とうとう男の口からは十を数えられる事はなかった。
机の下に潜っていた皐月は、遥の手によって引き摺り出された。
民代が言う、『大阪のお爺ちゃん』こと郷田龍二は、皐月と遥を交互に見比べた後、肩を震わせ豪快に笑った。
曰く、『行動パターンっちゅうか、肝が据わっているとこなんかまんま遥やないけ』らしい。
ここでも遥に似ていると公言された皐月は、得意気に胸を反らす。
「橋本さんも、林さんも、山田さんもいないから、どうやって説明しようかと思っちゃった」
「なんや、そないなこと。わしの女や!言うとけ」
「ダメだよ。そんな事言ったら、大吾さんに怒られちゃうよ」
「まだあんなんと連れ添ってるんかいな。ホンマ、遥は忍耐強いっちゅーか、お人好しっちゅーか」
そう言って、龍二は頭を掻いた。
場所は郷龍会会長室。
そこで、皐月は『大阪のお爺ちゃん』こと『郷田龍二』の膝の上で、お菓子を食べている。因みに、龍二が率先して皐月を抱き上げた訳ではない。龍二が椅子に座ると同時に、皐月の方から抱っこをせがみ無理矢理膝の上に乗ったのだ。
関西一大組織である近江連合の会長である龍二に臆することなく抱っこをせがむ皐月は、やはり大物と呻らざるを得ないであろう。
「ところで……。どうして、わしがここにいるって分ったんや?」
本来なら本部にいる筈の人間である。自分で立ち上げた組にしろ、いつまでも近江連合会長の龍二が、古巣である郷龍会にいるなんて誰も思いもしないであろうに。
遥は、少しだけ考えたが、
「何となく。何となくなんだけど、龍二さんは本部の堅苦しい椅子に座っているのに飽きて、息抜きにこっちに来ているんじゃないかな?って思ったの」
「ほう、遥はエスパーやな」
「え?当たっていた?うそ?」
「ま、半分半分っちゅーとこや」
龍二はそう言い、笑って、背凭れに体を預けた。
実際、本部は息が詰まる事が多い。頂点を目指し、がむしゃらに駆け回っていた方がなんぼか楽か分らない。
重い重責、幹部達の突き刺さる視線、外交、どれも己の舵取り一つで暗礁に乗るし、漂流もする。何事もなく順風満帆にエルドラドに着くなんて、夢の又夢の話だ。
「おじいちゃん、おつかれなの?いたいいたいなの?」
ふと、小さな手が頬に当たった。
それは確かな温もりを伴って、龍二の肌に触れた。
「ちゃう、わしは疲れてなんか」
「おつかれのときは、おふろにはいるといいの。あとはぐっすりねるの。あとは、あとは、たのしいことをするの。そうすると疲れなんかとんじゃうの」
子供らしい発想だ。
龍二は苦笑いを浮かべた。そして、皐月の頭に手を置いて、乱暴に撫で付ける。
小さな頭は、龍二の手により右に左に動いた。
「そうかぁ。そんなら、今度皐月の言うとおりにしてみよか」
「そうなの!そしたら、おじいちゃんきっとげんきになるの!」
皐月は満面の笑みで答える。と、不意に、龍二が声を落とした。
「どうでもええんけどな。その『おじいちゃん』はナシや。わしは皐月んとこの親父と同い年なんやで、幾らなんでも『おじいちゃん』はないやろ、『おじいちゃん』は」
その声音は凄みがある。お茶のお代わりをと、部屋に入って来た組員がうっかりそれを聞いてしまい、身を竦ませた瞬間に盆をひっくり返してしまった位である。
が、皐月は何処吹く風で、キョトンと龍二を見上げた。
そして、
「じゃあ、おじちゃんにする」
「お兄ちゃんにまからんか?」
「龍二さん、薫さんと同じ事言ってる」
「……おじちゃんで、ええ」
地獄の底から這い出る様な声を出し、ガックリと肩を落とした龍二が背中に混沌を背負いながら皐月に初黒星を決めた瞬間であった。
「ほな、今回は皐月の初の遠出の旅行っちゅう訳か」
「そうなの!パパに言ったらね、『たのしんでこい』って」
「言ってないでしょ!何、勝手に捏造してるの!!」
大吾は出掛ける直前までずっと渋い顔をしていた。その大吾が『楽しんで来い』等言う訳がない。どういう幻聴を聞いてしまったのか、どんな耳をしているのか、一度、皐月を耳鼻科に連れて行く必要がある。
「あはは。そうかあ、ほんなら。ちょっと、わしも皐月の楽しい旅行のお手伝いしよか」
「え?龍二さん?」
遥は嫌な予感がして、慌てて席を立った。
龍二は皐月を軽々と腕に抱き、
「今から、わしが超ディープなこれが大阪やっちゅーもんを皐月に嫌って言うほど味あわせたる!!」
声高らかに叫んだ。
それを聞いて、遥はこの先巻き起こるであろう騒動を想像出来る範囲内で想像すると、ソファーに力なく崩れ落ちた。
『旅行中はいい子でいること』はいつの間にか、『問題を起こさないようにすること』という目標に代わっていた。
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