乾いた音に誰もが動きを止めた。叩いた張本人のジョニーでさえ、じんじん痺れる己の掌を、知らぬ生き物であるかのごとく見つめた。
メイはメイで、叩かれた右頬を押さえ、呆然とジョニーを見上げた。だがすぐに鼻声で叫ぶ。
「ジョニーのバカ!」
全身が燃え立つように熱かった。泣きそうな自分が悔しかった。視界が何重にも歪んでしまう。
それでも一度堰を切った感情は留まるところを知らない。ジョニーにしがみつくディズィーに焦慮は増大し、両足は逃げ場を求めて震えだす。
「だいっ嫌いだ!」
弾かれた足は止まらなかった。他のクルーたちの制止を振り切って、メイは一目散に飛行艇の扉を駆け抜けた。
時折思う、どうしてボクはボクなんかに生まれちゃったんだろう。道端の小石を蹴って、メイは垂れてきそうな鼻をすすった。水掛け論だと理解していても、どうしてこんな性格で、容姿で、生きているのかと思えば途端に自分が嫌になる。
例えば。すれ違った男と女、互いの手を絡め合ってゆったり歩いている。女のほうは妊婦らしく大きな腹に手を当てて、これから父親になる男が労わるように見守っている。今夜の夕飯に使うのか、男の反対の手に掛けられた袋の中には、数種の野菜が頭を飛び出させていた。
例えば、舗道の反対側を歩く少年と少女。ぎこちなく手をつないで、どちらの顔もほんのりと赤い。
例えば、先を行く老夫婦。足の不自由な夫のために、真っ白な紙をした婦人が懸命に支えている。
いいな、みんな幸せそうで。他人を羨望する自分が離れない。
「どいてくださーい!」
かん高い声に、メイはぎょっと目を剥いた。いっぱいに飛び込んできた筋肉質の男。後方にうつる小さな青い影に追われているらしい必死の形相と、汗と光りによって輝く男のスキンヘッド。つやつやとしたそれが迫って来るさまにに、メイはみるみる青ざめ無我夢中になって突き飛ばした。
「いやぁぁぁああああ!」
「ごへぇ!?」
細腕が鳩尾に直撃し、男は奇怪な声を発して大の字に倒れた。
「ああああああの、ごめんなさいっ、大丈夫!?」
「……てめえ、このガキ!」
痛む腹を押さえ付け、男が立ち上る。どうすべきかと目を回すメイをよそに、男は歯を剥き出しにして岩のような拳を振り上げた。周囲から次々と悲鳴が上がる。
「ロジャー!」
「がぷっ!?」
再びかん高い声が空気を一掃し、腕を挙げたまま男がどうと倒れた。後頭部にはファンシーなぬいぐるみが貼り付いている。起き上がる気配はなく、意識を失ったらしい男に、メイは頭を直視しないようつとめながら胸を撫で下ろした。
続いてぱたぱた現れた少年が、ぬいぐるみを拾い上げほこりを払う。大丈夫ですか、少女と間違えられかねない姿が首をかしげた。
「あれ、えーと、メイさん?」
「うん久しぶり、奇遇だね」
青いケープを腰に掛けた輪で止め、ブリジットは愛らしく手を振った。
***
サニーレタスと黒胡椒をまぶした生ハムのクラブサンド、バジルの利いたチリソースピザ、紫芋のニョッキ、大豆のポタージュ、イチジクのコンポートが並んでいる。海鮮サラダとパエリア、マーマレード入りクロワッサンを運んできたウェイターが失笑したのに気付き、メイは俯いて赤面した。くるくると鳴り続ける腹が恨めしい。
「さあどうぞ! ここのごはん、おいしいですから」
賞金首だった男を警邏に突き出したあと、ブリジットはあたたまったふところを叩いた。彼に連れられたメイの下で出来立ての香りがそよいだ。
「食べないんですか? その、迷惑でしたか?」
「う、ううん、いただきます!」
手近にあった皿を引き寄せ、パエリアの一匙を口に運ぶ。朝から何も食べていなかった胃袋がまたたく間に吸収する。食欲を刺激する芳香に促されてスプーンが走る。少しずつ、やがて急ぐように、メイは一皿を完食した。にこにこしたブリジットが差し出す果実水で喉を潤して、クラブサンドをわし掴む。
昼下がりのカフェテラスは賑わいもひとしおで、メイが口を拭う頃には満席になっていた。
「今日はおひとりなんですか?」
「ふぇ?」
掛けられた声に、パスタで膨らませていた口腔を、ブリジットがいることを思い出して慌てて飲み込んだ。
「えーっと……たまには、かな」
ひとり。頭の中で繰り返される。
そうだ、ジョニーとケンカして、出て来ちゃったんだ。スプーンが止まる。
原因は小さな小さな、忘れてしまいそうなことであった。ディズィーという新たな仲間が加わった日のことだ。迫害から逃れて森で過ごしてきた彼女にとって、メイらの飛行船は大きすぎた。彼女からすれば見たこともないほどの人の多さだったのだろう。ディズィーは怯え、過剰に萎縮した。そんなディズィーを庇護したのがジョニーであったのだ。
「ケンカしちゃったんですか?」
「え……?」
頬づえをついて、ブリジットがはにかんでいた。丸い童顔には、満面の慈しみがこめられていた。メイはしばし黙っていたが、やがて小さく頷いた。
本当はね、仲よくしたかっただけなんだよ。それだけ。自分を叩いたジョニーの目。責め苛んだあの目。頬の熱が蘇る。嫌味を言って、飛び出して。叩かれて当然だった。
「ボク、最低だね」
ジョニーがディズィーを庇った時、メイは彼女のほうが大切なのだと勘違いした。それから散々に罵ってディズィーを追い詰めた。
「仲よくしたいって思ったのに」
「メイさん……泣かないで」
テーブル越しにのびた繊手がメイの頬に触れる。そこはあたたかく濡れていた。
カフェテラス変わらない喧騒。ざわめき食器のぶつかる音。メイは押し殺した声で泣く。彼女のすわるソファに席をうつし、ブリジットは少女の方を優しく抱きしめた。涙の一粒ずつに手を握りしめ、背中を撫でた。何度もしゃくり上げてから、メイは乱暴に顔をこする。大きな瞳はすぐにでもまた涙を流しそうだった。
「あは……ごめんね、迷惑掛けちゃって」
「メイさん!」
「わっ、な、何?」
「遊びましょう! 悲しいことがあったら楽しくするにかぎりますよ!」
唐突に立ち上がり、ブリジットは困惑したままのメイの腕を取った。
昼もすぎた頃合だろうか、快晴の元に清涼の風が吹く。色とりどりの花が咲き誇り、目抜き通りを華やかに仕立てた。散歩中の犬が駆け回り、素性の知れぬ小鳥たちがさえずった。
ブリジットは博識で、話に絶えることはなかった。道中でのおかしな出来事や人々について、時にはヨーヨーの特技を披露して、メイをいつまでも飽きさせなかった。それでも締めつけるようなため息が増えていく。少年に悪いと感じつつ、メイはいつも俯き加減であった。
「はーい、デザートです」
「ありがとう、おいしそうだね……」
クレープを手渡され、公園のベンチに腰掛ける。笑顔でクレープを頬張るブリジットを横目にメイは足をすり合わせた。生クリームがどろりと溶ける。
心は今すぐにでも飛行艇に戻り、頭を下げたい衝動で一杯だった。このままでいていいの? 自問した指がクレープに食い込んだ。公園の中央に備わった噴水から吹き上がる水が、針のようにみなもに還る。
「あ……のさ、ブリジット」
「はい?」
立ち上がる。ブリジットが見つめ返してくる。そのエメラルドグリーンの瞳に、メイはふっとディズィーを想起した。
自分の居場所はあるのだろうか、置いていかれたのではないか、不安は深く絡み付いていた。きつく目を瞑った。罪悪感が、後悔の念が、雄叫びを上げて蔓延する。もしこのまま見放されてしまったら、それはとてもとても悲しいことだ。もう間に合わないかもしれない。まだ間に合うかもしれない。叱責されたことを思い出した。頬を張られた痛みはジョニーのものであったことも。クレープが地面に落ちる。とろけたクリームが砂と混ざった。
「ごめん……ボク、帰らなきゃ!」
広場で鬼ごっこをしていたこどもたちからいくつもの歓声が上がる。
***
「なァんでおまえさんが乗ってんの。俺の船は男子禁制なんだけど」
「むう、そんなこと言っていいんですか。メイさんはウチが連れて来たんですよ?」
飛行艇の甲板からメイとディズィーのはしゃぎ声がする。合わせて「ちょっとメイ、ディズィー! 何時だと思ってるの、うるさいよ!」と、非難も聞こえてくる。
開け放たれたドアに視線を遣りながら、ジョニーは淹れたてのコーヒーのカップをブリジットの前に置いた。
「メイさんを慰めたのも、わざとデートに誘って帰りたいと思わせたのも、ぜーんぶウチがやったんですから」
「下心ある奴の科白だな、ま、礼くらいは言っといてやるさ」
「だってメイさんのほっぺ叩いたのってジョニーさんなんでしょ? 怒ってますよ、恋敵なんだから」
「恋敵?」
寄せたジョニーの眉間にいつになく険しい皺が寄る。ブリジットはコーヒーに砂糖を足しているところだった。かわいいですよねメイさんって。ウチ、負けませんから。堂々と顎を引き、真正面からジョニーを見据えてくる。
夕食を終えた食堂はがらんとしたもので、両者の影を色濃くした。メイとディズィーの笑い声も消えている。サングラスを外し、ジョニーは離れた椅子に腰を下ろす。その短い距離に一種緊張がよぎった。ジョニーが口を開く瞬間。
「ジョニー! 仲直り出来たよ!」
食堂に飛び込んできたのはメイだった。あまりの勢いに、本人ですら止まりきれずに数歩よろける。だがそれを気にするわけでもなく、彼女は寝間着のまま満面の笑みを浮かべた。
「お~う、それはよかったな」
「うん! それでねそれでね、今度みんなで海に行こうよ! ディズィーってば見たことないんだって!」
「そいつぁまた急だぁ~が、そうだな、構わないぜレェディ?」
余程嬉しいのか、メイは手足を大仰に振りまわして快活な笑顔を撒き散らす。ジョニーは手招きするなりそんな少女の頬に触れた。頬は熱を帯びても腫れてもいなかった。ジョニーの記憶ではそれまで一度だって叩いたことのない場所だった。
「ジョ、ジョジョジョジョニー!」
「ん、なんだい?」
「く、くち……あたってる、よぉ」
頬に触れたジョニーの唇頭に、まごまご口ごもるメイ。途端ブリジットの目が鋭くなる。どちらの様子に対しても含み笑いをちらつかせ、ジョニーは更に少女を引き寄せた。
「叩いちまったのは、こっちだったな」
「あう、じょにぃ……ってばぁ……」
「痛みが引きますように、それから、おまえさんが今日みたいに俺から離れませんように」
ちゅっと、わずかばかりに音を響かせて与えられた口づけに、メイはとうとう湯気が出そうなほど真っ赤になった。ぱくぱく開閉する口から声は漏れない。メイの柔肌を浅く吸い、名残惜しげに離れる。それだけでメイは恍惚とし、半眼になった。騒ぎ暴れる心臓をなだめようと精一杯胸を押さえる。
ブリジットはかわいらしい童顔をひくちかせてカップを置いた。金髪をかき上げてジョニーを睨む。彼の膝にもたれて立っていたメイの腕を掴む。熱の冷めないメイの体が呆気なく傾いた。
「ジョニーさんだけずるいです! ウチもします!」
怒鳴るなり、ブリジットは反対の頬にキスを落とした。情熱的なジョニーとは異なり、ついばむ口づけにメイはくすぐったそうに笑った。
「な、なんなのさ、ふたりとも……?」
火照った双眸が焦点を失い始める。かろうじてうつったのは、火花を散らすジョニーとブリジットの様子であった。
「別になんでもないですよ」
「そ、おまえさんがみんなに愛されてるってだけの話さ、メイ」
メイはメイで、叩かれた右頬を押さえ、呆然とジョニーを見上げた。だがすぐに鼻声で叫ぶ。
「ジョニーのバカ!」
全身が燃え立つように熱かった。泣きそうな自分が悔しかった。視界が何重にも歪んでしまう。
それでも一度堰を切った感情は留まるところを知らない。ジョニーにしがみつくディズィーに焦慮は増大し、両足は逃げ場を求めて震えだす。
「だいっ嫌いだ!」
弾かれた足は止まらなかった。他のクルーたちの制止を振り切って、メイは一目散に飛行艇の扉を駆け抜けた。
時折思う、どうしてボクはボクなんかに生まれちゃったんだろう。道端の小石を蹴って、メイは垂れてきそうな鼻をすすった。水掛け論だと理解していても、どうしてこんな性格で、容姿で、生きているのかと思えば途端に自分が嫌になる。
