嵯峨薫の横顔を見ている。
あの趣味の悪いサングラスを取ると意外と目が大きいなあとか、そんな他愛も無い事を考えては恥かしくなって憎まれ口を叩いてしまう。
本当はうららにも分かっている。憎く思っているならこの男は他人を傍に置いたりしないし、こんな駄目な所だらけの手の掛かる女は元々趣味なんかじゃないのだと。嵯峨薫は捻くれ者だ。皮肉屋だし擦れたオヤジだ。でも凄く有能だ。有能だからこそ無能な人間を見極める手管に長けている。うららは時折それに気後れする。自分が駄目だと分かっているから、直そうと思っているけど何時だって裏目に出てしまうから、何時かさよならを言われてしまうのではないかと怯えている。開き直れないのは惚れた弱味だ。比べられる事を恐れている。過去に愛した女はさぞかし有能だったのだろう。背伸びをしたくて必死になる。それでも嵯峨薫に釣り合う女には未だなれない。
私にはやっぱり無理なのかな、と時折うららは涙を零す。酷い事を言われる訳でもされる訳でもない。嵯峨薫の有能さに追い付けなくなるからだ。好きよ、好きだよなんて言葉を彼が好まない事は分かっている。こうして傍に居てくれる事が何よりの証なのだと分かっている。分かっていたってうららは確実な形が欲しい。ただ一度、好きだの一言が欲しいのだ。そうでないとうららは不安定で此処に居ていいのか分からなくなってしまう。けれど此処で抱く抱かないの話に持ち込むのは自分があまりに惨めだった。それに過去に通り過ぎて行った男達と嵯峨薫を対等に見るような気がして許せない。其処まで惚れている男に形を求めてしまう自分が情けない。情けないから泣きたくなる。こんなみっともない自分を見られたくないと思う。今度こそ愛想を尽かされたって文句は言えないと何時でもそう思っている。だから素直に本音を見せて泣いて縋る事も出来ない。本当はその胸で泣きたいのに、何時でも友達の胸を借りてしまう。悪循環で嫌になる。そうしてうららはまた思う。私にはやっぱり無理なのかな。無理にしているのは自分自身だ。分かっている。
嵯峨薫はうららを好いてくれている。憎からず思っている、より一歩踏み込んだ感情を向けてくれているだろう。うららにも何となくそれは感じて取れるのだ。それでも信じ切る事が出来ないのは偏に自分が狭量だからだ。きっと美樹さんは違ったんだろうな、と思うと嫉妬と自己嫌悪で死にたくなる。馬鹿馬鹿しい、きっとこんな事を思ってるなんて知れたら嵯峨薫は軽蔑するだろう。過去の女に縛られるなと思う癖に、自分が一番過去の女に囚われている。嵯峨薫の人生を変えてしまった浅井美樹と云う女が羨ましく、妬ましかった。他人に”もう終わった事なんだしさ”などと軽々しく言って来た自分を恥じた。彼女は私を見たらどう思うだろうか。知りもしない女の事など考えても仕方が無い。それに彼女も私などに懐われたくはないだろう。また自分が駄目な女に思えて来る。こんな時好きの一言があったなら、どんなに救われるか知れないのに。こうやってあたしは相手を責めてしまうから恋が崩れてしまうのだ。行き場がない。とても切ない。
「背伸びするなぃ」
嵯峨薫は煙草の煙を吐き出しながら呆れたようにうららに言う。咎めている訳ではないと分かっているのに、優しさなのだと分かっているのにうららは言葉に詰まってしまう。舞耶のような強さもエリーのような純粋なひたむきさも持てない自分が悲しかった。彼女達の恋に比べれば自分なんてよっぽど恵まれているのに。気付くとこうしてうららはまた比べてしまう。幸福など他人と較べて決めるものではないと分かっている。分かっているけど基準がないと不安で堪らない。好きと言って抱き締めて満たしてくれれば傾ぐ心を体が支えてくれる。けれど求めてしまえば見限られる気がしている。恋人なんて、愛を囁いてキスをして抱き合うものだと思っていた。本当はそんな幻想を今でも胸に抱いていて、現実との隔たりに失望している。うららの孤独はきっと誰にも理解出来ぬ。こんなもの、誰でも心の裡には持っていて、つまらなくて有り触れていて、だからこそ誰も口にはしないからだ。
「だって背伸びしなくちゃ怖くて立ってられないの。」
