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うろほろぞ
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「耳に残るは・・・」








 灰白色をした空の下、眼前に広がる色彩は白。唸りを上げて吹く風に煽られた雪が舞い上がり、煙る。

 耳を切り裂くように強く吹き付ける風以外立てる音もなく、どこまでも果てない「白い静寂」が支配するこの大地。驍宗は正面を見据えたまま微動だにせず、また李斎も彼から一歩距離を置いた位置に控え、その横顔を見つめていた。

 彼の、挑むような険しさを。

 二人、見ているものは同じ。だが、感じるものもそうかと問われれば、否。
 驍宗のいつにない険しさの先に、李斎は彼の堅い決意を見た。



 この少し前、二人は鴻基からやや外れた所にある侘しい廬にいた。

 止むことなく降り続ける雪の重みに耐え切れず、倒壊した家屋を多く出したこの廬で、住む家を失った人々は唯一崩れずに残った小さな家の中で凍える身体を互いに温め合うように身を寄せあっていた。だが、その家の屋根も柱も、きしんだ音を立てている。ここもいつまで持つか分からない。
 細く降る雪でも、長きに渡れば住む家も、人の命をも奪う。降りしきる雪は音もなく、閉ざされた沈黙の中、じわりじわりと襲い掛かる不安と飢え。それらを目の前にして、彼らはあまりにも無力だった。
 震えは、寒さからくるものだけではない。いつ失われるとも分からない己の生命への怯えと絶望・・・心の震えが身体の震えとなって、見る側にはそれが痛いほど伝わる。
 李斎の胸には針で刺すような鋭い痛みが走った。

 否応なしに見せ付けられる――戴という国の、真実の姿を。

 震えながら、それでも生きることへの執着から身を寄せ合う輪の中に、一人の老翁がいた。
 彼が震える唇から漏らした呟き・・・誰に向けられたとも思えぬその呟きを、李斎は確かに耳にした。
 傍らに膝をつき、老翁と向き合う驍宗もまた、うめき声にも似た声を聞いただろう。


 ――王が立っても、これだ。


 王を得てもなお、戴の冬は今年もその厳しさを和らげるでもなく、疲れきった民の肩には、降り積もる雪の重み以上にのしかかる苦しみがあった。春になれば溶ける雪とは違い、負った苦しみはそう簡単に消え去るものではない。春は新しい生命が芽吹く季節だが、失われた人の生命はもう二度と戻ることはないのだから。

 それでも、新たな王が現われることを待ち焦がれた民の瞳には希望の色が宿り、その希望は期待となって王へと向けられる――筈だった。
 
 ――これは何だ。

 痩せこけた身体の、だが目だけは爛々と輝き、大きく見開いた老翁は目の前で膝をつく質素な身なりの男に向かって、吐き捨てるように言った。

「王が立てば豊かになるのではなかったのか――なのに、これは何だ」

 この老人は知らないのだ。彼らの目の前で膝をつくこの男こそが待ち望んだ王なのだと。 無論、それを言った所で彼らが信じるとは思えないし、一笑に伏されて終わるだろうが。

 だが驍宗は、向けられた老人の視線を逸らすことなく、
「――この冬もまた、辛いだろうな」
 王が立ったからといって、例外はない。戴は十二ある国の中でもっとも冬が厳しい国。十年も続いた空位の時代は確実に国を、民を疲弊させた。それが分かる驍宗だけに、問いに対して彼らが黙って首を縦に振る姿を、向けられた眼差しを、真正面から受け止めていた。
「家を失い、家族を失い――その苦しみと嘆きの深さは筆舌に尽くし難いだろうが・・・」
「・・・この辛さが、お前達に解るものか!」
 驍宗の言葉に対し、食ってかかるように語気を荒げた男はまだ若い。その傍らには赤子を抱きかかえた若い女。その男も、女も、赤子も・・・皆、痩せこけていた。
「解るかと問われて、解る・・・と言い切れる、自信はないな」
 王宮から遣わされた者だと名乗った驍宗には、苦笑に似た笑みを浮かべながらも、そう答える他ない。李斎もまた同じように思った。
 家を失う苦しみも、寒さと飢えに対する怯えも、仙である自分達には解らない。過去にそれらを経験したとことがあったとしても、いまの李斎たちには感覚的に遠い。
 だが、彼らが苦しむ姿を見れば胸が痛む。事実、李斎は彼らのそんな姿にきりきりと胸が締め付けられ、息をすることでさえ苦しい程に。
「あたしたちは、ただ穏やかで、暖かい暮らしがしたいだけ。それ以上なんて望んでいない」
 腕に抱きかかえた赤子の小さな身体を護るように抱きしめながら、腹の底から搾り出すように若い女は言った。

