その少女はずっと待っていた。
観光客でごったがえす街角で、一人でずっと待っていた。
早い時代に開かれた港町の、そこは特別にはなやかな地区で知られている。
美しく舗装された通りには、高級で洒落た、あるいは歴史をもつ商店が立ち並んで、土地の住民も訪れる者をも魅了していた。
たそがれが迫って、ガス灯を模した街灯がひとつふたつとともされても、少女はそこにいた。
花壇の端や、小さなベンチで道行く人を眺めていたが、時折ふと裏通りに入っていったり、店々のウィンドウをのぞいて歩いたりしている。
お節介な誰かに迷子と間違われて、通りの入り口にある交番にでも連れて行かれたらたまらない。
すこしずつ場所をかえて、人目をやりすごす智恵も持っている。
けれど時々、ななめにかけた鞄から携帯電話を取り出して、困った顔で見つめるのだった。
電池が切れて役にたたなくなっている。
使い捨ての充電器のことは知っているけれど、自分の財布の中身では額にいたらない。
いっそ自分から交番に行って『おまわりさん』にお願いをしようか。
携帯電話の電池を買うお金なら、貸してくれるかもしれない。
だけど、駄目。
と、少女は思いなおした。
そんなことをしたら、おじさんに迷惑がかかってしまう。
おじさんはあまり警察の人達と――相性が良くないのだ。
それに、子供の自分が一人でいることについて、きっとおじさんは『おまわりさん』に怒られるにきまっている。
うちに帰るにしても、歩いて行くには距離がありすぎた。
それに、おじさんはここでちょっとの間だけ待っていろ、と言っていたのだ。
だから自分は待っていなければ。
自分がどこかに行ってしまったら、戻ってきたおじさんがきっと心配する。
今日あうはずの人がどこに泊まるのか、聞いておけばよかった。
そうしたらそこに行って、一緒におじさんを探せるし、待っていることもできたのに。
きっとこのあたりのホテルのはずだけれど、ここには大きなホテルがたくさんありすぎて、訪ねてまわるわけにもいかない。
それにホテルの人は泊まるお客のことなど、子供には教えてくれないだろう。
少女は淡い色の携帯電話を握りしめた。
こんなちいさな電話機がうごかないだけで、自分は一人ぼっちだ。
彼女は急に悲しくなった。
おじさんはひどい、と思った。
今日あうはずの人は、もうこちらへ着いただろうか、それともまだ途中なのか。
どこからくるのだろう。やはり西の方角からだろうか。そちらへ行ってみれば、あえるだろうか。
でも、西がどちらかも、わからない。
おなかも空いたし、喉も渇いた。
自販機でジュースを買って一口だけ飲んだけれど、味もよくわからないし、なにより喉を通らなかった。
結局、缶の中身は側溝に流してしまった。
おじさんはいつ戻ってくるのだろう。
戻ったとしても、また怪我をしていたらどうしよう。
今日の夜は、楽しいことばかりになるはずだったのに。
元町ははなやかでにぎやかで、好きなところだし、おじさんとも一緒にいられる。
今日あうはずの人は、おじさんのとても少ない友達の一人で、おじさんもあのお兄さんといるときは、ちょっとうれしそうだから、自分もやっぱりうれしくなるし。
なのにやっぱり、まだここに一人ぼっちでいる。
彼女はまた、おじさんはひどい、と思った。
でもそんなことを口に出してしまえば、おじさんを困らせることくらいは知っている。
すぐに。いますぐに、おじさんが戻ってきてくれればいいのに。
いますぐに、この通りを偶然に、あのお兄さんが通りかかってくれたらいいのに。
そうしたら、おじさんのことをひどいなんて思わないし、こんなに悲しい気持ちもすぐに失せてしまうのに。
街灯も店々の明りもすっかり灯されて、通りはいっそうにぎやかに、行き来する人々の顔も幸福そうに見える。
目の前を、自分と似たような背格好の女の子がはしゃいで笑いながら、父親らしい人の腕にまとわりつきつつ過ぎていった。
とたん、少女の大きな瞳からどっとばかりに涙があふれた。
嗚咽をとめようともしないまま、彼女はその場から駆けだしていた。
週末なので、混むのはどうしても。
訊ねてもいないのに、タクシーの運転手は説明する。
あの海沿いの公園はこの土地では必ず数えられる観光名所で、中華街と元町通りもすぐ近く。
