二十を越えたその体は、年齢よりも幼いフォルムを描きながら、充分な女の気質と香りを備えていた。
すさんだ街に生臭い風が吹いた。どす黒く塗りたくられた強大な天空に潰されかけて、荒廃した建物がそこに詰め込まれている。吹きさらしの路地の端々にはゴミや犬猫の死骸、糞尿が平然と溜まる。ギアとの全面対戦によって秩序を失った街が、死んだように息を潜めてそこにあった。
行き場のない人々は身を寄せ合って、他に関心を示さず、毎日祈りを捧げ生きていく。何かをなすすべがない分、信仰深い街だった。
街は夜には姿を変える。寄せ集めの街は己の生活しか省みない。朝方はさまざまな人種が祈る聖堂も、深夜となれば管理者もおらずにならず者が現れる。そんなところにひとりで出向いていれば、自分から餌食にしてくれと頼むようなものだった。
けど、それを望んでたんだもんねぇ? 目の前でもうひとりの自分が無邪気に首を捻る。うん、頷く。
恐怖などない。これで彼に近づけるというのならば、どうして抵抗する必要があるのだろう。容赦ない手。取り囲む人数すら判らない。大の男もいれば、まだそばかすだらけの少年もいた。十字架の元で、引き裂かれた衣服が舞い散る。この街は治安が悪いから勝手に出歩くなよ、数時間前の忠告は誰だったか。
でもさ、そんなの今更だよね? 交互に訪れる衝撃に揺さぶられて、メイは笑う。
同じこと、ジョニーはしてるんだよね。ボクの知らないところで、知らない人と、してるんだよね?
「こいつ、何笑ってやがる」
下半身の感覚がまるでなかった。傷付けられた膣からドロリと男たちの精液が垂れた。弛緩した口から流れる唾液。入れ替わり立ち代わりの男たちの中に金髪の少年を見て、思わず手をのばす。髪の毛が綺麗だった。
ボクだって彼が抱いた他の何人もの女に負けないくらい、ジョニーが好きだよ。こっちを向いて、ねぇ、ジョニー?
これでおんなじだよね。ボクのこと、ちゃんと見てくれるよね。
***
ジョニーはからっぽになった一室の窓を開け放ち、そこから五月の風をふんだんに取り込んだ。萌葱色のカーテンが波立つ。使われなくなって久しい部屋の床には塵も積もっていない。タオルを水に浸し、調度品を順に拭く。軽快な音でそれぞれが輝きだす。
「ジョニーさん、お昼ごはんですよ」
一度タオルをすすいで一息ついたところに、ドアから青い髪の娘が顔をひょこっと覗かせた。
「おおディズィー、もうそんな時間かい?」
「みんな揃ってます」
「そうかい、じゃあ待たせるわけにはいかねぇなぁ」
「お掃除くらいわたしがやりますよ」
「レディの手を煩わせることでもないさ」
バケツを受け取ろうとするディズィーをやんわり断り、ジョニーは窓を指さした。
「窓閉めといてくれ」
さよならみんな、ボク、船を降りるよ。
そう言ったメイの表情を、ディズィーはまだ覚えている。童顔の先輩はお決まりの悪戯っぽい笑顔で手を振った。
ごめんね、ボクは汚いんだ。
髑髏の入った艦長帽子を脱いで、ディズィーの胸に押し付ける。
この船に乗っていられる資格はないんだよ。
もう半年も前の話だ。
高度を落として浮遊していたジェリーフィッシュ号は、昼を過ぎたあたりで近くの商業街に停留した。普段は空を生活の場とする彼らだが、時折物資を調達すべく地上に着艦する。数日逗留するというジョニーの言葉に団員の半分が勇んで街に繰り出し、残りの半分は船の管理に務めるのだ。ディズィーはこの日、非番だった。
遊びに行こうと誘われるのを丁重に断り、ひとりで街をふらついた。心がなくなって何も考えられなくなるのかと思い、恐ろしくなって花屋や雑貨屋をめぐってみるも、魅力をまるでおぼえられない。溜まる一方の暗雲を払拭しようと財布を取り出したまま、しかし金を払う機会もなく、乾いていない喉にレモンスカッシュを買った。紙コップの側面に小さな気泡が発生する。弾ける炭酸が痛い。半分も飲まないうちに捨てた。レモンシカッシュを好んでいたのは自分ではなくメイなのだから。
街は存分に活気付いていた。街の孕んだ苦悩すべてがディズィーに伸し掛かっているようだった。誰もが明るく、商売上手で、親切だった。知らぬ顔であろうが陽気な挨拶と口説き文句が飛び交った。海に近いようで、炙りたて磯の匂いが強い。塩辛い風が肌を火照らせる。
「ねぇそこのお姉ちゃん、そんな辛気臭い顔してないでさ、うちの果物食べてきなよ!」
一角で声を張る女はディズィーを呼び止め、その手にオレンジの果実を転がした。ルミトンっていう新種さ、そのままがぶっていってよ。旬だから甘いよ。にこにこ白い歯を見せられて、戸惑いまじりに口をつけた。拘泥された意識に柑橘系の酸味が走る。遅れてスッとする甘さが舌を掠めた。
「どうだい、うまいだろう?」
「はい、桃とリンゴの中間ような……変わった味ですね」
「突然変種なんだけどさ、意外にこの味がうけてね、買ってくかい?」
女は惜しみなく笑い、一個じゃ足りないだろと、ディズィーの腕にみっつよっつと乗せていく。豪胆な性格なのか、無遠慮に肩を叩いてくる女につられ、ディズィーもおずおずとほほ笑んだ。それは引きつったものとなったが、女はよしと頷いた。
