しなやかな指が小さな頭を優しく捕らえる。
「はい。ジッとしててねぇ、いい子ねぇ」
女の人が使う様な柔らかい声音で、その男はリズミカルな音を立て鋏を動かす。
大きな椅子に、大きな鏡。
ここに来ると少しだけ大人びた様な気がして、自然背筋が伸びるのだ。
用事が終わった皐月は他の所には目もくれず、一直線にとある場所に向かう。後ろで、弥生の叱責が飛んだが、今の皐月にはそれに耳を傾ける一瞬すら惜しいのだ。
小さい足で、力強く大地を蹴りながら皐月は大きな建物の中へと入った。道すがら、建物内部で働く者達に声を掛けられたが、それら全てを振り切って皐月は一番奥の大きな扉の前まで息せき切ってやって来た。
はぁはぁと荒く浅い呼吸を繰り替えし、扉の脇に居る男を見上げる。
開けて欲しいのだが、息が上がってしまい言葉を発する事が困難なのだ。
皐月の大きな瞳。それが何を言わんとしているのか、男には理解出来たのか、何も言わずにノックをし、中から声がしたのを確認してから、静かに扉を開いた。
礼の代わりに、小さな頭を下げて皐月は開いた扉の中へ迷うことなく入る。
小さな来訪者に、奥の机で仕事をしていた男はあからさまに不機嫌な顔になった。
「なんで、また来てんだよ。お前は」
皐月は机の前からぐるりと回って、男の、実の父親の前に出た。
余程急いで駆けて来たのだろう。まだ呼吸が戻らないらしく、唾を飲み込んだり深呼吸をしたりと色々忙しい。
「おいこら、何でまたここに来たんだよ?」
「あの、あの……あのね!」
皐月は一生懸命話そうと試みる。が、上手く舌が回らない。
少しだけ大人になった自分を一番に見て貰いたくて、弥生におねだりして、一生懸命駆けて、ここまで来たのに……。
中々理由を話さない皐月に、腕を組んで訝しげに見下ろす大吾の目に苛立ちの色が見え始めた。
「お前なぁ。用がないんだったら、来んなって言ってんだろ!?ここはガキの遊び場じゃねーんだよ」
「ち、ちがうの!そうじゃないの!!」
中々言いたい事も言えず、気付いて欲しいのに全く気付いてくれない大吾に、皐月の心は悲しみに満たされ様としていた、その時、
「おや?今日はずいぶん可愛らしいお客様が来ているんだな?」
「柏木さん」
大吾の足許で今にも泣きそうな顔した皐月が声の方に体を向けると、そこには紳士然とした柏木がゆったりとした笑みを浮かべて立っていた。
「柏木のおじいちゃん!」
俄かに顔を輝かせて、皐月は嬉しそうに柏木に近付く。
「こんにちは、皐月ちゃん。今日は大吾の監視役かい?」
「何だよ、その『監視役』っていうのは?」
聞き捨てならない言葉に、あからさまにムッとした表情の大吾が柏木に問う。
「大吾がしっかりと六代目として仕事をしているかどうか……。姐さんが付けたお目付け役」
「っば!冗談じゃない!お目付けやってやってんのは、コッチの方だ!今日は何かしらねーけど、いきなり来やがったんだ」
「そうなのかい?皐月ちゃん」
いきなり仕事場に来るのは禁止だった。その事は皐月も良く分かっていて、滅多な事では仕事場には来ない。そういった所はしっかりと教育されていて、年の割りに分別がきちんとついている子だ。
柏木の目にも、おしゃまだが決して大人達を困らせる事をする様な子には映らなかった。
それなのに、ここに来たという事はよっぽど何かあったに違いない。
柏木はマジマジと怒られはしないかと不安気に瞳を揺らす皐月を見つめ、そこでふといつもと違う彼女に気付く。
そして、どうして皐月がアポもなしにここに来たのかを瞬時に理解した。それは大吾には到底気付く事など出来ない些細なものだった。
皐月の視線に合わせるように膝を折り、優しい笑みを浮かべた。
「今日の皐月ちゃんは随分お姉さんなんだね?」
その一言で、皐月の顔はパァッと明るくなる。嬉しそうな、擽ったそうな何ともいえない表情で、エヘヘと、照れたように笑う。
「見違えたよ。とっても可愛いから」
「あのね、あのね。今日ね、おばあちゃんがいいところにつれていってくれたの」
「ああ、とっても素敵な所だったんだね?」
「わかるの?」
「分かるとも。皐月ちゃんをとっても素敵なお姉さんに変えた所なんだからね」
全く二人の世界で、大吾の入る場所が一つだってない。それに、微かに苛立ちを覚えながらも大吾は素知らぬ振りを決め込んで、机を指で叩く。
大体……と、大吾は心の中で一人ごちる。