車線がなかなか進まないのは、駐車場の空きを待つ車の列が、車道の片側半分を埋めてしまっているからだとも、言った。
理由なぞはどうでもいい。
ここで降りて歩きにするかと、その乗客は――彼は――考え始めていた。
まったく関東もんはのろくさい。
車ひとつ転がすのに、どれだけぐずぐずすれば気が済むのか。
目的のホテルまではどれほどかと聞くと、あと一キロ程度だと言う。
ならばみずからの足を使ったほうが、はるかに早い。
最高額の紙幣がコンソールボックスに放り投げられる。
運転手が慌てて釣りを数えようとしたときには、彼はもう公園通りに降り立っていた。
道筋の木の間がくれに夜の海が眺められ、貨物船だろうか、遠い沖を往く船のあかりが点滅している。
季節の盛りはすぎても、海から吹く風には、潮の香りもいまだ濃い。
宵の口で往来も賑わしいが、人ごみをうろつくつもりは端からありはしなかった。
物見遊山に来たわけではないのだし、時も限られている。
到着するつもりであった時刻をずいぶん過ぎていた。
ホテルのロビーにいろと言ったが、子供連れであるし、辛抱強く待ち続けるのも難しかろう。
ならば連絡のひとつくらいよこせばいいのだ。それくらいしても罰はあたるまい。
関東もんはぐずなだけなく要領も悪いのか。救いようがないな。
やにわに子供の泣き声が、目的の方角から聞えてきた。
うるさい。迷子か。
舌打ちをして、向けた視線の先の光景に、彼はすこしだけ目を見張った。
声をあげて泣きむせびながら、少女が駆けて来る。
「遥やないか」
低くてよく響く声を、彼女は耳ざとくとらえ、立ちすくんだ。
こすりすぎて赤くなった頬を、さらにこすりあげながら、悲鳴のように叫ぶ。
「龍司のお兄さん!」
体ごとぶつかるようにして、しがみついてきた。
そして、おじさんが戻ってこないよ、と続けて、またひとしきり号泣する。
「ああ、なるほどなあ」
すぐに得心がいったようで、彼はにがい顔つきをしてみせた。
泣きやんだら世界が終わるとでもいうように、ずっと涙をながしている。
足元もおぼつかなくて、すぐにつまづいたりよろけたりするので、抱きあげて連れていくことにした。
だいたい港町というものは、柄が悪いものと相場は決まっている。
人も物も出入りが頻繁だから、商売人は集まるし、それに惹かれた人間がさらに集まる。
港湾労働者はもとより荒くれで、おまけにここには基地もあって、中華系マフィアの温床でもあった。それにやくざも、もちろん。
いくらハイカラな歴史を宣伝し、物見高い観光客が集まるようになっても、変わりはない。
そのうえに本人がいくら否定しようとも、堅気とはおもえぬ外見で危なっかしい空気をまとっていれば、いやでも虫けらにまとわりつかれよう。
まともに取りあわなければいいものを、それでも相手にしてしまうというのは、おとなげないとは言えはしまいか。
たかだか八つ程度の差を、なにかのたびごとに言われはするが。
なんのことはない。していることに、あまり違いなどないのだった。
みつけたのは、元町通りからたいして離れていない山手側の、ちいさな神社の敷地である。
倒れ伏してうめいているのは、いでたちからしていかれた不良で、こんなものに時間をかけて一体なにをしていたのか。
「遥、おじさんおったで」
わざとそう言ってやったら、案の定、不快そうにふりむいた。
まるでこちらが悪いとでもいうような顔つきである。
実際は、みっともないところを見られて悔しいからであろうが。
ざまをみろ、と彼は思った。
「なんでお前ここに――」
と、相手はそこまで口にして、そしてやめる。
あたりまえだ。それはこちらの台詞だろうが。
まだうめいたり、失神したままだったりしている、邪魔くさいのを蹴り飛ばしながら近づいたら、もっといやな顔をされた。
「……遥」
"おじさん"が、まだぐすぐすとしゃくりあげている少女に手をのばす。
だが彼女はその手を乱暴に跳ねのけ、驚くべき手酷い拒絶をしてみせたのである。
「おじさんなんかしんじゃえ!」
ざまをみろ、とまた彼は思った。
火のついたように、というものはこういうものかと、桐生は考えた。
大阪から来た男にしがみついたまま、文字通り声が枯れるまで泣き続けて、いまはもう気管の働きも普通でないのか、ひっきりなしにしゃくり上げている。
