事の発端は、皐月の我儘だ。
足をばたつかせ、幼児だけの特権である駄々を皐月はやったのだ。
「あそびにいきたいの!」
「お前はいつも遊んでるだろ?」
「とおくにあそびにいきたいの!」
「この間、桐生のおじいちゃんのとこに泊まりに行ったでしょ?」
「とおくにあそびにいきたいの!」
「皐月ちゃん。そんなに足を乱暴にしていると、踵が痛くなるよ」
「あそびにいきたいんだもん!!ぅえーーん」
終いにはとうとう泣き出した。
畳に突っ伏し、えーんえーんと、声を張り上げ泣きじゃくる。
その様子を、大人達三人は困った様に見下ろしていた。
そんな事があった3日後、皐月は新幹線の中にいた。椅子からはみ出した足をプラプラさせ、窓の外を食い入るように眺めている。
そんな皐月の顔はどこか得意気だ。
念願叶って、遠出の旅行が決まったのだ。嬉しくないわけがない。
さっき車内販売のお姉さんから買ったアイスを食べながら、満面の笑顔で振り向く。
「ママ、りょこうたのしみね」
もう、何回口にしたか分らないその言葉を、皐月は飽きもせず口にする。
遥は微笑んで、小さく頷いた。
皐月の口の周りのアイスをウェットティッシュで拭きとってやりながら、
「この旅行の間は絶対に、いい子でいること。分っているわね?」
「うん!さつき、いい子にしてる!」
間髪いれずに、力強く頼もしい返事が返って来たが、遥はやっぱり不安でならない。
美味しそうに、アイスを頬張る我が子の横顔を見ながら、分らないようにそっと小さく溜め息を吐くのだった。
「ふわぁ」
目的地に降り立って、皐月はそう一声上げたかと思うと、口をあんぐりと開けたまま呆けた様に辺りを見渡した。
色取り取りの看板、雑多な建物、道歩く人が発する言葉は異国の言葉の様に皐月の耳に届く。何処からともなく何かが焼けるいい匂いに、皐月の小さな足は自然匂いの元を辿りそうになる。
その背中に、
「皐月!」
小さな叱責を受けて、皐月は渋々遥の隣に戻る。
今回の旅の約束事は、
『いい子にしていること』
思い出し、少しだけしょげる。
折角、見たことも嗅いだ事もない食べ物が食べられるのに。
小さく俯いた皐月の頭に、優しい温もりが落ちた。見上げると、遥がニコリと笑って皐月を見下ろしていた。
そして、手を伸ばし皐月の小さな手を取って歩く。
人混みの中に紛れるようにして、二人の小さな影は見えなくなった。
「こんにちは」
「あら?遥ちゃんやないの、久し振りやねぇ」
カウンターの奥で、洗い物をしていた女が声を聞いて出て来た。
「こんにちわぁ」
その隣で、皐月も遥に習って挨拶をする。
女は、視線を落とすと人のいい笑みを浮かべて、
「はい、こんにちは。はじめましてやねぇ、皐月ちゃん」
「さつきのことしってるの!?」
「知ってるもなにも、うちは一回皐月ちゃんに会うているんよ。皐月ちゃんが赤ちゃんだった時にね」
目を丸くして驚く皐月に、女は笑顔になった。
冷蔵庫から烏龍茶とジュースを出し、カウンターに乗せて、椅子に座るように勧める。遥は短く礼を言って皐月を椅子に座らせてから、隣に自分が座り、出されたお茶を一口飲んだ。
「ほんまに、あんたの小さい頃そっくりやね。この子は」
「そうかな?薫さんは大吾さんに似ているって言うし、桐生のおじさんは私に似ているって言うし、どっちに似ているのか、実際の所良く分らないんだけど」
「あはは。そりゃそうや。子供は両親のどっちにも似るもんや。どっちかだけなんてあらへん。――せやけど、そうやね。どちらか言うたら、遥ちゃんやないん?」
「さつき、ママに似ているの?」
「そっくりや」
「わぁい!!おばあちゃん、ありがとうなの!!」
余程、その一言が嬉しかったのか皐月は椅子から飛び降りて、クルクル回って踊りだした。
「おばあちゃん、か」
「あ、あの。すみません」
民代が小さく呟いたのを、遥は聞き逃さなかった。
慌てて、平謝りをする。けれども、民代がそれを制した。
「あんたは、桐生さんとこの娘や。ちゅうことは、桐生さんとこに嫁いだ薫の娘でもある。あの子は、うちの孫で間違いない、ね?」
「民代さん」
「おばあちゃんは、薫おねえちゃんのママなの?」
それまでクルクル回っていた皐月が、動きを止め、民代を見上げた。
「『薫お姉ちゃん』?」
民代は首を傾げた。
桐生の娘の子なら、薫を『おばあちゃん』か『おばちゃん』と呼ぶべきではなかろうか?何故、それよりも下になる『おねえちゃん』と呼ぶのか?
