵舎の裏だった。レオナは一人、手刀を振るっていた。
それが普通の訓練ではないことは一目で分かった。レオナが空を蹴る度に、見えない敵を手刀で薙ぎ払う度に、その髪の色が赤を帯びていく。青から紫へ、そこから徐々に明度を上げて薄紫に近くなり、やがて薄紅に染まっていく。
髪に瞳に赤色が濃くなるほど、蹴りも手刀も早くなった。人の身という枷を弛め、その限界を試しているかのように。
「力に頼るつもりはないんじゃなかったのか?」
「ええ、頼るつもりはないわ。頼るつもりはないけれど、限界を知って置こうと思って」
「限界?」
「戻れなくなる、限界」
「血の暴走か」
それにレオナは言葉で答えず、ただ頷いた。
「使わずに済むならその方がいいけれど、もしもの時に使えなかったら後悔すると思う。だから」
その考えを否定しようとは、ラルフは思わなかった。こういう血生臭い世界に生きていれば、『もしもの時』は日常茶飯事のようにやってくるし、それを避けるために皆とっておきの奥の手を隠している。レオナがそういうものを求め、模索するのは別に不思議なことではなかった。
だが、同時にラルフが願ったことがある。それは長い間、ひっそりとラルフの胸の奥に残って、やがて誓いとなっていった。
「……いくら制御できる力でも、できれば使わないで済みゃ、それが一番いいと思ってた」
レオナの父を、母を死なせた力だ。自分の中にそういう力があるということから目を背けることはできなくても、それを再び使わなければならないような『もしも』の時など、来なければいいと思っていた。
「使わないで済みゃあそれでいい。それでももし、使わなきゃならねえような時が来たら……それでも使わずに済むようにしてやりたいと思ってた」
この世の全てから守ってやれるなどと傲慢なことは思っていないが、せめてひとつだけ、それだけはしてやれたらと思っていた。想いはずっと胸の中にあって、いつか誓いになった。
それを、守れなかった。それどころか、『もしもの時』は自分の身の上に降りかかって来て、その為にレオナは人ならぬ力を使った――自分の為に使わせてしまった。
それが悔しくてならなくて、ラルフはもう一度壁を殴った。
さらにもう一度、と振り上げた拳を、クラークの言葉が止めた。
「もうやめとけ。いい加減に壁そのものが崩れるぞ」
「……修理代は俺の給料から引いといてくれ」
「それは別に構わんが、ここが崩壊したらどこの医者にレオナを診せるんだ?」
それが決定打になった。
ラルフは振り上げた拳を下ろすと、それに引き摺られるようにずるずると床に座り込んだ。
それに、レオナの病室には、今はハイデルンが多忙な時間を割いて訪れている。これ以上騒がしくして、邪魔をしてはいけないとも思った。
「赤い髪、か」
病室のハイデルンは、そっとレオナの髪を撫ぜた。
ハイデルンが赤い髪をしたレオナと直接会うのはこれが初めてだった。過去現れたそれを、ハイデルンはモニタ越しに見ただけだ。
初めて見る娘の姿だった。
いや、親子だと思っているのは自分だけで、彼女にとって自分は父という存在ではないのかもしれない。この八年、ハイデルンが接してきたのは青い髪の少女だけなのだ。
だがハイデルンは、いつか叶うのなら、赤い髪をした娘に話したいことがあった。それはおそらく叶わない願いだと思っていたが、思いがけないこの状況がそれを叶えた。
「いつか、お前と話をしたいと思っていた」
ハイデルンが話しかけても、レオナの赤い瞳は動かない。長い睫は伏せられたままだ。
それを意に介さず、ハイデルンは続けた。
「憎みたいのなら、私を憎むといい」
いつか、そう告げてやりたかった。
娘の中にはふたつの魂がある。モニタ越しに見た光景の中、それに気付いたハイデルンは、いつかそう告げたいと思っていた。
レオナの中のふたつの魂の違いは、己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけだ。どちらもレオナの魂であることには変わりない。
だが、その片方は暗く深く、この世の全てを憎んでいる。自分を拒むこの世界を憎んでいる。
そんな風に全てを憎む必要はないのだと、孤独な魂に告げてやりたかった。
憎まれるのは、この義父だけでいい。
レオナの血の宿命から彼女を遠ざけようとした、実の父親を憎む必要はない。確かに彼は、オロチとしてではなく人として生きようとした。だがそれは、彼自身の生だ。それで娘の生まで縛ろうとしたわけではあるまい。
彼はただ、レオナが自身の意思ではなく、他者の力によって強引に瞼を抉じ開けられ、目覚めるのを望まなかっただけだ。娘がもっと歳を重ねて、自分の意思で血の宿命を受け入れようとするなら、それを喜びはしなかったろうが、拒みもしなかっただろう。
大体にして、オロチとして生きることが不幸だと誰が決めた。マチュアは、バイスは、社はクリスはシェルミーは不幸であったと誰が言える? 彼らが彼らの信念の元に幸せでなかったと誰が言える?
