忍者ブログ
Admin*Write*Comment
うろほろぞ
[469]  [468]  [467]  [466]  [465]  [464]  [463]  [462]  [461]  [460]  [459
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「李斎。お水、いっぱいになったよ。こっちの甕だけでいいの?」
「ありがとうございます。十分でございますよ」
 洗い終わった椀を、窓沿いの竹棚に、乾かすために伏せていた李斎は、前掛けで手を
拭くと、泰麒に微笑んだ、
「ご苦労様でしたね。うんと重かったでしょう」
「全然、へーき」

 井戸のある庭に面して開口した、小さな厨(くりや)である。その光景は、白圭宮で
はまず、見ることのできないものだ。
 后妃が、前掛けを締め、生き生きと立ち働いているのはもちろんだが、大きな水桶を
井戸から往復して運んだらしい泰麒も、普段よりずっと明るい色目の、くだけた装いを
している。半袴の裾をわざとゆるめて履いているのが、蓬莱風というのか、短いままの
髪と、よく合ってみえる。李斎の方もすっきりとした麻の単でやはり似合うが、正寝な
らば真夏でもしない格好だ。
 
「主上は?」
「まだ厩(うまや)においでですよ。きっと念を入れてお掃除なさっているのでしょう」
 李斎に冷たいお砂糖水を一椀あてがわれながら、泰麒は汗をふいて、笑った。
「すごく、やりたがっていらしたものねぇ」
「さようですね」
 李斎も笑った。自分たちでする事の希望として、驍宗が真っ先にあげたのは、騎獣の
世話だ。
 泰王一家が、――もう一家、と呼んでも別段さしつかえはあるまい――、この禁苑の
離宮に到着したのは、昨日のことである。
 下官、女官を含め、直答の許されるお目見え以上のお側の官を、ただのひとりも連れ
ずに、家族だけで数日を離宮で過ごす、という試みは、当初、実現不可能に思われた。
なかでも、驍宗は乗り気でなかった。
『暑中休暇というものを、皆(みな)にとらすにはやぶさかでないが、私までとること
はなかろう』
 驍宗は、そう言った。
 戴では今年から、官は全員、夏場に数日間の休暇をとるよう、定められたのだった。



 戴国で、府第の同時休業制度――およそ警察権の行使にかかわらぬ全ての府第の完全
週休――が実施されてから、八年が経とうとしていた。当初懸念されたにもかかわらず、
この制度は中中にうまく機能し、成果をあげていた。他国においても関心が高く、雁で
はすでに数年前から試験導入しているし、昨年は慶の官が視察に来た。
 働くものに休みを「とらせる」。これは、その事自体が、画期的な改革だった。
 それまで、この世界で官の休みといえば、仙であるとないとを問わず、不定期で、だ
いたい平均して十日に一日あれば良い方、それも、監理されているわけではなく、自ら
上司に申告してとるものだった。無制限で拘束されて当たり前、もともと月給制ではな
し、残業などという観念自体が無論なく、官の時間は王の時間、文字通りの公僕である
から、どこからも文句はではしない。それで健康に問題が生じようと普通は補償などな
されない、仕事ができなくなったときは、罷免されるだけであった。
 そも休みの目的自体、彼らの休養でなく、洗髪など、威儀を整えさせるところにあっ
た。 
 毎朝髪を結い直して衣服を改め、供を連れて参内し、夜にはよほどでないかぎり官邸
に戻って風呂を使い床につく。それは、国府でもごく上位の者たちに許されることでし
かない。
 もっとも、たいていの府第の下吏たちの仕事の密度は、通常はさほど苛烈なものでは
ない。だが、ひとたび状況が変化すれば、この限りではなかった。人権の保護に関する
法規定が極めて大雑把でしかなく、意識の確立していない社会では、ささやかな福利厚
生などは、真っ先に犠牲になるのが常だった。