ディズィーにとってのメイは、己を導いてくれた恩人のひとりであり、先輩であり、初めて出来た友人でもあった。それだけに、彼女が船から居なくなって、ディズィーも心は固く閉ざした。女の笑顔に惹きつけられながら、帰ったらみんなに謝ろうと決心する。自分だけが立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「やっぱ笑ってたほうがいいね、お姉さんかわいいし」
果物を詰める袋を持って、女は言う。
「ここは愛の街さ、領主様の側近のメイ様も、その手で入ったクチだしさ」
「……え?」
ディズィーは耳を疑った。頬が紅潮するのが判る。
「知らないのなら会ってみればいいよ、すっごく気さくなかただから、誰とでもお会いになるんだ」
メイ……メイ! 名前が同じなだけかもしれない。呟いて、ディズィーは海に足を運んだ。今更のように喉が鳴る。他人の空似ならばそれでいい、仮に彼女であったなら。海に行くといいよ、おつりを返してきた女が教えてくれた。不思議な力っていうのかな、メイ様にはよくイルカが集まって、こどもらがおおはしゃぎさ。
ざぁんざざんと海鳴りが響く。水鳥たちの声。法力で動く定期船の影。身を包んだサンドレスに気を遣いもせず塩水につかり、彼女がいた。栗色の長い髪が水面でたゆたい、彼女を守るように数頭のイルカが控える。彼女がイルカの背を撫でてやると、ゆったり一頭ずつ海の底に潜っていった。それを見守ってから、彼女はふいに浜へと歩いた。
「久しぶりだねディズィー」
「メイ……やっぱり、あなたが……」
彼女はサンドレスの裾をつまんで豪快に絞った。ディズィーの双眸にうつるのは紛れもなく、半年前に別れたメイ本人に間違いなかった。だが、言葉が見つからない。気品の漂う姿に後足を踏んでしまう。
「みんなも来てるの? 物資補給?」
「え、ええ……」
「そっかー、変わんないねぇ」
懐かしいや、メイは太古をうたう。一年もたたない間に彼女は別人のような変貌を遂げていた。溌溂とした表情は艶麗を醸し、そそっかしかった手足はたおやかに泳ぐ。低く笑う仕種は娼婦じみて、肉欲的な口唇に急いで目を逸らした。同性からしても、彼女は美しかった。あでやかすぎた。
「ディズィー、帰りなよ」
小鳥のようで、愛欲そのものであるような声が告げる。何事もなく、メイはディズィーの横を通りすぎる。遅くなるとみんなが心配しちゃうよ、迷惑掛けるの苦手でしょ? ディズィーの額をつつき、振り返りぎわににししと笑う。じゃあ、元気でね。
ディズィーが呆けた顔をはっとさせる頃には、既にメイの姿はどこにもなくなっていた。流れる波も、鳥の群れも、すべてが彼女を残して消えた。
結局彼女が船に戻ったのは一番最後だった。夕飯の時間はとうに過ぎ、ジョニーやエイプリルが心配そうに機体の外で待っていた。何かあったのかと問うジョニーに対し、ディズィーは道に迷ったのだと嘘をついた。頭は一向に働かなかった。
機械的に食事を胃に流し、どさりと寝台に倒れる。スプリングがくぐもった音を立てた。シーツを握り締める。目を閉じる。
逆流する嘔吐感。口元には指の触感がまざまざ染み付き離れない。足をつこうとして、床がないのに気付く。シーツに指を掛けて強くふんばる。途端足がすっぽ抜ける。爪が食い込むまでベッドにしがみつく。
「あのね、メイがいたの」
背中の片翼から生じた水色の煙霧は女性の半身をつくり出した。艶やかな頭髪を肩に落とし、ディズィーに手を差しのべる。
「ウンディーネ……わたしっ、わた……!」
ウンディーネにいだかれるまま、ディズィーはひたすら涙をこぼした。嗚咽は徐々に大きくなり、泣き声はどんどん高くなる。
「会いたいって、そう、おもっ……なのに、どうして、怖い、なんで……!」
深夜のデッキには誰の気配もない。ジョニーはそこにどかっと腰を下ろし、銜え煙草に火をつけた。見上げた天は吸い込まれるほどに高く、彼方に星がまたたいた。風のない夜だった。悲しみの叫び声が聞こえてくる。
***
ジェリーフィッシュ快賊団というのは義賊である。すなわち、本来ならば警邏に追われる立場である。よって外部からの情報には敏感で、この日の急報を持って来たのはエイプリルだった。デッキに上った彼女はろくに整わない息で警鐘を鳴らした。
「ここの領主の側近が攫われたんだって! 街じゃかなりの自警団が出回ってて動きづらいったらないよ!」
エイプリルの声にクルー全員がジョニーを仰ぐ。女性ばかりの船員ではあるが、彼女らの行動力は並の男に劣らない。それぞれが過去に悲惨な体験をしているためか、女たちは強かった。
「明日の早朝には出発する。よぉし素敵なレディたち、用意にかかってちょうだいな」
告げて、ジョニーは茶目っ気たっぷりにウインクした。慣れた動作で散っていくクルーの中、エイプリルは真っ青になったディズィーに駆け寄った。ディズィーは生まれたての小鹿のような足取りで佇んでいた。
「ディズィー? 大丈夫だよ、警察になんか捕まらないよ、安心して」
「いいえ、わたしは……」
「もしかして具合悪い?」
