いつも家を抜け出す時は大変だ。
おばあちゃんはいない時が多いが、その代わり行儀見習いで堂島の家に住み込みで暮らす若衆らが何人かいる。そういった者に見つかったが最後、皐月は家から一歩も外に出る事は出来ない。
理由は危ないからだ。
しかし、まだ幼く、外への好奇心も人一倍ある皐月にはそれは苦行以外の何ものでもない。
――ちょっとだけだもん。お友達のところにあそびに行くだけだもん。
この間見つけた、塀の下の方に少しだけ開いている穴。
まだ誰にも見つかっていないらしく、その穴はまだそこにあった。
皐月は、小さな体を捻りこませる様にしてその穴を潜る。
家で大人しくする人形遊びも、お絵描きも、もう飽きた。
そこらへんにいる若衆達に声を掛けて、ままごと遊びをするも、のってくれないから正直つまらない。
それに今日は大好きなママもいない。絵本を読んでくれて、お昼寝に添い寝してくれて、美味しいおやつを作ってくれるママは用事があって、大阪まで出掛けている。
大阪へ何をしに行っているのか、皐月には分からない。ただ、付いて行ってはダメだという事だけだ。
――いいもん。それなら、さつきだって。
と、母親に対して変な対抗意識が燃える。
スカートに付いた泥を手で払い落とすと、皐月は勢いよく駆け出した。
彼女が言う、『お友達』の所に遊びに行く為に。
「こんにちは、なの」
事務所内に小さな声が響いた。
皆、事務作業の手を休め、小さな声の主を目で探す。
扉の前に、それはいた。
白い兎のキャラクターのポシェットを斜め掛けにして、赤いリボン二つを髪に付けた幼女が扉の前にポツンと立っていた。
「まじまのおじいちゃんは?」
真島建設の社員はこの言葉に面食らう。社長の真島を『おじいちゃん』と呼ぶなんて……。そもそもこんな幼女が社長に何の用があるというのか?もしかして、社長の隠し子か何かか?
しかし、幼女はそんな社員の思惑など知る由もなく、小首を傾げながら、自分よりも遥かに大きい社員を見上げてなおも尋ねて来る。
「まじまのおじいちゃんはおしごとちゅうなの?それとも、おでかけちゅうなの?」
「え?あ、いや……。親父、いや、社長は……」
言って社員は狼狽しながらも社長室に視線を動かした。
真島はいる。
社長室で暇を持て余して、椅子の上でふんぞり返っている。ただ暇過ぎて、少々機嫌が悪い。そんな真島にこの幼女を合わせていいものだろうか?下手すると自分が折檻を受けてしまうのではないか?
社員が、幼女を前に逡巡していると、おもむろに幼女は社長室へと歩き出した。どうやら、彼が先程動かした視線の一瞬を見逃さなかったようである。
中々、聡い子のようだ。
そして、ドアを何の躊躇いもなくノックをする。
「おじいちゃん。まじまのおじいちゃん。さつきだよ、あそびに来たよ。あ~そ~ぼ~」
物怖じしない性質なのか、大の大人でも震え上がる真島に対しても、幼女はまったくの友達扱いだ。
「皐月ちゃんやないかい。どこの可愛子ちゃんかと思たでぇ」
社長室が開き、ご機嫌の笑みで幼女を出迎えた真島建設の社長こと真島吾郎は両手を広げて歓迎の意を示した。
その両手の中に、ジャンプして皐月は飛び込む。