思案気にしていると、遥が言い難そうに俯きながら訳を話した。
「あ、あの……、最初『おばちゃん』って呼んだんですけど、薫さんそう呼ばれた瞬間、凍ってしまって……。それでその、それ以降、皐月には薫さんのことは『おねえちゃん』って呼ぶように言い聞かせているんです……」
遥の説明に、民代はほとほと呆れたと言う様に首を振った。
「まったく、あの子は……。そやで、皐月ちゃん。うちは薫のママで、皐月ちゃんのおばあちゃんや。いや、待ちい。薫がお婆ちゃんにあたるんやろ。そうしたら、うちは……。うちは『曾婆ちゃん』かい!」
恐ろしい現実を突きつけられて、民代は思わず絶句する。
孫をスキップで飛ばし、いきなり曾孫とご対面とは。
「ギネス更新やな」
「え?」
「こんなに若い曾ばあちゃんやなんて、そりゃ、ギネスもビックリの若さやろ」
そう言って、民代は軽く片目を瞑って見せた。
そして、次の瞬間何かを思い出したかの様な顔になり、意地の悪い笑顔を一瞬だけ、その頬に乗せた。
「さつきね、おばあちゃんは、弥生おばあちゃんだけだと思っていたから、すっごくうれしいの」
「良かったねぇ、皐月」
「そうそう、遥ちゃん」
民代は微笑ましい遣り取りを目にしながら、満面の笑顔でこう尋ねた。
「もう一人の、大阪のお爺ちゃんには会うて行かへんの?」
「もう一人の?」
「おおさかのおじいちゃん?」
皐月と遥はその言葉に、訳が分らず顔を見合わせた。
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皐月はお風呂が大好きだ。
幼児の中にはシャンプーをするのを怖がる子もいるというが、皐月に限ってはそれはない。それどころか、お気に入りの自分用シャンプー(子供用)がある位だ。シャンプーの容器はどこぞのメーカーのキャラクターの物だが、皐月曰く『これがいちばん、いいにおいなの』らしい。
彼女だけのちょっとしたこだわりがあるらしいのだ。
「きょうは、パパとおふろにはいってあげるの」
夕食も済ませ、リビングで寛いでいた大吾に皐月はおもむろにそう告げた。
だから、なんでそんなに偉そうなんだよ。と、言いたいのを堪え、大吾は素っ気無く答える。
「やなこった」
「どうして?」
「お前と入ると、無駄に疲れるんだよ」
「?さつき、つかれないよ」
「俺が、疲れるんだよ」
そう言って、皐月の額を軽く小突く。
一緒に入ると言ってくれるのは嬉しいが、今日の自分は人の面倒(とかく、子供の面倒)をみられるほど元気ではない。どちらかと言ったら、一人のんびり湯船に浸かって、明日への鋭気を養いたい。
どこか、親父臭い事を考えながら大吾は皐月の頭を撫でる。
その横で、弥生が口を挟んだ。
「何言ってんだい。娘が父親と一緒にお風呂に入れるのは今のうちだよ。その内、『パパと一緒にお風呂入りたくない』って言い出して、終いには『パパのと一緒に洗濯しないで』って言われるんだよ。一緒に入ろうって言われている内が華じゃないか、一緒に入っておあげ」
大吾は短く舌打ちをする。
皐月に限って、そんな事を言い出すようには思えない。大きくなっても(想像出来ないが)、ずっと自分の後を付いて回って来る気がする。
チラリと皐月を見れば、何やら期待の篭った瞳でこちらをジッと見ている。
何だよ、その目は。大吾は心の中で忌々しく溜め息を吐いた後、おもむろに立ち上がった。
「あれ?パパどこいくの?」
「風呂。一緒に入るんだろ?早くしねーと、締め出すぞ」
「わぁい!パパとおふろ!」
「良かったねぇ、皐月ちゃん」
「うん!おばあちゃん、ありがとう」
嬉しそうに礼を言って、大吾の後を追いかけて行く。
その後姿を、微笑ましく思いながら二人の女は見送った。
「パパのおせなか、あらってあげる」
自分で洋服を脱いで、先にお風呂に入った皐月はタオルを持って待ち構えた。
