2度目
狭山が桐生と付き合うようになって数ヶ月が過ぎた。
お互い、多忙の身であり、しかも長距離を行き来する仲はあるが、その交際はおおむね良好だった。
あの神室町ヒルズの大々的な事件が過ぎ去ってから数日はお互い忙殺されたが、今は平和な時間を味わうように逢瀬を繰り返している。
どちらかと言うと、桐生の方が時間に都合をつけて大阪に出向いてくれることが多かった。
狭山も都合さえつけば、東京に出向き、短い時間でも桐生と会うことに時間を惜しまなかった。
会う度に胸がときめき、頬が熱くなる。
それは相手も同じだった、会うたびに笑顔を、抱擁を、そしてかけがえのない時間をくれる。
もうじき付き合いだして初めてのクリスマスを迎える。
その時自分はどんな服を着よう。
彼はどんな台詞を言うだろう。
自分たちはどんな時間を過ごすだろう。
狭山は手帳を見ながらひっそりと微笑んだ。
「今年のクリスマスね、女の子同士で集まってパーティーしようか、って言ってるの?」
「えっ?」
遥の言葉に、桐生は一瞬租借を忘れた。
遥は味噌汁を軽く啜ってから、椀をテーブルに置いた。
「だからね、泊まりがけのパーティーなんだけど、行ってもいいかなあ? おじさん?」
少し甘えるように首を傾げる遥の表情に、桐生は無意識に相好を崩した。
「相手の親御さん、何て?」
「うん。どうぞどうぞって。それに泊まるの私だけじゃないんだよ。みんなで5人! 集まってー、プレゼントの交換してー、それで、朝に皆でマック行くの! ミスドでもいいけど」
「いいな、楽しそうだ」
定職を持ち、住所と一定させてから、遥には友達がぐっと増えた。
そして毎日楽しそうに学校に通っている。
その姿を桐生はとても嬉しく、そして誇らしい気持ちで見つめていた。
今までは孤児院のヒマワリでパーティーを開いていたんだろうが、今年は友達だけのパーティーになる。
もちろん、遥の性格だからヒマワリにも顔を出すのだろうけど。
「じゃあプレゼント買う金がいるな。それに、向うの親ごさんに挨拶もしとかねえと――」
「うん。それは、その日が近くなったら言うね」
「ああ、俺、忘れっぽいからな。しつこく言ってくれよ?」
遥はそこで不意に真顔になった。「うん」
「おじさんは忘れっぽいからね。ちゃんと言う」
桐生は遥が眠ってから、狭山に電話をかけた。
深夜だが、彼女は起きていた。
クリスマスの日を空けておいてくれという電話に、狭山は恥ずかしそうに笑った。
「仕事が入るかも。約束できへんよ」
「終わってから、会えばいい」
泊りがけで大阪に行くことを告げて、桐生は電話を切った。
学校帰りの通学路。
遥は一人の男に声をかけられた。
「遥!」
「伊達のおじさん!」
遥は何人かの友達と一緒に下校している途中だった。
少女達の目に射抜かれて伊達がたじたじと竦む。
「あ、いやあ……怪しいモンじゃねえ……」
おろおろと弁明する伊達に遥が笑った。友達の方を見て軽く説明する。「ちょっと、ゴメン」
「親戚のおじさんなの。会ったの久しぶりだからちょっとお話してく」
「あ、そうなんだ」
友達たちは伊達を品定めするような目で見たが、すぐににっこり笑って手を振って別れた。伊達は安堵の息を吐く。
変質者のレッテルは貼られなかったようだ。
「伊達のおじさん! 久しぶり!」
遥は嬉しそうに伊達の足元にすがった。
伊達も遥の頭を撫でながら話かける。
「おう。ちょっとこのヘンぶらぶらしててな。どうだ? ドーナツでも食うか?」
「食べるー!!」
伊達は遥と手を繋いでドーナツショップへと入った。
「伊達のおじさん、こんな時間にぶらぶらしてるってことは働いてないの?」
遥はストロベリー・チョコ・ディップドーナツをわしわしと食べながら伊達に問う。
「きつい質問をありがとうよ」
伊達はコーヒーを一口飲んで笑った。
「今は須藤の助手みてえな事をやってるけど、まあ、実質ヒモみてえなモンかな?」
「ひもって?」
屈託のない聞き返しに伊達が口に手を当てた。「あ、いや――」
「須藤の仕事を手伝ってる。……全然働いてねえわけじゃねえぞ?」
「うん。それは分るよ。伊達のおじさんて仕事してないの似合わないもん」
「そうか?」
「そうだよ」
遥は2個目を手にとった。今度はフレンチ・クルーラー。
「前だってそうだったじゃない? すごく頑張ってくれた」
「前?」
伊達はオールド・ファッションにかりっと歯を立てながら聞き返す。
しばし、遥は伊達の目を見た。「ミレニアムタワーで」
「伊達のおじさんがいなかったら、おじさん、刑務所に入ってたんでしょ?」
「それは――」
いきなりの昔話に伊達が戸惑う。
「私最近よく思うの。あの時伊達のおじさんがあそこに居なかったら、もう何もかもが全部違ってたんだろうなって」
遥は指についたクリームを軽く舐めた。
「だってあの時おじさんは何もかも投げてたから」
「まあ、あの状況じゃな」
伊達は苦笑した。笑い話にするために。
正直、母親が目の前で死んだという局面で、遥がそこまで桐生のことを観察できていると思っていなかった。
「伊達のおじさんが怒鳴ってくれたから、おじさんは思いとどまったの」
「いやあ、俺なんか居なくて、拘束された段階でいくらでも申し開きできたぞ?」
遥は2個目のドーナツを完食してから言った。「おじさんは、そのことを一生覚えておくべきなの」
「伊達のおじさんに助けてもらったことを。でも、忘れてる」
「いや、そんなことねえだろ?」
伊達は焦って言い返した。
だが、遥は頑なに言い張った。「忘れてるの!」
「それが時々、すごく嫌な気持ちになるの……私、おかしいのかな?」
遥は潤んだ瞳で伊達を見上げた。
伊達は寂しそうに笑い、遥の頭を撫でた。「俺ぁ、そんなたいそうなことしたわけじゃねえしな」
