所在無く揺らめいているひとつの影
重たい重たい不安の中でまどろんでいる
それが何か、あたしはよく知っている
遥か遠くに見慣れた光を見つけた
声を掛けようとして
でも できなくて
あたしはくるりと身を翻して
まるで逃げるようにその場から走り去った
小さな世界は、オーガンディのような柔らかな膜で包み込まれている
まだ、破らないで…
困ったように揺らいだひとつの灯火
それは、目を覆うガラスに跳ね返った一筋の耀き
それが何か、あたしはよく知っている
立ち止まり俯いたまま微動だにしない
赤い炎を捕まえようとして
でも 怖くなって
思わず伸ばしそうになった手を
あたしは引っ込め、胸で組み、そしてうな垂れた
小さな世界は、砕けたエメラルドのようなラメ緑に淡く耀いている
まだ、瞬いている…
暗闇に放りだされた赤いパッケージ
それは遠ざかった過去の思い出
それが何か、あたしはよく知っている
薄紫のため息を零す唇
輪郭に指を滑らそうとして
でも 姿は消えて
あたしは息を飲み込み、膝を付き、ただすすり泣いた
小さな世界は記憶の世界
優しくて残酷なこの世界はあたしの時を止める
この夢の中で死ぬ事が出来たらば
あたしはどんなにか幸せだろう
女々しいと思う
所在無く揺らめいているのはあたしだから
馬鹿馬鹿しいとも、思う
重たい重たい不安の中でまどろんでいるのはあたしだから
それでも、このままでいたい
煙と共に消えたのはあの人だから
けど
ゆらりゆらりとこの世界に流されて
このままあたしはどこへ辿り着くのだろう?
ふと、炎の燃える音で目覚めた
薄暗いダンジョンの片隅で揺れるその光に
あたしの中の小さな世界が薄らいでいったのは
彼の吸っていた銘柄が
あの人と同じ、それだけではないと
そう信じたがっている自分を見いだした
きっと
彼はまだ、気付いてない
重たい重たい不安の中でまどろんでいる
それが何か、あたしはよく知っている
遥か遠くに見慣れた光を見つけた
声を掛けようとして
でも できなくて
あたしはくるりと身を翻して
まるで逃げるようにその場から走り去った
小さな世界は、オーガンディのような柔らかな膜で包み込まれている
まだ、破らないで…
困ったように揺らいだひとつの灯火
それは、目を覆うガラスに跳ね返った一筋の耀き
それが何か、あたしはよく知っている
立ち止まり俯いたまま微動だにしない
赤い炎を捕まえようとして
でも 怖くなって
思わず伸ばしそうになった手を
あたしは引っ込め、胸で組み、そしてうな垂れた
小さな世界は、砕けたエメラルドのようなラメ緑に淡く耀いている
まだ、瞬いている…
暗闇に放りだされた赤いパッケージ
それは遠ざかった過去の思い出
それが何か、あたしはよく知っている
薄紫のため息を零す唇
輪郭に指を滑らそうとして
でも 姿は消えて
あたしは息を飲み込み、膝を付き、ただすすり泣いた
小さな世界は記憶の世界
優しくて残酷なこの世界はあたしの時を止める
この夢の中で死ぬ事が出来たらば
あたしはどんなにか幸せだろう
女々しいと思う
所在無く揺らめいているのはあたしだから
馬鹿馬鹿しいとも、思う
重たい重たい不安の中でまどろんでいるのはあたしだから
それでも、このままでいたい
煙と共に消えたのはあの人だから
けど
ゆらりゆらりとこの世界に流されて
このままあたしはどこへ辿り着くのだろう?
ふと、炎の燃える音で目覚めた
薄暗いダンジョンの片隅で揺れるその光に
あたしの中の小さな世界が薄らいでいったのは
彼の吸っていた銘柄が
あの人と同じ、それだけではないと
そう信じたがっている自分を見いだした
きっと
彼はまだ、気付いてない
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1章☆カッツィ乱入
「いい天気だ…。」
窓から差し込む春の日差しに目を細めながら、パオフゥはソファーに転がっていた。
テーブルの上の酒瓶はすでに数本が空になり、氷の入ったグラスは陽気に負けうっすらと
汗をかいている。
「今日はぎゃあぎゃあ文句言う奴もいねぇし、久々に穏やかな休日だよなぁ…。」
ぐで~っとしながらパオフゥが本日何杯目かわからないバーボンをグラスに注ごうとした時、
麗らかな部屋にドアチャイムが鳴り響いた。
ピンポーン
「あああ~~?」
ソファーに横たわったままパオフゥは視線だけを扉に向ける。
ピンポーン
少し間を開け、チャイムは再び鳴った。
「なんだぁ?本日休業の張り紙が読めねぇってのか。」
ボトルとグラスを握り締め、眉間にしわを寄せる。
ピンポーン
更にもう一度。どうやら休業と知ってなお用事があるらしい。
「仕方ねぇ。」
ヨイコラショとまでは言わないものの、パオフゥはフラフラとソファーから立ち上がり、
飲みすぎておぼつかない足を引きずるようにして玄関へ向かった。
ピンポーン
チャイムはしつこく、けれどどこか申し訳なさそうに鳴り続けている。
「誰だ。」
がちゃりと音を立てて扉を開ければ、目の前には大きな紙袋を携えた克哉が立っていた。
「や、やあ嵯峨!げ、元気かい?あははは。」
どうにもわざとらしい笑顔を振り撒き、克哉はぎこちなく片手を挙げた。
「お前か…珍しいな。一体何の用だ?」
世にも珍しいものを見るような表情でパオフゥは克哉の頭からつま先を何度も何度も見る。
パオフゥのやや失礼な態度にも動じず、克哉は頭を掻いた。
「い、いやね。たまにはお前と一緒に飲もうかな~なんて思ったんだが…。
もうすでに飲んでいるみたいだな。しかもその分じゃかなりの量を飲んでいるんじゃないか?
…顔が真っ赤だぞ。」
サングラスを手で軽く上げ、克哉はよれよれの黒シャツと金のパンツスーツを着た、
赤ら顔の男をまじまじと見つめた。
「…文句あるか。」
パオフゥは余計なお世話といわんばかりに、やや不機嫌な表情を見せる。
すると克哉は、そのまま首が飛んでいってしまいそうな勢いで強く激しく首を振った。
「い、いやいや!そんなことはないよ。文句なんか一切ないさ。あるワケがない!
ほ、ホラ…さ、誰にだって、まぁ、飲みたい気分の時があるものだからね!」
そして問題ない問題ないと繰り返し、抱えていた紙袋から酒瓶の頭を少しのぞかせた。
「僕も飲むっていっただろう?これは手土産だ。今日は僕も非番だから、じっくりと
二人で飲み明かそうじゃないか。」
そう言って克哉に渡された紙袋の中に入っている数本の酒瓶の銘柄に表情をわずかに
緩ませると、パオフゥは入れと顎で促し、そのまま自分は奥の部屋へと向かう。
少しほっとしたように息を付くと克哉もまたオフィスに向かった。
パタン。
閉じられた玄関の扉に張られた『本日休業』の張り紙が春風になでられ、軽くたなびいた。
2章☆挙動不審刑事(25)
「こ、これはまたひどい有様だね。」
部屋に一歩足を踏み入れた途端、克哉が後ずさった。
室内にはタバコの煙が充満し、まるで燻製でも作っているかに煙っている。
床にはくしゃくしゃに握りつぶされたタバコの空き箱と、吸殻が山盛りになった灰皿。
読み終えた新聞もそこいらじゅうにばら撒かれ散らかり、パソコンの様々なコード類も
のび放題である。
さらに、酒の肴とおぼしきチータラやかっぱえび○んなどの食いカスが、テーブルの上を
所狭しと占領し、その隙間を埋めるように氷の入れ物やピッチャーが置かれ、
空の酒瓶が転がる散々な様相である。
舞耶のおかげで多少の部屋の汚さには慣れた克哉ではあっても、この不健康極まりない
汚れ方にはわずかならぬ不快感を示していた。
けれど、たいてい部屋を汚す人間にはその自覚があまり無いものだが(舞耶含む)、
パオフゥにしてもその例外ではなく克哉の反応に全く気付かない。
「ああ?そうか?」
と言い放った後、またソファーにどっかと座り込んだ。
「まぁ、お前も座れや。」
ちょいちょいと自分の正面のソファーを指差す。
「そ、それじゃあ失礼して。」
克哉は新聞や吸殻などを踏まないようにうまく避けながら、正面のソファーに腰をおろした。
パオフゥは克哉の手土産の紙袋から酒瓶を取り出し、テーブルの上に無理矢理のせていく。
当然、酒瓶に追い詰められた食べカス等のごみは行き場を失って床にぼとぼとと落ち、
克哉はその様子にあからさまに顔を歪ませた。
「グラスはこれを使え。」
「あ、ああ。ありがとう。」
渡されたグラスを握り締めながら、克哉はきょろりと部屋を見回した。
「なぁ、嵯峨。」
「なんだ?」
パオフゥは自分のグラスになみなみと酒を注ぎ、そして克哉のグラスにも酒を注いだ。
「差し出がましいかもしれないが、その…この部屋は片付けたほうがいいんじゃないのかな。
衛生上、どう考えてもいいとは思えないのだが…。最後に掃除したのはいつだ?」
ちらりと上目遣いにパオフゥの様子を伺う。
「余計なお世話だ。俺はコレが気に入ってんだ。」
眉間にしわを寄せたものの、やがて少し考え込むように天井を見上げ、パオフゥはぼそりと
呟いた。
「そうだな…この前芹沢が掃除したのが最後だったはずだ。」
そして自分のグラスに口を付け、ごくりごくりと喉を鳴らしながら一気に呷った。
「!!」
克哉の顔色がわずかに青ざめる。
その変化にパオフゥは気付かず、ぷふぅーと大きく酒臭い息をつく。
「だがな、ここは俺の部屋なんだ。汚かろうと文句言われる筋合いはねぇ。」
サングラス越しに克哉を軽く睨みつけた。
「す、すまない。変なことを聞いたね。」
もじょもじょと小声で呟く克哉の姿に、パオフゥはぼりぼりと頭を掻いた。
「別に構わねぇよ。」
「そ、そうか…なら良かった…。」
会話はそこで途切れ、克哉とパオフゥは互いのペースで酒を飲みだした。
静まり返った部屋にはムサい男二人がかもし出す、居心地の悪い空気が流れ出す。
克哉は始終グラスを弄んだり、溜息をついたり落ち着かないことこの上ない。
挙句貧乏ゆすりまではじめ、何か口を開こうと顔を上げるものの、思い直したようにまた
俯いてはグラスを空ける。
パオフゥはひたすらグラスを空け続けていたが、数杯目の酒をグラスに注ぎながら、
克哉のその様子を見、軽く首をすくめた。
先に口を開いたのは、パオフゥだった。
パオフゥは酒瓶をやや乱暴にテーブルの上に置き、その衝撃で、もそりと音を立てて
ごみが床に落ちる。
「お前よ、さっきからなんなんだ??辛気臭ぇ思いつめた面しやがって。
溜息付いたりモジモジしたり、言いたいことがあるならはっきり言え!