ディズィーの瞳は虚空をさまよい、己の体をきつく抱きしめる。かと思えば走りだし、エイプリルは慌てて彼女を追い、すぐさま腕を掴んだ。
「ねえ、どうしちゃったのさ!」
「離してください! だって、メイが!」
「あの子はもう居ないんだよ! 船を降りたんだ!」
「ディズィー!」
ディズィーの血相にジョニーが追いついてくる。ディズィーは胸を押さえて深呼吸し、どうにか落ち着こうとしているようだった。膝に手を当てのろのろ顔を上げる。赤茶の双眸には大粒の涙がにじんでいた。肩は上がりきり、丸くなった背中をエイプリルが撫ぜる。
「話せるか?」
「攫われた領主の側近というかたに、昨日会いました、あの人に」
その人は街のみんなに好かれていました。綺麗で、凛とした姿で。その人は、海でたくさんのイルカを呼び寄せることが出来ました。彼女はメイと、呼ばれていました。
名前は伝染し、やがてジョニーにまで届いた。語りきったディズィーが腰を落とす。それが真実であるというのを物語っていた。太陽は空高く、デッキの隅々を照らしだす。肌を押し包む日差しがあたたかい。会いたいね、誰かがそっと呟く。
「駄目だ」
「ジョニー!」
「予定は変わらない、さっきの通り、明日には出発する」
「どうして! わたし、あの子に会いたいよ!」
甲板は静かだった。エイプリル、咎める彼の声も、ひょっとしたら無音のそれだったかもしれない。エイプリルはぎゅっと眉を寄せて息を飲んだ。やがてひとりひとり、自然にクルーたちの足が動いては消える。
***
それは眠りと称するにはいささか遠い。目覚める直前のえも知れぬ苦痛。ゆったりと繰り出される体の軋み。戻りつつある意識は尚更現実を拒み、闇に留まろうとする。ああ、頭が痛いのか。
鼓膜への刺激で淡い夢は弾け飛び、モノクロシーンに色彩がひしめく。最初に飛び込んできたのは鉄の匂い。低音キー。そして彼女は目を開けた。
暗色の視界が一面に広がった。右も左もくすんだ灰の壁。首には鎖が食い込んでいる。ここは部屋というよりも箱の中にいるようであった。
「お目覚めかい、お姫様?」
鉄格子の戸を遮って立つ男が黒ずんだ歯を見せつける。男は上半身をはだけ、右肩だけが奇妙に隆起していた。彼女のむき出しになった太腿や胸元に目を遣り、ねっとりと声を絡ませてくる。男の喉仏が大きく上下する。
「あっちのほうで領主に気に入られたって話、満更でもなさそうだなオイ?」
「わたしになんの用? 何が目的?」
「は、威勢がいい女は嫌いじゃないぜぇ? なあ、ジャパニーズ、いや、違ったとしても売っちまえば同じだがな」
かん高い音で錠が開かれる。男が歩み寄るにつれて、獣の生皮に似た匂いが強まった。男は首の鎖を掴み、強引に彼女の肢体を吹き寄せた。彼女の黒眼は逸らされない。胸を覆う布地を裂く。それでも動じない彼女に男はけたたましく笑った。
「売る前に手でも付けてやろうかと思ったが、そうかあんたも好きモノだな!」
次の瞬間男の岩のような拳が彼女の腹部を貫いた。女は呆気なく吹き飛んで、壁に後頭部を打ち付けた。
「うあ!」
「ほーら、抱かれたいんだろォ!」
みる間に血を流し始めた頭をわし掴んで床に叩き伏せる。ぶちりぶちりと髪の抜ける音が耳の上から聞こえた。ヒッと呼吸器が悲鳴を上げる。四肢が落ち、男はそれに覆いかぶさってぶ厚い口を押し付けた。
あの日は重圧な雲ばかりで、星の一粒見えない空模様だった。乱雑な行動を受ける中、彼女は天井に走る欄干を見据えていた。欄干は無表情に介入を拒む。しかし、彼女だけはそこを見続ける。痛いと叫ばず、許しを乞いもせず、じっと、じっと。彼女は助けが来ないことを知っていた。そして、彼女への陵辱は明け方まで続いた。
冷めきったチャペルに取り残された時、彼女はメイの名を捨てた。彼女は彼女でありながら、まったく異なる女になった。それが彼女の願いであった。
「がふ!」
目前の男の奇声に我に返る。男は舌を出して白目を剥いていた。顔を上げる。その一瞬を、彼女は一生忘れないだろう。両親を失い、初めて彼と出逢った日のように。
(……神様みたいだ)
ジョニー、久しく呼ばなかった名前のことだ。長身をコートで覆い、長い金髪を首筋で結い、悠然と佇む男だ。けれどメイは少しだけまなこを伏せて、気絶した男の影から後退した。無言でのびるジョニーの指に、意図せず体が逃げ場を求める。
「こっちだ」と一言だけ発し、歩き出すジョニー。メイはついていくべきかと思案顔であったが、倒れた男とジョニーを比べ、彼の背中を追い掛ける。彼女が苦しいと感じたのは、首に巻きつけられた鎖のせいだけではない。
自分が街からそう遠く離れていない古倉庫に閉じ込められていたのだと判ったのは、街の宿へ向かうのに小半時の要さなかったからだ。街といってもメイが暮らしていたそこではなく、穏やかで牧歌的な土地だった。宿舎自体が小さく狭い一室は、側近であった頃からすればひどく質素に思えた。ジョニーはサングラスとキャプテンハットを放り捨て、あらかじめ持ち込んでいたらしい酒を呷っている。メイは破れた胸を隠し隠し、寝台のひとつに膝をかかえてすわっていたが、沈黙をこらえきれずに声を荒げた。