 李斎たちが運んだ食料も、炭も、衣服も、全ては彼らがこの冬を乗り切るためのもの。だが彼らの眼差しは、この冬のずっと先を見つめていた。

 老翁も、男も、その妻も――全ての者が「生きたい」と望んでいる。

 こけた頬に乾いた唇。肉がそぎ落とされた痛々しい身体に、浮かび上がった骨が痛々しい。
 だが、瞳の光だけは決して失われはしない。やつれた身体に、それでも瞳に宿る力強い光。

 それこそが彼らの「生きていたい」という訴えに他ならない・・・李斎はそう感じた。そして李斎が感じる以上に、驍宗も感じている。

 彼はそういう男だから。そのために自ら昇山し、泰麒に選ばれたのだから。

 だから、彼らの「願い」も「想い」も、王の耳に届いている。そう言ってやりたい衝動を、ぐっと李斎は堪えた。
 ・・・その代わり。

「その苦しみも、願いも、王はきっと聞き届けてくれるだろう」
 それだけを言い、立ち上がった驍宗は、男の腕に抱えられた赤子の柔らかな髪をそっと撫で、扉に向かって歩いていった。
 その後を追うように立ち上がった李斎は、扉から差し込む雪に照り返された光によって一瞬その視界を遮られた。逆光で表情は見えなかったが、
「私はお前達を決して裏切らない・・・・それだけは約束する」
 その言葉が彼らの耳に届いた時、薄い板戸は音を立てて閉じられた。




「・・・そろそろ、戻られませんか?」
 沈黙が耐えられなかった訳ではないが、ただ黙って眼下に広がる景色を眺めていた驍宗に、李斎からそう声を掛けた。部下は先に戻らせ、今は驍宗と李斎だけが小高い丘の上から貧しい廬を眺めている。
 白い雪の合間から僅かに見えるのはまばらに点在する家屋の屋根だけで、屋根からは立ち上る煮炊きの煙も見えない。家屋の前に伸びる細い道には人の足跡もなく、あるのは山から点点と続く獣の、恐らくは鹿や兎の類の小さな足跡だけだった。
「・・・これが現実だな、李斎」
 そう呟く驍宗の声があまりにも淡々としていたことに李斎は戸惑った。
「戴の冬は長く、そして厳しい。賢帝が立っても雪が降らぬ年などない。・・・戴はそういう国だ」
「戴が豊かになれば、民も豊かになります。そうすれば冬を乗り切ることも容易にできましょう」
 当たり前過ぎた答えだったが、李斎は敢えてそれを口にした。その意味が解らぬ驍宗ではないだろうし、恐らく彼自身が一番それを理解しているだろうから。
「穏やかで暖かな暮らしを・・・せめてあの赤子に物心がつく頃までには、させてやりたいものだな」
 掌には撫ぜた赤子の柔らかな髪の感触が残り、耳の奥には女の言葉が残っているのだろうか。挑むように前を見据えていた赤い瞳をそっと閉じて、傍らに繋いだ計都の艶やかな白い毛並みをゆっくりと撫でた。
「主上ならば、できます」
 李斎の確信にも似た言葉に、驍宗は答えなかった――代わりに、唇の端に薄い微笑を一瞬浮かべ、閉ざされた瞼の下から再び煌々と輝く赤い瞳が現われた。
「あの者たちに誓った言葉を、決して忘れはしない」

 白く染められた大地を、赤い双眸が挑むように見つめていた・・・王の顔で。
 
 そして李斎にゆっくりと向き直り
「国が豊かになったら、もう一度・・・二人でここを訪れてみないか、李斎?」
 雪に照らされた光で、その表情は見えなかったが、その言葉と、その言葉が意味する決意と、優しい響きを、李斎は一生忘れることが出来ないだろうと思った。
「―― 喜んで、お供させていただきます」

 そう言って微笑んだ自分を、驍宗は覚えていてくれただろうか――?