例えば。すれ違った男と女、互いの手を絡め合ってゆったり歩いている。女のほうは妊婦らしく大きな腹に手を当てて、これから父親になる男が労わるように見守っている。今夜の夕飯に使うのか、男の反対の手に掛けられた袋の中には、数種の野菜が頭を飛び出させていた。
例えば、舗道の反対側を歩く少年と少女。ぎこちなく手をつないで、どちらの顔もほんのりと赤い。
例えば、先を行く老夫婦。足の不自由な夫のために、真っ白な紙をした婦人が懸命に支えている。
いいな、みんな幸せそうで。他人を羨望する自分が離れない。
「どいてくださーい!」
かん高い声に、メイはぎょっと目を剥いた。いっぱいに飛び込んできた筋肉質の男。後方にうつる小さな青い影に追われているらしい必死の形相と、汗と光りによって輝く男のスキンヘッド。つやつやとしたそれが迫って来るさまにに、メイはみるみる青ざめ無我夢中になって突き飛ばした。
「いやぁぁぁああああ!」
「ごへぇ!?」
細腕が鳩尾に直撃し、男は奇怪な声を発して大の字に倒れた。
「ああああああの、ごめんなさいっ、大丈夫!?」
「……てめえ、このガキ!」
痛む腹を押さえ付け、男が立ち上る。どうすべきかと目を回すメイをよそに、男は歯を剥き出しにして岩のような拳を振り上げた。周囲から次々と悲鳴が上がる。
「ロジャー!」
「がぷっ!?」
再びかん高い声が空気を一掃し、腕を挙げたまま男がどうと倒れた。後頭部にはファンシーなぬいぐるみが貼り付いている。起き上がる気配はなく、意識を失ったらしい男に、メイは頭を直視しないようつとめながら胸を撫で下ろした。
続いてぱたぱた現れた少年が、ぬいぐるみを拾い上げほこりを払う。大丈夫ですか、少女と間違えられかねない姿が首をかしげた。
「あれ、えーと、メイさん?」
「うん久しぶり、奇遇だね」
青いケープを腰に掛けた輪で止め、ブリジットは愛らしく手を振った。
***
サニーレタスと黒胡椒をまぶした生ハムのクラブサンド、バジルの利いたチリソースピザ、紫芋のニョッキ、大豆のポタージュ、イチジクのコンポートが並んでいる。海鮮サラダとパエリア、マーマレード入りクロワッサンを運んできたウェイターが失笑したのに気付き、メイは俯いて赤面した。くるくると鳴り続ける腹が恨めしい。
「さあどうぞ! ここのごはん、おいしいですから」
賞金首だった男を警邏に突き出したあと、ブリジットはあたたまったふところを叩いた。彼に連れられたメイの下で出来立ての香りがそよいだ。
「食べないんですか? その、迷惑でしたか?」
「う、ううん、いただきます!」
手近にあった皿を引き寄せ、パエリアの一匙を口に運ぶ。朝から何も食べていなかった胃袋がまたたく間に吸収する。食欲を刺激する芳香に促されてスプーンが走る。少しずつ、やがて急ぐように、メイは一皿を完食した。にこにこしたブリジットが差し出す果実水で喉を潤して、クラブサンドをわし掴む。
昼下がりのカフェテラスは賑わいもひとしおで、メイが口を拭う頃には満席になっていた。
「今日はおひとりなんですか?」
「ふぇ?」
掛けられた声に、パスタで膨らませていた口腔を、ブリジットがいることを思い出して慌てて飲み込んだ。
「えーっと……たまには、かな」
ひとり。頭の中で繰り返される。
そうだ、ジョニーとケンカして、出て来ちゃったんだ。スプーンが止まる。
原因は小さな小さな、忘れてしまいそうなことであった。ディズィーという新たな仲間が加わった日のことだ。迫害から逃れて森で過ごしてきた彼女にとって、メイらの飛行船は大きすぎた。彼女からすれば見たこともないほどの人の多さだったのだろう。ディズィーは怯え、過剰に萎縮した。そんなディズィーを庇護したのがジョニーであったのだ。
「ケンカしちゃったんですか?」
「え……?」
頬づえをついて、ブリジットがはにかんでいた。丸い童顔には、満面の慈しみがこめられていた。メイはしばし黙っていたが、やがて小さく頷いた。
本当はね、仲よくしたかっただけなんだよ。それだけ。自分を叩いたジョニーの目。責め苛んだあの目。頬の熱が蘇る。嫌味を言って、飛び出して。叩かれて当然だった。
「ボク、最低だね」
ジョニーがディズィーを庇った時、メイは彼女のほうが大切なのだと勘違いした。それから散々に罵ってディズィーを追い詰めた。
「仲よくしたいって思ったのに」
「メイさん……泣かないで」
テーブル越しにのびた繊手がメイの頬に触れる。そこはあたたかく濡れていた。
カフェテラス変わらない喧騒。ざわめき食器のぶつかる音。メイは押し殺した声で泣く。彼女のすわるソファに席をうつし、ブリジットは少女の方を優しく抱きしめた。涙の一粒ずつに手を握りしめ、背中を撫でた。何度もしゃくり上げてから、メイは乱暴に顔をこする。大きな瞳はすぐにでもまた涙を流しそうだった。
「あは……ごめんね、迷惑掛けちゃって」
「メイさん!」
「わっ、な、何?」
「遊びましょう! 悲しいことがあったら楽しくするにかぎりますよ!」
唐突に立ち上がり、ブリジットは困惑したままのメイの腕を取った。
昼もすぎた頃合だろうか、快晴の元に清涼の風が吹く。色とりどりの花が咲き誇り、目抜き通りを華やかに仕立てた。散歩中の犬が駆け回り、素性の知れぬ小鳥たちがさえずった。
ブリジットは博識で、話に絶えることはなかった。道中でのおかしな出来事や人々について、時にはヨーヨーの特技を披露して、メイをいつまでも飽きさせなかった。それでも締めつけるようなため息が増えていく。少年に悪いと感じつつ、メイはいつも俯き加減であった。
「はーい、デザートです」
「ありがとう、おいしそうだね……」
クレープを手渡され、公園のベンチに腰掛ける。笑顔でクレープを頬張るブリジットを横目にメイは足をすり合わせた。生クリームがどろりと溶ける。
心は今すぐにでも飛行艇に戻り、頭を下げたい衝動で一杯だった。このままでいていいの? 自問した指がクレープに食い込んだ。公園の中央に備わった噴水から吹き上がる水が、針のようにみなもに還る。
「あ……のさ、ブリジット」
「はい?」
立ち上がる。ブリジットが見つめ返してくる。そのエメラルドグリーンの瞳に、メイはふっとディズィーを想起した。
自分の居場所はあるのだろうか、置いていかれたのではないか、不安は深く絡み付いていた。きつく目を瞑った。罪悪感が、後悔の念が、雄叫びを上げて蔓延する。もしこのまま見放されてしまったら、それはとてもとても悲しいことだ。もう間に合わないかもしれない。まだ間に合うかもしれない。叱責されたことを思い出した。頬を張られた痛みはジョニーのものであったことも。クレープが地面に落ちる。とろけたクリームが砂と混ざった。
「ごめん……ボク、帰らなきゃ!」
広場で鬼ごっこをしていたこどもたちからいくつもの歓声が上がる。
***
「なァんでおまえさんが乗ってんの。俺の船は男子禁制なんだけど」
「むう、そんなこと言っていいんですか。メイさんはウチが連れて来たんですよ?」
飛行艇の甲板からメイとディズィーのはしゃぎ声がする。合わせて「ちょっとメイ、ディズィー! 何時だと思ってるの、うるさいよ!」と、非難も聞こえてくる。
開け放たれたドアに視線を遣りながら、ジョニーは淹れたてのコーヒーのカップをブリジットの前に置いた。
「メイさんを慰めたのも、わざとデートに誘って帰りたいと思わせたのも、ぜーんぶウチがやったんですから」
「下心ある奴の科白だな、ま、礼くらいは言っといてやるさ」
「だってメイさんのほっぺ叩いたのってジョニーさんなんでしょ? 怒ってますよ、恋敵なんだから」
「恋敵?」
寄せたジョニーの眉間にいつになく険しい皺が寄る。ブリジットはコーヒーに砂糖を足しているところだった。かわいいですよねメイさんって。ウチ、負けませんから。堂々と顎を引き、真正面からジョニーを見据えてくる。
夕食を終えた食堂はがらんとしたもので、両者の影を色濃くした。メイとディズィーの笑い声も消えている。サングラスを外し、ジョニーは離れた椅子に腰を下ろす。その短い距離に一種緊張がよぎった。ジョニーが口を開く瞬間。
「ジョニー! 仲直り出来たよ!」
食堂に飛び込んできたのはメイだった。あまりの勢いに、本人ですら止まりきれずに数歩よろける。だがそれを気にするわけでもなく、彼女は寝間着のまま満面の笑みを浮かべた。
「お~う、それはよかったな」
「うん! それでねそれでね、今度みんなで海に行こうよ! ディズィーってば見たことないんだって!」
「そいつぁまた急だぁ~が、そうだな、構わないぜレェディ?」
余程嬉しいのか、メイは手足を大仰に振りまわして快活な笑顔を撒き散らす。ジョニーは手招きするなりそんな少女の頬に触れた。頬は熱を帯びても腫れてもいなかった。ジョニーの記憶ではそれまで一度だって叩いたことのない場所だった。
「ジョ、ジョジョジョジョニー!」
「ん、なんだい?」
「く、くち……あたってる、よぉ」
頬に触れたジョニーの唇頭に、まごまご口ごもるメイ。途端ブリジットの目が鋭くなる。どちらの様子に対しても含み笑いをちらつかせ、ジョニーは更に少女を引き寄せた。
「叩いちまったのは、こっちだったな」
「あう、じょにぃ……ってばぁ……」
「痛みが引きますように、それから、おまえさんが今日みたいに俺から離れませんように」
ちゅっと、わずかばかりに音を響かせて与えられた口づけに、メイはとうとう湯気が出そうなほど真っ赤になった。ぱくぱく開閉する口から声は漏れない。メイの柔肌を浅く吸い、名残惜しげに離れる。それだけでメイは恍惚とし、半眼になった。騒ぎ暴れる心臓をなだめようと精一杯胸を押さえる。
ブリジットはかわいらしい童顔をひくちかせてカップを置いた。金髪をかき上げてジョニーを睨む。彼の膝にもたれて立っていたメイの腕を掴む。熱の冷めないメイの体が呆気なく傾いた。
「ジョニーさんだけずるいです! ウチもします!」
怒鳴るなり、ブリジットは反対の頬にキスを落とした。情熱的なジョニーとは異なり、ついばむ口づけにメイはくすぐったそうに笑った。
「な、なんなのさ、ふたりとも……?」
火照った双眸が焦点を失い始める。かろうじてうつったのは、火花を散らすジョニーとブリジットの様子であった。
「別になんでもないですよ」
「そ、おまえさんがみんなに愛されてるってだけの話さ、メイ」
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二十を越えたその体は、年齢よりも幼いフォルムを描きながら、充分な女の気質と香りを備えていた。
すさんだ街に生臭い風が吹いた。どす黒く塗りたくられた強大な天空に潰されかけて、荒廃した建物がそこに詰め込まれている。吹きさらしの路地の端々にはゴミや犬猫の死骸、糞尿が平然と溜まる。ギアとの全面対戦によって秩序を失った街が、死んだように息を潜めてそこにあった。
行き場のない人々は身を寄せ合って、他に関心を示さず、毎日祈りを捧げ生きていく。何かをなすすべがない分、信仰深い街だった。
街は夜には姿を変える。寄せ集めの街は己の生活しか省みない。朝方はさまざまな人種が祈る聖堂も、深夜となれば管理者もおらずにならず者が現れる。そんなところにひとりで出向いていれば、自分から餌食にしてくれと頼むようなものだった。
けど、それを望んでたんだもんねぇ? 目の前でもうひとりの自分が無邪気に首を捻る。うん、頷く。
恐怖などない。これで彼に近づけるというのならば、どうして抵抗する必要があるのだろう。容赦ない手。取り囲む人数すら判らない。大の男もいれば、まだそばかすだらけの少年もいた。十字架の元で、引き裂かれた衣服が舞い散る。この街は治安が悪いから勝手に出歩くなよ、数時間前の忠告は誰だったか。
でもさ、そんなの今更だよね? 交互に訪れる衝撃に揺さぶられて、メイは笑う。
同じこと、ジョニーはしてるんだよね。ボクの知らないところで、知らない人と、してるんだよね?