「いいって」
「ちゃんときれいきれいしないと、きたないのよ」
おしゃまな口振りで大吾を嗜める。恐らくは弥生か遥に、いつも自分が言われている言葉なのだろう。
その大人びた口振りに、大吾は思わず吹き出した。
「俺は自分で洗えるから、いいんだよ。それより、ほれ。お前の体洗うのが先だろ」
それでも皐月は頑としてタオルを渡そうとしない。
まったく、この頑固さは誰に似たんだか。思わず苦笑いが零れたその時、皐月は大吾の後ろへとすばやく回った。
そして、
「うわぁ」
大吾の背中を見るや否や、感嘆の声を上げたのである。
背中に浮き上がる鮮やかな不動明王。
子供は怖くて泣き出すのが普通なのに、肝が太いのか鈍いのか、皐月は泣きもせずジッと背中を見つめている。
「このおにさん、なんていうの?」
鬼?言われて大吾は首を傾げたが、憤怒の形相の不動明王は確かに鬼に見えなくもない。
「これは『鬼』じゃねーよ。『不動明王』っていう、仏様だ」
「おにさんじゃないの?」
肩越しに皐月が首を傾げる気配がした。
小さく笑って、大吾は簡単に不動明王の説明を皐月に言って聞かせた。
「この仏様はな、怖い顔をしているが、本当は凄く優しい仏様なんだぞ。怖い顔は、悪い奴等を懲らしめる為なんだ」
「なめられないためなの?」
子供らしい発想に、大吾は思わず吹き出した。
「そうだな。なめられない為だな」
「じゃあ、ほんとのほんとはやさしいお顔をしているのね。おにさん言って、ごめんなさいなの」
そう言って、大吾の背中にお辞儀をして謝る気配がした。
子供らしい、単純な発想だ。
「ほら、もういいから。お前を洗うぞ」
後ろ手で皐月の手を掴んで、引っ張り出す。
力任せに引っ張ったのがまずかったか、拍子に皐月は盛大に尻餅をついた。
「ああ、悪い悪い。大丈夫か?」
ややぞんざいに謝ると、いつもは転んだって何したって泣かない皐月だったが、余程痛かったのか、盛大に泣き出した。
風呂場の反響が良く響く中、皐月の泣き声は近所中に響き渡った。
「おにさん、さつきをいじめる悪いパパをこらしめてほしいの」
「テメッ、どさくさに紛れて何言ってやがんだ!」
ぎゃあぎゃあと風呂場で騒ぐ親子に、背中の不動明王も苦笑いしたようだった。
家の中に突如として生えたそれに、皐月は目を丸くした。
緑生い茂るそれは、風にそよぐ度にサヤサヤと軽く耳に心地良い音を奏でた。
その隣で、遥は色とりどりの千代紙やら折り紙で、器用に飾りを作っている。皐月を見付けると、子供っぽい笑みを浮かべて手招きをした。
「それ、なぁに?」
皐月は指さして尋ねる。
始めて見るそれは、皐月には大変珍しいものだった。
「七夕様の飾り付けをしているのよ」
「たなばたさま?」
聞き慣れない言葉に、皐月はちょこんと首を傾げる。
遥は皐月を膝の上に乗せ、千代紙で作った短冊を一枚手に取った。
そして、七夕の物語を話して聞かせるのだ。
「七夕様はね、織姫っていうお姫様と牽牛っていう男の子の恋のお話なのよ」
「おひめさま?」
途端、皐月の目が輝いた。
やはりここは女の子、『お姫様』という言葉の響きに魅力を感じるのだろう。遥を仰ぎ見て、早く話の続きを聞かせろとせがんだ。
遥は皐月に自分の幼い頃を重ねた。自分もこうやって大人に、物語の続きをせがんだ時があった。お姫様や王子様、騎士に魔法使い。あの頃聞いた物語は、どんな宝物よりもキラキラ輝いていた。
そうだ、きっと皐月と同じ様に目を輝かせていたに違いない。
遥はそっと微笑した。
そして、分り易く丁寧に、皐月に七夕の話を聞かせるのだった。
「なんだ、これ?」
玄関に置かれた笹に、大吾は怪訝な顔付きで軽く払った。
笹の葉にぶら下がっているのは、色々な飾りと願い事が書かれた短冊。
そこで、ああ。と合点がいった。今日は七夕なのだ、と。