そのうちにひきつけでもおこすのではないか。もしや何かの病気ではないかと、不吉な想像さえ浮かんでくるのだった。
建物の最上階に位置する、あまりにも贅沢で滑稽なほど広い部屋である。
こういう所に宿泊するためには、どれだけの費用がかかるのか、それは知らないが。
港と公園を一望できるリビングに、大の男が二人と子供が一人。
その誰もが不愉快な気持ちでいる。
たいしたことではない。ただの不良同士の喧嘩だと思った。
目があったらこちらにもからんできたので、つい。
「"つい"で、日ぃ暮れるまで遥おきざりか」
すぐに片づけるつもりだったのが、なにか、対立するチーム同士で人質をとるような、物騒なことをしているらしい。
からまれていた方の少年が、仲間を助けて欲しいと懇願してきたので。
「うすらばかの一人や二人、死なせとけ」
「おい、子供の前でそんな言いぐさ――」
その子をひどく悲しませたのは誰だと、自問して彼はまた口をつぐむ。
本気ですぐに戻るつもりだったと、そんな女々しい言い訳をしてどうなる。
ソファの背もたれから、金髪がずるずると下がっていった。
なにごとかと後ろから覗きこむと、ほとんどあお向けになりながら見上げてきて、
「寝てもうた」
男の広い胸に、小柄でほっそりした子が乗っている。
眠るのに苦しくないよう、体勢を水平に近くしてやったのか。
妙なところで気が利きくんだな、と少しばかり感心してやったのもつかの間。
「たいして動いてもおらんのに、くたびれたわ」
これっぽっちもくたびれていないくせに、そんな嫌味を言う。
すまないと思っているのは、子供に対しては無論のことだし、お前にも。
とは、こんな場合はやはり言っておくべきなのか。
前髪がおちてくるのを鬱陶しがって、だが小さな子が起きてしまうと身動きしないでいる。
しかたないので、その髪をかき上げてやったり、煙草に手が届かないと言えば、火もつけてやったり。
始末しろと言わんばかりに顎をつきだしてきたので、今度はくわえている煙草を取り上げて消してもやる。
「苦労しとるな」
「苦労なんぞと思っちゃあいねえぞ」
「遥が、や」
それくらい、改めて指摘されずとも、骨身にしみている。人並の幸せもあたえてやれない、自分のふがいなさも。
たいていの皮肉は聞き流せるが、ことこの少女に関しては、たとえお前にも軽々しいことを言われる筋合いはない。
半ば本気で腹をたてかけたが、郷田龍司はひるむことなく、さらに軽蔑に近いあきれたような視線をむけてきた。
「遥の泣いたんの、はじめて見たわ。あんたも滅多に見よらんやろ」
「……」
「千石とこで最初にみたときから、けったいな子ぉや思うとったわ。さわられたちゅうのに、泣きもわめきもせんと」
「おそろしくて、泣く余裕もなかったんだろうが」
「そうかもしれんなあ。せやけど、そのあとはどうやろな」
「――なにが言いたいんだ」
「ワシ、遥の目の前で千石のやつ始末したからな。そのあと会ったとき――神戸んときや――遥、なんて言うたか覚えとるやろ」
夏休みを使って神戸を訪れて、そしてそこで再会した龍司に遥は言ったのだ。
助けてくれてありがとう、と。
遥を人質にされ、桐生一人ではどうにもならぬ窮状を救ったのは間違いなく龍司であるが、その方法は極めて残虐であった。
そういうことをした人間に、助けてくれてありがとう、と……。
理にかないすぎることを普通にする、その理のかないすぎが奇妙だと龍司は言う。
「それから、あれやな。その後のこともこないだ聞いたな。怖わない、言うたってやつや」
千石を殺めた龍司が去ったあと、ようよう桐生は遥のいましめをといてやり、自分のせいでおそろしい目にあわせてすまない、とそう言った。
しかし遥は黙って首をふるだけであった。
「それは俺を――」
「困らせとうなくて、したくらいは分かるわ」
「そういう性格なんだ、こいつは。それぐらい、俺だって知ってるさ」
らしくなく、慌てた調子になったのは、もうこの話を切り上げたかったからだ。
何を伝えようとしているのかは、うすうす察しもついている。
黙れと言っても、たぶん黙らないことも。
「捨てられる思うとんのやろ。どんだけおっかない思いしても、平気て答えとったらあんたが心配せんで済むてな。それならずっと一緒におられるて考えとるのや」