「こいつ、何笑ってやがる」
下半身の感覚がまるでなかった。傷付けられた膣からドロリと男たちの精液が垂れた。弛緩した口から流れる唾液。入れ替わり立ち代わりの男たちの中に金髪の少年を見て、思わず手をのばす。髪の毛が綺麗だった。
ボクだって彼が抱いた他の何人もの女に負けないくらい、ジョニーが好きだよ。こっちを向いて、ねぇ、ジョニー?
これでおんなじだよね。ボクのこと、ちゃんと見てくれるよね。
***
ジョニーはからっぽになった一室の窓を開け放ち、そこから五月の風をふんだんに取り込んだ。萌葱色のカーテンが波立つ。使われなくなって久しい部屋の床には塵も積もっていない。タオルを水に浸し、調度品を順に拭く。軽快な音でそれぞれが輝きだす。
「ジョニーさん、お昼ごはんですよ」
一度タオルをすすいで一息ついたところに、ドアから青い髪の娘が顔をひょこっと覗かせた。
「おおディズィー、もうそんな時間かい?」
「みんな揃ってます」
「そうかい、じゃあ待たせるわけにはいかねぇなぁ」
「お掃除くらいわたしがやりますよ」
「レディの手を煩わせることでもないさ」
バケツを受け取ろうとするディズィーをやんわり断り、ジョニーは窓を指さした。
「窓閉めといてくれ」
さよならみんな、ボク、船を降りるよ。
そう言ったメイの表情を、ディズィーはまだ覚えている。童顔の先輩はお決まりの悪戯っぽい笑顔で手を振った。
ごめんね、ボクは汚いんだ。
髑髏の入った艦長帽子を脱いで、ディズィーの胸に押し付ける。
この船に乗っていられる資格はないんだよ。
もう半年も前の話だ。
高度を落として浮遊していたジェリーフィッシュ号は、昼を過ぎたあたりで近くの商業街に停留した。普段は空を生活の場とする彼らだが、時折物資を調達すべく地上に着艦する。数日逗留するというジョニーの言葉に団員の半分が勇んで街に繰り出し、残りの半分は船の管理に務めるのだ。ディズィーはこの日、非番だった。
遊びに行こうと誘われるのを丁重に断り、ひとりで街をふらついた。心がなくなって何も考えられなくなるのかと思い、恐ろしくなって花屋や雑貨屋をめぐってみるも、魅力をまるでおぼえられない。溜まる一方の暗雲を払拭しようと財布を取り出したまま、しかし金を払う機会もなく、乾いていない喉にレモンスカッシュを買った。紙コップの側面に小さな気泡が発生する。弾ける炭酸が痛い。半分も飲まないうちに捨てた。レモンシカッシュを好んでいたのは自分ではなくメイなのだから。
街は存分に活気付いていた。街の孕んだ苦悩すべてがディズィーに伸し掛かっているようだった。誰もが明るく、商売上手で、親切だった。知らぬ顔であろうが陽気な挨拶と口説き文句が飛び交った。海に近いようで、炙りたて磯の匂いが強い。塩辛い風が肌を火照らせる。
「ねぇそこのお姉ちゃん、そんな辛気臭い顔してないでさ、うちの果物食べてきなよ!」
一角で声を張る女はディズィーを呼び止め、その手にオレンジの果実を転がした。ルミトンっていう新種さ、そのままがぶっていってよ。旬だから甘いよ。にこにこ白い歯を見せられて、戸惑いまじりに口をつけた。拘泥された意識に柑橘系の酸味が走る。遅れてスッとする甘さが舌を掠めた。
「どうだい、うまいだろう?」
「はい、桃とリンゴの中間ような……変わった味ですね」
「突然変種なんだけどさ、意外にこの味がうけてね、買ってくかい?」
女は惜しみなく笑い、一個じゃ足りないだろと、ディズィーの腕にみっつよっつと乗せていく。豪胆な性格なのか、無遠慮に肩を叩いてくる女につられ、ディズィーもおずおずとほほ笑んだ。それは引きつったものとなったが、女はよしと頷いた。
ディズィーにとってのメイは、己を導いてくれた恩人のひとりであり、先輩であり、初めて出来た友人でもあった。それだけに、彼女が船から居なくなって、ディズィーも心は固く閉ざした。女の笑顔に惹きつけられながら、帰ったらみんなに謝ろうと決心する。自分だけが立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「やっぱ笑ってたほうがいいね、お姉さんかわいいし」
果物を詰める袋を持って、女は言う。
「ここは愛の街さ、領主様の側近のメイ様も、その手で入ったクチだしさ」
「……え?」
ディズィーは耳を疑った。頬が紅潮するのが判る。
「知らないのなら会ってみればいいよ、すっごく気さくなかただから、誰とでもお会いになるんだ」
メイ……メイ! 名前が同じなだけかもしれない。呟いて、ディズィーは海に足を運んだ。今更のように喉が鳴る。他人の空似ならばそれでいい、仮に彼女であったなら。海に行くといいよ、おつりを返してきた女が教えてくれた。不思議な力っていうのかな、メイ様にはよくイルカが集まって、こどもらがおおはしゃぎさ。
ざぁんざざんと海鳴りが響く。水鳥たちの声。法力で動く定期船の影。身を包んだサンドレスに気を遣いもせず塩水につかり、彼女がいた。栗色の長い髪が水面でたゆたい、彼女を守るように数頭のイルカが控える。彼女がイルカの背を撫でてやると、ゆったり一頭ずつ海の底に潜っていった。それを見守ってから、彼女はふいに浜へと歩いた。
「久しぶりだねディズィー」
「メイ……やっぱり、あなたが……」
彼女はサンドレスの裾をつまんで豪快に絞った。ディズィーの双眸にうつるのは紛れもなく、半年前に別れたメイ本人に間違いなかった。だが、言葉が見つからない。気品の漂う姿に後足を踏んでしまう。
「みんなも来てるの? 物資補給?」
「え、ええ……」
「そっかー、変わんないねぇ」
懐かしいや、メイは太古をうたう。一年もたたない間に彼女は別人のような変貌を遂げていた。溌溂とした表情は艶麗を醸し、そそっかしかった手足はたおやかに泳ぐ。低く笑う仕種は娼婦じみて、肉欲的な口唇に急いで目を逸らした。同性からしても、彼女は美しかった。あでやかすぎた。
「ディズィー、帰りなよ」
小鳥のようで、愛欲そのものであるような声が告げる。何事もなく、メイはディズィーの横を通りすぎる。遅くなるとみんなが心配しちゃうよ、迷惑掛けるの苦手でしょ? ディズィーの額をつつき、振り返りぎわににししと笑う。じゃあ、元気でね。
ディズィーが呆けた顔をはっとさせる頃には、既にメイの姿はどこにもなくなっていた。流れる波も、鳥の群れも、すべてが彼女を残して消えた。
結局彼女が船に戻ったのは一番最後だった。夕飯の時間はとうに過ぎ、ジョニーやエイプリルが心配そうに機体の外で待っていた。何かあったのかと問うジョニーに対し、ディズィーは道に迷ったのだと嘘をついた。頭は一向に働かなかった。
機械的に食事を胃に流し、どさりと寝台に倒れる。スプリングがくぐもった音を立てた。シーツを握り締める。目を閉じる。
逆流する嘔吐感。口元には指の触感がまざまざ染み付き離れない。足をつこうとして、床がないのに気付く。シーツに指を掛けて強くふんばる。途端足がすっぽ抜ける。爪が食い込むまでベッドにしがみつく。
「あのね、メイがいたの」
背中の片翼から生じた水色の煙霧は女性の半身をつくり出した。艶やかな頭髪を肩に落とし、ディズィーに手を差しのべる。
「ウンディーネ……わたしっ、わた……!」
ウンディーネにいだかれるまま、ディズィーはひたすら涙をこぼした。嗚咽は徐々に大きくなり、泣き声はどんどん高くなる。
「会いたいって、そう、おもっ……なのに、どうして、怖い、なんで……!」
深夜のデッキには誰の気配もない。ジョニーはそこにどかっと腰を下ろし、銜え煙草に火をつけた。見上げた天は吸い込まれるほどに高く、彼方に星がまたたいた。風のない夜だった。悲しみの叫び声が聞こえてくる。
***
ジェリーフィッシュ快賊団というのは義賊である。すなわち、本来ならば警邏に追われる立場である。よって外部からの情報には敏感で、この日の急報を持って来たのはエイプリルだった。デッキに上った彼女はろくに整わない息で警鐘を鳴らした。
「ここの領主の側近が攫われたんだって! 街じゃかなりの自警団が出回ってて動きづらいったらないよ!」
エイプリルの声にクルー全員がジョニーを仰ぐ。女性ばかりの船員ではあるが、彼女らの行動力は並の男に劣らない。それぞれが過去に悲惨な体験をしているためか、女たちは強かった。
「明日の早朝には出発する。よぉし素敵なレディたち、用意にかかってちょうだいな」
告げて、ジョニーは茶目っ気たっぷりにウインクした。慣れた動作で散っていくクルーの中、エイプリルは真っ青になったディズィーに駆け寄った。ディズィーは生まれたての小鹿のような足取りで佇んでいた。
「ディズィー? 大丈夫だよ、警察になんか捕まらないよ、安心して」
「いいえ、わたしは……」
「もしかして具合悪い?」
ディズィーの瞳は虚空をさまよい、己の体をきつく抱きしめる。かと思えば走りだし、エイプリルは慌てて彼女を追い、すぐさま腕を掴んだ。
「ねえ、どうしちゃったのさ!」
「離してください! だって、メイが!」
「あの子はもう居ないんだよ! 船を降りたんだ!」
「ディズィー!」
ディズィーの血相にジョニーが追いついてくる。ディズィーは胸を押さえて深呼吸し、どうにか落ち着こうとしているようだった。膝に手を当てのろのろ顔を上げる。赤茶の双眸には大粒の涙がにじんでいた。肩は上がりきり、丸くなった背中をエイプリルが撫ぜる。
「話せるか?」
「攫われた領主の側近というかたに、昨日会いました、あの人に」
その人は街のみんなに好かれていました。綺麗で、凛とした姿で。その人は、海でたくさんのイルカを呼び寄せることが出来ました。彼女はメイと、呼ばれていました。
名前は伝染し、やがてジョニーにまで届いた。語りきったディズィーが腰を落とす。それが真実であるというのを物語っていた。太陽は空高く、デッキの隅々を照らしだす。肌を押し包む日差しがあたたかい。会いたいね、誰かがそっと呟く。
「駄目だ」
「ジョニー!」
「予定は変わらない、さっきの通り、明日には出発する」
「どうして! わたし、あの子に会いたいよ!」
甲板は静かだった。エイプリル、咎める彼の声も、ひょっとしたら無音のそれだったかもしれない。エイプリルはぎゅっと眉を寄せて息を飲んだ。やがてひとりひとり、自然にクルーたちの足が動いては消える。
