月に哭く ~side:遙~
かくりと窓辺まで椅子を引っ張ってきて座る遥の首が揺れる。
窓枠に身体を寄りかからせて大きく開いたソコから夜空を見上げている目は、ほんの僅か潤んでネオンの明かりと朧な月明かりを映していた。
「……ん、」
大きな目を閉じさせようとしている睡魔を追い払うように目を擦る。
「遥ちゃん、風邪引くぜ?」
「…う、ん。大丈夫だよ、大吾お兄ちゃん」
「ってもなぁ…遥ちゃんに風邪引かせたなんて事になったら、お袋にも桐生さんも俺があわせる顔がねぇよ」
「弥生のおばさんも怒るの?」
参ったなと首の辺りを摩りながら組長である自分用の机に腰を寄りかからせた大吾は、くるりと向いた視線に苦笑いを向ける。
「そりゃ、引っ叩かれる」
「ホント?」
「いや、ケリが入るかもしれねぇ」
「嘘だぁ」
「ホントだぜ?」
そう言ってにやりと向く大吾の視線の意味を覚って、遥は声を上げて笑う。
「やっぱり嘘だよ。弥生のおばさんがそんな事するはず無いもん」
「遥ちゃんには甘いからなぁ…俺なんて扱いひでぇんだぜ」
「それはきっと、大吾お兄ちゃんが悪いんだよ?」
きいと軽い音を立てて遥は座るふかふかの椅子を回して大吾に向き直る。
まるで幼子を諭す大人のような声色。
向いた大きな目は、何処までもただ真っ直ぐ。
「…っ、え?」
思いがけない遥の物言いに思わず言葉を失う大吾のその、可愛いと言いたくなる顔にくすくすと遥が笑えばああなんだ冗談かと気付いて大吾も吹き出すように笑う。
「ひでぇなぁ」
「だってぇ」
「なんだか遥ちゃん、…お袋に似てきたぜ?」
「…え?本当に??」
「似てきた似てきた。どうする?将来ウチのお袋みたいに極道の妻、とかになってたら」
勿論、親代わりである桐生がそんな事を許すはずが無い。
桐生にとっての極道という世界は、もう拭いようが無いほど自分の場所になっている。
けれどこの少女は、まだ何にも染まっていないのだ。
だからこそ、当たり前で平凡な優しい未来を用意してやりたい。
誰憚る事無く日の下を歩いていける、そんな生き方。
「…ねぇ、大吾お兄ちゃん…」
ふいと先ほどまでとは違う遥の口調に、冗談だと笑おうとしていた大吾は言葉を止める。
椅子に座って、開かれた窓からの派手なネオンを背に自分を見るまだ幼い少女。
似つかわしくない2つは、けれど遥の向ける何処か大人びた表情で奇妙な合致をしていた。
「桐生のおじさんは、何時か大吾おにいちゃんみたいに組長さんになるの?」
「桐生さんが?」
「……うん」
「え?…わかんねぇけど」
「なるのかなぁ…」
ぽふりと深く椅子に身体を預け、溜息のように言って視線を伏せる。深く座った事で浮いた足がなんとも言えないもどかしさを現したように揺れる。
「…なんで突然そんな事言うんだ?」
先ほど一瞬見せた、酷く大人びた表情。
それでいて今見せている、年相応の仕草。
戸惑うように大吾は遥を見る。
周囲に遙と同じ年頃の子供が居ないからかもしれないけれど、と思う。
このくらいの女の子は、こんな風に二面性をもっているのだろうか。
自分がこの歳の頃は間違いなくもっと子供だった。
「ん、とね…お月様…」
「月??」
またきいと軽い音を立てて遙は椅子ごと窓へと身体を向け、少しだけ首を伸ばして空の高いところで浮かぶ月へと顔を向ける。
「あのね、大吾おにいちゃん」
「ん。なんだ」
「私がね、初めて桐生のおじさんと会った夜も、こんな風に月が綺麗だったんだよ」
あの夜も、やっぱり見上げればこんな風にまあるい月が小さく浮かんでいた。
むせ返るほどの色の洪水のずっとずっと奥で、ひっそりと光っていた月。
ソレを一人で見上げるのは、ほんの少し寂しかった。
ひまわりに居れば誰かが隣に居た。もっと昔、掠れた記憶の中では、誰かに抱かれて月を見た。
だから余計に、たった一人きりで見上げる月はどれだけ自分が孤独なのかを実感させられた。
「おじさんを見上げたら、その後ろに月があったの」
「……」
「それでね、おじさんが私のお母さんを知ってるって聞いた時、嬉しかったんだ…」
何を言いたいのだろうと、僅かだけ大吾は眉を寄せる。
人伝に聞いた桐生と遙の出会った経緯と2人の関係。
複雑に絡んで、大吾にとっても忘れられない事件の結末に繋がった始まり。
「ねぇ、大吾おにいちゃん」
くるりと遙が大吾を振り返る。
「ああ」
「こうやってね、大吾おにいちゃんとお月様が見れるのも私、嬉しいよ」
本当だよと小さく幸せそうに笑うその姿に、どうしてか切なさを感じる。
まだ10歳を少し過ぎたばかりの、幼い少女の笑み。
屈託の無いはずのそれが孕むのは、大人の女ほどの想い。
とくりと、大吾の中で何かが震える。
――あれ、これはどんな感情だ?――
「きっと真島のおじさんとか伊達のおじさんと見ても嬉しいと思うんだ」
優しい優しい人たち。
多分自分に見せている顔が全てではないのだろうけれど、それでも笑って自分の名前を読んで頭を撫でてくれる。
嬉しい。
あの時の泣きたくなるほどの一人ぼっちな自分が消えていく気がする。
だけど、あの時自分に手を差し伸べてくれたあの人には誰も敵わない。
なんでだろう―――。
悲しくなるくらいに、不思議だ。
「でもね、…だけどね…」
ふわりと、大吾の手が伸びて遙の頭を撫でる。そうしてからゆっくりと隣に並び、くいと上半身を窓から出して月を見上げた。
遠い天に浮かぶ月。
龍が舞う天を照らす、柔らかな光。
「良いんじゃねぇか」
「…大吾、お兄ちゃん?…」
自分を撫でるこの手は、酷く暖かい。
だから、泣きたくなってしまう。
「…良いのかな…」
ずっと一緒に、月を見ていたいと思っても。
「駄目な理由なんてあるかよ」
「……」
ついと伏せられた遙の視線。それを隠すように大吾は両手を伸ばすと小さな身体を優しく抱きしめる。
「俺が保障してやっから、大丈夫だ」
腕の中の温もりがほんの僅か震える。
その些細な仕草が愛おしい。
一つ笑うように息をついてぽんぽんとその背をあやすように叩く。
そうしたら次には、腕の中小さくうんと頷く仕草。ありがとうと、消え入りそうな声。
ああと大吾は返して、静かにネオンの隙間に見える夜空へと顔を向ける。
この2人の出会いの瞬間から何一つ変わっていないだろう月。
変わったのは、此方だけ。
明王の腕の中で、龍の愛し子は声を殺して静かに哭くのだ。
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