嵯峨薫の横顔を見ている。
あの趣味の悪いサングラスを取ると意外と目が大きいなあとか、そんな他愛も無い事を考えては恥かしくなって憎まれ口を叩いてしまう。
本当はうららにも分かっている。憎く思っているならこの男は他人を傍に置いたりしないし、こんな駄目な所だらけの手の掛かる女は元々趣味なんかじゃないのだと。嵯峨薫は捻くれ者だ。皮肉屋だし擦れたオヤジだ。でも凄く有能だ。有能だからこそ無能な人間を見極める手管に長けている。うららは時折それに気後れする。自分が駄目だと分かっているから、直そうと思っているけど何時だって裏目に出てしまうから、何時かさよならを言われてしまうのではないかと怯えている。開き直れないのは惚れた弱味だ。比べられる事を恐れている。過去に愛した女はさぞかし有能だったのだろう。背伸びをしたくて必死になる。それでも嵯峨薫に釣り合う女には未だなれない。
私にはやっぱり無理なのかな、と時折うららは涙を零す。酷い事を言われる訳でもされる訳でもない。嵯峨薫の有能さに追い付けなくなるからだ。好きよ、好きだよなんて言葉を彼が好まない事は分かっている。こうして傍に居てくれる事が何よりの証なのだと分かっている。分かっていたってうららは確実な形が欲しい。ただ一度、好きだの一言が欲しいのだ。そうでないとうららは不安定で此処に居ていいのか分からなくなってしまう。けれど此処で抱く抱かないの話に持ち込むのは自分があまりに惨めだった。それに過去に通り過ぎて行った男達と嵯峨薫を対等に見るような気がして許せない。其処まで惚れている男に形を求めてしまう自分が情けない。情けないから泣きたくなる。こんなみっともない自分を見られたくないと思う。今度こそ愛想を尽かされたって文句は言えないと何時でもそう思っている。だから素直に本音を見せて泣いて縋る事も出来ない。本当はその胸で泣きたいのに、何時でも友達の胸を借りてしまう。悪循環で嫌になる。そうしてうららはまた思う。私にはやっぱり無理なのかな。無理にしているのは自分自身だ。分かっている。
嵯峨薫はうららを好いてくれている。憎からず思っている、より一歩踏み込んだ感情を向けてくれているだろう。うららにも何となくそれは感じて取れるのだ。それでも信じ切る事が出来ないのは偏に自分が狭量だからだ。きっと美樹さんは違ったんだろうな、と思うと嫉妬と自己嫌悪で死にたくなる。馬鹿馬鹿しい、きっとこんな事を思ってるなんて知れたら嵯峨薫は軽蔑するだろう。過去の女に縛られるなと思う癖に、自分が一番過去の女に囚われている。嵯峨薫の人生を変えてしまった浅井美樹と云う女が羨ましく、妬ましかった。他人に”もう終わった事なんだしさ”などと軽々しく言って来た自分を恥じた。彼女は私を見たらどう思うだろうか。知りもしない女の事など考えても仕方が無い。それに彼女も私などに懐われたくはないだろう。また自分が駄目な女に思えて来る。こんな時好きの一言があったなら、どんなに救われるか知れないのに。こうやってあたしは相手を責めてしまうから恋が崩れてしまうのだ。行き場がない。とても切ない。
「背伸びするなぃ」
嵯峨薫は煙草の煙を吐き出しながら呆れたようにうららに言う。咎めている訳ではないと分かっているのに、優しさなのだと分かっているのにうららは言葉に詰まってしまう。舞耶のような強さもエリーのような純粋なひたむきさも持てない自分が悲しかった。彼女達の恋に比べれば自分なんてよっぽど恵まれているのに。気付くとこうしてうららはまた比べてしまう。幸福など他人と較べて決めるものではないと分かっている。分かっているけど基準がないと不安で堪らない。好きと言って抱き締めて満たしてくれれば傾ぐ心を体が支えてくれる。けれど求めてしまえば見限られる気がしている。恋人なんて、愛を囁いてキスをして抱き合うものだと思っていた。本当はそんな幻想を今でも胸に抱いていて、現実との隔たりに失望している。うららの孤独はきっと誰にも理解出来ぬ。こんなもの、誰でも心の裡には持っていて、つまらなくて有り触れていて、だからこそ誰も口にはしないからだ。
「だって背伸びしなくちゃ怖くて立ってられないの。」
どうしてその一言が言えないのだろう。だからと言って相手を責めるのは責任転嫁だ。助けてなんて甘く縋る事も今更出来ず、片意地を張って頑張るしかない。それでも嵯峨薫の傍に居たい。好きなのだ。あんな男。ろくでなしと思いながら、矢張りうららは嵯峨薫が好きなのだ。惚れている。傍に居たい。辛くたって怖くたってあの男の訳の分からない突っ張りを傍で見守っていてやりたい。そして冷たい夜にその背中が一人ぼっちであるならば、傍らで笑っていてやりたいと思うのだ。
「おい」
とりとめもなくそんな事を考えて二人分の夕食を作っていると、草臥れたソファから聞き慣れた声が響いて来る。おめぇ仕事場で所帯染みた匂いさせんなよ、と文句を付けながらも出来立ての料理なら全て腹に収めてくれるのが嵯峨薫と云う男だ。長らく放置されていた所為で化石化していた簡易キッチンでナポリタンを作っていたうららは、生返事でフライパンの中身を掻き混ぜる。
「なぁにー」
きっと嵯峨薫はうららのこんな拙い本音になど気付いている。気付いていて知らぬ振りをしてくれているのだろう。本当はあたしはそんな愛情に包まれてるのかも知れないな、と、うららは偶に思うのだ。大抵がネガティブ思考になりがちな彼女も、友人の影響を受けて時折そんなポジティブ思考になったりする。問題なのはそれが持続しない事だが。
「今度の日曜、おめぇ時間空けとけや」
ケチャップの焼ける匂いが香ばしい。好きな男の為に何かが出来る事はとても嬉しい。もっとその気持ちに素直に取り組めればいいのに。好きな男が日替わりで違っていた高校生のあの頃は、熱病のような恋心にあんなにも純粋でいられたのに。大人になると其処にちょっとした打算や駆け引きが生まれてしまって、あたしを愛してくれない男は嫌いなんて馬鹿みたいな意地まで生まれてしまう。違うのだ。本当はもっと単純に、
「えー? なんでぇ?」
「…何でもだよ。それとももう何かあんのか。」
ただ、好きなだけなのだ。
「別にないけど~。 …はい、出来たー。 うららさん特製ナポリタン!」
皿を持って応接用のローテーブルに向かうと、嵯峨薫は何だか渋い顔をしていた。変な男。と思いながらナポリタンを盛り付ける。すると彼は皿を覗くや開口一番こう言った。
「何だぃこのスパゲッティは。ピーマン入ってねぇじゃねぇかよ」
これにはうららもカチンと来る。
「何よぅ、うちは昔からナポリタンには玉葱とベーコンとマッシュルームなの! つかスパゲッティって言わないわよ今時。やばいからそれ。」
「はぁ?おめぇまさか缶詰のマッシュルーム入れたんじゃねぇだろうな」
「入ってるけど。それが何か?」
「…俺ぁ水煮のキノコとコーンは食わねぇ主義なんだ。おめぇ食えや」
「ぶっ! 何それ!あんたね、子供じゃないんだから好き嫌いしてんじゃないわよ!」
「あ、入れんなこっちに! 馬鹿、人間な、固体に合わないモンが嫌いなモンなんだ。それを無理して食うなんざ下らねぇ」
「屁理屈こくな!好き嫌いすると栄養が偏るんだからっ!」
「だから入れんなっ!キノコなんざ食わなくても死にゃぁしねぇよ!」
「何よぅ!アタシのマッシュルームが食べられないってわけぇ!?」
「お前が作ったんじゃねぇだろ!」
「つべこべ言うなっ!」
…攻防が続くこと五分弱。
すっかり冷えてしまったナポリタンを啜りながら、うららはちらりと嵯峨薫の顔を盗み見る。
どうしてもっと甘い雰囲気になれないのだろう?こんな触れ合いしか出来ないのはきっと自分の所為だ。それでも眉を顰めながら、一缶まるごと分盛り付けられたマッシュルームをちびちびと食べている姿が愛おしい。ナポリタンにはピーマン派だと分かった事が素直に嬉しい。こうして少しずつ知って行けたらいいと思う。
「…ね、 今度の日曜、何なの?」
「 …ぁん?」
「仕事だったらブッチね。」
「…… 違ぇよ。」
未だ嵯峨薫の隣で自信を持つ事は出来ないだろう。でもうららにはそれを上回る恋しさがある。…そうだ。うららが自信を持てる事と言えばそれではないだろうか?