気持ち悪ぃったらねぇんだよ!」
そして腕と足を組み、克哉の顔を不審そうに眺める。
「あ、い、いや…。」
その言葉に克哉は戸惑ったような表情を見せたが、軽くかみ締めていた唇を開いた。
「そうだな、いつまでも避けられる話題じゃないしな…。」
また小さく溜息をつく、克哉。
「…なんと言うか…今回はその…はっきり言わせてもらうと……残念だったね。」
ぼそっと言って克哉はグラスを握った両手を、額に当てた。
「??」
パオフゥは怪訝そうに眉をしかめながらも、黙ってグラスを口に運ぶ。
「お前の見た目は確かに一般人には見えない。性格も生活態度も決していいとは言えない。
服のセンスが悪い上に酒呑みだし、半神ジャガーズなんて弱い球団も好きだ。
頭はいいくせにダジャレセンスが悪いし、髪も長いし、愛想も悪い。
イベントにも疎いから、ほんの少しの気の利いたことを言うこともすることもできないことも
分かっている。
到底、世間一般に言う好青年、もとい好中年には見えはしない。
だがな、僕としてはやはりその辺がネックだったのではないかと思う。」
「…」
「高めあいながら前に進める人間に出会えることができたなら、それは素晴らしいことだ。
そんな相手とずっと一緒に居ることができるならばなお、素晴らしいと思う。
しかし人とは支えてもらわなければ生きてゆけない脆弱な生き物だ。
ただ前へ押してくれるだけではなく、倒れそうなときに優しい言葉の一つが欲しいものなんだよ。
お前の場合なんか特に、支え合いなんて言葉はとても考えられたものじゃない。
ましてや愛情とか優しさとかそういう類の感情は似合わなさ過ぎて逆に笑えるし、
お前に求めようがないのもまた頷ける話なんだが…。」
「…周防。」
変な展開になってきたと、パオフゥはグラスを傾ける手を止めた。
すると克哉は慌てたように手のひらを振り回した。
「だ、だが!僕は決してお前だけが悪いと言ってるわけではないんだ!
人は常に移り変わるものであり絶対的不変な存在であり得はしない。
時間の流れに合わせて少しずつ変化していく事は自然の理で、なんて言うか、こう、
歯車は常にうまく噛み合うものではなく、時にズレも生じれば調整もするし、それでもダメなら
パーツを替えることも考えられる。
今回はそれがたまたまお前だったって言うだけあって、いつか僕もそうならないとは言い切れ
ないし、例え『これは!』と思っても数週間後には、やはり勘違いだったということなんか
多々あり得るものだから、まぁ、今回のパターンはそんなかんじに受け流して…って、
ああーもう!言いたいことはそうじゃなくって……ならば僕はなんと言えば!!」
そう叫んで克哉は髪の毛をもしゃもしゃとかき混ぜた。
バリリと整ったモミアゲがとたんに乱れる。
「つーか、お前一体何言って…」
ピンポーン
意味不明な克哉の発言にパオフゥが身を乗り出したとき、またもドアチャイムが鳴り響いた。
二人は反射的に玄関に目線を向ける。
ピンポーン
「お、お客じゃないのかい?出迎えないといけないだろう!」
克哉が勢いよく立ち上がるのを、パオフゥは手で制止する。
「今日は休業なんだよ。お前も張り紙見ただろうが。放っておけばいい。」
面倒くさそうに答えるパオフゥに克哉は掴み掛かりそうな勢いでテーブルをまたぎ越え、
詰め寄った。
「何てことを言うんだ!いいじゃないか、客商売なんだから出て損はないだろう。
客の目を見ながら今日は休業と言えばいいだけじゃないか、そうだろう?
さぁ、僕の事は気にしないでくれて構わない!むしろ愛想笑いくらいかましてやれ!
…それに…もしかしたら芹沢君かも…しれないだろう?」
そう言って克哉はパオフゥの肩をぐいと掴んだ。
あまりにも真剣な克哉の表情に押され、パオフゥはたじろぎながらも答える。
「な、お前…、どうしたんだ?第一、芹沢なわけがねぇ。アイツは…」
「そんなの分からないじゃないか!分からないだろう!?
……いいから出ろって僕が言ってるんだ!行け!」
上ずった声でまくし立てる克哉にグラスを奪われ、半ば追い立てられるようにしてパオフゥは
玄関に向かった。
あまりにも不審な克哉の態度に首をひねりつつも、
『何考えてやがる、あンの乙女野郎。訳が分からねぇ。あとじっくり問い詰めねぇと。』
と心に誓い、パオフゥは訪問者を追い返すために扉を開けたのだった。
3章☆TV局メンバァ突入
「…俺の仕事…俺の家…なのに、なんで周防の顎で動かされてるんだ?」
腕組みをし、歩きながらパオフゥは考える。故に、パオここに在り。
「アイツにゃー何の貸しも借りもねぇってのに、やたら態度がでかすぎる。」
ブツクサ文句を言いながらパオフゥは面倒くさそうに玄関のドアノブに手を伸ばした。
『ちくしょう~~。何処のどいつかは知らんが折角の休日を邪魔しやがって。
ぶっとばして丁重にお帰り願ってやらんと気がすまねぇ!』
鬼気迫る意気込みでノブを回し、扉を開けようとした時。
――扉とは多くのものが外から開ける場合は押し、中から開ける場合は引くものである。
パオフゥのオフィスの扉もまた、例に違わず。
引き開けようとした扉は、外部からの力も加わり恐ろしいまでの勢いでパオフゥに向かってきたのだった。
「おあ!?」
とっさのことで避ける間もなく、パオフゥはしばしの空中浮遊を堪能し、数メートルの距離を飛行した。
ぶっ飛ばすつもりが逆にぶっ飛ばされてしまった、ありがちなパターンである。
「ぐぼっ!!」
蛙が潰れたような呻き声をあげ、パオフゥはそのまま床に頭から叩きつけられた。
と、同時に開け放たれたドアから何者かがオフィスに侵入してくるのを、パオフゥは走馬灯が駆け巡る脳内で感じとった。
『―――この俺の隙をついてくるとは…悪魔か!?』
よくよく考えてみれば隙もへったくれもありはしないのだが、しかし、次の瞬間パオフゥは自分の考えが外れたことを知る。
「でひゃひゃひゃ~~!ちわ~~~っス~~!」
扉で隔たれパオフゥからは顔が見えないものの、窓ガラスがビリビリと怯えるほど響き渡るその大きな声は、
侵入者が何者であるかを嫌と言うほどにパオフゥに知らしめた。
「パオフゥさーん、いないんスか~~?」
ドカドカと大きな足音を立ててその人間はオフィス内に入ってきた。
続いて足音がもう二つ、トストス、ドスドスと続いてくる。
「Oh!Brown.人様のお宅に勝手に入ってはいけませんわよ。Maner違反でしてよ?」
引き止めるような甲高い声。
「桐島のいう通りだよ、上杉。こういう時は家主が出てくるのを待つもんだろ。
お前も立派な社会人なんだから、しっかり常識を弁えておくべきじゃないのかい。」
非難するドスの効いた声。パオフゥはどの声も聞き覚えがあった。
そう。
入ってきたのはブラウン、その後に続いてエリー、ゆきのと、つまるところTV局メンバーであった。
三人とも、ドアの陰の床に倒れているパオフゥに全く気付く素振りすらみせずワイワイとやっている。
ムカっ腹を立てたパオフゥは飛び起きて一発食らわしてやろうと考えたが、彼が長年にわたり培ってきた六感が、
『もう少しここで話を聞いていたほうが得策である』と判断した。
なんと言っても、彼には何が起きているのか全く分からなかったのだから。
『盗聴』は彼の最も得意とする事の一つであるし、ひとまずパオフゥは気付かれるまでは床に居ることにした。
「まぁまぁ、いいじゃないッスか、姐御!ほら、今日はそう言うカタ~イ事は言いっこなしなし!
こういう乱入の方がネタ的にも気分的にもオイシイもんじゃないっスか!…ね、ね?」
必死で自分をフォローするブラウンに、ゆきのが溜息混じりに呟いた。
「ネタって言うのは引っかかるけど…そうだねぇ。流石に今日はね。」
ゆきのの意見に同調するようにエリーもまた続ける。
「確かに…。今日という日は、少々seriousになりそうですものね。
Brownくらいのcheerfulさが無ければいけないかもしれませんわ。」
「でしょでしょ、そーでしょー?たまにはこういうノリもあの人には必要っスよ。
あの人のことだから沈み込んで酒でも呷ってるに違いないし。
だからこそ、こうやって俺達が来たんじゃないの。」
エリーの助け舟も得て、ブラウンはここぞとばかりに鼻を膨らます。
「でもねぇ…あたし達がでしゃばるべきじゃないんじゃないのかい。
こういうことってやっぱり―――」
言葉を濁らすゆきのに、エリーが声を掛ける。
「ですけれどYukino。コレは頼まれたことですし、やれるだけやらなくてはなりませんわ。
細かいことはKeiが上手くやってくれるしょうから問題ありませんし。そして何よりも…。
いいえ、私達は信じるだけですわね。」
そして一同は無言のままに頷いた。
? 信じる?何をだよ。事態は更にパオフゥには不可解な方向へ向かっているようだ
パオフゥは、なかなか真相の出てこない会話に半ば苛立ちを覚えた。
それでも、会話に乱入はできない。できることといったら、そのまま話を盗み聞くことだけだ。
「ん、まぁ、このブラウン様がやってきた以上、どんな難事件も茶っ茶っと片付けチャウけどね。」
「相変わらずお前の冗談は寒いね。どうにかならないのかね。」
呆れ声のゆきのに、ブラウンは遺憾とばかりに返答を返す。
「なんと!姐御~~、分かってないなぁ。俺様はコレで食ってるんすよ~~?見よ、この美貌を!