***
それは眠りと称するにはいささか遠い。目覚める直前のえも知れぬ苦痛。ゆったりと繰り出される体の軋み。戻りつつある意識は尚更現実を拒み、闇に留まろうとする。ああ、頭が痛いのか。
鼓膜への刺激で淡い夢は弾け飛び、モノクロシーンに色彩がひしめく。最初に飛び込んできたのは鉄の匂い。低音キー。そして彼女は目を開けた。
暗色の視界が一面に広がった。右も左もくすんだ灰の壁。首には鎖が食い込んでいる。ここは部屋というよりも箱の中にいるようであった。
「お目覚めかい、お姫様?」
鉄格子の戸を遮って立つ男が黒ずんだ歯を見せつける。男は上半身をはだけ、右肩だけが奇妙に隆起していた。彼女のむき出しになった太腿や胸元に目を遣り、ねっとりと声を絡ませてくる。男の喉仏が大きく上下する。
「あっちのほうで領主に気に入られたって話、満更でもなさそうだなオイ?」
「わたしになんの用? 何が目的?」
「は、威勢がいい女は嫌いじゃないぜぇ? なあ、ジャパニーズ、いや、違ったとしても売っちまえば同じだがな」
かん高い音で錠が開かれる。男が歩み寄るにつれて、獣の生皮に似た匂いが強まった。男は首の鎖を掴み、強引に彼女の肢体を吹き寄せた。彼女の黒眼は逸らされない。胸を覆う布地を裂く。それでも動じない彼女に男はけたたましく笑った。
「売る前に手でも付けてやろうかと思ったが、そうかあんたも好きモノだな!」
次の瞬間男の岩のような拳が彼女の腹部を貫いた。女は呆気なく吹き飛んで、壁に後頭部を打ち付けた。
「うあ!」
「ほーら、抱かれたいんだろォ!」
みる間に血を流し始めた頭をわし掴んで床に叩き伏せる。ぶちりぶちりと髪の抜ける音が耳の上から聞こえた。ヒッと呼吸器が悲鳴を上げる。四肢が落ち、男はそれに覆いかぶさってぶ厚い口を押し付けた。
あの日は重圧な雲ばかりで、星の一粒見えない空模様だった。乱雑な行動を受ける中、彼女は天井に走る欄干を見据えていた。欄干は無表情に介入を拒む。しかし、彼女だけはそこを見続ける。痛いと叫ばず、許しを乞いもせず、じっと、じっと。彼女は助けが来ないことを知っていた。そして、彼女への陵辱は明け方まで続いた。
冷めきったチャペルに取り残された時、彼女はメイの名を捨てた。彼女は彼女でありながら、まったく異なる女になった。それが彼女の願いであった。
「がふ!」
目前の男の奇声に我に返る。男は舌を出して白目を剥いていた。顔を上げる。その一瞬を、彼女は一生忘れないだろう。両親を失い、初めて彼と出逢った日のように。
(……神様みたいだ)
ジョニー、久しく呼ばなかった名前のことだ。長身をコートで覆い、長い金髪を首筋で結い、悠然と佇む男だ。けれどメイは少しだけまなこを伏せて、気絶した男の影から後退した。無言でのびるジョニーの指に、意図せず体が逃げ場を求める。
「こっちだ」と一言だけ発し、歩き出すジョニー。メイはついていくべきかと思案顔であったが、倒れた男とジョニーを比べ、彼の背中を追い掛ける。彼女が苦しいと感じたのは、首に巻きつけられた鎖のせいだけではない。
自分が街からそう遠く離れていない古倉庫に閉じ込められていたのだと判ったのは、街の宿へ向かうのに小半時の要さなかったからだ。街といってもメイが暮らしていたそこではなく、穏やかで牧歌的な土地だった。宿舎自体が小さく狭い一室は、側近であった頃からすればひどく質素に思えた。ジョニーはサングラスとキャプテンハットを放り捨て、あらかじめ持ち込んでいたらしい酒を呷っている。メイは破れた胸を隠し隠し、寝台のひとつに膝をかかえてすわっていたが、沈黙をこらえきれずに声を荒げた。
「どうして来たの!」
「船を降りた奴には関与しないのがうちの鉄則だ、だがな、大切なクルーを泣かせる輩を許してやれるほど、俺は甘くない」
振り返りさえしない黒コートの肩を睥睨し、翼の生えた後輩の姿を回顧する。脳裏によぎる彼女を呼び止めようとして、やめた。
「ならどうして助けたりなんかしたの!」
「お邪魔だった、ってか?」
「ええ邪魔よ! あなたなんかに助けてもらいたくなんかなかった!」
「そいつは悪かったな、なら……抱いてやろうか?」
メイは仰天して悲鳴を上げかけた。咄嗟に両腕を突き出して逃れようとした彼女の口唇は軽々と塞がれ、シーツの海に縫い付けられる。全身が粟立つ感覚に陥った。その感触は恐怖に似ていて、メイは目前の男を直視出来ない。怖い? そう、怖い。かつてあんなにも求めていた彼が、好きで好きでたまらなかった彼が怖いのだ。
「邪魔したお詫びだ、側近様は誰にだって抱かれたがるそうだからな」
接触だけの口づけは冷酷だった。重なったあたりから生ずる僅かな稲妻が、彼女の四肢を硬直させ、意識を混乱のきわに追い立てた。隙間はジョニーによって閉ざされ、合間から漏れた呻き声気持ち悪い。解放されて、息を吸う。潤んだ目に浮かびだすのはその男。それなのに、メイは身震いする。
金糸の長い髪を束ねて。愛用のコート素肌にまとって。年を重ねるごとに増していく妖しげな雰囲気と、吐き気がするほど美しい青い瞳と。何をとっても変わらないこの男に、どうしてこんなにも怯えているのだろう、他人のように。
離れていたのは半年間、彼は変わってしまったのだろうか、それとも、自分が変わってしまったのだろうか。
「おまえさんが願ったことだろう?」
ひょうひょうとした口調こそがメイの耳に風穴を開けた。肩に男の重みをいっそう感じた。
「なのに逃げるのか?」
額が重なり、紙一重のところでジョニーが冷笑を持て余す。メイは放てる言葉を知らない。脳裏で心というものに押し潰される己の姿を見た。鼓膜が痛い。息をしたい。水から引き上げられた魚たちは、皆呼吸を求めて死んでいった。
爪の先ほどで口唇が掠め合う。俺から逃げるのか? 張り詰めた糸が切れる。ぷっつりと、彼女の瞳に光りが溢れた。
「もうやめて今更なの! わたしはもう汚いの! 助けなんていらないの!」
「助けてやれなかった、だから、今度は助けるために来た」
「いや、わたしは!」
「メイ」
ジョニーの掌は大きく、たおやかにメイの頭に触れた。円を描くように撫でた。
「帰って来い、俺のところに」
「や、やぁ……わ、た……ボ・ク」
二度と使うまいと決めていた呼称に彼女は知らず打ち震えた。ひたすらに涙が止まらなかった。洟をすすり、しゃくり上げ、みっともなく声を放ち、気付けばジョニーにしがみついては謝罪の言葉を繰り返していた。ごめんなさいごめんなさい、迷惑掛けてごめんなさい、約束破ってごめんなさい、卑怯でごめんなさい、汚くてごめんなさい。赤ん坊のように喉を枯らし、メイの嗚咽は朝日に消えた。
***
「あーあ、結局メイのひとり勝ちかぁ」
「何若いのがシケた顔してんだい」
「だってぇー、メイはいいな、この先ずっとジョニーさんを独占出来るんだからさ、ずるい」
「無茶言うんじゃないの、あの人には散々お世話になったじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
「ずっとアタシらのために頑張ってくれたんだ、これからはあの人の好きなように生きてもらわなきゃ」
走るデッキブラシから漏れた会話を横耳に挟み、ディズィーは飛行艇の甲板から遥か下界を眺めていた。腕には橙色の果実が溢れている。眩しげに双眸を細め、口を緩ませる。早朝に消えた一台の小型船はきっともう戻らない。
「これでいんだよね、ディズィー」
「エイプリル……?」
そっと現れたエイプリルが、ディズィーと同じようにして柵に寄り掛かる。光りは両者を包むように差し、どちらも慌てて瞳を背く。
「ジョニーもメイも幸せになれるといいね」
「間違いなくなりますよ、エイプリル」
「いつになく断言するわね珍しい」
「はい! 断言したから、きっと幸せになります!」
「あははははは! そうだね、断言しなきゃね!」
ころころ笑うエイプリルにオレンジをひとつ渡した。オレンジは、風を受けて太陽のごとくきらめき続ける。
***
安酒を傾けて、ジョニーはすっかり暮れた空に頭を預けた。寝台ではとうに眠りの世界へいざなわれたメイが布団を握りしめている。
小さな体を蹂躙された日、彼女は何を祈っていただろうか。思い知ればいい、この時を。ほら見てみろ、気が狂うくらい待っていたから、こんなにもオッサンになっちまったじゃないか。今になって嫌だなんて言わせない。
「苦しいのなら抱きしめてやる、何度でも涙を拭ってやる、だから必ずここに居ろ、メイ」
ねぇ、ボクのこと好き? お嫁さんにしてくれる? 幼い輪郭が笑って問うた。
「ああ、好きだよ」
穏やかな寝息を立てるメイの頬、ジョニーは優しく口づけた。
FIN.
すさんだ街に生臭い風が吹いた。どす黒く塗りたくられた強大な天空に潰されかけて、荒廃した建物がそこに詰め込まれている。吹きさらしの路地の端々にはゴミや犬猫の死骸、糞尿が平然と溜まる。ギアとの全面対戦によって秩序を失った街が、死んだように息を潜めてそこにあった。
行き場のない人々は身を寄せ合って、他に関心を示さず、毎日祈りを捧げ生きていく。何かをなすすべがない分、信仰深い街だった。
街は夜には姿を変える。寄せ集めの街は己の生活しか省みない。朝方はさまざまな人種が祈る聖堂も、深夜となれば管理者もおらずにならず者が現れる。そんなところにひとりで出向いていれば、自分から餌食にしてくれと頼むようなものだった。
けど、それを望んでたんだもんねぇ? 目の前でもうひとりの自分が無邪気に首を捻る。うん、頷く。
恐怖などない。これで彼に近づけるというのならば、どうして抵抗する必要があるのだろう。容赦ない手。取り囲む人数すら判らない。大の男もいれば、まだそばかすだらけの少年もいた。十字架の元で、引き裂かれた衣服が舞い散る。この街は治安が悪いから勝手に出歩くなよ、数時間前の忠告は誰だったか。
でもさ、そんなの今更だよね? 交互に訪れる衝撃に揺さぶられて、メイは笑う。
同じこと、ジョニーはしてるんだよね。ボクの知らないところで、知らない人と、してるんだよね?
「こいつ、何笑ってやがる」
下半身の感覚がまるでなかった。傷付けられた膣からドロリと男たちの精液が垂れた。弛緩した口から流れる唾液。入れ替わり立ち代わりの男たちの中に金髪の少年を見て、思わず手をのばす。髪の毛が綺麗だった。
ボクだって彼が抱いた他の何人もの女に負けないくらい、ジョニーが好きだよ。こっちを向いて、ねぇ、ジョニー?