有能とは言えないかも知れない。可愛くもないかも知れない。でも嵯峨薫がとても好きだ。出来るなら彼の傷に寄り添っていたいと思う。その気持ちはきっと、きっと誰にも負けぬ。
「… ま、 ちっと付き合えや。」
ふぅん、と分かったような分からないような返事で勿体付けたうららが、ある女の墓前に花を供えるのは数日後の日曜の事だ。
そして嵯峨薫と云う男が彼女が思っているよりずっとずっと彼女に心を明け渡していたのだと知るのも。
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「ねぇ、アタシ、 ブス? 」
うららは盛大に絡んでいる。それはもう、形振り構わず目の前の男に絡んでいる。目元をほんのりと紅色に染め、グロスと口紅で艶やかに彩った唇をうっすらと綻ばせ… た事まではいいのだが、後がいけない。目は胡乱だし息はすっかりバーボン臭だ。
「…おい、おめぇはもうちっと静かに酒が呑めねぇのかぃ…」
一方絡まれた男は呆れ顔だ。今更この女(と、とある刑事)の酒癖の悪さに驚きやしないが、そもそもが男は”酒は静かに呑みたい派”なのである。寧ろ驚きなのは、それにも関わらずこうして付き合ってやっている自分の人の良さだ。
「いーから答えてよぅっ! アタシはブスですかーーっ!!」
猪木じゃあるまい、何だぃそのでけぇ声は…。男は聞こえない振りをして(それにしては耳を劈かん許りの音量だが)今一度グラスを傾ける。 …男は正直、孤独と酒の似合うダンディーキャラだと自負している。と云うかそれ以外のキャラの自分など到底許し難い程だ。にも関わらず、あの戦いを共に潜り抜けた仲間達と居るとどうにも調子が外れてしまう。彼等と居ると男は要らぬ心配をさせられたり要らぬ面倒を見なければならなくなる。その筆頭例がこの女…芹沢うららである。うららは事件後も男の傍らに在ったけれど、だからと言ってでは彼女が男同様闇の似合う妖しい女になったかと言われれば…
「…お見合いパーティー行って来たの… もう、五回目よ五回目!三度目の正直だって嘘だったわよ!そしたらさー、なんかちょっとソリマチ風のイケメンがいてさー…アタシ、ターゲットロックオンしたの!したわけ!そしたら向こうから話し掛けて来て!今度こそ鯛を釣り上げた!?って喜んじゃったわよぅ!なのに信じられる!?そいつ、よりにもよって 「お連れの方は今どちらに?」 だって!マーヤよマーヤ!!ありえる!?!?」
…否、だ。
喚くなよ…と思いつつも、そう云った類の台詞が火に油を注ぐのは目に見えているので”黙る”と云う事を知った男だ。要するに男はうららを始めとする仲間達に出会い、忍耐を知ったのだろう。…喜ばしいかどうかは別として。
「ちょっとー!パオ!!聞いてんの!?」
男、パオフゥは、聊かうんざりとしながらうららの前にチョコレートボンボンの乗った皿を差し出した。煩い口は塞ぐに限る。普段ダイエットだ何だと騒ぐ女ほど、実際は食に貪欲なものなのだ。うららは普段なら「減量中」と口にしないチョコレートの包み紙をあっさり解いた。酒が入っているから箍が緩んでいるのだ。ひょいっと口に含んでしまえば暫くの間は静かになる。此処はパオフゥの戦略勝ちと云った処だろう。
「 …もごもご… …タシはさー、だから考えたわけよ… もご。 …て言うかお見合いパーティーなんてさー。やっぱ、 んぐ やっぱ見てくれから入るわけじゃん?あさはかよね、あさはか。 もぐ、 でもさー、やっぱマーヤばっかり声かけられるの考えると、アタシブスなんかなーってさー… そりゃー超美人なんて思ってないけど普通?人並み?くらいはさーって思ってたんだけどさー。なーんかエリーちゃんとか達哉君とか周防兄とかさー、あーゆーの見ちゃうとアタシすっごいブスなのかなーとか思っちゃって」
止め処ない。
パオフゥは酒の入ったグラスを傾けながら、俺もヤキが回ったもんだと考えている。結局それでもパオフゥはうららと人を探すし、得た報酬で同じ皿の物を食う。惰性とは思っていない。パオフゥはきちんと分別の付く男だから、敢えてそう云う日常を選択しているのである。このやかましい一人の女と、やかましい毎日を送る事を選んでいるのだ。
「喋るか食うかどっちかにしな。」
するりと気付かれぬようにうららの手元からグラスを奪う。このままでは明日も頭が痛いだ何だと騒がれ兼ねない。うららがもう一粒チョコレートを口に運び、消沈したように俯いたまま目元を拭う。そんな仕草を煩わしいと思いながらも許せるようになったのは、パオフゥが彼女によって変質しつつあるからだ。
どうしてこいつぁ目先にばっかり走りやがるか。
パオフゥはうららの涙には気付かない振りをして、溜め息混じりにグラスを傾ける。
「…ま、美人たぁ言えねぇが、愛嬌はあるんじゃねぇか?」
うららは何も答えなかった。
たまさか薮蛇だったかと恐る恐る横を向くと、うららはチョコレートを含みながらすっかり眠りこけていた。口元から零れそうなチョコレートを親指で拭ってやりながら、パオフゥは今度こそ呆れて盛大な溜め息を吐いた。
ぐしゃぐしゃと掻き回してやった髪の毛先は、彼女の心同様酷く傷付いていた。
「 …ってな訳でさぁ~… そのソリマチ風の男は、あんたを探してたわけよ。マーヤ!」
「ん~~、だってトイレ行きたかったの。そしたら仕事の電話入っちゃったしね~」
「ね~、じゃないわよ!アタシ、あんたの為を思ってお見合いパーティー申し込んだんだかんね!?」
「…でもうららだってめかし込んで来てた癖に」
「う゛っ… そ、それはっ お、女は何時だって女なのよっ つうかトイレとか言うなっ!」
「で? パオフゥに慰めて貰ったんだ?」
つん、と居酒屋のテーブルの上で茶化すように手を突付かれて、うららは一気に赤面した。ルナパレス港南を引き払ってしまったうららは、今やパオフゥと半同棲状態である。勿論うららは”仕事で便利だからでしょ”と照れ隠しに意地を張ってはいるが、実際のところはパオフゥが認めてさえくれるなら同棲と言いたくてしょうがない事など誰より舞耶が知っている。基本的にうららは”女の子”なのだ。多少年を取って譲れない意地が出来てしまってはいるが、矢張り恋に憧れ溺れてしまうような側面を持っている。舞耶はうららのそんな純粋さが好きだ。とても可愛いと思う。もっと素直になればいいのにな、と、大切な友人を見て思う。
「慰めて…っつか、 いやちょっと待てよ? あいつ、あたしがブスって事、否定しなかった気がするわ… 」
「…えぇ? そんな事聞いたわけ??」
「う… …だって、アタシ、声かけられるの少ないしさー…」
ほっけの塩焼きを摘みながら、うららは浮かない顔をする。
うららの欠点は否定して欲しいが為に自虐する事である。時によってそれは己を貶める。パオフゥもだから何も言わぬのだろう。あんな顔して優しいんだから、と、舞耶はパオフゥがどんな顔をしていたかを想像して笑ってしまう。…仏頂面の癖に眉だけちょっとハの字かな?クールな男もうららの前では形無しである。それをうららももうちょっと自覚してあげればいいのに。
「こ~ら、 うらら、後でパオフゥに謝るんだぞっ」
「…はぁ!?アタシが!? なんであいつに謝んなきゃなんないのさ!」
「だってぇ… じゃあうららは、パオフゥがお見合いしたらどうするの??」
マスカット味のチューハイは、甘ったるい癖にやっぱりお酒の匂いがする。うららにとって今では酒はパオフゥの匂いだ。「あいつがお見合い?似合わなーっ」なんて明るく茶化しながらでも、矢張り嬉しい気分じゃないのだ。