「どうして来たの!」
「船を降りた奴には関与しないのがうちの鉄則だ、だがな、大切なクルーを泣かせる輩を許してやれるほど、俺は甘くない」
振り返りさえしない黒コートの肩を睥睨し、翼の生えた後輩の姿を回顧する。脳裏によぎる彼女を呼び止めようとして、やめた。
「ならどうして助けたりなんかしたの!」
「お邪魔だった、ってか?」
「ええ邪魔よ! あなたなんかに助けてもらいたくなんかなかった!」
「そいつは悪かったな、なら……抱いてやろうか?」
メイは仰天して悲鳴を上げかけた。咄嗟に両腕を突き出して逃れようとした彼女の口唇は軽々と塞がれ、シーツの海に縫い付けられる。全身が粟立つ感覚に陥った。その感触は恐怖に似ていて、メイは目前の男を直視出来ない。怖い? そう、怖い。かつてあんなにも求めていた彼が、好きで好きでたまらなかった彼が怖いのだ。
「邪魔したお詫びだ、側近様は誰にだって抱かれたがるそうだからな」
接触だけの口づけは冷酷だった。重なったあたりから生ずる僅かな稲妻が、彼女の四肢を硬直させ、意識を混乱のきわに追い立てた。隙間はジョニーによって閉ざされ、合間から漏れた呻き声気持ち悪い。解放されて、息を吸う。潤んだ目に浮かびだすのはその男。それなのに、メイは身震いする。
金糸の長い髪を束ねて。愛用のコート素肌にまとって。年を重ねるごとに増していく妖しげな雰囲気と、吐き気がするほど美しい青い瞳と。何をとっても変わらないこの男に、どうしてこんなにも怯えているのだろう、他人のように。
離れていたのは半年間、彼は変わってしまったのだろうか、それとも、自分が変わってしまったのだろうか。
「おまえさんが願ったことだろう?」
ひょうひょうとした口調こそがメイの耳に風穴を開けた。肩に男の重みをいっそう感じた。
「なのに逃げるのか?」
額が重なり、紙一重のところでジョニーが冷笑を持て余す。メイは放てる言葉を知らない。脳裏で心というものに押し潰される己の姿を見た。鼓膜が痛い。息をしたい。水から引き上げられた魚たちは、皆呼吸を求めて死んでいった。
爪の先ほどで口唇が掠め合う。俺から逃げるのか? 張り詰めた糸が切れる。ぷっつりと、彼女の瞳に光りが溢れた。
「もうやめて今更なの! わたしはもう汚いの! 助けなんていらないの!」
「助けてやれなかった、だから、今度は助けるために来た」
「いや、わたしは!」
「メイ」
ジョニーの掌は大きく、たおやかにメイの頭に触れた。円を描くように撫でた。
「帰って来い、俺のところに」
「や、やぁ……わ、た……ボ・ク」
二度と使うまいと決めていた呼称に彼女は知らず打ち震えた。ひたすらに涙が止まらなかった。洟をすすり、しゃくり上げ、みっともなく声を放ち、気付けばジョニーにしがみついては謝罪の言葉を繰り返していた。ごめんなさいごめんなさい、迷惑掛けてごめんなさい、約束破ってごめんなさい、卑怯でごめんなさい、汚くてごめんなさい。赤ん坊のように喉を枯らし、メイの嗚咽は朝日に消えた。
***
「あーあ、結局メイのひとり勝ちかぁ」
「何若いのがシケた顔してんだい」
「だってぇー、メイはいいな、この先ずっとジョニーさんを独占出来るんだからさ、ずるい」
「無茶言うんじゃないの、あの人には散々お世話になったじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
「ずっとアタシらのために頑張ってくれたんだ、これからはあの人の好きなように生きてもらわなきゃ」
走るデッキブラシから漏れた会話を横耳に挟み、ディズィーは飛行艇の甲板から遥か下界を眺めていた。腕には橙色の果実が溢れている。眩しげに双眸を細め、口を緩ませる。早朝に消えた一台の小型船はきっともう戻らない。
「これでいんだよね、ディズィー」
「エイプリル……?」
そっと現れたエイプリルが、ディズィーと同じようにして柵に寄り掛かる。光りは両者を包むように差し、どちらも慌てて瞳を背く。
「ジョニーもメイも幸せになれるといいね」
「間違いなくなりますよ、エイプリル」
「いつになく断言するわね珍しい」
「はい! 断言したから、きっと幸せになります!」
「あははははは! そうだね、断言しなきゃね!」
ころころ笑うエイプリルにオレンジをひとつ渡した。オレンジは、風を受けて太陽のごとくきらめき続ける。
***
安酒を傾けて、ジョニーはすっかり暮れた空に頭を預けた。寝台ではとうに眠りの世界へいざなわれたメイが布団を握りしめている。
小さな体を蹂躙された日、彼女は何を祈っていただろうか。思い知ればいい、この時を。ほら見てみろ、気が狂うくらい待っていたから、こんなにもオッサンになっちまったじゃないか。今になって嫌だなんて言わせない。
「苦しいのなら抱きしめてやる、何度でも涙を拭ってやる、だから必ずここに居ろ、メイ」
ねぇ、ボクのこと好き? お嫁さんにしてくれる? 幼い輪郭が笑って問うた。
「ああ、好きだよ」
穏やかな寝息を立てるメイの頬、ジョニーは優しく口づけた。
FIN.