 
 そして再び、李斎はこの地に立った。

 かつて訪れた廬は既に無く、僅かに残る朽ちた家の残骸と、途切れ途切れに続く荒れ果てた道が、過去に人が暮らしていたことを残すのみ。あの時身を寄せ合っていた者達の消息など、ここには知る者もいないだろう。
 
 驍宗が険しい横顔でこの景色を見つめていた場所――その場所にいま立つのは、痛々しいほど白い首を晒し、憂いの横顔でこの大地を見つめる少年。

 嘆きと憂いを帯びた少年の黒い瞳に映るものは、彼の主と同じものか・・・それとも。

 眼下に広がる荒れ果てた大地を見つめる横顔に、懐かしさが込み上げる。かつて驍宗と二人、この地に共に立った日のことを、李斎はこの少年の横顔に重ねていた。
 
 ――あの約束を忘れたことなど、ない。

 それでも、叶うことはないと、どこかで諦めていた自分がいた。―― 彼に再び出会うまでは。
 だが、李斎は再びこの地に戻ってきた。あの時共に約束を交わした彼は、いまは側にいないけれど。

 もう一度、二人で――そう、彼は誓いを違えたりなどしない。だから、私達はまた再び会うことが出来る。
 あの言葉を、その言葉に秘められた決意と、優しい響きを、私は覚えているから。


「・・・そろそろ行きましょうか、李斎」
 強い風に黒髪を揺らめかせながら、ゆっくりと振り返った黒い瞳。
 その色は違えど、この黒い瞳はかの人の深紅の瞳と同じ光を宿している。
「・・・参りましょう、台輔」

 緩く束ねた長い髪が、風に煽られる。その風に、声にならない願いを託す。

 ・・・願わくば。

 願わくば、唸り声を上げながら通り行く風よ。
 この声が届くのならば、伝えて欲しい。あの人の元に、届けて欲しい。

 貴方がどこにいようとも、必ず私が探し出す――諦めなどしない。
 そして再び私達はこの大地に立つ――あの日の誓いのままに。



 荒れ果てた大地から音も無く飛び立つ二頭の獣と、その背に跨る二つの影。
 「約束の大地」は、次第に遠ざかり・・・やがて小さく、見えなくなっていった。  












<終>

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「李斎。お水、いっぱいになったよ。こっちの甕だけでいいの?」
「ありがとうございます。十分でございますよ」
 洗い終わった椀を、窓沿いの竹棚に、乾かすために伏せていた李斎は、前掛けで手を
拭くと、泰麒に微笑んだ、
「ご苦労様でしたね。うんと重かったでしょう」
「全然、へーき」

 井戸のある庭に面して開口した、小さな厨(くりや)である。その光景は、白圭宮で
はまず、見ることのできないものだ。
 后妃が、前掛けを締め、生き生きと立ち働いているのはもちろんだが、大きな水桶を
井戸から往復して運んだらしい泰麒も、普段よりずっと明るい色目の、くだけた装いを
している。半袴の裾をわざとゆるめて履いているのが、蓬莱風というのか、短いままの
髪と、よく合ってみえる。李斎の方もすっきりとした麻の単でやはり似合うが、正寝な
らば真夏でもしない格好だ。
 
「主上は?」
「まだ厩(うまや)においでですよ。きっと念を入れてお掃除なさっているのでしょう」
 李斎に冷たいお砂糖水を一椀あてがわれながら、泰麒は汗をふいて、笑った。
「すごく、やりたがっていらしたものねぇ」
「さようですね」
 李斎も笑った。自分たちでする事の希望として、驍宗が真っ先にあげたのは、騎獣の
世話だ。
 泰王一家が、――もう一家、と呼んでも別段さしつかえはあるまい――、この禁苑の
離宮に到着したのは、昨日のことである。
 下官、女官を含め、直答の許されるお目見え以上のお側の官を、ただのひとりも連れ
ずに、家族だけで数日を離宮で過ごす、という試みは、当初、実現不可能に思われた。
なかでも、驍宗は乗り気でなかった。
『暑中休暇というものを、皆(みな)にとらすにはやぶさかでないが、私までとること
はなかろう』
 驍宗は、そう言った。
 戴では今年から、官は全員、夏場に数日間の休暇をとるよう、定められたのだった。