これでおんなじだよね。ボクのこと、ちゃんと見てくれるよね。
***
ジョニーはからっぽになった一室の窓を開け放ち、そこから五月の風をふんだんに取り込んだ。萌葱色のカーテンが波立つ。使われなくなって久しい部屋の床には塵も積もっていない。タオルを水に浸し、調度品を順に拭く。軽快な音でそれぞれが輝きだす。
「ジョニーさん、お昼ごはんですよ」
一度タオルをすすいで一息ついたところに、ドアから青い髪の娘が顔をひょこっと覗かせた。
「おおディズィー、もうそんな時間かい?」
「みんな揃ってます」
「そうかい、じゃあ待たせるわけにはいかねぇなぁ」
「お掃除くらいわたしがやりますよ」
「レディの手を煩わせることでもないさ」
バケツを受け取ろうとするディズィーをやんわり断り、ジョニーは窓を指さした。
「窓閉めといてくれ」
さよならみんな、ボク、船を降りるよ。
そう言ったメイの表情を、ディズィーはまだ覚えている。童顔の先輩はお決まりの悪戯っぽい笑顔で手を振った。
ごめんね、ボクは汚いんだ。
髑髏の入った艦長帽子を脱いで、ディズィーの胸に押し付ける。
この船に乗っていられる資格はないんだよ。
もう半年も前の話だ。
高度を落として浮遊していたジェリーフィッシュ号は、昼を過ぎたあたりで近くの商業街に停留した。普段は空を生活の場とする彼らだが、時折物資を調達すべく地上に着艦する。数日逗留するというジョニーの言葉に団員の半分が勇んで街に繰り出し、残りの半分は船の管理に務めるのだ。ディズィーはこの日、非番だった。
遊びに行こうと誘われるのを丁重に断り、ひとりで街をふらついた。心がなくなって何も考えられなくなるのかと思い、恐ろしくなって花屋や雑貨屋をめぐってみるも、魅力をまるでおぼえられない。溜まる一方の暗雲を払拭しようと財布を取り出したまま、しかし金を払う機会もなく、乾いていない喉にレモンスカッシュを買った。紙コップの側面に小さな気泡が発生する。弾ける炭酸が痛い。半分も飲まないうちに捨てた。レモンシカッシュを好んでいたのは自分ではなくメイなのだから。
街は存分に活気付いていた。街の孕んだ苦悩すべてがディズィーに伸し掛かっているようだった。誰もが明るく、商売上手で、親切だった。知らぬ顔であろうが陽気な挨拶と口説き文句が飛び交った。海に近いようで、炙りたて磯の匂いが強い。塩辛い風が肌を火照らせる。
「ねぇそこのお姉ちゃん、そんな辛気臭い顔してないでさ、うちの果物食べてきなよ!」
一角で声を張る女はディズィーを呼び止め、その手にオレンジの果実を転がした。ルミトンっていう新種さ、そのままがぶっていってよ。旬だから甘いよ。にこにこ白い歯を見せられて、戸惑いまじりに口をつけた。拘泥された意識に柑橘系の酸味が走る。遅れてスッとする甘さが舌を掠めた。
「どうだい、うまいだろう?」
「はい、桃とリンゴの中間ような……変わった味ですね」
「突然変種なんだけどさ、意外にこの味がうけてね、買ってくかい?」
女は惜しみなく笑い、一個じゃ足りないだろと、ディズィーの腕にみっつよっつと乗せていく。豪胆な性格なのか、無遠慮に肩を叩いてくる女につられ、ディズィーもおずおずとほほ笑んだ。それは引きつったものとなったが、女はよしと頷いた。
ディズィーにとってのメイは、己を導いてくれた恩人のひとりであり、先輩であり、初めて出来た友人でもあった。それだけに、彼女が船から居なくなって、ディズィーも心は固く閉ざした。女の笑顔に惹きつけられながら、帰ったらみんなに謝ろうと決心する。自分だけが立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「やっぱ笑ってたほうがいいね、お姉さんかわいいし」
果物を詰める袋を持って、女は言う。
「ここは愛の街さ、領主様の側近のメイ様も、その手で入ったクチだしさ」
「……え?」
ディズィーは耳を疑った。頬が紅潮するのが判る。
「知らないのなら会ってみればいいよ、すっごく気さくなかただから、誰とでもお会いになるんだ」
メイ……メイ! 名前が同じなだけかもしれない。呟いて、ディズィーは海に足を運んだ。今更のように喉が鳴る。他人の空似ならばそれでいい、仮に彼女であったなら。海に行くといいよ、おつりを返してきた女が教えてくれた。不思議な力っていうのかな、メイ様にはよくイルカが集まって、こどもらがおおはしゃぎさ。
ざぁんざざんと海鳴りが響く。水鳥たちの声。法力で動く定期船の影。身を包んだサンドレスに気を遣いもせず塩水につかり、彼女がいた。栗色の長い髪が水面でたゆたい、彼女を守るように数頭のイルカが控える。彼女がイルカの背を撫でてやると、ゆったり一頭ずつ海の底に潜っていった。それを見守ってから、彼女はふいに浜へと歩いた。
「久しぶりだねディズィー」
「メイ……やっぱり、あなたが……」
彼女はサンドレスの裾をつまんで豪快に絞った。ディズィーの双眸にうつるのは紛れもなく、半年前に別れたメイ本人に間違いなかった。だが、言葉が見つからない。気品の漂う姿に後足を踏んでしまう。
「みんなも来てるの? 物資補給?」
「え、ええ……」
「そっかー、変わんないねぇ」
懐かしいや、メイは太古をうたう。一年もたたない間に彼女は別人のような変貌を遂げていた。溌溂とした表情は艶麗を醸し、そそっかしかった手足はたおやかに泳ぐ。低く笑う仕種は娼婦じみて、肉欲的な口唇に急いで目を逸らした。同性からしても、彼女は美しかった。あでやかすぎた。
「ディズィー、帰りなよ」
小鳥のようで、愛欲そのものであるような声が告げる。何事もなく、メイはディズィーの横を通りすぎる。遅くなるとみんなが心配しちゃうよ、迷惑掛けるの苦手でしょ? ディズィーの額をつつき、振り返りぎわににししと笑う。じゃあ、元気でね。
ディズィーが呆けた顔をはっとさせる頃には、既にメイの姿はどこにもなくなっていた。流れる波も、鳥の群れも、すべてが彼女を残して消えた。
結局彼女が船に戻ったのは一番最後だった。夕飯の時間はとうに過ぎ、ジョニーやエイプリルが心配そうに機体の外で待っていた。何かあったのかと問うジョニーに対し、ディズィーは道に迷ったのだと嘘をついた。頭は一向に働かなかった。
機械的に食事を胃に流し、どさりと寝台に倒れる。スプリングがくぐもった音を立てた。シーツを握り締める。目を閉じる。
逆流する嘔吐感。口元には指の触感がまざまざ染み付き離れない。足をつこうとして、床がないのに気付く。シーツに指を掛けて強くふんばる。途端足がすっぽ抜ける。爪が食い込むまでベッドにしがみつく。
「あのね、メイがいたの」
背中の片翼から生じた水色の煙霧は女性の半身をつくり出した。艶やかな頭髪を肩に落とし、ディズィーに手を差しのべる。
「ウンディーネ……わたしっ、わた……!」
ウンディーネにいだかれるまま、ディズィーはひたすら涙をこぼした。嗚咽は徐々に大きくなり、泣き声はどんどん高くなる。
「会いたいって、そう、おもっ……なのに、どうして、怖い、なんで……!」
深夜のデッキには誰の気配もない。ジョニーはそこにどかっと腰を下ろし、銜え煙草に火をつけた。見上げた天は吸い込まれるほどに高く、彼方に星がまたたいた。風のない夜だった。悲しみの叫び声が聞こえてくる。
***
ジェリーフィッシュ快賊団というのは義賊である。すなわち、本来ならば警邏に追われる立場である。よって外部からの情報には敏感で、この日の急報を持って来たのはエイプリルだった。デッキに上った彼女はろくに整わない息で警鐘を鳴らした。
「ここの領主の側近が攫われたんだって! 街じゃかなりの自警団が出回ってて動きづらいったらないよ!」
エイプリルの声にクルー全員がジョニーを仰ぐ。女性ばかりの船員ではあるが、彼女らの行動力は並の男に劣らない。それぞれが過去に悲惨な体験をしているためか、女たちは強かった。
「明日の早朝には出発する。よぉし素敵なレディたち、用意にかかってちょうだいな」
告げて、ジョニーは茶目っ気たっぷりにウインクした。慣れた動作で散っていくクルーの中、エイプリルは真っ青になったディズィーに駆け寄った。ディズィーは生まれたての小鹿のような足取りで佇んでいた。
「ディズィー? 大丈夫だよ、警察になんか捕まらないよ、安心して」
「いいえ、わたしは……」
「もしかして具合悪い?」
ディズィーの瞳は虚空をさまよい、己の体をきつく抱きしめる。かと思えば走りだし、エイプリルは慌てて彼女を追い、すぐさま腕を掴んだ。
「ねえ、どうしちゃったのさ!」
「離してください! だって、メイが!」
「あの子はもう居ないんだよ! 船を降りたんだ!」
「ディズィー!」
ディズィーの血相にジョニーが追いついてくる。ディズィーは胸を押さえて深呼吸し、どうにか落ち着こうとしているようだった。膝に手を当てのろのろ顔を上げる。赤茶の双眸には大粒の涙がにじんでいた。肩は上がりきり、丸くなった背中をエイプリルが撫ぜる。
「話せるか?」
「攫われた領主の側近というかたに、昨日会いました、あの人に」
その人は街のみんなに好かれていました。綺麗で、凛とした姿で。その人は、海でたくさんのイルカを呼び寄せることが出来ました。彼女はメイと、呼ばれていました。
名前は伝染し、やがてジョニーにまで届いた。語りきったディズィーが腰を落とす。それが真実であるというのを物語っていた。太陽は空高く、デッキの隅々を照らしだす。肌を押し包む日差しがあたたかい。会いたいね、誰かがそっと呟く。
「駄目だ」
「ジョニー!」
「予定は変わらない、さっきの通り、明日には出発する」
「どうして! わたし、あの子に会いたいよ!」
甲板は静かだった。エイプリル、咎める彼の声も、ひょっとしたら無音のそれだったかもしれない。エイプリルはぎゅっと眉を寄せて息を飲んだ。やがてひとりひとり、自然にクルーたちの足が動いては消える。
***
それは眠りと称するにはいささか遠い。目覚める直前のえも知れぬ苦痛。ゆったりと繰り出される体の軋み。戻りつつある意識は尚更現実を拒み、闇に留まろうとする。ああ、頭が痛いのか。
鼓膜への刺激で淡い夢は弾け飛び、モノクロシーンに色彩がひしめく。最初に飛び込んできたのは鉄の匂い。低音キー。そして彼女は目を開けた。
暗色の視界が一面に広がった。右も左もくすんだ灰の壁。首には鎖が食い込んでいる。ここは部屋というよりも箱の中にいるようであった。
「お目覚めかい、お姫様?」
鉄格子の戸を遮って立つ男が黒ずんだ歯を見せつける。男は上半身をはだけ、右肩だけが奇妙に隆起していた。彼女のむき出しになった太腿や胸元に目を遣り、ねっとりと声を絡ませてくる。男の喉仏が大きく上下する。
「あっちのほうで領主に気に入られたって話、満更でもなさそうだなオイ?」
「わたしになんの用? 何が目的?」
「は、威勢がいい女は嫌いじゃないぜぇ? なあ、ジャパニーズ、いや、違ったとしても売っちまえば同じだがな」
かん高い音で錠が開かれる。男が歩み寄るにつれて、獣の生皮に似た匂いが強まった。男は首の鎖を掴み、強引に彼女の肢体を吹き寄せた。彼女の黒眼は逸らされない。胸を覆う布地を裂く。それでも動じない彼女に男はけたたましく笑った。
「売る前に手でも付けてやろうかと思ったが、そうかあんたも好きモノだな!」
次の瞬間男の岩のような拳が彼女の腹部を貫いた。女は呆気なく吹き飛んで、壁に後頭部を打ち付けた。
「うあ!」
「ほーら、抱かれたいんだろォ!」
みる間に血を流し始めた頭をわし掴んで床に叩き伏せる。ぶちりぶちりと髪の抜ける音が耳の上から聞こえた。ヒッと呼吸器が悲鳴を上げる。四肢が落ち、男はそれに覆いかぶさってぶ厚い口を押し付けた。
あの日は重圧な雲ばかりで、星の一粒見えない空模様だった。乱雑な行動を受ける中、彼女は天井に走る欄干を見据えていた。欄干は無表情に介入を拒む。しかし、彼女だけはそこを見続ける。痛いと叫ばず、許しを乞いもせず、じっと、じっと。彼女は助けが来ないことを知っていた。そして、彼女への陵辱は明け方まで続いた。
冷めきったチャペルに取り残された時、彼女はメイの名を捨てた。彼女は彼女でありながら、まったく異なる女になった。それが彼女の願いであった。
「がふ!」
目前の男の奇声に我に返る。男は舌を出して白目を剥いていた。顔を上げる。その一瞬を、彼女は一生忘れないだろう。両親を失い、初めて彼と出逢った日のように。
(……神様みたいだ)
ジョニー、久しく呼ばなかった名前のことだ。長身をコートで覆い、長い金髪を首筋で結い、悠然と佇む男だ。けれどメイは少しだけまなこを伏せて、気絶した男の影から後退した。無言でのびるジョニーの指に、意図せず体が逃げ場を求める。