「ほら。やな気分。 パオフゥも同じだったと思うよ?」
うららは黙って俯いてしまう。
「…でも、アタシとあいつじゃきっと違うし」
けれど舞耶はそんなうららが可愛くて可愛くて、思わずぎゅっと抱き締めてしまった。本当に素直じゃないのだ。この親友は。
「うらら、かわい~~っ」
「あ、こらっ マーヤ! 」
照れているのか、真っ赤になった目尻を突付く。
「本当は、話を聞いて欲しいの、私じゃないんでしょ?」
うららは驚いたように目を丸く見開いた。本当は泣き虫なうららが、今は誰の胸で泣きたいのかを知らない舞耶ではないのである。
困ったように黙った後、うららはそわそわと時計を気にし、携帯電話をチェックした。
「ご、ごめんねマーヤ。あたしちょっと」
うららが遂にそう言い出すまでの五分間。
舞耶は何だかくすぐったい気持ちで親友の綺麗な横顔を眺めていた。
うららは盛大に絡んでいる。それはもう、形振り構わず目の前の男に絡んでいる。目元をほんのりと紅色に染め、グロスと口紅で艶やかに彩った唇をうっすらと綻ばせ… た事まではいいのだが、後がいけない。目は胡乱だし息はすっかりバーボン臭だ。
「…おい、おめぇはもうちっと静かに酒が呑めねぇのかぃ…」
一方絡まれた男は呆れ顔だ。今更この女(と、とある刑事)の酒癖の悪さに驚きやしないが、そもそもが男は”酒は静かに呑みたい派”なのである。寧ろ驚きなのは、それにも関わらずこうして付き合ってやっている自分の人の良さだ。
「いーから答えてよぅっ! アタシはブスですかーーっ!!」
猪木じゃあるまい、何だぃそのでけぇ声は…。男は聞こえない振りをして(それにしては耳を劈かん許りの音量だが)今一度グラスを傾ける。 …男は正直、孤独と酒の似合うダンディーキャラだと自負している。と云うかそれ以外のキャラの自分など到底許し難い程だ。にも関わらず、あの戦いを共に潜り抜けた仲間達と居るとどうにも調子が外れてしまう。彼等と居ると男は要らぬ心配をさせられたり要らぬ面倒を見なければならなくなる。その筆頭例がこの女…芹沢うららである。うららは事件後も男の傍らに在ったけれど、だからと言ってでは彼女が男同様闇の似合う妖しい女になったかと言われれば…
「…お見合いパーティー行って来たの… もう、五回目よ五回目!三度目の正直だって嘘だったわよ!そしたらさー、なんかちょっとソリマチ風のイケメンがいてさー…アタシ、ターゲットロックオンしたの!したわけ!そしたら向こうから話し掛けて来て!今度こそ鯛を釣り上げた!?って喜んじゃったわよぅ!なのに信じられる!?そいつ、よりにもよって 「お連れの方は今どちらに?」 だって!マーヤよマーヤ!!ありえる!?!?」
…否、だ。
喚くなよ…と思いつつも、そう云った類の台詞が火に油を注ぐのは目に見えているので”黙る”と云う事を知った男だ。要するに男はうららを始めとする仲間達に出会い、忍耐を知ったのだろう。…喜ばしいかどうかは別として。
「ちょっとー!パオ!!聞いてんの!?」
男、パオフゥは、聊かうんざりとしながらうららの前にチョコレートボンボンの乗った皿を差し出した。煩い口は塞ぐに限る。普段ダイエットだ何だと騒ぐ女ほど、実際は食に貪欲なものなのだ。うららは普段なら「減量中」と口にしないチョコレートの包み紙をあっさり解いた。酒が入っているから箍が緩んでいるのだ。ひょいっと口に含んでしまえば暫くの間は静かになる。此処はパオフゥの戦略勝ちと云った処だろう。
「 …もごもご… …タシはさー、だから考えたわけよ… もご。 …て言うかお見合いパーティーなんてさー。やっぱ、 んぐ やっぱ見てくれから入るわけじゃん?あさはかよね、あさはか。 もぐ、 でもさー、やっぱマーヤばっかり声かけられるの考えると、アタシブスなんかなーってさー… そりゃー超美人なんて思ってないけど普通?人並み?くらいはさーって思ってたんだけどさー。なーんかエリーちゃんとか達哉君とか周防兄とかさー、あーゆーの見ちゃうとアタシすっごいブスなのかなーとか思っちゃって」
止め処ない。
パオフゥは酒の入ったグラスを傾けながら、俺もヤキが回ったもんだと考えている。結局それでもパオフゥはうららと人を探すし、得た報酬で同じ皿の物を食う。惰性とは思っていない。パオフゥはきちんと分別の付く男だから、敢えてそう云う日常を選択しているのである。このやかましい一人の女と、やかましい毎日を送る事を選んでいるのだ。
「喋るか食うかどっちかにしな。」
するりと気付かれぬようにうららの手元からグラスを奪う。このままでは明日も頭が痛いだ何だと騒がれ兼ねない。うららがもう一粒チョコレートを口に運び、消沈したように俯いたまま目元を拭う。そんな仕草を煩わしいと思いながらも許せるようになったのは、パオフゥが彼女によって変質しつつあるからだ。
どうしてこいつぁ目先にばっかり走りやがるか。
パオフゥはうららの涙には気付かない振りをして、溜め息混じりにグラスを傾ける。
「…ま、美人たぁ言えねぇが、愛嬌はあるんじゃねぇか?」
うららは何も答えなかった。
たまさか薮蛇だったかと恐る恐る横を向くと、うららはチョコレートを含みながらすっかり眠りこけていた。口元から零れそうなチョコレートを親指で拭ってやりながら、パオフゥは今度こそ呆れて盛大な溜め息を吐いた。
ぐしゃぐしゃと掻き回してやった髪の毛先は、彼女の心同様酷く傷付いていた。
「 …ってな訳でさぁ~… そのソリマチ風の男は、あんたを探してたわけよ。マーヤ!」
「ん~~、だってトイレ行きたかったの。そしたら仕事の電話入っちゃったしね~」
「ね~、じゃないわよ!アタシ、あんたの為を思ってお見合いパーティー申し込んだんだかんね!?」
「…でもうららだってめかし込んで来てた癖に」
「う゛っ… そ、それはっ お、女は何時だって女なのよっ つうかトイレとか言うなっ!」
「で? パオフゥに慰めて貰ったんだ?」
つん、と居酒屋のテーブルの上で茶化すように手を突付かれて、うららは一気に赤面した。ルナパレス港南を引き払ってしまったうららは、今やパオフゥと半同棲状態である。勿論うららは”仕事で便利だからでしょ”と照れ隠しに意地を張ってはいるが、実際のところはパオフゥが認めてさえくれるなら同棲と言いたくてしょうがない事など誰より舞耶が知っている。基本的にうららは”女の子”なのだ。多少年を取って譲れない意地が出来てしまってはいるが、矢張り恋に憧れ溺れてしまうような側面を持っている。舞耶はうららのそんな純粋さが好きだ。とても可愛いと思う。もっと素直になればいいのにな、と、大切な友人を見て思う。
「慰めて…っつか、 いやちょっと待てよ? あいつ、あたしがブスって事、否定しなかった気がするわ… 」
「…えぇ? そんな事聞いたわけ??」
「う… …だって、アタシ、声かけられるの少ないしさー…」
ほっけの塩焼きを摘みながら、うららは浮かない顔をする。
うららの欠点は否定して欲しいが為に自虐する事である。時によってそれは己を貶める。パオフゥもだから何も言わぬのだろう。あんな顔して優しいんだから、と、舞耶はパオフゥがどんな顔をしていたかを想像して笑ってしまう。…仏頂面の癖に眉だけちょっとハの字かな?クールな男もうららの前では形無しである。それをうららももうちょっと自覚してあげればいいのに。
「こ~ら、 うらら、後でパオフゥに謝るんだぞっ」
「…はぁ!?アタシが!? なんであいつに謝んなきゃなんないのさ!」
「だってぇ… じゃあうららは、パオフゥがお見合いしたらどうするの??」
