驍宗が寝息を立てはじめると、暗い中で李斎はそろりと目を開いた。
実は、妻の顔をのぞきこむためについていた腕を、あきらめて驍宗が外したときに、
その反動で目が覚めていた。
そのままじっとしていたら、明かりが消された。いつものようにいらっしゃるかとも
思ったけれど、驍宗はそのまま横になった。一度、かすかに息を吐いたような音が聞こ
えてきたが、すぐに眠ってしまった。
「……」
よかった、と李斎は心でつぶやいた。別に御用をさぼりたかったのではない。今日は
驍宗を少しでも長く休ませたかった。
この一日を、驍宗がどんなに精力的に歩いて回ったか、李斎には想像ができた。冬を
迎え、これから春まで、民の暮らしは文字通り、生死をかけた正念場を迎えるのだ。
休憩もろくにとらず、食事もそこそこに、係官を急かしては足を伸ばし問うて回るお
姿が見えるようだ、と、先ほど指をお揉みしながら思ったものだ。
どれほどお辛いことだろうか。と思う。
七年前とて豊かだったわけではなかった。それでも当時に比べて、この冬、国が民に
施せることは、あまりに少なかった。あまりに土地は痩せ、あまりに民は痩せている。
だが驍宗は愚痴を言わない。無論、振り返ったりなどはしない。そして、現実を受け
止め、それに耐える。昔のようには、表情も変えぬし、言葉も少ない。変わらないのは
覇気だった。その覇気で驍宗は、なによりも己と戦っているのだと、李斎には思われる。
たったひとりで全てを背負う。王であるとはそういうことだ。その現実が、いかに計
り知れないものなのか、玉座にある者の生活を、他人に見えない背後から眺める立場に
なった李斎は、日増しに実感していた。
そしてそれを負っているのは、怪物でもなければ、超人でもない、まして無感覚な神
ではない。
寒い中を一日歩けば、足の指先が固くなる。ほぐしてやると気持ちよさそうに寝てし
まう。いまもすぐ後ろに感じる、規則正しい呼吸。そして血の通った温かい体。
彼女の夫は、ひとであった。
耳を澄まして聞いているうち、その安らかな呼吸が嬉しく思え、李斎はかすかな息を
つき、闇をすかして、見えぬ牀榻の天井を眺めた。
こうして、いっしょに休んでいるって、いいものだ…。
小さな頃から、冬は姉たちとくっついて眠っていた李斎である。例の冬には、二三度
ではあったが、親友と互いの官邸を行き来した折に、おしゃべりしながら眠ったことも
ある。だが、どれとも違う。夫の側にこうして眠るというのは、何かとても…、
――李斎と寝むと、朝が暖かいな。
ふいに、驍宗の言葉を思い出し、李斎は声を聞いたように驚いて、瞬いた。
「………」
どうして当たり前のことを、と思った。しみじみと、何度も言うほどの事とは思えな
かった。
あれはこういうことを仰っておられたのだろうか。主上も私とお休みになられて、こ
のような気持ちに、なられたりするのだろうか。
李斎は胸を押さえた。自分の考えに、なんだかぼぅっとしてきた。
無性に、背後の夫の顔が見たくなった。寒いようなら、足を温めて差し上げたかった。
だが振り返ってのぞきこんだりすれば、お起こししてしまうかもしれない。今日はやっ
ぱり、このまま朝まで寝かせたい。
李斎は、がまんして、目を閉じた。
ふっと、冷えが緩んだような気がした。まだ二人の体温が牀榻を温めるには、だいぶ
間がある。だが確かに空気が、いま変わった。李斎は枕をそばだてた。いつのまにか風
の音も少し弱まっている。
―――雪だ。李斎は胸のうちでひとりごちた。
雪が、降り出すのだ。
間違いない。雪の匂いがしていたもの。それは、しかとは言えないが、子供の時分か
ら知っている、なにか感覚的な空気の変化だ。
きっと、積もる。夜の初雪は、一晩で、庭を染めるものだから。
…明日の朝、あの林の樹々もすっかり白くなっていようか。園林の奥を李斎は思った。
夜が明けたら、主上をお誘いして、庭に降りてみようか。意外と寒がりでいらっしゃ
るから、いやだとおっしゃるかもしれない。もしも、――二人で見に行けば暖かろう、
などと、申し上げてみたなら、いったい、どんなお顔をなさるのだろう……
李斎は心楽しく瞼を閉じた。閉じながら、唇に笑みが浮かんだ。
眠りがふわりと落ちてくる。聞こえてくる夫の寝息、雪の気配、手を伸ばすところに
ある、確かな体温。
夢の中で、庭柯(にわのじゅもく)は、銀色に輝いていた。
(了)