ハートフルでポータブルで冴えきったジョーク!まるで風呂上りのビールのようなコクとキレ!
なんたって俺様ときたら、スーパーマルチタレントアイドル☆ブラウ…」
長口上を止めようとにエリーはすかさず言葉をはさむ。
「さあさ、急ぎましょう。Mr.Baofuの元にいきませんと。きっとMr.Suoも待ちかねていらっしゃるはずでしてよ?」
ぐいぐいとブラウンの背中を押す。
「確かにそッスねぇ。おし。パオフゥさんはたぶん奥の部屋だと思うんで、一気に行っきましょう~~なんちて。
でひゃひゃひゃ~~。」
ジョークに返事を返さず、ゆきのとエリーはさっさとオフィスに向かう。
「いやーん、無視しないでー。無視されたら俺様、サムシィ、なんちてー。」
ばたばたと二人を追う、ブラウン。
ドカドカ、トストス、ドスドス。
三者三様の足音を立てて、オフィスに続く扉を三人はくぐっていった。
「開けた扉は閉めろっての。」
結局気付かれずにやりすごしたパオフゥは、立ち上がった。
そして扉を閉めながら文句も漏らす。
「どいつもこいつも俺に気付きもしねぇしよ。」
グラグラと未だ衝撃でフラつく体と頭に軽く活を入れ、三人の入っていったオフィスに眼を向ける。
「それにしたって…今日ってなぁ…何か特別な日なのか?」
話を聞いていて分かったことは、どうやら俺の預かり知らないところで、何かが起きているらしい事。
しかも俺がナーバスになって尚且つシリアスで酒をがぶ飲みする状況であるらしい事。
周防もグルである事、南条が鍵を握っている事と、誰かがこの状況を意図的に創り上げた事だ。
―――確かに酒を飲んではいたが、俺は別に沈んじゃあいねぇのにな。
一体俺の身に何が起きているのだというのだ。
さっぱりわからないパオフゥは、ただただその場に立ちすくむばかりであった。
彼の受難はまだ続いたりする。
4章☆下水道メンバァ乱入
「何にしてもあいつらに話を聞かねぇとな。」
扉の前でじっと考え込んでいたパオフゥであったが、結局のところ1人で悩んだところで何の解決にもならない。
ならば、事情を知っているに違いない克哉・ブラウン・エリー・ゆきのに聞く事が最も確実で。
「問題はどうやって口を割らせるか、だ。」
パオフゥが気合を込めて首や指をバキボキ鳴らしながら、オフィスに入ろうとしたその瞬間。
ジャジャジャジャ~ンと言わないまでも、バターンと運命の扉は勢い良く開かれた。
「はぶっ!?」
壁と扉から猛烈なラブ(?)アタックを受け、パオフゥは消えかけていく意識の内に本日の自分の不運さを嘆いた。
…今日は厄日だ。大凶だ。天中殺だ。仏滅だ。何か憑いていやがるに相違ない、と。
彼はそのまま事切れた。
『サマリカーム』
何処からか、聞きなれた呪文を唱える声がした。
…………………………
……………………
……………
…??あれ、俺は――?
「Mr.パオフゥ、お目覚めですか?」
「オイーーッス!」
「…気分はどうだ。」
しゃがみ込み自分の顔を見下ろしている南条、マキ、レイジの下水道チームの面々。
一瞬、自分の置かれた立場が分からなくなる。が、持ち前の頭の回転のよさでパオフゥは何もかもを思いだした。
「お前らなーーーーーッ!!」
『飛びあがる』という形容そのままに、パオフゥは跳ね起きた。
その不意打ちをひょいと慣れた風に三人は避け、頭から激しく湯気を立ち上らせるパオフゥをぽかんと見た。
「Mr.パオフゥ。何を怒っていらっしゃるのですか。」
南条がいつもの淡々とした口調で問い掛ける。
「怒るも何もなぁ、どいつもこいつも俺を殺す気なのか!?そうなのかよ、オイ!!」
真っ赤になって怒鳴り喚くパオフゥに、マキは不思議そうに小首をかしげた。
「ええー何言ってるんですか?殺す気も何も、パオフゥさんたら瀕死で扉と壁の間に挟まってたんですよ。
だから私が慌ててサマリカームかけたんですから。一体何のために挟まってたんですか?」
「園村。何のためかなんて無粋な事聞くんじゃねぇ…単に狭い所が好きなんだろ。漢のマロンてぇ奴だ。」
「何言ってるの、城戸君。それを言うならロマンでしょう?…城戸君もベタなボケするようになったのね。
ビックリしちゃったー。あ、上杉君の寒いジョークが移ったのかな?」
ズレた会話をするマキとレイジにパオフゥはいっそう声を荒げる。
「お前らが挟んだんだろ、俺を!扉と壁の間に!!こう、勢い良くよぉ!!!
人の家来て、いきなりドア開けるんじゃねぇ!そして俺を挟むなよ!」
その言葉にマキは頬を少し膨らませる。
「それってただの言いがかりですよ。私たちにはパオフゥさんを挟む必要なんてないですもん。
ドアはちゃんとノックしましたし、パオフゥさんが聞いてなかっただけですよ。
…パオフゥさんって記憶不全と対人不信の傾向があるみたいですね。サイコセラピーをお奨めします。」
「な…!」
「そう興奮すると鼻血が出ますよ、Mr.パオフゥ。頭を打ったばかりなのですから少しは落ち着いて下さい。
全く、いい大人が情けない。現実と思い込みとを混同していらっしゃるようだ。
虎なんぞ信仰しているからではないのですか。いいかげんにNo.1たる嫁売を崇拝するべきですね。」
「ぐ…。」
「こういう時こそ、この『よく切れる包丁~ブリリアントXYZ~』の出番だ…じゃねぇ、出番です。
何もかもぶった切ってスッキリだ!今なら安くしとくぜ?」
「…」
(一部関係ないが)怒涛の暴言。ボロクソに言われてパオフゥはちょっぴり泣きたくなったりした。
だが、ここで泣いたら漢が廃るので額のたんこぶに手を当てて溜息を付く。
「チィ…今日はどうなってるんだ。甘ちゃんに絡まれるわ、馬鹿に吹っ飛ばされるわ、阿呆に挟まれるわ。
これでタライまであったら、完全にド○フのコント状態だぜ…。」
これはパオフゥにすればただの独り言だったのだが、なにぶんその場に居た人間は通常よりも大幅に優れた能力を持つ
ペルソナ使い。聞こえない訳がない。
「ドリ○?それは一体どのようなものですか。トリュフの一種か?」
「…南条、お前ぇ○リフも知らねぇのか。○リフってのはな…」
世間知らずな南条の発言に、真面目な返答をするレイジ。
さらに突拍子もない発想をするのはもちろんマキ。
「へぇー、パオフゥさんはタライが欲しいんですか?それじゃ、リクエストにお答えしますね?」
「あん?」
眉間にしわを寄せたパオフゥに、嬉々として答えるマキは空に向かって手を伸ばした。
青白い光を放ち、斬りつけてくるような風が沸き起こる。無意識の海からペルソナがその姿を現す。
白い顔に赤いペイント、緑色の着物に黄色い襷をした、パオフゥには見慣れないペルソナ。
「おお、懐かしいな園村。お前はまだこれを持っていたのか。」
「…3年前を思い出すぜ。」
「なんだぁ、こりゃ?」
懐かしそうな南条とレイジに対し、素直な驚きを述べたパオフゥにマキはにっこりと微笑みかけた。
「私を助けて!」
ひゅーーーーーーん
パオフゥに空からの素敵な贈り物、ポーピー君が届いた。
「チィッ!」
パオフゥは71のダメージ!