 戴国で、府第の同時休業制度――およそ警察権の行使にかかわらぬ全ての府第の完全
週休――が実施されてから、八年が経とうとしていた。当初懸念されたにもかかわらず、
この制度は中中にうまく機能し、成果をあげていた。他国においても関心が高く、雁で
はすでに数年前から試験導入しているし、昨年は慶の官が視察に来た。
 働くものに休みを「とらせる」。これは、その事自体が、画期的な改革だった。
 それまで、この世界で官の休みといえば、仙であるとないとを問わず、不定期で、だ
いたい平均して十日に一日あれば良い方、それも、監理されているわけではなく、自ら
上司に申告してとるものだった。無制限で拘束されて当たり前、もともと月給制ではな
し、残業などという観念自体が無論なく、官の時間は王の時間、文字通りの公僕である
から、どこからも文句はではしない。それで健康に問題が生じようと普通は補償などな
されない、仕事ができなくなったときは、罷免されるだけであった。
 そも休みの目的自体、彼らの休養でなく、洗髪など、威儀を整えさせるところにあっ
た。 
 毎朝髪を結い直して衣服を改め、供を連れて参内し、夜にはよほどでないかぎり官邸
に戻って風呂を使い床につく。それは、国府でもごく上位の者たちに許されることでし
かない。
 もっとも、たいていの府第の下吏たちの仕事の密度は、通常はさほど苛烈なものでは
ない。だが、ひとたび状況が変化すれば、この限りではなかった。人権の保護に関する
法規定が極めて大雑把でしかなく、意識の確立していない社会では、ささやかな福利厚
生などは、真っ先に犠牲になるのが常だった。

 官とは王と民に仕えるもの、職に一命を奉じて当然ではないか。という反対意見も根
強くあった。だが府第で働く二割ほどは官吏ではなく、官吏の多数は仙ではない。よく
も悪くも、王のもと、完璧な官主導で動かさざるをえないこの世界の制度・組織にあっ
てはなおのこと、府第で働く者たちへの福利を疎かにしてよしとすることは、畢竟、そ
れ以外の民への福利を軽んじる意識にもつながるのだ――泰麒は、そう強く説いて、時
間をかけて閣僚全員の理解をとりつけ、また驍宗を説得して、国府での試験実施に漕ぎ
着けたのだった。驍宗復位の翌年、十八年前のことである。徐々に地方の府第に広げて
ゆき、十年かけて余州全てに行き渡った。
 最初は戸惑った官も民も、いまでは府第が毎週休みになることにすっかり慣れた。週
に一日休みをとる習慣は、民の間でも浸透しつつあり、歓迎されている。

 しかし、休みをとることに、なかなか慣れぬ者もいた。
 その筆頭が、法令を出させた当の、驍宗だ。
 三年目からは、正月行事が一区切りした時期の年始休暇も、三日はとるようにとされ
たのだが、彼は、実際はこれをとっていない。毎年とる予定にはするものの、どこへ出
かけるわけでもなく、結局、なし崩しに普段どおり仕事をして過ごしてしまった。大体、
驍宗の場合は週休も、朝議がないから外殿に出ぬだけのことで、正寝でなにかしらの書
類に、かまけている。
 この度の、盛夏休暇制定に際しては、主上御自身にもぜひとも休暇をとっていただか
なくては、という声が周囲から出たのも、無理からぬことであった。


「でも…、」
 と泰麒が愉快そうに、厩舎のある方角を眺めた、
「さんざん渋っていらしたのに、なんだか、主上が一番楽しそうだ」
 李斎は、目を嬉しげに巡らせながら、控えめに同意を示した。

 離宮のあるこの凌雲山には、無論、本当に彼ら三人きりでいるわけではない。主上の
御滞在中、下の門と中腹の門には、禁軍の精鋭が配されて警護にあたっており、同時に、
毎日王宮からの青鳥を受け取り、急の連絡にも備えている。食料や燃料の補充をはじめ、
清掃など雑用の主なことは、白圭宮でもそうであるように、下働きの者が主たちとは時
間をずらして、出入りして行った。
 この厨房も彼らが起きる前に清掃が済み、食料が新しく運ばれて、目が覚めるころに
は、朝の膳が整えられているのだ。
 だが、四六時中、人の中で暮らすのがもう当たり前となっている彼らにとっては、顔
を合わせる側付きの官が全く見えないのは、信じられないほどの開放感であった。
 昼餉と夕餉は自分たちで作ると決めてあるから、そのために必要な水汲みや、後片付
けは自分たちでする。建物のすぐ近くに厩舎があって、普段、正寝内には入れることを
許されない騎獣たちがいる。驍宗のすう虞と李斎の飛燕だ。彼らに脇の小さな倉から飼
葉を運んで、水をやる。寝藁を換える。世話の一切を、してやれる。
 起きて、自分で服を着、井戸の端で顔を洗う。それだけのことで、今朝は笑い合った。
 
