しなやかな指が小さな頭を優しく捕らえる。
「はい。ジッとしててねぇ、いい子ねぇ」
女の人が使う様な柔らかい声音で、その男はリズミカルな音を立て鋏を動かす。
大きな椅子に、大きな鏡。
ここに来ると少しだけ大人びた様な気がして、自然背筋が伸びるのだ。
用事が終わった皐月は他の所には目もくれず、一直線にとある場所に向かう。後ろで、弥生の叱責が飛んだが、今の皐月にはそれに耳を傾ける一瞬すら惜しいのだ。
小さい足で、力強く大地を蹴りながら皐月は大きな建物の中へと入った。道すがら、建物内部で働く者達に声を掛けられたが、それら全てを振り切って皐月は一番奥の大きな扉の前まで息せき切ってやって来た。
はぁはぁと荒く浅い呼吸を繰り替えし、扉の脇に居る男を見上げる。
開けて欲しいのだが、息が上がってしまい言葉を発する事が困難なのだ。
皐月の大きな瞳。それが何を言わんとしているのか、男には理解出来たのか、何も言わずにノックをし、中から声がしたのを確認してから、静かに扉を開いた。
礼の代わりに、小さな頭を下げて皐月は開いた扉の中へ迷うことなく入る。
小さな来訪者に、奥の机で仕事をしていた男はあからさまに不機嫌な顔になった。
「なんで、また来てんだよ。お前は」
皐月は机の前からぐるりと回って、男の、実の父親の前に出た。
余程急いで駆けて来たのだろう。まだ呼吸が戻らないらしく、唾を飲み込んだり深呼吸をしたりと色々忙しい。
「おいこら、何でまたここに来たんだよ?」
「あの、あの……あのね!」
皐月は一生懸命話そうと試みる。が、上手く舌が回らない。
少しだけ大人になった自分を一番に見て貰いたくて、弥生におねだりして、一生懸命駆けて、ここまで来たのに……。
中々理由を話さない皐月に、腕を組んで訝しげに見下ろす大吾の目に苛立ちの色が見え始めた。
「お前なぁ。用がないんだったら、来んなって言ってんだろ!?ここはガキの遊び場じゃねーんだよ」
「ち、ちがうの!そうじゃないの!!」
中々言いたい事も言えず、気付いて欲しいのに全く気付いてくれない大吾に、皐月の心は悲しみに満たされ様としていた、その時、
「おや?今日はずいぶん可愛らしいお客様が来ているんだな?」
「柏木さん」
大吾の足許で今にも泣きそうな顔した皐月が声の方に体を向けると、そこには紳士然とした柏木がゆったりとした笑みを浮かべて立っていた。
「柏木のおじいちゃん!」
俄かに顔を輝かせて、皐月は嬉しそうに柏木に近付く。
「こんにちは、皐月ちゃん。今日は大吾の監視役かい?」
「何だよ、その『監視役』っていうのは?」
聞き捨てならない言葉に、あからさまにムッとした表情の大吾が柏木に問う。
「大吾がしっかりと六代目として仕事をしているかどうか……。姐さんが付けたお目付け役」
「っば!冗談じゃない!お目付けやってやってんのは、コッチの方だ!今日は何かしらねーけど、いきなり来やがったんだ」
「そうなのかい?皐月ちゃん」
いきなり仕事場に来るのは禁止だった。その事は皐月も良く分かっていて、滅多な事では仕事場には来ない。そういった所はしっかりと教育されていて、年の割りに分別がきちんとついている子だ。
柏木の目にも、おしゃまだが決して大人達を困らせる事をする様な子には映らなかった。
それなのに、ここに来たという事はよっぽど何かあったに違いない。
柏木はマジマジと怒られはしないかと不安気に瞳を揺らす皐月を見つめ、そこでふといつもと違う彼女に気付く。
そして、どうして皐月がアポもなしにここに来たのかを瞬時に理解した。それは大吾には到底気付く事など出来ない些細なものだった。