実は、妻の顔をのぞきこむためについていた腕を、あきらめて驍宗が外したときに、
その反動で目が覚めていた。
そのままじっとしていたら、明かりが消された。いつものようにいらっしゃるかとも
思ったけれど、驍宗はそのまま横になった。一度、かすかに息を吐いたような音が聞こ
えてきたが、すぐに眠ってしまった。
「……」
よかった、と李斎は心でつぶやいた。別に御用をさぼりたかったのではない。今日は
驍宗を少しでも長く休ませたかった。
この一日を、驍宗がどんなに精力的に歩いて回ったか、李斎には想像ができた。冬を
迎え、これから春まで、民の暮らしは文字通り、生死をかけた正念場を迎えるのだ。
休憩もろくにとらず、食事もそこそこに、係官を急かしては足を伸ばし問うて回るお
姿が見えるようだ、と、先ほど指をお揉みしながら思ったものだ。
どれほどお辛いことだろうか。と思う。
七年前とて豊かだったわけではなかった。それでも当時に比べて、この冬、国が民に
施せることは、あまりに少なかった。あまりに土地は痩せ、あまりに民は痩せている。
だが驍宗は愚痴を言わない。無論、振り返ったりなどはしない。そして、現実を受け
止め、それに耐える。昔のようには、表情も変えぬし、言葉も少ない。変わらないのは
覇気だった。その覇気で驍宗は、なによりも己と戦っているのだと、李斎には思われる。
たったひとりで全てを背負う。王であるとはそういうことだ。その現実が、いかに計
り知れないものなのか、玉座にある者の生活を、他人に見えない背後から眺める立場に
なった李斎は、日増しに実感していた。
そしてそれを負っているのは、怪物でもなければ、超人でもない、まして無感覚な神
ではない。
寒い中を一日歩けば、足の指先が固くなる。ほぐしてやると気持ちよさそうに寝てし
まう。いまもすぐ後ろに感じる、規則正しい呼吸。そして血の通った温かい体。
彼女の夫は、ひとであった。
耳を澄まして聞いているうち、その安らかな呼吸が嬉しく思え、李斎はかすかな息を
つき、闇をすかして、見えぬ牀榻の天井を眺めた。
こうして、いっしょに休んでいるって、いいものだ…。
小さな頃から、冬は姉たちとくっついて眠っていた李斎である。例の冬には、二三度
ではあったが、親友と互いの官邸を行き来した折に、おしゃべりしながら眠ったことも
ある。だが、どれとも違う。夫の側にこうして眠るというのは、何かとても…、
――李斎と寝むと、朝が暖かいな。
ふいに、驍宗の言葉を思い出し、李斎は声を聞いたように驚いて、瞬いた。
「………」
どうして当たり前のことを、と思った。しみじみと、何度も言うほどの事とは思えな
かった。
あれはこういうことを仰っておられたのだろうか。主上も私とお休みになられて、こ
のような気持ちに、なられたりするのだろうか。
李斎は胸を押さえた。自分の考えに、なんだかぼぅっとしてきた。
無性に、背後の夫の顔が見たくなった。寒いようなら、足を温めて差し上げたかった。
だが振り返ってのぞきこんだりすれば、お起こししてしまうかもしれない。今日はやっ
ぱり、このまま朝まで寝かせたい。
李斎は、がまんして、目を閉じた。
ふっと、冷えが緩んだような気がした。まだ二人の体温が牀榻を温めるには、だいぶ
間がある。だが確かに空気が、いま変わった。李斎は枕をそばだてた。いつのまにか風
の音も少し弱まっている。
―――雪だ。李斎は胸のうちでひとりごちた。
雪が、降り出すのだ。
間違いない。雪の匂いがしていたもの。それは、しかとは言えないが、子供の時分か
ら知っている、なにか感覚的な空気の変化だ。
きっと、積もる。夜の初雪は、一晩で、庭を染めるものだから。
…明日の朝、あの林の樹々もすっかり白くなっていようか。園林の奥を李斎は思った。
夜が明けたら、主上をお誘いして、庭に降りてみようか。意外と寒がりでいらっしゃ
るから、いやだとおっしゃるかもしれない。もしも、――二人で見に行けば暖かろう、
などと、申し上げてみたなら、いったい、どんなお顔をなさるのだろう……
李斎は心楽しく瞼を閉じた。閉じながら、唇に笑みが浮かんだ。
眠りがふわりと落ちてくる。聞こえてくる夫の寝息、雪の気配、手を伸ばすところに
ある、確かな体温。
夢の中で、庭柯(にわのじゅもく)は、銀色に輝いていた。
(了)
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