 滞在している居宮は、さほど広くはないが、採光と風通しにすぐれた、夏の造りだ。
部屋の多くは海に向かって開かれ、目の前には遥遥と雲海が広がっている。背後の庭は
すぐに鬱蒼とした森に続き、緑の崖が迫っていて、深山のように鳥の声がした。
 この井戸のある庭院から、夏草の生い茂る細い坂を下りてゆけば、白砂の浜も広がっ
ているのだ。
 
「こっちのお野菜も、剥いておく?」
「はい。お願いします」
 泰麒が籠を抱えて座り、豆の莢をむき始めると、李斎は茄子を洗って切り始めた。
 李斎のまな板には、のせたものを抑える、重しのついた腕がある。后妃の仕事が忙し
くなった今でも、何かしら驍宗や泰麒のために拵えたがる彼女に、泰麒が自分で木を削
って作り、贈ったものだ。それを使ってトン、トン、と軽い音が刻まれる。
 楽しげな後姿をながめて、泰麒はちょっと目を眇め、満足そうに微笑んだ。
 彼らの休みは、はじまったばかりだ。




 







 驍宗は今回、李斎を後宮ではなく正寝に迎えたことで、官にどれほど負担をかけたか
を、よく承知している。それでも、彼にとって譲れない一事であれば、あえて通した。
 それでここしばらく、極力天官への改革の手も控えておとなしくしていた。いずれは、
天官府も大きく整理し、さまざまに改革せねば立ち行かぬだろう、と驍宗は考えている。
少なくとも、王の私的生活に関わる官は、どう考えても多すぎるのだ。それに、信の問
題もあった。信で選ぶなら、ほとんどの官を残せない実情を、驍宗は分かっている。
 ――阿選と折り合いをつけて生き延びた官の全てが、あの女官長のように生きたわけ
ではない…。


 
   ――――――――――――――――




 
 女官長が処刑されなかったのは、ひとえに、彼女があの阿選に対してさえも、一貫し
た天官の立場を徹(とお)したがためだった。
 内殿に居座り、やがて臆面もなく正寝に乗り込み、王の部屋で寝起きするようになっ
た阿選に、当時正寝の官としてとどまっていた彼女は、直ちに宮中作法の遵守を説いた
という。
 王でないゆえ軽んじてかくも無礼な口をきくかと、気色ばんだ阿選に対し、彼女は言
い放った。
 あなたが誰であろうと関係はない。ここは正寝である。小官のただいまの役目は、正
寝の主の教育である。正寝で主として起居される以上は、相応のことを申すし、相応の
ふるまいをしていただく。それは誰であろうと、絶対に変わらない。と。
 阿選は怒りを和らげた。
 驍宗にも、そのような口をきいたと言うか。
 問う阿選に、女官長は毅然と答えた。
 先王にも、先々王にも。あなた様がここに住まうと仰るならば、あなた様にも。
 命は惜しくないか。
 成敗を恐れては、小官の職は勤(つと)まりませぬ。