皐月の視線に合わせるように膝を折り、優しい笑みを浮かべた。
「今日の皐月ちゃんは随分お姉さんなんだね?」
その一言で、皐月の顔はパァッと明るくなる。嬉しそうな、擽ったそうな何ともいえない表情で、エヘヘと、照れたように笑う。
「見違えたよ。とっても可愛いから」
「あのね、あのね。今日ね、おばあちゃんがいいところにつれていってくれたの」
「ああ、とっても素敵な所だったんだね?」
「わかるの?」
「分かるとも。皐月ちゃんをとっても素敵なお姉さんに変えた所なんだからね」
全く二人の世界で、大吾の入る場所が一つだってない。それに、微かに苛立ちを覚えながらも大吾は素知らぬ振りを決め込んで、机を指で叩く。
大体……と、大吾は心の中で一人ごちる。
今日の皐月も昨日の皐月も全くどこも、一ミリだって同じじゃねーか。どこが『お姉さん』でどこらへんが『素敵』なのだか、教えて頂きたい。頭の天辺から足の爪先まで眺めて、大吾は興味なさ気に頬杖を付き、ふんっと鼻を鳴らした。
「パパはね、分かってくれないの」
皐月の声音が急に落ちた。
寂しそうに、時折鼻を啜る音をさせるのは、今にも泣きそうなのを必死に堪えているのかもしれない。
大吾は皐月の急変に自身でも知らぬ内に、身を乗り出していた。
「さつきがね、いいところに行って、おねえさんにしてもらったのに……。きづいてくれないの……。さつきのパパなのに」
「だ、そうだぞ。大吾」
「ああ?」
そのままの格好で、再度繁々と見つめるが、やはり皐月は皐月だ。どこも何も変わってはいない。
「分かんないの?」
沈黙に耐えられなくなった皐月が、恐る恐る口を開く。
いや、ここで正直に答えたら皐月が泣き出すのは火を見るよりも明らかだ。思わず、正直に口走りそうになった言葉を飲み込んで、大吾は首を振った。
「何言ってんだ?俺を誰だと思ってんだよ。東城会六代目だぞ?んなこと、最初っから分かってたっつーの」
「とうじょうかいろくだいめは、かんけいないとおもうの……」
間髪入れず、的確な突っ込みが入る。大吾はそれを煩そうに、顔の前で手を振った。
大体、何だってんだ。変わっただの、気付かないだの。大吾は忌々しげに心の中で舌打ちをする。女が気付いてくれないとかそういった事を言う時は大抵、つまらない事だと分かっている。やれ口紅の色を変えてみただの、髪型を変えてみただの。それらの変化は男から見れば大して何も変わってない。しかし、女という生き物は、そういう細かな所を気付いてくれる男を望むのが常だ。
大吾はそこまで考えて、ハタと気付いた。そして、顎を軽く撫でながら、勝ち誇った顔で大様に告げた。
「テメーの頭がいつもと違う事位、部屋に入って来た時から知ってるっつーの!」
その言葉に、皐月の顔が今までにない位に輝く。
口を小さく開けたまま柏木を見上げると、彼は小さく頷いて小さな背中を押した。それが合図であるかのように、皐月の小さな体は駆け出し、大吾の膝上にジャンプして飛び乗った。
「お前はぁっ!急にそういう事すんじゃねーよ!あぶねーだろ!」
口ではそう言いつつも、ちゃんと皐月を抱きかかえたのは流石である。
皐月はエヘヘとはにかんだ笑いをしながら、大吾をひたと見つめ、
「やっぱり、パパは皐月のパパなの。皐月のことちゃんと見てくれているの」
「当ったり前だろうが、バーカ」
「バカ言う方がバカなの。パパがバカなんだもん」
「テメー、自分の親ぁ捕まえて、バカとはなんだ。バカとは!」
「お止め!廊下までバカな声が響いているよ!二人とも、ここが何処だか分かってんだろうね!!」