どうしてその一言が言えないのだろう。だからと言って相手を責めるのは責任転嫁だ。助けてなんて甘く縋る事も今更出来ず、片意地を張って頑張るしかない。それでも嵯峨薫の傍に居たい。好きなのだ。あんな男。ろくでなしと思いながら、矢張りうららは嵯峨薫が好きなのだ。惚れている。傍に居たい。辛くたって怖くたってあの男の訳の分からない突っ張りを傍で見守っていてやりたい。そして冷たい夜にその背中が一人ぼっちであるならば、傍らで笑っていてやりたいと思うのだ。
「おい」
とりとめもなくそんな事を考えて二人分の夕食を作っていると、草臥れたソファから聞き慣れた声が響いて来る。おめぇ仕事場で所帯染みた匂いさせんなよ、と文句を付けながらも出来立ての料理なら全て腹に収めてくれるのが嵯峨薫と云う男だ。長らく放置されていた所為で化石化していた簡易キッチンでナポリタンを作っていたうららは、生返事でフライパンの中身を掻き混ぜる。
「なぁにー」
きっと嵯峨薫はうららのこんな拙い本音になど気付いている。気付いていて知らぬ振りをしてくれているのだろう。本当はあたしはそんな愛情に包まれてるのかも知れないな、と、うららは偶に思うのだ。大抵がネガティブ思考になりがちな彼女も、友人の影響を受けて時折そんなポジティブ思考になったりする。問題なのはそれが持続しない事だが。
「今度の日曜、おめぇ時間空けとけや」
ケチャップの焼ける匂いが香ばしい。好きな男の為に何かが出来る事はとても嬉しい。もっとその気持ちに素直に取り組めればいいのに。好きな男が日替わりで違っていた高校生のあの頃は、熱病のような恋心にあんなにも純粋でいられたのに。大人になると其処にちょっとした打算や駆け引きが生まれてしまって、あたしを愛してくれない男は嫌いなんて馬鹿みたいな意地まで生まれてしまう。違うのだ。本当はもっと単純に、
「えー? なんでぇ?」
「…何でもだよ。それとももう何かあんのか。」
ただ、好きなだけなのだ。
「別にないけど~。 …はい、出来たー。 うららさん特製ナポリタン!」
皿を持って応接用のローテーブルに向かうと、嵯峨薫は何だか渋い顔をしていた。変な男。と思いながらナポリタンを盛り付ける。すると彼は皿を覗くや開口一番こう言った。
「何だぃこのスパゲッティは。ピーマン入ってねぇじゃねぇかよ」
これにはうららもカチンと来る。
「何よぅ、うちは昔からナポリタンには玉葱とベーコンとマッシュルームなの! つかスパゲッティって言わないわよ今時。やばいからそれ。」
「はぁ?おめぇまさか缶詰のマッシュルーム入れたんじゃねぇだろうな」
「入ってるけど。それが何か?」
「…俺ぁ水煮のキノコとコーンは食わねぇ主義なんだ。おめぇ食えや」
「ぶっ! 何それ!あんたね、子供じゃないんだから好き嫌いしてんじゃないわよ!」
「あ、入れんなこっちに! 馬鹿、人間な、固体に合わないモンが嫌いなモンなんだ。それを無理して食うなんざ下らねぇ」
「屁理屈こくな!好き嫌いすると栄養が偏るんだからっ!」
「だから入れんなっ!キノコなんざ食わなくても死にゃぁしねぇよ!」
「何よぅ!アタシのマッシュルームが食べられないってわけぇ!?」
「お前が作ったんじゃねぇだろ!」
「つべこべ言うなっ!」
…攻防が続くこと五分弱。
すっかり冷えてしまったナポリタンを啜りながら、うららはちらりと嵯峨薫の顔を盗み見る。
どうしてもっと甘い雰囲気になれないのだろう?こんな触れ合いしか出来ないのはきっと自分の所為だ。それでも眉を顰めながら、一缶まるごと分盛り付けられたマッシュルームをちびちびと食べている姿が愛おしい。ナポリタンにはピーマン派だと分かった事が素直に嬉しい。こうして少しずつ知って行けたらいいと思う。
「…ね、 今度の日曜、何なの?」
「 …ぁん?」
「仕事だったらブッチね。」
「…… 違ぇよ。」
未だ嵯峨薫の隣で自信を持つ事は出来ないだろう。でもうららにはそれを上回る恋しさがある。…そうだ。うららが自信を持てる事と言えばそれではないだろうか?
有能とは言えないかも知れない。可愛くもないかも知れない。でも嵯峨薫がとても好きだ。出来るなら彼の傷に寄り添っていたいと思う。その気持ちはきっと、きっと誰にも負けぬ。
「… ま、 ちっと付き合えや。」
ふぅん、と分かったような分からないような返事で勿体付けたうららが、ある女の墓前に花を供えるのは数日後の日曜の事だ。
そして嵯峨薫と云う男が彼女が思っているよりずっとずっと彼女に心を明け渡していたのだと知るのも。
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