 実はこのとき、女官長は死んでいいと思っていた。阿選は驍宗を慕うものを決して許
さなかった。もっとも、彼女の考える天官とは、王に個人的な感情をもつべきではなか
った。実際のところ彼女は、たった数月余ではあったが、たいそう手を焼かせた、あの
禁軍上がりのやんちゃな主君を、嫌いではなかった。が、そもそも好き嫌いを思うこと
自体、天官の資質に欠けるものだともいえる。仕える対象の人格がどうであろうと感情
にかられず態度を変えぬことこそが、天官の本分である。そして彼女は、筋金入りの天
官であった。
 それゆえ、天官として死のうと思ったに過ぎなかった。それが、己自身の負い目と引
け目で、卑屈なほどに疑心暗鬼にかられる当時の阿選の気に障らず、以後彼女の指導に
従わせることになったのは、あくまでも結果でしかない。
 阿選は身の安全に必要な数以上は、天官に彼の幻術を施すことをしなかった。大多数
をあえて洗脳せずにおき、息のかかった者に監視させた。そうしておいて自分にわずか
でも叛意ある者、逃亡しようとする者を、抹殺していったのだ。
 言葉にも態度にも、驍宗を懐かしみ阿選を厭う様子など毛ほどもみせなかった彼女を、
阿選は、信用したわけではなかった。殺す機会が、たまたまなかった。
 驍宗が彼の王宮に戻ったとき、天官の多くが泣いて出迎えた。その涙には残念ながら、
阿選に仕えたことへの温情を乞う保身が含まれていた。阿選の疑いから身を守り、助か
った者たちは、今度は驍宗の追及に怯えていた。驍宗は、その処分を現在に至るまで保
留している。彼にしても、七年恐怖の中で永らえた彼らを不憫とは思え、もはや手放し
で信に足ると考えるわけにはいかなかった。
 そんな中、昔と変わらぬ顔で伺候した女官長が、昔と変わらぬ態度で、最初の苦言を
呈したときに、驍宗は問うている。
 阿選も教育してやったか。
 女官長は答えた。
 もちろんでございます。
 そうか、と答えが返った。それきり、驍宗は女官長が部屋を去るまで何も言わなかっ
た。
 女官長は、このときもやはり、目の前の男から死を賜る覚悟で上殿したのだった。
 彼女は退室の際、伏礼した後、立とうとしなかった。
 どうした、行ってよいぞ、と声がかかると、畏れながら、と口を開いた。
 偽王に仕えたこの身へのご処分、如何ようにも受ける覚悟は出来てございます。なに
とぞお命じ下さいますよう。
 驍宗は答えた。
 お前は、仕事をしただけだ。
 はっと女官長は顔を上げた。
 違うのか。
 言葉のない女官長に、驍宗はいま思い出したような調子で告げた。
 なにかしてくれるというなら、ひとつ、貴官に命じたい仕事があった。
 驍宗は穏やかに続けた。
 近々、后妃を迎える。その教育を頼みたい。
 黙っている女官長に重ねて言った。
 引き受けてくれような。
 このとき、女官長の変わる事のない表情が歪んだ。
 つつしみまして。
 その声は少しかすれていた。すぐに下げた面(おもて)から床に、はたと雫が落ちた
のを、驍宗が見る事ができたかどうかは分からない。
 この女官吏が、宮中で泣いたのは、生涯にこれ一度であった。

                                      
(了)






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 驍宗が寝息を立てはじめると、暗い中で李斎はそろりと目を開いた。
 実は、妻の顔をのぞきこむためについていた腕を、あきらめて驍宗が外したときに、
その反動で目が覚めていた。
 そのままじっとしていたら、明かりが消された。いつものようにいらっしゃるかとも
思ったけれど、驍宗はそのまま横になった。一度、かすかに息を吐いたような音が聞こ
えてきたが、すぐに眠ってしまった。
「……」
 よかった、と李斎は心でつぶやいた。別に御用をさぼりたかったのではない。今日は
驍宗を少しでも長く休ませたかった。


 この一日を、驍宗がどんなに精力的に歩いて回ったか、李斎には想像ができた。冬を
迎え、これから春まで、民の暮らしは文字通り、生死をかけた正念場を迎えるのだ。
 休憩もろくにとらず、食事もそこそこに、係官を急かしては足を伸ばし問うて回るお
姿が見えるようだ、と、先ほど指をお揉みしながら思ったものだ。
 どれほどお辛いことだろうか。と思う。
 七年前とて豊かだったわけではなかった。それでも当時に比べて、この冬、国が民に
施せることは、あまりに少なかった。あまりに土地は痩せ、あまりに民は痩せている。
 だが驍宗は愚痴を言わない。無論、振り返ったりなどはしない。そして、現実を受け
止め、それに耐える。昔のようには、表情も変えぬし、言葉も少ない。変わらないのは
覇気だった。その覇気で驍宗は、なによりも己と戦っているのだと、李斎には思われる。
 たったひとりで全てを背負う。王であるとはそういうことだ。その現実が、いかに計
り知れないものなのか、玉座にある者の生活を、他人に見えない背後から眺める立場に
なった李斎は、日増しに実感していた。
 そしてそれを負っているのは、怪物でもなければ、超人でもない、まして無感覚な神
ではない。
 寒い中を一日歩けば、足の指先が固くなる。ほぐしてやると気持ちよさそうに寝てし
まう。いまもすぐ後ろに感じる、規則正しい呼吸。そして血の通った温かい体。
 彼女の夫は、ひとであった。