虎が口を開けて待っている、そんな中に躊躇いもせずに皐月は真島の腕の中へ入ると、幸せそうに頬ずりをした。
「なんやぁ?今日の皐月ちゃんは甘えん坊さんやなぁ。なんや、わし照れてまうがな」
「だって、さつき。まじまのおじいちゃんだいすきなんだもん。おじいちゃんは?」
顔を上げ、真島を見つめる。
その瞳は純粋で、無垢で、清らかだ。
「わしも大好きやで!皐月ちゃんは可愛ええなぁ」
皐月の好きなものは好きと、正直に言えるその素直さが真島のお気に入りだった。
小さな体を軽々担ぎ上げると、ポカンと二人の遣り取りを見守っている社員等にジュースを持って来るように告げ、片手で扉を閉めた。
「親父って……ロリやったんか……?」
「嘘」
暫く、動く事も出来ない程ショックを受けている社員達は、その後ハッとしたようにジュースを買いに走るのだった。
社長室の椅子に座る真島の膝の上に乗せられ、皐月はご機嫌だった。大吾には会っては駄目だと言われたが、こうやって遊びに来ると必ず歓迎してくれる。
皐月にとって真島は面白くて、優しい、大好きなおじいちゃんなのだ。柏木は別の意味で大好きなおじいちゃんなのだけれど。
「今日は、一人で来たんかいな?ママはどないしてん?」
「ママはね、おおさか行っているの。さつき、ひとりで来たんだよ。ぬけだすの、ちょっとむつかしかったの」
「一人でここまで来たんかいな?皐月ちゃんは勇者やのう」
「ゆうしゃ?」
「強い子っちゅう、意味や」
「うん。さつき、つよいこ!」
が、元気良くそう言ったのも束の間、皐月の頭はシュンッと項垂れる。
「どうしたんや?」
小さな頭に手を置きながら、真島は皐月の突然の気落ちに訝しげに尋ねる。
「あのね。パパがね。まじまのおじいちゃんに、会ったらダメって言うの。なんでだろうね?さつき、まじまのおじいちゃんだいすきなのに」
「そら、パパが悪いな」
「そうだよね?パパはおうぼうだよね?」
『横暴』。漢字では言えてないようだが、幼女がそんな小難しい言葉を使った事に真島は驚いてみせる。
「皐月ちゃんは頭ええなぁ。『横暴』て、そない難しい言葉知っとるなんて。一人でここまで来る勇気もあるし。わし、皐月ちゃんを嫁さんにしたい位や」
「……およめさんは、むりなの……」
「そらまた、なんで?」
「まじまのおじいちゃんはだいすきなの。でも、でもね。さつき、大きくなったらパパのおよめさんになってあげるの。だから、まじまのおじいちゃんのおよめさんにはなれないの……。ごめんなさい」
「あぁ、わしがっかりや。パパじゃ勝ち目ないなぁ。ブロークンハートやで、皐月ちゃん」
「ごめんね。ごめんね、おじいちゃん」
皐月は必死で謝る。
子供ながらに、真島を傷つけてしまったと思ったらしい。微かに目に涙を溜めて、皐月は懸命に謝る。その必死な姿が可笑しくて、真島は笑いを噛み殺すのに必死だ。
冗談で言った事を間に受けて、涙まで浮かべて……。
――中身は、大吾にそっくりなんやないんか?
まるで、小さい大吾に謝られている感覚を覚え、尚も笑いが込み上げてくる。それをこちらも必死の思いで飲み込みながら、真島は皐月を見下ろす。
ふと、扉の外が騒がしくなった。
誰かが事務所にやって来たらしい。
客人か?