マスカット味のチューハイは、甘ったるい癖にやっぱりお酒の匂いがする。うららにとって今では酒はパオフゥの匂いだ。「あいつがお見合い?似合わなーっ」なんて明るく茶化しながらでも、矢張り嬉しい気分じゃないのだ。
「ほら。やな気分。 パオフゥも同じだったと思うよ?」
うららは黙って俯いてしまう。
「…でも、アタシとあいつじゃきっと違うし」
けれど舞耶はそんなうららが可愛くて可愛くて、思わずぎゅっと抱き締めてしまった。本当に素直じゃないのだ。この親友は。
「うらら、かわい~~っ」
「あ、こらっ マーヤ! 」
照れているのか、真っ赤になった目尻を突付く。
「本当は、話を聞いて欲しいの、私じゃないんでしょ?」
うららは驚いたように目を丸く見開いた。本当は泣き虫なうららが、今は誰の胸で泣きたいのかを知らない舞耶ではないのである。
困ったように黙った後、うららはそわそわと時計を気にし、携帯電話をチェックした。
「ご、ごめんねマーヤ。あたしちょっと」
うららが遂にそう言い出すまでの五分間。
舞耶は何だかくすぐったい気持ちで親友の綺麗な横顔を眺めていた。
港南区にあるマンション、ルナパレス港南のとある一室に大きな声が響き渡った。
「たっだいま~。」
この部屋の住人、天野舞耶は帰宅を告げ、履いていたロングブーツを投げるように脱ぎ捨てた。
「お帰り~~!」
少しくぐもった声がキッチンから返ってくる。
玄関を抜け、物が散乱した自室に足を踏み入れた舞耶は、途端に鼻をふんふんと鳴らし目を輝かせた。
そしてそのままキッチンに向かう。
全開にされたキッチンの扉の向こうには、薄ピンクのエプロンを纏ったルームメイト、芹沢うららがいた。
「わーー!おいしそうな甘いニオイ~~!何作ってるの?」
目をきらきらさせながら、舞耶がボールの中のクリームをすくってなめる。
「ん~~。オイシイ!」
「こらこらマーヤ、意地汚いわよぅ!そっちのなら食べていいから。
明日はバレンタインだからねぇ、チョコ作ってるのよぅ。」
「えー、もうそんな時期だっけ!すっかり忘れてたー。」
あははーと笑いながら、舞耶はテーブルの上に所狭しと置かれているできたてのチョコに攻撃を開始する。
「たくさん作ったし、マーヤも克哉さんと達哉君にあげなさいよぅ。きっと喜ぶから。」
「え~?別にいいわよ。達哉君、甘いもの嫌いそうだし、克哉さんは自分で作ってそうだし。
それに、私の食べる分減っちゃうし…。」
口のまわりをチョコレートでべたべたにしながら、舞耶が文句を言った。
「あんたってコは…。」
苦虫を噛み潰したような顔で、うららは盛大にため息をついた。
「マーヤの分はまた作ってあげるからさ、とにかく二人に持っていってあげなさい。ね?
…あ、ねぇねぇ。まだやる事があるからさ、手伝ってもらえる?」
「いいよー。口と手を洗うからちょっと待ってね。」
とてとてと、舞耶は流しに向かう。と、その足が止まった。
「あれぇ?なんかこっちのチョコ、形が変じゃない?中がからっぽ…失敗したの??
それに、ここに置いてあるのってもしかして……。」
そう言って舞耶は机の隅に置かれた小箱の中身を一つ取り出し、光にかざした。
それは光を反射し、きらきらと淡い光を放つ。
「これ、なにかに使うの?」
不思議そうに舞耶はうららを振り返る。
「うふふふ!ご名答!普通のチョコじゃありきたりだから、今年はちょっと趣向を変えまして…」
うららは楽しそうに笑い、自分の計画を話し出した。
翌日。
「チャーオ!」
勢い良くオフィスに飛び込み、うららは雇い主に声を掛けた。
「ああ。」
いつも通り、パソコンに向いたままパオフゥは振り向きもせず返事をする。
うららは背を向けたままのパオフゥに歩み寄り、その肩をぽんぽんと叩いた。
「ね、パーオ。」
「なんだ。」
「はい、コレあげる!」
振り向きざまに渡された藤の籠の中には、色とりどりのリボンをちょこんとつけた、大きさといい形といい、卵によく似た茶色いモノがいくつも入っていた。
パオフゥは首を軽くかしげ、椅子に深く座りなおし、うららを見上げる。
「こりゃなんだ?」
「チョコよぅ!今日はねぇ、バレンタインなのよぅ!」
にっこりとうららが笑う。
パオフゥはとても良い笑顔で微笑むうららに少しドギマギしながらも、皮肉を忘れない。
「いい年して菓子屋の陰謀にはまってるのか!くだらねぇなぁ!!」
「口が減らない男ねぇ、余計なお世話よぅ!ねーねー、1個選んで。」
「甘いものはいらん。」
「いいから選んでってば。」
ゆさゆさと揺さぶられ、面倒臭そうにパオフゥは籠の中から一つ、ひょいと摘み上げた。
「…じゃあ、これ。」
手にとった赤いリボンをつけたチョコを、パオフゥは手の中で転がし、そしてリボンをはずして改めてじぃっと見る。
「変わった形してんなぁ。それに、ずいぶん軽いんじゃねぇか?」
「そんなことないわよぅ。ね、食べてみてよぅ。」
「あー?選んだからもういいだろ?」
「いいじゃん、お願い~~食べて~~食べて~~。」
まるで猫のように、かわいく甘えてくるうらら。
むしろお前を喰っちまうぞと思いながら、パオフゥはそっぽを向いた。
「後でな。」
そっけない返事に、うららはぷぅっと頬を膨らませる。
「文句いわずに、今すぐに食えってのよぅ!」
渋るパオフゥの口の中に、ぐいとチョコレートを押し込んだ。
「むぐぐ!」
強引にチョコを口にねじ込まれたパオフゥは、目を白黒させながらも仕方なしにそれを噛み砕く。
「んん?」
そして眉間にしわを寄せながら、口をもごもごさせた。
「…なんだこりゃ、なんか入ってるぞ?」
きらきら目を輝かせて自分を見つめるうららに、少し戸惑いを覚えながらその異物をベェっと出す。
「なになに?何が入ってた??」
「あぁ…コインだ……っておい、こりゃあ俺の指弾じゃねぇのか!?」
「わー、大当たりじゃん!おめでとーーーー!」
「当たりって…なんだそりゃ??」
拍手をしながら喜ぶうららとは裏腹に、話が掴めないパオフゥが怪訝な顔をする。
「あのね。」
にっ、と白い歯をきらめかせうららが笑った。
「ありきたりのチョコじゃつまらないし、面白くないからオマケ付きにしてみたのよぅ。
最近流行ってるじゃない?ほら、卵形のチョコの中にオマケが入ってる~ってヤツ!
ただのオマケ入りじゃウケが悪いと思ったから、マーヤと相談していろいろ入れて
『ロシアンルーレット・チョコ』にしたわけなのよぅ。
ハズレのチョコには勾玉とか、崖ッ縁粉末、アタリにはインセンスや打出の小槌が入ってるの。
あ、普通のチョコのほうが、もちろん多いのよぅ?
ブランデー入りや、キルシュ入りや、レーズン、ナッツに…。」
「で、これは何なんだ??」
パオフゥはそう言ってコインを軽く天井へ弾く。
コインはきらっと光を反射しながら、宙を舞い、パオフゥの手の中に帰ってきた。
「それはねー、大当たりアイテムなのよぅ。大当たりはね、2個しかないの。
うららさんヴァージョンと、マーヤヴァージョンの2種類。
アタシがコインで、マーヤのはエメラルドリングが入ってるのよぅ。」
「コレが入ってるとどうなるんだ?」
「当てた人の一日メイドさんになってあげるって趣向だったのよねぇ。
炊事に家事洗濯その他諸々…、まぁ、当てた人…ご主人様のリクエスト次第かしら?」
「ふーん。リクエスト次第、ねぇ。」
パオフゥはコインをまた弾き、戻ってきた所をキャッチすると、やがて腕を組んだ。
「大当たりはねぇ、本当は克哉さんのために作ってあげたのよぅ。
ほら、克哉さんて近年稀に見る乙女じゃない?