「あれれ?タライじゃないね??失敗失敗!!」
えへへと笑うマキにパオフゥはポーピー君の直撃した後頭部を押さえながら抗議をした。
「な、何だよ今の魔法はよ!!しかもそのペルソナなんだ!!」
一瞬きょとんとしたものの、直ぐにマキは納得顔になる。
「あ、そっか。パオフゥさんって最近のペルソナしか知らないんですよね。
今の魔法はスイートトラップ。空から素敵な贈り物の届く魔法なんです。いいでしょ?」
にこにこと話すマキをパオフゥは唖然と見つめる。
「それとこのペルソナは、FOOLテンジクトクベイです。とは言っても3年前のタイプですからこの魔法は使えませんし、
このタイプも今はもう召喚も降魔もすることもできません。
3年前と今では、ペルソナの種類、見かけ、魔法もほとんどタイプチェンジしちゃってるんですよ。
でも私は種類、魔法、姿のどれをとっても前のほうが好きなんで、3年前のままのペルソナを使ってるんです。
合体魔法は出来ないけれど、とっても使い勝手が良くって重宝してるんですよー。
そうそう、さっきのサマリカームも彼の魔法ですから。」
一気にそこまで言うとマキはペルソナを無意識の海の中に還した。
「ご理解いただけました?」
マキはパオフゥを見る。眉をひそめていたパオフゥだったが、顎鬚をいじりながらマキの目を見た。
「もう召喚できないってぇなら、何でお前さんがそんなの持ってるんだ?」
「私が望んだからですよ、決まってるじゃないですか。」
当然のごとく言うマキに、パオフゥはさらに眉と眉の距離を縮める。
「? お前さんが望んだからって、どうしてもういないペルソナが召喚できるんだよ??」
「えー?知らないんですか?だって、悪魔もペルソナもそもそも私が……」
それまで黙って話を聞いていた南条とレイジだったが、悲鳴に近い声を上げる。
「うわーーーー!」
「園村――――!!」
その声にパオフゥの肩がびくりと震えるのと殆ど同時にレイジと南条の手がマキの口を塞いでいた。
「ニャ…もごふごふ…」
「ニャ?何のこっ…」
パオフゥは突っ込もうとしたが、マキの口を押さえこみながら鬼気迫る目で自分を見る南条とレイジと目が合うと
思わずその先を飲み込んだ。
「はっはっはっは、何でもありませんよMr.パオフゥ。大した事ではありませんから気になさらなぬように。」
「全くもってその通りだ、人生、知らぬが仏ってもんだぜ…?」
どう考えても疑ってくださいと言わんばかりだったが、南条にいたってはPERSONAヤマオカが半分漏れ出ていたので
パオフゥは一先ず自分の身の安全を懸念する事にした。
この場に居ると(てゆーかこの3人の傍に居ると)間違いなく危険だと、例の第六感が告げたのだ。
つまりは三十六計逃げるに如かず。
「そうだな、俺はくだらねぇ事は気にしねぇ主義だ。安心してくれて結構。
…ところでだ、今日俺は出かける用事があったんだよ。すっかり忘れてたがな。
そんな訳だから、お前ら勝手にやっててくれ、な?それじゃあな。」
チャッと右手を挙げ、別れを告げると走り出したいのを堪えながら、パオフゥは扉に向かった。
と、いつの間にやら南条とレイジの手から逃れたらしいマキが声を上げる。
「そんなこと言って、逃がしはしませんからね!!城戸君!」
マキがパチンと指を鳴らすと、待ったましたとばかりにレイジが唇を歪ませた。
「おうよ。久しぶりだからな…鈍ってねぇか心配だぜ…。」
レイジは外に出ようとしたパオフゥの前に素早く身を滑りこませる。
「な、なんだぁ城戸。退けよ、俺ァ用事があるんだ、邪魔すんじゃねぇ。」
パオフゥがレイジを押しのけようとした途端、レイジが天に向かってその手を伸ばした。
青白い光を放ちながら、赤い燃える様な髪と翼、そして尻尾を持つナイスバディのペルソナが姿を現した。
「GO!!」
刹那の閃光。
何か魔法を使ったようだったが特に異変も無いのでパオフゥは逃走を再び決行した。が。
次の瞬間、パオフゥは自分の体の異変に気がついたのだった。
「あああ!?動けネェ!?どうなってんだコリャ!」
必死に動かそうとしても、まるで根が生えたかのように地面に張り付いて動かない自分の足を見やる。
嫌な予感がしてマキを見れば、マキはかつて無いほどいい笑顔でパオフゥを見上げていた。
そしてご丁寧に説明までしてくれる。まさに至れり尽せり。
「さっきのペルソナはサキュバス。この魔法はルナトラップって言うんです。
三ターンの間敵を逃げられなくする魔法なんですけど、便利でしょ?私のお気に入り魔法の一つなんです。
これも三年前のペルソナと魔法ですけど…こんなこともあろうかと城戸君に降ろしてきて正解だったみたい。」
あっけらかんと笑うその姿に、パオフゥは舞耶を重ねずにはいられなかった。
「他にも色々と使い勝手の良い魔法があるんですよ。そうだなぁ、私のお奨めの魔法は――」
マキが長くなりそうな話を始めるのを止めたのは南条だった。
「園村、時間が押している。説明は後でやってくれないか。」
そう言いながら南条は自分の腕時計を指し示てみせる。促されたマキもまた自分の腕時計を見やった。
「わ、本当大変だね、急がないと!さぁ、城戸君、南条君、ちゃっちゃと運んじゃって!」
マキの命令に南条とレイジこくりと頷き、パオフゥに向き返る。
一人の凶悪なペルソナ使い、二人の屈強なペルソナ使いに囲まれ、逃げ場を失ったパオフゥの叫び声は、
鳴海区中に響き渡ったと言う…。
静かなオフィスに、その声はまるで鈴の音のように響いた。
「あぁ?雪?」
新聞を読んでいたパオフゥは声に促されて窓の外を見た。
近頃は風が冷たくなってきたものの、気持ちいいほどの晴天。
雲ひとつ無い、見事なまでの秋晴れだった。
「なんだぁ?雪なんか降ってねぇぞ。第一まだそんな時期じゃねぇし、お前、何言ってんだ?」
素っ頓狂な声をあげた相棒を、思わず振り返る。
パオフゥが目を向けた先には、パソコンの前で突っ伏するうららがいた。
「違う、違うのよぅ!今、降ってるんじゃなくって」
うららは首を小さく振りながら、ガバリと起き上がり、パオフゥの座る客用のソファーへと足を運ぶ。
「ますます分からねぇな。雪が一体なんなんだ?」
首をかしげているパオフゥの隣に陣取りながら、うららは答えた。
「見たいのよ、雪を。今すぐ!!」
「行きたい!!雪のあるトコに行きたい!行こうよぅーー。」
まるでだだっこのように、潤んだ瞳でパオフゥを見上げる。
あまりのかわいい表情にしどろもどろになりならが、パオフゥは考えた。
ただでさえ冷え込みの激しい、今日この頃。寒いところは勘弁して欲しい。
パオフゥはどうにかして止めさせねばという結論に達した。
「い、行こうったってお前ぇ、こなさなきゃなんねぇ事務が…」
「そんなのばっちりよぅ。うららさんの手にかかれば問題ないわ!」
そういってうららの指差す先、デスクの上には山積みになった処理済みの書類。
うららのことだからいつも通りの完璧な仕上がりなのはまず間違いないだろう。
いつの間に!洩れそうになる声を抑え、パオフゥは続ける。
「お前はともかく、俺のほうの外回りが終わってねぇんだがな…」
「…怒らないでね?」
上目遣いをしながら舌を出し、首を軽く傾げるうらら。もちろんウィンク付きである。
「残ってた4件ね、アンタに内緒でアタシが片付けちゃった。」
目の前に突き出された書類には、『業務完了』の文字と共に依頼人の印鑑、うららの印鑑が押されていた。
「アタシって、この仕事結構向いてるみたいでさーー。」
しゃあしゃあと言ううららを見て、パオフゥは口をもごもごさせるばかり。
一人で危ないことするんじゃねぇ、と言いたくても素直でないので言うことも出来ない。
代わりに出てくる言葉は、いつも通りひねくれたセリフだ。
「フ、フン。上司の仕事を取るってのは気に入らねぇが、仕事に関しちゃ、まぁ今回は許してやる。
だがなぁ、この時期に雪なんか降ってる所はねぇだろうし第一、急すぎて泊まるところなんざ…」
「残念でした~!実を言うとねぇ、もう、予約済みなの。」
勝ち誇ったかのようなうららの右手には、何処から出したのかパンフレットとチケットが握られていた。
「一泊二日、カニ食べ放題!天気予報によれば現在なぜか降雪中!!しかも露天風呂付きなのよぅ。
新幹線の指定席だって、往復セットでばっちり取ったんだから。大変だったのよぅ!」
にっこりと笑う、うらら。この天使の微笑が今のパオフゥには悪魔の嘲笑に見える。
うららのあまりの手回しのよさに、パオフゥは大きく溜息をついた。
「俺はカニも露天風呂も好きじゃねぇ。」
ついでに、雪もな、と心の中で呟く。
渋い反応しか見せないパオフゥにうららはブーイングを飛ばした。
「なによーー!文句ばっかりじゃん!じゃあ、いいわよぅ。
カニ好きのマーヤか、温泉マニア(?)の克哉さん誘って、どっちかと二人っきりで行ってくるから。」
それは大問題だとパオフゥは思った。雪以上に問題である。
乙女刑事はともかく、ポジティブ系はまずい、真剣な意味でまずい。
パオフゥはまたも溜息をついた。
仕方ねぇ、これ以上渋ってもどうにもならねぇ。人間、時には諦めが肝心だ。
だが、ここまで渋った以上そう簡単に行くなんて言える訳が…
と、パンフレットを眺めていたうららが、残念そうな声で呟いた。
「あーぁ、もったいない。…地酒もおいしいって有名なんだけどなぁ。」
そう言いながら、ちらりとパオフゥを覗き見る。
…まぁ、二人だけで旅行ってのも色々と楽しめそうでいいかもしれねぇか。
パオフゥの思考はあっけなく固まった。
「分かった。行く、行けばいいんだろう?」
「やった~~!!」
あぁ。確信犯もここまでくれば!