「それにお前にそんなに感謝されてるってだけで、もう、胸いっぱいだ」
遥はそれでも、悔しそうに唇を噛んだ。
「でも」
「それに桐生は十分俺に対していいやつだから」
伊達は笑って遥の頭を撫で続けた。
遥は暫く難しい顔をして俯いていたが、やがて静かに笑った。
「遥ちゃん、久しぶり!」
「薫さん?」
帰宅すると、狭山が台所に立っていた。
「ちょっと休みが取れたから、こっち来てたの。晩御飯、もうすぐできるから」
桐生の姿はまだない。
「おじさん、もう少ししたら帰って来ると思うんだけど……」
「うん。電話でそう言ってた」
台所からはクリームシチューのいい匂いが漂っている。
けれど、遥は食欲がなかった。
それは先ほど食べたドーナツのせいだけとは思えなかった。
遥はリビングのテーブルで宿題のノートを広げた。
「一馬が帰って来たらみんなで食べようね?」
笑顔で振り返る薫に、遥は申し訳なさそうに返した。「……ごめんなさい」
「私、お風呂の後に食べます。今、あんまりおなか空いてなくて」
「あら? どうしたの?」
狭山はエプロンで手を拭きながら遥の側に寄った。
「食欲ないのかな?」
「ううん。さっきミスド行ってたの。伊達のおじさんに会って」
「伊達……?」
狭山は軽く首を傾げて、ああ、と言った。「父さんの部下だった人ね」
「あの、伊達さん? でも、何で伊達さんとミスドなんて?」
「偶然会って、お茶してたの」
「そうなの? いつも?」
「ううん。たまたま」
「そっか、じゃあ、おなか空いたらいっぱい食べてね」
「うん」
遥はノートに漢字の書き取りをしながら言った。「ねえ、薫さん」
「おじさんと居る時、おじさんは伊達のおじさんの話する?」
「ええ?」
台所で狭山は大きく聞き返した。
「ううん。その人の名前あんまりきかないわ。伊達さんがどうかした?」
「うん」
曖昧な遥の態度に、狭山は再び遥に寄り添った。先ほどよりも勢いよく。
「どうしたの? まさか、ヘンなことされたの?」
「バカなこと言わないで!!!」
遥が怒声を上げる。
「何でそんな風に思うの?」
「ご、ごめんなさい……でも、あなたの雰囲気がその……心配で……」
遥ははっとしたように黙った。
だが、すぐに言った。「ごめんなさい……」
「でも、どうして言ってないのか、腹が立って……」
「え?」
「おじさんはね、伊達のおじさんが居てくれたからこの町で暮らしていけるの」
「……え?」
「ミレニアムタワー爆破事件……」
狭山の目が静かに見開かれた。
「私もおじさんもあの場所に居たの。おじさんは、色々なことに関係してるの。もちろん悪くはないよ。でも、あの時おじさんは、すごく投げやりになって……刑務所に入れてくれって自分で言ったの。もう出てこられなくなるの分かってて……私のことだって、もう……」
「まさか……」
「それを守ってくれたのが伊達のおじさんなの」
遥は顔を上げた。
「おじさんを怒って、助けてくれたの。私、新聞を読んだけど難しすぎて書いてることはよく分からなかった。でも、本当に悪かった人を悪く記事にしていたと思う。……あれは、伊達のおじさんのおかげなの」
狭山は血が引くのを感じた。
あの記事。
遠く離れた関東の事件ではあったが、警察庁出身官僚の告発された記事は記憶に残っていた。警察機構における汚点であり、最大のすっぱ抜きだ。その緻密な証拠や実績の検証には内部告発の動きを感じてはいたが。
同じ警察という機関に身を置く狭山には、伊達のしたことが、いかに真摯であり、そして同時に大それた行為であるかが分った。
もう、二度と警察で仕事はできまい。
告発自体命がけだっただろう。
桐生の友人であり、父親の部下。
そんな程度の知識しかなかった狭山は不穏なものを感じた。
一介の友人がそこまでのことをするはずがない。
もしや、伊達は桐生に対して何か特別な感情を――。
「でも、おじさんはそれを忘れてる」
遥の静かな声が狭山を考えから呼び戻した。
「それだけじゃない! 2回!! 同じ事を2回も!!!」
「2回?」
聞き返す狭山に遥は挑戦的に言った。
「あなたもそこに居た!」
狭山は頬が熱くなるのを感じた。
あの屋上。
神室町ヒルズでキスを交わしながら、死ぬことを決めたあの瞬間を。
「おじさんは人の人生を奪って生活してるの! どうしてそれが分らないの? どうしてそんなに簡単に死のうとしたのよ!!」
狭山は何も言葉出ず、ただ遥に圧倒されていた。
遥はすでに落ち着いていて、静かな声で言った。「伊達のおじさんもあの時あのヘリに乗ってたの。あの時の悲しそうな顔、私、忘れられない」
「私、おじさんのこと好きだよ。狭山さんも」
息を吸って、吐いて、遥の目に凄みが増した。
「でもね、あなたたちの幸せは誰かの不幸せの上に成り立ってるの。私はそれを少しでも覚えておいて欲しいの」
アパートの階段を駆け上がる音が聞こえる。
おそらく桐生だろう。
遥は音の方を見て、言った。「おじさんは忘れっぽいから」
「狭山さんだけでも覚えておいてね」
玄関のドアが開いて、ただいまと言う声が聞こえた。桐生だった。
「お、いい匂いだな」
嬉しそうに言って入って来る男に、遥はおかえりと言った。
狭山は、なかなか声が出せなかった。
fin
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A doting parent ~親バカ~
「で、俺は一体何をしてるんだ・・・」
桐生は東城会の会合に真島と行ったらしい。だが、そこは子供は入れないとかなんかで
・・・・家に一人の遥を
伊達が面倒を見ているのだ・・・って、見てるってか面倒見られてるようなんですけどぉぉ!?