 耳を澄まして聞いているうち、その安らかな呼吸が嬉しく思え、李斎はかすかな息を
つき、闇をすかして、見えぬ牀榻の天井を眺めた。
 こうして、いっしょに休んでいるって、いいものだ…。
 小さな頃から、冬は姉たちとくっついて眠っていた李斎である。例の冬には、二三度
ではあったが、親友と互いの官邸を行き来した折に、おしゃべりしながら眠ったことも
ある。だが、どれとも違う。夫の側にこうして眠るというのは、何かとても…、

――李斎と寝むと、朝が暖かいな。
 ふいに、驍宗の言葉を思い出し、李斎は声を聞いたように驚いて、瞬いた。
「………」
 どうして当たり前のことを、と思った。しみじみと、何度も言うほどの事とは思えな
かった。
 あれはこういうことを仰っておられたのだろうか。主上も私とお休みになられて、こ
のような気持ちに、なられたりするのだろうか。
 李斎は胸を押さえた。自分の考えに、なんだかぼぅっとしてきた。
 無性に、背後の夫の顔が見たくなった。寒いようなら、足を温めて差し上げたかった。
だが振り返ってのぞきこんだりすれば、お起こししてしまうかもしれない。今日はやっ
ぱり、このまま朝まで寝かせたい。
 李斎は、がまんして、目を閉じた。


 ふっと、冷えが緩んだような気がした。まだ二人の体温が牀榻を温めるには、だいぶ
間がある。だが確かに空気が、いま変わった。李斎は枕をそばだてた。いつのまにか風
の音も少し弱まっている。
 ―――雪だ。李斎は胸のうちでひとりごちた。
 雪が、降り出すのだ。
 間違いない。雪の匂いがしていたもの。それは、しかとは言えないが、子供の時分か
ら知っている、なにか感覚的な空気の変化だ。
 きっと、積もる。夜の初雪は、一晩で、庭を染めるものだから。
 …明日の朝、あの林の樹々もすっかり白くなっていようか。園林の奥を李斎は思った。
 夜が明けたら、主上をお誘いして、庭に降りてみようか。意外と寒がりでいらっしゃ
るから、いやだとおっしゃるかもしれない。もしも、――二人で見に行けば暖かろう、
などと、申し上げてみたなら、いったい、どんなお顔をなさるのだろう……
 李斎は心楽しく瞼を閉じた。閉じながら、唇に笑みが浮かんだ。
 眠りがふわりと落ちてくる。聞こえてくる夫の寝息、雪の気配、手を伸ばすところに
ある、確かな体温。
 夢の中で、庭柯(にわのじゅもく)は、銀色に輝いていた。







                                     (了)







 風が、鳴っていた。すでに夜も遅い。
 李斎はちらと夫の様子を見、それから、見ていた冊子を閉じた。
 どうも、なかなかお起きになるふうではない。
 こういうことは初めてなので、どうしたものか、と思案してみる。李斎は首を傾けた。
本人は意識していないが、驍宗が起きて見ていたなら、頬がゆるんだに違いないほど、
可愛らしい傾げ方になった。
 このままお休みになるということでよいのだろうか。私が灯りを消してもよいだろう
か。
 李斎はまた首を傾けた。夜着の肩を、艶のある重い髪が滑った。
 お目覚めになるのをお待ち申し上げるにしても、この時間だし、寒いから、蒲団を着
て温もっていたら、眠ってしまうかもしれない。眠るだろう…。
 ――いいや。御用がおありなら、お起こしになられるだろうから。
 このようにあれこれ忙しく考えをめぐらせた後、書を帙に片付け、主上のお蒲団の具
合をもう一度見てから、后妃は自分の蒲団を肩までひっぱり上げると、しっかりと着込
んだ。
 今夜は、本当に冷える。