こうして、急遽、うららとパオフゥの雪見旅行は始動したのである。
「わーーーー!真っ白!すごいじゃん!」
旅館に荷物をおき、裏山へ散歩をしにきた途端の第一声である。
歓声を上げながら、銀色の大地を走り回るうらら。
足跡をつけたり、雪だるまを作ったり、まるで子供のように大はしゃぎだ。
「雪国なんて、高校の修学旅行以来だわー!」
「そうか、そりゃ良かったな。だがな、俺は寒いんだよ。」
ボソリと呟いたのはもちろん、パオフゥ。
いつものゴールドスーツの上に厚手の茶色のコートを羽織り、不機嫌そうに首をすくめる。
「あらら、ご機嫌ななめなのねぇ。」
笑いながパオフゥに近づいていくうららは、すでに全身雪まみれだ。
「俺はなぁ、寒いところは好きじゃねぇんだよ。こういう日にはバーボンをだなぁ…」
「はいはい、後でねぇ。後で好きなだけ飲んでちょうだい。」
パオフゥの文句を軽く流すと、うららは嬉しそうにまた駆け回りだした。
誰もいない白銀の世界で、きゃあきゃあといううららの声だけが響きわたる。
「ついていけねぇな、全く。」
首を振りながら、パオフゥはコートのポケットから小さなウィスキーのビンを取り出した。
外の世界の寒さによって、ビンもまた冷えきっている。
「まぁ、こういうのもたまにゃあ、悪くねぇがなぁ。」
ウィスキーを呷るパオフゥの額に、冷たいものが舞い降りた。
さらさらと降るそれは、次第に量を増していく。
「なんだぁ?まだ積もりたりねぇってのかよ?」
寒さが増すばかりじゃねぇかと、パオフゥは文句を垂れた。
いくら裏山で人里が近いとはとはいえ、雪国において雪は非常に危険な代物である。
パオフゥは(降雪を言い訳に)旅館へ帰ろうとうららに言おうとしたとき。
ふと、相方の姿が見えなくなったことに気が付いた。
てんてんと残された足跡が、うららが森に入って行ったことを物語っている。
「雪が降り出してるってのによ。いい歳して、手間のかかるやつだ。…ったく。」
再びビンを軽く呷り、パオフゥはうららを探しに森へ入って行った。
我に返ってみると、平原にいたはずの自分は木々に囲まれていた。
夢中で遊んでいるうちに、森の中へ迷い込んでしまったようだ。
「やだー、参っちゃうわねぇ。…子供じゃないのに!」
苦笑いをしながら、自分の足跡を辿っていくうらら。
白い木々、白い地面、あたり一面しろ、シロ、白。足跡が無ければ確実に道に迷うだろう。
「…本当に、真っ白よねぇ。」
一人ごちるうららの頬に、冷たいものがかすめる。
驚いて空を見上げてみれば、灰色の雲から白銀の踊り子たちが舞い降りて来るではないか。
「うわぁ・・・奇麗。」
自然の神秘。白い世界を、より白くしようとする雪。
自然の脅威。その場にあるもの全てを覆い尽くす雪。
雪は全てを覆い隠す。大地も、森も、…自分自身も。
ぼんやり考えながらうららは空を見上げたまま、意識が朦朧としていくのを感じた。
うららを探しに森に入って、すでに20分ほどたったろうか。
ようやくパオフゥはうららを見つけ出した。
空を見上げたまま、微動だにしないうらら。その肩には雪が積もっている。
何してるんだといぶかしみながらも、パオフゥは声を掛ける。
「芹沢。」
声に反応してうららの体が、びくりと、痙攣した。
「おい?」
むしろその反応に驚いて、もう一度、声を掛けた。
僅かな沈黙。しかし、今度は返事が返ってきた。
「大丈夫。…ありがとう。」
うららはゆっくりと空から目線を下ろし、パオフゥに向ける。
その何処か惚けたような表情に、パオフゥは疑問を感じた。
「?ありがとうって、お前…」
そうパオフゥが声を掛けたと同時だった。
「アタシね、本当は雪が嫌いなの。」
身体に積もった雪を払いながら、突然思い出したようにうららが呟いた。
「なんだと?」
意表をついたうららの言葉をパオフゥは理解できなかった。
雪が見たいと言った張本人のくせに。
「何言ってるんだ?」
うららはまだ雪を払いつづけている。
「嫌いって言うよりは、怖い、って言う方が確かかな。怖い。雪が怖いのよ、アタシ。」
そう言ってパオフゥを見つめるうらら。
パオフゥはただただ困惑するばかりである。
「俺にはさっぱり、理解できねぇな。」
正直な感情を述べるパオフゥに、うららは黙って頷いた。
「雪って、何もかもを包み込んで埋めてしまうって、よく言うじゃない?
アタシさ、雪の中にいると自分が埋まっちゃうような気分になるのよ。
なんていうか、そうねぇ。アイデンティティ・クライシスってやつ?
自己を失ってしまうっていう現象ね。まぁ、アンタなら知ってるでしょ。
こうやって、雪の中に立ってると不意に自分が誰か分からなくなるの。見失ってしまう。
アタシは誰?アタシは何?どうしてここに居るの?ってね。
この真っ白な世界に取り込まれて、溶けて消えてしまいそうになる…。」
うららは眩しそうに目を細めた。
「…」
ポケットから出した酒を呷りながら、無言で話を聞きつづけるパオフゥ。
「さっきさぁ、高校のとき、雪国に修学旅行へ行ったって言ったじゃない?
やっぱりあの時も、空を見てたんだけどさ、不意に頭の中が真っ白になったのよぅ。
アタシって誰なんだろって、分からなくなりかけてね。
ああ、このまま消えてもいいかな、雪と一緒になくなっちゃいたいなって、思ったの。
でも、そう考えた瞬間、声を掛けてくれた人がいるのよ。
さっきのアンタと同じ。『大丈夫?』ってさ。それでアタシは自分が誰かを思い出せたわ。
…そうね。その人のお陰で、アタシはここにいるのかもしれない。」
パオフゥは酒のビンを見ていた自分の目線をうららにずらした。
「そいつぁ、誰だ?」
うららも、パオフゥを見つめ返し、軽く笑う。
「マーヤよ。」
雪は相変わらず、さらさらと降りつづけている。
「で、今はどうなんだ。怖くはなくなったのか?」
静かな沈黙を先に破ったのはパオフゥ。
問いかけに対し、うららは首を振った。
「…今なら平気かと思ったから来たんだけど。ぶっちゃけた話、よく分からないわ。
アンタが声掛けてくれなかったら、あのまま吸い込まれちゃいそうだったもの。
アタシ、やっぱり、昔と何一つ変わってないみたいでさ。
いつまでたっても、自分一人じゃ自分自身が何者なのか分からなくなっちゃう。
どうしてここにいるのかも、何のためにここにいるのかも未だに分からない。
でもそれは、雪のせいだけじゃなくって。
雪にかこつけて、空っぽの自分自身が怖かったんだって、今なら分かるわ。
だから、誰かに必要とされてる自分が欲しかった。自分が何か、証明できる証が欲しかったんだわ。
…そう言うところが『人に寄りかかりたい』って思う原因だったのよね、きっと。」
ホゥ、とついたうららの白いため息は空へ昇っていく。
「アンタはどう思う?」
フゥ、とついたパオフゥのため息も空へ昇っていく。
「…そうだなぁ、俺が言いたい事は一つだけだ。ここは寒い。手持ちの酒も切れた。
話は後でゆっくり聞いてやるからもう旅館にもどらねぇか?」
空になったビンをゆらゆら振りながらポケットにしまい、パオフゥは寒そうに首をすくめる。
「あーー、嫌な男!人の話、まじめに…」
「分かった、分かった。」
これ以上続けられたら堪らんとばかりに、パオフゥは大股でうららに近付いた。
「なんだってのよぅ。」
ブーたれていたうららは、不意をつかれそのままパオフゥに抱き上げられてしまった。
正しくは、担がれた、と言うべきだが。
「もう帰るんだよ。」
「ちょ、恥ずかしいじゃないのよぅ!下ろして…っ」
肩の上で暴れるうららを押さえつけながら、パオフゥは続ける。
「別になんだっていいじゃねぇか。雪なんざ、溶けちまえばただの水だ。
お前さんの言いたい自己崩壊、自我の損失、それもまた結構な事じゃねぇか。
俺に言わせりゃあよ、そんなもん、いくらでもなくしちまえばいいんだよ。
…なくす度に、俺が思い出させてやるし、思い出す度に、また忘れさせてやる。
とりあえずこれから、お前さんが何者なのかを俺が旅館であらためてじっくり教えてやるから、安心しな。」
そう言うと、うららを見上げ、にやりと笑った。
うららの頬が赤らんでいるのは、寒さのためだけでは、ない。
「…ばか。」
うららはそのまま大人しく担がれたままになった。
白い雪は、何もかもを覆い尽くす。
景色も、地面も、人間の心さえも。
大地に深く刻まれた足跡も10分の後には、真っ白な雪で埋め尽くされていた。
fin.