大分遅れて、弥生が中へ入って来た。
「皐月ちゃん、ここに来る時にした約束忘れたのかい?」
大吾の膝の上ではしゃいでいた皐月は、その言葉にピタリと動きを止める。
渋る弥生に『大人しくするから』と頼み込んでようやく連れて来て貰ったのだが、大吾に会った瞬間にその事は頭の隅にもなかった。
寂しげに大吾の膝の上から降りる。その背中には哀愁が漂っていて、思わず大吾は手を伸ばしかけた。
「約束、忘れたのかい?」
弥生の言葉に小さな頭を、弱々しく振る。
「おばあちゃん、ごめんなさいなの……」
「分かればいいんだよ。それで、大吾は気付いてくれたかい?」
「うんっ!パパはやっぱり皐月のパパなの!入ったときから、分かってたんだって!すごいね、まほーつかいみたい!」
「へぇ?入った時から~?あんたにしては随分と勘が良いじゃないか?」
「うっせー!そんな妙ちくりんな頭な奴が勢い良く入ってくれば、嫌でも目に付くだろ!普通!!」
「みょう、ちくりん……」
言った後、しまったと口を押さえるが時既に遅し、皐月は大吾が言った言葉に深く傷付いた顔をし、口をへの字にして、小刻みにフルフルと震えだした。
「みょうちくりんなあたまじゃないもん!皐月、おねえさんだもん!!おばあちゃんに、キレイキレイにしてもらったんだもん!!」
うわーんっと、けたたましい声を上げ。耳を劈く様な大音響で皐月は勢い良く泣き出した。
その後、大吾が幾ら宥めすかし、玩具やお菓子でご機嫌を取ろうとも、皐月の機嫌は1ヵ月大吾に対してのみ良くなる事はなかった。
PR
迎え火は、死者が道を迷わない為に焚かれる。
お盆最初の日、弥生は一人だけ朝早くに墓参りを済ませ、門の前で焙烙の上でおがらを燃やした。
あの人が道に迷わないよう。
どうか、一時の安らぎをこの家で得られますよう。
そう願っているのかどうか分からないが、おがらの煙を追い掛けるその横顔はどこか寂しげだ。煙はどこまでも高く昇って行く。まるで、天上に真っ直ぐ伸びる白い道の様に。
「今日は、いい子にしているのよ?ママ達はお客様の相手をしなくちゃいけないんだから」
遥の言葉に皐月は心外だと言わんばかりに、ぷぅっと頬を膨らます。
「さつき、『きょうも』いい子だもん!」
「はいはい。皐月はいつもいい子よね?」
「そうなの」
ややぞんざいに相槌を打つも、皐月はさして気にしない様子で大きく頷いた。
「冷蔵庫にね、麦茶もジュースもあるから。あ、でも飲み過ぎはダメよ。お腹痛い痛いになっちゃうんだからね?」
「きょうの朝のパパみたく?」
大吾は昨夜、関係する組同士の付き合いとかで夜遅くまで飲んで帰って来た。そんな彼は只今、二日酔いの真っ最中である。布団に潜り、うんうん唸っている。暫く、出て来る気配はない。
遥は皐月の言葉に苦笑いを零しながら、小さく頷いた。
「ええ、そう。皐月はパパみたくなりたい?」
「なりたくない」
間髪入れずに返事をする。
「そうね、皐月はいい子だもんね?」
頭を優しく撫でると、皐月はくすぐったそうに目を細めた。
言われた通り、皐月はいい子で一人で遊んでいる。
折角の天気がいい日に家の中で遊んでいるのも勿体無くって、つい先日、大吾にデパートで買って貰った麦藁帽子を被って外で遊んでいる。
「ああ、ここだ。ここだ」
皐月が家の前で遊んでいると、俄かに前が騒がしくなった。ついさっきまでは、人の気配はおろか車だって一台も見当たらなかったと言うのに。
皐月はキョロキョロと辺りを見渡した。
やっぱり、人の気配はしない。が、声だけはざわざわと複数の人数が話し合う声が聞こえる。