泣き寝入った子を抱きかかえながら、そろりと龍司は体を起こした。
少女の意識はまったく眠りの中に埋没して、体は人形のように、されるがままにくたくたとしている。
涙の乾いたあとが、頬に薄く残っているのが哀れであった。
寝室にねかせにいったのであろう、いったんリビングを出て、戻ってきたときには一人だった。
「風呂にはいる」
聞いてもいないのに尊大なふうに宣言する。
「遥、あいつ、涙やらよだれやらワシの首んとこで拭きよって、なんや痒うなったわ。まあ、あんたので慣れとるけどな」
わざとらしくうなじのあたりを掻きながら、ふたたび出ていった。
もともと口達者なうえ、人を挑発するような悪態は特別に得手。そうやって相手の感情を引っかきまわして喜ぶ性格なのだ。
それでも、ようやくいつもの調子に戻ってくれて、正直なところほっとしている。
(朝ごはんを作らなくてすむのは楽だなあ)
と、少女は目の前に並べられた卵やベーコンやトーストしたパンや、その他の皿を眺めつつ思った。
めざめた時にはとてつもなく広いベッドにいて驚いたけれど。
おじさんも龍司のお兄さんも、ちゃんとリビングにいたし。
朝からお風呂にはいって、出てきたときにはホテルの人が、この沢山の朝食をダイニングに運び込んでくれるところだった。
ゆうべ散々に泣きわめいて、まぶたが腫れぼったい。
おじさんにむかって、なにかひどい事を言ったような気がするけれど、あまり覚えていない。
大阪からきたお兄さんにしがみついて、ずっと泣いて、次に気がついたら朝になっていたのだもの。
けれどおじさんは、そのことは何も言わない。
怒ってはいないのはわかるし、怒るどころか自分に泣かれてしまって、とても困ったのだろうなと思う。
そのうえお兄さんには叱られて、きっと照れくさいんだろう。
おじさんを叱ることのできる大人のひとなんて、このお兄さんくらいだ。
おじさんより年下のはずなのに、へんなの。
――いつもは、あんまりにわがままをすると、おじさんを困らせてしまうから、言わないようにしている。
そのかわり、時たま会うこのお兄さんには、おじさんのぶんまでわがまま勝手をしてしまうのだった。
他人に迷惑をかけるな、とおじさんも言うし、学校でも先生が言っていたけれど。
お兄さんにわがまま勝手をいうのは、迷惑にはならないみたいだ。
だって、自分がそうすることを、おじさんも許してくれているようだし。
なによりも、おじさん自身が嬉しそうだ。
いいことずくめなのだから、おじさんはもっとお兄さんと会えばいいと思う。
けれど大人になると、子供には想像できない色々なことがあって、簡単にはいかないらしい。
「ねむいの? おじさん」
早々に食事を終えた"おじさん"は、新聞を読みながらあくびをかみ殺している。
「きのう不良をやっつけたから、疲れてるの?」
「いいや、そうじゃあ――」
「おじさん、ゆうべはずっと喧嘩しっぱなしで、まともに寝とらんのや」
と、『おじさんの友達』が横合いから説明してくる。
「ほんとう? 龍司のお兄さんと? もう仲なおりした?」
「したした。おじさんもうすっきりして、機嫌ええで」
お兄さんは悪いことなんて言っていないのに、おじさんは少しだけど本気で怒って、龍司だまれ、と言った。
仲なおりしたというのは、ほんとうなのだろうか。
お兄さんは平気そうな様子だから、きっと大丈夫なんだろう。
そういえば――と彼女はきのうは言いそびれていたことを思い出した。
いま伝えておかないと、また同じ事を繰り返すにきまっている。
「おじさんも、龍司のお兄さんも、自分から携帯かけるといいよ。きのうもおじさん、龍司遅い遅い、って文句言ってたけど、電話はかけなかったし。お兄さんからもかかってこなかったし。どっちも待ってないで、電話かけるといいと思う」
そう言ったら、二人とも顔をみあわせて、同時に
「ああ」
と声をあげた。
今はじめてそれに気がついて、心底から驚いているらしかった。
やっぱり。
少女は納得して、それでだいぶ満足できた。
オレンジジュースは絞りたての100パーセントだし、目玉焼きもベーコンもおいしい。
今日はいい日になりそうである。
終
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