「天野君、最近何だかもう色々とストレスが溜まっていたらしくてね。
いつもの彼女からは想像もつかないくらいのハイペースで飲んでいたんだよ。
それで、まぁ、酔った勢いもあったんだろうけれど、それなりに職場の愚痴とかをポロっと零したり。」
周防は話しながらタバコに火をつけた。
そのストレスにはもちろん俺も含まれているんだろうなと苦笑しながら、雑巾を絞りつつ周防の話に耳を傾けた。
「確かに、僕も悪かった。というか僕が諸悪の根源なんだ。
いつも明るくて元気な彼女が、僕を相手に愚痴を、ストレスを発散してくれるのが…僕にいつもと違う姿を、 芹沢君ぐらいにしか見せないような姿を見せてくれるのが嬉しくて、ガンガンピッチを上げていくのを、 止めなかったのがそもそもいけなかったんだ。」
あらかた片付け終えた俺は、周防の向かいのソファーに座り、タバコを取り出し火をつける。
「で?」
「まずいと思ったときにはもう、天野君は泥酔状態で…今さっきよりもう少し酔っていた感じだったかな。 とりあえず歩けはしたけれど、足取りがおぼつかないからタクシーを呼んでマンションまで送ろうと思ったんだ。
それで、『タクシーで家まで送るけど、大丈夫かい?』って尋ねたら、天野君が『家はイヤ~!今日は克哉さんのとこに泊まるから連れてって!』って言うじゃないか。」
「願ったり叶ったりの、いい展開じゃねぇか。」
「とんでもない!…そりゃ、嬉しくないって言ったら嘘になる。確かに嬉しかった。でも、酔っている女性を自分の家に連れ込むのは何だか卑怯な気がしたんだ。 だから、僕はこう言ったんだ。
『結婚前の女性にそんな真似させられないよ!第一、そんなことをしたら、僕は達哉に面目が立たない』」
「おい、お前それは…」
「分かっている。僕の失言だ。」
俺を制止し、そして泣きそうな目で俺を見上げた。
「なぁ、嵯峨。その後、天野君、なんて言ったと思う?」
「なんて言ったんだ。」
俺は軽く、周防は強く煙を吸い込み、そして吐き出す。
「それまでの笑顔から一転して、悲しそうな目で、ゆっくり僕を見上げてこう言ったんだよ。
『やっぱり、克哉さんにとっての私は、どこまでも『向こう側』の天野舞耶なのね…、でも…』」
周防はじりじりと燻るタバコを指先に挟んだまま、両手を額にあて、俯いた。
「…」
「『でも、私は、どこまでも『こちら側』の天野舞耶なんです。他の誰でもない、誰にもなれない、
『こちら側』の天野舞耶でしかないんです。…思った通り…『私』はあなたに認めてはもらえないのね…』 そう言って、彼女は走っていってしまった。」
俯いたまま、周防が首を振る。
「わかるかい?つまり、天野君の抱えていたストレスの少なくとも一つはそれ…僕だったわけだ。」
ため息が、冷えた部屋に響く。
「どう考えても、傷ついたのは天野君。傷つけたのは僕。
僕はすぐにでも彼女を追わなければいけなかった。…にも関わらず、僕の頭の中は、自分の失言で真っ白になってしまって、 それどころではなくなってしまった。…最低だ。
我に返ったとき、天野君の姿はもう見えなくっていて、僕は慌てて共鳴を追った。
お互い酔っているせいか、探すのにひどく手間取ってしまってね。
どうにかこうにか共鳴を見つけだして駆けつけて来たら―――ああなっていたわけだ。」
すっかり片付いた部屋を、周防は軽く見回した。
なるほど、天野のあの荒れ様は、俺へのあて付けだけでなく周防への八つ当たりも入っていたのか。 などと、なんとなく納得していると
「申し訳ない。」
周防は俺に向かって、首をたれた。そしてまた語りだす。
「はっきり言って、僕には自信がない。達哉のように天野君を守り支える自信が。
天野君の幸せのために、自ら還っていったあいつに敵うものなんか何一つ持ち合わせていない。
だから、身を引こうと思っていた…彼女のために…達哉の…ために…。」
ぎゅうと、周防が唇をかみ締めた。
「でも、それはただの詭弁だった。僕のくだらないプライドを守るための逃げ道でしかなかった。
もういないあいつを引き合いにし自分に言い聞かせ、都合よく逃げていたに過ぎなかった。
『僕は達哉のように強くない』『達哉のように彼女を守れない』『達哉のように愛せない』
『向こう側』の存在の彼女に必要なのは『向こう側』の達哉で、だから、僕には今の彼女のそばにいる資格はないんだ…ってね。 これなら、十二分に振られた時の言い訳になる。」
周防の灰は、今にも落ちそうに震えていた。
「例え、僕が想いを打ち明けなくても、これを理由に天野君の傍にいることだって可能なんだ。
弟がつくった傷は、兄である僕の責任でもあるから、僕には君を慰める義務がある。だから僕は君のそばにいてあげると、 それで済んでしまうんだ。結局、僕のしたことは天野君を傷つけただけ。
天野君は『向こう側』の記憶があるだけで、どうしたって『こちら側』の天野君でしかなくて。
ここまで追い詰めてからそんなことに気付くなんて…本当になんて僕は馬鹿なんだろう。」
そこまで言うと、周防は自分の膝で眠る、天野の額に手を当てた。
「…」
「けど。いや、だからそこ、今日のことで僕は分かったんだ。」
「何をだ。」
トントンと灰皿に灰を振り落とす。
「僕に必要なのは『誰からしさ』とか、『強さ』とか以上に…使い古されて臭い科白ではあるけれど、 自分を奮い立たせるための『勇気』と『覚悟』なんだ。」
「勇気…覚悟、か。」
ぷわと、天井に向けて俺は紫煙を放った。
「確かに、お前みたいな甘ちゃんには覚悟が不足気味かもしれんな。」
「でも、それは僕だけじゃない。」
ゆっくりと周防が首を振る。
「あん?」
「嵯峨、お前にも同じ事が言えると、僕は思う。」
「?」
「僕たちは、同じモノが足りない。自分の弱さを受け入れ認める勇気と、自分にとって必要な人の…何があろうとも 大切な人の、その全てを受け止めてあげるだけの覚悟と、が。
…モナドマンダラでシャドウと対峙して、弱さを認め僕は強くなったと思った。
それこそが思い上がりだった。小さい丘を踏破して、隣の大きい山に気付かずに何もかも制覇したような気になって、 自己満足に浸っていただけ。本当は何一つ、僕は変わっていやしなかった。」
周防はフーーと一気に煙を吐き出した。
「けど、これでもう終わりにする。今度こそ、覚悟を決めた。僕は、決して逃げない、目をそらさない、立ち向かう。 天野君に、彼女の中の達哉に、僕の中の達哉に…何よりも、自分自身に。
今の僕の気持ちは絶対に嘘じゃないから。誰にも負けられない、負けたくないんだ。」
ぎりりと、周防は強く、灰皿にタバコを押し付けそれまでうつ伏せていた瞳を俺に向ける。
「…なぁ、嵯峨。お前も、今、逃げていないか?心当たりはないか。
自分は逃げてなんかいないと、そう、言い切れるか?」
「…」
「どうだ…?」
「……」
静寂が広がる。言葉の途切れた俺たちを包み込んだのは、静寂と薄紫の煙と、ただそれだけだった。
沈黙を破ったのは、ごろりと、それまでおとなしく寝ていた天野が周防の膝の上で打った寝返りだった。 俺も周防も思わず目線を天野に向ける。
「克哉…さ…」
眉間にしわを寄せ、うめくように天野が寝言を言った。
ぽつりと、けれどはっきりと自分の名を呟いた天野を嬉しそうに、愛しそうに見つめながら、周防はその手を握る。
「なんだい?僕は、ここにいるよ。」
「…ん……」
「僕は、どこにも行かない。約束する。」
「……うん…」
周防の手を握り締めた天野は、安心したのか、穏やかな表情に戻り、また眠りに落ちていった。
「大丈夫、君の傍にいる…。」
天野を見つめる周防の顔は真剣そのもので、あの時の達哉のような真っ直ぐな瞳をしていた。
俺は、その眼差しの中に何か、俺の中に染み透るように訴えてくるものを感じずにはいられなかった。
「なぁ、僕と嵯峨と、どちらが先に『大切な人』の中に確固たる自分の位置を手に入れられるんだろうな。」
ボソリと言って周防は困ったような、はにかんだような微笑を俺に向けた。
「長話になってしまったね。さ、そろそろ天野君を連れて帰らないといけない。」
膝の上に乗せていた天野を、ソファーの上に移し、周防が立ち上がって伸びをした。
「ああ、お前の家にか。」
と言ったら伸びをしていた周防がこけた。…これは天然なのか?
「な、何を言ってるんだ!ルナパレスに決まってるだろう!」
跳ね起きた周防が、とんでもないと首を振る。
「こんな夜更けに酔っ払いを連れてか。この時間、ここいらにゃあ、タクシーはほとんどいないぜ?
港南までは車があれは15分足らずだが、徒歩でしかも酔っ払いが行くなんら1時間強ってとこだ。
ペルソナ使いったって酔ってる分、力は発揮しきれないし、天野は寝ちまってるし。
お前の家なら徒歩20分足らずで行けるだろうがよ。女の安全確保が第一のお前の信条なんだろ?」 俺はゆっくりタバコを燻らし、周防の顔に吹きかける。
「た、確かにそうだが…。それでも、結婚前の女性を男の家に泊まらせるなどと…」
「問題なんぞねぇだろ。要するに、お前が手ぇ出さなきゃいいだけだ。」
「あ、当たり前だ!僕がそんな男に見えるのか。」
眉をしかめ、周防は憮然と俺に抗議する。
「冗談だ、冗談。だがよ、固いヤツほどキレるとやたら怖いもんだ、へへへ。
まぁ、手ぇ出しちまったら出しちまったで、責任取ればいいだけだ。どっちにしろ、問題ねぇ。」
ひらひらと軽く手を振ってみせる。
「さ、嵯峨ッ…!!」