「伊達さん朝ごはん食べないとメタボリックになっちゃうよ?」
「あ、ああ・・・じゃあ頂くな?」
「パンはゆっくり食べてね、しゃっくりが出て苦しくなるから」
「え・・あ、 ククックック・・(既にしゃっくりが)」
苦しそうに喉あたりを押さえる伊達に急いで牛乳を差し出す遥はまるで世話焼き家政婦。
・・桐生のリズムがない暮らしに家政婦化したのだろうか。
慌しい組み合わせだが、ちょっと一息ついた頃だ。流石に幼い少女が家に缶詰状態も可哀想だろう
「遥ちゃん、どこか行きたいトコロあるかい?」
「いいの!??」
パァっと遥の顔が輝く・・・フッ、沙耶の小さな頃を思い出すなァ・・いや、今も十分可愛いぞ・・
うんうん・・(親バカ)伊達の顔が一瞬緩む。
「じゃ・・・遥、ゲームセンターに行ってみたいな♪そこでクマのぬいぐるみが欲しいの、桐生のおじさん上手なんだよ」
「ゲ・・!?(いいのかなァ・・少女をこんなトコロに連れてって)」
「真島のおじさんとも行ったことあるよ、百発百中やで~っていいながらミスしたり・・ふふ」
天使の笑顔に遂に敗北。
矢先は神室町天下一通りを目指す!!
「ほら、右に・・・・あっ!!」
デロデロデーンと不愉快な音が響く→伊達、見事にクマ救出失敗!!!!
この後、5、6回挑戦するが一匹も手に入らず・・ああ、遥ちゃんを無駄に期待させてしまったようだ
「いいよ、そんなに気にしてないよ―人生、そんなの取れなくたって生きて行けるから」
「!!!!!!!!」
ズキーン!!!遥ァっ!!!!慰めてるようで慰めになってないよ!!伊達はその場に沈黙し生きる屍化するのであった―――・・・・・
「そだ!おじさん、プリクラ撮るのはどう?」
伊達、復活・・・呼び名が『伊達さん』から『おじさん』に変わっただけのことで復活。
そう、これは娘が突然『お父さん』から『パパ』に変わった所謂いまじねーしょ(強制終了に付きお楽しみください)
「これは・・(ん、沙耶がよく言ってる”ぷりくら”か)一回400円だな」
「割り勘しよう♪」
「い、いや・・俺が全部「駄目だよ!!二人で撮るんだから」
俺が全部払ってやるぜという父親らしきキメ台詞が中断される・・・よくできた子だ。
「一人、200円ずつ入れてね」
流石に、お金の投入口は間違わなかった。
「あっちのカメラを見てね」
『はい、チーズッ♪』
可愛らしい声の合図で1分くらい経つと下から「カンッ」の音と同時期に一枚のカードが舞い落ちる。
「おじさん、半分あげる。・・・・遥・・おじさん好きだな」
「な・・え、ええ!?(なっ、この子はいきなり・・・年の差考えろ!)」
「桐生のおじさん、撮っても笑ってないもん。でも、おじさんは凄いイイ笑顔だよね!」
「そ、そうか?(なんだ、そっちか・・安心安心)」
安心と、遥の笑顔についつい、顔がデレっとなってしまう。その顔のまま、隣のプリクラから出てきた女性を見てしまった。
「沙耶!?」
「おとっ・・!?・・なんでココに・・・」
まずは伊達の顔ツキにビックリする。で、下を見れば少女・・・ぷりくら見ればおじさん笑顔全開のマイファザー・・・・
「ばっ、バカ親父っ!!」
「は・・な、な・・バッ・・!???」
一目散に沙耶はゲームセンタ―を網羅&GOをする。ああ、父親失格。
「―・・・おじさん?」
「・・・・・・・カタカタカタ」
伊達の法則~五つの伊達魂~
①いつも真面目に
②人間の為に働いて
③沙耶命
④死ぬの覚悟で当って砕けろ
⑤ゴラァっ━!!
見事に五つとも砕け散った。
「カムバッ―――――――――クッッ!!!沙耶ァァァァ!!!!!」
「で、伊達さん・・・こないなったんか」
「真島のおじさん、おじさん・・遥のせいかな?」
「ちゃうと願ごうとるでぇ」
「絶対違うな・・・」
マンションのベットのは力なく泣きじゃくる伊達さんがころんでいる。
こうなったのは、きっと伊達さんが娘の悪いほうの執着心がやばかったからだと思う。
END
そして、ちょっと不安要素がひとつ。
来年で遥は中学生で良いんですよね?
