静かなオフィスに、その声はまるで鈴の音のように響いた。
「あぁ?雪?」
新聞を読んでいたパオフゥは声に促されて窓の外を見た。
近頃は風が冷たくなってきたものの、気持ちいいほどの晴天。
雲ひとつ無い、見事なまでの秋晴れだった。
「なんだぁ?雪なんか降ってねぇぞ。第一まだそんな時期じゃねぇし、お前、何言ってんだ?」
素っ頓狂な声をあげた相棒を、思わず振り返る。
パオフゥが目を向けた先には、パソコンの前で突っ伏するうららがいた。
「違う、違うのよぅ!今、降ってるんじゃなくって」
うららは首を小さく振りながら、ガバリと起き上がり、パオフゥの座る客用のソファーへと足を運ぶ。
「ますます分からねぇな。雪が一体なんなんだ?」
首をかしげているパオフゥの隣に陣取りながら、うららは答えた。
「見たいのよ、雪を。今すぐ!!」
「行きたい!!雪のあるトコに行きたい!行こうよぅーー。」
まるでだだっこのように、潤んだ瞳でパオフゥを見上げる。
あまりのかわいい表情にしどろもどろになりならが、パオフゥは考えた。
ただでさえ冷え込みの激しい、今日この頃。寒いところは勘弁して欲しい。
パオフゥはどうにかして止めさせねばという結論に達した。
「い、行こうったってお前ぇ、こなさなきゃなんねぇ事務が…」
「そんなのばっちりよぅ。うららさんの手にかかれば問題ないわ!」
そういってうららの指差す先、デスクの上には山積みになった処理済みの書類。
うららのことだからいつも通りの完璧な仕上がりなのはまず間違いないだろう。
いつの間に!洩れそうになる声を抑え、パオフゥは続ける。
「お前はともかく、俺のほうの外回りが終わってねぇんだがな…」
「…怒らないでね?」
上目遣いをしながら舌を出し、首を軽く傾げるうらら。もちろんウィンク付きである。
「残ってた4件ね、アンタに内緒でアタシが片付けちゃった。」
目の前に突き出された書類には、『業務完了』の文字と共に依頼人の印鑑、うららの印鑑が押されていた。
「アタシって、この仕事結構向いてるみたいでさーー。」
しゃあしゃあと言ううららを見て、パオフゥは口をもごもごさせるばかり。
一人で危ないことするんじゃねぇ、と言いたくても素直でないので言うことも出来ない。
代わりに出てくる言葉は、いつも通りひねくれたセリフだ。
「フ、フン。上司の仕事を取るってのは気に入らねぇが、仕事に関しちゃ、まぁ今回は許してやる。
だがなぁ、この時期に雪なんか降ってる所はねぇだろうし第一、急すぎて泊まるところなんざ…」
「残念でした~!実を言うとねぇ、もう、予約済みなの。」
勝ち誇ったかのようなうららの右手には、何処から出したのかパンフレットとチケットが握られていた。
「一泊二日、カニ食べ放題!天気予報によれば現在なぜか降雪中!!しかも露天風呂付きなのよぅ。
新幹線の指定席だって、往復セットでばっちり取ったんだから。大変だったのよぅ!」
にっこりと笑う、うらら。この天使の微笑が今のパオフゥには悪魔の嘲笑に見える。
うららのあまりの手回しのよさに、パオフゥは大きく溜息をついた。
「俺はカニも露天風呂も好きじゃねぇ。」
ついでに、雪もな、と心の中で呟く。
渋い反応しか見せないパオフゥにうららはブーイングを飛ばした。
「なによーー!文句ばっかりじゃん!じゃあ、いいわよぅ。
カニ好きのマーヤか、温泉マニア(?)の克哉さん誘って、どっちかと二人っきりで行ってくるから。」
それは大問題だとパオフゥは思った。雪以上に問題である。
乙女刑事はともかく、ポジティブ系はまずい、真剣な意味でまずい。
パオフゥはまたも溜息をついた。
仕方ねぇ、これ以上渋ってもどうにもならねぇ。人間、時には諦めが肝心だ。
だが、ここまで渋った以上そう簡単に行くなんて言える訳が…
と、パンフレットを眺めていたうららが、残念そうな声で呟いた。
「あーぁ、もったいない。…地酒もおいしいって有名なんだけどなぁ。」
そう言いながら、ちらりとパオフゥを覗き見る。
…まぁ、二人だけで旅行ってのも色々と楽しめそうでいいかもしれねぇか。
パオフゥの思考はあっけなく固まった。
「分かった。行く、行けばいいんだろう?」
「やった~~!!」
あぁ。確信犯もここまでくれば!