今日の皐月も昨日の皐月も全くどこも、一ミリだって同じじゃねーか。どこが『お姉さん』でどこらへんが『素敵』なのだか、教えて頂きたい。頭の天辺から足の爪先まで眺めて、大吾は興味なさ気に頬杖を付き、ふんっと鼻を鳴らした。
「パパはね、分かってくれないの」
皐月の声音が急に落ちた。
寂しそうに、時折鼻を啜る音をさせるのは、今にも泣きそうなのを必死に堪えているのかもしれない。
大吾は皐月の急変に自身でも知らぬ内に、身を乗り出していた。
「さつきがね、いいところに行って、おねえさんにしてもらったのに……。きづいてくれないの……。さつきのパパなのに」
「だ、そうだぞ。大吾」
「ああ?」
そのままの格好で、再度繁々と見つめるが、やはり皐月は皐月だ。どこも何も変わってはいない。
「分かんないの?」
沈黙に耐えられなくなった皐月が、恐る恐る口を開く。
いや、ここで正直に答えたら皐月が泣き出すのは火を見るよりも明らかだ。思わず、正直に口走りそうになった言葉を飲み込んで、大吾は首を振った。
「何言ってんだ?俺を誰だと思ってんだよ。東城会六代目だぞ?んなこと、最初っから分かってたっつーの」
「とうじょうかいろくだいめは、かんけいないとおもうの……」
間髪入れず、的確な突っ込みが入る。大吾はそれを煩そうに、顔の前で手を振った。
大体、何だってんだ。変わっただの、気付かないだの。大吾は忌々しげに心の中で舌打ちをする。女が気付いてくれないとかそういった事を言う時は大抵、つまらない事だと分かっている。やれ口紅の色を変えてみただの、髪型を変えてみただの。それらの変化は男から見れば大して何も変わってない。しかし、女という生き物は、そういう細かな所を気付いてくれる男を望むのが常だ。
大吾はそこまで考えて、ハタと気付いた。そして、顎を軽く撫でながら、勝ち誇った顔で大様に告げた。
「テメーの頭がいつもと違う事位、部屋に入って来た時から知ってるっつーの!」
その言葉に、皐月の顔が今までにない位に輝く。
口を小さく開けたまま柏木を見上げると、彼は小さく頷いて小さな背中を押した。それが合図であるかのように、皐月の小さな体は駆け出し、大吾の膝上にジャンプして飛び乗った。
「お前はぁっ!急にそういう事すんじゃねーよ!あぶねーだろ!」
口ではそう言いつつも、ちゃんと皐月を抱きかかえたのは流石である。
皐月はエヘヘとはにかんだ笑いをしながら、大吾をひたと見つめ、
「やっぱり、パパは皐月のパパなの。皐月のことちゃんと見てくれているの」
「当ったり前だろうが、バーカ」
「バカ言う方がバカなの。パパがバカなんだもん」
「テメー、自分の親ぁ捕まえて、バカとはなんだ。バカとは!」
「お止め!廊下までバカな声が響いているよ!二人とも、ここが何処だか分かってんだろうね!!」
大分遅れて、弥生が中へ入って来た。
「皐月ちゃん、ここに来る時にした約束忘れたのかい?」
大吾の膝の上ではしゃいでいた皐月は、その言葉にピタリと動きを止める。
渋る弥生に『大人しくするから』と頼み込んでようやく連れて来て貰ったのだが、大吾に会った瞬間にその事は頭の隅にもなかった。
寂しげに大吾の膝の上から降りる。その背中には哀愁が漂っていて、思わず大吾は手を伸ばしかけた。
「約束、忘れたのかい?」
弥生の言葉に小さな頭を、弱々しく振る。
「おばあちゃん、ごめんなさいなの……」
「分かればいいんだよ。それで、大吾は気付いてくれたかい?」
「うんっ!パパはやっぱり皐月のパパなの!入ったときから、分かってたんだって!すごいね、まほーつかいみたい!」
「へぇ?入った時から~?あんたにしては随分と勘が良いじゃないか?」
「うっせー!そんな妙ちくりんな頭な奴が勢い良く入ってくれば、嫌でも目に付くだろ!普通!!」
「みょう、ちくりん……」
言った後、しまったと口を押さえるが時既に遅し、皐月は大吾が言った言葉に深く傷付いた顔をし、口をへの字にして、小刻みにフルフルと震えだした。
「みょうちくりんなあたまじゃないもん!皐月、おねえさんだもん!!おばあちゃんに、キレイキレイにしてもらったんだもん!!」
うわーんっと、けたたましい声を上げ。耳を劈く様な大音響で皐月は勢い良く泣き出した。
その後、大吾が幾ら宥めすかし、玩具やお菓子でご機嫌を取ろうとも、皐月の機嫌は1ヵ月大吾に対してのみ良くなる事はなかった。
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