間違っていたらすみません、お見逃しください。
きらきら
雨だねぇと窓に半分身体を預けるように寄り掛かってどんよりとした夜空を見上げる遥に、一馬は室内を向いて座っていた身体をくるりと返して隣から顔を覗かせた。
「雨だな…」
しとしとと効果音でも聞こえてきそうなほど、止むことなく振り続けている雨は朝から変わらない。
今朝がたどんより曇った空とテレビからの天気予報の『雨でしょう』の言葉、に、天の川見れないかなと溜息交じりに遥が言った言葉は見事に当たってしまった。
「何時も七夕の日って天気悪いよね」
「そうだな…」
言われて考えてみれば、確かに子供の頃もある程度の年齢になってもこの晩に天の川を見た記憶が無い。
「おじさんは、見たことある?」
「いや…覚えてる限りは無いな」
「私もひまわりの頃も、笹を飾ってお祝いしたけどやっぱり雨で部屋の中だったよ」
「関東以外って言うなら、見れるかもしれないけどな」
「例えば?」
「……」
まさかそう問い返されるとは思わず、自分の言葉を反芻して一馬は視線を泳がせる。ふいと室内のテレビに目を向ければ九州沖縄は海開きをしました、と晴れやかな青空の映像と海が画面に映った。
「沖縄、とかか…」
「沖縄かぁ」
一馬の視線に気づいて遥もそちらへ顔を向け、ふうと溜息を一つ漏らす。
「行った事ある?」
「いや、無い」
「…九州も?」
「無いな」
「それじゃ、来年を楽しみにするしかないね」
「それしか無いだろうな」
自分に天気を変える力でも在るというのなら、今すぐこの愛しい存在の為に雨雲を取り払って満天の星空を見せてやりたいが生憎そんなモノは持ち合わせていない。
出来る事と言ったら、せいぜい笹の葉を飾るくらいだ。
テレビから部屋の隅へと視線を向ければ、昼間一馬が買って帰った小さな笹飾りがひらひらと揺れている。
本当ならば、窓から飾りたかったが雨に濡れてしまっては台無しと遥が置き場所を作ってくれた。
「織姫も彦星も、これじゃ会えなくて寂しいだろうなぁ」
「…まぁ、確かに」
「一年に一回しか会えないのにね」
「関東以外では会えてるから良いんじゃないか?」
そう、とりあえず天の川が見えないのは関東近辺。西へ行けば見えているはずだ。
「…おじさん…」
「なんだ??」
むと頬を膨らませて睨む遥に、どうしたと首を傾げれば違うでしょと子供を叱る口調で続けられる。
「そう言う意味じゃないの」
「…違うのか?」
「絶対違うよ」
「……すまない…」
妙な迫力に思わずそう言ってしまう。するとくすりと不意に笑われる。
「おじさんらしいなぁ」
「遥?」
「うん、すごくおじさんらしい」
くすくすとそのまま笑う相手に、なにがどうして自分が笑われているのか理解が出来ないまま一馬はその顔を見つめた。
初めて出会った時から二年が過ぎて、来年には中学へと進学するこの少女は目を見張るほど成長をした。
幼いだけだった姿も顔も、成長期とはこれほどなのだろうかと驚くほど大人び始めている。もともと、生まれや過酷な生き方があったせいで年より全体に大人びた雰囲気は持っていたが、それは年相応とは違う何処か無理のある大人の気配だった。
けれど、今あるのは年相応。無理のない、本来の澤村遥。
不意に、何時まで自分はこの子と一緒に七夕の空を見上げられるだろうかと考える。
世の中の女の子がそうであるように、年ごろになれば好きな相手と特別な夜を過ごしたいと思うはずだ。そうしてそう成った時、自分は父親役として喜ばなければいけない。
願わくば、その相手は普通の世界に生きる男であってほしい。
「おじさん?」
言葉を切ったまま自分を見る一馬に不思議がるように遥がくるりと目を揺らせば何でもないと小さく笑みを返す。
「来年は、二人が会えるかなぁ」
「どうだろうな」
「でも、来年が駄目でもまたその次があるからね」
「…気の長い話だな」
ぽんと窓枠から身体を起こして、床に座り壁に背を預ける様に膝を抱いて座る遥に軽く笑えばえへへと返される。
「?」
「ホントはね、二人は絶対に早く会いたいに決まってると思うんだ」
「そりゃそうだろうな」
「だけどね、焦っちゃダメだよって言うのも、きっと知ってるんだよ」
「……」
「だって時間は流れてるんだもん。必ず次は来るって、信じてるから待てるんだよ」
抱えた膝の上に遥は顔を乗せて、ゆっくりと一馬に笑う。
「何時かきっと、こんな離れ離れじゃなくて一緒に居られるようになる」
「はるか…」
「変わるはずだ、ってね」
「…お、まえ…どこでそんな事を」
「何か変な事、私言った?」
「随分と、大人の様な事を言うんだな」
「いやだな、おじさん。私来年中学生だよ」
「それはそうだが…」
戸惑うように自分を見る一馬に、くすりと遥が笑う。
この人の中では、今だに自分が幼いままだと知っている。勿論、年も姿も自分は十分すぎるほど幼い。
それが、年を追うごとに酷くもどかしくなってくる。
どうして自分は幼いんだろう。
どうして子供なんだろう。
どうして、この人は大人なんだろう。
全部を百万回問いかけたって答えなんか決まっている。
自分は子供で幼くて、この人は大人なんだ。
だから、待つしか自分には出来ないんだと分かった。
大人の仲間入りが出来る年まで、この人の隣に居ても娘さんですかと言われなくなるまで。
そんな日が、来るかどうか本当の処は分からない。
だけど、信じて待ってみたい。
―――何時か、変わるはずだと―――
織姫と彦星よりも遠い対岸に居る自分たちが、川を渡れる日が来る事を願って。
「…遥、その…好きな相手でも出来たのか?」
「え?なんで??」
「いや、女の子が急に大人びる時はそう言うときだと姐さんが」
「…弥生のおばさん…」
「もしそうなら…」
「………」
堂島の龍と呼ばれる程の相手のどうにも所在なさげなおろおろとした物言いに、一瞬言葉を止めた遥は吹き出すように声を上げて笑いだす。
嬉しい嬉しい。それに、少しだけ可愛い。
変わらない、自分を心底心配してくれるこの人。