「こっちだ」と一言だけ発し、歩き出すジョニー。メイはついていくべきかと思案顔であったが、倒れた男とジョニーを比べ、彼の背中を追い掛ける。彼女が苦しいと感じたのは、首に巻きつけられた鎖のせいだけではない。
自分が街からそう遠く離れていない古倉庫に閉じ込められていたのだと判ったのは、街の宿へ向かうのに小半時の要さなかったからだ。街といってもメイが暮らしていたそこではなく、穏やかで牧歌的な土地だった。宿舎自体が小さく狭い一室は、側近であった頃からすればひどく質素に思えた。ジョニーはサングラスとキャプテンハットを放り捨て、あらかじめ持ち込んでいたらしい酒を呷っている。メイは破れた胸を隠し隠し、寝台のひとつに膝をかかえてすわっていたが、沈黙をこらえきれずに声を荒げた。
「どうして来たの!」
「船を降りた奴には関与しないのがうちの鉄則だ、だがな、大切なクルーを泣かせる輩を許してやれるほど、俺は甘くない」
振り返りさえしない黒コートの肩を睥睨し、翼の生えた後輩の姿を回顧する。脳裏によぎる彼女を呼び止めようとして、やめた。
「ならどうして助けたりなんかしたの!」
「お邪魔だった、ってか?」
「ええ邪魔よ! あなたなんかに助けてもらいたくなんかなかった!」
「そいつは悪かったな、なら……抱いてやろうか?」
メイは仰天して悲鳴を上げかけた。咄嗟に両腕を突き出して逃れようとした彼女の口唇は軽々と塞がれ、シーツの海に縫い付けられる。全身が粟立つ感覚に陥った。その感触は恐怖に似ていて、メイは目前の男を直視出来ない。怖い? そう、怖い。かつてあんなにも求めていた彼が、好きで好きでたまらなかった彼が怖いのだ。
「邪魔したお詫びだ、側近様は誰にだって抱かれたがるそうだからな」
接触だけの口づけは冷酷だった。重なったあたりから生ずる僅かな稲妻が、彼女の四肢を硬直させ、意識を混乱のきわに追い立てた。隙間はジョニーによって閉ざされ、合間から漏れた呻き声気持ち悪い。解放されて、息を吸う。潤んだ目に浮かびだすのはその男。それなのに、メイは身震いする。
金糸の長い髪を束ねて。愛用のコート素肌にまとって。年を重ねるごとに増していく妖しげな雰囲気と、吐き気がするほど美しい青い瞳と。何をとっても変わらないこの男に、どうしてこんなにも怯えているのだろう、他人のように。
離れていたのは半年間、彼は変わってしまったのだろうか、それとも、自分が変わってしまったのだろうか。
「おまえさんが願ったことだろう?」
ひょうひょうとした口調こそがメイの耳に風穴を開けた。肩に男の重みをいっそう感じた。
「なのに逃げるのか?」
額が重なり、紙一重のところでジョニーが冷笑を持て余す。メイは放てる言葉を知らない。脳裏で心というものに押し潰される己の姿を見た。鼓膜が痛い。息をしたい。水から引き上げられた魚たちは、皆呼吸を求めて死んでいった。
爪の先ほどで口唇が掠め合う。俺から逃げるのか? 張り詰めた糸が切れる。ぷっつりと、彼女の瞳に光りが溢れた。
「もうやめて今更なの! わたしはもう汚いの! 助けなんていらないの!」
「助けてやれなかった、だから、今度は助けるために来た」
「いや、わたしは!」
「メイ」
ジョニーの掌は大きく、たおやかにメイの頭に触れた。円を描くように撫でた。
「帰って来い、俺のところに」
「や、やぁ……わ、た……ボ・ク」
二度と使うまいと決めていた呼称に彼女は知らず打ち震えた。ひたすらに涙が止まらなかった。洟をすすり、しゃくり上げ、みっともなく声を放ち、気付けばジョニーにしがみついては謝罪の言葉を繰り返していた。ごめんなさいごめんなさい、迷惑掛けてごめんなさい、約束破ってごめんなさい、卑怯でごめんなさい、汚くてごめんなさい。赤ん坊のように喉を枯らし、メイの嗚咽は朝日に消えた。
***
「あーあ、結局メイのひとり勝ちかぁ」
「何若いのがシケた顔してんだい」
「だってぇー、メイはいいな、この先ずっとジョニーさんを独占出来るんだからさ、ずるい」
「無茶言うんじゃないの、あの人には散々お世話になったじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
「ずっとアタシらのために頑張ってくれたんだ、これからはあの人の好きなように生きてもらわなきゃ」
走るデッキブラシから漏れた会話を横耳に挟み、ディズィーは飛行艇の甲板から遥か下界を眺めていた。腕には橙色の果実が溢れている。眩しげに双眸を細め、口を緩ませる。早朝に消えた一台の小型船はきっともう戻らない。
「これでいんだよね、ディズィー」
「エイプリル……?」
そっと現れたエイプリルが、ディズィーと同じようにして柵に寄り掛かる。光りは両者を包むように差し、どちらも慌てて瞳を背く。
「ジョニーもメイも幸せになれるといいね」
「間違いなくなりますよ、エイプリル」
「いつになく断言するわね珍しい」
「はい! 断言したから、きっと幸せになります!」
「あははははは! そうだね、断言しなきゃね!」
ころころ笑うエイプリルにオレンジをひとつ渡した。オレンジは、風を受けて太陽のごとくきらめき続ける。
***
安酒を傾けて、ジョニーはすっかり暮れた空に頭を預けた。寝台ではとうに眠りの世界へいざなわれたメイが布団を握りしめている。
小さな体を蹂躙された日、彼女は何を祈っていただろうか。思い知ればいい、この時を。ほら見てみろ、気が狂うくらい待っていたから、こんなにもオッサンになっちまったじゃないか。今になって嫌だなんて言わせない。
「苦しいのなら抱きしめてやる、何度でも涙を拭ってやる、だから必ずここに居ろ、メイ」
ねぇ、ボクのこと好き? お嫁さんにしてくれる? 幼い輪郭が笑って問うた。
「ああ、好きだよ」
穏やかな寝息を立てるメイの頬、ジョニーは優しく口づけた。
FIN.
募るばかりで
ぶつけられない
口にしても
この心は癒されない
ねぇ
こっちを向いてよ……
「メイさん…どうかなさったんですか?」
ある森の中、小鳥と戯れていたディズィーは、突然の訪問者に目を丸くしていた。訪問者は、ジェリーフィッシュ快賊団のメイ。彼女は、いつもは見せない少し寂しそうな顔をしていた。とさ、とディズィーの傍に腰を下ろし、ゆらゆらと体を揺らす。
「どうしよう、ディズィー。ボク、ジョニーに嫌われちゃうよ。」
「え……?」
メイの言葉があまりに理解不能で、ディズィーはつい聞き返した。あの温厚なジョニーが、どこをどうしたら怒ってしまうと言うのだろう。きょとんとしているディズィーを一目見たメイは、小さく苦笑した。
「ごめんね、急にこんな話。忘れちゃって。」
えへへ、と笑う彼女を見て、ディズィーは胸が痛むのを感じた。こんなに幼いのに、いや、実際自分の方が下なのだが、とりあえずメイに無理をさせるべきではない。そう判断したディズィーは、腕を軽く上げて小鳥を放した。あとでね、と優しく語りかけ、改めてメイの方に目をやる。
「私でよければ、話を聞かせて下さい。力になれるかも…。」
「あっ、いいよ。ほんと、大丈夫!ね?」
腕を振り回すメイを、ディズィーは黙って見つめる。その瞳の真剣さに押されたのか、メイはしばらく笑顔を浮かべたままだったものの、すぐにそれを掻き消した。
ちらりと彼女が目をやった方向に、きっと船が止まっているのだろう。距離までは測れないのだが、多分そう遠くない。その方向をじっと見つめたままで、メイはゆっくりと唇を開いた。
「ジョニーに、好きだって言っちゃったんだぁ…。」
「……?それでどうして嫌われちゃうんですか?」
わけが分からず首を傾げるディズィー。そんな彼女に、メイは全てを語って聞かせた。いつものように、ジョニーに懐いていって。いつものように好きだって言って。「いい女に成長したら」と、ジョニーもいつもの返事を返してきて。だが、その後が少し違ったのだ。
自分でも、何をそんなに焦っているのか分からない。早くこの思いを伝えないと、好きになってもらわないと、という想いがはやって、メイのアタックは猛烈なものになっていって。いつもは苦笑するだけで終わるジョニーも、つい顔に出てしまったのだ。眉間にしわを寄せて、その唇からは溜め息さえも漏れた。それで、メイは嫌われると思ったのだ。
「もう嫌われちゃってるかもしれないね。あんまりボクがしつこいから…。」
「メ、メイさん…。」
泣きそうになったメイの肩を、ディズィーは慌てて自分の方に引き寄せた。その胸に抱き寄せて、優しく髪を撫でてみる。メイが少しでも落ち着けるように、という配慮からだったのだが、メイはますます落ち込んでいく。ディズィーの胸に頬を寄せて、彼女はぼんやりと目を細めた。
「…ディズィーって、いい女だよね。」
「そ、そんな事…。」
戸惑うディズィーの顔を見上げ、メイは表情を歪めた。幼いながらに、その表情は誰かに想いを寄せる女性のもので。思わず息を呑んだディズィーに微笑みながら、メイは彼女から体を離した。ごしごしと、目に浮かびかけた涙を腕で拭い、くるりと背を向ける。
「ボクなんかより、ディズィーの方がずっと美人だし。」
「…メイさん…。」
「優しくて、大人びてて、…可愛くてさ。」
「そんな、だってメイさんも。」
「ごめんディズィー!ボク、もう船戻るから!」
唇を噛み締めながら、メイは走り出した。言うだけ言って走り去るなんて、最低な事をしていると頭では分かっている。自分からディズィーを訪ねておいて、勝手に興奮状態になって。ディズィーは何も悪くない、悪いのは全部自分なのに、ディズィーは怒らないでいてくれて。それがかえって、メイの心に重くのしかかっていた。どうしてこんなに子供なんだろう、と自分を責めてしまうから。自分とディズィーを比べてしまうから。
やがて彼女は、ある事に気がついて足を止めた。考え事をしながら走っていたせいで、道が分からなくなってしまったのだ。ここは確かに光もよく当たるし、穏やかな森だが、決して広くないわけではなく。寧ろ広すぎるくらいある森の中で迷ってしまっては、帰るのにどのくらいかかる事か。メイは、途方に暮れながらその場に座り込んだ。体操座りをし、その膝に顎を乗せて、瞳を伏せる。
「…ディズィーにも、嫌われちゃったかも…ボク。」
怒らないでいてくれた。でも、後から考えたら、ひどい事をされたと気付ける程度の知能を、彼女は持っている。そのせいで、メイは嫌われてしまう。ぽろりと、彼女の目から涙が零れ落ちた。
「ボクの想いなんて…ただの重荷なんだ…!」
ジョニーが大好きだから嫌われるような事をしてしまった。ディズィーにも、わざとではないにしてもひどい事をして傷つけたかもしれない。優しい彼女の事だから、きっと思い悩んでいるだろう。それはつまり、間接的にテスタメントさえも困らせる事になりはしないかと、メイは気付いた。本当に、どうしようもない子供だ。こんなもので、ジョニーに釣り合う人間になどなれるわけも無いのに。つい、彼女の口からは諦めにも似た溜め息が漏れてしまっていた。
が、彼女がそのまま諦めついでにまどろみの中にでも入っていこうとする前に、その目前に黒い衣服が見えた。驚いて顔を上げれば、漆黒の長い髪を揺らしながらこちらを見つめている青年がいた。あ、と口から声が漏れる。テスタメントだ。知っている人間に出会えた安堵感と、それでもディズィーを傷つけたかもしれないと言う罪悪感の中で、メイは揺れていた。そんな彼女の前に膝をついて、テスタメントが口を開く。
「こんな所にいたのか。皆心配していた…帰れ。」
「……皆?」
テスタメントが開口一番発した言葉に、メイは目を丸くした。てっきり、「ディズィーに何をした」というのが一番かと思っていたのに。いや、その前に、一体どれだけの時間が経っていたというのか。その考えを悟ったのか、テスタメントの目が剣呑に細められる。
「ディズィーが気にするなと言った。だから、問わないだけだ。」
ディズィーと言う名前、どうしても聞き慣れているのに心臓が跳ね上がる。それより、テスタメントがこう言ったという事は、ディズィーは少なからず落ち込んだ顔をしていたと言うことだろう。目を伏せて明らかに落ち込んでいるメイを怪訝な目で見ていたテスタメントは、それでもとりあえず見つけたのだから、とでも言うように彼女の体を片脇に抱えた。女性を持つ姿勢ではないものの、メイはそのままされるがままになる。今更、言い返す気力も無いのだ。そんな彼女を横目に、テスタメントはそっと言葉を紡いだ。
「…ジョニーが、血相変えて私を呼びに来たから、何かと思ったのだが。」