未だにマーヤの前でモジモジしてるし。少しは二人の仲が進展するようにーって、さ。
克哉さんLUC値高いから、クジ運いいんじゃないかなって思ってこの作戦考えたんだけど…。
よくよく考えれば、これって運頼みだけのかなりの力技だし。イマイチだったわねぇ。」
手の甲を頬に当て、うららが考えるように答えた。
「ふむ…」
腕を組み、眉間にしわを寄せ俯いているパオフゥを見て、うららは慌ててチョコの入った藤の籠をパオフゥに差し出した。
「やっぱ、面白くなかった?パオがアタシの当てても、何にも楽しくないわよねぇ。
なんなら、もう一度引く?」
うららの言葉に、パオフゥはハッと顔を上げ、ぶんぶんと首を振った。
「いや、俺はこれでいい。崖ッ縁粉末やら勾玉やら引いたら洒落にならねぇ。
なにより、天野なんぞ当てちまった日にゃあ、周防が殴りこみに来るに決まってる。」
「うーん、確かに…。あーぁ、マーヤのを克哉さんが引いててくれてればいいんだけど。
そうじゃなけりゃ、全然面白くないわよぅ。意味ないわよねぇ~。」
はぁ、とうららはため息をついた。
「…」
相変わらずパオフゥは腕を組み、指先でコインをいじりながら、なにやら考え事をしている。
その姿をちらりと見、うららがまたため息をつく。
「だーかーらー、つまらなくって悪かったわよぅ。そんなふて腐れなくたっていいじゃない。
…でさ、何してほしいことある?なかったら別にいいんだけどさ、やっぱコイン当てちゃったし。
あ、そうだ!パオの代わりに外回りしてこようか。それともターゲット捕まえて……」
必死になってフォローをしようとするうららの言葉をパオフゥが制止する。
「とりあえず…」
「なぁに?」
「風呂入れてくれ。」
「お風呂?朝っぱらから?へーえ、珍しいわねぇ。朝シャン派にでもなったわけ?
ま、いいわ。沸かしてくるからちょっと待っててね、ご主人様♪」
思いもかけない変なリクエストに驚きを隠せないうららだったが、すぐにパタパタと軽い足音を響かせ、バスルームへと向かっていった。
オフィスに自分ひとりになったパオフゥは椅子に深くもたれかかり、一人ごちる。
「……ご主人様か。」
すい、とパオフゥは目を時計に向ける。
オフィスを開けるにはまだ1時間ばかりある。
「ま、1、2時間くらい開けるのが遅くなっても構わねぇしな。」
ザーザーと水が流れる音が聞こえてくる。うららが風呂掃除を始めたのだろう。
パオフゥの薄い唇が、弓なりに上がった。
「下らねぇ菓子屋の陰謀でも、こういうのなら大歓迎だ。」
手に持っていた先ほどのコインを、軽く握りなおして狙いを定める。
シュッと小気味良い音を立て、パオフゥの指から指弾が放たれた。
コインは目に見えぬほどの速さでオフィスの入り口のドア、そのノブに当り、正確にその鍵を閉めた。
「さぁて、と。」
座っていた椅子から腰をあげ、パオフゥはバスルームに向かった。
バスルームでは相変わらず、うららがたわしを片手に風呂桶をザバザバ洗っている。
パオフゥは両耳のピアスをはずし、脱衣所に放り投げた。
その音でパオフゥの姿に気付いたうららが、鼻の頭に泡をつけたまま笑う。
「もう少しで洗い終わるから、もうちょい待ってねぇ。」
「ああ」
「どうかした?手伝ってくれるの?」
「まぁな」
「ありがとー。それじゃあねぇ…」
「…」
水音が止む。
「え、ちょ、え、パオ?あ、ね、ちょ、ちょっと待ってぇーーーー!」
うららの叫び声が朝のバスルーム内に木霊した……
**蛇足**
舞耶はうららに言われた通り、チョコを持って周防兄弟宅に訪問。
はにかみつつも嬉しそうな達哉と、顔を真っ赤にして喜ぶ克哉。
二人とも素直に籠の中から一つ選び、がぶりっとかじりついた、その結果。
克哉は極寒の勾玉入りチョコを食べ、ヒューペリオンを降ろしていたこともあり氷結効果で大ダメージ。
達哉は見事に『エメラルドリング』を引き当て、舞耶の渾身の力作の手料理でもれなく救急車のお世話に。
克哉よりも達哉のほうがLUCは高かったけれど、結果的にはどっちも不運だったってお話。
どうにもこうにも、お後がよろしくないようで。
fin.
ねずみ色のヴェールで覆われた部屋。
カ チ カ チ
時計が時間を刻む音。
カ タ カ タ
キィを打ち込む音。
カ ラ ン
氷がぶつかり合う音。
ハ ァ
女のため息。
「ねぇ。」
「…」
「ねぇってば!」
後ろのソファーでうずくまっている女を振り返りもせず、男は言う。
「…五月蝿ぇな。なんだ?」
カ タ カ タ
キィを打ち込む音。
「いい女が悲しげにため息付いてるんだから、優しい声かけなさいよぅ!」
「いい女ぁ?一体どこにいるってんだ?」
シ ュ ボ
炎が燃える。
「あんたの目、節穴?良く見なさいよぅ。」
「ふん、ジャジャ馬の間違いじゃねぇの?」
ゆ ら り
煙が空を舞う。
「…アンタむかつく。」
「へへへ、ありがとよ。俺にとっては最高の誉め言葉だぜ?」
心底愉快そうな声で男は答える。
「ぶぅ。」
女は頬を膨らませた。
ぴ ちゃ ん
雫が落ちる音。
「つまんないから遊んでよぅ。」
「俺は仕事をしてる。」
カ ラ ン
氷がぶつかり合う音。
「じゃ、仕事止めて遊んで。」
「お前なぁ…。」
キ ュ ル
椅子が回転する。
男は腕を組み女のほうに体を向けた。
「暇なら家に帰ればいいだろう。天野にでも構ってもらえ。」
女は非難がましく男に目を向けた。
「今日はマーヤは周防兄とデートで、家にいないんだもん。」
み し り
ソファーがきしむ。
「人の恋路を邪魔するヤツぁ、馬に蹴られて死ぬらしいぜ?」
「アタシは邪魔なんてしませんよぅだ。」
口を尖らせる女。
「ま、確かにお前みたいなジャジャ馬は蹴りを入れる役が精一杯だろうな。
…その勢いで俺の邪魔もしないでほしいもんだ。」
男はまたパソコンに向かう。
「むぅぅ。」
女はソファーの上に転がった。
ビュ オ ォ ウ
夜の呻き声。
「避けてみな!」
「あぁ??」
ピュ イ ン
風を切る音。
「何いってんだ、せり…」
女の声に、男は振り返ろうとする。
ポ コン
命中。
「イテッ!」
何かが男の額に当る。
間髪おかず、女は投げ続ける。
「指弾だ指弾だ指弾だ~~~!」
ポ コン ポ コン ボ コン
命中。
命中。
クリティカル。
「ああもう!痛ぇな!一体何投げて…」
男は女が自分に投げて来たものの一つを拾い上げた。
「ああー!俺のスーツのボタンじゃねぇか!おま、なんて事…!」
女はツンとそっぽを向き、横目で男を睨む。
「ほらぁ、アタシってばジャジャ馬だし?言うことなんか聞かないし?