すさんだ街に生臭い風が吹いた。どす黒く塗りたくられた強大な天空に潰されかけて、荒廃した建物がそこに詰め込まれている。吹きさらしの路地の端々にはゴミや犬猫の死骸、糞尿が平然と溜まる。ギアとの全面対戦によって秩序を失った街が、死んだように息を潜めてそこにあった。
行き場のない人々は身を寄せ合って、他に関心を示さず、毎日祈りを捧げ生きていく。何かをなすすべがない分、信仰深い街だった。
街は夜には姿を変える。寄せ集めの街は己の生活しか省みない。朝方はさまざまな人種が祈る聖堂も、深夜となれば管理者もおらずにならず者が現れる。そんなところにひとりで出向いていれば、自分から餌食にしてくれと頼むようなものだった。
けど、それを望んでたんだもんねぇ? 目の前でもうひとりの自分が無邪気に首を捻る。うん、頷く。
恐怖などない。これで彼に近づけるというのならば、どうして抵抗する必要があるのだろう。容赦ない手。取り囲む人数すら判らない。大の男もいれば、まだそばかすだらけの少年もいた。十字架の元で、引き裂かれた衣服が舞い散る。この街は治安が悪いから勝手に出歩くなよ、数時間前の忠告は誰だったか。
でもさ、そんなの今更だよね? 交互に訪れる衝撃に揺さぶられて、メイは笑う。
同じこと、ジョニーはしてるんだよね。ボクの知らないところで、知らない人と、してるんだよね?
「こいつ、何笑ってやがる」
下半身の感覚がまるでなかった。傷付けられた膣からドロリと男たちの精液が垂れた。弛緩した口から流れる唾液。入れ替わり立ち代わりの男たちの中に金髪の少年を見て、思わず手をのばす。髪の毛が綺麗だった。
ボクだって彼が抱いた他の何人もの女に負けないくらい、ジョニーが好きだよ。こっちを向いて、ねぇ、ジョニー?
これでおんなじだよね。ボクのこと、ちゃんと見てくれるよね。
***
ジョニーはからっぽになった一室の窓を開け放ち、そこから五月の風をふんだんに取り込んだ。萌葱色のカーテンが波立つ。使われなくなって久しい部屋の床には塵も積もっていない。タオルを水に浸し、調度品を順に拭く。軽快な音でそれぞれが輝きだす。
「ジョニーさん、お昼ごはんですよ」
一度タオルをすすいで一息ついたところに、ドアから青い髪の娘が顔をひょこっと覗かせた。
「おおディズィー、もうそんな時間かい?」
「みんな揃ってます」
「そうかい、じゃあ待たせるわけにはいかねぇなぁ」
「お掃除くらいわたしがやりますよ」
「レディの手を煩わせることでもないさ」
バケツを受け取ろうとするディズィーをやんわり断り、ジョニーは窓を指さした。
「窓閉めといてくれ」
さよならみんな、ボク、船を降りるよ。
そう言ったメイの表情を、ディズィーはまだ覚えている。童顔の先輩はお決まりの悪戯っぽい笑顔で手を振った。
ごめんね、ボクは汚いんだ。
髑髏の入った艦長帽子を脱いで、ディズィーの胸に押し付ける。
この船に乗っていられる資格はないんだよ。
もう半年も前の話だ。
高度を落として浮遊していたジェリーフィッシュ号は、昼を過ぎたあたりで近くの商業街に停留した。普段は空を生活の場とする彼らだが、時折物資を調達すべく地上に着艦する。数日逗留するというジョニーの言葉に団員の半分が勇んで街に繰り出し、残りの半分は船の管理に務めるのだ。ディズィーはこの日、非番だった。
遊びに行こうと誘われるのを丁重に断り、ひとりで街をふらついた。心がなくなって何も考えられなくなるのかと思い、恐ろしくなって花屋や雑貨屋をめぐってみるも、魅力をまるでおぼえられない。溜まる一方の暗雲を払拭しようと財布を取り出したまま、しかし金を払う機会もなく、乾いていない喉にレモンスカッシュを買った。紙コップの側面に小さな気泡が発生する。弾ける炭酸が痛い。半分も飲まないうちに捨てた。レモンシカッシュを好んでいたのは自分ではなくメイなのだから。
街は存分に活気付いていた。街の孕んだ苦悩すべてがディズィーに伸し掛かっているようだった。誰もが明るく、商売上手で、親切だった。知らぬ顔であろうが陽気な挨拶と口説き文句が飛び交った。海に近いようで、炙りたて磯の匂いが強い。塩辛い風が肌を火照らせる。
「ねぇそこのお姉ちゃん、そんな辛気臭い顔してないでさ、うちの果物食べてきなよ!」
一角で声を張る女はディズィーを呼び止め、その手にオレンジの果実を転がした。ルミトンっていう新種さ、そのままがぶっていってよ。旬だから甘いよ。にこにこ白い歯を見せられて、戸惑いまじりに口をつけた。拘泥された意識に柑橘系の酸味が走る。遅れてスッとする甘さが舌を掠めた。
「どうだい、うまいだろう?」
「はい、桃とリンゴの中間ような……変わった味ですね」
「突然変種なんだけどさ、意外にこの味がうけてね、買ってくかい?」
女は惜しみなく笑い、一個じゃ足りないだろと、ディズィーの腕にみっつよっつと乗せていく。豪胆な性格なのか、無遠慮に肩を叩いてくる女につられ、ディズィーもおずおずとほほ笑んだ。それは引きつったものとなったが、女はよしと頷いた。