「おい、遥?」
「大丈夫」
ゆっくりと遥は一馬に向いて座り直すと、少しだけ改まったように膝の上に手を置いた。
「おじさん以上に好きな人、居ないから」
「……」
「だから来年も、一緒に天の川見ようね」
言って、ふわと遥は一馬に笑って見せる。それに、同じだけやんわりと一馬も笑う。
「…ああ、来年こそは晴れると良いな」
「あんまり晴れなかったら、泳いで渡っちゃうよ、私」
「…なんだって?」
「うふふ~、例えば、だよ」
月に哭く ~side:遙~
かくりと窓辺まで椅子を引っ張ってきて座る遥の首が揺れる。
窓枠に身体を寄りかからせて大きく開いたソコから夜空を見上げている目は、ほんの僅か潤んでネオンの明かりと朧な月明かりを映していた。
「……ん、」
大きな目を閉じさせようとしている睡魔を追い払うように目を擦る。
「遥ちゃん、風邪引くぜ?」
「…う、ん。大丈夫だよ、大吾お兄ちゃん」
「ってもなぁ…遥ちゃんに風邪引かせたなんて事になったら、お袋にも桐生さんも俺があわせる顔がねぇよ」
「弥生のおばさんも怒るの?」
参ったなと首の辺りを摩りながら組長である自分用の机に腰を寄りかからせた大吾は、くるりと向いた視線に苦笑いを向ける。
「そりゃ、引っ叩かれる」
「ホント?」
「いや、ケリが入るかもしれねぇ」
「嘘だぁ」
「ホントだぜ?」
そう言ってにやりと向く大吾の視線の意味を覚って、遥は声を上げて笑う。
「やっぱり嘘だよ。弥生のおばさんがそんな事するはず無いもん」
「遥ちゃんには甘いからなぁ…俺なんて扱いひでぇんだぜ」
「それはきっと、大吾お兄ちゃんが悪いんだよ?」
きいと軽い音を立てて遥は座るふかふかの椅子を回して大吾に向き直る。
まるで幼子を諭す大人のような声色。
向いた大きな目は、何処までもただ真っ直ぐ。
「…っ、え?」
思いがけない遥の物言いに思わず言葉を失う大吾のその、可愛いと言いたくなる顔にくすくすと遥が笑えばああなんだ冗談かと気付いて大吾も吹き出すように笑う。
「ひでぇなぁ」
「だってぇ」
「なんだか遥ちゃん、…お袋に似てきたぜ?」
「…え?本当に??」
「似てきた似てきた。どうする?将来ウチのお袋みたいに極道の妻、とかになってたら」
勿論、親代わりである桐生がそんな事を許すはずが無い。
桐生にとっての極道という世界は、もう拭いようが無いほど自分の場所になっている。
けれどこの少女は、まだ何にも染まっていないのだ。
だからこそ、当たり前で平凡な優しい未来を用意してやりたい。
誰憚る事無く日の下を歩いていける、そんな生き方。
「…ねぇ、大吾お兄ちゃん…」
ふいと先ほどまでとは違う遥の口調に、冗談だと笑おうとしていた大吾は言葉を止める。
椅子に座って、開かれた窓からの派手なネオンを背に自分を見るまだ幼い少女。
似つかわしくない2つは、けれど遥の向ける何処か大人びた表情で奇妙な合致をしていた。
「桐生のおじさんは、何時か大吾おにいちゃんみたいに組長さんになるの?」
「桐生さんが?」
「……うん」
「え?…わかんねぇけど」
「なるのかなぁ…」
ぽふりと深く椅子に身体を預け、溜息のように言って視線を伏せる。深く座った事で浮いた足がなんとも言えないもどかしさを現したように揺れる。
「…なんで突然そんな事言うんだ?」
先ほど一瞬見せた、酷く大人びた表情。
それでいて今見せている、年相応の仕草。
戸惑うように大吾は遥を見る。
周囲に遙と同じ年頃の子供が居ないからかもしれないけれど、と思う。
このくらいの女の子は、こんな風に二面性をもっているのだろうか。
自分がこの歳の頃は間違いなくもっと子供だった。
「ん、とね…お月様…」
「月??」
またきいと軽い音を立てて遙は椅子ごと窓へと身体を向け、少しだけ首を伸ばして空の高いところで浮かぶ月へと顔を向ける。
「あのね、大吾おにいちゃん」
「ん。なんだ」
「私がね、初めて桐生のおじさんと会った夜も、こんな風に月が綺麗だったんだよ」
あの夜も、やっぱり見上げればこんな風にまあるい月が小さく浮かんでいた。
むせ返るほどの色の洪水のずっとずっと奥で、ひっそりと光っていた月。
ソレを一人で見上げるのは、ほんの少し寂しかった。
ひまわりに居れば誰かが隣に居た。もっと昔、掠れた記憶の中では、誰かに抱かれて月を見た。
だから余計に、たった一人きりで見上げる月はどれだけ自分が孤独なのかを実感させられた。
「おじさんを見上げたら、その後ろに月があったの」
「……」
「それでね、おじさんが私のお母さんを知ってるって聞いた時、嬉しかったんだ…」
何を言いたいのだろうと、僅かだけ大吾は眉を寄せる。
人伝に聞いた桐生と遙の出会った経緯と2人の関係。
複雑に絡んで、大吾にとっても忘れられない事件の結末に繋がった始まり。
「ねぇ、大吾おにいちゃん」
くるりと遙が大吾を振り返る。
「ああ」
「こうやってね、大吾おにいちゃんとお月様が見れるのも私、嬉しいよ」
本当だよと小さく幸せそうに笑うその姿に、どうしてか切なさを感じる。
まだ10歳を少し過ぎたばかりの、幼い少女の笑み。
屈託の無いはずのそれが孕むのは、大人の女ほどの想い。
とくりと、大吾の中で何かが震える。
――あれ、これはどんな感情だ?――
「きっと真島のおじさんとか伊達のおじさんと見ても嬉しいと思うんだ」
優しい優しい人たち。
多分自分に見せている顔が全てではないのだろうけれど、それでも笑って自分の名前を読んで頭を撫でてくれる。
嬉しい。
あの時の泣きたくなるほどの一人ぼっちな自分が消えていく気がする。
だけど、あの時自分に手を差し伸べてくれたあの人には誰も敵わない。
なんでだろう―――。
悲しくなるくらいに、不思議だ。
「でもね、…だけどね…」
ふわりと、大吾の手が伸びて遙の頭を撫でる。そうしてからゆっくりと隣に並び、くいと上半身を窓から出して月を見上げた。
遠い天に浮かぶ月。
龍が舞う天を照らす、柔らかな光。
「良いんじゃねぇか」