「周防よぉ、お前さっき言ったよな?『覚悟はできた』とよ。あれは違うのか、嘘なのか?」
「い、いや、嘘じゃない、じゃないんだけど…でも、そういう意味でなく…その、つまり…」
先刻そう言い切った手前、俺の切り込みに歯切れの悪い返答を返してくる。
「あーもー、何でも構わねぇから、とっととお前の家に天野を持ち帰るなりして出てけ。
俺もそろそろ寝ないと明日に響いちまう。それはお前もだろうがよ?」
「その通りだがでも、しかし…」
それでもしつこくブツブツ言っていたが、ようやく覚悟を決めたのか、ふぅと大きく息をついた。
「僕は帰るぞ。帰るぞ。帰るんだ。」
自身に言い聞かせるように幾度も繰り返し、天野を担ぎあげる。
「僕の家に帰る!」
「よし、帰れ。」
「…嵯峨。」
扉を開けようとしていた手を止め、周防が振り返る。
「まだ何かあんのか。」
ほんの少し戸惑った表情を見せたものの、周防はすぐに口を開いた。
「なんと言うか、今日、僕は色々と…すごく楽しかった。
僕は…次にまたこういう機会があったとしたら、お前と今の話の続きをしたいと思う。」
「へっ。深夜に正体なくした酔っ払いが人の家壊すような機会なんざ、俺は欲しくないがね。」
俺の皮肉に、周防はひどく嬉しそうに笑った。
「あはは、それもそうだね。僕もそんな機会はあまり歓迎できないな。後片付けが大変だしね。
とは言っても、天野君が暴れること自体はそう悪くはないと思うぞ。
ストレス発散は誰にでも必要なことだし…なんたって壊れるのは僕の家じゃないしな。」
「お前も言うようになったなぁ…。」
予期せぬ反論に、俺のタバコの灰がぽろりと落ちた。
「どこかの誰かの性格が伝染したんだよ、きっと。」
そう言うと周防は、俺を見てにっと口元を歪めた。
「何にしても、今日は本当に迷惑かけたな。そのうち酒でも持ってくるよ。」
それじゃあ、と周防は未だ夢の世界を彷徨う天野を肩に担いで出て行った。
二人の訪問者は無事帰り、どたばた騒がしかった俺のヤサは、先ほどとはうって変わり静かになった。
「あーあ…どっと疲れたぜ…。」
最後の煙を吐き出し、俺は短くなったタバコの火を灰皿になすりつける。
首を鳴らしながら柱時計を見上げれば、既に2時を回っている。
ぶち壊れた気分をすっきりさせようと、先の騒動で唯一無事だったグラスの薄まってしまったその中身を 鉢植えに捨て新しい酒を注ぐ。ソファーに深く座り込み、透き通る琥珀色の液体を喉に流し込んで、ため息をついた。
ぼーっと天井を見上げる俺の耳元で、しつこくあのセリフがリプレイする。
『あなた、うららのなんなのよ?』
結局、答えることができなかった、言えなかった。
以前ならば間違いなくそう言ったであろう、ただの仕事上のパートナーなんだ、と。
なぜならもうそれだけではないから。
天野が言ったことは同時に俺の中でずっと燻っていた疑問だ。
それは俺が今まで意図して考えないようにしていた事であって。
俺にとってのあいつ。あいつにとっての俺。俺たちの関係。
考えれば考えるほどに、はっきりとしてくる答え、姿を見せる真実。知りたくない、自分の本音。
認めたくない、自身の感情の変化。
確かに考えなければ楽だ。目を逸らすことは簡単だ。
触れなければ失わない。欲しがらなければ奪われない。
これまでどおり適当にごまかして、うやむやにしていれば傷つくことは無い。
一線を引くことで、今までより苦しまなくて済む。
光に生きるべきあいつと、闇にしか生きられない俺と。
割り切った関係こそが最も重要で、何よりもあいつにとって安全なんだ。
けれど。
『返してもらうから』
『お前にも同じ事が言えると、僕は思う』
残った酒を一気にあおり、テーブルの上に叩きつけるようにグラスを置く。
脱ぎ捨ててあったスーツに手を伸ばし、その胸ポケットに常に潜ませてあるケータイを取り出す。
履歴を探し、通話ボタンを押して待つ。
数回のコール音。
ブツンと音がし、やがて聞こえてくる、眠たそうな声。
「おい、俺だ…まだ、起きてたか?」
「ああ…なら良かった…いや、たいしたことじゃぁねぇんだがな」
「暇なら、今すぐ飲みに来い…何ィ?ふん…ただの気まぐれだ、嫌なら構わねぇ」
「そうか、ならできる限り急いで来い…あぁ?足がねぇだと?」
「あー…この時間じゃ呼ぶのも面倒だしな…分かった、俺がそっちに行くから待ってろ」
「そうだなぁ、俺が付くまでに簡単なつまみでも用意しとけ」
「ああ、酒はこっちで準備していく」
「おう、じゃあな」
電話を切り、そのままスーツに腕を通す。少し悩んで壁にかけてあった厚手のコートも羽織る。
コートのポケットの中に、ジャラジャラと五月蝿いくらいに自己主張するコイン以外、 車のキーが入っていることを確かめ玄関へ向かう。
壊されたドアの鍵はまた明日直すことにして、当面の泥棒よけの為に毒ダメージ床を仕込む。
ぐいと扉を開けると、冷たい空気が俺の頬を殴るように打ち付けてきた。
首をすくめコートの襟を軽く立てて、車を目指し踏み出した俺の足はいままでで一番軽い気がした。
俺は、あいつを望んでいる。
あいつは、俺を待っている。
それが、これからあるべき互いのPosition。
ほんの少しの勇気と、わずかな覚悟さえ決めてしまえば、そう。
見えてくる答えはしごく簡単なんだ。
いきなりズカズカと事務所に押し入ってきたひどく酒臭い女は、俺の顔を見る金切り声をあげた。
「単刀直入に聞くわよ!いいわね?」
「あなた、うららのなんなのよ?」
∵ P o s i t i o n ∵
a c t _ A
正直な話、俺はとっさに何が起きたのか判らなかった。
仕方が無いから、自分の置かれたこの状況をもう一度考え直してみる。
まずここは俺のヤサで、今は午前1時過ぎだ。
今日はいつになく手間取った業務を、どうにかこうにか期限内に無事終えた。
連日の残業で疲れきっていたくせに『泊まる~!』と騒いでいた芹沢を家に帰し、 ひとっ風呂浴びて、あいつの作り置いていった料理で軽く飯を食って。
TV付けるのも億劫だからソファーでくつろぎつつ、いつもより少し高級な酒を飲んでいた。
明日も早いし、もうそろそろ寝るか……っと、その前にもう一杯。
キッチンへ出向き、棚の秘蔵の酒に手を伸ばしてグラスへ注いでいるところに、ボガーンと激しい轟音。 何事かと慌てて飛んできてみれば、酒で正体を無くし、(むしろ本性を現したと言った方が正しいか) 俺の家の玄関の鍵をぶち壊して、不法侵入して来た迷惑極まりない酔っ払いの乱入ときた。
そいつは人の顔を見るなり大声で罵詈雑言、管巻きの数々、挙句落ち着かせるために水を飲まそうとした途端、 殴るわ蹴るわ引っかくわ。一悶着の末、どうにかソファーに座らすことに成功した。…ここまでは良し。
で、本題だが。
俺の座るソファーの正面の客用ソファーを陣取り、腕を組んでフーフーと気の狂った熊のように息巻いている女を見る。 テーブルとその上に置いてある酒やら水やらが俺たちの三十八度線だ。
天野は酔ってるせいかいつも以上に殺気立ち、目がぎらぎらと血走っている。
見たところ、この女のお気に入りの武器の類は持っていない。それは俺にとって幸いと言えよう。
酔っ払いを相手に自分のヤサでドンパチをおっぱじめるほど、こっちも余裕があるわけじゃねぇ。
復讐も何もかも終わった今、面倒事はできるだけ避けたいのが本音だ。
厄介払いしたいのは山々だが、つまみ出したところで外で騒ぎだす事は目に見えているし、まさか急所を殴って気絶させるわけにもいかない。 手っ取り早くドルミナーでもかけられれば良かったのだが、残念ながら手元には睡眠系を持つペルソナは無い。 これ以上暴れられる前に、いっそのこと朝になるまでDYINGにしちまおうか。いやいやそうするとまた後が面倒臭せぇ。
それにしたってこんな時間に人の家のドア壊して勝手に転がり込んできて、何だってんだ。
考える程に不満の増していく俺の手の中で、グラスの中の氷が妙に張り詰めた空気に怯え、カラリと鳴った。
するとまるでそれが合図だったかのように、天野は口火を切った。
「本当、あなたってなんなのかしらね。そんな胡散臭い服装と髪型のくせに! なぁ~にがゴールドスーツよ、へっ!笑っちゃうわ。ちゃんちゃら可笑しいっての! あなたみたいな男にはね、所詮酔いどれスーツがお似合いよ! イケイケたすき付けて金網タイツでも履いて、そこいらで踊ってなさいな。」
「おい…」
俺に口を挟ませる余裕を与えず、天野は早口でまくし立てる。
深夜騒音だとか、近所迷惑だとかそう言った世間一般的な常識は、酔っ払いにはやはり通用しないらしい。
「それにどうなの、その髪は。ロンゲなの?ロンゲなの?超ロンゲ?あなたって育毛マニア?
そーんなにその長ったらしいキューティクルが自慢なの。 今時ヒッピーでもあるまいし格好悪いったらありゃしないわよね。 モヒカンのほうがまだマシだっつーの!」
「天野…」
「アクセサリーにしたってそうよ。どこぞの有閑マダムみたいにジャラジャラジャラジャラ。 でかい宝石たくさん付けてればいいってもんじゃないのよ。大切なのはおしゃれなワンポイント!
そんなごっついドーベルマンの首輪みたいのじゃだめだめだわ。」
「だからよ…」
「何よりもいやなのがそのサングラス! フレームはチタン?鉄?アルミニウム?一体全体そういうのどこで売ってるのかしら。台湾製なの? ただでさえ胡散臭い風貌なのにそんなものしてたら胡散臭さと怪しさが当社比5.7倍アップ!!