その一つを手にとって眺めると、解読不明な文字と思しき物が書かれた短冊があった。間違いなく皐月のものだ。
「あいつ。何願い事したんだ?」
子供のことだ、『ぬいぐるみが欲しい』とか『おもちゃが欲しい』とかそんなところだろう。この所、一緒にいる時間も減ってしまい寂しがっているのかもしれない。少し位、皐月の要望を聞いてやってもいいだろう。そう、大吾が思った時だった。
台所の方から忙しない足音がバタバタと二つ近付いてくる。
自分を出迎えに来たのか?靴を脱いで上がろうとする。その横を、けれども二つの足音は通り過ぎた。
「こらっ、皐月。それは吊るしてはダメ!」
「どうして?ママ、おねがいごとかいたらかなうって言ったの」
「言ったけど……。それはダメ!」
「さつきのいちばんほしいものなの。ぜったいこれはかざるの」
「いけません。こんなのパパに見られたら……」
「見られたら何なんだよ?」
どうやら自分を出迎えに来た訳ではなさそうだった。皐月と遥は何かを飾る飾らないで揉めていて、それを大吾が見ては遥は非常に困るという内容のものらしい。
大吾の言葉に遥は飛び上がらんばかりに驚く。幽霊かお化けでも見たかのような顔だ。
正直言って、面白くない。
大吾は膝を折って、皐月と目線を合わせた。
「何を飾ろうとしたんだ?」
手に持っているのは紛れもない、短冊。
遥が皐月の後ろからそれを奪い取ろうとするのを、大吾が簡単にその手を取る。
「いやぁ。皐月ダメよ!それは見せてはダメ!」
「いいや、皐月見せろ。見せないとお尻ペンペンだぞ」
「見せたら、おやつ抜きだからね」
「おやつなんか、後で俺がいっぱい買って来てやる。だからそれを見せろ」
暫く考えていた皐月だったが、ふと、思い出した様に大吾に尋ねた。
「パパがおねがいごと、かなえてくれるの?なら、みせてあげてもいいの」
やけに上から目線だな。苦笑いしながら、大吾は大きく頷いた。
「ああ、叶えてやる。何だ?ぬいぐるみか?おもちゃか?洋服か?」
見せる気だ!間違いなく、この子は見せる気だ!!そう確信した瞬間、遥は皐月の後ろで青くなった。
皐月は大きく首を振った。どうやら、そんな物ではないらしい。もっと重要で。もっと大切なものらしい。
「あのね……」
その瞬間、遥は廊下に崩れ落ちたのだった。
「何で必死に拒否ってんだよ」
皐月が寝付いた後、リビングで煙草を吹かしながら、大吾は笑いを含みながら隣に座る遥の頭を小突いた。
「だって……」
遥はその先は何も言わない。否、言えないのだ。
真っ赤になって、頬を膨らませ、そっぽを向く。その幼い仕草に、出会った頃と何ら変わってない遥に大吾の笑みは深くなって行く。
腰に手を回し、強引に引き寄せる。
「ちょ、ちょっと」
慌てふためく遥を無視して、奪う様に口付けるそれは煙草の味がした。
「皐月のたってのお願いだ。叶えてやらねぇと可哀相だろ?」
「もう」
ニヤリと笑って、大吾はもう一度口付けた。今度は深く、濃く。
「織姫と牽牛も夜空でよろしくやってんだ、こっちはこっちで楽しまねえとな」
「……バカ」
その頃、皐月はベッドの中で遠い遠い夢の中。
新しく増えた家族と、織姫と牽牛になった両親に挟まれ幸せな夢の中で、ご機嫌だった。
『あのね、さつき。きょうだいがほしいの』
2008/07/23 21:00
珍しく自室に大人しく篭っている皐月。
その顔には幼児には似つかわしくない笑みをゆったりと浮かべて、目の前の真新しい洋服を握り締める。
――ぜったい、ぜったい。パパよろこぶよね。だって、『おとこのろまん』ってやつだもん。
そこまで考えて、三歳児は思わず大の男が怯むような笑みを顔中に浮かべたのだった。
大吾は、今日は珍しく早めに仕事を切り上げた。
朝、出掛けに彼の愛妻である遥と愛娘である皐月と、ババアである弥生から喧しい程『早く帰れコール』を頂いたからである。
――何、企んでやがんだ?