そして、その声は間違いなく皐月の家の前を目指している。
「少し、遅くなっちまったが」
「仕方ありません。この時期はどこも混んでいるんですから」
はっきりと声が聞こえた。
その瞬間、皐月の目に7人の男の姿が飛び込んで来た。見た事のない人達だった。
『お客様が来たら、ママ達に教えるのよ?』言われた事を思い出し、持っていた石を放り投げて皐月は眼前に迫る男達へと向かって行った。
「こんにちは、なの」
皐月は礼儀正しく、お辞儀をする。その瞬間、男達は話をピタリと止めた。そして、皐月に聞こえない様、ヒソヒソ話を始める。
「まさか……」
「見えているんでしょうか?」
「そんな訳あるか、ガキが驚かせやがって」
「おじいちゃん達、おきゃくさまなの?おきゃくさまは、ママに言わないといけないの。どちらさまですか?」
男達はまたもや黙った。が、皐月は特に不審がるわけでもなく、屈託ない笑顔を向けて返答を待っている。
「おいおい、マジでワシらん事見えてるらしいで。このガキ」
「どこのガキだ?」
「ガキ?ガキじゃないの。さつきなの!」
男達の話が耳に入ったのか、皐月は頬を膨らませ猛然と抗議する。どうやら、洩れ聞こえて来た『ガキ』という自分を卑下する言葉に、不快感を覚えたらしい。
可愛らしい顔に、眉間の皺をグググッと寄せ、男達をキッと睨み据える。 ギュッと握り締めた拳は、怒りの為か微かに震えている。
「……悪かったね」
顔を見合わせていた男達の一人が動いた。
皐月の前まで出て、膝を折り目線を合わせる。皐月の眉間の皺はそれでも取れそうにない。
「そうだね、君にはちゃんとした名前がある。それを『ガキ』だなんて言うのは失礼だったね」
物腰柔らかな男の言い方に、僅かに溜飲を下げたらしく、皐月は握っていた拳を下げ大きく頷いた。
「そうなの。とってもしつれいなの。さつきには『さつき』っていうおなまえがあるのよ。おばあちゃんが付けてくれたんだから!」
「そうかい。とっても素敵な名前だね」
その言葉に、皐月の顔が輝く。
「そうなの!!とってもとってもすてきなのよ。おばあちゃんのなまえからもらったんだって、ママが言ってたの」
「それじゃあ、皐月ちゃんのおばあちゃんはとっても素敵な人なんだね?」
「とってもとってもすてきなの!おまけに、すっごくびじんさんなんだから」
エヘンッと小さな胸を反らして、得意気に皐月は言い切った。家族の事を褒められ、悪い気がしないのだろう。眉間の皺もいつしか、綺麗に消えてしまっていた。
「……それで、おじいちゃん達はどちらさまなの?おなまえきかないと、ママに怒られちゃうの」
その問いに、男達は顔を見合わせた。
正直に言って良いものかどうか、悩む。が、正直に言って、その事を皐月が家族に言ったところで信じては貰えないであろう。それは、皐月が可哀相だった。
どうしようかと思案気にしている中で、男達の一人が皐月の前に立った。
周りの男達よりは幾分柔和な面差しな彼は、優しい笑みを浮かべ、口許に指を当てた。
「……実は、私達は遠い国から来たんだけどね。ここの家の人達をビックリさせようと思って、内緒で来たんだよ。だから、私達の事はママやおばあちゃんには内緒にしておいてくれないかな?」
「じゃあ、シィーッしないとダメなのね?」
「ああ、そうだな。シィーッしてくれるかい?」
「うん、さつきいい子なの。だから、できるよ」
そう言って神妙に頷く。その様子が、大人ぶっていて男は思わず苦笑いした。
皐月の案内で、男達は静かに門を潜る。
門の隅で、もう消えてしまったおがらの屑が音もなく、崩れた。