「…大吾、お兄ちゃん?…」
自分を撫でるこの手は、酷く暖かい。
だから、泣きたくなってしまう。
「…良いのかな…」
ずっと一緒に、月を見ていたいと思っても。
「駄目な理由なんてあるかよ」
「……」
ついと伏せられた遙の視線。それを隠すように大吾は両手を伸ばすと小さな身体を優しく抱きしめる。
「俺が保障してやっから、大丈夫だ」
腕の中の温もりがほんの僅か震える。
その些細な仕草が愛おしい。
一つ笑うように息をついてぽんぽんとその背をあやすように叩く。
そうしたら次には、腕の中小さくうんと頷く仕草。ありがとうと、消え入りそうな声。
ああと大吾は返して、静かにネオンの隙間に見える夜空へと顔を向ける。
この2人の出会いの瞬間から何一つ変わっていないだろう月。
変わったのは、此方だけ。
明王の腕の中で、龍の愛し子は声を殺して静かに哭くのだ。
その少女はずっと待っていた。
観光客でごったがえす街角で、一人でずっと待っていた。
早い時代に開かれた港町の、そこは特別にはなやかな地区で知られている。
美しく舗装された通りには、高級で洒落た、あるいは歴史をもつ商店が立ち並んで、土地の住民も訪れる者をも魅了していた。
たそがれが迫って、ガス灯を模した街灯がひとつふたつとともされても、少女はそこにいた。
花壇の端や、小さなベンチで道行く人を眺めていたが、時折ふと裏通りに入っていったり、店々のウィンドウをのぞいて歩いたりしている。
お節介な誰かに迷子と間違われて、通りの入り口にある交番にでも連れて行かれたらたまらない。
すこしずつ場所をかえて、人目をやりすごす智恵も持っている。
けれど時々、ななめにかけた鞄から携帯電話を取り出して、困った顔で見つめるのだった。
電池が切れて役にたたなくなっている。
使い捨ての充電器のことは知っているけれど、自分の財布の中身では額にいたらない。
いっそ自分から交番に行って『おまわりさん』にお願いをしようか。
携帯電話の電池を買うお金なら、貸してくれるかもしれない。
だけど、駄目。
と、少女は思いなおした。
そんなことをしたら、おじさんに迷惑がかかってしまう。
おじさんはあまり警察の人達と――相性が良くないのだ。
それに、子供の自分が一人でいることについて、きっとおじさんは『おまわりさん』に怒られるにきまっている。
うちに帰るにしても、歩いて行くには距離がありすぎた。
それに、おじさんはここでちょっとの間だけ待っていろ、と言っていたのだ。
だから自分は待っていなければ。
自分がどこかに行ってしまったら、戻ってきたおじさんがきっと心配する。
今日あうはずの人がどこに泊まるのか、聞いておけばよかった。
そうしたらそこに行って、一緒におじさんを探せるし、待っていることもできたのに。
きっとこのあたりのホテルのはずだけれど、ここには大きなホテルがたくさんありすぎて、訪ねてまわるわけにもいかない。
それにホテルの人は泊まるお客のことなど、子供には教えてくれないだろう。
少女は淡い色の携帯電話を握りしめた。
こんなちいさな電話機がうごかないだけで、自分は一人ぼっちだ。
彼女は急に悲しくなった。
おじさんはひどい、と思った。
今日あうはずの人は、もうこちらへ着いただろうか、それともまだ途中なのか。
どこからくるのだろう。やはり西の方角からだろうか。そちらへ行ってみれば、あえるだろうか。
でも、西がどちらかも、わからない。
おなかも空いたし、喉も渇いた。
自販機でジュースを買って一口だけ飲んだけれど、味もよくわからないし、なにより喉を通らなかった。
結局、缶の中身は側溝に流してしまった。
おじさんはいつ戻ってくるのだろう。
戻ったとしても、また怪我をしていたらどうしよう。
今日の夜は、楽しいことばかりになるはずだったのに。
元町ははなやかでにぎやかで、好きなところだし、おじさんとも一緒にいられる。
今日あうはずの人は、おじさんのとても少ない友達の一人で、おじさんもあのお兄さんといるときは、ちょっとうれしそうだから、自分もやっぱりうれしくなるし。
なのにやっぱり、まだここに一人ぼっちでいる。
彼女はまた、おじさんはひどい、と思った。
でもそんなことを口に出してしまえば、おじさんを困らせることくらいは知っている。
すぐに。いますぐに、おじさんが戻ってきてくれればいいのに。
いますぐに、この通りを偶然に、あのお兄さんが通りかかってくれたらいいのに。
そうしたら、おじさんのことをひどいなんて思わないし、こんなに悲しい気持ちもすぐに失せてしまうのに。
街灯も店々の明りもすっかり灯されて、通りはいっそうにぎやかに、行き来する人々の顔も幸福そうに見える。
目の前を、自分と似たような背格好の女の子がはしゃいで笑いながら、父親らしい人の腕にまとわりつきつつ過ぎていった。
とたん、少女の大きな瞳からどっとばかりに涙があふれた。
嗚咽をとめようともしないまま、彼女はその場から駆けだしていた。
週末なので、混むのはどうしても。
訊ねてもいないのに、タクシーの運転手は説明する。
あの海沿いの公園はこの土地では必ず数えられる観光名所で、中華街と元町通りもすぐ近く。
車線がなかなか進まないのは、駐車場の空きを待つ車の列が、車道の片側半分を埋めてしまっているからだとも、言った。
理由なぞはどうでもいい。
ここで降りて歩きにするかと、その乗客は――彼は――考え始めていた。
まったく関東もんはのろくさい。
車ひとつ転がすのに、どれだけぐずぐずすれば気が済むのか。
目的のホテルまではどれほどかと聞くと、あと一キロ程度だと言う。
ならばみずからの足を使ったほうが、はるかに早い。
最高額の紙幣がコンソールボックスに放り投げられる。
運転手が慌てて釣りを数えようとしたときには、彼はもう公園通りに降り立っていた。
道筋の木の間がくれに夜の海が眺められ、貨物船だろうか、遠い沖を往く船のあかりが点滅している。
季節の盛りはすぎても、海から吹く風には、潮の香りもいまだ濃い。
