2度目
狭山が桐生と付き合うようになって数ヶ月が過ぎた。
お互い、多忙の身であり、しかも長距離を行き来する仲はあるが、その交際はおおむね良好だった。
あの神室町ヒルズの大々的な事件が過ぎ去ってから数日はお互い忙殺されたが、今は平和な時間を味わうように逢瀬を繰り返している。
どちらかと言うと、桐生の方が時間に都合をつけて大阪に出向いてくれることが多かった。
狭山も都合さえつけば、東京に出向き、短い時間でも桐生と会うことに時間を惜しまなかった。
会う度に胸がときめき、頬が熱くなる。
それは相手も同じだった、会うたびに笑顔を、抱擁を、そしてかけがえのない時間をくれる。
もうじき付き合いだして初めてのクリスマスを迎える。
その時自分はどんな服を着よう。
彼はどんな台詞を言うだろう。
自分たちはどんな時間を過ごすだろう。
狭山は手帳を見ながらひっそりと微笑んだ。
「今年のクリスマスね、女の子同士で集まってパーティーしようか、って言ってるの?」
「えっ?」
遥の言葉に、桐生は一瞬租借を忘れた。
遥は味噌汁を軽く啜ってから、椀をテーブルに置いた。
「だからね、泊まりがけのパーティーなんだけど、行ってもいいかなあ? おじさん?」
少し甘えるように首を傾げる遥の表情に、桐生は無意識に相好を崩した。
「相手の親御さん、何て?」
「うん。どうぞどうぞって。それに泊まるの私だけじゃないんだよ。みんなで5人! 集まってー、プレゼントの交換してー、それで、朝に皆でマック行くの! ミスドでもいいけど」
「いいな、楽しそうだ」
定職を持ち、住所と一定させてから、遥には友達がぐっと増えた。
そして毎日楽しそうに学校に通っている。
その姿を桐生はとても嬉しく、そして誇らしい気持ちで見つめていた。
今までは孤児院のヒマワリでパーティーを開いていたんだろうが、今年は友達だけのパーティーになる。
もちろん、遥の性格だからヒマワリにも顔を出すのだろうけど。
「じゃあプレゼント買う金がいるな。それに、向うの親ごさんに挨拶もしとかねえと――」
「うん。それは、その日が近くなったら言うね」
「ああ、俺、忘れっぽいからな。しつこく言ってくれよ?」
遥はそこで不意に真顔になった。「うん」
「おじさんは忘れっぽいからね。ちゃんと言う」
桐生は遥が眠ってから、狭山に電話をかけた。
深夜だが、彼女は起きていた。
クリスマスの日を空けておいてくれという電話に、狭山は恥ずかしそうに笑った。
「仕事が入るかも。約束できへんよ」
「終わってから、会えばいい」
泊りがけで大阪に行くことを告げて、桐生は電話を切った。
学校帰りの通学路。
遥は一人の男に声をかけられた。
「遥!」
「伊達のおじさん!」
遥は何人かの友達と一緒に下校している途中だった。
少女達の目に射抜かれて伊達がたじたじと竦む。
「あ、いやあ……怪しいモンじゃねえ……」
おろおろと弁明する伊達に遥が笑った。友達の方を見て軽く説明する。「ちょっと、ゴメン」
「親戚のおじさんなの。会ったの久しぶりだからちょっとお話してく」
「あ、そうなんだ」
友達たちは伊達を品定めするような目で見たが、すぐににっこり笑って手を振って別れた。伊達は安堵の息を吐く。
変質者のレッテルは貼られなかったようだ。
「伊達のおじさん! 久しぶり!」
遥は嬉しそうに伊達の足元にすがった。
伊達も遥の頭を撫でながら話かける。
「おう。ちょっとこのヘンぶらぶらしててな。どうだ? ドーナツでも食うか?」
「食べるー!!」
伊達は遥と手を繋いでドーナツショップへと入った。
「伊達のおじさん、こんな時間にぶらぶらしてるってことは働いてないの?」
遥はストロベリー・チョコ・ディップドーナツをわしわしと食べながら伊達に問う。
