事の発端は、皐月の我儘だ。
足をばたつかせ、幼児だけの特権である駄々を皐月はやったのだ。
「あそびにいきたいの!」
「お前はいつも遊んでるだろ?」
「とおくにあそびにいきたいの!」
「この間、桐生のおじいちゃんのとこに泊まりに行ったでしょ?」
「とおくにあそびにいきたいの!」
「皐月ちゃん。そんなに足を乱暴にしていると、踵が痛くなるよ」
「あそびにいきたいんだもん!!ぅえーーん」
終いにはとうとう泣き出した。
畳に突っ伏し、えーんえーんと、声を張り上げ泣きじゃくる。
その様子を、大人達三人は困った様に見下ろしていた。
そんな事があった3日後、皐月は新幹線の中にいた。椅子からはみ出した足をプラプラさせ、窓の外を食い入るように眺めている。
そんな皐月の顔はどこか得意気だ。
念願叶って、遠出の旅行が決まったのだ。嬉しくないわけがない。
さっき車内販売のお姉さんから買ったアイスを食べながら、満面の笑顔で振り向く。
「ママ、りょこうたのしみね」
もう、何回口にしたか分らないその言葉を、皐月は飽きもせず口にする。
遥は微笑んで、小さく頷いた。
皐月の口の周りのアイスをウェットティッシュで拭きとってやりながら、
「この旅行の間は絶対に、いい子でいること。分っているわね?」
「うん!さつき、いい子にしてる!」
間髪いれずに、力強く頼もしい返事が返って来たが、遥はやっぱり不安でならない。
美味しそうに、アイスを頬張る我が子の横顔を見ながら、分らないようにそっと小さく溜め息を吐くのだった。
「ふわぁ」
目的地に降り立って、皐月はそう一声上げたかと思うと、口をあんぐりと開けたまま呆けた様に辺りを見渡した。
色取り取りの看板、雑多な建物、道歩く人が発する言葉は異国の言葉の様に皐月の耳に届く。何処からともなく何かが焼けるいい匂いに、皐月の小さな足は自然匂いの元を辿りそうになる。
その背中に、
「皐月!」
小さな叱責を受けて、皐月は渋々遥の隣に戻る。
今回の旅の約束事は、
『いい子にしていること』
思い出し、少しだけしょげる。
折角、見たことも嗅いだ事もない食べ物が食べられるのに。
小さく俯いた皐月の頭に、優しい温もりが落ちた。見上げると、遥がニコリと笑って皐月を見下ろしていた。
そして、手を伸ばし皐月の小さな手を取って歩く。
人混みの中に紛れるようにして、二人の小さな影は見えなくなった。
「こんにちは」
「あら?遥ちゃんやないの、久し振りやねぇ」
カウンターの奥で、洗い物をしていた女が声を聞いて出て来た。
「こんにちわぁ」
その隣で、皐月も遥に習って挨拶をする。
女は、視線を落とすと人のいい笑みを浮かべて、
「はい、こんにちは。はじめましてやねぇ、皐月ちゃん」
「さつきのことしってるの!?」
「知ってるもなにも、うちは一回皐月ちゃんに会うているんよ。皐月ちゃんが赤ちゃんだった時にね」
目を丸くして驚く皐月に、女は笑顔になった。
冷蔵庫から烏龍茶とジュースを出し、カウンターに乗せて、椅子に座るように勧める。遥は短く礼を言って皐月を椅子に座らせてから、隣に自分が座り、出されたお茶を一口飲んだ。
「ほんまに、あんたの小さい頃そっくりやね。この子は」
「そうかな?薫さんは大吾さんに似ているって言うし、桐生のおじさんは私に似ているって言うし、どっちに似ているのか、実際の所良く分らないんだけど」
「あはは。そりゃそうや。子供は両親のどっちにも似るもんや。どっちかだけなんてあらへん。――せやけど、そうやね。どちらか言うたら、遥ちゃんやないん?」
「さつき、ママに似ているの?」
「そっくりや」
「わぁい!!おばあちゃん、ありがとうなの!!」
余程、その一言が嬉しかったのか皐月は椅子から飛び降りて、クルクル回って踊りだした。
「おばあちゃん、か」
「あ、あの。すみません」
民代が小さく呟いたのを、遥は聞き逃さなかった。
慌てて、平謝りをする。けれども、民代がそれを制した。
「あんたは、桐生さんとこの娘や。ちゅうことは、桐生さんとこに嫁いだ薫の娘でもある。あの子は、うちの孫で間違いない、ね?」
「民代さん」
「おばあちゃんは、薫おねえちゃんのママなの?」
それまでクルクル回っていた皐月が、動きを止め、民代を見上げた。
「『薫お姉ちゃん』?」
民代は首を傾げた。
桐生の娘の子なら、薫を『おばあちゃん』か『おばちゃん』と呼ぶべきではなかろうか?何故、それよりも下になる『おねえちゃん』と呼ぶのか?
思案気にしていると、遥が言い難そうに俯きながら訳を話した。
「あ、あの……、最初『おばちゃん』って呼んだんですけど、薫さんそう呼ばれた瞬間、凍ってしまって……。それでその、それ以降、皐月には薫さんのことは『おねえちゃん』って呼ぶように言い聞かせているんです……」
遥の説明に、民代はほとほと呆れたと言う様に首を振った。
「まったく、あの子は……。そやで、皐月ちゃん。うちは薫のママで、皐月ちゃんのおばあちゃんや。いや、待ちい。薫がお婆ちゃんにあたるんやろ。そうしたら、うちは……。うちは『曾婆ちゃん』かい!」
恐ろしい現実を突きつけられて、民代は思わず絶句する。
孫をスキップで飛ばし、いきなり曾孫とご対面とは。
「ギネス更新やな」
「え?」
「こんなに若い曾ばあちゃんやなんて、そりゃ、ギネスもビックリの若さやろ」
そう言って、民代は軽く片目を瞑って見せた。
そして、次の瞬間何かを思い出したかの様な顔になり、意地の悪い笑顔を一瞬だけ、その頬に乗せた。
「さつきね、おばあちゃんは、弥生おばあちゃんだけだと思っていたから、すっごくうれしいの」
「良かったねぇ、皐月」
「そうそう、遥ちゃん」
民代は微笑ましい遣り取りを目にしながら、満面の笑顔でこう尋ねた。
「もう一人の、大阪のお爺ちゃんには会うて行かへんの?」
「もう一人の?」
「おおさかのおじいちゃん?」
皐月と遥はその言葉に、訳が分らず顔を見合わせた。
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