『超ディープなこれが大阪やっちゅーもんを皐月に嫌って言うほど味あわせたる!!』
そう、龍二が大見得切ったのは、一時間前の事だった。
『これが大阪』だと言う。関東生まれで、家から遠くに出掛けた事のない皐月にとって、違う土地の様々な文化に触れる事は、とても心浮かれる事だった。
瞳を輝かせ、龍二の肩に乗りながら、『きゃあっ』と黄色い歓声を上げたのも無理はない事だった。
しかし、龍二の言う『これが大阪』を前に、皐月は押し黙る。
口をへの字にし、眉間には沢山の皺を寄せ、不満気な顔で隣に座る龍二を見上げた。
「どないしたんや、皐月。食わんのか?」
皐月は、小さく頭を振る。
目の前には、ホカホカの湯気を上げる球体の食べ物が8つ、竹の皮で出来た船に行儀良く並んでいる。
その上には、鰹節と青海苔が色よく飾られていた。
「ここのが大阪でいっとう、美味いんや。遠慮せんと食べや」
別に遠慮をしている訳ではない。暫くそれを眺めていた皐月だったが、意を決し、一つ口に放り込んだ。
瞬間、口の中が大火事に見舞われた。
口を金魚の様にパクパクと忙しなく動かし、口の中に新しい空気を入れようと頑張る。まさか口の中に入れた物を出す訳にもいかず、皐月は文字通り七転八倒する。
その様子を隣で眺めていた龍二は、腹を抱えて哄笑する。
遥から水を手渡され、水を飲む事で熱いその物体をようやく腹の中へ収める事が出来た。皐月の目は涙目だ。
口の中は、大火傷で物凄く痛い。
自分の事を見て笑った龍二を恨みがましい目で睨みながら、皐月はコップに入った残りの水を飲み干す。
「どうや?美味いやろ?」
龍二はどこか得意気だ。目に溜まった水を拭いながら、満面の笑みで尋ねる。
「おいしくないもん!あついんだもん!!」
「そりゃ、皐月が悪い。熱いもんを食べる時は、ふうふうせんとあかんやろ。それをせんかった皐月の失敗や」
龍二はそう言って、皐月の額を小突く。
こんな時、皐月の周りの大人達は、黙っていても熱いものは冷まして、食べ難い物は食べ易いようにして皐月に食べさせてくれる。それがごくごく、当然のものと思っていた皐月は、龍二の馬鹿にした物言いにあからさまに不機嫌になる。
「……大吾はえらく甘やかしておるんやな」
「え!?」
「自分の事位、自分で出来んなんてな。まだ小さいからそれもまたしょうがないかもしれんが……」
龍二は不意に声を落とした。
「警戒心もまるでない。自分とこの周りの大人は皆、味方やと思うとる。これは、ちぃっと危険やな」
遥は静かに頷いた。
それは、遥も大吾も弥生も危惧していることだ。
言葉にこそ出さないが、面と向かって言葉に出されて言われるとその不安は途端に色を帯び、真実味を増す。
皆が皆いい人ばかりでないのが、世の常だ。
皐月は確かに警戒心がない。まるで、生まれて来る時にどこかに落として来たかのようだ。人懐こいと言えば聞こえはいいが、その実、それは大変に危ういと言う事を遥は嫌と言うほど知っている。
「それは……」
「おじちゃん、はい。こんどはちゃんとふうふうしたよ。おじちゃん、あーんしてなの」
「わしに食わせてくれるんか?」
「そうなの。はい、あーん」
爪楊枝の先にたこ焼きを一つ付けたものを、龍二に突き出す。
こんな事、して貰った事は当然なく少しだけ躊躇する。が、柔らかいたこ焼きは、爪楊枝の先にやっとの思いで乗っている状態だ。
少しだけ恥ずかしく思いながらも、龍二は差し出されたたこ焼きを口に入れる。
その瞬間、ニヤリと皐月が子供らしからぬ笑みを浮かべたのを龍二は見逃さなかった。
――何や?