彼が思うのはそんなところである。
例え、それが善意のものでも、彼にしては悪意の塊にしか取れない。悲しい男である。
ネクタイを緩めながら車から降りる。今日の最高気温は35度を超え、湿気も高く日本特有の蒸し暑さに閉口する。こんな時は、こんな黒服をかっちり着込む極道世界を呪いたくもなる。
堂島家の門扉を開けると、奥からパタパタと軽い足音が響いて来た。
来る人間は分っている。
皐月だ。
大吾はこの後、皐月が自分の胸に飛び込んで来るだろう事を予想し、受け止める覚悟を決めた。
が、彼のその期待は色々な意味で、物の見事外れる事になる。
カラカラと高い音をさせて、開いた玄関の向こうには、
「おかえりなさいませ、ごしゅじんさま」
黒いワンピースドレスに、白のフリフリエプロン、頭には白レースのカチューシャを着た皐月はどこからどう見ても、メイドだ。
大吾は思わず固まる。否、大吾だけではない。見送りに出た他の組員達も皆呆気に取られている。
皐月は大吾が固まったのを、嬉しさの為声も出ない。と取ったらしい。誇らしげに胸を反らし、どこか偉そうにご主人様を出迎えている。
皐月の声が中まで聞こえたのだろう家の奥から二つの笑い声が聞こえて来て、そこで始めて大吾は覚醒する。
「おい!なんだ、この凶悪な物体は!!」
「ぶったいじゃないもん、さつきだもん!」
「分ってるっつーの!!そうじゃねーよ、何なんだよ、お前のその格好は!!」
「さつき、メイドさんなの」
「まんまじゃねーか!そうじゃねーよ、俺が言いたいのはなぁ」
まさか愛娘にメイドコスをされて出迎えられるとは思ってもみなかったのだろう、大吾は軽く頭痛を覚えて額に手をやった。
皐月はといえば、後ろにいる組員を捕まえて『にあう?さつき、かわいい?』と問い掛けている。それに答える組員達も、大吾を気遣ってか曖昧な返事をする。
「どうしても、今日はその格好でパパをお出迎えするんだって言って、きかなかったの」
騒ぎを聞いて奥から出て来たのは、遥だ。
「だからって……」
大吾は激しく脱力する。
「パパ。パパはメイドさんきらいなの?『おとこのろまん』じゃないの?」
「どこで覚えて来た!そんな言葉!!」
が、大吾の怒鳴り声もどこ吹く風で、皐月は組員達に小首を傾げて尚も尋ねる。
「みんなは、『おとこのろまん』なの?」
「え?あ、はぁ……まぁ」
「時と場合によっては……」
「おい、こいつにまともに返事すんな」
鋭い眼光とともに、苦々しく言い捨てて、大吾はメイドの皐月を小脇に抱えて荒々しく玄関の扉を閉めた。
「……参った……」
ソファーに寄りかかりながら、大吾は深く息を吐いて、ビールを飲む。
台所を行ったり来たりしながら、皐月メイドは忙しく働いている。それを横目で見ながら大吾は首を捻る。
どうして今日、メイドなんだ?と。
彼の為におつまみを運んで来た遥に、なぁ。と短く声を掛け、声を潜めて尋ねる。
「なんだって、皐月はあんな格好してんだ?しかも今日って、なんかあったか?肝試しの予行練習か?」
だとしたら、一体皐月はどんなお化けの役なんだか。
遥は小さく笑った後、
「今日はあなたの誕生日の前日でしょ。明日が本番なんだけど、明日は遅くなるって言っていたから、『今日メイドさんになってパパをおもてなしするんだ』って。朝からずっと張り切っていたのよ」
大吾は忙しなく、弥生の側でウロチョロ動き回る小さなメイドの背中を見つめた。
こういった職業柄、行事物には酷く疎くなる。こと、自分の事となると尚更だ。
「怒らないであげてね?」
「……怒れっかよ」
大吾は憮然と答える。
こうして、誰かが自分の事を祝ってくれるというのはいいものだ。それが、新しく増えた家族だと、喜びもひとしおだ。
「あー、ママずるいの!パパひとりじめきんし!!」
「はいはい。パパは皆のだもんね」
「ねー?」
「願い下げだ」
素っ気無く言い捨て、残りのビールを煽った。
「皐月ちゃん、パパにとっておきのプレゼントがあるんじゃないのかい?」
台所からケーキを持って来た弥生は、含みのある声で皐月に告げる。
皐月は大きく頷いて、おもむろに大吾の膝の上に乗った。
「重いだろ。お前は、俺を持て成すんじゃなかったのかよ!」