 官とは王と民に仕えるもの、職に一命を奉じて当然ではないか。という反対意見も根
強くあった。だが府第で働く二割ほどは官吏ではなく、官吏の多数は仙ではない。よく
も悪くも、王のもと、完璧な官主導で動かさざるをえないこの世界の制度・組織にあっ
てはなおのこと、府第で働く者たちへの福利を疎かにしてよしとすることは、畢竟、そ
れ以外の民への福利を軽んじる意識にもつながるのだ――泰麒は、そう強く説いて、時
間をかけて閣僚全員の理解をとりつけ、また驍宗を説得して、国府での試験実施に漕ぎ
着けたのだった。驍宗復位の翌年、十八年前のことである。徐々に地方の府第に広げて
ゆき、十年かけて余州全てに行き渡った。
 最初は戸惑った官も民も、いまでは府第が毎週休みになることにすっかり慣れた。週
に一日休みをとる習慣は、民の間でも浸透しつつあり、歓迎されている。

 しかし、休みをとることに、なかなか慣れぬ者もいた。
 その筆頭が、法令を出させた当の、驍宗だ。
 三年目からは、正月行事が一区切りした時期の年始休暇も、三日はとるようにとされ
たのだが、彼は、実際はこれをとっていない。毎年とる予定にはするものの、どこへ出
かけるわけでもなく、結局、なし崩しに普段どおり仕事をして過ごしてしまった。大体、
驍宗の場合は週休も、朝議がないから外殿に出ぬだけのことで、正寝でなにかしらの書
類に、かまけている。
 この度の、盛夏休暇制定に際しては、主上御自身にもぜひとも休暇をとっていただか
なくては、という声が周囲から出たのも、無理からぬことであった。


「でも…、」
 と泰麒が愉快そうに、厩舎のある方角を眺めた、
「さんざん渋っていらしたのに、なんだか、主上が一番楽しそうだ」
 李斎は、目を嬉しげに巡らせながら、控えめに同意を示した。

 離宮のあるこの凌雲山には、無論、本当に彼ら三人きりでいるわけではない。主上の
御滞在中、下の門と中腹の門には、禁軍の精鋭が配されて警護にあたっており、同時に、
毎日王宮からの青鳥を受け取り、急の連絡にも備えている。食料や燃料の補充をはじめ、
清掃など雑用の主なことは、白圭宮でもそうであるように、下働きの者が主たちとは時
間をずらして、出入りして行った。
 この厨房も彼らが起きる前に清掃が済み、食料が新しく運ばれて、目が覚めるころに
は、朝の膳が整えられているのだ。
 だが、四六時中、人の中で暮らすのがもう当たり前となっている彼らにとっては、顔
を合わせる側付きの官が全く見えないのは、信じられないほどの開放感であった。
 昼餉と夕餉は自分たちで作ると決めてあるから、そのために必要な水汲みや、後片付
けは自分たちでする。建物のすぐ近くに厩舎があって、普段、正寝内には入れることを
許されない騎獣たちがいる。驍宗のすう虞と李斎の飛燕だ。彼らに脇の小さな倉から飼
葉を運んで、水をやる。寝藁を換える。世話の一切を、してやれる。
 起きて、自分で服を着、井戸の端で顔を洗う。それだけのことで、今朝は笑い合った。
 
 滞在している居宮は、さほど広くはないが、採光と風通しにすぐれた、夏の造りだ。
部屋の多くは海に向かって開かれ、目の前には遥遥と雲海が広がっている。背後の庭は
すぐに鬱蒼とした森に続き、緑の崖が迫っていて、深山のように鳥の声がした。
 この井戸のある庭院から、夏草の生い茂る細い坂を下りてゆけば、白砂の浜も広がっ
ているのだ。
 
「こっちのお野菜も、剥いておく?」
「はい。お願いします」
 泰麒が籠を抱えて座り、豆の莢をむき始めると、李斎は茄子を洗って切り始めた。
 李斎のまな板には、のせたものを抑える、重しのついた腕がある。后妃の仕事が忙し
くなった今でも、何かしら驍宗や泰麒のために拵えたがる彼女に、泰麒が自分で木を削
って作り、贈ったものだ。それを使ってトン、トン、と軽い音が刻まれる。
 楽しげな後姿をながめて、泰麒はちょっと目を眇め、満足そうに微笑んだ。
 彼らの休みは、はじまったばかりだ。




 







PR
ggggpo * HOME * gglo
  • ABOUT
うろほらぞ
Copyright © うろほろぞ All Rights Reserved.*Powered by NinjaBlog
Graphics By R-C free web graphics*material by 工房たま素材館*Template by Kaie
忍者ブログ [PR]