こうして、急遽、うららとパオフゥの雪見旅行は始動したのである。
「わーーーー!真っ白!すごいじゃん!」
旅館に荷物をおき、裏山へ散歩をしにきた途端の第一声である。
歓声を上げながら、銀色の大地を走り回るうらら。
足跡をつけたり、雪だるまを作ったり、まるで子供のように大はしゃぎだ。
「雪国なんて、高校の修学旅行以来だわー!」
「そうか、そりゃ良かったな。だがな、俺は寒いんだよ。」
ボソリと呟いたのはもちろん、パオフゥ。
いつものゴールドスーツの上に厚手の茶色のコートを羽織り、不機嫌そうに首をすくめる。
「あらら、ご機嫌ななめなのねぇ。」
笑いながパオフゥに近づいていくうららは、すでに全身雪まみれだ。
「俺はなぁ、寒いところは好きじゃねぇんだよ。こういう日にはバーボンをだなぁ…」
「はいはい、後でねぇ。後で好きなだけ飲んでちょうだい。」
パオフゥの文句を軽く流すと、うららは嬉しそうにまた駆け回りだした。
誰もいない白銀の世界で、きゃあきゃあといううららの声だけが響きわたる。
「ついていけねぇな、全く。」
首を振りながら、パオフゥはコートのポケットから小さなウィスキーのビンを取り出した。
外の世界の寒さによって、ビンもまた冷えきっている。
「まぁ、こういうのもたまにゃあ、悪くねぇがなぁ。」
ウィスキーを呷るパオフゥの額に、冷たいものが舞い降りた。
さらさらと降るそれは、次第に量を増していく。
「なんだぁ?まだ積もりたりねぇってのかよ?」
寒さが増すばかりじゃねぇかと、パオフゥは文句を垂れた。
いくら裏山で人里が近いとはとはいえ、雪国において雪は非常に危険な代物である。
パオフゥは(降雪を言い訳に)旅館へ帰ろうとうららに言おうとしたとき。
ふと、相方の姿が見えなくなったことに気が付いた。
てんてんと残された足跡が、うららが森に入って行ったことを物語っている。
「雪が降り出してるってのによ。いい歳して、手間のかかるやつだ。…ったく。」
再びビンを軽く呷り、パオフゥはうららを探しに森へ入って行った。
我に返ってみると、平原にいたはずの自分は木々に囲まれていた。
夢中で遊んでいるうちに、森の中へ迷い込んでしまったようだ。
「やだー、参っちゃうわねぇ。…子供じゃないのに!」
苦笑いをしながら、自分の足跡を辿っていくうらら。
白い木々、白い地面、あたり一面しろ、シロ、白。足跡が無ければ確実に道に迷うだろう。
「…本当に、真っ白よねぇ。」
一人ごちるうららの頬に、冷たいものがかすめる。
驚いて空を見上げてみれば、灰色の雲から白銀の踊り子たちが舞い降りて来るではないか。
「うわぁ・・・奇麗。」
自然の神秘。白い世界を、より白くしようとする雪。
自然の脅威。その場にあるもの全てを覆い尽くす雪。
雪は全てを覆い隠す。大地も、森も、…自分自身も。
ぼんやり考えながらうららは空を見上げたまま、意識が朦朧としていくのを感じた。
うららを探しに森に入って、すでに20分ほどたったろうか。
ようやくパオフゥはうららを見つけ出した。
空を見上げたまま、微動だにしないうらら。その肩には雪が積もっている。
何してるんだといぶかしみながらも、パオフゥは声を掛ける。
「芹沢。」
声に反応してうららの体が、びくりと、痙攣した。
「おい?」
むしろその反応に驚いて、もう一度、声を掛けた。
僅かな沈黙。しかし、今度は返事が返ってきた。
「大丈夫。…ありがとう。」
うららはゆっくりと空から目線を下ろし、パオフゥに向ける。
その何処か惚けたような表情に、パオフゥは疑問を感じた。
「?ありがとうって、お前…」
そうパオフゥが声を掛けたと同時だった。
「アタシね、本当は雪が嫌いなの。」
身体に積もった雪を払いながら、突然思い出したようにうららが呟いた。
「なんだと?」
意表をついたうららの言葉をパオフゥは理解できなかった。
雪が見たいと言った張本人のくせに。
「何言ってるんだ?」
うららはまだ雪を払いつづけている。
「嫌いって言うよりは、怖い、って言う方が確かかな。怖い。雪が怖いのよ、アタシ。」
そう言ってパオフゥを見つめるうらら。
パオフゥはただただ困惑するばかりである。
「俺にはさっぱり、理解できねぇな。」
正直な感情を述べるパオフゥに、うららは黙って頷いた。
「雪って、何もかもを包み込んで埋めてしまうって、よく言うじゃない?