他人の迷惑なんか顧みないのよねぇ~。」
そしてにっこりと笑った。
「ザマァミロ。」
男はただ口をパクパクさせ、
「こンの…ジャジャ馬!」
天を仰ぎ、足を組替え、額に手を当てた。
ボ ー ン ボ ー ン
短針と長針が再会を喜び、12回、祝砲を鳴らす。
「アンタさ。」
「なんだ。」
女は楽しそうに男に話し掛ける。
デスクに向かう男は少しふてたように答える。
「アタシのことさんざんジャジャ馬って言うけれど。」
女は男の髪を指で弄ぶ。
男はパソコンのキィを叩く。
「言う事聞かない、どうしようもナイ暴れ馬はね。」
女は男に寄りかかる。
男は椅子に深くもたれかかる。
「ただ馴らそうとしたってダメなのよ。」
女は男の正面に回る。
男は女に向き直る。
「たまには馬の主張も聞いてあげないと、イジケちゃうんだから。」
「ふん、そうか。」
女は男の膝の上に身を移す。
男は女の腰に手を回す。
「あ、信じてないんだ。」
「まぁな。」
女の目が見開く。
男は口元を歪める。
「信じなさいよぅ。」
「俺はな、証拠のない事柄は一切信じねぇタチなんだ。」
女は自分を抱える男を見下ろす。
男は抱き上げた女を見上げる。
「本当、嫌な男ねぇ。」
「へへっ。」
女は頬を膨らます。
男は女の輪郭をなでる。
「じゃーさー。」
「?」
男の首筋に女が近づく。
女の唇に男の髪が触れる。
「信じてくれたら。」
女の手が男の肩から胸を伝い、腹を滑り、さらに下へ落ちてゆく。
「アンタに。」
女のしなやかな白い指先が、男の雄をなぞった。
男の喉がぴくりと仰け反る。
そして、仰け反った耳に吐息をかけるように。
男の耳元で響いたのは、女の甘く囁く声。
「最高のロデオ、披露してあげるわ――。」
「どう、信じる気になった?」
女は微笑む。
「…どうだかな。」
男はそっけなく答える。
だが、サングラス越しのその瞳はわずかに細くなった。
「ふふっ。」
女の体が離れる。
男の手が解ける。
「もう、邪魔しないわよぅ。」
女は男の膝から立ち上った。
「あっちで、大人しくしててあげる。」
パタ パ タ
軽い足音。
男の脇をすり抜け、先ほど自分の居たソファーを通り越す。
女の目の前には、扉。
カ チャ リ
ゆっくりと、開かれた。
「お仕事、ガンバッテ?」
女の姿は奥の部屋へ続く暗闇に融け消えた。
パ タ ン
部屋に残されたものは、男。
ねずみ色のヴェールで覆われた部屋。
カ チ カ チ
時計が時間を刻む音。
カ タ カ タ
キィを打ち込む音。
カ ラ ン
氷がぶつかり合う音。
ク ク ク
男の押し殺した笑い声。
ギ ィ イ
椅子がきしむ。
カツカツカツ
ガチャ
バ タ ン
カ チ カ チ
時計が時間を刻む音。
カ タ カ タ
キィを打ち込む音。
カ ラ ン
氷がぶつかり合う音。
ハ ァ
女のため息。
「ねぇ。」
「…」
「ねぇってば!」
後ろのソファーでうずくまっている女を振り返りもせず、男は言う。
「…五月蝿ぇな。なんだ?」
カ タ カ タ
キィを打ち込む音。
「いい女が悲しげにため息付いてるんだから、優しい声かけなさいよぅ!」
「いい女ぁ?一体どこにいるってんだ?」
シ ュ ボ
炎が燃える。
「あんたの目、節穴?良く見なさいよぅ。」
「ふん、ジャジャ馬の間違いじゃねぇの?」
ゆ ら り
煙が空を舞う。
「…アンタむかつく。」
「へへへ、ありがとよ。俺にとっては最高の誉め言葉だぜ?」
心底愉快そうな声で男は答える。
「ぶぅ。」
女は頬を膨らませた。
ぴ ちゃ ん
雫が落ちる音。
「つまんないから遊んでよぅ。」
「俺は仕事をしてる。」
カ ラ ン
氷がぶつかり合う音。
「じゃ、仕事止めて遊んで。」
「お前なぁ…。」
キ ュ ル
椅子が回転する。
男は腕を組み女のほうに体を向けた。
「暇なら家に帰ればいいだろう。天野にでも構ってもらえ。」
女は非難がましく男に目を向けた。
「今日はマーヤは周防兄とデートで、家にいないんだもん。」
み し り
ソファーがきしむ。
「人の恋路を邪魔するヤツぁ、馬に蹴られて死ぬらしいぜ?」
「アタシは邪魔なんてしませんよぅだ。」
口を尖らせる女。
「ま、確かにお前みたいなジャジャ馬は蹴りを入れる役が精一杯だろうな。
…その勢いで俺の邪魔もしないでほしいもんだ。」
男はまたパソコンに向かう。
「むぅぅ。」
女はソファーの上に転がった。
ビュ オ ォ ウ
夜の呻き声。
「避けてみな!」
「あぁ??」
ピュ イ ン
風を切る音。
「何いってんだ、せり…」
女の声に、男は振り返ろうとする。
ポ コン
命中。
「イテッ!」
何かが男の額に当る。
間髪おかず、女は投げ続ける。
「指弾だ指弾だ指弾だ~~~!」
ポ コン ポ コン ボ コン
命中。
命中。
クリティカル。
「ああもう!痛ぇな!一体何投げて…」
男は女が自分に投げて来たものの一つを拾い上げた。
「ああー!俺のスーツのボタンじゃねぇか!おま、なんて事…!」
女はツンとそっぽを向き、横目で男を睨む。
「ほらぁ、アタシってばジャジャ馬だし?言うことなんか聞かないし?
他人の迷惑なんか顧みないのよねぇ~。」
そしてにっこりと笑った。
「ザマァミロ。」
男はただ口をパクパクさせ、
「こンの…ジャジャ馬!」
天を仰ぎ、足を組替え、額に手を当てた。
ボ ー ン ボ ー ン
短針と長針が再会を喜び、12回、祝砲を鳴らす。
「アンタさ。」
「なんだ。」
女は楽しそうに男に話し掛ける。
デスクに向かう男は少しふてたように答える。
「アタシのことさんざんジャジャ馬って言うけれど。」
女は男の髪を指で弄ぶ。
男はパソコンのキィを叩く。
「言う事聞かない、どうしようもナイ暴れ馬はね。」
女は男に寄りかかる。
男は椅子に深くもたれかかる。
「ただ馴らそうとしたってダメなのよ。」
女は男の正面に回る。
男は女に向き直る。
「たまには馬の主張も聞いてあげないと、イジケちゃうんだから。」
「ふん、そうか。」
女は男の膝の上に身を移す。
男は女の腰に手を回す。
「あ、信じてないんだ。」
「まぁな。」
女の目が見開く。
男は口元を歪める。
「信じなさいよぅ。」
「俺はな、証拠のない事柄は一切信じねぇタチなんだ。」
女は自分を抱える男を見下ろす。
男は抱き上げた女を見上げる。
「本当、嫌な男ねぇ。」
「へへっ。」
女は頬を膨らます。
男は女の輪郭をなでる。
「じゃーさー。」
「?」
男の首筋に女が近づく。
女の唇に男の髪が触れる。
「信じてくれたら。」
女の手が男の肩から胸を伝い、腹を滑り、さらに下へ落ちてゆく。
「アンタに。」
女のしなやかな白い指先が、男の雄をなぞった。
男の喉がぴくりと仰け反る。
そして、仰け反った耳に吐息をかけるように。
男の耳元で響いたのは、女の甘く囁く声。
「最高のロデオ、披露してあげるわ――。」
「どう、信じる気になった?」
女は微笑む。
「…どうだかな。」
男はそっけなく答える。
だが、サングラス越しのその瞳はわずかに細くなった。
「ふふっ。」
女の体が離れる。
男の手が解ける。
「もう、邪魔しないわよぅ。」
女は男の膝から立ち上った。
「あっちで、大人しくしててあげる。」
パタ パ タ
軽い足音。
男の脇をすり抜け、先ほど自分の居たソファーを通り越す。
女の目の前には、扉。
カ チャ リ
ゆっくりと、開かれた。
「お仕事、ガンバッテ?」
女の姿は奥の部屋へ続く暗闇に融け消えた。
パ タ ン
部屋に残されたものは、男。
ねずみ色のヴェールで覆われた部屋。
カ チ カ チ
時計が時間を刻む音。
カ タ カ タ
キィを打ち込む音。
カ ラ ン
氷がぶつかり合う音。
ク ク ク
男の押し殺した笑い声。
ギ ィ イ
椅子がきしむ。
カツカツカツ
ガチャ
バ タ ン
寄せては返す潮騒よ
お前は一体何事に想いを馳せるのか