ディズィーにとってのメイは、己を導いてくれた恩人のひとりであり、先輩であり、初めて出来た友人でもあった。それだけに、彼女が船から居なくなって、ディズィーも心は固く閉ざした。女の笑顔に惹きつけられながら、帰ったらみんなに謝ろうと決心する。自分だけが立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「やっぱ笑ってたほうがいいね、お姉さんかわいいし」
果物を詰める袋を持って、女は言う。
「ここは愛の街さ、領主様の側近のメイ様も、その手で入ったクチだしさ」
「……え?」
ディズィーは耳を疑った。頬が紅潮するのが判る。
「知らないのなら会ってみればいいよ、すっごく気さくなかただから、誰とでもお会いになるんだ」
メイ……メイ! 名前が同じなだけかもしれない。呟いて、ディズィーは海に足を運んだ。今更のように喉が鳴る。他人の空似ならばそれでいい、仮に彼女であったなら。海に行くといいよ、おつりを返してきた女が教えてくれた。不思議な力っていうのかな、メイ様にはよくイルカが集まって、こどもらがおおはしゃぎさ。
ざぁんざざんと海鳴りが響く。水鳥たちの声。法力で動く定期船の影。身を包んだサンドレスに気を遣いもせず塩水につかり、彼女がいた。栗色の長い髪が水面でたゆたい、彼女を守るように数頭のイルカが控える。彼女がイルカの背を撫でてやると、ゆったり一頭ずつ海の底に潜っていった。それを見守ってから、彼女はふいに浜へと歩いた。
「久しぶりだねディズィー」
「メイ……やっぱり、あなたが……」
彼女はサンドレスの裾をつまんで豪快に絞った。ディズィーの双眸にうつるのは紛れもなく、半年前に別れたメイ本人に間違いなかった。だが、言葉が見つからない。気品の漂う姿に後足を踏んでしまう。
「みんなも来てるの? 物資補給?」
「え、ええ……」
「そっかー、変わんないねぇ」
懐かしいや、メイは太古をうたう。一年もたたない間に彼女は別人のような変貌を遂げていた。溌溂とした表情は艶麗を醸し、そそっかしかった手足はたおやかに泳ぐ。低く笑う仕種は娼婦じみて、肉欲的な口唇に急いで目を逸らした。同性からしても、彼女は美しかった。あでやかすぎた。
「ディズィー、帰りなよ」
小鳥のようで、愛欲そのものであるような声が告げる。何事もなく、メイはディズィーの横を通りすぎる。遅くなるとみんなが心配しちゃうよ、迷惑掛けるの苦手でしょ? ディズィーの額をつつき、振り返りぎわににししと笑う。じゃあ、元気でね。
ディズィーが呆けた顔をはっとさせる頃には、既にメイの姿はどこにもなくなっていた。流れる波も、鳥の群れも、すべてが彼女を残して消えた。
結局彼女が船に戻ったのは一番最後だった。夕飯の時間はとうに過ぎ、ジョニーやエイプリルが心配そうに機体の外で待っていた。何かあったのかと問うジョニーに対し、ディズィーは道に迷ったのだと嘘をついた。頭は一向に働かなかった。
機械的に食事を胃に流し、どさりと寝台に倒れる。スプリングがくぐもった音を立てた。シーツを握り締める。目を閉じる。
逆流する嘔吐感。口元には指の触感がまざまざ染み付き離れない。足をつこうとして、床がないのに気付く。シーツに指を掛けて強くふんばる。途端足がすっぽ抜ける。爪が食い込むまでベッドにしがみつく。
「あのね、メイがいたの」
背中の片翼から生じた水色の煙霧は女性の半身をつくり出した。艶やかな頭髪を肩に落とし、ディズィーに手を差しのべる。
「ウンディーネ……わたしっ、わた……!」
ウンディーネにいだかれるまま、ディズィーはひたすら涙をこぼした。嗚咽は徐々に大きくなり、泣き声はどんどん高くなる。
「会いたいって、そう、おもっ……なのに、どうして、怖い、なんで……!」
深夜のデッキには誰の気配もない。ジョニーはそこにどかっと腰を下ろし、銜え煙草に火をつけた。見上げた天は吸い込まれるほどに高く、彼方に星がまたたいた。風のない夜だった。悲しみの叫び声が聞こえてくる。
***
ジェリーフィッシュ快賊団というのは義賊である。すなわち、本来ならば警邏に追われる立場である。よって外部からの情報には敏感で、この日の急報を持って来たのはエイプリルだった。デッキに上った彼女はろくに整わない息で警鐘を鳴らした。
「ここの領主の側近が攫われたんだって! 街じゃかなりの自警団が出回ってて動きづらいったらないよ!」
エイプリルの声にクルー全員がジョニーを仰ぐ。女性ばかりの船員ではあるが、彼女らの行動力は並の男に劣らない。それぞれが過去に悲惨な体験をしているためか、女たちは強かった。
「明日の早朝には出発する。よぉし素敵なレディたち、用意にかかってちょうだいな」
告げて、ジョニーは茶目っ気たっぷりにウインクした。慣れた動作で散っていくクルーの中、エイプリルは真っ青になったディズィーに駆け寄った。ディズィーは生まれたての小鹿のような足取りで佇んでいた。
「ディズィー? 大丈夫だよ、警察になんか捕まらないよ、安心して」
「いいえ、わたしは……」
「もしかして具合悪い?」
ディズィーの瞳は虚空をさまよい、己の体をきつく抱きしめる。かと思えば走りだし、エイプリルは慌てて彼女を追い、すぐさま腕を掴んだ。