言葉とは裏腹に大吾は皐月をどかそうとはしなかった。それどころか、落ちない様にしっかりと腰を抱いてやっている。
皐月は少しだけ恥ずかしそうにもじもじとしていたが、
「パパ、おさわりしていいよ」
とんでもない事を口にしたのである。
弥生と遥は口に手を当て、肩を震わせながら必死で笑いを噛み殺している。
恐らくは、そう言う事を皐月から聞かされていたのだろう。仕掛けが成功したとばかりに、二人は手も取り合わんばかりの喜びようだ。
「はあ?」
かたや、大吾は目を白黒させた。
よりにもよって、愛娘からそんな風俗嬢紛いの言葉を聞くとは思いもよらなかったのだろう。そう言ったきり、中々次の言葉が出て来ない。
皐月は若干、頬を赤らめながら尚も言う。しかも目を固く瞑っている。これは相当な覚悟の上の言葉だろう。
「さつき、パパにならがまんするから」
「……な、にを。どう、我慢するから、だ!皐月ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!」
「なんで、おこるの?なんで、おこるの?『おさわりもおとこのろまん』なんでしょ?」
「どこの言葉だ!!テメ、父親を犯罪者に仕立て上げてーのか!!あぁ?」
「ママ~。パパがおこったぁ~」
「あらあら、何でだろうねぇ?」
「冗談を間に受けるなんて、本当に器の小さい男だよ。皐月ちゃん、そんなパパほっといて、ケーキ食べな」
「わーい、おばあちゃん。だいすきーー」
「ちょ、待て、皐月。話はまだ終わってねぇ!!コラッ、無視してケーキを貪り食うな!!」
大吾の怒声を背中に受けながら、皐月は弥生が用意してくれたケーキをお腹一杯食べるのだった。
そして、その後皐月のメイド服は使用禁止となり押入れの奥深くに押し込められ、妙な言葉を使ったらデコピンの刑と言い渡されてしまった。
いつも家を抜け出す時は大変だ。
おばあちゃんはいない時が多いが、その代わり行儀見習いで堂島の家に住み込みで暮らす若衆らが何人かいる。そういった者に見つかったが最後、皐月は家から一歩も外に出る事は出来ない。
理由は危ないからだ。
しかし、まだ幼く、外への好奇心も人一倍ある皐月にはそれは苦行以外の何ものでもない。
――ちょっとだけだもん。お友達のところにあそびに行くだけだもん。
この間見つけた、塀の下の方に少しだけ開いている穴。
まだ誰にも見つかっていないらしく、その穴はまだそこにあった。
皐月は、小さな体を捻りこませる様にしてその穴を潜る。
家で大人しくする人形遊びも、お絵描きも、もう飽きた。
そこらへんにいる若衆達に声を掛けて、ままごと遊びをするも、のってくれないから正直つまらない。
それに今日は大好きなママもいない。絵本を読んでくれて、お昼寝に添い寝してくれて、美味しいおやつを作ってくれるママは用事があって、大阪まで出掛けている。
大阪へ何をしに行っているのか、皐月には分からない。ただ、付いて行ってはダメだという事だけだ。
――いいもん。それなら、さつきだって。
と、母親に対して変な対抗意識が燃える。
スカートに付いた泥を手で払い落とすと、皐月は勢いよく駆け出した。
彼女が言う、『お友達』の所に遊びに行く為に。
「こんにちは、なの」
事務所内に小さな声が響いた。
皆、事務作業の手を休め、小さな声の主を目で探す。
扉の前に、それはいた。
白い兎のキャラクターのポシェットを斜め掛けにして、赤いリボン二つを髪に付けた幼女が扉の前にポツンと立っていた。
「まじまのおじいちゃんは?」
真島建設の社員はこの言葉に面食らう。社長の真島を『おじいちゃん』と呼ぶなんて……。そもそもこんな幼女が社長に何の用があるというのか?もしかして、社長の隠し子か何かか?
しかし、幼女はそんな社員の思惑など知る由もなく、小首を傾げながら、自分よりも遥かに大きい社員を見上げてなおも尋ねて来る。
「まじまのおじいちゃんはおしごとちゅうなの?それとも、おでかけちゅうなの?」
「え?あ、いや……。親父、いや、社長は……」
言って社員は狼狽しながらも社長室に視線を動かした。
真島はいる。
社長室で暇を持て余して、椅子の上でふんぞり返っている。ただ暇過ぎて、少々機嫌が悪い。そんな真島にこの幼女を合わせていいものだろうか?下手すると自分が折檻を受けてしまうのではないか?