宵の口で往来も賑わしいが、人ごみをうろつくつもりは端からありはしなかった。
物見遊山に来たわけではないのだし、時も限られている。
到着するつもりであった時刻をずいぶん過ぎていた。
ホテルのロビーにいろと言ったが、子供連れであるし、辛抱強く待ち続けるのも難しかろう。
ならば連絡のひとつくらいよこせばいいのだ。それくらいしても罰はあたるまい。
関東もんはぐずなだけなく要領も悪いのか。救いようがないな。
やにわに子供の泣き声が、目的の方角から聞えてきた。
うるさい。迷子か。
舌打ちをして、向けた視線の先の光景に、彼はすこしだけ目を見張った。
声をあげて泣きむせびながら、少女が駆けて来る。
「遥やないか」
低くてよく響く声を、彼女は耳ざとくとらえ、立ちすくんだ。
こすりすぎて赤くなった頬を、さらにこすりあげながら、悲鳴のように叫ぶ。
「龍司のお兄さん!」
体ごとぶつかるようにして、しがみついてきた。
そして、おじさんが戻ってこないよ、と続けて、またひとしきり号泣する。
「ああ、なるほどなあ」
すぐに得心がいったようで、彼はにがい顔つきをしてみせた。
泣きやんだら世界が終わるとでもいうように、ずっと涙をながしている。
足元もおぼつかなくて、すぐにつまづいたりよろけたりするので、抱きあげて連れていくことにした。
だいたい港町というものは、柄が悪いものと相場は決まっている。
人も物も出入りが頻繁だから、商売人は集まるし、それに惹かれた人間がさらに集まる。
港湾労働者はもとより荒くれで、おまけにここには基地もあって、中華系マフィアの温床でもあった。それにやくざも、もちろん。
いくらハイカラな歴史を宣伝し、物見高い観光客が集まるようになっても、変わりはない。
そのうえに本人がいくら否定しようとも、堅気とはおもえぬ外見で危なっかしい空気をまとっていれば、いやでも虫けらにまとわりつかれよう。
まともに取りあわなければいいものを、それでも相手にしてしまうというのは、おとなげないとは言えはしまいか。
たかだか八つ程度の差を、なにかのたびごとに言われはするが。
なんのことはない。していることに、あまり違いなどないのだった。
みつけたのは、元町通りからたいして離れていない山手側の、ちいさな神社の敷地である。
倒れ伏してうめいているのは、いでたちからしていかれた不良で、こんなものに時間をかけて一体なにをしていたのか。
「遥、おじさんおったで」
わざとそう言ってやったら、案の定、不快そうにふりむいた。
まるでこちらが悪いとでもいうような顔つきである。
実際は、みっともないところを見られて悔しいからであろうが。
ざまをみろ、と彼は思った。
「なんでお前ここに――」
と、相手はそこまで口にして、そしてやめる。
あたりまえだ。それはこちらの台詞だろうが。
まだうめいたり、失神したままだったりしている、邪魔くさいのを蹴り飛ばしながら近づいたら、もっといやな顔をされた。
「……遥」
"おじさん"が、まだぐすぐすとしゃくりあげている少女に手をのばす。
だが彼女はその手を乱暴に跳ねのけ、驚くべき手酷い拒絶をしてみせたのである。
「おじさんなんかしんじゃえ!」
ざまをみろ、とまた彼は思った。
火のついたように、というものはこういうものかと、桐生は考えた。
大阪から来た男にしがみついたまま、文字通り声が枯れるまで泣き続けて、いまはもう気管の働きも普通でないのか、ひっきりなしにしゃくり上げている。
そのうちにひきつけでもおこすのではないか。もしや何かの病気ではないかと、不吉な想像さえ浮かんでくるのだった。
建物の最上階に位置する、あまりにも贅沢で滑稽なほど広い部屋である。
こういう所に宿泊するためには、どれだけの費用がかかるのか、それは知らないが。
港と公園を一望できるリビングに、大の男が二人と子供が一人。
その誰もが不愉快な気持ちでいる。
たいしたことではない。ただの不良同士の喧嘩だと思った。
目があったらこちらにもからんできたので、つい。
「"つい"で、日ぃ暮れるまで遥おきざりか」
すぐに片づけるつもりだったのが、なにか、対立するチーム同士で人質をとるような、物騒なことをしているらしい。
からまれていた方の少年が、仲間を助けて欲しいと懇願してきたので。
「うすらばかの一人や二人、死なせとけ」
「おい、子供の前でそんな言いぐさ――」
その子をひどく悲しませたのは誰だと、自問して彼はまた口をつぐむ。
本気ですぐに戻るつもりだったと、そんな女々しい言い訳をしてどうなる。
ソファの背もたれから、金髪がずるずると下がっていった。
なにごとかと後ろから覗きこむと、ほとんどあお向けになりながら見上げてきて、
「寝てもうた」
男の広い胸に、小柄でほっそりした子が乗っている。
眠るのに苦しくないよう、体勢を水平に近くしてやったのか。
妙なところで気が利きくんだな、と少しばかり感心してやったのもつかの間。
「たいして動いてもおらんのに、くたびれたわ」
これっぽっちもくたびれていないくせに、そんな嫌味を言う。
すまないと思っているのは、子供に対しては無論のことだし、お前にも。
とは、こんな場合はやはり言っておくべきなのか。
前髪がおちてくるのを鬱陶しがって、だが小さな子が起きてしまうと身動きしないでいる。
しかたないので、その髪をかき上げてやったり、煙草に手が届かないと言えば、火もつけてやったり。
始末しろと言わんばかりに顎をつきだしてきたので、今度はくわえている煙草を取り上げて消してもやる。
「苦労しとるな」
「苦労なんぞと思っちゃあいねえぞ」
「遥が、や」
それくらい、改めて指摘されずとも、骨身にしみている。人並の幸せもあたえてやれない、自分のふがいなさも。
たいていの皮肉は聞き流せるが、ことこの少女に関しては、たとえお前にも軽々しいことを言われる筋合いはない。
半ば本気で腹をたてかけたが、郷田龍司はひるむことなく、さらに軽蔑に近いあきれたような視線をむけてきた。