「ねえ、どうしちゃったのさ!」
「離してください! だって、メイが!」
「あの子はもう居ないんだよ! 船を降りたんだ!」
「ディズィー!」
ディズィーの血相にジョニーが追いついてくる。ディズィーは胸を押さえて深呼吸し、どうにか落ち着こうとしているようだった。膝に手を当てのろのろ顔を上げる。赤茶の双眸には大粒の涙がにじんでいた。肩は上がりきり、丸くなった背中をエイプリルが撫ぜる。
「話せるか?」
「攫われた領主の側近というかたに、昨日会いました、あの人に」
その人は街のみんなに好かれていました。綺麗で、凛とした姿で。その人は、海でたくさんのイルカを呼び寄せることが出来ました。彼女はメイと、呼ばれていました。
名前は伝染し、やがてジョニーにまで届いた。語りきったディズィーが腰を落とす。それが真実であるというのを物語っていた。太陽は空高く、デッキの隅々を照らしだす。肌を押し包む日差しがあたたかい。会いたいね、誰かがそっと呟く。
「駄目だ」
「ジョニー!」
「予定は変わらない、さっきの通り、明日には出発する」
「どうして! わたし、あの子に会いたいよ!」
甲板は静かだった。エイプリル、咎める彼の声も、ひょっとしたら無音のそれだったかもしれない。エイプリルはぎゅっと眉を寄せて息を飲んだ。やがてひとりひとり、自然にクルーたちの足が動いては消える。
***
それは眠りと称するにはいささか遠い。目覚める直前のえも知れぬ苦痛。ゆったりと繰り出される体の軋み。戻りつつある意識は尚更現実を拒み、闇に留まろうとする。ああ、頭が痛いのか。
鼓膜への刺激で淡い夢は弾け飛び、モノクロシーンに色彩がひしめく。最初に飛び込んできたのは鉄の匂い。低音キー。そして彼女は目を開けた。
暗色の視界が一面に広がった。右も左もくすんだ灰の壁。首には鎖が食い込んでいる。ここは部屋というよりも箱の中にいるようであった。
「お目覚めかい、お姫様?」
鉄格子の戸を遮って立つ男が黒ずんだ歯を見せつける。男は上半身をはだけ、右肩だけが奇妙に隆起していた。彼女のむき出しになった太腿や胸元に目を遣り、ねっとりと声を絡ませてくる。男の喉仏が大きく上下する。
「あっちのほうで領主に気に入られたって話、満更でもなさそうだなオイ?」
「わたしになんの用? 何が目的?」
「は、威勢がいい女は嫌いじゃないぜぇ? なあ、ジャパニーズ、いや、違ったとしても売っちまえば同じだがな」
かん高い音で錠が開かれる。男が歩み寄るにつれて、獣の生皮に似た匂いが強まった。男は首の鎖を掴み、強引に彼女の肢体を吹き寄せた。彼女の黒眼は逸らされない。胸を覆う布地を裂く。それでも動じない彼女に男はけたたましく笑った。
「売る前に手でも付けてやろうかと思ったが、そうかあんたも好きモノだな!」
次の瞬間男の岩のような拳が彼女の腹部を貫いた。女は呆気なく吹き飛んで、壁に後頭部を打ち付けた。
「うあ!」
「ほーら、抱かれたいんだろォ!」
みる間に血を流し始めた頭をわし掴んで床に叩き伏せる。ぶちりぶちりと髪の抜ける音が耳の上から聞こえた。ヒッと呼吸器が悲鳴を上げる。四肢が落ち、男はそれに覆いかぶさってぶ厚い口を押し付けた。
あの日は重圧な雲ばかりで、星の一粒見えない空模様だった。乱雑な行動を受ける中、彼女は天井に走る欄干を見据えていた。欄干は無表情に介入を拒む。しかし、彼女だけはそこを見続ける。痛いと叫ばず、許しを乞いもせず、じっと、じっと。彼女は助けが来ないことを知っていた。そして、彼女への陵辱は明け方まで続いた。
冷めきったチャペルに取り残された時、彼女はメイの名を捨てた。彼女は彼女でありながら、まったく異なる女になった。それが彼女の願いであった。
「がふ!」
目前の男の奇声に我に返る。男は舌を出して白目を剥いていた。顔を上げる。その一瞬を、彼女は一生忘れないだろう。両親を失い、初めて彼と出逢った日のように。
(……神様みたいだ)
ジョニー、久しく呼ばなかった名前のことだ。長身をコートで覆い、長い金髪を首筋で結い、悠然と佇む男だ。けれどメイは少しだけまなこを伏せて、気絶した男の影から後退した。無言でのびるジョニーの指に、意図せず体が逃げ場を求める。
「こっちだ」と一言だけ発し、歩き出すジョニー。メイはついていくべきかと思案顔であったが、倒れた男とジョニーを比べ、彼の背中を追い掛ける。彼女が苦しいと感じたのは、首に巻きつけられた鎖のせいだけではない。
自分が街からそう遠く離れていない古倉庫に閉じ込められていたのだと判ったのは、街の宿へ向かうのに小半時の要さなかったからだ。街といってもメイが暮らしていたそこではなく、穏やかで牧歌的な土地だった。宿舎自体が小さく狭い一室は、側近であった頃からすればひどく質素に思えた。ジョニーはサングラスとキャプテンハットを放り捨て、あらかじめ持ち込んでいたらしい酒を呷っている。メイは破れた胸を隠し隠し、寝台のひとつに膝をかかえてすわっていたが、沈黙をこらえきれずに声を荒げた。
「どうして来たの!」