思った時には既に遅かった。口の中が大火事だ。
皐月は嘘を吐いたのだ。冷ましてなんか、いなかったのだ。
おまけに、口の中が痛い。熱のせいの痛みではなく、物理的に痛いのだ。
龍二は慌てて水を飲みながら、皐月の側にある薬味入れに目を向けた。そこに、蓋が開いてある薬味入れが一つだけあった。
よくよく、目を凝らして見てみれば『一味』と書かれた文字が目に飛び込んで来た。
どうやら、一服盛られたらしい。
「皐月、おんどれ……」
「おじちゃん、どうしたの?あついものを食べる時は、ふうふうするのよ。あついあついなんだから」
龍二の頬が微かに痙攣を始める。
先程の龍二の言葉が、皐月の小さな矜持を傷付けたのか、彼女なりのそれは復讐であったようだ。
皐月は、知らん顔で残りのたこ焼きをきちんと冷ましながら食べている。その横顔が、小憎たらしい。
龍二は、飲み干したコップを勢い良くテーブルに叩き付けた。
「遥!」
「は、はい」
「前言撤回や。皐月、ええ根性しとる」
大吾にそっくりや。と忌々しそうに言い放ち、龍二は皐月の小さな頭をまた小突いた。
とうとう男の口からは十を数えられる事はなかった。
机の下に潜っていた皐月は、遥の手によって引き摺り出された。
民代が言う、『大阪のお爺ちゃん』こと郷田龍二は、皐月と遥を交互に見比べた後、肩を震わせ豪快に笑った。
曰く、『行動パターンっちゅうか、肝が据わっているとこなんかまんま遥やないけ』らしい。
ここでも遥に似ていると公言された皐月は、得意気に胸を反らす。
「橋本さんも、林さんも、山田さんもいないから、どうやって説明しようかと思っちゃった」
「なんや、そないなこと。わしの女や!言うとけ」
「ダメだよ。そんな事言ったら、大吾さんに怒られちゃうよ」
「まだあんなんと連れ添ってるんかいな。ホンマ、遥は忍耐強いっちゅーか、お人好しっちゅーか」
そう言って、龍二は頭を掻いた。
場所は郷龍会会長室。
そこで、皐月は『大阪のお爺ちゃん』こと『郷田龍二』の膝の上で、お菓子を食べている。因みに、龍二が率先して皐月を抱き上げた訳ではない。龍二が椅子に座ると同時に、皐月の方から抱っこをせがみ無理矢理膝の上に乗ったのだ。
関西一大組織である近江連合の会長である龍二に臆することなく抱っこをせがむ皐月は、やはり大物と呻らざるを得ないであろう。
「ところで……。どうして、わしがここにいるって分ったんや?」
本来なら本部にいる筈の人間である。自分で立ち上げた組にしろ、いつまでも近江連合会長の龍二が、古巣である郷龍会にいるなんて誰も思いもしないであろうに。
遥は、少しだけ考えたが、
「何となく。何となくなんだけど、龍二さんは本部の堅苦しい椅子に座っているのに飽きて、息抜きにこっちに来ているんじゃないかな?って思ったの」
「ほう、遥はエスパーやな」
「え?当たっていた?うそ?」
「ま、半分半分っちゅーとこや」
龍二はそう言い、笑って、背凭れに体を預けた。
実際、本部は息が詰まる事が多い。頂点を目指し、がむしゃらに駆け回っていた方がなんぼか楽か分らない。
重い重責、幹部達の突き刺さる視線、外交、どれも己の舵取り一つで暗礁に乗るし、漂流もする。何事もなく順風満帆にエルドラドに着くなんて、夢の又夢の話だ。
「おじいちゃん、おつかれなの?いたいいたいなの?」
ふと、小さな手が頬に当たった。
それは確かな温もりを伴って、龍二の肌に触れた。
「ちゃう、わしは疲れてなんか」
「おつかれのときは、おふろにはいるといいの。あとはぐっすりねるの。あとは、あとは、たのしいことをするの。そうすると疲れなんかとんじゃうの」
子供らしい発想だ。
龍二は苦笑いを浮かべた。そして、皐月の頭に手を置いて、乱暴に撫で付ける。