アタシさ、雪の中にいると自分が埋まっちゃうような気分になるのよ。
なんていうか、そうねぇ。アイデンティティ・クライシスってやつ?
自己を失ってしまうっていう現象ね。まぁ、アンタなら知ってるでしょ。
こうやって、雪の中に立ってると不意に自分が誰か分からなくなるの。見失ってしまう。
アタシは誰?アタシは何?どうしてここに居るの?ってね。
この真っ白な世界に取り込まれて、溶けて消えてしまいそうになる…。」
うららは眩しそうに目を細めた。
「…」
ポケットから出した酒を呷りながら、無言で話を聞きつづけるパオフゥ。
「さっきさぁ、高校のとき、雪国に修学旅行へ行ったって言ったじゃない?
やっぱりあの時も、空を見てたんだけどさ、不意に頭の中が真っ白になったのよぅ。
アタシって誰なんだろって、分からなくなりかけてね。
ああ、このまま消えてもいいかな、雪と一緒になくなっちゃいたいなって、思ったの。
でも、そう考えた瞬間、声を掛けてくれた人がいるのよ。
さっきのアンタと同じ。『大丈夫?』ってさ。それでアタシは自分が誰かを思い出せたわ。
…そうね。その人のお陰で、アタシはここにいるのかもしれない。」
パオフゥは酒のビンを見ていた自分の目線をうららにずらした。
「そいつぁ、誰だ?」
うららも、パオフゥを見つめ返し、軽く笑う。
「マーヤよ。」
雪は相変わらず、さらさらと降りつづけている。
「で、今はどうなんだ。怖くはなくなったのか?」
静かな沈黙を先に破ったのはパオフゥ。
問いかけに対し、うららは首を振った。
「…今なら平気かと思ったから来たんだけど。ぶっちゃけた話、よく分からないわ。
アンタが声掛けてくれなかったら、あのまま吸い込まれちゃいそうだったもの。
アタシ、やっぱり、昔と何一つ変わってないみたいでさ。
いつまでたっても、自分一人じゃ自分自身が何者なのか分からなくなっちゃう。
どうしてここにいるのかも、何のためにここにいるのかも未だに分からない。
でもそれは、雪のせいだけじゃなくって。
雪にかこつけて、空っぽの自分自身が怖かったんだって、今なら分かるわ。
だから、誰かに必要とされてる自分が欲しかった。自分が何か、証明できる証が欲しかったんだわ。
…そう言うところが『人に寄りかかりたい』って思う原因だったのよね、きっと。」
ホゥ、とついたうららの白いため息は空へ昇っていく。
「アンタはどう思う?」
フゥ、とついたパオフゥのため息も空へ昇っていく。
「…そうだなぁ、俺が言いたい事は一つだけだ。ここは寒い。手持ちの酒も切れた。
話は後でゆっくり聞いてやるからもう旅館にもどらねぇか?」
空になったビンをゆらゆら振りながらポケットにしまい、パオフゥは寒そうに首をすくめる。
「あーー、嫌な男!人の話、まじめに…」
「分かった、分かった。」
これ以上続けられたら堪らんとばかりに、パオフゥは大股でうららに近付いた。
「なんだってのよぅ。」
ブーたれていたうららは、不意をつかれそのままパオフゥに抱き上げられてしまった。
正しくは、担がれた、と言うべきだが。
「もう帰るんだよ。」
「ちょ、恥ずかしいじゃないのよぅ!下ろして…っ」
肩の上で暴れるうららを押さえつけながら、パオフゥは続ける。
「別になんだっていいじゃねぇか。雪なんざ、溶けちまえばただの水だ。
お前さんの言いたい自己崩壊、自我の損失、それもまた結構な事じゃねぇか。
俺に言わせりゃあよ、そんなもん、いくらでもなくしちまえばいいんだよ。
…なくす度に、俺が思い出させてやるし、思い出す度に、また忘れさせてやる。
とりあえずこれから、お前さんが何者なのかを俺が旅館であらためてじっくり教えてやるから、安心しな。」
そう言うと、うららを見上げ、にやりと笑った。
うららの頬が赤らんでいるのは、寒さのためだけでは、ない。
「…ばか。」
うららはそのまま大人しく担がれたままになった。
白い雪は、何もかもを覆い尽くす。
景色も、地面も、人間の心さえも。
大地に深く刻まれた足跡も10分の後には、真っ白な雪で埋め尽くされていた。
fin.
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