浮いては消えていく白泡よ
お前の心は何処かに留まる事を知らないのか
漣
漣
漣
「どうかしたのかい?顔色が優れないようだが…」
ぼんやりと空を見ていたうららは、その声で我に返った。
視線を上げてみれば、声の主はいつも通りの照れくさそうな笑顔でそこに立っていた。
「君がこんなところで呆けているなんて、珍しいね。」
克哉はきょろりと辺りを見回す。
季節はずれで人影の全くない、黒く重たい波が打ち寄せるばかりの恵比寿海岸。
その冷え切って寒々とした砂浜に、うららは独り座り込んでいたのだ。
「そーいう周防兄こそ、こぉんなとこで何してんよぅ。仕事は?」
体育座りのまま、うららは克哉を見上げ尋ねた。
「僕かい、今日は非番でね、暇だったからぶらぶら散歩していたんだ。
そうしたら、偶然、君が座り込んでいるのを見つけてね。…隣、失礼。」
克哉はゆっくりとうららの隣に腰を降ろす。寂しい浜辺の影は二つになった。
「何してたんだい?考え事?」
答えに詰まり、うーん、とうららは唸り声を上げた。
「考えてたのか、考えてなかったのか、よくわかんないのよねぇ。」
なんとなく、ぼーっとしてただけだと思うわ。と、うららが笑う。
そうか。たまにそうしたい時もあるよね。と、克哉も笑い返した。
砂浜に並んで座り込んだまま、二人は言葉も交わすことなくぼんやりと海を眺めていたが、
ふいにポツリとうららが口を開いた。
「ねぇ、周防兄。」
いつもよりも低いそのトーン。克哉はうららに顔を向ける。
「うん?何かな?」
うららはちらりと克哉を横目で見てから、再び視線を海に戻し今度は先ほどよりも小さい声で呟く。
「周防兄ってさーぁ、マーヤのどこが好きなわけ?」
唐突な質問に最初はぽかんとしていた克哉だが、その顔は見る見るうちに赤く染まっていった。
「ななな何を!?」
動揺し呂律が上手く回らない克哉に目もくれず、うららは海を見つめながら続ける。
「ヒトってさぁ、どうしてヒトを好きになるのかしらね?どう思う?」
「…」
水平線。眩いばかりに光を帯びている。
「言葉では伝えきれないものって、どうしたら伝わるのかしら。」
「…」
貝殻。人知れず砂に埋もれている。
「ヒトの心って、まるで漣みたいじゃない?掴めそうで掴めない…。
寄せて返して、ほんの少し近づいたかと思えば手の内も見せないまま、また逃げていっちゃう。
捕らえたと思えば、それはただの水になっちゃって、さ。いつまでたっても、それ自体に届かない。」
「…」
うらら。膝に顔をうずめる。
「どんなに頑張っても、理解できない。手に入らない。…なんだか、悲しいわね。」
「…」
溜息。波の囁きと混じりあい、浜に融け消えた。
僅かに生じた沈黙を、潮風がゆっくりと遠くへ誘って行く。
ふ、克哉が見せた笑みは、それは酷く穏やかで。
「…嵯峨のことだね?」
顔を上げ、へへへと、困ったようにうららは笑った。
「ご名答。って言っても、アタシの悩みなんてたかが知れてるからすぐに分かっちゃうわよねぇ。」
うららはじいっと克哉を見詰める。
「で、マーヤのどこが好きなのかしら?」
尋ねられた青年の端正な顔はあっという間に茹でダコ状態に変わっていった。
「ど、どこって言われても…こ、困ったな。う、う~ん。」
克哉はお気に入りの赤いサングラスを何度も何度も指先で掛け直す。
「そうだな、あえて挙げるならいつでも前向きで、まっすぐで、強い信念を持っていて、
どんなときも自分を信じているあの性格…かな?」
真っ赤な顔を俯かせてもごもごと呟く克哉に、うららは吹き出した。
「あははは!周防兄ってば、か~わいぃのね!相も変わらず純情乙女なのか。」
けらけらと笑ううららに、克哉は違う意味で顔を赤らめる。
「せ、芹沢君!」
克哉の精一杯の非難に耳を貸すことも無く、うららは前を見つめる。
沈み始めた太陽のその赤みがうららと克哉をゆぅるりと染め上げてゆく。
「強い信念、前向き、まっすぐ、自分を信じてる…かぁ。
そうだね、マーヤって女のアタシから見ても素敵だって思うもの。ま、家事は出来ないけどさ。
でも…はは、周防兄が言ったのって当然ながら全部アイツには当てはまらないわねぇ。おっかしぃの!」
うららはひとしきり笑い、最期に小さなため息を付いた。
目線を克哉に向ける。
「周防兄ってさ、なんかいいよね…。安心できるカンジするもん。」
「…芹沢君、嵯峨と何かあったのか?」
心配そうに自分を見る克哉の問いにうららは笑みだけを返す。
「きっと、あなたならマーヤを幸せにしてくれると思える。」
再び克哉はタコ星人になった。
あははは、本当にかわいい!と声を上げながらうららは立ち上がった。そして波打ち際まで走り出す。
「周防さん。聞いてくれる?」
ばしゃり、波を蹴り上げる。
黒いブーツと針樅色のスカートはたちまちの内に水を吸い込みその色を重く変える。
「アタシの予定ではさーぁ、25までにお金持ちでルックス良くって優しい、
性格も2重丸の完璧イイ男と結婚しててぇ。」
ばしゃり、飛沫が上がる。克哉は立ち上がる。
「家事上手の奥さんになって数年後にはかわいい子供が3人の、
誰もがうらやむような幸せな家庭築き上げるつもりだったのよぅ。なのにね。」
ばしゃり、雫が光をはじく。克哉はうららに近づく。
「あーあ!アタシったら、なんであ~んな男に惚れちゃたのかなぁ。」
蹴り上げる足を止める。克哉は近付く足を止める。
「パオのばっかやろぉ!」
腕を組み、ただ黙って克哉はその姿を見つめていた。
息を付いたのか、うららの肩から力が抜ける。そして、背を向けたまま呟いた。
「ゆらゆらゆら。あてなくタユタウ白波よ……。ねぇ、周防さん。
止まることを知らない漣は、ひと時でも心が休まるときはあるのかしら。
絶えず揺れ動く漣は、自分以外のものに目を向けることは無理なのかしらね。」
じゃりじゃりと砂を踏みしだく足音をさせながら克哉はうららに近付いていった。
「僕は…僕が口出ししていいような事ではないけれど、でも少なくとも―――」
小さな低いエンジン音が響く。克哉はうららの肩を叩いた。
「少なくとも、君の目の前に寄せてくる波は、君を気にかけているさ。
…ほら、どうやらお迎えみたいだよ?」
うららが振り返り、克哉の指差した先――停車した白いクラウンから長髪の黒いシャツの男が一人、
のそりと降りて来るのを見て、うららは目を丸くした。
「共鳴切ってたのに何でここが分かったんだろ?」
「…そうだね、どうしてだろうか?」
克哉のその一言で、うららは何もかもを理解した。
「周防さん。」
「ん?」
「ありがと。」
「それじゃあ、また。」
克哉は振り返ることなく右手だけを上げ、そして赤く染まった砂浜を去ってゆく。
「ひゅ~。カッコイイ♪」
口笛を吹きながらうららは克哉の背中を見送る。
『本当に周防さんていい人よねぇ』
『でも、あの性格が災いして恋愛が上手くいかないんだろうな』
『器用貧乏、か…』
ふふと、うららは小さく笑った。
と、自分の名を呼ぶ声にうららは振り返る。
「あーい?」
「帰るぞ。俺は腹が減ったんだ。」
「はーい、今行くわよぅ!」
自分を待っている男の元へ、うららは砂に足を取られながらぽてぽてと走る。
「早くしろ。」
「あー!待ってよぅ。砂浜は走りにくいんだから!」
不機嫌そうな男の声と、嬉しそうなうららの声が響き渡る。
バルル…
やがて、エンジン音が鳴り響き、それは遠ざかって行った。
誰もいなくなり、静かになった海には、潮騒のざわめきだけが取り残された。
ザ…ン ザ…ザザ…ン
寄せては返す潮騒よ
浮いては消えていく白泡よ
お前の想い馳せる先が 私であることを願いながら
その脆く儚い心が 私の内に留まることを願いながら
今日も私はお前を待ち続けている
この手を伸ばし続けている
その幸せを 祈りながら