って、あーーーーーーーもーーーーーーーーー!腹が立つーーーーー!!」
一通り言いたいことを言い尽くした天野は、ハーハーと息をつぎ、グラスの水を一気に飲み干した。
よくもまぁ、こんなつまらない事にここまで舌が回るもんだと俺は半ば驚嘆しつつも、先刻から抱えていた質問をしてみる。
「…気は済んだか?結局のところお前さんは何しに来たんだ。俺のセンスにケチ付けに来たのか。」
「違うわよッ!」
天野は返事にあわせて水の入っていた空のグラスをテーブルに叩きつけた。
「じゃあ、一体何しに来たんだ。」
「うららのことに決まってるでしょう!」
もう一度天野が、今度は拳でドンとテーブルを叩いたその衝撃で、テーブルの上の物が軽く宙に浮かびガチャガチャと悲鳴をあげ、 おまけにピッチャーの水が飛沫をとばす。
「だいたい何様のつもりよ。いきなり横から私たちの間に割り込んできて。
最初はあーーんなに冷たかったくせして、急に態度変わっちゃうし。調子いいわよね??」
天野の真っ赤な顔は今にも湯気が立ち上ってきそうになっている。
「…随分と酔ってるように見えるんだがな。頭冷やしたほうがいいんじゃねぇの。」
「私は酔ってない!」
酔っ払いが必ず言うお約束の科白を吐き、天野はまた拳でテーブルを叩き、完全に据わった目で俺を睨み付けてきた。
「あなたのこと、はっきり言ってあまり好きじゃないわ。だって私からうららを奪おうとするんですもの。 それでも、必ずうららを幸せにするって言うのならまだ考えようもあるわ。
でも、あなた、あのこを傷つけてばかりじゃない。しょっちゅう、うららは部屋で一人泣いてる。
私に気付かれないように声を押し殺して、泣いてる。
うららを悲しませるなんて…それだけは許せない。勘弁ならないわ。」
泣いている?芹沢が?驚きで急激に喉が渇いていく。
考えられる理由は一つしかない。それは、きっと…けれど。
「…俺は泣かせているつもりなんてねぇ。例えお前の言うとおりあいつが泣いているとしても
そいつは、あくまで俺たち二人の話で、お前さんには関係ないだろう。」
俺は努めて冷静にそう言い放つ。
天野は俺の発言を予想していたのか、すぐに口を開いた。
「そうね、確かにあなたたち二人の問題よね。私は部外者。 あなたたちが話し合うことで解決する問題なら私も口出しはしないわ。
でも…そうじゃないから、それじゃあ解決しないから私が来たのよ。」
天野は目線をゆっくり下に移した。
「どういうことだ。」
「あなたにとって、うららは何?あなたは、うららの何なの?」
「…」
「うららを悲しませないで。」
小さい息を吐き天野は、その責めるような目をつぶり、やがて囁くような掠れた声で言葉をつむぎだした。
「鎮静剤…。
寄る辺無い女より哀れなのは追われた女…。
追われた女よりもっと哀れなのは死んだ女…。
死んだ女よりもっと哀れなのは 忘れられた女…。」
「…」
「でも、私は知っている。忘れられた女よりも更に哀れな女を。」
閉じた瞳をゆっくりと、ゆっくりと開けた。
「そして、あなたも知ってるわよね?」
何もかも、見透かしたような瞳が俺の体を射抜いていく。
「何が言いたいんだ。」
天野が言うであろうその続きに、俺の体内の血が逆流をはじめ、皮膚全体に鳥肌が立ちだす。
空気が、ささくれ立つ。
「じゃあ、はっきり言ってあげるわよ。
…あなたの中の美樹さんを、彼女を『縛り付ける女』にしたいの…?」
予想通りの言葉だったが、それでも俺は電気が全身を走りぬけたような気がした。
芹沢が泣く理由。天野が激昂する存在。それは同時に、俺の中の不可侵の域でもある。
俺にとって、触れてはならないところに触れる人間は、すなわち邪魔者でしかない。
「――酔って御高論のたまうのは一切構わないがな、俺をあまり怒らせるな。」
「ふふん。あなたが100人集まって怒ったところで、私にとって何一つ怖くなんかないわ。
私にとって一番怖いことは、うららが苦しむこと。うららが幸せになれないこと。
あなたみたいな中途半端な男が何人いようと、全員まとめて返り討ちにしてやる。
私が間違いなく息の根を止めてやるから、安心して地獄に落ちなさい。」
天野がよろりと立ち上がった。
「うららは、あなたみたいな男には勿体無い。覚悟なさい…必ず、返してもらうから。」
そう言って、天野はテーブルを蹴り倒した。
ガシャガシャーンと大きな音を立てテーブルがひっくり返り、上に乗っていたものが飛んでいく。
ピッチャーが水を跳ね飛ばしながら転がり、グラスと酒の瓶は割れ砕け、酒がツンとした臭いを振りまき水と交じり合いながら 床に広がっていく。灰皿はひっくり返り、タバコの灰が空に舞う。
「いい度胸してるじゃねぇか。」
「チョメチョメタイムよ……」
張り詰めた空気は最高潮を迎えた。
湧き上がる青白い光が俺と天野のお互いの体包んでいく――
と。
「な、なんの騒ぎだ!?今の音はなんだ!」
テーブルのひっくり返った音を聞きつけたらしく、転がるように入ってきたその男は、ぜぇぜぇと肩で息をしながら俺に声を掛けた。
思わぬ男の乱入で、ぴりぴりと、まるで氷のように冷たかった空気は、温風にさらされ、毒気を抜かれたかに融けていく。ついでにペルソナも引っ込んでいく。
「どうしたんだ!悪魔でも出たのかっ!あの扉は、いやそれよりもこの惨状は一体―――。」
散々たる部屋のありさまを見て、男は素っ頓狂な声をあげた。と、同時。
「あーー克哉さんだーー!」
その姿を確認するや否や歓声を上げ、まるで子犬が飼い主に飛びつくような勢いで天野は周防に走り寄った。
「克哉さーーーん」
そのまま、がばーっと天野は周防に抱きついた。その勢いで周防が床に転がり、天野が上に覆い被さる。
「え、え、え、え?あ、あ、あ、あ、天野くーーーん!?」
突然、押し倒され馬乗りされ、しかも顔に胸を押し付けられた周防巡査部長様は、今置かれた自分の現状が理解できずにパニックを起こしているようだ。
「天野君!良かった!その、僕は謝りに来たんだ。僕の発言が君を傷つけてしまって…って、ちょ、あの!」
必死になって天野の胸攻撃をかわそうとする周防にお構いなく、天野はもっと力をこめてしがみ付く。
「聞いてよ!パオフゥったらひどいのよ。」
周防が来ても、話のネタはやはり俺らしい。
「あ、天野君!話は後でゆっくり聞くし、これも嬉しいけど、今は降りてくれないか…?僕は君と話が…」
嬉しさと恥ずかしさと苦しさでおたおたしている周防が面白い。
天野はひたすら周防の顔に胸を押し付け、抱きつく。
「さ、嵯峨…!え、援護を…たのむ……た、助け……」
今の天野はコンタクト不可と感じたか、周防は俺に助け舟を求めたものの、俺は助ける気などさらさらない。 これ以上天野に付き合うのは御免だし、なによりもこんな面白いもの見逃せるか。
「ひどい!克哉さん、私よりもパオフゥを選ぶって言うの!?」
俺に助けを求めたことで、天野は激昂し、周防の立場は悪くなったようだ。
「…やっぱり、克哉さんは私なんてどうでもいいのね…むしろパオフゥがいいのね!?」
「ち、違う!僕の話を聞いてくれ!君の話はちゃんと聞いてるし、第一パオフゥなんか良くない!
君と話がしたいから…だ、だから、降りてもらえないかな!」
「なによ!パオフゥなんか――」
周防の叫びは『溜め』に入った天野の耳に届いていない。
「冷血漢なうえにやさぐれてるし服のセンスなんて最悪じゃない!」
「うん、そうだね、そうだ!僕も知ってる!知ってるから落ち着いて――」
天野は周防の顔を胸に挟んだまま、首をぶんぶんと左右に振り出した。
「克哉さんのバカーーーーー!」
その振動は間違いなく周防の顔を挟む胸にも伝わり、天野をどかそうと必死な周防自身にも正確に伝わっていることだろう。
「ゆ、ゆ、揺さぶらないでぇぇ~~~~~!天野くん~~!!」
周防の絶叫が部屋に響く。
俺の中で糸が切れた。もはや笑いはとまらない。
ついに天野は周防の頭を抱えたまま、その全身をがくがくと揺さぶりだした。
「パオフゥなんなのよーーーー!克哉さん惑わしてその上ッ!」
今、周防を惑わしているのは間違いなくお前だ、天野。
そんなツッコミはともかく、俺には周防の顔が見えないのが本当に残念でならなかった。
「天野君!お、お願いだから…こ、これ以上は…や、や、やめてぇぇ~~~!」
その切羽詰った声を聞く限り、周防の中で理性と本能とが戦っているのだろう。
別世界へとイキそうな周防に追い討ちをかけるように、ぎりぎりとその首を締め上げる天野。
「そのうえ…そのうえ~~~!」
「い、息ができな…あ、あまの…く…」
本当に別世界へ逝きそうな周防よ。今死んだらその死因は『巨乳による顔面圧迫の末の窒息死』だぜ?
「うららを!私のうらら~~を~~を、うら、うら…うぅ…」
「ぐ……うぐぐぐ…」
ふにゃふにゃと言いながら天野はずるずる滑り落ち、終いには先刻とは逆に周防の胸に顔をうずめてしまった。 同時に周防も力尽きたのかばったりと倒れ、かく言う俺は腹を抱え笑い死にしそうになっていた。
数分後、俺はひとしきり笑い終えたので、周防に声をかけてみた。
「おい、生きてるか?」
周防の指がわずかにぴくりと動く。
「…か、かろうじて。」
上ずった返事をし、周防がよたよたと上半身を起こした。
赤面し、両手で鼻を抑えているのを見たとたん、また俺は腹を抱えて笑い転げずにはいられなかった。
「す、周防。気持ち良かったか~~~?」
「いやぁ、そりゃあもう気持ち良すぎて死にそうでした…って何を言わせるんだ!」
真っ赤な顔の周防がさらに顔を赤くし両腕を振り上げた。が、すぐに大きく咳払いをし腕を下ろす。
「いや、それよりも、嵯峨…。天野君のあの様子、この部屋の惨状、一体何が起きたんだ。」
「そうだな、じっくり説明してやるから、その前に詰めとけ。」
俺は周防に箱ティッシュを投げてやった。
結局、天野はそのまま気持ち良さそうにすやすやと寝息を立てはじめ、騒ぎは終焉を迎えた。
後に残されたものは、ぐちゃぐちゃになってバーボンのにおいが充満する部屋と、天野の特攻によって鼻血を吹いた赤面周防だけになった。
「ったく、騒ぐだけ騒いだ挙句、とっとと寝ちまいやがって。」
ひっくり返されたテーブルを元に戻しながら、寝ている天野にとりあえず文句を言う。
「すまなかったな、嵯峨。僕も手伝うよ。」
これまでのあらましを聞いた周防が、申し訳なさそうに謝ってくる。鼻血は無事止まったようだ。
割れたガラスのかけらを拾おうとしているが、その両腕には天野がぴったりしがみ付いていてはがれそうもなく、むしろ危なっかしくてたまらない。
「ああ、いい。そのままでいろ。お前が動いて、天野に目ぇ覚まされたらもう俺も部屋も、もたねぇ。」
しっしっと手を振ってからそこいらに座るように促し、俺は風呂場に雑巾を取りに行った。
俺がバケツと雑巾を持って帰ったとき、周防はソファーの上に座っていた。
大虎酔っ払い天野は、周防の膝の上に移され、何事も無かったかのような寝顔を披露している。
「お前がついていてなんでこんなことになったんだ。酒はパアになるし…全く、いい迷惑だ。」
大きなガラスの破片を拾いながら、周防を見る。
周防は急に話題を振られたことに驚いたのか、先ほどの胸の余韻に浸っていたのか、ハッとし、だがすぐにいつも通りの表情に戻った。
「その…実は、今日…前からなんて言うか、その、デートの約束していたんだけど…」
「ほう。デートか。お前らもそれなりに進歩してるんだなぁ。」
ガラスの破片をごみ箱に投げ入れ、俺がニヤリと笑うと、周防はあっという間に茹でダコに変わった。
「ちゃ、茶化さないでくれ!僕はマジメに話してるんだ。」
サングラスを直しながら、タコ周防は叫んだ。
「あぁ、そいつはすまねぇな。続けてくれや。」
雑巾で床を拭きながら、軽く周防をいなす 俺の態度に納得いかなかったのか、ややふて腐ったものの、周防は勿体ぶった咳を一つし、また話をはじめた。