 驍宗は目を開いた。牀榻の灯りはついたままであった。
 足指を揉んでもらううち、いつしか眠気がさしたようだ。驍宗は周囲を見た。十分に
広いとはいえ、驍宗が牀の丁度真ん中を占めていたので、いつもよりは少しばかり端近
に、李斎の背があった。
 驍宗が寝入ったので、灯りをそのままにして、李斎も体を横にしたのだろう。様子か
らすると、眠っている。一瞬まどろんだくらいの気でいたが、それよりは長かったらし
い。揉ませるために出していた足が、蒲団に包まれて温もっていた。
 驍宗は妻の様子を見るために、そっと体を起こし側に寄った。そのときに、視線が李
斎の向こうの、枕机の上に落ちた。小型の帙はきちんと閉じて置かれていたが、それを
李斎は自分が眠った後で、また読んでいたのだ、と驍宗は思った。
 驍宗はかすかな寝息を立てている横顔を、見下ろした。掌が、その傍らに上を向いて
いる。
 ゆっくりと、その手の近くに驍宗は己の腕をつき、そして軽く指先に触れた。
 ぴく、とわずか手が動き、ほんの少し握るように閉じたが、また緩んだ。
 驍宗は小さく笑んで、その軽く指を曲げた手を眺め、そしてまた顔に目をやった。
 起こそうと思ったのだが、結局やめた。かわりにしばらく、寝顔を見ていた。
 灯りの下で、これほどとくと妻の寝顔を見るなどは、初めてだった。
 その顔は化粧していない。
 昼間は、襦裾に不似合いでないほどの化粧を施されている李斎だが、華燭から数日は、
夜には更に艶やかに、眉や紅を引かれていた。驚くほどの美女ぶりだったが、李斎には
これが、大変に苦痛であるらしいと、すぐに驍宗は気がついた。驍宗にしても、確かに
美しいのではあるが、李斎を月並みの美人顔に拵えられることを、あまり嬉しく思えな
かった。なにより、夜具に紅を着けてしまうのを気にして、肩を出して寝むので、風邪
を引かせそうで案じられた。
 とうとう三日目にして、素顔が好みであるゆえ夜は無用、と、驍宗から直接申し付け
たので、以後はもう、就寝前の化粧がなしになったのだった。
 李斎は、頬を、掛蒲団の縁(へり)に、心置きなく埋めて眠っている。
 元気さと、どこか往年のお転婆ぶりを伺わせる気質が多少、見受けられはしても、女
としては、容貌にも雰囲気にも、大人らしい柔らかな落ち着きを持っている李斎だが、
光の加減か、その寝顔は、むしろあどけない。
 ふと見覚えがあることに気づいた。初めてではないのだ。ずっと昔に、この寝顔を自
分は見ている。
 ――私がいて、お眠りになれそうか?
 ええ。――なぜです。
 いや、と答えた。それきり黙った。蓬山の夏の午後。
 よもや本当に眠るとは思わなかったのだが、しばらくすると驍宗がすぐ側にいるのに、
怪我人はいとも安らかに寝息を立て始めたのだった。
 常に他人を緊張させる己であることを、驍宗は経験上知っている。去るために立ち上
がり、寝顔を顧みたときに、かつて覚えない心持ちがした。
 明日下山という日、帰国後どうするかは、既に決めてあった。
 翌日には永久に見失う相手であるのに、それがまるで他人でないかのように、思えた。
 驍宗は首を傾け、静かに幕屋を後にした。様々な思いにある胸の内が、その寝顔ひと
つに暖められたように、ひどく穏やかになっていた。


 その女が、いまは妻としてここにいる。
 連日天官にしごかれて、不平を言うでもなく、熱心に勉強している。もともと男勝り
の性分である上に、武将としての動きが身についているのだが、いつのまにやら、ずい
ぶんとしとやかに振舞えるようにさえなっている…。
 仕事を終えて、己は、この場所に帰ってくる。
 終わりのない長い明日を、また迎えることを、かように喜ばしいと思える。
 驍宗の顔に、穏やかな微笑があらわれた。
 
 見飽きぬ寝顔から驍宗はようやく身を起こした。灯りを消して、自分の蒲団にもぐり
こむ。
 ふぅっと息が漏れた。――やはり少し、つまらぬかな…。

 だが、ほぐしてもらった指先から、眠りが気持ちよく這い登ってきた。驍宗は間もな
く、眠りに落ちた。









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