「遥の泣いたんの、はじめて見たわ。あんたも滅多に見よらんやろ」
「……」
「千石とこで最初にみたときから、けったいな子ぉや思うとったわ。さわられたちゅうのに、泣きもわめきもせんと」
「おそろしくて、泣く余裕もなかったんだろうが」
「そうかもしれんなあ。せやけど、そのあとはどうやろな」
「――なにが言いたいんだ」
「ワシ、遥の目の前で千石のやつ始末したからな。そのあと会ったとき――神戸んときや――遥、なんて言うたか覚えとるやろ」
夏休みを使って神戸を訪れて、そしてそこで再会した龍司に遥は言ったのだ。
助けてくれてありがとう、と。
遥を人質にされ、桐生一人ではどうにもならぬ窮状を救ったのは間違いなく龍司であるが、その方法は極めて残虐であった。
そういうことをした人間に、助けてくれてありがとう、と……。
理にかないすぎることを普通にする、その理のかないすぎが奇妙だと龍司は言う。
「それから、あれやな。その後のこともこないだ聞いたな。怖わない、言うたってやつや」
千石を殺めた龍司が去ったあと、ようよう桐生は遥のいましめをといてやり、自分のせいでおそろしい目にあわせてすまない、とそう言った。
しかし遥は黙って首をふるだけであった。
「それは俺を――」
「困らせとうなくて、したくらいは分かるわ」
「そういう性格なんだ、こいつは。それぐらい、俺だって知ってるさ」
らしくなく、慌てた調子になったのは、もうこの話を切り上げたかったからだ。
何を伝えようとしているのかは、うすうす察しもついている。
黙れと言っても、たぶん黙らないことも。
「捨てられる思うとんのやろ。どんだけおっかない思いしても、平気て答えとったらあんたが心配せんで済むてな。それならずっと一緒におられるて考えとるのや」
泣き寝入った子を抱きかかえながら、そろりと龍司は体を起こした。
少女の意識はまったく眠りの中に埋没して、体は人形のように、されるがままにくたくたとしている。
涙の乾いたあとが、頬に薄く残っているのが哀れであった。
寝室にねかせにいったのであろう、いったんリビングを出て、戻ってきたときには一人だった。
「風呂にはいる」
聞いてもいないのに尊大なふうに宣言する。
「遥、あいつ、涙やらよだれやらワシの首んとこで拭きよって、なんや痒うなったわ。まあ、あんたので慣れとるけどな」
わざとらしくうなじのあたりを掻きながら、ふたたび出ていった。
もともと口達者なうえ、人を挑発するような悪態は特別に得手。そうやって相手の感情を引っかきまわして喜ぶ性格なのだ。
それでも、ようやくいつもの調子に戻ってくれて、正直なところほっとしている。
(朝ごはんを作らなくてすむのは楽だなあ)
と、少女は目の前に並べられた卵やベーコンやトーストしたパンや、その他の皿を眺めつつ思った。
めざめた時にはとてつもなく広いベッドにいて驚いたけれど。
おじさんも龍司のお兄さんも、ちゃんとリビングにいたし。
朝からお風呂にはいって、出てきたときにはホテルの人が、この沢山の朝食をダイニングに運び込んでくれるところだった。
ゆうべ散々に泣きわめいて、まぶたが腫れぼったい。
おじさんにむかって、なにかひどい事を言ったような気がするけれど、あまり覚えていない。
大阪からきたお兄さんにしがみついて、ずっと泣いて、次に気がついたら朝になっていたのだもの。
けれどおじさんは、そのことは何も言わない。
怒ってはいないのはわかるし、怒るどころか自分に泣かれてしまって、とても困ったのだろうなと思う。
そのうえお兄さんには叱られて、きっと照れくさいんだろう。
おじさんを叱ることのできる大人のひとなんて、このお兄さんくらいだ。
おじさんより年下のはずなのに、へんなの。
――いつもは、あんまりにわがままをすると、おじさんを困らせてしまうから、言わないようにしている。
そのかわり、時たま会うこのお兄さんには、おじさんのぶんまでわがまま勝手をしてしまうのだった。
他人に迷惑をかけるな、とおじさんも言うし、学校でも先生が言っていたけれど。
お兄さんにわがまま勝手をいうのは、迷惑にはならないみたいだ。
だって、自分がそうすることを、おじさんも許してくれているようだし。
なによりも、おじさん自身が嬉しそうだ。
いいことずくめなのだから、おじさんはもっとお兄さんと会えばいいと思う。
けれど大人になると、子供には想像できない色々なことがあって、簡単にはいかないらしい。
「ねむいの? おじさん」
早々に食事を終えた"おじさん"は、新聞を読みながらあくびをかみ殺している。
「きのう不良をやっつけたから、疲れてるの?」
「いいや、そうじゃあ――」
「おじさん、ゆうべはずっと喧嘩しっぱなしで、まともに寝とらんのや」
と、『おじさんの友達』が横合いから説明してくる。
「ほんとう? 龍司のお兄さんと? もう仲なおりした?」
「したした。おじさんもうすっきりして、機嫌ええで」
お兄さんは悪いことなんて言っていないのに、おじさんは少しだけど本気で怒って、龍司だまれ、と言った。
仲なおりしたというのは、ほんとうなのだろうか。
お兄さんは平気そうな様子だから、きっと大丈夫なんだろう。
そういえば――と彼女はきのうは言いそびれていたことを思い出した。
いま伝えておかないと、また同じ事を繰り返すにきまっている。
「おじさんも、龍司のお兄さんも、自分から携帯かけるといいよ。きのうもおじさん、龍司遅い遅い、って文句言ってたけど、電話はかけなかったし。お兄さんからもかかってこなかったし。どっちも待ってないで、電話かけるといいと思う」
そう言ったら、二人とも顔をみあわせて、同時に
「ああ」
と声をあげた。
今はじめてそれに気がついて、心底から驚いているらしかった。
やっぱり。
少女は納得して、それでだいぶ満足できた。
オレンジジュースは絞りたての100パーセントだし、目玉焼きもベーコンもおいしい。
今日はいい日になりそうである。
終