小さな頭は、龍二の手により右に左に動いた。
「そうかぁ。そんなら、今度皐月の言うとおりにしてみよか」
「そうなの!そしたら、おじいちゃんきっとげんきになるの!」
皐月は満面の笑みで答える。と、不意に、龍二が声を落とした。
「どうでもええんけどな。その『おじいちゃん』はナシや。わしは皐月んとこの親父と同い年なんやで、幾らなんでも『おじいちゃん』はないやろ、『おじいちゃん』は」
その声音は凄みがある。お茶のお代わりをと、部屋に入って来た組員がうっかりそれを聞いてしまい、身を竦ませた瞬間に盆をひっくり返してしまった位である。
が、皐月は何処吹く風で、キョトンと龍二を見上げた。
そして、
「じゃあ、おじちゃんにする」
「お兄ちゃんにまからんか?」
「龍二さん、薫さんと同じ事言ってる」
「……おじちゃんで、ええ」
地獄の底から這い出る様な声を出し、ガックリと肩を落とした龍二が背中に混沌を背負いながら皐月に初黒星を決めた瞬間であった。
「ほな、今回は皐月の初の遠出の旅行っちゅう訳か」
「そうなの!パパに言ったらね、『たのしんでこい』って」
「言ってないでしょ!何、勝手に捏造してるの!!」
大吾は出掛ける直前までずっと渋い顔をしていた。その大吾が『楽しんで来い』等言う訳がない。どういう幻聴を聞いてしまったのか、どんな耳をしているのか、一度、皐月を耳鼻科に連れて行く必要がある。
「あはは。そうかあ、ほんなら。ちょっと、わしも皐月の楽しい旅行のお手伝いしよか」
「え?龍二さん?」
遥は嫌な予感がして、慌てて席を立った。
龍二は皐月を軽々と腕に抱き、
「今から、わしが超ディープなこれが大阪やっちゅーもんを皐月に嫌って言うほど味あわせたる!!」
声高らかに叫んだ。
それを聞いて、遥はこの先巻き起こるであろう騒動を想像出来る範囲内で想像すると、ソファーに力なく崩れ落ちた。
『旅行中はいい子でいること』はいつの間にか、『問題を起こさないようにすること』という目標に代わっていた。
「おおさかのおじいちゃん?さつき、あってみたいの!」
民代から『大阪のお爺ちゃん』の存在を知らされてからと言うもの、皐月はこの調子だ。遥の体を揺すり、懸命にお願いをする。
「待って、待って。急にそんな事を言われても。ママだって、誰が『大阪のお爺ちゃん』か分らないよ」
かたや、遥は真剣に悩んでいる。
大阪に知り合いなんていない筈だ。否、いる事はいるが、あれは『大阪のお爺ちゃん』と可愛らしい言葉で片付けられる者ではない筈だ。
しかし……。
思い付くものは全て思い付き、そして結論に行き当たる。
まさか!という思いが当然の如く込み上げて来たが、自分の推測と民代が言っている事が外れている事を願いつつ、恐る恐る顔を上げ民代を窺う。
視線があうと、民代はニヤリと笑った。
その瞬間、遥は声にならない声を上げて、カウンターの机に突っ伏したのである。
『行って、顔見せて来ぃや。きっと、喜ぶで』
民代の言葉に背中を押され、遥は皐月と連れ立ってある場所へと向かう。
皐月は『大阪のお爺ちゃん』に期待に胸を膨らましているらしく、向かう足取りも軽やかだ。
遥は一つ息を落とした。
そして、その場所が近付くに連れ足が鉛の様に重くなる。
遥だとて、会いたくない訳ではない。否、寧ろこれを口実に会いたい。何といっても、久し振りだし。六代目姐(自分はそういった気はサラサラないが)になってしまってからは、正直会い難い。こう、精神的に。
それに、問題は皐月だ。チラリと視線を動かせば、皐月は鼻歌交じりでご機嫌だ。この皐月の口の軽さが、心配なのだ。
いつもは素っ気無い態度の大吾だが、その裏、皐月を溺愛しているのを遥は知っている。それなのに、その皐月が彼と会った事をベラベラと喋ったりなんかしたら……。考えただけで、遥はゾッとする。