社員が、幼女を前に逡巡していると、おもむろに幼女は社長室へと歩き出した。どうやら、彼が先程動かした視線の一瞬を見逃さなかったようである。
中々、聡い子のようだ。
そして、ドアを何の躊躇いもなくノックをする。
「おじいちゃん。まじまのおじいちゃん。さつきだよ、あそびに来たよ。あ~そ~ぼ~」
物怖じしない性質なのか、大の大人でも震え上がる真島に対しても、幼女はまったくの友達扱いだ。
「皐月ちゃんやないかい。どこの可愛子ちゃんかと思たでぇ」
社長室が開き、ご機嫌の笑みで幼女を出迎えた真島建設の社長こと真島吾郎は両手を広げて歓迎の意を示した。
その両手の中に、ジャンプして皐月は飛び込む。
虎が口を開けて待っている、そんな中に躊躇いもせずに皐月は真島の腕の中へ入ると、幸せそうに頬ずりをした。
「なんやぁ?今日の皐月ちゃんは甘えん坊さんやなぁ。なんや、わし照れてまうがな」
「だって、さつき。まじまのおじいちゃんだいすきなんだもん。おじいちゃんは?」
顔を上げ、真島を見つめる。
その瞳は純粋で、無垢で、清らかだ。
「わしも大好きやで!皐月ちゃんは可愛ええなぁ」
皐月の好きなものは好きと、正直に言えるその素直さが真島のお気に入りだった。
小さな体を軽々担ぎ上げると、ポカンと二人の遣り取りを見守っている社員等にジュースを持って来るように告げ、片手で扉を閉めた。
「親父って……ロリやったんか……?」
「嘘」
暫く、動く事も出来ない程ショックを受けている社員達は、その後ハッとしたようにジュースを買いに走るのだった。
社長室の椅子に座る真島の膝の上に乗せられ、皐月はご機嫌だった。大吾には会っては駄目だと言われたが、こうやって遊びに来ると必ず歓迎してくれる。
皐月にとって真島は面白くて、優しい、大好きなおじいちゃんなのだ。柏木は別の意味で大好きなおじいちゃんなのだけれど。
「今日は、一人で来たんかいな?ママはどないしてん?」
「ママはね、おおさか行っているの。さつき、ひとりで来たんだよ。ぬけだすの、ちょっとむつかしかったの」
「一人でここまで来たんかいな?皐月ちゃんは勇者やのう」
「ゆうしゃ?」
「強い子っちゅう、意味や」
「うん。さつき、つよいこ!」
が、元気良くそう言ったのも束の間、皐月の頭はシュンッと項垂れる。
「どうしたんや?」
小さな頭に手を置きながら、真島は皐月の突然の気落ちに訝しげに尋ねる。
「あのね。パパがね。まじまのおじいちゃんに、会ったらダメって言うの。なんでだろうね?さつき、まじまのおじいちゃんだいすきなのに」
「そら、パパが悪いな」
「そうだよね?パパはおうぼうだよね?」
『横暴』。漢字では言えてないようだが、幼女がそんな小難しい言葉を使った事に真島は驚いてみせる。
「皐月ちゃんは頭ええなぁ。『横暴』て、そない難しい言葉知っとるなんて。一人でここまで来る勇気もあるし。わし、皐月ちゃんを嫁さんにしたい位や」
「……およめさんは、むりなの……」
「そらまた、なんで?」
「まじまのおじいちゃんはだいすきなの。でも、でもね。さつき、大きくなったらパパのおよめさんになってあげるの。だから、まじまのおじいちゃんのおよめさんにはなれないの……。ごめんなさい」
「あぁ、わしがっかりや。パパじゃ勝ち目ないなぁ。ブロークンハートやで、皐月ちゃん」
「ごめんね。ごめんね、おじいちゃん」
皐月は必死で謝る。
子供ながらに、真島を傷つけてしまったと思ったらしい。微かに目に涙を溜めて、皐月は懸命に謝る。その必死な姿が可笑しくて、真島は笑いを噛み殺すのに必死だ。
冗談で言った事を間に受けて、涙まで浮かべて……。
――中身は、大吾にそっくりなんやないんか?
まるで、小さい大吾に謝られている感覚を覚え、尚も笑いが込み上げてくる。それをこちらも必死の思いで飲み込みながら、真島は皐月を見下ろす。
ふと、扉の外が騒がしくなった。
誰かが事務所にやって来たらしい。
客人か?