「きつい質問をありがとうよ」
伊達はコーヒーを一口飲んで笑った。
「今は須藤の助手みてえな事をやってるけど、まあ、実質ヒモみてえなモンかな?」
「ひもって?」
屈託のない聞き返しに伊達が口に手を当てた。「あ、いや――」
「須藤の仕事を手伝ってる。……全然働いてねえわけじゃねえぞ?」
「うん。それは分るよ。伊達のおじさんて仕事してないの似合わないもん」
「そうか?」
「そうだよ」
遥は2個目を手にとった。今度はフレンチ・クルーラー。
「前だってそうだったじゃない? すごく頑張ってくれた」
「前?」
伊達はオールド・ファッションにかりっと歯を立てながら聞き返す。
しばし、遥は伊達の目を見た。「ミレニアムタワーで」
「伊達のおじさんがいなかったら、おじさん、刑務所に入ってたんでしょ?」
「それは――」
いきなりの昔話に伊達が戸惑う。
「私最近よく思うの。あの時伊達のおじさんがあそこに居なかったら、もう何もかもが全部違ってたんだろうなって」
遥は指についたクリームを軽く舐めた。
「だってあの時おじさんは何もかも投げてたから」
「まあ、あの状況じゃな」
伊達は苦笑した。笑い話にするために。
正直、母親が目の前で死んだという局面で、遥がそこまで桐生のことを観察できていると思っていなかった。
「伊達のおじさんが怒鳴ってくれたから、おじさんは思いとどまったの」
「いやあ、俺なんか居なくて、拘束された段階でいくらでも申し開きできたぞ?」
遥は2個目のドーナツを完食してから言った。「おじさんは、そのことを一生覚えておくべきなの」
「伊達のおじさんに助けてもらったことを。でも、忘れてる」
「いや、そんなことねえだろ?」
伊達は焦って言い返した。
だが、遥は頑なに言い張った。「忘れてるの!」
「それが時々、すごく嫌な気持ちになるの……私、おかしいのかな?」
遥は潤んだ瞳で伊達を見上げた。
伊達は寂しそうに笑い、遥の頭を撫でた。「俺ぁ、そんなたいそうなことしたわけじゃねえしな」
「それにお前にそんなに感謝されてるってだけで、もう、胸いっぱいだ」
遥はそれでも、悔しそうに唇を噛んだ。
「でも」
「それに桐生は十分俺に対していいやつだから」
伊達は笑って遥の頭を撫で続けた。
遥は暫く難しい顔をして俯いていたが、やがて静かに笑った。
「遥ちゃん、久しぶり!」
「薫さん?」
帰宅すると、狭山が台所に立っていた。
「ちょっと休みが取れたから、こっち来てたの。晩御飯、もうすぐできるから」
桐生の姿はまだない。
「おじさん、もう少ししたら帰って来ると思うんだけど……」
「うん。電話でそう言ってた」
台所からはクリームシチューのいい匂いが漂っている。
けれど、遥は食欲がなかった。
それは先ほど食べたドーナツのせいだけとは思えなかった。
遥はリビングのテーブルで宿題のノートを広げた。
「一馬が帰って来たらみんなで食べようね?」
笑顔で振り返る薫に、遥は申し訳なさそうに返した。「……ごめんなさい」
「私、お風呂の後に食べます。今、あんまりおなか空いてなくて」
「あら? どうしたの?」
狭山はエプロンで手を拭きながら遥の側に寄った。
「食欲ないのかな?」
「ううん。さっきミスド行ってたの。伊達のおじさんに会って」
「伊達……?」
狭山は軽く首を傾げて、ああ、と言った。「父さんの部下だった人ね」
「あの、伊達さん? でも、何で伊達さんとミスドなんて?」
「偶然会って、お茶してたの」
「そうなの? いつも?」
「ううん。たまたま」
「そっか、じゃあ、おなか空いたらいっぱい食べてね」
「うん」
遥はノートに漢字の書き取りをしながら言った。「ねえ、薫さん」