「ジョニー…?」
「ああ。…しかも、一緒にいたディズィーまでが慌てだす始末だ。」
メイが一方的に走っていってしまったのに、ディズィーは彼女を心配し、船に戻ると言っていたのに、と自ら捜索を申し出たのだ。それを見て、ジョニーも森の奥に進んでいき、成り行き上テスタメントも一緒に探す事になったのだと言う。そして、結果彼が一番にメイを見つけたと言う事になるのだが。
考えてみれば、何の連絡手段も持たない彼が、「見つけた」と知らせる術は無く。テスタメントは、口を閉ざして困惑の表情を浮かべた。申し訳ないと思いつつ、メイは小さく笑う。そんな彼女を不愉快そうに一瞥したテスタメントには首を竦めて見せ、メイはその腕をすり抜けた。落としたか、と慌てたテスタメントを見上げ、メイはひょっこりと頭を下げる。
「皆に心配かけてごめんなさい。ついでに迷惑分も。」
メイの謝罪に、テスタメントは表情を歪めた。ディズィーとはまた違った謝罪の仕方だ。こんな風に軽く、楽観的な謝罪の仕方ができればディズィーももう少し明るくなれるかも知れないのに。そんな的外れな事を考えていたテスタメントの顔を覗き込み、何を考えているのか分からないだけに不安そうな目をした。
「ね、怒ってる?」
「……?私がか。何をだ?」
「だって、顔怖いんだけど…。」
メイが恐る恐る言うと、テスタメントはその無表情を崩した。怒り出すのかと身を硬くした彼女の目の前で、珍しく声を出して笑い出す。え、とそれこそわけの分からなくなったメイの頭に、テスタメントの手が置かれた。その顔はまだ笑ったままで。
「心配するな。ディズィーの事を考えていただけだ。」
「それで何で笑うのさ。」
メイが不満そうに頬を膨らませると、テスタメントは口元を穏やかに緩めたままで優しく言った。
「私もお前も、誰かを想っているのは同じだと言う事だよ。」
一瞬、メイの思考回路が停止した。テスタメントに心を読まれた気分になったのだ。確かに、ジョニーへの想いのせいでこんな事になったのだが、それをテスタメントに話した覚えは無い。でもそれをあっさり話題にされたのだから、驚かないわけも無い。
メイは、いつの間にか何事も無かったかのように歩き出したテスタメントの後を追いかけ、その服の裾を引っ張った。引っ張られて前に進めなくなったテスタメントは、困惑の色を織り交ぜた無表情でメイを見下ろす。メイは、唇の端を悪戯っぽく吊り上げて言ってみた。
「誰かを想うって、苦労するよね。」
メイが言った言葉に、テスタメントは僅かに表情を変えたが、すぐに静かな笑みを浮かべて「まったくだ」と呟いた。まさか肯定の言葉が返って来るとは思わなかったメイは、心の中にわいて出た嬉しさに任せてテスタメントに最初から話す事にした。今なら、テスタメントが話を聞いてくれそうだったから。珍しく優しいテスタメントが、怒らずに最後まで事の次第を聞いてくれる事を祈って、メイはテスタメントの名前を呼んだ。
数分に渡って話を聞いたテスタメントは、少し不機嫌にはなったものの、メイの正直さに免じて許してくれる気になったらしく。話さなかったら許してもらえなかったんだろうか、という素朴な疑問を持ち始めたメイは、とりあえずテスタメントの優しさに感謝した。
そして。
「ジョニー!!」
テスタメントに案内された先で、メイは目にとまった人物の名を呼んだ。その横には、ディズィーの姿もある。二人とも、メイの声を聞いた瞬間に振り返って、その表情を明るくした。どうして二人揃っているのかとテスタメントに尋ねたところ、二人の気配が一緒のところにあったからそこに移動しただけなのだとか。その鋭さに感服しつつ、メイはジョニーの胸の中に飛び込んだ。それを拒まずに、ジョニーは優しくその体を受け止めてくれる。その暖かさに安心しながら、メイはジョニーの胸に頬を摺り寄せた。大きくて、いい香りのするジョニーの体。そこに抱かれて、幸せを感じる。
メイが幸せに浸っていると、ジョニーが彼女の頭に手を添えてきた。少しは怒られる覚悟をしていたメイが身を硬くすると、その手は優しく下へと降りてきて、メイの頬をなぞった。見上げれば、サングラス越しにジョニーの瞳が覗き込んできているのが見えて。彼は、優しい手つきでメイの頬を撫でた。
「全くうちのお姫様は、どれだけ心配させれば気が済むのかねぇ…。」
「ご、ごめんね、ジョニー。」
肩を竦めていると、後ろから伸びてきた手がメイの体を包んだ。抱きしめられた、と気付くより先に、抱きしめた張本人、ディズィーが口を開く。
「無事でよかった、メイさん。」
「ディズィー…ごめんね、怒ってないの?」
「私が?…いいえ。ちょっとびっくりしたけど。」
にこりと微笑まれて、メイはまた胸の中が熱を帯びるのを感じた。ここで泣いたら負けだ、というわけの分からない思いを抱きながら、自分を取り巻く三人を順に見ていく。テスタメントは相変わらず無表情で、ディズィーは優しく微笑んでいて、ジョニーはと言うと…。
「…メイ、俺はお前の想いを拒む気なんざねぇよ。いつでも、かかってきな。」
「……。いい女になるまで待ってくれる?」
「もとよりそのつもりだぜ?お前さんが勝手に飛び出すような奴でなけりゃぁな。」
「むぅ~!絶対、いい女になってやるからね!!」
そんなやり取りを、テスタメントとディズィーは少し離れてみていたのだが。
「……他所でやってくれないか……。」
「フフ。いいじゃないですか。何か、見てて嬉しいです。」
ディズィーがあまりに穏やかに言うので、その愛しさに、テスタメントは思わず彼女を抱き寄せていた。驚いたディズィーは、それでもテスタメントを拒むような事はせず、ふんわりと抱きしめ返した。
「…メイさんって、ちょっとテスタメントさんに似てます。」
「な…に?」
「何かとっても優しいの。ふんわりしてて、誰かを本気で想ってる目をしてる。」
テスタメントさんは誰を想ってるの、と悪戯っぽく言われ、テスタメントは僅かに苦笑した。はにかむディズィーを抱きしめながら、その髪に頬を埋める。これで分かるだろう、といえば、ディズィーは顔を真っ赤にして俯いてしまった。彼女の背中で翼となっているネクロとウンディーネには嫌なものを見せ付けているかもしれないと思いつつ、テスタメントはもうしばらくこのままでいる事にした。少し離れた所では、またジョニーとメイが何かを言い合っている。至極、楽しそうに。
それを未だかつて無いほどに優しい目で見つめながら、テスタメントはディズィーの髪に指を絡めて遊んでいた。ディズィーがくすぐったそうなのは、敢えて気にしない。
こうして、強すぎる想いから起こった一騒動は幕を閉じた……。
ひたすら募る思いを貴方に
届かないなら待っていよう
いつか届く日のために
大きく大きく育てながら
そして貴方の優しさに
甘えていられる日の夢を
心の中で噛み締めて……
fin
この風に吹かれ
何を想うのか
冴え冴えと過ぎるのは
その優しい笑顔
その穏やかさは
暖かな微風の悪戯か……
「……あれ?どしたの、おじさん?」
ある日の昼下がり。草原の真中で寝転がっていたポチョムキンは、ふと耳に聞こえてきた声に首をめぐらせた。可愛らしい少女の声だったが、何せ自分がこれだけの巨漢なため、大体の位置が分かってもそれを目に留めるのが難しい。
どうしたものか無言で困っていると、目の前に一人の少女が顔を覗かせてきた。栗色の髪に、オレンジ色の快賊帽。ポチョムキンは、ああ、と納得したように目を細める。
「快賊団の…どうした?」
「どうもしないよ!おじさんがこんな所に倒れてるから…。」
ぴょん、と小首をかしげながら言う快賊団の少女…メイを見ながら、ポチョムキンは別に倒れていたわけでは無いのだが、と心の中で思う。持ち前の寡黙な性格のせいで、それを口に出す事は無かったのだけれど。メイが、ポチョムキンの前に膝をついて座った。
心配そうに覗き込んでくるのを、怪訝な目で眺めていると、彼女は小声で何事か呟いた。聞き取れずに聞き返す前に、彼女は立ち上がってパタパタと移動していく。何だろう、と思って状態を起こそうとすると、足の方から叱咤の声が飛んできた。
「おじさん動かないで!ボクを潰す気!?」
「い…いや…。」
メイの言葉の意味は相変わらず分からないままだったが、ポチョムキンはとりあえずその叱咤の声に従うままに動きを止める。
しばらく、足元でメイがせっせと動き回っている気配を感じていると、やがて彼女がピコピコと音を立てながら目の前に戻ってきた。むぅ、と頬を膨らませながら、人差し指を立てて声を張り上げる。
「おじさん、足怪我してる!ボク治療道具持ってくるから、動かないでね?」
「……怪我?」
「うん。待っててよ?」
それだけ言って、メイは返事も待たずに走り去っていった。後には、呆然とその背中を見送るポチョムキンの巨体が残される。彼は、言われたとおりに動かないままでいたが、だんだんメイの言っていた「怪我」というのがどのくらいのものなのか気になり始めていた。メイに指摘されるまで、気付かなかったぐらいなのだ。
頭を擡げて、足元を見てみる。よく見えないが、確かに赤いものが見える、気がする。彼は頭をまた草の上に戻し、溜め息をついた。
「…全く気付かなかった…。」
自分はそこまで鈍くないと思っていたのに。痛みさえも無かったから、てっきり無傷か、傷があっても塞がっているものとばかり思っていた。まさか、現在進行形で血が流れていようとは。少し、自分に呆れが来る。
やがて、瞼の上に腕を載せて目を閉じていると、あのピコピコと言う音が遠くから戻ってきた。目を開ける前に、彼女はポチョムキンの顔の前に腰を屈めて来た。
「おじさん、あのね、治療するけど。」
「…何だ?」
「ボク、こういうの慣れてないから、痛いかも。」
目を開けて、申し訳無さそうな彼女を見て、ポチョムキンは小さく笑った。大きな手を伸ばして、彼女に負担がかからないようにそっと優しく撫でる。無骨な手だが、意外と優しいその手つきに、メイは少し驚いたように目を見開いた後、くすぐったそうに笑った。
「じゃ、さっさとやっちゃうね?」
「ああ…世話をかける。」
早速、足元にメイが走って行く。それを見送って数秒後、足に何か痛みらしきものが走った。いや、痛くは無いのだが、足元でメイが何かしているらしいことは分かる。本当に、自分などのためによくやってくれるものだ。その小さな喜びを抱きながら、ポチョムキンは自らの足に触れる小さな手を感じていた。
が、それもしばらくして、ポチョムキンはふとした事に気付く。慌てて、彼は頭を擡げて、未だせっせと手を動かしているメイに視線を投げかけた。それに気付いて、メイが顔を上げる。
「ん~?おじさん、どうかした?」
「いや…大変だろう?こんな巨体に治療を施すのは…。」
ポチョムキンの危惧は、メイのように小さな人間が、自分のような巨漢の中の巨漢を治療するのはかなり疲れるのでは無いかというものだったのだが。その予想に反して、メイはかなり元気な声で応えてくれた。
「全然!ボク、ちょっと大きい人治療したぐらいじゃへばらないよ。」
「そ、そうか…。なら良いが。」
「それにさ、ボク労働の後の風好きなんだ。」
メイの嬉しそうな言葉に、ポチョムキンが反応する。それに気付いたかどうかは定かでは無いが、彼女はてきぱきと手を動かしながら言葉を紡いで行く。
「汗かいてるとさ、吹いてく風がとっても気持ち良いの!」
「……風邪を引くぞ。」
「もう!そんなヘマしないってば!」
メイが頬を膨らませているのが想像できて、ポチョムキンはくくっ、と笑い声を漏らした。それを敏感に聞き取ったメイが、今度こそ本当に頬を膨らませる。「もう!」と言って、彼女はポチョムキンの傷口を軽く叩いた。それは大して、というよりも全く痛くないのだが、ポチョムキンはとりあえず小さく声をあげてみる。大人の大人気ない冗談のつもりだったのだが、メイは本気に取ってしまったらしく。
「ごごごごめん!痛かった!?痛かったよね、ボク怪力で…あぁぁごめん!」
「い…いや、痛くは無かった…冗談だから、気にするな。」
ポチョムキンが逆におろおろしながらいうと、メイはほっとした表情を浮かべつつ、それでも心配そうに足元から声を投げかけてくる。
「本当に大丈夫?痛かったら言っていいからね?」
「大丈夫だ。心配するな。」
低い声でそう告げると、メイは「うん!」と元気よく返事をして、もうすぐ終わるから、と言いながら傷口に手をかけ始めた。ポチョムキンのさっきの冗談をまだ気にしているのか、気持ち程度丁寧な手つきになっている。それを心地よく思いながら、ポチョムキンは目を閉じた。