真島は僅かに腰を浮かせる。が、客人を迎えるにしては妙に騒がしい。
さらに、微かに洩れ聞こえる言葉は、『落ち着いて下さい』だの『ぶっ殺す』だの穏やかでない言葉が行き交っている。
真島は微かに口の端を上げた。
そして、
「ナイト様のご登場や」
キョトンとする皐月に、ニヤリと意地の悪い笑みを向けた。
次の瞬間、荒々しく社長室の扉が開かれた。
「皐月!!」
入って来たのは桐生。
真島の膝の上にいる皐月を見付けるや否や、桐生は皐月を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎!!」
ビクリッと皐月の小さな体が大きく震える。
普段から皐月にはめっぽう甘く、滅多な事では声を荒げない桐生しか知らなかっただけに、怒り心頭の桐生を始めて目の当たりにして、皐月の顔は恐怖で歪む。
「お前、誰にも何処に行くとも言わなかったらしいじゃないか。皆心配で、どれだけ探し回っているか。分っているのか?」
「まぁまぁ、桐生ちゃん。そんなに怒らんでもええやないか。皐月ちゃんは、わしに会いたいがため大冒険してここまでやって来たんや。ここは、広い心で温かく皐月ちゃんの成長を見守るべきやろ」
「兄さん……」
そうは言うものの、皐月はまだ三歳になったばかりだ。
世の中、良い人ばかりではないし、皐月に頭を下げている人間だっていつ、牙を剥くか分らないのがこの世の中だ。
桐生は、肩から脱力する。
いつの間に真島の膝の上から降りたのか、見れば眉を八の字にした皐月が桐生のズボンの裾を無言で握っていた。
口はへの字で、何かに耐えているようである。その何かは、泣く事である事は間違いなかったが。
「……心配したぞ」
「ご、ごめんなさい」
「今度からは、誰かに何処に行くのか言う事。それと、一人では決して出掛けない事。分ったな?」
皐月は口をへの字のまま素直に頷いた。
余程、桐生の大一喝が答えたらしい。中々、桐生の顔を見ようとしない。
「皐月ちゃん。また遊びに来ぃやぁ。おじいちゃん、いつでも待っとるでぇ」
「兄さん!」
「そん時は、後ろのうっさいおっちゃんは撒いてくるんやでぇ。キャンキャン五月蝿くて、適わんからなぁ」
皐月は中々返事をしなかった。恐らく、隣の桐生に気遣っての事なのだろう。
そんな皐月に苦笑いを零しつつ、隻眼は鋭く桐生を捕らえた。その鋭さは、獲物を狙う猛禽が如くだ。
「小さい子、あんまり苛めるんやないでぇ」
ふとその鋭さを緩めて、おどけるように真島は言った。小さく一礼をして、桐生は部屋を出て行った。遠くなる足音に、必死に泣く事を堪えていた皐月の顔が蘇る。
「流石は六代目の子ぉや。なんや、わし、マジ惚れしそうや」
そう呟いた真島の顔は、この上なく愉快だった。
家に着くと、弥生が門の前を行ったり来たりしながら皐月の帰りを待っていた。
桐生に抱きかかえられている皐月を見つけると、駆け寄り、桐生から奪うように抱き取り、力の限り抱き締めた。
「まったくもう、心配かけて。この子は、この子は」
そんな言葉を、呪文のように繰り返しながら、尚も力一杯抱き締めた。
家の中に入ると、大吾が鬼の様な顔をして居間に座って、皐月の帰りを待ち構えていた。
大の男でも、近付く事は憚れる様なオーラを体中から出していた。皐月も、只ならぬ大吾の気配に居間に入る事を嫌がったが、弥生と桐生に背中を押され、渋々一歩。また一歩と、大吾の前に進む。
「……パ、パパ」
恐々、腕を組んで目を瞑っている大吾に皐月は声を掛ける。
大吾は皐月を軽く一瞥したものの、無言である。その無言が何よりも怖い。
襖の向こうでは、皆が固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。
「皐月」
暫く黙っていた大吾だったが、不意に声を掛けた。
皐月の小さな背中がシャンッと伸びる。
「怪我はないか?」
「う、うん……」
「そうか。なら、いい」
ふっと、大吾の顔が父親の顔になる。
皐月は腰を浮かせ、自分でも知らぬ内に駆け出していた。そして、大吾に抱き付き声を押し殺して泣いた。
今の今まで耐えていたものが、怒涛の如く小さな胸に押し寄せて来たのだろう。皐月は暫くの間、泣き止まなかった。
声を上げるのは皐月の矜持が許せないのだろう。子供らしからぬ泣き方に大吾は、その背中を叩いてあやした。その顔は、安堵の色で溢れていた。
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