「船を降りた奴には関与しないのがうちの鉄則だ、だがな、大切なクルーを泣かせる輩を許してやれるほど、俺は甘くない」
振り返りさえしない黒コートの肩を睥睨し、翼の生えた後輩の姿を回顧する。脳裏によぎる彼女を呼び止めようとして、やめた。
「ならどうして助けたりなんかしたの!」
「お邪魔だった、ってか?」
「ええ邪魔よ! あなたなんかに助けてもらいたくなんかなかった!」
「そいつは悪かったな、なら……抱いてやろうか?」
メイは仰天して悲鳴を上げかけた。咄嗟に両腕を突き出して逃れようとした彼女の口唇は軽々と塞がれ、シーツの海に縫い付けられる。全身が粟立つ感覚に陥った。その感触は恐怖に似ていて、メイは目前の男を直視出来ない。怖い? そう、怖い。かつてあんなにも求めていた彼が、好きで好きでたまらなかった彼が怖いのだ。
「邪魔したお詫びだ、側近様は誰にだって抱かれたがるそうだからな」
接触だけの口づけは冷酷だった。重なったあたりから生ずる僅かな稲妻が、彼女の四肢を硬直させ、意識を混乱のきわに追い立てた。隙間はジョニーによって閉ざされ、合間から漏れた呻き声気持ち悪い。解放されて、息を吸う。潤んだ目に浮かびだすのはその男。それなのに、メイは身震いする。
金糸の長い髪を束ねて。愛用のコート素肌にまとって。年を重ねるごとに増していく妖しげな雰囲気と、吐き気がするほど美しい青い瞳と。何をとっても変わらないこの男に、どうしてこんなにも怯えているのだろう、他人のように。
離れていたのは半年間、彼は変わってしまったのだろうか、それとも、自分が変わってしまったのだろうか。
「おまえさんが願ったことだろう?」
ひょうひょうとした口調こそがメイの耳に風穴を開けた。肩に男の重みをいっそう感じた。
「なのに逃げるのか?」
額が重なり、紙一重のところでジョニーが冷笑を持て余す。メイは放てる言葉を知らない。脳裏で心というものに押し潰される己の姿を見た。鼓膜が痛い。息をしたい。水から引き上げられた魚たちは、皆呼吸を求めて死んでいった。
爪の先ほどで口唇が掠め合う。俺から逃げるのか? 張り詰めた糸が切れる。ぷっつりと、彼女の瞳に光りが溢れた。
「もうやめて今更なの! わたしはもう汚いの! 助けなんていらないの!」
「助けてやれなかった、だから、今度は助けるために来た」
「いや、わたしは!」
「メイ」
ジョニーの掌は大きく、たおやかにメイの頭に触れた。円を描くように撫でた。
「帰って来い、俺のところに」
「や、やぁ……わ、た……ボ・ク」
二度と使うまいと決めていた呼称に彼女は知らず打ち震えた。ひたすらに涙が止まらなかった。洟をすすり、しゃくり上げ、みっともなく声を放ち、気付けばジョニーにしがみついては謝罪の言葉を繰り返していた。ごめんなさいごめんなさい、迷惑掛けてごめんなさい、約束破ってごめんなさい、卑怯でごめんなさい、汚くてごめんなさい。赤ん坊のように喉を枯らし、メイの嗚咽は朝日に消えた。
***
「あーあ、結局メイのひとり勝ちかぁ」
「何若いのがシケた顔してんだい」
「だってぇー、メイはいいな、この先ずっとジョニーさんを独占出来るんだからさ、ずるい」
「無茶言うんじゃないの、あの人には散々お世話になったじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
「ずっとアタシらのために頑張ってくれたんだ、これからはあの人の好きなように生きてもらわなきゃ」
走るデッキブラシから漏れた会話を横耳に挟み、ディズィーは飛行艇の甲板から遥か下界を眺めていた。腕には橙色の果実が溢れている。眩しげに双眸を細め、口を緩ませる。早朝に消えた一台の小型船はきっともう戻らない。
「これでいんだよね、ディズィー」
「エイプリル……?」
そっと現れたエイプリルが、ディズィーと同じようにして柵に寄り掛かる。光りは両者を包むように差し、どちらも慌てて瞳を背く。
「ジョニーもメイも幸せになれるといいね」
「間違いなくなりますよ、エイプリル」
「いつになく断言するわね珍しい」
「はい! 断言したから、きっと幸せになります!」
「あははははは! そうだね、断言しなきゃね!」
ころころ笑うエイプリルにオレンジをひとつ渡した。オレンジは、風を受けて太陽のごとくきらめき続ける。
***
安酒を傾けて、ジョニーはすっかり暮れた空に頭を預けた。寝台ではとうに眠りの世界へいざなわれたメイが布団を握りしめている。
小さな体を蹂躙された日、彼女は何を祈っていただろうか。思い知ればいい、この時を。ほら見てみろ、気が狂うくらい待っていたから、こんなにもオッサンになっちまったじゃないか。今になって嫌だなんて言わせない。
「苦しいのなら抱きしめてやる、何度でも涙を拭ってやる、だから必ずここに居ろ、メイ」
ねぇ、ボクのこと好き? お嫁さんにしてくれる? 幼い輪郭が笑って問うた。
「ああ、好きだよ」
穏やかな寝息を立てるメイの頬、ジョニーは優しく口づけた。
FIN.
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