結局、父としてできることは、娘が娘の思う幸せを得られることを祈るだけだ。それ以上のことは、たとえ血の繋がった父でもできないし、してはならない。レオナの人生を変えていいのは、彼女自身だけだ。
だからと言って、人として生きようとするもう一人の自分を、レオナが憎む必要もない。
生きとし生けるものは皆、心の内に相反する願望を抱いているものだ。レオナの中で血の宿命への葛藤が起こるのも、それはごく自然なことだ。その全てを許し受け入れろとはどちらの娘にも言うつもりはないが、どうか己を憎まないでくれたらとハイデルンは願う。
その想いを込めて、ハイデルンは繰り返した。
「お前が憎むのは、私だけでいい」
レオナが宿命に立ち向かえるよう戦う術を教え、人として生きられるよう道を示したのはハイデルンだ。血の暴走を命懸けで止めた、ラルフとクラークを彼女に引き合わせたのもハイデルンだ。
もしもハイデルンがレオナを引き取らなければ、おそらくレオナは血の定めのままに生きただろう。そういう意味では、レオナの道行きを決定付けたのはハイデルンだと言える。
「他の誰も、何も憎まなくていい」
だがきっと、もしも本当にレオナが己の意思で、人ではなく神の代行者として生きることを選んだのなら、ハイデルンもただ父として、巣立つ娘を見送るだろう。無理に人の世界に引き止めることはしないだろう。
それでも、ハイデルンは己を憎めと言った。
他のものは何ひとつ憎まなくていい。それでもどうしても、何かを憎まなければいられないというのなら、ただ父として娘を見送って、それから人として戦う道を選ぶ――いや、選ばざるを得ないであろう義父を憎めばいい。
少なくとも自分は、憎まれるのには慣れている。
「世界はお前を憎んではいない。だから、安心して目を覚ますといい」
ベッドの上、赤い髪を広げたレオナの答えはなかった。ハイデルンも無言を選んだ。それ以上多くを語る気はなかった。
そのまま部屋には無音の空気が満ち、しかししばらくして、ハイデルンは娘の言葉に頷いた。
父は娘の声を聞くことのないまま、もしかしたら生涯にたった一度の会話を終えて、静かに病室を出て行った。
病室を出たハイデルンは、もうすぐレオナが目を覚ますだろうから、その後の処置と、念のための再検査の支度をするようにと軍医に告げた。顔に疑問符を浮かべながら病室に向かう軍医を見送り、ハイデルンは自室に戻る。
自室に戻ったハイデルンは、広いデスクの前に座り、それから目を閉じた。
目を閉じたまま、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回、長く1回、短く長く長く短く、また短く――モールス信号というものを娘に教えた時、まさかそれがこういう風に使われるとは思ってもいなかった。
赤い髪のレオナは最後まで声を上げなかった。おそらくそれは、彼女の自由にならなかったのだろう。
その代わりに、指先でハイデルンの掌を叩いて短い言葉を残した。
残した言葉は短かった。それが2回繰り返された。繰り返して伝えればいいのかと確かめたら、Noと返された。
その後、叩かれたのは5つの数字だ。825。続けて95。
ハイデルンはもう一度、指先で机を叩く。短く4回、それから短く1回長く1回、短く長く長く短く、また短く――『HAPPY BIRTHDAY』。825はラルフの誕生日で、95は十日ほど先のハイデルンの誕生日だ。
己の中に流れる血を受け入れたか拒んだか、ただそれだけが違う魂だ。青い髪の少女と同じように、誕生日を覚え祝うほどに、赤い髪の少女も彼女の恋人を、そして父を想っている。
ハイデルンが頷くと、赤い髪の少女の顔はひどく穏やかな顔をした。そう見えた。
おそらく、再び赤い髪の少女は眠る。次の『もしもの時』が来るまで。そしてその時がまた来たのなら、二人の少女は手を取ってそれと戦うのだろう。薄紅色の髪をなびかせて。
いつか薄紅色の髪をした娘とも話ができるだろうか。ハイデルンは目を閉じたまま、そんなことを思った。
ハイデルンの指先が、こつこつと机を叩く。静かな部屋に、その音だけが響いている。
だがその静寂もすぐに破られるだろう。もうすぐ騒がしい部下がやってくるはずだ。そしてきっと、レオナが目を覚ましたんです、だから何が何でも早く来てくださいと、彼をこの部屋から引きずり出そうとするだろう。
きっとその後には金髪の傭兵が苦笑しながら立っていて、神様もずいぶん粋な誕生日プレゼントをくれるじゃないですかと言うだろう。8月25日が終わるまでにはあと数十分ある。赤い髪の娘からの伝言も、それと一緒に伝えようか。
ハイデルンは机を叩きながら、その時を待っている。
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