「おじさんと居る時、おじさんは伊達のおじさんの話する?」
「ええ?」
台所で狭山は大きく聞き返した。
「ううん。その人の名前あんまりきかないわ。伊達さんがどうかした?」
「うん」
曖昧な遥の態度に、狭山は再び遥に寄り添った。先ほどよりも勢いよく。
「どうしたの? まさか、ヘンなことされたの?」
「バカなこと言わないで!!!」
遥が怒声を上げる。
「何でそんな風に思うの?」
「ご、ごめんなさい……でも、あなたの雰囲気がその……心配で……」
遥ははっとしたように黙った。
だが、すぐに言った。「ごめんなさい……」
「でも、どうして言ってないのか、腹が立って……」
「え?」
「おじさんはね、伊達のおじさんが居てくれたからこの町で暮らしていけるの」
「……え?」
「ミレニアムタワー爆破事件……」
狭山の目が静かに見開かれた。
「私もおじさんもあの場所に居たの。おじさんは、色々なことに関係してるの。もちろん悪くはないよ。でも、あの時おじさんは、すごく投げやりになって……刑務所に入れてくれって自分で言ったの。もう出てこられなくなるの分かってて……私のことだって、もう……」
「まさか……」
「それを守ってくれたのが伊達のおじさんなの」
遥は顔を上げた。
「おじさんを怒って、助けてくれたの。私、新聞を読んだけど難しすぎて書いてることはよく分からなかった。でも、本当に悪かった人を悪く記事にしていたと思う。……あれは、伊達のおじさんのおかげなの」
狭山は血が引くのを感じた。
あの記事。
遠く離れた関東の事件ではあったが、警察庁出身官僚の告発された記事は記憶に残っていた。警察機構における汚点であり、最大のすっぱ抜きだ。その緻密な証拠や実績の検証には内部告発の動きを感じてはいたが。
同じ警察という機関に身を置く狭山には、伊達のしたことが、いかに真摯であり、そして同時に大それた行為であるかが分った。
もう、二度と警察で仕事はできまい。
告発自体命がけだっただろう。
桐生の友人であり、父親の部下。
そんな程度の知識しかなかった狭山は不穏なものを感じた。
一介の友人がそこまでのことをするはずがない。
もしや、伊達は桐生に対して何か特別な感情を――。
「でも、おじさんはそれを忘れてる」
遥の静かな声が狭山を考えから呼び戻した。
「それだけじゃない! 2回!! 同じ事を2回も!!!」
「2回?」
聞き返す狭山に遥は挑戦的に言った。
「あなたもそこに居た!」
狭山は頬が熱くなるのを感じた。
あの屋上。
神室町ヒルズでキスを交わしながら、死ぬことを決めたあの瞬間を。
「おじさんは人の人生を奪って生活してるの! どうしてそれが分らないの? どうしてそんなに簡単に死のうとしたのよ!!」
狭山は何も言葉出ず、ただ遥に圧倒されていた。
遥はすでに落ち着いていて、静かな声で言った。「伊達のおじさんもあの時あのヘリに乗ってたの。あの時の悲しそうな顔、私、忘れられない」
「私、おじさんのこと好きだよ。狭山さんも」
息を吸って、吐いて、遥の目に凄みが増した。
「でもね、あなたたちの幸せは誰かの不幸せの上に成り立ってるの。私はそれを少しでも覚えておいて欲しいの」
アパートの階段を駆け上がる音が聞こえる。
おそらく桐生だろう。
遥は音の方を見て、言った。「おじさんは忘れっぽいから」
「狭山さんだけでも覚えておいてね」
玄関のドアが開いて、ただいまと言う声が聞こえた。桐生だった。
「お、いい匂いだな」
嬉しそうに言って入って来る男に、遥はおかえりと言った。
狭山は、なかなか声が出せなかった。
fin
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