足には痛みがなく、まるでマッサージでも受けているような感覚に、睡魔が押し寄せてくる。仕事疲れだろうか。別に睡魔を堪える必要は無いはずなのだが、律儀なポチョムキンはメイ一人に労働させておいて自分だけ眠っているなどという事はできなかった。必死で眠気を耐えている間にも、睡魔はその力を増していき、ついにポチョムキンはうとうとと眠りの中に沈んでいってしまった。足元では、まだメイが心地よいぐらいの治療を施してくれている……。
・・ ・・ ・・
「おじさーん…寝ちゃった~?」
ふと目を開けば、そこにはメイの顔があった。驚きのあまり、一瞬息が詰まる。が、メイの方は別に気にしていないようで、ああ起きた、というぐらいのテンションで微笑みかけてくる。彼女は、自分を見つめてくるポチョムキンの頭に手を伸ばしてわしゃわしゃと掻き回した。その行動が唐突過ぎて、ポチョムキンは一瞬何の反応もできなくなる。それを見ながら、メイは楽しげに笑った。
「ね、治療終わったから、もう立ってもいいよ。」
「…ああ。」
ポチョムキンは、緩慢な動作で上体を起こした。足を見やれば、やや不器用に巻かれた包帯が目に入る。血が染みていないところを見ると、きちんと血が止まったのを確認してから巻いてくれたのだろう。こんなに小さいのに、親切で的確な判断のできる子だ。きっと、保護者が良いのだろう。大きな手で包帯の上から触れてみると、その包帯が何故かしっとりと濡れていて。別に水をかけたような湿り方でもなかったのだが、気になって彼はメイを伺い見た。そして、その時ようやく、彼女が汗をびっしょりとかいているのに気付く。
そんなに動き回らなければならないような体はしていないはずだが、と気にしていると、視線に気付いたメイが「えへへ」と笑った。
「これ、一旦シップまで包帯取りに行ってたもんだから…。」
肝心の包帯を忘れてきていたとは、聡明な彼女も微妙に抜けているな、とポチョムキンは吹き出した。何とも、愛らしい少女だ。そんな事を考えているとは露知らず、単純に笑われた所にだけ捻ね始める。むぅ~、と声を出す彼女に微笑みかけながら、ポチョムキンはまたふわりとメイの頭に手を置いた。優しく撫でてやれば、単純なもので、メイは嬉しそうに首を竦める。それを何ともなしに眺めていると、ふと穏やかな風が吹いた。感じるか感じないか程度の微風なのに、それはふわりとメイの髪を揺らして。その様子が印象的で、ポチョムキンはついその様子を見つめてしまった。
視線に気付いて、メイが首を傾げる。どうしたの、と笑顔で言われて、ポチョムキンは我に返った。が、先程のメイの笑顔を忘れたくないために、いそいそとズボンの後ろのポケットから小さなメモ帳と彼の筆圧にも耐える鉛筆を取り出す。小首を傾げて不思議そうに見つめてくるメイに、ポチョムキンは静かに問い掛けた。
「手当ての礼といっては難だが、…一枚描きたい。良いだろうか?」
「え…ボク?」
「ああ。是非描かせてほしい。」
ポチョムキンが言うと、メイは少し照れたようにはにかんで、小さく頷いた。それを合図に、ポチョムキンはメモ帳のページをめくり、まだ何も書いていないところにさらさらとメイの顔を書き写し始めた。ふわりと、微風に彼女の髪が揺れるたびに、優しい気持ちになる。その靡く髪の一筋まで、キャンバスに描けたら良いのに。
そんな願いを込めてポチョムキンが絵を描き上げると、早く見たくて仕方が無かったらしいメイが横から覗き込んできた。見やすいように手渡してやると、メイはそれを受け取り、ほんのりと頬を染めた。一人前の女性のように恥じらいを見せる彼女に、ポチョムキンは愛しさを感じる。メイは、俯きながらメモ帳をポチョムキンに手渡し、ぽつぽつと言葉を紡いだ。
「ボク、そんなに美人じゃないよ…?」
「そんな事は無い。太陽のように明るくて、風のように穏やか。充分だろう?」
「…だってボクまだガキだよ?」
「これからだ。」
ポチョムキンは、メモ帳のそのページを丁寧に切り取って、メイに差し出した。驚くメイに、「礼だ」と言って手渡す。本当は彼女のこの笑顔を忘れたくないがために描いたものだが、一度描いてしまえばこの頭から離れていく事は無い。それなら、これは渡してしまっても構わない。自分の分は、また後で描けばいいのだから。
似顔絵を受け取って、しばらくそれを眺めていたメイは、嬉しそうに表情を綻ばせた。「これからか」と小さく呟いたのが、ポチョムキンの耳にも届く。メイは、未だ上体を起こした状態のままのポチョムキンの額に優しく口付けると、悪戯っぽく片目を閉じた。ただし、妙に恥ずかしそうなものではあったのだが。
「お礼のお礼!それじゃおじさん、もう怪我しないようにね!」
「ああ…世話になった。」
「じゃあね~!」
メイは、赤く紅潮した顔を隠すように踵を返し、ぴこぴこぴこぴこ、と可愛らしい音を立てながら走っていった。汗をかくほど頑張って手当てをしてくれたのに、まだ走るほどの元気があるとは。そんな事を考えながら、ポチョムキンは口付けられた額にそっと手を触れた。あのぬくもりが、まだそこに残っているような気がして。そのまま数分間、彼は固まったように動かず、メイの走り去る姿を見えなくなるまで見送っていた。
彼の体と、メイの栗色の髪を、本日数度目の穏やかな微風が優しく撫でていく……。
この風に吹かれ
何を想うのか
優しく穏やかに
それは駆けていく
この胸に暖かく
緩やかに吹き抜けて
それはまるで微風の如く
この風に吹かれ
大切な何かを想う……
fin
忘れるつもりなんかなかった
できれば忘れたくなかった
ねぇ
知りたいと思うのは変なの…?
「ジョニーのバカあぁぁ!!」
「…っ、メイ!」
怒鳴るように呼び止める声を背に、着地中のシップからメイが飛び降りたのは、まだ昼過ぎの事だった。メイシップの乗組員達全員を振り返らせるほどの大声で叫び、すた、と身軽な動作で地面に降りる。後ろではまだ、保護者的存在であるジョニーが何か言っているのだが、メイは無視して走った。
「何だよっ…ジョニーなんて、何にも分かってないじゃないか…!」
目を潤ませ、ぐす、と鼻を啜りながら、メイは町の一角まで走りとおした。公園の、人目に付きにくい木の茂みに隠れて、膝を抱える。
「ジョニーの…バカ…。」
事の発端は、メイの一言。
「ねえ、ボクって何なの?」
たったそれだけだった。それだけの言葉だったのだが、ジョニーはひどく困惑した表情を見せた後、「気にする事じゃないさ」と言ったのだ。そんな表情でそんな事を言われたら、気になるのが人の常。メイは、教えてくれるようにしつこくせがんだ。すると、ジョニーはサングラスの向こうの目をすぅっと細めて、メイが嫌う言葉の一つを言った。
「子供は知らなくていい事だ。」
と。ただ一言。そのまま背を向けて、シップ内の食堂に向かおうとした背中に向かって、メイは思い切り叫んだ。
「ジョニーのバカあぁぁ!!」
そして、今に至るわけだが。メイは、小さな溜め息をついた。
「…駄目だ。こんなんじゃ、また子ども扱いされちゃう。」
ジョニーの一言に腹を立てて、シップを飛び出してきてしまうほど子供なら、言われても仕方がないことだ。メイは、その細い腕で乱暴に涙を拭うと、木に手をつきながら立ち上がった。帰ろ、と小声で呟いたその時。
公園に、どこかで見たような人物が入ってきた。上半身の肉体をさらけ出し、扇でばたばたと自分の顔を扇いでいる。メイは、その顔を見た途端に顔を綻ばせた。
「おじさん!」
「…。誰だ、俺をおじさんなんて呼ぶ奴ぁ。」
言葉では怒りながらも、呼びかけた人間の事をもう分かっているかのように、その男は意地の悪い笑みを浮かべながらメイを見た。姓は御津、名は闇慈。彼の人は、走りよって来るメイの頭に手を置いた。
「おじさんはやめろって、前言っただろ。」
「あはは!ごめんね、おじさん?」
メイに笑い飛ばされ、闇慈は額に手を置く。だからなぁ、と言いかけて、闇慈は言葉を止めた。身を屈めてメイの顔を覗き込む。
「…泣いてたのか…?」
闇慈に言われて初めて、メイは自分の目が真っ赤になっていることに気付いた。それに気付いてしまうと、また胸の中が痛くなる。また泣き出しそうなメイを見て慌てたのか、闇慈は彼女の手を取り、先ほど座っていた木の茂みに連れて行った。二人で並んで座り、また涙を流し始めたメイを、闇慈は黙って見つめていた。話を始めるのは泣き止むのを待ってから、と決めているらしい。
が、メイは泣き止む前から、嗚咽交じりに話し出した。
「ジョニーが…っく、ボクが何なのか、教え…っ、くれな…。」
「…?俺にも分かる言葉で話してくれるかい?」
メイは、小さく頷いて、今までのいきさつを話した。ジョニーに拾われる前の記憶が自分にはないから、それを知りたいと聞いたこと。知らなくていい、と言われた事。そしてそれに腹を立てて、飛び出してきてしまった事。全部を話した。
闇慈は黙っていた。ぱちん、と扇を閉じて、メイを見る。彼女は、俯いて目を擦っていた。そんなに、悲しい事だろうか。闇慈は、ずり落ちてきた眼鏡を押し上げながら、メイに語りかけた。
「お前さんの気持ちも分かるが、ジョニーって奴が言った言葉も正しいぜ。」
「……え……?」
闇慈の言葉に、メイは目を見開いた。その表情を見た闇慈は、真剣な、ほんの少し厳しい目をしていた。
「お前さんが今欲しいのは、励ましの言葉じゃねぇんだろ?」
言葉の意味がわからない。そんな様子を悟ったのか、闇慈は「自分ですぐ分かるさ」と言いながら、静かに話し始めた。
「知りたいと思うのはいい事だ。だがな、知ったら壊れちまうものもあるんだよ。」
お前さんが壊れちまったら、皆悲しむだろう?
壊れたお前さんは、結局何を得る?
「ジョニーは、お前さんの心を守りたかっただけだ。」
「…。でも…。」
闇慈の言葉は厳しく、だが決して突き放すようなものでもなく。メイは俯いた。何故か、闇慈の目を直視できない。逸らされた視線の意味も、闇慈にはよく分かっているようで。敢えて、合わせてこようとはしなかった。ぱっと、扇を広げる。暑そうに自分を扇ぎ、メイを扇いでやりながら、「とはいっても」と闇慈は苦笑した。
「そりゃあまあ、忘れちまってるって事実が痛い事もあるよな。」
ようやく見せた笑顔。メイが顔を上げた。
「ねぇおじさん、ジャパニーズって何?」
唐突なメイの問いかけに、闇慈が面食らった。最初は質問の主旨を計りかねたものの、すぐにその理由を悟ったらしく。闇慈は、メイに顔を寄せると、小声で呟いた。
「時が来たら、ジョニーが教えてくれるだろうさ。焦るなよ。」
「え…うん…。」
「おぅし、いい子だ。」
闇慈が、メイの頭を優しく撫でた。再び、メイの目が潤んでくる。慌てた闇慈の前で泣きながら、メイは「ずるい」と半ば叫ぶように言った。何がずるいのか、それは勘のいい闇慈にも分からず。そんな闇慈をよそに、メイは更に言葉を続ける。
「あんな事言った後に、そんな優しい事するの、反則!」
絶対ずるい、と言い張るメイに、闇慈は頭を掻いた。別にそんなつもりではなかっただけに、困惑する度合いもかなり大きい。なんなら、困惑ついでに昼食でも奢ってやろうかと考えた矢先。闇慈の目は、公園に駆け込んできた人物を捕らえていた。その人物は、誰かを探しているようで。きょろきょろと、周囲を見回している。闇慈は、メイの肩に手をやった。ぽんぽんと叩いてから、その人物を親指で指し示す。
「ほら、あれ。迎えじゃねぇのか?」
「え…?あ、ジョニー!」
違ったらどうしようとか考えていた闇慈が、安堵に溜め息を漏らす。そして、立ち上がったメイに言葉をかけた。
「忘れてる時期を楽しんどけよ。俺の知り合いにな、忘れたい思い出も目的を果たすまでは忘れたくないって姐さんがいるんだ。」
結構苦労してるよ、という言葉を、メイは笑って受け止めた。自分だって苦労していないわけではないのだが、そんなに苦痛を感じてはいないし。この忘却が幸せとは思わないが、だから今の自分があるのだから、それには感謝できる。彼女は、闇慈に手を振りながら、木の茂みから離れていった。
「ありがと、おじさん!今度、デートぐらいならしてあげるよ!」
「はは…。」
闇慈の苦笑いを目に焼き付けて、メイはジョニーに向かって走っていった。彼女に気付いたジョニーが、名前を呼んでくれる。そんなジョニーに、メイは飛びついた。
「ごめんねジョニー!もう困らせないから。」
「そうしてくれるとありがたいぜ、ベイベー。」
ジョニーに頭を撫でられて、メイは薄く微笑んだ。この忘却の過去と、上手く付き合えることを祈って。
ねぇ
ボクは何?
今は封印された過去
いつか目覚める忘却の夢…
fin