真島は僅かに腰を浮かせる。が、客人を迎えるにしては妙に騒がしい。
さらに、微かに洩れ聞こえる言葉は、『落ち着いて下さい』だの『ぶっ殺す』だの穏やかでない言葉が行き交っている。
真島は微かに口の端を上げた。
そして、
「ナイト様のご登場や」
キョトンとする皐月に、ニヤリと意地の悪い笑みを向けた。
次の瞬間、荒々しく社長室の扉が開かれた。
「皐月!!」
入って来たのは桐生。
真島の膝の上にいる皐月を見付けるや否や、桐生は皐月を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎!!」
ビクリッと皐月の小さな体が大きく震える。
普段から皐月にはめっぽう甘く、滅多な事では声を荒げない桐生しか知らなかっただけに、怒り心頭の桐生を始めて目の当たりにして、皐月の顔は恐怖で歪む。
「お前、誰にも何処に行くとも言わなかったらしいじゃないか。皆心配で、どれだけ探し回っているか。分っているのか?」
「まぁまぁ、桐生ちゃん。そんなに怒らんでもええやないか。皐月ちゃんは、わしに会いたいがため大冒険してここまでやって来たんや。ここは、広い心で温かく皐月ちゃんの成長を見守るべきやろ」
「兄さん……」
そうは言うものの、皐月はまだ三歳になったばかりだ。
世の中、良い人ばかりではないし、皐月に頭を下げている人間だっていつ、牙を剥くか分らないのがこの世の中だ。
桐生は、肩から脱力する。
いつの間に真島の膝の上から降りたのか、見れば眉を八の字にした皐月が桐生のズボンの裾を無言で握っていた。
口はへの字で、何かに耐えているようである。その何かは、泣く事である事は間違いなかったが。
「……心配したぞ」
「ご、ごめんなさい」
「今度からは、誰かに何処に行くのか言う事。それと、一人では決して出掛けない事。分ったな?」
皐月は口をへの字のまま素直に頷いた。
余程、桐生の大一喝が答えたらしい。中々、桐生の顔を見ようとしない。
「皐月ちゃん。また遊びに来ぃやぁ。おじいちゃん、いつでも待っとるでぇ」
「兄さん!」
「そん時は、後ろのうっさいおっちゃんは撒いてくるんやでぇ。キャンキャン五月蝿くて、適わんからなぁ」
皐月は中々返事をしなかった。恐らく、隣の桐生に気遣っての事なのだろう。
そんな皐月に苦笑いを零しつつ、隻眼は鋭く桐生を捕らえた。その鋭さは、獲物を狙う猛禽が如くだ。
「小さい子、あんまり苛めるんやないでぇ」
ふとその鋭さを緩めて、おどけるように真島は言った。小さく一礼をして、桐生は部屋を出て行った。遠くなる足音に、必死に泣く事を堪えていた皐月の顔が蘇る。
「流石は六代目の子ぉや。なんや、わし、マジ惚れしそうや」
そう呟いた真島の顔は、この上なく愉快だった。
家に着くと、弥生が門の前を行ったり来たりしながら皐月の帰りを待っていた。
桐生に抱きかかえられている皐月を見つけると、駆け寄り、桐生から奪うように抱き取り、力の限り抱き締めた。
「まったくもう、心配かけて。この子は、この子は」
そんな言葉を、呪文のように繰り返しながら、尚も力一杯抱き締めた。
家の中に入ると、大吾が鬼の様な顔をして居間に座って、皐月の帰りを待ち構えていた。
大の男でも、近付く事は憚れる様なオーラを体中から出していた。皐月も、只ならぬ大吾の気配に居間に入る事を嫌がったが、弥生と桐生に背中を押され、渋々一歩。また一歩と、大吾の前に進む。
「……パ、パパ」
恐々、腕を組んで目を瞑っている大吾に皐月は声を掛ける。
大吾は皐月を軽く一瞥したものの、無言である。その無言が何よりも怖い。
襖の向こうでは、皆が固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。
「皐月」
暫く黙っていた大吾だったが、不意に声を掛けた。
皐月の小さな背中がシャンッと伸びる。
「怪我はないか?」
「う、うん……」
「そうか。なら、いい」
ふっと、大吾の顔が父親の顔になる。
皐月は腰を浮かせ、自分でも知らぬ内に駆け出していた。そして、大吾に抱き付き声を押し殺して泣いた。
今の今まで耐えていたものが、怒涛の如く小さな胸に押し寄せて来たのだろう。皐月は暫くの間、泣き止まなかった。
声を上げるのは皐月の矜持が許せないのだろう。子供らしからぬ泣き方に大吾は、その背中を叩いてあやした。その顔は、安堵の色で溢れていた。