お前は一体何事に想いを馳せるのか
浮いては消えていく白泡よ
お前の心は何処かに留まる事を知らないのか
漣
漣
漣
「どうかしたのかい?顔色が優れないようだが…」
ぼんやりと空を見ていたうららは、その声で我に返った。
視線を上げてみれば、声の主はいつも通りの照れくさそうな笑顔でそこに立っていた。
「君がこんなところで呆けているなんて、珍しいね。」
克哉はきょろりと辺りを見回す。
季節はずれで人影の全くない、黒く重たい波が打ち寄せるばかりの恵比寿海岸。
その冷え切って寒々とした砂浜に、うららは独り座り込んでいたのだ。
「そーいう周防兄こそ、こぉんなとこで何してんよぅ。仕事は?」
体育座りのまま、うららは克哉を見上げ尋ねた。
「僕かい、今日は非番でね、暇だったからぶらぶら散歩していたんだ。
そうしたら、偶然、君が座り込んでいるのを見つけてね。…隣、失礼。」
克哉はゆっくりとうららの隣に腰を降ろす。寂しい浜辺の影は二つになった。
「何してたんだい?考え事?」
答えに詰まり、うーん、とうららは唸り声を上げた。
「考えてたのか、考えてなかったのか、よくわかんないのよねぇ。」
なんとなく、ぼーっとしてただけだと思うわ。と、うららが笑う。
そうか。たまにそうしたい時もあるよね。と、克哉も笑い返した。
砂浜に並んで座り込んだまま、二人は言葉も交わすことなくぼんやりと海を眺めていたが、
ふいにポツリとうららが口を開いた。
「ねぇ、周防兄。」
いつもよりも低いそのトーン。克哉はうららに顔を向ける。
「うん?何かな?」
うららはちらりと克哉を横目で見てから、再び視線を海に戻し今度は先ほどよりも小さい声で呟く。
「周防兄ってさーぁ、マーヤのどこが好きなわけ?」
唐突な質問に最初はぽかんとしていた克哉だが、その顔は見る見るうちに赤く染まっていった。
「ななな何を!?」
動揺し呂律が上手く回らない克哉に目もくれず、うららは海を見つめながら続ける。
「ヒトってさぁ、どうしてヒトを好きになるのかしらね?どう思う?」
「…」
水平線。眩いばかりに光を帯びている。
「言葉では伝えきれないものって、どうしたら伝わるのかしら。」
「…」
貝殻。人知れず砂に埋もれている。
「ヒトの心って、まるで漣みたいじゃない?掴めそうで掴めない…。
寄せて返して、ほんの少し近づいたかと思えば手の内も見せないまま、また逃げていっちゃう。
捕らえたと思えば、それはただの水になっちゃって、さ。いつまでたっても、それ自体に届かない。」
「…」
うらら。膝に顔をうずめる。
「どんなに頑張っても、理解できない。手に入らない。…なんだか、悲しいわね。」
「…」
溜息。波の囁きと混じりあい、浜に融け消えた。
僅かに生じた沈黙を、潮風がゆっくりと遠くへ誘って行く。
ふ、克哉が見せた笑みは、それは酷く穏やかで。
「…嵯峨のことだね?」
顔を上げ、へへへと、困ったようにうららは笑った。
「ご名答。って言っても、アタシの悩みなんてたかが知れてるからすぐに分かっちゃうわよねぇ。」
うららはじいっと克哉を見詰める。
「で、マーヤのどこが好きなのかしら?」
尋ねられた青年の端正な顔はあっという間に茹でダコ状態に変わっていった。
「ど、どこって言われても…こ、困ったな。う、う~ん。」
克哉はお気に入りの赤いサングラスを何度も何度も指先で掛け直す。
「そうだな、あえて挙げるならいつでも前向きで、まっすぐで、強い信念を持っていて、
どんなときも自分を信じているあの性格…かな?」
真っ赤な顔を俯かせてもごもごと呟く克哉に、うららは吹き出した。
「あははは!周防兄ってば、か~わいぃのね!相も変わらず純情乙女なのか。」
けらけらと笑ううららに、克哉は違う意味で顔を赤らめる。
「せ、芹沢君!」
克哉の精一杯の非難に耳を貸すことも無く、うららは前を見つめる。
沈み始めた太陽のその赤みがうららと克哉をゆぅるりと染め上げてゆく。
「強い信念、前向き、まっすぐ、自分を信じてる…かぁ。
そうだね、マーヤって女のアタシから見ても素敵だって思うもの。ま、家事は出来ないけどさ。
でも…はは、周防兄が言ったのって当然ながら全部アイツには当てはまらないわねぇ。おっかしぃの!」
うららはひとしきり笑い、最期に小さなため息を付いた。
目線を克哉に向ける。
「周防兄ってさ、なんかいいよね…。安心できるカンジするもん。」
「…芹沢君、嵯峨と何かあったのか?」
心配そうに自分を見る克哉の問いにうららは笑みだけを返す。
「きっと、あなたならマーヤを幸せにしてくれると思える。」
再び克哉はタコ星人になった。
あははは、本当にかわいい!と声を上げながらうららは立ち上がった。そして波打ち際まで走り出す。
「周防さん。聞いてくれる?」
ばしゃり、波を蹴り上げる。
黒いブーツと針樅色のスカートはたちまちの内に水を吸い込みその色を重く変える。
「アタシの予定ではさーぁ、25までにお金持ちでルックス良くって優しい、
性格も2重丸の完璧イイ男と結婚しててぇ。」
ばしゃり、飛沫が上がる。克哉は立ち上がる。
「家事上手の奥さんになって数年後にはかわいい子供が3人の、
誰もがうらやむような幸せな家庭築き上げるつもりだったのよぅ。なのにね。」
ばしゃり、雫が光をはじく。克哉はうららに近づく。
「あーあ!アタシったら、なんであ~んな男に惚れちゃたのかなぁ。」
蹴り上げる足を止める。克哉は近付く足を止める。
「パオのばっかやろぉ!」
腕を組み、ただ黙って克哉はその姿を見つめていた。
息を付いたのか、うららの肩から力が抜ける。そして、背を向けたまま呟いた。
「ゆらゆらゆら。あてなくタユタウ白波よ……。ねぇ、周防さん。
止まることを知らない漣は、ひと時でも心が休まるときはあるのかしら。
絶えず揺れ動く漣は、自分以外のものに目を向けることは無理なのかしらね。」
じゃりじゃりと砂を踏みしだく足音をさせながら克哉はうららに近付いていった。
「僕は…僕が口出ししていいような事ではないけれど、でも少なくとも―――」
小さな低いエンジン音が響く。克哉はうららの肩を叩いた。
「少なくとも、君の目の前に寄せてくる波は、君を気にかけているさ。
…ほら、どうやらお迎えみたいだよ?」
うららが振り返り、克哉の指差した先――停車した白いクラウンから長髪の黒いシャツの男が一人、
のそりと降りて来るのを見て、うららは目を丸くした。
「共鳴切ってたのに何でここが分かったんだろ?」
「…そうだね、どうしてだろうか?」
克哉のその一言で、うららは何もかもを理解した。
「周防さん。」
「ん?」
「ありがと。」
「それじゃあ、また。」
克哉は振り返ることなく右手だけを上げ、そして赤く染まった砂浜を去ってゆく。
「ひゅ~。カッコイイ♪」
口笛を吹きながらうららは克哉の背中を見送る。
『本当に周防さんていい人よねぇ』
『でも、あの性格が災いして恋愛が上手くいかないんだろうな』
『器用貧乏、か…』
ふふと、うららは小さく笑った。
と、自分の名を呼ぶ声にうららは振り返る。
「あーい?」
「帰るぞ。俺は腹が減ったんだ。」
「はーい、今行くわよぅ!」
自分を待っている男の元へ、うららは砂に足を取られながらぽてぽてと走る。
「早くしろ。」
「あー!待ってよぅ。砂浜は走りにくいんだから!」
不機嫌そうな男の声と、嬉しそうなうららの声が響き渡る。
バルル…
やがて、エンジン音が鳴り響き、それは遠ざかって行った。
誰もいなくなり、静かになった海には、潮騒のざわめきだけが取り残された。
ザ…ン ザ…ザザ…ン
寄せては返す潮騒よ
浮いては消えていく白泡よ
お前の想い馳せる先が 私であることを願いながら
その脆く儚い心が 私の内に留まることを願いながら
今日も私はお前を待ち続けている
この手を伸ばし続けている
その幸せを 祈りながら