その目的の場所に着くという時になって、遥は突然立ち止まり皐月と視線を合わす為、しゃがみこんだ。
そして、出来る限り怖い顔をして、
「い~い?皐月。これから会う人の事、パパやおばあちゃんに言っちゃダメだからね?」
「どうして?」
「いいから、ダメなの!『うん』ってしないと、連れて行かないからね」
「うん、わかった。さつき、しゃべらない」
あっさりと皐月は承諾したが、果たしてその約束は、帰るまで覚えててくれるのか?一抹の不安を胸に抱きつつ、遥は扉を開けた。
「こんばんは、会長さんいらっしゃいますか?」
遥が扉を開けると、中にいる男達が一斉に振り返った。
普通の女だったら、否、男だって、その迫力に身を竦ませ、踵を返し、死に物狂いで走り去るという状況なのだが、遥はニッコリと笑って一歩中へと足を踏み込んだ。
事務所の中をクルリと一周見渡す。
――困ったな。
遥は、見渡した中に自分を見知っている組員がいない事に、僅かに落胆していた。
自分がお邪魔していない間に、新しい人間がかなり入ったらしい。彼の人となりを思えば、それは当たり前の様にも感じるが。こういった時は、そのカリスマ性を呪いたくもなる。
「会長は、出とりますが。会長とはどういったご関係で」
一人の男が遥に近付く。
その言葉は柔らかいが、声音は厳しい。
――どういった、ご関係?
そこで遥は頭を悩ます。
誰か一人くらい、顔見知りがいると高を括っていただけに、そう尋ねられるとは思いもしなかった。どうやって、返答したらいいのか分らない。
昔の知人です。は余りにも陳腐だし、妹です。は明らかに嘘だとばれる。
遥がどう答えようかと悩んでいると、足元から元気な声がした。
「さつきのおじいちゃんなの!!おじいちゃんにあいにきたの!!」
遥はギョッとして視線を落とす。
皐月は大人同士のもどかしい遣り取りに痺れを切らしたのか、トテトテと軽い足音を立て、一直線に奥の扉へ小走りに駆け寄る。
「お、おい!ちょ、待てや。こんガキ!!」
「さ、皐月!戻りなさい!」
「会長に孫?つー事は、テメー……いえ、貴方様は会長の娘さまで?」
「ち、違います!」
慌てて遥は首を振った。
『いい子にしてること』と約束したのに……。体中から力という力が抜けて行くのが分る。
皐月は、こういった所は詳しいのか。そういった人がいるのは大抵、奥の部屋と知っているらしく、迷うことなく会長室と書かれた部屋の扉を勢い良くノックする。俄かに騒ぎ立つ後ろを尻目に皐月は声を張り上げた。
「おじいちゃん、おおさかのおじいちゃん。さつきだよ、あそびに来たよ。あそぼーよ!」
「うっさいんじゃ!ボケェ!!」
瞬間、扉が勢い良く開かれ、中から金髪で体格のいい男が現れた。
「しかも、誰や!わしの事、『おじいちゃん』なんぞ呼ぶアホは!!」
一瞬で、静まり返る事務所内。
が、やはりその中でただ一人、
「おじいちゃん、かくれんぼしてたの?」
無邪気な声を上げる者がいた。
頓狂な声に、そこで始めて男は皐月の存在に気付いたらしく、その小さな存在を認めた。
「あ?」
「さつきが見つけたから、つぎはおじいちゃんがおにさんね?」
「さ、皐月!」
慌てて声を掛ける遥。と、またそこで始めて遥の存在に気付く。
「……遥、か?」
「あはは、ご無沙汰してます」
「つーことは、このガキは……」
そこでマジマジと男は皐月を見つめた。
皐月はニコリと笑い、
「さつき、かくれるから。十かぞえてね」
そう言って、いそいそと近くにある机の下に隠れた。
隠れるも何も、もう見てるっつーの!という皆の視線を浴びながら、皐月はウキウキと男が十数えるのを待っていた。